聖書-新約聖書

2009年11月16日 (月)

“イエス様がサタンを追い出す”

サタンの働きを思いました。

『しかし、朽(く)ちるものが朽ちないものを着、死ぬものが不死を着るとき、「死は勝利にのまれた。」としるされている、みことばが実現します。…

しかし、神に感謝すべきです。神は、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました。

ですから、私の愛する兄弟たちよ。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは自分たちの労苦が、主にあってむだでないことを知っているのですから。』新約聖書 第1コリント15:54~58

私は、昔は自己否定で、すぐに気持ちが沈んだり、思い煩いにとらわれたりの連続だった。

最近はイエス様の癒しで、気持ちが沈んだり、何かを気にすることがほとんど無くなったように思う。

イエス様にあって平安な気持ちが与えられている中に、何かかが入り込んでくると違うものが良くわかる。

それは、私の弱さや、罪や、ずれや何かを足台としたサタンの働きだ。

朝に夢を見た。目覚めたとき、その夢に登場した人が、めったに会うこともない人だが、脅威をもって私を圧迫し、迫ってきた。

その人を赦す祈り、そして自分の弱さを赦してもらう祈りをした。

今、ブログを書こうと思い、何かすべてが虚しい思いになった。

霊的にはサタンが吠えたける獅子のように、私の弱さの足台を探し、そこに乗っかり、私に偽りを吹き込もうとする。

あまり、こういった記事は書かないのだが、否定的な思いに悩まされている人に、サタンの働きがあることを伝えられたらと思い、こうして書いている。

見えない神様がいて、聖霊が働いてているように、聖書にあるがサタンも同じように働いて私たちを惑わす。

サタンのもっとも大きな狙いは、神様との交流を妨げるものである。

また、私たちにダメージを与えるため、偽りをささやく。

私も「イエス様の十字架の愛があるのに、生きるのが虚しいと思う足台となるものを赦し、打ち砕いてください。」と祈り、「イエス様が愛してくれ、主にあってすべてがむだでないのに、偽りを言う霊、イエスのみ名によって出ていけ。」と祈った。

そして、今このブログを書いている。

何でもかんでもサタンのせいにして、自分をかえりみないのは良くないと思い、このような記事を書かなかったが、誰かの助けになればと書いている。

私自身、悪霊追い出しする教会には属したことがなく、霊的なことは未知の世界でもある。

が、霊の戦いの中で確かにサタンは私たちに日々、つけこんでくるのである。

が、イエス様が十字架で勝利され、霊的な世界において、イエス様のみ名でサタンを追放できるのである。

死にも勝利してくださったイエス様は、この世の諸々の霊からも私たちを解放してくださる。

イエス様によって、私たちに神の国が来た。

『しかし、わたし(イエス)が神の御霊によって悪霊どもを追い出しているのなら、もう神の国はあなたがたのところに来ているのです。』マタイ12:28

Img_4517s

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 聖書・聖句へ
にほんブログ村

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年11月15日 (日)

“イエス様が道、真理、いのち”

イエス様が道であり、真理であり、いのちと言われたことを思いめぐらしました。

『イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちです。わたしを通してでなければ、だれひとり父(神)のみもとに来ることはありません。』新約聖書 ヨハネの福音書14:6

おはようございます。

神様が人を造られ、その愛をイエス様によって現してくれました。

神様は私たちすべての人を愛し、イエス様の十字架の赦しを私たちに与えてくれました。

教会の外にいる人たちもまた、神様から愛されるために生まれてきたのだということを思います。

イエス様は、「わたしが道であり、真理であり、いのちです。」と言われました。

それはどこにつながっているかというと神様につながっています。

私たちには、様々な人生の道があります。百人いたら、百通りの道があります。

たった一度与えられた人生の道、どこに向かえばいいか、岐路に立たされ、迷います。

よく「神様のみこころはAの道かBの道か」というのを聞きます。Aが正解で、Bが不正解などというほど、神様は狭いお方ではありません。

たとえ間違っているような選択ですら、神様にあっては益とさせてくださいます。

どの道をいくかでなく、どんなふうに歩むか、誰と歩むかなのだと思います。

その選択にイエス様がいてくださるなら、その先は永遠なる神様に行きつきます。

イエス様は真理です。

私は若いころ、真実なものを知りたいと切に願いました。が、自分の中にも、人の中にも真実なものはあまり見い出せませんでした。

真理は人を生かします。私はイエス様に出会って、生かされました。たとえ、私がすべてを知らなくても、この真理である方を信頼して頼ることで、生かされてきました。

だから、私たち自身が何も知らなくても、頼る方が真理であれば、安心です。

イエス様はいのちです。私たちは生を受けて生まれてきましたが、やがて死にます。

イエス様のいのちは父なる神様とともに天国で生きるいのちであり、イエス様とつながり、神様と親しく交流できるいのちです。

イエス様がくださるいのちは、この神様とイエス様を知ることを喜びとするいのちです。

イエス様は私たちにたくさんの良いものをもたらすために来てくださいました。

このイエス様無しでは、神様のところへも、神様の国にもたどり着きません。

イエス様は今日も私たちに、「わたしのもとに来なさい。」と招いてくださっています。

イエス様がくださる道と真理といのちがお一人お一人の中に豊かにありますように。

Img_4334s

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 聖書・聖句へ
にほんブログ村

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年11月14日 (土)

“キリストにある知恵と知識の宝”

キリストにある知恵と知識の宝を思いました。

『あなたがたとラオデキヤの人たちと、そのほか直接私の顔を見たことのない人たちのためにも、私がどんなに苦闘しているか、知ってほしいと思います。

それは、この人たちが心に励ましを受け、愛によって結び合わされ、理解をもって豊かな全き確信に達し、神の奥義であるキリストを真に知るようになるためです。

このキリストのうちに、知恵と知識との宝がすべて隠されているのです。』新約聖書 コロサイ人への手紙2:1~3

最近、テレビで良くクイズ番組をしている。

難しい知識や漢字などを解答したりする。

私たちに神様は知る欲求をも与えられたのだと思う。

聖書を読んでいて、このコロサイの箇所が心にとまった。

パウロは、ラオデキヤの人たち、また、会ったことのない人たちのために苦闘した。

それは、その人たちが“神の奥義であるキリストを真に知るようになるため”であった。

神の奥義とは、「神様が定められた時まで隠されている秘密。神の国、異邦人の救い、福音、神の救いの計画、キリストなど、これらの秘密は啓示によって現された。」と解説にある。

“神の奥義であるキリスト”は、まさに神様が定められたときまで隠されていた秘密兵器なのである。

イエス様が来られるまで、救い主が来られることは、繰り返し預言の中で語られた。

イエス様が来られ、聖書が与えられ、聖霊様が与えられたことによって、この隠されていた秘密は明らかにされた。

『このキリストのうちひ、知恵と知識との宝がすべて隠されています。』コロサイ2:4

キリストのうちにある知恵と知識とはどんなものか。

それは、霊的な存在として人が造られ、霊的な存在として神様と交わる祝福の知識もある。

人が本来造られたような姿に回復し、自由に生きる知識もある。

人が何のために生まれて、どこに向かっているかの知識もある。

キリストこそが、道であり、真理であり、いのちである。(ヨハネ14:6)

イエス様に隠されている秘密は、多方面に渡り、深すぎる。

一言では言えないし、知り尽くせないほど、深い。

ただ神様の隠された秘密が、このイエス・キリストにこそ一手に隠されている。

イエス様にある知恵と知識の隠された宝を私たちが知り、喜びに満ちあふれますように。

Img_4532s

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 聖書・聖句へ
にほんブログ村

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2009年11月12日 (木)

“イエス様の栄光と人の解放”

イエス様をあがめることは、私たちの解放につながることを思います。

『また私は見た。私は、御座と生き物と長老たちとの回りに、多くの御使いたちの声を聞いた。その数は万の幾万倍、千の幾千倍であった。彼らは大声で言った。

「ほふられた小羊は、力と、富と、知恵と、勢いと、誉れと、栄光と、賛美を受けるにふさわしい方です。」』新約聖書 黙示録5:11~12

私は、イエス様に出会う前は、自己像が低く、私は駄目な人間だと思っていた。

そういうことがどんな風に外側に出るかは、人それぞれだろうが、私は“自己実現”を目指すことによって、それをカバーしたいと考えていた。

自己顕示欲が強かったと思うし、自分を何かをもって表さないと、ちっぽけな自分の存在は明らかにならない位に思っていた。

が、その思いとはうらはらに何をやっても挫折に至った。

イエス様に出会ってからも、自己実現という言葉こそ私の中になくなったが、伝道したり、神様の働きをすることによって、自分を表したい欲求は根強く残っていたと思う。

私の信仰生活の訓練で、私は半強制的に与えられた状況を通して、“自分を捨てる作業”をさせられてきた気がする。

気がついてみたら、心の癒しと共に自分を表れしたいという欲求はほとんどなくなっていた。

全くないかと言われたら、弱さの中で試されたら、眠って残っているものが出てくるかもしれない。

が、昔のその欲望に支配されていた自分を思うと、今は皆無に近いような状態であると思う。

代わりに湧いてくる願いは、「ただ神様、イエス様の栄光が表されますように。」という思いである。これは本来の自分には無かったものだから、神様から与えられたものだと思う。

前者の自己顕示欲が強かったときの私は、いつも、自分は成功したか、失敗したか、人にどう評価されるか、そのことが気になった。

今の私は、たとえ人前でかなりの失敗のような状況になったとしても、そのことが恥ずかしくもなんともない。

大切なことは、イエス様と共にいたかであって、自分が何かを上手くできたかではないから。

天国では、ただイエス様が誉めたたえられるお方として、賛美される。

そこには解放がある。自分の捕らわれからの解放がある。

地上では、私たちがイエス様を礼拝することは、自分を忘れてイエス様を誉めたたえることで自分の縛りからの解放となる。

してみると、自分の捕らわれから解放される生活とは、ただイエス様の栄光を願い求める生活なのだと思う。

イエス様をあがめるということは、強いられてしなければならないことではなく、本来あるべき姿であり、私たちが自分から解放される唯一の道なのではないかと思う。

私たちが心からイエス様をあがめていく礼拝生活がなされますように。

ただイエス様が栄光を受けられますように。

Img_4617s

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 聖書・聖句へ
にほんブログ村

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年11月11日 (水)

“キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わり”

三位一体の神様について思いました。

『わたし(イエス)が父のもとから遣わす助け主、すなわち父から出る真理の御霊(みたま)が来るとき、その御霊がわたしについてあかしします。』新約聖書 ヨハネの福音書15:26

『主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがたすべてとともにありますように。』新約聖書 第2コリント13:13

天地創造のときから、神様、イエス様、聖霊様は三つで一人なる神様としていた。

旧約時代は聖なる神様が、ダイナミックにイスラエルの民に働かれた。

2000年前にイエス様が処女マリヤから聖霊によって生まれ、イエス様は人となられ、33年地上で生きられた。

イエス様が昇天され、今最後の時代、聖霊様が信じる私たちに与えられ、イエス様について、神様について教えてくれる。

人によっては、教団背景で、神様、イエス様、聖霊様、どれかが身近だったりするかもしれない。

私は、天のお父さんである神様に祈る…というところから長い間、神様が身近だった。

今から2年ほど前、教会の礼拝に行くたびにイエス様の十字架がとても大きく示され、以来イエス様、イエス様の十字架の大切さを思いめぐらすことが多くなった。

最近、聖霊様の働きを少しずつ教えられている。

今、あのペンテコステ以来、聖霊が注がれ、誰でも聖霊様によってイエス様、神様のことを知り、また、導かれるようになった。

イエス様のご人格に触れることなく、聖霊の力ばかり強調されるとしたら、私は違和感を感じる。

かといって、知的に神様、イエス様を聖書から教えられても、霊的な賜物や働きを認めないとしたら、それも私は違和感を感じる。

皆、与えられた信仰によって、神様、イエス様、聖霊様、どれかの神が身近に感じるものかもしれない。

けれども、聖書では三位一体…三つで一人なる神様なので、それぞれの人格を大切にし、三位一体の神様に生かされていきたいと思う。

神様の愛、イエス様の恵み、聖霊様との交わり…すべて与えられている大きな恵みとして、その中に生かされていきますように。

Img_4524s

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 聖書・聖句へ
にほんブログ村

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年11月 9日 (月)

“返さなければならない負債”

私が負っている負債について考えました。

『私は、ギリシャ人にも、知識のある人にも知識のない人にも、返さなければならない負債を負っています。

ですから、私としては、ローマにいるあなたがたにも、ぜひ福音を伝えたいのです。

私は福音を恥とは思いません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシャ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です。』新約聖書 ローマ人への手紙1:14~16

私は神学校を卒業する28歳の頃、神様にこんな風に言ったのを覚えている。

「神様、私は伝道(イエス様の救いを伝える)をしたくて、したくて仕方ありません。福音を拡げたいという神様の願いと合致しているので、何の問題もなくそのことはなされますね。」

ところが神様からしたら、問題だらけだったらしい。

私はその後、行く教会、教会で問題にぶちあたっていく。

私の心の癒しも長い年月を用した。

先のようなことを神様に話しかけ、様々な試みを通され、22年の月日がたつ。

あの頃は、伝道したい気持ちにあふれていたけれど、神様のことも、人のことも、自分のことも、わかっているようで何もわかっていなかったなぁと思う。

それでは、今はわかっているかと言えば、もちろん多くをわかっていないのかもしれない。

が、何を誇りとするか、ハッキリと教えられた。若い頃は、私の中にある情熱や思いが中心だったが、今は主を知っていることが誇りである。

『誇る者は、ただ、これを誇れ。悟りを得て、わたし(神)を知っていることを。』エレミヤ9:24

私の若い頃は、ごう慢だったのだと思う。そこで、もしいろんな道が開かれていたら、自分の力に頼っていたと思う。

今はというと、自分が無力であることを感じている。

だから、神様に祈り求めたいと思うのだろう。

やみは、様々なところに当たり前のように拡がっている。

誰かの悲しみや苦しみが私の責任とは思えない。

しかし、もし、イエス様の十字架の救いや癒しが、やみにおおわれている人に届いていたら、その人々は苦しまず、求める方に求め、救われていたかもしれない。

パウロは、「私はすべての人に、福音を伝える責任(返さなくてはならない負債)を負っている。」と言った。

私もまた、すべての人に負債を返す責任を負っているのだなぁと、今日、改めて強く思わされた。

それは、私が何かをすることが先なのではない。

主が願っておられるときに、主の願いの通り、私の分ができるよう、いつも、目を覚まし、人々の救いのために祈ることなのだと思う。

パウロが言った、“返さなければならない負債”ということばが響いた。

神様、どうぞ、イエス様の十字架によって、人々が重荷をイエス様に下ろし、慰めと喜びを見い出せますように。

Img_4622s

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 聖書・聖句へ
にほんブログ村

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2009年11月 8日 (日)

“キリストにある神の愛から離されない”

困難の中にある人にイエス様の愛が現されることを祈ります。

『私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣(つるぎ)ですか。…

しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。

私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。』新約聖書 ローマ人の手紙8:35~39

おはようございます。

神様は、私たちすべての人を愛しておられます。

神様の愛は、ただ美しいことばだけの響きで終わっていません。

神様は歴史の中で、イエス様を送り、私たちのためにイエス様を十字架にかけるという具体的なことをもって、ご自身の私たちへの愛を示されました。

聖書に次のように、書かれてあります。

『神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。』第1ヨハネ4:9

その歴史的な事実が、私の個人的なことと関係し、私の罪のため、イエス様は十字架にかかり、いのちを捨ててくださった…この事実が、私のものとなるのには、自分の力ではなく、聖霊様の助けなくしては受け入れられないのだと思います。

また、クリスチャンであっても、この事実が私のためであったと信じていても、ときにその愛が遠くに感じられることがあるのかもしれません。

けれども、太陽がいつも私たちを照らしているように、たとえ雲で隠されていても、太陽があるように、その私たちへのキリストの愛は変わらず、私たちにあります。

何をもっても信じられないようなときもあります。イエス様の愛が近くに感じられなくなったとき、私たちが信じるのは神様のことばです。聖書です。

神様は私たちが揺らぎやすいものであることを知っています。

だから、神様はその真実を聖書に託し、私たちがそのことばを信じるようにしてくださったのだと思います。

私たちに今、患難はありますか、苦しみはありますか、迫害はありますか、飢えはありますか、裸ですか、危険ですか、暴力がありますか。

どんな苦難の中でも私たちはイエス様に愛されている者として、圧倒的な勝利者です。

たとえ、私の心が苦しく、悲しくとも、聖書のことばが真実です。

どうぞ、困難、苦しみ、悲しみにある人にイエス様の十字架による愛が豊かに表されますように。

Img_4647s

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 聖書・聖句へ
にほんブログ村

| | コメント (4) | トラックバック (0)

2009年11月 7日 (土)

“永遠のいのちとは”

神様とイエス様を知るということについて、考えました。

『その永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ることです。』新約聖書 ヨハネの福音書17:3

たとえでこんな話しを聞いたことがある。

ある人は、目をつぶって大きなゾウのシッポをつかんで、ゾウとはこれだと説明する。

また、ある人は目をつぶって、ゾウの足を触り、ゾウの説明をする。

そのように、神様はあまりにも大きな方で、私たちはゾウのシッポを触ってゾウを知っていると言っている如くだと。

神様は大きすぎて、私たちは知り尽くせない。ある意味で、誰かが知る神様もその神様の一部で、別の人が知る違った神様も神様の一部なのかもしれない。

永遠のいのち…を考えるとき、私はいつもヨハネ17:3の聖書のことばを思い出す。

永遠のいのちとは、神様とイエス様を知ることだという。

知るというのは、知識で知るということではなく、その関係の中で、親しく知るということだと思う。

宗教はいろいろあるが、その善行が求められたり、従順を求められることはあっても、交流を求められ、関係を大事にするのは、イエス様の世界だけなのではないかと思う。

それは、神様が求めておられることが、“行い”ではなく、“関係”であり、その“関係回復”だからである。

イエス様は、私たちを友と呼んでくれた。ありがたい限りである。

が、神様と私たちの関係は天の父と子どもの関係であり、滅びゆくものがイエス様によって、赦されあわれみの中に生かされている関係である。

私たちがこのふさわしい関係を崩してしまうとき、聖霊様を悲しませてしまうのだと思う。

私たちはどこまでいっても赦されてはいても、罪人で、あわれみの中、イエス様によって滅びることなく生かされている。

神様を知る、イエス様を知る…と言ったとき、この関係ぬきに、“知る”ことはできない。

永遠のいのちである神様とイエス様を個人的に親しく知り、また、その交流の中に、主のあわれみが豊かに現されますように。

私たちがそのことによって、永遠のいのちを豊かに体験していきますように。

Img_1415s

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 聖書・聖句へ
にほんブログ村

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2009年11月 5日 (木)

“神様から信じる心を与えられる”

神様を信頼することについて考えました。

『信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。』新約聖書 ヘブル人への手紙11:1

信仰とは、神様への信頼である。

信頼を強める…というとどうしたら良いか難しい感じがする。

けれど、私たちは日常の中で、普通に人を信頼したり、信頼しなかったりしている。

信頼は目には見えないものである。

けれども、友人とか付き合いをする中で、この人は信じられるとか、信じてもらうとかという作業をしているのだと思う。

友人との信頼は、順調なときよりも、自分に困難が訪れたときとか、自分が負債を負ったときとか、何もなくなったときとかにわかるのかもしれない。

私も自分の弱さで失敗したとき、それを裁き黙って去っていった人たちと、それを受け入れ、応援してくれた人とがいた。

人との信頼は困難な中、弱さの中でつくづくわかる体験をした。

神様は信頼に足るお方である。

だから、人と人との信頼関係と違って、信頼するお方を自分が信頼しているか否かをいつも問われてしまう気がする。

が、私は神様を信頼する心すら神様からきているのではないかと思う。

エペソ人への手紙2:8.9に次のようにある。

『あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。

行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。』

救いが神様の恵みであり、自分の力によるものではないと言っているのかもしれないが、信頼する、信じる心すら神様からいただいているように思う。

なぜなら、私がイエス様の世界があることを理解したのは、信じられたのはある瞬間からだった。

たぶん、この世に、自分に、人に、信じるものを無くし、すべてにギブアップした状態の瞬間、神様の側の世界を理解し、そのときから信じることができた。

だから、信じることすら自分の力ではないと思う。

信頼するべく神様をどうしたら信じていけるか。

もしかしたら、何か他のものを信じながら、神様を信じることは難しいのかもしれない。

お一人、お一人の心に神様への信頼が与えられ、その信仰にたっていけますように。

Img_4520s

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 聖書・聖句へ
にほんブログ村

| | コメント (4) | トラックバック (0)

2009年11月 3日 (火)

11/3☆お祈り☆

お一人お一人の祝福を思い、一週間のお祈りをします。

『真理によって彼らを聖め別ってください。あなた(神)のみことばは真理です。

あなたがわたしを世に遣わされたように、わたし(イエス)も彼らを世に遣わしました。

わたしは、彼らのため、わたし自身を聖め別ちます。彼ら自身も真理によって聖め別たれるためです。』新約聖書 ヨハネの福音書17:17~19

天のお父さん、私たちは罪や汚れがあっても、イエス様によって聖いものとされましたからありがとうございます。

自分の顔を見るとしみもしわも汚れもあるものです。同じように、私自身がそれらを持ち合わせてるものです。

しかし、イエス様の十字架の洗いきよめにより、私たちはしみもしわも汚れもないものと神様の前にされましたから、ありがとうございます。(エペソ5:27)

そして、イエス様の新しいいのちにつながり、神様との親しい交流ができる神様の子どもとされましたからありがとうございます。

神様の子どもである聖霊様を私たちの内にいただき、神様のことを教えられ、導かれていますからありがとうございます。

新しい一週間のうちにも主がともにいてくださり、あわれみ、導いてください。

私たちはいつも何をやっても不確かですが、確かで変わることのないイエス様の愛と赦し、受け入れがありますからありがとうございます。

私たちが弱く、振り子のように揺れ動いても、変わらずにいて神様の真理の中に導いてくださる聖霊様をありがとうございます。

人となられたイエス様を近くに感じて、信じてその後を歩むものとさせてください。

希望のないような人たちの中に希望を与えてください。

私たち神様の子どもに与えられている希望の光を主によって放ち、まわりの人たちを照らしください。

孤独な人の近くに受け入れ慰める人を送ってくださり、神様がすべての人を見放さず、愛しておられることを伝えてください。

不安、悩み、思いわずらい、心配のあるところに神様からの安心を与えてください。

神様が私たちのすべてを知っていてくださいますから、ありがとうございます。

最善をご存じの神様に信頼して、歩んでいくことができるように導いてください。

私たちをイエス様の真理によって、この世からきよめ分かってください。

神様の慰めと平安とあわれみの支配の中に憩わせてください。

一人一人を主のみ名によって祝福してください。

すべてを主にゆだね、イエス様のお名前によって祈ります。
アーメン

Img_4537s

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 聖書・聖句へ
にほんブログ村

| | コメント (3) | トラックバック (0)

2009年11月 2日 (月)

“私が弱いときこそキリストが現れる”

私が弱いときのことについて書きました。

『しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである。」と言われたのです。

ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。

ですから、私は、キリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじています。なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです。』新約聖書 第2コリント人への手紙12:9.10

この世では強さが求められる。私たち自身も強くなることを願う。

しかし、聖書では、弱さの中にこそキリストの力が宿るとある。

私は今は、かつてより状況に左右されなくなったが、20代のときは、つまずき、ゆきずまり、動けず、倒れる…そんな繰り返しだった。

私が教会で働いていたときは、自分の心の弱さがとても表れていたときでもあった。

牧師の言動に傷つき動けなくなっているとき、一人の年配の友人から、「な〜んだ。弱いなぁ。」と言われ、ムッとしたことがあった。

彼は、牧師と戦っていた。「たとえ、無視されても、私は来続けますよ。」と、戦っていた。

何が正しいか、良いかはわからないが、一つの勢力に立ち向かう彼と、そこで萎(な)えていく私がいた。

私は確かに弱かった。

が、パウロが言う“自分の弱さに甘んじる”はまた、それとは違うのだと思う。

パウロは自分にある弱さ(肉体のとげ)に葛藤していた。イエス様に3度も肉体のとげを除くよう願った。が、それを最終的に、神様が許されたこととして受け入れた。

神様が、自分がごう慢にならないためのものと導かれ、受け入れた。

私は、自分の弱さをとても感じるときがある。反対にすぐいろんなことを忘れて自分が弱い存在だということを忘れてしまうときがある。

自分が弱い存在なのを受け入れているときは、弱く何もできないようで、実はイエス様に近いのかもしれない。

今は、自分の弱さを感じている時期で、そういうときは、人との交流も少なくなる。

けれど、そんな自分をイエス様が受け入れててくれていること、それでも変わることなく愛してくれていることのその恵みを感じる。そして、何もできないような中でも、主をあおぎ感謝している。

Img_4523s

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 聖書・聖句へ
にほんブログ村

| | コメント (7) | トラックバック (0)

2009年11月 1日 (日)

“異邦人コルネリオの祈り”

異邦人コルネリオの祈りは神様に覚えられていました。

『さて、カイザリヤにコルネリオという人がいて、イタリヤ隊という部隊の百人隊長であった。

彼は敬虔な人で、全家族とともに神を恐れかしこみ、ユダヤの人々に多くの施しをなし、いつも神に祈りをしていたが、

ある日の午後3時ごろ、幻の中で、はっきりと神の御使いを見た。御使いは彼のところに来て、「コルネリオ。」と呼んだ。…

「あなたの祈りと施しは神の前に立ち上っていて、覚えられています。…」』新約聖書 使徒の働き10:1~

おはようございます。

私は心優しい友人たちを見るとき、祈る神様を知らなくても、尊い祈りをなしているなぁと思うときがあります。

自分のためではなく、心から誰かのために願う…その思いの尊さを思います。

聖書の中にも、改宗者(割礼を受けて律法の規定を守る人)ではなかったが、ユダヤ人の神様を信じ、施しと祈りをしていたコルネリオと言う人がいました。

神様は彼に「あなたの祈りと施しは神の前に立ち上って、覚えられています。」と言われました。

ペテロが神様に遣わされ、イエス様について語られるところを聞き、信じた。そしてコルネリオとその家族は、神様の子どもとされたしるしの聖霊様をいただきました。

私は、イエス様を信じる前は、本当に自分のことしか考えられない人間だったと思います。

イエス様に赦され、受け入れられ、癒されていく中で、人のために祈れる人間に少しずつなったなぁと思います。

だから、私にとっては、人のことを自分のことのように祈れるとしたら、私の力ではなく、神様の与えてくれた心と祈りと思えます。

私の場合はそんななので、聖霊様の助けなく人のために祈れる人がいるとしたならば、それはもう神様の中にいるようなことなのかなぁと思います。

まさに「あなたはクリスチャンではないけれど、あなたの祈りは神様の前に立ち上り、覚えられています。」ということだと思います。

この神様に覚えられているコルネリオと家族たちが、イエス様のことを聞いたとき、聖霊様が与えられました。(使徒10:44)

ユダヤ人たちは、初めて異邦人が聖霊様を受け、異言を話し、神様を賛美しているので、驚きました。

そして、彼らは洗礼を受け、おおやけにも神様の家族になりました。

神様が愛しておられ、イエス様の近くにいて、祈りと施しをなす方々が、祝福されますように。

イエス様によって、神様の霊を心に授けられ、神様を賛美し、神様の愛の対象とされていることを知れますように。

イエス様は、私たちすべての人の罪のために、十字架にかかられ、私たちの罪を赦し、神様に受け入れられるものとされました。

このイエス様の赦しの深さが、この世で赦しを受けとれないほどの人々まで、すみずみまで拡げられますように。

Img_4524s

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 聖書・聖句へ
にほんブログ村

| | コメント (7) | トラックバック (0)

2009年10月31日 (土)

“ペテロに示された幻”

神様は、ペテロの受け入れ難い幻から異邦人伝道を導かれました。

『…ペテロは祈りをするために屋上に上った。…すると彼は非常に空腹を覚え、食事をしたくなった。ところが、食事の用意がされている間に、彼はうっとりと夢ごこちになった。

見ると、天が開けており、大きな敷布のような入れ物が、四隅(よすみ)をつるされて地上に降りて来た。

その中には、地上のあらゆる種類の4つ足の動物や、はうもの、また空の鳥などがいた。

そして、彼に、「ペテロ。さあ、ほふって食べなさい。」という声が聞こえた。

しかし、ペテロは言った。「主よ。それはできません。私はまだ一度も、きよくない物や汚れた物を食べたことがありません。」

すると、再び声があって、彼にこう言った。「神がきよめた物を、きよくないと言ってはならない。」』新約聖書 使徒の働き10:9~15

旧約のレビ記11章に、神様がイスラエルの民(ユダヤ人)が食べてはならないものを明記した。

それを守ることにより、聖なる神様の民とされた。

ところが、ペテロは幻で決して食べることのない生き物を「食べなさい。」と言われる。

ペテロは神様の決まりを守り通し、それは、すべてのユダヤ人にとって常識だった。食べてはならないものを食べることはあり得なかったのだと思う。

ペテロには信じられないし、困惑した。ペテロは「主よ。できません。」と言った。

そんな幻が3回もあった。

ペテロは神様からの幻に、思い巡らしていた。

すると御霊が3人の使いが来ることをペテロに示し、一緒に彼らと行くように指示した。

ペテロは異邦人コルネリオのところに行く。

これが、ユダヤ人から異邦人に初めて伝道され、イエス様の救いが私たち異邦人に及んだ第1歩であった。

聖霊様が、ペテロを導いてくれたので、ユダヤ人には考えられないことがここから始まった訳である。

もし、ペテロが神様はイスラエル人の神である…という長い歴史の信仰の常識にとどまっていたならば、きっと、神様は違う人を使って、人々の考えられない異邦人伝道をされたのだろう。

神様の考えは私たちの考えの範疇(はんちゅう)を越えている。

もし、私たちが、一つのことに固執していると、神様の計画を見逃してしまうこともあるのかもしれない。

神様が、私たちの思いを越えたところの願いを示されたとき、その聖霊様に導かれるところに素直に従うものでありたい。

私たちには、すべてがわからずとも、聖霊様に導びかれる中、ペテロとコルネリオが出会い、神様のみ業がなされたようなことが起こるのだろう。

ペテロは神様が望まれていることをはっきりわかり、初めて異邦人にイエス様の救いを大胆に語った。

『イエスについては、預言者たちもみな、この方を信じる者はだれでも、その名によって罪の赦しが受けられる、とあかししています。』使徒の働き10:43

Img_4525s

にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ
にほんブログ村

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年10月30日 (金)

“イエス様にあるへりくだり”

へりくだることについて考えました。

『そのころ、全世界の住民登録をせよという勅令(ちょくれい)が、皇帝アウグストから出た。…

ヨセフもガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。彼は、ダビデの家計であり血筋でもあったので、身重(みおも)になっているいいなずけの妻マリアもいっしょに登録するためであった。

ところが、彼らがそこにいる間に、マリヤは月が満ちて、男子の初子(ういご)を産んだ。

それで、布にくるんで、飼い葉おけに寝かせた。

宿屋には彼らのいる場所がなかったからである。』新約聖書 ルカによる福音書2:1~7

へりくだる…私の中でそれはかなり難しいことだったりするときがある。

パウロは言っている。福音を伝える報いは、報酬を求めないで与え、自分の権利を十分に用いないことだと。(第1コリント9:18)

私はどうだろうか。報いは求めないタイプと思っているが、きっと心の底で求めている。

一年間、ボランティアの連絡をし続けたのに、返信を返さない人に対して、心穏やかでない私がいる。

権利を主張していないだろうか。よく「それはおかしいよ。」と心で叫んでる。

あるとき、ボランティアのやり方が変なプロセスで進み、「なんなの、これは!」と怒ったときがある。

すると、聖霊様が、「へりくだりなさい。ちょうどいいときに高くされます。」と私の内側に語った。

「ちょうどいいときっていつですか?」と聞いたけど、それっきりだった。

イエス様は神様の子どもであられるのに、その生涯は、それにふさわしくない扱いをされた。

誕生したのが、馬小屋である。私たちは馬小屋の飼い葉おけに寝ているかわいいイエス赤ちゃんを想像してほほえむ。

しかし、その生まれたところは、家畜の糞尿の匂いの立ち込める家畜小屋である。

人々に出たおおやけの3年間は、人に妬まれ、探られ、試され、偽証され、ののしられ、殺されるに至った。

神様の子どもとしてふさわしい扱いをされなかった。

イエス様はご自分の国に来られたのに、ご自身の民から受け入れられず、不当な扱いを受けた。

イエス様は神様であったのに、ご自分を無にして、仕え、人間と同じになってくださり、ご自分を卑しくし、十字架の死にまで従われた。(ピリピ2:5~8)

それゆえ、神様はイエス様を高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになった。(ピリピ2:9)

私の報いはイエス様にある。イエス様によって報酬を求めないで与え、権利を使わないようにさせられるとき、私はへりくだり、またイエス様のいる領域に入れられるのかもしれない。

Img_4523s

にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ
にほんブログ村

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2009年10月29日 (木)

“イエス様の木の実の多様性”

イエス様の木につながり、私たちはどんな実を結ぶだろうか考えました。

『わたし(イエス)はぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。…

あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。

あなたがたが多くの実を結び、わたしの弟子となることによって、わたしの父は栄光をお受けになるのです。』新約聖書 ヨハネの福音書15:5.7.8

イエス様はぶどうの木で、私たちはイエス様の木につながっている枝だとある。

イエスの木というところから私たちにイエス様のいのちが流れている。

だから、ぶどうの木からはぶどうの実がなるように、イエス様の木からはイエス様の実を結ぶことになる。

つながっていのちをいただいているということだけが大事である。

自分で努力しなくても、イエス様のいのちが流れていれば、自然にその実を結ぶようになる。

7節のイエス様につながっているなら何でも求めなさい…前に何でも求めていいのかと思ったことがあるが、イエス様のいのちを注がれていたら、イエス様の願いを求めたくなるのだと思った。

また、イエス様の木ならば、イエス様の実をならすが、それは一種類ではないと思った。

普通のぶどうの木なら、その品種のぶどうの実、一種類がなる。

しかし、イエス様はバラエティーに富まれた方で、私たちにその様々な多様のものを分け与えてくれた。

賜物による実で考えるとき、その実はすべて違うのである。

映像化するなら、イエス様という木になる実は様々な色をしていて、様々な形をしていて、様々な大きさなのである。

イエス様の木につながって何でもわたしたちのほしいものを求めてよいとなるとき、イエス様のいのちが私たちに流れる中、私たちが求めるものは皆違うのである。

伝道する…という実を結ぶにしても、家族伝道、個人伝道、密かに祈りながら、証をしながら…多種多様で一人一人与えられているものが違う。

イエス様にとどまり、イエス様のいのちをいただきながら、私に与えられた結ぶ実はなんだろう…とそんなことを思い、イエス様と一つとなることを、イエス様は喜ばれているような気がする。

それぞれが自分に与えられた求めをなすとき、それは主と共にある喜びとなり、神様の栄光となっていく。

お一人お一人に与えられた求めがかない、神様の栄光があらわされますように。

Img_4528s

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 聖書・聖句へ
にほんブログ村

| | コメント (4) | トラックバック (0)

2009年10月26日 (月)

10/26☆お祈り☆

神様が私たちをイエス様によって赦し、私たちを和解の使者と遣わされたことを思います。

『神は、キリストによって、私たちをご自分と和解させ、また和解の務めを私たちに与えてくださいました。

すなわち、神は、キリストにあって、この世をご自分と和解させ、違反行為の責めを人々に負わせないで、和解のことばを私たちにゆだねられたのです。

こういうわけで、私たちはキリストの使節なのです。ちょうど神が私たちを通して懇願しておられるようです。私たちは、キリストに代わって、あなたがたにお願いします。神の和解を受け入れなさい。

神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。』新約聖書 第2コリント人への手紙5:18~21

神様は、イエス様によって、敵のような反逆する私たちを赦し、私たちと和解してくださいました。

そして、神様と人々が和解する務めを私たちに与えてくださいました。

私たちが神様からゆだねられていることを感謝して、成すことができますように。

祈ります。

恵み深い天のお父さん、あなたのみ名をあがめます。

あなたは、不従順の中にあって歩み、生まれながらみ怒りを受けるべき私たちをイエス様の十字架のゆえに、赦し受け入れ、神の子どもとしてくださいましたからありがとうございます。

それだけではなく、和解の務めを私たちにゆだねられましたからありがとうございます。

イエス様によって罪赦されて、神様の子どもになったということは、本当にすごいことです。

霊的に、生きる意味も方向性もわからないものが、造られた方を知り、その方にあって生きる意味を見い出し、どこに向かっているか教えられましたからありがとうございます。

どうぞ、私たち小さなものですが、神様の和解の使者として遣わしてください。

そして、同じように、悩む人たちに、神様の愛と慰めと計画と導きが、御霊の働きで示され、現されますよう示してください。

永遠のいのちであるイエス様と神様を知ることの素晴らしさをますます私たちが体験し、人々に現されますように導いてください。

新しい一週間も、神様が愛する方々と共にいて導いてください。

イエス様が私たちをどんなに深く赦してくださったか、知ることができますように。

聖霊様が私たちと共にいて、私たちを導いてください。

聖霊様と親しい交わりの中、聖霊様にある慰めと喜びの中にありますように。

すべてを愛しますイエス様のお名前によって祈ります。アーメン

Img_4520s

にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ
にほんブログ村

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年10月25日 (日)

“裸のつきあい”

人と人との関係回復について考えました。

『しかし、人が主に向くなら、そのおおいは取り除かれるのです。

主は御霊(みたま)です。そして、主の御霊のあるところには自由があります。

私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。』新約聖書 第2コリント人への手紙3:16~18

私たちに与えられている聖霊様にあって、私たちはイエス様と同じかたちに姿を変えられていく…これはすごい約束である。

あまりすごくて、今とどんな風に違うように変えられるか、想像がつかない。

かろうじて、イメージできるのは、エデンの園で、アダムとエバが罪を犯す前の状態なのだと思う。

二人は裸だった。お互い、裸であることが恥ずかしくなかった。

また、神様の前にも裸であることが恥ずかしくなかった。

人は神様が造られた最高傑作作品で、それは非常に良かった。

いわゆる神様から見たら、100点満点の作品だった。

罪ある私たちは隠すことを身につけている。

子どもは自分のしてしまった失敗を隠し、大人は多すぎる過去の過ちを隠す。

人に対しては、自分が明らかにされることを恐れ、神様の目をごまかす(ここだけはごまかせないのだが)。

イエス様が私たちの弱さを十字架で赦してくださるとき、私たちは受け入れられている安心の中、さらに神様に自分をさらけだせるようになる。

そして、神様に受け入れられている安心の中、人にも自分の弱さを隠すことなく出していける。

教会…イエス様の十字架によって赦され、受け入れられている安心を持つ人たちが集まるとき、そこはエデンの園のような場所となっていくはずである。

誰もが、神様の前に裸の心で自分をさらけだし、礼拝できる。

そして、互いに赦されている、受け入れられている安心の中、最も弱いところを表していける。

イエス様の十字架により、私たちは神様との関係を回復し、また、人と人との関係が回復された。

もし、互いに最も弱い、もっとも足りない…そんなところを暴露し、受け入れ合うそんな教会があるとしたら、イエス様の十字架がドンと中心にある教会なのだと思う。

私も自分のたくさんの弱さをもっともっと出していきたい…なぜなら、イエス様のあわれみによって受け入れられ、殺されず、生かされているから。

本当は自分の弱さをもっと暴露したい。イエス様に受け入れられているから。

だけど、私は赦されて受け入れられてると思っても、神となって裁く人の前に、自分を証しきれない私がいる。

###

主よ。私たちはイエス様の前に赦された者です。

私たちが赦されたものとして互いに受け入れ合える、赦しあえる御霊の働きを与えてください。

Img_0963s

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 聖書・聖句へ
にほんブログ村

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2009年10月22日 (木)

“貧乏人ラザロの地上でのしあわせ”

イエス様にあるしあわせ…とはについて再び考えました。

『ある金持ちがいた。いつも紫の衣や細布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。

ところが、その門前にラザロという全身おできの貧乏人が寝ていて、金持ちの食卓から落ちる物で腹を満たしたいと思っていた。

犬もやって来ては、彼のおできをなめていた。

さて、貧乏人は死んで、御使いたちによってアブラハムのふところに連れて行かれた。金持ちも死んで葬られた。

その金持ちは、ハデスで苦しみながら目を上げると、アブラハムがはるかかなたに見えた。しかも、そのふところにラザロが見えた。…』新約聖書 ルカによる福音書16:19~23

金持ちとラザロの話しはこの後、大事なメッセージをイエス様は伝えられた。

今、神様が伝えることを信じないと、とりかえしがつかない的な話しが出てくる。

今日はその話しは横において、このラザロに目を留めようと思う。

昨日、“イエス様にあるしあわせ”を書いた。その続き。

昔、教会で牧師が高い講壇からこう言った。

「皆さん、イエス様の十字架を信じれば罪赦されて、天国に行けるんですよ。この地上のわずかの期間、たとえ病であっても、天国は病もなく素晴らしいところなのです。」

礼拝する方の中には、病気で苦しんでいる方もいた。

私には、なんだか、その言葉が、絵空事のように虚しく聞こえた。

罪は赦される、天国には行ける…だから、現実の苦しみには文句を言わずに我慢しなさい…そんな風に私には聞こえた。

そんな罪の赦しや、天国は皆喜べるのだろうか?

今から20年以上前の話しだったが、忘れることのできない話しだった。

この聖書箇所でラザロは、イエス様を信じていた。

地上では見るも無惨な姿で生きていたが、やがて天国にいき、アブラハムのふところに抱かれた。

ラザロは地上では不幸だったのか?

書かれてあるのは、ラザロの悲惨な状況だけである。

ラザロはイエス様を信じていた。悲惨な状況の中で、イエス様の赦しや愛やあわれみや恵みを体験していたのだと思う。

イエス様が十字架にかかられる前の天国の話しなので、わかりにくいが、イエス様を信じた人が天国に行ける定義からいうとそうなる。

人々は罪の赦しを求めているか?人々は天国を求めているか?

私はイエス様の福音を思うときに、人々は認められること、受け入れられること、愛されること、包まれること、慰められること…そのようなことを無意識の中で誰もが求めているのだと思う。

あの罪赦されて、天国に行けるんですよ…と語られたところに足りなかったのは、罪赦されるとイエス様とのつながり、神様と関係回復して愛される、聖霊様の喜びがあるということだったのではないか。

イエス様との麗しい関係抜きに罪の赦しも天国も無味乾燥なものになってしまうことを改めて思った。

Img_1423s

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 聖書・聖句へ
にほんブログ村

| | コメント (6) | トラックバック (0)

2009年10月21日 (水)

“イエス様が与えるしあわせ”

イエス様が言われたしあわせを考えました。

『そこで、イエスは口を開き、彼らに教えて、言われた。

「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。

悲しむ者は幸いです。その人は慰められるからです。

柔和な者は幸いです。その人は地を相続するからです。

義に飢え渇いている者は幸いです。その人は満ち足りるからです。

あわれみ深い者は幸いです。その人は、あわれみを受けるからです。

心のきよい者は幸いです。その人は神を見るからです。

平和をつくる者は幸いです。その人は神の子どもと呼ばれるからです。

義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。』新約聖書 マタイの福音書5:2~10

イエス様はガリラヤ全土をめぐり、御国の福音をのべ伝え、民の中のあらゆる病気、あらゆるわずらいを直された。

イエス様のうわさはたちまちシリヤ全土に広がり、人々は、さまざまの病気と痛みに苦しむ病人、悪霊につかれた人、てんかん持ちや、中風の者などを連れてきて、イエス様は彼らを直された。(マタイ4:23.24)

そんなイエス様に期待して大勢の群衆がイエス様のところに来た。

そのとき、イエス様が言われた初めてのことばが、この“8つの幸せ”だった。

当時の人たちの幸せ観も、今の人たちの幸せ観もあまり変わらないのではないか。

お金がたくさんあること、健康なこと、たくさんの家族がいること、好きなことができること、美しくあること、楽しくあること、美味しいものを食べられること…等々。

しかし、イエス様が言われた“幸せ”は人々が考えていたものとは全く違っていた。

心の中がこじきのように空っぽで、何もなく、もらうしかない…そのような人はしあわせです。神様の国はそのような人に与えられます。

喜ぶ人ではなく、悲しむ人こそしあわせです。その人は真実な慰めを与えられるでしょう。

柔和、義に飢え渇く、あわれみ深い、心のきよい、平和をつくる、義のために迫害される…そんな人はしあわせだとイエス様は言われた。

群衆も弟子たちも驚いた。今まで聞いたことのない“幸福論”だった。

イエス様は人が豊かにいのちを得、豊かに生きるために来てくださった。

イエス様のしあわせは、環境から来るものによらず、その人の心に関係している。

心が貧しいこと、悲しむこと、義に飢え渇くことによってしあわせはこない。

イエス様は、そのような状態の心に、イエス様ご自身が与える良いものを持ってしあわせを与えると言われたのだと思う。

一つだけ環境から来るしあわせを言っている。

それは、8番目の迫害である。『わたし(イエス)のために、ののしられたり、迫害されたり、ありもしないことで悪口雑言(あっこうぞうごん)を言われたとき、幸いです。

喜びなさい。喜びおどりなさい。天においてあなたがたの報いは大きいのだから。』(マタイ5:11.12)

すごいしあわせである。つまり、到底喜べそうにないことが書かれてある。

しかし、イエス様との関係の中で、このあり得ないような状態すら、喜びとしてくださるイエス様の約束なのだと思う。

私の中に何もしあわせになれるものがないようなそのような者に、イエス様は限りないしあわせを与える約束をしてくださり、それはイエス様によって真実に私たちの内になるしあわせなのである。

今日、私には何もないという人に、イエス様からのすばらしい約束が実現しますように。

Img_3071s

にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ
にほんブログ村

| | コメント (6) | トラックバック (0)

2009年10月20日 (火)

“ただ名前が天にしるされていることを”

神様にある働きについて思いました。

『さて、70人が喜んで帰って来て、こう言った。

「主よ。あなたのみ名を使うと、悪霊どもでさえ、私たちに服従します。」

イエスは言われた。「わたしが見ていると、サタンが、いなずまのように天ら落ちました。

確かに、わたしは、あなたがたに、蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を授けたのです。だから、あなたがたに害を加えるものは何一つありません。

だがしかし、悪霊どもがあなたがたに服従するからといって、喜んではなりません。ただあなたがたの名が天に書きしるされていることを喜びなさい。』新約聖書 ルカによる福音書10:17~20

私たちイエス様を信じる者には、イエス様が持っている権威の一部を授けてもらう。

霊的な賜物の多くもそれだと思う。

それは素晴らしいことだが、いつも思うのが、授けられた人間側の弱さである。

私たちは何もないものだが、イエス様が様々な権威を授けてくださるとき、出どころは神様、イエス様であって、私たちの力によらない。

初めはそう思っても、人の心には根強く“自分が神になりたい欲求”が潜んでいて、神様の栄光をいつの間にか我が物にしてしまう誘惑にかられる。

それは、アダムとエバが、サタンの蛇に、「あなたは神のようになれる」と言われたときから続いているのかもしれない。

リック・ジョイナーの「ファイナルクエスト」という、現実と天国の幻を書いた本に次のような文がある。

「悪霊軍はその数が非常に多く、見渡す限りの視界をおおっていました。彼らは分団編成され、それぞれ違った旗を掲げていました。

主要分団が掲げているのは、「ごうまん」「自己正当化」「世間体」「利己的野心」「邪悪な判断力」「嫉妬」という名の旗でした。…

彼らの持つ武器も同様にさまざまな名で呼ばれていました。

「威嚇」「裏切り」「告発」「うわさ話」「中傷」「他人のあら探し」「拒絶」「苦々しい思い」「短気」「赦さない心」「情欲」です。…」

これは教会の中にあるものを指摘している。

霊的権威や賜物と共に、自分を正しい者とし、神様とのふさわしい関係よりも、神の代わりになってしまう。

私も長い間、教会を裁いてきた者なので、まさに神様の代わりに自分が神になっていたのだと思う。

与えられた権威、賜物、知恵と啓示の御霊、信仰、すべてはただイエス様によってあわれみの中、与えられただけである。

悪霊を追い出し、癒しをなし、福音を語り伝え、神の国がくる働きを私たちは託されている。

しかし、それがなされたときに、少しでも、“自分の成果”という誘惑にかられたなら、注意なのだと思う。

私たちが喜ぶのは、イエス様にあって何かをできたことではなく、ただ赦されあわれみを与えられ、天国のいのちにつなげれていることなのだと思う。

人を崇めることも、自分の働きに注意が行きすぎることも注意がいると思う。

神のようになることの反対…それは我の姿を忘れて神様を礼拝する、解放されたエデンの園の姿と思う。

Img_1418s

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 聖書・聖句へ
にほんブログ村

| | コメント (4) | トラックバック (0)

2009年10月18日 (日)

10/18☆お祈り☆

神様に愛されています方々を思い、一週間のため、祈ります。

『こういうわけですから、兄弟たち。私たちは、イエスの血によって、大胆にまことの聖所にはいることができるのです。

イエスはご自分の肉体という垂れ幕を通して、私たちのためにこの新しい生ける道を設けてくださったのです。

また、私たちには、神の家をつかさどる、この偉大な祭司があります。』新約聖書 ヘブル人への手紙10:19~21

恵み深い天のお父さん、あなたが私たちを生かし、支え、助け、導いてくださるお方であることをありがとうございます。

私たちのまわりには、突然のように、思いがけないことが起こります。

どうぞ、イエス様によって、あわれみ助け、守ってください。

私の言葉にならないうめきを聞いてくださり、イエス様のとりなしによって、神様のご支配のもと、助けてください。

人は、ときに脅威をもって、私たちを圧迫します。

それがすべてかのように圧迫がきます。

しかし、すべてをご支配しておられる神様、すべてはあなたの許しなくしては起りません。

神様を愛する者、また、そのような人を深く受け入れてくれる人、その人たちに神様の守りを与えてください。

『彼らを恐れてはいけません。…雀(すずめ)の一羽でも、あなたがたの父のお許しなしには地に落ちることはありません。…だから恐れることはありません。あなたがたは、たくさんの雀よりもすぐれた者です。』マタイ10:26~31

イエス様はそのように言われました。

どうぞ、あなたが愛しておられる人に心を留めてくださり、イエス様からの安心を与えてください。

すべての環境もご支配してくださる神様が、守り助けてください。

新しい一週間のお一人お一人をお守りください。

弱いところ、足りないところに助けを与えてくださる神様、私たちの足りないところに働いてください。

イエス様を信頼する心を与えてください。

イエス様がいのちを捨てるほどに私たちを愛されたことを教えてください。

不安や心配なところに安心をください。

悲しみのところに慰めをください。

乏しいところに、あわれみをください。

知恵がないところに神様の知恵を与えてください。

あなたが愛しておられるお一人お一人を覚えて、支えてください。

聖霊様による慰めと励ましを与えてください。

私たちが受け入れられていることを神様と人から体験できますように。

すべてをご支配しておられる神様にゆだねます。

感謝し、イエス様のお名前によって、祈ります。アーメン

Img_1415s

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 聖書・聖句へ
にほんブログ村

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年10月17日 (土)

“神様が備えた交流”

今、神様はイエス様によって、私たちとの親しい交流を待ち望んでいます。

『そのとき、イエスはもう一度大声で叫んで、息を引き取られた。

すると、見よ。神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けた。そして、地が揺れ動き、岩が裂けた。』新約聖書 マタイの福音書27:50.51

旧約時代、神様はイスラエルの罪があがなわれ、赦される道を備えてくださった。

大祭司と言われる特別の人が、年に一度だけ、至聖所(幕屋の一番奥)にはいり、規定に従って動物の血を持って、あがないをする。

そこに入れるのは、大祭司しか許されていない。

そこで、大祭司が倒れても、誰も至聖所には入れないので、大祭司の足に紐(ひも)をつけていたとも聞いたことがある。

至聖所は神様と人が出会う、地上における最も聖なるところなのだろう。

イエス様が十字架にかかられ、息を引き取られたとき、神殿の聖所と至聖所とを隔てる垂れ幕が、上から下まで裂けた。

これは、大祭司が一年に一度しか入ることができなかった至聖所の隔てがなくなったことを意味する。

イエス様の十字架によって、私たちは誰でも、この神聖な神様と出会う場所に行けるようになった。

至聖所、そこは聖なる神様が臨在される場所である。

イエス様無しで入るなら、罪ある私たちは即、その結果、さばかれ殺される場所でもある。

イエス様は私たちのためのあがないのいけにえとなられた。

今日、祈りの中で、目を閉じると、十字架にかかられたイエス様が近くにおられるように思えた。

私たちが、イエス様の十字架の犠牲によって赦されたのは、悲しむためでない。

イエス様の十字架によって、このような罪にまみれた私も聖いとされ、しみも傷もないものとされ、大胆に神様の前に出て、神様と親しい交流をするためだ。

イエス様の命と血によるあがないは尊く、何にもましてすばらしい。

神様は、神様の方から罪ある私たちと交流し、関係回復する道を設けられた。

それは、とりもなおさず、私たちと霊的に親しく交流したい、愛したいと切望しておられるからだ。

神様の呼ぶ声が聞こえますか。

私たちとの親しい交流を何よりも待ち望んでおられる神様です。

どうぞ、私たちに与えられた霊によって、私たちも神様を切望し、神様と親しく交われますように。

その祝福が豊かにありますように。

Img_1394s

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 聖書・聖句へ
にほんブログ村

| | コメント (4) | トラックバック (0)

2009年10月15日 (木)

“弱い部分が尊ばれる”

弱い部分が尊ばれることについて、思いました。

『しかしこのとおり、神はみこころに従って、からだの中にそれぞれの器官を備えてくださったのです。…

…からだの中で比較的に弱いと見られる器官が、かえってなくてはならないものです。…

それは、からだの中に分裂がなく、各部分が互いにいたわり合うためです。

もし一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、もし一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶのです。』新約聖書 第1コリント人への手紙12:18~26

何を持って、人の強い、弱いが計れるかわからない。その定義は様々だと思う。

いつも強く自分を出して自分の意見をいう人が強いかといえば、恐れの裏返しで実は、弱くもろい心の持ち主だったりするかもしれない。

弱い人…というより、弱い立場に立たされている人がいる。

多く人の助けが必要だったり、何かの助けがないと生きていけない。

そういう意味では、クリスチャンも神様無しでは生きていけないものなら、ある意味、弱い立場の人かもしれない。

最近、友人を通して再会した友から、手紙の返信をもらった。

彼女は、生命維持のため、いろいろな助けなくしては生きていけない、ある意味弱い立場にいる人と思う。

彼女の手紙の一行が忘れられなかった。

「病気になっていろんなことを学ばさせてもらいました。

苦しくて、悲しくて、辛くて、でもたくさんの人のほんとうを見せてもらえた大切な時間でした。」

彼女は、ただじっと悲しみや苦しみの中にたたずんでいた。

そのまわりにいろんな人がいて、その人たちの“ほんとう”を見させてもらったのだ。

とても深いことばだと思った。

逆に言えば、弱く助けを必要とする人の前で、私たちは自分のほんとうの姿をあらわにされるのかもしれない。

きっと、自分の中に、よきサマリヤ人のように、適切に人を愛することのできない自分を見せられるのだろう。

求道中の方が、言っていた。

「私は、よきサマリヤ人を読んで、彼のようにはなれないと思い、ゆきずまりました。」

同席していたクリスチャンは言った。

「人を愛せる人がクリスチャンなのでなく、愛することができないと知った人が、イエス様の助けや赦しをもらうのだから、できない、愛せない…それでいいのよ。私たちも同じよ。」

愛すること、与えること、思うこと…難しいことばかりである。

何かすることではなく、イエス様に赦され、受け入れられ、癒され、慰められていくとき、私ではない、私を通したイエス様がほんの少しずつ、人に流れていくのかもしれない。

キリストのからだの弱いところが、人を通しても、癒され、慰められますよう、そのまわりにいる人たちをもあわれんでください。

人々の神様の祝福が、さらに弱い人たちへ流れていきますように。

Img_4411s

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 聖書・聖句へ
にほんブログ村

| | コメント (4) | トラックバック (0)

2009年10月14日 (水)

“神となって裁かないでください。”

最近、私自身が教えられていることです。

『あなたがたは信仰の弱い人を受け入れなさい。その意見をさばいてはいけません。…

あなたはいったいだれなので、他人のしもべをはざくのですか。

しもべが立つのも倒れるのも、その主人の心次第です。

このしもべは立つのです。なぜなら、主には、彼を立たせることができるからです。』新約聖書 ローマ人への手紙14:1.4

前にブログに書いたが、あるとき、私は教会の中のどこに自分が位置する人間かはっきり教えられた。

ボーダラインという言葉を使ったりしたが、教会に通う者だが、建物で位置を表すなら、扉に立つものである。

つまり、教会の中と外の丁度真ん中に立つものである。

ボランティアをやっていて、ノンクリスチャンとは良く接するが、その人たちといて苦痛は感じない。

しかし、教会では、元気に教会に、悩みを感じず通っているクリスチャンとはどうしても合わない。

一番大切にしている霊的なことのとらえ方が違うからだと思う。

私の親しいクリスチャン友だちは、皆、教会の外にいる人たちだ。

教会の中の人たちは、互いに正しい聖書のことばを分かちあい、喜ぶ。

教会の外のさらに遠くにいるような人たちの中には、聖書を読むだけで、裁かれている感じがして、聖書が読めないという人がいる話しを時々聞く。

正しい聖書のことばで自分を律し、人を正す人が、間違って教会の外の人にその聖書のことばで正してあげようとすると、聖書アレルギー、もしくは、神様アレルギーが出てしまう。

私自身、自分にとって、とても教えられた、感動した聖書のことばを分かちあったことで、「きつい」と言われ、拒否された経験がある。

誰が良いとか悪いとかはない。誰が強いとか、弱いとか言うのでもないかもしれない。

ある人たちには、薬になっても、あまりに強い効力があり、ある人たちには害でしかないこともある。

教会の中と外の人は、ときに水と油のように信仰を相容れない。

教会の中にかろうじていながら、外に気持ちが向く私としては、教会の中の人たちは自分たちの基準で外の人を判断してもらいたくない…と願う。

教会の外にいる多くの人は、一人痛みと傷を持って静かにいる。

願わくは、神様によって癒されていくようにと思う。

私はとりあえず、ぎりぎり教会に通っているし、私自身やっぱり教会の中の人間なのかもしれない。

が、少しずつ外の立場の人の気持ちを、神様のあわれみによって教えられている。

ある友人が言った。

「本当に愛のある思いで聖書のことばを言うのでなければ、それは人の中に神様の愛とならない。」

ヨブは苦しみの中、友人に言った。

『なぜ、あなたがたは神のように、私を追いつめ、私の肉で満足しないのか。』ヨブ記19:22

いかに、私たちは神様の代わりに神となり、人をジャッジし、裁くものであるのかと思わされている。

Img_0965s

にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ
にほんブログ村

| | コメント (5) | トラックバック (0)

2009年10月12日 (月)

10/12☆お祈り☆

一週間を思いながら、感謝できますよう祈ります。

『しかし、イエスは言われた。「彼らが出かけて行く必要はありません。あなたがたで、あの人たちに何か食べる物を上げなさい。」

すると、弟子たちはイエスに言った。「ここには、パンが5つと魚が二匹よりほかありません。」

すると、イエスは言われた。「それを、ここに持って来なさい。」

そしてイエスは、群衆に命じて草の上にすわらせ、五つのパンと二匹の魚を取り、天を見上げて、それから祝福し、パンを裂いてそれを弟子たちに与えられたので、弟子たちは群衆に配った。』新約聖書 マタイの福音書14:16~19

イエス様は、少年が差し出した、たった五つのパンと二匹の魚を、たくさんにする奇跡を行い、男だけで5千人、女、子どもを入れて大勢の人にパンと魚を与え、余りが12かごいっぱいにありました。

私たちは現実を見て、「これしかありません。」「こんなわずかでどうしようもありません。」と思います。

けれど、信じて差し出すとき、イエス様がそのわずかなものを増やしてくださることを思います。

お祈りします。

『恵み深い天のお父さん、新しい一週間をありがとうございます。

私たちは何もないと思っていても、神様から実にたくさんのものを与えられています。

この精密にできている体、命、健康、体力、知力、…体の感謝をするだけでもたくさんあります。

家族、友人、祈りの友、…また、知らない多くの人に支えられ、生かされています。

私たちは与えられているものより、無いものに目がいきがちですが、与えられているものを感謝する力をください。

神様の愛、イエス様の十字架の赦し、聖霊様の導きと助けを何より感謝します。

与えられている信仰、祈り、みことば、イエス様と人々のとりなしの祈り、たくさんの約束を感謝します。

また、神様が一人一人を愛し、神様の働きと賜物(神様のために使う能力)を与えてくださっていることをありがとうございます。

目に見えて与えているもの、目に見えないもの…ありがとうございます。

神様がくださる信仰と希望と愛をありがとうございます。

私たちに与えられているものを感謝する力をください。

また、イエス様が私たちにあるものを差し出すとき、幾倍にも祝福してくださる神様であることを信じさせてください。

そして、与えられているものを喜んでイエス様に捧げ、そのイエス様の祝福と奇跡を見せてください。

私たちが何もないようでもイエス様の愛が注がれていますから、困難の中、失望することがないよう、聖霊様によってイエス様の注がれた愛を受けるものとしてください。(ローマ
4:5)

神様の国の私たちのうちになる素晴らしさを教えてください。

悩み迷うとき、聖霊なる神様が、私たちを良いところに導き、慰めてください。

この霊的な目がはっきり見えて、あなたの世界を見させ、信じさせてください。

小さく弱い私たちを助け、支えて、保ってください。

すべてを主にゆだね、感謝し、イエス様のお名前によって祈ります。アーメン』

Hana0903

にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ
にほんブログ村

| | コメント (6) | トラックバック (0)

2009年10月 9日 (金)

“心配をとりさる”

心配をなくすには…と考えました。

『そういうわけだから、何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配するのはやめなさい。…

…あなたがたの天の父は、それがみなあなたがたに必要であることを知っておられます。

だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。

そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。

だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります。』新約聖書 マタイの福音書6:31~34

両親やまわりの大人に守られている子どもは、あすの心配はしない。

あす、どうなるかもわからないが、両親やまわりの大人たちが自分に良いことを備えてくれるのを信じ、今の時を、無邪気に遊ぶ。

が、大人になるとそうはいかない。自己責任が問われ、自分の先は自分でなんとかしなくてはと思う。

もともと、私たちは限りあるから、わからない先を考えだすと、ああでもない、こうでもないと考えをめぐらし、心配にいたるのかもしれない。

この“心配”を取り除くのが、“神の国とその義を第一に求めること”と聖書にはある。

“神の国とその義を求める”というのはどういうことか。

私はなんとなく、「神様の国がきますように。その義が表されますように。」といつも祈り求めることのように思ってきた。

マタイ12:28には神の国について次のように書いてある。

『わたし(イエス)が神の御霊によって悪霊どもを追い出しているのなら、もう神の国はあなたがたのところに来ているのです。』

とある。神の国は私の外側に表されるのでなく、私たちの内に表されるのである。

また、神の義は、イエス様を信じることによって与えられる。

神の国とその義はつまるところ、イエス様を信じる私の中に与えられるのである。

イエス様への信頼は、心配を打ち消してくれるのである。

私が何か心配で、頭がぐるぐると何か考え、心がざわざわとしているときは、私の中にイエス様が不在かのようなときなのだと思う。

しかし、イエス様が居てくれたり、居なくなったりするのではない。

いつも近くに同じようにいてくれるイエス様を私が忘れてしまったり、閉め出したりしてしまっているのだと思う。

私たちのイエス様を信頼する心はいつも不安定で心もとない。

そんな私たちのために、イエス様はいつもとりなし祈ってくださり、私たちを捕らえつづけてくださる。

どうか、弱い私ですが、いつもイエス様が助けてくださり、信じる信仰をも与えてくださるように。

私たちが安心してその中で、日々与えられているときを生きることができますように。

Img_1404s

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 聖書・聖句へ
にほんブログ村

| | コメント (4) | トラックバック (0)

2009年10月 7日 (水)

“反抗期爆発”(自分史11)

中学、高校の反抗期のひどい私でした。

『子どもたちよ。すべてのことについて、両親に従いなさい。それは主に喜ばれることだからです。』新約聖書 コロサイ人への手紙3:20

私が中学3年のとき、母が計画し、建てた家に、高校と合わせて4年住んだ。

一番楽しい時期のはずかもしれないが、私にとって母への反抗期がピークに達していて、つらい時期でもあった。

母とはいろんな価値観が違った。

まるで、水と油のように母に理解を求めても求めても理解されなかった。

理解してもらえないやるせなさは、母に強く反発する形になっていった。

私は母を口で激しく言い負かすと、なんとも後味悪く、二階の自分の部屋にかけあがっては泣いていた。

私からしたら、母は四角い私を丸い型に無理やり納めようとしているかのようだった。

今、客観的に見ると、誰が悪い訳でもなく、私が父親に似ていたから、母とは違っていただけのことのようにも思う。

父親は病気で精神的には不在で、理解されない母からいろいろ押し付けられることは苦痛だった。

中学で反抗期が始まり、一番近いところで理解されたい母から理解されない私は、自己否定と自己嫌悪という塊になっていく。

自分が嫌いだった。なんで、こんないろんなことにこだわる損な人間なんだろうと思った。

生まれ変わりたい…願望がとてもあった。

お風呂に入ると、「ああ、ここから上がったら、違う自分がいたらなぁ」なんて良く思った。

特にぐれるでもなく、高校では生徒会などやったりしていたが、楽しいこともあったが、だんだん漠然とうつろな空しさが漂い始めていた。

あの頃、何が私を支えてくれていたか、東京の看護師学校にいった姉には理解されている…そんなところだったかもしれない。

高校3年のとき、友人の誘いで、キリスト教の集まりに行った。なんか良くわからなかったが、自分が変われるかもしれない、変わりたいと思っていた。

残念ながら、そこでは、異言でたくさん祈ればご利益ある?みたいな教会で、期待していたものはあまり得られなかったが、聖書との出会いだった。

ここで手にした聖書を一人読みながら、私の一人求道生活が始まった。

神様は信じていた。

神様が、早いときから聖書に触れさせて、聖書を読むことによって、私の心に神様のことばの種が蒔かれていたのだと思う。

母と理解し合えないことは、苦痛で、否定的な私を作りあげ、影を落としていったが、そんなだったから、私はイエス様に会えたのかもしれない。

母に強い口答えをし、母の心を何度も泣かせた親不幸娘であったが、神様が捕らえ、導き続けてくれたことを思い、すべてに感謝な思いである。

神様、ありがとう。生きていたときは言えなかった母さん、ありがとう。

Img_0968s

にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ
にほんブログ村

| | コメント (6) | トラックバック (0)

2009年10月 4日 (日)

“神様との平和を持つ”

神様との平和について、書きました。

『主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられたからです。

ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。』新約聖書 ローマ人への手紙4:25,5:1)

おはようございます。

この朝も、天地を造られ、人を造られたすべての人の神様が、私たちを愛し、私たちに約束していることの一つを見ていきたいと思います。

「戦争と平和」とかという映画かなんかありました。

“平和”の反対は“戦争”とか“争い”でしょうか。

聖書では、イエス様が、私たちの罪のため十字架にかかって、私たちの代わりに罰を受けてくれたので、私たちはこのままで、神様から受け入れられる者となり、神様との平和を持つ者となったとあります。

神様と平和を持つ前はどんな状態だったのでしょうか。

『あなたがたも、かつては神を離れ、心において敵となって、悪い行いの中にあった…。』コロサイ人への手紙1:21

私は自分を見て思うのですが、良いものは自分の中にはありません。

人を愛する思いも、内から湧いてくる喜びも、揺らぐことのない平安な心も私自身にはありません。

イエス様から新しいいのちをもらい、イエス様とつながっているとき、ぶどうの実のように良い実が実らせられます。

コロサイの手紙にある“悪い行い”とは、新しいいのちにつながり自然に実る良い実がないということではないかなぁと思います。

その結果、罪責感や、心配や恐れや失望や悪いものが心を支配し、安心できない…それが、神様と和解せず、平和をもたない、争っている状態ではないかと思います。

私もイエス様を信じて歩み始めて、すぐ心がすべて、平和な気持ちになった訳ではありません。

自己否定がとても強かったので、自分に対する否定的な思いがくると、何度も何度も押しつぶされそうになりました。

けれど、そんな私をイエス様の十字架で赦されている、そのことによってこのままで神様に受け入れられている…聖霊様にそう信じる信仰を与えられ、長い時間をかけて神様から受け入れられている安心を得ることができました。

本来、神様にそむき、怒りの子として裁かれる存在の私が、ただイエス様の十字架のゆえに、神様の子どもとされ、愛されている、これは何にも変えがたい大きな素晴らしさ事実です。

イエス様により、神様と争う敵から、和解し、神様のものとなり、神様の喜びの中に、平安の中に入れられたことを感謝します。

お一人、お一人の中にこの約束が豊かに現されますよう祈ります。

Hana0883

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 聖書・聖句へ
にほんブログ村

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2009年10月 3日 (土)

“神様は弱い私たちを愛された”

弱い人間を神様が最初から愛されていたことを思いめぐらしました。

『神は私たちを世界の基(もとい)の置かれる前からキリストのうちに選び、御前で聖(きよ)く、傷のない者にしようとされました。

神は、ただみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられたのです。』新約聖書 エペソ人の手紙1:4.5

昨日、イエス様を求めている方と、教会の方と3人で交流をした。

その求めている方が言った。「神様は、なぜ、アダムとエバが蛇の誘惑に負けてしまうように造られたのでしょうか。」

すると、3人のお子さんがいる教会の方が言った。

「もし、自分の子どもたちが何でも言うことを聞くロボットのようだと、つまらない。悪いことをして謝ったり、ママを喜ばせようと一生懸命になったり、そういうのがかわいいと思う。神様も、私たちがロボットのように言いなりになるのではなく、自由意志を与えられ、関係を喜ばれたのだと思う。」

私も言った。「神様は、ご自身と霊的に交流できるように、人にだけ、霊を与えられたのだから、その麗しい信頼関係の中で、人を愛したかったのだと思う。

世界の始まる前からキリストの救いと選びを用意されていたのだから、その誘惑に負ける弱さすら、イエス様で受け入れる計画が初めからあったということなのかしらね。」

3人で様々な良い話しができ、ともにイエス様の素晴らしさを分かち合った。

アダムとエバ以来、私たちは今なお、試練や誘惑の中で、試されている。

そんな中で神様の信頼を選んでいくとき、私たちが成長させられ、さらに神様にある信頼を築いていく。

神様は私たちが有限の弱い存在であることをご存じだった。

もし私たちが、完全であったら、私たちにイエス様が必要なくなり、私たちが神になってしまう。

世界を造られる前、人を造られる前から神様のイメージの中に、いつも失敗をしてしまう、弱い人間と、その人間を愛するゆえにたてられた救いの計画があった。

それはまた、私がイエス様に出会っていない時代、ただ自分の足りなさ、弱さだけを見せられ絶望する旧約の律法のような時代と、その弱さが赦されおおわれ、癒されるイエス様の時代のようである。

イエス様は言われた。

『わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである。』(第2コリント12:9

そして、パウロはそのイエス様のことばに次のように言った。

『ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。』(第2コリント12:9)

イエス様の十字架の前には、私たちの弱さを誇りとできること、そこにイエス様の恵みが現され、イエス様の救いの力がおおわれることを感謝します。

神様が私たちの弱さを知り抜いて用意された、イエス様の赦しの恵みを感謝します。

Img_1410ss

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 聖書・聖句へ
にほんブログ村

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年10月 2日 (金)

“キリスト教について”

キリスト教について書きました。

『神は唯一です。また、神と人との間の仲介者も唯一であって、それは人としてのキリスト・イエスです。』新約聖書 第1テモテへの手紙2:5

キリスト教は、一神教と言われ、聖書の神様以外をすべて認めない。

それゆえ、旧約聖書を信じるユダヤ人や、イエス様を信じるクリスチャンは、他のものに迎合できず、迫害されてきた歴史があるのだと思う。

外の人から見たら、排他的な宗教と思われるかもしれない。

しかし、神様は「わたしはねたむ神である。わたし以外に神々があってはならない。」(出エジプト20:4.5,34:14)と言われる。

神様、イエス様、聖霊様を3つを一つなる神様とし、聖書のみに権威を置くところとする。

聖書を変えたり、付け足したり、小間切れに取り分けたものを信じる人たちは、キリスト教と言わない。

誰か人を特別な権威ある人とし、神のようにする人を、私たちはキリスト教と呼ばない。

キリスト教会の中にあっても、イエス様より指導者である自分を中心にする教会はカルト化した教会と言われる。

何をもって、その是非がわかるか。

『自分から語る者は、自分の栄光を求めます。しかし自分を遣わした方の栄光を求める者は真実であり、その人には不正がありません。』ヨハネの福音書7:18

その人がイエス様の栄光を求めているか、人や自分の栄光を求めているか…そこでわかるのではないかと最近、教えられている。

イエス様だけが栄光をとられるお方です。

イエス様の十字架の赦しは完全で、付け足すものは一つもありません。

イエス様からいただけるのは、赦し、あわれみ、安らぎ、喜び、慰めという良いものです。

私たちは様々な宗教に対立するのでなく、光なる神様から良いものを受けて証していくだけなのかもしれません。

光の子どもは光に来ます。(ヨハネ3:19~21)その人が何を求めているかが、どこに行くかなのだと思います。

イエス様の祝福が豊かにありますように。

Img_0960s

にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ
にほんブログ村

| | コメント (5) | トラックバック (0)

2009年10月 1日 (木)

“イエス様の赦しの深さ”

イエス様の赦しの深さを思いました。

『「どくろ」と呼ばれている所に来ると、そこで彼らは、イエスと犯罪人とを十字架につけた。…

そのとき、イエスはこう言われた。

「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているか自分ではわからないのです。」』新約聖書 ルカによる福音書23:33.34

お祈りしていて、突然、遠藤周作の「沈黙」から思わされた。

島原の乱が鎮圧され間もなく、キリシタンが弾圧されて、踏み絵を踏むか、踏まないか迫られる。

踏み絵を踏まずに殉教する人々、踏んで背教する人々、ユダのように裏切る者、しかし、神様はいないかのように沈黙する…そんな内容の本だ。

私だったら…その場にいたらどうするか?わからない。

けれど、私のうちに聖霊様が深く臨むとき、このストーリーを思い出させ、イエス様が「私はすべての人を赦している。」と語っておられように思う。

どうしようもなく弱く、踏み絵を踏めず、裏切ったような人までも、イエス様はその弱く泣いてる心をご覧になり、イエス様の十字架のゆえに赦しておられる。

ある友人が、人を決して裁かず受け入れるのを、私と別の友人で見ていた。

そのとき、私の近くで見ていた友が言った。

「彼女は、いつも人の悪いところを見ないで、人のいいところを先に見る。だから、人を裁くことばが出ないのだろう。」

なるほどと思いつつ、私のこれまでが、全くその逆であることを改めて気がつかされ、衝撃を受けた。

両親、教会、友人、環境に対して私は、良いところを見ずに、先に悪いところを見て裁いてきたのだと。

今は神様との和解により、すべてを受け入れ、平和な気持ちになっているが、いかに長い間、私は悪いところを探して裁いてきたか思った。

イエス様は、十字架の上で、両手、両足釘で打ち付けられ、はりつけにされ、気絶しそうな体の痛みに刺し通されていた。

そんな中で「お父さん(神様)、罪なき私を十字架につけたこの人たちを赦してください。」と言われた。

不当な屈辱さえ耐えられない私だが、イエス様は不当な裁きの中、苦痛の中で自分を殺そうとする人の赦しを願われた。

イエス様の赦しは、底知れず深い。

限りなく弱く、悪を成すもののその弱さの責任はイエス様が背負われた。

それゆえ、悪いところを見て裁かず、弱さをも包みこんで、愛し、赦し、受け入れられた。

###

イエス様の赦しの深さを教えてください。

イエス様の赦しの深さは、人の思いを越えています。

なぜなら、イエス様の愛は、私たちに理解できないほど、深いからです。

イエス様、あなたが、いのちの犠牲を払い、刺し通されるほどに苦しまれて与えた深い赦しが私の中に、また、闇の隅々に及ぶようにしてください。

Img_1406s

にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ
にほんブログ村

| | コメント (9) | トラックバック (0)

2009年9月30日 (水)

“イエス様がくださる喜び”

イエス様にある喜びについて、書きました。

『いつも主(イエス)にあって、喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。』新約聖書 ピリピ人への手紙4:4

ピリピ人への手紙は、パウロが獄中において書いた。そして、死をも決意していた。

そんな中にあって、ピリピ人へあてた手紙のテーマはこの“主にあって喜びなさい。”だった。

パウロ自身が捕らわれ、死にその身をさらされながら、主を喜んでいた。

その喜びはどこから来るのか。それは、イエス様から来る喜びだった。

パウロはかつてクリスチャンを激しく迫害するユダヤ人だった。

バウロはそんな自分を罪人のかしらだと告白した。(第1テモテ1:15)

そのような者もイエス様によって赦された…パウロにとってイエス様からの限りないあわれみを感じていた。

イエス様の存在はパウロに、「私にとっては、生きることはキリスト、死ぬこともまた益です。」と言わせた。(ピリピ1:21)

パウロにとってキリストが、イエス様がすべてであった。

それほどに、パウロは、イエス様からの赦しを受け、愛を受け、慰めを受け、恵みを受け、あわれみを受けていた。

パウロが獄中にいて、死を前にしながらも、ただイエス様からいただく恵みの中に、喜びの中に、人々にも「主にあって喜びなさい。」と言えた。

これは、環境や富や外部からの物によっては決して得られることのできない喜びである。

環境は変わる。私たちがその変わる何かに、喜びを見い出しているなら、私たちの喜びは大きくなったり、なくなったりする。

いつまでも、変わることのないイエス様が、私たちに変わることのない喜びを与えたいと願っておられる。

それは内側から湧いてくる喜びであり、イエス様から来る喜びであり、イエス様に愛されている喜びである。

どのようにしたら、私たちはこの喜びをいただくことができるのか。

それは、環境や外部からの喜びとなるものに頼らず、イエス様に求め、イエス様との信頼関係を築き、イエス様に愛されていることを受けとることによってなのだと思う。

###

神様、イエス様が私たちにどんな状況でも変わることのない内から湧き出る喜びを与えようとしてくださることをありがとうございます。

外側からの楽しみ、喜びを追及している人にはイエス様の愛による喜びは隠されています。

どうぞ、私たちにイエス様の愛が私たちにどんなに与えられているか教えてください。

イエス様との関係の中に喜びを見い出せますようにしてください。

Img_4427s

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 聖書・聖句へ
にほんブログ村

| | コメント (6) | トラックバック (0)

2009年9月27日 (日)

“死の恐怖からの解放”

自分の死について、考えました。

『そこで、子どもたちはみな血と肉とを持っているので、主もまた同じように、これらのものをお持ちになりました。

これは、その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした。』新約聖書 ヘブル人への手紙2:14.15

おはようございます。

天地を造られ、人を造られた神様は、すべての人の神様です。

偶然になんとなく、たまたま私たちは命与えられ、生まれてきたのではありません。

もしまたまただったら、その人生はすべて偶然の重なりです。

神様は私たちが生まれる前から、私たち一人一人に計画をもち、緻密な神様のみ手の中、誕生しました。

そして、一人一人に神様の計画があり、死ですべてが終わることのないよう、永遠のいのちを与えられました。

23年前、私は教会の門を叩く、一人の年配の男性に、教会で会いました。

彼は私に言いました。「私は、死ぬのが怖くて怖くて、それで教会に来たのだよ。」

彼とは神様にあるたくさんの交流をしました。最後に会ったのは、私が結婚し、出産したとき、出産祝いの積み木を持ってきてくれたときです。

そして、その後、彼は天国に召された話しを、もといた教会の方から聞きました。

神様が、イエス様によって、彼を死の恐怖を取り去り、天国に召してくれたのだなぁと思いました。

天国が私の中で、もっとも身近になったのは、母が召されたときでした。

母の死のことは何度もブログに書いてきました。

母は、天に召される20日前にイエス様を信じました。

モルヒネで、意識混濁の状態が続きましたが、不思議と、私や姉のお祈りには、手を合わせて、目を閉じ、頭を垂れて、祈りに「アーメン」と言いました。

母のベットのまわりは、たくさんのお見舞いの花があり、にぎやかな家族がおり、讃美歌が流れ、とても癌末期患者の病室ではありませんでした。

母が息をひきとるとき、私は祈りがかない、母の耳もとで、与えられた賛美を歌い、祈りをし、母を天国に送りました。

このしばしの別れに、悲しいというより、不思議な慰めに満たされ、誰も泣くことなく、「母さん、また、天国で会おうね。」と思いました。

私たちは100%死を迎えます。

人は生きたように死んでいくと言われます。

この肉体の死に対して、慰めと希望を与えているのは、聖書の約束、神様だけと私は思います。

老後のこと、病や年金や先を考えることはたくさんありますが、どのように、死を迎えたいか…が、どのように今生きるかにつながるのだと思います。

私は肉体の死がやってきて、もし、一言言うことをゆるされるなら、「みんな、ありがとう。神様、ありがとう。」と言いたい、そんな生き方を願っています。

イエス様によって、死の恐怖からの解放の約束が、多くの人のものとなることを心から願います。

Img_4411s

にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ
にほんブログ村

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2009年9月26日 (土)

“慰めがありますように”

ブログについて書きました。

『神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。

こうして、私たちも、自分自身が神から受ける慰めによって、どのような苦しみの中にいる人をも慰めることができるのです。』新約聖書 第2コリント1:4

ブログ訪問してくださる皆さん、いつも訪問ありがとうございます。

神様からその日、その日教えられたことを書いていますが、訪問してくださる方々の慰めになればと思っています。

コメント欄にもたくさんの方が来て、コメントをくださり感謝です。

コメント欄が皆さんの交流の場になることを願っています。

今、ミニマルがコメントをくれ、それに緑のオリーブさんやももこさんがそれぞれの立場から、応答してくださり、とてもありがたく思います。

気持ちや状況を誰かに理解してもらえるのは、本当に慰めです。

これからも、コメント欄は皆さんの良き交流の場として使っていただけたら、本当に嬉しく思います。

教会の中心は祈りと聖書のことばですが、そこに欠かせないのが交流です。神様がこの小さなブログを祝福し、この与えられた交流を祝福してくださいますように。

また、いつでも、気軽にどんな疑問でも書いてください。皆さんで、ともに祈り、考えていくのも良いかもしれません。

私も皆さんのコメントに気がつかされたり、教えられたりしています。

ももこさんの友人が「もし、ももこが愛が持てなくて地獄にいくなら、私も一緒に行ってやる。」と言ったことばに、私も愛を感じ、感動しました。

私だったら、どうでしょうか。「あなたが悔い改めなかったら、地獄に行くよ。」…とまでは言わなくとも、聖書の正論を言い、悔い改めを求めたかもしれません。

事実、私は良かれと、これまでたくさん、そのようなことをしてきました。

悔い改めは聖霊様によらないと、起こりません。

聖霊様は赦しのあわれみの中、優しく包みこむ中で、安心して悔い改めを導きます。

人が聖書のことばを使って悔い改めを迫るとき、人は裁かれている感覚しかもてません。

そして、その痛みの中で罪をさらに握るかもしれません。

悔い改めは聖霊様が愛の中で行われることであることを教えられています。

私自身が、イエス様の愛を知り、人を受け入れていくものとなるため、さらに自分の姿を見せられ、聖霊様のあわれみの中、変えられていくのだと思います。

私は賜物が証人(あかしびと)なので、自分の内側がどう変えられていくか、これからも、ブログの中で証していけたらと思います。

ブログ訪問の方々に神様の尽きることのない慰めが与えられることを心から願っています。

これからも、よろしくお願いします。

Img_1092s

にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ
にほんブログ村

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2009年9月25日 (金)

“イエス様が与える平安”

イエス様が与えてくださった平安について思いました。

『わたし(イエス)はあなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。

あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。』新約聖書 ヨハネの福音書14:27

平安(へいあん)という言葉は、あまり日常では使われない。安心ということばの方が身近だろうか。

イエス様がくださった平安とは、状況がどんなであっても、揺らぐことなく深いところからくる安心…ということだと思う。

イエス様が与える平安は世の中が与えるものと違う。

世の中の平安は、いい状況で保たれるものかもしれない。

また、占いとか、切り貼りしたようなことばに心を置いた中でのものかもしれない。

イエス様が与える平安は、イエス様からくる平安でもある。

イエス様はこのことばを、十字架の道を見据えて、弟子たちに語られた。

イエス様が十字架にかかられ、よみがえり、天に登った後に、助け主なる神様、聖霊が与えられることの中で、この平安を語っている。

私たち自身は、イエス様を信じて頼るのはとても難しいが、聖霊が私たちのうちに与えられると、聖霊なる神様は、私たちの内側から、神様のこと、イエス様のことを教えてくださる。

そして、イエス様を信じて頼っていく力を与えてくださる。

弟子たちは、イエス様が昇天されてから、イエス様を伝えて歩いた。

まわりからバカにされたり、ののしられたり、危険な目に会いながら、イエス様を伝えて歩いた。

彼らの中には、イエス様が十字架にかかられたとき、失望し、恐れ、ひっそりと戸を閉めきっていた、あの姿はない。

聖霊なる神様が、イエス様こそが私たちを助ける救い主であることを弟子たちの心に確信させた。

聖霊なる神様は、宣教のための力のように言われることがあるが、どんな状況でもイエス様を信じ続ける深い安心を与えるのだと思う。

弟子のあるものは、殉教し、皆命がけでイエス様を伝えたのだが、彼らの中にあったのは、イエス様にある喜びと平安だった。

そのことを見ないで、使徒の働きの記事を読むと、ただ頑張るような悲壮感を重ねてしまうが、彼らは、命を死にさらされる宣教の中、深い変わることのない、取り去られることのない安心があった。

私もまた、神様がくださる平安のすごさを改めて教えられ、このテーマで書いた。

###

天のお父さん、私たちは弱い者です。

厳しい現状に耐えられないような者です。

あわれんでください。イエス様が約束してくれた、どんなことがあっても取り去られることのない平安をありがとうございます。

聖霊様とともに、イエス様の平安を与えてくださり、イエス様とともにいられるよう導いてください。

また、イエス様を知らない人にも、人々の祈りの中、このイエス様の平安に守られますようにしてください。

Img_1091s

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 聖書・聖句へ
にほんブログ村

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2009年9月24日 (木)

“主よ、いつ、しましたか?”

神様に喜ばれる良いこととは、どんな風にささげられたことでしょうか。

『さあ、わたしの父に祝福された人たち。世の初めから、あなたがたのために備えられた御国を継ぎなさい。

あなたがたは、わたしが空腹であったとき、わたしに食べる物を与え、わたしが渇いていたとき、わたしに飲ませ、わたしが旅人であったとき、わたしに宿を貸し、わたしが裸のとき、わたしに着る物を与え、わたしが病気をしたとき、わたしを見舞い、わたしが牢にいたとき、わたしをたずねてくれたからです。」

すると、正しい人たちは、答えて言います。「主よ。いつ私たちは、あなたが空腹なのを見て、食べる物を差し上げ、渇いておられるのを見て、飲ませてあげましたか。

いつ、あなたが旅をしておられるときに、泊まらせ、裸なのを見て、着る物を差し上げましたか。

いつ、あなたが…』新約聖書 マタイの福音書25:34~

エデンの園で、アダムとエバが神様との麗しい関係を保っていたとき、彼らは裸だった。が、恥ずかしくなかった。

エデンの園では、自分のことを見ないで、神様を見ていたからだと思う。

善悪の木の実を食べて以来、人は自分の行為が善か悪か判断し、自分に注目するようになった。

リック・ジョイナーの「収穫」の本に次のような文がある。

「私たちは自分の良い行いの上に立とうとするとき、それは私たちが、自分にはイエスによってささげられた、なだめの供え物は必要ないと考えていると言っていることになるのです。…

御霊によって前進する教会に最大の迫害をもたらすのは、知識の木の「善」を食べている人たちでしょう。」

神様のためにと自分が良い行いをすることは、時として、イエス様の十字架の完全性を否定し、あたかも十字架だけでは神様に受け入れられることが不十分であることを告白する。

また、この本の別の項目ではこのように言っている。

「栄光が宮に満ちるとき、人々の注目を集めるのは宮ではなく、主です。

主から召された働きをことごとくやり遂げた人たちは、自分が大きな務めを果たしたということにさえ気がつかないでしょう。

彼らは、自分の成し遂げたことにではなく、自分を働きの場にお遣わしになった方を喜ばせることにのみ注目するでしょう。」とある。

外から見て人が良い行いをしているとき、神様はその動機を見ぬいているということだと思う。

自分の人に成したことを忘れて、主をあがめるとき、それは神様に喜ばれるいけにえとなってささげられる。

人から誉められるすばらしいようなことをしても、それが自分の注目のためであるとき、とたんにそれは善の木の実になってしまう。

「主よ。いつ、私はあなたに食べさせ、飲ませ、与えましたか。」

イエス様に再びお会いするとき、そのように言えるようになりたい。

自分が成したことを見つめるのではなく、ただすばらしいお方、イエス様をあがめていたいと思う。

Kaki0931

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 聖書・聖句へ
にほんブログ村

| | コメント (3) | トラックバック (0)

2009年9月22日 (火)

9/22☆お祈り☆

一週間のお祈り、忘れていました。心合わせてもらえたら、幸いです。

『悪をもって悪に報いず、侮辱をもって侮辱に報いず、かえって祝福を与えなさい。あなたがたは祝福を受け継ぐために召されたのだからです。』新約聖書 第1ペテロの手紙3:9

天のお父さん、あなたが私たちをあわれみ、いつくしみ、喜び、愛してくださっていることをありがとうございます。

祝福である神様は、私たちに祝福を与える者としてくださいましたから、ありがとうございます。

悪や侮辱に反応せず、上からいただく祝福を与えるもの、受け継ぐ者とされましたから、ありがとうございます。

私たちのまわりの人たちが、私たちを通して神様の祝福を受けますようお願いします。

私たちが祝福する者となるため、神様の祝福をください。

特に天にあるすべての霊的祝福を与えてください。(エペソ1:3)

イエス様の罪の赦し、ひとつに集められること、み国を受け継ぐ者とされたこと、聖霊の証印をありがとうございます。

どうそ、日々、神様とともにいさせてください。

私たちの悩みのとき、神様に叫ぶと応えてくださる主よ、私たちに応えてください。

私たちの弱いとき、その弱さにキリストの力をおおってください。

私たちが人間関係に疲れるとき、上から主の慰めと癒しをください。

そして、まわりの人の祝福を祈る力をください。

迷い悩むとき、主が足もとを照らし共に歩んでください。

体の痛みに神様の癒しを与えてください。

心の痛みにイエス様による癒しと平安を与えてください。

一人孤独を感じるとき、イエス様近くにいてください。

また、地上において一人っきりではないことを教えてください。

生きていく気力を失うほど疲れている人に神様の希望を与えてください。

神様、私たちは弱く小さな者ですが、神様の栄光を現してください。

イエス様の十字架の福音を拡げてください。

聖霊様の豊かな働きが私たちの内になされますよう、導いてください。

すべてを主にゆだね、イエス様のお名前によって祈ります。
アーメン

Img_4177s にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ
にほんブログ村

| | コメント (12) | トラックバック (0)

2009年9月20日 (日)

『いのちを豊かに持たせる約束』

イエス様にある人には、新しいいのちを与え、それを豊かに与える約束があります。

『わたし(イエス)は門です。だれでも、わたしを通ってはいるなら、救われます。また安らかに出入りし、牧草を見つけます。

盗人が来るのは、ただ盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするだけのためです。わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。

わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。』新約聖書 ヨハネの福音書10:9~11

おはようございます。

今日も神様が私たちに関心を持ち、私たちを祝福したいと願ってくださっています。

聖書にある神様が約束してくださる生き方について考えてみたいと思います。

聖書では、イエス様にあるならいのちを得、また、それを豊かに持つとあります。豊かな人生を約束しています。

まず、神様は私たちが“自分らしく生きる”ことを願っています。

私たちは皆違う個性を与えられています。一人一人が“特別”な存在です。

神様は私たち一人一人が与えられた特性を最大限に生かして、そのままで生きていけることを願いました。

罪は自分自身のイメージをゆがめます。私が私としてありのままであっていいと思えるよう、イエス様の十字架の赦しを与えてくれました。

そして、赦された私たちは神様から愛される対象として生きていきます。

そのとき、私たちは与えられた自分を受け入れられている安心感の中、思う存分自分を発揮できます。

次に私たちは何のため、生まれたかです。

神様に愛されるためであり、神様の愛をもって互いに愛するためです。

また、一人一人に神様の特別な計画があり、そのことを成すためです。

神様の一人一人に与えられた能力と計画は変わらないとあります(ローマ11:29)

そして、どこに向かって生きているかです。

私たちはなんとなく生まれ、なんとなく死んでいくのではありません。

生まれたことに計画と意味があるように、向かう先もまた、ただの死ではありません。

イエス様を信じる人は、新しいいのち、永遠のいのちが与えられ、天国が約束されています。

ただ死で終わるなら、私たちは死に向かっているだけ、何をしても残りません。

聖書ではいつまでも残るものは信仰と希望と愛だとあります。(第1コリント13:13)

イエス様を信じ、イエス様の門を入っていく先には、ありのままで自分らしく、この世での計画をもって、信仰と希望と愛を目指し、天国にいけます。

イエス様が良い牧者となり、イエス様に頼る人たちを今週も導いてくださることを祈ります。

Img_4379s

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 聖書・聖句へ
にほんブログ村

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年9月19日 (土)

“パリサイ人の部分を持つ私”

私の中にもパリサイ人のように、人をはかる自分がいると思いました。

『さて、あるパリサイ人が、いっしょに食事をしたい、とイエスを招いたので、そのパリサイ人の家にはいって食卓に着かれた。

すると、その町に罪深い女がいて、イエスが、パリサイ人の家で食卓に着かれておられるのを知り、香油のはいった石膏(せっこう)のつぼを持って来て、泣きながら、イエスのうしろで御足のそばに立ち、涙で御足をぬらし始め、髪の毛でぬぐい、御足に口づけして、香油を塗った。

イエスを招いたパリサイ人は、これを見て、「この方がもし預言者なら、自分にさわっている女がだれで、どんな女であるか知っておられるはずだ。この女は罪深い者なのだから。」と心ひそかに思っていた。』新約聖書 ルカによる福音書7:36~39

クリスチャンが新約聖書を読むとき、パリサイ人が登場する場面で、「神様、私こそがパリサイ人です。」とはあまり思わないのではないか。

心かたくなパリサイ人は、信仰者の対比として良く登場する。

そして、私たちの陥りやすいのは、あの人こそパリサイ人、人を裁く人だと決めつけやすい。

少なくとも、私自身は長年そんなふうであったと思う。

しかし、私たちは様々な弱さをもっている。

そして、私の中に歴然と、パリサイ人としての部分があるのではないかと思った。

ここに出てくるパリサイ人は、罪深い女がイエス様に近づいているのを見て、心で思った。

「イエス様がいろんな神様のことを見通せる人だったら、この女がどんなに罪深い女かわかるだろう。」

パリサイ人がそう思っているとき、パリサイ人も赦される罪人であることを忘れている。

イエス様は、皆同じ罪人であることをパリサイ人に指摘しただけでなく、この人間的に見たら、とても罪が多いという女は多く赦されたから、多く愛され、愛の行動をイエス様にしたことを指摘した。

イエス様の世界は、現実的なこの世の中と逆説的なことがたくさんある。

多く悪いことをすれば良いというのとは全く違うが、この世の評価と、イエス様の評価は違うということだ。

私は、無意識にこの人は真面目な人、この人はふざけた人とか勝手に自分の中で評価していないだろうかと思った。

私がどんなにたくさん赦された者であるか知っていくとき、私の中のパリサイ人は小さくなり、イエス様のようなまなざしで人を受け入れていけるのかもしれない。

♯♯♯

神様、自分の基準や、勝手に聖書に照らし合わせ、人を裁く部分のある私を赦してください。

そして、イエス様と同じまなざしで、どんな罪深い人に対しても赦されることが多い、神様に愛される人だと見れるようにしてください。

Img_4398s

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 聖書・聖句へ
にほんブログ村

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年9月18日 (金)

“ただあわれみによって選ばれた”

神様の選びの確かさによって、今私にイエス様を信じる信仰が与えられている事実を思います。

『その(リベカの)子どもたちは、まだ生まれてもおらず、善も悪も行わないうちに、神の選びの計画の確かさが、行いによらず、召してくださる方によるようにと、「兄は弟に仕える。」と彼女に告げられたのです。

「わたしはヤコブを愛し、エサウを憎んだ。」と書いてあるとおりです。…

神はモーセに、「わたしは自分のあわれむ者をあわれみ、自分のいつくしむ者をいつくしむ。」と言われました。

したがって、事は人間の願いや努力によるのではなく、あわれんでくださる神によるのです。』新約聖書 ローマ人への手紙9:11~16

この聖書の箇所は、今まで何回か書いてきた。

私にとっては大切なところなので、また、分かち合いたいと思った。

かつては、この真理がしっくりこなかった。

“神の選びの確かさ”が、まだ生まれてもいない、善も悪も行わないうち、行いによらず、神様の主権によって、選ばれる者とそうでない者がいるということ。

そんなのは、ずるいのではないか。祝福の権利にもれたエサウはかわいそうではないか。

私たちは生まれたときから、頑張れば報われる…そんな教えの中で、励まされ努力してきた。

“ただ信じるだけでオッケー”とか、生まれる前から何もしていない選ばれているのが決まってるなんて…だったら、何を頑張っても、何もやらなくても変わりがない、運命を受け入れるより仕方のない世界なのかと考えてしまう。

私自身、この箇所を読むたびに、そんな思いにとらわれた。

“神の選びの確かさ”ということで、パウロは9章から11章において、ユダヤ人(イスラエルの民=選民)と異邦人(選民イスラエルの民以外の民)の選びについて語っている。

一言で言うと、今ユダヤ人の多くは神様から選ばれた民族であるのはイエス様を信じてはいないが、その選びが無効になったのではない。

それは、異邦人に救いが及ぶ神様の壮大な計画にあった。

だから、異邦人である私たちは、ただあわれみによって救われたのだから謙虚に神様のあわれみを受ける必要がある…という話しである。

“神様の選びの確かさ”…それは行いによらず、願いや努力によらない。

誰が救われるかどうかということをはかることではなく、もしイエス様を信じる信仰を与えられたとしたら、それは神様のあわれみによる以外何もないのだということである。

私の行いによらず、願いや努力や、私自身によるものは何もなく、ただ神様が、選んで、私にイエス様を信じる信仰を与えられたのである。

私自身が信仰を与えられて誇るものは一つもなく、ただ滅びゆくものがあわれみによって生かされている、この事実は私をへりくだらせ、また、与えられているもの、信じさせてもらっているものの大きさを思わせられる。

そして、神様が私を選んで、イエス様の信じる信仰を与えられたのならば、その尊さとおそれおおい畏敬の念を思うとき、そこにふさわしく応答するものでありたいと思わせられる。

神様、どうそ、私の今与えられている信仰は、私によって与えられたのではなく、ただ神様の一方的なあわれみによっていることをいつも忘れることなく、謙虚に、感謝していけますよう助けてください。

Img_4390s

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 聖書・聖句へ
にほんブログ村

| | コメント (8) | トラックバック (0)

2009年9月16日 (水)

“私の人生に働かれた神様”

すべてを益と変えてくださる神様を思いました。

『神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。

なぜなら、神は、あらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです。それは、御子が多くの兄弟たちの中で長子となられるためです。

神はあらかじめ定めた人々をさらに召し、召した人々をさらに義と認め、義と認めた人々にはさらに栄光をお与えになりました。』新約聖書 ローマ人への手紙8:28~30

自分の過去を振り返ると、50歳生きてきて、33歳までは本当に苦しい日々だった。

それは、私が神様からどんな風に造られたかと関係しているのかもしれない。

両親との確執の中、心の中が傷だらけになってしまった。

そんな中でも、自分の生きる道を探し、生きがいを求めていた。

クリスチャンになる前から、人のために生きる者でありたい、自分の使命に生きたいと強く願っていた。

今、ここに来て、私の人生の大半が心の傷の癒しのために使われてきたように思う。

そして、心の傷の癒し、回復と私に与えられていた人のために生きる道が重なっているのだなぁと今思う。

私の両親から受けたダメージも、教会から受けたダメージも、実は私が今、人と神様の恵みを分かち合うためになくてはならない苦しみであったことをしみじみと感じている。

神様ははじめからすべてをご存じだった。

若いときは、私はもっと気楽に生きられる自分であったら、どんなに楽だろうと思った。

が、造られ、与えられている者の宿命。私はクリスチャンになる前も、なったあとも、自分の使命=生きがいを追及し、苦しんだ。

クリスチャンになってからは、形は生きがいから、神様の働きに変わっていた。

神様の働きを祝福する約束を神様から与えられながらも20年あまり待たされた。

33歳のとき、神様から握っているものを強制的に手放させられた。何を握っていたかというと、私にとって一番大切に思えた神様の働きだったと思う。

そのあとのんびり、神様に感謝しながら子育てのときを過ごさせてもらった。

今、ここに来て、神様は一つも無駄なく益として用いてくださっているのを思う。

それは、ただ神様が良いことに変えてくれたというのでなく、苦しみを通され、私が変えられていったということなのだと思う。

風の住人さんが、コメントに、苦しみの中にイエス様がいたと言っていた。

まさに、私も通された私だけの苦しみの中にイエス様がともにおられ、御霊の働きの中、私が本来神様の働きができるように造り変えてくださった。

すべては神様の計画の中にある。神様をただほめたたえます。

Img_4387s

にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ
にほんブログ村

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2009年9月15日 (火)

“感謝にあふれますように”

感謝について思ったことです。

『キリストの平和が、あなたがたの心を支配するようにしなさい。そのためにこそあなたがたも召されて一体となったのです。

また、感謝の心を持つ人になりなさい。

キリストのことばを、あなたがたのうちに豊かに住まわせ、知恵を尽くして互いに教え、互いに戒め、詩と賛美と霊の歌とにより、感謝にあふれて心から神に向かって歌いなさい。

あなたがたのすることは、ことばによると行いによるとを問わず、すべて主イエスの名によってなし、主によって父なる神に感謝しなさい。』新約聖書 コロサイ人への手紙3:15~17

感謝する…の反対は何でしょうか。

つぶやく、嘆く、不満を言う…でしょうか。

イエス様に出会っていないときの私は、人生に嘆き、失望しきっていました。

人から見たら、とりたて不幸な環境ではありませんでした。

20歳の私は健康で、行きたい大学に行かせてもらい、仕送りもしてもらい、何の拘束もないような中にいました。

が、自己否定、自己嫌悪のかたまりであった自分のフィルターから見た世の中は、もの悲しげで、絶望的でした。

イエス様に出会った私は変わりました。ただ心のうちから喜びがあふれました。

私はイエス様に出会っていないときに、しあわせは環境からくるのではないことを知っていました。

だから、自分が変わりたい願望がとても強かったです。

イエス様と出会った何が嬉しかったのか…ことばではうまく表せないのですが、イエス様を通って入ると、同じ世界が全く違う世界になったのです。

それでも、心の癒しの回復が進むまで、また、教会内への不満やつぶやきを長年してきた私です。

私にとって教会だけが何にもかえられないくらい大切で、こだわっていたので、そこでの妥協を見い出せず、つぶやいていたのだと思います。握って、神様におまかせできない領域でした。

神様に手放させてもらったとき、すべてに感謝できるようになっていきました。

たくさん教会を移ったことも、教会で苦痛を感じてきたことも意味があったと今では感謝しています。

かつて、心の傷が回復していないとき、私は神様の働きができていないと、深く悲しみました。

今、心の傷が回復すると、見渡す限り、すべてが神様から与えられたチャンスと思えるようになりました。

与えられている今を感謝できるかどうかは、内面のチェック機構になるかもしれません。

感謝できないとしたら、それが悪いのだとは私は思いません。

感謝させない傷や痛みがあるしるしなのではないでしょうか。

無理矢理、感謝しなさいとなると、たちまち無味乾燥な決まり事の世界です。

体調が悪いときは、どこが弱っているのか調べて治療します。

感謝できない傷があったら、本人が誰よりも苦しいので、名医であるイエス様に見てもらい、癒されますように。

感謝にあふれるほど、回復しますように。

Img_4333s

にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ
にほんブログ村

| | コメント (4) | トラックバック (0)

2009年9月14日 (月)

9/14☆お祈り☆

ブログ周辺の方たちを思いつつ、一週間のお祈りをします。

『何も思いわずらわないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。

そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。』新約聖書 ピリピ人への手紙4:6.7

恵み深い天のお父さん、あなたが私たち一人一人をご存じですからありがとうございます。

私たちは、それぞれのからだを持ち、気持ちを持ち、個々に生きています。

それゆえに、自分だけのことを誰にもわかってもらえない孤独に襲われることもあるかもしれません。

けれども、私のすべてのことをご存じで、理解し、共感し、あわれみ、愛してくださるイエス様がいますからありがとうございます。

また、私たちの痛みや苦しみが、他の人が同じように感じることはありませんが、その痛みや苦しみを共に自分のことのように考えてくれる友、また、とりなす人が与えられていますからありがとうございます。

私たちはとても弱い存在です。生まれてきたときから、未熟児のようで、動物のようにすぐ立つこともできません。

何もできないものとして生まれ、人から手をかけてもらい、成長します。

もし、心の中に満ちていないもの、傷や痛みがあったら、主よ、あなたが触れて癒してください。

もし、からだの痛みと苦しみがあるなら、主よ、そこにも関心をお持ちの主が触れて癒してください。

私たちの思いわずらいを祈りと願いを主にささげることによって、人知を越えた神の平安に変えてください。

イエス様を信頼する心を与えてくださり、安心を与えてください。

霊の目を開かせてくださり、あなたが与えてくださっているものに感謝する心を与えてください。

変わらないイエス様の私への愛のまなざしを感じて、どんなときも主を喜ぶものとしてください。

悩みの中にある人に慰めと導きをください。

迷いのある人に、主がみことばの光で足元を照らし、歩む一歩を教えてください。

私たちのまわりにいる人をとりなす祈りを与えてください。

ただイエス様の栄光を現してください。

神様のみ国がお一人お一人に与えられますことを信じて祈ります。

聖霊様にある喜びを与えてください。

新しい一週間も主とともにありますように。

希望のない人たちに、そのような場所に神様の希望を届けてください。

イエス様のお名前によって祈ります。アーメン

Img_4332s

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 聖書・聖句へ
にほんブログ村

| | コメント (4) | トラックバック (0)

2009年9月13日 (日)

『誰かのために祈るとりなしの祈り』

人のためとりなす祈りについて考えてみました。

『何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださるということ、これこそ神に対する私たちの確信です。

私たちの願う事を神が聞いてくださると知れば、神の願ったその事は、すでにかなえられたと知るのです。』新約聖書 第1ヨハネの手紙5:14.15

おはようございます。

今日は祈りについて共に考えてみたいと思います。

私は誰かのための祈りというのは、キリスト教の専売特許のように思っていましたが、最近違うように思うようになりました。

私にとっては、祝福の神様に自分のことだけでなく、人のためにも祈ることができるというのは、すばらしいことと思っています。

人のために祈る心すら神様が与えてくださるのだと思います。

神様に祈れる祝福とその特権を思いますが、人の祝福を祈るのには、その祈りたい思いが大切だと思います。

クリスチャンであっても、誰かのために祈りたいという思いが湧いてこなければ、特権も何もありません。

ちょうど、目の前に、貧しい人のためにと食料が山ずみにされていても、それを届けようと動かなければ、そこにそのまま残されているだけです。

イエス様を知らない友人が、人のしあわせを願い、心をそこに集中させている友たちを何人か見ました。

そして、それもその人たちの尊い祈りの形と思いました。

神様は人を造られたときに、その人のために祈るという麗しい行為もするように造られたのだと私は思います。

日本にはお百度参りなど、良く誰か愛する人のため、身をはって願いを捧げる姿があります。

イエス様の世界での祈りは、イエス様が十字架にかかってくださったので、私たちのとりなしの祈りが聞かれます。

イエス様の十字架の犠牲により、私が赦され正しいものと神様に見なされたので、大胆にとりなしの祈りもできるのです。

祈る側が良いことをしていても、悪いことばかりするものでも、大胆に神様の至聖所まで入り、祈れるのです。

神様が私たちにくださったこのすばらしい特権を生かし、キリストの愛をたずさえて、人のしあわせを心から願い、祈るものでありたいと思います。

お一人お一人の誰かのために祈るとりなしの祈りがキリストの愛となって祝福されますように。

Img_4374s

にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ
にほんブログ村

| | コメント (3) | トラックバック (0)

“からだの癒しを願うイエス様”

病の人に対するイエス様の気持ちを思いました。

『さて、エルサレムには、羊の門の近くに、ヘブル語でベテスダと呼ばれる池があって、5つの回廊がついていた。

その中に大ぜいの病人、盲人、足なえ、やせ衰えた者が伏せっていた。

そこに38年もの間、病気にかかっている人がいた。

イエスが彼が伏せっているのを見、それがもう長い間のことなのを知って、彼に言われた。「よくなりたいか。」

病人は答えた。「主よ。私には水がかき回されたとき、池の中に私を入れてくれる人がいません。行きかけると、もうほかの人が先に降りて行くのです。」

イエスは彼に言われた。「起きて、床を取り上げて歩きなさい。」

すると、その人はすぐに直って、床を取り上げて歩き出した。』新約聖書 ヨハネの福音書5:2~9

からだの癒しに興味を持ち始めた私だが、からだの癒しばかりが強調される教会は私は苦手だと思う。

イエス様はいろんなことをして、人々を助けられたが、そこにはいつも同情やあわれみの心が満ちていた。

癒しとか現象に目がいくばかりではなく、そのイエス様の私たちに対する心を知ることが大切とも思う。

ベテスダの池には大ぜいの病んでいる人たちがいた。

イエス様はその中のたった一人に声をかけられ、癒された。

イエス様は大ぜいの中で、その歩くことのできない人の心、イエス様への信頼を見たのではないか。

イエス様の「よくなりたいか。」と問いに対して、「池に入れてくれる人がいない」と答えている。

ベテスダの池に入ると神様のあわれみによって病気が癒されると信じられていた。

このイエス様と歩けない人の会話の中に、神様やイエス様への特別の信頼を見い出すことは私にはできない。

が、イエス様は会話が成立していなくても、その人の心を知り、癒された。

私は25年位前に、神学校時代、一度からだの癒しを体験した。

学校全体で赤貝を食べて、ひどい食中毒になった。病院で下痢止めの薬をもらった。

ほんとうはその薬はきつい薬で、下痢が止まったら飲むのをやめれば良かったのだと思う。

が、私は飲み続けてしまった。その結果、今度は全く排便ができなくなってしまった。

たぶん、長い間、出なかった。ある教会の徹夜祈祷で、手をおいて異言で祈ってもらった。

次の日、久々の快便となって、神様に感謝したのを覚えている。

私は基本、体の病気がなく、人の痛みや体の苦しみには理解がとても足りないような気がする。

人の病の苦しみには無頓着だった。

そんな私が人のからだに手をおいて癒されてほしい…そんな気持ちを持つようになったのは、私ではなく、イエス様のあわれみの心が少し与えられたのだと思う。

からだであれ、心であれ、イエス様にとって病んで、傷んでいる人への深い思いがある。

それは、人にはわからないその人だけの苦しみが、イエス様と共有されるときである。

そんな共有を願い、イエス様は人の痛みをとりなす人を探しておられるのだと思う。

Img_4387s

にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ
にほんブログ村

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2009年9月12日 (土)

“手を置いて祈った”

昨日、私は友人に手を置いて癒されるように願いました。

『イエスが山から降りて来られると、多くの群衆がイエスに従った。

すると、ひとりのらい病人がみもとに来て、ひれ伏して言った。

「主よ。お心一つで、私をきよめることがおできになります。」

イエスは手を伸ばして、彼にさわり、「わたしの心だ。きよくなれ。」と言われた。

すると、すぐに彼のらい病はきよめられた。』新約聖書 マタイの福音書8:1~3

私は最近、誰かがどこか痛いと言うと、それがクリスチャンであろうとそうでなかろうと、手をおいて祈りたくなる欲求にかられる。

私に癒しの力が与えられていなくても、神様にあって癒してあげたいと思うようになった。

クリスチャンであれば、許可をもらって手を置いて祈る。

さっきまで、近くの個人宅で役員の人たちの飲み会があった。

10人ほど集まりにぎわった。

帰る時間も間近な頃、今、中学で2年間共に役員をやっている親しい友人と私は話しを始めた。

その役員の仕事で一番一緒にいる時間の多い友人である。

彼女が「パソコンの仕事をしているけど、首が痛くてつらい。腰とかから痛みが来ているらしく、整体に通っている。」という話しをとても詳しく始めた。

私は肩こりすらしない人間で、人のからだの痛みへの理解はとても鈍感である。

が、手を置きたい欲求で、彼女の話しを聞き入っていた。

彼女は言った。「“手当て”っていうくらいで、手を置くと違うんだよね。私も息子に手をあて、よく気を送ったりする。」

「どの返?私の場合、神様の霊によってなんだけど、手を置いて癒したいって思う。」と言って彼女の痛いという肩のところに手を置いた。

なんか神様の霊が流れている感じがした。

彼女も「流れてくるよ。首や手のひらがどんどん熱くなっている。」と言った。

彼女は気が流れていると理解していたが、私の理解は神様の霊が私を通して友人に流れているということだった。

「私にとっては神様のおかげなので、神様に感謝のお祈りしてもいい?」と言った。そして祈った。

「神様、癒してください。癒してくれてありがとうございます。イエス様のお名前によって祈ります。アーメン」

私は手を置きたかった話しを、彼女は私に手を置いてほしかった話しを分かちあった。

私たちはパイプ(管)であり、私たちを通して流れる分かちあいをした。

彼女は「遠くにいてもそれは流れていく。今もらったものを私はひとりの苦しむ友人に届くように願いながら送っている。」祈りを知らない友人の祈りを見た。

彼女とは長い時間一緒にいてきた友人だが、私が彼女の心を少し理解できたときだった気がした。

帰ってからも、私の彼女に置いた手はピリピリしていた。

話しにイエス様は出てこなかったけど、手を置いて癒しを願いたい人と、手を置いてもらい癒されたい人が一つになったときだった。

主よ。お心一つで、癒してください。あなたの愛する人を。

Img_4328s

にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ
にほんブログ村

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2009年9月11日 (金)

“神の国にはいるため”

神様の国にはいるために大切なことを考えました。

『それから、イエスは弟子たちに言われた。「まことに、あなたがたに告げます。金持ちが天の御国にはいるのはむずかしいことです。

まことに、あなたがたにもう一度、告げます。金持ちが神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通るほうがもっとやさしい。」

弟子たちは、これを聞くと、たいへん驚いて言った。

「それでは、だれが救われることができるのでしょう。」

イエスは彼らをじっと見て言われた。

「それは人にはできないことです。しかし、神にはどんなことでもできます。」』新約聖書 マタイの福音書19:23~26

富める青年が、イエス様のところに来て、「先生。永遠のいのちを得るためには、どんな良いことをしたらよいのでしょうか。」と尋ねた。

イエス様は「もし、あなたが完全になりたいなら、帰って、あなたの持ち物を売り払って貧しい人たちに与えなさい。」と言われた。

富める青年は、多くの財産を持っていたので、そのことはできないと悲しみながら去って行った。

ここでは、はじめから質問がずれていた。私たちは“良いことをする”ことによって、永遠のいのちをいただくことはできない。

しかし、イエス様はダイレクトに“良いことをすることによっては、永遠のいのちは得られません。”とは言わなかった。

イエス様もまた、“する世界”から青年と話しをしている。

「もし、あなたが完全になりないなら…。」とイエス様は言われた。

人は完全にはなれないことを示すために、富める青年には財産を売り払って貧しい人に与えよと言われた。

富める青年にとって大切にし、基盤をおいているところがどこなのかイエス様にはわかったのだと思う。

私たちはそれぞれが生きていく中で、知らず知らずのうちに頼りにしているもの、基盤としているもの、支えとしているものがある。

ある人にとってはお金かもしれないし、また、ある人にとっては能力や地位、名誉、肩書きであったり、安定した生活であったり、健康や楽しみかもしれない。

どれも悪いものはひとつもない。神様が祝福して、与えてくださったものでもあるかもしれない。

しかし、何か頼りにして過信しているものがあると、それが信頼していく神様との道を妨げていることもあるかもしれない。

私は、神学校時代、とても貧しかった。奉仕教会に行き、そこのご婦人がお昼のお弁当を作ってきてくれ、それを寮に持ち帰り、感謝して食べたことを覚えている。

「神様、今日の昼ご飯をあなたが与えてくださり感謝します。」とお祈りして食べた。食べるものすらないとき、神様が与えてくださったと感謝に溢れた。

実は神様は細部まで、すべてにご支配し、ご配慮してくださっているのだが、困らずに生活しているとすべてが自分の力によるように思う。

人がイエス様を信じて永遠のいのちにはいるのは、何かをすることや、神様以外のことに頼っては、決してできない。

同じように、人を神様に導くことも、何かをすることや神様以外のものに頼っては、決して成ならない。

ただ「人にはできないが神様にはできる。」と神様にのみ頼り、神様の国の実現を見ていきたいと思った。

永遠のいのちを得るため

Img_4184s

にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ
にほんブログ村

| | コメント (4) | トラックバック (0)

2009年9月10日 (木)

“聖さん”

聖さんについて書きました。

『また、彼らが食事をしているとき、イエスはパンを取り、祝福して後、これを裂(さ)き、弟子たちに与えて言われた。

「取って食べなさい。これはわたしのからだです。」

また杯(さかずき)を取り、感謝をささげて後、こう言って彼らにお与えになった。

「みな、杯から飲みなさい。これは、わたしの契約の血です。罪を赦すために多くの人のために流されるものです。』新約聖書 マタイの福音書26:26~28

イエス様は十字架にかかる前の最後の夜、愛する弟子たちと共に食事をした。

パンとぶどう酒は、このために特別用意されたものというより、イエス様の時代、普通に食べる食事だったのだと思う。

イエス様はその普通の身近な食事を通して、ご自身の十字架の深い奥義を説明された。

けれども、弟子たちには、おそらく「何のことでしょうか?」とさっぱり意味がわからなかったと思う。

イエス様はパンを祝福して裂き、ひとりひとりに分けて与えられた。

「このパンはわたしのからだですよ。取って食べなさい。」

ぶどう酒も感謝をささげてから、与えた。

「この杯から飲みなさい。あなたの罪を赦すためにわたしが流した、わたしの契約の血です。」

そして次の日、イエス様は十字架にかかられ、死なれた。

それは、弟子たちにとっては、絶望だった。イエス様が私たちを救い助けてくださる方ではなかったのか…。

しかし、イエス様は3日目に死から生き返られた。

そして、イエス様が天に戻られ、弟子たちに聖霊がくだった。

弟子たちは聖霊によって、イエス様の自分にとっての十字架の意味を知った。

あのイエス様の十字架は、私の罪を代わりに負ってくれたものだったと。あの十字架はまさに私がかかるはずの十字架だったと。

弟子たちはその意味がわかったとき、十字架にかけられる前の夜の食事のとき、イエス様が言われた意味がはっきりとわかった。

イエス様のパンはイエス様が十字架で裂かれたからだ、そのことによって私の罪赦され、イエス様自身のいのちをいただき続けているのだということ。

イエス様の十字架で流された血潮によって、私たちは赦され神様の子どもとされる新しい契約を神様と結んだのだと。

弟子たちにとって、あのイエス様の十字架は本当は自分がかからなくてはならなかったものであったことを知るとき、いのちを捨てて身代わりになってくれたイエス様の愛が迫ってきた。

すべての出発であり、中心であり、本質なることは、イエス様が私のために、私の代わりに十字架にかかってくれたという事実だった。

私たちにとって、聖さん式は、イエス様の十字架を思い出すためのものである。

イエス様が十字架にかかられたのは私のためであったという事実をもつ者にとって、聖さんは単なる儀式とならない。

今、イエス様のいのちをいただいて生きているのは十字架により、神様の子どもとされたのは十字架によるという目に見える告白である。

それはまた、新しいいのちをいただき、神様の子どもの祝福をいただいたものとして、古い自分には死んで、イエス様、あなたのために生きていきますという告白なのではないかと思う。

『ですから、あなたがたは、このパンを食べ、この杯を飲むたびに、主がこられるまで、主の死を告げ知らせるのです。』第1コリント11:26

神様が備えられた祝福の聖さんに共に加えられますように。

Img_2702s

にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ
にほんブログ村

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2009年9月 9日 (水)

“洗礼・2、聖餐”

『さて、イエスは、ヨハネからバプテスマを受けるために、ガリラヤからヨルダンにお着きになり、ヨハネのところに来られた。

しかし、ヨハネはイエスにそうさせまいとして、言った。「私こそ、あなたからバプテスマを受けるはずですのに、あなたが、私のところにおいでになるのですか。」

ところが、イエスは答えて言われた。
「今はそうさせてもらいたい。このようにして、すべての正しいことを実行するのは、わたしたちにふさわしいのです。」そこで、ヨハネは承知した。』新約聖書 マタイの福音書3:13~15

ハチイーさんの質問の続きです。

イエス様は一つも罪がなかったのに、何故、洗礼を受けられたか…です。

イエス様が洗礼を受けると、天が開け、神様の御霊が鳩のように下り、イエス様のところに来ました。

そして、天から神様が言われました。「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。」

イエス様が30歳のとき、人々のための生涯が始まりました。

人の形をとられた神イエス様に、御霊が宿り、神様のお告げの中、スタートしました。

人となられたこの十字架までの、人々のための3年間は、イエス様が働きをされましたが、神様の御霊も神様もともにおられ働かれていました。

今、私たちはイエス様を信じ、御霊をいただき、天の父なる神様とともに歩みます。

今は、聖霊の時代ですが、イエス様のときと同じように、私たちには相談する神様がおられ、人に同情されるイエス様が近くにともにいてくださるのです。

洗礼=聖霊のバプテスマか…の問いですが、私には良くわかりません。

私にとって洗礼は見える信仰告白で、口で告白したときに、聖霊をいただくのだと思っています。

ちょっとずれるかもしれませんが、この前、ある本で、聖霊に満たされるとはという定義が書いてあり、すごく納得しました。

“聖霊の満たしとは、聖霊をもっと多く所有するということでなく、聖霊に私たちのすべてを所有していただくことなのです。”

私たちが中心ではなく、神なる聖霊が私たちの中で自由に働かれるようになる…そのことが大切なのだと思います。

洗礼を受けていないと聖餐式(せいさんしき)を受けられないのか…の質問です。

これは教会によって違うのかもしれません。

ある牧師が言っていましたが、「聖餐は、信じる人が受けて初めて意味が出てくる。」と。だから、人間側が形だけで制約しなくても、受けたい人が受けても、あとは、その人と神様の問題でもいいのかもしれません。

人を赦せない人は聖餐を控えてください…と言われた牧師は、人を赦す大切さを自覚してもらうために言われたかもしれません。

私自身はこう考えます。イエス様はその十字架で私たちのすべての罪を赦されました。

たとえ、赦せないとか、まだ、手を放してないことも、悔い改めていないことも赦されているのです。

何か変えられて聖餐を受けるより、「イエス様、私を赦してくれてありがとう。」と聖餐を受けたほうが、イエス様の十字架の赦しの恵みに焦点を当てられるのではないかと思います。

私たちは自分の力で人を赦すことはできません。

そんな私があの十字架刑にかかるはずだったのです。私のかかる十字架にイエス様代わりにかかって苦しんでくれたんですね。と、十字架からの赦しと癒しときよめをもらうことしか私たちにはできません。

私にはできません、ごめんなさい、イエス様が私のうちに成してください…そんなふうにイエス様におまかせして、安らげますように。

疲れてしまったハチイーさんの重荷を全部イエス様に負ってもらえますように。

Img_4232s

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 聖書・聖句へ
にほんブログ村

| | コメント (4) | トラックバック (0)

2009年9月 8日 (火)

“洗礼・1”

『私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬(ほうむ)られたのです。

それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。』新約聖書 ローマ人への手紙6:4

昨日、ハチイーさんより、洗礼についていくつかの質問をもらいました。

コメント欄では書ききれなかったのと、また、共に皆さんと考える機会としてブログの記事にしました。

洗礼=バプテスマです。まず、全く知らない方もいるので、それは何かから話します。

“告白の力”で書きましたが、イエス様を心で信じて義とされ、口で告白して神様の子ども(クリスチャン)になります。

イエス様を信じるというのは、イエス様が十字架にかかり、私の罪の代わりに罰を受けてくれたので、私もイエス様と一緒に神様から離れていた性質(肉の欲望に生きる性質)に死んだ者となった、そしてイエス様が3日目に生き返ったように、イエス様とつながる新しいいのち(神様との関係を喜び、神様の子どもとして生きるいのち)に生き返った…ことを意味します。

そして、イエス様と一緒に古い人に死に新しいいのちに生きる、その象徴として洗礼を受けます。

水のあるところ、お風呂の水槽のような中でとか、川や湖などで、牧師のもと、水の中に全身をドボンと浸ります。

水に入ったとき、死に、あがって生き返る象徴です。

教団によっては単なる象徴でなく、特別な意味を見い出すところもあるかもしれません。

また、カトリックや一部の教団、あと病床洗礼など、水を頭につける“滴礼”(てきれい)というのもあります。

これらはイエス様を信じます…と告白した人だけが受ける神様からの儀式です。

確かに人の手によって行われますが、「あなたは今日から新しいイエス様のいのちに生きるようになったのだよ」と神様がくれた目に見える祝福の出発の式典のようなものです。

だから、ただイエス様を信じるだけで赦されるように、この古い人に死んで新しいいのちに生きることの式典も、神様から与えられた祝福と思います。

まず、その洗礼を受けるならば、その受けた教会に属さなければならないかという質問です。

多分、正解はそうです…ということだと思います。

洗礼を受け、イエス様の新しいいのちで、オギャアと生まれた赤ちゃんクリスチャンは、見守って支えてもらう家族が必要です。

一つの教会だけにいたくない人の気持ちは、私にはよくわかります。

でも、私たち現実の家族も一つなように、とりあえず、一つの家族の中(教会)によって育てられます。

私は30年に6回も教会を変わりましたから、良く言えばいろんな家族に育ててもらいました。悪く言えば、落ち着いた家庭環境では育ってないということでしょうか。

洗礼と言う見える信仰告白は、多くの人に祝福してもらい、支えられ育ててもらう一歩でもあるのかもしれません。

口で信じると告白したときに神様の子どもになります。

イエス様を信じるのは十字架だけでいいのですが、成長していく過程で、イエス様を信じるというところには、「私には良くわからないことでも、イエス様が望んでおられるなら従います。」という一歩に洗礼があることもあるかもしれません。

自分を十字架にかけて死ぬということは、イエス様を信頼してついていくことでもあります。

まだ、いくつか書きたいのですが、長くなったので、とりあえず“洗礼1”とします。

Img_4209s

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 聖書・聖句へ
にほんブログ村

| | コメント (10) | トラックバック (0)

2009年9月 6日 (日)

“廃墟から神殿に”

神様は心の廃墟を御霊の住む神殿に変えてくださいました。

『あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っておられることを知らないのですか。

もし、だれかが神殿をこわすなら、神がその人を滅ぼされます。

神の神殿は聖なるものだからです。あなたがたがその神殿です。』新約聖書第1コリント人への手紙3:16~17

神様は天地を造られ、人を造られました。そして、人が神様と交流できる存在として、特別に備えてくれました。

人が生きていること、それは神様の計画の中で命与えられ、尊い存在として備えられました。

神様は人を自分に似る者とされました。

それは、神様が霊的な存在であるように、人にも神様を知り、神様と交流できる霊を与えられたのです。

私は神様から離れているとき、その心は廃墟のようでした。

破(やぶ)れがひどく、いつもその穴の空いたところ、隙間から侵入者が入り、好き勝手なことをしていくのです。

侵入者の名前はサタンです。

私の廃墟に侵入すると、否定的にさせたり、無いところを見せたり、必要以上に悲しませたりします。

また、過去の失敗や弱さや大きく見せて、失望させます。

その破れのある廃墟には、たくさんのかたずいていないゴミ袋があります。

そのゴミ袋の名前は罪です。罪とは造られた方、神様とふさわしい関係をもてない様々な物です。

そのゴミ袋からは悪臭が放たれています。

神様は、ご自身の造られた家(人の心)が廃墟となっていることを悲しまれています。

その廃墟に神様が備えたかった神様を交流する霊はいません。守りは不在です。

もう一度、神様が造られた本来の姿に戻したいと願われました。

神様は、ご自身のひとりご、イエス様を私たちのために送ってくれました。

そして、私たちの心の住まいを、聖霊様が住まわる宮殿とされました。

イエス様は、ご自身の十字架をもって、その悪臭放つゴミ袋(罪)をきれいに処理し、無くしてくれました。

イエス様は、破れを修復してくれました。

もう、破れから勝手に侵入者は入り込めません。

そこは、神様の霊が住まわる神殿となりました。

私たちいと小さき人間の心に、神様の霊が住まわり、神様と交流を復活するものとなりました。

その宮殿は日々、イエス様によってきれいにされ、聖霊様によって、神様からの喜び、楽しみ、平安が溢れるところとなりました。

さらにその宮殿は、きよめられ、聖霊様が上からさらに注がれ、溢れ、流れるところとなるのです。

宮殿は、やがて、聖霊様が溢れ、川となり、人々にまで流れ、癒し、喜びを与えるようになるのです。

お一人、お一人の宮殿が祝福されますように。

Img_4269s

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 聖書・聖句へ
にほんブログ村

| | コメント (4) | トラックバック (0)

2009年9月 2日 (水)

“キリストのからだの苦しみ”

キリストのからだの苦しみとその回復を思いました。

『あなたがたは使徒と預言者という土台の上に建てられており、キリスト・イエスご自身がその礎石(そせき)です。

この方にあって、組み合わされた建物の全体が成長し、主にある聖なる宮となるのであり、

このキリストにあって、あなたがたもともに建てられ、御霊によって神の御住まいとなるのです。』新約聖書 エペソ人への手紙2:20~22

最近、私は本当にまれにだけれど、イエス様の悲しみや苦しみを霊的に少しだけ、感じるときがある。

昨日は胸の中が重苦しくなり、キリストのからだの苦しみなのかなぁと思った。

イエス様は、私たちのイエス様への信仰を告白するところに、教会を建てられた。(マタイ16:18)

そこは、イエス様の権能が働き、神の御国が現されていく場所である。

目に見える地域教会も教会であるが、私はいつも目に見えないキリストのからだを思う。

キリストのからだの苦しみや痛み…どんなものがあるだろうか。

イエス様を信じたのに、目に見える教会には集えず、孤独にいる人。イエス様がなかなか身近に感じられず苦しむ人。一生懸命にイエス様のためにと働きながら、良いものが与えられず疲れた人。指導的立場にありながら、神様からの恵みの啓示の知恵が与えられず、責任感のみで我力でやっている人。

キリストのからだの様々なところが、傷と痛みで苦しんでいる。

そして、そこに互いが互いを受け入れ合わないさばきや批判があり、キリストのからだは癒されることなく、悲鳴をあげている。

私は自分のお腹が痛かったら、薬を飲む。

足が痛くなったら、歩くのを休む。

虫歯が痛くなったら、歯医者に行く。

自分の大切なからだをいたわり、早く回復し、痛みがなくなるようにする。

キリストのからだは、いろいろな視点からあちらもこちらも傷んでいる。癒しと回復が必要である。

私たちはキリストのからだを、自分のからだのように大切にできるか試されている。

私自身が長年してきたことだが、他者批判はキリストのからだのために何にも回復をもたらさない。

イエス様からいただいた愛をもって祈る…何もできなくとも、何もできないから、イエス様の力が働くことを願い、ただひたすらとりなしの祈りをする…それしか私たちにはできないような気がする。

もし、痛みがあるなら、大切なキリストのなくてはならない一部のあなたが癒されますように。

もし、誰かのために祈れる力が与えられているなら、一つとなってとりなし祈り、キリストの愛による癒しをともに体験できますように。

Img_4254s

にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ
にほんブログ村

| | コメント (4) | トラックバック (0)

2009年9月 1日 (火)

“主の大庭においてください”(祈り)

個人的な祈りですが、書きました。

『万軍の主。あなたのお住まいはなんと、慕わしいことでしょう。私のたましいは、大庭を恋い慕って絶え入るばかりです。私の心も、身も、生ける神に喜びの歌を歌います。…

万軍の神、主よ。私の祈りを聞いてください。ヤコブの神よ。耳を傾けてください。

神よ。われらの盾をご覧ください。あなたに油そそがれた者の顔に目を注いでください。…

まことに、あなたの大庭にいる一日は千日にまさります。私は悪の天幕に住むよりはむしろ神の宮の門口に立ちたいのです。』旧約聖書 詩篇84篇

恵み深い天のお父さん、あなたがすべてにまさって王の王、主の主です。

あなたによって、生きていく希望のないものが生きる希望を与えられましたから、ありがとうございます。

あなたによって、傷ついていた者が、傷のある人をとりなす者に変えられましたから、ありがとうございます。

あなたがいなければ、今の私はいません。

あなたが私のすべてとなってくださいましたから、ありがとうございます。

天では、あなたのほかに、だれを持つことができましょう。

地上では、あなたのほかに私はだれをも望みません。(詩篇73:25)

あなたが私の最善をご存じです。

あなたに出会ってこれまで、あなたが私の最善をしてくださいました。

だから、これからもまた、あなたを信頼し、あなたについていきます。

どうぞ、私を見捨てず、見放さず、主よ、共にいてください。

あなたにとっては、やみも暗くなく夜は昼のように明るいのです。暗やみも光も同じことです。(詩篇139:12)

あなたと親しくする主の大庭に私を置いてください。

ただ、あなたと語らう場所を祝福してください。

あなたの大庭にいる一日は千日にまさります。

私はあなたがいない世界の中で憩うより、あなたのいる場所の苦しみを選びます。

主よ。あなたとともにいて、私をあわれみ、祝福してください。

主よ。あなたの愛に包み、悲しみを癒してください。

ただ主を慕い求め、あなたを賛美します。

あなたの栄光の光で私の顔を照らして慰めてください。

イエス様のお名前によって祈ります。アーメン。

Img_4204s

にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ
にほんブログ村

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2009年8月30日 (日)

8/30☆お祈り☆

ブログ周辺の方々を思い、お祈りします。

『しかし定めの時が来たので、神はご自分の御子を遣わし、この方を、女から生まれた者、また律法の下にある者となさいました。

これは律法の下にある者をあがない出すためで、その結果、私たちが子としての身分を受けるようになるためです。

そして、あなたがたは子であるゆえに、神は「アバ、父。」と呼ぶ、御子の御霊を、私たちの心に遣わしてくださいました。

ですから、あなたがたはもはや奴隷ではなく、子です。子ならば、神による相続人です。』新約聖書 ガラテヤ人の手紙4:3~7

この世界が造られる前から、私たちを愛し、壮大な救いの計画を立てられておられた神様、あなたのお名前をあがめます。

私たちはどう頑張っても正しい者とはなれず、その弱さの中に絶望的な者でした。

しかし、神様が時が満ちたとき、ずっと旧約時代から預言されていたイエス様を私たちに送ってくれました。

イエス様は処女マリアから生まれましたが、聖霊によりみごもり、人間の罪を受け継ぐことのないきよいお方として生まれました。

それは、私たちの罪を負い、十字架の上で私たちの罪を代わりに受けてくださるためでした。

2000年前のイエス様が十字架にかかられた歴史的事実が、信仰により、私の赦しと癒しと解放、平安が与えられるためとなり、この人の考えを越えた神様の救済のみ業をありがとうございます。

それは、ただ一度だけのイエス様の十字架によって完成され、私たちがそこに何も付け足さなくてよいのでありがとうございます。

私たちはイエス様の十字架で、罪赦され、神様の子どもとされましたから、ありがとうございます。

また、イエス様の御霊をいただき、神様のことを「お父ちゃん」と呼べるようになりましたから、ありがとうございます。

私たちは正しいことができませんでしたが、正しいことを自力でするところから解放されましたから、ありがとうございます。

イエス様が私のうちに生きてくださり、イエス様の愛に応答して生きていくものとされましたから、ありがとうございます。

神様からのたくさんの良いものを約束され、神様の子どもとしてそれらを相続する者となりましたからありがとうございます。

新しい1週間も、愛する方々と、神様、近くにいてください。

私たちが神様の子どもである日々を楽しませてください。

与えられた聖霊様によって、日々、「天にいるお父ちゃん。」と呼び掛け、たよらせてください。

私たちがイエス様の十字架で赦され、受け入れられているすばらしさを体験させてください。

私たちがいただいたイエス様の愛によって、人を祈り、祝福する者とさせてください。

この1週間を神様、ともにいてお守りください。

あなたの御名があがめられ、あなたの御国がきますように。

イエス様のお名前によって祈ります。アーメン

Img_4191s

にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ
にほんブログ村

| | コメント (4) | トラックバック (0)

“イエス様の十字架を信じる障害”

『義人はいない。ひとりもいない。…

…律法を行うことによっては、だれひとり神の前に義と認められないからです。律法によっては、かえって罪の意識が生じるのです。

しかし、今は、律法と預言者によってあかしされて、神の義が示されました。

すなわち、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、それはすべてを信じる人に与えられ、何の差別もありません。

すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによるあがないのゆえに、価(あたい)なしに義と認められるのです。』新約聖書 ローマ人への手紙3:10.20~24

おはようございます。

今日も、すべての人の唯一なる、天地を造られた神様が、教会の中にも、外にもいてくださり、私たちの小さな祈りも聞いて応えてくださることを信じ、感謝します。

イエス様の十字架刑による赦しのメッセージはシンプルです。

教会学校に通う子どもたちも、みんな素直に「イエス様、私の罪を赦してください。イエス様の十字架で赦されたことをありがとうございます。」と祈れます。

イエス様の十字架が自分のためであったと信じるのに、難しい知識はいりません。

けれど、このシンプルなメッセージがミソなのかもしれません。

イエス様の十字架の死刑が私のためだった…それほどまでに私は悪い人間なのか。

よく聞くのは、「私は法律に触れるような悪いことはしていない。」ということです。

正しい神様の前に、自分が死刑になるほどの罪深い人間だ…というのは、聖霊様がその心の暗やみを照らしてくれないと、わからないのかもしれません。

もう一つ、イエス様の十字架を信じる上で、難しいことがあります。

それは、“ただ信じるだけで赦しを受けられる”ということです。

私は息子にこの世の中では“ただより怖いものはないよ。絶対に何か裏があるから。”と話します。

信じるだけで救われる!?…そんなこと、本当かなぁと思います。

旧約聖書にナアマンという人が出てきます。(第2列王記5章)彼は将軍でしたが、らい病になりました。預言者エリシャは使いをやり、彼に言いました。

「ヨルダン川で7度あなたの身を洗いなさい。治ります。」と。

ナアマンは怒りました。エリシャがいろんなことをして治してくれると思ったからでした。

すると、ナアマンのしもべが「ご主人様は難しいことを言われたら、きっとそのとおりにしたでしょう。」ナアマンのプライドがじゃましているのを指摘しました。

ナアマンは自分のプライドのゆえに、簡単なことに従えなかったことに気がつかされ、幼子の如く、言われたとおりにして、癒されました。

イエス様の十字架を信じることには、自分の内側にある“罪”を認めなければならないと同時に、ただイエス様の十字架を信じるのみ…と人間側の資質とか能力とか何も問われていません。

何も自分にはありませんという人は喜んで信じますが、頭を低くし、自分は何もないと認めないと受けにくいのが、イエス様の十字架です。

イエス様の十字架を信じる者には、罪の赦しだけでなく、イエス様にある新しいいのち、そして、聖霊様が送られ、神様の子どもとなり、その良いものを受け継ぎます。

幼子の如く、平等に与えられているイエス様の十字架のプレゼントを受けとれますように。

Img_3082s

にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ
にほんブログ村

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2009年8月29日 (土)

“イエス様に一致するすばらしさ”

イエス様による一致の大切さを思いました。

『ですから、あなたがたが良いとしている事がらによって、そしられないようにしなさい。

なぜなら、神の国は飲み食いのことではなく、義と平和と聖霊による喜びだからです。

このようにキリストに仕える人は、神に喜ばれ、また人々にも認められるのです。

そういうわけですから、私たちは、平和に役立つことと、お互いの霊的成長に役立つこととを追い求めましょう。』新約聖書 ローマ人の手紙14:16~19

もうすぐ総選挙がある。民主党が優勢と言われている。そんな中で、自民党がネガティブキャンペーンというのをやっているらしい。

我が家にもパンフが入っていたが、「民主党はこんな良くない?政策を打ち出している。」という6項目、6ページにわたる説明がされている。

そこには自民党が何をするかは一言も書かれていない。

このパンフが自民党に有利になるのかどうかはわからないが、相手の悪口だけ書かれたパンフはピンとこなくて、私は捨てた。

昔、本物の壺などの鑑定人を育てるのに、どうするかという話しを聞いたことがある。

偽物を一切見せず、本物だけを見せて、見る力を育てるのだそうだ。

私は教会批判を長年してきた人間なので、おこがましい気もするが、教会内で、批判をすると、サタンは手をたたいて喜ぶのだと思う。

それは、教会内の小さな批判もある。が、特に、牧師などが、他教会の批判や、他教団の悪口を言うことは、聖霊様を悲しませる。

牧師は、教会を守りたい、教会の羊たちを守りたいという思いがとても強いのだと思う。

それが、高じると、他者批判になるのかもしれない。

私は、教会を渡り歩いてしまったものとして、教団にはその守るところの教理(教団の教えの特徴とするところ)があるのを見てきた。

けれども、以外とそこに固執しているのは、牧師だけで、信徒はシンプルにイエス様への信仰だけをもっていたりする。

私も与えられた各教団の強調する教えを否定するつもりは全くないが、私は何を信じているかといえば、教団教理ではなく、イエス様だと言いたい。

私は福音派から、聖霊派と言われるところを渡り歩いたが、クリスチャンは皆、信じるところは一緒だと思った。

今、その経験が、いろんな背景をもった人たちとの交流にも役立っているのかなぁと思う。

リック・ジョイナーという人の本を友人から譲り受け、2册読んだ。

やがて、リバイバルが来たときにこぼれていく人の話しがあった。

「支配の霊」と「屈服の霊」に捕らわれる指導者たちと書かれてあった。

上に立つ人は、その人たちにしかわからない誘惑や霊的戦いがあるのだと思う。

今、癒されて思うところは、キリストのからだは、みんなで作りあげるものだということ。(癒されていないころの私は、牧師がすべて悪い…くらいに思っていた。)

教会に批判の霊や、支配の霊、宗教の霊など入りこんで、神様の平和が伝えられる場所が、違うものに支配されていないか…そこで、キリストのからだの共同体をなすものにも、祈り支える責任があるのかもしれない。

教団同士の決して埋まらない溝があるが、イエス様をあがめていくとき、支配の霊に支配されていないものたちから、イエス様にあって一つとなっていくのかもしれない。

ただ、このイエス様だけがあがめられるように、祈ります。

Img_2702s

にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ
にほんブログ村

| | コメント (8) | トラックバック (0)

2009年8月28日 (金)

“告白の力”

神様に対する“告白”とその力について思いました。

『なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。

人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。』新約聖書 ローマ人への手紙10:9.10

告白について考えてみた。

私たちの日常の中にも“告白”はある。

たとえば、好きになった子に自分の気持ちを“告白する”とか、結婚を望んでいる人にプロポーズして“告白する”などある。

“告白”は自分の気持ちをはっきりと相手に伝える。

そのことによって、曖昧だった関係が、成立したり、壊れたり、次がはっきりする。

イエス様を信じる信仰告白が、このローマ人の手紙の10章に書かれてある。

神様は人の心のうちをすべてご存じなので、たとえば、告白しても、しなくてもその心は知られている。

それでは、なぜ、告白が救いのスタートになるのか。

聖書にある多くがそうであるように、それは神様のためというより私たち人間の側のためではないかと思う。

信じている気持ち、その心があるなら、そのことがすでに神様から義とされているが、はっきりと表明することで、私たちは神様との新しい関係に入るのだと思う。

神様は告白を待たれているが、無理強いはしない。自然な告白を神様は喜ばれ、告白によってイエス様につなげられ、神様の子どもとなる。聖霊のしるしが与えられる。

信仰を告白する…これは、自分の行為のようであるが、気持ちを言い表しただけで、ただそれだけですばらしいことが起こるのだから、神様に主権がある。

私たちは良いものをもらっただけである。

第1ヨハネ1:9は私の生活適応の中心になる聖書のことばだ。

『もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。』第1ヨハネ1:9

たった一つの罪を認めて、告白するなら、すべての悪から神様はきよめてくれるとある。

私はこんな風に思っている。

私たちは全部罪や悪は無くならないが、ある一つの罪に気がつき、責められているようなことがあるならば、そのことを神様に申し上げることが良い。

そうすると、イエス様によって赦され、もう一度、神様とのふさわしい関係に入れられる。

別の言い方をすれば、その罪を認め、言い表すところにサタンが入りこむすきはなくなり、神様とのふさわしい関係の中で神様の領域に入る。

そこは、神様がご支配してくださる場所で、神様の良いものに満ちた場所に戻れる。

イエス様に赦され、神様とのふさわしい関係の中で平安の中に入れられる…と私は理解している。

何はともあれ、私たちの気持ちや思いを神様に“告白”することはすばらしいことである。

それは単なる“告白”にとどまらず、キリストの十字架が働かれる場所となり、聖霊様が豊かに働かれる場所となる。

Img_1920s

にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ
にほんブログ村

| | コメント (8) | トラックバック (0)

2009年8月27日 (木)

“イエス様の栄光をあおぐ”

自分で何かをすることより、イエス様に聞くことが大切なことと思います。

『そして彼らの目の前で、(イエスは)御姿が変わり、御顔は太陽のように輝き、御衣(みころも)は光のように白くなった。

しかも、モーセとエリヤが現れてイエスと話し合っているではないか。

すると、ペテロが口出ししてイエスに言った。

「先生。私たちがここにいることは、すばらしいことです。もし、およろしければ、私が、ここに三つの幕屋を造ります。あなたのために一つ、モーセのために一つ、エリヤのために一つ。」

彼がまだ話している間に、見よ、光輝く雲がその人々を包み、雲の中から、「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。彼の言うことを聞きなさい。」という声がした。』新約聖書 マタイの福音書17:2~5

イエス様は、ペテロとヤコブとヨハネを連れて、高い山に行かれた。

そこで、彼らは、光輝くイエス様とモーセとエリヤが話しているのを見た。

モーセは律法、エリヤは預言者…律法と預言は旧約聖書を表す。彼らがイエス様を証しているのだそうだ。

ペテロはこの素晴らしい光景を見て、口出しをした。

「私が、3つの幕屋を造ります。」と言った。

神様が天から「イエスはわたしの愛する子どもであり、彼を喜ぶ。彼に聞きなさい。」と言われた。

教会の働き、クリスチャンの働きは“何かをする”ことではない。

イエス様が十字架のあがないを成してくださったことにより、神様の救いの計画は成された。

私たちがすることは、“イエス様の十字架のみわざ”をほめたたえることであり、イエス様に聞いていくことである。

何かする世界は宗教の霊(人間の力)が働き、イエス様を見上げて聞いていく世界は啓示の神様によって聖霊様が働かれる。

私たちは、イエス様のために、ペテロのように「イエス様、あなたのために私はこれをしましょう。」と言ってはいないだろうか。

イエス様は人間の業を望んではおられない。

私たちが、イエス様の十字架と復活…神様が備えてくださったこの最大のプレゼントを喜ぶとき、神様の、イエス様の、聖霊様の御業が現される。

ただ、主だけがあがめられますように。

♯♯♯

私たちは、生まれたときから、自分のことは自分で考え、責任を持ってやりなさい…と教育されてきました。

ですから、正しい方(イエス様)に聞いて、従うということは、実はとても難しいことです。

私たちが、神様の望まれていない人間的な業ばかりしていることを赦してください。

すべての主導権を持っておられるあなたが成したいことをされるため、私を空っぽにしてくださり、ただあなたが私を通してしたいことをしてください。

そして、人の業ではなく、イエス様にのみ栄光が帰されますようにしてください。

Img_1418s

にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ
にほんブログ村

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2009年8月24日 (月)

“祖母の過去からの解放”(自分史6)

祖母の信仰が、祖母自身の縄目を解いた話しです。

『私たちの負いめをお赦しください。

私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。』新約聖書 マタイの福音書6:11.12

私と姉には“おばあちゃん”と呼ぶ存在の人がいる。

父は6人兄弟の、末っ子だったらしい。私たちの本当の祖母は、私たちが小さいときに亡くなった。

私たちが“おばあちゃん”と呼ぶ人は父のお姉さんにあたる。

私たちの叔母になる。が、結婚し、子どもができずに、父を養子にしたらしい。

小学5年のころ、父の病のときも、よく遊びに来てくれた。

私には何も記憶がないが、母と姑はあまり仲が良くなかったらしい。

ここからは、30年余りたってから、祖母に聞いた話しである。このとき、母はもう天国で、いなかった。

「お前の母さんはなぁ、自分の親が遊びにくるとたくさんのお土産を持たせて帰らせるんだったよ。けれど、私が行くと、挨拶もしないし、お土産も持たせないから、私がじいちゃんに母さんが持たせたと嘘ついて、買ったんだよ。」

祖母は85歳になり、今までは母の話しなど、一度もしたことがなかった。いつも、孫を褒める良い人だった。

急に歳をとり、認知症気味にもなってきて、この話しを繰り返しだした。

姉と住んでいたが、姉が結核で入院したとき、母方の親戚で預かってもらったとき、この話しを繰り返し、2か所で預かり拒否になってしまった。

私は祖母に話した。

「ばあちゃん、母さんは天国に行ったし、母さんがばあちゃんに悪い態度をとったのは申し訳なかった。でも、もう赦してくれないか。」

「いやあ、私は死んだ人には恨みはないよ。」

「それじゃ、ばあちゃん、私と一緒に母さんを赦す祈りをしてほしい。」

そして、私が一区切りずつ祈り、同じことばで、あとからついて祖母が祈った。

「神様、母さんがばあちゃんに挨拶しなかったことを赦してください。ばあちゃんが赦せますように。

母さんがばあちゃんにだけ、お土産を買わないで、ばあちゃんにつらい思いを与えたことを赦してください。ばあちゃんが母さんを赦せますように。

イエス様のお名前によって祈ります。アーメン」

そのときをさかいに、祖母は一度も母の話しをしなくなった。

祖母の幼子のような信仰に神様が働いてくれ、祖母の重い荷物はイエス様が負ってくれたのを見た。

祖母は「私はね、民謡うまいんだよ。」と可愛い自慢をし、民謡を歌い出すのだった。

今、祖母は90歳すぎて、老人ホームで生活している。

小学5年のころ、母と祖母に何があったのか知らないが、祖母の縄目を解いてくれ、楽に、自由に、楽しくさせてくれた神様に感謝した。

Img_4174s_3

にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ
にほんブログ村

| | コメント (4) | トラックバック (0)

2009年8月23日 (日)

『人生を変えるで出会い』

人は誰と出会うかで、人生が変わります。

『それからイエスは、エリコにはいって、町をお通りになった。

ここにザアカイという人がいたが、彼は取税人のかしらで、金持ちであった。

彼は、イエス様がどんな方か見ようとしたが、背が低かったので、群衆のために見ることができなかった。

そこで、イエスを見るために、前方に走り出て、いちじく桑の木に登った。ちょうどイエスがそこを通り過ぎようとしておられたからである。

イエスは、ちょうどそこに来られて、上を見上げて彼に言われた。

「ザアカイ。急いで降りて来なさい。きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから。』新約聖書 ルカの福音書19:1~5

おはようございます。

神様はどこにでもおわれるお方です。家で、その場で、「神様…」と祈るなら、神様は聞いてくださっています。

今日はザアカイとイエス様のお話しをともに分かち合いたいと思います。

ザアカイは人から税金を取る仕事のかしらであった。彼は、だましとったお金で、莫大な富を築いていた。

だから、まわりの人から悪人と思われ、嫌われていた。

ザアカイはイエス様が町を通ると聞き、一目、今噂のイエス様を見たいといちじく桑の木に登った。

「ああ、かの有名なイエス様が見える!」と思ったとき、イエス様は立ち止まった。

そして、ザアカイがいる木の上を見上げた。

そして、なんと「ザアカイ。」と名前を呼んでくれた。

イエス様はザアカイを知っていた。ただ、名前だけではない。まわりの人から見たら、悪人で通るようなザアカイの心をご存知だった。

ザアカイは私腹を肥やしていたが、しあわせではなかった。きっと、自分にも嫌気がさし、孤独であったのだろう。

イエス様はそんなザアカイを知ってくださり、イエス様のほうから、「あなたの家に泊まる予定にしてあるのだよ。」と言ってくれた。

なんか信じがたいことである。

ザアカイはイエス様と出会った。イエス様を大喜びで家に招いた。イエス様と話しをし、交流した。

ザアカイの心の内側中で、大きな変化が起こった。

「イエス様、私はこれから財産の半分を貧しい人たちに分け与えます。私がこれまで、だまし取った物は、4倍にして返します。」

ザアカイはイエス様に何を言われた訳ではなかった。

こんな自分を温かく受け止めてくれるイエス様にあって、そのようにせずにはいられなかった。

イエス様は喜ばれた。

『きょう、救いがこの家に来ました。この人もアブラハムの子なのですから。

人の子(イエス)は、失われた人を捜して救うために来たのです。』ルカ19:9.10

とイエス様は言われた。

イエス様は人のように、表面しか見ないのではなく、心を見られる。

そして、何を求めているか知っておられ、その人の心にある苦しみを取り除いてくださる。

今日、イエス様はあなたの名前を個人的に呼ばれ、あなたを知っている、さあ交流しようと呼びかけてくださっている。

イエス様を感謝し、私の中に歓迎します。

Img_4241s

にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ
にほんブログ村

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年8月22日 (土)

“自己回復のための祈り”

自己回復し、神様の良いものをたくさん心の中にも受けていけますよう、祈ります。

『どうか、私たちの主イエス・キリストの神、すなわち栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を、あなたがたに与えてくださいますように。

また、あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって、神の召しによって与えられる望みがどのようなものか、聖徒の受け継ぐものがどのように栄光に富んだものか、

また、神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかを、あなたがたが知ることができますように。』新約聖書 エペソ人への手紙1:17~19

恵み深く、私たちをあわれみに満たしてくださる神様、今日は、私たちの“自己回復”についてお祈りします。

あなたは私たちを愛してくださり、イエス様の十字架の赦しをくださいました。

赦された私たちは、不完全なままで、イエス様の十字架のゆえに、神様との関係を回復しましたから、ありがとうございます。

この事実は、とても大きなことです。すばらしい神様と親しく交流し、神の子どもとして、たくさんの約束をいただきました。

私たちの傷はイエス様の打ち傷によって癒され、平安をいただきました。

もし、癒しと平安が少なく感じる方がいたならば、主よ、あなたの約束のゆえに癒しと回復を、愛する方々に現してください。

もし、神様から愛されているということをダイレクトに受け止めることができない方がいらしたら、その原因を示し、とりのぞいてください。

神様、ご自身のひとり子をお与えになるほどに、私たちを愛してくださる主よ、その私たちの思いを越えた愛を私たちの中に現してください。

私たちは神様から喜ばれる、愛される、祝福される存在として造られました。

たとえ、私たちが傷だらけであっても、あなたは、私たちをそのままで受け止め、尊いと言ってくださいますからありがとうございます。

神様が私を見るように、私が自分を見ることができますように。

聖書にあることが真実ですから、そのことを受け入れられますように。

聖霊様、あなたの考えておられることを教えてくださり、あなたの成される癒しのみわざを信じさせてください。

ただ、主のご栄光のためにあなたをあがめる者としてくださり、私を通して、あなたがあがめられますように。

あなたが愛しておられるお一人お一人にその神様の思いが豊かに伝わることを願います。

イエス様のお名前によって祈ります。アーメン

Img_4263s

にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ
にほんブログ村

| | コメント (4) | トラックバック (0)

2009年8月20日 (木)

“時を越えて解かれた誤解”(自分史6)

35年の歳月を越えて、神様が私の中にあった誤解を解いてくれた話しです。

『互いに忍び合い、だれかがほかの人に不満を抱くことがあっても、互いに赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい。

そして、これらすべての上に、愛を着けなさい。愛は結びの帯(おび)として完全なものです。』新約聖書 コロサイ人の手紙3:13.14

小学5年の担任の先生は、メガネをかけた中年の男の先生だった。

転校してきた私だったが、勝ち気な性格で、皆に溶け込んで、楽しく遊んでいた。

ある体育の授業のとき、何かで、クラスの男の子と喧嘩になった。

勝ち気なわりに、泣き虫な私は、その喧嘩がよほど悔しかったのか、泣いた。

すると、私だけ職員室に呼ばれた。担任の先生に事情を話しした。職員室を出ようとしたとき、先生に呼び止められた。

「Seba、あまり真剣になるな。」と言われた。なんだか私のすべてが否定されたようで悲しさだけが込み上げてきた。そのまま、私は職員室を出た。

たったそれだけのことだったが、その先生の記憶と、そのときの出来事が鮮明に記憶に残っている。

あれから、35年の後、私は人生の過去を振り返り、思い出せる人々を赦す祈りをするよう導かれた。

赦さないのは、その人をつかみ、その人に支配され、その人の悪影響を受け続けると本で読んだからだ。私は神様以外の人から支配されたくないと思った。

私は過去の悪い記憶にあるすべての人の名前を上げて、赦す祈りをした。

その頃、パートで働いていた飲食店の調理場で、きゅうりを切りながら、導かれて一人一人思い出して祈った。

「〜さんをイエス様のお名前で赦します。」と一人ずつ祈った。

なんと上がる名前の多いことか!

そして、小学5年のところで、その担任の先生を赦す祈りをした。

全部祈り終わった後、つきものがとれたように、なんだか心が晴れやかになり、すっきりした感じがした。

そして、過去の何十人という人たちを赦したが、その先生に対して、神様からの悟りをいただいた。

「そうか、あの先生は、そんなに真剣に思いつめると、自分が苦しくなるだけだよ…と言いたかったんだ。私を否定したり、責めたのではなかったんだ。」と。

35年ぶりにとけた誤解だった。

ときに思いやりの言葉をかけられても、自分の心にかかっているヒィルターで、人を判断したり、傷を受けたりすることもある。

万一、悪意でされたことであっても、良いことに変えてくださる神様は、月日を越えて私の中にあった誤解をも解いてくださる方だと思った。

Img_4229s

にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ
にほんブログ村

| | コメント (6) | トラックバック (0)

2009年8月19日 (水)

“私の宝に私の心がある”

私の宝は何か考えました。

『自分の宝を地上にたくわえるのはやめなさい。そこでは虫とさびで、きず物になり、また盗人(ぬすびと)が穴をあけて盗みます。

自分の宝は、天にたくわえなさい。そこでは、虫もさびもつかず、盗人が穴をあけて盗むこともありません。

あなたの宝のあるところに、あなたの心もあるからです。』新約聖書 マタイの福音書6:19~21

いつも、私のブログを熱心に読んでくれる愛すべく友人が私に言った。

「私はめざせ、Sebaのお姉さんなのよ!」

「えっ?私の姉を知らないはずなのに…。」と私は思ったが、姉のことが書かれてあるブログ記事を読んで、そう思ってくれたらしい。

母が亡くなった後、家のかたずけに姉は本当に苦労したらしい。

物が無い時代で苦労している母は、あちこちに宝物のように物をたくさんためていた。

その上、趣味がコレクションだったのか、着物や食器や洋服など、たくさんの物があった。

姉は独身なので、その後、父を天国に送り、祖母が老人ホームに移ると、がぜん、家中の整理を始めた。

築30年以上の古い家は、私が里帰りするたびに、家具が一つずつなくなり、広くなっていった。

そして、姉はいつ自分が天国に行っても、あまり周りに迷惑がかからないようにしたいとのことだった。

私の友人も一人暮らしで、共感するものがあったらしい。

私も昔は漠然とシンプルな生活にあこがれていた。

お箸と茶碗があれば…みたいな生活に憧れていた。

私が大学中退し、東京に出てきたとき、三畳のアパートで暮らした。

友人が泊まりに来ると半畳の押し入れに足を突っ込んで寝てもらった。

物は何も無かった。あれから、30年、少しずつ広いアパートに引っ越していった。

物は最小限で豊かに生きていける。アダムとエバは着るものも食べるものも、何も持っていなくて、神様を賛美し、自然を愛し、動物たちとたわむれ、互いに愛しあった。

そこまでいかなくてもいいかもしれないが、人を豊かにするのは物ではない。

母は、数々の結婚式などの引き出物のタオルケットやシーツなど、使わすに大事にとっていた。

姉と一つ一つ広げていくと、新品同様なのに、あちこちにシミがついていて、ひどいものは捨てた。

まさに、地上にたくわえるものは、虫とさびで、きず物になる。どんな大事な物も天国に持っていくことが出来ない。

天国に持っていけるものは何だろうか。

それは、イエス様との信頼関係なのではないか。

天国はイエス様がいらっしゃるところである。イエス様を賛美するところである。

私の宝のあるところに心がある。

私の宝は何か。私の心を多く占めているものは何か。

この世の物に振り回されず、身軽にイエス様についていける自由人でありたいと思う、近頃である。

Img_4214s

にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ
にほんブログ村

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2009年8月18日 (火)

“ゲッセマネでのイエス様の悲しみ”

イエス様の十字架の悲しみを思いました。

『それから、ペテロとゼベダイの子ふたりとをいっしょに連れて行かれたが、イエスは悲しみもだえ始められた。

そのとき、イエスは彼らに言われた。「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。ここを離れないで、わたしといっしょに目をさましていなさい。」

それから、イエスは少し進んで行って、ひれ伏して祈った。

「わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。

しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。」』新約聖書 マタイの福音書26:37~39

イエス様が人として地上に生まれてくれたのは、罪なき者として、私たちの罪を背負われるためだった。

イエス様はお生まれになったときから、十字架のために生きられた。

それは、私たちの罪を背負い、死刑のさばきを受け、のろいとなられるためだった。

十字架にかかられる前に、イエス様は弟子たちを連れられ、ゲッセマネの園で祈られた。

イエス様は「わたしは悲しみのあまりに死ぬほどです。」と弟子たちに言われた。

十字架の上での肉体的苦痛と父なる神様から引き離される精神的苦痛をイエス様は味わわれる。

このゲッセマネにおいて、すでにイエス様は霊的にその裁かれる状態の苦しみの中にいたのではないかと思った。

父なる神様から引き離される…父なる神様と一つとされているイエス様にとって、それは恐ろしいほどの孤独であり、苦痛である。

しかし、一方、ペテロたちは、そんなイエス様の死ぬほどの悲しみをよそに眠ってしまった。

私たちはイエス様の通された、全人類の罪を背負う悲しみや苦しみを知らない。

なぜなら、そのほんの少しであっても、私たちには耐えられないから、イエス様は隠しておられるのだと思う。

ペテロはイエス様の心中を知らなかったし、私も知らなかった。

イエス様は「自分の十字架を背負って、わたしについて来なさい。」と言われた。

その十字架は、イエス様のような耐えられない重荷ではない。

なぜなら、イエス様の十字架刑によって、最も苦しい私の罪のさばきはすでに終わり、私は赦されたものとしてあるからである。

イエス様の十字架が、私の想像しえない耐え難いものであるのを知るとき、私は自分に与えられた軽い十字架は喜んで背負えるのかもしれないと思った。

イエス様が私に与えてくれる十字架は負いやすく、また、私がわずかずつでも、イエス様の私への愛を教えてくれるものなのだと思った。

Img_4254s

にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ
にほんブログ村

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2009年8月17日 (月)

“聖霊なる神様の内なる働き”

聖霊なる神様の働きについて、思いました。

『「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮かんだことのないもの。神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、みなそうである。

神はこれを、御霊(みたま)によって私たちに啓示されたのです。

御霊はすべてのことを探り、神の深みにまで及ばれるからです。

いったい、人の心のことは、その人のうちにある霊のほかに、だれが知っているでしょう。

同じように、神のみこころのことは、神の御霊のほかにはだれも知りません。』新約聖書 第1コリント人への手紙2:9~11

旧約時代は神様が顕著に働かれ、イエス様が人となられ、十字架にかかり、よみがえられたのち、聖霊様が私たちに与えられました。

天地創造のとき(もちろん、それ以前から)、神様とともにイエス様も聖霊様もおられました。

この3つが一人(三位一体=さんみいったい)なる神様なのですが、今は聖霊様の時代です。

イエス様の十字架の赦しを信じた人には、神様の子どもとして、しるしに聖霊様が与えられます。

神様はどこにでもおられますが、私たちは神様が住まわる神殿となり、神様なる聖霊様を私たちの内側に宿すのです。

全治全能なる、義であり、聖である神様なる霊を私たちの内側にいただく…考えてみれば、恐れおおいことです。

ただ、イエス様の十字架の赦しが神様の前に完全であるゆえ、そのようになります。

聖霊なる神様は、私たちの心奥深くまでお探りになれます。

聖霊なる神様が、私たちの内側から、神様のことを教えてくれます。

聖霊なる神様は人格をもっておられるので、悲しまれたり、喜ばれたりします。

聖霊様が悲しまれているときは、何かを私たちに教えてくれているときです。

また、聖霊様は、私たちに神様のほうを向くことができるよう、悲しみの中で悔い改めに導いてくれます。

第1コリントの1章には次のような聖書のことばがあります。

『この世の取るに足りない者や見下されている者を、神は選ばれました。…これは、神の御前でだれをも誇らせないためです。』第1コリント1:28.29

神様は人の力や能力によらず、神様の栄光が現されるため、あえて、愚かな者、弱い者、取るに足りない者、無に等しい者を選ばれたとあります。

私は自分を見ると、納得です。とりたて、頭が良い訳でもなく、文章がうまい訳でもなく、知識が豊富な訳でもありません。

けれど、毎日こうして楽しく神様を分かち合わせてもらうとき、聖霊様の助けが絶大だと思うのです。

私が昔から、こんなに神様を証したり、祈れたりしたかというと違います。

私が自分に固執する部分がかなりなくなったということが、私のようなものも通して、聖霊様が自由に働いてくれているかなぁと思います。

かつての私は自我、自己主張、自己顕示欲が強烈に強い者でした。

神様によって、だんだん自分を弱くされ、なんだか「自由に神様の好きにしてください。」となってから、私の中の聖霊様が顕著に働かれるようになった気がします。

聖霊様がお一人お一人の中で、自由に働きたいと願っているのを思います。

自分が握っている制御システムを聖霊様に渡すとき、聖霊様がお一人お一人の中で、神様なる自由な働きをされることを思わされました。

聖霊様なる働きが豊かになるよう、祈ります。

Img_4171s にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ
にほんブログ村

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2009年8月16日 (日)

“放蕩息子を待つ天の父”

放蕩息子を愛し、受け入れる天のお父さんである神様についてです。

『息子は言った。「おとうさん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。」

ところが父親は、しもべたちに言った。「急いで一番良い着物を持って来て、この子に着せなさい。それから、手に指輪をはめさせ、足にくつをはかせなさい。

そして肥えた子牛を引いて来てほふりなさい。

この息子は、死んでいたのが生き返り、いなくなったのが見つかったのだから。』新約聖書 ルカによる福音書15:21~24

おはようございます。

赦しの神様は私たちのすべての弱さを包み、私たちをイエス様によって、そのままで受け入れてくれています。

教会の中にいても、外にいても、良いことをしていても、良い者でなくても、等しくイエス様の十字架によって、私たちを赦し、受け入れてくれています。

今日は、放蕩(ほうとう)息子から、神様の赦しの大きさを分かち合いたいと思います。

この聖書に出てくる息子は、「お父さん、私に財産の分け前をください。」とお父さんから財産をもらい、旅に出た。

放蕩して、財産を湯水の如く使い果たし、困り、豚の世話をした。ひもじい中、我に帰り、家に帰って雇い人として使ってもらおう、お父さんにお願いしようとした。

家に向かうと、お父さんは大喜びだった。

雇い人どころか、彼を抱きしめ、新しい服を着せ、彼が正当な相続人であるしるしの指輪をはめてもらった。

そして、盛大な祝賀会のためのご馳走に肥えた子牛を殺させた。

これは、神様はどんな悪い者であっても、神様に戻るなら、喜んで神様の子どもとして、迎えてくださることを示しています。

どんな悪い者であっても、神様は喜んで我が子として迎えてくれます。

それは、2つの理由からです。

一つは私たちは皆、神様に逆らい、神様から離れていた放蕩息子のように、良い者ではありません。もれなく、すべての人が正しい神様の前に、放蕩息子だからです。

そして、その私たちの悪いことをイエス様が、全部責任を引き受けてくれ、イエス様の十字架の罰が神様の前に完全に良しとみなされたからです。

私自身、この放蕩息子です。神様から離れていた頃は、神様のいみ嫌うことばかりしていました。神様からは受け入れられないような存在でした。

そんな私が、イエス様の十字架にその悪のすべての責任をおってもらい、神様に抱かれるかわいい戻ってきた息子となりました。

神様からの相続人となり、祝ってもらう存在となりました。

何より、神様との関係が回復し、親しくいつでも交流できる者とされました。

自分は悪かったと、何度も謝る必要はありません。神様のもとに戻れば、赦され抱きしめられます。

何かのお詫びの品を持って神様のところに行く必要もありません。イエス様の十字架が完全であるゆえ、何も付け足すものは必要ありません。

今日も、神様はまだかまだかと遠くから、神様の家に戻る放蕩息子たちを待っていてくれています。

神様の大きな赦しの中に憩い、すべての重荷がおろせますよう祈ります。

Img_4191s

にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ
にほんブログ村

| | コメント (0) | トラックバック (0)

“我が口に賛美を”

賛美について考えました。

『舌は火であり、不義の世界です。舌は私たちの器官の一つですが、からだ全体を汚し、人生の車輪を焼き、そしてゲヘナの火によって焼かれます。…

しかし、舌を制御することは、だれにもできません。それは少しもじっとしていない悪であり、死の毒に満ちています。

私たちは、舌をもって、主であり父である方をほめたたえ、同じ舌をもって、神にかたどって造られた人をのろいます。

賛美とのろいが同じ口から出るのです。私の兄弟たち。このようなことは、あってはなりません。』新約聖書 ヤコブの手紙3:6~12

私は神様を知らないときには、“賛美
”なるものを知らなかった。

私の心から出る言葉(実際、口に出して言っていたかは別として)は、自分をのろい、世の中をのろっていたのかもしれない。

大学時代から、よく大学ノートに、日記を書いていた。日記と言っても、その日の出来事というより、“私は何のため生きているのか”とか“死ぬ程孤独でしかたがない”とか…くる日もくる日もそんな心の内を書きつづっていた。

イエス様と喜びながら生きるようになっても、その日記はずっと取っていた。

いつか、神様を証する日が来たときに、役立つかもしれないと。

けれども、子どもが生まれたときに、ほとんど捨てた。

自分とこの世の中をのろっていたような日を、私の死んだ後、子どもが読んだら具合が悪くなるだろうと思った。

かつて、神様を“賛美”することの知らなかった私は神様を心から賛美する。

そう考えると神様を“賛美”する行為は、私自身にある本来のものでなく、心赦され、きよめられ、神様を信じる思いも与えられて、させてもらえる神様からのすばらしいプレゼントである。

いと小さく、弱い私であるが、天をあおぎ、両手を上げて、この天地を造られ、私たちを愛してくださる神様を賛美するとき、神様はその賛美の中に住まわってくださる。(詩篇22:3)

その神様のただ中に入れられて、神様の性質の中に包まれる。

いつくしみ、あわれみ、慰め、優しさ、希望、喜び、頼もしさ、きよさ、平安、寛大さ…偉大なる神様のご性質の中に入れられて、ただただ神様に感謝する。

それが、礼拝なのだと思う。

神様は汚れた心をイエス様の十字架によってきよめてくださり、神様を感じる世界に賛美の中で入れてくださる。

神様を賛美する…そのことは、地上を歩む私たちに神様が与えてくださった特権であり、祝福なのを思う。

悲しいとき、苦しいとき、そして嬉しいとき、楽しいとき、神様を思い、神様の中に入るため、賛美をしたいと思った。

賛美は神様への信頼の表れとなり、人々への信仰の拡大となり、主の慰めが解き放たれるときとなる。

『真夜中ごろ、パウロとシラスが神に祈りつつ賛美の歌を歌っていると、ほかの囚人たちも聞き入っていた。

ところが突然、大地震が起こって、獄舎の土台が揺れ動き、たちまちとびらが全部あいて、みなの鎖が解けてしまった。』使徒の働き16:25.26

###

神様、私たちの心をきよめ、このくちびるがあなたを賛美し続けるようにしてください。

Img_3530s

にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ
にほんブログ村

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2009年8月15日 (土)

“40年前を謝る”

母とのことを思いました。

『もし人の罪を赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたを赦してくださいます。

しかし、人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの罪をお赦しになりません。』新約聖書 マタイの福音書6:14.15

昨日のブログに父の入院、母の苦悩を書いた。

小学5年の私は、不思議と泣いたり、悲しんだ記憶がない。

すべてに鈍感な子どもだったのか、母が悲しい話しをしなかったために、心に残っていないのか、ただ、その場面だけが浮かぶ。

それでも20年前に、自分史を書いたときに書き進められず、終わった場面である。

昨日、父、母の描写を書いて、私はその40年程前のあのときにワープしていた。

そして、父の悲しみ、母の悲しみが不思議と一人の人として客観的に理解出来た気がした。

あの頃、暗く、悲壮感の漂う、ヒステリックな母は嫌だった。子どもの私は、可哀想なお母さん…という気持ちはあったか定かではない。

父に至っては、子どもながらになんと受け止めてよいかわからなかった。

私の家庭は悲惨だったが、なぜか私には楽しかった学校生活の思い出しかない。

今日、父母を思いやることの出来なかった子どもだったことをイエス様に謝った。

あの頃の出来事は私が自己否定になる環境の前段階だった。

精神的に父不在となった私は、思春期に入ると、価値観の合わない母と喧嘩ばかりしていた。

母に理解されたいのに理解されず、いつの間にか、母の価値観に自分を否定され、自己嫌悪のかたまりになる。

私が一番最初に神様に、人を赦す祈りをしたのは、クリスチャンになって8年、29歳のときだった。

「神様、私にダメージを与えた母を赦します。」と礼拝の中で祈った。

それから一年後、母は天国に召された。そのとき神様は、私と母を和解させてくれた。母の慰めに満ちた死が、私が母を赦し、親不孝者の私が赦されたときだった。

40年前のことの母のことを私が神様に謝るに至るとは思わなかった。

神様への賛美は、赦された深い思いからくると、マーリン・キャロザース師の「天国の到来」に書いてあった。

マタイの福音書の『人を赦さないなら、神様もあなたの罪を赦さない』というのは、文字通り赦されないという意味ではなく、人を赦さないと、赦されていても神様の赦しを受け取れないという意味と思う。

いつも心柔らかくして、いつでも赦しを受けとれるものでありたい。

∞∞∞

天国の母さん、喧嘩ばかりして、母さんの苦労は全然わかっていなかったけど、たくさん私たちのために苦労してくれたのですね。ありがとう。生きているときに、労をねぎらうことばを一つもかけてあげられなくて、ごめんね。

そんな私の罪もイエス様の十字架で赦され、責められていないから、ありがたいです。

Img_3937s_3

にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ
にほんブログ村

| | コメント (6) | トラックバック (0)

2009年8月12日 (水)

“慕い求める主よ”(祈り)

個人的に祈った祈りを書きとめました。

『天にいます私たちの父よ。御名があがめられますように。

御国が来ますように。

みこころが天で行われるように地でも行われますように。』新約聖書 マタイの福音書6:9.10

主よ。私を祈りの世界にいざなってください。

祈りの世界に神様の思いを現してくださりありがとうございます。

天でつながれている(祈りの中での)ことは地でもつながれ、天で解かれていることは地でも解かれていますからありがとうございます。

祈りの世界は主のご支配するところとなり、サタンも退きますからありがとうございます。

あなたの祈りを私に祈らせ、神様の国を実現させてください。

神様が言い送ったことは必ず成就しますからありがとうございます。

祈りの中で、天の窓が開かれ、あなたのご栄光を見ることができますからありがとうございます。

それは天地を造られた主のご栄光です。

人である私たちをあわれみ、主の栄光の中に生かしてください。

愛する主よ。あなたが私たちの主です。あなたを慕い求めます。

多くの中で私を選びありがとうございます。

私たちを通して、神様の国の実現を成してください。

愛する主よ。霊であられる主よ。あなたの御名をあがめます。

愛する主よ。主にあって、この世にたりないものはなく、乏しいことはありません。

愛して止まない人々をありがとうございます。

その生涯を主とともに過ごし、主に生かしてください。

祈りの霊を与え、共に祈らせてください。

愛する主よ。あなたを慕い求めます。

あなたこそ私の神です。

私の生涯を主とともにいさせてください。

愛する主、この地上での生涯、私たちを一つとし、愛し合わせてください。

Img_3082s

にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ
にほんブログ村

| | コメント (4) | トラックバック (0)

2009年8月10日 (月)

“地域納涼祭”

地域の納涼祭があり、お手伝いをしました。

『さあ、わたしの父に祝福された人たち。世の初めから、あなたがたのために備えられた御国をつぎなさい。

あなたがたは、わたしが空腹であったとき、わたしに食べる物を与え、わたしが旅人であったとき、わたしに宿を貸し、わたしが裸のとき、わたしに着る物を与え、わたしが病気をしたとき、わたしを見舞い、わたしが牢にいるとき、わたしをたずねてくれたからです。』新約聖書 マタイの福音書25:35

8月になると、町内会の納涼祭がある。

息子が小学生時代に、私はPTA役員をやって、地域の方々にとてもお世話になった。

そのことを通して、地域がそこに住む人を支える可能性の大きさを感じた。

地域の弱者は地域でカバーして、支えていけたなら、一番理想なのではないかと思った。

また、PTA役員時代にお世話になって、自治会長の方たちとの交流も始まり、地域の中にすんなり入れてもらえた。

そんな愛着のある地域の人たちと年に一度の大イベントが納涼祭である。

前日、当日、朝5時集合で準備作業が始まる。当日は、私は来賓接待で、ビールやおつまみを運びに走る。

後日のかたずけ、打ち上げ、全部に出て、去年は疲れきって、はぐきが腫れた。

平均年齢は70歳位だろう、年配の男の方たちが力仕事から何まで、手際良くやる。その体力と熱意に頭が下がる。

今年は私は祈り、守られて疲れることなく、準備、当日、かたずけを終えた。

今、地域を支えてくれている方々は、確実にこの70歳代の方たちだ。60代は少ないし、50代はほとんどいない。

私は誰に頼まれた訳でもないが、次を担う世代の人たちが加わるのは、自分に与えられた責任のように感じている。

ボランティアに出てくる人たちは皆さん、前向きで楽しい人たちばかりである。

私より20歳位上の人とも友だちのように話せて、楽しい。

お一人、お一人が尊い神様の作品であり、すばらしい。

地域力、これが希薄になる中、どうしたら、若い世代の人たちが、この地域の一員という特権と楽しみを知って、このコミュニティに入ってきてくれるか、私のいつもつきまとう課題である。

今回のお祭りは、降水率70%という中、雨にも降られず、無事、終わった。

何をした訳でもないが、無事終わったことがとても嬉しかった。

リーダーとなられた、自治会長さんは、親しくさせてもらっている一人なので、どんなに大変だっただろうと、私は何度も何度も「お疲れ様でした。」と労をねぎらう声かけをさせてもらった。

神様が私に、この地域の人たちに愛着を持ち、祈らせてくれているのを思う。

Img_3889s

にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ
にほんブログ村

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2009年8月 9日 (日)

8/9☆お祈り☆

ブログ周辺にいますお一人お一人を思いつつ、一週間のお祈りをします。

『さて、神の国はいつ来るのか、とパリサイ人たちに尋ねられたとき、イエスは答えて言われた。

「神の国は、人の目で認められるようにして来るものではありません。

『そら、ここにある。』とか『あそこにある。』とか言えるようなものではありません。いいですか。

神の国は、あなたがたのただ中にあるのです。』新約聖書 ルカによる福音書17:20.21

天地を造られました神様、あなたがその天地を今も治め、すべてのところにいてくださることをありがとうございます。

神様はキリストにおいて、私たちに天にあるすべての霊的祝福をもって、祝福してくださるとありますから、ありがとうございます。(エペソ1:3)

私たちにイエス様も経験された、天にある霊的祝福をたくさん体験させてください。

神様、あなたとの親しい交流は何にもまさる喜びです。

日々、イエス様の十字架の赦しによって、神様との親しい交わりの中に入れてください。

この地上にいながら、あなたと交流し、あなたの慰め、あわれみ、いつくしみに包まれるとき、そこに天国が現されますからありがとうございます。

また、イエス様にあって、私たちが一つに集められることはあなたの計画にあることです。(エペソ1:10)

私たちがひとりぼっちではなく、互いに励まし合い、支え合い、助け合う者として備えられていますから、私たちが与えられた良いものをもって、互いを支えるものとしてください。

私たちはイエス様にあって神様の子どもとされ、御国を受け継ぐ者とされましたからありがとうございます。(エペソ1:11)

あなたが私たちに受け継がせたい財産がどんなにすばらしいものであるか、霊の目が開かれて見えるようにしてください。

そして、受け継いでいるものを豊かに活かしていくことができますよう、導いてください。

私たちの苦しみの中にあって、あなたが与えてくださるものをはっきり見て、その望みに支えられ生きていけますように。

悲しむ人に慰めを、失望する人にキリストの愛を、捕らわれ人には解放を与えてください。

あなたが、この地上の闇に光を与え、神様、あなたこそがすべての主権を持っておられる神様として、その栄光を表してください。

聖霊様が豊かに住まわれ、聖霊様とともに主を喜べますように。

この一週間も主にある守りがあることを願います。

イエス様のお名前によって祈ります。

アーメン。

Img_3651s

にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ
にほんブログ村

| | コメント (4) | トラックバック (0)

“天国の喜び”

“天国”を待ち望む心を思いました。

『あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたし(イエス)を信じなさい。

わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。

もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。

わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。

わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。

わたしの行く道はあなたがたをもおらせるためです。』新約聖書 ヨハネの福音書14:1~4

おはようございます。

神様はすべてを造られ、すべての人の神様です。

教会の外にいる人たちにも、神様の計画を知らせたいと切に願っているのを思います。

この朝は、“天国”について、共に分かち合いたいと思います。

聖書では、“人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている”(ヘブル9:27)とあります。

イエス様の十字架を信じた人は、永遠のいのちが与えられ、天国に行きます。

天国とは、どういうところでしょうか。

天国へ行って、戻ってきた人はあまりいません。それでは、死んでみないとわからないのでしょうか。

天国はイエス様がおられるところで、神様の臨在に満ちているところだと思います。

そこでは、人は痛みも悲しみもなく、ただ栄光に変えられた心と体で、おおいなる神様を心から賛美し、喜びに満ちあふれているところだと思います。

昼も夜も神様を賛美し、喜び楽しんでいる場所です。

私は、天国がどんなところか、この地上でも、神様は教えてくれて、わずかであっても体験させてくれるのだと思います。

例えば、礼拝し、神様のご臨在の中に入るとき、それは天国の前味だと思います。

イエス様がいてくれるところで、共に心を合わせて祈ったり、神様の良いものを共有したりするとき、その喜びも天国の前味と思います。

そして、その神様が与えてくれる喜びに満たされるとき、このさらに強い神様の栄光と臨在の中に、喜びと平安の中に持続している状態が天国だと思うのです。

地上で天国は体験できるのです。そして、イエス様と近くにいて喜ぶ天国を切望していくに至るのだと思います。

パウロは言いました。

“私にとっては、生きることはキリスト、死ぬこともまた益です。…

私の願いは、世を去ってキリストとともにいることです。実はそのほうが、はるかにまさっています。”(ピリピ1:21.23)

パウロは、イエス様がいる天国を切望していました。

そして、その天国に行くまで、地上に残された苦しみの働きも全うするのみと思いました。

どうそ、聖書の約束の天国があなたのものとなりますように。

天国の前味を味わい、共に、先に約束されている天国の素晴らしさを楽しみに待ち望めますよう、祈ります。

Img_3631s

にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ
にほんブログ村

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2009年8月 8日 (土)

“転校”(自分史3)

小学で初めて転校したときのエピソードです。

『私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをもあらかじめ備えてくださったのです。』新約聖書 エペソ人への手紙2:10

小学に入学して、すべてが新鮮で、楽しかったように思う。

性格は“おとなしかった”と一年生の通信簿にある。おとなしかったし、控えめだった。

父の仕事の関係で、小学校を3回、転校した。私の転機は、3年のときに、小さな町に転校したときから始まる。

姉は転校のたびに、お友だちと別れるのが悲しくて、泣いていた。

私は転校するたび、その新しい土地での新しい出会いにワクワクした。

3年の転校した日、体育館でみんなで鬼ごっこをした。そして、初っぱなから、女の子と喧嘩した。

たぶん、おとなしかったのはまちがいで、こちらの気が強い私のほうが、本当の私だったと思う。

田舎への転校生ということで、注目もあびた。

そんな中で、一人の女のベテラン先生が 私のクラスの担任だった。

その先生は私に非常に良いものを見い出してくれた。今まで、誰も見い出してくれなかった私に秘めた可能性を高く評価してくれた。

そんなことが、私が自分に自信を持つ一歩になったと思う。

理科観察係になり、おたまじゃくしとへちまの観察を先生とともにした。興味深く、楽しくやった。

通信簿には次のように書かれてある。私が、9年間の小中学校で、もっとも評価してもらった時と思う。

「静かな生活の中にも、常に自分で目標を持ち、実行しようと努力している。

おたまじゃくし、へちまの飼育などを1日も忘れたことがなく、観察の目もするどい。

思慮深く、他人の行動をいつも批判的にながめている。」

このときから、私は変わった。目立たず、いつも人の後ろに隠れていたような私は、学級委員長とかをやるようになった。

担任の先生に良いところを認めてもらい、責任を任され、自信をつけていった。

私たちは、誰もが神様の作品で、一人一人が隠された良さを持っている。

それを見い出してくれる人によって、人は伸びていくのだと思う。

子どもの個性はその子どもだけの宝物である。認め、誉めて育ててこそ、良いところが伸びていく。

人もまた、すべての人が神様のすばらしい作品である。認めあい、受け入れあうことによって、互いが成長していくのを思う。

Img_3881s

にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ
にほんブログ村

| | コメント (4) | トラックバック (0)

2009年8月 7日 (金)

“イエス様の十字架の完全性”

「完了した。」と言われたイエス様の十字架を思いました。

『イエスは、酸(す)いぶどう酒を受けられると、「完了した。」と言われた。そして、頭をたれて、霊をお渡しになった。』新約聖書 ヨハネの福音書19:30

イエス様は十字架にかけられ、死刑とされた。イエス様は一つも悪いことをしていないのに、はずかしめの刑罰を受け、死なれた。

それは、実に、正しい神様の前に、私が死刑になるべくところの罪を、イエス様が受けてくださったのだ。

本来、私があの十字架刑ではりつけにされ、はずかしめを受け、呪いを受け、罰を受け、苦しまなくてはならなかった。

しかし、イエス様を十字架刑にかけることは神様の計画であった。

そのことを通して、私たちが、罪をもったまま、弱さをもったままで赦されるためであった。

イエス様の十字架は、私たちに癒しと平安を与えられた。
(イザヤ53:5)

イエス様の十字架は、神様の前に完全ないけにえであり、一つも欠けがなく、私たちが何もつけ足すものはなかった。

「完了した。」

イエス様が十字架の上で、最後に言われたことばである。

完了した。

旧約聖書で、長い年月、預言者を通して語られたことが完了した。

神様か初めから計画していた、私たちを赦し、神様の子どもとする道が完了した。

この世のもろもろの支配するものに対して、その責任を全部引き受け、処理されたゆえに、もはや、私たちはこの世に勝ったものとされた。

そして、もう誰も、何もおびやかす者はいないとされ、平安が与えられるものとなった。(ヨハネ16:33)

イエス・キリストの十字架は、私の罪を赦し、サタンに勝利し、完全なものとして完結した。

このイエス様の赦しと癒しと平安と勝利の喜びを受けとれますよう、祈ります。

「イエス様、私の代わりに私の罪のため、十字架にかかってくださりありがとうございます。

本来、私が自分の内側にあるみにくさを見るとき、私こそが神様の前に罰を受ける存在です。

しかし、あなたが私を愛するゆえに、私のために代わりに死刑の刑罰を受けてくださり、ありがとうございます。

今、あなたの十字架による赦しを受けとります。

あなたの十字架は、完全であるゆえ、不完全でみじめな私をそのままで包みこみ、どんな深い弱さも完全に赦されますからありがとうございます。

イエス様の十字架を信じる私に、癒しをください。

イエス様の十字架により、きよめてください。

イエス様の十字架の勝利を宣言させてください。

サタンも、この世も、誰もが、このイエス様には勝てないですから、ありがとうございます。

イエス様の十字架で、私を慰めてください。

イエス様の十字架のゆえに、私は真っ黒にけがれていても、神様から見たら、真っ白に美しく見なされています。

イエス様の十字架の愛に私を包みこんでください。

イエス様の十字架の命をかけるほどに価値あるものと見なし、愛してくださっていることを教えてください。

私の弱さでなく、イエス様の十字架が大きく現されますように。

イエス様のお名前によって、祈ります。

アーメン。」

Img_3734s

にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ
にほんブログ村

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2009年8月 6日 (木)

“十字架の赦しに包むイエス様”

イエス様の十字架の赦しの大きさを教えられた、分かち合いです。

『すると、その町にひとりの罪深い女がいて、イエスがパリサイ人の家で食卓に着いておられることを知り、香油のはいった石膏(せっこう)のつぼを持って来て、

泣きながら、イエスのうしろで御足のそばに立ち、涙で御足をぬらし始め、髪の毛でぬぐい、御足に口づけして、香油を塗った。

イエスを招いたパリサイ人は、これを見て、「この方がもし預言者なら、自分にさわっている女がだれで、どんな女であるか知っておられるはずだ。この女は罪深い者なのだから。」と心ひそかに思っていた。』新約聖書 ルカによる福音書7:37.38

パリサイ人は、罪深い女が、イエス様に近づいて涙で御足を洗い、口づけし、イエス様をもてなしたのを見て思った。

「イエス様ほどの人なら、この女がどんなに罪深いものか知っておられるだろう。」

私は、教会や牧師を裁いてきたが、手放し、裁くことをやめた。

そう思っていた。

自分の中で、受け入れているはずのことが、どう