“教会の外にいるクリスチャン”
今年一年のブログを振り返り、私が神様から与えられたテーマを改めて思いました。
『しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、
―あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです。―
キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。
それは、あとに来る世々において、このすぐれて豊かな御恵みを、キリスト・イエスにおいて私たちに賜(たま)わる慈愛によって明らかにお示しになるためでした。
あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物(たまもの)です。』新約聖書 エペソ人への手紙2:4~8
今年もあと3日。一年を振り返ると、ブログの祝福が大きかったことを思う。
5月に教会の外にいるクリスチャンを思わされ、祈ってきた。
私自身は教会にかろうじて通う人間だが、教会の中と外の溝を思い、中がきよめられ、外が癒されるように祈ってきた。
私はどうあっても、教会の中の人間だと思う。
家庭を持っている子どもが、家庭や親のいない子どもの大変さを想像できたとしても、体験していないわけだから、やっぱりわからない。
教会に行っている者は、外にいる人の気持ちが全部はわからない…それと同じなのだと思う。
それでも、教会の外にいる人も、教会の外にいるクリスチャンも神様は等しく愛しておられ、恵み祝福したいと願っているのを思う。
目に見えないキリストのからだは、教会の中の人も外の人もみんな含んでいる。
教会の外の人が、痛み、寂しく、苦しんでいたら、それはキリストのからだの一部の痛みなのだ。
教会の中の人たちにきよめられて、あふれるばかりの聖霊様が満ちたならば、自分たちが教会の中で人を待っている…そこにはとどまらないのだと思う。
教会の中にイエス様の十字架の赦しがあふれていたら、そこにとどまり、癒された人も多かったかもしれない。
神様は教会の外の人に、外にいながら、癒しを与え、回復を与え、中の人たちのために祈る信仰を与え、イエス様の平和を現す…と私は信じている。(エペソ2:17)
なぜなら、神様ご自身は、強い人、多くをできる人、立派な人、知恵のある人には働かずに、この世で見捨てられた無に等しい人に働かれるからである。(第1コリント1:26~31)
ブログの中で、毎回教会の外の人の話しをしている訳ではないが、たぶん、ブログ訪問してくださっている方々の多くが外の人かなぁと思ったりする。
日曜日に教会に行けるならば、それは祝福である。
けれども、教会に行かずとも、祈らずとも、聖書を読まずとも、クリスチャンらしくなくても、イエス様を信じているならば、それは、神様が与えた信仰で、神様が選ばれたからなのである。
来年も、人が弱くとも、神様の主権は変わらず、イエス様の十字架の赦しは完全であることを思い、御霊に教えられながら、ブログを書きたい。
来年もよろしくお願いします。
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