キリスト教-教会

2009年11月10日 (火)

“どんな人をも離さず、捨てない主”

イエス様が養われる教会を思いました。

『わたし(神)は自分でわたしの羊を捜し出し、これの世話をする。

牧者が昼間、散らされていた自分の羊の中にいて、その群れの世話をするように、わたしはわたしの羊を雲と暗やみの日に散らされたすべてのところから救い出して、世話をする。…

わたしは、彼らを牧するひとりの牧者、わたしのしもべダビデ(キリスト)を起こす。彼は彼らを養い、彼らの牧者となる。』旧約聖書 エゼキエル書34:12.23

私は教会を転々としたので、誰か一人の牧師に霊的に育ててもらった記憶はない。

牧師たちには、反発のほうが多かったりしたし、このイエス様が養う…という聖書の約束を切望した。

今は教会に通っているが、イエス様に養われている感じが強い。

けれども、きっとここまでくるのに、たくさんの教会での経験、教会の人々との出会い、祈りに養われてきたのだろうと思う。

教会生活では、決して“良い子”でも“従順な信徒”でもなかった私だが、神様が私の手を離さず、見捨てず、あきらめず導き続けてくださったのを思う。

人には限界があって、人を養う受容範囲があるのかめもしれないが、神様は無限なお方で、出来の悪いひねくれ者を神様のあわれみに包んでくださるのを思う。

教会の外にいる人たち、教会で窮屈にいる人たちへの神様の愛を思いつつ、祈ります。

「天のお父さん、私はかつて、自分には養ってくれた牧師や教会がないことをとても寂しく思いました。

私も人から霊的に養われたいと願いました。

けれども、あまりのひねくれ者だったので、信頼関係の中に養ってくださる方はいませんでした。

けれども、気がついてみたら、教会でのたくさんの痛みはあっても、神様は私の手を決して離さず、私をとらえ、私に語り、私を砕き、私を導いてくれました。

人は見捨てても、神様は決して私を離さず、捨てない(ヘブル13:5)のみことばは真実でした。ありがとうございます。

私が教会で順調に養われなかったのは、そのような人たちの気持ちを理解するためかもしれません。

私は教会や牧師に反発したタイプでしたが、養われず、そっと教会をあとにする人は、どんなに寂しい気持ちでしょうか。

教会にとどまれなかったことが、あたかも神様からアウトと言われてしまったかのような錯覚すら覚えるかもしれません。

でも、違います。人間側に受容能力の限界があっただけです。

私たちの限界を赦してください。

そして、イエス様を信じたその信仰は、世界が始まる前から選ばれ、与えられているものですから、もう一度、イエス様の慰めと喜びの中に入れてください。

神様が限界のないお方のゆえ、イエス様の十字架のもとに、どんな人も楽に赦され受け入れられる教会を与えてください。

私たちはイエス様の十字架によって、何の条件もなく、自由に集えるようにしてください。

養えるのはイエス様だけです。

変人も狂人も、犯罪者も、この世から偏見や差別を受けている人も、貧しい人も枠がなく、イエス様のところに集まり、赦され、癒され、霊的に恵まれますように。

イエス様の十字架の栄光を現してください。

イエス様のお名前によって祈ります。アーメン。」

Img_4637s

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 聖書・聖句へ
にほんブログ村

| | コメント (8) | トラックバック (0)

2009年9月 2日 (水)

“キリストのからだの苦しみ”

キリストのからだの苦しみとその回復を思いました。

『あなたがたは使徒と預言者という土台の上に建てられており、キリスト・イエスご自身がその礎石(そせき)です。

この方にあって、組み合わされた建物の全体が成長し、主にある聖なる宮となるのであり、

このキリストにあって、あなたがたもともに建てられ、御霊によって神の御住まいとなるのです。』新約聖書 エペソ人への手紙2:20~22

最近、私は本当にまれにだけれど、イエス様の悲しみや苦しみを霊的に少しだけ、感じるときがある。

昨日は胸の中が重苦しくなり、キリストのからだの苦しみなのかなぁと思った。

イエス様は、私たちのイエス様への信仰を告白するところに、教会を建てられた。(マタイ16:18)

そこは、イエス様の権能が働き、神の御国が現されていく場所である。

目に見える地域教会も教会であるが、私はいつも目に見えないキリストのからだを思う。

キリストのからだの苦しみや痛み…どんなものがあるだろうか。

イエス様を信じたのに、目に見える教会には集えず、孤独にいる人。イエス様がなかなか身近に感じられず苦しむ人。一生懸命にイエス様のためにと働きながら、良いものが与えられず疲れた人。指導的立場にありながら、神様からの恵みの啓示の知恵が与えられず、責任感のみで我力でやっている人。

キリストのからだの様々なところが、傷と痛みで苦しんでいる。

そして、そこに互いが互いを受け入れ合わないさばきや批判があり、キリストのからだは癒されることなく、悲鳴をあげている。

私は自分のお腹が痛かったら、薬を飲む。

足が痛くなったら、歩くのを休む。

虫歯が痛くなったら、歯医者に行く。

自分の大切なからだをいたわり、早く回復し、痛みがなくなるようにする。

キリストのからだは、いろいろな視点からあちらもこちらも傷んでいる。癒しと回復が必要である。

私たちはキリストのからだを、自分のからだのように大切にできるか試されている。

私自身が長年してきたことだが、他者批判はキリストのからだのために何にも回復をもたらさない。

イエス様からいただいた愛をもって祈る…何もできなくとも、何もできないから、イエス様の力が働くことを願い、ただひたすらとりなしの祈りをする…それしか私たちにはできないような気がする。

もし、痛みがあるなら、大切なキリストのなくてはならない一部のあなたが癒されますように。

もし、誰かのために祈れる力が与えられているなら、一つとなってとりなし祈り、キリストの愛による癒しをともに体験できますように。

Img_4254s

にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ
にほんブログ村

| | コメント (4) | トラックバック (0)

2009年7月28日 (火)

“キリストのからだ・教会”

教会について、思いめぐらしました。

『むしろ、愛をもって真理を語り、あらゆる点において成長し、かしらなるキリストに達することができるためなのです。

キリストによって、からだ全体は、一つ一つの部分がその力量にふさわしく働く力により、また、備えられたあらゆる結び目によって、しっかりと組み合わされ、成長して、愛のうちに建てられるのです。』新約聖書 エペソ人への手紙4:15.16

長年、教会の中で悩んできた私にとって、“教会ってなんだろう?”と言う疑問が、良くわき上がりました。

もちろん、悩みが解決していないさ中、その答えは出ませんでした。

聖書を通して、私が描く教会像はエペソ人の手紙にあるような教会です。

イエス様の権能が豊かに現され、御霊に、イエス様に一つとなり、それぞれが、キリストのからだの成長のために与えられた働きをなすところ。そして、互いがイエス様からいただいた愛によって支えあい、祈りあい、愛しあうところ。

そこはこの世の中の価値観が入り込ます、弱さを持つ人が尊ばれ、祝福される。(第1コリント12:23)

そこでは、イエス様の前に、みんな赦されたものとして、互いの弱さを言い表し、そしてそのことが赦されていることを誰もが共に喜べる。

ただ、誇りとなるお方はイエス様だけで、イエス様だけがあがめられるところ。

私の中では、「これ、なんか変じゃないの?」と目に見える教会に思いつつ、聖書にある教会を思い描くようになりました。

人が不完全なように、教会も完全ではありません。

あら探しするのではなく、その足りないところを、神様とその教会を信じて祈ることこそ、そのからだの一部であるものに、託されているのだと最近思わされるようになりました。

今日、コメントで、matsuさんが、「ここが私の教会」と言ってくれました。

7月17日のコメントで、ettuさんが、「このブログが私の望む教会の一端を備えていると思う」と言ってくれました。

私もここがまた、一つの教会と思えば、3人同じように思う人がいて、教会成立かなぁなんて思いました。

ブログに訪問されている方々には、いろんな方がいて、すでに、しっかりご自身の教会に通われている方もたくさんいると思います。

イエス様のもとに集められて、良いものを共有できていることが幸いです。

ただ、もし今は教会を持たず、寂しい思いをしている方にとって、ここもまた、教会のような、みことばと祈り、交わりのある場所として、その一部を備えている場所として、喜んで安心してきてくだされば、嬉しく思います。

イエス様は、私に20年前に言われました。「あなたの小さな一人分の弁当(5つのパンと2匹の魚)をわたしに差し出しなさい。わたしが奇跡をなして、増やすから。」と。

私自身は、いつも一人分の食べ物しか持たず、そのままでは誰にも分けてあげられない者です。

けれども、増やして人々を祝福するのはイエス様だと言われたので、私自身、多くの食べ物を持っていないことにも、安心しています。

今日、コメントをいただき、そこに応答して、素直な今の気持ちを書かせてもらいました。

教会を必要とされる方にとって、ここが神様と、人とともに交わる慰めの場所となりますよう、祈ります。

Img_3873s

にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ
にほんブログ村

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2009年7月25日 (土)

“私の歩んだ教会たち”まとめ

このシリーズを終わるにあたって、気がつかされたことなど、まとめてみました。

『見よ。兄弟たちが一つになって共に住むことは、なんというしあわせ、なんという楽しさであろう。』旧約聖書、詩篇133:1

皆さん、私の長い教会遍歴にお付き合いくださり、ありがとうございます。

とりあえず、振り返って、私なりにまとめてみようかと思います。

30年で7つの教会を渡り歩いた…そんな人は少ないかもしれません。

一番、感謝なことは、私の弱さがあり、教会の弱さがあっても、神様が私を捕まえてくれ続けて、神様から離れることなく、ますます神様を慕い求める気持ちを増してくれているということです。

まさに、人の弱さや足りなさを越えて、神様の恵みは深く、大きいということです。

私たちに与えられた信仰は、神様が与えてくださったものなので、決して取り去られることがないということです。

そして、様々な教会生活を振り返るとき、「私はただ神様にだけ養われた」…とよく言い切ってきましたが、実は、本当にたくさんの方々が関わってくださり、支え、祈ってくださって、今の自分がいるのだということに気がつきました。

出来事も、人も神様が私のために備えて訓練してくれました。

今はこの30年の教会放浪のような日々があったので、さらに神様を信頼し、神様とともにある素晴らしさに至らせてもらったのだと思います。

そんな私の豊富?な教会遍歴を、神様が無駄にすることなく、今、教会の外や外近くにいる方々と分かち合うようにして生かしてくれました。

私は教会の中にいることの苦痛を知っているものです。

そして、それを越えた神様の恵みを教えられたものです。

人同様、教会は不完全で、様々な痛みがありますが、さらに教会の祝福を祈り求めていきたいです。

そして、教会の外で痛む人のよき理解者、とりなし手となりたいです。

皆さん、教会遍歴へのお付き合いありがとうございます。

皆さんにとって、私の経験が何かよいヒントになってくれていたら幸いです。

次は、私の自分史シリーズにお付き合いください。よろしくお願いします。

Img_3934s

にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ
にほんブログ村

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2009年7月 8日 (水)

“私の歩んだ教会たち”6-2・赦す

私が“教会”を赦し、手放したときのことです。

『神は、キリストによって、私たちをご自分と和解させ、また、和解の務めを私たちに与えてくださいました。』新約聖書 第2コリント人への手紙5:18

“期待”が“裏切り”になると、人は心に苦々(にがにが)しい思いをもつ。そして、相手に要求する思いが自分を縛る。

それを“赦せない”思いと言う。

私は教会の牧師たちが赦せなかった。「なぜ、神様はもっと優しく、恵み深く、あわれみに満ちているのに、その神様を聖書からきちんと語らないのですか?」

そのような思いに、がんじがらめになっていた。

時満ちて、そんな私も神様によって悔い改めに至った。

一番大きかったのは、「赦さない行為は、何かを相手に要求し続けていることなので、相手をつかんでいることで、その影響を受け、支配されることになる。」という「境界線」の本の一文に出会ったことだった。

「神様、もっとも嫌だと思う人に、私が要求、期待している限り、私はその人に支配されるのですね。それは嫌です。

神様、あなただけに支配されたいです。

すべての人を赦します。関わったすべての牧師を赦します。」

そうして、過去に関わったすべての牧師の名前をあげて、赦す祈り、相手に要求しないで、期待しないで、手をひく祈りをした。

すっきりした。これで、神様以外に私は支配されていないと感じた。

そのとき、通っていた牧師にも一言、謝った。

これが、25年赦せなくなっていた牧師たちを赦した日となった。

神様以外、誰にも要求しない、誰にも期待しない…神様だけに支配される。そのことのすばらしさは、すぐにやって来た。

私がどんなに神様から愛され、期待され、計画されているか、直接に神様から溢れるばかりに感じることができた。

神様に受け入れられているので、愛されている自分を100%いとおしいと思えた。

もうこの体験は、何度も記事に書いてきたが、私の教会生活でとても大きな出来事だった。

私が“人を裁く”という罪を手放したとき、内側に聖霊様の喜びに溢れるとともに、外側の環境も変わっていく。

神様は忍耐し、私がこのように自分の罪から解放される日を待って、導いてくださっていた。

###

神様、“人を裁く”大きな罪を、神様によって、手放すことができて、ありがとうございます。

私の握っていたものが、神様から直接来る恵みを妨げていました。

神様は、私の弱さをご存じで、私が手放せる道筋を忍耐して、作ってくれました。

手放す自由を本を通して教えくれました。

聖霊様が助けてくださり、赦す祈りを、喜んですることができました。

すべてはただあなたによることですが、神様の備えと導きとすべてを感謝します。

同じ苦しみにある人を、主の深い慰めとあわれみに包み、導いてください。

Img_3553s

にほんブログ村 哲学・思想ブログ プロテスタント(クリスチャン)へ
にほんブログ村

| | コメント (4) | トラックバック (0)

2009年7月 2日 (木)

“私の歩んだ教会たち”5‐1・客員

私たちは客員(きゃくいん)生活を一年間しました。

『私たちは、知ろう。主を知ることを切に追い求めよう。

主は暁(あかつき)の光のように、確かに現れ、大雨のように、私たちのところに来、後の雨のように、地を潤される。』旧約聖書 ホセア書6:3

一人で始まった教会生活であったが、前の教会を出たときは、2歳の息子もいて、主人と3人の放浪になる。

私たちは一つの教会に、客員(お客様)で一年通った。今はカルト化してしまった教会だった。

教会学校も別の部屋であったが、子どもが私から離れたくないので、いつも静かに私の横に座り、礼拝していた。

そこには導かれている感じがしなかった。

いつまでも、お客さん気分で行っていた。

電車を乗り継いでいくのだが、何故か、教会に行かなくてはという気持ちだけで行っていた気がする。

だから、夏の熱い日差しが、とても体にこたえたり、ちゃんと歩かない息子を歩かせる苦労だけが記憶に残っている。

私の願いはただ一つだけだった。

「神様、私たちが属する教会を与えてください!」

そこは預言がされる教会で、ある日、一つの預言を聞いた。

「あなたは扉があって、開かれ、その先に入ります。」とかいう預言だった。

私は、「今まで自分で教会を選んできたが、神様が備え、開いてくださるところに導きいれられるんだ。」と思った。

そのとき、主人は、扉が開いて、光が差し込む幻を見たと言っていた。そして「あなたがたはここではない教会に導かれる」と神様から言われたらしい。

私たちは、客員として通っていた教会に行くのをやめ、教会探しをした。

私は、もうどこに行っても変わらない…あまり期待していないという気持ちだった。

そして、主人に話した。「あなたが探してくれた教会に私も行くことにしたから。」

主人は何週間かかけて、教会探しをした。

そして、決めたところに家族で行くことになった。

私の念願の客員生活脱出であり、また、訓練を受ける教会生活の始まりとなった。

###

私にとって、貴重な客員生活でした。

教会の多くに期待していないのに、教会につながりたいという気持ちだけが強かったんだなぁと思います。

それが良いこととか、悪いことというのでなく、私の中で湧いてきた気持ちです。

教会に失望しながら、教会につながりたい自分が不思議ですが、私の場合は、そのように造られ、また、教会で受ける訓練も残っていたのだと思います。

すべてのときが神様に備えられていたのを感謝します。

Img_0926s

にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ
にほんブログ村

| | コメント (4) | トラックバック (0)

2009年6月23日 (火)

“私の歩んだ教会たち”4・1珍事

会堂から教会が去り、残ったメンバーと新しい牧師で、スタートした話しです。

『ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全なおとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです。

それは、私たちがもはや、子どもではなくて、人の悪巧(わるだく)みや、人を欺(あざむ)く悪賢い策略により、教えの風に吹き回されたり、波にもてあそばれたりすることがなく、むしろ、愛をもって真理を語り、あらゆる点において成長し、かしらなるキリストに達することができるためなのです。』新約聖書 エペソ人の手紙4:13~15

会堂から教会がいなくなり、私たちはその会堂に残った。

何人か残った人や、いなくなったのを聞きつけて来た人たち10人ちょっとで、教会がスタートした。

やがて、外国の方が牧師として来てくれた。

が、残った人の中には、ひたすら自己顕示欲が強い方もいらして、昼ごはん作りが強制的に当番で回ってきたり、礼拝の中で、突然異言で祈り、牧師の霊的リードをかき乱したり、取っ組み合いのような女性同士の喧嘩があったり、珍事が続いた。

私は、赤ちゃんが与えられ、教会の珍事には殆んど関わることなく、子育てに守られていた気がする。

次々に教会から人々は悶着を起こしながら、出ていった。いまこそと思いつつ、自己実現が果たせず、牧師に怒りながら出ていった。

私たち夫婦は、初めの残り組の最後のメンバーになった。

が、私もまた、牧師の考えには苦痛を感じていた。

6年過ぎて、私たちもその教会を去ることになった。

牧師の最後のことばは、「この教会の牧師は私ですね。合わなかったら、どうぞ、合う教会に行ってください。」というはなむけのことばをいただいて。

その教会で良いこともあったと思う。宣教師の方と、地域の子どもたちを集めて、英語教室が始まったり、主人が賛美リードしたり。

けれど、私の中で、息子と過ごす毎日は幸せだったが、聖書も開かず、祈ることもしなくなっていた日々だったように思う。

♯♯♯

神様、いろんな人たちがいることを見せられた教会生活でした。

私にとっては、神様との関係も遠くなっていたように思います。

そんな中でも、英語教室を手伝えたり、あの場所で出会った一人の友人とは、今でも、大切な関係を保てていますから、ありがとうございます。

あの頃、私の慰めは、可愛い子どもでした。私の何が良かったか、悪かったかは良くわかりませんが、慰めを与えられていたことを感謝します。

その教会もやがて、たくさんの人が集い活気に溢れている話しを聞きましたから、ありがとうございます。

私にとっては、苦痛でしかない教会でも、誰かにとっては、素晴らしい教会になる…神様のバラエティーさをありがとうございます。

Img_3531s

にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ
にほんブログ村

| | コメント (3) | トラックバック (0)

2009年6月22日 (月)

“握っている手を開けますように”(語りかけ)

握っているものを手放させられた私の証と、Setsuさんの神様からの語りかけです。

『私たちが滅びうせなかったのは、主の恵みによる。

主のあわれみは尽きないからだ。

それは朝ごとに新しい。

「あなたの真実は力強い。主こそ、私の受ける分です。」と私のたましいは言う。

それゆえ、私は主を待ち望む。』旧約聖書 哀歌3:22.23.24

立派な会堂から教会がなくなり、私は途方にくれました。

ある教会の賛美礼拝に行き、そこで神様に話かけました。

「神様、私は教会奉仕が大好きでしたが、奉仕どころか、教会まで無くなってしまいました。」

すると、神様は言われました。

「これまでの数々の苦しみは、あなたが握っているものを手放すためだよ。」と。

私は何かを握ってました。それを払われたのです。手を開いてみると、何もないのではありませんでした。

その日から、私は「主こそ、私の受ける分です。」と神様を喜び始めました。

仕事も辞めさせられ、教会もなく、何もないような時期でしたが、生まれて初めて鳥のさえずりに、「神様、鳥の鳴き声がきれいですね。」と言えました。

私の握っていたもの、それは“私の神様にある働き”でした。

神様におまかせしたとき、神様だけが喜べるようになりました。

昨日、Setsuさんが、コメントで、皆さんあてに、神様からの語りかけを書いてくれました。

書き写します。お一人お一人に慰めがありますように。

「神様は私たちの心が何を必要か知っておられます。

何に渇き、何につまづき、何に泣いているかも。

あなたが握っているその手を一度、神様の前で開いてみてください。

あなたの手は、引き裂かれて穴の空いた神様(イエス様)の手を握ることができます。

あなたが隠しているその心の目を、神様の方へ向けてみてください。

神様の心に、あなたのことがしっかり焼き付かれているのを見ることができます。

あなたがまだ形もなかった頃、神様の心にあなたがいて、神様はずっとあなたに思いを焦がしていたことを、あなたのすべての心の傷に深く染み込ませることができるでしょう。」

Setsuさんはここに来られる方々、コメントする方も、そうでない方のためにも祈っています。

ettuさんもここに取り巻く人たちのため、与えられた霊的祈りで祈っています。

私もお二人と同じく、ただ皆さんの霊的祝福を心から祈っています。

この小さなブログを通しても、距離や空間を越えて、神様のよいものを分かちあえますことを願っています。この思いが、祈りとともに、ここに来てくださる皆さんに届きますように。

Img_3567s

にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ
にほんブログ村

| | コメント (0) | トラックバック (0)

“私の歩んだ教会たち”3‐3・会堂残る

教会がその立派な建物から出ていった話しです。

『私は一つのことを主に願った。私はそれを求めている。

私のいのちの日の限り、主の家に住むことを。

主の麗しさを仰ぎ見、その宮で、思いにふける、そのために。』旧約聖書 詩篇27:4

賛美に満ち溢れた教会には、笑いがあり、人々は生き生きしているかのようだった。

結婚式に来てくれた、前の教会の友人が言った。

「この教会は、賛美の天使たちが集まっている。だけれど、戦う戦士がいない。」と。

牧師の過ちは、多分教会全体の責任でもあり、特に牧師の近くにいる人たちが、「イエスマン」ではなく(何でも、「はい、はい」と聞かずに)間違ったことは、信頼関係のもとにハッキリ教えてあげることが、責任としてあるのだと思う。

牧師は幾つかの間違いをした。人間、誰でも間違いも、過ちもある。だから、それは、とても大きな問題ではないかもしれない。

教団からは、その間違いを認め、牧師を3か月ほど謹慎し、牧師を休んでくれと言われたらしい。

が、その話しを蹴って、何の謝罪もなく、その美しい立派な会堂を出ていった。

信者の6割はついていったと思う。

私は内情を良く知っていたので、ここでお別れだと思った。

サタンは牧師を攻撃する。牧師しか経験しない誘惑があるのだと思う。

それを支えるのが、信徒であり、まわりにいる人たちなのだと思う。

教会は民主主義、多数決の世界でないと良く言われるが、牧師がすべての教会の実権を握っているのではないと思う。(これはただ私の考えだけれど。)

牧師は霊的指導者として、人より託されているものが多いかもしれないが、より神様の声を聞くと同時に人の声を同じくらい熱心に聞くものだと思う。

なぜなら、神様から語られたことを、どんなことを考えているかその聴衆に噛み砕いて、語るのが牧師の仕事だと思うから、どちらの作業も大切だと思う。

そして、その託された一部を、他の部分が支え、補うのが教会かと思う。

あのとき、私は教会が去っていったことに悲しくて、何日か泣いていた。

あのときは、私にもその責任の一部があったことには、思い至らなかった。

♯♯♯

神様、人は皆弱いです。

牧師は特に霊的攻撃を受け、様々な誘惑に合います。

あのとき、私が教会のため、牧師のために祈れなかったものであることを赦してください。

私たちの戦いは血肉(けつにく)によらず、霊的な戦いです。

私たちが、人が人を裁いたりすることをサタンは手を叩いて喜んでいます。

私たちの中に裁く心でなく、赦す心を与えてください。

私たちは誰でも間違います。間違いが問題なのでなく、裁く思いや隠す心が問題なのです。

イエス様にあって、私たちが一つとなり、弱く間違いやすい中にこそ、イエス様の愛が現れ、人々が神様を崇めるようにさせてください。

Img_2518s

にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ
にほんブログ村

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年6月20日 (土)

“私の歩んだ教会たち”3‐2・結婚式

私たちはたくさんの教会員の方々に労していただき、素晴らしい結婚式をあげることができました。

『あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。

そして、神は教会の中で人々を次のように任命されました。

すなわち、第1に使徒、次に預言者、次に教師、それから奇跡を行う者、それからいやしの賜物を持つ者、助ける者、治める者、異言を語る者などです。』新約聖書 第1コリント12:27.28

10人位で始まった教会は、たちまち人が増えた。

新しい立派な会堂も建った。

60人ぐらいの礼拝は、素晴らしい。賛美リードがいて、バンドがあって、それぞれの得意分野で、皆教会に仕えていた。

沢山集っているということは、賜物も多様にあるということだ。

そんな新しい会堂で、私は主人と結婚式、披露宴をしてもらった。

私たちは、貧乏だったので、すべてが教会の方々の手作りだった。

結婚式での奏楽、カメラマン、ビデオ取り、すてきなお花の飾り。披露宴でのプロなみの演奏者、手作りウェディングケーキ、私と主人の出会いを作った寸劇の役者…、披露宴でのティーパーティーのお菓子。沢山の人たちの手によって、結婚式をしてもらった。

そこには、たくさんの労力と祈りとお金がかけられていたのを今、思う。

親族、友人たちや前の教会でお世話になった方々を呼んでの結婚式、教会員も参加してくれ、100人位の盛大な結婚式になった。

あれが、私が大勢の方にお世話になった最後になる。その一年後には、輝いていたはずの教会は、立派な建物を残して、いなくなってしまった。

たくさんの人に祝福された結婚式、今はクリスチャンと出会うことも少なくなり、あの頃、神様がしてくださった不思議を思う。

###

神様、あなたがひとりひとりに良いものを与えてくださってありがとうございます。

私たちの結婚式イベントには、本当にたくさんの方々が関わってくださったことをありがとうございます。

あの結婚式は、今の私にとっては、キリストのからだの多様性の素晴らしさでした。

神様、お世話になった方々とは、今は交流もなく、感謝をお返しすることができませんが、神様、心からありがとうございます。

そして、神様はあのように、イエス様にあって一つで、多様性をもって喜んでいく教会を望んでおられるのを思います。

そのような教会にたくさんの人たちが連なって喜べるようにしてください。

Img_3540s

にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ
にほんブログ村

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年6月19日 (金)

“カルト化教会の痛み”3・孤独な回復の道

カルト化教会を出た人たちは、そこからまた、孤独な道を歩みます。

『見よ。わたしはあなたとともにあり、あなたがどこへ行っても、あなたを守り、あなたをこの地に連れ戻そう。わたしは、あなたに約束したことを成し遂げるまで、決してあなたを捨てない。』旧約聖書 創世記28:15

私の友人は、10年程、カルト化していく教会に属していた。

そこを出たときは、いろんなコントロールから解けず、苦しんでいた。

心も信仰も回復するためのリハビリ期間は少なくとも3年位かかると、専門の方から言われた。

新しい健全な教会に通い始めたが、孤独であった。家庭で、親から虐待を受けた人は、そうでない人にいくら話しをしても理解されない。

同じように、特殊なところを通されたので、その苦しみは、同じ信仰のことであるのに、誰にも理解されない。

本には、「その牧師がおかしかったことを理解できなかったあなたが悪い。」と責められてしまうこともあると書かれていた。

いろんなコントロールがすぐ解けないので、その言動も奇異に見えるときがある。偏見や疎外感に苦しむ。

そのような人たちがどのような孤独をもって、感情があらわれるか、「信仰という名の虐待」の本から書き写す。もし、近くにそのような方がいたら、私たちは、その苦しみを理解しきれなくとも、寄り添い、共に祈るものでありたい。

「・自尊心を失う

・自分自身を失う
・自分が無力な人間であると感じる

・強い罪責感を感じる

・怒りと欲求不満を感じる(多くの時間と可能性を失ったので)

・恐怖と混乱を感じる

・マインド・コントロールされていたため、自分で考えて、決めることがなかなかできない

・だれかに依存したい、自分の代わりにだれかに決めてほしい

・キリスト教、教会、聖書、神に対して、強い反発や拒否を感じる(個人差がある)

・人に対して不信感を感じる(人を信じられない)」

###

神様、神様の尊いお名前を使って、人をマインド・コントロールし、人々に深いダメージを与えるカルト化教会の罪を赦してください。

神様、そこから出て、なお、苦しむ人たちを助けてください。

私たちは、その“信仰の虐待”された経験者ではありません。

本当に理解が足りなく、かえって突き放してしまうものであることを赦してください。

リハビリの道を歩んだ私の友人に、ときに私は冷たかったと思います。

彼女の苦しみを理解しようとしなかった私を赦してください。

その回復の道を歩んでいる人々たちに、神様、「わたしはあなたを捨てない」と語り続けてくださり、あなたとの麗しい関係を、主によって回復させてください。

その歩みを確かにしてくださり、弱いときも、守り導いてくださる主とともにありますようにしてください。

Img_2599s

にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ
にほんブログ村

| | コメント (10) | トラックバック (0)

2009年6月18日 (木)

“カルト化教会にいる人への祈り”

カルト化教会にいて苦しむ人々、そこを出て回復の道を歩いている人々のため、祈ります。

『主のもとに来なさい。主は、人には捨てられたが、神の目には、選ばれた、尊い、生ける石です。

「見よ。わたしはシオンに、選ばれた石、尊い礎石を置く。

彼に信頼する者は、決して失望させられることがない。」』新約聖書 第1ペテロの手紙2:4.6

「天のお父さん、イエス様は、悲しみのところに喜びを、嘆きのところに希望をもたらすために来られました。

けれども、人間の支配欲、顕示欲、そういったものが、神の名前を使って、全く違うことをし、人々を苦しめています。

人間のこの限りない欲望を赦してください。

人々は、神様に喜ばれる熱心で、今、神様以外のものにコントロールされ、苦しんでいます。

どうか、神の名前を使っても、そこに安心や喜びや慰めやあわれみといった良いものがなかったら、それは、イエス様の世界ではないことを知ることができますように助けてください。

巧みにコントロールされているので、苦しいことすら、祝福のためのサタンの攻撃だと言われます。

教会から出たら、祝福されず、呪われると言って、脅されます。

苦しいのに、恐れのため、そこから出ることが出来ません。

パソコンやこのようなブログからも正しい情報を得ていけますよう助けてください。

イエス様の世界は恐れで縛られる世界ではありません。

本当のイエス様のもとに導いてください。

まだ、出られた方たちは、たくさんのダメージで、いろんなことが判断できなくなっています。

時間がかかっても、ゆっくりと受け入れられる環境で、自分を取り戻していけますように。

カルト教会にいた人が裁かれませんように。彼らも犠牲者だからです。

コントロールが解けずに、変なことを言っても、受け入れられる中で回復するので、そのような環境を与えてください。

イエス様の楽しみと喜び、自由と慰めが満ちますように。

イエス様のもとには、決して失望させられないことを感謝します。

人間的な欲望の組織を打ち砕き、教会に、人々にイエス様がきてくださいますよう祈ります。

イエス様のお名前によって祈ります。アーメン。」

Img_3218s

にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ
にほんブログ村

| | コメント (0) | トラックバック (0)

“カルト化教会の痛み”2

カルト化教会の特徴です。

『しかし、あなたには非難するべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった。

それで、あなたは、どこから落ちたかを思い出し、悔い改めて、初めの行いをしなさい。

もしそうでなく、悔い改めることをしないならば、わたしは、あなたのところに行って、あなたの燭台(しょくだい)をその置かれた所から取りはずしてしまおう。』新約聖書 黙示録2:4.5

姉が通っていた教会は、真面目な信仰を持った人たちの素朴な誠実な教会だった。

姉は今でも、信仰の“いろは”はその教会で教えてもらい、養われたと感謝している。

そんな小さな教会だったが、牧師婦人の預言が始まり、変な雰囲気になっていった。

無駄口を慎むとか、横の信徒どうしの親しい交流を避けるとか。

その方は、一にも二にも、謙遜が大事と言っていたらしい。

聖書に聞いていき、答えがないと動かない…そんな傾向はあったが、何故、あの方がカルト化の道をいったのか、とても不思議に思う。

カルト化教会の特徴をパスカル・ズィヴィーは、「“信仰 ”という名の虐待」の本で次のように言う。

「“信仰”という名の虐待」のメカニズムとして5つある。

1、恐怖、脅し

信者たちを支配するために、恐怖、罪責感と脅しを使います。どんな命令でも、信者たちは、牧師に従わなければなりません。…少しずつ、牧師や教会に対して批判する能力がなくなり…最終的に、牧師と教会に全く依存するようになってしまいます。依存すると信者たちは、牧師と教会の精神的な支えを失うことに対する恐怖が大きくなる。自分で、判断することが難しくなる。

2、愛のシャワー

牧師に出会った時の印象は、それまで出会ったこともないようなカリスマ的存在で、霊的で、優しく、情け深く、理解のある人物と思います。…破壊的カルトの中でよく使われる「ラブ・ボミング」(愛の爆撃)、あるいは「ラブ・シャワー」(愛のシャワー)というテクニック。好意の雨をふりそそぎ、ほめます。

3、罪責感

愛のシャワーを浴びた人たちは強い義理を感じるので、本心を伝えることが難しくなります。質問や批判に対しては、罪責感を起こさせます。

4、告白の儀式

信者の人格を無視し、牧師、教会の意向に沿わない思想、感情、行動をすべて告白しなければならないと要求し、個人のプライバシーをすべて奪います。…心が解放されるよりも、自責感に苦しみ、無意識に合わせなくてはならないと感じるようになります。

5、人を奴隷化する権威主義的構造

人間関係がピラミッド型になっています。横の関係が全く許されず、縦のつながりのみ重視します。信者は牧師の許可がなければ、どんなことも決めることができません。密告があり、管理されます。福音のため、ビジョンのためということがあります。

何故、イエス様の愛で始まったことが、人間の欲望の統率になるのだろうか。

まさに、“初めの愛”イエス様ご自身がいなくなったところに悲劇が起こるような気がする。

神様、今もカルト教会は存在し、多くの真面目なクリスチャンが神のためと、コントロールされ、苦しんでいます。

イエス様からくるものは、赦しとあわれみ、癒しと自由、安心と喜びです。

イエス様自身がいる教会、人々へと変えてください。

Img_3174s

にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ
にほんブログ村

| | コメント (2) | トラックバック (0)

“私の歩んだ教会たち”3‐1・恵みの教会

教会で神様の恵みをひたすら感じた3年間でした。

『おとめイスラエルよ。わたし(神)は再びあなたを建て直し、あなたは建て直される。』旧約聖書 エレミヤ書31:4

新しく通う教会の近くに、私は引っ越しをした。

引っ越し先は、お金も何も無く、今にも崩れそうなボロアパートだった。

が、礼拝は楽しかった。

賛美はワーシップソングになり、賛美の中に、神様の臨在をいつも感じた。

聖霊様が、私の心にシャワーの慰めを毎回くださり、私は礼拝ごとに、その慰めに泣いた。

号泣になり、トイレに駆け込んで、泣くこともしばしばあった。

その頃、この聖書のことばを見つけて、紙に書いた。

私の内に、心の癒しが起こると信じられた。

新しく覚えたワーシップソングを昼も夜も賛美した。

バイト先の仕事場でも、トイレに行くたびに、そこであふれる思いを賛美した。

礼拝メッセージのテーマは、“恵み”だった。神様が一方的に私たちを赦してくれるメッセージを私の霊は喜んで聞いた。

すべてが、順調のような信仰生活だった。

開拓のようなその教会に、人々は増え、新しい会堂を建てるに至った。

私の信仰生活も、教会もすべては順調かのようだった。

この2年後に、この教会が、いろいろな問題が起こり、この立派に建てられた会堂から教会の人たちが出ていくことになるとは、あの頃、誰もが想像しなかった。

###

神様、ワーシップソングの礼拝の中で、私はたくさんの慰めを受け、癒されていった、そのことをありがとうございます。

賛美の内に住まわる神様を体験する日々でしたから、ありがとうございます。

聖書の話しも、神様の恵みが中心で、慰められました。

短い期間でしたが、その教会で、私は恵みの神様、恵みのメッセージ、慰めの霊をたくさん経験できて、ありがとうございます。

Img_2111s

にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ
にほんブログ村

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年6月10日 (水)

カルト化教会に無いもの

神様は何を私たちに求めておられるか教えられた分かち合いです。

『み使いは(アブラハム)に仰せられた。

「あなたの手を、その子に下してはならない。その子に何もしてはならない。今、わたしは、あなたが神を恐れることがよくわかった。あなたは、自分の子、自分のひとり子さえ惜しまないでわたしにささげた。』旧約聖書 創世記22:12

神学校時代、同じ寮で、伝道熱心な男の子がいた。

気があって、よくいろんな話しをした。

ある時、彼が言った。「相手を愛する思いがあるなら、体の癒しもその人のために祈ると思う。」

私が何と言ったことに対する答えか、覚えていない。たぶん、「体の癒しがすべてではない。」ということに対してだと思う。

一緒に卒業した彼は、伝道熱心で神様にまっすぐな感じの人だった。

やがて、彼が属している教会がカルト化してしまった。彼もその中の中心的な牧師の一人だった。

今日、その会話を思い出した。彼がどこからずれてしまったのか、よくわからない。

初めの頃は、「イエス様の愛を語る素晴らしいメッセンジャーだよ。」と彼の噂を聞いていたが。

アブラハムがイサクを捧げる試練の中、神様は言われた。

「今、わたしはあなたが神を恐れることがよくわかった。」

神様は、神様を恐れる心をアブラハムに見て喜ばれた。

“心”とか、“動機”とか見えないことこそ、実は神様が最も求めておられることなんだなぁと、しみじみ思う。

カルト化した教会は、宣教熱心だったりする。とにかく働く。労する。無心になって疲れるまで仕える。そのように牧師にコントロールされてしまうのだが、そこに、主とふれあう“心”がない。

黙示録2章に出てくるエペソ教会は、労苦と忍耐を神様に知られていた。

しかし、“初めの愛”から離れてしまった。

イエス様の赦しとあわれみの中、応答する行為と、“心”を無くし、ひたすら頑張る世界は、見た目な変わらなくても、神様から見たら全く違うのだ。

主にある熱心の中で、神様が最も求めとおられる“神様への心”こそ第一とされるものだなぁと思った。

Img_3374s

にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ
にほんブログ村

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年6月 9日 (火)

少数派の自分

私の近況…小さな変化です。

『教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。』新約聖書 エペソ人への手紙1:23

私がブログを始めて11か月になる。私はブログの中で変えられてきている。

誰に変えられたかというと、もちろん、神様にであるが、ここに毎日のように訪問してくださる皆さんによってである。

私は教会と言われるところでは、その与えられた信仰が“少数派”となるものだと思う。

だから、いつになっても、どこにいっても、しっくりこない。

ブログでは、とにかく私の本音の本音のところを書いている。聖書の分かち合いにしても、私が美味しいと思うところを共に美味しいと思ってもらっているので、訪問してもらえるのだと思う。

少数派の私も、ブログの中では共に似た感性、信仰の方がいて、そこが集まれば、少数派ではなくなるってことかなぁなんて、訳のわからないことを考えながら出かけた。

私たちの教会は牧師夫妻と私たち夫婦の4人。最近、一人の女性の方が集ってくださっている。

そんなに少なくても、そこに人との信仰の溝を感じてしまう私である。

今日は、牧師の奥さんと共に久々祈った。私は変わり始めている。悔い改めの始まり、教会を赦し、さらに癒しを祈るようになった。ブログの中での導きのおかげである。

彼女はいつも私に愛をもって祈ってくれていたが、私の方には彼女との溝があった。教会の外の人の話しになるとその違いに苦しくなった。

今日、彼女と祈りながら、「私たちは神様にあって一つです。」と祈っていた。彼女もまたそう祈っていた。

心からそう思えた。彼女は、韓国系中国人で、その救霊(イエス様を信じてもらう)の思いに熱い。それなのに、誰を誘っても教会にこないことにガックリきている。胸が苦しくなるらしい。

中国では、迫害の中、人々がイエス様を信じていく。なぜ、日本は違うのかと嘆く。

彼女の神様が与えてくれた熱い救霊の思いに慰めがくるよう祈った。

私の中で何かが変わった。何だろうか。

教会の人と違いはあっても、それを越えて一つであることを受け止められたのか…。まだ、限りなく近くにいる一人と祈れた程度だが。

訪問の皆さんには、私の悔い改めの道に共にお付き合いくださり、心から感謝します。

今、“私の歩んだ教会たち”の証を書いていますが、すべてが懐かしく、そこで失敗したりしている自分がいとおしいです。そこに取り巻く人たちの弱さが受け入れられます。

悔い改めの霊が私をおおったとき、私は「神様、あれもこれもごめんなさい」と号泣しながら、ブログを書いている…そんな想像をするのだが、まだ、その霊はくだっていない。悔い改めというのが、そういうものではないかもしれないし、聖書のことばにより、御霊の啓示により、深いところを見せられたとき、「ごめんなさい」と告白するよう導かれるのでしょう。

神様のよいものを皆さんと分かち合いたいと心から願っています。日々、訪問してくださる方々の祝福を祈っています。訪問、ありがとうございます。

Img_3320s

にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ
にほんブログ村

| | コメント (2) | トラックバック (0)

“私の歩んだ教会たち”2-3・除名

私が伝道師除名になったときの話しです。

『謙遜と柔和の限りを尽くし、寛容を示し、愛をもって互いに忍び合い、平和のきずなで結ばれて御霊の一致を熱心に保ちなさい。

からだは一つ、御霊は一つです。あなたがたが召されたとき、召しのもたらした望みが一つであったのと同じです。』新約聖書 エペソ人への手紙4:2~4

私が教会で働き出して8か月。もう何もかも駄目だと思うくらい、前に進めなくなっていた。

神様も信仰も祈りも何もないかのようになっていた。

そんなとき、近くで集会をやっているのを知り、休みの月曜日に行った。

そこの礼拝形式とメッセージの新鮮さに胸打たれた。「ああ、私が求めていた神様はここにいる…。」という感じで、砂漠で水を飲んだように元気になった。

今考えると、とんでもないことを言ったのだなぁと思うが、何も考えていない私は、次の日、牧師に言った。

「私は元気がほしいので、休みのときはこの集会に継続して出ることにしました。」

すると、牧師の顔色が変わった。改革派といわれる生真面目な教会で、聖霊派と言われる教会は異端視扱いである。

牧師は何よりそのようなものが教会に入り込むのを恐れていた。凄く敏感になっていた。

「わかりました。3日待ってください。あなたを伝道師除名にするか、どうか話し合いをします。」

私の中で思わね展開だった。悲しくなかった。3日間、「神様、除名の決定が下りますように。」とこのときばかり、ひたすら、祈った。

神様の導きで、教会で働きだしたのに、自分から辞める訳にいかない。神様に申し訳ないと思っていた。

除名になって、この教会から出られるならそうしてほしいと強く願った。

私の何かが間違っているとしたら、何もかも間違っていたかもしれないが、そう思った。

3日後、除名が下された。秘かに神様に感謝した。

私は12月のある日までとなり、残りの数回の礼拝出席をした。

最後の日、「今日、礼拝後、総会があるので出てください。」と言われたが、出なかった。それも責任的にどうであったかと問われるだろうが、出なかった。

牧師は、私が働きをまっとう出来なかったことを教会の人に謝らせたかったのかもしれない。

このとき、信仰深い婦人たち何人かが、私のために心痛め、祈ってくれていたのを後で知った。

私は逃げるように荷物をまとめ、集会をしていた教会のある土地へと県をまたいで引っ越しした。それが今住んでいる土地になる。

###

神様、あなたがくださった場所で、きちんと働きができずにすみませんでした。

私は出られて嬉しかったですが、教会を悩ませ、たくさんの迷惑を教会の人たちにかけたことを赦してください。

福音書派と聖霊派にもまた、大きな溝があります。

今の福音派がどうなっているかわかりませんが、私たちは、皆、神様にあって一つです。

福音派に通う親しい友人もいますが、共に祈れています。

その溝は何でしょうか。

神様の霊は混乱させる霊ではなく、喜びと導きをもたらすものです。

日本の歴史の中で、何が正しいとか、分派とかいろんな間違いがあったと思いますが、その傷を癒してください。

御霊は一つです。あなたが喜びをもたらし、赦しをもたらし、癒しをもたらす神様の霊にあって、私たちを一つとしてください。

Img_2249s

にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ
にほんブログ村

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2009年6月 8日 (月)

“教会の外のクリスチャンへ”その誇りの信仰

教会の外にいるクリスチャンに慰めのメッセージをいただいたので、書き写します。

『いまは、しばらくの間、さまざまの試練の中で、悲しまなければならないのですが、

信仰の試練は、火を通して精錬されてもなお朽ちていく金よりも尊いのであって、イエス・キリストの現れのときに称賛と栄光と栄誉に至るものであることがわかります。

あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、いま見てはいないけれども信じており、ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどっています。

これは、信仰の結果である、たましいの救いを得ているからです。』新約聖書 第1ペテロの手紙1:6~9

昨日、初めて“せつ”さんという方がコメントをくださいました。教会の外にいるクリスチャンへの神様からのメッセージでした。

私は常々、外の人たちの目には見えにくい深い信仰を感じています。

彼女たちにとっては、神様にあるかないかは、生きるか死ぬかぐらい切迫しています。

その素晴らしい与えられた信仰を素敵な表現をされていて、「ああ、私がずっと伝えたかったことばだ。」と思ったのでコメントをそのまま、写させてもらいます。

「トラブルが起こってしまい、教会に行けなくなってしまっても、なお、神様を愛し続ける方たちの手には、ダイヤモンドのように美しくて強い本物の信仰が握られていますよ。

いつか時が満ちて、その方たちの心が癒える頃、その方たちを必要とするキリストの体である教会に、ふっと導かれる、そんな日がきっと来ます。

神様はその方たちの信仰を誇りに思っておられます。」

アーメンです!!私にもわかります。試練を通され、輝いていく“ダイヤモンドのような本物の信仰”。そして、神様ご自身が、「あなたはわたしの誇りです」と言っておられるのを!

お祈りします。

神様、あなたがすべてをご存じで、私たちのうめきも叫びも聞いておられ、応えてくださる方であることを知っています。

主よ。クリスチャンであるのに、それゆえのような痛みや苦しみがありますが、神様が愛してくださっていることをありがとうございます。

今、現状を見ると、先行き希望がないように思えても、そうでないことをありがとうございます。

私たち外の者の信仰を、ご覧になってくださり誇りに思ってくださっていることをありがとうございます。

私たちの心の傷を癒してください。私たちに赦しを祈る祈りを与えてください。

私たちが赦しを祈るとき、イエス様ご自身のみ業が起こります。

なぜなら、赦しを祈るのは、イエス様の十字架の力によってしか現されないからです。

私たちの傷ついた地に癒しを、そしてキリストの赦しを与えてください。

Img_3322s_2   

にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ
にほんブログ村

| | コメント (8) | トラックバック (0)

2009年6月 7日 (日)

“私の歩んだ教会たち”2‐1・ヘルペス

神学校を卒業した私は、奉仕教会にそのまま就職しましたが、私の弱さゆえと思いますが、砂を噛むような日々でした。

『苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました。

あなたの御口のおしえは、私にとって幾千の金銀にまさるものです。』旧約聖書 詩篇119:71.72

神学校を卒業した私は、そのまま、奉仕教会に就職した。

私の働きは伝道師的な働きのポジションだったと思う。総会で承認を得て、スタートした。

私は神様の働きができるとワクワクしていた。(今は神様の働きは、教会の中がすべてとは思わないが。)

顔合わせ初日、会議室で、牧師、長老たちと共に集った。

すると、とても人のいい長老さんが私ににこやかに言った。

「sebaさん、牧師が白と言ったら白、牧師が黒と言ったら黒で従ってくださいね。」

「エッ……!?私は神様に従うんじゃないの?牧師に従うの?」と心の中で思った。が、初っぱなから反論できる訳でもなく、にこやかな作り笑いをして「ハイ。」と答えた。

あとは、何が話されたか、全く記憶がなく、ボーゼンと家に帰った。

なんだか体中の力が抜けていくのを感じた。

「牧師に従えって…牧師は神様じゃないし…。」

家に着くと、顔の眉のあたりが、やけどをしたような痛みが走る。初めは、鏡を見ても良くわからなかった。

あまりに痛いので、何度も鏡を見ると、眉の横がグジュグジュとなってくる。

次の日、病院に行った。ヘルペス(帯状疱疹)だった。一点の痛みは、そこから、神経の帯に従って頭ぐるりと一周に渡って痛くなった。

体中の免疫が一気になくなって、ヘルペスの菌にやられたのだろう。

私自身の中に、乗り越えていけない何かがあったのだろうが、教会に仕える立場にありながら、教会生活はグレー色だった。

「神様、どこにいますか?私のところに来てください。」そんな祈りをしながら、神様が遠く遠くに感じらる日々だった。

###

神様、念願の教会で働くことになったのに、神様が感じられなくなり、つらかった日々を思い出します。

私があなたに信頼できるための荒野の道のりの始まりでした。

あなたを信頼できず、弱かった私を忍耐して訓練してくださりありがとうございます。

神様に従うのではなく、牧師に従うことを公然と言わせる牧師の信仰を赦します。

牧師にはたくさんの恐れがあったのを今はわかります。

イエス様にあっては、恐れを取り除いて、赦され受け入れられているのですから、イエス様の愛が牧師をおおい、慰めてくださいますようにしてください。

Img_3391s

にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ
にほんブログ村

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年6月 6日 (土)

訪問者の皆さんへ(予告…)

『キリストは、自由を得させるために、私たちを解放してくださいました。

ですから、あなたがたは、しっかり立って、またと奴隷のくびきを負わせられないようにしなさい。』新約聖書 ガラテヤ5:1

いつも、ブログ訪問してくださる皆さん、訪問ありがとうございます。

皆さんの訪問に励まされて、ひたすら書いています。

ちょっと書きすぎの感じもありますが、丁寧に読んでいただき、本当に励まされています。

明日のブログアップの時間を予告したいと思い、今、書いています。…爆弾予告じゃないんだから…予告なんていらないですか(・_・;)

私たちクリスチャンは、クリスチャンにしかわからない拘束感があります。

日曜日の10時半、多くの教会が礼拝スタートします。その時間帯に何か違うことを、おおっぴらにすると、なんか言い知れぬ罪責感とか、どう思われるだろう…という感覚がきます。

「教会は行きたくなければ、無理しなくていい」と人には言いながら、しっかり、どっぷり、私も…しなければならない世界に影響されている自分を見ます。

キリスト教ブログ
は10:30からはアップする人がほとんどいません。礼拝に行っているからかもしれないし、聖域の時間になっているからかもしれません。

明日、私の行っている教会はお休みです。牧師がイスラエルに旅行中のためです。

その次の週は、私が不在のため、やっぱり礼拝自体がお休みです。小さな教会なので、そんな感じです。(牧師は他でも礼拝しているので、忙しそうですが…)

そのクリスチャンの聖域とされている時間に、教会に行かれていない方たちを思い、祈りながら、アップします。

ずっと続けられたら、そうしたいですが。

日曜日、10:30の思いを、訪問してくださる方と分かち合いたく、ご報告しました。

教会に行かないクリスチャンに神様の慰めのメッセージが伝わることを心から祈りつつ…。

Img_3375s

にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ
にほんブログ村

| | コメント (0) | トラックバック (0)

“私の歩んだ教会たち”1‐3・旅立つ

家族のように暖かい教会でしたが、出ることになったいきさつです。

『見よ。兄弟たちが一つになって共に住むことは、なんというしあわせ、なんという楽しさであろう。』旧約聖書 詩篇133:1

私の初めての教会での生活は、交わり、交わり、交わりだった。

私自身が通う教会は10人ちょっとの小さな教会だったが、私はその教派の他の教会の青年会の交流、夕拝、聖書勉強会、そして大きな教会の牧師から個人的に「教会史」の学びを受けたり、教会生活オンリーの日々だった。

青年会の人たちとの交流はいつも楽しく、心の中が喜び跳ねていた。

そんな私であったが、どうしても、神学校で勉強したいという思いがあって、超教派の学校に入った。

属していた教会教派は、女性が祈らない教会だから、ましてや、女性の働きは制限されていた。

神学校を出たら、教会で働きたいと考えた私はその教会を出ることにした。

どんな風に教会員の方々に話しをしたか覚えていないが、暖かく受け止め理解してもらえた。

まず、礼拝の中で、メッセージをさせてもらった。女性は表だって出ないところで、司会とかも、中学生の男の子がやっていた。そんな中で、神学校で聖書を勉強しているのだからと、礼拝メッセージをさせてもらった。

今思うと、たぶん、その教派ではあり得ないようなことで、牧師たちが守る教理よりも、「成長しなさい」という親心が勝ったのだと思う。

出エジプトのマナが降る話しから、みことばを日々食べる大切さをメッセージした。

その教会を去る日には、教会学校の子どもたちからも、教会員の方々からも「頑張ってね」の応援と、お祈りしている置物の人形をもらった。旅に出る娘を暖かく出してくれる家族のようだった。その教会は、伝道師の方はいたが、いちお無牧(牧師がいない)教会だったのも、私にとっては守りだったかもしれない。

その後の教会を出るときは、穏やかではなく、一つ一つが強烈だったので、初めの教会を出たときの思い出は慰められる。

自分なりの訓練や小さな悩みもあったと思うが、“教会生活”のすべてが楽しく、輝いていたときだったかもしれない。

###

神様、初めの教会を通して、子どもたちや、他の地域の教会員や、たくさんの方々と毎日、楽しく過ごさせてくださり、ありがとうございました。

神様の素晴らしさと教会の方々との交流の楽しさと、学びによる感動があった日々でした。

祈りをもって、私を育ててくれた教会員の方々が、祈りをもって出て行くのを暖かく見守ってくださり、ありがとうございました。

そこで、たくさんの人に祈られ、赤ちゃんクリスチャンの私は成長したのだと思います。目に見えないたくさんの尊いお祈りをありがとうございました。

Img_3094s

にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ
にほんブログ村

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年6月 5日 (金)

“私の歩んだ教会たち”1‐1

教会生活のスタートをきり、小さな試練の中、成長させてもらったことを思い出します。

『むちを控える者はその子を憎む者である。

子を愛する者はつとめてこれを懲らしめる。』旧約聖書 箴言13:24

「私は何のために生きているか」…そんな問いが頭の中を巡っていた私は、大学中退して、東京に出てきた。

バイト先のクリスチャンの友人が祈ってくれていた。
孤独と空虚が私をおおい尽くす中、「あなたは神様に近いよ。」と友人が言った。そのとき、私は私を生かしてくださる神様に出会った。

教会に通いだした。

福音派と言われる中でも、もっとも固い教会だった。聖書にないことはしない…ということで、女性は祈らない、礼拝は楽器を使わない教会である。

その教会堂を貸している方Hさんがいた。“がんこオヤジ”で通っている方で怒ると怖そうな方。

私はその教会にすぐ馴染んだ。東京に出てきて、知り合いもいないような私にとって、そのアットホームな教会は、家族のようだった。

住んでいる場所からかなり遠いので、前日に教会堂に泊めてもらった。

教会学校や週報作り(ガリ版すり)をさせてもらった。

ある日、渾身の力作とばかり週報をみんなに配ると、Hさんが言った。

「こんなお粗末なものは、恥ずかしくて外には出せない!」

私は怒りが込み上げた。悔しくて泣いたような気がする。(あまり、昔のことなので忘れた)

そんな小さな試練を繰り返しながらも、ご飯を食べさせてもらったり、泊めてもらったり、奉仕をさせてもらった。

その教会はクリスチャンである前に、みんな常識人だった。常識に欠けている私はその皆さんに養っていただいた。

気がつけば、4年通い続けていた。そして、忘れることの出来ないのは、私が冬に教会に泊まるときには、“がんこオヤジ”のHさんは、大切なお客様を招くように、いつも部屋を暖めてくれていた。居心地良く泊まれるよう、ベッドメーキングに気を使ってくれた。

誰よりも誰よりも、私の人間的な成長を願ってくれた。

あのとき、「こんな週報は…」と言ったのは、自分が悪者になっても、「もっと良いものを作りなさい。」というメッセージだと知った。

Hさんだけは、その後、私が教会を去った後も、我が子を心配するように、「元気か?」と便りをくれた。

私を育ててくれた牧師はいなかったが、教会のお父さんはいたんだなぁと思う。

###

神様、私は一人で、神様との関係の中、癒され成長してきたように思っているふしがありましたが、あなたが、愛情深い方を備えてくださり、養ってくださったことをありがとうございます。

私がクリスチャンとして最初に大切なことを教えられ、この教会で養われました。

神様、ありがとうございます。

Img_2739s

にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ
にほんブログ村

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年6月 4日 (木)

“私の歩んだ教会たち”0‐1

神様に出会う前に、教会に行っていました。正統派かどうかはわからないですが、そこで一度洗礼受けました。(イエス様信じてから、受けなおしました。)

『人は心に計画を持つ。主はその舌に答えをくださる。

人は自分の行いがことごとく純粋だと思う。しかし主は人のたましいの値うちをはかられる。

あなたのしようとすることを主にゆだねよ。そうすれば、あなたの計画はゆるがない。』旧約聖書 箴言16:1.2.3

私は高校生の時、「自分は変わりたい」という願望を強く持っていた。

それは、母は大切な人なはずなのに、ずっと中学から反抗期のようになっていて、いつも口では母を言い負かせてしまい母を泣かせ、自己嫌悪に陥っていたからである。

そんなとき、クラスメートがキリスト教会に行っていて、「sebaさんも行かない?」と誘われた。たぶん、キリスト教は新興宗教と違い、自分を変えられるところかなぁと、かすかな期待があって、行った。

その教会は、異言(神様の霊のことば)で良く祈り、聖書はなぜか文語体…。

『愛は寛容にして、慈悲あり。妬まず、おごらず、高ぶらず、己(おのれ)の利を求めずして、他人の義を思う。おおよそ事忍び……。』

聖書事態難しいのに、さらに文語体で、さらに異言。

何がなんだかサッパリわからなかったが、勧められるままに洗礼を受けた。イエス・キリストの十字架を聞いたか…覚えていない。まして、信じたとか、確信とかは程遠い世界だった。

大学に入り、文語体聖書は片身離さず持っていた。しかし、ご利益的な強調が多い教会に、「私は変わりたい。」という私の願望とはかけ離れていた。教会には行かなくなった。

私の一人求道中の始まりだったかもしれない。

ただ、その文語体聖書を飛ばし読みだが、読んでいた。

孤独をつづる日記には、「神様…」と良く書いていた。祈っていたか、記憶はないが、神様がいる確信はあった。

思い返せば、私が通った教会は5つではなく、6つも7つもあったような気がする。

###

天のお父さん、私はこのころ、まだ神様と出会っていませんでしたが、神様がいることを聞いて信じていました。

私が神様に出会う前から教会というところで、神様をいることを信じさせてくれて、ありがとうございます。

文語体の小難しい聖書でしたが、そこから種を蒔いてくださっていたこと、ありがとうございます。

Img_3240s

にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ
にほんブログ村

にほんブログ村のランキングに参加しています。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年6月 2日 (火)

「ノンクリスチャンの苦悩」ブログの住人さんへ

昨日のブログ、読みました。「これで教会に行くのを最後にします。ブログ最後にします。さようなら。」との内容。私もあなた様のブログは、定期的に見させていただいていたので、何ともいいようのない、気持ちでいました。

「クリスチャンへ。キリスト教に関係ない方々に対しても彼らが幸せになれるように祈ってあげてくださいね。」

というところが、胸に刺さります。

私も今、ちょうど、教会を静かに去って行かれる方々に対する痛みを祈り始めたところなので。

なんだか、私も同じ教会側の弱さと足りなさをもっている者なので、なんか自分に言われたような気がして、胸が痛みます。

クリスチャンと同じで、教会も不完全です。クリスチャン同士で理解しあえないように、教会にいる人と静かに去っていく人にも溝があります。

私は今、教会の中で、去って言った人たちの声も聞かず、知らず、理解せず、楽しくやっているのは、何かイエス様の愛とかけはなれていると感じています。

誰が悪いのでなく、教会側の私が、まず、私の責任の分として、外の人に謝ろうと思っています。

私のために、謝らせてくださいね。

たくさんの配慮が足りなかったこと、赦してくださいね。

私を含め、教会は自分たちに人を合わせようとしてきました。

私を含め、教会は外に出ていった人を追いかけず、しずかに教会で「教会に戻りますように」とお祈りし続けました。

私を含め教会は、自分の信仰を押し付けてきました。

イエス様にある自由とか喜びはそのようなものではありません。

あなた様のブログからアクセスがあり、追記で、私とヨエルさんの記事とブログのアドレスを今日、載せてくれたことを知りました。

教会行くとか、行かないとか…そういうことが大切なのでなく、私を含めた教会が、一人の人に失意を与え、黙って去らせることに、申し訳なく思います。

私は教会に通いながら、25年間教会をさばいてきた者です。そして、今、その教会を祈り始めました。私も25年分の痛みの体験があります。

もし、良かったら、ここでしばし、一緒に交流されませんか。あなた様の失意が慰めと希望になることをお祈りします。

このブログからのお手紙ですみません。

Img_3218s

にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ
にほんブログ村

| | コメント (4) | トラックバック (0)

「傷ついた」と言う言葉に秘められたもの

「傷ついた」と言う言葉にある本質を教えられたときの話しです。

『さばいてはいけません。さばかれないためです。

あなたがさばくとおりに、あなたがたもさばかれ、あなたがたが量(はか)るとおりに、あなたがたも量られるからです。

また、なぜあなたは、兄弟の目のちりに目をつけるが、自分の目の中の梁(はり)には気がつかないのですか。

兄弟に向かって、『あなたの目のちりを取らせてください。』などとどうして言うのですか。見なさい、自分の目には梁があるではありませんか。

偽善者たち。まず自分の目から梁をとりのけなさい。そうすれば、はっきり見えて、兄弟の目からも、ちりを取り除くことができます。』新訳聖書 マタイの福音書7:1~5

4年前、私は小さな教会に属していた。そして、教会が一つとなって、信仰が試されるお祈りをした。私は神様がこの祈りを喜んでいると感じていた。

が、結果、見た目は何も変わらず、サタンの攻撃もあったと思うが、教会は空中分解して閉じられた。

わずかな信徒たちは、深い痛みを持ったまま、離散された民のようになった。

それから、私のあの喧嘩友だちである彼女は、罪責感や恨みや様々なものにずっと苦しんだ。つい半年程前、「私、自分が全部間違っていたとは思わないけど、きついことばで色々言ったことを牧師婦人に謝りたい。」と言った。

私は彼女のいる前で、牧師婦人に電話した。私も交信途絶えて4年ぶりだった。

「彼女が謝りたいと言っているんだけど、この電話で話しをできますか。」

「牧師は傷つきましたねぇ。私は主人の牧師と相談してからでないと、話せるかわかりません。」

「そうですか。それじゃ、どちらでもいいから、私に電話をもらえますか。」と電話を切った。それから相手から電話はなかった。

誰でも弱さを持っているから、私はそのこと(電話がなかったこと)を受け入れられた。しかし、自分の分を謝ろうとした友人は、きつかったかもしれない。

私は牧師婦人の「傷つきましたねぇ」という言葉にハッとさせられた。私自身、何百回と使ってきた言葉だ。

「傷ついた」…それは、「私の悪い分は0%で、あなたの悪い分は100%です。」という宣言なんだと教えられた。

教会がなくなるに至った経緯の中で、誰が悪かったか。私は自分を含めた教会全員の弱さ、責任だったと思っている。

けれど、「あなたが全部悪い」と誰かが思っているなら、その人は自分の責任の分を所有できない。

人の境界線と同じで、自分の責任の分を所有できない人は、いつも人任せなのである。そして人に振り回される法則から抜け出せない。

私自身は「傷ついた」という言葉は安易に使えないと思った。

私は教会を25年もさばいてきた人間である。さばく、批判することも「私が悪いのは0%で、相手が悪いのは100%」ということだと教えられた。

私は今、人のせいにだけして、人に振り回されるより、自分の責任の分を所有し、人に振り回されることなく、神様と歩きたいと思い始めている。

Img_3277s

にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ
にほんブログ村

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年6月 1日 (月)

“カルト化した教会”での痛み

私は友人を通して、カルト化した教会で影響を受けた人は、とても深いダメージを負い、その回復に時間がかかるのを見てきました。

『私の兄弟たち。あなたがたのうちに、真理から迷い出た者がいて、だれかがその人を連れ戻すようなことがあれば、罪人を迷いの道から引き戻す者は、罪人のたましいを死から救い出し、また、多くの罪をおおうのだということを、あなたがたは知っていただきたい。』新約聖書 ヤコブの手紙5:19~20

私は、姉や大切な友人が何人も、カルト化した教会に翻弄され、そこから出て、なお、回復するのに、とても苦労するのを見てきました。

私も教会で苦痛を感じましたが、決してカルト教会ではありませんでした。

ちょっと律法主義的であったり、私の考える神様とは違うかなとは思いましたが、それは、それぞれに与えられた信仰の違い程度のことです。

カルト化した教会に深く関わった人は、人格障害みたいになります。

何が正しくて、何が間違いか、拘束から解かれず、普通の生活の中で判断がつかなくなります。

あまりにもそのコントロールが強いので、何をやっても恐れがきます。神の名前を使って、脅されてきたからです。

“教会の外のクリスチャン”を思うとき、彼女たちは、疲れ果て、“神”とか“信仰”と言うことばに対し、深い傷の故に、拒否反応を示し、もっとも教会から離れたところにいる人たちかもしれません。

私は、カルト化教会の専門ではありませんが、身近にあまりにも多く、そのようなところに関わった人がいたので、いろんなことを考えさせられました。

カルト化していく教会は、不思議と同じ道をたどります。違う人たちなのに、なぜだろうと本当に不思議でした。

それは、カルト化教会の本質が、人間の弱さからきているからだと教えられました。

カルト化しそうな危ないと感じる牧師はいます。けれども、神様の顕著な働きや、カリスマ的な引き付ける力がないと、そこは守られる(カルト化しない、誰もそこに巻き込まれない)のかなと思います。

カルト化の定義は神の名前を利用して、自分の私利私欲に人を使い、その拘束力が生活全般に及ぶということだと思います。

「信仰」という名の虐待…(パスカル・ズィビィー著)という本で、私はいろいろ教えてもらいました。

本から引用します。「信仰という名の虐待とは何か…ある家庭は子どもを無視し、親の必要のために利用します。…同じように、普通の教会は、神様の愛と救いを教える場所です。牧師たちは支え、育てていきます。

家族のように信者たちの心を満たさなくてなりません。

しかし、牧師たちの自らの欲求のみを満足させるために信者たちの心を利用するようになると、これは信仰という名の虐待となります。」

長くなりましたので、カルト化の具体的特徴については、次に書きます。

###

神様、あなたは、私たちを自由にするため、喜びを与えるため、豊かに生きるため、イエス様を送ってくださいました。

それなのに、人間的な弱さのため、神様の名前を利用して、神様に集う人を恐怖の中にコントロールする人がいます。

人の深い罪の性質を赦してください。

その中でなお苦しむ人を助け出してください。

そこから出た人に、イエス様の癒しがおおいますようにしてください。

Img_3191s にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ
にほんブログ村

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2009年5月29日 (金)

教会に聖霊が満ちるまで祈ります

教会に行っていないクリスチャン、痛んでいるクリスチャンの癒しのため、祈ります。

『この川が流れて行く所はどこででも、そこに群がるあらゆる生物は生き、非常に多くの魚がいるようになる。

この水がはいると、そこの水が良くなるからである。

この川がはいる所では、すべてのものが生きる。…

そこの魚は大海のように種類も数も非常に多くなる。…

川のほとり、その両岸には、あらゆる果樹が成長し、その葉も枯れず、実も絶えることがなく、毎月新しい実をつける。

その水が聖所から流れ出ているからである。

その実は食物となり、その葉は薬となる。』旧約聖書 エゼキエル書47章

私は、神様に出会う前はボロボロでした。孤独と虚無感、自己嫌悪と恨みの渦の中にいました。

神様に出会い、喜びながら、なお、痛み、うずく傷に悩みました。

神様は私に自分の罪や弱さを告白し続けるという中、癒し続けてくださいました。

最後の深い傷に至るまで、神様は癒しおおってくれました。

気がつくと、クリスチャンになって、30年になりました。

そんな私に、神様は今度は教会の傷を癒すよう、導いてくださいました。

私がエゼキエル47章のように、赦され、癒され、きよめられたとき、聖霊様に満たし、溢れ、流してくださったように、教会にもそれがなることを信じさせてくれました。

私の神様からの働きはたった一人の癒しになるのかもしれません。

けれども、信仰が与えられ、自分の癒しを通して、教会の癒しの幻を見たので、祈っていくことにします。

教会の罪、弱さのために、神様と、外のクリスチャンに向けて祈ります。

今晩、少し祈ります。私が教会の弱さを祈れるのは、私自身が25年教会の中で、痛み、苦しんだから、そのことを祈れると思います。

“私”で祈りますが、“私”とは、“私を含めた教会”のことです。

「私は長い間、聖書のことばで、人を裁いてきました。そのことを赦してください。

聖書のことばは、本来人を生かすために、神様が与えられたものです。

しかし、私は、その生かすことばをもって、人を縛り、人に新しい規則を作り、新しい罪責感を与えてきました。

神様、イエス様の十字架によって、赦してください。癒してください。きよめてください。

どうぞ、私が語るとき、神様のご性質なる愛と慰め、赦しと受け入れを語れますように。

私は、人には重荷を課しておきながら、自分は教師ですべて立派に努めているかのように振る舞いました。

私たちは皆同じ、赦された者です。

誰か偉くて、誰か偉くない世界は、イエス様にある世界ではありません。

イエス様は、誰かに仕えたかったら、低くなりなさいと言われました。

私の傲慢の罪を赦し、癒してください。

私はどこからそうなったでしょうか。

初めは違っていました。神様に熱心になるうち、初めの愛から離れました。

もう一度、私を初めの愛に戻してください。どこからだったのか、どうすればよいのか教えてください。

私を縛り、捕らえているものから解いてくださり、あなたの愛に憩わせてください。

私を赦し、癒し、きよめて神様の親しい関係に戻してください。

イエス様のお名前によって祈ります。アーメン」

どうぞ、中がきよめられ、外が癒されますように。

Img_2763s

にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ
にほんブログ村

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年5月27日 (水)

“キリストのからだ”の回復のため、私が出来ること

“キリストのからだ”(見えない大きな教会=外のクリスチャンを含めた)の回復のため私は今、何が出来るか考えました。

『男は何かもらえると思って、ふたりに目を注いだ。すると、ペテロは、「金銀は私にはない。しかし、私にあるものを上げよう。ナザレのイエス・キリストの名によって、歩きなさい。」と言って、彼の右手を取って立たせた。

するとたちまち、彼の足とくるぶしが強くなり、おどり上がってまっすぐに立ち、歩きだした。そして歩いたり、はねたりしながら、神を賛美しつつ、ふたりといっしょに宮にはいって行った。

人々はみな、彼が歩きながら、神を賛美しているのを見た。』新約聖書 使徒の働き3:5~9

神様は、今、私にいろいろなことを教えてくれています。

私は、教会の中と外のちょうど、真ん中(教会の中のドア)にいる者です。

長い間、そこにいて教会批判してきましたが、神様によって本当に癒されました。

まだ、教会の中にかろうじている私は、外の人と一番接触したり、話しを聞きやすい者です。

私の喧嘩友達は、外にいて、私に「あなたは変わらなくてはいけない。」と言いました。そして、今、神様は、私が変わることを強く迫っている感じです。

なぜ、私が変わらなくてはいけないか?

私が教会の中と外の“壁”だからかもしれません。

イエス様はすべての人を赦し受け入れてくれますが、多くの教会が人間的に受け入れる枠を作り、その外に人がこぼれていきます。

私自身、教会の中にいて、傍観者のように教会と牧師を批判してきました。

けれども、それは、私が私自身を裁いてきたことと同じかもしれません。

私が変わる…私が外の人を理解し、受け入れることができれば、私は教会のギリギリのドアに立つものなので、その領域は広がるということです。

私はドアに立ちながら、外を見ています。聞こえなかった声を聞けるようになりたいです。

私が教会の中の者として外の人に出来ることはたくさんあります。

教会が何か足りずに、傷つけて、そっと去られた方に、謝ることができます。

痛みを共有し、祈ることができます。

私には、理解しにくいことでも、一緒 に聞く人、共感する人を捜してくることができます。

昨日、「迷える人」さんにettuさんが言ってくれました。

「ここには、是非、悩みだけを持ってきてほしいです。討論、批判、問答はここには似合わないと思いますから…。」と。

25年間、教会批判してきた私は言いたいです。「討論、批判、問答は誰のためにもなりません。何より、自分自身にダメージを与えます。」

悩みや、痛み、悲しみはいくらでもお付き合いしたいです。

それは一緒に祈り、癒されるためです。癒された人は、イエス様の赦しをたくさん受けます。多く、赦された人は、多く愛するのです。

見えないキリストのからだの癒しと回復は、外の人から始まると私は信じています。多く癒され、赦されるからでしょう。

痛みを負う人たちが癒されるために、私は何度でも、自分がしてきた失敗を証します。

すべての人が癒しと回復にいたるイエス・キリストのみ名が語られますように。

Img_2518s

にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ
にほんブログ村

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2009年5月20日 (水)

“教会の外にいるクリスチャンへの約束”

教会の外にいて、痛んでいるクリスチャンのためにお祈りしたいです。

『わたし(神)が彼らを、その地、イスラエルの山々で、一つの国とするとき、ひとりの王が全体の王となる。彼らはもはや2つの国とはならず、もはや決して2つの王国に分かれない。…

わたしのしもべダビデが彼らの王となり、彼ら全体のただひとりの牧者となる。…

わたしは彼らと平和の契約を結ぶ。これはとこしえの契約でとなる。わたしは彼らをかばい、彼らをふやし、わたしの聖所を彼らのうちに永遠に置く。

わたしの住まいは彼らとともにあり、わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。』旧約聖書 エゼキエル書37章

私は25年間、教会に通いながら、教会や牧師を非難し、裁いてきました。

私の信仰生活は、神様から直接の癒しを受けながらも、教会に対しては、苦痛を感じるだけの者でした。

私の日常の一番の悩みは、長い間教会のことでした。

教会は幾つか変わりましたが、よく、教会に行き続けたと思います。それは、ただ神様が私を捕らえてくださっているゆえのあわれみと思います。

4年程前、神様の恵みの中で、関わってきた教会、牧師を赦しました。手放しました。そこに期待することを一切やめることができました。

すると、不思議と、イエス様の十字架の赦しと神様の私への溢れるばかりの思いが注がれました。

目に見えるところから手を引き、ただ神様に信頼する生活が始まりました。

最近、目に見える教会に連なっていないクリスチャンのことをとても考え、祈るようになっています。

イエス様の赦しをいただき、「天のお父さん」と呼ぶ聖霊の救いのあかしをいただいているのに、神様を共に喜ぶ交わりがないため、痛んでいる人たちがたくさんいるのかもしれないと思いました。

4年前、神様がエペソ2章を通して、イエス様の十字架で、教会に集う人たちも教会に集っていない愛されているクリスチャンも、神様はひとつとしてくださるという約束を神様から聞きました。

まだ、教会の外にいるクリスチャンのために、そんなに祈っていないときだったので、良く分からなかったけど、約束の意味は漠然とわかりました。

今日、聖霊様がエゼキエル37章を通して、2つのものをイエス様によって一つにしてくださる約束、そして、神様の臨在(聖所)によって、神様と共にいる幸いの約束を神様から教えられました。

教会の中が、きよめられ、エゼキエル47章のように、聖霊の川が外に溢れますように。

教会の外にいる人たちに癒しが与えられ、神様の臨在の中、神様を崇めていけますように。

『ただわたしのしもべダビデ(イエス・キリスト)が彼らの王となり、彼ら全体のただひとりの牧者となる。』

イエス様によって平和が与えられ、2つのものを一つにし、隔ての壁が打ちこわされますように祈ります。(エペソ2:14)

私ができることは、お祈りすることだけかもしれませんが、癒しと回復と主の臨在を体験できるよう祈ります。

祈りの課題をくだされば、お祈りします。

神様の約束のみことばを信じる方は、共にお祈りしましょう。コメント欄にハンドルネームだけでもくだされば、お祈りします。

共に神様のみわざを祈り、神様がなしてくださる約束と回復を見ていけますように祈ります。

Img_2578s

にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ
にほんブログ村

| | コメント (6) | トラックバック (0)

2009年5月17日 (日)

“いのち”につながっている

イエス様の十字架で、私たちは“いのちにつながっている”ことを思います。

『もしひとりの人の違反により、ひとりによって死が支配するようになったとすれば、なおさらのこと、恵みと義の賜物とを豊かに受けている人々は、ひとりの人、イエス・キリストにより、いのちにあって支配するのです。』新約聖書 ローマ人への手紙5:17

アダムとエバによって、“霊的な死”が入った。

“霊的な死”は、神様とのふさわしい関係が切れること。その結果、人は自分や人や状況の中に縛られるようになる。

イエス様の十字架によって、信じる者には、“霊的ないのち”が与えられた。

“霊的ないのち”とは、神様とつながること、神様との関係がもてること、神様から良いものをいただけること。

“霊的ないのち”をわかりやすく説明しているのが、ヨハネの福音書15章にある“ぶどうの木と枝のたとえ”と思う。

そこでは、神様が農夫で、イエス様がぶどうの木、私たちがそこにつながっている枝だとある。

枝である私たちは、ぶどうの木の養分をもらって生きる。

『あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。』ヨハネ15:7

この聖書のことばは、「神様に従うなら」とか「聖書の言うとおり行うなら」と、私は勘違いしていた。

これは、イエス様につながっているなら…つまり枝となって、ぶどうの木につながっているならという意味と最近知った。

「わたし(イエス)にとどまるなら何でもも求めなさい」と、私は神様から言われ、「え!?神様に喜ばれることを求めるのでなく…何でもですか?」と聞いたことがあった。

最近、その意味がわかってきた。つまり、イエス様につながっていたら、イエス様の願うことを自然に考え、願う。それが、イエス様の木につながる枝ということ。

そして、一人一人違う個性や働きや能力が与えられているので、イエス様色のいのちが流れて、何を願うかは、実は、みんな違うということ。

私はイエス様のいのちを注がれて、私だけが願うことがあり、私だけが結ぶ実があるということ。

これが、イエス様のいのちが自分に流れているということだと思う。

だから、教会みんなで、同じ方法で伝道したり、同じ方法で何かをやるのは、いのちの法則では、ちょっと無理があるかもしれないと最近思うようになった。

イエス様は十字架で、私たちをイエス様のいのちにつなげてくれた。

私は何もできていないようでも、イエス様のいのちは脈々と私の中に流れている。

♯♯♯

私たちは神様に喜ばれているか、喜ばれていないかなど、気になりやすいですが、それは関係なく、すでに、イエス様の十字架によって、いのちを受け継いでいることをありがとうございます。

イエス様が、私たちにいのちの栄養を流して、イエス様の実を結べるようにしてくれていることをありがとうございます。

そのいのちの結果の実をたくさんつけられるよう、私たちを祝福してください。

Img_3060s

にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ
にほんブログ村

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2009年5月16日 (土)

教会の外のクリスチャンへ、ettuさんへ

昨日からずっと思っていることです。私の願いと祈りです。

『女が自分の乳飲み子を忘れようか。自分の胎の子をあわれまないだろうか。たとい、女たちが忘れても、このわたし(神)はあなたを忘れない。

見よ。わたしは手のひらに、あなたを刻(きざ)んだ。』旧約聖書 イザヤ書49:15.16

昨日の日中、ちょうど、キリストの体=教会について、お祈りしていました。

「日本の中の“見えないキリストの体”(イエス様を信じているすべての人)の半分は教会に行っていない人たちでしょうか。

その中で私が出会える人は何百万分の一にも満ちません。

神様、どうかその教会に行っていない半分のクリスチャンを覚えてください。

私は目に見える私が関わった教会を赦し、手放し、期待することをやめました。

そして、教会の外のクリスチャンのために祈ってきました。

けれども、もしかしたら、教会の中こそ、欠乏しているのかもしれません。

日本は、過去の戦争など、事実の罪を悔い改めない国と言われています。日本の上空は、黒い悪霊の雲でおおわれ、神様の働きが妨げられているのかもしれません。

教会にも神様が働きにくいのかもしれません。

私は教会の外にいるクリスチャンに関心がありますが、教会の中がきよめられ、聖霊に満たされたら、そのきよい水が、エゼキエル47章のように、外に流れるのかもしれません。

私自身、赦され、癒され、きよめられ、神様の溢れる愛に包まれました。

教会の外の人たちのために、中を祈っていくことが必要なのかもしれません。

神様が、少しずつ、私の祈りを変えてくださることをありがとうございます。」

そんな祈りをしていました。その夜、今は教会の外にいるというettuさんより、コメントをいただきました。

このブログは始めはノンクリスチャンの友人への神様の紹介と思って書き始めました。

だから、本心の教会への苦痛の体験を書き出したときは、すごくためらいました。ノンクリスチャンの友人が、「教会ってそんなに大変なところなの?」と思われたら…せっかく神様のすばらしさを伝えたいはずなのにと。

でも、書いていくうちに、私が人と分かち合えることは、教会で苦しんだ25年の信仰生活から生み出されたものだったと気がつかされました。

ettuさんのコメントを読んで、「神様、教会の外の人たちのために、私、もっと何かできないでしょうか。」と思っています。

教会の外にいるクリスチャンの苦悩。変わらず、神様に愛されているのに、違うメッセージを受け、失望している人たちに、神様は「あなたをそのままで愛している。恋人の名前を手のひらに刻むように、あなたの名前を刻んでいる。」と、言っています。

私ができること、神様が願っていること…神様に聞いていきます。

ettuさんの傷が完全に癒されるよう、祈ります。そして、一緒に外のクリスチャンの癒しのために祈りましょう。神様が良いことをしてくださることを信じて。

Img_3082s

にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ
にほんブログ村

| | コメント (8) | トラックバック (0)

2009年5月 7日 (木)

“罪の告白”は孤独から交わりに入る

ボンヘッファーは、“罪の告白”は、まず、真実な交わりの道に続くと言っています。

『ですから、あなたがたは、互いのために祈りなさい。いやされるためです。』新約聖書 ヤコブの手紙5:16

ボンヘッファーの「共に生きる生活」より。

「自分の悪を抱いてただひとりでいる者は、全くひとりで孤立している。…彼らは敬虔な者としては交わりを持っているが、敬虔でない罪人としての交わりを持っていない。」

「罪は、その人だけとひとりでいようとする。罪は、その人を交わりから遠ざける。人間が孤独になればなるほど、罪の力はその人の上に力をふるい、破壊的になる。

…罪が自白され、口に出されるまでの、激しい戦いがある。…罪の告白が、キリスト者の兄弟の面前でなされることによって、自己義認の最後のとりでは放棄される。…彼はイエス・キリストならびに、兄弟との交わりの中で、彼のすべての罪が赦されていることを見い出す。」

サタンは「そんなひどいことをするのは、お前だけだ。」と嘘をつく。

そして、人は隠れたところでその罪をひっそり温める。

自分の罪を見るのは怖い、ましてや、誰かに話すなんて、とんでもないと思う。

イエス様は罪は犯さなかったが、私たちの弱さに同情できないお方ではない。(ヘブル4:15)

私たちの試練(誘惑)は、皆経験しているものである。(第1コリント10:13)

そして、何よりも素晴らしいことは、私たちの罪は告白することによって、赦しを受け取れることである。(第1ヨハネ1:9)(私たちの罪はすべて赦されているが、認めることを通して、赦されていることを受け取れる。)

牧師の中には、サタンの激しい攻撃の中、誘惑から転落していく人がいるのは何故か。彼は“敬虔な者”であり続けた(自分の弱さを認めず、告白しない)からと思う。私はいつも思う。たった一人の弱さを祈ってもらう友がいるならば、そこから守られただろうと。

自分が罪に無縁だという“敬虔なクリスチャン”は孤独なのである。

イエス様だけがほめたたえられる教会…それは、自己義認を止め、「私は今日もイエス様に赦されました」と喜んで告白し合う教会だと思う。

次へつづく

###

私たちは、誰かに自分の弱さを打ち明けるのはとても勇気が入ります。

こんなに弱いのは、私だけだ、軽蔑されるだろうと思います。

けれど、もしイエス様への信頼の中、罪を告白し、誰か信頼する人にも分かち合うなら、イエス様に赦されたのを経験します。

私たちに、イエス様への信頼を与え、神様と人に告白し、赦しを受け取っていけますように、お願いします。

そして、神様とも人とも、うわべではない、深い交わりに入れますように。

Img_2552s

にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年4月23日 (木)

「教会の苦悩」の本を読んで…

今、読んでいる本を通して、私が過去に悩んできた様々なことを思い出しています。

『あなたの神、主が、この40年の間、荒野であなたを歩ませられた全行程を覚えていなければならない。

それは、あなたを苦しめて、あなたを試み、あなたがその命令を守るかどうか、あなたの心のうちを知るためであった。

それで主は、あなたを苦しめ、飢えさせて、あなたも知らず、あなたの先祖たちも知らなかったマナを食べさせられた。

それは、人はパンだけで生きるのではない、人は主の口から出るすべてのもので生きる、ということを、あなたにわからせるためであった。』旧約聖書 申命記8:2~3

今、「教会の苦悩」H・ティーリケ著の本を読んでいる。昔、買ったが、あまり記憶にないのは、文体が難しく頭や心にあまり入ってこなかったのかもしれない。

内容は“説教に関する発言”である。まさに、私が長年苦しんでいたことの答えが書かれてある。

今、3分の1しか読んでいないが、そこには、説教者は自分自身が聖書のことばに生かされているか、自分の生活のすべてとなり、それを語っているか、語る相手を知っているか、また、キリスト教用語(例えば罪、救い、恩寵など)を使って、抽象的概念だけが流れていないか、など書かれてある。どれもこれも、私も考えたことのある内容ばかりで、面白い。

教会のメッセージに悩み続けた私にとって“メッセージとは何か”は最大のテーマの一つだった。

かつて「神様からずれている弱い私たちが、正しい、聖である神様のことばを取りつぐのは可能なのか。」と考えた。私がその頃、思っていたことは、「愚かで弱い人間が神様のことばを伝える…それは、“告白”を通してしかあり得ないのではないか。」ということだった。

「神様はあなたたちにこう言われます。」と言うときに、メッセンジャーは聞いたことを伝える者ではあるが、同時に神様から言われる聴衆の立場であるということ。

また、聴衆の代表として、語られた者であり、その弱さと足りなさを告白しつつ、分かち合う者であること。

“メッセージとは何か”そんなことを考えて悩み続けた人はあまりいないかもしれない。

が、申命記のこのことばは私たちに真実である。私たちは苦しみの中において『人はパンだけで生きるのではない、人は主の口から出るすべてのもので生きる』ということを神様から教えていただく。

私にとって、教会のメッセージの苦痛が、直接神様のことばを食べる祝福へと変えられた。神様の深い計らいに感謝するばかりである。

Img_2291s

にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年4月21日 (火)

ヨナタンとダビデの友情

「友はいいものだ」と改めて思った今日、ダビデとヨナタンの友情を共に分かち合いたいと思いました。

『ヨナタンは自分と同じほどにダビデを愛したので、ダビデと契約を結んだ。

ヨナタンは着ていた上着を脱いで、それをダビデに与え、自分のよろいかぶと、さらに剣、弓、帯までも彼に与えた。』旧約聖書 第1サムエル記18:3.4

遠方より友来る。一年に一回位のペースで、遠くから友人が会いに来てくれる。

私も一年分の自分の足りなさとそこに働いてくれた神様の素晴らしを話しまくる。

私よりちょっと年上の友人は、私にしてくれた神様の良き出来事を自分のことのように喜んでくれる。

20年前に、教会が私たちの前から無くなったときの共通体験を共に思い出す。私たちの結論は、人はとにかく弱く、いろんなことに誘惑される存在で、自分たちだって気をつけないと…と話しをする。

あの後、別々になってから、彼女は属していた教会を3回ほど移った。出るたびに傷と痛みを負い、いまだに癒えていないと言っていた。

あっという間に時間が過ぎた。「一日あっても足りないね。」と時が立つのを惜しんでくれた。密度の濃い時を過ごして別れた。

聖書では、ダビデとヨナタンの友情が有名だ。

ヨナタンはダビデと出会い、友情を誓い、その生涯、その友情を貫いた。

ヨナタンの父サウル王がダビデの命を狙っていたときも、ダビデを支えた。そして、ヨナタンが本来、王位継承者である状況で「ダビデよ。あなたこそ、イスラエルの王となり、私はあなたの次に立つ者です。」と語る。(1サムエル23:17)

ヨナタンが戦場で殺されたときはダビデは悲しみ、哀歌“弓の歌”を作った。(ヨナタンの弓からとった題名とされる)

『…ああ、勇士は戦いのさなかに倒れる。ヨナタンはおまえの高き所で殺された。

あなたのために私は悲しむ。私の兄弟ヨナタンよ。

あなたは私を大いに喜ばせ、あなたの私への愛は、女の愛にまさって、すばらしかった。

ああ、勇士たちは倒れた。戦いの器(うつわ)はうせた。」(第2サムエル1:25~27

イスラエルの国の王位がサウルからダビデに移っていく情勢の中、美しい友情を貫いた2人。神様が出会わせ、結びあわせてくださった。

私たちは今、イエス様が「わたしがあなたの友です。」と言ってくださる。(ヨハネの福音書15:14)

私の喜びも悲しみも知り、共に寄り添ってくださるイエス様と親しくある日々でありたい。

Img_2309s

にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2009年4月20日 (月)

“十戒”の恵み・5(共に礼拝する日を待ち望む)

私が日頃思っている、祈っている分かち合いです。

『安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。

6日間、働いて、あなたのすべての仕事をしなければならない。

しかし、7日目は、あなたの神、主の安息である。あなたはどんな仕事もしてはならない。―あなたも、あなたの息子、娘、それにあなたの男奴隷や女奴隷、家畜、また、あなたの町囲みの中にいる在留異国人も。―

それは主が6日のうちに、天と地と海、またそれらの中にいるすべてのものを造り、7日目に休まれたからである。それゆえ、主は安息日を祝福し、これを聖なるものと宣言された。』旧約聖書 出エジプト記20:8~11

旧約の安息日は、新約では「主の日」・日曜日の礼拝になる。

イスラエルの民にとって安息日を覚えるのは、6日で創造され1日休まれた創造主を覚えるため、また、エジプトから救い出された神様を覚えるため(申命記5:15)だった。

今私たちは、聖日に仕事を休んで、十字架にかかられ、復活されたイエス様を覚える。

時間もまた、神様から与えられたものとし、感謝する。

それでは「日曜日には教会に行って礼拝しよう。」ということになる。が、私の大切な友人の何人かは痛みや苦しみの中、教会に行っていないので、安易にそれを言えない。

イエス様はすべての人のために死なれ、その赦しをただで受けよと招いておられる。

が、教会には何か壁を感じる。その壁が障害となって教会にこれない人がいる。

教会の中で楽しくやっている人にはわからないかもしれない。

主の日を教会で、神様の家族で守る…神様を信じた人に特別に与えられた祝福と特権と思う。

が、キリストの体の半分は教会に行けないクリスチャンである。私は、その半分を神様は覚えてくださってる、特別な計画を立ててくださっていると神様から教えられ確信している。

エペソ2章にあるように、キリストにあって、隔ての壁が打ち壊されて、一つのからだとして、神様に仕える日がくることを心から祈っている。

そのとき、ただキリストによって、私たちは誰もが共に主の日を楽しみ、喜び礼拝する。

Img_2154s

にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年4月10日 (金)

十字架以外に誇りなし

「イエス様の十字架だけが私の誇りです。」と言うことが出来る素晴らしさをしみじみと思いました。

『しかし私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはなりません。

この十字架によって、世界は私に対して十字架につけられ、私も世界に対して十字架に十字架につけられたのです。

割礼を受けているか受けていないかは、大事なことではありません。大事なのは新しい創造です。』新約聖書 ガラテヤ人への手紙6:14.15

私が神様に出会ったのは、すべてのどん底…と思えるような中だった。

大学を中退し、東京に出て来て、グラフィックデザイン関係の専門学校に通った。が、続かなかった。比重を占めていたそば屋のバイトも危うくなり、心は孤独と虚無感でおおわれていた。

そんな弱さと挫折と生きる気力の無い中で、神様に出会った。

イエス様の十字架とか、聖書のことはほとんど理解していなかったが、「私を生かしてくださる方がいる。」と実感したときだった。そして、その瞬間からまったく今まで考えたこともない世界に入った感じだった。

それは、挫折ばかりする私だったが、努力や能力や意志の強さとは無縁の“生かされる世界”だった。弱さや足りなさがあってもそのままで、内側から湧き出る喜びのある世界だった。

私は嬉しくて、嬉しくて、たくさんの友人たちに「神様は私たちを愛しているのよ!」と部厚い手紙を書いた。友人たちからは「大丈夫?」と言われた。

私の苦しみは教会生活が始まって4年位してから始まった。初めはただ奉仕が楽しくって仕方なかったのに、教会で語られるメッセージが苦痛で仕方なくなった。

聖書のことが語られているみたいだが、私には親から言われるお小言と同じように聞こえた。

教会はいくつか変わったが、そのたびにメッセージがつらく、砂をかむような思いで聞いた。

そして、大事な恵みの神様と違うことを話されていることが赦せない…というところに至った。それでも、何故か教会の礼拝に行き続けた。私の教会生活で、一貫した悩みが、教会のメッセージだったのだ。

今は、神様はそれぞれに与えてくださってる役割があると思えるようになった。私が人を神のように期待した罪も示され、悔い改めた。人ではなく、神様に期待することが出来るようになった。

私はあの苦しみが、今、ブログに“神様の恵み”を書きたいと駆り立てられる思いになっているのに気がついた。あの苦しみは、本当に私にはなくてはならないものだったと思う。

「私には、イエス様の十字架以外に誇りとするものはない」この告白は、私の努力や能力や意志の強さや立派な行いはいっさい関係がない。私は私の弱さを赦してくれたイエス様の愛によって支えられているということだ。

18節の“割礼”は私にとって何か。「“努力や意志の強さによる良い行い”をしているかどうかは関係ありません。私にとって大事なのは、“イエス様によってもたらされた神様との新しい関係”です。」となるのだなぁと思った。

Img_2280s

にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年4月 4日 (土)

「たまにはステーキが食べたい」!?

神様のことばに養われる恵みを思いました。

『わたし(イエス)はいのちのパンです。

あなたがたの先祖は荒野でマナを食べましたが、死にました。

しかし、これは天から下って来たパンで、それを食べると死ぬことがないのです。』新約聖書 ヨハネの福音書6:48~50

「たまにはステーキも食べたい!」お肉のことではない。

30年前、クリスチャンになったばかりの頃、教会の方が言った言葉を鮮明に思い出した。

その頃、教会にはアメリカで神学を学んだ若い牧師が来た。私はスポンジに水を吸い込むように聖書の話しのすべてを新鮮な思いで聞き入っていた。

が、そこにいる年配の方々には、何か物足りなかったのかもしれない。長年、他教会で牧会している、その教会とゆかりの深い方のメッセージも聞きたいということの例えとして言った発言だった。

今、考えると、なんか若い牧師に失礼な気もするが、その方たちの正直な気持ちもわかる気もする。

私も若いときは、いろんな有名なメッセンジャーが来る聖会に良く出かけた。

エジプトを脱出したイスラエルの民は、一ヶ月程旅をする中、度重なる困難に疲労を覚えた。それに加え食糧難と、行き先がわからない不安に「あー、エジプトで肉を食って、パンを食べてたときは良かったなぁ。」とつぶやき出した。そんな民に、神様は「マナ」を与えた。

「マナ」は天から降ってくるうろこのような、白い食べ物である。イスラエルの民が「これは何だろう。」から「なん?」と呼ばれるようになったと聞いたことがある。

一日分ずつ集めて食べる…食いだめはできない私たちの生活に似ている。

神様はイスラエルの民に、日ごとに生きていくための「マナ」を天から降らせ、神様こそが養いを与える神であることを教えられた。

「たまにはステーキも食べたい。」立派な素晴らしいメッセージもいいが、日々3食のご飯のように、私たちを支えてくれるのは、神様がくださる小さな日々の聖書のことばかなぁとしみじみ思った。

神様、あなたがイスラエルの民に、不思議な「マナ」を日ごとに降らせ、食べさせてくれたように、今、私たちに神様のことばを日々与えてくださることをありがとうございます。

それは、私たちが、ご飯だけで生きるのではなく、霊的な糧をいただいて生きていく存在だということを教えてくれます。

この心の糧になる神様の真実なことばをありがとうございます。

そして、私たちは、あなたが私たちを
養ってくださる恵みに満ちた神様であることを知ることができますからありがとうございます。

私たちが日ごとに神様の素晴らしいことばを味わうようにしてください。

Img_2282s

にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2009年3月24日 (火)

15%の相性

集団の中で、少数派になってしまうのは、とても苦痛を伴います。

『主(神)よ。私をいやしてください。私の骨は恐れおののいています。…

帰ってきてください。主よ。私のたましいを助け出してください。あなたの恵みのゆえに、私を助け出してください。…

私は私の嘆きで疲れ果て、私の涙で、夜ごとに私の寝床を漂(ただよ)わせ、私のふしどを押し流します。

私の目は、いらだちで衰え、私のすべての敵のために弱りました。』旧約聖書 詩篇6:2~7

友人が言った。「私は教会に合う自分が15%位かなぁ。教会に行かなくなったら、楽になった。教会に行く前の好きな自分を取り戻しつつあるよ。」

「そうかぁ。それじゃ、私は教会に合う自分は30%位なのかなぁ。」と私は言った。

一つの良いとされる集団の中にいて、みんなが楽しく喜んでいるのに、もし、自分だけが、もしくは自分を含めた少数が喜べない、楽しめない状況に居すわると、何か自分が間違っているような気がする。自分はダメなような気になる。

日本人は集団の中で、画一化とまではいかなくとも、均一性を求められているような気がする。

私もお母さん同士の井戸端会議は苦手だが、「そうだよねぇ。」と合わせる、和と協調がその中心を支え、そこで、違った意見を言おうものなら、雰囲気台無しと煙たがられる。

日本の教会がそうかは知らないが、日本文化の麗しい和と協調性はたぶんに入っていると思う。

神様はバラエティーに富んだ方である。一人一人違った個性が与えられているように違った信仰が与えられている。

お互いが違いを認め受け入れ合える、赦しの教会は理想かなと思う。が、実際は、聖書に忠実な人は良いクリスチャン、教会に行かない人は駄目なクリスチャンとなんかランク付けされているように思うのは、思い過ごしなのだろうか。

私は信仰生活27年、一番大切にしていたことだからだと思うが教会のことで悩み続けた。結果、5回教会を変わった。

今は過去のすべては私にとって意味があったと受け入れている。その時、その時、神様から違うレッスンを受けた気がする。

そして、そんなに教会のことで悩んだのに、神様への信頼は増していくばかりだ。

これは神様のあわれみにほかならない。私が神様を選んだのではなく、神様が私を選び、私の手を離さずにいてくれたからだ。

目に見えないキリストの体の半分は、教会に来ていないクリスチャンだと思う。

感性や信仰が、少数派ゆえに、教会は合わない、私は教会生活は出来ないと静かに教会を去っていく人たちもいるかもしれない。

“イエスを主”という霊が与えられているなら、神様が選ばれ、今もとらえられている人である。神様に愛され、計画の中に生かされている。

神様は教会の外にいるクリスチャンを知り、愛してくださっている。

神様、目に見える教会の外にいるクリスチャンの方々を思います。あなたはその方々の苦しみをご存知です。神様の慰めとクリスチャンとしての希望を与えてください。

Img_2122s

にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年3月 8日 (日)

教会への苦痛

ヨセフのこの聖書のことばは、私への約束のことばで、長い月日をかけてその通りになりました。イザヤ58:10です。

『彼(ヨセフ)のことばがそのとおりになる時まで、主(神)のことばは彼をためした。

王は人をやってヨセフを解放し、国々の民の支配者が、彼を自由にした。』旧約聖書 詩篇105:19.20

私は幾つかの事情も重なり、両親から「そのままで良い」というメッセージをもらわずに育った。父の病気発症と、母との価値観の違いによった。そして、20歳頃には全自己否定の人間になっていた。

母や父からの傷の影響は長く尾をひいたが、父、母の死を通して両親は赦せた。手放した。赦せたのでなく、神様の不思議の中で父、母を受け入れられていた。今から20年近く前である。

私の精神的な苦痛との戦いはその後も続いた。それは教会や牧師のメッセージの中で、私はこのままでよいと感じられない苦痛だった。

私は神様が恵みに満ちたあわれみ深い方であるのは、たぶん、神様に出会った日から感じていた。十字架も聖書も理屈も神学も知らなかったが、体験した。そして、ことあるごとに恵みを体験した。

その体験の神様と教会で語られる神様は、私にとって全く違っていた。

両親が赦せて、手放したように、教会を赦し手放したときに、私の中で恵みの体験と恵みの聖書のことばが一つとなり始めた。

今、思うに、教会や牧師のメッセージが悪かったのでなく、私は今の教会では養われにくい体質の子どもだったのだと思う。

私は自分の両親に影響され傷を受け、様々な癒しを必要としたが、同じ環境で両親に育てられた姉は私のような顕著な傷はなかった。姉には両親を赦すなんて発想はなく、父、母を大切にし、天国に見送った。

同じイエス様の十字架に赦された神様の子どももまた、いろんな体質の子どもがいて、今の教会では育ちにくい子どももいるのだと思う。

なぜ、私は教会にかろうじて居るのか?…教会の外にいるクリスチャンの代弁者にちょっとはなれるからかもしれないと今日思った。

誰もが楽しく、苦痛を感じてない環境で、同じ環境なのに、一人苦痛を感じたら、感じた自分がおかしい、変、間違いと思えてしまう。自分も周りも…。

そのような人のために言わせてもらうなら、神様は「苦痛を感じてもかまわないよ。みんな、感性も違うし、わたしはあなたの気持ちをよく知ってるよ。そのままでいいんだよ。」と言っている。今の私が神様からそう言われている。

そのままで受け入れてくれる神様の中に入る方法は、人や環境や神様以外に期待しているものを手放すことしかないと思う。

神様、私たちは握っているものが何かわからない時があります。また、自分の力では手放すことはできません。神様、あなたが、私を愛し、安心の中に入れたいということが信じられますように。あなたの安心の中に、手放し、神様の自由の中にいれてください。神様の与えてくださる自由は誰にもおびやかされないからです。

Img_2027s

にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2009年2月25日 (水)

養う牧者の約束

この聖書で約束されたことが、どうしたらそのとおりになるのか、悩んだ日々を思い出しました。

『わたし(神)の羊はかすめ奪われ、牧者(ぼくしゃ)がいないため、あらゆる野の獣のえじきとなっている。それなのに、わたしの牧者たちは、わたしの羊を捜し求めず、かえって牧者たちは自分を養い、わたしの羊を養わない。…

まことに神である主はこう仰せられる。見よ。わたしは自分でわたしの羊を捜し出し、これの世話をする。

…わたしはわたしの羊を、雲と暗やみの日に散らされたすべての所から救い出して、世話をする。』旧約聖書 エゼキエル書34:8~

数年前、私は属している教会で悩んでいた。この教会は本当に牧会されているのだろうか。養われているのだろうか。牧会について、深く考えるときだった。

そんな中で、このエゼキエル34章を何度も開き、神様の牧会と養いがあるように祈った。

この聖書のことばは私の中にどのようになるのかわからなかった。

その教会は結局閉じられた。今、思うと、牧師の問題は大きかったが、共同体として、自分たちも足りなかったかもしれない。

その教会が閉じられる少し前、私は牧師を赦すことが出来て、牧師に期待することをやめ、牧師に要求することをやめ、牧師を手放した。

それが、神様からさらに受け入れられていることを感じられる信仰の転機となった。

エゼキエル34章の約束があるのに、どうしてこのことが実現しないか悩んでいた日々を思い出した。

私の中でこの聖書のことばは実現した。それは皮肉にも現実の牧師に期待しなくなる、神様だけに期待するという方法をもってだった。

ここで語られているメッセージがそういうことなのかどうかはわからないが、私の中で、遠い約束が実現したときだった。

『わたし(神)は、彼らを牧するひとりの牧者、わたしのしもべダビデを起こす。彼は彼らを養い、彼らの牧者となる。』エゼキエル34:23

神様、神様がイエス様を与え、わたしたちを牧する牧者となってくださっていることをありがとうございます。聖書に約束されていることを神様は与えてくださいますが、私たちの側で何かを手放さないと受け取れないということもあるのかもしれません。ますます神様とイエス様の養いと恵みを受けとれますように。

Img_1932s

にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年1月29日 (木)

不毛の土地の種蒔(たねま)き

種を蒔いてもどうにもならない、そんな土地をキリストは耕してくれました。

『イエスは多くのことを、彼らにたとえで話して聞かされた。

「種(たね)を蒔(ま)く人が種まきに出かけた。

蒔いているとき、道ばたに落ちた種があった。すると鳥が来て食べてしまった。

また、別の種が土の薄い岩地に落ちた。土が深くなかったので、すぐに芽を出した。

しかし、日が上ると、焼けて、根がないために枯れてしまった。

また、別の種はいばらの中に落ちたが、いばらが伸びて、ふさいでしまった。

別の種は良い地に落ちて、あるものは百倍、あるものは60倍、あるものは30倍の実を結んだ。…」』新約聖書 マタイの福音書13:3~9

イエス様が話された天の御国(信仰の世界)を説明する種蒔きのたとえ。種は神様のことば(聖書のことば)。畑は私たちの心。

せっかく、神様のことばという種が蒔かれても、聞く者の心が良い地でなければ、神様のことばの種は成長し、大木になって実を結ぶには至らないという話し。

かつて、私も聖書を読んでも、読んでも心にとまらず、悟らず、根を張らない者だった。

私はどのタイプだったかなと考えると、すべてに当てはまったかもしれない。

母からの傷で、「人に命令されると怒りが湧く」タイプだった。

小さなことにも、大きなことにも不忠実な者だった。

牧師に養われた経験がないが、あまりにも素直ではない、もてあます、ならずものだったのかもしれない。

この3種類の心の畑はどうしたらいいのか。鳥がこないよう種をカバーするか、岩地はドリルで穴を開けるか、いばらは一生懸命むしると良いか…農作業をしたことのない私だが、どれも大変そうだ。無理かも知れない。そんな土地は労力の無駄で見捨てたほうがいいかもしれない。

でも、私がその不毛の土地、手付かずの見捨てられた、種が育つには不可能な土地だったんだ。

そんな土地をケアし、岩地を砕き、いばらをむしり、たくさんの石ころをとってくれたのはイエス様の十字架の愛と赦しと力によった。

目の前にいる人は…3番目の土地の人か、残念……なんてよく思った。

不毛の土地チェックに使っていた箇所にキリストの光があたった瞬間だった。

神様、あなたが不可能なくらい固い岩だらけの私の心の土地を耕してくださったことを教えられました。こんな私が耕されたのだから、どんな畑にも不可能はないのですね。キリストの十字架で、人々の心を耕して、神様のことばの種を成長させてください。

Img_1729s

にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年1月28日 (水)

賜物投影からの脱出

長い年月をかけ、私は訓練され、自分に与えられた賜物として、自分がすることを教えられました。

『私たちは皆、キリストの体の一部分であって、それぞれに優れた形と驚くべき機能が与えられているのですから、ためらうことなく、ありのままの自分であり続けなさい。』新約聖書 ローマ人への手紙12:5(Msg訳)

神様は一番大切にしているものを用いて、私たちを成長させ、私たちを整えてくださるのかもしれない。

私は信仰もって、28年位だが、自分の心の傷に苦労し、神様に癒されてきた。そして、私にとって、いつもその時々の教会の牧師のメッセージに葛藤してきた。

「神様は愛の方なのに、なぜ、メッセージでは“〜する”世界ばかり語られるのか?」私にとって、教会のメッセージを聞くことは苦痛を伴い、疲れた。

3年前、牧師たちを許したとき、世界が変わった。あんなに求めていたものを、一切期待しなくなった。私が期待して求めるのは神様だけと教えられた。

そして、神様から受け入れられていることをたっぷり感じ、その中で、神様が私にたくさんの賜物(神から与えられた能力)が与えられ、計画がある、神様から期待されていることを受け取れた。

最近、私は教会の扉に立っていることを教えられた。すると、今までノンクリスチャンの世界では生き生きと人と関われるのに、教会に馴染まない自分が不思議だったが、それも賜物のゆえと思えるようになった。

リック・ウォレンの「5つの目的」で、「賜物の誘惑は、妬みか賜物投影だ。」とあった。私は知らないうちに、賜物投影(自分の賜物として与えられていることを他の人もするべきだと思う事)をしていたのかもしれない。

教会の中にいる人にも神様の恵みが語られるのは大切だが、外の方にいる人にはもっと必要だ。私が必要なことを語ればいいのだ…と落ち着いた。

私の中の長年の教会での葛藤と苦しみをも、神様は用いてくださり、今の自分になったこと、苦しみを与えてくれたことに意味があったと、今はその過去に感謝することができる。

家庭で、仕事場で、人間関係で、健康で…様々なことで人は試される。が、もしかしたら、その中でその人の賜物が磨かれ、訓練されているのかもしれない。

賜物について、リック・ウォレンの素晴らしいコメントを載せておく。

「神は目的をもってあなたを造られ、あなたが与えられたものを最大限に活用していくことを期待しておられます。…人は、自分でも気づいていない数十もの隠れた能力や賜物を持っているものです。その多くが単に経験がないために埋もれたままになっているのです。…経験を重ねていけば、最終的に自分は何が得意なのか分かるようになるのです。」(「5つの目的」より)

Img_1424s

にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年12月20日 (土)

カルト化教会からの脱出

姉はバラムの記事から、カルト化した教会を出ました。

『しかし、バラムは自分の罪をとがめられました。ものを言うことのないロバが、人間の声でものを言い、この預言者の気違いざたをはばんだのです。』新約聖書 第2ペテロの手紙2:16

「姉ちゃん、姉ちゃんが属している教会の悪い噂を聞くよ。もしかして、教会がカルト化してるかもよ。出たほうがいいかもよ。」「ふうん、わかった。祈って考える。」

4年前、私の友人がその教会の中心地を出てからだった。その教会のカルト化がかなり進んでいるのをはっきり私も知った。姉もその教会の地方に属していた。と言っても、教会員は一人。姉は県庁のある大きな街に毎日曜日、車で一時間出かけ、借りた場所にキーボードを運んで、一人で4年間テープ礼拝をし続けた。たまに近隣の牧師がサポートする。

姉が一人で4年間も礼拝を守る…これは普通の牧師であっても難しいようなことと思う…だから、常々凄いなぁと思ってはいた。

その後、姉は結核になり、隔離病棟に移された。そのとき、姉は電話で私に話した。

「旧約聖書にロバが口をきく記事があったじゃない。あの箇所どこだっけ?神様からあそこから教えられてさぁ。私、病気にもなったし、神様がそこに行くなって言ってる感じだし、近隣から来た牧師にも手紙書いて、もう属するのを辞めるよ。」と言った。そして、丁寧にその牧師にお礼の手紙を書いて、そこから出た。

そのあと、様々な情報で、その教会がカルトだったことを姉もはっきり知り、本、テープなど、関係していたものをすべて捨てた。

人との交流が密でなかったので、あまり後遺症はなかった。が、信じていた人たちが、神様でない、人間の権威に従っていたのはきっと、ショックだったに違いない。

姉はその前は自分の住む町の教会に、田舎に帰ってからずっと属し、その教会が牧師婦人の預言からカルト化していく経験をした。

そして、今回もまた…。

姉の中でカルトという言葉は知らなかった。「何、それ…オカルト?」と聞いてきたくらいだし。自分の町の教会の牧師婦人からは信仰の基礎を訓練されたと感謝していた。

さすが、神様ではく人間のコントロールが入るカルト化を二回も経験して、姉は「信仰の虐待」などの本を読むようになった。

4年起しに姉は町の愛した教会のカルト化について客観的に勉強し、知った。とても辛かったと思うが人間の弱さを学び、なお神様が素晴らしい方であることを知ったのだと思う。

神様、人間の弱さを許してください。今なお、カルト化した教会で、本当の福音、神様の恵みではなく、人間の脅しや恐れにコントロールされる人たちが、そこから脱出して、神様の安心の中に憩えますように。

Img_1412s

にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年12月16日 (火)

「あんたは落ちていく」と預言?されて…

神様が選んだ…このことがどんなに確かなことかを思います。

『神はモーセに、「わたしは自分のあわれむ者をあわれみ、自分のいつくしむ者をいつくしむ。」と言われました。したがって、事は人間の願いや努力によるのではなく、あわれんでくださる神によるのです。』新約聖書 ローマ人への手紙9:15.16

私が神様に出会ってクリスチャンに成り立ての頃、その事が嬉しくて嬉しくて、どうしようもなかった。孤独と空虚がイッペンに吹き飛んで、神様の愛情だけが感じられる世界に入れたのだから。

ところが、教会で年配の方が、そんな私を見て、こんなことを言った。

「僕はいろんな人たちを見てきたけど、一時感情が高まって興奮して喜ぶような人は、時間がたつと、みんな神様から離れていった。AくんもBくんもそうだった。」

その頃の私は喜びが溢れて抑えられず、ただ喜ぶだけだったので、クリスチャンとしての知識もなく、先のことはさっぱりわからなかった。だから、その方の助言?はあたかも預言かのように私の前に立ちふさがった。

「えー!それじゃ、私は今こんなに喜んでいるけれど、信仰から落ちていっちゃうのぉ。どうしたらいいの?」と不安に襲われた。

ある牧師に相談した。「初めて神様に会ったのだから、喜んで当然ですよ。大丈夫ですよ。」と子どもをさとすように優しく話してくれた。

何故、先輩クリスチャンが「あなたは今の状態じゃ、信仰から離れる。」と預言?してくれたのか。私を心配してか、感情的な私が不愉快だったのか、彼の統計学を説明しただけか、それは定かでない。が、神様はバラエティーに富んでいる方だから、信仰の表現もいろいろあっていいと今は思う。

先輩から預言?をいただき、私はその預言?に反してそれから20年余り、何があっても神様から離れることなく、信仰からこぼれることなく今に至っている。

若い頃は、神様のこともよくわからず、神様に従っていけるのか、いけないのかわからない…いちかばちかのような感じだった。

しかし、神様は変わらなかった。私は自分の努力や願いで信仰を与えてもらった訳ではない。神様が選んでくれ、あわれんでくれ、信仰が与えられたのだ。

もし、信仰が与えられる理由がちょっとでも私の側にあったら、預言?のとおり、あっという間に神様から離れて転落していっていただろう。しかし、私ではなく、ただ選んだ神様の主権によって、そのあわれみの大きさによって、神様の子どとして私は立っている。ただ、イエス・キリストの十字架の赦しの完全さの故に、私は何があっても赦され続けている。

神様、努力することと意志の強さとは全く縁がない私、この世の中で無に等しい私を選び、あわれみの器として、神様を表してくださってることをありがとうございます。ただ、ただ、あなたのお名前をほめたたえます。

Img_0925s

にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年11月28日 (金)

自己像のダメージからの回復

私たちは自分をどんな風に見ているでしょうか。

『わたし(神)の目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。』旧約聖書 イザヤ書43:4

みんな自己像を持っている。それをセルフイメージと言うが、それが幼少時代周りの人、特に両親によって傷つけられ、ダメージを受け、低い人がいる。

私自身、母親と価値観が違い、そこでぶつかっていたので、「お前はお前であるな」というメッセージを受け取り、100%自己否定の人間だった。

神様にあってから、「あなたの足りないところ、弱いところ、不完全なところは十字架によって全部赦すよ。だからあなたは足りない、弱いそのままでいいんだよ。」と言われ続け、セルフイメージ(自己像)は高くなった。

どこかの本に書いてあった。「不完全な親の目で自分を見る、それは偽りであり、間違った見方である。完全な神様からの目で見た自分が正しい本来の姿である。」

してみると、聖書では「神様の目から見たら、あなたは高価で尊い存在だよ。」と言っている。これこそ、私たちの真実のセルフイメージ(自己像)である。

私も100%自己否定、自己嫌悪が占めていて、聖書のことばが真実とわかっていても、ダメージを受けた感情のほうが優先された。

今、私は足りない自分も含めて100%自分が好きだし、受け入れているし、肯定感に満ちている。惨め、恥ずかしい、隠したい、そんな感情はなくなった。長年かけて、親の目で自分を見る習慣から、神様の目で自分を見る習慣に変わった。

親を赦すと言うことは、虐待を受けてきた人たちには、律法の何者でもないらしく、そのアプローチはタブーらしい。が、私の経験では、親の見方、メッセージを切り離す、手放すために親を赦すという必要性があった。

赦すのは、人間業では不可能で、神業と信じているが、そのことが苦しむ人々に起こるよう祈る。

聖書のことばに影響され、支配されていくと、頭の中で繰り返されていた親のメッセージテープは神様のメッセージテープに変えられる。

神様、神様が見るように、自分を見れるようにしてください。自分に対する間違ったメッセージを主のお名前で切り離してください。今まで親との関係の中に生きていたものを、神様との関係に生かしてください。求め祈ります。

Img_1214s

にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年11月20日 (木)

私の教会遍歴 2

残り3つの私の属した教会生活を書きます。

『苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました。』旧約聖書 詩篇119:71

信仰生活の中で、とても大切と思う教会でいつも悩んできた。が、神様は一番大切にしているもので、人を試し、訓練し、成長させてくれるのかもしれない。

3つ目に私が属した教会は、先の記事で書いた、集会にいき衝撃をうけた牧師の教会だった。教会=仕事だった私は、その教会のある県へと引っ越しした。それが今の土地になる。

今まで、讃美歌、聖歌だったのが、ワーシップソングでの讚美になった。たとえるなら、演歌調で表現していたのが、ポップス風になったくらいに違う。歌ってる内容は一緒だが、歌い方が違う。

礼拝の中でひたすら癒された。毎回、神様にふれられて、号泣していた。メッセージも私たちは赦されているという恵みが中心だった。少ない人数で始まった教会は、たちまち60人位になった。その土地で、主人と出会い、主人もクリスチャンになった。

が、調子がいいときは足をすくわれる。その教会が教団に対して不正を働いたことが発覚。牧師は謝らずに、その教団と建物を出ていった。教会はなくなった。

そこに外国の人が牧師としてきた。6年私たちはいたが、牧師と合わず、主人とその教会をでる。子どもが生まれていたので、一人で始まった放浪の旅?は3人になっていた。

この返まで来ると、もうどこでもいいって感じになる。私は主人が選んだ教会に行くからということになった。一年、客員(お客様で教会に通う)だったので、どこでもいいから、つながりたかった。

主人が選んでくれた教会に私は5年通った。そこで、信仰の回復をした。ひたすら祈るようになった。赦せないと思った牧師たちを赦した。私の信仰の回復の頃、教会がゴタゴタし、教会は閉じられた。

今は牧師夫妻と私たち夫婦だけという教会に属している。

私の神様への信頼を深めるためには、どの教会での出来事も必要だった。いつも、教会のあれこれで悩んできた。けれども、その試練なしに、また、その恵みなしに今の私はいない。

神様、たくさんの信仰の方たちと関わらせてくださり、ありがとうございました。私のために影でたくさんの方たちが祈ってくれたこと、感謝します。苦しいことに出会ったことは、私にとってしあわせでした。神様の愛情をさらに知れました。そして、人の痛みも多く知れました。これからは、私が祈るものとなり、神様の慰めを伝えるものとなれますように。

Img_1201s

にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ

| | コメント (2) | トラックバック (0)

私の教会遍歴 1

教会を幾つか変わり、そのときは辛かったですが、今はすべてが私に必要なプロセスだったと思えます。

『神を愛する人々、すなわち、神の計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。』新約聖書 ローマ人への手紙8:28

私は信仰生活の中で、教会を5回変わっている。クリスチャンにとって、霊的な養いを受け、交流する教会はもうひとつの家族なような存在だ。そこを5回変わったのは、霊的な孤児か、5回も離婚したサマリヤの女に少し似ているかもしれない。

そんな中で、信仰を持ち続けたのは、やっぱり私にとっては神業。私が神様を選んで信じたのではなく、神様が私を選び、捕まえ続けてくれたのだと確信する。

初めの教会は聖書にないことはしない、とても福音派と言われる中でも硬い教会だった。ベビークリスチャンの私はその家族的な教会で、世の中の常識や、人の暖かさを教わった。土曜日には教会に泊まり、週報づくり(なんと!ガリ版だった!)をし、次の朝は教会学校(地域の子どもたちに聖書を教える)の先生をさせてもらいながら、私も聖書を勉強した。50人以上の子どもが集まり、小さな教会の全員がそこに力を注いだ。楽しかった。が、神学校に行きたいと私が言い出し、その頃から雲行きが怪しくなった。なんせ、女性は祈らない教会なのだから…。それでも、可愛がってくれた長老のような方の配慮で、一度だけ礼拝の中でメッセージをさせてもらった。今でも何を話したか覚えている。その教団ではあり得ないことだったと思う。祈ることより、人間としての常識と愛情をいただいた場所だったが、神学校に入ってから、そこを出ることにした。

2つ目も保守的な信仰の教会で、神学校時代奉仕をさせてもらい、卒業したとき、その教会に就職した。が、心の癒しが進んでいないこともあったと思うが、神様にあっても、何のために生きているかわからなくなってしまい(神様が遠かった。)、脱け殻のような毎日だった。唯一、教会学校や公園伝道で小学生の子どもたちと関わるのが楽しかった。私がその教会を出てから、何人かクリスチャンになって成長した話しを聞いた。神様の恵みが感じられない私は、休みの日、一つの集会に出た。求めていた信仰はこれだ!と思った。ペンテコステ派と言われる、福音派と距離を置くグループだった。そこに週一で通えば、なんとか信仰が保てると、牧師に相談した。牧師は自分たちと違った霊的な物に恐れていた(教会の人たちに自分たちと違った考えが波及しないか)。結果、働き人だった私は除名になり、その教会を出ることが出来た。

Img_1190s

にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ

| | コメント (0) | トラックバック (1)

2008年11月19日 (水)

分派…体が裂かれる痛み

私は教会の分派は経験ないですが、似たような体験で考えさせられました。

『というのは、あなたがたの中でほんとうの信者が明らかにされるためには、分派が起こるのもやむをえないからです。』第1コリント人への手紙11:19

私は牧師でもないので、教会で分派を起こされたときの体験はない。常日頃、牧師の側の気持ちもあまり考えない。が、ある出来事を通して、教会から人が群れをなして出ていくってこういうことかなぁと思った。

私が大切にしているあるグループがある。その人たちと悩みや問題を共有し、前向きに進む、私の精神的なところで、とても大きく占めている大切なところだ。(クリスチャンの会ではない。)

ある出来事を通して、リーダーである私についていけないと、4人の人が離れていった。

昔の私なら、「私は悪いことしていないのに、どうして?」とか、彼女たちが、皆に私の噂をして、たくさんの人がグループから出たらどうしようと不安に思ったかもしれない。

そのときは、私に非があったとしても、神様に赦されてるからと、弁解せず、甘んじてその状況を受けいれられた。(泣きながらも、痛みながらも、神様には受け入れ、赦されている安心感があった。)

一緒に目標をもって自分たちの子どもたちのためにとやってきた人が、離れていくのは辛かった。。また、大切にしていた一人一人だから辛かった。そのとき、たとえ、牧師が足りなかったり、教会が足りなかったりしても、分派で人々が離れていく痛みは、こんなもんでは済まされないだろうと想像できた。

霊的な養いを与え、成長を願っている牧師が気に食わないとかということで、裁かれ、つばを吐くようにして出ていかれたら…私だったらきっと、堪えられない。

私にとって、あまり経験しないような経験となった。牧師は神に立てられている者だから、無条件に従えと言われても、私はちょっと抵抗を感じる。が、少なくとも、思って、祈って、労してくれてる人とやっていけなくなったら、誠意をもって、平和と礼儀をもって出ていってもいいだろうと思う。

そして、教会での分派なら、キリストの体をちぎられるようなことで、キリスト自身が痛いと感じるのだろうと思った。

どちらかというと、牧師に批判的な私だが、不思議な形で、反対側の立場を深く考えたときだった。

Img_1194s

にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ

| | コメント (0) | トラックバック (0)