聖書-新約聖書

2010年1月 5日 (火)

“神様から与えられた能力”

一人一人に与えられた神様のための能力について書きました。

『一つのからだには多くの器官があって、すべての器官が同じ働きはしないように、大ぜいいる私たちも、キリストにあって一つのからだであり、ひとりひとり互いに器官なのです。

私たちは、与えられた恵みに従って、異なる賜物(たまもの)を持っている…。』新約聖書 ローマ人への手紙12:4~6

私たちはみんな違う形、違う特徴がある。

神様が私たちを選んで、「わたしのところに来なさい。」と招いてくださったときに、すでに、一人一人に特別な神様の国の役割を与えてくださった。

それを“召(め)し”とか“召命(しょうめい)”とか言うときがある。

私は自分自身に与えられている神様からの働き、役割、使命を個人的に知ることはとても大切だと思っている。

それは神様にある生きがいにつながるからである。

また、その役割に関係して、神様からの与えられた能力がすべての人に与えられている。

役割とともに自分にどんな能力、賜物が与えられているかを知ることも大切である。

私たちはその与えられた賜物を使って、キリストのからだを支え、その一部となるからである。

賜物や神様のための能力は、使えば使うほど増えたり、研ぎ澄まされたりしていく。

また、使うことによって神様と喜びを共にすることができる。(マタイ25:21)

広い意味で、私は自分が苦にならなくやれることは誰かのために与えられた賜物と思っている。

ブログを始めるまで、私がこんな形で、人と神様を分かちあえるとは思わなかった。

私の証好きや、人好きや、メール好き(携帯で書いている)が活きている。

私は小説とかあまり読まず、難しい言葉は知らず、長い文を読むのも苦手である。

それが、簡単なことばでブログを書き、2000字前後におさめてる理由である。

私のブログの中にも、私の様々な個性が出ていて、私から出た特徴として神様の分かちあいに使ってもらっている。

人には秘められたものも含め、何百とその人だけに与えられた神様に役立つ能力があると、ある本で読んだことがある。

そうなのだと思う。私たちに特別なふさわしい役割と能力を与えたのは神様である。

私たち一人一人がメイドイン神様…神様によって作られた作品である。

私はクリスチャンになったときに、すぐに神様からどんな役割を与えられているか教えてほしいと神様に願った。

神様を知らないときから、私は「私は何のために生きているか」とても追及していたからだと思う。

私たち自身の中に、神様の宝物はたくさん隠されている。

自分で楽しいと思えるものは、ほぼ与えられた神様のための能力である。

能力を能力として使うところに愛はないが、与えられた能力を神様と人のために使うとき、私たちは神様と喜びをともにする…これが神様からの最大のごほうびなのである。

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2010年1月 2日 (土)

“私たちは、神の目には…”

私たちが神様からどのように見られているかを思いました。

『主のもとに来なさい。主は、人には捨てられたが、神の目には、選ばれた、尊い、生ける石です。』新約聖書 第1ペテロ2:4

私たちは、皆神様から造られ、神様から宝物をいただいているのだと思う。

もしかしたら、ある人の宝物は、誰の目から見てもわかりやすかったりするが、ある人の宝物は隠されていて、なかなかまわりの人の目にはわかりにくかったりするのかもしれない。

イエス様には、すべての人を救う計画があり、すべての人を救うための犠牲の愛があった。

それなのに、イエス様は人々から歓迎されず、受け入れられず、捨てられた。

しかし、イエス様は神様の目から見たら、選ばれた、尊い、救い主であった。

これは、とても慰められることである。

私たちは人から認められ、受け入れられたいと自然に願う。

ある時は、強くそのことを願っているかもしれない。

それとはうらはらに、人々から受け入れられず、尊ばれず、批判されたりする。

大事なことは神様の目からどう見られているかなのである。

『わたし(神)の目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。』(イザヤ43:4)と言っている。

私たちは、自分の価値を自分や人の視点に合わせると、低くなりがちである。

しかし、私たちを選び、愛してくださった神様は、イエス様のいのちの代価をもって私を買い取られた。

私たちもまた、イエス様と等しく、神様の目からみたら、尊い霊的な存在なのである。

私たちに隠されてわかりにくい宝物、それが神様の前に輝きますように。

私たちもまた、生ける石として、イエス様のからだと一部として築き上げられますように祈ります。

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恵み深い天のお父さん、私たちは、人から受け入れられず、認められないと、やっぱりダメな人間なんだなぁと失望してしまいます。

しかし、神様からみたら、イエス様のいのちの代価ほどの価値あるものとしてくださり、愛してくださることをありがとうございます。

イエス様ご自身が人から捨てられましたが、神様の目には、選ばれた、尊いメシヤとありますからありがとうございます。

私たちが自分や人の評価を受け入れるのではなく、私たちをご存じで生かしてくださる神様の真実の評価に目をとめさせてください。

そして、私たちのゆがんだ自己評価を神様の評価へと受け入れられるよう、イエス様の十字架で癒してください。

あなたの癒しを受け取ります。

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2010年1月 1日 (金)

“私たちがひとつとなって…”

今年初めにあたっての、聖書のことばと、ブログに対する私の願いです。

『わたし(イエス)は彼らにおり、あなた(神様)はわたしにおられます。

それは、彼らが全(まっと)うされて一つとなるためです。

それは、あなたがわたしを遣わされたことと、あなたがわたしを愛されたように彼らをも愛されたこととを、この世が知るためです。』新約聖書 ヨハネの福音書17:23

明けまして、おめでとうございます。

主にあって、この一年もまた、皆さんにとって良い年となりますよう、祈ります。

私は教会で、良いこともたくさんあったと思うのだけど、何か、私の求めているものと違うと感じ、苦しみました。

だから教会が、“神様の家族”と言われても、あまりピンときませんでした。

人に傷つきやすかった私のモットーは聖書にあることばですが、“鼻の息するものに頼るな”でした。

人に期待して、失望したときは、即座に「神様、人に期待した私を赦してください。期待するべき良きお方はあなただけです。」と祈ってきました。

正直、そう祈ることで、私の人に期待し、裏切られ、がっかりした気持ちは癒された感じでした。

人にも「人には頼るな、神様だけに頼ったほうがいい。」…と勧めてきました。

ある時期まで、神様の前に自立するために私にとって必要なことだったと思います。

が、ブログで霊的な分かちあいをさせてもらいながら、神様だけに頼ると良い…というのは違うかなぁと思うようになりました。

私自身、不完全ですが、継続して、霊的な分かちあいを共にさせてもらい、今まで経験したことのないような願いがわいてきたのです。

「神様、どうぞ、私も用いられて、その方たちに祝福が届きますように。」

というような思いです。

私たちは、皆、キリストのからだの一部で、互いに支え合っています。

私たちに与えられているキリストのからだの役割は、ほんの少しかもしれませんが、互いに支えあう中に祈りが生まれるのかもしれません。

私はブログで神様を分かちあうという中で、教会では経験しなかった、教会体験…神の家族体験のようなものを経験しています。

私自身不完全ではあっても、純粋に人のために祈るとき、神様が働いてくださるのかもしれません。

ブログという限られた活字だけの世界だけれど、そこにも聖霊様が働き、私たちが一つとなり、イエス様の愛が現されるように…そんな願いを少しずつ大きくしています。

私たちの中にイエス様がいてくださり、私たちの交わりも祝福してくださり、イエス様の愛が現されることを、この年の初めに祈ります。

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2009年12月31日 (木)

“一つになる方法”

とうとう今年も最後になりました。今日、神様に教えられたことを分かちあいます。

『謙遜と柔和の限りを尽くし、寛容を示し、愛をもって互いに忍び合い、平和のきずなで結ばれて御霊の一致を熱心に保ちなさい。

からだは一つ、御霊は一つです。あなたがたが召されたとき、召しのもたらした望みが一つであったのと同じです。

主は一つ、信仰は一つ、バプテスマは一つです。』新約聖書 エペソ人の手紙4:2~5

同じクリスチャンであるのに、これまで教会の中では私は多くのクリスチャンとへだたりを感じてしまってきた。

一番へだたりを感じてきたのが牧師たちである。

ゆえに、残念ながら、私は教会を7回も変わってしまった。

この一年、ブログを書きながら、たくさんのことを神様から教えられた。

今日、教えられたのはクリスチャンが皆一つとなる方法である。

互いに横を向いて、互いに合わせようと思うから一つになれないのだと思った。

皆、与えられている信仰も賜物も違う。

皆が誰かの言うことに合わせることが一致ではない。

キリストのからだなる教会の一致は、イエス様にある一致なのだと思う。

もっと具体的に言うとイエス様の十字架の赦しに感謝していく一致なのだと思う。

十字架に自我をつけて、ただイエス様だけが大きくなり、ただ人々がイエス様だけをあがめ、ほめたたえ、賛美する…礼拝のときだけでなく、何をしていてもそんなふうになったら、一つになるんだなぁと、単純なことだが、改めて思った。

教会には神になっている人が多すぎる。

私もまた神になって、違う神になっている人とぶつかっているのかもしれない。

私は、教会で語られるメッセージにとても抵抗を感じて、反発を持ってきた。

それは、私たちが上に向かう行為でなく、その場で良くあれと要求されてきたように感じたからであった。

私たちはイエス様無しには、赦すことも愛することもできないものなのである。

それをイエス様の十字架の赦しと癒し無しに要求されてきたように感じて苦しかった。

イエス様の十字架のもとに集まり、「私はこれができません、ごめんなさい。」「私はあれもできません、ゆるしてください。」と赦しを受けるだけである。

イエス様の赦しを体験した人は、何かができない人、罪にある人を裁かない。

私たちが、キリストのからだとして、自分の手足のように受け入れる…それは、皆イエス様の十字架赦しを体験し、感謝する中に起こるのだと教えられた。

来年も私はイエス様の十字架の他に誇りとするものはない…と繰り返し、繰り返し、告白していきたいと思った。

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2009年12月29日 (火)

“教会の外にいるクリスチャン”

今年一年のブログを振り返り、私が神様から与えられたテーマを改めて思いました。

『しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、

―あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです。―

キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。

それは、あとに来る世々において、このすぐれて豊かな御恵みを、キリスト・イエスにおいて私たちに賜(たま)わる慈愛によって明らかにお示しになるためでした。

あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物(たまもの)です。』新約聖書 エペソ人への手紙2:4~8

今年もあと3日。一年を振り返ると、ブログの祝福が大きかったことを思う。

5月に教会の外にいるクリスチャンを思わされ、祈ってきた。

私自身は教会にかろうじて通う人間だが、教会の中と外の溝を思い、中がきよめられ、外が癒されるように祈ってきた。

私はどうあっても、教会の中の人間だと思う。

家庭を持っている子どもが、家庭や親のいない子どもの大変さを想像できたとしても、体験していないわけだから、やっぱりわからない。

教会に行っている者は、外にいる人の気持ちが全部はわからない…それと同じなのだと思う。

それでも、教会の外にいる人も、教会の外にいるクリスチャンも神様は等しく愛しておられ、恵み祝福したいと願っているのを思う。

目に見えないキリストのからだは、教会の中の人も外の人もみんな含んでいる。

教会の外の人が、痛み、寂しく、苦しんでいたら、それはキリストのからだの一部の痛みなのだ。

教会の中の人たちにきよめられて、あふれるばかりの聖霊様が満ちたならば、自分たちが教会の中で人を待っている…そこにはとどまらないのだと思う。

教会の中にイエス様の十字架の赦しがあふれていたら、そこにとどまり、癒された人も多かったかもしれない。

神様は教会の外の人に、外にいながら、癒しを与え、回復を与え、中の人たちのために祈る信仰を与え、イエス様の平和を現す…と私は信じている。(エペソ2:17)

なぜなら、神様ご自身は、強い人、多くをできる人、立派な人、知恵のある人には働かずに、この世で見捨てられた無に等しい人に働かれるからである。(第1コリント1:26~31)

ブログの中で、毎回教会の外の人の話しをしている訳ではないが、たぶん、ブログ訪問してくださっている方々の多くが外の人かなぁと思ったりする。

日曜日に教会に行けるならば、それは祝福である。

けれども、教会に行かずとも、祈らずとも、聖書を読まずとも、クリスチャンらしくなくても、イエス様を信じているならば、それは、神様が与えた信仰で、神様が選ばれたからなのである。

来年も、人が弱くとも、神様の主権は変わらず、イエス様の十字架の赦しは完全であることを思い、御霊に教えられながら、ブログを書きたい。

来年もよろしくお願いします。

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2009年12月28日 (月)

12/28☆お祈り☆

私たちは尊い存在なのだと思いながら、お祈りします。

『こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。

なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。』新約聖書 ローマ人への手紙8:1.2

恵み深い天のお父さん、あなたのお名前をほめたたえます。

私たちを愛してくださり、私たちをこの世の縛りから解放してくださり、ありがとうございます。

イエス様により、新しいいのちをいただき、聖霊様に導かれて歩む者としてくださり、ありがとうございます。

私たちはイエス様を信じ、なお不完全な者なので、罪や汚れのあるものですが、イエス様の十字架で赦され、傷もしみもないものと神様から見なされていることをありがとうございます。

私たちの中に与えられた聖霊様がご自由に働くことができるように、私たちにある不必要な物を取り去り、きよめてください。

私たちに与えられている聖霊様がどんなにすばらしいものなのか、教えてください。

主の霊が喜ぶとき、私たちは環境を越えて、あなたをほめたたえられますからありがとうございます。

困難や試練の中にあっても、御霊によって、イエス様の愛が私たちに注がれている者としてください。

霊的な目を開いてくださり、現実に見えることではなく、神様の国で行われていることを見させてください。

悲しむ者の近くにいて、慰めを与えてください。

希望のない者に変わらぬ希望を与えてください。

私たちは自分の存在が大切にされていると感じるとき、生きていく希望が持てるのだと思います。

私たちは一人一人、イエス様のいのちの代わりとなるほどに尊い存在です。

傷があるなら、イエス様の打ち傷によって癒してくださり、大切で、尊く、受け入れられ、喜ばれている存在であることを取り戻させてください。

サタンは私たちの弱さや足りなさを大きく見せ、私たちがどうしようもない存在かのようにささやきます。

しかし、それは偽りです。

神様が見てくださる私たちが本当の私たちです。

イエス様の癒しと平安の中に入れてください。

そして、神様との親しい交わりの中に入れてください。

また、キリストのからだなる大切な一部としてあることを思い出させてください。

私たちはイエス様の十字架により赦され、癒され、きよめられています。

自分を見るのではなく、私たちを赦し、受け入れてくださるイエス様を見上げ、その愛に包んでください。

神様に愛されていますお一人お一人を思いつつ、イエス様のお名前によって祈ります。アーメン

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2009年12月27日 (日)

“不平等に見える神様の恵み”

神様の国は、不当のように思えることがありますが、実は、深い神様の恵みが隠されています。

『最初の者たちがもらいに来て、もっと多くもらえるだろうと思ったが、彼らもやはりひとり一デナリずつであった。

それで、彼らはそれを受け取ると、主人に文句をつけて言った。

『この最後の連中は一時間しか働かなかったのに、あなたは私たちと同じにしました。私たちは一日中、労苦と焼けるような暑さを辛抱したのです。』新約聖書、マタイの福音書20:1~16

おはようございます。

神様は私たちを愛しておられ、私たちを呼んでくださっています。

神様の国に招きたいと思っています。

神様の国の特徴がいろいろありますが、そのほとんどが、世の中の考え方と違っているので、時として、とても分かりにくいときがあります。

マタイ20章に出てくる、ぶどう園での働く報酬の話しもそうです。

イエス様は、神様の国とは…と説明するのに、一つのたとえをしました。

ぶどう園で、一日5000円で働ける話しを聞き、ある人が9時に行って働き始めました。

すると、12時、3時、夕方5時に加わって働いた人たちがいました。

仕事は6時ころには終わり、皆約束通り、5000円もらいました。

それを見ていた朝9時から長く働いていた人が、『私は一番長く働いたから、皆の5000円より、多く報酬をもらえるだろう。』と思ったのです。

ところが、9時間働いた彼も1時間しか働かなかった人も皆一律5000円をもらいました。

9時から苦労して働いた彼はお金を支払ってくれる主人にずるい、不公平、不当と文句を言いました。

主人は「私は皆に同じだけあげたい。あなたには約束どおり5000円をもらって帰りなさい。」と言ったのです。

これが神様の国の特徴だといいました。

実際、朝早く働いた人も一時間しか働かなかった人も皆同じ報酬…では、納得いかないなぁと思います。

ここには隠されていることがいくつかあるのだと思います。

これは神様の働きについて説明していますが、私たちは本来誰も神様の働きにはふさわしくない、誰も5000円は貰えないものだったということだと思います。

主人は気前良く、働いた皆に、その時間の長さに関係なく、同じものを与えました。

これは、私たちの働きやその長さに関係なく、神様ご自身の主導による恵みとあわれみを私たちにくださったことを示しています。

「それじゃ、私は死ぬ直前にイエス様を信じるわ。」と言う人もいるかもしれません。

実はもう一つ隠されているなぁと思うのは、長く働いた人、長く苦労した人は、長く主人とともにいたということです。

しかし、9時から働いていた人は、労苦にある良いことより、報酬の計算に目がいってしまったのが、落とし穴だったのです。

私が何をしたか、私がどれだけしたかでなく、イエス様が何をしてくださったか、神様がどれだけ愛してくださっているかに目を向けたとき、私たちはこの世の打算的な縛りから解放されるのだなぁと思いました。

神様がどんなにかすべての人に平等に気前がいい方か知れますように。

神様はイエス様を私たちに与えてくれたのです。

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“完全ではないことを知る大切さ”

神様の前に私たちは完全ではないことを知ることがイエス様の恵みにいることです。

『だから、あなたがたは、天の父が完全なように、完全でありなさい。』新約聖書 マタイの福音書5:48

イエス様は山上の説教で、人々に完全であるように言われた。

右の頬(ほほ)を打つ者には、左の頬も出せ…それほどの完全さを言われた。

完全な姿の前に私たちはすべて、一人ももれなく不完全である。

私たちは完全ではない、正しくはあれない…そのことに気がつくことがイエス様の十字架の救いを受けられる道である。

評価でいうと100点満点という完全さが求められている。

99点ではそのままでは神様に受け入れられない。

たとえば、あまり良い行いをしていない人は30点、法を犯すような人は5点だとする。

80点ぐらいの良い行いを多くする人は、「30点、5点では神様の前に不合格だよ。」と思うかもしれない。

しかし、神様から見たら、99点も0点も不完全なことには変わりなく、皆同じなのである。

神様は点数をつけられる方ではない。わかりやすく説明したいと思った。

『義人はいない。ひとりもいない。…

すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによるあがないのゆえに、価(あたい)なしに義と認められるのです。』ローマ人への手紙3:10,3:23.24

すべての人が滅びゆく者であるのに、ただイエス様の十字架の赦しによって、信じる者は正しいと神様から見なされたのである。

イエス様の十字架を信じることで、神様の前に義人とみなされた。

イエス様の十字架によって私たちは、完全になったのではない。私は相変わらず、30点や5点のような者だけど、イエス様によって100点のように神様から見てもらえ、受け入れられたのである。

そして、私のその状態はずっと天国にいくまで続く。

だから、私が誰かの罪を裁くのはおかしい話しなのである。

私もイエス様の十字架無しには赦されない者であり、イエス様によって神様の裁きからまぬがれた者だからである。

点数の良い子には、神様の赦しの真理は分かりにくいのかもしれない。

イエス様は言われた。

『まことに、あなたがたに告げます。取税人や遊女たちのほうが、あなたがたより先に神の国にはいっているのです。』マタイ21:31

良い行いによって、神の国を表そうとすることは危険を含む。

行いによらず、信じることによって、義とされた出発は変わらずに続く。

私たち自身の栄誉ではなく、イエス様だけが栄誉をとられるお方で、そこが教会と世の中とはっきり違うところなのである。

私たちは、完全にはなれず、いつもイエス様の十字架の赦しを受けている恵みを大きく感じられますように。

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2009年12月24日 (木)

“ブログを書く祝福と願い”

ブログを始めて一年半、書く祝福と願いを思いました。

『聖書はあなたに知恵を与えてキリスト・イエスに対する信仰による救いを受けさせることができるのです。

聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。…

みことばを宣(の)べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。』新約聖書 第2テモテへの手紙3:15.16,4:2

ブログを書いていて、たくさんの人が来てくれた日は嬉しくなり、訪問者が少なかったりするとちょっと寂しくなったりする。

そんな人間的な弱い私にいつも思い起こさせてくれる聖書のことばが、『時が良くても悪くても、みことばを宣べ伝えなさい。』のこのことばである。

もうすぐ、ブログを書き始めて、一年半になる。

まだ、一日もアップするのを休んだことがなく、ここまでくると休みずらい。

休まず書き続けられたのは、訪問に来てくれた人が新しいものをアップしていなくて、がっかりしないようにという思いが強い。

自分のためには、努力できない私だが、誰かが喜んでくれると、がせんはりきれる?変な私の性格がブログと訪問者の方々とからんで、うまく継続している。

何よりも日々、聖霊様によって書く記事を与えてもらい書かせてもらってるあわれみを思う。

ブログを書いて良いことはたくさんある。

証をしたときは私の霊がイエス様とともに喜ぶし、書きながら、教えられたり、新しいことを発見したりすることも多い。

私自身の神様とのやりとりのようにもなってる感じもする。

私は、信仰生活の中で、たくさんの聖書のことばから教えられたり、励まされり、導かれたり、慰められたり、変えられたりしてきた。

聖書は私にとって、私に語ってくれる神様ご自身のおことばであり、思いだ。

私は神様のそんな語りかけで生かされ、支えられ、癒され、変えられてきたので、聖書のことばを人にも伝えたい思いがとても強くある。

ブログでこうして分かちあえる幸せを思う。

そんな私も息子が小さいころは、聖書を開くことも祈ることもほとんどないような時期があった。

日曜日に教会に出かけるときになって、聖書はどこだっけなどと探していた日々があった。

神様のことばは、私たちのご飯、日々のパンのようなもの。

すごいご馳走でなくとも、イエス様から渡されたパンをわけあって、美味しいね…と食べたいのが、私のブログでの願いである。

私がイエス様からもらうパンは小さな一人分の簡素なパンなのだが、イエス様が祝福してくださり、増やしてくださり、ともに食べてくださる方々が、イエス様のパンは美味しい…そんな風に食べてくれたら、とても嬉しい。

お一人お一人にイエス様の祝福がありますように。

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2009年12月23日 (水)

“やみに来られたイエス様”(クリスマスに思う)

イエス様の誕生は、真夜中、羊飼いたちに伝えられました。

『さて、この土地に、羊飼いたちが、野宿で夜番をしながら羊の群れを見守っていた。

すると、主の使いが彼らのところに来て、主の栄光が回りを照らしたので、彼らはひどく恐れた。

御使いは彼らに言った。「恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。

きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。

あなたがたは、布にくるまって飼い葉おけに寝ておられるみどりごを見つけます。これが、あなたがたのしるしです。」』新約聖書 ルカによる福音書2:8~12

今年ももうすぐクリスマスがやってくる。

私もクリスチャンになってその年々、いろいろなクリスマスを迎えた。

教会でのクリスマス礼拝、家庭集会でのクリスマス会、教会学校のクリスマス会、最近は息子の友人たちを自宅に呼んでのクリスマス会もあった。

イエス様の誕生を祝うという意味では、特別にクリスマスでなくても、一年中イエス様に感謝な訳で、私自身は特別に何かやる必要性は感じない。

けれども、誰もがクリスマスなら抵抗なく、イエス様の話しを聞いてくれる雰囲気があるので、イエス様を伝えるのはいい機会なのだと思う。

イエス様が誕生した時、一番最初にそのことが伝えられたのは、野宿で夜番をしながら羊の群れを見守る羊飼いたちにだった。

夜通し寝ることなく、羊の番をしている羊飼いたちに御使いは現れ、イエス様の誕生を告げた。

この夜であったことが象徴的に言われることもある。

真っ暗なやみの中にイエス様誕生を賛美する御使いの軍勢は光々と光を放った。

私たちのやみにも、イエス様が来てくださることは希望の光をもたらす。

私はいつもクリスマスの時期になると思う。

美しい賛美も良い。美味しいご馳走やケーキも良い。心のこもったプレゼントも良い。

が、馬小屋で十字架にかかるために生まれ、やみの中に光をもたらすイエス様を思うとき、せめてクリスマスのようなときにこそ、貧しくやみの中にいる人たちにイエス様を伝えられたら…イエス様が現れたら…と思う。

真っ暗な心のやみを抱えている人たちに真実なあたたかい灯(ともしび)がともりますように、心から祈ります。

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