“洗礼・2、聖餐”
『さて、イエスは、ヨハネからバプテスマを受けるために、ガリラヤからヨルダンにお着きになり、ヨハネのところに来られた。
しかし、ヨハネはイエスにそうさせまいとして、言った。「私こそ、あなたからバプテスマを受けるはずですのに、あなたが、私のところにおいでになるのですか。」
ところが、イエスは答えて言われた。
「今はそうさせてもらいたい。このようにして、すべての正しいことを実行するのは、わたしたちにふさわしいのです。」そこで、ヨハネは承知した。』新約聖書 マタイの福音書3:13~15
ハチイーさんの質問の続きです。
イエス様は一つも罪がなかったのに、何故、洗礼を受けられたか…です。
イエス様が洗礼を受けると、天が開け、神様の御霊が鳩のように下り、イエス様のところに来ました。
そして、天から神様が言われました。「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。」
イエス様が30歳のとき、人々のための生涯が始まりました。
人の形をとられた神イエス様に、御霊が宿り、神様のお告げの中、スタートしました。
人となられたこの十字架までの、人々のための3年間は、イエス様が働きをされましたが、神様の御霊も神様もともにおられ働かれていました。
今、私たちはイエス様を信じ、御霊をいただき、天の父なる神様とともに歩みます。
今は、聖霊の時代ですが、イエス様のときと同じように、私たちには相談する神様がおられ、人に同情されるイエス様が近くにともにいてくださるのです。
洗礼=聖霊のバプテスマか…の問いですが、私には良くわかりません。
私にとって洗礼は見える信仰告白で、口で告白したときに、聖霊をいただくのだと思っています。
ちょっとずれるかもしれませんが、この前、ある本で、聖霊に満たされるとはという定義が書いてあり、すごく納得しました。
“聖霊の満たしとは、聖霊をもっと多く所有するということでなく、聖霊に私たちのすべてを所有していただくことなのです。”
私たちが中心ではなく、神なる聖霊が私たちの中で自由に働かれるようになる…そのことが大切なのだと思います。
洗礼を受けていないと聖餐式(せいさんしき)を受けられないのか…の質問です。
これは教会によって違うのかもしれません。
ある牧師が言っていましたが、「聖餐は、信じる人が受けて初めて意味が出てくる。」と。だから、人間側が形だけで制約しなくても、受けたい人が受けても、あとは、その人と神様の問題でもいいのかもしれません。
人を赦せない人は聖餐を控えてください…と言われた牧師は、人を赦す大切さを自覚してもらうために言われたかもしれません。
私自身はこう考えます。イエス様はその十字架で私たちのすべての罪を赦されました。
たとえ、赦せないとか、まだ、手を放してないことも、悔い改めていないことも赦されているのです。
何か変えられて聖餐を受けるより、「イエス様、私を赦してくれてありがとう。」と聖餐を受けたほうが、イエス様の十字架の赦しの恵みに焦点を当てられるのではないかと思います。
私たちは自分の力で人を赦すことはできません。
そんな私があの十字架刑にかかるはずだったのです。私のかかる十字架にイエス様代わりにかかって苦しんでくれたんですね。と、十字架からの赦しと癒しときよめをもらうことしか私たちにはできません。
私にはできません、ごめんなさい、イエス様が私のうちに成してください…そんなふうにイエス様におまかせして、安らげますように。
疲れてしまったハチイーさんの重荷を全部イエス様に負ってもらえますように。
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