“礼拝を捧げる生活の恵み”
神様を礼拝する生き方を思いました。
『神は、私たちを暗やみの圧制から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださいました。
この御子のうちにあって、私たちは、あがない、すなわち罪の赦しを得ています。
御子は、見えない神のかたちであり、造られたすべてのものより先に生まれた方です。
なぜなら、万物は御子にあって造られたからです。
天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、また見えないもの、王座も主権も支配も権威も、すべて御子によって造られたのです。万物は、御子によって造られ、御子のために造られたのです。
御子は、万物よりも先に存在し、万物は御子にあって成り立っています。』新約聖書 コロサイ人の手紙1:13〜17
私たちは愛されるために生まれてきた。
また、誰かのために生きるように造られている。神様が私たちを造られたとき、そのように造られた。
今、大震災の被害の中、そのまわりにいる人たちの多くがボランティアを志願したり、寄付したり、祈りにならない祈りをしたりしている。
神様が人にだけ与えた知らない人にへも何かをしたいという思いだと思う。
誰かのために生きたい。
そこを突き詰めていくと、造られた神様のために生かされたいということにもなるのかなぁと思った。
聖書では、人が神様に礼拝を捧げる喜びを与えられていることが書かれてある。
「人生を導く5つの目的」の本には、“礼拝”という側面は、ダイヤモンドのように幾つもの断面がある。神に喜ばれるために私たちがする行為はすべて礼拝だ…と書かれてある。
私たちを造られた方を見上げていくとき、祈りも賛美も感謝もとりなしも、うめきや叫びすら礼拝なのかもしれない。
何のために生きているか…この問いは、誰のために生きていればよいかわらないかつての私の最大のものだった。
何のためでなく、誰のために生きるかを見いだしたとき、私たちは初めて揺らぐことのない存在価値を見いだす。
それは、まだ私が罪あるとき、神様にとって裁かれる怒りの子どもであったとき、イエス様が私を愛して赦して、あがなってくださったところから始まる。
イエス様の愛に生かされて、イエス様のために生きるとき、私たちの生活は礼拝の礼拝の生活になる。
捧げる生活、与える生活、仕える生活、…イエス様の愛と赦しに満たされて外に出ていく生活は、見た目はボランティアと変わらないが、そこにイエス様のいのちがある。
自分が何かを期待したり求めるのではなく、ただイエス様のいのちが熱く内側に燃え、喜びを与えられる。
イエス様を礼拝する生き方…イエス様を体験し、イエス様と喜びを共にする素晴らしい恵みの生き方なのだなぁと思った。
私たちの生活が、イエス様のいのちを喜ぶ礼拝の生活でありますように。
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