キリスト教-礼拝

2011年3月22日 (火)

“礼拝を捧げる生活の恵み”

神様を礼拝する生き方を思いました。

『神は、私たちを暗やみの圧制から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださいました。

この御子のうちにあって、私たちは、あがない、すなわち罪の赦しを得ています。

御子は、見えない神のかたちであり、造られたすべてのものより先に生まれた方です。

なぜなら、万物は御子にあって造られたからです。

天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、また見えないもの、王座も主権も支配も権威も、すべて御子によって造られたのです。万物は、御子によって造られ、御子のために造られたのです。

御子は、万物よりも先に存在し、万物は御子にあって成り立っています。』新約聖書 コロサイ人の手紙1:13〜17

私たちは愛されるために生まれてきた。

また、誰かのために生きるように造られている。神様が私たちを造られたとき、そのように造られた。

今、大震災の被害の中、そのまわりにいる人たちの多くがボランティアを志願したり、寄付したり、祈りにならない祈りをしたりしている。

神様が人にだけ与えた知らない人にへも何かをしたいという思いだと思う。

誰かのために生きたい。

そこを突き詰めていくと、造られた神様のために生かされたいということにもなるのかなぁと思った。

聖書では、人が神様に礼拝を捧げる喜びを与えられていることが書かれてある。

「人生を導く5つの目的」の本には、“礼拝”という側面は、ダイヤモンドのように幾つもの断面がある。神に喜ばれるために私たちがする行為はすべて礼拝だ…と書かれてある。

私たちを造られた方を見上げていくとき、祈りも賛美も感謝もとりなしも、うめきや叫びすら礼拝なのかもしれない。

何のために生きているか…この問いは、誰のために生きていればよいかわらないかつての私の最大のものだった。

何のためでなく、誰のために生きるかを見いだしたとき、私たちは初めて揺らぐことのない存在価値を見いだす。

それは、まだ私が罪あるとき、神様にとって裁かれる怒りの子どもであったとき、イエス様が私を愛して赦して、あがなってくださったところから始まる。

イエス様の愛に生かされて、イエス様のために生きるとき、私たちの生活は礼拝の礼拝の生活になる。

捧げる生活、与える生活、仕える生活、…イエス様の愛と赦しに満たされて外に出ていく生活は、見た目はボランティアと変わらないが、そこにイエス様のいのちがある。

自分が何かを期待したり求めるのではなく、ただイエス様のいのちが熱く内側に燃え、喜びを与えられる。

イエス様を礼拝する生き方…イエス様を体験し、イエス様と喜びを共にする素晴らしい恵みの生き方なのだなぁと思った。

私たちの生活が、イエス様のいのちを喜ぶ礼拝の生活でありますように。

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2010年2月16日 (火)

“神様に対面しあがめる”(礼拝2)

礼拝するとは…について考えました。

『しかし、人が主に向くなら、そのおおいは取り除かれるのです。

主は御霊(みたま)です。そして、御霊のあるところには自由があります。

私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。

これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。』新約聖書 第2コリント3:16~18

私たちは周りに理解者がいないと、なんだか自分はダメな人間だと思いこんでしまう。

反対に、自分を自分以上に理解し、良いところを見い出してくれる人がいたら、自分であるとの良さを発見し、自信が持てるような気がする。

神様は、私たちをお造りになり、誰も知らない私にだけある宝を知っておられる。

神様が与えられたのだから。

その神様に対面するとき、私たちは神様のほほえみに照らされ、心が温かくなる。

これが、礼拝の一面ではないかと思う。

「人生を導く5つの目的」の本に、礼拝の本質という項目に次のようにある。

「C・Sルイスは次のように述べています。

『私たちが自らを神にゆだねていくことに従って、私たちは本当の自分自身に帰っていく。なぜなら、神が私たちを造られたからである。

神は人間をそれぞれ他の人とは違う者として造られた。

あなたにも私にも本来意図されている姿があるのである。

…私たちがキリストのもとに立ち返り、自分自身を神に明け渡す時、私たちの個性は初めて息を吹き返すのである。』」

私たちは造られた神様に対面して、初めて私自身の本当の素晴らしい姿を見い出すのである。

礼拝は、神様を神様とし、イエス様を救い主とし、あがめ、賛美し、私をささげる行為である。

他の宗教は、拝めば拝むほど、ご利益(りやく)があったりと、言われる。それとはまったく違う。啓示(上から示す)の神様を受けとるのである。

イエス様による礼拝は、造られた神様、救われたイエス様に感謝し、自分の思いをささげるのである。

旧約の時代においては、動物を殺し、祭壇にささげて焼いた。

しかし、今はイエス様が完全ないけにえとなってくださったので、イエス様を信じるだけで良い。

自分をささげるというのは、自分の思いを神様にゆだね、ただ賛美されるにふさわしい神様をあがめることである。

その関係の中に、神様は喜び、神様を現し、イエス様を現してくださる。

祈りとかだけでなく、賛美をもってあがめ、自分をゆだねるとき、それが礼拝になるのだと思う。

祈りと賛美、みことばによって神様を礼拝し、祝されますように。

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“霊とまことによって礼拝する”(礼拝1)

礼拝とは…について、少し考えていきたいと思いました。

『しかし、真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。

今がその時です。

父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。

神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。』新約聖書 ヨハネの福音書4:23~24

私は30年間、7つの教会を変わりながら、日曜日の礼拝をしてきた。

マタイの博士たちの礼拝の記事を書きながら、礼拝とは…を私なりに考え、まとめたいと思った。

礼拝…というものの恵みを分かちあいたいと言うことと、教会に行っていない人たちであっても、礼拝は可能だと漠然と思ったからだ。

日曜日に教会の礼拝とされているところに毎週行ったとしても、「今日は恵まれた」とか「今日は恵まれなかった」とか言っているなら、“神様にささげる”という礼拝の本質からずれているような気がする。

だから、教会に行って礼拝しなければならない…というのでなく、形が足りなくても、教会に行けずとも礼拝はできる…考察をしたいと思ったし、そのために礼拝とは何かをまとめたいと思った。

また、礼拝は日曜日だけではないと思う。

礼拝というのが、“神様にささげる”ことであるなら、礼拝の生活は可能のような気がする。

まず、私の教会生活で、礼拝の中での恵みを振り返ってみたい。

私は牧師のメッセージとか、本当に聞きたくないと思いながら聞いていた期間があったが、初めからそうではなかった。

初めのころは礼拝が楽しみで仕方なかった。聖書のどのことばも新鮮で、スポンジのように入ってきた。

賛美歌も楽しくて、家に帰ってから何回も練習して賛美した。

礼拝の中で霊的に揺り動かさることもあった。

ある時期は、心の癒しが進み、賛美の中で泣けて泣けて仕方ないときもあった。

一人でなく、たくさんの人と礼拝する中に神様が働かれて、導かれてきたのを思う。

礼拝とは…何かもわからないときから、ずっと礼拝してきた。

一人より、たくさんの人といる中に、神様の臨在が現れやすいのだと思う。

教会に行っている人たちは、礼拝できる恵みを感謝すれば良いのだと思う。

神様は、教会の外にいるクリスチャンも愛しておられる。

一人で礼拝するというのは、難しいようにも思うが、礼拝が何かを理解すれば、一人でも礼拝できるような気がする。

私たちは、教会に行く、行かないにかかわらず、一人世の中に出ていった中で、礼拝者として、生かされていくのである。

イエス様は信じる人たちに聖霊様を与えられた。

そして、聖書のことばを与えられた。

霊とまことを持って、礼拝する人たちに神様の祝福がありますように祈ります。

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