聖書の分かち合い

2009年9月20日 (日)

『いのちを豊かに持たせる約束』

イエス様にある人には、新しいいのちを与え、それを豊かに与える約束があります。

『わたし(イエス)は門です。だれでも、わたしを通ってはいるなら、救われます。また安らかに出入りし、牧草を見つけます。

盗人が来るのは、ただ盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするだけのためです。わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。

わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。』新約聖書 ヨハネの福音書10:9~11

おはようございます。

今日も神様が私たちに関心を持ち、私たちを祝福したいと願ってくださっています。

聖書にある神様が約束してくださる生き方について考えてみたいと思います。

聖書では、イエス様にあるならいのちを得、また、それを豊かに持つとあります。豊かな人生を約束しています。

まず、神様は私たちが“自分らしく生きる”ことを願っています。

私たちは皆違う個性を与えられています。一人一人が“特別”な存在です。

神様は私たち一人一人が与えられた特性を最大限に生かして、そのままで生きていけることを願いました。

罪は自分自身のイメージをゆがめます。私が私としてありのままであっていいと思えるよう、イエス様の十字架の赦しを与えてくれました。

そして、赦された私たちは神様から愛される対象として生きていきます。

そのとき、私たちは与えられた自分を受け入れられている安心感の中、思う存分自分を発揮できます。

次に私たちは何のため、生まれたかです。

神様に愛されるためであり、神様の愛をもって互いに愛するためです。

また、一人一人に神様の特別な計画があり、そのことを成すためです。

神様の一人一人に与えられた能力と計画は変わらないとあります(ローマ11:29)

そして、どこに向かって生きているかです。

私たちはなんとなく生まれ、なんとなく死んでいくのではありません。

生まれたことに計画と意味があるように、向かう先もまた、ただの死ではありません。

イエス様を信じる人は、新しいいのち、永遠のいのちが与えられ、天国が約束されています。

ただ死で終わるなら、私たちは死に向かっているだけ、何をしても残りません。

聖書ではいつまでも残るものは信仰と希望と愛だとあります。(第1コリント13:13)

イエス様を信じ、イエス様の門を入っていく先には、ありのままで自分らしく、この世での計画をもって、信仰と希望と愛を目指し、天国にいけます。

イエス様が良い牧者となり、イエス様に頼る人たちを今週も導いてくださることを祈ります。

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2009年9月 6日 (日)

“廃墟から神殿に”

神様は心の廃墟を御霊の住む神殿に変えてくださいました。

『あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っておられることを知らないのですか。

もし、だれかが神殿をこわすなら、神がその人を滅ぼされます。

神の神殿は聖なるものだからです。あなたがたがその神殿です。』新約聖書第1コリント人への手紙3:16~17

神様は天地を造られ、人を造られました。そして、人が神様と交流できる存在として、特別に備えてくれました。

人が生きていること、それは神様の計画の中で命与えられ、尊い存在として備えられました。

神様は人を自分に似る者とされました。

それは、神様が霊的な存在であるように、人にも神様を知り、神様と交流できる霊を与えられたのです。

私は神様から離れているとき、その心は廃墟のようでした。

破(やぶ)れがひどく、いつもその穴の空いたところ、隙間から侵入者が入り、好き勝手なことをしていくのです。

侵入者の名前はサタンです。

私の廃墟に侵入すると、否定的にさせたり、無いところを見せたり、必要以上に悲しませたりします。

また、過去の失敗や弱さや大きく見せて、失望させます。

その破れのある廃墟には、たくさんのかたずいていないゴミ袋があります。

そのゴミ袋の名前は罪です。罪とは造られた方、神様とふさわしい関係をもてない様々な物です。

そのゴミ袋からは悪臭が放たれています。

神様は、ご自身の造られた家(人の心)が廃墟となっていることを悲しまれています。

その廃墟に神様が備えたかった神様を交流する霊はいません。守りは不在です。

もう一度、神様が造られた本来の姿に戻したいと願われました。

神様は、ご自身のひとりご、イエス様を私たちのために送ってくれました。

そして、私たちの心の住まいを、聖霊様が住まわる宮殿とされました。

イエス様は、ご自身の十字架をもって、その悪臭放つゴミ袋(罪)をきれいに処理し、無くしてくれました。

イエス様は、破れを修復してくれました。

もう、破れから勝手に侵入者は入り込めません。

そこは、神様の霊が住まわる神殿となりました。

私たちいと小さき人間の心に、神様の霊が住まわり、神様と交流を復活するものとなりました。

その宮殿は日々、イエス様によってきれいにされ、聖霊様によって、神様からの喜び、楽しみ、平安が溢れるところとなりました。

さらにその宮殿は、きよめられ、聖霊様が上からさらに注がれ、溢れ、流れるところとなるのです。

宮殿は、やがて、聖霊様が溢れ、川となり、人々にまで流れ、癒し、喜びを与えるようになるのです。

お一人、お一人の宮殿が祝福されますように。

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2009年8月16日 (日)

“放蕩息子を待つ天の父”

放蕩息子を愛し、受け入れる天のお父さんである神様についてです。

『息子は言った。「おとうさん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。」

ところが父親は、しもべたちに言った。「急いで一番良い着物を持って来て、この子に着せなさい。それから、手に指輪をはめさせ、足にくつをはかせなさい。

そして肥えた子牛を引いて来てほふりなさい。

この息子は、死んでいたのが生き返り、いなくなったのが見つかったのだから。』新約聖書 ルカによる福音書15:21~24

おはようございます。

赦しの神様は私たちのすべての弱さを包み、私たちをイエス様によって、そのままで受け入れてくれています。

教会の中にいても、外にいても、良いことをしていても、良い者でなくても、等しくイエス様の十字架によって、私たちを赦し、受け入れてくれています。

今日は、放蕩(ほうとう)息子から、神様の赦しの大きさを分かち合いたいと思います。

この聖書に出てくる息子は、「お父さん、私に財産の分け前をください。」とお父さんから財産をもらい、旅に出た。

放蕩して、財産を湯水の如く使い果たし、困り、豚の世話をした。ひもじい中、我に帰り、家に帰って雇い人として使ってもらおう、お父さんにお願いしようとした。

家に向かうと、お父さんは大喜びだった。

雇い人どころか、彼を抱きしめ、新しい服を着せ、彼が正当な相続人であるしるしの指輪をはめてもらった。

そして、盛大な祝賀会のためのご馳走に肥えた子牛を殺させた。

これは、神様はどんな悪い者であっても、神様に戻るなら、喜んで神様の子どもとして、迎えてくださることを示しています。

どんな悪い者であっても、神様は喜んで我が子として迎えてくれます。

それは、2つの理由からです。

一つは私たちは皆、神様に逆らい、神様から離れていた放蕩息子のように、良い者ではありません。もれなく、すべての人が正しい神様の前に、放蕩息子だからです。

そして、その私たちの悪いことをイエス様が、全部責任を引き受けてくれ、イエス様の十字架の罰が神様の前に完全に良しとみなされたからです。

私自身、この放蕩息子です。神様から離れていた頃は、神様のいみ嫌うことばかりしていました。神様からは受け入れられないような存在でした。

そんな私が、イエス様の十字架にその悪のすべての責任をおってもらい、神様に抱かれるかわいい戻ってきた息子となりました。

神様からの相続人となり、祝ってもらう存在となりました。

何より、神様との関係が回復し、親しくいつでも交流できる者とされました。

自分は悪かったと、何度も謝る必要はありません。神様のもとに戻れば、赦され抱きしめられます。

何かのお詫びの品を持って神様のところに行く必要もありません。イエス様の十字架が完全であるゆえ、何も付け足すものは必要ありません。

今日も、神様はまだかまだかと遠くから、神様の家に戻る放蕩息子たちを待っていてくれています。

神様の大きな赦しの中に憩い、すべての重荷がおろせますよう祈ります。

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2009年7月23日 (木)

“黙っていない神”

イザヤ書から、離散した民への神様のメッセージに思いめぐらしました。

『目を上げて、あたりを見よ。彼らはみな集まって、あなたのもとに来る。

あなたの息子たちは遠くから来、娘たちはわきに抱かれてくる。

そのとき、あなたはこれを見て、晴れやかになり、心は震えて、喜ぶ。』旧約聖書 イザヤ書60:4.5

私はイザヤ書が大好きである。

深い意味がわからなくても、昔から良く読んだ。

イザヤ書は、神様に背いたイスラエルの民が、バビロンに捕囚の民となり、そのところからの解放と回復が後半に預言されている。

それは、私たちの救いと回復に重なる。

あまり教会で、イザヤ書のメッセージを聞いたことはないように思う。

が、注解付き聖書には「イザヤ書の40章から66章は、聖書中、最も卓越したメッセージを伝えている。」とある。

この40章以降の希望に満ちた預言は確かに私たちの慰めなのだと思う。

私は個人的には、このイザヤ書からたくさんの約束のことばを受け取っている。

そして最近、“教会の外の人たち”というテーマで読むと、何もかもが、ピッタリくる。

神様はイザヤの時代に離散した神の民に熱く呼びかけ、その回復を約束された。

時を越えて、今、離散されたかのような教会の外の人たちに神様は関心を持たれ、熱く呼びかけてくれているのを思う。

神様の関心は、離散して、なお、愛して止まない神様の民にある。ここには、救いも関係しているので、まだ、クリスチャンでない人や、まだ、福音すら聞いたことのない神様の民が含まれている。

これまでの私の信仰生活の中で、慰めと支えであった、そして約束の通りにしてくださってきた神様のことばが、今、現実をもって外に向けられ語られている。

『シオンのために、わたし(神)は黙っていない。エルサレムのために、黙りこまない。その義が朝日のように光を放ち、その救いが、たいまつのように燃えるまでは。』イザヤ書62:1

私も黙っていない神様とともに、神様の民とされる人たちが救われ、集められ、回復するのを見るまでは、黙ることなく、その神様の思いを伝えたいと思った。

###

神様、イスラエルの民は、他国に捕囚され、その悲しみと苦しみの中、イザヤの希望の預言を聞きました。

神様、あなたが語ることは必ずや実現します。

どうぞ、離散した民のように、悲しみにある人たちに神様の希望の約束が、深い慰めと支えになりますように。

神様が今も変わらず、散らされている人々に熱く関心をもって語っておられるのを知ることができますように。

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2009年7月15日 (水)

“神様に栄光を帰す”(創41)

神様に栄光が帰されますように。

『パロはヨセフに言った。「私は夢を見たが、それを解き明かす者がいない。あなたについて言われていることを聞いた。あなたは夢を聞いて、それを解き明かすということだが。」

ヨセフはパロに答えて言った。

「私ではありません。神がパロの繁栄を知らせてくださるのです。」』旧約聖書 創世記41:16

献酌官はヨセフに夢を解き明かしてもらったのに、ヨセフを思い出さず、忘れてしまった。

そして2年もの月日、ヨセフは忘れられたまま、監獄にいた。

が、献酌官がヨセフを思い出すときが来た。

エジプトのパロ王が夢を見たが、誰も解き明かせなかった。

そして、ヨセフが解き明かせるものとして、報告された。

ヨセフはパロの夢を解き明かした。エジプトに7年の豊作の後、7年のききんが来ることを。

パロはこう聞いた。「あなたは夢を聞いて、それを解き明かすということだが。」

ヨセフは答えた。「私ではありません。神がパロの繁栄を知らせてくださるのです。」

ヨセフは夢を解き明かすのは、神様であることをはっきりと、異教の王に告げた。

そのことにより、パロ王は次のように家臣たちに言った。

「神の霊の宿っているこのような人を、ほかに見つけることができようか。」

そして、パロ王は、神の霊が宿るヨセフにエジプト全土を支配させた。

私たちにも、ヨセフのように、一人一人に神様からの能力が与えられている。

もし、それをもって神様の御業をなしたとき、私たちはただ「神様がなしました。」という者でありたい。

その告白を通して、人々はその素晴らしい御業の出どころを知るのである。

『わたしは主。これがわたしの名。わたしの栄光を他の者に、わたしの栄誉を刻んだ像どもに与えはしない。』イザヤ書42:8

ただ神様がほめたたえられますように。

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2009年7月14日 (火)

“神の時”(創40)

ヨセフは、監獄を出るチャンスを失いましたが、それは、“神様の時”のためでした。

『さて、監獄に監禁されているエジプト王の献酌官と調理官とは、ふたりとも同じ夜にそれぞれ夢を見た。その夢にはおのおの意味があった。…

ふたりは彼(ヨセフ)に答えた。「私たちは夢を見たが、それを解き明かす人がいない。」ヨセフは彼らに言った。

「それを解き明かすことは、神のなさることではありませんか。さあ、それを私に話してください。」…

ヨセフは彼に言った。「…あなたがしあわせになったときには、きっと私を思い出してください。私に恵みを施(ほどこ)してください。私のことをパロに話してください。この家から私が出られるようにしてください。…」

…ところが献酌官はヨセフのことを思い出さず、彼のことを忘れてしまった。』旧約聖書 創世記40

ヨセフは何も悪いことをしていないのに、監獄に入れられた。

が、主はヨセフとともにいてくださった。

エジプト王の献酌官と調理官長のふたりがヨセフと同じ監獄に入れられた。

そのふたりの夢をヨセフが解き明かす。

ヨセフは献酌官に、「ここを出て、夢の通りになったときには、私を思い出し、ここから出られるようにしてください。」と言う。

しかし、なんと、献酌官は、ヨセフのことを思い出さずに、忘れてしまった。

なんと言うことだろうか。夢の解き明かした通りになったのに、ヨセフを忘れてしまうとは。

ヨセフはこの忘れてしまった人によって、監獄から出られるチャンスを失った。

ヨセフの記事には、ヨセフの祈りがない。どのように神様に祈ったのだろうか。

私だったら、「主よ。ひどいです。夢を解き明かし、その通りになったら、出られるように計らってくれると約束したのに、自分のことだけで、私を忘れるなんて…なんてひどいことでしょうか。」と泣いて悔しがったかもしれない。

主とともにおられたヨセフは「主よ。すべての時すらあなたがご支配しておられます。あなたの時を、信頼して待ちます。」という風に祈ったのかもしれない。

人の目に見えることで、最悪のようなことがある。

しかし、この献酌官は、絶妙なタイミングのとき、ヨセフを思い出し、パロ王に彼の話しをする。

神様の計画の中で、そのときでなくてはならないときに思い出されることになる。

献酌官のひどい忘れる行為にすら、神様のみ手をがあった。

神様はすべてに働かれ、人の失敗すら益とされる。

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神様、私たちには、今しか見えず、先がわかりません。

しかし、最善を考えてくださるあなたにあっては、“神のなさることは、すべて時にかなって美しい”(伝道書3:11)となりますから、ありがとうございます。

神様、あなたを信頼し、あなたの時を待つことができますようにしてください。

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2009年7月 7日 (火)

“濡れ衣をきせられた ヨセフ”

ヨセフは、濡れ衣(ぬれぎぬ)をきせられ、監獄に入りますが、そこに神様の計画と慰めがありました。

『これらのことの後、主人の妻はヨセフに目をつけて、「私と寝ておくれ。」と言った。

しかし、彼は拒んで主人の妻に言った。「ご覧ください。私の主人は、家の中のことは何でも私に任せ、気を使わず、全財産を私の手にゆだねられました。

ご主人は、この家の中では私より大きな権威をふるおうとはされず、あなた以外には、何も私に差し止めてはおられません。あなたがご主人の奥さまだからです。

どうして、そのような大きな悪事をして、私は神に罪を犯すことができましょうか。」』旧約聖書 創世記39:7~9

ヨセフは、エジプトに売られたが、主がともにおられたので、主人にことのほか愛され、全財産をまかせられた。

事が順調に進んでいるかと思ったとき、一つの事件が起きる。

主人の妻が、美男子ヨセフに言い寄るのである。

しかし、ヨセフは「信用されているご主人にあって、とんでもありません。神様の前に悪事を働き、罪を犯せません」と毅然とした態度をとる。

主人の妻は、ある日、「ヨセフが悪いことをするために部屋に入ってきた」と偽り、主人は怒り、ヨセフを監獄にいれてしまう。

神様と人の前に、罪を犯さず、誠実に生きているヨセフは、濡れ衣をきせられ、捕らえられてしまう。

「何も悪いことをしていないのに何故ですか?」と問いたくなる状況である。

ヨセフも一人で祈るとき、そのように祈っていたかもしれない。

しかし、神様はここでもヨセフとともにおられ、彼に恵みをほどこし、監獄の長の心にかなうようにされた。

それで監獄の長は、その監獄にいるすべての囚人をヨセフにゆだね、すべてを管理させた。

主がともにおられ、ヨセフが何をしても、主がそれを成功させてくださった。

ヨセフは、人の罪によって、ひどい目にばかり合う。しかし、神様の計画はその中にもあった。

ヨセフに与えられていた能力は“管理する”ということだった。

先ゆきどうなるかわからない中、変化していくその場所で、ヨセフは“管理する”ことを任され、忠実になした。

そのことがやがて、エジプトの王のもとで、エジプトの国の資産を“管理する”ことにつながっていく。

神様のゆるしのもと、ヨセフがおかれた環境はヨセフの神様からの能力を整えていく場所ともなったのである。そして、神様への信頼を深めていく場所であった。

私たちは弱いので、環境や人や自分を見てしまいやすい。

しかし、神様がともにいてくださるならば、そこが、濡れ衣をきせられた監獄であっても、神様の学び家となり、神様との交流の場所となったことは慰められる。

パウロは牢獄にいながら「私はどんな境遇にあっても満ち足りることを学びました。」(ピリピ4:11)と言いました。

神様は、どんな境遇にあっても、私たちをその場所をすばらしい場所と変えてくださる。

ヨセフは拘束された環境の中、神様との語らいを深めていったのだろう。

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2009年7月 1日 (水)

“パウロの手紙”

パウロが書いた手紙にいろいろ思いめぐらしました。

『パウロが自分の手であいさつを書きます。これは私のどの手紙にもあるしるしです。これが私の手紙の書き方です。

どうか、私たちの主イエス・キリストの恵みが、あなたがたすべてとともにありますように。』新約聖書 第2テサロニケ3:17.18

パウロはたくさんの手紙をさまざまな教会宛に書きました。

ときには、牢獄の中にいて、自分自身が危険な状態にありながら、自分のからだは鎖につながれていても、語るべきことを大胆に語れることを知っていました。(エペソ6:20)

『私は、福音のために、苦しみを受け、犯罪者のようにつながれています。しかし、神のことばは、つながれてはいません。』第2テモテへの手紙2:9

と、テモテ宛には書いています。

神様は、パウロに霊感を与えて、神様の思いを書かせました。そして、今日の私たちの信仰の指針としてくれました。

だから、パウロの手紙は、特別なものです。聖書の一部となる計画が神様にあったのですから。

神様は、パウロのその信仰と知識と、そして神様による人々への愛情を用いられました。

ときには、激しい口調でいさめ、熱い思いのたけを語り、いつも、愛する教会の人たちとともにいることを表しました。

そして、一人一人の名前をあげ、よろしくあいさつしたり、具体的な支持を出したり、証したり、彼を通してさまざまなことが、書かれました。

いつもパウロは絶えざる祈りをもって教会の人々のために祈り、その祈りと願いを手紙のことばに託しながら書きました。

最後にパウロの自筆で書く…というのは、その手紙が口述記述式(パウロが口で言ったことを誰かが筆記する)だったため、最後の行だけ、自筆で書いたのでしょう。

パウロは、膨大な旧約聖書理解をもっていましたからそれがふんだんに用いられましたが、彼の純粋で、熱い人々たちへの思いと祈りの深さも神様に用いられました。

パウロは獄中でからだが鎖につながれ、していたことといえば、祈ることと手紙を書くことだったのではないでしょうか。

パウロの手紙は、そんな人間的な拘束と、社会からの遮断の中で生み出されたのですから、不思議です。

私が手紙を書けば、それは、ただの普通の手紙になる訳ですが、私もここに良く来てくださる皆さん宛に、手紙形式で書いてみようかなぁと思い、パウロの手紙のことを書きました。

ブログがある意味、手紙みたいなものですが、私の思いが伝わりますように、願いつつ、次のブログで手紙を書いてみます。

パウロは、手紙の最後に、さらに祈りを込めました。

それは、神様にあるパウロの心からの願いだったのでしょう。

『主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなかがたすべてとともにありますように。』第2コリント人への手紙13:13

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“主がヨセフとともにおられた”

主がヨセフとともにおられたことの祝福を見ます。

『主がヨセフとともにおられたので、彼は幸運な人となり、そのエジプト人の主人の家にいた。

彼の主人は、主が彼とともにおられ、主が彼のすることすべてを成功させてくださるのを見た。

それでヨセフは主人にことのほか愛され、主人は彼を側近の者とし、その家を管理させ、彼の全財産をヨセフの手にゆだねた。

主人が彼に、その家と全財産とを管理させた時から、主はヨセフのゆえに、このエジプト人の家を、祝福された。それで主の祝福が、家や野にある、全財産の上にあった。』旧約聖書 創世記39:2~5

突然、兄たちに裏切られ、遠いエジプトの国に売られたヨセフ。

その衝撃はどんなものだったろうか。

しかし、この39章は、そんな人がした悪による悲惨な状況にも関わらず、“主がともにおられたので”を4回も使われ、この5節までも、“主”が5回出てくる。

この辛い状況の中に、神様がヨセフとともにいてくださり、祝福してくれたことが強調されている。

主がともにいてくださった結果、ヨセフは主人にことのほか愛された。信頼され、大事な仕事の責任を任された。

神様はヨセフのゆえに、このエジプト人の家を祝福された。

神様がともにいてくださる…その祝福は、人間関係、仕事、その人のまわりに及ぶ。

もし、私たちが、ヨセフのように、自分には非がなく、人の悪によって、厳しい状況に置かれているなら、“主がともにおられる”ことを祈る。

ヨセフは、この厳しく苦しい状況を神様にあって受け入れた。

その中で、忠実な管理者という、自分の最善をなした。

神様がともにおられた。その最もなる祝福は、神様がヨセフに“何があっても神様を信頼する信仰を与えられていた”ということではないだろうか。

神様を信頼するヨセフは、これでもかと次々と人の悪の中で翻弄される。

しかし、神様がヨセフとともにおられたので、ヨセフはいつも“神様を信頼し続けることができた”のだと思う。

私たちにもこの神様を信じる信仰が与えられますように。

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神様、どんな状況の中でも、神様がともにおられ、ヨセフは自分の出来うることをなすことができました。

ヨセフは夜一人になると、たくさん神様に祈り、慰めを受けていたのかもしれません。

ヨセフは、突然の受け入れ難い状況の中で、変わることなくともにいてくださる、助けてくださる神様に支えられたのだと思います。

私たちも人や状況に振り回されやすいですが、いつもこの変わらず、良いことにしてくださる神様を、信頼する信仰を与えてください。

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2009年6月29日 (月)

“エジプトに連れて行かれたヨセフ”(創37)

ヨセフは兄弟たちの手によって、エジプトに売られていきました。

『彼らは、ヨセフが彼らの近くに来ないうちに、はるかかなたに、彼を見て、彼を殺そうとたくらんだ。…

すると、ユダが兄弟たちに言った。「弟を殺し、その血を隠したとて、何の益になろう。さあ、ヨセフをイシュマエル人に売ろう。われわれが手をかけてはならない。彼はわれわれの肉親の弟だから。」兄弟たちは彼の言うことを聞き入れた。』旧約聖書 創世記37:18.26.27

ヨセフは兄弟たちにねたまれ、憎まれていた。

兄弟たちは、ヨセフを殺す計画を立てる。

ヨセフを捕らえて、穴の中に投げ込む。が、殺さすに、通りかかったミデヤン人の商人に、銀紙20枚で売った。ヨセフはエジプトに連れられて行く。

悲惨な話しである。人間のどこまでも愚かしい行動が、書かれてある。

しかし、兄たちをひどい人たちだとだけ私は言えないと思う。

“十戒”に「殺してはならない。」とある。私たちは「人を殺しはしないよ。」と思うかもしれないが、どんな状況になったら、殺意が湧くかわからない。神様はそのことを良くご存じなのだと思う。

ヨセフは殺されこそされなかったが、エジプトへ売られていった。

ヨセフの生涯のテーマは何だろうか。

私が勝手につけさせてもらえば、創世記50:20ではないかと思ってしまう。

『あなたがた(兄たち)は、私に悪を計りましたが、神はそれを、良いことのための計らいとなさいました。それはきょうのようにして、多くの人々を生かしておくためでした。』

これは、ヨセフが何十年か後、エジプトの王の右腕としての地位につき、食料をもらいにひれ伏す兄たちに言ったことばである。

ヨセフの人生は波乱に満ちていた。しかし、それは神様の計画の中にあった。

その中でノンビリ屋のヨセフは信仰の訓練を受け、神様への信頼を増していった。

そして、ヨセフに言わせたことばが、「人の悪も神は良いことの計画に変えた。」と告白させた。

私たちは、時に厳しい状況に置かれる。それが、人の手による悪であるならば、余計に苦しい。

苦しむ人に安易に、「それをも神様は益にしてくださる。」とは言えない。それは人から言われることではなく、告白でなければ、縛りになる。

しかし、私は今、自分の過去に対して言うなら、神様の恵みは、人の悪を越えていた…と言いたい。

私の教会生活で苦しんだ年月が、今の私を造っている。その中には、人の悪だけでない、自分の弱さゆえの訓練のほうが多かったかもしれない。

本当に過去を振り返って、「自分や人の弱さを越えて神様は良いことをされた。」と私が実感するようになったのは、ブログを書くようになってからだ。

神様がそのときまで、お一人お一人を守り支えられますように。

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神様、私たちは、今起こっている出来事に意味を見い出せず、苦しむものです。

しかし、ヨセフの波乱に満ちた人生を見るとき、そこにいつも神様がいてくださったこと、その神様に信頼を増していくヨセフがいたことを見ることができるのは、慰めです。

私たちの内側を強め、環境にも支配してくださる神様、どうぞ、ときがきたら、私たちもまた「人は私に悪を計りましたが、神様は良いことに変えられました。」と言えるようにしてください。

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2009年6月28日 (日)

『神が羊を捜し、世話をします。』

イエス様は群れを残しても、迷った羊一匹を捜しに出かけてくださる方です。

『あなたがたはどう思いますか。もし、だれかが百匹の羊を持っていて、そのうちの一匹が迷い出たとしたら、その人は九十九匹を山に残して、迷った一匹を探しに出かけないでしょうか。

そして、もし、いたとなれば、まことに、あなたがたに告げます。その人は迷わなかった九十九匹の羊以上にこの一匹を喜ぶのです。

このように、この小さい者たちのひとりが滅びることは、天にいますあなたがたの父のみこころではありません。』新約聖書 マタイの福音書18:12~14

おはようございます。

この日曜日の朝も、神様が教会の外にいる人にも、関心をもっておられ、そこに思いがとてもあることを、聖書からともに見たいと思います。

上記の聖書のことばは、イエス様が言われたことばです。

そして、イエス様ご自身が、群れにいる九十九匹を山に残して、迷った一匹の羊を捜しに出かけてくださる方です。

一匹いないけど、九十九匹いるからいいか…とは思いません。

迷った一匹が、大事で、傷だらけになって捜すイエス様の紙芝居を良く、昔読みました。

そして迷った一匹を見つけて、大喜びで帰ってくるのでした。

私たちは、迷っている一匹ならば、イエス様は捜し、見つけ、喜びながら連れ戻してくださる方です。

エゼキエル34章には、人間の牧者たちは羊を捜し求めず、養わず…しかし、神様は違うと言われました。

『わたし(神)は自分でわたしの羊を捜し出し、これの世話をする。

牧者が昼間、散らされていた自分の羊の中にいて、その群れの世話をするように、わたしはわたしの羊を、雲と暗やみの日に散らされたすべての所から救い出して、世話をする。…

わたしは失われたものを捜し、迷い出たものを連れ戻し、傷ついたものを包み、病気のものを力づける。』エゼキエル34:11~16

なんと、群れの外にいるものにとって、慰めに満ちたことを神様は語ってくださっているのでしょうか。

どのようによってかは、具体的には、今の私にもわかりませんが、イエス様によって一つに集め、養ってくださると言ってくれています。(エゼキエル34:23)

私は信じています。今、群れの外にいる人が、神様はそのままにして置かないのを。

神様は、そんな外に対する熱い思いを私にも語ってくれています。

私たちの中に、見えないですが、聖書のことばと聖霊様によって感じられる、このイエス様にともに連なっていけますことを心から祈ります。

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神様、イエス様が群れを残しても、迷った一匹の羊を捜しに行かれる方であることをありがとうございます。

今、群れの中にいなくても、イエス様が牧者となってくださり、傷ついた者を包み、病気のものを力づけてください。

私たちの側がどんなに迷っても、イエス様のほうで捜しだして、イエス様と一緒に居させてくださることに、安心させてください。

今日も、この小さなブログを通して、神様の思いが伝わるようにしてください。

ともに、このエゼキエルのことばが、お一人お一人の中に実現することを信じて祈りますので、そのようにしてください。

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“罪のない者が、石を投げなさい”

人の罪を前に、私がなせることは何か思いました。

『けれども、彼らが問い続けてやめなかったので、イエスは身を起こして言われた。

「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。」』新約聖書 ヨハネの福音書8:7

前回のブログで、自己義認のテーマで書きました。

実は、教会の中に自己義認があるのではないかと思わされ、それを自分にもあるものと受け取りきれないうちに書いたかなぁと思いました。

書いてからは、私自身もまた、そのようなもので、私は自分の梁を示され、癒されないと、心底、相手のためには祈れないというところに落ち着きましたが…。

私は正義感が強く(それが正しいかは別です。)、弱い立場の人が窮すると、そんな目に合わせた人に怒りやすいものです。

しかし、誰かが人にした間違いを怒るのも、見ぬふりをするのも、冷静に客観的に分析するのも、皆違うような気がします。

パリサイ人たちが、姦淫(かんいん)の女をイエス様に付きだしたとき、「律法でいけば、この女は石打ちの刑で殺されなくてはいけない罪を犯しています。イエス様、あなたは何と言いますか。」と言いました。

イエス様はしばらく地面に何か書いて時間が過ぎていきました。

周りで彼らが問い続けるので、「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。」と言われました。

すると、年長者から去っていき、誰もいなくなりました。

イエス様の選択は誰も取らないものでした。

イエス様を試そうとした悪い動機の人たちには、「自分が罪がなかったら、石を投げなさい。」と皆罪あるものであることを示されました。

罪で告発された女には、「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今から決して罪を犯してはなりません。」と言われました。

罪を犯すことのなかったイエス様だけが言えたことばであり、十字架で私たちの罪を負ってくださったイエス様だけが言えたことばでした。

私は長い間、教会を裁いてきましたし、今尚、違うんじゃないか?と裁きたくなる者です。

でも、もしそこに弱さや間違いがあったら、イエス様にあって赦された者として、出来ることは“とりなして祈る”…それしかないのではないかと思います。

私がもし明らかな間違いを裁いたとたん、私は自己義認に陥るのです。

イエス様が、私の罪のために十字架にかかってくれ、私の罪を赦してくれた事実の前に、人や教会の間違いは“とりなし祈る”ものでありたい…そう思わされました。

###

神様、私は怒りやすい者、人を裁きやすい者です。赦してください。

明らかな間違いや、弱者が痛めつけられることは、本当に頭にきますが、イエス様の前でそれが間違いであることを教えられました。

愛をもってとりなす祈りと、裁く思いで祈る祈りは違うものであることを神様は知っています。

本当に相手に同情し、相手の回復を願うのでなければ、祈りは聞かれないと思います。

自分のための周りを変える祈りは聞かれないからです。

自分も見張り、そのへりくだりの中で、とりなせる者としてください。

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2009年6月27日 (土)

“あのようなものでないことを感謝します”(自己義認)

自己義認について思いました。

『自分を義人だと自任し、他の人々を見下している者たちに対しては、イエスはこのようなたとえを話された。

「ふたりの人が、祈るために宮に上った。ひとりはパリサイ人で、もうひとりは取税人(しゅぜいにん)であった。

パリサイ人は、立って、心の中でこんな祈りをした。

『神よ。私は、ほかの人々のようにゆるす者、不正な者、姦淫(かんいん)する者ではなく、ことにこの取税人のようでないことを、感謝します。

私は週に2度断食し、自分の受けるものはみな、その十分の一をささげております。』

ところが、取税人は、遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。

『神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。』

あなたがたに言うが、この人が、義と認められて家に帰りました。パリサイ人ではありません。

なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。」』新約聖書 ルカによる福音書18:914

人間は弱い。この聖書の記事を読むとき、実は、私たちが往々にして、このパリサイ人であることに気がつかない。

私もまた、自己義認する、このパリサイ人である。

「神様、私は教会に行けて礼拝しているものです。献金し、奉仕しているものです。あの人のように、クリスチャンでありながら、何もしない人ではないことを感謝します。」

そんな気持ちが私の中にも無いだろうか。

私たちは弱い。小さいときから、“何かする”ことで、評価を受けてきた。

そして、行いによらない、全く違う世界にイエス様によって入れてもらったのに、尚、行いの評価で自分を判断し、人を計る。

イエス様は、そのような人を自己義認と人を見下す心、そしてごう慢な者として、神様から良しとはされないことを言われた。

多くの人は、パリサイ人を見て、私はこのようなパリサイ人ではない、こんなに人を見下すものではないと思う。聖霊様が働かれ、私のうちを探ってくださらなければ、私たちは自分の本当の姿を見ることができない。

私が、自分は何か出来ているというところに乗る、その罪が明らかにされ、赦されるように。

###

神様、私には、何かをやっていることで、満足する心がたくさんありますから、聖霊様がそのことを照らし、教え、認め、きよめてください。

私たちは、皆イエス様のあわれみによって、滅びからまぬがれたものです。

そのあわれみのもとに生かされているだけです。

教会に行く、献金することすら、神様のあわれみによってできることであり、私たちがその行為で認められようとする心を赦してください。

私たちは、イエス様によって、行いで評価される縛りからは解かれました。

私たちは、ただあなたのみ前にへりくだることを、イエス様とのふさわしい関係として与えてくださいましたから、そのふさわしい関係に入れるように、導いてください。

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“夢見たヨセフ”(創37)

ヨセフの人生を見ていきます。ヨセフは私にとって、身近に感じられる人物です。

『あるとき、ヨセフは夢を見て、それを兄たちに告げた。すると彼らは、ますます彼を憎むようになった。

ヨセフは言った。「どうか私の見たこの夢を聞いてください。

見ると、私たちは畑で束(たば)をたばねていました。すると突然、私の束が立ち上がり、しかもまっすぐに立っているのです。見ると、あなたがたの束が回りに来て、私の束におじきをしました。」』旧約聖書 創世記37:5~7

ヨセフは父ヤコブに偏愛された。それでヨセフだけが、そでつきの長服を着ていた。

兄たちは、そんなヨセフを憎んだ。穏やかに話せないくらいだった。

若いヨセフはそんなことも知らずに、お兄さんたちに自分の見た夢を話す。

「お兄さんたちの束が、僕の束におじぎする夢を見たよ。」

兄たちは言った。「ヨセフ、お前が俺たちを治める王にでもなるというのか。何を馬鹿なこと言うんだ、こいつは。」

ヨセフは、回りの状況が見えたい子だったのだろうか。兄たちの怒りや憎しみがありながら、再び、似た夢を見た話しをする。

ヨセフを偏愛する父、えこひいきされているヨセフを憎む兄たち、その周りの状況がわからず平気で夢の話しをするヨセフ。

これらの人間的な弱さの絡(から)み合いの中、やがて、ヨセフがエジプトに売られる悲惨な結果につながる。

しかし、神様がヨセフの夢で教えた計画は長い年月をかけ、神様の時の中でそのとおりになっていく。

『彼(ヨセフ)のことばがそのとおりになる時まで、主(神)のことばは彼をためした。』詩篇105:19

ヨセフが神様から教えられて、兄たちに言ったことば(ヨセフの将来)は、そのとおりになる時まで、神様自身によって試され、訓練された。

私にも、神様は若いとき、「あなたの神様にある働きはこれだ。」と語られた。

しかし、待てども、待てども、その状況は開かれなかった。

そのとき、この詩篇105:19の聖書のことばに慰められた。

神様は私たち一人一人、すべての人に神様の特別な計画がある。

神様が選び、呼んだということには、礼拝者となるためでもあるが、一人一人の計画や神様からの特別な働きをなすためでもあるのだ。

私は今、25年前に語られた神様の働きのスタートラインにやっと立てた気がする。

神様の計画されたこと、約束されたことは、神様によって必ず成る。

ただ、その訓練もまた伴うということだろう。

ヨセフは、エジプトに売られ、濡れ衣をきせられ、忘れられ、想像を絶する波乱に満ちた人生となった。

しかし、その人生の中にいつも神様がいた。その試練の中で、ヨセフは神様に揺らぐことのない信仰を確立していくのだった。

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“権力によらず、能力によらず、神の霊によって”

神様の主導権を思いました。

『「私が見ますと、全体が金でできている一つの燭台があります。その上部には、鉢があり、その鉢の上には7つのともしび皿があり、その上部にあるともしび皿には、それぞれ7つの管がついています。

また、そのそばには2本のオリーブの木があり、一本はこの鉢の右に、他の一本はその左にあります。」

さらに私は、私に話していたみ使いにこう言った。「主よ。これらは何ですか。」…

すると彼は、私に答えてこう言った。「これが、ゼルバベルへの主のことばだ。

『権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって。』

と万軍の主は仰せられる。

大いなる山よ。おまえは何者だ。ゼルバベルの前で平地となれ。

彼は、『恵みあれ。これに恵みあれ。』と叫びながら、かしら石を運びだそう。』旧約聖書 ゼカリヤ書4:3~7

「権力によらず、能力によらず、神の霊によって」

今から20年位前、私が今にも倒れそうになりながら、教会勤めをしていたとき、洗礼を受けて間もない男の子が、いつもこのことばで一緒に祈ってくれた。

今、神様がすべての主導権をもって、あわれみ、導いてくださるとき、この聖書のことばを思い出した。

ゼカリヤはたくさんの幻を見せられながら、神様のメッセージを伝えた。

ここは、神殿再建のための励ましが書かれている。

捕囚のイスラエルの民は、自分たちの国に戻り、神殿を再建する。そのことは、「権力によらず、能力によらず、神の霊によってなされる。」と言われた。

権力は、集団的な力、能力は個人的な力を意味するらしい。

「社会的な権力や影響力によらず、個人的な力によらず、神様が主導権を握って、その神殿の再建はなされる」と、神様は、再建のまとめ役をしていたゼルバベルに言われた。

大いなる山とは、神殿建築にあたっての様々な困難を示す。

その困難の山は、総督ゼルバベルの前で解決され、建築者たちは、神様の祝福を願いながら、その石を運ぶようになると語られた。

今、私たち自身が聖霊様の住まわる神殿である。

まさに、私たちの神殿は、イエス様によって、建てあげられた。

そこには、社会的な集団の力は一切働いておらず、誰かの個人的な力も働かず、ただ神様の霊によってそのことが成された。

私たちが自分の信仰の出発も、また、その先も、ただ神様の主導権の中で進んでいる…これは大きな慰めである。

私の弱さ、足りなさ、失敗に関係なく、神様によって、事は進められている。

『権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって』

かつての私の信仰の友は、受洗して、クリスチャンになって 間もないのに、神様の働きの本質をとらえていたのだなぁと思った。

私もまた、一人で祈るとき、このことばで、神様の主導権を強調して祈る者でありたいと思った。

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2009年6月26日 (金)

“花婿なるイエス様の愛”

イエス様が私たちに求めておられるのは何か、考えました。

『私の妹、花嫁よ。あなたは私の心を奪った。

あなたのただ一度のまなざしと、あなたの首飾りのただ一つの宝石で、私の心を奪ってしまった。

私の妹よ、花嫁よ。あなたの愛は、なんと麗(うるわ)しいことよ。

あなたの愛は、ぶどう酒よりもはるかにまさり、あなたの香油のかおりは、すべての香料にもまさっている。』旧約聖書 雅歌4:9.10

雅歌では、花婿と花嫁が互いに愛を語り合う。

聖書では、キリストは花婿、教会は花嫁にたとえられる。

イエス様は、花婿のように、私たち一人一人をこよなく愛しておられる。

その愛は深すぎて、私たちはすべてを理解はできない。

しかし、花婿が花嫁に愛をささやくように、私たちを愛しておられる。

イエス様の高尚な愛を人間の男女レベルで想像してよいのだろうかとも思う。

けれども、ここにわかりやすい一つのことが隠されている気がする。

「わが愛する者。あなたはなんと美しいことよ。」と語るとき、花婿が求めているもの、それはただ一つ、花嫁自身だけである。

イエス様が求めておられるのは、私たち自身なのだ。

「イエス様、あなたを愛します。」と私が言いながら、料理を作ることに没頭し、イエス様を待たせ、忘れるならばイエス様は悲しむ。

さらに、イエス様のためにと、プレゼントをあげることも、何かを努力することも、イエス様は求めていない。

イエス様が求めておられるのは、イエス様を愛する心である。

マルタとマリアの話しがあるが、イエス様はマルタに言われた。

「しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。」

マリアは何もせず、ただイエス様の足もとにすわり、イエス様のお話しを聞かれた。

イエス様自身に集中していた。

私たちがイエス様の愛に応えていけるようになるためには、イエス様を知っていく…という道のりが必要である。

一足飛びに、イエス様の愛に応答していけるものにはならないかもしれない。

ただ、イエス様が何を求めておられるか知ったならば、その応答への道に歩めるような気がする。

熱い熱いイエス様の愛に、負けることなく、応答する雅歌の花嫁の姿があった。

『私を封印のようにあなたの心臓の上に、封印のようにあなたの腕につけてください。

愛は死のように強く、ねたみはよみのように激しいからです。

その炎は火の炎、すさまじい炎です。

大水もあなたの愛を消すことができません。

洪水も押し流すことができません。

もし、人が愛を得ようとして、自分の財産をことごとく与えても、ただのさげすみしか得られません。』雅歌8:6.7

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2009年6月25日 (木)

“神との格闘”(ヤボクの渡し)

神様は、ときに私たちと戦ってくださり、やすらぎを与えてくださいます。

『ヤコブはひとりだけ、あとに残った。すると、ある人が夜明けまで彼と格闘した。

ところが、その人がヤコブに勝てないのを見てとって、ヤコブのももつがいを打ったので、その人と格闘しているうちに、ヤコブのももつがいがはずれた。

するとその人は言った。「わたしを去らせよ。夜が明けるから。」しかし、ヤコブは答えた。「私はあなたを去らせません。私を祝福してくださらなければ。」

その人は言った。「あなたの名は何というのか。」彼は答えた。「ヤコブです。」

その人は言った。「あなたの名は、もうヤコブとは呼ばれない。イスラエルだ。あなたは神と戦い、人と戦い、勝ったからだ。」』旧約聖書 創世記32:24~28

ヤコブは、自分の育った家に帰るためには、兄エサウとの和解が必要だった。

20年前、父をだまし、兄エサウから長子の権利の祝福を横取りし、殺意を抱かれ、命からがらに逃げた。

ヤコブには恐れがあった。エサウ兄さんはまだ、恨んでいるだろうか。

兄エサウに、使者を送った。返事はなく、400人を引き連れてエサウが来るとのことだった。

ますます、その不安や恐れがヤコブを襲った。

万が一、襲撃されてもいいよう、あれやこれや手を打つ。しかし、不安は大きくなるばかりである。

“ヤボクの渡し”での夜中の神との格闘は有名である。

ヤコブは夜、ひとりになり、祈った。その前に、昼間もヤコブは祈っていた。しかし、今度は、強烈な自我と兄に対する自責の念に対して、格闘して祈った。

ヤコブはももつがいを打たれたとある。その強烈な自我を打たれた。自我は砕かれた。

そして、神様に「あなたはもうヤコブとは呼ばれない。イスラエルだ。」と言われる。

ヤコブは「押し退ける」という意味であった。

それが、「神と戦う者」となり、「神が支配する者」となった。

私は人から「あなたは人を押し退け、ヤコブのような人だ。」と年配の人から言われたことがある。悔しくて、一人神様の前で泣いた。

だから、ヤコブの自我のゆえの様々な葛藤や、やり方がよくわかる。

そんな私も、自分の自我を神様の前に出して、格闘し、少しずつ自我を取られていった気がする。

ヤコブは、すがすがしい朝を迎えられた。もう、恐れや不安はなかった。

自分を守ろうと策を考え、自分が最後部にいるものであった。が、ヤコブは群れの最前にいた。

兄に近づくまで、7回も地に伏しておじきをした。形ではなく、心からの敬意を兄に表した。

『エサウは彼(ヤコブ)を迎えに走って来て、彼をいだき、首に抱きついて口づけし、ふたりは泣いた。』創世記33:3

20年ぶりの和解であった。先頭に立つヤコブのへりくだった態度に、エサウの警戒心が解かれ、憎しみが消えたのだった。

私たちの内にあるものを知っておられる神様は、ときに、私たちと格闘してくださり、私たちの不安や恐れのもととなるものを取り去ってくださる。

神様は私たちに、安心とへりくだりを与え、人とも和解するものとしてくださる方であることを心から感謝する。

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2009年6月24日 (水)

“成長させてくださる神様”(あじさい扁)

私たち一人一人を神様は成長させてくださっているのを、美しいあじさいの花を見ながら思いました。

『私が植えて、アポロが水を注ぎました。しかし、成長させたのは神です。

それで、たいせつなのは、植える者でも水を注ぐ者でもありません。成長させてくださる神なのです。…

私たちは神の協力者であり、あなたがたは神の畑、神の建物です。…

だれも、すでに据(す)えられている土台のほかに、ほかの物を据えることはできないからです。その土台とはイエス・キリストです。』新約聖書 第1コリント3:6~11

我が家の庭には、1メートル以上の高さのあじさいの木がある。

何年か前に、鉢のまま、庭の片隅に置いておいたら、地面に根付き、鉢をやぶって巨大化した。

深い紫色の青々とした大きな花が20以上ついている。

もう、ここが私たちの場所と主張するかのように、激しく降り続ける雨の中を誇らしげに咲いている。

私たちもこの花のようなのだなぁと思った。

私は神様の働きがしたくて仕方がなかった。今に至るのに、30年の月日がたった。

それまでは、土にもぐっていた状態だろうか。神様の忍耐の養いの中で、ただ神様によって成長させられた。私の霊的な賜物が、やっと誰かと分かち合える始まりとなった。

そして、神様は、一人一人に特別な賜物(神様にある能力)と計画を与えてくれている。知っていようがいまいが、もれなく、全員にである!

一つの花が咲くのに、季節や立地条件や、成育状況などいろいろ違う。

けれども、神様は一人一人に特別な良いものを与えておられる。

それを成長させてくださるのは神様である。

もしかしたら、水や日光や肥料が足りなく、元気でないかもしれない。

しかし、どんな乏しい状況の中にあっても、神様は必要を満たし、私たちを養い、成長させてくださる。

その土台は、イエス・キリストという揺らぐことのない希望である。

私たちのうちには、聖霊なる神様を住まわせてくださり、内側からも、外側のほうからも導いてくださる。

今日、雨の中のあじさいの花に感動しながら、私たち自身が、神様にあって、このようであることを感謝した。

♯♯♯

神様、私たちの中に、イエス様のいのちを与えてくださり、ありがとうございます。

ときには、その花が咲かず、自分の成長を疑いたくなりますが、成長させてくださっているのは、神様でありますから、ありがとうございます。

私たちに与えられた変わることのない基礎のイエス様を、また私たちの内には聖霊様を与えてくださっていることをありがとうございます。

私に良いものを与え、計画を与えてくださっている神様をありがとうございます。

私たちも神様の養いの中、時がきたら、綺麗な花を咲かせるものとさせられていることを信じます。

私たちを主の思いのまま、この場所で成長させてください。

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“十字架の救いの確かさ”

イエス・キリストの十字架の“救い”の確かであることの話しです。

『すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、

ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによるあがないのゆえに、価なしに義と認められるのです。』新約聖書 ローマ人への手紙3:23.24

“救い”に関して、迷える人さんから質問がありました。

“救い”とはキリスト教用語みたいなものですが、どうやったら、神の子どもになれるか、新しいいのちが与えられるか、地獄ではなく、天国にいけるかと言うことです。

この“救い”に関しては、とてもシンプルです。

“イエス様の十字架が私のためであった”と信じるすべての人がその“救い”にあずかれます。

一つは、イエス・キリストの十字架のあがないは神様の前に“完全”であったからです。何のつけたしも必要ありません。

次にその“救い”に、信じる以外、人間側には何も要求されていないということです。

“ただ、神の恵みにより”とありますが、すべての人が、神様から見たらアウト(地獄に行き、裁かれる存在)だったのです。

ただ神様が、あわれみと一方的な恵みで、イエス様の十字架の備えをくださったのです。

もし、信じた後の神様への応答のあり方が問われたならば、皆、救われたのか救われないのか怖くて大変です。

再臨や最後の審判に備えなければ、泣いて悔しがるというような箇所があります。

そこをどう解釈するかはありますが、私は第1コリント3:12~15から、イエス様を信じた人は皆救われるがその通されかたが違うのかなと思っています。

ファイナルクエスト(リック・ジョイナー著)の幻の本を読んだことがあります。

個人体験の幻をどう信じるかは別として、天国とはこういうところかもしれないと教えられました。

そこに、「愚かな娘」が天国にいる話しが出てきます。天国の『最も小さなもの』としているという話しでした。

しかし、素晴らしい天国にいるのです。

何か私の中で納得しました。

“救い”に関して、イエス様の十字架に付け足してはいけないとガラテヤ人の手紙にもあります。

私たちは、イエス様の十字架の救いに立つべきで、何をしたから、しなかったから…ということで人を安易に計ってはいけないと思います。

だから、教会に行っていないから、何もイエス様のためにしていないから…とかということで“救い”が無くなるなどということは、全くありません。

“救い”とその次の“成長”の話しは全く別ものです。

人間は弱いので、目に見えることでいろんな判断をしがちですが、人間側の不確かではなく、神様の備えの確かさに目を向けないと、揺れてしまいます。

このイエス・キリストの救いの確かなことを心から感謝して受けられますように。

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2009年6月23日 (火)

“私は弱さを誇ります”

弱さについて、聖書から見てみました。

『だれかが弱くて、私が弱くない、ということがあるでしょうか。だれかつまずいて、私の心が激しく痛まないでおられましょうか。

もしどうしても誇る必要があるなら、私は自分の弱さを誇ります。』新約聖書 第2コリント11:29.30

私はどうしようもなく、弱い者だと、今、思わされています。

私はもともと弱かったのです。神様無しでは、ただ孤独と空虚さに漂っているものでした。

心が神様によって癒され、回復によって、元気な者、強い者にされた気がしていました。

が、聖霊様にあって、ひたすらどうしようもなく弱い者だと思わされています。

何をもって弱いというかというのがありますが、この世の中では、“弱さ”は歓迎されません。だから、人は強くあるようにしているのかもしれません。

しかし、パウロは、「どうしても誇る必要があるなら、私は自分の弱さを誇ろう。」と言っています。

これは負け惜しみとかではなく、イエス様にある人の本来の姿なのだと思います。

自分の弱さは何を生むでしょうか。

他者へのいたわり、優しさ、共感、同情、慰め、支えなどです。

世の中では否定されがちな“弱さ”ですが、イエス様の世界では歓迎されるものだと思います。

パウロは宣教にあっては考えられない苦難を通りました。

しかし、人の弱さを知っていました。教会の心づかいの中で、だれかがつまずいたら、激しくともに痛む心がありました。

自分を強いと思っている人は、人の弱さに共感できません。自分にある弱さを所有していないので、人の弱さも見たくない、受け入れたくないのです。

私も今、どうしても誇る必要があるなら、自分の弱さを誇り、人と痛みを共有するものでありたいと思います。

自分が弱い者であったのを忘れかけていましたが、聖霊様が見せてくれる私の本来の姿を歓迎しています。

『しかし、主は、「わたし(イエス)の恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである。」と言われたのです。

ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。』第2コリント12:9

♯♯♯

神様、私は弱い者です。実はあなたがいてくださらなければ、生きていくことすらできないものでした。

こんなに弱い私を愛し、支えてくださり、ありがとうございます。

この世の中にあって、弱さは否定されますが、イエス様の世界は違います。

イエス様ご自身が神様であられたのに、無力な者となってくださいました。

私たちは弱いそのままで受け入れられ、その弱さにイエス様の力が現れるようにしてください。

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