聖書エッセイ

2009年11月22日 (日)

“もし一粒の麦死なずば…”

死んで実を結ぶ一粒の麦になるとはどういうことか、考えました。

『一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。』新約聖書 ヨハネの福音書12:24

おはようございます。

イエス様はご自身のいのちを犠牲にして、私たちを愛してくれました。

三浦綾子さんが書いた“塩狩峠”で、主人公は止まらなくなった列車を止めるため、自分の命を犠牲にして人々を助けました。

私たちにそのような自己犠牲が出来るかと言ったら、できません。

聖書では、「私たちは死ななければ、そのままで、もし死ぬなら、そこから豊かな実を結ぶ。」と言っています。

私たちが人のために自分に死ぬ…それは不可能です。

それは、私たちが自分が一番大切で大事だからでしょう。

私たちは自分の命はともかく、自分には損をしても人のために何かする…それもまた、ほとんど不可能に近いような話しです。

それでは、私たちはどうしたら、一粒の死ぬ麦になれるのでしょうか。

私は、親から理解されていないという感覚の中で育てられ、自己否定そのものでした。

そんな私は「自分はここにいるんだ。」と叫ばんばかり、自分を人々に表したいと思いました。

今、神様から赦され、受け入れられている安心感の中で、自分を人に表す必要性も知ってもらう必要性も、理解してもらいたい願望も本当に少なくなっています。

もうイエス様に理解され、知られ、受け入れられているから、安心なのです。

私たちは、自分の力で人のために犠牲を払い、生きるのは難しいです。

けれども、どっぷりとすべてを受け入れられているとき、自分ではなく、誰かのために祈り、誰かのために生きたくなるのかもしれません。

人はそのように造られているような気がします。

自分の存在が気にかからなくなるほどに、イエス様から赦され、受け入れられ、理解され、知られ、愛され、心配され、思われますように。

自分をたくさん持っていると、それを守ろうとして苦しみます。

傷を多くもっていると、傷を守るため、その傷とともに、不自由なものを手放しにくくなります。

私たちは自分で自分を小さくできませんが、イエス様に愛されると、自分をむなしくし、ただイエス様だけが私たちの中で大きくなります。

たくさん愛され、赦され、受け入れられ、癒され、私たちが見えないごとくになって、イエス様だけが私たちの中で輝くことが、私たちに変わらない自由と喜びを与えてくれます。

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2009年11月21日 (土)

“何度も赦すイエス様”

イエス様の十字架の赦しの継続性を思いました。

『わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。

わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。』新約聖書 ヨハネの福音書15:5

イエス様は、ご自身をぶどうの木にたとえたが、私たちはその木につながっている枝である。

その先にぶどうの実をつけるのだが、ぶどうの実は木から栄養をもらっている。

木から離れてしまったら、その実の成長は止まってしまう。

でも、大丈夫。私たちが必死になってそのイエス様の木にしがみついている訳ではない。

我慢比べで、疲れてしまい、手を放したら終わりではない。

イエス様が私たちを十字架という変わらない赦しでイエス様につないでくださり、イエス様の木から、イエス様のいのちが私たちに流れている。

そんな私たちだが、あとは目をつぶってのんきにしていれば、自動的に実をたくさん結ぶかというと、そうでもない。

何か“良い行い”や“努力”をするというのではない。

私たちの業は“イエス様を信じる”ということだけである。(ヨハネ6:29)

“信じる”というと、イワシの頭も信心…でただ盲目的にがむしゃら、何かを信じればよいのではないと思う。

この“信じる”にはイエス様を信頼するという、イエス様との関係を大切にすることだと思う。

イエス様の赦しの世界に入るため、私たちはイエス様の十字架を信じた。

イエス様の新しいいのちにつながった。

イエス様の木からどんどん新しいいのちが流れて、実をむすぶ。

が、繰り返し、繰り返し人間的な思いが現れる。

そのたびにイエス様の十字架の前に行き、「イエス様、ごめんなさい、赦してください。」と祈り、赦しを受け取り、癒しを受けとる。

イエス様は、「また、同じようなことで来たのか。」とは言わない。

弟子に7の70倍赦すように語られた。つまり、無限に赦すように言われた。

それは、イエス様ご自身がそのようにされたからだと思う。

人間だったら、繰り返し同じような間違いをされたら、いい加減、うんざりするかも知れない。

イエス様は、イエス様の十字架に自分の弱さや足りなさを持ってくる人に喜んで、その荷物(受ける罰の行為、思い)を受け取り、十字架につけてくださる。

イエス様の赦しをたくさん受けた人が多く愛されたことを知る。

いつでも喜んでイエス様の十字架に負えない荷物を持っていき、荷をおろし、安らげますように。

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2009年11月20日 (金)

“主、ともにいます(インマヌエル)”

イエス様がどんなときもともにいてくださったことを思います。

『見よ。処女がみごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」(訳すと、神は私たちとともにおられる、という意味である。)』新約聖書 マタイの福音書1:23

イエス様はインマヌエル…神様は私たちとともにおられる…と呼ばれるとある。

私たちの人生の中にもいつもイエス様はともにいてくださる。

私の人生の節目のような出来事の中にもイエス様はともにいてくださった。

暗やみが心をおおい尽くし、もう生きていけないと思った日…主は「あなたが生きていくのではなく、わたしがあなたを生かす」と教えてくれた。

自分よがりの信仰を捨てなければならないとき、悲しくて、悲しくて3日泣いていたが、その大手術のような痛みの中、ともにいて慰めてくれた。

英語も韓国語もわからない中、韓国の断食祈祷院に神様のことばを求めて祈りに行ったとき、一度も一人きりにならなかった。

いつも、日本語を話せる韓国の人か、韓国語を話せる日本人か、英語を話せる日本人を一緒にいさせてくれた。イエス様がともにいて、そうしてくれた。

母が天に召されるとき、賛美の天使を送ってくださり、一緒に賛美で母を天国に送った。

私が握っているものを手放すとき、「これまでの苦しかった歩みは、あなたが手に握っているものを手放すためだったんだよ。今からわたしを受ける分としなさい。」と優しく語ってくれた。

親しい友人が、他の友人たちと私から去っていくとき、イエス様が苦しまれた十字架の道を見せてくれて、その私のための愛の大きさを教えてくれ、痛みをおおい癒してくれた。

イエス様は今までもともにいてくれたように、これからもともにいてくださる。

苦しいときだけでなく、嬉しいときも、何もないようなときすらも。

悲しい道、苦しい道、孤独な道…どんな道にもイエス様はいっしょにいてくださる。

イエス様は私たちを見捨てて、私たちを一人きりにはしない。

地上において、やがてこの肉体が朽ちていくとき、経験したことのない死を通るときもイエス様はともにいてくれて、その先の用意してくださる永遠の住まいに案内してくれる。

お一人お一人とイエス様がいつもともにいて、慰められ、支えられ、癒され、安心しますよう祈ります。

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2009年11月19日 (木)

“何のために生きているか”

何のために生きているか…問いかけていた日々が私にもありました。

『あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。わざわいの日が来ないうちに、また「何の喜びもない。」と言う年月が近づく前に。』旧約聖書 伝道者の書12:1

私は、20歳の頃、“何のために生きているか”悩んで、ゆきずまっていた。

学校の先生になりたいと思っていたが、“何のために生きているか”の問が、私の夢をおおい尽くして身動きできなくしていた。

大学は講義にはだんだん出なくなり、3年の終わりに中退した。

今、中学の我が息子は好きなことに没頭して楽しく過ごしている。しかし、小学のとき、担任が男の先生が多かったが、3年、4年と違う女の先生だった。

この2年間、息子は何度「どうして勉強するの?」と言う問いを投げかけてきたかわからない。

4年の中頃になると、友だちと遊ぶことも少なくなり、ひたすらドラえもんのビデオを見て、現実逃避していた。

「なぜ、勉強しなくてはならないか、神様に祈って聞いていこう。」と、良く寝る前に一緒に祈った。

それは、私の“何のために生きているか”の問いに重なった。

今、友人のお子さんが、「先への目標が見えない。」と高校に行くのに、ゆきずまりを感じている。

親の立場にしたら、「何はあっても学校にだけ行ってほしい。」と願うし、行けなくなったら、親もつらい。

もちろん、子どもはもっとつらいのだろうが…。

一生の中で、“何のために”に考えることなく、学校、仕事、生活を順調にこなす人も多いかもしれない。

が、ゆきずまり“何のためにするのか”“何のために生きるのか”…問うときもまた、大切なのだと思う。そんな問いが出てくるときは、本当につらいときだと思うが。

もし、そんな問いにぶつからずに、老いて、何の楽しみもなくなったとき、その問いは宿題の残りのような頭をもたげてくるのではないか。

伝道者の著者ソロモンはそんなことを言っているのではないだろうか。

“あなたの若い日に創造者を覚えよ”

若い…そのあとに続く聖書の内容は、もう体が緩慢になり動けなくなってくる様子を詩的に描写をしている。

若い日と言うのは、今なのだと思う。

若い日、今様々に活動できるようなときに、私の創造者を覚えること…それは、何のために生まれ、何をするために生き、どこに向かうかをはっきりと知ることができるときなのだ。

生きる動機、誰のために私たちは生きるのかを知るとき、私たちは何があってもゆらがなくなるのではないか。

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2009年11月18日 (水)

“貧しい人にキリストを見る”(マザー・テレサの言葉から)

マザー・テレサの言葉から思わされたことです。

『あなたがたは、わたしが空腹であったとき、わたしに食べる物を与え、わたしが渇いていたとき、わたしに飲ませ、わたしが旅人であったとき、わたしに宿を貸し、わたしが裸のとき、わたしに着る物を与え、わたしが病気をしたとき、わたしを見舞い、わたしが牢にいたとき、わたしをたずねてくれたからです。』新約聖書 マタイの福音書25:35

マザー・テレサは、貧しい人の中に、キリストを見い出し、その人生のすべてを彼らに仕えた。

マザー・テレサの言葉は、キリストの愛に生きた人の真実な言葉といつも感動する。

その一つを転記する。

“わたしたちの間には偉大な人々がいます。

ただわたしたちがそれに気づいていないだけなのです。

その人たちとは、貧しい人々の中でも最も貧しい人々

だれからも望まれていない人

相手にされない人

はねつけられている人

アルコール依存症の人

足の不自由な人

目の見えない人

病気の人

死にかけている人

何も持たず、だれにも一緒にいてもらえない人たち

彼らの生活そのものが祈りです。

その人たちは、わたしたちのために知らずにとりなし続けているのです。

だからこそわたしは、「死を待つ人の家」が、カルカッタの教会の宝の家だと思っているのです。

そこにいる人々は、知らず知らずのうちにわたしたちのためにとりなしてくれているのです。”

(ドン・ボスコ社

マザー・テレサ 愛するために―より)

マザー・テレサは、貧しい人に本当にキリストを見い出したのである。

だから、何かしてあげるという次元ではなく、キリストに出会い、キリストに接するような喜びをその貧しい人たちに見い出したのだと思う。

とても、凡人の私などはそんな境地には至らない。

けれど、悩む人と深いところで分かちあったときや、苦しむ人と少しでも苦しみを分け合うときなど、聖霊様の慰めを私自身も受ける。

たぶん、私たちはイエス様によって仕えることで、イエス様からいただいてる愛を体験したりするのかもしれない。

“貧しい人々の中でも最も貧しい人々…彼らの生活そのものが祈りです。”

私が共感を覚えた部分だ。

弱い人の中に真実や本当がある。それがクリスチャンであれば、前にせつさんが言ってくれたが、ダイヤモンドの信仰がある。

私は貧しい人がキリストだ…とまで思えなくても、神様の真実を知るために、そのような方を大切に思い、そのような方が持っている神様の真実を教えられたいと思う。

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2009年11月17日 (火)

“友となられるイエス様”

イエス様が友となってくださったことを思いました。

『人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。…

わたし(イエス)はもはや、あなたがたをしもべとは呼びません。しもべは主人のすることを知らないからです。

わたしはあなたがたを友と呼びました。なぜなら父から聞いたことをみな、あなたがたに知らせたからです。』新約聖書 ヨハネの福音書15:13~15

ある中学のクラスに一人の男の子がいた。

が、何もやる気がせず、学校にも適当に来て、適当に過ごしていた。3学期になった頃、一つ学年の上の子と仲良くなった。

彼らは一人の子が卒業しても土日には必ず遊び、良く電話した。

ふてくされて、適当に中学生活を過ごしていた子は、友ができたことで、いろんなことに意欲的になった…という話しを身近な人から聞いた。

私たちは一人では生きていけない。

自分を理解してくれたり、わかり合える友だちは自分を映す鏡のようなものかもしれない。

自分が理解されない環境にいたら、どんな人も自分に良いものを見い出せなくなるのではないか。

理解しあい、わかり合える友だちができたら、その友人を通して、自分の価値を見い出す。

イエス様は、神様であられるのに、私たちの友となってくださると言われる。

どうしてそれが可能なのか。

それは、イエス様がただ正しいだけのお方でなく、あらゆる苦しみを通られ、私たちを理解できるお方だからだと思う。

人間の姿をとられ、歩まれたその道は、想像を絶するところを通られ、孤独、拒絶、さげずみ、悲しみ、苦しみをたくさん経験された。

罪は犯されなかったが、私たちに同情できるお方としていてくださる。

イエス様は、私たちにいのちを捨てて、私たちをまるごと受け入れてくださった。

友として…人間同士ではなしえない愛を示し、与えてくれた。

私たちは自分の中には良いものはないが、このイエス様に受け入れられ理解され愛されて、愛されることを体験して、人を思えるようになっていくのだろう。

イエス様の愛が、孤独な人たちに与えられ、イエス様が友であることを知れますように。

私たちのような小さな足りない者が、イエス様に愛されているこの奇跡が、私たちを通して人々にイエス様の愛が流れていきますように。

すべての人が大切な存在であることをイエス様を通して知れますように。

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2009年11月16日 (月)

“イエス様がサタンを追い出す”

サタンの働きを思いました。

『しかし、朽(く)ちるものが朽ちないものを着、死ぬものが不死を着るとき、「死は勝利にのまれた。」としるされている、みことばが実現します。…

しかし、神に感謝すべきです。神は、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました。

ですから、私の愛する兄弟たちよ。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは自分たちの労苦が、主にあってむだでないことを知っているのですから。』新約聖書 第1コリント15:54~58

私は、昔は自己否定で、すぐに気持ちが沈んだり、思い煩いにとらわれたりの連続だった。

最近はイエス様の癒しで、気持ちが沈んだり、何かを気にすることがほとんど無くなったように思う。

イエス様にあって平安な気持ちが与えられている中に、何かかが入り込んでくると違うものが良くわかる。

それは、私の弱さや、罪や、ずれや何かを足台としたサタンの働きだ。

朝に夢を見た。目覚めたとき、その夢に登場した人が、めったに会うこともない人だが、脅威をもって私を圧迫し、迫ってきた。

その人を赦す祈り、そして自分の弱さを赦してもらう祈りをした。

今、ブログを書こうと思い、何かすべてが虚しい思いになった。

霊的にはサタンが吠えたける獅子のように、私の弱さの足台を探し、そこに乗っかり、私に偽りを吹き込もうとする。

あまり、こういった記事は書かないのだが、否定的な思いに悩まされている人に、サタンの働きがあることを伝えられたらと思い、こうして書いている。

見えない神様がいて、聖霊が働いてているように、聖書にあるがサタンも同じように働いて私たちを惑わす。

サタンのもっとも大きな狙いは、神様との交流を妨げるものである。

また、私たちにダメージを与えるため、偽りをささやく。

私も「イエス様の十字架の愛があるのに、生きるのが虚しいと思う足台となるものを赦し、打ち砕いてください。」と祈り、「イエス様が愛してくれ、主にあってすべてがむだでないのに、偽りを言う霊、イエスのみ名によって出ていけ。」と祈った。

そして、今このブログを書いている。

何でもかんでもサタンのせいにして、自分をかえりみないのは良くないと思い、このような記事を書かなかったが、誰かの助けになればと書いている。

私自身、悪霊追い出しする教会には属したことがなく、霊的なことは未知の世界でもある。

が、霊の戦いの中で確かにサタンは私たちに日々、つけこんでくるのである。

が、イエス様が十字架で勝利され、霊的な世界において、イエス様のみ名でサタンを追放できるのである。

死にも勝利してくださったイエス様は、この世の諸々の霊からも私たちを解放してくださる。

イエス様によって、私たちに神の国が来た。

『しかし、わたし(イエス)が神の御霊によって悪霊どもを追い出しているのなら、もう神の国はあなたがたのところに来ているのです。』マタイ12:28

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2009年11月15日 (日)

“イエス様が道、真理、いのち”

イエス様が道であり、真理であり、いのちと言われたことを思いめぐらしました。

『イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちです。わたしを通してでなければ、だれひとり父(神)のみもとに来ることはありません。』新約聖書 ヨハネの福音書14:6

おはようございます。

神様が人を造られ、その愛をイエス様によって現してくれました。

神様は私たちすべての人を愛し、イエス様の十字架の赦しを私たちに与えてくれました。

教会の外にいる人たちもまた、神様から愛されるために生まれてきたのだということを思います。

イエス様は、「わたしが道であり、真理であり、いのちです。」と言われました。

それはどこにつながっているかというと神様につながっています。

私たちには、様々な人生の道があります。百人いたら、百通りの道があります。

たった一度与えられた人生の道、どこに向かえばいいか、岐路に立たされ、迷います。

よく「神様のみこころはAの道かBの道か」というのを聞きます。Aが正解で、Bが不正解などというほど、神様は狭いお方ではありません。

たとえ間違っているような選択ですら、神様にあっては益とさせてくださいます。

どの道をいくかでなく、どんなふうに歩むか、誰と歩むかなのだと思います。

その選択にイエス様がいてくださるなら、その先は永遠なる神様に行きつきます。

イエス様は真理です。

私は若いころ、真実なものを知りたいと切に願いました。が、自分の中にも、人の中にも真実なものはあまり見い出せませんでした。

真理は人を生かします。私はイエス様に出会って、生かされました。たとえ、私がすべてを知らなくても、この真理である方を信頼して頼ることで、生かされてきました。

だから、私たち自身が何も知らなくても、頼る方が真理であれば、安心です。

イエス様はいのちです。私たちは生を受けて生まれてきましたが、やがて死にます。

イエス様のいのちは父なる神様とともに天国で生きるいのちであり、イエス様とつながり、神様と親しく交流できるいのちです。

イエス様がくださるいのちは、この神様とイエス様を知ることを喜びとするいのちです。

イエス様は私たちにたくさんの良いものをもたらすために来てくださいました。

このイエス様無しでは、神様のところへも、神様の国にもたどり着きません。

イエス様は今日も私たちに、「わたしのもとに来なさい。」と招いてくださっています。

イエス様がくださる道と真理といのちがお一人お一人の中に豊かにありますように。

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2009年11月14日 (土)

“キリストにある知恵と知識の宝”

キリストにある知恵と知識の宝を思いました。

『あなたがたとラオデキヤの人たちと、そのほか直接私の顔を見たことのない人たちのためにも、私がどんなに苦闘しているか、知ってほしいと思います。

それは、この人たちが心に励ましを受け、愛によって結び合わされ、理解をもって豊かな全き確信に達し、神の奥義であるキリストを真に知るようになるためです。

このキリストのうちに、知恵と知識との宝がすべて隠されているのです。』新約聖書 コロサイ人への手紙2:1~3

最近、テレビで良くクイズ番組をしている。

難しい知識や漢字などを解答したりする。

私たちに神様は知る欲求をも与えられたのだと思う。

聖書を読んでいて、このコロサイの箇所が心にとまった。

パウロは、ラオデキヤの人たち、また、会ったことのない人たちのために苦闘した。

それは、その人たちが“神の奥義であるキリストを真に知るようになるため”であった。

神の奥義とは、「神様が定められた時まで隠されている秘密。神の国、異邦人の救い、福音、神の救いの計画、キリストなど、これらの秘密は啓示によって現された。」と解説にある。

“神の奥義であるキリスト”は、まさに神様が定められたときまで隠されていた秘密兵器なのである。

イエス様が来られるまで、救い主が来られることは、繰り返し預言の中で語られた。

イエス様が来られ、聖書が与えられ、聖霊様が与えられたことによって、この隠されていた秘密は明らかにされた。

『このキリストのうちひ、知恵と知識との宝がすべて隠されています。』コロサイ2:4

キリストのうちにある知恵と知識とはどんなものか。

それは、霊的な存在として人が造られ、霊的な存在として神様と交わる祝福の知識もある。

人が本来造られたような姿に回復し、自由に生きる知識もある。

人が何のために生まれて、どこに向かっているかの知識もある。

キリストこそが、道であり、真理であり、いのちである。(ヨハネ14:6)

イエス様に隠されている秘密は、多方面に渡り、深すぎる。

一言では言えないし、知り尽くせないほど、深い。

ただ神様の隠された秘密が、このイエス・キリストにこそ一手に隠されている。

イエス様にある知恵と知識の隠された宝を私たちが知り、喜びに満ちあふれますように。

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2009年11月13日 (金)

“すべてはイエス様によって赦された”

私たちの隠したいような弱さをイエス様は赦し癒してくれました。

『そこで女が見ると、その木は、まことに食べるのに良く、目には慕わしく、賢くするというその木はいかにも好ましかった。それで女はその実を取って食べ、いっしょにいた夫にも与えたので、夫も食べた。

このようにして、ふたりの目は開かれ、それで彼らは、いちじくの葉をつづり合わせて、自分たちの腰のおおいを作った。

そよ風の吹くころ、彼らは園を歩き回られる神である主の声を聞いた。それで人とその妻は、神である主の御顔を避けて園の木の間に身を隠した。』旧約聖書 創世記3:6.7

発達障害の親の会が始まって、5年になる。

集まっているお母さんたちは、実に前向きで、その時々の悩みはあっても、我が子にとって、何が良いのかいつも模索している。

他方、あまりそのような会には来ない人の中には、我が子の特徴や課題を見ようとせず、問題がないから大丈夫という方もいる。

子どもの課題が明らかであっても、人の弱さがそのことを受け止めきれず、問題無しとし、子どものゆきずまりを放置してしまう。

人の中にある自分の弱さに対しても、私たちは同じなのだなぁと思う。

自分に歴然とした弱さや足りなさがあっても、それを受け止める力がないと、あるものを無いかの如く、隠したり、ごまかしたりして過ごす。

実は、あのアダムとエバが食べてはならない善悪の木の実を食べて以来、私たちは自分を隠すということを神様にも人にもするようになったのだと思う。

なぜ、隠すかというとその弱さを自分で受け入れることができずに、恥ずかしいとするからなのだと思う。

イエス様は私たちの弱さや足りなさや汚れや恥や、そのような人に知られたくないそのやみの部分を赦すために、十字架にかかってくださった。

私の隠したいようなすべてを、イエス様は十字架ですべて赦して受け入れてくれた。

私たちもそれを受け入れ、赦しと癒しときよめを体験できる。

では、私はどれだけ、イエス様が赦してくれた自分自身を受け入れているか。

それは、自分がどれだけ、そのような恥かしいと思えるような弱さを人にも神様にも言えているかなのだと思う。

私はある時まで決して人に話したことのない癒されていない自分にある心の傷の部分を、ある時から人に話すことができる自分に気がついた。

そうか、人にも話せているのは、そんな弱さもイエス様に受け入れられていることを私も受け取っているからだと気がつかされた。

私たちは、いちじくの葉っぱをどれだけ心の中でくっつけて隠しているだろうか。

隠していることが悪い…というのではない。そこもまた、イエス様が赦されたところであることを受け入れ、もう一度、神様の前に告白していくならば、イエス様がいちじくの葉っぱを優しくはがしながら、「大丈夫だよ。そこも赦され、癒され、わたしの栄光が包まれた患部となったよ。」と語ってくださる。

一枚一枚、いちじくの葉っぱをはがし、私たちのすべてが赦され癒され、イエス様の愛でおおわれているのが明らかになりますように。

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