誰かのための祈り

2009年11月 1日 (日)

“異邦人コルネリオの祈り”

異邦人コルネリオの祈りは神様に覚えられていました。

『さて、カイザリヤにコルネリオという人がいて、イタリヤ隊という部隊の百人隊長であった。

彼は敬虔な人で、全家族とともに神を恐れかしこみ、ユダヤの人々に多くの施しをなし、いつも神に祈りをしていたが、

ある日の午後3時ごろ、幻の中で、はっきりと神の御使いを見た。御使いは彼のところに来て、「コルネリオ。」と呼んだ。…

「あなたの祈りと施しは神の前に立ち上っていて、覚えられています。…」』新約聖書 使徒の働き10:1~

おはようございます。

私は心優しい友人たちを見るとき、祈る神様を知らなくても、尊い祈りをなしているなぁと思うときがあります。

自分のためではなく、心から誰かのために願う…その思いの尊さを思います。

聖書の中にも、改宗者(割礼を受けて律法の規定を守る人)ではなかったが、ユダヤ人の神様を信じ、施しと祈りをしていたコルネリオと言う人がいました。

神様は彼に「あなたの祈りと施しは神の前に立ち上って、覚えられています。」と言われました。

ペテロが神様に遣わされ、イエス様について語られるところを聞き、信じた。そしてコルネリオとその家族は、神様の子どもとされたしるしの聖霊様をいただきました。

私は、イエス様を信じる前は、本当に自分のことしか考えられない人間だったと思います。

イエス様に赦され、受け入れられ、癒されていく中で、人のために祈れる人間に少しずつなったなぁと思います。

だから、私にとっては、人のことを自分のことのように祈れるとしたら、私の力ではなく、神様の与えてくれた心と祈りと思えます。

私の場合はそんななので、聖霊様の助けなく人のために祈れる人がいるとしたならば、それはもう神様の中にいるようなことなのかなぁと思います。

まさに「あなたはクリスチャンではないけれど、あなたの祈りは神様の前に立ち上り、覚えられています。」ということだと思います。

この神様に覚えられているコルネリオと家族たちが、イエス様のことを聞いたとき、聖霊様が与えられました。(使徒10:44)

ユダヤ人たちは、初めて異邦人が聖霊様を受け、異言を話し、神様を賛美しているので、驚きました。

そして、彼らは洗礼を受け、おおやけにも神様の家族になりました。

神様が愛しておられ、イエス様の近くにいて、祈りと施しをなす方々が、祝福されますように。

イエス様によって、神様の霊を心に授けられ、神様を賛美し、神様の愛の対象とされていることを知れますように。

イエス様は、私たちすべての人の罪のために、十字架にかかられ、私たちの罪を赦し、神様に受け入れられるものとされました。

このイエス様の赦しの深さが、この世で赦しを受けとれないほどの人々まで、すみずみまで拡げられますように。

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2009年9月13日 (日)

『誰かのために祈るとりなしの祈り』

人のためとりなす祈りについて考えてみました。

『何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださるということ、これこそ神に対する私たちの確信です。

私たちの願う事を神が聞いてくださると知れば、神の願ったその事は、すでにかなえられたと知るのです。』新約聖書 第1ヨハネの手紙5:14.15

おはようございます。

今日は祈りについて共に考えてみたいと思います。

私は誰かのための祈りというのは、キリスト教の専売特許のように思っていましたが、最近違うように思うようになりました。

私にとっては、祝福の神様に自分のことだけでなく、人のためにも祈ることができるというのは、すばらしいことと思っています。

人のために祈る心すら神様が与えてくださるのだと思います。

神様に祈れる祝福とその特権を思いますが、人の祝福を祈るのには、その祈りたい思いが大切だと思います。

クリスチャンであっても、誰かのために祈りたいという思いが湧いてこなければ、特権も何もありません。

ちょうど、目の前に、貧しい人のためにと食料が山ずみにされていても、それを届けようと動かなければ、そこにそのまま残されているだけです。

イエス様を知らない友人が、人のしあわせを願い、心をそこに集中させている友たちを何人か見ました。

そして、それもその人たちの尊い祈りの形と思いました。

神様は人を造られたときに、その人のために祈るという麗しい行為もするように造られたのだと私は思います。

日本にはお百度参りなど、良く誰か愛する人のため、身をはって願いを捧げる姿があります。

イエス様の世界での祈りは、イエス様が十字架にかかってくださったので、私たちのとりなしの祈りが聞かれます。

イエス様の十字架の犠牲により、私が赦され正しいものと神様に見なされたので、大胆にとりなしの祈りもできるのです。

祈る側が良いことをしていても、悪いことばかりするものでも、大胆に神様の至聖所まで入り、祈れるのです。

神様が私たちにくださったこのすばらしい特権を生かし、キリストの愛をたずさえて、人のしあわせを心から願い、祈るものでありたいと思います。

お一人お一人の誰かのために祈るとりなしの祈りがキリストの愛となって祝福されますように。

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