“どんな人をも離さず、捨てない主”
イエス様が養われる教会を思いました。
『わたし(神)は自分でわたしの羊を捜し出し、これの世話をする。
牧者が昼間、散らされていた自分の羊の中にいて、その群れの世話をするように、わたしはわたしの羊を雲と暗やみの日に散らされたすべてのところから救い出して、世話をする。…
わたしは、彼らを牧するひとりの牧者、わたしのしもべダビデ(キリスト)を起こす。彼は彼らを養い、彼らの牧者となる。』旧約聖書 エゼキエル書34:12.23
私は教会を転々としたので、誰か一人の牧師に霊的に育ててもらった記憶はない。
牧師たちには、反発のほうが多かったりしたし、このイエス様が養う…という聖書の約束を切望した。
今は教会に通っているが、イエス様に養われている感じが強い。
けれども、きっとここまでくるのに、たくさんの教会での経験、教会の人々との出会い、祈りに養われてきたのだろうと思う。
教会生活では、決して“良い子”でも“従順な信徒”でもなかった私だが、神様が私の手を離さず、見捨てず、あきらめず導き続けてくださったのを思う。
人には限界があって、人を養う受容範囲があるのかめもしれないが、神様は無限なお方で、出来の悪いひねくれ者を神様のあわれみに包んでくださるのを思う。
教会の外にいる人たち、教会で窮屈にいる人たちへの神様の愛を思いつつ、祈ります。
「天のお父さん、私はかつて、自分には養ってくれた牧師や教会がないことをとても寂しく思いました。
私も人から霊的に養われたいと願いました。
けれども、あまりのひねくれ者だったので、信頼関係の中に養ってくださる方はいませんでした。
けれども、気がついてみたら、教会でのたくさんの痛みはあっても、神様は私の手を決して離さず、私をとらえ、私に語り、私を砕き、私を導いてくれました。
人は見捨てても、神様は決して私を離さず、捨てない(ヘブル13:5)のみことばは真実でした。ありがとうございます。
私が教会で順調に養われなかったのは、そのような人たちの気持ちを理解するためかもしれません。
私は教会や牧師に反発したタイプでしたが、養われず、そっと教会をあとにする人は、どんなに寂しい気持ちでしょうか。
教会にとどまれなかったことが、あたかも神様からアウトと言われてしまったかのような錯覚すら覚えるかもしれません。
でも、違います。人間側に受容能力の限界があっただけです。
私たちの限界を赦してください。
そして、イエス様を信じたその信仰は、世界が始まる前から選ばれ、与えられているものですから、もう一度、イエス様の慰めと喜びの中に入れてください。
神様が限界のないお方のゆえ、イエス様の十字架のもとに、どんな人も楽に赦され受け入れられる教会を与えてください。
私たちはイエス様の十字架によって、何の条件もなく、自由に集えるようにしてください。
養えるのはイエス様だけです。
変人も狂人も、犯罪者も、この世から偏見や差別を受けている人も、貧しい人も枠がなく、イエス様のところに集まり、赦され、癒され、霊的に恵まれますように。
イエス様の十字架の栄光を現してください。
イエス様のお名前によって祈ります。アーメン。」
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