聖書エッセイ

2009年11月16日 (月)

“イエス様がサタンを追い出す”

サタンの働きを思いました。

『しかし、朽(く)ちるものが朽ちないものを着、死ぬものが不死を着るとき、「死は勝利にのまれた。」としるされている、みことばが実現します。…

しかし、神に感謝すべきです。神は、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました。

ですから、私の愛する兄弟たちよ。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは自分たちの労苦が、主にあってむだでないことを知っているのですから。』新約聖書 第1コリント15:54~58

私は、昔は自己否定で、すぐに気持ちが沈んだり、思い煩いにとらわれたりの連続だった。

最近はイエス様の癒しで、気持ちが沈んだり、何かを気にすることがほとんど無くなったように思う。

イエス様にあって平安な気持ちが与えられている中に、何かかが入り込んでくると違うものが良くわかる。

それは、私の弱さや、罪や、ずれや何かを足台としたサタンの働きだ。

朝に夢を見た。目覚めたとき、その夢に登場した人が、めったに会うこともない人だが、脅威をもって私を圧迫し、迫ってきた。

その人を赦す祈り、そして自分の弱さを赦してもらう祈りをした。

今、ブログを書こうと思い、何かすべてが虚しい思いになった。

霊的にはサタンが吠えたける獅子のように、私の弱さの足台を探し、そこに乗っかり、私に偽りを吹き込もうとする。

あまり、こういった記事は書かないのだが、否定的な思いに悩まされている人に、サタンの働きがあることを伝えられたらと思い、こうして書いている。

見えない神様がいて、聖霊が働いてているように、聖書にあるがサタンも同じように働いて私たちを惑わす。

サタンのもっとも大きな狙いは、神様との交流を妨げるものである。

また、私たちにダメージを与えるため、偽りをささやく。

私も「イエス様の十字架の愛があるのに、生きるのが虚しいと思う足台となるものを赦し、打ち砕いてください。」と祈り、「イエス様が愛してくれ、主にあってすべてがむだでないのに、偽りを言う霊、イエスのみ名によって出ていけ。」と祈った。

そして、今このブログを書いている。

何でもかんでもサタンのせいにして、自分をかえりみないのは良くないと思い、このような記事を書かなかったが、誰かの助けになればと書いている。

私自身、悪霊追い出しする教会には属したことがなく、霊的なことは未知の世界でもある。

が、霊の戦いの中で確かにサタンは私たちに日々、つけこんでくるのである。

が、イエス様が十字架で勝利され、霊的な世界において、イエス様のみ名でサタンを追放できるのである。

死にも勝利してくださったイエス様は、この世の諸々の霊からも私たちを解放してくださる。

イエス様によって、私たちに神の国が来た。

『しかし、わたし(イエス)が神の御霊によって悪霊どもを追い出しているのなら、もう神の国はあなたがたのところに来ているのです。』マタイ12:28

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2009年11月15日 (日)

“イエス様が道、真理、いのち”

イエス様が道であり、真理であり、いのちと言われたことを思いめぐらしました。

『イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちです。わたしを通してでなければ、だれひとり父(神)のみもとに来ることはありません。』新約聖書 ヨハネの福音書14:6

おはようございます。

神様が人を造られ、その愛をイエス様によって現してくれました。

神様は私たちすべての人を愛し、イエス様の十字架の赦しを私たちに与えてくれました。

教会の外にいる人たちもまた、神様から愛されるために生まれてきたのだということを思います。

イエス様は、「わたしが道であり、真理であり、いのちです。」と言われました。

それはどこにつながっているかというと神様につながっています。

私たちには、様々な人生の道があります。百人いたら、百通りの道があります。

たった一度与えられた人生の道、どこに向かえばいいか、岐路に立たされ、迷います。

よく「神様のみこころはAの道かBの道か」というのを聞きます。Aが正解で、Bが不正解などというほど、神様は狭いお方ではありません。

たとえ間違っているような選択ですら、神様にあっては益とさせてくださいます。

どの道をいくかでなく、どんなふうに歩むか、誰と歩むかなのだと思います。

その選択にイエス様がいてくださるなら、その先は永遠なる神様に行きつきます。

イエス様は真理です。

私は若いころ、真実なものを知りたいと切に願いました。が、自分の中にも、人の中にも真実なものはあまり見い出せませんでした。

真理は人を生かします。私はイエス様に出会って、生かされました。たとえ、私がすべてを知らなくても、この真理である方を信頼して頼ることで、生かされてきました。

だから、私たち自身が何も知らなくても、頼る方が真理であれば、安心です。

イエス様はいのちです。私たちは生を受けて生まれてきましたが、やがて死にます。

イエス様のいのちは父なる神様とともに天国で生きるいのちであり、イエス様とつながり、神様と親しく交流できるいのちです。

イエス様がくださるいのちは、この神様とイエス様を知ることを喜びとするいのちです。

イエス様は私たちにたくさんの良いものをもたらすために来てくださいました。

このイエス様無しでは、神様のところへも、神様の国にもたどり着きません。

イエス様は今日も私たちに、「わたしのもとに来なさい。」と招いてくださっています。

イエス様がくださる道と真理といのちがお一人お一人の中に豊かにありますように。

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2009年11月14日 (土)

“キリストにある知恵と知識の宝”

キリストにある知恵と知識の宝を思いました。

『あなたがたとラオデキヤの人たちと、そのほか直接私の顔を見たことのない人たちのためにも、私がどんなに苦闘しているか、知ってほしいと思います。

それは、この人たちが心に励ましを受け、愛によって結び合わされ、理解をもって豊かな全き確信に達し、神の奥義であるキリストを真に知るようになるためです。

このキリストのうちに、知恵と知識との宝がすべて隠されているのです。』新約聖書 コロサイ人への手紙2:1~3

最近、テレビで良くクイズ番組をしている。

難しい知識や漢字などを解答したりする。

私たちに神様は知る欲求をも与えられたのだと思う。

聖書を読んでいて、このコロサイの箇所が心にとまった。

パウロは、ラオデキヤの人たち、また、会ったことのない人たちのために苦闘した。

それは、その人たちが“神の奥義であるキリストを真に知るようになるため”であった。

神の奥義とは、「神様が定められた時まで隠されている秘密。神の国、異邦人の救い、福音、神の救いの計画、キリストなど、これらの秘密は啓示によって現された。」と解説にある。

“神の奥義であるキリスト”は、まさに神様が定められたときまで隠されていた秘密兵器なのである。

イエス様が来られるまで、救い主が来られることは、繰り返し預言の中で語られた。

イエス様が来られ、聖書が与えられ、聖霊様が与えられたことによって、この隠されていた秘密は明らかにされた。

『このキリストのうちひ、知恵と知識との宝がすべて隠されています。』コロサイ2:4

キリストのうちにある知恵と知識とはどんなものか。

それは、霊的な存在として人が造られ、霊的な存在として神様と交わる祝福の知識もある。

人が本来造られたような姿に回復し、自由に生きる知識もある。

人が何のために生まれて、どこに向かっているかの知識もある。

キリストこそが、道であり、真理であり、いのちである。(ヨハネ14:6)

イエス様に隠されている秘密は、多方面に渡り、深すぎる。

一言では言えないし、知り尽くせないほど、深い。

ただ神様の隠された秘密が、このイエス・キリストにこそ一手に隠されている。

イエス様にある知恵と知識の隠された宝を私たちが知り、喜びに満ちあふれますように。

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2009年11月13日 (金)

“すべてはイエス様によって赦された”

私たちの隠したいような弱さをイエス様は赦し癒してくれました。

『そこで女が見ると、その木は、まことに食べるのに良く、目には慕わしく、賢くするというその木はいかにも好ましかった。それで女はその実を取って食べ、いっしょにいた夫にも与えたので、夫も食べた。

このようにして、ふたりの目は開かれ、それで彼らは、いちじくの葉をつづり合わせて、自分たちの腰のおおいを作った。

そよ風の吹くころ、彼らは園を歩き回られる神である主の声を聞いた。それで人とその妻は、神である主の御顔を避けて園の木の間に身を隠した。』旧約聖書 創世記3:6.7

発達障害の親の会が始まって、5年になる。

集まっているお母さんたちは、実に前向きで、その時々の悩みはあっても、我が子にとって、何が良いのかいつも模索している。

他方、あまりそのような会には来ない人の中には、我が子の特徴や課題を見ようとせず、問題がないから大丈夫という方もいる。

子どもの課題が明らかであっても、人の弱さがそのことを受け止めきれず、問題無しとし、子どものゆきずまりを放置してしまう。

人の中にある自分の弱さに対しても、私たちは同じなのだなぁと思う。

自分に歴然とした弱さや足りなさがあっても、それを受け止める力がないと、あるものを無いかの如く、隠したり、ごまかしたりして過ごす。

実は、あのアダムとエバが食べてはならない善悪の木の実を食べて以来、私たちは自分を隠すということを神様にも人にもするようになったのだと思う。

なぜ、隠すかというとその弱さを自分で受け入れることができずに、恥ずかしいとするからなのだと思う。

イエス様は私たちの弱さや足りなさや汚れや恥や、そのような人に知られたくないそのやみの部分を赦すために、十字架にかかってくださった。

私の隠したいようなすべてを、イエス様は十字架ですべて赦して受け入れてくれた。

私たちもそれを受け入れ、赦しと癒しときよめを体験できる。

では、私はどれだけ、イエス様が赦してくれた自分自身を受け入れているか。

それは、自分がどれだけ、そのような恥かしいと思えるような弱さを人にも神様にも言えているかなのだと思う。

私はある時まで決して人に話したことのない癒されていない自分にある心の傷の部分を、ある時から人に話すことができる自分に気がついた。

そうか、人にも話せているのは、そんな弱さもイエス様に受け入れられていることを私も受け取っているからだと気がつかされた。

私たちは、いちじくの葉っぱをどれだけ心の中でくっつけて隠しているだろうか。

隠していることが悪い…というのではない。そこもまた、イエス様が赦されたところであることを受け入れ、もう一度、神様の前に告白していくならば、イエス様がいちじくの葉っぱを優しくはがしながら、「大丈夫だよ。そこも赦され、癒され、わたしの栄光が包まれた患部となったよ。」と語ってくださる。

一枚一枚、いちじくの葉っぱをはがし、私たちのすべてが赦され癒され、イエス様の愛でおおわれているのが明らかになりますように。

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2009年11月12日 (木)

“イエス様の栄光と人の解放”

イエス様をあがめることは、私たちの解放につながることを思います。

『また私は見た。私は、御座と生き物と長老たちとの回りに、多くの御使いたちの声を聞いた。その数は万の幾万倍、千の幾千倍であった。彼らは大声で言った。

「ほふられた小羊は、力と、富と、知恵と、勢いと、誉れと、栄光と、賛美を受けるにふさわしい方です。」』新約聖書 黙示録5:11~12

私は、イエス様に出会う前は、自己像が低く、私は駄目な人間だと思っていた。

そういうことがどんな風に外側に出るかは、人それぞれだろうが、私は“自己実現”を目指すことによって、それをカバーしたいと考えていた。

自己顕示欲が強かったと思うし、自分を何かをもって表さないと、ちっぽけな自分の存在は明らかにならない位に思っていた。

が、その思いとはうらはらに何をやっても挫折に至った。

イエス様に出会ってからも、自己実現という言葉こそ私の中になくなったが、伝道したり、神様の働きをすることによって、自分を表したい欲求は根強く残っていたと思う。

私の信仰生活の訓練で、私は半強制的に与えられた状況を通して、“自分を捨てる作業”をさせられてきた気がする。

気がついてみたら、心の癒しと共に自分を表れしたいという欲求はほとんどなくなっていた。

全くないかと言われたら、弱さの中で試されたら、眠って残っているものが出てくるかもしれない。

が、昔のその欲望に支配されていた自分を思うと、今は皆無に近いような状態であると思う。

代わりに湧いてくる願いは、「ただ神様、イエス様の栄光が表されますように。」という思いである。これは本来の自分には無かったものだから、神様から与えられたものだと思う。

前者の自己顕示欲が強かったときの私は、いつも、自分は成功したか、失敗したか、人にどう評価されるか、そのことが気になった。

今の私は、たとえ人前でかなりの失敗のような状況になったとしても、そのことが恥ずかしくもなんともない。

大切なことは、イエス様と共にいたかであって、自分が何かを上手くできたかではないから。

天国では、ただイエス様が誉めたたえられるお方として、賛美される。

そこには解放がある。自分の捕らわれからの解放がある。

地上では、私たちがイエス様を礼拝することは、自分を忘れてイエス様を誉めたたえることで自分の縛りからの解放となる。

してみると、自分の捕らわれから解放される生活とは、ただイエス様の栄光を願い求める生活なのだと思う。

イエス様をあがめるということは、強いられてしなければならないことではなく、本来あるべき姿であり、私たちが自分から解放される唯一の道なのではないかと思う。

私たちが心からイエス様をあがめていく礼拝生活がなされますように。

ただイエス様が栄光を受けられますように。

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2009年11月11日 (水)

“キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わり”

三位一体の神様について思いました。

『わたし(イエス)が父のもとから遣わす助け主、すなわち父から出る真理の御霊(みたま)が来るとき、その御霊がわたしについてあかしします。』新約聖書 ヨハネの福音書15:26

『主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがたすべてとともにありますように。』新約聖書 第2コリント13:13

天地創造のときから、神様、イエス様、聖霊様は三つで一人なる神様としていた。

旧約時代は聖なる神様が、ダイナミックにイスラエルの民に働かれた。

2000年前にイエス様が処女マリヤから聖霊によって生まれ、イエス様は人となられ、33年地上で生きられた。

イエス様が昇天され、今最後の時代、聖霊様が信じる私たちに与えられ、イエス様について、神様について教えてくれる。

人によっては、教団背景で、神様、イエス様、聖霊様、どれかが身近だったりするかもしれない。

私は、天のお父さんである神様に祈る…というところから長い間、神様が身近だった。

今から2年ほど前、教会の礼拝に行くたびにイエス様の十字架がとても大きく示され、以来イエス様、イエス様の十字架の大切さを思いめぐらすことが多くなった。

最近、聖霊様の働きを少しずつ教えられている。

今、あのペンテコステ以来、聖霊が注がれ、誰でも聖霊様によってイエス様、神様のことを知り、また、導かれるようになった。

イエス様のご人格に触れることなく、聖霊の力ばかり強調されるとしたら、私は違和感を感じる。

かといって、知的に神様、イエス様を聖書から教えられても、霊的な賜物や働きを認めないとしたら、それも私は違和感を感じる。

皆、与えられた信仰によって、神様、イエス様、聖霊様、どれかの神が身近に感じるものかもしれない。

けれども、聖書では三位一体…三つで一人なる神様なので、それぞれの人格を大切にし、三位一体の神様に生かされていきたいと思う。

神様の愛、イエス様の恵み、聖霊様との交わり…すべて与えられている大きな恵みとして、その中に生かされていきますように。

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2009年11月10日 (火)

“どんな人をも離さず、捨てない主”

イエス様が養われる教会を思いました。

『わたし(神)は自分でわたしの羊を捜し出し、これの世話をする。

牧者が昼間、散らされていた自分の羊の中にいて、その群れの世話をするように、わたしはわたしの羊を雲と暗やみの日に散らされたすべてのところから救い出して、世話をする。…

わたしは、彼らを牧するひとりの牧者、わたしのしもべダビデ(キリスト)を起こす。彼は彼らを養い、彼らの牧者となる。』旧約聖書 エゼキエル書34:12.23

私は教会を転々としたので、誰か一人の牧師に霊的に育ててもらった記憶はない。

牧師たちには、反発のほうが多かったりしたし、このイエス様が養う…という聖書の約束を切望した。

今は教会に通っているが、イエス様に養われている感じが強い。

けれども、きっとここまでくるのに、たくさんの教会での経験、教会の人々との出会い、祈りに養われてきたのだろうと思う。

教会生活では、決して“良い子”でも“従順な信徒”でもなかった私だが、神様が私の手を離さず、見捨てず、あきらめず導き続けてくださったのを思う。

人には限界があって、人を養う受容範囲があるのかめもしれないが、神様は無限なお方で、出来の悪いひねくれ者を神様のあわれみに包んでくださるのを思う。

教会の外にいる人たち、教会で窮屈にいる人たちへの神様の愛を思いつつ、祈ります。

「天のお父さん、私はかつて、自分には養ってくれた牧師や教会がないことをとても寂しく思いました。

私も人から霊的に養われたいと願いました。

けれども、あまりのひねくれ者だったので、信頼関係の中に養ってくださる方はいませんでした。

けれども、気がついてみたら、教会でのたくさんの痛みはあっても、神様は私の手を決して離さず、私をとらえ、私に語り、私を砕き、私を導いてくれました。

人は見捨てても、神様は決して私を離さず、捨てない(ヘブル13:5)のみことばは真実でした。ありがとうございます。

私が教会で順調に養われなかったのは、そのような人たちの気持ちを理解するためかもしれません。

私は教会や牧師に反発したタイプでしたが、養われず、そっと教会をあとにする人は、どんなに寂しい気持ちでしょうか。

教会にとどまれなかったことが、あたかも神様からアウトと言われてしまったかのような錯覚すら覚えるかもしれません。

でも、違います。人間側に受容能力の限界があっただけです。

私たちの限界を赦してください。

そして、イエス様を信じたその信仰は、世界が始まる前から選ばれ、与えられているものですから、もう一度、イエス様の慰めと喜びの中に入れてください。

神様が限界のないお方のゆえ、イエス様の十字架のもとに、どんな人も楽に赦され受け入れられる教会を与えてください。

私たちはイエス様の十字架によって、何の条件もなく、自由に集えるようにしてください。

養えるのはイエス様だけです。

変人も狂人も、犯罪者も、この世から偏見や差別を受けている人も、貧しい人も枠がなく、イエス様のところに集まり、赦され、癒され、霊的に恵まれますように。

イエス様の十字架の栄光を現してください。

イエス様のお名前によって祈ります。アーメン。」

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2009年11月 9日 (月)

“返さなければならない負債”

私が負っている負債について考えました。

『私は、ギリシャ人にも、知識のある人にも知識のない人にも、返さなければならない負債を負っています。

ですから、私としては、ローマにいるあなたがたにも、ぜひ福音を伝えたいのです。

私は福音を恥とは思いません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシャ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です。』新約聖書 ローマ人への手紙1:14~16

私は神学校を卒業する28歳の頃、神様にこんな風に言ったのを覚えている。

「神様、私は伝道(イエス様の救いを伝える)をしたくて、したくて仕方ありません。福音を拡げたいという神様の願いと合致しているので、何の問題もなくそのことはなされますね。」

ところが神様からしたら、問題だらけだったらしい。

私はその後、行く教会、教会で問題にぶちあたっていく。

私の心の癒しも長い年月を用した。

先のようなことを神様に話しかけ、様々な試みを通され、22年の月日がたつ。

あの頃は、伝道したい気持ちにあふれていたけれど、神様のことも、人のことも、自分のことも、わかっているようで何もわかっていなかったなぁと思う。

それでは、今はわかっているかと言えば、もちろん多くをわかっていないのかもしれない。

が、何を誇りとするか、ハッキリと教えられた。若い頃は、私の中にある情熱や思いが中心だったが、今は主を知っていることが誇りである。

『誇る者は、ただ、これを誇れ。悟りを得て、わたし(神)を知っていることを。』エレミヤ9:24

私の若い頃は、ごう慢だったのだと思う。そこで、もしいろんな道が開かれていたら、自分の力に頼っていたと思う。

今はというと、自分が無力であることを感じている。

だから、神様に祈り求めたいと思うのだろう。

やみは、様々なところに当たり前のように拡がっている。

誰かの悲しみや苦しみが私の責任とは思えない。

しかし、もし、イエス様の十字架の救いや癒しが、やみにおおわれている人に届いていたら、その人々は苦しまず、求める方に求め、救われていたかもしれない。

パウロは、「私はすべての人に、福音を伝える責任(返さなくてはならない負債)を負っている。」と言った。

私もまた、すべての人に負債を返す責任を負っているのだなぁと、今日、改めて強く思わされた。

それは、私が何かをすることが先なのではない。

主が願っておられるときに、主の願いの通り、私の分ができるよう、いつも、目を覚まし、人々の救いのために祈ることなのだと思う。

パウロが言った、“返さなければならない負債”ということばが響いた。

神様、どうぞ、イエス様の十字架によって、人々が重荷をイエス様に下ろし、慰めと喜びを見い出せますように。

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2009年11月 8日 (日)

“キリストにある神の愛から離されない”

困難の中にある人にイエス様の愛が現されることを祈ります。

『私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣(つるぎ)ですか。…

しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。

私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。』新約聖書 ローマ人の手紙8:35~39

おはようございます。

神様は、私たちすべての人を愛しておられます。

神様の愛は、ただ美しいことばだけの響きで終わっていません。

神様は歴史の中で、イエス様を送り、私たちのためにイエス様を十字架にかけるという具体的なことをもって、ご自身の私たちへの愛を示されました。

聖書に次のように、書かれてあります。

『神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。』第1ヨハネ4:9

その歴史的な事実が、私の個人的なことと関係し、私の罪のため、イエス様は十字架にかかり、いのちを捨ててくださった…この事実が、私のものとなるのには、自分の力ではなく、聖霊様の助けなくしては受け入れられないのだと思います。

また、クリスチャンであっても、この事実が私のためであったと信じていても、ときにその愛が遠くに感じられることがあるのかもしれません。

けれども、太陽がいつも私たちを照らしているように、たとえ雲で隠されていても、太陽があるように、その私たちへのキリストの愛は変わらず、私たちにあります。

何をもっても信じられないようなときもあります。イエス様の愛が近くに感じられなくなったとき、私たちが信じるのは神様のことばです。聖書です。

神様は私たちが揺らぎやすいものであることを知っています。

だから、神様はその真実を聖書に託し、私たちがそのことばを信じるようにしてくださったのだと思います。

私たちに今、患難はありますか、苦しみはありますか、迫害はありますか、飢えはありますか、裸ですか、危険ですか、暴力がありますか。

どんな苦難の中でも私たちはイエス様に愛されている者として、圧倒的な勝利者です。

たとえ、私の心が苦しく、悲しくとも、聖書のことばが真実です。

どうぞ、困難、苦しみ、悲しみにある人にイエス様の十字架による愛が豊かに表されますように。

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2009年11月 7日 (土)

“永遠のいのちとは”

神様とイエス様を知るということについて、考えました。

『その永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ることです。』新約聖書 ヨハネの福音書17:3

たとえでこんな話しを聞いたことがある。

ある人は、目をつぶって大きなゾウのシッポをつかんで、ゾウとはこれだと説明する。

また、ある人は目をつぶって、ゾウの足を触り、ゾウの説明をする。

そのように、神様はあまりにも大きな方で、私たちはゾウのシッポを触ってゾウを知っていると言っている如くだと。

神様は大きすぎて、私たちは知り尽くせない。ある意味で、誰かが知る神様もその神様の一部で、別の人が知る違った神様も神様の一部なのかもしれない。

永遠のいのち…を考えるとき、私はいつもヨハネ17:3の聖書のことばを思い出す。

永遠のいのちとは、神様とイエス様を知ることだという。

知るというのは、知識で知るということではなく、その関係の中で、親しく知るということだと思う。

宗教はいろいろあるが、その善行が求められたり、従順を求められることはあっても、交流を求められ、関係を大事にするのは、イエス様の世界だけなのではないかと思う。

それは、神様が求めておられることが、“行い”ではなく、“関係”であり、その“関係回復”だからである。

イエス様は、私たちを友と呼んでくれた。ありがたい限りである。

が、神様と私たちの関係は天の父と子どもの関係であり、滅びゆくものがイエス様によって、赦されあわれみの中に生かされている関係である。

私たちがこのふさわしい関係を崩してしまうとき、聖霊様を悲しませてしまうのだと思う。

私たちはどこまでいっても赦されてはいても、罪人で、あわれみの中、イエス様によって滅びることなく生かされている。

神様を知る、イエス様を知る…と言ったとき、この関係ぬきに、“知る”ことはできない。

永遠のいのちである神様とイエス様を個人的に親しく知り、また、その交流の中に、主のあわれみが豊かに現されますように。

私たちがそのことによって、永遠のいのちを豊かに体験していきますように。

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2009年11月 6日 (金)

“やみの中の光、イエス様”

やみの中に苦しみ、悲しむ人々への希望を思いました。

『やみの中を歩んでいた民は、大きな光を見た。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が照った。…

ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。

主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。

その主権は増し加わり、その平和は限りなく、ダビデの王座に着いて、その王国を治め、さばきと正義によってこれを堅く立て、これをささえる。今より、とこしえまで。

万軍の主の熱心がこれを成し遂げる。』旧約聖書 イザヤ書9:2.6.7

人生には、思いがけないような暗やみのどん底に落とされることがある。

日常生活をしていたのに、人は何のために、何を支えに生きているのか…そんなとき、そうした問いが浮かぶのかもしれない。

私はその闇が、若いときにあったので、何のために、何を支えに生きているか…それは良いときも悪いときのようなときも変わらずに心にある。

神様の選民、イスラエルの民は神様から祝福されるはずだったのに、神様から離れていく中で、他国の捕囚の民となる。

神様に選民という誇りは崩れ去り、みじめに捕らわれ人となって、自由も失い苦しむ。

神様の裁きの如く捕囚となった民に、神様は希望を語り続けた。

神様の最大の約束を示された。

神様のイスラエルの民への思いは変わらず、その救いを示された。

それはとりもなおさず、神様が変わることなくイスラエルの民を愛していたことを示す。

イエス様が、私たちのために生まれる。イエス様が、私たちに与えられる。

この方は不思議な助言者であり、力ある神であり、永遠の父であり、平和の君と呼ばれる。

イエス様が生まれる700年も前に、このイエス様が私たちに与えられるよ、やみの中に光が与えられると約束された。

捕らわれの民にとって、それは慰めであり、希望であった。現実の自分たちの状況にありながら、神様の約束に希望を見い出した。

今、私たちは何かに捕らわれ、何かに不自由を感じているかもしれない。

しかし、あのイスラエルの民に語られたイエス様が与えられる…その約束は実現した。

私たちはイエス様に赦され、癒され、神様の愛を受けるために生かされている。

私たちには救いの神がおられ、様々に縛りと捕らわれ、呪いから解放される。

イスラエルの民ははるかかなたに、万軍の主の熱心がされる約束を見たが、今私たちはその約束の中にいる。

やみがあり、悲しみがあり、困難があり、痛みがあるという人々にイエス様の救いと癒しと解放がありますように。

私はイエス様のために、イエス様を支えに生きている。

それは犠牲ではなく、イエス様が私を深く愛してくださる体験の世界である。

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2009年11月 5日 (木)

“神様から信じる心を与えられる”

神様を信頼することについて考えました。

『信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。』新約聖書 ヘブル人への手紙11:1

信仰とは、神様への信頼である。

信頼を強める…というとどうしたら良いか難しい感じがする。

けれど、私たちは日常の中で、普通に人を信頼したり、信頼しなかったりしている。

信頼は目には見えないものである。

けれども、友人とか付き合いをする中で、この人は信じられるとか、信じてもらうとかという作業をしているのだと思う。

友人との信頼は、順調なときよりも、自分に困難が訪れたときとか、自分が負債を負ったときとか、何もなくなったときとかにわかるのかもしれない。

私も自分の弱さで失敗したとき、それを裁き黙って去っていった人たちと、それを受け入れ、応援してくれた人とがいた。

人との信頼は困難な中、弱さの中でつくづくわかる体験をした。

神様は信頼に足るお方である。

だから、人と人との信頼関係と違って、信頼するお方を自分が信頼しているか否かをいつも問われてしまう気がする。

が、私は神様を信頼する心すら神様からきているのではないかと思う。

エペソ人への手紙2:8.9に次のようにある。

『あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。

行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。』

救いが神様の恵みであり、自分の力によるものではないと言っているのかもしれないが、信頼する、信じる心すら神様からいただいているように思う。

なぜなら、私がイエス様の世界があることを理解したのは、信じられたのはある瞬間からだった。

たぶん、この世に、自分に、人に、信じるものを無くし、すべてにギブアップした状態の瞬間、神様の側の世界を理解し、そのときから信じることができた。

だから、信じることすら自分の力ではないと思う。

信頼するべく神様をどうしたら信じていけるか。

もしかしたら、何か他のものを信じながら、神様を信じることは難しいのかもしれない。

お一人、お一人の心に神様への信頼が与えられ、その信仰にたっていけますように。

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2009年11月 4日 (水)

“水や火の中にさえ主はおられる”

困難なとき、神様が近くにいて守ってくださることを思います。

『だが、今、ヤコブよ。あなたを造り出した方、主はこう仰せられる。イスラエルよ。あなたを形造った方、主はこう仰せられる。

「恐れるな。わたしがあなたをあがなったのだ。わたしはあなたの名を呼んだ。あなたはわたしのもの。

あなたが水の中を過ぎるときも、わたしはあなたとともにおり、川を渡るときも、あなたは押し流されない。火の中を歩いても、あなたは焼かれず、炎はあなたに燃えつかない。

わたしが、あなたの神、主、イスラエルの聖なる者、あなたの救い主であるからだ。』旧約聖書 イザヤ書43:1~3

試練がやってくると私たちの心は締め付けられ、苦しむ。

人に話しても、その苦しみはやはり自分の苦しみで、どうしようもなかったりする。

私たちを造られた神様は、そんな私たちに「恐れるな。わたしがあなたの神で、わたしがあなたを助ける、救いだす。」と語ってくださる。

私たちは今、洪水に飲まれそうな困難な状況にあるだろうか。

焼け尽くす火の中にいるような苦しみにあるだろうか。

神様はともにいてくださり、濁流にあっても押し流されず、火の中を歩いても、焼かれず、燃えつかないと約束してくださる。

困難のまっただ中にあって、イエス様と共に歩み、その心に深い安心がありますように。

###

神様、あなただけが、私たちの苦しみの涙のすべてをご存じです。

どうぞ、倒れてしまいそうな弱い私を支えてくださり、主のみ手の中にいさせてください。

激しい川の流れを目の前にして、とても渡れそうにないように思います。

しかし、主よ、あなたは私の手を握り、共にその川を歩ませてくださいますからありがとうございます。

あなたが共にいてくださるので、私は激しい川を渡るとき、押し流されません。

あなたが焼けつく炎の中でも共にいて、守ってくださるので焼かれず、燃えつかずにいられます。

私自身を見ると足がすくむようなときも、助け主、救い主なる神様がともにいてくださいますからありがとうございます。

私の力で一歩が進めずとも、神様がともにいて歩ませてください。

そして、私が弱くとも、神様は力強く、頼れるお方であることを現してください。

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2009年11月 2日 (月)

“私が弱いときこそキリストが現れる”

私が弱いときのことについて書きました。

『しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである。」と言われたのです。

ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。

ですから、私は、キリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじています。なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです。』新約聖書 第2コリント人への手紙12:9.10

この世では強さが求められる。私たち自身も強くなることを願う。

しかし、聖書では、弱さの中にこそキリストの力が宿るとある。

私は今は、かつてより状況に左右されなくなったが、20代のときは、つまずき、ゆきずまり、動けず、倒れる…そんな繰り返しだった。

私が教会で働いていたときは、自分の心の弱さがとても表れていたときでもあった。

牧師の言動に傷つき動けなくなっているとき、一人の年配の友人から、「な〜んだ。弱いなぁ。」と言われ、ムッとしたことがあった。

彼は、牧師と戦っていた。「たとえ、無視されても、私は来続けますよ。」と、戦っていた。

何が正しいか、良いかはわからないが、一つの勢力に立ち向かう彼と、そこで萎(な)えていく私がいた。

私は確かに弱かった。

が、パウロが言う“自分の弱さに甘んじる”はまた、それとは違うのだと思う。

パウロは自分にある弱さ(肉体のとげ)に葛藤していた。イエス様に3度も肉体のとげを除くよう願った。が、それを最終的に、神様が許されたこととして受け入れた。

神様が、自分がごう慢にならないためのものと導かれ、受け入れた。

私は、自分の弱さをとても感じるときがある。反対にすぐいろんなことを忘れて自分が弱い存在だということを忘れてしまうときがある。

自分が弱い存在なのを受け入れているときは、弱く何もできないようで、実はイエス様に近いのかもしれない。

今は、自分の弱さを感じている時期で、そういうときは、人との交流も少なくなる。

けれど、そんな自分をイエス様が受け入れててくれていること、それでも変わることなく愛してくれていることのその恵みを感じる。そして、何もできないような中でも、主をあおぎ感謝している。

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2009年11月 1日 (日)

“異邦人コルネリオの祈り”

異邦人コルネリオの祈りは神様に覚えられていました。

『さて、カイザリヤにコルネリオという人がいて、イタリヤ隊という部隊の百人隊長であった。

彼は敬虔な人で、全家族とともに神を恐れかしこみ、ユダヤの人々に多くの施しをなし、いつも神に祈りをしていたが、

ある日の午後3時ごろ、幻の中で、はっきりと神の御使いを見た。御使いは彼のところに来て、「コルネリオ。」と呼んだ。…

「あなたの祈りと施しは神の前に立ち上っていて、覚えられています。…」』新約聖書 使徒の働き10:1~

おはようございます。

私は心優しい友人たちを見るとき、祈る神様を知らなくても、尊い祈りをなしているなぁと思うときがあります。

自分のためではなく、心から誰かのために願う…その思いの尊さを思います。

聖書の中にも、改宗者(割礼を受けて律法の規定を守る人)ではなかったが、ユダヤ人の神様を信じ、施しと祈りをしていたコルネリオと言う人がいました。

神様は彼に「あなたの祈りと施しは神の前に立ち上って、覚えられています。」と言われました。

ペテロが神様に遣わされ、イエス様について語られるところを聞き、信じた。そしてコルネリオとその家族は、神様の子どもとされたしるしの聖霊様をいただきました。

私は、イエス様を信じる前は、本当に自分のことしか考えられない人間だったと思います。

イエス様に赦され、受け入れられ、癒されていく中で、人のために祈れる人間に少しずつなったなぁと思います。

だから、私にとっては、人のことを自分のことのように祈れるとしたら、私の力ではなく、神様の与えてくれた心と祈りと思えます。

私の場合はそんななので、聖霊様の助けなく人のために祈れる人がいるとしたならば、それはもう神様の中にいるようなことなのかなぁと思います。

まさに「あなたはクリスチャンではないけれど、あなたの祈りは神様の前に立ち上り、覚えられています。」ということだと思います。

この神様に覚えられているコルネリオと家族たちが、イエス様のことを聞いたとき、聖霊様が与えられました。(使徒10:44)

ユダヤ人たちは、初めて異邦人が聖霊様を受け、異言を話し、神様を賛美しているので、驚きました。

そして、彼らは洗礼を受け、おおやけにも神様の家族になりました。

神様が愛しておられ、イエス様の近くにいて、祈りと施しをなす方々が、祝福されますように。

イエス様によって、神様の霊を心に授けられ、神様を賛美し、神様の愛の対象とされていることを知れますように。

イエス様は、私たちすべての人の罪のために、十字架にかかられ、私たちの罪を赦し、神様に受け入れられるものとされました。

このイエス様の赦しの深さが、この世で赦しを受けとれないほどの人々まで、すみずみまで拡げられますように。

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2009年10月31日 (土)

“ペテロに示された幻”

神様は、ペテロの受け入れ難い幻から異邦人伝道を導かれました。

『…ペテロは祈りをするために屋上に上った。…すると彼は非常に空腹を覚え、食事をしたくなった。ところが、食事の用意がされている間に、彼はうっとりと夢ごこちになった。

見ると、天が開けており、大きな敷布のような入れ物が、四隅(よすみ)をつるされて地上に降りて来た。

その中には、地上のあらゆる種類の4つ足の動物や、はうもの、また空の鳥などがいた。

そして、彼に、「ペテロ。さあ、ほふって食べなさい。」という声が聞こえた。

しかし、ペテロは言った。「主よ。それはできません。私はまだ一度も、きよくない物や汚れた物を食べたことがありません。」

すると、再び声があって、彼にこう言った。「神がきよめた物を、きよくないと言ってはならない。」』新約聖書 使徒の働き10:9~15

旧約のレビ記11章に、神様がイスラエルの民(ユダヤ人)が食べてはならないものを明記した。

それを守ることにより、聖なる神様の民とされた。

ところが、ペテロは幻で決して食べることのない生き物を「食べなさい。」と言われる。

ペテロは神様の決まりを守り通し、それは、すべてのユダヤ人にとって常識だった。食べてはならないものを食べることはあり得なかったのだと思う。

ペテロには信じられないし、困惑した。ペテロは「主よ。できません。」と言った。

そんな幻が3回もあった。

ペテロは神様からの幻に、思い巡らしていた。

すると御霊が3人の使いが来ることをペテロに示し、一緒に彼らと行くように指示した。

ペテロは異邦人コルネリオのところに行く。

これが、ユダヤ人から異邦人に初めて伝道され、イエス様の救いが私たち異邦人に及んだ第1歩であった。

聖霊様が、ペテロを導いてくれたので、ユダヤ人には考えられないことがここから始まった訳である。

もし、ペテロが神様はイスラエル人の神である…という長い歴史の信仰の常識にとどまっていたならば、きっと、神様は違う人を使って、人々の考えられない異邦人伝道をされたのだろう。

神様の考えは私たちの考えの範疇(はんちゅう)を越えている。

もし、私たちが、一つのことに固執していると、神様の計画を見逃してしまうこともあるのかもしれない。

神様が、私たちの思いを越えたところの願いを示されたとき、その聖霊様に導かれるところに素直に従うものでありたい。

私たちには、すべてがわからずとも、聖霊様に導びかれる中、ペテロとコルネリオが出会い、神様のみ業がなされたようなことが起こるのだろう。

ペテロは神様が望まれていることをはっきりわかり、初めて異邦人にイエス様の救いを大胆に語った。

『イエスについては、預言者たちもみな、この方を信じる者はだれでも、その名によって罪の赦しが受けられる、とあかししています。』使徒の働き10:43

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2009年10月30日 (金)

“イエス様にあるへりくだり”

へりくだることについて考えました。

『そのころ、全世界の住民登録をせよという勅令(ちょくれい)が、皇帝アウグストから出た。…

ヨセフもガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。彼は、ダビデの家計であり血筋でもあったので、身重(みおも)になっているいいなずけの妻マリアもいっしょに登録するためであった。

ところが、彼らがそこにいる間に、マリヤは月が満ちて、男子の初子(ういご)を産んだ。

それで、布にくるんで、飼い葉おけに寝かせた。

宿屋には彼らのいる場所がなかったからである。』新約聖書 ルカによる福音書2:1~7

へりくだる…私の中でそれはかなり難しいことだったりするときがある。

パウロは言っている。福音を伝える報いは、報酬を求めないで与え、自分の権利を十分に用いないことだと。(第1コリント9:18)

私はどうだろうか。報いは求めないタイプと思っているが、きっと心の底で求めている。

一年間、ボランティアの連絡をし続けたのに、返信を返さない人に対して、心穏やかでない私がいる。

権利を主張していないだろうか。よく「それはおかしいよ。」と心で叫んでる。

あるとき、ボランティアのやり方が変なプロセスで進み、「なんなの、これは!」と怒ったときがある。

すると、聖霊様が、「へりくだりなさい。ちょうどいいときに高くされます。」と私の内側に語った。

「ちょうどいいときっていつですか?」と聞いたけど、それっきりだった。

イエス様は神様の子どもであられるのに、その生涯は、それにふさわしくない扱いをされた。

誕生したのが、馬小屋である。私たちは馬小屋の飼い葉おけに寝ているかわいいイエス赤ちゃんを想像してほほえむ。

しかし、その生まれたところは、家畜の糞尿の匂いの立ち込める家畜小屋である。

人々に出たおおやけの3年間は、人に妬まれ、探られ、試され、偽証され、ののしられ、殺されるに至った。

神様の子どもとしてふさわしい扱いをされなかった。

イエス様はご自分の国に来られたのに、ご自身の民から受け入れられず、不当な扱いを受けた。

イエス様は神様であったのに、ご自分を無にして、仕え、人間と同じになってくださり、ご自分を卑しくし、十字架の死にまで従われた。(ピリピ2:5~8)

それゆえ、神様はイエス様を高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになった。(ピリピ2:9)

私の報いはイエス様にある。イエス様によって報酬を求めないで与え、権利を使わないようにさせられるとき、私はへりくだり、またイエス様のいる領域に入れられるのかもしれない。

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2009年10月29日 (木)

“イエス様の木の実の多様性”

イエス様の木につながり、私たちはどんな実を結ぶだろうか考えました。

『わたし(イエス)はぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。…

あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。

あなたがたが多くの実を結び、わたしの弟子となることによって、わたしの父は栄光をお受けになるのです。』新約聖書 ヨハネの福音書15:5.7.8

イエス様はぶどうの木で、私たちはイエス様の木につながっている枝だとある。

イエスの木というところから私たちにイエス様のいのちが流れている。

だから、ぶどうの木からはぶどうの実がなるように、イエス様の木からはイエス様の実を結ぶことになる。

つながっていのちをいただいているということだけが大事である。

自分で努力しなくても、イエス様のいのちが流れていれば、自然にその実を結ぶようになる。

7節のイエス様につながっているなら何でも求めなさい…前に何でも求めていいのかと思ったことがあるが、イエス様のいのちを注がれていたら、イエス様の願いを求めたくなるのだと思った。

また、イエス様の木ならば、イエス様の実をならすが、それは一種類ではないと思った。

普通のぶどうの木なら、その品種のぶどうの実、一種類がなる。

しかし、イエス様はバラエティーに富まれた方で、私たちにその様々な多様のものを分け与えてくれた。

賜物による実で考えるとき、その実はすべて違うのである。

映像化するなら、イエス様という木になる実は様々な色をしていて、様々な形をしていて、様々な大きさなのである。

イエス様の木につながって何でもわたしたちのほしいものを求めてよいとなるとき、イエス様のいのちが私たちに流れる中、私たちが求めるものは皆違うのである。

伝道する…という実を結ぶにしても、家族伝道、個人伝道、密かに祈りながら、証をしながら…多種多様で一人一人与えられているものが違う。

イエス様にとどまり、イエス様のいのちをいただきながら、私に与えられた結ぶ実はなんだろう…とそんなことを思い、イエス様と一つとなることを、イエス様は喜ばれているような気がする。

それぞれが自分に与えられた求めをなすとき、それは主と共にある喜びとなり、神様の栄光となっていく。

お一人お一人に与えられた求めがかない、神様の栄光があらわされますように。

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2009年10月27日 (火)

“天のお父さんに信頼する”

神様に信頼することを思いました。

『あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる。

主は、あなたの義を光のように、あなたのさばきを真昼のように輝かされる。』旧約聖書 詩篇37:5.6

小さな子どもたちは大人たちが失ったたくさんのものを持っていると思う。

想像力は神様が与えてくださったものだが、子どもの想像力は凄い。

私も賃貸の一軒家を借りていたとき、二階におばけがいるような気がして、怖くて怖くて一人では二階の自分の部屋に上がれなかった。

子どもに与えられた“時の感覚”もまた、特別に長い。一日一日、その一瞬を楽しむことができる。

歳をとるほどに月日が立つのが早いというが、本当に早い気がする。

子どもは自分では知らないこと、出来ないことが多い。その分、人に頼るのも得意だ。

私の父方の祖母の家は山の中にあった。

山の上の方に本家の家があり、下の方に今、私たちがおばあちゃんと呼ぶ分家の家があった。

田舎に行くと必ず、下の家と上の家を行き来した。夜になって、上の家に戻ろうものなら、そのうっそうとした木々の森を通らなくてはならない。

その真っ暗な中にそびえる木々だけでも怖くて、私は父の背中で寝たふりをして通ったものだった。

薄目を開けると、暗闇と木々が迫ってくるのだが、いつでも目を閉じ、父の背中に顔をつけ、眠っていればいいのだった。恐怖の森も父の背中におぶさっていれば、平気だった。

私たちの人生は先はわからない。いろんなあらぬことを想像してくよくよするのは思い煩いである。

私たちはわからないことはあっても、神様に頼るならば、神様が最善へと導いてくださる。

私たちは神様の子どもとして、今のときを過ごすとき、あの子ども時代の大人たちに守られた安心感以上の安心を持って過ごすことができる。

信頼するべきお方は神様である。この方に私の道をゆだね、この方によって、成し遂げられたところを歩みたい。

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天のお父さん、あなたが信頼にあたいするお方であることをありがとうございます。

私たちの先はわからなくても、あなたに信頼して一歩ずつ歩むとき、その道が確かな道となることを信じてありがとうございます。

幼子の如く、素直に純粋にあなたを信頼し、あなたを頼って歩ませてください。

私たちの思いわずらいを消し去ってくださり、ただあなたに安心して歩ませてください。

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2009年10月25日 (日)

“裸のつきあい”

人と人との関係回復について考えました。

『しかし、人が主に向くなら、そのおおいは取り除かれるのです。

主は御霊(みたま)です。そして、主の御霊のあるところには自由があります。

私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。』新約聖書 第2コリント人への手紙3:16~18

私たちに与えられている聖霊様にあって、私たちはイエス様と同じかたちに姿を変えられていく…これはすごい約束である。

あまりすごくて、今とどんな風に違うように変えられるか、想像がつかない。

かろうじて、イメージできるのは、エデンの園で、アダムとエバが罪を犯す前の状態なのだと思う。

二人は裸だった。お互い、裸であることが恥ずかしくなかった。

また、神様の前にも裸であることが恥ずかしくなかった。

人は神様が造られた最高傑作作品で、それは非常に良かった。

いわゆる神様から見たら、100点満点の作品だった。

罪ある私たちは隠すことを身につけている。

子どもは自分のしてしまった失敗を隠し、大人は多すぎる過去の過ちを隠す。

人に対しては、自分が明らかにされることを恐れ、神様の目をごまかす(ここだけはごまかせないのだが)。

イエス様が私たちの弱さを十字架で赦してくださるとき、私たちは受け入れられている安心の中、さらに神様に自分をさらけだせるようになる。

そして、神様に受け入れられている安心の中、人にも自分の弱さを隠すことなく出していける。

教会…イエス様の十字架によって赦され、受け入れられている安心を持つ人たちが集まるとき、そこはエデンの園のような場所となっていくはずである。

誰もが、神様の前に裸の心で自分をさらけだし、礼拝できる。

そして、互いに赦されている、受け入れられている安心の中、最も弱いところを表していける。

イエス様の十字架により、私たちは神様との関係を回復し、また、人と人との関係が回復された。

もし、互いに最も弱い、もっとも足りない…そんなところを暴露し、受け入れ合うそんな教会があるとしたら、イエス様の十字架がドンと中心にある教会なのだと思う。

私も自分のたくさんの弱さをもっともっと出していきたい…なぜなら、イエス様のあわれみによって受け入れられ、殺されず、生かされているから。

本当は自分の弱さをもっと暴露したい。イエス様に受け入れられているから。

だけど、私は赦されて受け入れられてると思っても、神となって裁く人の前に、自分を証しきれない私がいる。

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主よ。私たちはイエス様の前に赦された者です。

私たちが赦されたものとして互いに受け入れ合える、赦しあえる御霊の働きを与えてください。

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2009年10月24日 (土)

“イエス様の赦しを受けとる”

私の人を裁きやすい罪を思いました。

『だれが自分の数々のあやまちを悟ることができましょう。

どうか、隠れている私の罪から守ってください。

それらが私を支配しませんように。

そうすれば、私は全(まった)き者となり、大きな罪を、免(まぬが)れて、きよくなるでしょう。』旧約聖書 詩篇19:12.13

私たちには、自分で気がつかない隠されている罪がたくさんあるのだと思う。

沼地の底に沈殿している泥のように、何もない穏やかなときは、水面が太陽の光に照らされ、キラキラと輝いたりしている。

が、一旦、大嵐の中、底までかき乱されると、底にたまっていた臭い泥が、水を真っ黒にする。

また、サタンはそのことを良く知り、私たちの弱さにつけ入ろうとする。

私は長い間、教会を裁いてきた者で、裁くことはサタンを喜ばせるだけで、何の徳もないことを教えられた。

が、何か大事なことを主張することで、違うものを裁く危険性もあるのだと思う。

人からみことばを突き付けられ、裁かれることは悲しいことだが、もし、そこに悲しみがあるだけで、裁き返す気持ちが自分になかったら、神様の守りの中にいることを覚える。

今日、突然、私を裁いた人に対して、怒りが湧いてきて、心の中で厳しい口調で裁き返している自分が出た。

何かおかしいと思いつつ、祈り、その思いは消えた。

裁くより、裁きをじっと受けたほうが、罪を犯さない、神様にある幸い…と心で思った。

裁く姿は、神の如くなる姿であり、自己義認につながり、ごう慢につながる。

イエス様の十字架の前に、私は赦され続けるものである。

計りしれない沼地の泥のように、ときに自分の汚なさ、愚かさを見せられるが、イエス様はそれらの罪も赦された。

私がどんなに赦されているか、その赦しの大きさを受け取っていけるとき、私の裁きやすい心は癒され、おおわれていく。

私たちは人に対抗するのではない。

イエス様の十字架の前に、今日も多く赦されてている者であることを感謝したい。

###

神様、私は誰よりも人を裁きやすいものです。

私は25年間、牧師と教会を裁き続けました。

裁かれる側に立たされると、裁く人たちは私のこれまでの姿だと思わされました。

裁いてきた私を赦してください。

イエス様は私たちを赦し、受け入れるために来てくださいました。

イエス様の赦しを受け、また、この赦される恵みを伝える者としてください。

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2009年10月23日 (金)

“イエス様が現された正しさ”

イエス様が現した神様の正しさを思いました。

『見よ。わたしのささえるわたしのしもべ、わたしの心の喜ぶわたしが選んだ者。わたしは彼の上にわたしの霊を授け、彼は国々に公義をもたらす。

彼は叫ばず、声をあげず、ちまたにその声を聞かせない。

彼はいたんだ葦(あし)を折ることもなく、くすぶる燈心(とうしん)を消すこともなく、まことをもって公義をもたらす。

彼は衰えず、くじけない。ついには、地に公義を打ち立てる。島々も、そのおしえを待ち望む。』旧約聖書 イザヤ書42:1~4

選挙があると、どの立候補者も、自分こそが皆さんのために良い政治を行います…と声高々にアピールする。

しかし、イエス様は神様の正しさを現すために、叫ばず、声をあげずに行ったとある。

しかも、いたんだ葦の草が今にも折れそうなのを折ることをせず、ともしびが消えてしまいそうな燈心を決して消してしまうことなく、神様の正しさを現した。

それは最も弱いものをつぶすことなく、倒すことなく、傷つけることなく、神様の正しさを現したのである。

イエス様がいつも誰の近くにいたか。

病で、この世から見捨てられた人の近くにいた。

悪霊に取りつかれ、狂暴な人たちの近くにいた。

取税人ザアカイのように、国民の裏切り者の搾取する人の近くにいた。

マグダラのマリアのように、罪深い女として、人々から蔑視され、敬遠されていた人と共にいた。

姦淫の現場で捕らえられ、石打ちされそうな女に、「わたしもあなたを罪に定めない。」とイエス様は言われた。

教会はそのような人たちが集まる場所になっているだろうか。

聖書に書かれてある正義で、弱い人たちを切りつけ、そのような人が安心して来ることが出来なくなっている。

教会にいる多くの人は、正しさを身につけ、気品よくある人たちである。

イエス様がもたらした神様の正しさは、ご自身が十字架にかかり、私たちの罪の大きさを示し、私たちの赦されたことの大きさだけが示されたことによってだった。

教会の中で、人が正しさを身につけている限り、らい病人も悪霊に狂気のように取りつかれた人も、ザアカイのような嫌われ者も、罪深い女も、死刑を宣告された人も近寄ることができない。

イエス様はそのような弱い人たちを癒し、赦し、解放するために来られた。

ただ、イエス様の十字架の赦しだけが強調されるところに、神様の正しさが弱い人に現され、神様があがめられる。

イエス様による神の国の実現がなりますように。

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2009年10月22日 (木)

“貧乏人ラザロの地上でのしあわせ”

イエス様にあるしあわせ…とはについて再び考えました。

『ある金持ちがいた。いつも紫の衣や細布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。

ところが、その門前にラザロという全身おできの貧乏人が寝ていて、金持ちの食卓から落ちる物で腹を満たしたいと思っていた。

犬もやって来ては、彼のおできをなめていた。

さて、貧乏人は死んで、御使いたちによってアブラハムのふところに連れて行かれた。金持ちも死んで葬られた。

その金持ちは、ハデスで苦しみながら目を上げると、アブラハムがはるかかなたに見えた。しかも、そのふところにラザロが見えた。…』新約聖書 ルカによる福音書16:19~23

金持ちとラザロの話しはこの後、大事なメッセージをイエス様は伝えられた。

今、神様が伝えることを信じないと、とりかえしがつかない的な話しが出てくる。

今日はその話しは横において、このラザロに目を留めようと思う。

昨日、“イエス様にあるしあわせ”を書いた。その続き。

昔、教会で牧師が高い講壇からこう言った。

「皆さん、イエス様の十字架を信じれば罪赦されて、天国に行けるんですよ。この地上のわずかの期間、たとえ病であっても、天国は病もなく素晴らしいところなのです。」

礼拝する方の中には、病気で苦しんでいる方もいた。

私には、なんだか、その言葉が、絵空事のように虚しく聞こえた。

罪は赦される、天国には行ける…だから、現実の苦しみには文句を言わずに我慢しなさい…そんな風に私には聞こえた。

そんな罪の赦しや、天国は皆喜べるのだろうか?

今から20年以上前の話しだったが、忘れることのできない話しだった。

この聖書箇所でラザロは、イエス様を信じていた。

地上では見るも無惨な姿で生きていたが、やがて天国にいき、アブラハムのふところに抱かれた。

ラザロは地上では不幸だったのか?

書かれてあるのは、ラザロの悲惨な状況だけである。

ラザロはイエス様を信じていた。悲惨な状況の中で、イエス様の赦しや愛やあわれみや恵みを体験していたのだと思う。

イエス様が十字架にかかられる前の天国の話しなので、わかりにくいが、イエス様を信じた人が天国に行ける定義からいうとそうなる。

人々は罪の赦しを求めているか?人々は天国を求めているか?

私はイエス様の福音を思うときに、人々は認められること、受け入れられること、愛されること、包まれること、慰められること…そのようなことを無意識の中で誰もが求めているのだと思う。

あの罪赦されて、天国に行けるんですよ…と語られたところに足りなかったのは、罪赦されるとイエス様とのつながり、神様と関係回復して愛される、聖霊様の喜びがあるということだったのではないか。

イエス様との麗しい関係抜きに罪の赦しも天国も無味乾燥なものになってしまうことを改めて思った。

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2009年10月21日 (水)

“イエス様が与えるしあわせ”

イエス様が言われたしあわせを考えました。

『そこで、イエスは口を開き、彼らに教えて、言われた。

「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。

悲しむ者は幸いです。その人は慰められるからです。

柔和な者は幸いです。その人は地を相続するからです。

義に飢え渇いている者は幸いです。その人は満ち足りるからです。

あわれみ深い者は幸いです。その人は、あわれみを受けるからです。

心のきよい者は幸いです。その人は神を見るからです。

平和をつくる者は幸いです。その人は神の子どもと呼ばれるからです。

義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。』新約聖書 マタイの福音書5:2~10

イエス様はガリラヤ全土をめぐり、御国の福音をのべ伝え、民の中のあらゆる病気、あらゆるわずらいを直された。

イエス様のうわさはたちまちシリヤ全土に広がり、人々は、さまざまの病気と痛みに苦しむ病人、悪霊につかれた人、てんかん持ちや、中風の者などを連れてきて、イエス様は彼らを直された。(マタイ4:23.24)

そんなイエス様に期待して大勢の群衆がイエス様のところに来た。

そのとき、イエス様が言われた初めてのことばが、この“8つの幸せ”だった。

当時の人たちの幸せ観も、今の人たちの幸せ観もあまり変わらないのではないか。

お金がたくさんあること、健康なこと、たくさんの家族がいること、好きなことができること、美しくあること、楽しくあること、美味しいものを食べられること…等々。

しかし、イエス様が言われた“幸せ”は人々が考えていたものとは全く違っていた。

心の中がこじきのように空っぽで、何もなく、もらうしかない…そのような人はしあわせです。神様の国はそのような人に与えられます。

喜ぶ人ではなく、悲しむ人こそしあわせです。その人は真実な慰めを与えられるでしょう。

柔和、義に飢え渇く、あわれみ深い、心のきよい、平和をつくる、義のために迫害される…そんな人はしあわせだとイエス様は言われた。

群衆も弟子たちも驚いた。今まで聞いたことのない“幸福論”だった。

イエス様は人が豊かにいのちを得、豊かに生きるために来てくださった。

イエス様のしあわせは、環境から来るものによらず、その人の心に関係している。

心が貧しいこと、悲しむこと、義に飢え渇くことによってしあわせはこない。

イエス様は、そのような状態の心に、イエス様ご自身が与える良いものを持ってしあわせを与えると言われたのだと思う。

一つだけ環境から来るしあわせを言っている。

それは、8番目の迫害である。『わたし(イエス)のために、ののしられたり、迫害されたり、ありもしないことで悪口雑言(あっこうぞうごん)を言われたとき、幸いです。

喜びなさい。喜びおどりなさい。天においてあなたがたの報いは大きいのだから。』(マタイ5:11.12)

すごいしあわせである。つまり、到底喜べそうにないことが書かれてある。

しかし、イエス様との関係の中で、このあり得ないような状態すら、喜びとしてくださるイエス様の約束なのだと思う。

私の中に何もしあわせになれるものがないようなそのような者に、イエス様は限りないしあわせを与える約束をしてくださり、それはイエス様によって真実に私たちの内になるしあわせなのである。

今日、私には何もないという人に、イエス様からのすばらしい約束が実現しますように。

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2009年10月20日 (火)

“ただ名前が天にしるされていることを”

神様にある働きについて思いました。

『さて、70人が喜んで帰って来て、こう言った。

「主よ。あなたのみ名を使うと、悪霊どもでさえ、私たちに服従します。」

イエスは言われた。「わたしが見ていると、サタンが、いなずまのように天ら落ちました。

確かに、わたしは、あなたがたに、蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を授けたのです。だから、あなたがたに害を加えるものは何一つありません。

だがしかし、悪霊どもがあなたがたに服従するからといって、喜んではなりません。ただあなたがたの名が天に書きしるされていることを喜びなさい。』新約聖書 ルカによる福音書10:17~20

私たちイエス様を信じる者には、イエス様が持っている権威の一部を授けてもらう。

霊的な賜物の多くもそれだと思う。

それは素晴らしいことだが、いつも思うのが、授けられた人間側の弱さである。

私たちは何もないものだが、イエス様が様々な権威を授けてくださるとき、出どころは神様、イエス様であって、私たちの力によらない。

初めはそう思っても、人の心には根強く“自分が神になりたい欲求”が潜んでいて、神様の栄光をいつの間にか我が物にしてしまう誘惑にかられる。

それは、アダムとエバが、サタンの蛇に、「あなたは神のようになれる」と言われたときから続いているのかもしれない。

リック・ジョイナーの「ファイナルクエスト」という、現実と天国の幻を書いた本に次のような文がある。

「悪霊軍はその数が非常に多く、見渡す限りの視界をおおっていました。彼らは分団編成され、それぞれ違った旗を掲げていました。

主要分団が掲げているのは、「ごうまん」「自己正当化」「世間体」「利己的野心」「邪悪な判断力」「嫉妬」という名の旗でした。…

彼らの持つ武器も同様にさまざまな名で呼ばれていました。

「威嚇」「裏切り」「告発」「うわさ話」「中傷」「他人のあら探し」「拒絶」「苦々しい思い」「短気」「赦さない心」「情欲」です。…」

これは教会の中にあるものを指摘している。

霊的権威や賜物と共に、自分を正しい者とし、神様とのふさわしい関係よりも、神の代わりになってしまう。

私も長い間、教会を裁いてきた者なので、まさに神様の代わりに自分が神になっていたのだと思う。

与えられた権威、賜物、知恵と啓示の御霊、信仰、すべてはただイエス様によってあわれみの中、与えられただけである。

悪霊を追い出し、癒しをなし、福音を語り伝え、神の国がくる働きを私たちは託されている。

しかし、それがなされたときに、少しでも、“自分の成果”という誘惑にかられたなら、注意なのだと思う。

私たちが喜ぶのは、イエス様にあって何かをできたことではなく、ただ赦されあわれみを与えられ、天国のいのちにつなげれていることなのだと思う。

人を崇めることも、自分の働きに注意が行きすぎることも注意がいると思う。

神のようになることの反対…それは我の姿を忘れて神様を礼拝する、解放されたエデンの園の姿と思う。

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2009年10月19日 (月)

“涙の谷にも主の泉わく”

困難な道のりのときほど、イエス様は近くにいてくれます。

『なんと幸いなことでしょう。その力が、あなたにあり、その心の中にシオンへの大路のある人は。

彼らは涙の谷を過ぎるときも、そこを泉のわくところとします。

初めの雨もまたそこを祝福でおおいます。

彼らは、力から力へと進み、シオンにおいて、神の御前に現れます。』旧約聖書 詩篇84:5~7

この詩篇84篇は、巡礼者の喜びの歌とある。

私たちは人生の巡礼者のようである。

良い道を楽しく楽に歩くときもあれば、困難きわまりない道なき道を、手探り状態で進むときもある。

今まで経験したことのないような困難が訪れると、私たちは恐れ、不安になり、心配する。

まるで、出口のないトンネルを歩いているような孤独な不安にかられる。

しかし、私たちにはイエス様がいてくださる。

誰にも訪れるだろう困難は、避けて通れないが、誰と歩くかなのだと思う。

作者は、涙の谷を過ぎるときも、そこを泉わく所とするとある。

涙の谷は、一人で歩いてはいない。すべての苦しみをご存じのイエス様が、ともに歩いてくださっている。

その道が苦しければ苦しいほど、人からは理解されない悲しみとなるが、イエス様だけは離れない。

“主の足跡”…正確には『あしあと』(マーガレット・F・バワーズ作)…という有名な詩がある。まとめるとこんな詩である。

『ある夜、わたしは夢を見た。わたしは、主とともになぎさを歩いていた。

どの光景にも、砂の上にふたりのあしあとが残されていた。わたしと主の。

人生の最後のとき、砂の上にはひとつのあしあとしかなかった。わたしの人生でいちばんつらく、悲しいときだった。

「主よ。あなたはすべての道において、わたしとともに歩み、わたしと語りあってくださると約束されました。それなのに、わたしの人生のいちばんつらいとき、あなたが、なぜ、わたしを捨てられたのか、わたしにはわかりません。」

主は、ささやかれた。「わたしの大切な子よ。わたしは、あなたを愛している。あなたを決して捨てたりはしない。ましてや、苦しみや試みのときに。

あしあとがひとつだったのは、わたしがあなたを背負って歩いていた。」』

イエス様は、私たちが苦しく、悲しく、孤独なときほど、近くで助け、背負ってくださる。

振り返るとき、私たちの困難な道は、イエス様の優しさと慰めに満ちた道になっている。

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2009年10月17日 (土)

“神様が備えた交流”

今、神様はイエス様によって、私たちとの親しい交流を待ち望んでいます。

『そのとき、イエスはもう一度大声で叫んで、息を引き取られた。

すると、見よ。神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けた。そして、地が揺れ動き、岩が裂けた。』新約聖書 マタイの福音書27:50.51

旧約時代、神様はイスラエルの罪があがなわれ、赦される道を備えてくださった。

大祭司と言われる特別の人が、年に一度だけ、至聖所(幕屋の一番奥)にはいり、規定に従って動物の血を持って、あがないをする。

そこに入れるのは、大祭司しか許されていない。

そこで、大祭司が倒れても、誰も至聖所には入れないので、大祭司の足に紐(ひも)をつけていたとも聞いたことがある。

至聖所は神様と人が出会う、地上における最も聖なるところなのだろう。

イエス様が十字架にかかられ、息を引き取られたとき、神殿の聖所と至聖所とを隔てる垂れ幕が、上から下まで裂けた。

これは、大祭司が一年に一度しか入ることができなかった至聖所の隔てがなくなったことを意味する。

イエス様の十字架によって、私たちは誰でも、この神聖な神様と出会う場所に行けるようになった。

至聖所、そこは聖なる神様が臨在される場所である。

イエス様無しで入るなら、罪ある私たちは即、その結果、さばかれ殺される場所でもある。

イエス様は私たちのためのあがないのいけにえとなられた。

今日、祈りの中で、目を閉じると、十字架にかかられたイエス様が近くにおられるように思えた。

私たちが、イエス様の十字架の犠牲によって赦されたのは、悲しむためでない。

イエス様の十字架によって、このような罪にまみれた私も聖いとされ、しみも傷もないものとされ、大胆に神様の前に出て、神様と親しい交流をするためだ。

イエス様の命と血によるあがないは尊く、何にもましてすばらしい。

神様は、神様の方から罪ある私たちと交流し、関係回復する道を設けられた。

それは、とりもなおさず、私たちと霊的に親しく交流したい、愛したいと切望しておられるからだ。

神様の呼ぶ声が聞こえますか。

私たちとの親しい交流を何よりも待ち望んでおられる神様です。

どうぞ、私たちに与えられた霊によって、私たちも神様を切望し、神様と親しく交われますように。

その祝福が豊かにありますように。

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2009年10月15日 (木)

“弱い部分が尊ばれる”

弱い部分が尊ばれることについて、思いました。

『しかしこのとおり、神はみこころに従って、からだの中にそれぞれの器官を備えてくださったのです。…

…からだの中で比較的に弱いと見られる器官が、かえってなくてはならないものです。…

それは、からだの中に分裂がなく、各部分が互いにいたわり合うためです。

もし一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、もし一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶのです。』新約聖書 第1コリント人への手紙12:18~26

何を持って、人の強い、弱いが計れるかわからない。その定義は様々だと思う。

いつも強く自分を出して自分の意見をいう人が強いかといえば、恐れの裏返しで実は、弱くもろい心の持ち主だったりするかもしれない。

弱い人…というより、弱い立場に立たされている人がいる。

多く人の助けが必要だったり、何かの助けがないと生きていけない。

そういう意味では、クリスチャンも神様無しでは生きていけないものなら、ある意味、弱い立場の人かもしれない。

最近、友人を通して再会した友から、手紙の返信をもらった。

彼女は、生命維持のため、いろいろな助けなくしては生きていけない、ある意味弱い立場にいる人と思う。

彼女の手紙の一行が忘れられなかった。

「病気になっていろんなことを学ばさせてもらいました。

苦しくて、悲しくて、辛くて、でもたくさんの人のほんとうを見せてもらえた大切な時間でした。」

彼女は、ただじっと悲しみや苦しみの中にたたずんでいた。

そのまわりにいろんな人がいて、その人たちの“ほんとう”を見させてもらったのだ。

とても深いことばだと思った。

逆に言えば、弱く助けを必要とする人の前で、私たちは自分のほんとうの姿をあらわにされるのかもしれない。

きっと、自分の中に、よきサマリヤ人のように、適切に人を愛することのできない自分を見せられるのだろう。

求道中の方が、言っていた。

「私は、よきサマリヤ人を読んで、彼のようにはなれないと思い、ゆきずまりました。」

同席していたクリスチャンは言った。

「人を愛せる人がクリスチャンなのでなく、愛することができないと知った人が、イエス様の助けや赦しをもらうのだから、できない、愛せない…それでいいのよ。私たちも同じよ。」

愛すること、与えること、思うこと…難しいことばかりである。

何かすることではなく、イエス様に赦され、受け入れられ、癒され、慰められていくとき、私ではない、私を通したイエス様がほんの少しずつ、人に流れていくのかもしれない。

キリストのからだの弱いところが、人を通しても、癒され、慰められますよう、そのまわりにいる人たちをもあわれんでください。

人々の神様の祝福が、さらに弱い人たちへ流れていきますように。

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2009年10月14日 (水)

“神となって裁かないでください。”

最近、私自身が教えられていることです。

『あなたがたは信仰の弱い人を受け入れなさい。その意見をさばいてはいけません。…

あなたはいったいだれなので、他人のしもべをはざくのですか。

しもべが立つのも倒れるのも、その主人の心次第です。

このしもべは立つのです。なぜなら、主には、彼を立たせることができるからです。』新約聖書 ローマ人への手紙14:1.4

前にブログに書いたが、あるとき、私は教会の中のどこに自分が位置する人間かはっきり教えられた。

ボーダラインという言葉を使ったりしたが、教会に通う者だが、建物で位置を表すなら、扉に立つものである。

つまり、教会の中と外の丁度真ん中に立つものである。

ボランティアをやっていて、ノンクリスチャンとは良く接するが、その人たちといて苦痛は感じない。

しかし、教会では、元気に教会に、悩みを感じず通っているクリスチャンとはどうしても合わない。

一番大切にしている霊的なことのとらえ方が違うからだと思う。

私の親しいクリスチャン友だちは、皆、教会の外にいる人たちだ。

教会の中の人たちは、互いに正しい聖書のことばを分かちあい、喜ぶ。

教会の外のさらに遠くにいるような人たちの中には、聖書を読むだけで、裁かれている感じがして、聖書が読めないという人がいる話しを時々聞く。

正しい聖書のことばで自分を律し、人を正す人が、間違って教会の外の人にその聖書のことばで正してあげようとすると、聖書アレルギー、もしくは、神様アレルギーが出てしまう。

私自身、自分にとって、とても教えられた、感動した聖書のことばを分かちあったことで、「きつい」と言われ、拒否された経験がある。

誰が良いとか悪いとかはない。誰が強いとか、弱いとか言うのでもないかもしれない。

ある人たちには、薬になっても、あまりに強い効力があり、ある人たちには害でしかないこともある。

教会の中と外の人は、ときに水と油のように信仰を相容れない。

教会の中にかろうじていながら、外に気持ちが向く私としては、教会の中の人たちは自分たちの基準で外の人を判断してもらいたくない…と願う。

教会の外にいる多くの人は、一人痛みと傷を持って静かにいる。

願わくは、神様によって癒されていくようにと思う。

私はとりあえず、ぎりぎり教会に通っているし、私自身やっぱり教会の中の人間なのかもしれない。

が、少しずつ外の立場の人の気持ちを、神様のあわれみによって教えられている。

ある友人が言った。

「本当に愛のある思いで聖書のことばを言うのでなければ、それは人の中に神様の愛とならない。」

ヨブは苦しみの中、友人に言った。

『なぜ、あなたがたは神のように、私を追いつめ、私の肉で満足しないのか。』ヨブ記19:22

いかに、私たちは神様の代わりに神となり、人をジャッジし、裁くものであるのかと思わされている。

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2009年10月13日 (火)

“過越の恵み”

私たちにとっての出エジプトを思いました。

『そこで、モーセはイスラエルの長老たちをみな呼び寄せて言った。

「あなたがたの家族のために羊を、ためらうことなく、取り、過越(すぎこし)のいけにえとしてほふりなさい。

ヒソプの一束を取って、鉢に浸し、その鉢の中の血をかもいと二本の門柱につけなさい。朝まで、だれも家の戸口から外に出てはならない。

主がエジプトを打つために行き巡られ、かもいと二本の門柱にあり血をご覧になれば、主はその戸口を過ぎ越され、滅ぼす者があなたの家にはいって、打つことがないようにされる。』旧約聖書 出エジプト12:21~23

ヤコブは家族とともにエジプトに移り住んだ。イスラエルの民は、エジプトの中で増えて行った。

彼らはエジプトの国で苦役を課せられ、苦しんだ。

ヤコブたちの神様への信仰はなくなっていたと思う。しかし、神様がアブラハム、イサク、ヤコブとの契約を覚えておられた。(出エジプト2:24)

モーセを通して、エジプトを脱出する話しは、とてもダイナミックである。

イスラエルの民に忘れられている神様に、モーセは「なんという名前の神か。」と問われるだろうと言う。

神様は「わたしはある。」という者だと言われる。

エジプトを脱出するのに、10の災い、その神様の不思議がなされる。

「わたしはある。」と言う力と支配の神であることをこれでもかと、エジプトのパロ王たちに見せつける。

それは、アブラハムの信仰を継承していないイスラエルの民にとっても、力と支配の神様であることを信じさせるプロセスだったのだろう。

10番目の災いは、今までの超自然のようなものではなかった。

神様が言われたとおり、細かな指示が出された。羊の血をヒソプでかもいと二本の門柱につけ、外に出ないということだった。

それを信じて行ったイスラエルの民は、神様のさばきを過ぎ越された。

エジプトの民は、皆、人から家畜まですべての初子(ういご)が打たれ、死んだ。

今、私たちはイエス様の血潮により、この裁かれるところを過ぎ越してもらっているのだなぁっと思った。

それは、私の努力や意志や願いや思いを越えている。

すべては神様が用意してくれたことであり、私たちはただそのことを信じたことによって、このダイナミックな救いの中に入れられている。

この世は、この暗やみの支配者、天にいるもろもろの悪霊がいる。(エペソ6:12)

ただ、イエス様の十字架の血潮により、私たちはそれらに勝利し、イエス様の平安の中にいるものとされる。

救われ、なお、この世の支配の者との戦いはあるが、イエス様の血潮によって、守られ、神様と交流できる者とされる幸いを思った。

###

神様、あの出エジプトのように、私たちもイエス様によって、この世の空中の権威者サタンの世界から救われた者であることをありがとうございます。

なお、戦いはありますが、イエス様がサタンにすでに勝利してくださり、私たちはその側、神様の平安の中に入れられていますことをありがとうございます。

どうぞ、神様との親しい交わりの中にいつも守られ、イエス様があがめられますように。

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2009年10月11日 (日)

“神様の人の思いを越えた道”

神様の赦しと救いの道について書きました。

『わたし(神)の思いは、あなたがたの思いと異なり、わたしの道は、あなたがたの道と異なるからだ。…

天が地より高いように、わたしの道は、あなたがたの道より高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。

雨や雪が天から降ってもとに戻らず、必ず地を潤し、それに物を生えさせ、芽を出させ、種蒔(ま)く者には種を与え、食べる者にはパンを与える。

そのように、わたしの口から出るわたしのことばも、むなしく、わたしのところに帰っては来ない。

必ず、わたしの望む事を成し遂げ、わたしの言い送った事を成功させる。』旧約聖書 イザヤ書55:9~11

おはようございます。

神様は天地を造られ、人を造り、すべてを治めておられる方です。

神様が今日も教会の外にいる人、遠くにいる人にも等しく呼びかけてくださっていることを思います。

私たちは、法を犯すような悪いことをする人は、罰せられて当然だと思います。

また、悪いことをした人はそれ相応の報いを受けて当然だと思います。

しかし、聖書の世界は違います。

神様はいつも、正しい道からはずれてしまったような人に呼びかけてくれます。

イエス様は言われました。

『医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。

わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招いて、悔い改めさせるために来たのです。』ルカによる福音書5:31.32

これは人間の常識とまったく異なります。

人間の常識は、“罪人は神に見捨てられる”というところでしょうか。

神様は、イエス様によって、罪人を招いておられます。

これが、“神の道は人の道より高く、神の思いは人の思いよりも高い”ということです。

そして、神様の罪人を赦し受け入れる、その計画は必ず成し遂げられる…とあります。

神様は今、イエス様の十字架によって、罪人が赦し受け入れられる道をつくって備えてくださっています。

イエス様の赦しの道は、私たちのはるか思いを越えたものです。

この誰にでも用意されている赦しと救いの道が、私たちのまわりに広げられますように。

『主を求めよ。お会いできる間に。近くにおられるうちに、呼び求めよ。

悪者はおのれの道を捨て、不法者はおのれのはかりごとを捨て去れ。

主に帰れ。そうすれば、主はあわれんでくださる。

私たちの神に帰れ。豊かにあわれんでくださるから。』イザヤ55:6.7

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2009年10月 9日 (金)

“心配をとりさる”

心配をなくすには…と考えました。

『そういうわけだから、何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配するのはやめなさい。…

…あなたがたの天の父は、それがみなあなたがたに必要であることを知っておられます。

だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。

そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。

だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります。』新約聖書 マタイの福音書6:31~34

両親やまわりの大人に守られている子どもは、あすの心配はしない。

あす、どうなるかもわからないが、両親やまわりの大人たちが自分に良いことを備えてくれるのを信じ、今の時を、無邪気に遊ぶ。

が、大人になるとそうはいかない。自己責任が問われ、自分の先は自分でなんとかしなくてはと思う。

もともと、私たちは限りあるから、わからない先を考えだすと、ああでもない、こうでもないと考えをめぐらし、心配にいたるのかもしれない。

この“心配”を取り除くのが、“神の国とその義を第一に求めること”と聖書にはある。

“神の国とその義を求める”というのはどういうことか。

私はなんとなく、「神様の国がきますように。その義が表されますように。」といつも祈り求めることのように思ってきた。

マタイ12:28には神の国について次のように書いてある。

『わたし(イエス)が神の御霊によって悪霊どもを追い出しているのなら、もう神の国はあなたがたのところに来ているのです。』

とある。神の国は私の外側に表されるのでなく、私たちの内に表されるのである。

また、神の義は、イエス様を信じることによって与えられる。

神の国とその義はつまるところ、イエス様を信じる私の中に与えられるのである。

イエス様への信頼は、心配を打ち消してくれるのである。

私が何か心配で、頭がぐるぐると何か考え、心がざわざわとしているときは、私の中にイエス様が不在かのようなときなのだと思う。

しかし、イエス様が居てくれたり、居なくなったりするのではない。

いつも近くに同じようにいてくれるイエス様を私が忘れてしまったり、閉め出したりしてしまっているのだと思う。

私たちのイエス様を信頼する心はいつも不安定で心もとない。

そんな私たちのために、イエス様はいつもとりなし祈ってくださり、私たちを捕らえつづけてくださる。

どうか、弱い私ですが、いつもイエス様が助けてくださり、信じる信仰をも与えてくださるように。

私たちが安心してその中で、日々与えられているときを生きることができますように。

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2009年10月 6日 (火)

“陶器師なる神様”

神様は陶器師として、私を作り替えてくださることを思った。

『陶器師は、粘土で制作中の器(うつわ)を自分の手でこわし、再びそれを陶器師自身の気に入ったほかの器に作り替えた。』旧約聖書 エレミヤ書18:4

神様が私たちを壊す…そういうことがあるだろうか。

私は30年の信仰生活を振り返ると、神様によって自分の何かを捨てさせられる作業を繰り返してきたように思う。

違う言い方をすると、衝撃的な出来事の中で、自分を壊され、新しい自分を作ってきてもらった気がする。

それは、陶器師である神様が、ご自分の気に入ったようにするため、器を壊して作り直しているようである。

今は心の中もかなり癒され、毎日平安の中にいると、あの自我にかたまり、不自由に生きていた自分から解放され、なんだかもう充分かなぁなんて思っていた。

が、神様のあわれみの中、これまでの自分の姿を不思議な形で見せてもらうことになった。

いつも人を慰め、励ましてきたつもりだったが、本当は、弱く助けを必要とする人の本当の深いところの悲しみや痛みを理解せず、慰めや励ましのことばすら虚しくなっていたかもしれない私の姿だった。

何をもって強いと言い、何を持って弱いと定義付けるか…ということはあるが、強そうな人は、「助言し、指示を出し、あなたのためだ。」と言う。ときに悲しげに、ときに泣きながら。

けれども、人の抱える悲しみや痛み、その弱さにあるものは、上から見たら、間違いにしか見えず、その心が見えない。

私は今、自分が砕かれたい、神様のハンマーでこなごなに砕いて欲しい…そんな思いになる。

私は弱さを持った人と共に生きるように神様は造ってくださったと思っている。

いちど、癒され平安の中に入れられ、さらに、イエス様がいるところに行きたいと思った。

誰にも理解されず、この世から見捨てられているような人のところまで。

今の私の強さは、きっと何も持たず、希望もない人には慰めではなく、圧迫でしかないのかもしれない。

神様にかなった祈りや願いはきかれる。だから、ときに怖くて、愛せる者に…なんて祈れなかったりする。(そうなるために何が起こるかわからない。)

聖霊様のあわれみの中、私をこなごなに砕き、神様の喜ばれる器に作り替えてください…と素直に祈る今である。

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2009年10月 4日 (日)

“神様との平和を持つ”

神様との平和について、書きました。

『主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられたからです。

ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。』新約聖書 ローマ人への手紙4:25,5:1)

おはようございます。

この朝も、天地を造られ、人を造られたすべての人の神様が、私たちを愛し、私たちに約束していることの一つを見ていきたいと思います。

「戦争と平和」とかという映画かなんかありました。

“平和”の反対は“戦争”とか“争い”でしょうか。

聖書では、イエス様が、私たちの罪のため十字架にかかって、私たちの代わりに罰を受けてくれたので、私たちはこのままで、神様から受け入れられる者となり、神様との平和を持つ者となったとあります。

神様と平和を持つ前はどんな状態だったのでしょうか。

『あなたがたも、かつては神を離れ、心において敵となって、悪い行いの中にあった…。』コロサイ人への手紙1:21

私は自分を見て思うのですが、良いものは自分の中にはありません。

人を愛する思いも、内から湧いてくる喜びも、揺らぐことのない平安な心も私自身にはありません。

イエス様から新しいいのちをもらい、イエス様とつながっているとき、ぶどうの実のように良い実が実らせられます。

コロサイの手紙にある“悪い行い”とは、新しいいのちにつながり自然に実る良い実がないということではないかなぁと思います。

その結果、罪責感や、心配や恐れや失望や悪いものが心を支配し、安心できない…それが、神様と和解せず、平和をもたない、争っている状態ではないかと思います。

私もイエス様を信じて歩み始めて、すぐ心がすべて、平和な気持ちになった訳ではありません。

自己否定がとても強かったので、自分に対する否定的な思いがくると、何度も何度も押しつぶされそうになりました。

けれど、そんな私をイエス様の十字架で赦されている、そのことによってこのままで神様に受け入れられている…聖霊様にそう信じる信仰を与えられ、長い時間をかけて神様から受け入れられている安心を得ることができました。

本来、神様にそむき、怒りの子として裁かれる存在の私が、ただイエス様の十字架のゆえに、神様の子どもとされ、愛されている、これは何にも変えがたい大きな素晴らしさ事実です。

イエス様により、神様と争う敵から、和解し、神様のものとなり、神様の喜びの中に、平安の中に入れられたことを感謝します。

お一人、お一人の中にこの約束が豊かに現されますよう祈ります。

Hana0883

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2009年10月 3日 (土)

“神様は弱い私たちを愛された”

弱い人間を神様が最初から愛されていたことを思いめぐらしました。

『神は私たちを世界の基(もとい)の置かれる前からキリストのうちに選び、御前で聖(きよ)く、傷のない者にしようとされました。

神は、ただみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられたのです。』新約聖書 エペソ人の手紙1:4.5

昨日、イエス様を求めている方と、教会の方と3人で交流をした。

その求めている方が言った。「神様は、なぜ、アダムとエバが蛇の誘惑に負けてしまうように造られたのでしょうか。」

すると、3人のお子さんがいる教会の方が言った。

「もし、自分の子どもたちが何でも言うことを聞くロボットのようだと、つまらない。悪いことをして謝ったり、ママを喜ばせようと一生懸命になったり、そういうのがかわいいと思う。神様も、私たちがロボットのように言いなりになるのではなく、自由意志を与えられ、関係を喜ばれたのだと思う。」

私も言った。「神様は、ご自身と霊的に交流できるように、人にだけ、霊を与えられたのだから、その麗しい信頼関係の中で、人を愛したかったのだと思う。

世界の始まる前からキリストの救いと選びを用意されていたのだから、その誘惑に負ける弱さすら、イエス様で受け入れる計画が初めからあったということなのかしらね。」

3人で様々な良い話しができ、ともにイエス様の素晴らしさを分かち合った。

アダムとエバ以来、私たちは今なお、試練や誘惑の中で、試されている。

そんな中で神様の信頼を選んでいくとき、私たちが成長させられ、さらに神様にある信頼を築いていく。

神様は私たちが有限の弱い存在であることをご存じだった。

もし私たちが、完全であったら、私たちにイエス様が必要なくなり、私たちが神になってしまう。

世界を造られる前、人を造られる前から神様のイメージの中に、いつも失敗をしてしまう、弱い人間と、その人間を愛するゆえにたてられた救いの計画があった。

それはまた、私がイエス様に出会っていない時代、ただ自分の足りなさ、弱さだけを見せられ絶望する旧約の律法のような時代と、その弱さが赦されおおわれ、癒されるイエス様の時代のようである。

イエス様は言われた。

『わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである。』(第2コリント12:9

そして、パウロはそのイエス様のことばに次のように言った。

『ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。』(第2コリント12:9)

イエス様の十字架の前には、私たちの弱さを誇りとできること、そこにイエス様の恵みが現され、イエス様の救いの力がおおわれることを感謝します。

神様が私たちの弱さを知り抜いて用意された、イエス様の赦しの恵みを感謝します。

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2009年10月 2日 (金)

“キリスト教について”

キリスト教について書きました。

『神は唯一です。また、神と人との間の仲介者も唯一であって、それは人としてのキリスト・イエスです。』新約聖書 第1テモテへの手紙2:5

キリスト教は、一神教と言われ、聖書の神様以外をすべて認めない。

それゆえ、旧約聖書を信じるユダヤ人や、イエス様を信じるクリスチャンは、他のものに迎合できず、迫害されてきた歴史があるのだと思う。

外の人から見たら、排他的な宗教と思われるかもしれない。

しかし、神様は「わたしはねたむ神である。わたし以外に神々があってはならない。」(出エジプト20:4.5,34:14)と言われる。

神様、イエス様、聖霊様を3つを一つなる神様とし、聖書のみに権威を置くところとする。

聖書を変えたり、付け足したり、小間切れに取り分けたものを信じる人たちは、キリスト教と言わない。

誰か人を特別な権威ある人とし、神のようにする人を、私たちはキリスト教と呼ばない。

キリスト教会の中にあっても、イエス様より指導者である自分を中心にする教会はカルト化した教会と言われる。

何をもって、その是非がわかるか。

『自分から語る者は、自分の栄光を求めます。しかし自分を遣わした方の栄光を求める者は真実であり、その人には不正がありません。』ヨハネの福音書7:18

その人がイエス様の栄光を求めているか、人や自分の栄光を求めているか…そこでわかるのではないかと最近、教えられている。

イエス様だけが栄光をとられるお方です。

イエス様の十字架の赦しは完全で、付け足すものは一つもありません。

イエス様からいただけるのは、赦し、あわれみ、安らぎ、喜び、慰めという良いものです。

私たちは様々な宗教に対立するのでなく、光なる神様から良いものを受けて証していくだけなのかもしれません。

光の子どもは光に来ます。(ヨハネ3:19~21)その人が何を求めているかが、どこに行くかなのだと思います。

イエス様の祝福が豊かにありますように。

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2009年10月 1日 (木)

“イエス様の赦しの深さ”

イエス様の赦しの深さを思いました。

『「どくろ」と呼ばれている所に来ると、そこで彼らは、イエスと犯罪人とを十字架につけた。…

そのとき、イエスはこう言われた。

「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているか自分ではわからないのです。」』新約聖書 ルカによる福音書23:33.34

お祈りしていて、突然、遠藤周作の「沈黙」から思わされた。

島原の乱が鎮圧され間もなく、キリシタンが弾圧されて、踏み絵を踏むか、踏まないか迫られる。

踏み絵を踏まずに殉教する人々、踏んで背教する人々、ユダのように裏切る者、しかし、神様はいないかのように沈黙する…そんな内容の本だ。

私だったら…その場にいたらどうするか?わからない。

けれど、私のうちに聖霊様が深く臨むとき、このストーリーを思い出させ、イエス様が「私はすべての人を赦している。」と語っておられように思う。

どうしようもなく弱く、踏み絵を踏めず、裏切ったような人までも、イエス様はその弱く泣いてる心をご覧になり、イエス様の十字架のゆえに赦しておられる。

ある友人が、人を決して裁かず受け入れるのを、私と別の友人で見ていた。

そのとき、私の近くで見ていた友が言った。

「彼女は、いつも人の悪いところを見ないで、人のいいところを先に見る。だから、人を裁くことばが出ないのだろう。」

なるほどと思いつつ、私のこれまでが、全くその逆であることを改めて気がつかされ、衝撃を受けた。

両親、教会、友人、環境に対して私は、良いところを見ずに、先に悪いところを見て裁いてきたのだと。

今は神様との和解により、すべてを受け入れ、平和な気持ちになっているが、いかに長い間、私は悪いところを探して裁いてきたか思った。

イエス様は、十字架の上で、両手、両足釘で打ち付けられ、はりつけにされ、気絶しそうな体の痛みに刺し通されていた。

そんな中で「お父さん(神様)、罪なき私を十字架につけたこの人たちを赦してください。」と言われた。

不当な屈辱さえ耐えられない私だが、イエス様は不当な裁きの中、苦痛の中で自分を殺そうとする人の赦しを願われた。

イエス様の赦しは、底知れず深い。

限りなく弱く、悪を成すもののその弱さの責任はイエス様が背負われた。

それゆえ、悪いところを見て裁かず、弱さをも包みこんで、愛し、赦し、受け入れられた。

###

イエス様の赦しの深さを教えてください。

イエス様の赦しの深さは、人の思いを越えています。

なぜなら、イエス様の愛は、私たちに理解できないほど、深いからです。

イエス様、あなたが、いのちの犠牲を払い、刺し通されるほどに苦しまれて与えた深い赦しが私の中に、また、闇の隅々に及ぶようにしてください。

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2009年9月30日 (水)

“イエス様がくださる喜び”

イエス様にある喜びについて、書きました。

『いつも主(イエス)にあって、喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。』新約聖書 ピリピ人への手紙4:4

ピリピ人への手紙は、パウロが獄中において書いた。そして、死をも決意していた。

そんな中にあって、ピリピ人へあてた手紙のテーマはこの“主にあって喜びなさい。”だった。

パウロ自身が捕らわれ、死にその身をさらされながら、主を喜んでいた。

その喜びはどこから来るのか。それは、イエス様から来る喜びだった。

パウロはかつてクリスチャンを激しく迫害するユダヤ人だった。

バウロはそんな自分を罪人のかしらだと告白した。(第1テモテ1:15)

そのような者もイエス様によって赦された…パウロにとってイエス様からの限りないあわれみを感じていた。

イエス様の存在はパウロに、「私にとっては、生きることはキリスト、死ぬこともまた益です。」と言わせた。(ピリピ1:21)

パウロにとってキリストが、イエス様がすべてであった。

それほどに、パウロは、イエス様からの赦しを受け、愛を受け、慰めを受け、恵みを受け、あわれみを受けていた。

パウロが獄中にいて、死を前にしながらも、ただイエス様からいただく恵みの中に、喜びの中に、人々にも「主にあって喜びなさい。」と言えた。

これは、環境や富や外部からの物によっては決して得られることのできない喜びである。

環境は変わる。私たちがその変わる何かに、喜びを見い出しているなら、私たちの喜びは大きくなったり、なくなったりする。

いつまでも、変わることのないイエス様が、私たちに変わることのない喜びを与えたいと願っておられる。

それは内側から湧いてくる喜びであり、イエス様から来る喜びであり、イエス様に愛されている喜びである。

どのようにしたら、私たちはこの喜びをいただくことができるのか。

それは、環境や外部からの喜びとなるものに頼らず、イエス様に求め、イエス様との信頼関係を築き、イエス様に愛されていることを受けとることによってなのだと思う。

###

神様、イエス様が私たちにどんな状況でも変わることのない内から湧き出る喜びを与えようとしてくださることをありがとうございます。

外側からの楽しみ、喜びを追及している人にはイエス様の愛による喜びは隠されています。

どうぞ、私たちにイエス様の愛が私たちにどんなに与えられているか教えてください。

イエス様との関係の中に喜びを見い出せますようにしてください。

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2009年9月29日 (火)

“神様の尽きないあわれみ”

神様のあわれみについて書きました。

『私たちが滅びうせなかったのは、主の恵みによる。主のあわれみは尽きないからだ。

それは、朝ごとに新しい。

「あなたの真実は力強い。主こそ私の受ける分です。」と私のたましいは言う。

それゆえ、私は主を待ち望む。』旧約聖書 哀歌3:22~24

この聖書の箇所は、私自身への神様からのことばとして、大切にしてきた一つである。

“あわれみ”…これもキリスト教用語のような感じでもあり、あまり日常では使われない言葉のように思う。

“あわれみ”について、聖書辞典には次のように書いてある。

「あわれみは神の本質にかかわる性質である。…キリストのあわれみのきわみは、十字架のあがないの死によって最も明らかに示されている。」

今、私は神様のあわれみ、イエス様のあわれみをとても強く感じている。

哀歌にあるように、本来、私は正しい神様の前に裁きを受け、滅ぼされる存在だったのに、今、こうして、生かされている。それは、あわれみの何ものでもない。

私たちは、弱く、足りなく、不完全な人間で、神様の律法の前には、裁かれ、殺されなくてはならない存在である。

それなのに、神様が私たちに対してもたらしたイエス様の十字架による新しい契約により、私たちはその滅びをまぬがれた。

それは、私の正しさや行いによらず、ただ神様の変わらない愛の契約により、また、イエス様の十字架の完全性による。

その神様がくださるあわれみに対して、「あなたの真実は力強いです。主こそ、私の受ける分です。」と告白し、応答する。

“主こそ、私の受ける分です。”という表現は、土地の割り当てを受けなかった祭司たちに使われた。

『あなたは彼らの国で相続地を持ってははらない。彼らのうちで何の割り当て地をも所有してはならない。イスラエル人の中にあって、わたしがあなたの割り当ての地であり、あなたの相続地である。』民数記18:20

滅ぼされるような者が、ただ神様のあわれみの中にいるとき、私が相続するのは、ただ神様からのもの、神様自身です…と告白し続けたい。

###

神様、滅ぼされるような者をあわれんでくださることを感謝します。

滅びをまぬがれ、あなたの恵みの中に生かされていることを感謝します。

あなたが私の割り当て地です。

あなたが私の受ける分です。

あなたが私の生活の場であり、私の生きる目標です。

あなたのあわれみの中、あなたを待ち望ませてください。

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2009年9月28日 (月)

“主にあって死を思う”(祈り)

本「その時の祈り」辻宣道著者(日本基督教団出版社)から、“死を思う”…という祈りを抜粋します。自分の死について、祈るときに教えられるなぁと思い、分かち合いたいと思いました。

『祝宴の家に行くよりは、喪中の家に行くほうがよい。

そこには、すべての人の終わりがあり、生きている者がそれに心を留めるようになるからだ。』旧約聖書 伝道者の書7:2

神様、人間は早い遅いの違いはありますが、いずれは死を迎える存在です。

私が信仰がなかったとき、死は不安であり恐怖でしかありませんでした。

死と向き合ったときどうなるか考えただけで、棒立ちになってしまうような者でした。

しかし、信仰が与えられた今、それは昔のような恐れではなくなりました。

今の私にとって死は「永遠の生命」の入口です。

私のからだはやがて地上から消えて去ります。

愛する人々とも別れなければなりません。それは悲しみであり、耐えがたい苦痛です。

しかし、私には信仰があります。

終わりの日に、主イエス様の栄光のからだと同じからだに化せられる約束を信じ、この悲しみを乗りこえます。

やがて住むところは別々になりますが、再び会える日を信じて静かに死を迎えることができますように。

今こそ信仰のあるなしが問われていることを知って落ち着いた日々を過ごさせてください。

主によって

###

sebaの祈り

天のお父さん、人はすべての人が死ぬことが定められています。

誰も自分の死を考えたくないかもしれません。

パウロは、「私の願いは、世を去ってキリストとともにいることです。」(ピリピ1:23)と言いました。

それほどまでに、私はイエス様を愛し、天国を切望しているでしょうか。

天国は現実の苦しみの逃げ道ではありません。

きっと、パウロのようにキリストのため、命をかけた人にとって、イエス様の近くに行くことが喜びなのだと思います。

私にとっての天国がただ慰めと希望だけでなく、「生きることはキリスト、死ぬこともまた益です。」という、あのパウロの告白と近い生き方ができるものとしてください。

あなたの天国の希望を大きく見せてくださり、死を通って喜んで凱旋できるようにしてください。

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2009年9月27日 (日)

“死の恐怖からの解放”

自分の死について、考えました。

『そこで、子どもたちはみな血と肉とを持っているので、主もまた同じように、これらのものをお持ちになりました。

これは、その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした。』新約聖書 ヘブル人への手紙2:14.15

おはようございます。

天地を造られ、人を造られた神様は、すべての人の神様です。

偶然になんとなく、たまたま私たちは命与えられ、生まれてきたのではありません。

もしまたまただったら、その人生はすべて偶然の重なりです。

神様は私たちが生まれる前から、私たち一人一人に計画をもち、緻密な神様のみ手の中、誕生しました。

そして、一人一人に神様の計画があり、死ですべてが終わることのないよう、永遠のいのちを与えられました。

23年前、私は教会の門を叩く、一人の年配の男性に、教会で会いました。

彼は私に言いました。「私は、死ぬのが怖くて怖くて、それで教会に来たのだよ。」

彼とは神様にあるたくさんの交流をしました。最後に会ったのは、私が結婚し、出産したとき、出産祝いの積み木を持ってきてくれたときです。

そして、その後、彼は天国に召された話しを、もといた教会の方から聞きました。

神様が、イエス様によって、彼を死の恐怖を取り去り、天国に召してくれたのだなぁと思いました。

天国が私の中で、もっとも身近になったのは、母が召されたときでした。

母の死のことは何度もブログに書いてきました。

母は、天に召される20日前にイエス様を信じました。

モルヒネで、意識混濁の状態が続きましたが、不思議と、私や姉のお祈りには、手を合わせて、目を閉じ、頭を垂れて、祈りに「アーメン」と言いました。

母のベットのまわりは、たくさんのお見舞いの花があり、にぎやかな家族がおり、讃美歌が流れ、とても癌末期患者の病室ではありませんでした。

母が息をひきとるとき、私は祈りがかない、母の耳もとで、与えられた賛美を歌い、祈りをし、母を天国に送りました。

このしばしの別れに、悲しいというより、不思議な慰めに満たされ、誰も泣くことなく、「母さん、また、天国で会おうね。」と思いました。

私たちは100%死を迎えます。

人は生きたように死んでいくと言われます。

この肉体の死に対して、慰めと希望を与えているのは、聖書の約束、神様だけと私は思います。

老後のこと、病や年金や先を考えることはたくさんありますが、どのように、死を迎えたいか…が、どのように今生きるかにつながるのだと思います。

私は肉体の死がやってきて、もし、一言言うことをゆるされるなら、「みんな、ありがとう。神様、ありがとう。」と言いたい、そんな生き方を願っています。

イエス様によって、死の恐怖からの解放の約束が、多くの人のものとなることを心から願います。

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2009年9月25日 (金)

“イエス様が与える平安”

イエス様が与えてくださった平安について思いました。

『わたし(イエス)はあなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。

あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。』新約聖書 ヨハネの福音書14:27

平安(へいあん)という言葉は、あまり日常では使われない。安心ということばの方が身近だろうか。

イエス様がくださった平安とは、状況がどんなであっても、揺らぐことなく深いところからくる安心…ということだと思う。

イエス様が与える平安は世の中が与えるものと違う。

世の中の平安は、いい状況で保たれるものかもしれない。

また、占いとか、切り貼りしたようなことばに心を置いた中でのものかもしれない。

イエス様が与える平安は、イエス様からくる平安でもある。

イエス様はこのことばを、十字架の道を見据えて、弟子たちに語られた。

イエス様が十字架にかかられ、よみがえり、天に登った後に、助け主なる神様、聖霊が与えられることの中で、この平安を語っている。

私たち自身は、イエス様を信じて頼るのはとても難しいが、聖霊が私たちのうちに与えられると、聖霊なる神様は、私たちの内側から、神様のこと、イエス様のことを教えてくださる。

そして、イエス様を信じて頼っていく力を与えてくださる。

弟子たちは、イエス様が昇天されてから、イエス様を伝えて歩いた。

まわりからバカにされたり、ののしられたり、危険な目に会いながら、イエス様を伝えて歩いた。

彼らの中には、イエス様が十字架にかかられたとき、失望し、恐れ、ひっそりと戸を閉めきっていた、あの姿はない。

聖霊なる神様が、イエス様こそが私たちを助ける救い主であることを弟子たちの心に確信させた。

聖霊なる神様は、宣教のための力のように言われることがあるが、どんな状況でもイエス様を信じ続ける深い安心を与えるのだと思う。

弟子のあるものは、殉教し、皆命がけでイエス様を伝えたのだが、彼らの中にあったのは、イエス様にある喜びと平安だった。

そのことを見ないで、使徒の働きの記事を読むと、ただ頑張るような悲壮感を重ねてしまうが、彼らは、命を死にさらされる宣教の中、深い変わることのない、取り去られることのない安心があった。

私もまた、神様がくださる平安のすごさを改めて教えられ、このテーマで書いた。

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天のお父さん、私たちは弱い者です。

厳しい現状に耐えられないような者です。

あわれんでください。イエス様が約束してくれた、どんなことがあっても取り去られることのない平安をありがとうございます。

聖霊様とともに、イエス様の平安を与えてくださり、イエス様とともにいられるよう導いてください。

また、イエス様を知らない人にも、人々の祈りの中、このイエス様の平安に守られますようにしてください。

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2009年9月24日 (木)

“主よ、いつ、しましたか?”

神様に喜ばれる良いこととは、どんな風にささげられたことでしょうか。

『さあ、わたしの父に祝福された人たち。世の初めから、あなたがたのために備えられた御国を継ぎなさい。

あなたがたは、わたしが空腹であったとき、わたしに食べる物を与え、わたしが渇いていたとき、わたしに飲ませ、わたしが旅人であったとき、わたしに宿を貸し、わたしが裸のとき、わたしに着る物を与え、わたしが病気をしたとき、わたしを見舞い、わたしが牢にいたとき、わたしをたずねてくれたからです。」

すると、正しい人たちは、答えて言います。「主よ。いつ私たちは、あなたが空腹なのを見て、食べる物を差し上げ、渇いておられるのを見て、飲ませてあげましたか。

いつ、あなたが旅をしておられるときに、泊まらせ、裸なのを見て、着る物を差し上げましたか。

いつ、あなたが…』新約聖書 マタイの福音書25:34~

エデンの園で、アダムとエバが神様との麗しい関係を保っていたとき、彼らは裸だった。が、恥ずかしくなかった。

エデンの園では、自分のことを見ないで、神様を見ていたからだと思う。

善悪の木の実を食べて以来、人は自分の行為が善か悪か判断し、自分に注目するようになった。

リック・ジョイナーの「収穫」の本に次のような文がある。

「私たちは自分の良い行いの上に立とうとするとき、それは私たちが、自分にはイエスによってささげられた、なだめの供え物は必要ないと考えていると言っていることになるのです。…

御霊によって前進する教会に最大の迫害をもたらすのは、知識の木の「善」を食べている人たちでしょう。」

神様のためにと自分が良い行いをすることは、時として、イエス様の十字架の完全性を否定し、あたかも十字架だけでは神様に受け入れられることが不十分であることを告白する。

また、この本の別の項目ではこのように言っている。

「栄光が宮に満ちるとき、人々の注目を集めるのは宮ではなく、主です。

主から召された働きをことごとくやり遂げた人たちは、自分が大きな務めを果たしたということにさえ気がつかないでしょう。

彼らは、自分の成し遂げたことにではなく、自分を働きの場にお遣わしになった方を喜ばせることにのみ注目するでしょう。」とある。

外から見て人が良い行いをしているとき、神様はその動機を見ぬいているということだと思う。

自分の人に成したことを忘れて、主をあがめるとき、それは神様に喜ばれるいけにえとなってささげられる。

人から誉められるすばらしいようなことをしても、それが自分の注目のためであるとき、とたんにそれは善の木の実になってしまう。

「主よ。いつ、私はあなたに食べさせ、飲ませ、与えましたか。」

イエス様に再びお会いするとき、そのように言えるようになりたい。

自分が成したことを見つめるのではなく、ただすばらしいお方、イエス様をあがめていたいと思う。

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2009年9月23日 (水)

“イエス様の孤独”

イエス様の通られた孤独を思いました。

『わが神、わが神。どうして、私をお見捨てになったのですか。遠く離れて私をお救いにならないのですか。私のうめきのことばにも。

わが神。昼、私は呼びます。しかし、あなたはお答えになりません。夜も、私は黙っていられません。…

どうか、遠く離れないでください。苦しみが近づいており、助ける者がいないのです。

彼らは私に向かって、その口を開きました。引き裂き、ほえたける獅子のように。私は、水のように注ぎだされ、私の骨々はみな、はずれました。私の心は、ろうのようになり、私の内で溶けました。』旧約聖書 詩篇22篇

イエス様の孤独を思いました。人から受け入れられず、理解されず、妬まれ、群衆の前では、「バラバの代わりにイエスを十字架につけろ。」と叫ばれました。

いつも近くにいた弟子たちはイエス様の十字架の道を理解していませんでした。

ゲッセマネの園で悲しみのあまりに死ぬほど苦しまれたイエス様の横で、弟子たちは寝ていました。

イエス様が捕らえられた時、弟子たちは、イエス様をおいて皆逃げました。

十字架を背負ってゴルゴタの丘を歩くとき、人々はイエス様を犯罪者としてさげずみました。

イエス様は十字架のつけられ呪われたものとなりました。

そして、最後に愛する天のお父さんである神様との完全な霊的な断絶がありました。

人々に見捨てられ、弟子に裏切られ、神様と遮断されました。

イエス様は、私たちの罪を背負われましたが、また、私たちが経験するどんな孤独よりも大きな孤独を経験されました。

それは、私たちにとって慰めです。イエス様は私の孤独を知っていてくださるのですから。

孤独に苦しむ人のため、お祈りします。

###

天のお父さん、叫んでも叫んでも、あなたからの応答がないような孤独の暗やみの中に、イエス様の孤独を思います。

イエス様はそんな孤独に打ちひしがれている者の理解者です。

誰も理解してくれない中にあって、イエス様が理解してくれていますからありがとうございます。

どうか、人々から切り離されたかのようなときにも、神様、あなたが見捨てず、見放さずにいてくださることを教えてください。

その孤独の暗やみにイエス様の慰めのともしびをともしてください。

聖霊様の慰めを与えてください。

主よ、あわれみ、助けてください。

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2009年9月19日 (土)

“パリサイ人の部分を持つ私”

私の中にもパリサイ人のように、人をはかる自分がいると思いました。

『さて、あるパリサイ人が、いっしょに食事をしたい、とイエスを招いたので、そのパリサイ人の家にはいって食卓に着かれた。

すると、その町に罪深い女がいて、イエスが、パリサイ人の家で食卓に着かれておられるのを知り、香油のはいった石膏(せっこう)のつぼを持って来て、泣きながら、イエスのうしろで御足のそばに立ち、涙で御足をぬらし始め、髪の毛でぬぐい、御足に口づけして、香油を塗った。

イエスを招いたパリサイ人は、これを見て、「この方がもし預言者なら、自分にさわっている女がだれで、どんな女であるか知っておられるはずだ。この女は罪深い者なのだから。」と心ひそかに思っていた。』新約聖書 ルカによる福音書7:36~39

クリスチャンが新約聖書を読むとき、パリサイ人が登場する場面で、「神様、私こそがパリサイ人です。」とはあまり思わないのではないか。

心かたくなパリサイ人は、信仰者の対比として良く登場する。

そして、私たちの陥りやすいのは、あの人こそパリサイ人、人を裁く人だと決めつけやすい。

少なくとも、私自身は長年そんなふうであったと思う。

しかし、私たちは様々な弱さをもっている。

そして、私の中に歴然と、パリサイ人としての部分があるのではないかと思った。

ここに出てくるパリサイ人は、罪深い女がイエス様に近づいているのを見て、心で思った。

「イエス様がいろんな神様のことを見通せる人だったら、この女がどんなに罪深い女かわかるだろう。」

パリサイ人がそう思っているとき、パリサイ人も赦される罪人であることを忘れている。

イエス様は、皆同じ罪人であることをパリサイ人に指摘しただけでなく、この人間的に見たら、とても罪が多いという女は多く赦されたから、多く愛され、愛の行動をイエス様にしたことを指摘した。

イエス様の世界は、現実的なこの世の中と逆説的なことがたくさんある。

多く悪いことをすれば良いというのとは全く違うが、この世の評価と、イエス様の評価は違うということだ。

私は、無意識にこの人は真面目な人、この人はふざけた人とか勝手に自分の中で評価していないだろうかと思った。

私がどんなにたくさん赦された者であるか知っていくとき、私の中のパリサイ人は小さくなり、イエス様のようなまなざしで人を受け入れていけるのかもしれない。

♯♯♯

神様、自分の基準や、勝手に聖書に照らし合わせ、人を裁く部分のある私を赦してください。

そして、イエス様と同じまなざしで、どんな罪深い人に対しても赦されることが多い、神様に愛される人だと見れるようにしてください。

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2009年9月18日 (金)

“ただあわれみによって選ばれた”

神様の選びの確かさによって、今私にイエス様を信じる信仰が与えられている事実を思います。

『その(リベカの)子どもたちは、まだ生まれてもおらず、善も悪も行わないうちに、神の選びの計画の確かさが、行いによらず、召してくださる方によるようにと、「兄は弟に仕える。」と彼女に告げられたのです。

「わたしはヤコブを愛し、エサウを憎んだ。」と書いてあるとおりです。…

神はモーセに、「わたしは自分のあわれむ者をあわれみ、自分のいつくしむ者をいつくしむ。」と言われました。

したがって、事は人間の願いや努力によるのではなく、あわれんでくださる神によるのです。』新約聖書 ローマ人への手紙9:11~16

この聖書の箇所は、今まで何回か書いてきた。

私にとっては大切なところなので、また、分かち合いたいと思った。

かつては、この真理がしっくりこなかった。

“神の選びの確かさ”が、まだ生まれてもいない、善も悪も行わないうち、行いによらず、神様の主権によって、選ばれる者とそうでない者がいるということ。

そんなのは、ずるいのではないか。祝福の権利にもれたエサウはかわいそうではないか。

私たちは生まれたときから、頑張れば報われる…そんな教えの中で、励まされ努力してきた。

“ただ信じるだけでオッケー”とか、生まれる前から何もしていない選ばれているのが決まってるなんて…だったら、何を頑張っても、何もやらなくても変わりがない、運命を受け入れるより仕方のない世界なのかと考えてしまう。

私自身、この箇所を読むたびに、そんな思いにとらわれた。

“神の選びの確かさ”ということで、パウロは9章から11章において、ユダヤ人(イスラエルの民=選民)と異邦人(選民イスラエルの民以外の民)の選びについて語っている。

一言で言うと、今ユダヤ人の多くは神様から選ばれた民族であるのはイエス様を信じてはいないが、その選びが無効になったのではない。

それは、異邦人に救いが及ぶ神様の壮大な計画にあった。

だから、異邦人である私たちは、ただあわれみによって救われたのだから謙虚に神様のあわれみを受ける必要がある…という話しである。

“神様の選びの確かさ”…それは行いによらず、願いや努力によらない。

誰が救われるかどうかということをはかることではなく、もしイエス様を信じる信仰を与えられたとしたら、それは神様のあわれみによる以外何もないのだということである。

私の行いによらず、願いや努力や、私自身によるものは何もなく、ただ神様が、選んで、私にイエス様を信じる信仰を与えられたのである。

私自身が信仰を与えられて誇るものは一つもなく、ただ滅びゆくものがあわれみによって生かされている、この事実は私をへりくだらせ、また、与えられているもの、信じさせてもらっているものの大きさを思わせられる。

そして、神様が私を選んで、イエス様の信じる信仰を与えられたのならば、その尊さとおそれおおい畏敬の念を思うとき、そこにふさわしく応答するものでありたいと思わせられる。

神様、どうそ、私の今与えられている信仰は、私によって与えられたのではなく、ただ神様の一方的なあわれみによっていることをいつも忘れることなく、謙虚に、感謝していけますよう助けてください。

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2009年9月11日 (金)

“神の国にはいるため”

神様の国にはいるために大切なことを考えました。

『それから、イエスは弟子たちに言われた。「まことに、あなたがたに告げます。金持ちが天の御国にはいるのはむずかしいことです。

まことに、あなたがたにもう一度、告げます。金持ちが神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通るほうがもっとやさしい。」

弟子たちは、これを聞くと、たいへん驚いて言った。

「それでは、だれが救われることができるのでしょう。」

イエスは彼らをじっと見て言われた。

「それは人にはできないことです。しかし、神にはどんなことでもできます。」』新約聖書 マタイの福音書19:23~26

富める青年が、イエス様のところに来て、「先生。永遠のいのちを得るためには、どんな良いことをしたらよいのでしょうか。」と尋ねた。

イエス様は「もし、あなたが完全になりたいなら、帰って、あなたの持ち物を売り払って貧しい人たちに与えなさい。」と言われた。

富める青年は、多くの財産を持っていたので、そのことはできないと悲しみながら去って行った。

ここでは、はじめから質問がずれていた。私たちは“良いことをする”ことによって、永遠のいのちをいただくことはできない。

しかし、イエス様はダイレクトに“良いことをすることによっては、永遠のいのちは得られません。”とは言わなかった。

イエス様もまた、“する世界”から青年と話しをしている。

「もし、あなたが完全になりないなら…。」とイエス様は言われた。

人は完全にはなれないことを示すために、富める青年には財産を売り払って貧しい人に与えよと言われた。

富める青年にとって大切にし、基盤をおいているところがどこなのかイエス様にはわかったのだと思う。

私たちはそれぞれが生きていく中で、知らず知らずのうちに頼りにしているもの、基盤としているもの、支えとしているものがある。

ある人にとってはお金かもしれないし、また、ある人にとっては能力や地位、名誉、肩書きであったり、安定した生活であったり、健康や楽しみかもしれない。

どれも悪いものはひとつもない。神様が祝福して、与えてくださったものでもあるかもしれない。

しかし、何か頼りにして過信しているものがあると、それが信頼していく神様との道を妨げていることもあるかもしれない。

私は、神学校時代、とても貧しかった。奉仕教会に行き、そこのご婦人がお昼のお弁当を作ってきてくれ、それを寮に持ち帰り、感謝して食べたことを覚えている。

「神様、今日の昼ご飯をあなたが与えてくださり感謝します。」とお祈りして食べた。食べるものすらないとき、神様が与えてくださったと感謝に溢れた。

実は神様は細部まで、すべてにご支配し、ご配慮してくださっているのだが、困らずに生活しているとすべてが自分の力によるように思う。

人がイエス様を信じて永遠のいのちにはいるのは、何かをすることや、神様以外のことに頼っては、決してできない。

同じように、人を神様に導くことも、何かをすることや神様以外のものに頼っては、決して成ならない。

ただ「人にはできないが神様にはできる。」と神様にのみ頼り、神様の国の実現を見ていきたいと思った。

永遠のいのちを得るため

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2009年9月 2日 (水)

“キリストのからだの苦しみ”

キリストのからだの苦しみとその回復を思いました。

『あなたがたは使徒と預言者という土台の上に建てられており、キリスト・イエスご自身がその礎石(そせき)です。

この方にあって、組み合わされた建物の全体が成長し、主にある聖なる宮となるのであり、

このキリストにあって、あなたがたもともに建てられ、御霊によって神の御住まいとなるのです。』新約聖書 エペソ人への手紙2:20~22

最近、私は本当にまれにだけれど、イエス様の悲しみや苦しみを霊的に少しだけ、感じるときがある。

昨日は胸の中が重苦しくなり、キリストのからだの苦しみなのかなぁと思った。

イエス様は、私たちのイエス様への信仰を告白するところに、教会を建てられた。(マタイ16:18)

そこは、イエス様の権能が働き、神の御国が現されていく場所である。

目に見える地域教会も教会であるが、私はいつも目に見えないキリストのからだを思う。

キリストのからだの苦しみや痛み…どんなものがあるだろうか。

イエス様を信じたのに、目に見える教会には集えず、孤独にいる人。イエス様がなかなか身近に感じられず苦しむ人。一生懸命にイエス様のためにと働きながら、良いものが与えられず疲れた人。指導的立場にありながら、神様からの恵みの啓示の知恵が与えられず、責任感のみで我力でやっている人。

キリストのからだの様々なところが、傷と痛みで苦しんでいる。

そして、そこに互いが互いを受け入れ合わないさばきや批判があり、キリストのからだは癒されることなく、悲鳴をあげている。

私は自分のお腹が痛かったら、薬を飲む。

足が痛くなったら、歩くのを休む。

虫歯が痛くなったら、歯医者に行く。

自分の大切なからだをいたわり、早く回復し、痛みがなくなるようにする。

キリストのからだは、いろいろな視点からあちらもこちらも傷んでいる。癒しと回復が必要である。

私たちはキリストのからだを、自分のからだのように大切にできるか試されている。

私自身が長年してきたことだが、他者批判はキリストのからだのために何にも回復をもたらさない。

イエス様からいただいた愛をもって祈る…何もできなくとも、何もできないから、イエス様の力が働くことを願い、ただひたすらとりなしの祈りをする…それしか私たちにはできないような気がする。

もし、痛みがあるなら、大切なキリストのなくてはならない一部のあなたが癒されますように。

もし、誰かのために祈れる力が与えられているなら、一つとなってとりなし祈り、キリストの愛による癒しをともに体験できますように。

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2009年8月31日 (月)

“神様の栄光を求める”

“神様の栄光”について思いました。

『わたし(神)は主、これがわたしの名。わたしの栄光を他の者に、わたしの栄誉を刻んだ像どもに与えはしない。

先の事は、見よ、すでに起こった。新しい事を、わたしは告げよう。それが起こる前に、あなたがたに聞かせよう。』旧約聖書 イザヤ書42:8.9

“神様の栄光”…かつては私はあまり考えたことがなかった。

今はなぜか、そのことが現されるように切なる願いが湧いてくる。

かつての私は何を求めるクリスチャンであったか。

それは“神様の栄光”ではなく“自分の栄光”…もっとわかりやすく言えば、自分は上手くできているか、やりたいことをやれているか、私の気分はどうなのか…そういうことばかり気をとられていたように思う。

今、読んでいる本、リック・ジョイナーの『収穫』という本に、次のような一文があった。

「教会、奉仕、霊的な真理、霊的賜物、あるいは聖書さえ、私たちが、それらに心を奪われてしまうときには、偶像になりえるのです。

来るべき神の栄光の中を歩む信徒たちは、主の宮に仕えることではなく、主の宮であられるイエスにお仕えすることのみ心を砕くでしょう。」

私は誰よりも、教会で語られるメッセージ批判してきた者だったが、良く聞くのに「今日の礼拝は恵まれた。」とか「恵まれなかった」とか言うのがある。

礼拝は神様に捧げるもので、私が恵まれるかどうか、気分が良くなるかどうか、聖霊に満たされた感じがするかどうかではないように思う。

私は教会や牧師やメッセージに長年心奪われ、まさに、イエス様を忘れて、自分が気持ち良くなることを追及してきたように思う。

そんな私がどうして、“神様の栄光”が心から現されるように願うようになったのだろうか。

神様の内なる癒しとか赦しとか…神様の、イエス様の、聖霊様のみ業でしかない。自分に固執する気持ちから離れられるようにしてもらった。

自分に固執しなくなると、“神様の栄光”=私たちの最善と心から思えるようになる。

私自身を長い間、忍耐し、あわれみ、造り変えてくださった主をただあがめます。

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2009年8月30日 (日)

“イエス様の十字架を信じる障害”

『義人はいない。ひとりもいない。…

…律法を行うことによっては、だれひとり神の前に義と認められないからです。律法によっては、かえって罪の意識が生じるのです。

しかし、今は、律法と預言者によってあかしされて、神の義が示されました。

すなわち、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、それはすべてを信じる人に与えられ、何の差別もありません。

すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによるあがないのゆえに、価(あたい)なしに義と認められるのです。』新約聖書 ローマ人への手紙3:10.20~24

おはようございます。

今日も、すべての人の唯一なる、天地を造られた神様が、教会の中にも、外にもいてくださり、私たちの小さな祈りも聞いて応えてくださることを信じ、感謝します。

イエス様の十字架刑による赦しのメッセージはシンプルです。

教会学校に通う子どもたちも、みんな素直に「イエス様、私の罪を赦してください。イエス様の十字架で赦されたことをありがとうございます。」と祈れます。

イエス様の十字架が自分のためであったと信じるのに、難しい知識はいりません。

けれど、このシンプルなメッセージがミソなのかもしれません。

イエス様の十字架の死刑が私のためだった…それほどまでに私は悪い人間なのか。

よく聞くのは、「私は法律に触れるような悪いことはしていない。」ということです。

正しい神様の前に、自分が死刑になるほどの罪深い人間だ…というのは、聖霊様がその心の暗やみを照らしてくれないと、わからないのかもしれません。

もう一つ、イエス様の十字架を信じる上で、難しいことがあります。

それは、“ただ信じるだけで赦しを受けられる”ということです。

私は息子にこの世の中では“ただより怖いものはないよ。絶対に何か裏があるから。”と話します。

信じるだけで救われる!?…そんなこと、本当かなぁと思います。

旧約聖書にナアマンという人が出てきます。(第2列王記5章)彼は将軍でしたが、らい病になりました。預言者エリシャは使いをやり、彼に言いました。

「ヨルダン川で7度あなたの身を洗いなさい。治ります。」と。

ナアマンは怒りました。エリシャがいろんなことをして治してくれると思ったからでした。

すると、ナアマンのしもべが「ご主人様は難しいことを言われたら、きっとそのとおりにしたでしょう。」ナアマンのプライドがじゃましているのを指摘しました。

ナアマンは自分のプライドのゆえに、簡単なことに従えなかったことに気がつかされ、幼子の如く、言われたとおりにして、癒されました。

イエス様の十字架を信じることには、自分の内側にある“罪”を認めなければならないと同時に、ただイエス様の十字架を信じるのみ…と人間側の資質とか能力とか何も問われていません。

何も自分にはありませんという人は喜んで信じますが、頭を低くし、自分は何もないと認めないと受けにくいのが、イエス様の十字架です。

イエス様の十字架を信じる者には、罪の赦しだけでなく、イエス様にある新しいいのち、そして、聖霊様が送られ、神様の子どもとなり、その良いものを受け継ぎます。

幼子の如く、平等に与えられているイエス様の十字架のプレゼントを受けとれますように。

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2009年8月29日 (土)

“イエス様に一致するすばらしさ”

イエス様による一致の大切さを思いました。

『ですから、あなたがたが良いとしている事がらによって、そしられないようにしなさい。

なぜなら、神の国は飲み食いのことではなく、義と平和と聖霊による喜びだからです。

このようにキリストに仕える人は、神に喜ばれ、また人々にも認められるのです。

そういうわけですから、私たちは、平和に役立つことと、お互いの霊的成長に役立つこととを追い求めましょう。』新約聖書 ローマ人の手紙14:16~19

もうすぐ総選挙がある。民主党が優勢と言われている。そんな中で、自民党がネガティブキャンペーンというのをやっているらしい。

我が家にもパンフが入っていたが、「民主党はこんな良くない?政策を打ち出している。」という6項目、6ページにわたる説明がされている。

そこには自民党が何をするかは一言も書かれていない。

このパンフが自民党に有利になるのかどうかはわからないが、相手の悪口だけ書かれたパンフはピンとこなくて、私は捨てた。

昔、本物の壺などの鑑定人を育てるのに、どうするかという話しを聞いたことがある。

偽物を一切見せず、本物だけを見せて、見る力を育てるのだそうだ。

私は教会批判を長年してきた人間なので、おこがましい気もするが、教会内で、批判をすると、サタンは手をたたいて喜ぶのだと思う。

それは、教会内の小さな批判もある。が、特に、牧師などが、他教会の批判や、他教団の悪口を言うことは、聖霊様を悲しませる。

牧師は、教会を守りたい、教会の羊たちを守りたいという思いがとても強いのだと思う。

それが、高じると、他者批判になるのかもしれない。

私は、教会を渡り歩いてしまったものとして、教団にはその守るところの教理(教団の教えの特徴とするところ)があるのを見てきた。

けれども、以外とそこに固執しているのは、牧師だけで、信徒はシンプルにイエス様への信仰だけをもっていたりする。

私も与えられた各教団の強調する教えを否定するつもりは全くないが、私は何を信じているかといえば、教団教理ではなく、イエス様だと言いたい。

私は福音派から、聖霊派と言われるところを渡り歩いたが、クリスチャンは皆、信じるところは一緒だと思った。

今、その経験が、いろんな背景をもった人たちとの交流にも役立っているのかなぁと思う。

リック・ジョイナーという人の本を友人から譲り受け、2册読んだ。

やがて、リバイバルが来たときにこぼれていく人の話しがあった。

「支配の霊」と「屈服の霊」に捕らわれる指導者たちと書かれてあった。

上に立つ人は、その人たちにしかわからない誘惑や霊的戦いがあるのだと思う。

今、癒されて思うところは、キリストのからだは、みんなで作りあげるものだということ。(癒されていないころの私は、牧師がすべて悪い…くらいに思っていた。)

教会に批判の霊や、支配の霊、宗教の霊など入りこんで、神様の平和が伝えられる場所が、違うものに支配されていないか…そこで、キリストのからだの共同体をなすものにも、祈り支える責任があるのかもしれない。

教団同士の決して埋まらない溝があるが、イエス様をあがめていくとき、支配の霊に支配されていないものたちから、イエス様にあって一つとなっていくのかもしれない。

ただ、このイエス様だけがあがめられるように、祈ります。

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2009年8月28日 (金)

“告白の力”

神様に対する“告白”とその力について思いました。

『なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。

人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。』新約聖書 ローマ人への手紙10:9.10

告白について考えてみた。

私たちの日常の中にも“告白”はある。

たとえば、好きになった子に自分の気持ちを“告白する”とか、結婚を望んでいる人にプロポーズして“告白する”などある。

“告白”は自分の気持ちをはっきりと相手に伝える。

そのことによって、曖昧だった関係が、成立したり、壊れたり、次がはっきりする。

イエス様を信じる信仰告白が、このローマ人の手紙の10章に書かれてある。

神様は人の心のうちをすべてご存じなので、たとえば、告白しても、しなくてもその心は知られている。

それでは、なぜ、告白が救いのスタートになるのか。

聖書にある多くがそうであるように、それは神様のためというより私たち人間の側のためではないかと思う。

信じている気持ち、その心があるなら、そのことがすでに神様から義とされているが、はっきりと表明することで、私たちは神様との新しい関係に入るのだと思う。

神様は告白を待たれているが、無理強いはしない。自然な告白を神様は喜ばれ、告白によってイエス様につなげられ、神様の子どもとなる。聖霊のしるしが与えられる。

信仰を告白する…これは、自分の行為のようであるが、気持ちを言い表しただけで、ただそれだけですばらしいことが起こるのだから、神様に主権がある。

私たちは良いものをもらっただけである。

第1ヨハネ1:9は私の生活適応の中心になる聖書のことばだ。

『もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。』第1ヨハネ1:9

たった一つの罪を認めて、告白するなら、すべての悪から神様はきよめてくれるとある。

私はこんな風に思っている。

私たちは全部罪や悪は無くならないが、ある一つの罪に気がつき、責められているようなことがあるならば、そのことを神様に申し上げることが良い。

そうすると、イエス様によって赦され、もう一度、神様とのふさわしい関係に入れられる。

別の言い方をすれば、その罪を認め、言い表すところにサタンが入りこむすきはなくなり、神様とのふさわしい関係の中で神様の領域に入る。

そこは、神様がご支配してくださる場所で、神様の良いものに満ちた場所に戻れる。

イエス様に赦され、神様とのふさわしい関係の中で平安の中に入れられる…と私は理解している。

何はともあれ、私たちの気持ちや思いを神様に“告白”することはすばらしいことである。

それは単なる“告白”にとどまらず、キリストの十字架が働かれる場所となり、聖霊様が豊かに働かれる場所となる。

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2009年8月27日 (木)

“イエス様の栄光をあおぐ”

自分で何かをすることより、イエス様に聞くことが大切なことと思います。

『そして彼らの目の前で、(イエスは)御姿が変わり、御顔は太陽のように輝き、御衣(みころも)は光のように白くなった。

しかも、モーセとエリヤが現れてイエスと話し合っているではないか。

すると、ペテロが口出ししてイエスに言った。

「先生。私たちがここにいることは、すばらしいことです。もし、およろしければ、私が、ここに三つの幕屋を造ります。あなたのために一つ、モーセのために一つ、エリヤのために一つ。」

彼がまだ話している間に、見よ、光輝く雲がその人々を包み、雲の中から、「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。彼の言うことを聞きなさい。」という声がした。』新約聖書 マタイの福音書17:2~5

イエス様は、ペテロとヤコブとヨハネを連れて、高い山に行かれた。

そこで、彼らは、光輝くイエス様とモーセとエリヤが話しているのを見た。

モーセは律法、エリヤは預言者…律法と預言は旧約聖書を表す。彼らがイエス様を証しているのだそうだ。

ペテロはこの素晴らしい光景を見て、口出しをした。

「私が、3つの幕屋を造ります。」と言った。

神様が天から「イエスはわたしの愛する子どもであり、彼を喜ぶ。彼に聞きなさい。」と言われた。

教会の働き、クリスチャンの働きは“何かをする”ことではない。

イエス様が十字架のあがないを成してくださったことにより、神様の救いの計画は成された。

私たちがすることは、“イエス様の十字架のみわざ”をほめたたえることであり、イエス様に聞いていくことである。

何かする世界は宗教の霊(人間の力)が働き、イエス様を見上げて聞いていく世界は啓示の神様によって聖霊様が働かれる。

私たちは、イエス様のために、ペテロのように「イエス様、あなたのために私はこれをしましょう。」と言ってはいないだろうか。

イエス様は人間の業を望んではおられない。

私たちが、イエス様の十字架と復活…神様が備えてくださったこの最大のプレゼントを喜ぶとき、神様の、イエス様の、聖霊様の御業が現される。

ただ、主だけがあがめられますように。

♯♯♯

私たちは、生まれたときから、自分のことは自分で考え、責任を持ってやりなさい…と教育されてきました。

ですから、正しい方(イエス様)に聞いて、従うということは、実はとても難しいことです。

私たちが、神様の望まれていない人間的な業ばかりしていることを赦してください。

すべての主導権を持っておられるあなたが成したいことをされるため、私を空っぽにしてくださり、ただあなたが私を通してしたいことをしてください。

そして、人の業ではなく、イエス様にのみ栄光が帰されますようにしてください。

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2009年8月23日 (日)

『人生を変えるで出会い』

人は誰と出会うかで、人生が変わります。

『それからイエスは、エリコにはいって、町をお通りになった。

ここにザアカイという人がいたが、彼は取税人のかしらで、金持ちであった。

彼は、イエス様がどんな方か見ようとしたが、背が低かったので、群衆のために見ることができなかった。

そこで、イエスを見るために、前方に走り出て、いちじく桑の木に登った。ちょうどイエスがそこを通り過ぎようとしておられたからである。

イエスは、ちょうどそこに来られて、上を見上げて彼に言われた。

「ザアカイ。急いで降りて来なさい。きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから。』新約聖書 ルカの福音書19:1~5

おはようございます。

神様はどこにでもおわれるお方です。家で、その場で、「神様…」と祈るなら、神様は聞いてくださっています。

今日はザアカイとイエス様のお話しをともに分かち合いたいと思います。

ザアカイは人から税金を取る仕事のかしらであった。彼は、だましとったお金で、莫大な富を築いていた。

だから、まわりの人から悪人と思われ、嫌われていた。

ザアカイはイエス様が町を通ると聞き、一目、今噂のイエス様を見たいといちじく桑の木に登った。

「ああ、かの有名なイエス様が見える!」と思ったとき、イエス様は立ち止まった。

そして、ザアカイがいる木の上を見上げた。

そして、なんと「ザアカイ。」と名前を呼んでくれた。

イエス様はザアカイを知っていた。ただ、名前だけではない。まわりの人から見たら、悪人で通るようなザアカイの心をご存知だった。

ザアカイは私腹を肥やしていたが、しあわせではなかった。きっと、自分にも嫌気がさし、孤独であったのだろう。

イエス様はそんなザアカイを知ってくださり、イエス様のほうから、「あなたの家に泊まる予定にしてあるのだよ。」と言ってくれた。

なんか信じがたいことである。

ザアカイはイエス様と出会った。イエス様を大喜びで家に招いた。イエス様と話しをし、交流した。

ザアカイの心の内側中で、大きな変化が起こった。

「イエス様、私はこれから財産の半分を貧しい人たちに分け与えます。私がこれまで、だまし取った物は、4倍にして返します。」

ザアカイはイエス様に何を言われた訳ではなかった。

こんな自分を温かく受け止めてくれるイエス様にあって、そのようにせずにはいられなかった。

イエス様は喜ばれた。

『きょう、救いがこの家に来ました。この人もアブラハムの子なのですから。

人の子(イエス)は、失われた人を捜して救うために来たのです。』ルカ19:9.10

とイエス様は言われた。

イエス様は人のように、表面しか見ないのではなく、心を見られる。

そして、何を求めているか知っておられ、その人の心にある苦しみを取り除いてくださる。

今日、イエス様はあなたの名前を個人的に呼ばれ、あなたを知っている、さあ交流しようと呼びかけてくださっている。

イエス様を感謝し、私の中に歓迎します。

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“否定的な縄目を解く”

否定的な言葉の縛りから解かれ、神様の良いことばが心に与えられますように。

『わたしの好む断食(だんじき)は、これではないか。

悪のきずなを解き、くびきのなわめをほどき、しいたげられた者たちを自由の身とし、すべてのくびきを砕くことではないか。…』旧約聖書 イザヤ書58:6

私たちは知らない間に、何かに縛られ不自由になっていたりする。

その中で、人から言われた言葉は大きい。

私は自分史にも書いたが、小さいときから母に、「お前が男の子だったら、どんなに良かったのに…。」と言われ続け、自分が女であることを呪い、苦しんだ長い時期がある。

人からの言葉は、他の人を慰め、元気づけもすれば、奈落の底においやってしまうこともできる。

一方、どんなに足りないものであっても、良い言葉かけによって、誇りをもって生きていける人もいる。

ある時、テレビで見たのだが、一人の少年は学習障害(何か特別に苦手で出来ないことがある)だった。算数が出来なくて、足し算が出来なかった。

同級生からはバカにされ、先生からは他の勉強はできているのに、何をふざけているのかと理解されなかった。

が、その少年のお父さんがすごかった。「お前は良いものをたくさん持っている。」といつも肯定的に少年に言った。

彼は成人になり、会社勤めをした。得意な分野を生かし、足し算は出来ないからと話し、理解を得た。

家ではいいお父さんである。小学生の息子にも足し算が出来ないことを言い、家族が受け入れている。

彼のお父さんが肯定的に彼を認め、口に出して言ったことが、彼を困難を越え、前向きに生きさせた。

もし、私たちに否定的に考えている何かがあったら、実は、どこかで植えつけられ、信じ込まされたものかもしれない。

神様が言われることが正しいのである。

私たちは神様の目から見たら、高価で尊い。イエス様のいのちの代わりになるほど価値がある者とされた。(イザヤ43:4)

私たちは神様に喜ばれる、良い神様の作品である。(創世記1:31,エペソ2:10)

私たちは生まれる前から、神様に一人一人特別に計画されたものである。(詩篇139:13~16)

神様の私たちへの計画はわざわいでなく、平安を与える計画であり、将来と希望を与える計画である。(エレミヤ29:11)

神様は私たちが本来の自分のありのままで、自分らしく、楽しみと喜びを持って生きることを切に願っておられる。

親にとって、子どもの喜びが親の喜びになり、子どもの笑顔が親のしあわせになるように、天のお父さんもそうである。

私たちが、不完全なまわりの人から植えつけられた縛りやなわめから解かれますように。

そして、私たちにいつも良いものを与えたいという神様のことばが私たちの心を占めて、喜べますよう祈ります。

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2009年8月21日 (金)

“自己像の回復1”

自己像と神様から見た自分が一致したとき、私は回復を得た者となるのだと思います。

『わたしの目には、あなたは高価で尊(たっと)い。

わたしはあなたを愛している。』旧約聖書 イザヤ書43:4

これまで、何度も話してきたことだが、私は自分のイメージ=自己像が、20歳の頃には、とても低く、自分自身を保てないほどになっていた。

イエス様に出会って、孤独や虚無感はすぐになくなったが、その自己像の低さは私を苦しめた。

たった何か一つの失敗や恥ずかしいことをしてしまうと、そこから芋づる式にドンドンと過去の愚かな自分が内側から思い出されて、打ちのめされる。

最後には、もうそんなマイナスの自分に耐えられなくなり、バッタリとベッドに倒れ込んでしまう…そんなにも、自己像がゆがめられていた。

私がいつも陥ってしまう“うつ症状”が癒されたときがあった。

それは24歳のときに、神様に反逆?して、勝手に自分で結婚相手を決め、付き合うのだが、当然の如くうまくいかず、ふられたときだった。

神様に祈り聞く者ではなく、神様を利用するかの者であったことに対して、五日間、ごはんがのどを通らず、「ごめんなさい、神様」としか言葉が出てこなかった。

ごはんを食べていない私は、五日目には心臓がドカドカして、ベッドに倒れ込んだ。

空っぽになった心に聖霊の愛のシャワーが注がれたとき、うつ症状がなくなっていた。

そして、それから何年かして、私は第1ヨハネ1:9のように、自分が嫌な思いをしたとき、相手に不満を抱いたとき、気持ちが沈んだとき…マイナスの感情が襲ったとき、たとえ私の罪は何かわからなくても、その気持ちを告白し、イエス様の赦しと癒しを受けとるようにした。

これは実に20年以上続けた。なぜ、続いたかというと、マイナスの感情や自分の罪を告白し、イエス様の十字架の赦しを受けとると、その傷が癒しおおわれ、神様の平安の中に入れたので、やめられなかった。

私は自分が“神様の目から見て高価で尊い”そんな者には到底思えなかった。

しかし、そう思えないときも、聖書のことば、神様のほうが正しいから、私は神様から見たら高価で尊い存在であった。

私の内側と、聖書のことばにはキャップがあった。

今思うと、サタンが、ダメージを受けている私の傷口に塩を塗るように、“お前は神から見て尊い、愛される存在のはずがない”と執拗にささやくのに、神様に自分の足りなさを認め告白して、その思いから逃れてきたのかもしれない。

聖書が正しいのである。

私たち一人一人は神様の目から見たら、高価で尊い存在である。

イエス様のいのちと代えるほどにとおとい存在なのである。

それを受け入れなくしている傷は一人一人違う。

そのお一人お一人のうちに、神様の思いが自分の思いとなるまでの癒しと回復がありますように。

次のブログに聖書から、そのいくつかの自己像のダメージに対して、聖書がどういっているか、見てみたい。

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2009年8月19日 (水)

“私の宝に私の心がある”

私の宝は何か考えました。

『自分の宝を地上にたくわえるのはやめなさい。そこでは虫とさびで、きず物になり、また盗人(ぬすびと)が穴をあけて盗みます。

自分の宝は、天にたくわえなさい。そこでは、虫もさびもつかず、盗人が穴をあけて盗むこともありません。

あなたの宝のあるところに、あなたの心もあるからです。』新約聖書 マタイの福音書6:19~21

いつも、私のブログを熱心に読んでくれる愛すべく友人が私に言った。

「私はめざせ、Sebaのお姉さんなのよ!」

「えっ?私の姉を知らないはずなのに…。」と私は思ったが、姉のことが書かれてあるブログ記事を読んで、そう思ってくれたらしい。

母が亡くなった後、家のかたずけに姉は本当に苦労したらしい。

物が無い時代で苦労している母は、あちこちに宝物のように物をたくさんためていた。

その上、趣味がコレクションだったのか、着物や食器や洋服など、たくさんの物があった。

姉は独身なので、その後、父を天国に送り、祖母が老人ホームに移ると、がぜん、家中の整理を始めた。

築30年以上の古い家は、私が里帰りするたびに、家具が一つずつなくなり、広くなっていった。

そして、姉はいつ自分が天国に行っても、あまり周りに迷惑がかからないようにしたいとのことだった。

私の友人も一人暮らしで、共感するものがあったらしい。

私も昔は漠然とシンプルな生活にあこがれていた。

お箸と茶碗があれば…みたいな生活に憧れていた。

私が大学中退し、東京に出てきたとき、三畳のアパートで暮らした。

友人が泊まりに来ると半畳の押し入れに足を突っ込んで寝てもらった。

物は何も無かった。あれから、30年、少しずつ広いアパートに引っ越していった。

物は最小限で豊かに生きていける。アダムとエバは着るものも食べるものも、何も持っていなくて、神様を賛美し、自然を愛し、動物たちとたわむれ、互いに愛しあった。

そこまでいかなくてもいいかもしれないが、人を豊かにするのは物ではない。

母は、数々の結婚式などの引き出物のタオルケットやシーツなど、使わすに大事にとっていた。

姉と一つ一つ広げていくと、新品同様なのに、あちこちにシミがついていて、ひどいものは捨てた。

まさに、地上にたくわえるものは、虫とさびで、きず物になる。どんな大事な物も天国に持っていくことが出来ない。

天国に持っていけるものは何だろうか。

それは、イエス様との信頼関係なのではないか。

天国はイエス様がいらっしゃるところである。イエス様を賛美するところである。

私の宝のあるところに心がある。

私の宝は何か。私の心を多く占めているものは何か。

この世の物に振り回されず、身軽にイエス様についていける自由人でありたいと思う、近頃である。

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2009年8月18日 (火)

“ゲッセマネでのイエス様の悲しみ”

イエス様の十字架の悲しみを思いました。

『それから、ペテロとゼベダイの子ふたりとをいっしょに連れて行かれたが、イエスは悲しみもだえ始められた。

そのとき、イエスは彼らに言われた。「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。ここを離れないで、わたしといっしょに目をさましていなさい。」

それから、イエスは少し進んで行って、ひれ伏して祈った。

「わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。

しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。」』新約聖書 マタイの福音書26:37~39

イエス様が人として地上に生まれてくれたのは、罪なき者として、私たちの罪を背負われるためだった。

イエス様はお生まれになったときから、十字架のために生きられた。

それは、私たちの罪を背負い、死刑のさばきを受け、のろいとなられるためだった。

十字架にかかられる前に、イエス様は弟子たちを連れられ、ゲッセマネの園で祈られた。

イエス様は「わたしは悲しみのあまりに死ぬほどです。」と弟子たちに言われた。

十字架の上での肉体的苦痛と父なる神様から引き離される精神的苦痛をイエス様は味わわれる。

このゲッセマネにおいて、すでにイエス様は霊的にその裁かれる状態の苦しみの中にいたのではないかと思った。

父なる神様から引き離される…父なる神様と一つとされているイエス様にとって、それは恐ろしいほどの孤独であり、苦痛である。

しかし、一方、ペテロたちは、そんなイエス様の死ぬほどの悲しみをよそに眠ってしまった。

私たちはイエス様の通された、全人類の罪を背負う悲しみや苦しみを知らない。

なぜなら、そのほんの少しであっても、私たちには耐えられないから、イエス様は隠しておられるのだと思う。

ペテロはイエス様の心中を知らなかったし、私も知らなかった。

イエス様は「自分の十字架を背負って、わたしについて来なさい。」と言われた。

その十字架は、イエス様のような耐えられない重荷ではない。

なぜなら、イエス様の十字架刑によって、最も苦しい私の罪のさばきはすでに終わり、私は赦されたものとしてあるからである。

イエス様の十字架が、私の想像しえない耐え難いものであるのを知るとき、私は自分に与えられた軽い十字架は喜んで背負えるのかもしれないと思った。

イエス様が私に与えてくれる十字架は負いやすく、また、私がわずかずつでも、イエス様の私への愛を教えてくれるものなのだと思った。

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2009年8月17日 (月)

“聖霊なる神様の内なる働き”

聖霊なる神様の働きについて、思いました。

『「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮かんだことのないもの。神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、みなそうである。

神はこれを、御霊(みたま)によって私たちに啓示されたのです。

御霊はすべてのことを探り、神の深みにまで及ばれるからです。

いったい、人の心のことは、その人のうちにある霊のほかに、だれが知っているでしょう。

同じように、神のみこころのことは、神の御霊のほかにはだれも知りません。』新約聖書 第1コリント人への手紙2:9~11

旧約時代は神様が顕著に働かれ、イエス様が人となられ、十字架にかかり、よみがえられたのち、聖霊様が私たちに与えられました。

天地創造のとき(もちろん、それ以前から)、神様とともにイエス様も聖霊様もおられました。

この3つが一人(三位一体=さんみいったい)なる神様なのですが、今は聖霊様の時代です。

イエス様の十字架の赦しを信じた人には、神様の子どもとして、しるしに聖霊様が与えられます。

神様はどこにでもおられますが、私たちは神様が住まわる神殿となり、神様なる聖霊様を私たちの内側に宿すのです。

全治全能なる、義であり、聖である神様なる霊を私たちの内側にいただく…考えてみれば、恐れおおいことです。

ただ、イエス様の十字架の赦しが神様の前に完全であるゆえ、そのようになります。

聖霊なる神様は、私たちの心奥深くまでお探りになれます。

聖霊なる神様が、私たちの内側から、神様のことを教えてくれます。

聖霊なる神様は人格をもっておられるので、悲しまれたり、喜ばれたりします。

聖霊様が悲しまれているときは、何かを私たちに教えてくれているときです。

また、聖霊様は、私たちに神様のほうを向くことができるよう、悲しみの中で悔い改めに導いてくれます。

第1コリントの1章には次のような聖書のことばがあります。

『この世の取るに足りない者や見下されている者を、神は選ばれました。…これは、神の御前でだれをも誇らせないためです。』第1コリント1:28.29

神様は人の力や能力によらず、神様の栄光が現されるため、あえて、愚かな者、弱い者、取るに足りない者、無に等しい者を選ばれたとあります。

私は自分を見ると、納得です。とりたて、頭が良い訳でもなく、文章がうまい訳でもなく、知識が豊富な訳でもありません。

けれど、毎日こうして楽しく神様を分かち合わせてもらうとき、聖霊様の助けが絶大だと思うのです。

私が昔から、こんなに神様を証したり、祈れたりしたかというと違います。

私が自分に固執する部分がかなりなくなったということが、私のようなものも通して、聖霊様が自由に働いてくれているかなぁと思います。

かつての私は自我、自己主張、自己顕示欲が強烈に強い者でした。

神様によって、だんだん自分を弱くされ、なんだか「自由に神様の好きにしてください。」となってから、私の中の聖霊様が顕著に働かれるようになった気がします。

聖霊様がお一人お一人の中で、自由に働きたいと願っているのを思います。

自分が握っている制御システムを聖霊様に渡すとき、聖霊様がお一人お一人の中で、神様なる自由な働きをされることを思わされました。

聖霊様なる働きが豊かになるよう、祈ります。

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2009年8月16日 (日)

“我が口に賛美を”

賛美について考えました。

『舌は火であり、不義の世界です。舌は私たちの器官の一つですが、からだ全体を汚し、人生の車輪を焼き、そしてゲヘナの火によって焼かれます。…

しかし、舌を制御することは、だれにもできません。それは少しもじっとしていない悪であり、死の毒に満ちています。

私たちは、舌をもって、主であり父である方をほめたたえ、同じ舌をもって、神にかたどって造られた人をのろいます。

賛美とのろいが同じ口から出るのです。私の兄弟たち。このようなことは、あってはなりません。』新約聖書 ヤコブの手紙3:6~12

私は神様を知らないときには、“賛美
”なるものを知らなかった。

私の心から出る言葉(実際、口に出して言っていたかは別として)は、自分をのろい、世の中をのろっていたのかもしれない。

大学時代から、よく大学ノートに、日記を書いていた。日記と言っても、その日の出来事というより、“私は何のため生きているのか”とか“死ぬ程孤独でしかたがない”とか…くる日もくる日もそんな心の内を書きつづっていた。

イエス様と喜びながら生きるようになっても、その日記はずっと取っていた。

いつか、神様を証する日が来たときに、役立つかもしれないと。

けれども、子どもが生まれたときに、ほとんど捨てた。

自分とこの世の中をのろっていたような日を、私の死んだ後、子どもが読んだら具合が悪くなるだろうと思った。

かつて、神様を“賛美”することの知らなかった私は神様を心から賛美する。

そう考えると神様を“賛美”する行為は、私自身にある本来のものでなく、心赦され、きよめられ、神様を信じる思いも与えられて、させてもらえる神様からのすばらしいプレゼントである。

いと小さく、弱い私であるが、天をあおぎ、両手を上げて、この天地を造られ、私たちを愛してくださる神様を賛美するとき、神様はその賛美の中に住まわってくださる。(詩篇22:3)

その神様のただ中に入れられて、神様の性質の中に包まれる。

いつくしみ、あわれみ、慰め、優しさ、希望、喜び、頼もしさ、きよさ、平安、寛大さ…偉大なる神様のご性質の中に入れられて、ただただ神様に感謝する。

それが、礼拝なのだと思う。

神様は汚れた心をイエス様の十字架によってきよめてくださり、神様を感じる世界に賛美の中で入れてくださる。

神様を賛美する…そのことは、地上を歩む私たちに神様が与えてくださった特権であり、祝福なのを思う。

悲しいとき、苦しいとき、そして嬉しいとき、楽しいとき、神様を思い、神様の中に入るため、賛美をしたいと思った。

賛美は神様への信頼の表れとなり、人々への信仰の拡大となり、主の慰めが解き放たれるときとなる。

『真夜中ごろ、パウロとシラスが神に祈りつつ賛美の歌を歌っていると、ほかの囚人たちも聞き入っていた。

ところが突然、大地震が起こって、獄舎の土台が揺れ動き、たちまちとびらが全部あいて、みなの鎖が解けてしまった。』使徒の働き16:25.26

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神様、私たちの心をきよめ、このくちびるがあなたを賛美し続けるようにしてください。

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2009年8月13日 (木)

“無力な姿となられたイエス様”

イエス様が無力な姿であったということは何を意味するか、考えました。

『彼(イエス・キリスト)には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない。

彼はさげずまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。

人が顔をそむけるほどさげずまれ、私たちも彼を尊ばなかった。

まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。

だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。

しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎(とが)のために砕かれた。

彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。』旧約聖書 イザヤ53:2~5

私が教会生活を始めた頃、誰でも参加できる聖書勉強会に出たことがある。

そこに集っていたある青年が言った。

「神様が本当にいるなら、奇跡を起こして見せてほしい。そうしたら、信じる。」と。

クリスチャンになりたての私は、「そうなんだ。」と思った。

4年程前に、友人が身内を天国に送った。病が癒されると信じてきたので、彼女は失意の中に落ちていった。

「神様がいるなら、奇跡を見せてほしい。」と言った。彼女は、神様に訴えるほどに、神様を信じている。ただ、あまりにも、失意の中に落ち込んで、そのときはそこから出られないかのようだった。

私は何も言えなかった。

たぶん、私たちは神様を信頼して歩んでいても、彼女と同じように、「神様、あなたがいらっしゃるなら、その力強い力のみ業を表してください!」と言いたくなるときがある。

求めてはダメということはないし、復活されたイエス様の力はすべてにまさって絶大である。

しかし、イエス様が人となられて地上を歩まれた33年間は、イザヤ53章の描写のごとく、何か弱々しさすら感じるイエス様であった。

もちろん、たくさんの奇跡のみ業もなされた。しかし、ご自身のためには、何一つ奇跡をされなかった。

イエス様は無力な赤ん坊として生まれた。自分では何一つできない赤ん坊。

ヘロデ王が新しい王の誕生を恐れ、ベツレヘム近辺の赤ん坊を殺させる。

そんな中で、み使いがヨセフに現れ、エジプトに一時逃げるように言う。マリアとヨセフに抱かれ、赤ちゃんイエス様は逃げた。

イエス様は十字架の上で、「お前が本当に神なら自分で自分を助けてみろ。」とののしられる。

アメリカ映画のクライマックスなら、なんか凄いことが起きて、どんでん返しになる。

が、イエス様はみ使いを呼ぶことなく、奇跡を起こすことなく、無力な人間のまま、十字架の上で死なれる。

私は最近、けがをした人を見ると、手をおいて癒しを祈りたくなる衝動にかられる。

神様の奇跡を見たら、人は神様を信じるだろうか。

神様は力の神である。しかし、現したいのはご自身の力ではない。

力と力がぶつかり、強い者が力を誇る世の中にあって、神様が望んでいるもの、それはキリストの愛が人を通して表されることだ。

イエス様はご自身のいのちに代えて、私を愛していることを示された。

奇跡や力よりも、弱さの中に表される優しさを神様は望まれているのだと思う。

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2009年8月 9日 (日)

“天国の喜び”

“天国”を待ち望む心を思いました。

『あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたし(イエス)を信じなさい。

わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。

もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。

わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。

わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。

わたしの行く道はあなたがたをもおらせるためです。』新約聖書 ヨハネの福音書14:1~4

おはようございます。

神様はすべてを造られ、すべての人の神様です。

教会の外にいる人たちにも、神様の計画を知らせたいと切に願っているのを思います。

この朝は、“天国”について、共に分かち合いたいと思います。

聖書では、“人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている”(ヘブル9:27)とあります。

イエス様の十字架を信じた人は、永遠のいのちが与えられ、天国に行きます。

天国とは、どういうところでしょうか。

天国へ行って、戻ってきた人はあまりいません。それでは、死んでみないとわからないのでしょうか。

天国はイエス様がおられるところで、神様の臨在に満ちているところだと思います。

そこでは、人は痛みも悲しみもなく、ただ栄光に変えられた心と体で、おおいなる神様を心から賛美し、喜びに満ちあふれているところだと思います。

昼も夜も神様を賛美し、喜び楽しんでいる場所です。

私は、天国がどんなところか、この地上でも、神様は教えてくれて、わずかであっても体験させてくれるのだと思います。

例えば、礼拝し、神様のご臨在の中に入るとき、それは天国の前味だと思います。

イエス様がいてくれるところで、共に心を合わせて祈ったり、神様の良いものを共有したりするとき、その喜びも天国の前味と思います。

そして、その神様が与えてくれる喜びに満たされるとき、このさらに強い神様の栄光と臨在の中に、喜びと平安の中に持続している状態が天国だと思うのです。

地上で天国は体験できるのです。そして、イエス様と近くにいて喜ぶ天国を切望していくに至るのだと思います。

パウロは言いました。

“私にとっては、生きることはキリスト、死ぬこともまた益です。…

私の願いは、世を去ってキリストとともにいることです。実はそのほうが、はるかにまさっています。”(ピリピ1:21.23)

パウロは、イエス様がいる天国を切望していました。

そして、その天国に行くまで、地上に残された苦しみの働きも全うするのみと思いました。

どうそ、聖書の約束の天国があなたのものとなりますように。

天国の前味を味わい、共に、先に約束されている天国の素晴らしさを楽しみに待ち望めますよう、祈ります。

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2009年8月 7日 (金)

“イエス様の十字架の完全性”

「完了した。」と言われたイエス様の十字架を思いました。

『イエスは、酸(す)いぶどう酒を受けられると、「完了した。」と言われた。そして、頭をたれて、霊をお渡しになった。』新約聖書 ヨハネの福音書19:30

イエス様は十字架にかけられ、死刑とされた。イエス様は一つも悪いことをしていないのに、はずかしめの刑罰を受け、死なれた。

それは、実に、正しい神様の前に、私が死刑になるべくところの罪を、イエス様が受けてくださったのだ。

本来、私があの十字架刑ではりつけにされ、はずかしめを受け、呪いを受け、罰を受け、苦しまなくてはならなかった。

しかし、イエス様を十字架刑にかけることは神様の計画であった。

そのことを通して、私たちが、罪をもったまま、弱さをもったままで赦されるためであった。

イエス様の十字架は、私たちに癒しと平安を与えられた。
(イザヤ53:5)

イエス様の十字架は、神様の前に完全ないけにえであり、一つも欠けがなく、私たちが何もつけ足すものはなかった。

「完了した。」

イエス様が十字架の上で、最後に言われたことばである。

完了した。

旧約聖書で、長い年月、預言者を通して語られたことが完了した。

神様か初めから計画していた、私たちを赦し、神様の子どもとする道が完了した。

この世のもろもろの支配するものに対して、その責任を全部引き受け、処理されたゆえに、もはや、私たちはこの世に勝ったものとされた。

そして、もう誰も、何もおびやかす者はいないとされ、平安が与えられるものとなった。(ヨハネ16:33)

イエス・キリストの十字架は、私の罪を赦し、サタンに勝利し、完全なものとして完結した。

このイエス様の赦しと癒しと平安と勝利の喜びを受けとれますよう、祈ります。

「イエス様、私の代わりに私の罪のため、十字架にかかってくださりありがとうございます。

本来、私が自分の内側にあるみにくさを見るとき、私こそが神様の前に罰を受ける存在です。

しかし、あなたが私を愛するゆえに、私のために代わりに死刑の刑罰を受けてくださり、ありがとうございます。

今、あなたの十字架による赦しを受けとります。

あなたの十字架は、完全であるゆえ、不完全でみじめな私をそのままで包みこみ、どんな深い弱さも完全に赦されますからありがとうございます。

イエス様の十字架を信じる私に、癒しをください。

イエス様の十字架により、きよめてください。

イエス様の十字架の勝利を宣言させてください。

サタンも、この世も、誰もが、このイエス様には勝てないですから、ありがとうございます。

イエス様の十字架で、私を慰めてください。

イエス様の十字架のゆえに、私は真っ黒にけがれていても、神様から見たら、真っ白に美しく見なされています。

イエス様の十字架の愛に私を包みこんでください。

イエス様の十字架の命をかけるほどに価値あるものと見なし、愛してくださっていることを教えてください。

私の弱さでなく、イエス様の十字架が大きく現されますように。

イエス様のお名前によって、祈ります。

アーメン。」

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2009年8月 6日 (木)

“十字架の赦しに包むイエス様”

イエス様の十字架の赦しの大きさを教えられた、分かち合いです。

『すると、その町にひとりの罪深い女がいて、イエスがパリサイ人の家で食卓に着いておられることを知り、香油のはいった石膏(せっこう)のつぼを持って来て、

泣きながら、イエスのうしろで御足のそばに立ち、涙で御足をぬらし始め、髪の毛でぬぐい、御足に口づけして、香油を塗った。

イエスを招いたパリサイ人は、これを見て、「この方がもし預言者なら、自分にさわっている女がだれで、どんな女であるか知っておられるはずだ。この女は罪深い者なのだから。」と心ひそかに思っていた。』新約聖書 ルカによる福音書7:37.38

パリサイ人は、罪深い女が、イエス様に近づいて涙で御足を洗い、口づけし、イエス様をもてなしたのを見て思った。

「イエス様ほどの人なら、この女がどんなに罪深いものか知っておられるだろう。」

私は、教会や牧師を裁いてきたが、手放し、裁くことをやめた。

そう思っていた。

自分の中で、受け入れているはずのことが、どうしても受け入れられない葛藤を経験した。そして、私は誰も裁いていないと言いつつ、無意識に人を量(はか)りにかけていたことを神様から教えられた。

“あなたが量るとおりに、あなたも量られる”(マタイ7:2)

私が量っていたはかりで、私自身が縛られていたのを教えられた。

そのことを示され、祈っていくと、そこにすべてを包む赦しの十字架が見えた。

私たちは、誰もが皆赦される存在である。

赦される出来事がないように思えても、私たちは罪の中にいる。

パリサイ人はイエス様にさとされた。

“多くの罪を赦された者が多く愛するようになるのだよ”と。

それは、多く悪いことをしたということではない。私たちが、いかにたくさん赦される者なのか、自分の中に見ることができる、そのような者が多く愛する者となる。

人の行為を客観的に量るものではなく、イエス様の前で泣きながら、「イエス様、赦してくれてありがとう。」と言えるものでありたいと思った。

悔い改めに導かれた日の祈りを書き留める。

「主よ、今、私の生かされているすべては、イエス様の十字架の赦しのもとにあることを知りました。

イエス様に赦され続けている者として、そのあわれみを感謝して、ただ赦しの神様を伝える者としてください。」

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2009年8月 5日 (水)

“異言”

霊的な賜物について書きました。

『「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮かんだことのないもの。神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、みなそうである。」

神はこれを、御霊によって私たちに啓示されたのです。

御霊はすべてのことを探り、神の深みにまで及ばれるからです。』新約聖書 第1コリント2:9.10

神様はバラエティーに富んでおられるお方である。

その神様が一人一人に特別な働きや賜物(神様からの能力)を与えられた。

だから、私は人の信仰が自分と違うのも当然と思うし、人の神様から与えられた信仰は否定したくない。

私はご存じのように、福音派から聖霊派と言われる教団を渡り歩いた。

だから、教団の違いで聖書のとらえ方が違うのも経験してきた。

聖霊を強調すると、福音派にある人の中には、あまりいい思いをしない人もいるのではないかと思ってきた。

事実、神様の霊もすべて神様からただ与えられて、自分が自慢するものではないが、異言(いげん)を与えられた人で、与えられない人を見下す人がいるのを私もみてきた。

たから、私のブログの前半(たぶん5月前)では、聖霊なる神様はあまり登場していない。

私の中では、三位一体(神、イエス、聖霊が3つで一つ)なる神であるが、教団のそのような背景に気を使ってきた。

聖霊なる神様を全面に出すと、せっかくブログの記事を分かちあってくださっている方の中に、引いてしまう人もいるのではないかと。

けれど、聖書では、イエス様が十字架にかかられ、よみがえられ、今聖霊が働かれている時代なのである。

そして、5月から私の中で、聖霊様の働きがとても顕著になった。

そんな訳で、私も聖霊なる神様の記事をいつか書きたいと思っていた。

私は福音派の教会に属しているとき、異言の話しをある聖会で聞いた。

そして、ある日、会社帰りの一人道、歩きながら祈った。

「その聖会で聞いた異言とやらがあるなら、私にもください。」

そして、そのとき与えられた。

けれども、そんなに異言で祈ったりすることもなく、それがどんな良いものかも知らずにきた。

私にとっては、イエス様を信じていれば、同じ神様を信じる人たちと思っている。私にとっては、異言が与えられていても、与えられていなくても関係ない。

大切なのは、私たちの赦しも賜物も与えられているのも、神様のあわれみによることで、また、人へのために流れていくために与えられたものだと思っている。

大切なことは与えられた賜物を人のために使う、与えられた賜物をもって人に仕えるということだと思う。

賜物自慢をする人がいるなら、その人はすでに、出どころと何のために与えられているか、忘れてしまった人だと思う。

私が異言を与えられて祈っている話しをここまで書いたが、いちどは皆さんに伝えたいと思ったので、記事にした。聖霊なる神様となるともっと深い話しと思うが入り口として書いた。

大切なのは、信仰と希望と愛である。もっとも大切なことは愛である。(第1コリント13:13)

注釈:異言(いげん)とは、聖書に出てくる賜物(神様からのプレゼント)。福音派は、もう今は聖書があるから異言はないとする。聖霊派は、多くの人が異言で祈る。

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2009年8月 4日 (火)

“神の国の実現”

神の国の実現について、思いました。

『しかし、わたし(イエス)が神の御霊によって悪霊どもを追い出しているのなら、もう神の国はあなたがたのところに来ているのです。』新約聖書 マタイの福音書12:28

まだイエス様に出会っていない学生のころ、いつも孤独や虚無感に包まれながら思った。

しあわせは、外の環境から来るのではなく、心の中にあるものから来るのだろう。

だから、私は心の中が穏やかになり、喜ぶものになりたい…と。

今から2週間程前、朝方、起きるか起きないかの無意識の中で、神様が私に語ってくれた。

“神の国の実現”

ただその単語なのだが、そのときはそこに含まれている凄さを感じて、私は驚いた。そしてまた、語られた。

“神の国の到来”

“キリストの到来で神の国が実現した”

“キリストの愛が現された”

私は急いで起きて、紙にそのことをメモした。それがどんなに凄いか伝わったが、残念ながら、今はなんだかただの単語になってしまった。

けれど、意味あることばとして大切にしている。

友人と会ったとき、彼女が言った。「しあわせそうな人と、とても苦境にたたされてしんどそうな人といろいろいる。不公平感がある。」

育ちも環境も、体力も精神力も与えられてあるものは皆違う。

そこを突き詰めていくと、神様はえこひいきされないといいつつ、不平等のようかもしれない。

けれども、神様はすべての人に等しく、イエス様の十字架の赦しと愛を提供している。

神の国の実現はもう私たちに等しく与えられている。

それは、パウロのように「どんな境遇にあっても満ち足りる」(ピリピ4:11)体験である。

イエス様の愛があれば、どんな境遇にあっても、感謝と喜びが溢れる約束を神様は与えてくださった。

まだ、私たちの現実がそのようでないとしても、それは、確実に私たちに与えられた約束である。

“キリストの到来で神の国が実現した”

私たち一人一人の中に、キリストの愛が現され、私たちの心の中に神の国が実現されますよう、祈ります。

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2009年8月 1日 (土)

“聖書の登場人物の見方”

ヨエルさんのブログから、カインの分かち合いをさせてもらい、そこから考えたことです。

『ある時期になって、カインは、地の作物から主へのささげ物を持って来た。

また、アベルは彼の羊の初子の中から、それも最良のものを、それも自分自身で、持って来た。主は、アベルとそのささげ物とに目を留められた。

だが、カインとそのささげ物には目を留められなかった。それで、カインはひどく怒り、顔を伏せた。』旧約聖書 創世記4:4.5

神様からささげ物を喜ばれた弟アベル、そして受け入れられなかった兄カイン。

黙っていても、「私たちはカインのように受け入れられないささげ物でなく、アベルのように、最良のものをささげ、神様に喜ばれる者になりましょう。」と、誰かが語る声が聞こえてくるような気がする。

聖書には、人の失敗や、その限りない弱さが描写されている。

その一方で、素晴らしい信仰の人の話しが出てくる。

とかく、私たちは、その素晴らしい人を見て、見本にしなければと無意識に思う。そのように促され、勧められる。

それでは、どうして聖書には、どうしようもない弱い人々のことが赤裸々に語られているのか。

それは、神様は私たちがどうしようもなく弱い存在であるのを良くご存じだからだと思う。

モーセの十戒や、イエス様が言われた山上の垂訓と言われる完璧な姿に自分を照らし合わせたら、私たちは0点で、なに一つとして成しえない者なのである。

だから、イエス様の赦しが必要なのだ。

イエス様は言われた。「わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招いて、悔い改めさせるために来たのです。」(ルカ5:32)

イエス様は自分が正しいと思っている人を呼びよせるために来たのではないと言っている。

聖書を読むときに、素晴らしい信仰の人を見たら、「そのようでない者を赦し、導いてください。」と祈ればいい。

限りなく弱い人を見て、「これこそ、私自身の姿です。」と思えるなら、そんな私をイエス様の前で赦してもらえばいい。

聖書の呼びかけは「みんな、いい子になろうよ。」と呼びかけていない。

弱く、足りなく、どうしようもない私たちが、イエス様によって赦され、受け入れられ、包まれ、あわれまれ、きよめられ、癒されるためにイエス様は来られた。

イエス様の栄光は、私たちの弱さに働いてくださるところにある。

私たちは、イエス様の働きが私の内に豊になされるため、弱さを誇り、主をあがめるだけである。

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2009年7月30日 (木)

“あらゆる結び目”

祈りによって固く結び合わされる大切さを神様から教えられました。

『キリストによって、からだ全体は、一つ一つの部分がその力量にふさわしく働く力により、また、備えられたあらゆる結び目によって、しっかりと組み合わされ、結び合わされ、成長して、愛のうちに建てられるのです。』新約聖書 エペソ人への手紙4:16

昨日、コメントで、“長距離ランナーのように無理せず”との言葉をいただき、思い出した。

過去の栄光なのだけど、中学のとき、6クラスある学年の女子で、私は3年間、マラソンで優勝した。

個人競技で自分の力を発揮し、賞を貰えるのは嬉しいものである。

なぜ、体力とスピードがあったのか、よくわからない。が、今はその片鱗すらない。

中学の部活は、バスケットボール部だった。みんなで支え合い、勝ち抜く喜びを経験した。

信仰生活において、私は長い間、マラソンランナーのように、個人競技をしてきたのかもしれない。

私の中で、“鼻の息するものに頼るな”がモットーだった。人に期待して、失望すると祈った。

「神様、ごめんなさい。求めるべきお方はあなただけでした。人に求めたので失望しました。赦してください。」と祈ってきた。ただ、神様だけに期待し、神様だけに求めてきた。

今日、祈りの中で、“あらゆる結び目”ということばを思い出した。

神様は、私たちが神様を信頼して歩まれるのを望んでおられるが、それは決して一人寂しく来なさいと言っていない。

私たちには特別に、人と心合わせて祈ることが与えられている。

祈りはすごい。私が相手のすべてを理解していなくとも、相手の気持ちになって、共に与えてくださる神様に求めていける。

こんなことができるのは祈りしかない。

人と人であれば、限られた中で理解するところまでである。

それを、良いものを与えてくださる神様に一緒にお願いできるのだから、私が相手のすべてを理解していなくとも、一緒に…の気持ちがあれば、いつでも、どこでもできる。

今まで、私の信仰生活は、神様と私、一対一だった。

それは、私が神様をしっかり見い出し、信頼するために必要だった。

これからは、個人競技から、団体競技に移された、そんな気分でいる。

誰かが、神様に渇いていたら、それは私の渇きでもある。

誰かが、苦しんでいたら、私の苦しみでもある。

誰かが傷んでいたら、私の痛みでもある。

神様は、イエス様にあって、祈りと愛の結び目でしっかり結び合わされ、みんなで神様をあがめることを望んでおられる。

誰かが進めずにいたら、自分も戻って一緒に手をつなぎ、一緒に立ち止まり、一緒に泣けばいい。

イエス様にあって、キリストのからだ全体が助け合い、支え合い、結び合い、ゆっくり成長していくのが良い。

誰かが一人飛び抜けて走り出すのは、何の意味もない。

神様がキリストのからだで現したいのは、この世にない、愛である。

私たちは前に前進するのではなく、固く結び合うことなのである。

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2009年7月28日 (火)

“キリストのからだ・教会”

教会について、思いめぐらしました。

『むしろ、愛をもって真理を語り、あらゆる点において成長し、かしらなるキリストに達することができるためなのです。

キリストによって、からだ全体は、一つ一つの部分がその力量にふさわしく働く力により、また、備えられたあらゆる結び目によって、しっかりと組み合わされ、成長して、愛のうちに建てられるのです。』新約聖書 エペソ人への手紙4:15.16

長年、教会の中で悩んできた私にとって、“教会ってなんだろう?”と言う疑問が、良くわき上がりました。

もちろん、悩みが解決していないさ中、その答えは出ませんでした。

聖書を通して、私が描く教会像はエペソ人の手紙にあるような教会です。

イエス様の権能が豊かに現され、御霊に、イエス様に一つとなり、それぞれが、キリストのからだの成長のために与えられた働きをなすところ。そして、互いがイエス様からいただいた愛によって支えあい、祈りあい、愛しあうところ。

そこはこの世の中の価値観が入り込ます、弱さを持つ人が尊ばれ、祝福される。(第1コリント12:23)

そこでは、イエス様の前に、みんな赦されたものとして、互いの弱さを言い表し、そしてそのことが赦されていることを誰もが共に喜べる。

ただ、誇りとなるお方はイエス様だけで、イエス様だけがあがめられるところ。

私の中では、「これ、なんか変じゃないの?」と目に見える教会に思いつつ、聖書にある教会を思い描くようになりました。

人が不完全なように、教会も完全ではありません。

あら探しするのではなく、その足りないところを、神様とその教会を信じて祈ることこそ、そのからだの一部であるものに、託されているのだと最近思わされるようになりました。

今日、コメントで、matsuさんが、「ここが私の教会」と言ってくれました。

7月17日のコメントで、ettuさんが、「このブログが私の望む教会の一端を備えていると思う」と言ってくれました。

私もここがまた、一つの教会と思えば、3人同じように思う人がいて、教会成立かなぁなんて思いました。

ブログに訪問されている方々には、いろんな方がいて、すでに、しっかりご自身の教会に通われている方もたくさんいると思います。

イエス様のもとに集められて、良いものを共有できていることが幸いです。

ただ、もし今は教会を持たず、寂しい思いをしている方にとって、ここもまた、教会のような、みことばと祈り、交わりのある場所として、その一部を備えている場所として、喜んで安心してきてくだされば、嬉しく思います。

イエス様は、私に20年前に言われました。「あなたの小さな一人分の弁当(5つのパンと2匹の魚)をわたしに差し出しなさい。わたしが奇跡をなして、増やすから。」と。

私自身は、いつも一人分の食べ物しか持たず、そのままでは誰にも分けてあげられない者です。

けれども、増やして人々を祝福するのはイエス様だと言われたので、私自身、多くの食べ物を持っていないことにも、安心しています。

今日、コメントをいただき、そこに応答して、素直な今の気持ちを書かせてもらいました。

教会を必要とされる方にとって、ここが神様と、人とともに交わる慰めの場所となりますよう、祈ります。

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2009年7月27日 (月)

“宗教の霊から解かれる”

昨日、緑のオリーブさんとの、“宗教の霊”とはどういうものかを分かち合いをしました。もう一度、改めて皆さんとも“宗教の霊から解かれるとは”について分かち合いたいと思いました。

聖書のことばは、緑のオリーブさんが思いついたものを載せさせてもらいました。新共同訳だそうです。

『主を喜び祝うことこそ、あなたたちの力の源である。』旧約聖書 ネヘミヤ8:10

『主を賛美するために民は創造された。』旧約聖書 詩篇102:18

よく「キリスト教は宗教ではない」ということを聞く。

その深い真意は私にはわからないが、もし“宗教”というものが、人が何かを信じて、そこに向かう行為と定義するなら、キリスト教は宗教ではないのかもしれない。

キリスト教は、人が神に向かうというより、啓示の神に、私たちが従う…のだから。

前のブログに“宗教の霊”に犯されている日本の教会の話しを書いた。

私たちが、神様のため…と言って一生懸命に何かをしたとしたら、そこに“宗教の霊”が働く。

イエス様にある世界は、人が神様に向かって努力する世界ではない。

まず、イエス様が十字架の赦しを提供しておられ、それを信じるだけで私たちは赦され、神様の子どもになれる。

ここに“何かをする”ということは一切無いのである。

ガラテヤ人の手紙には“信じるだけで義とされる”のであって、何かの行いを付け足すのは、神様がくださった良い知らせではないと強調する。

救われ、神様の子どもとなった私たちは次に何をすれば良いのか。

『御霊で始まったあなたがたが、いま肉によって完成されるというのですか』ガラテヤ3:3

信じることで始まったことが、行いによって進むのかとパウロは言う。

救いのスタートも、その成長とするところも、等しくただ与えられたものを受けていくことで進むのであって、私たちの行いによらないと言う。

イエス様の世界は、知る世界、そして信じて受け取っていく世界なのだと思う。

もう、すべては全能の神様が用意しておられる。

「私たちは神様のわざを“行う”ために、“何をするべき”か」と弟子がイエス様に聞いた。

イエス様は「神様が遣わした者(イエス)を“信じること”」とはっきり言われた。(ヨハネ6:28.29)

イエス様を信頼するために、イエス様を知る必要がある。

私たちに求められているのは“何かをすること”ではなく、イエス様と親密な信頼関係を築き、そのイエス様を信じることだけが求られている。

イエス様が愛なる方で、何においても信頼に足る方であることを受け取っていくとき、そのイエス様に自分をささげて、従いたいと願いが湧いてくる。

イエス様とのうるわしき関係の中で、イエス様への応答の中で、イエス様は、信頼した者に成すべきことを教えてくださる。

聖書にあることをする、良いこと、神様の喜びそうなことをする、…その熱心はやがて自分を行いの中で縛っていく。私たちは、良いことを自分の力ではできないものだから。

イエス様とのうるわしい関係の中で、信じて応答することが、“宗教の霊”から解かれていく世界なのだと思う。

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2009年7月26日 (日)

『水からぶどう酒への奇跡』

水からぶどう酒に変えたイエス様の奇跡からの分かち合いです。

『イエスは彼らに言われた。「水がめに水を満たしなさい。」彼らは水がめを縁までいっぱいにした。

イエスは彼らに言われた。「さあ、今くみなさい。そして宴会の世話役のところに持って行きなさい。」彼らは持って行った。

宴会の世話役はぶどう酒になったその水を味わってみた。』新約聖書 ヨハネの福音書2:7~9

おはようございます。

今日も教会の外にも神様が熱い思いをもっておられることを思いつつ、聖書から分かち合いたいと思います。

イエス様は結婚式で最初の奇跡をされたとあります。

結婚式はどんな国でも、いつの時代でも喜びに満ちたものです。

花婿と花嫁が結婚して、新しいスタートとなる場所です。

人と人の出会いが、愛の中で新しい形を迎えます。

私たちは愛される存在として、神様は造られました。

家庭の中でたくさんの愛情を受けた子どもは、その心の中に、自分と人を愛する力を蓄えるのでしょう。

私はそんなに愛情に恵まれた家庭で育たず、一時、心は空っぽでしたが、神様との関係の中、たくさんの愛情をいただきました。

私はこのイエス様の水をぶどう酒に変えた奇跡を読むと思います。自分は水のように無機質な者だったけど、ぶどう酒のように喜びを与える者に変えられたのだなぁと。

聖書ではぶどう酒には、イエス様が十字架で流された血を象徴しています。

イエス様は私たちの罪のため、代わりに裁かれ、いのちを捨てられました。イエス様の流された血によって私たちに新しいいのちが与えられました。

それは、新しくイエス様とつながるいのちです。

聖書の神様は、関係を大切にされます。

神様との関係回復こそが、人間回復につながることを語っています。

聖書は単なる良い教えとか、悟りとか、規則ではありません。

人は関係の中で、喜びを得て、応答していく者であることを語っています。

まさに、それは結婚のようなすばらしい関係であり、うるわしい関係なのです。

お一人お一人に絶え間なく向けられているイエス様の愛が、その心にふれられて、水のような状態から、人を楽しませるぶどう酒へと変えられていきますよう、お祈りします。

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“枠にはまらず、自分を見い出す”

イエス様につながり、何をしたいか…それがその人に与えられているものだと思います。

『しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。マリヤはその良いほうを選んだのです。彼女からそれを取り上げてはいけません。』新約聖書 ルカによる福音書10:42

何年か前、ある聖会で、「日本の教会は宗教の霊に縛られている。」とメッセンジャーが言ったらしい。

私は、聖会に行った人から聞いたのだが、「宗教の霊」と言われただけで、何を意味するか、すぐにわかった。

それは、“何かをする”ことに捕らわれているということだと思う。

日本人は真面目で、勤勉だ。神様のために…と言って何かを懸命にするのはわかりやすい。

私もクリスチャンになったばかりのときは、教会の奉仕が“いのち”のように楽しかった。

そして、教会奉仕の中で、育ててもらったところもあるかもしれない。

教会の奉仕が悪い訳ではない。けれども、それは一番に大事なものではないと、マルタとマリヤの話しで思う。

ある時、ヨハネの福音書のこの箇所から教えられたことがある。

『あなたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。

あなたがたが多くの実を結び、わたしの弟子となることによって、わたしの父はは栄光をお受けになるのです。』ヨハネの福音書15:7.8

イエス様との関係の中で、湧いてくる願いは皆違い、そのことを求めることによって、多くの実を結ぶようになるとある。

すべての人が、神様から働きと能力を与えられているが、皆違っている。

それを画一化した奉仕に当てはめてしまうと、どこかに苦痛が出てくる。

例えば、クリスチャンは「皆、伝道するべきだ。」と言われても、そのことが得意な人も、楽しい人もいるかもしれないし、そうでない人もいる。

神様は、キリストのからだにバラエティーに個性を与え、働きや能力を与えておられる。

イエス様にあっては、その与えられたところにあって、限りなく拡がっていくのだと思う。

はまらない枠にはめられて、自分にないものを見て、自信をなくすことをイエス様は望まれていない。

自分だけに与えられたものを見い出し、それをもって主に仕えるとき、それはその人の神様にある生き甲斐となり、神様と働きをともに喜べるものとなる。

イエス様につながって、何を求めているか、自分を見つめてみることも大切と思う。

イエス様につながって、今、私は何を願い求めているだろうか…。

イエス様につながって、イエス様の愛を知るものとなり、イエス様の愛を伝えるものとなりたい…が、今私が願い求めていることである。

###

天のお父さん、あなたが一人一人に宝のような働きと能力を与えられていることをありがとうございます。

どうそ、一人一人がそれを自分の中に見い出し、仕えていく喜びの中にいれてください。

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2009年7月25日 (土)

“皆、一つに集められるように”

教会の外にいるキリストのからだの方々を思いました。

『ああ、エルサレム、エルサレム。預言者たちを殺し、自分に遣わされた人たちを石で打つ者。

わたし(イエス)は、めんどりがひなを翼の下に集めるように、あなたの子らを幾たび集めようとしたことか。

それなのに、あなたがたはそれを好まなかった。』新約聖書 マタイの福音書23:37

イエス様は、神様の選びの民、イスラエル人、ユダヤ人をイエス様の元に集めたかったのに、それを拒まれたことを悲しまれた。

パウロにも、同胞であるユダヤ人にこそ、イエス様を信じて欲しかったのに、そのようにならなかった。パウロは言った。

『私には大きな悲しみがあり、私の心には絶えず痛みがあります。

もしできることなら、私の同胞、肉による同国人のために、この私がキリストから引き離されて、のろわれた者となることさえ、願いたいのです。』ローマ人への手紙9:2.3

パウロにとって、イエス様は自分のいのちそのものだった。そのイエス様から引き離されて、のろわれた者となってもいいから、ユダヤ人がイエス様を信じてほしいと激しく願った。パウロのユダヤ人に対する悲しみがどんな深いものであったか、想像がつかない。

私も今日、お祈りしていて、イエス様を信じる人たちが一つとされず、散らばされていることのイエス様の悲しみを、少しだけ、教えられた。

イエス様は悲しまれている。

私たちはイエス様のもとに一つとされ、喜び楽しむはずだったのに、そうではない。

誰が悪いということでなく、そのようになってしまった現状がある。

そして、特にそのことで、目に見える教会の外で、一人、一人バラバラにされてしまったからだを悲しんでいると思った。

神様が選ばれ、イエス様のいのちの代価で買い取られた価値ある一人一人が、神様には尊く、かけがえのない存在である。一人として、欠けることのできない存在である。

皆、イエス様のもとに集まり、からだのそれぞれの部分を担い、支えあい、助け合い、祈りあい、愛しあっていくはずのからだがバラバラに散っているのである。

イエス様がもう一度、イエス様のお名前のもとに集め、そのキリストのからだの回復を願っておられる。

今日、イエス様の悲しみのわずかを共有し、キリストのからだの回復のために祈った。

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天のお父さん、あなたが選ばれ、イエス様のいのちであがなってくださった尊いお一人お一人をありがとうございます。

いのちを豊かに得るために、神様の愛をキリストのからだの中で表すために召してくださったお一人お一人です。

教会も弱さがありますが、その弱さをイエス様の愛でおおってください。

外にいる人たちが、あなたがいつも熱い思いをもって、集めたいと願っているのを知ることができますように。

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2009年7月24日 (金)

“安心して帰りなさい”

私や教会は、イエス様の力を求めて来る人に、その力が現れるように助けているだろうかと思いました。

『ところで、12年の間長血(ながち)をわずらっている女がいた。…彼女は、イエスのことを耳にして、群衆の中に紛れ込み、うしろから、イエスの着物にさわった。「お着物にさわることでもできれば、きっと直る。」と考えていたからである。

すると、すぐに、血の源がかれて、ひどい痛みが直ったことを、からだが感じた。

イエスも、すぐに、自分のうちから力が外に出て行ったことに気づいて、群衆の中を振り向いて、「だれがわたしの着物にさわったのですか。」と言われた。』新約聖書 マルコの福音書5:25~34

イエス様には何でもできる。イエス様によって、癒しが行われ、悪霊が追い出され、死人がよみがえり、嵐が静まる。

それなのに、私たちはそのイエス様の力強い御業を目の当たりに見ることが少ない。

教会は、イエス様の力が現れ、いっさいのものを、いっさいのものによって満たす方の満ちておられるところとある。(エペソ1:23)

昨日コメントをくださった方のお話しを聞いて、聖書のこの長血をわずらう女の人の話しが思い浮かんだ。

教会に、病んでいる人、悩んでいる人、この世の中ではどうにもならなくなった人が訪問したとする。

教会ができることは何か。「神様、この方の悩みと苦しみから解放してください。」ととりなし祈り、神様に求めることではないか。

12年間、長血をわずらい、多くの医者からひどいめに会わされ、自分の持ち物をみな使い果たしてしまったが、何のかいもなく、かえって悪くなる一方の女の人がいた。

彼女は世の中ではどうにもならない人だった。

が、彼女が信仰でイエス様にさわり、病は癒された。

イエス様は「だれがわたしの着物にさわったのですか。」と聞くと、弟子たちは「この大勢の中で、イエス様に皆押し迫っているのに、だれもかれもありませんよ。」と言った。

が、イエス様は“人を知ろうとして、見回した。”とある。

イエス様は個人的に人を知り、関係をもち、交流したいと願っている。

もしかしたら、イエス様と求める人の間を妨げているのは、目に見えることで状況を判断しているこの弟子たちのような、私たち教会の人間ではないのかと思った。

イエス様はすべてに権能をもって、求める人にダイナミックに働き、人を生かしたいと願っておられる。イエス様の人を思う愛のゆえであり、十字架の死と復活の力による。

そのイエス様の人をいとおしむ思いがときに癒しとなり、ときに奇跡も生む。

私はイエス様を信じないで、現状を見ていないか。

教会は世の中でお手上げのような人こそ受け入れ、その人に神様の栄光が表されることを切に求めているか。

もし、私や教会が、困ってイエス様を頼りに来た人たちに、「あなたは、私たちの手に終えません。帰ってください。」と言うとしたら、イエス様に出会わせるじゃまをしているだけなのである。

イエス様は長血が癒された女の人にこう言われた。

「娘よ。あなたの信仰があなたを直したのです。安心して帰りなさい。病気にかからず、すこやかでいなさい。」

イエス様は今日も教会に足を運ぶ人に同じように優しく語りかけてくださる。

私たちはただこのイエス様が現れる助けをする者なのである。

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2009年7月21日 (火)

“全てを投げうって得る宝”

神の国とは、畑に隠された宝とあります。どんなものでしょうか。

『天の御国は、畑に隠された宝のようなものです。人はその宝を見つけると、それを隠しておいて、大喜びで持ち帰り、持ち物を全部売り払ってその畑を買います。

また、天の御国は、良い真珠を捜している商人のようなものです。

すばらしい値うちの真珠を一つ見つけた者は、行って持ち物を全部売り払ってそれを買います。』新約聖書 マタイの福音書13:44~46

イエス様は神様の国の本質を伝えるのに、いろんな例えを使って説明した。

その一つに、この例えがある。

私たちにとって、最も大切なものは何か。人が、それを手に入れるため、どんな犠牲を払っても惜しくないもの…そんなものはあるのだろうか。

イエス様は、神の国というのは、そのように値のあるものだと説明した。

私たちは日常の中で、無意識に優先順位をつけて生活しているかもしれない。

大切なもの、命、健康、家族、恋人、仕事、お金、地位名誉、楽しむこと…人が大切にするものは千差万別である。

それらは、すべてを投げうっても、どんな犠牲を払っても惜しくないものだろうか。

私はすべてにまさって、命と同じほどに大切なものはイエス様だと思っている。

なんだか模範解答を言っているような感じだが、いつもそう思う。なぜなら、イエス様に出会っていなかったら、今の私の生活の全てはなかったから。

30年程前の私のイエス様のいない生活は悲惨だった。何のために生き