体の癒し

2009年9月13日 (日)

“からだの癒しを願うイエス様”

病の人に対するイエス様の気持ちを思いました。

『さて、エルサレムには、羊の門の近くに、ヘブル語でベテスダと呼ばれる池があって、5つの回廊がついていた。

その中に大ぜいの病人、盲人、足なえ、やせ衰えた者が伏せっていた。

そこに38年もの間、病気にかかっている人がいた。

イエスが彼が伏せっているのを見、それがもう長い間のことなのを知って、彼に言われた。「よくなりたいか。」

病人は答えた。「主よ。私には水がかき回されたとき、池の中に私を入れてくれる人がいません。行きかけると、もうほかの人が先に降りて行くのです。」

イエスは彼に言われた。「起きて、床を取り上げて歩きなさい。」

すると、その人はすぐに直って、床を取り上げて歩き出した。』新約聖書 ヨハネの福音書5:2~9

からだの癒しに興味を持ち始めた私だが、からだの癒しばかりが強調される教会は私は苦手だと思う。

イエス様はいろんなことをして、人々を助けられたが、そこにはいつも同情やあわれみの心が満ちていた。

癒しとか現象に目がいくばかりではなく、そのイエス様の私たちに対する心を知ることが大切とも思う。

ベテスダの池には大ぜいの病んでいる人たちがいた。

イエス様はその中のたった一人に声をかけられ、癒された。

イエス様は大ぜいの中で、その歩くことのできない人の心、イエス様への信頼を見たのではないか。

イエス様の「よくなりたいか。」と問いに対して、「池に入れてくれる人がいない」と答えている。

ベテスダの池に入ると神様のあわれみによって病気が癒されると信じられていた。

このイエス様と歩けない人の会話の中に、神様やイエス様への特別の信頼を見い出すことは私にはできない。

が、イエス様は会話が成立していなくても、その人の心を知り、癒された。

私は25年位前に、神学校時代、一度からだの癒しを体験した。

学校全体で赤貝を食べて、ひどい食中毒になった。病院で下痢止めの薬をもらった。

ほんとうはその薬はきつい薬で、下痢が止まったら飲むのをやめれば良かったのだと思う。

が、私は飲み続けてしまった。その結果、今度は全く排便ができなくなってしまった。

たぶん、長い間、出なかった。ある教会の徹夜祈祷で、手をおいて異言で祈ってもらった。

次の日、久々の快便となって、神様に感謝したのを覚えている。

私は基本、体の病気がなく、人の痛みや体の苦しみには理解がとても足りないような気がする。

人の病の苦しみには無頓着だった。

そんな私が人のからだに手をおいて癒されてほしい…そんな気持ちを持つようになったのは、私ではなく、イエス様のあわれみの心が少し与えられたのだと思う。

からだであれ、心であれ、イエス様にとって病んで、傷んでいる人への深い思いがある。

それは、人にはわからないその人だけの苦しみが、イエス様と共有されるときである。

そんな共有を願い、イエス様は人の痛みをとりなす人を探しておられるのだと思う。

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2009年9月12日 (土)

“手を置いて祈った”

昨日、私は友人に手を置いて癒されるように願いました。

『イエスが山から降りて来られると、多くの群衆がイエスに従った。

すると、ひとりのらい病人がみもとに来て、ひれ伏して言った。

「主よ。お心一つで、私をきよめることがおできになります。」

イエスは手を伸ばして、彼にさわり、「わたしの心だ。きよくなれ。」と言われた。

すると、すぐに彼のらい病はきよめられた。』新約聖書 マタイの福音書8:1~3

私は最近、誰かがどこか痛いと言うと、それがクリスチャンであろうとそうでなかろうと、手をおいて祈りたくなる欲求にかられる。

私に癒しの力が与えられていなくても、神様にあって癒してあげたいと思うようになった。

クリスチャンであれば、許可をもらって手を置いて祈る。

さっきまで、近くの個人宅で役員の人たちの飲み会があった。

10人ほど集まりにぎわった。

帰る時間も間近な頃、今、中学で2年間共に役員をやっている親しい友人と私は話しを始めた。

その役員の仕事で一番一緒にいる時間の多い友人である。

彼女が「パソコンの仕事をしているけど、首が痛くてつらい。腰とかから痛みが来ているらしく、整体に通っている。」という話しをとても詳しく始めた。

私は肩こりすらしない人間で、人のからだの痛みへの理解はとても鈍感である。

が、手を置きたい欲求で、彼女の話しを聞き入っていた。

彼女は言った。「“手当て”っていうくらいで、手を置くと違うんだよね。私も息子に手をあて、よく気を送ったりする。」

「どの返?私の場合、神様の霊によってなんだけど、手を置いて癒したいって思う。」と言って彼女の痛いという肩のところに手を置いた。

なんか神様の霊が流れている感じがした。

彼女も「流れてくるよ。首や手のひらがどんどん熱くなっている。」と言った。

彼女は気が流れていると理解していたが、私の理解は神様の霊が私を通して友人に流れているということだった。

「私にとっては神様のおかげなので、神様に感謝のお祈りしてもいい?」と言った。そして祈った。

「神様、癒してください。癒してくれてありがとうございます。イエス様のお名前によって祈ります。アーメン」

私は手を置きたかった話しを、彼女は私に手を置いてほしかった話しを分かちあった。

私たちはパイプ(管)であり、私たちを通して流れる分かちあいをした。

彼女は「遠くにいてもそれは流れていく。今もらったものを私はひとりの苦しむ友人に届くように願いながら送っている。」祈りを知らない友人の祈りを見た。

彼女とは長い時間一緒にいてきた友人だが、私が彼女の心を少し理解できたときだった気がした。

帰ってからも、私の彼女に置いた手はピリピリしていた。

話しにイエス様は出てこなかったけど、手を置いて癒しを願いたい人と、手を置いてもらい癒されたい人が一つになったときだった。

主よ。お心一つで、癒してください。あなたの愛する人を。

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