教会の外の方へ

2009年12月29日 (火)

“教会の外にいるクリスチャン”

今年一年のブログを振り返り、私が神様から与えられたテーマを改めて思いました。

『しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、

―あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです。―

キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。

それは、あとに来る世々において、このすぐれて豊かな御恵みを、キリスト・イエスにおいて私たちに賜(たま)わる慈愛によって明らかにお示しになるためでした。

あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物(たまもの)です。』新約聖書 エペソ人への手紙2:4~8

今年もあと3日。一年を振り返ると、ブログの祝福が大きかったことを思う。

5月に教会の外にいるクリスチャンを思わされ、祈ってきた。

私自身は教会にかろうじて通う人間だが、教会の中と外の溝を思い、中がきよめられ、外が癒されるように祈ってきた。

私はどうあっても、教会の中の人間だと思う。

家庭を持っている子どもが、家庭や親のいない子どもの大変さを想像できたとしても、体験していないわけだから、やっぱりわからない。

教会に行っている者は、外にいる人の気持ちが全部はわからない…それと同じなのだと思う。

それでも、教会の外にいる人も、教会の外にいるクリスチャンも神様は等しく愛しておられ、恵み祝福したいと願っているのを思う。

目に見えないキリストのからだは、教会の中の人も外の人もみんな含んでいる。

教会の外の人が、痛み、寂しく、苦しんでいたら、それはキリストのからだの一部の痛みなのだ。

教会の中の人たちにきよめられて、あふれるばかりの聖霊様が満ちたならば、自分たちが教会の中で人を待っている…そこにはとどまらないのだと思う。

教会の中にイエス様の十字架の赦しがあふれていたら、そこにとどまり、癒された人も多かったかもしれない。

神様は教会の外の人に、外にいながら、癒しを与え、回復を与え、中の人たちのために祈る信仰を与え、イエス様の平和を現す…と私は信じている。(エペソ2:17)

なぜなら、神様ご自身は、強い人、多くをできる人、立派な人、知恵のある人には働かずに、この世で見捨てられた無に等しい人に働かれるからである。(第1コリント1:26~31)

ブログの中で、毎回教会の外の人の話しをしている訳ではないが、たぶん、ブログ訪問してくださっている方々の多くが外の人かなぁと思ったりする。

日曜日に教会に行けるならば、それは祝福である。

けれども、教会に行かずとも、祈らずとも、聖書を読まずとも、クリスチャンらしくなくても、イエス様を信じているならば、それは、神様が与えた信仰で、神様が選ばれたからなのである。

来年も、人が弱くとも、神様の主権は変わらず、イエス様の十字架の赦しは完全であることを思い、御霊に教えられながら、ブログを書きたい。

来年もよろしくお願いします。

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2009年8月 9日 (日)

“天国の喜び”

“天国”を待ち望む心を思いました。

『あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたし(イエス)を信じなさい。

わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。

もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。

わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。

わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。

わたしの行く道はあなたがたをもおらせるためです。』新約聖書 ヨハネの福音書14:1~4

おはようございます。

神様はすべてを造られ、すべての人の神様です。

教会の外にいる人たちにも、神様の計画を知らせたいと切に願っているのを思います。

この朝は、“天国”について、共に分かち合いたいと思います。

聖書では、“人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている”(ヘブル9:27)とあります。

イエス様の十字架を信じた人は、永遠のいのちが与えられ、天国に行きます。

天国とは、どういうところでしょうか。

天国へ行って、戻ってきた人はあまりいません。それでは、死んでみないとわからないのでしょうか。

天国はイエス様がおられるところで、神様の臨在に満ちているところだと思います。

そこでは、人は痛みも悲しみもなく、ただ栄光に変えられた心と体で、おおいなる神様を心から賛美し、喜びに満ちあふれているところだと思います。

昼も夜も神様を賛美し、喜び楽しんでいる場所です。

私は、天国がどんなところか、この地上でも、神様は教えてくれて、わずかであっても体験させてくれるのだと思います。

例えば、礼拝し、神様のご臨在の中に入るとき、それは天国の前味だと思います。

イエス様がいてくれるところで、共に心を合わせて祈ったり、神様の良いものを共有したりするとき、その喜びも天国の前味と思います。

そして、その神様が与えてくれる喜びに満たされるとき、このさらに強い神様の栄光と臨在の中に、喜びと平安の中に持続している状態が天国だと思うのです。

地上で天国は体験できるのです。そして、イエス様と近くにいて喜ぶ天国を切望していくに至るのだと思います。

パウロは言いました。

“私にとっては、生きることはキリスト、死ぬこともまた益です。…

私の願いは、世を去ってキリストとともにいることです。実はそのほうが、はるかにまさっています。”(ピリピ1:21.23)

パウロは、イエス様がいる天国を切望していました。

そして、その天国に行くまで、地上に残された苦しみの働きも全うするのみと思いました。

どうそ、聖書の約束の天国があなたのものとなりますように。

天国の前味を味わい、共に、先に約束されている天国の素晴らしさを楽しみに待ち望めますよう、祈ります。

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2009年7月12日 (日)

『イエス様とともに食事をする』

イエス様は、私たちとの交流を願っておられます。

『わたしは、愛する者をしかったり、懲(こ)らしめたりする。だから、熱心になって、悔い改めなさい。

見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところにはいって、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。』新約聖書 黙示録3:19~20

おはようございます。

今日も、神様が教会の外にいる方たちを愛していることを思いつつ、分かち合いをしたいと思います。

私たちは、親しい友人、大切な人といろんな風にして、ともに過ごします。

映画を見に行ったり、旅行したり、買い物に出かけたり…そんな中で、共に食事をするというのは、また、素敵なことです。

一緒に同じ美味しいものを食べながら、話しに花を咲かせます。

イエス様もまた、私たちと共に食事をしながら、語り合いましょうといいます。

そして、その場所は、私たちの心の中でとあります。

イエス様は一番大切なところで、もっとも重要な話しを食事をしながらしましょうと言っています。

イエス様だけが、私たちのすべてを知っておられ、私たちの必要も知っておられます。

私たちが、イエス様に心の扉を開いて、歓迎してお招きする方法は一つです。

それは、イエス様の声を聞くということです。

イエス様は私に今、何を語っておられるでしょうか。

そのイエス様の声に敏感になり、「イエス様、今扉をあけます。私の部屋にはいってください。ともに私と楽しみ、語らってください。」とお招きするなら、イエス様は喜んで、いつでもともに食事をしてくれます。

優しく、ドアをノックするイエス様、外で忍耐して待ってくださるイエス様、今日もお迎えし、このイエス様が用意してくださった食事して語らうときを楽しみましょう。

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イエス様、あなたがお一人、お一人を愛して、親しく交流したいと願っておられることをありがとうございます。

何を話そうか迷わずとも、イエス様のほうで何でも知っていて、話しかけてくれますからありがとうございます。

どうか、私たち一人一人に与えられたこのすばらしいイエス様との親しき交流を祝福してください。

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2009年7月 5日 (日)

『人とは、何者なのでしょう』

天地を造られた神様は、小さな私たちにも関心を持たれています。

『あなた(神)の指のわざである天を見、あなたが整えられた月や星を見ますのに、人とは、何者なのでしょう。

あなたがこれを心に留められるとは。

人の子とは、何者なのでしょう。

あなたがこれを顧(かえり)みられるとは。

あなたは、人を、神よりいくらか劣るものとし、これに栄光と誉れの冠をかぶらせました。

あなたの御手の多くのわざを人に治めさせ、万物を彼の足の下に置かれました。』旧約聖書 詩篇8:3~6

おはようございます。

この日曜日の朝も、神様が教会の外にいる方々を愛してくださっているのを思いつつ、ともに聖書のことばから、神様の思いを分かち合いたいと思います。

詩人ダビデは、空の満天の星を見て、この素敵な詩を歌いました。

真っ暗な夜空、輝く星たちを見ていると、なんか不思議な気持ちになります。

大自然の中にぽつんと立ち、自分がちっぽけな存在に思えます。

そして、あまりにもきれいな、吸い込まれてしまいそうな夜空の星たちの輝きに、自分の悩みも忘れていく感じになります。

詩人ダビデも夜空の星、月を見て、「神様、私たち人間はどういう存在なのでしょうか。

壮大な宇宙、大空、星、月を見るにつけ、それらを造った偉大なる神様が、この小さな人間にも心を留めてくださるということは、いったいどういうことでしょうか。

神様は人だけを神様と交流できる存在と造り、私たち人に神様の栄光と誉れを与えてくださいました。

私たち人に、すべてを支配し、治めさせてくださいました。」

と言うような心境を歌にしました。

天地を造られ、神様と交流ができるのは、人間だけです。

それは、神様が人を神様に似るものに造られたからです。

人間だけが、霊である神様と交流できるように、その心に神様の霊が入るすきまがあるのです。神様と交流する場所です。

けれども、私たちは正しい神様の前に悪い心があるので、神様と交流ができません。

イエス様が十字架で、私たちの代わりにその悪い心の責任を負ってくださいました。

それを信じる人は、悪い心をもったまま、イエス様によって正しいものにみなされ、プレゼントとして神様の御霊=聖霊をいただけるのです。

その神様のお部屋が聖霊で埋まると、私たちに神様のことがよくわかるようになります。

聖霊もまた、神様で、どこにでもおられる神様が私たちのうちにも住んで、ときに慰め、ときに語り、ときに励ましてくださるのです。

イエス様の十字架刑は自分の罪のためだったと信じるだけで、神様の子どものしるしの聖霊をいただけるのです。

天地を創られ、夜空の星々を整えられた神様が、小さな私に心を留めてくださるとは、いったいどういうことでしょうか。

人格を持たれた神様は、今日も私たち一人一人をご存知で、私たちを愛し、私たちに関心を持ち続けてくださっています。

聖霊の部屋が、喜びと愛で満たされますように。

親しく神様との交流を心から楽しめますように祈ります。

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2009年6月28日 (日)

『神が羊を捜し、世話をします。』

イエス様は群れを残しても、迷った羊一匹を捜しに出かけてくださる方です。

『あなたがたはどう思いますか。もし、だれかが百匹の羊を持っていて、そのうちの一匹が迷い出たとしたら、その人は九十九匹を山に残して、迷った一匹を探しに出かけないでしょうか。

そして、もし、いたとなれば、まことに、あなたがたに告げます。その人は迷わなかった九十九匹の羊以上にこの一匹を喜ぶのです。

このように、この小さい者たちのひとりが滅びることは、天にいますあなたがたの父のみこころではありません。』新約聖書 マタイの福音書18:12~14

おはようございます。

この日曜日の朝も、神様が教会の外にいる人にも、関心をもっておられ、そこに思いがとてもあることを、聖書からともに見たいと思います。

上記の聖書のことばは、イエス様が言われたことばです。

そして、イエス様ご自身が、群れにいる九十九匹を山に残して、迷った一匹の羊を捜しに出かけてくださる方です。

一匹いないけど、九十九匹いるからいいか…とは思いません。

迷った一匹が、大事で、傷だらけになって捜すイエス様の紙芝居を良く、昔読みました。

そして迷った一匹を見つけて、大喜びで帰ってくるのでした。

私たちは、迷っている一匹ならば、イエス様は捜し、見つけ、喜びながら連れ戻してくださる方です。

エゼキエル34章には、人間の牧者たちは羊を捜し求めず、養わず…しかし、神様は違うと言われました。

『わたし(神)は自分でわたしの羊を捜し出し、これの世話をする。

牧者が昼間、散らされていた自分の羊の中にいて、その群れの世話をするように、わたしはわたしの羊を、雲と暗やみの日に散らされたすべての所から救い出して、世話をする。…

わたしは失われたものを捜し、迷い出たものを連れ戻し、傷ついたものを包み、病気のものを力づける。』エゼキエル34:11~16

なんと、群れの外にいるものにとって、慰めに満ちたことを神様は語ってくださっているのでしょうか。

どのようによってかは、具体的には、今の私にもわかりませんが、イエス様によって一つに集め、養ってくださると言ってくれています。(エゼキエル34:23)

私は信じています。今、群れの外にいる人が、神様はそのままにして置かないのを。

神様は、そんな外に対する熱い思いを私にも語ってくれています。

私たちの中に、見えないですが、聖書のことばと聖霊様によって感じられる、このイエス様にともに連なっていけますことを心から祈ります。

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神様、イエス様が群れを残しても、迷った一匹の羊を捜しに行かれる方であることをありがとうございます。

今、群れの中にいなくても、イエス様が牧者となってくださり、傷ついた者を包み、病気のものを力づけてください。

私たちの側がどんなに迷っても、イエス様のほうで捜しだして、イエス様と一緒に居させてくださることに、安心させてください。

今日も、この小さなブログを通して、神様の思いが伝わるようにしてください。

ともに、このエゼキエルのことばが、お一人お一人の中に実現することを信じて祈りますので、そのようにしてください。

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2009年6月21日 (日)

“神がまず私たちを愛された”

教会の外の方のために書きました。

『神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。

私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちのために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。』新約聖書 第1ヨハネ4:9.10

この日曜日の朝、おはようございます。

この時間帯は、教会に行って礼拝されている方もいます。

が、天地を造られ、私たちに命を与え、私たちひとりひとりに計画を持たれておられる神様は、すべての人の神様です。

信じていようが、いまいが、良いことをしていようが、悪いことをしていようが、すべての神様です。

そして、神様はすべての人に等しく神様の恵みを提供したいと願っています。

“私たちが神を愛したのでなく、神が私たちを愛し…”

実は、このメッセージがとても大切です。

もしこのような箇所を抜きにして、聖書を読むと、ただの良い人作りの本、“善行と頑張り”だけの本になります。

それは、私にとっては、恐ろしいことです。この世の中の、努力、善行、意志の強さ、選択する力、頑張る世界…そういったものから、しっかりとこぼれ落ちた人間だからです。

そのことをまた、神様の世界でさせられるとするなら、ゾッとします。

聖書に書かれてある世界は、“まず神様からひたすら良いものを受けなさい。”という世界です。

この箇所の前後に“愛し合いなさい”と繰り返し書かれてあります。

私は自分の力で人を愛することはできません。

愛せるだけの神様の愛情をまずたくさんいただくことだと思います。

私は聖書にあることができないとき、無理しません。

というか、ほとんどのことができない者です。

そして、そのような自分を認めます。「イエス様、ごめんなさい」とイエス様のところに行きます。

そして、そんな弱い私をイエス様に包んでもらいます。

イエス様は「大丈夫だよ。あなたの弱さの責任は私が十字架で負ったから。」と言ってくれます。

私は、イエス様と一緒にいる中でたくさんのあわれみを感じ、慰められるのです。

そして、その弱さに慰めとあわれみというベールが包まれていくのを感じます。

愛された、赦されたことに嬉しさがいっぱいになります。

そして、「イエス様、ありがとう。あなたのお役にたちたいです。」となるのです。

私が今、良く賛美する歌の歌詞を載せます。まさに私の今の心境です。

♪罪と恥にまみれた心 けがれなき血で洗ってくれた 打たれ流れた血しおは 私の罪をゆるすため

差し出す何も持たないけれど この手足をささげます

今 天を見上げて立ち上がる 主のまなざし 受けながら

力無くし 流れる涙 刺されたみ手で ぬぐってくれた

数えきれない 主の傷あとは 私をとわに 生かすため

差し出す何も 持たないけれど 歌をもってたたえます

今天を見上げて 立ち上がる 愛と力 受けながら ♪♪

皆さんの上に、このイエス様の慰めと優しさが満ちあふれますように祈ります。

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