聖書-旧約聖書

2009年12月31日 (木)

“ブログ訪問に感謝”(祈り)

2009年、ブログ訪問してくださった方々に感謝しつつ、感謝の祈りをします。

『わがたましいよ。主をほめたたえよ。

主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。

主は、あなたのすべての咎(とが)を赦し、あなたのすべての病をいやし、あなたのいのちを穴からあがない、あなたに、恵みとあわれみとの冠をかぶらせ、あなたの一生を良いもので満たされる。あなたの若さは、わしのように、新しくなる。』旧約聖書 詩篇103:2~5

今年、このブログに訪問くださり、心からありがとうございました。

ノンクリスチャンの友人で、見てくださる方たちもたくさんいて、もっとわかりやす内容と思いつつ、どんどん信仰の複雑?な話しになり、すみません。

けれど、私自身、教会生活30年しながら、様々なことに苦しみ、今、神様の恵みを分かちあうことで、かつて苦しかった私のような人の助けや導きになればと思うようになりました。

クリスチャンでありながら、悩む人が神様の恵みを受け取れることも心から願っています。

今年一年間を感謝し、お祈りします。

「恵み深い天のお父さん、あなたがこのブログを祝福し、この一年書かせ続けてくださり、ありがとうございます。

また、たくさんの方々が訪問してくださり感謝します。

コメントをくださった方々には励まされました。

コメントがなくても、訪問し続けてくださった方々にも感謝します。

私の人間的弱さのゆえに、私はたくさんの失敗もしますし、受け取れないことで教会では、たくさん苦しみました。

が、そのような私の弱さも足りなさも益としてくださり、一つづす教えてくださりありがとうございます。

神様は大きな方なので、私はそのほんの一部しかわかりません。

私にとって神様は癒しを与えてくださるあわれみ深い方です。

同じような神様の部分を求めている人たちに、私と共に慰めを与えてくださっていると信じて感謝します。

この一年の導きと、訪問してくださった方々を感謝します。

この小さなブログのために祈ってくださっている方々を感謝します。

私の願いは、ともに主の慰めを受け、共に主の祝福を受けることです。

この尽きない感謝と共に、来年も導いてください。

このブログ周辺の方々に祝福を与えてください。

イエス様までも惜しまず与えてくださった神様の愛が、イエス様の愛がその心にありますように。

イエス様のお名前によって、感謝して祈ります。アーメン」

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2009年12月30日 (水)

“イエス様の十字架の現れ”

イエス様の十字架がもたらす素晴らしさを思いました。

『しかし、彼(イエス)は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎(とが)のために砕かれた。

彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。』旧約聖書 イザヤ書53:5

今年は、ブログを書きながら、イエス様の十字架の赦しについて、たくさん教えられてきた。

聖書で、神様が伝えたい中心的なメッセージは、イエス様の十字架の赦しと救いについてである。

クリスチャンになったばかりの頃、「あなたは救われていますか?」と聞かれて、意味が良く分からなかった。

神様は信じているけど、“救い”って何なのかと。

“救い”も“罪の赦し”もキリスト教用語である。

なぜなら、“救い”とか“罪の赦し”とか、クリスチャンでない人たちの日常会話にほとんど…たぶん皆無に等しく出てこないからである。

“救い”や“罪の赦し”を求めている人は少なくとも、理解されること、癒されること、慰められること、安心すること、ゆらがないこと、受け入れられること…そして、無条件に愛されることなどは、無意識の中で誰もが求めていることなのだと思う。

私は神様に出会い、多くの数えきれない良いことを受けた。

もっと正確にいうなら、神様とともに在(あ)ることで、喜びや慰めの中にいた。

そして、イエス様の十字架による私の罪の赦しは、ただ赦されたことにとどまらないことを教えられている。

イエス様の愛を通して、私たちが守られる…という現状維持ではなく、私たちを通して、イエス様の圧倒的な愛が現されることを、神様は願っている。

小さな私を通してそんなことが成しえるか?

自分の力では不可能である。

しかし、もし、私がイエス様によって自我に死に、イエス様に生きていくとき、私のような小さな弱い者を通しても神様は働かれるのを思う。

イエス様の十字架の愛は、人に働くとき、その人にとどまらない力を持っている。

これが、イエス様の十字架による“救い”であり、“罪の赦し”の現れなのだと思う。

ここで、問題なのは、自分の力での善行は、善悪の木の実を食べているのと一緒だということ。

私たちが自分に死んでいくとき、イエス様のいのちが輝き、それぞれに与えられたことを持って、イエス様を現していくのだと思う。

私のようなものが、とんでもない…と思うかも知れないが、それは、自分の力を見せて、がっかりさせるサタンの策略である。

イエス様の十字架の力は私たちに働き、イエス様ご自身を現してくださるのである。

『私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。

いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。』ガラテヤ2:20

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2009年12月26日 (土)

“悩みの日の祈り”(詩篇6篇)

悩みの日、人に対してではなく、神様に向かって求めたいと思いました。

『主よ。御怒りで私を責めないでください。激しい憤(いきどお)りで私を懲(こ)らしめないでください。

主よ。私をあわれんでください。私は衰えております。

主よ。私をいやしてください。私の骨は恐れおののいています。

私のたましいはただ、恐れおののいています。主よ。いつまでですか。あなたは。

帰って来てください。主よ。私のたましいを助け出してください。

あなたの恵みのゆえに、私をお救いください。』旧約聖書 詩篇6:1~4

ダビデは喜びも悲しみも苦しみもすべて神様に向かって直接にぶつけている。

ダビデにとっては、すべてに生きて働いておられる神様が身近であり、また、すべてを支配しておられ、すべてをぶつけても受け入れてくれることへのゆらがない信頼がある。

私などは、ついつい、人が大きくなり、神様を忘れて、人が神様の如く、私に脅威をふるう過大な力をもってるかのように思ってしまう。

しかし、ダビデはどんなことがあっても、神様が味方してくれることを信じて、祈りの中で神様に訴える。

この詩篇6篇は“悩みの日の祈り”とある。

詩篇6:6~9には次のようにある。

『私は私の嘆きで疲れ果て、私の涙で、夜ごとに私の寝床を漂わせ、私のふしどを押し流します。

私の目は、いらだちで衰え、私のすべての敵のために弱まりました。

不法を行う者ども。みな私から離れて行け。

主は私の泣く声を聞かれたのだ。主は私の切なる願いを聞かれた。主は私の祈りを受け入れられる。』

嘆き疲れ果て、夜ごとに泣いていても、最後には、神様が自分の祈りを聞かれ、受け入れられる宣言へとつながる。

ダビデであっても、悩みの中ですぐ、神様が祈りを聞き、助けてくれる宣言に至った訳ではないのだと思う。

何か月もかかったかもしれない。

しかし、苦しみの中、悩みの中で、上を見上げ、神様に求めていく姿がある。

悩みの日、目の前に見えることから目を離して、すべてを支配しておられる神様を見上げたいと思った。

不思議と目の前の悩みに目がいくと、気持ちが重くなる。

それは、すべてに神様がご支配してくださってる宣言と違う。

悩みの中にも神様がいてくださり、助け導き、益としてくださることを信じて、神様を見上げたい。

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2009年12月25日 (金)

“やみに光を”(クリスマスの祈り)

クリスマスの夜にイエス様の誕生を感謝し、祈ります。

『やみの中を歩んでいた民は、大きな光を見た。

死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が照った。

ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。

ひとりの男の子が、私たちに与えられる。

主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。

その主権は増し加わり、その平和は限りなく、ダビデの王座に着いて、その王国を治め、さばきと正義によってこれを堅(かた)く立て、これをささえる。今より、とこしえまで。

万軍の主の熱心がこれを成し遂げる。』旧約聖書 イザヤ書9:2~7

恵み深い天のお父さん、このクリスマスの日、世界中でイエス様の誕生がお祝いされています。

どうか、きらびやかなイベントとしてのクリスマスではなく、人の心のやみに光をもたらしに来てくださったイエス様を人々が心にお迎えし、消えることのない希望が心を照らしますように。

イエス様はきよく聖なる神様であられるのに、私たちのために私たちと同じ人の姿をとられ、生まれてくださりありがとうございます。

イエス様は力ある神様であるのに無力で何もできない赤ちゃんとして生まれてくれてありがとうございます。

イエス様は神様であられるのに、地上で私たちの苦しみと悲しみを体験され、私たちに同情できるお方としてとりなしをなしてくださり、ありがとうございます。

イエス様は神様であるのに、人々から拒否され、さげずまれ、ののしられ、十字架にかかられました。それは私たちの罪を赦し、神様の平安を与えてくださるためでしたからありがとうございます。

私たちのためにいのちを捨てられたイエス様は、そのことを通して私たちへの愛を示し、現してくれましたからありがとうございます。

イエス様の誕生も生きざまもすべて、私たちのためでしたからありがとうございます。

私たちは神様からイエス様という最大のプレゼントをいただきました。

それは、イエス様の赦しと慰めと癒しが私たちの中にあるためであり、私たちを通して、人々が信じるためです。

やみの中に圧倒的な光、希望をもたらすためにきてくださったイエス様が、暗やみに光ますように。

孤独な人に愛を、貧しい人に希望を、痛む人に癒しを、悲しむ人に慰めを、失意にある人に賛美を与えてください。

人々が栄光をとらず、ただイエス様のお名前がほめたたえられますように。

クリスマスの夜、暗やみの中で羊飼いにイエス様の誕生が告げられように、人々の夜にイエス様を現してください。

私たちを救うため、生まれてくださったイエス様に感謝し、イエス様のお名前によって祈ります。

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2009年12月13日 (日)

“私の学んだ祈り”

私の祈りが変えられた出来事の話しです。

『心を尽くして主をより頼め。自分の悟りに頼るな。

あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。』旧約聖書 箴言3:5.6

おはようございます。

天地造られ、聖書にある神様はすべての人の神様です。

神様のことを良く知らなくても、この義であり、聖であり、愛なる神様に求めるならば、神様のほうから優しく導いてくださるのを思います。

私は今から25年前、一つの誤った祈りを通して、神様がどのようなお方であり、私はどのように神様に祈ればよいかはっきりと教えられた体験をしました。

イエス様にある歩みを始めた私は、孤独と虚しさから解放され、喜びに溢れていました。

そんな中で結婚したい願いがありました。

、神学校に入り、卒業と共に結婚し宣教に出ていく先輩の話しを聞いては、いいなぁと思っていました。

そして、私も神様に祈ったのです。「神様、私も早く結婚したいですし、同じ学びをする方とさせてください。」

実際は、「神様、私の願いをちゃんと聞いてよ。」とばかりに、神様の前に、私が神様になっていました。

一人の人とお付き合いをし、お互いの親にまで紹介しましたが、神様に聞くのではなく、私の祈りに神様に動いてもらうような祈りの中、うまくはいかなくなりました。

その方から、もう無理と言われた頃には、私もそう感じていました。

始めは、期待させた母に申し訳ない思いが来て、そのうち、神様の前に申し訳ない思いが来ました。私が神様に命令を出すようなごう慢なものだった姿をはっきり見せられたのです。

「神様、ごめんなさい。」と祈ったときから、5日間ご飯がのどを通らず、断食のような状態で、「神様、ごめんなさい」とだけ、つぶやいていました。

その5日目、道を歩いているとき、今思えば聖霊様だと思いますが、空っぽになった心に内から溢れるような喜びが湧いてきて、満たされました。

そのとき、私のうつ症状や、深いところにある自己否定が癒されました。

そして、『心を尽くして主により頼め。…あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。そうすれば、あなたの道をまっすぐにされる。』のこの箴言のことばを教えられました。

その日から私の祈りも、私の信じる神様も何か変わりました。

私の願いは正直に祈りますが、答えは神様に従う…となりました。

すぐに答えがわからないときや、私が変えられるときやいろいろありますが、私が神様を動かしたい思いはなくなりました。神様に聞いて従いたいし、祈った答えが与えられたら受けとめていきたいと思うようになりました。

また、すべてに神様が働いておられるのを信じて、わからないことも祈っていけば、神様の最善に導いてくださると教えられています。

神様に祈る祈り、それは理屈を越えて神様との関係の中で、学んでいくのだと思います。

お一人お一人の祈りがさらに豊かに祝福されますように。

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2009年12月12日 (土)

“心に安らぎがありますように”(詩篇4篇)

詩篇4篇はダビデ作、「心の平安を求める祈り」とあります。

『私が呼ぶとき、答えてください。義なる神。

あなたは、私の苦しみのときにゆとりを与えてくださいました。

私をあわれみ、私の祈りを聞いてください。…

主よ。どうか、あなたの御顔の光を、私たちの上に照らしてください。

あなたは私の心に喜びを下さいました。それは穀物と新しいぶどう酒が豊かにあるときにもまさっています。

平安のうちに私は身を横たえ、すぐ、眠りにつきます。

主よ。あなただけが、私を安らかに住まわせてくださいます。』旧約聖書 詩編4篇

詩篇4篇はダビデの賛歌とある。

「聖書の中で、ダビデほと魅力的な人はいなかった」…とある旧約の本を出している先生が言われた。

ダビデは神様を愛し、人から慕われ、また、弱さのとき、苦しみ、号泣し、また、喜びのとき、人目もはばからずに喜んだ。

詩篇150篇あるうち、73篇がダビデ作と表題があり、詩篇の多くをダビデが作った。

ダビデは竪琴(たてごと)の名人でもあり、ダビデの竪琴が、サウロ王の心も癒した。

私は祈りは、綺麗である必要はないと思う。個人的な祈りで大切なのは、“正直”であることだと思う。

人と人が会話して、正直でない会話ほど、虚しいことはない。ただ、つくろい、時間だけがうわべを過ぎていく。

私たちの祈ることがたとえ間違った祈りであっても、正しい祈りではなく、正直な祈りが大事である。

なぜなら、祈りは変えられるから。私たちは祈りの中で、導かれ、変えられていくのである。

正しい祈りは、その神様との関係のやりとりやプロセスがなく、ただ飾られた借り物のような祈りになる。

ダビデの赤裸々な祈りは、私たちに大胆に祈る勇気を与える。

私たちは、たとえ罪ある者でも、今イエス様によって、大胆に神様に祈り求める者とされている。

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神様、私が呼ぶとき、答えてくださる神様であることをありがとうございます。

私の苦しみのとき、神様の慰めと平安を与えてくださり、その心に神様からのゆとりを与えてくださりありがとうございます。

もし、神様がいなければ、私はその苦しみにつぶされ倒れていたでしょう。

私は義なる神様にふさわしいものではありませんが、イエス様によってふさわしいものとされ、あわれみの中にありますからありがとうございます。

どうぞ、あなたの光で私を照らし、あなたのほほえみが私の心を照らしてください。

あなたの喜びによって楽しませてください。それは、美味しいものや美味しい飲み物にもまさります。すべてにまさって、あなたを喜びとさせてください。

あなたがくださる平安をありがとうございます。

あなたがくださる平安は、嵐の中でも取り去られることなく、揺らがずにありますからありがとうございます。

あなたの中に憩い、安らぎます。

この安らぎが愛する人々にともにありますように。

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2009年12月11日 (金)

“神の地を与えてください”(詩篇2篇)

詩篇から祈りたいと思います。この2篇のタイトルは“人知に勝る神の計画”とあります。

『「わたしは主の定めについて語ろう。主はわたしに言われた。

『あなたは、わたしの子。きょう、わたしがあなたを生んだ。

わたしに求めよ。わたしは国々をあなたへのゆずりとして与え、地をその果(は)て果てまで、あなたの所有として与える。

あなたは鉄の杖で、彼らを打ち砕き、焼き物の器(うつわ)のように粉々にする。』旧約聖書 詩篇2:7~9

詩篇は聖書の真ん中にある。誰かが、祈りは神様との関係の一番中心にあるので、詩篇は真ん中にあると言っていた。

それは神様の計画かよくわからない。

しかし、この祈りの書は、神様にある者が、喜びや悲しみ、恐れ、失意、迷い、悩みを神様に訴えていて、その正直な姿を表す。

私たちに祈りのことばが見つからないとき、この詩篇にぴったりのことばを見い出し、慰められる。

また、賛美、悔い改め、感謝、苦悩、宣言、告白、約束…様々な形をとっている。

私たちの神様への祈りは、自分の正直なありのままの姿で、いろんな形でできることを教えてくれる。

素晴らしい祈りがたくさんちりばめられているが、どんな意味があるかより、自分の好きな身近なものを覚えていくことで、それを使って、私たちも豊かな表現で祈れるのかもしれない。

今日は、2篇から目にとまることばをピックアップした。

この詩篇のことばを思いめぐらし、神様をたたえて、お祈りします。

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天のお父さん、私を“あなたは、わたしの子。”と呼んでくださり、ありがとうございます。

イエス様によって、不義ある者が赦され、神様の子どもとされ、ありがとうございます。

神様に求めます。神様だけが最善を知っておられる方だからです。

私に、あなたのゆずりの地を与えてください。

アブラハムは見渡すかぎり、その踏みゆくところ、あなたの所有となると、神様から約束されました。

今、私の霊の目を開いてくださり、霊的な世界の神様の領土を私の所有として与えてください。

私たちの戦いは血肉によらず、霊的な戦いです。

私たちの本当の敵であるサタンをイエス様の御名によって打ち砕き、神様ご自身が、サタンの働きを焼き物の器のように粉々にしてください。

神様の御名をほめたたえます。神様、あなたを信頼し、あなたに身を避け、寄り頼みます。

イエス様のお名前によって感謝して祈ります。アーメン

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2009年12月 7日 (月)

12/7☆お祈り☆

神様の祝福を思い、お祈りします。

『私たちは、知ろう。主を知ることを切に追い求めよう。

主は暁(あかつき)の光のように、確かに現れ、大雨のように、私たちのところに来、後の雨のように、地を潤される。』旧約聖書 ホセア書6:3

恵み深い天のお父さん、新しい一週間をありがとうございます。

私たちは、イエス様がいなければ、滅びゆくものでしたが、イエス様の十字架の前に罪赦され、あわれみ生かされていることをありがとうございます。

私たちの霊的な目を開いてください。

私たちに、この世で起こっている現実ではなく、生かしてくださる神様の永遠の世界の中で、与えられてきたこと、今あること、将来に約束させていることを見させてください。

私たちは、この世で終わるなら、そのような生き方をします。

私たちに与えられている天国があるとき、この地上では寄留者であり、旅人です。

はるか先に確実に約束されている天の故郷をあおぎみ、今を過ごせる者としてください。

神様の望みが私たちの望みとなりますように。

あなたは、私たちを選び、あわれみ、救いに入れてくれました。

主を知る喜びを与えてくださいました。

主に愛される喜びを与えてくれました。

どうぞ、今、恵みの時、救いの日、…そのときが過ぎ去る前に、私たちにある神様の喜びを人々の喜びとしてください。

悲しむ人に慰めを、苦しむ人に助けを、失望する人に希望を、孤独な人を愛を与えてくださる神様が、やみの中に光となって現れてください。

イエス様の十字架の救いの恵みを大きくしてください。

私たちはもはや、触るな、すがるな、味わうなという律法の世界から解放されました。

私が生きるのではなく、私を生かしてくれたイエス様が私のうちに生きています。

私の罪のために命を捨ててくれたイエス様が私のうちに生きておられ、また、そのイエス様のために生きる者とされましたから、ありがとうございます。

神様を信じる人々に、神様を深く知り味あう喜びを与えてください。

神様を知らない人々にイエス様の愛が表されるよう、導いてください。

イエス様のお名前があがめられ、栄光が現されますように。

イエス様のお名前によって祈ります。アーメン

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2009年12月 6日 (日)

“人の悪を良いことに変える神様”

ヨセフの信仰の告白をみます。

『ヨセフは彼らに言った。「恐れることはありません。どうして、私が神の代わりでしょうか。

あなたがたは、私に悪を計りましたが、神はそれを、良いことのための計らいとなさいました。

それはきょうのようにして、多くの人々を生かしておくためでした。

ですから、もう恐れることはありません。私は、あなたがたや、あなたがたの子どもたちを養いましょう。

彼は彼らを慰め、優しく語りかけた。』旧約聖書 創世記50:19~21

ヨセフは兄たちにねたまれ、幼い日にエジプトに売られた。

知らない土地で、ぬれぎぬをかけられたり、約束を忘れられたりしたが、やがて、エジプト王の大臣となり、采配をふるう。

カナンが飢饉になり、父ヤコブと兄たちは、奇しくもエジプトの大臣となったヨセフに助けられる。

父ヤコブが死に、兄たちはヨセフに仕返しされるかもしれないと、ヨセフに赦しを乞う。

そのときのヨセフの言葉が上記の聖書のことばである。

兄たちに他国に売られ、数奇な運命をたどることになったが、ヨセフは言った。

「人は私に悪を働いたが、神様がそれを良いことに変えてくださった。」

ここに、人の悪を越えて良いことをされた神様をあがめるヨセフの信仰がある。

人の悪が打ち消され、さらに良いことに変えてくださる神様なのである。

私は時々、人が神様のように巨大化してしまうときがある。

ある人の策略や、故意にした悪さが、たちはだかり、すべてがじゃまされ、阻止されているかのように思えるときがある。

しかし、そのとき、私には悪を計る人が神のような存在になっているのに気がついた。

たとえ、人が悪を計り、環境が閉ざされたように思っても、すべてをご支配しておられるのは神様なのである。

私たちには、人の悪や弱さをも許し、それを越えて良いことをしてくださる神様がいる。

イエス様もまた人々に無実の罪で殺されるという、最悪の状態になってしまったが、神様はその中に、私たちが救われ、神様の子どもとなる唯一の道を計画されていた。

私たちの中に、今ある悲しみや苦しみの中にも神様が計らい、良いこととしてくださいますように。

また、そのことを信じ、祈っていけますように。

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2009年11月29日 (日)

“損の中にあるイエス様のいのち”

十字架にかかられ、復活されたイエス様にあって、私たちは変えられた恵みを思います。

『まことに、彼(イエス)は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。

だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。…

しいたげとさばきによって、彼は取り去られた。彼の時代の者で、だれが思ったことだろう。

彼がわたしの民のそむきの罪のために打たれ、生ける者の地から絶たれたことを。』旧約聖書 イザヤ書53:4.8

人に裁かれ、殺された神…イエス・キリスト。

人に裁かれ、殺されたのならば、それはみじめな者の何ものでもなく、その方が神様であった…これは信じがたいことである。

イエス様は罰せられ、神様に打たれ、苦しめられたのだと人々は思った。

イエス様を取り巻く弟子や人々でさえ、その現実に失望し、悲しみ、ある者たちは恐れていた。

人に裁かれ、殺された神、イエス様。これは、私たちの罪を赦すための身代わりの愛を現された側面がある。

もう一つ違う側面を考えた。

イエス様の、この世とは全く違う価値観…イエス様に見られる生き方の祝福である。

『キリストは人としての性質をもって現れ、自分を卑(いや)しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。

それゆえ、神は、キリストを高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。』ピリピ人への手紙2:8.9

私たちは自分の力で、イエス様を模範とした歩みはできない。

イエス様は神であられたのに、ご自分を無にして、仕える者となり、いのちまでも私たちのために与えた。

それは、自分の権利も主張せず、自分の存在すらすべて、否定され、この世においては、何も良いことがない、悲しみだけの人のようであった。

不幸なお方…という一言ではかたずけられないような経験の中を通られた。

その何をもって、この方が人となられた私たちの希望の神様であるのか。

それは、イエス様は十字架刑にかけられ、殺され、3日によみがえられた。

そして、死に勝利され、神様の私たちの救いの計画を現され、すべてにまさる名、その権力を与えられた。

私たちがイエス様と共に十字架にかかり死ぬ…というのは、この世の価値観に死ぬということである。

私たちが、十字架に死に、イエス様のいのちにつながり、新しく復活したものとなるとき、私たちの中に起こることは何か。

それは、自分のために生きたいと願っていた者が、生かしてくれる神様、イエス様のために生きたいという願望を持つのである。

そして、イエス様が歩まれた後をたどっていくとき、そこに慰めとあわれみと赦しの深さを見ていくのである。

イエス様にあるならば、人から損に見える生き方の中に、イエス様と共に歩める祝福があふれているのである。

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