キリスト教-聖餐

2009年9月10日 (木)

“聖さん”

聖さんについて書きました。

『また、彼らが食事をしているとき、イエスはパンを取り、祝福して後、これを裂(さ)き、弟子たちに与えて言われた。

「取って食べなさい。これはわたしのからだです。」

また杯(さかずき)を取り、感謝をささげて後、こう言って彼らにお与えになった。

「みな、杯から飲みなさい。これは、わたしの契約の血です。罪を赦すために多くの人のために流されるものです。』新約聖書 マタイの福音書26:26~28

イエス様は十字架にかかる前の最後の夜、愛する弟子たちと共に食事をした。

パンとぶどう酒は、このために特別用意されたものというより、イエス様の時代、普通に食べる食事だったのだと思う。

イエス様はその普通の身近な食事を通して、ご自身の十字架の深い奥義を説明された。

けれども、弟子たちには、おそらく「何のことでしょうか?」とさっぱり意味がわからなかったと思う。

イエス様はパンを祝福して裂き、ひとりひとりに分けて与えられた。

「このパンはわたしのからだですよ。取って食べなさい。」

ぶどう酒も感謝をささげてから、与えた。

「この杯から飲みなさい。あなたの罪を赦すためにわたしが流した、わたしの契約の血です。」

そして次の日、イエス様は十字架にかかられ、死なれた。

それは、弟子たちにとっては、絶望だった。イエス様が私たちを救い助けてくださる方ではなかったのか…。

しかし、イエス様は3日目に死から生き返られた。

そして、イエス様が天に戻られ、弟子たちに聖霊がくだった。

弟子たちは聖霊によって、イエス様の自分にとっての十字架の意味を知った。

あのイエス様の十字架は、私の罪を代わりに負ってくれたものだったと。あの十字架はまさに私がかかるはずの十字架だったと。

弟子たちはその意味がわかったとき、十字架にかけられる前の夜の食事のとき、イエス様が言われた意味がはっきりとわかった。

イエス様のパンはイエス様が十字架で裂かれたからだ、そのことによって私の罪赦され、イエス様自身のいのちをいただき続けているのだということ。

イエス様の十字架で流された血潮によって、私たちは赦され神様の子どもとされる新しい契約を神様と結んだのだと。

弟子たちにとって、あのイエス様の十字架は本当は自分がかからなくてはならなかったものであったことを知るとき、いのちを捨てて身代わりになってくれたイエス様の愛が迫ってきた。

すべての出発であり、中心であり、本質なることは、イエス様が私のために、私の代わりに十字架にかかってくれたという事実だった。

私たちにとって、聖さん式は、イエス様の十字架を思い出すためのものである。

イエス様が十字架にかかられたのは私のためであったという事実をもつ者にとって、聖さんは単なる儀式とならない。

今、イエス様のいのちをいただいて生きているのは十字架により、神様の子どもとされたのは十字架によるという目に見える告白である。

それはまた、新しいいのちをいただき、神様の子どもの祝福をいただいたものとして、古い自分には死んで、イエス様、あなたのために生きていきますという告白なのではないかと思う。

『ですから、あなたがたは、このパンを食べ、この杯を飲むたびに、主がこられるまで、主の死を告げ知らせるのです。』第1コリント11:26

神様が備えられた祝福の聖さんに共に加えられますように。

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2009年9月 9日 (水)

“洗礼・2、聖餐”

『さて、イエスは、ヨハネからバプテスマを受けるために、ガリラヤからヨルダンにお着きになり、ヨハネのところに来られた。

しかし、ヨハネはイエスにそうさせまいとして、言った。「私こそ、あなたからバプテスマを受けるはずですのに、あなたが、私のところにおいでになるのですか。」

ところが、イエスは答えて言われた。
「今はそうさせてもらいたい。このようにして、すべての正しいことを実行するのは、わたしたちにふさわしいのです。」そこで、ヨハネは承知した。』新約聖書 マタイの福音書3:13~15

ハチイーさんの質問の続きです。

イエス様は一つも罪がなかったのに、何故、洗礼を受けられたか…です。

イエス様が洗礼を受けると、天が開け、神様の御霊が鳩のように下り、イエス様のところに来ました。

そして、天から神様が言われました。「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。」

イエス様が30歳のとき、人々のための生涯が始まりました。

人の形をとられた神イエス様に、御霊が宿り、神様のお告げの中、スタートしました。

人となられたこの十字架までの、人々のための3年間は、イエス様が働きをされましたが、神様の御霊も神様もともにおられ働かれていました。

今、私たちはイエス様を信じ、御霊をいただき、天の父なる神様とともに歩みます。

今は、聖霊の時代ですが、イエス様のときと同じように、私たちには相談する神様がおられ、人に同情されるイエス様が近くにともにいてくださるのです。

洗礼=聖霊のバプテスマか…の問いですが、私には良くわかりません。

私にとって洗礼は見える信仰告白で、口で告白したときに、聖霊をいただくのだと思っています。

ちょっとずれるかもしれませんが、この前、ある本で、聖霊に満たされるとはという定義が書いてあり、すごく納得しました。

“聖霊の満たしとは、聖霊をもっと多く所有するということでなく、聖霊に私たちのすべてを所有していただくことなのです。”

私たちが中心ではなく、神なる聖霊が私たちの中で自由に働かれるようになる…そのことが大切なのだと思います。

洗礼を受けていないと聖餐式(せいさんしき)を受けられないのか…の質問です。

これは教会によって違うのかもしれません。

ある牧師が言っていましたが、「聖餐は、信じる人が受けて初めて意味が出てくる。」と。だから、人間側が形だけで制約しなくても、受けたい人が受けても、あとは、その人と神様の問題でもいいのかもしれません。

人を赦せない人は聖餐を控えてください…と言われた牧師は、人を赦す大切さを自覚してもらうために言われたかもしれません。

私自身はこう考えます。イエス様はその十字架で私たちのすべての罪を赦されました。

たとえ、赦せないとか、まだ、手を放してないことも、悔い改めていないことも赦されているのです。

何か変えられて聖餐を受けるより、「イエス様、私を赦してくれてありがとう。」と聖餐を受けたほうが、イエス様の十字架の赦しの恵みに焦点を当てられるのではないかと思います。

私たちは自分の力で人を赦すことはできません。

そんな私があの十字架刑にかかるはずだったのです。私のかかる十字架にイエス様代わりにかかって苦しんでくれたんですね。と、十字架からの赦しと癒しときよめをもらうことしか私たちにはできません。

私にはできません、ごめんなさい、イエス様が私のうちに成してください…そんなふうにイエス様におまかせして、安らげますように。

疲れてしまったハチイーさんの重荷を全部イエス様に負ってもらえますように。

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