キリスト教-洗礼

2009年9月 9日 (水)

“洗礼・2、聖餐”

『さて、イエスは、ヨハネからバプテスマを受けるために、ガリラヤからヨルダンにお着きになり、ヨハネのところに来られた。

しかし、ヨハネはイエスにそうさせまいとして、言った。「私こそ、あなたからバプテスマを受けるはずですのに、あなたが、私のところにおいでになるのですか。」

ところが、イエスは答えて言われた。
「今はそうさせてもらいたい。このようにして、すべての正しいことを実行するのは、わたしたちにふさわしいのです。」そこで、ヨハネは承知した。』新約聖書 マタイの福音書3:13~15

ハチイーさんの質問の続きです。

イエス様は一つも罪がなかったのに、何故、洗礼を受けられたか…です。

イエス様が洗礼を受けると、天が開け、神様の御霊が鳩のように下り、イエス様のところに来ました。

そして、天から神様が言われました。「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。」

イエス様が30歳のとき、人々のための生涯が始まりました。

人の形をとられた神イエス様に、御霊が宿り、神様のお告げの中、スタートしました。

人となられたこの十字架までの、人々のための3年間は、イエス様が働きをされましたが、神様の御霊も神様もともにおられ働かれていました。

今、私たちはイエス様を信じ、御霊をいただき、天の父なる神様とともに歩みます。

今は、聖霊の時代ですが、イエス様のときと同じように、私たちには相談する神様がおられ、人に同情されるイエス様が近くにともにいてくださるのです。

洗礼=聖霊のバプテスマか…の問いですが、私には良くわかりません。

私にとって洗礼は見える信仰告白で、口で告白したときに、聖霊をいただくのだと思っています。

ちょっとずれるかもしれませんが、この前、ある本で、聖霊に満たされるとはという定義が書いてあり、すごく納得しました。

“聖霊の満たしとは、聖霊をもっと多く所有するということでなく、聖霊に私たちのすべてを所有していただくことなのです。”

私たちが中心ではなく、神なる聖霊が私たちの中で自由に働かれるようになる…そのことが大切なのだと思います。

洗礼を受けていないと聖餐式(せいさんしき)を受けられないのか…の質問です。

これは教会によって違うのかもしれません。

ある牧師が言っていましたが、「聖餐は、信じる人が受けて初めて意味が出てくる。」と。だから、人間側が形だけで制約しなくても、受けたい人が受けても、あとは、その人と神様の問題でもいいのかもしれません。

人を赦せない人は聖餐を控えてください…と言われた牧師は、人を赦す大切さを自覚してもらうために言われたかもしれません。

私自身はこう考えます。イエス様はその十字架で私たちのすべての罪を赦されました。

たとえ、赦せないとか、まだ、手を放してないことも、悔い改めていないことも赦されているのです。

何か変えられて聖餐を受けるより、「イエス様、私を赦してくれてありがとう。」と聖餐を受けたほうが、イエス様の十字架の赦しの恵みに焦点を当てられるのではないかと思います。

私たちは自分の力で人を赦すことはできません。

そんな私があの十字架刑にかかるはずだったのです。私のかかる十字架にイエス様代わりにかかって苦しんでくれたんですね。と、十字架からの赦しと癒しときよめをもらうことしか私たちにはできません。

私にはできません、ごめんなさい、イエス様が私のうちに成してください…そんなふうにイエス様におまかせして、安らげますように。

疲れてしまったハチイーさんの重荷を全部イエス様に負ってもらえますように。

Img_4232s

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 聖書・聖句へ
にほんブログ村

| | コメント (4) | トラックバック (0)

2009年9月 8日 (火)

“洗礼・1”

『私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬(ほうむ)られたのです。

それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。』新約聖書 ローマ人への手紙6:4

昨日、ハチイーさんより、洗礼についていくつかの質問をもらいました。

コメント欄では書ききれなかったのと、また、共に皆さんと考える機会としてブログの記事にしました。

洗礼=バプテスマです。まず、全く知らない方もいるので、それは何かから話します。

“告白の力”で書きましたが、イエス様を心で信じて義とされ、口で告白して神様の子ども(クリスチャン)になります。

イエス様を信じるというのは、イエス様が十字架にかかり、私の罪の代わりに罰を受けてくれたので、私もイエス様と一緒に神様から離れていた性質(肉の欲望に生きる性質)に死んだ者となった、そしてイエス様が3日目に生き返ったように、イエス様とつながる新しいいのち(神様との関係を喜び、神様の子どもとして生きるいのち)に生き返った…ことを意味します。

そして、イエス様と一緒に古い人に死に新しいいのちに生きる、その象徴として洗礼を受けます。

水のあるところ、お風呂の水槽のような中でとか、川や湖などで、牧師のもと、水の中に全身をドボンと浸ります。

水に入ったとき、死に、あがって生き返る象徴です。

教団によっては単なる象徴でなく、特別な意味を見い出すところもあるかもしれません。

また、カトリックや一部の教団、あと病床洗礼など、水を頭につける“滴礼”(てきれい)というのもあります。

これらはイエス様を信じます…と告白した人だけが受ける神様からの儀式です。

確かに人の手によって行われますが、「あなたは今日から新しいイエス様のいのちに生きるようになったのだよ」と神様がくれた目に見える祝福の出発の式典のようなものです。

だから、ただイエス様を信じるだけで赦されるように、この古い人に死んで新しいいのちに生きることの式典も、神様から与えられた祝福と思います。

まず、その洗礼を受けるならば、その受けた教会に属さなければならないかという質問です。

多分、正解はそうです…ということだと思います。

洗礼を受け、イエス様の新しいいのちで、オギャアと生まれた赤ちゃんクリスチャンは、見守って支えてもらう家族が必要です。

一つの教会だけにいたくない人の気持ちは、私にはよくわかります。

でも、私たち現実の家族も一つなように、とりあえず、一つの家族の中(教会)によって育てられます。

私は30年に6回も教会を変わりましたから、良く言えばいろんな家族に育ててもらいました。悪く言えば、落ち着いた家庭環境では育ってないということでしょうか。

洗礼と言う見える信仰告白は、多くの人に祝福してもらい、支えられ育ててもらう一歩でもあるのかもしれません。

口で信じると告白したときに神様の子どもになります。

イエス様を信じるのは十字架だけでいいのですが、成長していく過程で、イエス様を信じるというところには、「私には良くわからないことでも、イエス様が望んでおられるなら従います。」という一歩に洗礼があることもあるかもしれません。

自分を十字架にかけて死ぬということは、イエス様を信頼してついていくことでもあります。

まだ、いくつか書きたいのですが、長くなったので、とりあえず“洗礼1”とします。

Img_4209s

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 聖書・聖句へ
にほんブログ村

| | コメント (10) | トラックバック (0)