“もし一粒の麦死なずば…”
死んで実を結ぶ一粒の麦になるとはどういうことか、考えました。
『一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。』新約聖書 ヨハネの福音書12:24
おはようございます。
イエス様はご自身のいのちを犠牲にして、私たちを愛してくれました。
三浦綾子さんが書いた“塩狩峠”で、主人公は止まらなくなった列車を止めるため、自分の命を犠牲にして人々を助けました。
私たちにそのような自己犠牲が出来るかと言ったら、できません。
聖書では、「私たちは死ななければ、そのままで、もし死ぬなら、そこから豊かな実を結ぶ。」と言っています。
私たちが人のために自分に死ぬ…それは不可能です。
それは、私たちが自分が一番大切で大事だからでしょう。
私たちは自分の命はともかく、自分には損をしても人のために何かする…それもまた、ほとんど不可能に近いような話しです。
それでは、私たちはどうしたら、一粒の死ぬ麦になれるのでしょうか。
私は、親から理解されていないという感覚の中で育てられ、自己否定そのものでした。
そんな私は「自分はここにいるんだ。」と叫ばんばかり、自分を人々に表したいと思いました。
今、神様から赦され、受け入れられている安心感の中で、自分を人に表す必要性も知ってもらう必要性も、理解してもらいたい願望も本当に少なくなっています。
もうイエス様に理解され、知られ、受け入れられているから、安心なのです。
私たちは、自分の力で人のために犠牲を払い、生きるのは難しいです。
けれども、どっぷりとすべてを受け入れられているとき、自分ではなく、誰かのために祈り、誰かのために生きたくなるのかもしれません。
人はそのように造られているような気がします。
自分の存在が気にかからなくなるほどに、イエス様から赦され、受け入れられ、理解され、知られ、愛され、心配され、思われますように。
自分をたくさん持っていると、それを守ろうとして苦しみます。
傷を多くもっていると、傷を守るため、その傷とともに、不自由なものを手放しにくくなります。
私たちは自分で自分を小さくできませんが、イエス様に愛されると、自分をむなしくし、ただイエス様だけが私たちの中で大きくなります。
たくさん愛され、赦され、受け入れられ、癒され、私たちが見えないごとくになって、イエス様だけが私たちの中で輝くことが、私たちに変わらない自由と喜びを与えてくれます。
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