クリスチャン

2009年7月26日 (日)

“枠にはまらず、自分を見い出す”

イエス様につながり、何をしたいか…それがその人に与えられているものだと思います。

『しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。マリヤはその良いほうを選んだのです。彼女からそれを取り上げてはいけません。』新約聖書 ルカによる福音書10:42

何年か前、ある聖会で、「日本の教会は宗教の霊に縛られている。」とメッセンジャーが言ったらしい。

私は、聖会に行った人から聞いたのだが、「宗教の霊」と言われただけで、何を意味するか、すぐにわかった。

それは、“何かをする”ことに捕らわれているということだと思う。

日本人は真面目で、勤勉だ。神様のために…と言って何かを懸命にするのはわかりやすい。

私もクリスチャンになったばかりのときは、教会の奉仕が“いのち”のように楽しかった。

そして、教会奉仕の中で、育ててもらったところもあるかもしれない。

教会の奉仕が悪い訳ではない。けれども、それは一番に大事なものではないと、マルタとマリヤの話しで思う。

ある時、ヨハネの福音書のこの箇所から教えられたことがある。

『あなたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。

あなたがたが多くの実を結び、わたしの弟子となることによって、わたしの父はは栄光をお受けになるのです。』ヨハネの福音書15:7.8

イエス様との関係の中で、湧いてくる願いは皆違い、そのことを求めることによって、多くの実を結ぶようになるとある。

すべての人が、神様から働きと能力を与えられているが、皆違っている。

それを画一化した奉仕に当てはめてしまうと、どこかに苦痛が出てくる。

例えば、クリスチャンは「皆、伝道するべきだ。」と言われても、そのことが得意な人も、楽しい人もいるかもしれないし、そうでない人もいる。

神様は、キリストのからだにバラエティーに個性を与え、働きや能力を与えておられる。

イエス様にあっては、その与えられたところにあって、限りなく拡がっていくのだと思う。

はまらない枠にはめられて、自分にないものを見て、自信をなくすことをイエス様は望まれていない。

自分だけに与えられたものを見い出し、それをもって主に仕えるとき、それはその人の神様にある生き甲斐となり、神様と働きをともに喜べるものとなる。

イエス様につながって、何を求めているか、自分を見つめてみることも大切と思う。

イエス様につながって、今、私は何を願い求めているだろうか…。

イエス様につながって、イエス様の愛を知るものとなり、イエス様の愛を伝えるものとなりたい…が、今私が願い求めていることである。

###

天のお父さん、あなたが一人一人に宝のような働きと能力を与えられていることをありがとうございます。

どうそ、一人一人がそれを自分の中に見い出し、仕えていく喜びの中にいれてください。

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2009年6月23日 (火)

“私の歩んだ教会たち”4・1珍事

会堂から教会が去り、残ったメンバーと新しい牧師で、スタートした話しです。

『ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全なおとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです。

それは、私たちがもはや、子どもではなくて、人の悪巧(わるだく)みや、人を欺(あざむ)く悪賢い策略により、教えの風に吹き回されたり、波にもてあそばれたりすることがなく、むしろ、愛をもって真理を語り、あらゆる点において成長し、かしらなるキリストに達することができるためなのです。』新約聖書 エペソ人の手紙4:13~15

会堂から教会がいなくなり、私たちはその会堂に残った。

何人か残った人や、いなくなったのを聞きつけて来た人たち10人ちょっとで、教会がスタートした。

やがて、外国の方が牧師として来てくれた。

が、残った人の中には、ひたすら自己顕示欲が強い方もいらして、昼ごはん作りが強制的に当番で回ってきたり、礼拝の中で、突然異言で祈り、牧師の霊的リードをかき乱したり、取っ組み合いのような女性同士の喧嘩があったり、珍事が続いた。

私は、赤ちゃんが与えられ、教会の珍事には殆んど関わることなく、子育てに守られていた気がする。

次々に教会から人々は悶着を起こしながら、出ていった。いまこそと思いつつ、自己実現が果たせず、牧師に怒りながら出ていった。

私たち夫婦は、初めの残り組の最後のメンバーになった。

が、私もまた、牧師の考えには苦痛を感じていた。

6年過ぎて、私たちもその教会を去ることになった。

牧師の最後のことばは、「この教会の牧師は私ですね。合わなかったら、どうぞ、合う教会に行ってください。」というはなむけのことばをいただいて。

その教会で良いこともあったと思う。宣教師の方と、地域の子どもたちを集めて、英語教室が始まったり、主人が賛美リードしたり。

けれど、私の中で、息子と過ごす毎日は幸せだったが、聖書も開かず、祈ることもしなくなっていた日々だったように思う。

♯♯♯

神様、いろんな人たちがいることを見せられた教会生活でした。

私にとっては、神様との関係も遠くなっていたように思います。

そんな中でも、英語教室を手伝えたり、あの場所で出会った一人の友人とは、今でも、大切な関係を保てていますから、ありがとうございます。

あの頃、私の慰めは、可愛い子どもでした。私の何が良かったか、悪かったかは良くわかりませんが、慰めを与えられていたことを感謝します。

その教会もやがて、たくさんの人が集い活気に溢れている話しを聞きましたから、ありがとうございます。

私にとっては、苦痛でしかない教会でも、誰かにとっては、素晴らしい教会になる…神様のバラエティーさをありがとうございます。

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2009年6月22日 (月)

“握っている手を開けますように”(語りかけ)

握っているものを手放させられた私の証と、Setsuさんの神様からの語りかけです。

『私たちが滅びうせなかったのは、主の恵みによる。

主のあわれみは尽きないからだ。

それは朝ごとに新しい。

「あなたの真実は力強い。主こそ、私の受ける分です。」と私のたましいは言う。

それゆえ、私は主を待ち望む。』旧約聖書 哀歌3:22.23.24

立派な会堂から教会がなくなり、私は途方にくれました。

ある教会の賛美礼拝に行き、そこで神様に話かけました。

「神様、私は教会奉仕が大好きでしたが、奉仕どころか、教会まで無くなってしまいました。」

すると、神様は言われました。

「これまでの数々の苦しみは、あなたが握っているものを手放すためだよ。」と。

私は何かを握ってました。それを払われたのです。手を開いてみると、何もないのではありませんでした。

その日から、私は「主こそ、私の受ける分です。」と神様を喜び始めました。

仕事も辞めさせられ、教会もなく、何もないような時期でしたが、生まれて初めて鳥のさえずりに、「神様、鳥の鳴き声がきれいですね。」と言えました。

私の握っていたもの、それは“私の神様にある働き”でした。

神様におまかせしたとき、神様だけが喜べるようになりました。

昨日、Setsuさんが、コメントで、皆さんあてに、神様からの語りかけを書いてくれました。

書き写します。お一人お一人に慰めがありますように。

「神様は私たちの心が何を必要か知っておられます。

何に渇き、何につまづき、何に泣いているかも。

あなたが握っているその手を一度、神様の前で開いてみてください。

あなたの手は、引き裂かれて穴の空いた神様(イエス様)の手を握ることができます。

あなたが隠しているその心の目を、神様の方へ向けてみてください。

神様の心に、あなたのことがしっかり焼き付かれているのを見ることができます。

あなたがまだ形もなかった頃、神様の心にあなたがいて、神様はずっとあなたに思いを焦がしていたことを、あなたのすべての心の傷に深く染み込ませることができるでしょう。」

Setsuさんはここに来られる方々、コメントする方も、そうでない方のためにも祈っています。

ettuさんもここに取り巻く人たちのため、与えられた霊的祈りで祈っています。

私もお二人と同じく、ただ皆さんの霊的祝福を心から祈っています。

この小さなブログを通しても、距離や空間を越えて、神様のよいものを分かちあえますことを願っています。この思いが、祈りとともに、ここに来てくださる皆さんに届きますように。

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“私の歩んだ教会たち”3‐3・会堂残る

教会がその立派な建物から出ていった話しです。

『私は一つのことを主に願った。私はそれを求めている。

私のいのちの日の限り、主の家に住むことを。

主の麗しさを仰ぎ見、その宮で、思いにふける、そのために。』旧約聖書 詩篇27:4

賛美に満ち溢れた教会には、笑いがあり、人々は生き生きしているかのようだった。

結婚式に来てくれた、前の教会の友人が言った。

「この教会は、賛美の天使たちが集まっている。だけれど、戦う戦士がいない。」と。

牧師の過ちは、多分教会全体の責任でもあり、特に牧師の近くにいる人たちが、「イエスマン」ではなく(何でも、「はい、はい」と聞かずに)間違ったことは、信頼関係のもとにハッキリ教えてあげることが、責任としてあるのだと思う。

牧師は幾つかの間違いをした。人間、誰でも間違いも、過ちもある。だから、それは、とても大きな問題ではないかもしれない。

教団からは、その間違いを認め、牧師を3か月ほど謹慎し、牧師を休んでくれと言われたらしい。

が、その話しを蹴って、何の謝罪もなく、その美しい立派な会堂を出ていった。

信者の6割はついていったと思う。

私は内情を良く知っていたので、ここでお別れだと思った。

サタンは牧師を攻撃する。牧師しか経験しない誘惑があるのだと思う。

それを支えるのが、信徒であり、まわりにいる人たちなのだと思う。

教会は民主主義、多数決の世界でないと良く言われるが、牧師がすべての教会の実権を握っているのではないと思う。(これはただ私の考えだけれど。)

牧師は霊的指導者として、人より託されているものが多いかもしれないが、より神様の声を聞くと同時に人の声を同じくらい熱心に聞くものだと思う。

なぜなら、神様から語られたことを、どんなことを考えているかその聴衆に噛み砕いて、語るのが牧師の仕事だと思うから、どちらの作業も大切だと思う。

そして、その託された一部を、他の部分が支え、補うのが教会かと思う。

あのとき、私は教会が去っていったことに悲しくて、何日か泣いていた。

あのときは、私にもその責任の一部があったことには、思い至らなかった。

♯♯♯

神様、人は皆弱いです。

牧師は特に霊的攻撃を受け、様々な誘惑に合います。

あのとき、私が教会のため、牧師のために祈れなかったものであることを赦してください。

私たちの戦いは血肉(けつにく)によらず、霊的な戦いです。

私たちが、人が人を裁いたりすることをサタンは手を叩いて喜んでいます。

私たちの中に裁く心でなく、赦す心を与えてください。

私たちは誰でも間違います。間違いが問題なのでなく、裁く思いや隠す心が問題なのです。

イエス様にあって、私たちが一つとなり、弱く間違いやすい中にこそ、イエス様の愛が現れ、人々が神様を崇めるようにさせてください。

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“聖霊の小川を泳ぐメダカたち”

聖霊様の小川で泳ぐメダカたちを思いました。

『この川が流れて行く所はどこででも、そこに群がるあらゆる生物は生き、非常に多くの魚がいるようになる。この水がはいると、そこの水が良くなるからである。この川がはいる所では、すべてのものが生きる。』旧約聖書 エゼキエル書47:9

昨日、礼拝の中で、小さな小川を思い出しました。それは幼い頃よく遊んだ、田舎のおばあちゃんの家の畑の近くを流れる小川です。

幅2〜30センチの小さな小川にメダカが可愛らしく群れをなして泳いでいました。

今、メダカはあまり見かけなくなったと言われます。

メダカは本当にきれいな水の中でしか生きることができず、今は環境的にそういうところが少なくなったのだと聞きます。

私のような弱さを抱えたクリスチャンは、小川のような水の中でしか生きられないのかなぁと思ったりしました。

きれいな水とは、聖霊様の中のことです。

そこに何か人間的なものが混じってしまうと、たちまちアプアプして苦しくなってしまうのかなぁと。

けれども、聖霊様は私たちの中にもいてくださいます。

私の中のおられる聖霊様が喜んで、自由に働かれるよう、私の心もまた、イエス様の十字架によってきれいにしてもらっていたいと思いました。

お祈りします。

「神様、私たちにイエス様の十字架の赦しによって、聖霊様を内に住まわせてくださることをありがとうございます。

聖霊様がいてくださらなければ、神様が聖書を通して何をいいたいのか、私にはわかりませんでした。

聖霊様が働いてくださらなければ、2000年前の十字架が自分のためと受けとることができませんでした。

聖霊様は、私の内に住まわり、優しく慰めとあわれみをもって、私の罪を示し、きよめてくださいますから、ありがとうございます。

教会が、私にとって居心地がいいばかりでないのは、私の場合、とても弱さを抱えているからかもしれません。

けれども、きよい聖霊様の流れの中に、憩い、喜び、楽しめる恵みをありがとうございます。

メダカのように、混ぜものがあるところでは生きにくいのかもしれませんが、あわれみの中で生かし続けてくださることを感謝します。

どうぞ、同じ聖霊様のきよい川で、私たちを憩わせ、楽しませ、喜ばせてください。

イエス様のお名前によって祈ります。

アーメン」

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2009年6月20日 (土)

“私の歩んだ教会たち”3‐2・結婚式

私たちはたくさんの教会員の方々に労していただき、素晴らしい結婚式をあげることができました。

『あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。

そして、神は教会の中で人々を次のように任命されました。

すなわち、第1に使徒、次に預言者、次に教師、それから奇跡を行う者、それからいやしの賜物を持つ者、助ける者、治める者、異言を語る者などです。』新約聖書 第1コリント12:27.28

10人位で始まった教会は、たちまち人が増えた。

新しい立派な会堂も建った。

60人ぐらいの礼拝は、素晴らしい。賛美リードがいて、バンドがあって、それぞれの得意分野で、皆教会に仕えていた。

沢山集っているということは、賜物も多様にあるということだ。

そんな新しい会堂で、私は主人と結婚式、披露宴をしてもらった。

私たちは、貧乏だったので、すべてが教会の方々の手作りだった。

結婚式での奏楽、カメラマン、ビデオ取り、すてきなお花の飾り。披露宴でのプロなみの演奏者、手作りウェディングケーキ、私と主人の出会いを作った寸劇の役者…、披露宴でのティーパーティーのお菓子。沢山の人たちの手によって、結婚式をしてもらった。

そこには、たくさんの労力と祈りとお金がかけられていたのを今、思う。

親族、友人たちや前の教会でお世話になった方々を呼んでの結婚式、教会員も参加してくれ、100人位の盛大な結婚式になった。

あれが、私が大勢の方にお世話になった最後になる。その一年後には、輝いていたはずの教会は、立派な建物を残して、いなくなってしまった。

たくさんの人に祝福された結婚式、今はクリスチャンと出会うことも少なくなり、あの頃、神様がしてくださった不思議を思う。

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神様、あなたがひとりひとりに良いものを与えてくださってありがとうございます。

私たちの結婚式イベントには、本当にたくさんの方々が関わってくださったことをありがとうございます。

あの結婚式は、今の私にとっては、キリストのからだの多様性の素晴らしさでした。

神様、お世話になった方々とは、今は交流もなく、感謝をお返しすることができませんが、神様、心からありがとうございます。

そして、神様はあのように、イエス様にあって一つで、多様性をもって喜んでいく教会を望んでおられるのを思います。

そのような教会にたくさんの人たちが連なって喜べるようにしてください。

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2009年6月19日 (金)

“カルト化教会の痛み”3・孤独な回復の道

カルト化教会を出た人たちは、そこからまた、孤独な道を歩みます。

『見よ。わたしはあなたとともにあり、あなたがどこへ行っても、あなたを守り、あなたをこの地に連れ戻そう。わたしは、あなたに約束したことを成し遂げるまで、決してあなたを捨てない。』旧約聖書 創世記28:15

私の友人は、10年程、カルト化していく教会に属していた。

そこを出たときは、いろんなコントロールから解けず、苦しんでいた。

心も信仰も回復するためのリハビリ期間は少なくとも3年位かかると、専門の方から言われた。

新しい健全な教会に通い始めたが、孤独であった。家庭で、親から虐待を受けた人は、そうでない人にいくら話しをしても理解されない。

同じように、特殊なところを通されたので、その苦しみは、同じ信仰のことであるのに、誰にも理解されない。

本には、「その牧師がおかしかったことを理解できなかったあなたが悪い。」と責められてしまうこともあると書かれていた。

いろんなコントロールがすぐ解けないので、その言動も奇異に見えるときがある。偏見や疎外感に苦しむ。

そのような人たちがどのような孤独をもって、感情があらわれるか、「信仰という名の虐待」の本から書き写す。もし、近くにそのような方がいたら、私たちは、その苦しみを理解しきれなくとも、寄り添い、共に祈るものでありたい。

「・自尊心を失う

・自分自身を失う
・自分が無力な人間であると感じる

・強い罪責感を感じる

・怒りと欲求不満を感じる(多くの時間と可能性を失ったので)

・恐怖と混乱を感じる

・マインド・コントロールされていたため、自分で考えて、決めることがなかなかできない

・だれかに依存したい、自分の代わりにだれかに決めてほしい

・キリスト教、教会、聖書、神に対して、強い反発や拒否を感じる(個人差がある)

・人に対して不信感を感じる(人を信じられない)」

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神様、神様の尊いお名前を使って、人をマインド・コントロールし、人々に深いダメージを与えるカルト化教会の罪を赦してください。

神様、そこから出て、なお、苦しむ人たちを助けてください。

私たちは、その“信仰の虐待”された経験者ではありません。

本当に理解が足りなく、かえって突き放してしまうものであることを赦してください。

リハビリの道を歩んだ私の友人に、ときに私は冷たかったと思います。

彼女の苦しみを理解しようとしなかった私を赦してください。

その回復の道を歩んでいる人々たちに、神様、「わたしはあなたを捨てない」と語り続けてくださり、あなたとの麗しい関係を、主によって回復させてください。

その歩みを確かにしてくださり、弱いときも、守り導いてくださる主とともにありますようにしてください。

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2009年6月18日 (木)

“カルト化教会にいる人への祈り”

カルト化教会にいて苦しむ人々、そこを出て回復の道を歩いている人々のため、祈ります。

『主のもとに来なさい。主は、人には捨てられたが、神の目には、選ばれた、尊い、生ける石です。

「見よ。わたしはシオンに、選ばれた石、尊い礎石を置く。

彼に信頼する者は、決して失望させられることがない。」』新約聖書 第1ペテロの手紙2:4.6

「天のお父さん、イエス様は、悲しみのところに喜びを、嘆きのところに希望をもたらすために来られました。

けれども、人間の支配欲、顕示欲、そういったものが、神の名前を使って、全く違うことをし、人々を苦しめています。

人間のこの限りない欲望を赦してください。

人々は、神様に喜ばれる熱心で、今、神様以外のものにコントロールされ、苦しんでいます。

どうか、神の名前を使っても、そこに安心や喜びや慰めやあわれみといった良いものがなかったら、それは、イエス様の世界ではないことを知ることができますように助けてください。

巧みにコントロールされているので、苦しいことすら、祝福のためのサタンの攻撃だと言われます。

教会から出たら、祝福されず、呪われると言って、脅されます。

苦しいのに、恐れのため、そこから出ることが出来ません。

パソコンやこのようなブログからも正しい情報を得ていけますよう助けてください。

イエス様の世界は恐れで縛られる世界ではありません。

本当のイエス様のもとに導いてください。

まだ、出られた方たちは、たくさんのダメージで、いろんなことが判断できなくなっています。

時間がかかっても、ゆっくりと受け入れられる環境で、自分を取り戻していけますように。

カルト教会にいた人が裁かれませんように。彼らも犠牲者だからです。

コントロールが解けずに、変なことを言っても、受け入れられる中で回復するので、そのような環境を与えてください。

イエス様の楽しみと喜び、自由と慰めが満ちますように。

イエス様のもとには、決して失望させられないことを感謝します。

人間的な欲望の組織を打ち砕き、教会に、人々にイエス様がきてくださいますよう祈ります。

イエス様のお名前によって祈ります。アーメン。」

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“カルト化教会の痛み”2

カルト化教会の特徴です。

『しかし、あなたには非難するべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった。

それで、あなたは、どこから落ちたかを思い出し、悔い改めて、初めの行いをしなさい。

もしそうでなく、悔い改めることをしないならば、わたしは、あなたのところに行って、あなたの燭台(しょくだい)をその置かれた所から取りはずしてしまおう。』新約聖書 黙示録2:4.5

姉が通っていた教会は、真面目な信仰を持った人たちの素朴な誠実な教会だった。

姉は今でも、信仰の“いろは”はその教会で教えてもらい、養われたと感謝している。

そんな小さな教会だったが、牧師婦人の預言が始まり、変な雰囲気になっていった。

無駄口を慎むとか、横の信徒どうしの親しい交流を避けるとか。

その方は、一にも二にも、謙遜が大事と言っていたらしい。

聖書に聞いていき、答えがないと動かない…そんな傾向はあったが、何故、あの方がカルト化の道をいったのか、とても不思議に思う。

カルト化教会の特徴をパスカル・ズィヴィーは、「“信仰 ”という名の虐待」の本で次のように言う。

「“信仰”という名の虐待」のメカニズムとして5つある。

1、恐怖、脅し

信者たちを支配するために、恐怖、罪責感と脅しを使います。どんな命令でも、信者たちは、牧師に従わなければなりません。…少しずつ、牧師や教会に対して批判する能力がなくなり…最終的に、牧師と教会に全く依存するようになってしまいます。依存すると信者たちは、牧師と教会の精神的な支えを失うことに対する恐怖が大きくなる。自分で、判断することが難しくなる。

2、愛のシャワー

牧師に出会った時の印象は、それまで出会ったこともないようなカリスマ的存在で、霊的で、優しく、情け深く、理解のある人物と思います。…破壊的カルトの中でよく使われる「ラブ・ボミング」(愛の爆撃)、あるいは「ラブ・シャワー」(愛のシャワー)というテクニック。好意の雨をふりそそぎ、ほめます。

3、罪責感

愛のシャワーを浴びた人たちは強い義理を感じるので、本心を伝えることが難しくなります。質問や批判に対しては、罪責感を起こさせます。

4、告白の儀式

信者の人格を無視し、牧師、教会の意向に沿わない思想、感情、行動をすべて告白しなければならないと要求し、個人のプライバシーをすべて奪います。…心が解放されるよりも、自責感に苦しみ、無意識に合わせなくてはならないと感じるようになります。

5、人を奴隷化する権威主義的構造

人間関係がピラミッド型になっています。横の関係が全く許されず、縦のつながりのみ重視します。信者は牧師の許可がなければ、どんなことも決めることができません。密告があり、管理されます。福音のため、ビジョンのためということがあります。

何故、イエス様の愛で始まったことが、人間の欲望の統率になるのだろうか。

まさに、“初めの愛”イエス様ご自身がいなくなったところに悲劇が起こるような気がする。

神様、今もカルト教会は存在し、多くの真面目なクリスチャンが神のためと、コントロールされ、苦しんでいます。

イエス様からくるものは、赦しとあわれみ、癒しと自由、安心と喜びです。

イエス様自身がいる教会、人々へと変えてください。

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“私の歩んだ教会たち”3‐1・恵みの教会

教会で神様の恵みをひたすら感じた3年間でした。

『おとめイスラエルよ。わたし(神)は再びあなたを建て直し、あなたは建て直される。』旧約聖書 エレミヤ書31:4

新しく通う教会の近くに、私は引っ越しをした。

引っ越し先は、お金も何も無く、今にも崩れそうなボロアパートだった。

が、礼拝は楽しかった。

賛美はワーシップソングになり、賛美の中に、神様の臨在をいつも感じた。

聖霊様が、私の心にシャワーの慰めを毎回くださり、私は礼拝ごとに、その慰めに泣いた。

号泣になり、トイレに駆け込んで、泣くこともしばしばあった。

その頃、この聖書のことばを見つけて、紙に書いた。

私の内に、心の癒しが起こると信じられた。

新しく覚えたワーシップソングを昼も夜も賛美した。

バイト先の仕事場でも、トイレに行くたびに、そこであふれる思いを賛美した。

礼拝メッセージのテーマは、“恵み”だった。神様が一方的に私たちを赦してくれるメッセージを私の霊は喜んで聞いた。

すべてが、順調のような信仰生活だった。

開拓のようなその教会に、人々は増え、新しい会堂を建てるに至った。

私の信仰生活も、教会もすべては順調かのようだった。

この2年後に、この教会が、いろいろな問題が起こり、この立派に建てられた会堂から教会の人たちが出ていくことになるとは、あの頃、誰もが想像しなかった。

###

神様、ワーシップソングの礼拝の中で、私はたくさんの慰めを受け、癒されていった、そのことをありがとうございます。

賛美の内に住まわる神様を体験する日々でしたから、ありがとうございます。

聖書の話しも、神様の恵みが中心で、慰められました。

短い期間でしたが、その教会で、私は恵みの神様、恵みのメッセージ、慰めの霊をたくさん経験できて、ありがとうございます。

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2009年6月16日 (火)

“同情されるイエス様”(祈り)

私は同情より、聖書にある正論で人を苦しめた者であったことを思わされました。

『私たちの大祭司(イエス)は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。』新約聖書 ヘブル人への手紙4:14

私はとても、心砕かれて自分の弱さを教えられているときは、人にも優しくなれているかもしれません。

一方、私が調子が良く、すべてがうまく行っているかのような時は、人に同情する心が少なくなるかもしれません。

自分のイエス様にある歩みを見るとき、祈りも癒しも赦すことも、何もかも与えられたものなのに、「あなたもこうしなさい。」と、その心の痛みに寄り添うことなく、言ってきた者だったか、少し教えられました。

神様を信じている人たちの世界で、つらいのは、正しい答えが書かれてあることです。

その正しい答え(=正論)は言われてしまうと、「ごもっとも」としか言えません。けれども、人から言われた正論は、罪責感を強めたり、恥ずかしい思いを強めたり、みじめな思いに落ち込んだりさせるだけです。

病院に行って、あなたの悪い患部はここだと、傷口を開かれて、血を流して終わりです。癒す手立てまでしないで、終わらせるというのは、聖書の、恵みの神様の世界ではありません。

けれども、きっと、同じような聖書の正論で、私はバサバサと人の心を切り、痛ませたまま、私は満足して、帰らせてきたのだと思います。

お祈りします。

「天のお父さん、イエス様は、私たちの苦しみをすべて知っておられ、私たちの弱さに同情されるお方です。

私たちの罪の結果の苦しみですら、「誰もあなたを裁きません。私があなたの罪の責任を全部請け負うから。安心して帰りなさい。」と言われる方です。

それなのに、私は、聖書にある正しいことばで、相手を同情せず、その心を聞かず、切りつけてきた者であることを教えられました。

それは相手に癒しではなく、痛みだけを残します。

この同情できない心を赦してください。

聖書にどう正しいことが書いてあり、どうするかは聖霊様が、慰めの中で、案内してくださいます。

私たちは互いが、同じ弱さを持つものとして、同情し合うものとさせてください。

心の痛みが理解できないときでも、祈るものとしてください。

イエス様のところには、裁きでなく、その互いの弱さを受け入れ合うものとしてください。

私の力ではできませんから、受け入れる心、同じように私たちは弱いものであることを教えてください。

イエス様のもとで、私たちが同情しあい、理解しあい、受け入れあい、赦しあうことが広がりますように。

そして、まわりの人々が、この世にないイエス様の愛を知ることができますように導いてください。

イエス様のお名前で、お祈りします。

アーメン。」

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2009年6月10日 (水)

カルト化教会に無いもの

神様は何を私たちに求めておられるか教えられた分かち合いです。

『み使いは(アブラハム)に仰せられた。

「あなたの手を、その子に下してはならない。その子に何もしてはならない。今、わたしは、あなたが神を恐れることがよくわかった。あなたは、自分の子、自分のひとり子さえ惜しまないでわたしにささげた。』旧約聖書 創世記22:12

神学校時代、同じ寮で、伝道熱心な男の子がいた。

気があって、よくいろんな話しをした。

ある時、彼が言った。「相手を愛する思いがあるなら、体の癒しもその人のために祈ると思う。」

私が何と言ったことに対する答えか、覚えていない。たぶん、「体の癒しがすべてではない。」ということに対してだと思う。

一緒に卒業した彼は、伝道熱心で神様にまっすぐな感じの人だった。

やがて、彼が属している教会がカルト化してしまった。彼もその中の中心的な牧師の一人だった。

今日、その会話を思い出した。彼がどこからずれてしまったのか、よくわからない。

初めの頃は、「イエス様の愛を語る素晴らしいメッセンジャーだよ。」と彼の噂を聞いていたが。

アブラハムがイサクを捧げる試練の中、神様は言われた。

「今、わたしはあなたが神を恐れることがよくわかった。」

神様は、神様を恐れる心をアブラハムに見て喜ばれた。

“心”とか、“動機”とか見えないことこそ、実は神様が最も求めておられることなんだなぁと、しみじみ思う。

カルト化した教会は、宣教熱心だったりする。とにかく働く。労する。無心になって疲れるまで仕える。そのように牧師にコントロールされてしまうのだが、そこに、主とふれあう“心”がない。

黙示録2章に出てくるエペソ教会は、労苦と忍耐を神様に知られていた。

しかし、“初めの愛”から離れてしまった。

イエス様の赦しとあわれみの中、応答する行為と、“心”を無くし、ひたすら頑張る世界は、見た目な変わらなくても、神様から見たら全く違うのだ。

主にある熱心の中で、神様が最も求めとおられる“神様への心”こそ第一とされるものだなぁと思った。

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2009年6月 9日 (火)

少数派の自分

私の近況…小さな変化です。

『教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。』新約聖書 エペソ人への手紙1:23

私がブログを始めて11か月になる。私はブログの中で変えられてきている。

誰に変えられたかというと、もちろん、神様にであるが、ここに毎日のように訪問してくださる皆さんによってである。

私は教会と言われるところでは、その与えられた信仰が“少数派”となるものだと思う。

だから、いつになっても、どこにいっても、しっくりこない。

ブログでは、とにかく私の本音の本音のところを書いている。聖書の分かち合いにしても、私が美味しいと思うところを共に美味しいと思ってもらっているので、訪問してもらえるのだと思う。

少数派の私も、ブログの中では共に似た感性、信仰の方がいて、そこが集まれば、少数派ではなくなるってことかなぁなんて、訳のわからないことを考えながら出かけた。

私たちの教会は牧師夫妻と私たち夫婦の4人。最近、一人の女性の方が集ってくださっている。

そんなに少なくても、そこに人との信仰の溝を感じてしまう私である。

今日は、牧師の奥さんと共に久々祈った。私は変わり始めている。悔い改めの始まり、教会を赦し、さらに癒しを祈るようになった。ブログの中での導きのおかげである。

彼女はいつも私に愛をもって祈ってくれていたが、私の方には彼女との溝があった。教会の外の人の話しになるとその違いに苦しくなった。

今日、彼女と祈りながら、「私たちは神様にあって一つです。」と祈っていた。彼女もまたそう祈っていた。

心からそう思えた。彼女は、韓国系中国人で、その救霊(イエス様を信じてもらう)の思いに熱い。それなのに、誰を誘っても教会にこないことにガックリきている。胸が苦しくなるらしい。

中国では、迫害の中、人々がイエス様を信じていく。なぜ、日本は違うのかと嘆く。

彼女の神様が与えてくれた熱い救霊の思いに慰めがくるよう祈った。

私の中で何かが変わった。何だろうか。

教会の人と違いはあっても、それを越えて一つであることを受け止められたのか…。まだ、限りなく近くにいる一人と祈れた程度だが。

訪問の皆さんには、私の悔い改めの道に共にお付き合いくださり、心から感謝します。

今、“私の歩んだ教会たち”の証を書いていますが、すべてが懐かしく、そこで失敗したりしている自分がいとおしいです。そこに取り巻く人たちの弱さが受け入れられます。

悔い改めの霊が私をおおったとき、私は「神様、あれもこれもごめんなさい」と号泣しながら、ブログを書いている…そんな想像をするのだが、まだ、その霊はくだっていない。悔い改めというのが、そういうものではないかもしれないし、聖書のことばにより、御霊の啓示により、深いところを見せられたとき、「ごめんなさい」と告白するよう導かれるのでしょう。

神様のよいものを皆さんと分かち合いたいと心から願っています。日々、訪問してくださる方々の祝福を祈っています。訪問、ありがとうございます。

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“私の歩んだ教会たち”2-3・除名

私が伝道師除名になったときの話しです。

『謙遜と柔和の限りを尽くし、寛容を示し、愛をもって互いに忍び合い、平和のきずなで結ばれて御霊の一致を熱心に保ちなさい。

からだは一つ、御霊は一つです。あなたがたが召されたとき、召しのもたらした望みが一つであったのと同じです。』新約聖書 エペソ人への手紙4:2~4

私が教会で働き出して8か月。もう何もかも駄目だと思うくらい、前に進めなくなっていた。

神様も信仰も祈りも何もないかのようになっていた。

そんなとき、近くで集会をやっているのを知り、休みの月曜日に行った。

そこの礼拝形式とメッセージの新鮮さに胸打たれた。「ああ、私が求めていた神様はここにいる…。」という感じで、砂漠で水を飲んだように元気になった。

今考えると、とんでもないことを言ったのだなぁと思うが、何も考えていない私は、次の日、牧師に言った。

「私は元気がほしいので、休みのときはこの集会に継続して出ることにしました。」

すると、牧師の顔色が変わった。改革派といわれる生真面目な教会で、聖霊派と言われる教会は異端視扱いである。

牧師は何よりそのようなものが教会に入り込むのを恐れていた。凄く敏感になっていた。

「わかりました。3日待ってください。あなたを伝道師除名にするか、どうか話し合いをします。」

私の中で思わね展開だった。悲しくなかった。3日間、「神様、除名の決定が下りますように。」とこのときばかり、ひたすら、祈った。

神様の導きで、教会で働きだしたのに、自分から辞める訳にいかない。神様に申し訳ないと思っていた。

除名になって、この教会から出られるならそうしてほしいと強く願った。

私の何かが間違っているとしたら、何もかも間違っていたかもしれないが、そう思った。

3日後、除名が下された。秘かに神様に感謝した。

私は12月のある日までとなり、残りの数回の礼拝出席をした。

最後の日、「今日、礼拝後、総会があるので出てください。」と言われたが、出なかった。それも責任的にどうであったかと問われるだろうが、出なかった。

牧師は、私が働きをまっとう出来なかったことを教会の人に謝らせたかったのかもしれない。

このとき、信仰深い婦人たち何人かが、私のために心痛め、祈ってくれていたのを後で知った。

私は逃げるように荷物をまとめ、集会をしていた教会のある土地へと県をまたいで引っ越しした。それが今住んでいる土地になる。

###

神様、あなたがくださった場所で、きちんと働きができずにすみませんでした。

私は出られて嬉しかったですが、教会を悩ませ、たくさんの迷惑を教会の人たちにかけたことを赦してください。

福音書派と聖霊派にもまた、大きな溝があります。

今の福音派がどうなっているかわかりませんが、私たちは、皆、神様にあって一つです。

福音派に通う親しい友人もいますが、共に祈れています。

その溝は何でしょうか。

神様の霊は混乱させる霊ではなく、喜びと導きをもたらすものです。

日本の歴史の中で、何が正しいとか、分派とかいろんな間違いがあったと思いますが、その傷を癒してください。

御霊は一つです。あなたが喜びをもたらし、赦しをもたらし、癒しをもたらす神様の霊にあって、私たちを一つとしてください。

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2009年6月 8日 (月)

“教会の外のクリスチャンへ”その誇りの信仰

教会の外にいるクリスチャンに慰めのメッセージをいただいたので、書き写します。

『いまは、しばらくの間、さまざまの試練の中で、悲しまなければならないのですが、

信仰の試練は、火を通して精錬されてもなお朽ちていく金よりも尊いのであって、イエス・キリストの現れのときに称賛と栄光と栄誉に至るものであることがわかります。

あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、いま見てはいないけれども信じており、ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどっています。

これは、信仰の結果である、たましいの救いを得ているからです。』新約聖書 第1ペテロの手紙1:6~9

昨日、初めて“せつ”さんという方がコメントをくださいました。教会の外にいるクリスチャンへの神様からのメッセージでした。

私は常々、外の人たちの目には見えにくい深い信仰を感じています。

彼女たちにとっては、神様にあるかないかは、生きるか死ぬかぐらい切迫しています。

その素晴らしい与えられた信仰を素敵な表現をされていて、「ああ、私がずっと伝えたかったことばだ。」と思ったのでコメントをそのまま、写させてもらいます。

「トラブルが起こってしまい、教会に行けなくなってしまっても、なお、神様を愛し続ける方たちの手には、ダイヤモンドのように美しくて強い本物の信仰が握られていますよ。

いつか時が満ちて、その方たちの心が癒える頃、その方たちを必要とするキリストの体である教会に、ふっと導かれる、そんな日がきっと来ます。

神様はその方たちの信仰を誇りに思っておられます。」

アーメンです!!私にもわかります。試練を通され、輝いていく“ダイヤモンドのような本物の信仰”。そして、神様ご自身が、「あなたはわたしの誇りです」と言っておられるのを!

お祈りします。

神様、あなたがすべてをご存じで、私たちのうめきも叫びも聞いておられ、応えてくださる方であることを知っています。

主よ。クリスチャンであるのに、それゆえのような痛みや苦しみがありますが、神様が愛してくださっていることをありがとうございます。

今、現状を見ると、先行き希望がないように思えても、そうでないことをありがとうございます。

私たち外の者の信仰を、ご覧になってくださり誇りに思ってくださっていることをありがとうございます。

私たちの心の傷を癒してください。私たちに赦しを祈る祈りを与えてください。

私たちが赦しを祈るとき、イエス様ご自身のみ業が起こります。

なぜなら、赦しを祈るのは、イエス様の十字架の力によってしか現されないからです。

私たちの傷ついた地に癒しを、そしてキリストの赦しを与えてください。

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“私の歩んだ教会たち”2‐2・裁き

私が教会に仕えていたときのことです。2(番目の教会)での2(番目のエピソード)です。

『しかし、私にとっては、あなたがたによる判定、あるいは、およそ人間による判決を受けることは、非常に小さなことです。事実、私は自分で自分をさばくことさえしません。

…私をさばく方は主です。…

ですから、あなたがたは、主が来られるまでは、何についても、先走ったさばきをしてはいけません。』新約聖書 第1コリント人への手紙4:3~5

私の限りなく、グレー色の信仰生活は続いた。

教会に仕えながら、神様の喜びがないのは最悪だった。

ある日、決められた時間に仕事場の教会に行けず、遅刻した。

牧師に注意されるなと思った。が、牧師は無言だった。内心、ほっとした。

ところが、その次の週の礼拝に出席し、牧師の礼拝メッセージを聞いていたときのこと。

「こんな人がいます。」と、私の名前こそ出なかったが、高い講壇から、神の名前を使って、その遅刻のことを許されぬ行為と裁かれた。

「そんな…、講壇降りて来て、人として注意してくれればいいことなのに、おかしいよ。」とか思いつつも、落雷を落とされたようなショックに打たれた。

次の日、私はそのショックで、ベッドから起き上がれず、ずっと寝たまま、天井を見つめていた。

私自身が、神様が遠く感じられてどうしようもない中、私の中で、受け止めきれない痛みが積み重なっていった。

青年会で、一言近況報告をみんなでしたとき、私は言った。

「明日をどうやって生きていったらいいだろう…そんな感じです。」

そんな中でも、たくさんの人に支えられた。特に離婚され、クリスチャンになられたばかりのKさん、霊的な賜物があり、よく祈ったMさん。どちらも男性の方だったが、教会に対する痛みを持っていて、よく長く喫茶店で話したり、祈ってもらったり、支えられた。

教会学校の子どもたちは大きな支えだった。子どもたちとの深い交流に慰められた。

私は精神的に病んでいるのではないかと、遠くの診療内科に連れていってくれたご婦人もいた。

何がなんだかわからない毎日だったが、一日一日が終わるのを願うだけだった。

###

神様、私に必要として、通してくださった様々なことを感謝します。

何もできない、神様に祈ることすらできない、最悪な仕え人でしたが、まわりに慰めや支えや祈りの人たちをたくさん置いてくださり、ありがとうございます。

神様、私は過去のことは癒されたので、こうして書いて話せていると思います。

私が教会のたくさんの方に迷惑をかけたこと、全く牧師の意にかなう働きが出来ていなかったこと、赦してくださり、ありがとうございます。

講壇から神様の名前を使って、裁いた牧師を赦します。

神様、講壇からは、裁きではなく、キリストの十字架の赦しが語られるようにしてください。

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2009年6月 7日 (日)

“私の歩んだ教会たち”2‐1・ヘルペス

神学校を卒業した私は、奉仕教会にそのまま就職しましたが、私の弱さゆえと思いますが、砂を噛むような日々でした。

『苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました。

あなたの御口のおしえは、私にとって幾千の金銀にまさるものです。』旧約聖書 詩篇119:71.72

神学校を卒業した私は、そのまま、奉仕教会に就職した。

私の働きは伝道師的な働きのポジションだったと思う。総会で承認を得て、スタートした。

私は神様の働きができるとワクワクしていた。(今は神様の働きは、教会の中がすべてとは思わないが。)

顔合わせ初日、会議室で、牧師、長老たちと共に集った。

すると、とても人のいい長老さんが私ににこやかに言った。

「sebaさん、牧師が白と言ったら白、牧師が黒と言ったら黒で従ってくださいね。」

「エッ……!?私は神様に従うんじゃないの?牧師に従うの?」と心の中で思った。が、初っぱなから反論できる訳でもなく、にこやかな作り笑いをして「ハイ。」と答えた。

あとは、何が話されたか、全く記憶がなく、ボーゼンと家に帰った。

なんだか体中の力が抜けていくのを感じた。

「牧師に従えって…牧師は神様じゃないし…。」

家に着くと、顔の眉のあたりが、やけどをしたような痛みが走る。初めは、鏡を見ても良くわからなかった。

あまりに痛いので、何度も鏡を見ると、眉の横がグジュグジュとなってくる。

次の日、病院に行った。ヘルペス(帯状疱疹)だった。一点の痛みは、そこから、神経の帯に従って頭ぐるりと一周に渡って痛くなった。

体中の免疫が一気になくなって、ヘルペスの菌にやられたのだろう。

私自身の中に、乗り越えていけない何かがあったのだろうが、教会に仕える立場にありながら、教会生活はグレー色だった。

「神様、どこにいますか?私のところに来てください。」そんな祈りをしながら、神様が遠く遠くに感じらる日々だった。

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神様、念願の教会で働くことになったのに、神様が感じられなくなり、つらかった日々を思い出します。

私があなたに信頼できるための荒野の道のりの始まりでした。

あなたを信頼できず、弱かった私を忍耐して訓練してくださりありがとうございます。

神様に従うのではなく、牧師に従うことを公然と言わせる牧師の信仰を赦します。

牧師にはたくさんの恐れがあったのを今はわかります。

イエス様にあっては、恐れを取り除いて、赦され受け入れられているのですから、イエス様の愛が牧師をおおい、慰めてくださいますようにしてください。

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2009年6月 6日 (土)

訪問者の皆さんへ(予告…)

『キリストは、自由を得させるために、私たちを解放してくださいました。

ですから、あなたがたは、しっかり立って、またと奴隷のくびきを負わせられないようにしなさい。』新約聖書 ガラテヤ5:1

いつも、ブログ訪問してくださる皆さん、訪問ありがとうございます。

皆さんの訪問に励まされて、ひたすら書いています。

ちょっと書きすぎの感じもありますが、丁寧に読んでいただき、本当に励まされています。

明日のブログアップの時間を予告したいと思い、今、書いています。…爆弾予告じゃないんだから…予告なんていらないですか(・_・;)

私たちクリスチャンは、クリスチャンにしかわからない拘束感があります。

日曜日の10時半、多くの教会が礼拝スタートします。その時間帯に何か違うことを、おおっぴらにすると、なんか言い知れぬ罪責感とか、どう思われるだろう…という感覚がきます。

「教会は行きたくなければ、無理しなくていい」と人には言いながら、しっかり、どっぷり、私も…しなければならない世界に影響されている自分を見ます。

キリスト教ブログ
は10:30からはアップする人がほとんどいません。礼拝に行っているからかもしれないし、聖域の時間になっているからかもしれません。

明日、私の行っている教会はお休みです。牧師がイスラエルに旅行中のためです。

その次の週は、私が不在のため、やっぱり礼拝自体がお休みです。小さな教会なので、そんな感じです。(牧師は他でも礼拝しているので、忙しそうですが…)

そのクリスチャンの聖域とされている時間に、教会に行かれていない方たちを思い、祈りながら、アップします。

ずっと続けられたら、そうしたいですが。

日曜日、10:30の思いを、訪問してくださる方と分かち合いたく、ご報告しました。

教会に行かないクリスチャンに神様の慰めのメッセージが伝わることを心から祈りつつ…。

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“私の歩んだ教会たち”1‐3・旅立つ

家族のように暖かい教会でしたが、出ることになったいきさつです。

『見よ。兄弟たちが一つになって共に住むことは、なんというしあわせ、なんという楽しさであろう。』旧約聖書 詩篇133:1

私の初めての教会での生活は、交わり、交わり、交わりだった。

私自身が通う教会は10人ちょっとの小さな教会だったが、私はその教派の他の教会の青年会の交流、夕拝、聖書勉強会、そして大きな教会の牧師から個人的に「教会史」の学びを受けたり、教会生活オンリーの日々だった。

青年会の人たちとの交流はいつも楽しく、心の中が喜び跳ねていた。

そんな私であったが、どうしても、神学校で勉強したいという思いがあって、超教派の学校に入った。

属していた教会教派は、女性が祈らない教会だから、ましてや、女性の働きは制限されていた。

神学校を出たら、教会で働きたいと考えた私はその教会を出ることにした。

どんな風に教会員の方々に話しをしたか覚えていないが、暖かく受け止め理解してもらえた。

まず、礼拝の中で、メッセージをさせてもらった。女性は表だって出ないところで、司会とかも、中学生の男の子がやっていた。そんな中で、神学校で聖書を勉強しているのだからと、礼拝メッセージをさせてもらった。

今思うと、たぶん、その教派ではあり得ないようなことで、牧師たちが守る教理よりも、「成長しなさい」という親心が勝ったのだと思う。

出エジプトのマナが降る話しから、みことばを日々食べる大切さをメッセージした。

その教会を去る日には、教会学校の子どもたちからも、教会員の方々からも「頑張ってね」の応援と、お祈りしている置物の人形をもらった。旅に出る娘を暖かく出してくれる家族のようだった。その教会は、伝道師の方はいたが、いちお無牧(牧師がいない)教会だったのも、私にとっては守りだったかもしれない。

その後の教会を出るときは、穏やかではなく、一つ一つが強烈だったので、初めの教会を出たときの思い出は慰められる。

自分なりの訓練や小さな悩みもあったと思うが、“教会生活”のすべてが楽しく、輝いていたときだったかもしれない。

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神様、初めの教会を通して、子どもたちや、他の地域の教会員や、たくさんの方々と毎日、楽しく過ごさせてくださり、ありがとうございました。

神様の素晴らしさと教会の方々との交流の楽しさと、学びによる感動があった日々でした。

祈りをもって、私を育ててくれた教会員の方々が、祈りをもって出て行くのを暖かく見守ってくださり、ありがとうございました。

そこで、たくさんの人に祈られ、赤ちゃんクリスチャンの私は成長したのだと思います。目に見えないたくさんの尊いお祈りをありがとうございました。

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“私の歩んだ教会たち”1‐2・洗礼

前に正統でない教会で受けたのですが、再度、洗礼を受けるように導かれたときの話しです。

『だれも、ふたりの主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛したり、一方を重んじて他方を軽んじるからです。あなたは神にも仕え、また富にも仕えるということはできません。』新約聖書 マタイの福音書6:24

私が教会に通い、一年程たったころ、教会学校(子どもたちが聖書を勉強するためのクラス)のための同じ教団の近隣教会での合同キャンプがあった。

私は、小学生、中学生キャンプ通しで、キャンプ場で奉仕した。

キャンプも後半になり、明日で終わりという夜、私は、教師としてキャンプファイヤーに中学生と参加した。

そこで、メッセージが語られた。イエス様のもとへの招きのメッセージだったかもしれない。

そこで、私は導かれてしまった。キャンプが終わり、宣教師のところに行った。

「私は前に別の教会で、洗礼を受けましたが、そのとき、イエス様の十字架を知らなかったのです。もう一度、受けたほうがいいですか。」

その方は言った。「ローマ人にありますね。疑いを感じて食べるなら、罪です。信仰から出ていないからです(ロマ14:23)」と。

私は洗礼を受け直すことにした。教理的にどうということでなく、神様から勧められているように思った。

キャンプの責任者になっている牧師に話しをした。

「私、洗礼受け直します。」すると、その牧師は、祈って待っていました…という感じで「そうですね。」と言われた。

真夜中の富士山の麓の湖で、私の洗礼式はひっそりと、こっそりと行われた。

教会員の方から水着を借り、真っ暗な水面で、祈られ、水に浸った。

讃美歌がささやくように歌われる中で…。

次の朝、私は悲しくて仕方なかった。たった一年程度かもしれないが、私の信仰と私のクリスチャン生活のすべてが否定されたかのように、捨てさせられた思いだった。

家に帰っても泣いていた。三日三晩泣き明かした。

この証しを、前にもブログに書いた。が、私の中では、私と神様との出来事で書いた。

今、思う。あの時、たくさんの人たちが、私の洗礼の導きを静かに受け止め、その助けをしてくれたと…。ひとりでは、当然だが、できなかった。

あの洗礼は私にとっては、とても意味のあることだった。

それまでは、私流の信仰だったが、それを捨てさせられ、神様が示す信仰へのスタートとなったのだと思う。

あまりにも、捨てなくてならない自己流がたくさんあったと思うが、まさにつらい洗礼となった。

###

神様、30年近く昔のことが、昨日のことのように思い出されます。

神様の私への導きに、まわりの人たちは迅速に事を行ってくれました。

そして、そこに至るまでの、そのあとの私のための無言の祈りが見えてきます。

たくさんの方に祈っていただいたのですね。

私の信仰の成長には、尊い祈りがあったことを思います。ありがとうございます。

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2009年6月 5日 (金)

再び共に喜び笑わせてください(祈り)

私の歩んだ教会たちを振り返り、お祈りします。

『神よ。私を探(さぐ)り、私の心を知ってください。

私を調べ、私の思い煩(わずら)いを知ってください。

私のうちに傷ついた道があるか、いなかを見て、私をとこしえの道に導いてください。』旧約聖書 詩篇139:23.24

「天のお父さん、あなたがいつも私と共にいてくださる恵みをありがとうございます。

今、私の歩んだ教会たちを振り返り始めています。

「私にとって教会は苦痛でしかなかった。」というようなことを言ってきましたが、教会生活の歩みを思い出していくと、そこにたくさんの神様の恵みが溢れていたことを見ています。

私が最後に教会から受けたダメージが大きくて、その傷のゆえに、すべてがふさがれ、見えなくなっていたのを思います。

神様は、教会を通して数えきれない程のクリスチャンとの交流を与えてくれました。

神様は、教会を通して、いろんなことを経験させてくれました。

神様、あの頃は私自身が人のために祈れないものだったので、たくさんの人が影でひっそりとお祈りしていてくれたことを知りませんでした。

しかし、たくさんの祈りが私のためにあったのを見つけました。

私を苦しめるものとして、私は教会こそ私の“敵”と思ってきましたが、私は大事な私のからだを敵視していたのですね。

赦してください。

私が属するキリストのからだを心から受け入れ、愛することができますように。

そして、その弱さを心から祈ることができますように。

そして、教会の外の人のその痛みを知り、心から祈れますように

どこにいても、私たちは皆、イエス様によって引き寄せられたキリストのからだです。

何をしていてもイエス様の十字架の完全さのゆえ、私たちは初めから同じく、赦され続け、受け入れられ、愛され続けています。

今、目に見える教会の外にいる人に、神様は変わらずその愛をささやいてくれています。

届けてください、あなたの声を

届けてください、あなたのまなざしを

届けてください、今も変わらず、無くてはならない、かけがえのないキリストのからだの一部であることを。

届けてください、神様が親しい交流を楽しみたいように、私もそのことを待ち望んでいることを

“わたしがあなたの傷を直し、あなたの打ち傷をいやすからだ。

見よ。わたしはヤコブの天幕の捕らわれ人を帰らせ、その住まいをあわれもう。

…彼らの中から、感謝と、喜び笑う声がわき出る”(エレミヤ30:17~19)

神様の約束のとおり、人々に主の喜びを返してください。」

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“私の歩んだ教会たち”1‐1

教会生活のスタートをきり、小さな試練の中、成長させてもらったことを思い出します。

『むちを控える者はその子を憎む者である。

子を愛する者はつとめてこれを懲らしめる。』旧約聖書 箴言13:24

「私は何のために生きているか」…そんな問いが頭の中を巡っていた私は、大学中退して、東京に出てきた。

バイト先のクリスチャンの友人が祈ってくれていた。
孤独と空虚が私をおおい尽くす中、「あなたは神様に近いよ。」と友人が言った。そのとき、私は私を生かしてくださる神様に出会った。

教会に通いだした。

福音派と言われる中でも、もっとも固い教会だった。聖書にないことはしない…ということで、女性は祈らない、礼拝は楽器を使わない教会である。

その教会堂を貸している方Hさんがいた。“がんこオヤジ”で通っている方で怒ると怖そうな方。

私はその教会にすぐ馴染んだ。東京に出てきて、知り合いもいないような私にとって、そのアットホームな教会は、家族のようだった。

住んでいる場所からかなり遠いので、前日に教会堂に泊めてもらった。

教会学校や週報作り(ガリ版すり)をさせてもらった。

ある日、渾身の力作とばかり週報をみんなに配ると、Hさんが言った。

「こんなお粗末なものは、恥ずかしくて外には出せない!」

私は怒りが込み上げた。悔しくて泣いたような気がする。(あまり、昔のことなので忘れた)

そんな小さな試練を繰り返しながらも、ご飯を食べさせてもらったり、泊めてもらったり、奉仕をさせてもらった。

その教会はクリスチャンである前に、みんな常識人だった。常識に欠けている私はその皆さんに養っていただいた。

気がつけば、4年通い続けていた。そして、忘れることの出来ないのは、私が冬に教会に泊まるときには、“がんこオヤジ”のHさんは、大切なお客様を招くように、いつも部屋を暖めてくれていた。居心地良く泊まれるよう、ベッドメーキングに気を使ってくれた。

誰よりも誰よりも、私の人間的な成長を願ってくれた。

あのとき、「こんな週報は…」と言ったのは、自分が悪者になっても、「もっと良いものを作りなさい。」というメッセージだと知った。

Hさんだけは、その後、私が教会を去った後も、我が子を心配するように、「元気か?」と便りをくれた。

私を育ててくれた牧師はいなかったが、教会のお父さんはいたんだなぁと思う。

###

神様、私は一人で、神様との関係の中、癒され成長してきたように思っているふしがありましたが、あなたが、愛情深い方を備えてくださり、養ってくださったことをありがとうございます。

私がクリスチャンとして最初に大切なことを教えられ、この教会で養われました。

神様、ありがとうございます。

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2009年6月 4日 (木)

“私の歩んだ教会たち”0‐1

神様に出会う前に、教会に行っていました。正統派かどうかはわからないですが、そこで一度洗礼受けました。(イエス様信じてから、受けなおしました。)

『人は心に計画を持つ。主はその舌に答えをくださる。

人は自分の行いがことごとく純粋だと思う。しかし主は人のたましいの値うちをはかられる。

あなたのしようとすることを主にゆだねよ。そうすれば、あなたの計画はゆるがない。』旧約聖書 箴言16:1.2.3

私は高校生の時、「自分は変わりたい」という願望を強く持っていた。

それは、母は大切な人なはずなのに、ずっと中学から反抗期のようになっていて、いつも口では母を言い負かせてしまい母を泣かせ、自己嫌悪に陥っていたからである。

そんなとき、クラスメートがキリスト教会に行っていて、「sebaさんも行かない?」と誘われた。たぶん、キリスト教は新興宗教と違い、自分を変えられるところかなぁと、かすかな期待があって、行った。

その教会は、異言(神様の霊のことば)で良く祈り、聖書はなぜか文語体…。

『愛は寛容にして、慈悲あり。妬まず、おごらず、高ぶらず、己(おのれ)の利を求めずして、他人の義を思う。おおよそ事忍び……。』

聖書事態難しいのに、さらに文語体で、さらに異言。

何がなんだかサッパリわからなかったが、勧められるままに洗礼を受けた。イエス・キリストの十字架を聞いたか…覚えていない。まして、信じたとか、確信とかは程遠い世界だった。

大学に入り、文語体聖書は片身離さず持っていた。しかし、ご利益的な強調が多い教会に、「私は変わりたい。」という私の願望とはかけ離れていた。教会には行かなくなった。

私の一人求道中の始まりだったかもしれない。

ただ、その文語体聖書を飛ばし読みだが、読んでいた。

孤独をつづる日記には、「神様…」と良く書いていた。祈っていたか、記憶はないが、神様がいる確信はあった。

思い返せば、私が通った教会は5つではなく、6つも7つもあったような気がする。

###

天のお父さん、私はこのころ、まだ神様と出会っていませんでしたが、神様がいることを聞いて信じていました。

私が神様に出会う前から教会というところで、神様をいることを信じさせてくれて、ありがとうございます。

文語体の小難しい聖書でしたが、そこから種を蒔いてくださっていたこと、ありがとうございます。

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私ができること…

『必ずわたしはあなたを解き放って、しあわせにする。

必ずわたしは、わざわいの時、苦難の時に、敵があなたにとりなしを頼むようにされる。』旧約聖書 エレミヤ書15:11

ヨエルさんが、夕べ、コメントをくださいました。いつも祈りと誠実さをもって、コメントをくださって感謝しています。

その中に「教会の外と中に“橋”はかけられるか?私たちクリスチャン自身が、“壁”を作っているから無理ではないか…。」とご意見をいただきました。

“橋”は神様が、神様の方法でかけてくださいます。

5月16日のブログから、この教会の中と外の話しが出ました。その日のブログには「神様、私、何か出来ますか。」と書きました。

それから、いろんな過去の出来事などを思い出し、私の中で一つとなっていきました。

そして、すべては神様の中で、私はほんの一部を担うだけなのですが、神様が、私に何をしたらよいか教えてくれました。

私は全自己否定の人間でしたが、イエス様に罪を告白し、全自己肯定の人間に癒してもらいました。

悪いものは吐き出し、良いもの(神様ご自身)を取り入れることの中に癒しと回復がありました。

それを今度はキリストの体でやるよう、教えられました。教会を悔い改めれば、教会はきよめられ、聖霊が満ちます。エゼキエル47章になります。

外の人に対しては、私は教会の人間として悔い改めます。癒しが行われますように。

私自身は壁なので、これから崩されます。どうやってかは、私もわからないし、時間がかかるかもしれないですけど、見ていてください。

私一人が崩れたからって、教会が変わりますか?…大きな壁があったとして、一ミリの穴が開けば、そこから癒しの川は流れるのです。小さな穴は、役割を果たします。

そして、大切なのは、中からではなく、外の人たちから癒しと、とりなしの祈りが始まるということです。

なぜなら、残念ながら、傷んでいるのは中の人ではなく、外の人だからです。そこに癒しがくるとき、赦しの祈りとなり、聖霊に満たされるのでしょう。

これは、私のアイデアではありません。25年間、教会を裁いてきた私には思いつきません。やっと、手放し、赦したばかりの私には思いつきません。

いつ、どんな風にかは、わからないです。

これは、預言とかではなく、私が神様から教えられたことです。

そして、私は悔い改めをすることが宿題となりました。

ブログで、少し教会の悔い改めを祈ったこともありますが、自分が本当に自分のからだとして教会を愛しているか…さぐられました。

まず、自分自身を受け入れるように、教会を自分のこととして、受け入れきることかなと思わされました。

なんか、偉そうなこと言っているかもしれませんが、私自身の右往左往しながらの道を見ていただくだけでいいのです。

たくさんの失敗もあるかもしれませんが、これから、私はイエス様のあとをついていき、悔い改めの道を歩きます。

今、思わされていることは、私は5つほどの教会を変わりましたが、そこにある自分の悔い改める責任の分と人を赦す責任の分を見て祈ることをしようと思います。

自分の責任の分を悔い改めたら、素晴らしいことが起こったのです。

傷と痛みで見えなくなっていた教会の人たちにしていただいたたくさんのことが溢れるように見えてきました。神様の恵みは、教会生活の中にありました。

そのことを振り返りながら、一つ一つの教会にあった恵みを感謝しようと思います。

証のほうは、そんな訳で、私の過去教会のことからになります。よろしくお願いします。

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2009年6月 2日 (火)

「ノンクリスチャンの苦悩」ブログの住人さんへ

昨日のブログ、読みました。「これで教会に行くのを最後にします。ブログ最後にします。さようなら。」との内容。私もあなた様のブログは、定期的に見させていただいていたので、何ともいいようのない、気持ちでいました。

「クリスチャンへ。キリスト教に関係ない方々に対しても彼らが幸せになれるように祈ってあげてくださいね。」

というところが、胸に刺さります。

私も今、ちょうど、教会を静かに去って行かれる方々に対する痛みを祈り始めたところなので。

なんだか、私も同じ教会側の弱さと足りなさをもっている者なので、なんか自分に言われたような気がして、胸が痛みます。

クリスチャンと同じで、教会も不完全です。クリスチャン同士で理解しあえないように、教会にいる人と静かに去っていく人にも溝があります。

私は今、教会の中で、去って言った人たちの声も聞かず、知らず、理解せず、楽しくやっているのは、何かイエス様の愛とかけはなれていると感じています。

誰が悪いのでなく、教会側の私が、まず、私の責任の分として、外の人に謝ろうと思っています。

私のために、謝らせてくださいね。

たくさんの配慮が足りなかったこと、赦してくださいね。

私を含め、教会は自分たちに人を合わせようとしてきました。

私を含め、教会は外に出ていった人を追いかけず、しずかに教会で「教会に戻りますように」とお祈りし続けました。

私を含め教会は、自分の信仰を押し付けてきました。

イエス様にある自由とか喜びはそのようなものではありません。

あなた様のブログからアクセスがあり、追記で、私とヨエルさんの記事とブログのアドレスを今日、載せてくれたことを知りました。

教会行くとか、行かないとか…そういうことが大切なのでなく、私を含めた教会が、一人の人に失意を与え、黙って去らせることに、申し訳なく思います。

私は教会に通いながら、25年間教会をさばいてきた者です。そして、今、その教会を祈り始めました。私も25年分の痛みの体験があります。

もし、良かったら、ここでしばし、一緒に交流されませんか。あなた様の失意が慰めと希望になることをお祈りします。

このブログからのお手紙ですみません。

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「傷ついた」と言う言葉に秘められたもの

「傷ついた」と言う言葉にある本質を教えられたときの話しです。

『さばいてはいけません。さばかれないためです。

あなたがさばくとおりに、あなたがたもさばかれ、あなたがたが量(はか)るとおりに、あなたがたも量られるからです。

また、なぜあなたは、兄弟の目のちりに目をつけるが、自分の目の中の梁(はり)には気がつかないのですか。

兄弟に向かって、『あなたの目のちりを取らせてください。』などとどうして言うのですか。見なさい、自分の目には梁があるではありませんか。

偽善者たち。まず自分の目から梁をとりのけなさい。そうすれば、はっきり見えて、兄弟の目からも、ちりを取り除くことができます。』新訳聖書 マタイの福音書7:1~5

4年前、私は小さな教会に属していた。そして、教会が一つとなって、信仰が試されるお祈りをした。私は神様がこの祈りを喜んでいると感じていた。

が、結果、見た目は何も変わらず、サタンの攻撃もあったと思うが、教会は空中分解して閉じられた。

わずかな信徒たちは、深い痛みを持ったまま、離散された民のようになった。

それから、私のあの喧嘩友だちである彼女は、罪責感や恨みや様々なものにずっと苦しんだ。つい半年程前、「私、自分が全部間違っていたとは思わないけど、きついことばで色々言ったことを牧師婦人に謝りたい。」と言った。

私は彼女のいる前で、牧師婦人に電話した。私も交信途絶えて4年ぶりだった。

「彼女が謝りたいと言っているんだけど、この電話で話しをできますか。」

「牧師は傷つきましたねぇ。私は主人の牧師と相談してからでないと、話せるかわかりません。」

「そうですか。それじゃ、どちらでもいいから、私に電話をもらえますか。」と電話を切った。それから相手から電話はなかった。

誰でも弱さを持っているから、私はそのこと(電話がなかったこと)を受け入れられた。しかし、自分の分を謝ろうとした友人は、きつかったかもしれない。

私は牧師婦人の「傷つきましたねぇ」という言葉にハッとさせられた。私自身、何百回と使ってきた言葉だ。

「傷ついた」…それは、「私の悪い分は0%で、あなたの悪い分は100%です。」という宣言なんだと教えられた。

教会がなくなるに至った経緯の中で、誰が悪かったか。私は自分を含めた教会全員の弱さ、責任だったと思っている。

けれど、「あなたが全部悪い」と誰かが思っているなら、その人は自分の責任の分を所有できない。

人の境界線と同じで、自分の責任の分を所有できない人は、いつも人任せなのである。そして人に振り回される法則から抜け出せない。

私自身は「傷ついた」という言葉は安易に使えないと思った。

私は教会を25年もさばいてきた人間である。さばく、批判することも「私が悪いのは0%で、相手が悪いのは100%」ということだと教えられた。

私は今、人のせいにだけして、人に振り回されるより、自分の責任の分を所有し、人に振り回されることなく、神様と歩きたいと思い始めている。

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2009年6月 1日 (月)

“カルト化した教会”での痛み

私は友人を通して、カルト化した教会で影響を受けた人は、とても深いダメージを負い、その回復に時間がかかるのを見てきました。

『私の兄弟たち。あなたがたのうちに、真理から迷い出た者がいて、だれかがその人を連れ戻すようなことがあれば、罪人を迷いの道から引き戻す者は、罪人のたましいを死から救い出し、また、多くの罪をおおうのだということを、あなたがたは知っていただきたい。』新約聖書 ヤコブの手紙5:19~20

私は、姉や大切な友人が何人も、カルト化した教会に翻弄され、そこから出て、なお、回復するのに、とても苦労するのを見てきました。

私も教会で苦痛を感じましたが、決してカルト教会ではありませんでした。

ちょっと律法主義的であったり、私の考える神様とは違うかなとは思いましたが、それは、それぞれに与えられた信仰の違い程度のことです。

カルト化した教会に深く関わった人は、人格障害みたいになります。

何が正しくて、何が間違いか、拘束から解かれず、普通の生活の中で判断がつかなくなります。

あまりにもそのコントロールが強いので、何をやっても恐れがきます。神の名前を使って、脅されてきたからです。

“教会の外のクリスチャン”を思うとき、彼女たちは、疲れ果て、“神”とか“信仰”と言うことばに対し、深い傷の故に、拒否反応を示し、もっとも教会から離れたところにいる人たちかもしれません。

私は、カルト化教会の専門ではありませんが、身近にあまりにも多く、そのようなところに関わった人がいたので、いろんなことを考えさせられました。

カルト化していく教会は、不思議と同じ道をたどります。違う人たちなのに、なぜだろうと本当に不思議でした。

それは、カルト化教会の本質が、人間の弱さからきているからだと教えられました。

カルト化しそうな危ないと感じる牧師はいます。けれども、神様の顕著な働きや、カリスマ的な引き付ける力がないと、そこは守られる(カルト化しない、誰もそこに巻き込まれない)のかなと思います。

カルト化の定義は神の名前を利用して、自分の私利私欲に人を使い、その拘束力が生活全般に及ぶということだと思います。

「信仰」という名の虐待…(パスカル・ズィビィー著)という本で、私はいろいろ教えてもらいました。

本から引用します。「信仰という名の虐待とは何か…ある家庭は子どもを無視し、親の必要のために利用します。…同じように、普通の教会は、神様の愛と救いを教える場所です。牧師たちは支え、育てていきます。

家族のように信者たちの心を満たさなくてなりません。

しかし、牧師たちの自らの欲求のみを満足させるために信者たちの心を利用するようになると、これは信仰という名の虐待となります。」

長くなりましたので、カルト化の具体的特徴については、次に書きます。

###

神様、あなたは、私たちを自由にするため、喜びを与えるため、豊かに生きるため、イエス様を送ってくださいました。

それなのに、人間的な弱さのため、神様の名前を利用して、神様に集う人を恐怖の中にコントロールする人がいます。

人の深い罪の性質を赦してください。

その中でなお苦しむ人を助け出してください。

そこから出た人に、イエス様の癒しがおおいますようにしてください。

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2009年5月29日 (金)

ごめんなさい

今日、もらったコメントを読んで、心痛み、神様に謝りました。

『自分が義人だと自任し、他の人々を見下している者たちに対しては、イエスはこのようなたとえを話された。…

パリサイ人は、立って、心の中でこんな祈りをした。

「神よ。私はほかの人々のように、ゆする者、不正な者、姦淫(かんいん)する者ではなく、ことにこの取税人のようでないことを感謝します。…」

ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。

「神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。」』新約聖書 ルカによる福音書18:9~14

私は今日の朝方、自分を含めた教会の弱さのため、祈りました。

私は教会にいるといいながら、どこかで教会にいる人とは違っている…と自負していたみたいです。

でも、やっぱり、教会の中の人間で、外に人がこぼれていくのを放置していた人間だと突き付けられた気がします。

先ほど、よく遊びにきてくださる“迷える人”さんから、コメントをいただきました。

その前に出した、私の「聖書を読むと安心が来ますよ」というのに対する返答です。

聖書を読まなければならないように圧迫を与えたみたいです。

謝りましたが、愕然とした感じです。

教会来なさい、祈りなさい、聖書を読みなさい…も無理に強いられたら、新しい規則です。

やはり、私も人を自分に合わせてこようとしてた一人なんだと痛感しました。

“迷える人”さん、ごめんなさいね。そうやって、私や教会は、自分に合う人以外を信仰の名前を使って、はじいてきたのかもしれませんね。

イエス様のところは、何かする世界ではありません。何もしなくていいのです。イエス様を信じる以外。いえ、信じることすら、イエス様がされることですね。

###

神様、自分に人を合わせようとする私を赦してください。

人間が作った領域、壁を悔い改めの中、打ち砕いてください。

イエス様のところにこようとする妨げている私のものを、もっと明らかにして、打ち砕いてください。

ただ、自由に人々が喜んでイエス様の中に憩えますよう導いてください。

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「さあ、天を見上げなさい。」(創15:5)

揺らぎやすい私たちにも、神様はアブラハムへと同じことを語ってくださいます。

『そして、彼(アブラハム)を外に連れだして(神は)仰せられた。

「さあ、天を見上げなさい。星を数えることができるなら、それを数えなさい。…あなたの子孫はこのようになる。」

彼は主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。』旧約聖書15:5.6

アブラハムは、「あなたを大いになる国民とする。」とその子孫の繁栄を約束された。

アブラハムはすぐにでも、子どもが与えられ、そのようになると思ったかもしれない。

しかし、現実は、ロト関係良好を保つため、ロトと別々に住むことになったり、敵からのロト救出劇に翻弄(ほんろう)されたりした。

気がつけば、何も神様の約束は成っていないではないか。

それらの後、神様は幻でアブラハムに臨み、言われた。

「アブラムよ。恐れるな。わたしがあなたの盾である。あなたの受ける報いは非常に大きい。」と言われた。

「神様、私に何をお与えになるのですか。あなたが言う、その子どもがいませんのに。」

アブラハムは、恐れ、揺らいだ。

しかし、神様は「私の言うことが信られないのか!」と激怒なさらなかった。

優しく、アブラハムの心を察し、彼を外に連れ出す。

「さあ、天を見上げなさい。あなたの子孫はこの数えきれない星のようになるのだよ。」と言われた。

私たちに神様は約束をくださる。が、私たちは、いつ、どんな方法をもってか知らず、心揺らぐ。

もしかしたら、私の思いこみ、勘違いであったかもしれないと自分自身に語りかける。

そんな弱い私たちにも、神様は、「さあ、天を見上げなさい。いのちを捨て、あなたを取り戻したイエス様にあって、私は聖書にあるとおりに、あなたの約束を進めている。」と優しく言われる。

『彼(アブラハム)は主(神)を信じた。主はそれを彼の義と認めた。』

「アブラハムは約束を信じた」とは書いていない。アブラハムの信じたのは、約束ではなく、語りかけてくださる神様を信じたのだった。

信じられないような中で、それでも、神様を信じる…それは、神様にとって何より嬉しいことだった。

あのエデンの園でのアダムとエバとの麗しい関係を神様は求めている。

神様を使って、奇跡やわざが行われる…のは違うと今、思う。

私が教えられたことは、何かを信じるのではなく、神様ご自身を信頼する歩みこそが、神様が喜んでくださり、私にとっての最大の喜びだったということだった。

私はその神様との関係になるまで、とてつもなく、長い年月を要してしまった気がする。

アブラハムは神様を信じた。神様はそれを彼の義と認め、受け入れられた。

神様は、アブラハムに語りかけたように、「さあ、天を見上げなさい。」と語られる。私はイエス様を私のためにくださった神様を信じたい。

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教会に聖霊が満ちるまで祈ります

教会に行っていないクリスチャン、痛んでいるクリスチャンの癒しのため、祈ります。

『この川が流れて行く所はどこででも、そこに群がるあらゆる生物は生き、非常に多くの魚がいるようになる。

この水がはいると、そこの水が良くなるからである。

この川がはいる所では、すべてのものが生きる。…

そこの魚は大海のように種類も数も非常に多くなる。…

川のほとり、その両岸には、あらゆる果樹が成長し、その葉も枯れず、実も絶えることがなく、毎月新しい実をつける。

その水が聖所から流れ出ているからである。

その実は食物となり、その葉は薬となる。』旧約聖書 エゼキエル書47章

私は、神様に出会う前はボロボロでした。孤独と虚無感、自己嫌悪と恨みの渦の中にいました。

神様に出会い、喜びながら、なお、痛み、うずく傷に悩みました。

神様は私に自分の罪や弱さを告白し続けるという中、癒し続けてくださいました。

最後の深い傷に至るまで、神様は癒しおおってくれました。

気がつくと、クリスチャンになって、30年になりました。

そんな私に、神様は今度は教会の傷を癒すよう、導いてくださいました。

私がエゼキエル47章のように、赦され、癒され、きよめられたとき、聖霊様に満たし、溢れ、流してくださったように、教会にもそれがなることを信じさせてくれました。

私の神様からの働きはたった一人の癒しになるのかもしれません。

けれども、信仰が与えられ、自分の癒しを通して、教会の癒しの幻を見たので、祈っていくことにします。

教会の罪、弱さのために、神様と、外のクリスチャンに向けて祈ります。

今晩、少し祈ります。私が教会の弱さを祈れるのは、私自身が25年教会の中で、痛み、苦しんだから、そのことを祈れると思います。

“私”で祈りますが、“私”とは、“私を含めた教会”のことです。

「私は長い間、聖書のことばで、人を裁いてきました。そのことを赦してください。

聖書のことばは、本来人を生かすために、神様が与えられたものです。

しかし、私は、その生かすことばをもって、人を縛り、人に新しい規則を作り、新しい罪責感を与えてきました。

神様、イエス様の十字架によって、赦してください。癒してください。きよめてください。

どうぞ、私が語るとき、神様のご性質なる愛と慰め、赦しと受け入れを語れますように。

私は、人には重荷を課しておきながら、自分は教師ですべて立派に努めているかのように振る舞いました。

私たちは皆同じ、赦された者です。

誰か偉くて、誰か偉くない世界は、イエス様にある世界ではありません。

イエス様は、誰かに仕えたかったら、低くなりなさいと言われました。

私の傲慢の罪を赦し、癒してください。

私はどこからそうなったでしょうか。

初めは違っていました。神様に熱心になるうち、初めの愛から離れました。

もう一度、私を初めの愛に戻してください。どこからだったのか、どうすればよいのか教えてください。

私を縛り、捕らえているものから解いてくださり、あなたの愛に憩わせてください。

私を赦し、癒し、きよめて神様の親しい関係に戻してください。

イエス様のお名前によって祈ります。アーメン」

どうぞ、中がきよめられ、外が癒されますように。

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イスラエルの牧者たちはいない(日記より)

3年前のある日の日記に私にとって、大切なことが書かれてありました。

『彼らは牧者がいないので、散らされ、あらゆる野の獣のえじきとなり、散らされてしまった。…

見よ。わたしは自分でわたしの羊を捜し出し、これの世話をする。

牧者が昼間、散らされていた自分の羊の中にいて、その群れの世話をするように、わたしはわたしの羊を、雲と暗やみの日に散らされたすべての所から救い出して、世話をする。

わたしは国々の民の中から彼らを連れ出し、国々から彼らを集め、彼らを彼らの地に連れて行き、イスラエルの山々や谷川のほとり、またその国のうちの人の住むすべての所で彼らを養う。…

わたしは、彼らを牧するひとりの牧者、わたしのしもべダビデを起こす。彼は彼らを養い、彼らの牧者となる。』旧約聖書 エゼキエル書34章

前にブログに書いたが、この“イスラエルに牧者はいない。しかし、わたし(神)はひとりの牧者を起こす”という約束を読んで、私は何度もこの箇所を開いては、「神様、いつですか?」と祈った。

そして、私の中で、この約束は成った!

私が牧師や教会に期待するのを止め、一切を手放したとき、私の中で、イエス様が直接の牧者となってくれた。

その後、そのとき属していた教会は混乱し、最後は閉じられた。

その閉じる3か月前、私は、朝8時から祈り始めて、祈りが止まらず10時間ぐらい祈った日があった。

私は、神様とおしゃべりならいくらでもするが、祈りの賜物があるという訳でなく、祈らされて止まらないというのは、先にも後にもその時だけだった。

神様はエペソ2章を通して、教会に集わないクリスチャンに祝福を与える約束、やがて中も外も一つとなると言われた。

そして、最近、その日の日記に目を通した。今、導かれて祈っているようなことを書いていた。

3年間、そんな祈りをしていたのを忘れていた。メモのような殴り書きの日記だが、ちょっと書き写してみる。

「エゼキエル34章によって、イエス・キリストが牧者となる。

教会の外にいる人に向けていく祈り、

教会と自分の罪の悔い改め、

私の役目はボーダーラインとして悔い改め、外の代弁者となる

リバイバル(信仰覚醒)は悔い改めた者から始まる、私から悔い改めの取り扱いを受けます

私の裁く心、偽り、傲慢は主に嫌われるもの、私は徹底して悔い改めます

この教会、牧師には一切何も求めません

この取り組は私一人で取り組みます

教会の人たちと祈って行きたかったが、一緒に取り組む人がいなかったからです

私の動機は主がご存知です

もし不純なものなら、平安もなく、みことばの慰めもありません、神ご自身が裁かれます

もし動機が純粋であるならば、平安があり、みことばの扉が開かれ、新しい慰めが与えられ、主ご自身のあとおしがあります

キリストの体を離れて働くとき、人はずれやすくなる、だからこれは皆さんに与えられるものでなくとも、与えられたチャンスにこの取り組みをあかししていきます。」

最後のほうは意味不明…皆さんって誰?っていう感じだが、祈りと神様から語られた、まじった感じだろうか。

こんな祈りのメモはすっかり忘れていた。

今、一人でなく、祈り支えの中、神様がこのブログを用いてくれようとしている気がする。

イエス様が一人一人の牧者となり、養われ、喜びますよう祈ります。

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2009年5月28日 (木)

イエス様のいるところにいる

イエス様といるならば、どんなところにも行けるのかもしれません。

『わたし(イエス)に仕えるというのなら、その人はわたしについて来なさい。

わたしがいる所に、わたしに仕える者もいるべきです。

もしわたしに仕えるなら、父(神)はその人に報いてくださいます。』新約聖書 ヨハネの福音書12:26

4年ほど前、そのとき属していた教会でのこと。

教会員の義理の妹さんが26歳という若さで、不治の病になられた。私たち、小さな教会では、癒されるよう祈った。

その妹さんはイエス様を信じた。教会員の人は牧師に見舞いに行って欲しいと願った。が、なぜか牧師は行かなかった。

その頃、私は地元の病院で、「乳ガン悪性の疑い」と言われ、専門の医師がいる病院を紹介された。家から1時間半もかかる都内にある病院だった。

その病院が、教会員の義理の妹さんが入院している病院だった。

私は定期的に診察でその病院へ行った。そして、その妹さんを病院に行くたびに、お見舞いした。

教会の何人かで祈っていたので、彼女は不治の病で、死を前にしているかのようだったが、癒されると信じていた。お見舞いに行くたび、私は彼女と聖書の話しをしたり、祈ったり したが、神様の癒しを信じていたので、命細くなっていくかのようでも、なぜか、安心していた。が、彼女は亡くなられた。(天国へ行かれた。)

私は何もできなかった。なぜ、神様の備えの中、彼女のところへ見舞いに行くことになったかも良くわからなかった。

私の中で、一つ不思議だったのが、別の方の手術のときは喜んでお見舞いに行く牧師がなぜ、彼女を見舞わなかったか…ということ。

ある日、夕食を作っているとき、突然、聖霊様が教えてくれたような気がした。

「牧師は行きたくなかったのではない、行けなかったのだ。」と。

裁く気持ちとかは無かった。牧師は、自分を通して病の癒しが行われるのを強く願っていたのだと思う。回復の見込みのある方の見舞いには行けたが、死を目の前にしている方には、怖くて行けなかったのだと思った。(牧師は自分が行かない理由すら、気がつかなかったと思うが。)

それを教えられたら、なんか可哀想な気持ちすらした。

私たちは何もできないのである。何かできると思い込んだら、成功するか失敗するかに捕らわれるのかもしれない。

私は悲しみの、絶望の闇の中に、イエス様のともしびを持って行きたいと思う。

私は何もできないし、何も起こらないかもしれない。

そこにイエス様がいるなら、一緒に行きたい。

イエス様は言われた。『わたしに仕えるというのなら、その人はわたしについて来なさい。わたしがいる所に、わたしに仕える者もいるべきです。』

「わたしのいるところにいなさい。」と言われる。大切なことは、何かをしようとするのではなく、イエス様と共にいることである。

私と共にいてくださるイエス様がいるならば、私はイエス様とどこへでも行ける。

何かしようというのは無意味なのだ。イエス様と一緒に、悲しむ人、苦しむ人のところにいるだけである。何かをなさるのは、イエス様だけだから。

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2009年5月27日 (水)

“キリストのからだの痛み”を教えられた出会い

私が少しだけ、変えられたのは、友人Mさんによってでした。

『しかしこういうわけで、器官は多くありますが、からだは一つなのです。…

からだの中で比較的に弱いと見られる器官が、かえってなくてはならないものです。

また、私たちは、からだの中で比較的に尊くないとみなす器官を、ことさらに尊びます。…

それは、からだの中に分裂がなく、各部分が互いにいたわり合うためです。

もし一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、もし一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶのです。

あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。』新約聖書 第1コリント12:20~27

私のブログに何回も何回も登場した喧嘩友達Mさん。

彼女は親から虐待を受けて育ち、そのあとも言葉にならないような辛いところを通された。

彼女のような人には、私が語るような陳腐な神の愛は伝わらなかったのかもしれない。彼女は神様から天国を見せられ、イエス様を信じた。

彼女の希望は教会のリバイバルだった。神様の圧倒的な世界を見させられた人の自然な渇望だった。

が、信仰生活の中に、圧倒的な神様のみわざを見ることはなかった。

彼女が最後に属した教会は空中分解し、無くなった。私の属した教会でもあるが。

彼女は親に見捨てられたように、教会に、神様に見捨てられたような痛みが深く残った。牧師たちの外の人たちに対する冷たい対応が許せなかった。そして、いい知れぬ深い罪責感…私のせいで、すべてがこんなになってしまったのかもしれない…に落ち込んだ。

前にも書いたが、彼女と私の大喧嘩勃発の原因は、私が「癒されたら、また、ふさわしい教会を捜して行けばいいよ。」と言った発言あたりからだった。

「sebaさん、それ、おかしい、間違っているよ。」と言われた。『おかしいも何もそれぞれに信じているところでいいんじゃないの?』と私は心で思った。

そんな会話の後、何度か言い合いをした。私は心に決めた。『私は自分の信仰を否定されることほど、嫌なことはない。彼女の前では、“教会”というキーワードはタブーだから、私から言うのは辞めよう。』

その後、彼女は言った。「教会は行かなくていいんだよね。」私は喧嘩にならないように無言を保った。

彼女の気持ちを、あるとき、聖霊様によって知った。

「親から虐待され、その鎖が巻かれた彼女にとって、教会に行くということは、親のところに頭を下げて戻ることと一緒なんだ…。」と。

彼女はACグループ(アダルト・チルドレンのグループ)に通った。

そこでは、何を言っても許される。受け入れられる。「あんな親、ぶっ殺してやりたい!」とある人が叫んだらしい。

教会や私なら、「それでは、癒されるよう、憎しみがなくなるよう祈りましょう。」と言うところだろう。

教会の縛りから解かれ、彼女はアメリカに旅立った。彼女は、私に、「そのままでは、あなたはいつまでたっても外の声は聞こえないよ。」と教えてくれたのだと今、思う。

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“キリストのからだ”の回復のため、私が出来ること

“キリストのからだ”(見えない大きな教会=外のクリスチャンを含めた)の回復のため私は今、何が出来るか考えました。

『男は何かもらえると思って、ふたりに目を注いだ。すると、ペテロは、「金銀は私にはない。しかし、私にあるものを上げよう。ナザレのイエス・キリストの名によって、歩きなさい。」と言って、彼の右手を取って立たせた。

するとたちまち、彼の足とくるぶしが強くなり、おどり上がってまっすぐに立ち、歩きだした。そして歩いたり、はねたりしながら、神を賛美しつつ、ふたりといっしょに宮にはいって行った。

人々はみな、彼が歩きながら、神を賛美しているのを見た。』新約聖書 使徒の働き3:5~9

神様は、今、私にいろいろなことを教えてくれています。

私は、教会の中と外のちょうど、真ん中(教会の中のドア)にいる者です。

長い間、そこにいて教会批判してきましたが、神様によって本当に癒されました。

まだ、教会の中にかろうじている私は、外の人と一番接触したり、話しを聞きやすい者です。

私の喧嘩友達は、外にいて、私に「あなたは変わらなくてはいけない。」と言いました。そして、今、神様は、私が変わることを強く迫っている感じです。

なぜ、私が変わらなくてはいけないか?

私が教会の中と外の“壁”だからかもしれません。

イエス様はすべての人を赦し受け入れてくれますが、多くの教会が人間的に受け入れる枠を作り、その外に人がこぼれていきます。

私自身、教会の中にいて、傍観者のように教会と牧師を批判してきました。

けれども、それは、私が私自身を裁いてきたことと同じかもしれません。

私が変わる…私が外の人を理解し、受け入れることができれば、私は教会のギリギリのドアに立つものなので、その領域は広がるということです。

私はドアに立ちながら、外を見ています。聞こえなかった声を聞けるようになりたいです。

私が教会の中の者として外の人に出来ることはたくさんあります。

教会が何か足りずに、傷つけて、そっと去られた方に、謝ることができます。

痛みを共有し、祈ることができます。

私には、理解しにくいことでも、一緒 に聞く人、共感する人を捜してくることができます。

昨日、「迷える人」さんにettuさんが言ってくれました。

「ここには、是非、悩みだけを持ってきてほしいです。討論、批判、問答はここには似合わないと思いますから…。」と。

25年間、教会批判してきた私は言いたいです。「討論、批判、問答は誰のためにもなりません。何より、自分自身にダメージを与えます。」

悩みや、痛み、悲しみはいくらでもお付き合いしたいです。

それは一緒に祈り、癒されるためです。癒された人は、イエス様の赦しをたくさん受けます。多く、赦された人は、多く愛するのです。

見えないキリストのからだの癒しと回復は、外の人から始まると私は信じています。多く癒され、赦されるからでしょう。

痛みを負う人たちが癒されるために、私は何度でも、自分がしてきた失敗を証します。

すべての人が癒しと回復にいたるイエス・キリストのみ名が語られますように。

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2009年5月26日 (火)

権利を放棄する祝福

自分の権利を放棄する難しさを思います。

『そこで、アブラハムはロトに言った。「どうか私とあなたとの間、また私の牧者たちとあなたの牧者たちとの間に、争いがないようにしてくれ。私たちは、親類同士なのだから。

全地はあなたの前にあるではないか。私から別れてくれないか。もしあなたが左に行けば、私は右に行こう。もしあなたが右に行けば、私は左に行こう。』旧約聖書 創世記13:8.9

私がボランティア役員のリーダーをしていたときのこと。会計報告の計上の仕方で、他の方と意見が違った。私は、どちらが正しいかより、みんなで話しあって決めたかった。が、話し合いはされず、私の間違いとされ、まるめこまれた。なんだか、すごく口惜しかった。

すると神様が、「あなたが低くなるなら、ちょうどいいとき、高くされます。」と言われた。

「え?神様どういう意味ですか?」と聞いたが、私の宿題だったのが、その後の返事はもらえなかった。

自分の権利を放棄するというのは、難しい。私など、不可能に近いかもしれない。

しかし、アブラハムは自分がロトより年長者で、当然彼にある選択権をロトに譲った。

しかも、土地は子孫の約束とからんでいて、アブラハムにとっては、小さな問題ではなかった。それなのに、アブラハムはロトに選ばせ、残りのほうを受け取った。

イエス様のことを宣教して歩いたパウロは言った。

『では、私に(福音をのべ伝えて)どんな報いがあるのでしょう。それは、福音をのべ伝えるときに報酬を求めないで与え、福音の働きによって持つ自分の権利を十分に用いないことです。』(第1コリント9:18)と言った。

この世の中の常識では考えられない発言である。

なぜ、パウロがそう言えたのか。神様であるのに、すべてを放棄し、命まで捨てられたイエス様が迫って来て、パウロ自身、自分の権利を放棄してまで、福音を伝えたい情熱に駆られていたのだと思う。

アブラハムもまた、神様を信じる信仰によって、ロトに選択を任せた。

神様はそのアブラハムの土地を祝福された。

『さあ、目を上げて、あなたがいる所から北と南、東と西を見渡しなさい。

わたしは、あなたが見渡しているこの地全部を、永久にあなたとあなたの子孫とに与えよう。』創世記13:15

アブラハムは神様に信頼し、自分の権利を放棄し、なお、神様の祝福にあずかった。

「あなたの権利を放棄していれば、あなたは神様の時に高くされる。」と私は言われた。

それではその後の私はどうなったか、相変わらず、自分の権利を主張し、高くされる(神様の祝福を見る)にいたっていないような気がする。

###

神様、自分の権利を放棄することは、本当に難しいことです。

もし、私がイエス様によって、自分の権利を放棄できる生き方ができれば、世の中の人は不思議に思うでしょう。

そして、私たちのためにすべてを捨てられたイエス様の愛を知るのでしょう。

権利放棄できないものですが、イエス様によって、できる者へと変えてください。

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2009年5月24日 (日)

荒野にあった“神様の計画”

神様は私が祈った祈りがそのとおりになるため、30年の荒野を通してくれました。

『主は、あなたをエジプトの地、奴隷の家から連れ出し、燃える蛇やさそりのいるあの大きな恐ろしい荒野、水のない、かわききった地を通らせ、固い岩から、あなたのために水を流れ出させ、

あなたの先祖たちの知らなかったマナを、荒野であなたに食べさせられた。

それは、あなたを苦しめ、あなたを試み、ついには、あなたをしあわせにするためであった。』旧約聖書 申命記8:14~16

私が神様に出会った日、「神様、私を使ってください。」と願った。

神学校に入るとき、「神様、入ってよいか、神様のことばが必要のようです。」と祈り、神様は「主がお入り用です。」と壊れたレコードのように、繰り返し語ってくださった。

神学校を卒業し、「神様、私が神様のことばを伝えるための約束をください。」と韓国の断食祈祷院に行ったとき、神様は、「あなたがたの手で、食物を与えなさい。わたし(イエス)が奇跡をなすから。」と言われた。

28歳だった私は、「こんなに神様を伝えたいという情熱がある私なのだから、神様の願いと私の思いが合致しているのだから、神様の働きをするのに、何の支障もないよね。」と思った。すぐ、神様の働きが開かれると思っていた。

あれから、22年、私はかなり怠けた主婦業をしながら、PTA活動や地域ボランティアや、ランチにいそしんでいる。

神学校を出たときは、教会の中で働きたかった。漠然と、牧師になろうと思っていた。

が、神様はその道は開かなかった。教会嫌いの、人好きの主婦になっていた。

昨日も8年前に、PTA役員をやったお母さんたちとの飲み会があった。あんなに、神様の働きだけを追及していた私が、癒されて、普通の主婦に溶け込んでいる自分が不思議である。

人好きだから、ボランティアもランチも飲み会も、人と会うのは、すべて同じように楽しくてならない。

神様は私の心が癒されて「人好き」の賜物をくれた?と思うほど、人と関わるのが楽しくなった。

今、ブログを通して、私の人との関わりと祈りの領域は広がった。

そして、ブログは、私のまわりにあるすべてをとっぱらった私の一番大切にしている部分の分かち合いである。

それを、読みに来てくださる方たちがいて、ある人は毎日来てくれて、私の話しに耳を傾けてくれるという無言の、しかし、私の一番大切なものを聞いてもらうという深い交流をさせてもらっている。

私がなぜ、30年近く、教会生活に翻弄(ほんろう)されたか。それは、神様のマナ(聖書のことば)を荒野で食べさせもらうためだった。

そして、私は苦しみ、私は訓練され、今、大切な聖書のことばを大切な人たち(会ったことも話しをしたこともない大切な人たち…不思議である)と分かちあい、しあわせな生活に至っている。

人の計画と神様の計画は違う。「神様、私を使ってください。」「神様、あなたのことばを伝えさせてください。」という若き日の祈りは、きかれた。その祈りがそのとおりになるため、神様は荒野を歩ませてくださったと知った。神様の計画のその配慮のきめ細かさ、深さ、高さを思い、ただ神様をほめたたえる。

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2009年5月23日 (土)

“キリストのからだ”のための祈り

“キリストのからだ”が癒され、一つになるように、私の“キリストのからだ”への悔い改めの祈りをしました。

『私はひたすら沈黙を守った。よいことさえ、黙っていた。それで私の痛みは激しくなった。

私の心は熱くなり、私はうめく間に、火は燃え上がった。そこで私は自分の舌で、こう言った。…

主よ。今、私は何を待ち望みましょう。私の望み、それはあなたです。

私のすべてのそむきの罪から私を助け出してください。私を愚か者のそしりとしないでください。』旧約聖書 詩篇39:2.3.7.8

今日、自転車で遠くに出かけました。夜、帰り道、神様と話しをしていたら、聖霊様で胸が熱くなり、苦しくなり、自転車から降りて自転車を引きながら、神様に謝ることにしました。

「神様、私は長い年月をかけて、イエス様の十字架で、罪を告白し続けて、癒してもらいました。

私の心は聖霊様が住まわれ、溢れ、流れるような感じです。

それなのに、私は教会のことは、ほとんど祈ってこなかったです。ごめんなさい。

神様は私が癒されたように、キリストの体が癒されるのを願っているのを知っています。

今、私が教会に対して祈って癒しを願ってこなかったことを認めます。ごめんなさい。

イエス様の体である教会は見えない大きな体です。その半分は、共に集い、見える教会になっています。あと半分は見える教会から、そっと離れていった人たちです。

見える教会への罪を告白します。

私は25年間、教会を裁き、批判してきましたが、そのことを赦されたことを感謝します。

けれども、教会を手放し、期待しないところで止まっていました。

『自分の敵を愛し、祈りなさい。』とイエス様は言われました。教会は敵ではありませんが、“敵”は“自分に苦痛を与えるもの”とするなら、当てはまります。

教会のために祈らなかったことを赦してください。

見える教会はイエス様の体の半分です。そこがもし渇いているなら、聖霊による潤いを求めるべきでした。

見える教会から離れていった人たちの苦しみと痛みを知らずにすみませんでした。

これからは、ただ心を真っ白にして、その人たちのうめきと叫びを聞かせて、祈らせてください。

そして、その人たちの痛みと傷が神様によって、慰められ、癒されますように。

ドイツのベルリンの壁が両方から打ち砕かれたように、教会の外と中から打ち砕いてください。

教会の壁とは、イエス様の十字架以外のものです。神様の方法によって、壁を砕き、キリストの体をひとつとしてください。

イエス様の赦しにあって、一つとしてください。

私は自分がただ神様の御手で癒され、回復したので、同じように、痛んでいるイエス様のからだも癒され、回復し、一つとなることが信じられます。

どのようによってかは、今の私にはわかりませんが、あなたがなさることです。

キリストのからだが一つになる喜びも教えてくださり、ありがとうございます。

引き続き、キリストのからだのために祈っていきますので、導いてください。」

聖霊様が迫ってきて、胸が熱く、苦しくなります。頭は熱くなりません。もしかしたら、私の狭い容量の心が、イエス様の痛みを知れるように少しだけ造り変えられたのかもしれません。

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2009年5月22日 (金)

“契約”する神様

神様が今、私たちとしてくれた“新しい契約”とはどんなものでしょうか。

『わたし(神)はあなたがたと契約を立てる。すべて肉なるものは、もはや大洪水の水では断ち切られない。もはや大洪水が地を滅ぼすようなことはない。』旧約聖書 創世記9:11

聖書には、“契約”ということばがたくさん出てくる。

そもそも、新約聖書、旧約聖書の“約”が契約のことで、新しい契約の聖書、古い契約の聖書ということだろうから、聖書は、別の見方をしたら、契約の本かもしれない。

“契約”というと、何を思い出すか。私は、とにかく、引っ越し貧乏で、アパートを借りるたびに、“賃貸契約”をした。

私たちが結婚した頃は、貧しかったので、安い場所に住んだ。そこから、少しランクが上のアパートに引っ越ししようと契約をしにいくと、窓口にいたきつそうな受付の女性の人が、メガネの底からこっちをにらみつけ、「本当に月々支払えるんですか?」と言った。見通しが立っているから借りたのに、見た目で判断され、屈辱的な思いをした。

一般的に“契約”には、4つの要素があるとのことだ。当事者、条件、約束、罰則である。

たとえば、賃貸アパートを借りる場合、当事者は“家主”と“借りる人”、条件は“規則を守り、月々お金を支払う”、約束は“更新時まで、住むことができる”、罰則は“規則に反した場合、即刻出ていく”というようなところだろうか。

旧約聖書で契約と初めて出てきたのが、ノアの契約においてとのこと。この契約には神の恵みの一方的な特質がよく示されているとある。

“契約”の4つの要素に照らし合わせてみたい。

まず、当事者は“神ご自身”、条件は“無条件”、約束は“もう水によって滅ぼさない”、罰則は“無し”である。

つまり、神様は、一方的に、何の条件もなく、普遍的に、永遠に、決して再び洪水では滅ぼさないとした。

今、私たちは新しい契約の時代に入っている。

それはイエス・キリストによる契約である。神様と罪人である私は契約を結んだ。条件はイエス・キリストの十字架の赦しを信じるということ。約束は、私のすべての罪は赦され、神様の子どもになれる。罰則は、もし、信じなければ、罪の結果の裁きをうける。

イエス・キリストの十字架のおかげで、私は何も他に支払うことなく、他に付け足す条件もなく、神様の子どもになる契約が成立したのである。

私が、神様がくださった契約書には、「イエス様を信じます」という告白だけで、イエス様の十字架の支払いによって、神様から契約成立という判こを押してもらい、約束のしるしとして、聖霊様をいただいた。

様々な人間的な契約は、私の条件が吟味されるが、神様がなされる契約は、イエス様のゆえに、私たちの側は無条件であることは、素晴らしい。

###

神様、私たちは今、イエス様の十字架によって、新しい契約を結んでいることをありがとうございます。

イエス様の十字架の支払いが完全であるゆえ、何も他に付け足さす、私たちの条件は一切問われていないことをありがとうございます。

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牧師の前で、友人と大喧嘩(過去扁)

友人の引っ越しを手伝いながら、今まで経験したことのないような、天国のような平安を感じました。

『友はどんなときにも愛するものだ。

兄弟は苦しみを分け合うために生まれる。』旧約聖書 箴言17:17

私が喧嘩友だちのMさんと出会ったのは、5年前。預言者的賜物があるせいか(わからないが)、彼女は優しい反面、ズバリと指摘してくる手厳しいところがあった。

私たちは小さな教会で女性3人で祈り会をしていた。そこにMさんがやって来て、言った。

「みんなさぁ、牧師のいないところで、牧師の悪いところ言うの、やめたほうがいいよ。」私は、「言えないから、こうして祈っているんだよ。」彼女いわく、「言えないって、誰だっていいたくないけど、言っているんだよ。」

ある日、牧師を囲んで、教会のことについて話す場所を作った。私とMさんは、「牧師に思っていることを言おう。」と前日、打ち合わせ済みだった。

ところが、どうしたことか、牧師を前に(牧師はかやの外)私たち2人の激しい言い合いになった。

「sebaさん、あなたが言いたいことを牧師に言わないからダメなんだ。」と言われる。「だから、Mさんみたいに言える人ばかりじゃないんだよ。」「言え!」「言えない!」「言え!」「言えないってば!」

牧師はオロオロしていた。

私たち仲がいいときは、本当に親密だった。が、「変われ!」「変われない!」という喧嘩になると最悪な感じだった。

そんな彼女がアメリカ行きが決まり、最後の2日間、引っ越しの手伝いをした。何を話す訳でもなく、船便荷造りなど、ひたすら手伝った。

ときおり、ご主人の英語とMさんの日本語のやり取りなど、聞きながら、私は今まで感じたことのないような、Mさんと共に過ごす空間に浸っていた。

何故、あんなに幸せを感じたのか…今、わかった気がした。

彼女は、教会の外にいるクリスチャン。彼女を少し理解するのに、5年もかかった。何度も、似たような喧嘩をしながら。

そして、もうしばらく会えなくなる、引っ越し手伝い日は、きっと天国で味あうような、“和解”のときだったかもしれない。赦しあっていないとか言うのではないから“和解”という言葉がふさわしいか…わからないが。

彼女は、私にとって、教会の外の代表だった。彼女に「変われ」と言われた。「変われって言われてすぐ変われないよ。」と言った。

私は教会の中の人と外の人の間に立つ人間。

外の人が何を感じ、苦しんでいるか、彼女からたくさん教えられた。

「変わりなさい。」と今神様から言われている気がする。祈らなかった教会のために祈るように。外の人の声をまっさらになって聞けるように。

あの日、私は教会の外の人と、和解した体験だったのかもしれない。

彼女は、別れ際、私をハグしてくれて、「sebaさんは私の本当の友だちだよ。」と言ってくれた。私もそう思った。

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2009年5月21日 (木)

ノアの涙

ノアの話しを通して、教えられた分かち合いです。

『主(神)は、地上に人の悪が増大し、その心に計ることがみな、いつも悪いことだけに傾くのをご覧になった。

それで主は、地上に人を造ったことを悔(く)やみ、心を痛められた。・・・

そこで、神はノアに仰せられた。「すべての肉なるものの終わりが、わたしの前に来ている。地は、彼らのゆえに、暴虐で満ちているからだ。それで今わたしは、彼らを地とともに滅ぼそうとしている。…

しかし、わたしは、あなたと契約を結ぼう。』旧約聖書 創世記6:18

“ノアの方舟(はこぶね)”と言うと、可愛いお舟に、ゾウやら、キリンやら、ウサギやら…顔を出している絵が浮かぶ。

私も何回も、教会学校で子どもたちに話しをしてきた。妙に、明るい、楽しいイメージがついている。

今回、祈って神様から2つのことを教えられた。

ノアの方舟の話しとは、神様が、人々が悪に満ちているのを嘆き、水で一掃しようとされる。しかし、神様に喜ばれる存在のノアと家族は、動物たちとともに、神様の教えてくれた方舟を作り、それに入って助かる。イエス様を信じるものは、同じよう、さばきから守られることを象徴している。

教えられた一つめ。私たちは、イエス様信じて、方舟に乗ろう…とよく言われる。

しかし私はその時代に生きていたら、確実にノアではなく、“悪いことにだけ心が傾く人”、裁かれ、滅ぼされる側の人間だった。

私は神様から見たら、嘆かれ、悔やまれ、悲しまれ、裁きをうける者だった。

ノアの話しは、そんなに明るい楽しい話しではないのではないか。

教えられた2つめ。ノアが方舟の中で、何を思っていたかということ。

私があまりノアの話しに身近さを感じないのは、ノアが立派すぎる人のイメージがあるからかもしれない。(雨も降らない中、ただ神様を信じて、人々にバカにされながら、黙々と方舟を作っていた。)

ノアは、方舟を作りながら、他の人たちに、神様の計画を話し、悔い改めるよう説得したかもしれない。誰もノアの話しを信じなかった。

ノアは家族と方舟に入り、大雨が40日40夜降り続いたとき、神様に守られたと、楽しんだだろうか。

ノアは泣き崩れて号泣したかもしれないと想像したら、なんだかノア自身が、すごく身近かに感じられた。

ノア自身は神様を信じて、裁きから免れたが、家族以外は、すべての人が裁かれ、水の中、死んでいった。

「神様、私は一人も神様を信じるよう、伝えられませんでした。」ノア自身、自分は助かったが、自分の無力感を感じていなかっただろうか。

自分たち以外は、裁かれ、死んでいく。今、イエス様を信じなかった人に起こることは何か。もう水で滅ぼされることはないが、次は火による裁きが予告されている。

私は笑うクリスチャンでいるより、裁きを見せられながら、泣いて祈る者でありたいと思った。

私は今、イエス様によって、裁きから守られている。私が方舟に乗れた(イエス様を信じられた)のは何故かわからない。

けれども、なんのために乗っているかはわかる。うしろの戸(創世記7:16)が閉ざされる前に、一人でも多くの人が一緒に方舟に乗れるよう、祈るためである。

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“聞く”能力

ブログ近況報告です。

『神である主は、私の耳を開かれた。』旧約聖書 イザヤ50:5

私のブログ訪問を定期的にしてくださる方々に、いつも、感謝しています。

いつも話しますが、私にブログを毎日書かせる動機は「訪問してくださる方がいる。読んでくださる方がいるから書こう。」ということです。

それは我が家に訪問してくださる方のために準備して、ワクワクしながら、待つ…そんな感じです。

私が、おもてなしの中で大切にしたいことは、「私は、あなたと親しく、楽しく、深くお話しをして、関係を深めたいのです。」ということですね。

私は、実生活では、「聞き上手だね。」と友人から時々言われます。私に与えられている能力、賜物の一つと思います。

これは、心が癒されてから、顕著になりました。私は、最高の相談者である神様に何でも相談して、安心しているので、聞いてもらって嬉しいことが人にもしたいのかもしれませんね。

ブログは“書く”という作業ですが、ここでも、私は神様から“聞く”“教えてもらう”という作業をフルにしています。私のわずかな聖書知識や、アイデアでは書けません。だから、“書く”という作業をしながら、私自身が神様から“聞く”ことをしているので、楽しくて仕方ありません。

最近、もうひとつ“聞く”場所が開かれ始めているように思います。

“教会の外にいるクリスチャンの声を聞く”ということです。

私はこの“外にいるクリスチャンの声”を聞いて祈る、もしくは、聞いて、“教会の中の人に伝える”そんなことを任されているような気がしてきました。

今、神様から“聖書の恵みのメッセージ”と“外にいるクリスチャンに対するメッセージ”同時に両方教えられています。

ここでのブログの神様から教えられた聖書の話しは、私にとってもかけがえなく、ずっと続けさせてもらおうと思っています。

もう一つの“外のクリスチャンが神様の約束を体験する”ことを見るために、“聞いて書く”作業はしばらく、合間合間にいれさせてもらいます。

もし、導かれたら、後者のほうだけを新しいブログ開設にして、いつかお引っ越しするかもしれません。

それまで、両方にお付き合いください。聖書の話しは、祈りつつ、1日一つはアップしたいと願っています。

また、コメントの少ないブログでしたが、新しいテーマのせいか、最近時々、コメントをいただいています。交流好きの私としては、幸せ倍増です♪

お時間があったら、コメントも是非、読んでください。私の思いを強力にサポートしてくれ始めたettuさんの思いも綴られています。

神様の良いものをたくさん、分かち合えますよう、心からお祈りしています。

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2009年5月20日 (水)

“教会の外にいるクリスチャンへの約束”

教会の外にいて、痛んでいるクリスチャンのためにお祈りしたいです。

『わたし(神)が彼らを、その地、イスラエルの山々で、一つの国とするとき、ひとりの王が全体の王となる。彼らはもはや2つの国とはならず、もはや決して2つの王国に分かれない。…

わたしのしもべダビデが彼らの王となり、彼ら全体のただひとりの牧者となる。…

わたしは彼らと平和の契約を結ぶ。これはとこしえの契約でとなる。わたしは彼らをかばい、彼らをふやし、わたしの聖所を彼らのうちに永遠に置く。

わたしの住まいは彼らとともにあり、わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。』旧約聖書 エゼキエル書37章

私は25年間、教会に通いながら、教会や牧師を非難し、裁いてきました。

私の信仰生活は、神様から直接の癒しを受けながらも、教会に対しては、苦痛を感じるだけの者でした。

私の日常の一番の悩みは、長い間教会のことでした。

教会は幾つか変わりましたが、よく、教会に行き続けたと思います。それは、ただ神様が私を捕らえてくださっているゆえのあわれみと思います。

4年程前、神様の恵みの中で、関わってきた教会、牧師を赦しました。手放しました。そこに期待することを一切やめることができました。

すると、不思議と、イエス様の十字架の赦しと神様の私への溢れるばかりの思いが注がれました。

目に見えるところから手を引き、ただ神様に信頼する生活が始まりました。

最近、目に見える教会に連なっていないクリスチャンのことをとても考え、祈るようになっています。

イエス様の赦しをいただき、「天のお父さん」と呼ぶ聖霊の救いのあかしをいただいているのに、神様を共に喜ぶ交わりがないため、痛んでいる人たちがたくさんいるのかもしれないと思いました。

4年前、神様がエペソ2章を通して、イエス様の十字架で、教会に集う人たちも教会に集っていない愛されているクリスチャンも、神様はひとつとしてくださるという約束を神様から聞きました。

まだ、教会の外にいるクリスチャンのために、そんなに祈っていないときだったので、良く分からなかったけど、約束の意味は漠然とわかりました。

今日、聖霊様がエゼキエル37章を通して、2つのものをイエス様によって一つにしてくださる約束、そして、神様の臨在(聖所)によって、神様と共にいる幸いの約束を神様から教えられました。

教会の中が、きよめられ、エゼキエル47章のように、聖霊の川が外に溢れますように。

教会の外にいる人たちに癒しが与えられ、神様の臨在の中、神様を崇めていけますように。

『ただわたしのしもべダビデ(イエス・キリスト)が彼らの王となり、彼ら全体のただひとりの牧者となる。』

イエス様によって平和が与えられ、2つのものを一つにし、隔ての壁が打ちこわされますように祈ります。(エペソ2:14)

私ができることは、お祈りすることだけかもしれませんが、癒しと回復と主の臨在を体験できるよう祈ります。

祈りの課題をくだされば、お祈りします。

神様の約束のみことばを信じる方は、共にお祈りしましょう。コメント欄にハンドルネームだけでもくだされば、お祈りします。

共に神様のみわざを祈り、神様がなしてくださる約束と回復を見ていけますように祈ります。

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2009年5月19日 (火)

天国に移される日

私が天国へ移される日、エノクのようでありたいと願います。

『エノクは神とともに歩んだ。神が彼を取られたので、彼はいなくなった。』旧約聖書 創世記5:24

天国に行くとはどんな風か。ハ・ヨンジョ師の本に、次のような記事があった。

「神様は、朝にエノクの家のドアをノックする。そして、神様は彼を共に過ごす場所へと誘う。エノクは喜んで、神様と出かける。

そして、次の朝も、またその次の朝も…神様はエノクを誘いに来る。エノクは喜んで、毎日、お弁当をもって一緒に出かける。

ある朝、「さあ、愛する人よ。今日は私と遠くに出かけましょう。」と言われる。

「はい、もちろん。喜んで、一緒に参ります。」そうして、エノクは、大好きな神様と遠くに出かけ、家に戻ることはなかった。」

こんな感じの話しだった。

私はとても分かりやすいこの描写が、心に残った。

天国ってどんなところか?地上にいるとき、神様と共にいる喜びを知っている人が、天国で神様と共にいられる素晴らしさを思い描けるのではないか。

私は天国を待ち望んでいるだろうか。

私の今の正直なところの祈りはこんな感じである。

「神様、今、息子は13歳です。どうか、息子が一人立ちするまでは、私を地上においてください。

最近、ブログを通して、たくさんの霊的な祝福をいただいています。もう少し、この地上において、楽しませてください。」

この祈りが神様から見てどうなのかは、わからない。けれど、私はいつか神様の臨在される天国にいくんだなぁとは思っている。

「さあ、今日は私と遠くに行こう。」と神様から言われたとき、「ちょっと待ってください。まだ、やろうと思ってやっていないことがあるので…。」とならないよう、与えられている日々、神様と共に歩みたい。

♯♯♯

神様、あなたが私たちに素晴らしい天国を用意してくださっていることをありがとうございます。

私たちは100%肉体の死を経験しますが、その死すら神様にあっては、慰めと希望であることをありがとうございます。

どうか、この永遠の慰めと希望がたくさんの人たちのものとなりますよう祝福してください。

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2009年5月18日 (月)

“買い戻された”神

私は、神様からどれだけの価値があるか、それは“買い戻された”代価でわかります。

『神である主は、アダムとその妻のために、皮の衣を作り、彼らに着せてくださった。』旧約聖書 創世記3:21

アダムとエバは神様との約束をやぶり、善悪の木の実を食べてしまい、目が開かれ、裸を恥ずかしく思った。神様は動物の皮の衣を作り、着せてくれた。

動物を殺し、その皮で衣を作り、着させてくれた…これは神様に近づくための旧約の時代のいけにえが暗示されている。

神様の前に罪などをつぐなうために、動物の命である血が使われた。

新約においては、イエス様が、そのいけにえとなり、私たちの罪を償ってくれた。

神様はこのいけにえの血によって、罪ある人を“買い取る”ということをした。

この“買い取る”ということばは、“あがなう”と言うことばで使われている。

『ご承知のように、あなたがたが先祖から伝わったむなしい生き方から“あがない出された”のは、銀や金のような朽ちる物にはよらず、傷もなく汚れもない子羊のようなキリストの、尊い血によったのです。』第1ペテロの手紙1:18.19

もし、自分の大切な誰かが、過ちをおかし、牢屋に入ったとする。その罪のつぐないを、身代金がわりに私の子どもを差し出せと言われたら、絶対にできない。まだ、借金してでも、お金を工面することならできるだろうと思った。

そのとき、『銀や金のような朽ちるもの』の意味がわかった気がした。それは私を“買い戻す”には役にたたないのだ。神様の一人っ子であるイエス様の命の血という大きな代価だけが、私を買い戻すために使われたという意味がとても身近に差し迫ってきた。

私をこの世から“買い戻す”ために神様は一番大事なもの…お金になどには変えられない一人の子どもの命を差し出してくれた。

私は神様に尊い代価で買い取られ、神様の子どもにされた。この事実を前に、私は神様に何をお返しできるだろうか…。

お返しできるものは何もないのである。

神様がイエス様の命で買い戻されたのは、私のお金や神様に喜ばれる行いが欲しかったからではない。神様がイエス様の命の代価で買い戻されたのは“私自身”そのもののためだった。

♯♯♯

神様が、もっとも大切にされているイエス様の命で、私を“買い戻す”ことをしてくださり、ありがとうございます。

私はお返しするものは何もありませんが、私自身を差し出します。私をきよめてください。

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人を動かす“十字架の力”

『ユダヤ人はしるしを要求し、ギリシャ人は知恵を追及します。

しかし、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えるのです。

ユダヤ人にとってはつまずき、異邦人にとっては愚かでしょうが、しかし、ユダヤ人であってもギリシャ人であっても、召された者にとっては、キリストは神の力、神の知恵なのです。』新約聖書 第1コリント人への手紙1:22~24

2日前、私のブログ人生の中で初めて(って…まだ10か月だが)コメントを5個もいただいた。

そして「毎日更新、凄い」とのお褒めのことばをいただいた。

「パパ、毎日更新凄いねってほめられたよ。」というと、主人すかさずこう言った。

「はい、私(sebaのこと)は、日夜、家事も忘れて、何にも優先して書き続け、疲れては休息し、また、書き続けるのでした。」

まさにそんな感じ…。私も主人と大笑いした。

コメントで、「キリスト教ってシンプルですね。」といただき、まさに、そのとおりと思った。

今から一年前。私が日曜日の礼拝に行くたび、「イエス・キリストの十字架!!」というイメージが礼拝場所を包んでいた時期があった。

そして、「イエス・キリストの十字架が一番大事なんですよね。神様。」と祈っていたとき、「そうか!イエス様の十字架がなかったら、神様との交わりも何もないのか。神様とは出会えなかったんだ。」と、その十字架の恩恵を改めて、ひしひしと思った。

私の今日のビッグな出来事…それは私のためにイエス様が十字架にかかってくれたこと…すべてはそこから出発する。

私は意志も弱く、努力家ではない。もし意志が強く、努力家だったら、挫折して神様のところにたどり着いていなかった。

何もできない私を動かしているもの、それは、イエス・キリストの十字架の愛なのだと思う。

十字架だけが凄いと思えたのは、本当に最近だが、きっと、理屈を越えたところで、造り変え、動かしてきてくれたのは十字架の力なのだと思う。

「教会行かなくていいよ。」「聖書に従わなくていいよ。」とか言ったら、非難を浴びそうである。異端児扱い!?

だけど、「十字架以外に大事なものはない。」と言いたい。十字架の愛の力だけが、人を変え、人を動かすから。

「十字架を信じているなら、これをしろ、あれをしろ。」と思うかもしれないが、十字架に突き動かされたら、きっとじっとはしていられない。

私はブログ中毒…大丈夫か…と思うが、イエス・キリストの十字架に今、新たな思いで出会い、分かち合いたい気持ちが溢れている。

ブログ訪問してくださり、読んでくださる方々に心から感謝しています。

そして、「イエスの十字架だけが大事なんだ!」と共感してくださる方が増えてほしいと願っています。本当の神様の恵みはイエス様の十字架から流れています。

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2009年5月17日 (日)

“いのち”につながっている

イエス様の十字架で、私たちは“いのちにつながっている”ことを思います。

『もしひとりの人の違反により、ひとりによって死が支配するようになったとすれば、なおさらのこと、恵みと義の賜物とを豊かに受けている人々は、ひとりの人、イエス・キリストにより、いのちにあって支配するのです。』新約聖書 ローマ人への手紙5:17

アダムとエバによって、“霊的な死”が入った。

“霊的な死”は、神様とのふさわしい関係が切れること。その結果、人は自分や人や状況の中に縛られるようになる。

イエス様の十字架によって、信じる者には、“霊的ないのち”が与えられた。

“霊的ないのち”とは、神様とつながること、神様との関係がもてること、神様から良いものをいただけること。

“霊的ないのち”をわかりやすく説明しているのが、ヨハネの福音書15章にある“ぶどうの木と枝のたとえ”と思う。

そこでは、神様が農夫で、イエス様がぶどうの木、私たちがそこにつながっている枝だとある。

枝である私たちは、ぶどうの木の養分をもらって生きる。

『あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。』ヨハネ15:7

この聖書のことばは、「神様に従うなら」とか「聖書の言うとおり行うなら」と、私は勘違いしていた。

これは、イエス様につながっているなら…つまり枝となって、ぶどうの木につながっているならという意味と最近知った。

「わたし(イエス)にとどまるなら何でもも求めなさい」と、私は神様から言われ、「え!?神様に喜ばれることを求めるのでなく…何でもですか?」と聞いたことがあった。

最近、その意味がわかってきた。つまり、イエス様につながっていたら、イエス様の願うことを自然に考え、願う。それが、イエス様の木につながる枝ということ。

そして、一人一人違う個性や働きや能力が与えられているので、イエス様色のいのちが流れて、何を願うかは、実は、みんな違うということ。

私はイエス様のいのちを注がれて、私だけが願うことがあり、私だけが結ぶ実があるということ。

これが、イエス様のいのちが自分に流れているということだと思う。

だから、教会みんなで、同じ方法で伝道したり、同じ方法で何かをやるのは、いのちの法則では、ちょっと無理があるかもしれないと最近思うようになった。

イエス様は十字架で、私たちをイエス様のいのちにつなげてくれた。

私は何もできていないようでも、イエス様のいのちは脈々と私の中に流れている。

♯♯♯

私たちは神様に喜ばれているか、喜ばれていないかなど、気になりやすいですが、それは関係なく、すでに、イエス様の十字架によって、いのちを受け継いでいることをありがとうございます。

イエス様が、私たちにいのちの栄養を流して、イエス様の実を結べるようにしてくれていることをありがとうございます。

そのいのちの結果の実をたくさんつけられるよう、私たちを祝福してください。

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2009年5月16日 (土)

教会の外のクリスチャンへ、ettuさんへ

昨日からずっと思っていることです。私の願いと祈りです。

『女が自分の乳飲み子を忘れようか。自分の胎の子をあわれまないだろうか。たとい、女たちが忘れても、このわたし(神)はあなたを忘れない。

見よ。わたしは手のひらに、あなたを刻(きざ)んだ。』旧約聖書 イザヤ書49:15.16

昨日の日中、ちょうど、キリストの体=教会について、お祈りしていました。

「日本の中の“見えないキリストの体”(イエス様を信じているすべての人)の半分は教会に行っていない人たちでしょうか。

その中で私が出会える人は何百万分の一にも満ちません。

神様、どうかその教会に行っていない半分のクリスチャンを覚えてください。

私は目に見える私が関わった教会を赦し、手放し、期待することをやめました。

そして、教会の外のクリスチャンのために祈ってきました。

けれども、もしかしたら、教会の中こそ、欠乏しているのかもしれません。

日本は、過去の戦争など、事実の罪を悔い改めない国と言われています。日本の上空は、黒い悪霊の雲でおおわれ、神様の働きが妨げられているのかもしれません。

教会にも神様が働きにくいのかもしれません。

私は教会の外にいるクリスチャンに関心がありますが、教会の中がきよめられ、聖霊に満たされたら、そのきよい水が、エゼキエル47章のように、外に流れるのかもしれません。

私自身、赦され、癒され、きよめられ、神様の溢れる愛に包まれました。

教会の外の人たちのために、中を祈っていくことが必要なのかもしれません。

神様が、少しずつ、私の祈りを変えてくださることをありがとうございます。」

そんな祈りをしていました。その夜、今は教会の外にいるというettuさんより、コメントをいただきました。

このブログは始めはノンクリスチャンの友人への神様の紹介と思って書き始めました。

だから、本心の教会への苦痛の体験を書き出したときは、すごくためらいました。ノンクリスチャンの友人が、「教会ってそんなに大変なところなの?」と思われたら…せっかく神様のすばらしさを伝えたいはずなのにと。

でも、書いていくうちに、私が人と分かち合えることは、教会で苦しんだ25年の信仰生活から生み出されたものだったと気がつかされました。

ettuさんのコメントを読んで、「神様、教会の外の人たちのために、私、もっと何かできないでしょうか。」と思っています。

教会の外にいるクリスチャンの苦悩。変わらず、神様に愛されているのに、違うメッセージを受け、失望している人たちに、神様は「あなたをそのままで愛している。恋人の名前を手のひらに刻むように、あなたの名前を刻んでいる。」と、言っています。

私ができること、神様が願っていること…神様に聞いていきます。

ettuさんの傷が完全に癒されるよう、祈ります。そして、一緒に外のクリスチャンの癒しのために祈りましょう。神様が良いことをしてくださることを信じて。

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2009年5月15日 (金)

自分を所有する大切さ

“責任転嫁する”に対するのは“自分を所有する”ということかなと思います。

『すると、(神は)仰せになった。「あなたが裸であるのを、だれがあなたに教えたのか。あなたは、食べてはならない、と命じておいた木から食べたのか。」

人は言った。「あなたが私のそばに置かれたこの女が、あの木から取って私にくれたので、私は食べたのです。」

…女は答えた。「蛇が私を惑わしたのです。それで私は食べたのです。」』旧約聖書 創世記3:11~13

アダムとエバが、神様との約束をやぶり、善悪の木の実を食べると、目が開け、裸を隠し、神様から隠れた。次にしたことが、“責任転嫁”(せきにんてんか)、つまり、約束をやぶったのを、人のせいにしたことだった。

神様は、人を造られたとき、その人の範囲を設けた。

人のせいにする生き方は、楽なようで、実は、自分の問題としてふりかかる。

「境界線」の本に次のようにある。

「境界線は私たちを定義する。何が私であり、何が私でないか、私はどこで終わり、私はどこから始まるか。それによって、私は自分に関する所有権を意識する。」

私たちが、自分の責任を負わないということは、自分を所有することができないことにつながる。

自分の責任を所有するということは、自分の範囲がわかるだけでなく、自分の外を明らかにする。そして、その自分の外には責任を負わなくて良くて、影響されない。

私は親の過保護、過干渉によって、育てられた。だから、境界線が壊れていた。どこから人で、どこから自分か区別がつかず、人の言動に一喜一憂して振り回されていた。

そんな私が、長い年月をかけ、健全な境界線が与えられた。それは、イエス様に自分の責任の分を認め、告白し続けることによってだった。

自分の責任を認めるというのは、しんどいことのように思うが、自分を所有することにつながる。

『まず自分の目から梁(はり=大きな柱)を取りのけなさい。そうすれば、はっきり見えて、兄弟の目からも、ちりを除くことができます。』マタイの福音書7:5

私には、ここは、「あなたが自分の責任部分を認めるなら、あなたは、自分を所有し、そして、人をも尊重できる。」という意味合いがあるのだなぁと思う。

イエス様は私たちの責任部分を赦し、癒してくださり、誰からも踏み込まれることのない自分をもう一度私たちに所有させて、楽しませてくださる。

###

イエス様の十字架によって、私たちは誰にも振り回されず、自分を所有して生きていけることをありがとうございます。

責任転嫁しやすい弱さも赦し、癒してください。

あなたを喜ぶ私を所有させてください。

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2009年5月13日 (水)

「あなたは、どこにいるのか?」

「あなたは、どこにいるのか」と、今、神様から問われたら、私はどう答えるかと思いました。

『そよ風の吹くころ、彼らは園を歩き回られる神である主の声を聞いた。それで人とその妻は、神である主の御顔を避けて園の木の間に身を隠した。

神である主は、人に呼びかけ、彼に仰せられた。「あなたは、どこにいるのか。」

彼は答えた。「私は園で、あなたの声を聞きました。それで私は裸なので、恐れて、隠れました。」』旧約聖書 創世記3:8~10

善悪の木の実を食べたアダムとエバは、目が開かれた。自分たちの裸を知り、裸を隠した。そして、創世主なる神様を避けて、身を隠した。

それは、造り主なる神様を知らなかったときの私の姿そのものだ。自分を見るとそこに良いものはなく、様々な欲望と惨めさと愚かさがあって、それを隠す毎日だった。が、何の解決もなく、その愚かな自分に埋没していくだけだった。

「あなたはどこにいるのか」と神様はアダムとエバに聞かれた。

「あなたはどこにいるのか」…造り主なる神様との関係をもっていないとき、私はどこにいるかわからなかった。私は何者なのか見い出せなかった。私は何に向かっているのか知らなかった。

今、私はどこにいるか…イエス様の十字架のもとにいる。私を赦してくれた方の前に、安心して、裸の自分をさらけ出し、なお、赦され、おおわれていることのあわれみと慰めの中にいる。

完全なるイエス様の前に、恐れることなく立つことが出来る。それは、ただイエス様の十字架があるから。そのイエス様がかかられた十字架は、私の裸のすべての恥のためであった。もう、イエス様の十字架で全部処分されたので、裸のままで隠すことなく、イエス様の前に立つことが出来る。

この残りの生涯、イエス様の十字架のもとに立ち続けたい。

イエス様はそこから、真実を示してくださり、いのちを注いでくださり、神様との親しい関係にいれてくださる。

『わたし(イエス)が道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。』ヨハネの福音書14:6

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2009年5月12日 (火)

“善悪の木の実”はもう食べなくていいんだよ。

私たちクリスチャン生活で、まだ、“善悪の木の実”を食べて苦しんでいる人を見ます。

『そこで、蛇は言った。「あなたがたは決して死にません。あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目は開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。」…

そこで女はその実を取って食べ、いっしょにいた夫にも与えたので、夫も食べた。

このようにして、ふたりの目は開かれ、それで彼らは自分たちが裸であることを知った。そこで、彼らは、いちじくの葉をつづり合わせて、自分たちの腰のおおいを作った。』旧約聖書 創世記3:4~7

私はある時、この聖書の箇所から、“神のようになる”ということはどういうことか、教えられた。

それは、神様ではなく、自分が正しいとすることなのだ…ということ。自分の中にある知識、感情、意志が正しいと生きることだと。

しかし、私たちは不完全で間違いやすく、私たちの中に完全な正しさはない。

そして、自分を神にすると、その不完全な“自分という神”に振り回され、悩み、ゆきずまるのだということが、私自身において、実証済みなのを思った。

マクベイ師は「恵みの歩み」の本で次のように言う。

「クリスチャンの価値基準を放棄することを強く勧めます。…価値基準に目を向けることは、私たちの生ける神のみこころではないのです。そのようにすることはいくつかの害を及ぼすことになります。…

善悪にとらわれると、神様よりも自分に目を向けるようになります。…

善悪にとらわれることは主の徳ではなく、人間の価値基準を強調します。…

善悪にとらわれることは命ではなく、律法を強調することになります。…

人生における問題意識は「これを行うことは正しいのだろうか。」ではなく、「今、自分はキリストにつながっているだろうか」です。…

自分の行動に目を向けていくのではなく、キリストによって、神との関係に基ずいて人生を立てあげるようになるのです。」

とてもコンパクトにまとめたので、分かりにくいかと思う。

つまり、エデンの園では完全に神様とのふさわしい関係に生かされていた。善悪の木の実を食べて以来、人は、神様との関係が切れて、自分に目を向けるようになり、自分のしたことが“良いか悪いか”その価値基準に縛られた。イエス様の十字架で、私たちはすべて赦されたので、もうその価値基準から解放され、もう一度、神様をただあがめる、喜ぶ生活に戻された。

しかし、クリスチャンは聖書から「赦しなさい。愛しなさい。」「神様によりより頼まなければならないのです。」などと語られるたびに、これは出来ている、これは出来ていない…などと“新しいクリスチャンとしての価値基準”を持ち、苦しむのだ。

何が良いか悪いか、何が出来ているか出来ていないか…は神様からしたらまったく関係ないのだ。もっと言うなら、「私は愛することも、神様が聖書で求めることも全て無理です。出来ていません。」と私は告白する。

そんな私のためにイエス様が命を捨てて、十字架にかかってくれた。神様にとって、神様に従えないことは、イスラエルの民の歴史で明らかであった。

もう一度、イエス様が十字架にかかり、私たちは赦されたのに、アダムとエバのところまで戻って善悪の木の実を食べる必要はない。

“私が十字架で赦されたということを大切にする”ことだけが、私が自分の行動の良し悪しを見るのをやめて、赦されたイエス様に感謝して、応答して生きていける…霊的に死んでいたものが、もう一度神様とつながって生きることなのだと思う。

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“善悪の木の実”を食べた結果(創世記3)

『女は蛇に言った。「私たちは、園にある木の実を食べてよいのです。しかし、園の中央にある木の実について、神は、『あなたがたは、それを食べてはならない。それに触れてもいけない。あなたがたが死ぬといけないからだ。』と仰せになりました。」

そこで、蛇は女に言った。「あなたがたは決して死にません。

あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。」』旧約聖書 創世記3:2~5

サタンである蛇は女に言った。「善悪の木の実を食べても、あなたは死なない。神のように善悪を知るようになる。」と…。

それまで、エデンの園に“死”はなかった。が、神様が「取って食べるその時、あなたがたは必ず死ぬ」(創世記2:16)と言われたので、“死ぬ”と言う概念はあったのだと思う。

エバが善悪の木の実を食べた瞬間、どうなったか…。バッタリ倒れて、息絶えたら分かりやすかったが、そうはならなかった。

善悪の木の実を食べたとき、2つのことが起こった。一つが肉体的な死が入った。

『あなたは顔に汗を流して糧を得、ついにあなたは土に帰る。あなたはそこから取られたのだから。あなたはちりだから、ちりに帰らなければならない。』創世記3:18.19

神様との約束をやぶった結果をそのように宣告された。

もう一つの死が入った。“霊的な死”と言われる。

善悪の木の実を食べないときは、神様と人間は、ふさわさい関係にあった。造られた者が、造った方をあがめる、喜ぶ関係であり、自分たちが裸で大丈夫なほどの関係だった。

が、食べてはならない善悪の木の実を食べたことによって、そのうるわしい均衡は破られた。

“霊的な死”というのは、神様とのその関係が切れたことを意味するのだと思う。

サタンである蛇が言った。「善悪の木の実を食べるとき、あなたがたは神のようになり、善悪を知るようになる。」

そのことばは、エバに魅力的だった。今の私たちにとっても魅力的だと思う。

まさに、嘘をつくのが得意なサタンは、「今よりずっとすばらしいことが起こる」と誘惑した。

善悪を知るようになるとはどういうことか…が“霊的な死”と関係がある。

マクベイ師の「恵みの歩み」に次のような文がある。

「善悪の木の実を食べるかどうかは、生か死の選択、神に完全により頼んで生きるか、神から独立するかということ。…彼女らは禁止されていた木の実を食べた。すると突然彼らの目は開かれた。初めて善と悪を意識した。その日以来ずっと彼らの人生は、善悪の価値基準によって裁かれる人生となった。」

なぜ、善悪の価値基準が入ったことが“霊的な死”なのか長くなったので、「恵みの歩み」を引用しながら、次のブログに書くことにする。

私たちは、知らない間に、イエス様によって、神様との関係を喜ぶように回復されながら、また、この善悪の木の実を食べてしまっていることがあるのだなぁということに、私は驚いてしまう。

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2009年5月11日 (月)

サタンに対抗できる“7つの神の武具”

『あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって、そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。…

しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったそのその大きな愛のゆえに、罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、…キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。』新約聖書 エペソ人への手紙2:1~6

この聖書の箇所の最初を読むと、いつも、これは本当に過去の自分の姿だなぁと思う。

「空中の権威を持つ支配者」とは、サタンのことである。そのサタンの支配する中で、私は濁流の川の中を、死んだ魚のように、汚れと欲にまみれて流されるままに流れていた。

が、イエス様によって、“シャケ”のようになった。どんな流れであっても逆らってのぼっていくものとされた。イエス様がくださった新しいいのちによって。

この世の中にあるもろもろの悪霊(サタン)に対して、対処する秘訣が「悪習慣を断ち切る法」の本に書いてある。神様が私たちにくださった“7つの神の武具”である。(エペソ6:12~18)これらが、何を意味するか、ピックアップしたい。

①真理の帯…まったく正直な態度

②正義の胸当て…すべての罪の告白、これによって、サタンの足がかりは崩壊する。また、私たちの罪を赦すキリストをあおぐ(=私たちに与えられたの神の義)

③平和の福音の備えをはいた足…十字架に赦された喜びからくる、福音を伝えたい情熱

④信仰の大盾(おおたて)…聖書のことばを堅く信じて生きる信仰

⑤救いのかぶと…救いの望みと十字架の完全性に対する確信
⑥御霊の剣…誘惑にあったときに適用できるように聖書のことばを知り、持っておくこと

⑦常に祈る…感謝と信頼に満ちた態度

神様を知らないとき、私にはサタンとの戦いはなかった。サタンの存在を知らなかったから。

今、イエス様が十字架にかかり、復活されたことにより、信じる者にはこの世の支配者サタンに勝利が約束されている。

サタンを恐れる必要はない。が、無防備で狡猾なサタンに戦いは挑めない。神様が与えてくださった“7つの武具”を身にまとい、神様の戦いに参戦したい。

「偽りの父」と呼ばれるサタンは、私たちのつく嘘を喜ぶ。“小さな嘘”はサタンが働く足台となる。私たちの神様にも人にも正直な態度は、素晴らしい武具である。

正義の胸当て…イエス様を信じる信仰によって、私たちは義とされ、神様に受け入れられるものとなった。イエス様によって正しいとされたことを忘れ、私たちの行いによって、正しいとしたとたん、優越感や劣等感、比較や嫉妬など、さまざまなものが入りこむ。

平和の福音の足というのは、何を動機として生きているか…ということかなぁと思う。神様への感謝と信頼によって歩む日々が守りとなる。

信仰の大盾は、サタンの放つ火矢をみな消すことができる。私たちが信じているのは、頼りない自分でも、不完全な人でも、移りやすい環境でもなく、確かで揺らがない神様である。そこに立つことこそ、敵対するものへの最大の防衛になる。

救いのかぶとは、キリストの十字架によって、私は赦された、受け入れられた、裁かれていないということと思う。

御霊の剣は、聖書のことば。聖霊様の助けによって、聖書のことばを蓄え、また、求め、適応する。敵対するサタン撃退のための最大の攻撃方法である。

常に聖霊様の助けの中、祈るのは、神様への信頼につながる。

イエス様にあって、勝利の日となりますように。

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喧嘩友だち、アメリカへ立つ

私の大切な友人について、聞いてください。

『友はどんなときにも愛するものだ。兄弟は苦しみを分け合うために生まれる。』旧約聖書 箴言17:17

喧嘩友だちだった親愛なる友人が、来週、ご主人とアメリカに旅立つ。

アメリカに永住することになる。「アメリカに遊びに来てね。」と言われたが、海外旅行どころか、国内旅行もしない私にはちょっと無理っぽい…。

彼女とは、出会って5年位たつが、とにかく良く喧嘩した。女だから、殴り合いこそしないが、激しい言葉で言い合いをした。

お互い、喧嘩すると、すごくエネルギー使うし、日頃温厚(!?)で通ってる私にしては、毎回喧嘩はひどく疲れた。

彼女も体調悪いときもあって、鬱っぽいのに喧嘩してたりしたから、家ではぐったりだったと思う。

彼女との喧嘩のきっかけは、いつもお互いのことではない、第3者に対する私の態度のことであった。

「直せ、変えろ」と言われたが、言われたからってすぐ変われる訳ではない。

最後の喧嘩は、去年の11月頃だった。私は「ねぇ、もう電話切っていい?」彼女は「いいよ。」「それじゃ、バイバイ…」

激しい言葉が行き交った。電話を切って、言葉のアッパーパンチを食らったように、きつい言葉が胸にささった。だけど、心が平安だった。この人とは、なんだか真剣勝負なんだけど、ずっと信頼しあって付き合っていくんだなぁと揺らがない信頼関係を思った。

そのころ、彼女は「あ〜あ、もうやってられねぇよ。みんな、面倒臭い!もういいよ。」と心で思っていたらしいが。

彼女は、親に虐待されて育った。私には理解できないほど、重い過去がある。私は、彼女を理解するのに、時間がかかった。まだ、多くを理解していないかもしれない。

でも、11月の喧嘩にして初めて私は、彼女のきつい言葉の中に、彼女の叫びを聞いた気がした。

表現が違うけど、やっと何回目かの言い合いにして、彼女の言葉の裏に“心の叫び”を聞くことができた。

彼女は、“見捨てられ感”が強い。「そうやって、sebaさん、あんたも私を友だちじゃないとか言って見捨てるんでしょ!」と私に言った。

そのことばは「私はあなたを必要としている!」と言ってくれた“心の叫び”だった。

人生で「あなたが必要だ!」と怒るほどに叫んでくれる友人がいるだろうか…。痛いけど、“心の叫び”が聞こえたら、嬉しかった。

彼女は旅立つ。「教会でもクリスチャンとも良いことはなかった」と言いながら…。

けれども、彼女の神様から与えられた使命と賜物は変わらない。

きっと、どこかで、ご主人と、この世の見捨てられたようなホームレスや囚人の人たちのために仕えている。

人はその友によって磨かれる…とあるが、彼女からたくさんのことを教えられ、少し変えてもらった。

彼女のおかげで、少しだけ、声にならない人たちの叫びを知ることができたような気がする。

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2009年5月 9日 (土)

裸が平気な“エデンの園”

エデンの園で、アダムとエバは裸だったのに、恥ずかしくなかったのは何故でしょうか。

『神である主は、その土地から、見るからに好ましく食べるのに良いすべての木を生えさせた。園の中央にはいのちの木、それから善悪の木とを生えさせた。…

神である主は、人に命じて仰せられた。「あなたは園のどの木からでも思いのままに食べてよい。しかし、善悪の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ。」…

そのとき、人とその妻は、ふたりとも裸であったが、互いに恥ずかしいと思わなかった。』旧約聖書 創世記2:9.16.25

私がエデンの園で、最も驚くことは、「アダムとエバは裸だったが、互いに恥ずかしいと思わなかった。」ということ。

アダムとエバが裸で初めて恥ずかしさを覚えたのは、善悪の木の実を食べてしまったとたんに始まる。

『ふたりの目は開かれ、それで彼らは自分たちが裸であることを知った。そこで、彼らは、いちじくの葉をつづり合わせて、自分たちの腰のおおいを作った。』(創世記3:7)とある。

裸なのに、恥ずかしくないって…ちょっと今の私たちには考えられないが、エデンの園で、神様の秩序の中ではそうだった。

私が思うに、ここに、造られた神様と、その造られた方を慕い喜ぶアダムとエバの麗しい関係を見る気がする。

まさに、アダムとエバは造られた方の秩序の中で、最大限に喜び、楽しみ生きた。

何を喜んだのか。それは、創造主なる神様の存在をただ喜んだ。

神様が人を造られた目的に人は合致していた。(人は神様を礼拝する―あがめる―ために造られた)そこには、自分の裸も気にならないほど、自分ではなく神様を見ていた。だからそこには、悩みも苦しみも悲しみも恥ずかしさも惨めさもなかった。

今、イエス様の十字架の赦しによって、私たちは神様のもとに戻ることができた。日常の様々な悩みや苦しみを横において、神様を礼拝するとき、私たちは神様の臨在の中で、神様が愛なる方であることを体感する。

これが実は、裸であったが恥ずかしくない状態なのではないかと思う。

私たちは地上にいて、肉体を持ち、弱さを持って歩む。

それでも、神様はその生活の中で、神様を見上げ、創造主なる神様をあがめていくとき、私たちが自分のことを忘れられるほど、気にならなくなるほど、神様からの愛と、慰め、励ましにおおい、包んでくださる。

神様を礼拝し続ける生活=神様をあがめ、ほめたたえ続ける生活…それが、エデンの園に戻されるような状態であり、やがてくるパラダイスの前味なのだと思う。

神様をあがめる生活は、私にとって、恥ずかしい私を忘れる捕らわれの無い、解放と祝福の生活になるのだ。

###

神様、私たちは自分に捕らわれやすいものですが、イエス様の十字架の赦しによって、その捕らわれから解放してくださったことをありがとうございます。

自分に捕らわれなくなる、これはイエス様の十字架を知らない人には、考えられない出来事です。

私たちは、すべてをご存知の神様の前には、裸同然ですが、恥となるすべてをイエス様が赦してくださったゆえ、神様を大胆にあがめ、礼拝できますことをありがとうございます。

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2009年5月 8日 (金)

“罪の告白”その確かさと恵み

『ですから、あなたがたは、互いに罪を言い表し、互いのために祈りなさい。

いやされるためです。義人の祈りは働くと、大きな力があります。』新約聖書 ヤコブの手紙5:16

ボンヘッファーの「共に生きる生活」より。

「罪の告白において、確かさに至る道が開かれる。われわれにとってしばしば、神の前での罪の告白が、兄弟の前でするそれよりもやさしいのは、どこに原因があるのだろうか。

神は聖であって罪なき方である。…しかし兄弟は、われわれと同じ罪ある人間である。…

すなわち、われわれは、神の前での罪の告白をもって、しばしば自分自身をあざむいていたのではなかったか。…自分で自分の罪を赦していたのではなかったか。…

われわれが、罪の告白と赦しにおいて関わりをもっているのは、われわれ自身ではなくて、生ける神ご自身であるということの確かさを、ここで一体だれがわれわれに与えるのだろうか。…兄弟が自己欺瞞のくさりを打ち破ってくれる。

兄弟の前で自分の罪を告白する者は、そこでもやはり自分はひとりではないということを知っており、兄弟がそこに現実にいるということの中に、神の臨在を経験するのである。」

私は長い間、神様に自分の内にあるものを認め、告白し、癒しと赦しを受け取ってきた。

が、なぜか、いくら神様に祈っても、なかなか癒されない部分があった。

あるとき、親しいクリスチャンの友人にその話しをしたら、だんだん誰にでも、その弱さが話せている自分がいた。

そのとき、私は話せるのは、その弱さも神様から赦されているのを私自身が受けとったから、誰にでも言えるようになったのだとわかった。

なぜ、神様に告白していただけでは駄目で、人に話したとたん、癒されていったのか、私の中で説明がつかなかった。要は、ボンヘッファーの言われること、兄弟の助けを借りて、神様の赦しを受け取れたということかもなぁと思った。

私は、まずは、神様に正直に告白していく中で、神様は多くの癒しをくださるだろうと信じている。

人の助けを借りるのならば、お互いの弱さを受け入れあっている信頼する友人、一人だけに聞いてもらえば良いのだと思う。

この本の中に、「告白は律法ではなく、恵みだ。」とあったが、同感である。

もし、「…しなければならない。」という世界で“罪の告白”を考えるなら、とてつもなく、苦痛だと思う。

イエス様は「私は健康な人のためでなく、病人のために来た」(ルカ5:31.32)と言われたが、イエス様こそ、名医であり、手術して、悪いところを全部とってくれる…その信頼がなかったら、お任せできない。

神様はイエス様の十字架で、私たちを癒し、悪から離れ、義の道、神様と親しく歩む道を用意しておられる。

神様が私たちに計画しているのは、苦行ではなく、豊かないのちに生きる道である。

###

神様、あなたがイエス様を送ってくださり、イエス様に似る壮大な計画を立ててくださっていることをありがとうございます。

私たちは自分の力では、本当にそのことは無理ですが、神様の深い思いに信頼して、ときには、思いきって手術台に乗ることができますように。

イエス様の十字架に赦される体験に生かされ、神様を日々賛美できますよう、私たち一人一人を祝福してください。

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“罪の告白”と十字架の赦しの体験

“罪の告白”は私たちが個人的に十字架につけられたイエス様の赦しを体験するときだと思います。

『キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。

ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。

そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。』新約聖書 第1ペテロの手紙2:22~25

ボンヘッファーの「共に生きる生活」より。

「罪の告白において、十字架に至る通路が開かれる。すべての罪の根は、高慢である。…

兄弟の前での罪の告白は、最も深い屈辱である。それは、苦痛を与え、へりくだらせ、高慢を徹底的に打ち砕く。…具体的な罪の告白において、古き人は、兄弟の目の前で、苦しみつつ、屈辱的な死をとげる。…

われわれに代わって、罪人の屈辱の死を身に負いたもうたのは、実にほかならぬイエス・キリストご自分であった。…

またもしわれわれが、罪の告白において、罪人の屈辱の死を自分の身に受けることを恥じるなら、われわれは、十字架を負うことを拒むことになるのである。…」

イエス様の十字架は私の身代わりだったと信じる者に、神様は赦しと癒しときよめを約束している。

赦された者が体験できる神様との親しい交わり、その中にある安らぎと喜びが約束されている。

イエス様の十字架は自分のためであった…と信じるとはどういうことか。

漠然となんとなく、みんなのために死んでくれたのではない。もし、そう思っていたら、一般の人のための十字架であり、私個人の私の罪のために死なれた体験はできない。

イエス様の十字架を信じるとは、「私のこの罪も赦してくれたのですね。」と告白することなのだと思う。

私たちはもし赦されていなかったら、“罪の告白”は無意味である。自分の惨めな傷口をさらけだして、笑われて終わり。ますますみじめに落ち込む。

私は「イエス様の十字架は私の罪を完全に赦し、癒し、きよめてくださっている」そのことを信じているか…それは“罪の告白”と結びつく。

私は告白し続けることで癒された。全自己否定の人間が、全自己肯定にまで癒された。

ボンヘッファーが言うように、“罪の告白”は私にとっては屈辱ではなかった。

もし、屈辱とかごまかしとか、何かあって“罪の告白”がためらわれるなら、そのことができるよう、そのことの先にあるものの素晴らしさを知れるよう、信頼が与えられるよう祈って求めることによって、導かれていくのだろう。

聖書でもっとも大きなみわざは、イエス様の十字架の出来事である。

なんとなく十字架を信じるのではなく、古き人に死に、新しい復活のいのちに預かる体験を神様は私たち一人一人に約束しておられる。そのことが、日々、私たち一人一人に確実になりますように。

次につづく

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2009年5月 7日 (木)

“罪の告白”は孤独から交わりに入る

ボンヘッファーは、“罪の告白”は、まず、真実な交わりの道に続くと言っています。

『ですから、あなたがたは、互いのために祈りなさい。いやされるためです。』新約聖書 ヤコブの手紙5:16

ボンヘッファーの「共に生きる生活」より。

「自分の悪を抱いてただひとりでいる者は、全くひとりで孤立している。…彼らは敬虔な者としては交わりを持っているが、敬虔でない罪人としての交わりを持っていない。」

「罪は、その人だけとひとりでいようとする。罪は、その人を交わりから遠ざける。人間が孤独になればなるほど、罪の力はその人の上に力をふるい、破壊的になる。

…罪が自白され、口に出されるまでの、激しい戦いがある。…罪の告白が、キリスト者の兄弟の面前でなされることによって、自己義認の最後のとりでは放棄される。…彼はイエス・キリストならびに、兄弟との交わりの中で、彼のすべての罪が赦されていることを見い出す。」

サタンは「そんなひどいことをするのは、お前だけだ。」と嘘をつく。

そして、人は隠れたところでその罪をひっそり温める。

自分の罪を見るのは怖い、ましてや、誰かに話すなんて、とんでもないと思う。

イエス様は罪は犯さなかったが、私たちの弱さに同情できないお方ではない。(ヘブル4:15)

私たちの試練(誘惑)は、皆経験しているものである。(第1コリント10:13)

そして、何よりも素晴らしいことは、私たちの罪は告白することによって、赦しを受け取れることである。(第1ヨハネ1:9)(私たちの罪はすべて赦されているが、認めることを通して、赦されていることを受け取れる。)

牧師の中には、サタンの激しい攻撃の中、誘惑から転落していく人がいるのは何故か。彼は“敬虔な者”であり続けた(自分の弱さを認めず、告白しない)からと思う。私はいつも思う。たった一人の弱さを祈ってもらう友がいるならば、そこから守られただろうと。

自分が罪に無縁だという“敬虔なクリスチャン”は孤独なのである。

イエス様だけがほめたたえられる教会…それは、自己義認を止め、「私は今日もイエス様に赦されました」と喜んで告白し合う教会だと思う。

次へつづく

###

私たちは、誰かに自分の弱さを打ち明けるのはとても勇気が入ります。

こんなに弱いのは、私だけだ、軽蔑されるだろうと思います。

けれど、もしイエス様への信頼の中、罪を告白し、誰か信頼する人にも分かち合うなら、イエス様に赦されたのを経験します。

私たちに、イエス様への信頼を与え、神様と人に告白し、赦しを受け取っていけますように、お願いします。

そして、神様とも人とも、うわべではない、深い交わりに入れますように。

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2009年5月 6日 (水)

“罪の告白”がもたらす良いこと…

本を読んでいて、長年の答えを教えてもらったような記事に出会いました。創世記をちょっとお休みして、この分かち合いにお付き合いください。

『もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦(ゆる)し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。』新約聖書 第1ヨハネの手紙1:9

この聖書のことばは、人々が癒されるためにと、私が神様から教えてもらったものである。

29歳の時、私の中で徐々に心の癒しが始まった。その時の、礼拝メッセージで「傷ついたら、傷つく奴が悪い」と牧師が言った。人間的な言葉だと思った。しかし、人に極度に傷つきやすい私はその日から一つのことを実行した。

誰かの言動に傷つくたび、心の中で、「神様、この人を受け止めきれない弱い、不完全な私を赦してください。」と祈ることをした。不思議と相手がひどい人だ…とそちらに気持ちが向かず、祈るたびに神様から癒される経験をした。

私の中で、傷ついたら、即、自分の不完全さを祈るのは、やみつきになった。神様から癒され続けた。

33歳の時、その教会がなくなった。「何にもなくなっちゃいました。」と言う私に、「あなたがこれまでの苦しいところを通ったのは、あなたが握っているものを手放すためだったのだよ。」と神様に言われた。

握っているものを手放したとたん、鳥のさえずりや花の美しさ…神様の中に生かされていることを充分に喜べるようになった。(それまでは、神様の働きが開かれないことに失望しきっていた。)

私は神様に聞いた。「私は今、神様によって、深い心の癒しを体験しました。この癒しは、誰にでも約束されていますよね。どの聖書のことばで説明すればいいですか?」

そのとき、この「第1ヨハネ1:9によって」と教えられた。私はバカの一つ覚えのように、「神様は、自分の弱さを認め、告白するものに、赦しと癒しときよめをくださる。」話しをこの聖書のことばを出して繰り返ししてきた。

あれから15年、去年親しい友人から言われた。「罪の告白…って、傷んで傷ついている人にとって、それはあまりにしんどいことだよ。sebaさん!」

しんどい人がいる事は理解したが、私にとっての癒しの商売道具(!?)のようなこの聖書のことばをどうしたらいいの?と…しばし、私は無口になった。

ボンヘッファーさんの「共に生きる生活」の「罪の告白」を今日、読んだ。

私に足りなかったのは、“罪の告白”はイエス様の十字架のもとにどんな素晴らしいことをもたらすか…その説明があまりにも足りなかったのだと教えられた。

ボンヘッファーさんの“罪の告白”がもたらすものの説明を、分かち合いたいと思った。

次につづく…

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2009年5月 4日 (月)

息を吹き込まれた存在(創2:7)

神様が、イエス様を通して私たちに与えてくださった素晴らしいものを分かち合います。

『その後、神である主は、土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで、人は生きものになった。』旧約聖書 創世記2:7

旧約聖書で“息”というのは、生命的、霊的両方の意味で用いられている。

『神は人にいのちの息を吹き込まれた。それで、人は生きものになった。』と言うのは、人は神様に与えられた“いのち”で生き、“霊的な存在”(霊である神様と交流できる存在)となったということだろう。

新約聖書では、“息”というと霊的な意味が強くなる。

十字架で死に、3日めによみがえられたイエス様は、弟子たちに現れた。

『イエスは…彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。…」』(ヨハネ2:22)

このときの“息”は霊的なものである。

“霊的な息”とは何か。それは“聖霊なる神”である。

聖書では三位一体(さんみいったい)の神を示している。創造主なる神、子なるイエス、そして助け主なる聖霊の神が、3つにして一人の神なのだ。

天地創造のときに、“息”を吹きかけられ、私たちにいのちを与えられた神様は、イエス様を通して、もう一度、私たちに息を吹きかけられた。

私たちは、ただ肉体的に生きるものとなっただけではなく、霊的に生きるものとなった。

“霊的に生きる”とはどういうことか。

“霊である神様を知る、交流できる、その交流の喜びを体験できる者になった”ということだろう。

『目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人が心に思い浮かんだことのないもの。神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、みなそうである。」

神はこれを御霊によって啓示されたのです。

御霊はすべてを探り、神の深みにまで及ばれるからです。』(第1コリント2:9~10)

私たちは不完全な弱い小さな存在であるが、“聖霊なる神”が私たちに与えられたとき、人知を越えた神様の深みに及ぶ思いを知ることができる。

これは、どんなに努力し学問を学んだ者にも隠された知恵であり、ただ、「イエス様によって、聖霊をください。」と素直に求める者に与えられる。それは、子どもであっても、無学な者であっても、誰にでも求める者に、平等に与えられる神様の奇しさがある。

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神様、いのちを与えてくださった神様は、イエス様を通して、もうひとたび、新しいいのち(聖霊の住まいとなるいのち)を私たちに与えてくださり、ありがとうございます。

この聖霊様が住まわれる神様の宮(私たちの心)が清められ、聖霊様が自由に働かれ、神様の深みに及ぶ思いに私たちが喜び、感動する日々としてください。

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2009年5月 3日 (日)

非常に良く造られたかたち(創1:31)

神様が本来造られた私たちに回復する約束が一人一人になるようにと願います。

『そして神は「われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。…

神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。…

見よ。それは非常に良かった。』旧約聖書 創世記1:26.27.31

「神様は人を神様の“かたち”に造られた」とある。

神様は目に見える形を持たない方だが、その性質を似るものとされたのだろう。

この聖書の箇所で、驚くことは、『神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ。それは非常に良かった。』(創世記1:31)とあることだ。

私たち人間は神様に造られた“非常に良い作品”なのである。

それに比べて自分が“非常に良い作品”と思えないとしたら、何が問題なのか?

神様を知らないときの私は、自己のイメージがとても低かった。“そのままでいいよ”というメッセージを親から受けなかったからだろう。そして、そんな私は自分を大切にするということもできず、ますます傷つき、惨めな状況に落ち込んだ。

私の癒しと回復が始まったのは、神様が私を尊いと思ってくれている…その視点から自分を見れるようになってからだった。

それでも、沼底をかき混ぜると、泥が湧きあふれ、沼の水で真っ黒になるような、否定的なものが私の心をよくおおった。

そんなとき、私はその惑わしに対して叫ぶように、「私は赦されているから、感謝します。」「私は受け入れられているから感謝します。」「私は愛されているから感謝します。」と宣言したものだった。

イエス様は、私たちの自己イメージの回復のために来られた。私たちは神様からずれていたもので、神様との交流も途絶えていた。本当の自己イメージを持たない者だった。が、イエス様の赦しの中で、癒しと回復が始まったのである。

『神は初めから、ご自分でなさろうとしておられることをご存じでした。

神は最初に、神を愛する人々を、神の御子(イエス)と同じかたちに似せて造ろうと決められたのです。…

私たちは、キリストのうちに私たちの命の原形と私たちのあるべき姿を見るのです。』(ローマ人への手紙8:29Msg訳)

天地を造られた神様は、私たちを回復させる目的をもって、イエス様を送ってくださったのだ。イエス様と似るものとさせてくださる約束は見逃せない。私たちに約束されているのだから、信じて祈っていきたい。

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神様、ゆがめられた自己イメージに苦しむ人に、イエス様の癒しと平安を与えてください。

そして、私たちは尊いすばらしい存在なのだという、聖書にある真実の視点に立つものとしてください。

私たちの汚いもの、みじめなものはすでにイエス様の十字架の上で処理され、赦されました。その赦しをしっかり受け取り、神様に造られた素晴らしい自分を所有できますよう祝福してください。

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2009年5月 2日 (土)

“新しい創造”へ・2(ガラテヤ6:15)

イエス様を信じた人には“新しい創造”が約束されています。

『割礼を受けているか受けていないかは、大事なことではありません。

大事なのは新しい創造です。』新約聖書 ガラテヤ人への手紙6:15

“新しい創造”とは、イエス様を信じた人にだけ起こる創造である。

イエス様が私の罪(神様の前に的外れなこと)のために代わりいのちを捨てて十字架刑を受けてくださったと信じる人には、「もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きている」と告白するに至る。

イエス様の十字架によって、新しいいのちをもらい、神様と親しく交流する中で、私たちの内側がどんどん変えられていく。

イエス様のいのちを捨てた愛の注ぎの中、私は自分のしたいことではなく、神様に応答し、神様の願うところをしたくて仕方なくなる。

そこには、自分の意志や努力はなく、汚れた欲求すら清められる。

私は1年ほど前、突然のように“仕えたい”という思いがドクドク溢れて苦しくなったときが何度かあった。今も静かにそう思う。

それまでは“神様を伝えたい”とか、“こんなことをしたい”という願望だったが、全く異質な、私が今まで感じたことのない思いだった。

“仕える”というのは、たぶん、“伝道する”とか“善意を表す”とかとは全く違う、イエス様に似た性質なのだと思う。

神様が私に本来あったが、崩れていたものを、神様との関係の中で回復してくださった。

神様との日々の親しい関係の中で、『やみの中に、光よあれ』と言われた神様は、今、私たちの心のやみにも、『やみの中に光よ、あれ』と語られる。

そして、私たちは、自分ではない造り変えられていく自分をその内側にみるのである。

無から有を生み出され、やみの中に光を造られた神様にとって、私たちの中に“新しい創造”をなさることは、難しいことではない。

この“新しい創造”を自分の中に成されることは、たったひとつのポイントを押さえているか、否かによる。それは私がこの告白ができるかどうかである。

『しかし私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはなりません。』ガラテヤ6:14

###

神様、今、私たちの中にも、あの天地創造をなされたほどの神様のみわざ“新しい創造”がなされていることをありがとうございます。

さらに、イエス様の十字架以外のいっさいのものを誇りとせず、さらにあなたの私への“新しい創造”のみわざを見せてください。

“割礼”時代に戻らず、“神様との関係による楽しみ”の時代にいさせてください。

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“新しい創造”へ・1(ガラテヤ6:15)

創造のみわざをなした神様は、今、新約の時代(イエス様が来て十字架にかかられた以降の時代)“新しい創造”をなされているのを思います。

『割礼(かつれい)を受けているか受けていないかは、大事なことではありません。

大事なのは新しい創造です。』

新約聖書 ガラテヤ人への手紙6:15

割礼とは、「男性の性器の包皮を切り取る」ことで、神様がアブラハムとの契約のしるしとして、彼の家の男子すべてが受けたことから始まる。(創世記17)

神様は、その後、モーセを通して割礼を儀式として定めた。(レビ12:3)

割礼は神様に選ばれたイスラエルのしるしと誇りとなった。

ガラテヤ人の教会では、“イエス・キリストを信じることだけで義(神様の前に正しい)とされる”…聖書的な福音が語られていたが、“割礼も受けなければならない”と主張するユダヤ人が出てきた。そして、この手紙の筆者パウロは、激しくその間違いを指摘する。

“割礼”といっても、ピンとこないかもしれないが、“割礼”はここでは、律法を象徴する。旧約聖書の“神様が示されたことを行う”こと。

一方、“新しい創造”とは何か。“割礼”に対比して使われ、“イエス・キリストの十字架を信じるのみで神様から義(正しい)とされる”いわば“恵み”を表す。

“割礼”は“律法”を、“新しい創造”は“恵み”を表す。

私はここ何年か、私にとっての“割礼”とは何か考えてきた。

私にとっての“割礼”とは“良い行いをもって、神様に受け入れられようとすること”である。

“良い行い”の何が神様に反しているか?“良い行い”をもって、私たちは神様に“よし(義)”とされることは不可能なのだ。

私たちの神様への的外れなずれた行為(罪)は、ただイエス・キリストのいのちの代価によってしか神様に受け入れられない。

今、教会においても、個人レベルのクリスチャンにおいても“良い行い”によって神様に受け入れられようとする世界が入っているのを感じる。

それは、“イエス・キリストのしてくださった十字架”が中心でなく、つまり、神様が中心でなく、“人が何をしたか、しないかで神様に受け入れられる”人間中心になる。

では、私にとっての“新しい創造”とは何か。イエス様は十字架で私の的外れ(罪)を代わりに処分してくれ、神様の前に受け入れられる者としてくれた。

私はもう、牛や羊の命をもって、神様の前に赦される必要はない。私はもう“何かをすること”で神様に受け入れてもらう必要はない。

イエス様の十字架は完全で、完了し、私は“何もしない”で、大胆に神様の前に出て、神様と親しい、深い交流ができる。…これが“新しい創造”と思う。

私にとって“良い行い”も付け足して、神様に受け入れててもらおうというのは、完全な赦しの計画を立てた神様と、いのちを捨てて十字架で完了された神様に失礼と思うし、そこに何も付け足さなくていいのである。

“良い行い”で神様に認められようとするのは、神中心でなく、人間中心なのである。

大事な話しをここから分かち合いたいと思ったが、長くなってしまった。その2として、続きを書くことにする。

素晴らしい“新しい創造”をともに分かち合いたい。

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2009年4月30日 (木)

タラント発見の旅・4(見つけるカギ)

私が与えられているタラントを見い出せずにいたことから教えられたことです。

『私たちの目標は、神が私たちに定められたその境界の中にとどまることです。』新約聖書 第2コリント10:13(NLT訳)

前にも書いたが、私が自分に与えられているものが、急にたくさん見えてきた体験がある。

それまでは、神様に赦され受け入れられているとは思っていたけれど、人を裁いていた領域があった。そこを手放したとたんに、神様がどんなにか私を思い、私に期待し、良いものをくださり、計画しようとしているか知った。

すでに与えられているのに、なかなかわからないのは自分の中に見い出せない問題があったのだと教えられた時だった。

「5つの目的」の本の中に、「神から与えられるものを用いるために、自分のありのままを受け入れ、楽しむ大切さ」が書かれてある。その一部を書き写す。

「ありのままの自分を受け入れるということは、自分の限界を認めることが含まれています。…パウロは、自分の召し(働き・使命)が、すべてを成し遂げることでも、すべての人を喜ばせることでもなく、神から与えられている自分にふさわさい働きだけに集中することであると理解しました。…境界というのは、私たち一人一人に、それぞれ仕える分野や領域を用意しておられるということです。あなたの形があなたの専門分野を決定します。」

自分に与えられているもの、また、その領域を私自身に託されているものと所有していくとき、私たちは、人が何かをやっているか、やっていないか気にならなくなるのかもしれない。

まさに、私は、自分に与えられていた賜物(能力)と計画を、他の人たちもするべきだと、賜物投影していたことに、私自身の問題があった。(教会で“神様の恵み”が語られるべきだと要求し続けていた)

私に与えられたものを神様からのものと感謝し、自分の与えられた領域を、自分の喜びと神様と人のためにと謙虚な気持ちで使っていきたいと思った。

神様は一人一人に神様の特別な宝を隠しておられ、それをもって、神様と共に生きる喜びの中に入ってほしいと切に願っておられる。

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神様、どうか、私たち一人一人に、神様が特別に与えられたものを知り、喜んで使っていけますように祝福してください。

求めるものには豊かに与えてくれる神様、与えられているものを豊かに見い出させてください。

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2009年4月29日 (水)

タラント発見の旅・3(5つの方面から与えられているもの)

「5つの目的」の本より、私たちに与えられている賜物(タラント=神様から与えられている能力)について考えたいと思います。

『私たちは皆、キリストの体の一部分であって、それぞれに優れた形と驚くべき機能が与えられているのですから、ためらうことなく、ありのままの自分であり続けなさい。』新約聖書 ローマ人への手紙12:5(Msg訳)

リック・ウォレン師の「人生を導く5つの目的」から、「神に仕えるために与えられているもの」を共に見たい。

本では、人には5つの方面からタラント(神様からもらった能力)が与えられているとある。

1つ目。自分の霊的賜物。(Spiritual Gifts)これだけは、神様の権能にもとずき、クリスチャンにだけ与えられた能力。第1コリント12:8~10には、知恵、知識のことば・信仰・癒し・奇跡を行う力・預言・霊を見分ける力・異言・異言を解き明かす力とある。どれも、個人レベルでなく、教会のために与えられた物と思う。

2つ目。自分の心(Heart)。「あなたの心は、あなたがしたいと思っていることや、一番大切に考えていることなど、あなたの動機の源になっている場所」とある。「神は私たち一人一人に違った感情の“鼓動”を与えています。私たちが興味あるテーマや光景について考える時、私たちの感情的鼓動は速くなります。…あなたがどこに仕えるかヒントになります。」情熱をもって成したいこと、好きなこと、熱狂的なことの中に与えられた、仕える能力が与えられているとある。

3つ目。自分の能力(Abilities)。得意分野ということと思う。料理、裁縫、歌、管理能力、釣り、大工仕事…なんであっても、神様と人のために使いたいとなったとき、神様に喜ばれる、神様と共に喜ぶものとなる。

4つ目。自分の個性(Personality)。内向的、外交的・思考派、感受性派・チームワークが得意、個人プレーが得意、楽観的、悲観的…今もっている性格や個性も神様は豊かに用いられる。

5つ目。自分の経験(Experience)。家庭・教育・仕事・霊的体験・ミニストリーの経験・苦痛の経験など、過去のどんなことも、無駄にならず、神様は生かしてくれる。「神様は痛みの経験こそ最もよく用いられる」とある。まさに『私の苦しみがあなたの慰めと救いのため』(第2コリント1:6)である。

この頭文字をとって自分の形=SHAPEとある。ちなみに私のSは聖書とあかしの分かち合い、Hは悩み、苦しむ人と共に生きたい、Aは人の話しを聞くのが好き、Pは猪突猛進型、社交型、行動派,Eは両親からの傷、教会での苦痛の体験が今断然、益になっているということ。ノートに書いてみると確認できるかもしれない。

神様は、私たちに与えた能力をもって、神様に仕える喜びを与えている。

ジョン・バニヤンのことば。「もし私の人生が実を結ばないのであれば、誰が私を賞賛しようと関係ない。もし私の人生が実を結ぶのであれば、誰が私を批判しようと問題はない。」

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神様、あなたはお一人一人をオリジナリティに溢れた存在としてお造りになりました。

お一人お一人が今与えられているもの、これから表されていくものを知り、神様に期待し、神様と共に働く喜びに満たされますように祈ります。

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2009年4月27日 (月)

タラント(与えられた能力)発見の旅・1

神様は一人一人、すべての人に神様の特別な計画を持ち、能力を与えました。そのことを見い出す素晴らしさを思います。

『あなたがたがわたし(イエス)を選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。

それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、父があなたがたにお与えになるためです。』新約聖書 ヨハネの福音書15:16

私が初めて個人的に神様に出会った日、私はこう祈った。

「今まで自分で生きていると思いましたが、生かしてくださる神様がいるのを、今、知りました。神様のために私を使ってください。」

だから、私にとって、神様に私がどう使ってもらえるかを知っていくことはとても重要だった。私は“生きがい”を捜し続けていたが、その日から“神様に生かされる道”を求めるようになった。

神様は一人一人すべての人に特別な神様の計画とそれに伴う能力を与えてくださっている。

それは一つだけでないかも知れないし、当たり前に思っていたものが、実はその人にだけ与えられているものだったりする。

私への神様の計画と能力は、「こういうことかなぁ」とやっと最近、具体的になってきた。が、予告は25年前にあり、そのことがどうやって実現していくのか祈ってきた。

私への予告の聖書のことばはイザヤ58:6~14で、この箇所を何度も何度も開いては、どんな風にこのことが私になるのだろうと期待してきた。

『飢えた者に心を配り、悩む者の願いを満足させるなら、あなたの光は、やみの中に輝き上り、あなたの暗やみは、真昼のようになる。』イザヤ58:10

まだクリスチャンでなかった主人と出会ったとき、主人は「ぼくは光の中の光でなく、闇の中の光となりたい」と言った。神様から私と同じ計画が与えられている人だなぁと思った。

神様は一人一人に特別なその人にだけの神様の計画と働きと能力を与えているが、それを知っているのと、そうでないのでは、その歩み方が違う。

なぜなら、私たちに与えられた神様の働きと能力は、私のいきがいになり、神様とともに喜ぶ体験になるのだから。(マタイ25:21)

神様は「さぁ、わたしがあなたに託したものを使って、わたしの喜びを共にしてくれ。」と私たちに期待している。神様からのタラント(能力)捜しを、リック・ウォレン師の本を参考に共にできたらと願う。

お一人お一人に与えられたタラントの大発見を期待して…。

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2009年4月26日 (日)

イエス様の赦しのもとに行きましょう

イエス様の赦しは海より深く、私たちを包みます。

『そのとき、ペテロがみもとに来て言った。「主(イエス)よ。兄弟が私に対して罪を犯したばあい、何度まで赦すべきでしょうか。7度まででしょうか。」

イエスは言われた。「7度まで、などとはわたしはいいません。7度を70倍するまでといいます。…』新約聖書 マタイの福音書18:21:22

私たちは、人も出来事も赦しにくい、手放しにくいものです。

また、自分を見たら絶望してしまうほどに、弱く、惨めな、足りない存在です。

ペテロがイエス様に「身近な人が私に対して悪いことをしてきたら、7度も赦したら充分でしょうか。」とイエス様に聞きました。

ユダヤ教の教師は3度まで…と教えていたので、「7度だったら申し分ないでしょう。」と自信に満ちて聞いたのでしょう。

イエス様は7の70倍と言われました。無限にと言うことです。

「えっ!?無限に!?それは、イエス様無理ですよ…。」ペテロはそう思ったかもしれません。

イエス様はご自身がなさらないことを人に言われる方ではありません。

それは、まさにイエス様が「わたしは、あなたがどんなであってもあなたを見捨てません。見放しません。命をかけてあなたを愛し続けます。」と言ってくださっているのだなぁと思いました。

事実、イエス様を裏切ったペテロに復活された主は優しく語りかけました。(ヨハネ21:15~)

イエス様の赦しと受け入れは、私たちの思いをはるかに越えているのです。

イエス様のみもとに行きましょう。ただ、赦されるために。

ただ癒されるために。

私たちが良いことをしても、悪いことをしても、それらは全く関係ないのです。

イエス様の十字架だけが、神様に受け入れられるみわざで、私たちはそのことで、すべての恥をおおわれたのですから。

恐れずに主のもとにいって、慰めとあわれみを受けましょう。

主は私たちの痛みと傷を癒し、ただ主の平安でおおいたいと願っているのですから。

私たちのすべてはもう行く前に赦されています。そのことを受けとるために主のもとに一緒に行きましょう。

イエス様のあとに続いて、私も祈っています。愛されている人たちが、イエス様の赦しと愛と慰めにおおわれるように。心から祈っています。

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“十戒”の恵み・8(性的悩みからの解放、解決扁)

男性は情欲、女性は「この人が私に良いことをしてくれる」という違った思いに支配されやすいと本にありました。神様が私たちに良いことを計画してくれていることを信じます。

『あなたがたを襲う誘惑は、他の人たちが経験したことのないようなものではありません。

神は真実な方ですから、打ち勝つことのできないような誘惑をお許しになることはありません。

むしろ、あなたがたが誘惑にあう時には、それに屈してしまわないように出口を教えてくださるのです。』新約聖書 第1コリント10:13(NLT訳)

マーリン師の「隠れた思い」の本は次のように言う。

「ある誠実な牧師が、一人の女性と肉体関係をもってしまった。なぜか。20年間、一度も恥ずべきことを“した”ことはなかった。が、彼は女性について、“考えをめぐらしていた”のだ。…

想像(空想)する能力は神から私たちへの特別の賜物(たまもの=プレゼント)である。しかし、罪を犯したとき、空想力は破壊的な打撃を受けた。…

マタイ15:18.19には「心から出るものが人を汚す、悪い行いは心から出る」とある。

聖書を読むと神は私たちの心に関心をもっておられることがわかる。

すべてに権威をもっておられるイエスは不品行に対して権威をもっている。

神は聖くなることを望まれ、また、その保証も与えてくださる。」

一冊の本をダイジェストにまとめるとこんなところだろうか。

もっとも教えられたのは、私たちは、行いではなく、思い(空想)をイエス様にあって解決していかないと、その思いは必ず行動に出るということ。

私の経験からは、神様と人に告白する(人には打ち明けられる人に話す)大切さを教えられた。(第1ヨハネ1:9,ヤコブ5:6)

サタンはオレオレ詐欺師のようだ。前者は“恥”で、後者は“緊急性と危機感”で人をコントロールする。詐欺は2人きりの会話だとコントロール可能だが、相手が誰かに相談したとたんその支配を解いてしまう。「それ、詐欺だよ。」と。

性的な問題は「そんな不品行なことを思うのはお前だけだよ。恥ずかしいー。」とサタンは恥で縛る。そんな恥ずかしい思いは誰にも話せないよう仕向ける。誰かに相談したとたん、明るみに出され、制御不能になる。相手の自由を押さえていたが、サタンの思うままに支配することができなくなる。

リック・ウォレン師の「5つの目的」の「誘惑に打ち勝つ」の中に、「楽しみは状況に依存しますが、喜びは神との関係にもとずくものです。」とある。

私はジャニーズ好きを一度、人に話しをしたら誰にでも話せるようになった自分がいた。

私の中で、何が起こったか。そのような性的な恥ずかしいと思うことは、すでにイエス様の十字架で赦されていると受けとることができたということだった。そして、その思いから解かれていった。

神様は何故、私たちが誘惑に会いやすいものとされたか…リック・ウォレン師によると、「神様を選択し、神様を深く愛するチャンスとなる」と言っている。

追記すれば、私の様々な誘惑(人を裁く、神以外を求める)なども、深いところで、そのことを神様がどんな思いで見ておられるか教えられたとき、癒されていった。

###

神様、多くのクリスチャンが、空想の楽しみの中、また、罪責感も感じているのだと思います。

そして、私たちが完全にはなれないとあきらめています。

聖書の、神様の約束、イエス様の赦しの力を信じるかわりに、どうしようもない自分を信じています。

私たちの汚れた空想もイエス様が流された血潮で赦し清め、癒してくださることをありがとうございます。

そして、私たちは罪から離れ、自由にされ、なんの妨げもなく、神様の愛を受けることが一人一人に約束されています。

神様が私たちに願っていることが、神様の愛と、イエス様の十字架の赦しと、聖霊様の教え導きによって成りますよう祝福してください。

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2009年4月25日 (土)

“十戒”の恵み・7(性的悩みからの解放)

クリスチャンのたくさんの人が、性的な問題で苦しんいると思います。もっと、普通に教会でその悩みからの解放について語られたらいいなぁと思います。

『姦淫(かんいん)してはならない。』旧約聖書 出エジプト記20:14

性的な問題の悩み、そしてそこからの抜け道には教会では詳しく話されない。

封印されている。そして、誰もが、性的な問題は私には関係ないという風な顔でいる。その結果、一人一人が隠れたところで、孤独に悩む。

性的な罪を犯したとき、自分もダメージを受け、「自分はもう駄目だ。神様から受け入れられていない。」と思う。

聖書はどう言っているか。私が思うに、他の問題同様、私たちは神様からズレやすいものだ。戒めを自力では決して守れないものだが、イエス様の赦しと癒しによって、その悩みと苦しみから解放しようと言ってくださっているのだと思う。

私は長年、ジャニーズが好きだった。(それが何が問題かと良く言われる。)テレビのブラウン管の中だけのこと。だけど、そんな“素敵なカッコイイ人”、今はやりのイケメンが、現実に現れて、「sebaさん、デートしましょう。」と言われたら、イチコロになってしまうだろうということ。(私にはすばらしい夫がいるにもかかわらず・・・)

ジャニーズや、韓流スターの人気が衰えず、その産業が豊かに成り立っているのは、あたかも自分の“想像上の彼氏”として楽しんでいる多くの女性がいるからなのだと思う。まさに、アイドル(=偶像)とはよく言ったものだ。

私はあるときまで、自分のジャニーズ好きはクリスチャンには誰にも決して告白しなかった。私の性的な恥ずかしい問題として、隠していた。歳を経て、心も癒されていき、神様を喜べるように変えられているのに、アンバランスにそのことを楽しむ私は何なんだろうと思った。

私が、最も教えられた本はマーリン・キャロザース師の「隠れた思い」である。

誘惑は罪ではない、イエス様も悪魔の試みにあったと、別の本にもある。

が、私たちは誘惑すら恥ずかしいこと、神様から受け入れられず、人には話せないことと思ってしまう。

サタンは巧みに、こっそりと、「そんないやらしい思いを抱いているのか。もう駄目だ」と責め立てる。私たちがそこからどうにも抜け出せないように誘導する。

どうすれば、良いか。「隠れた思い」の中ではなんと書かれてあるか。長くなったので、続きはまた、次のブログに書くことにする。次につづく…。

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“十戒”の恵み・6(人を生かす者に変える神)

十戒シリーズが、間があきましたが、私の中ではまだ終わっていなくて、続いて分かち合いたいと思います。後半部分の、人と人の関係についてです。

『殺してはならない。』旧約聖書 出エジプト記20:13

『しかし、カインは弟アベルに話しかけた。「野に行こうではないか。」そして、ふたりが野にいたとき、カインは弟アベルに襲いかかり、彼を殺した。』旧約聖書 創世記4:8

何年か前、ある礼拝で、カインとアベルのメッセージがされていた。ヘブル人への手紙11:4からだった。たぶん内容は「私たちは、神様に受け入れられるささげ物をしよう」という内容だったような気がする。

が、その箇所から聖霊様が私に全く違うメッセージを語ってくれた。

アダムとエバは、エデンの園を追放され、その後、兄カインと弟アベルを出産する。

二人が神様にささげ物をすると、何故か神様はアベルのささげ物を良しとされた。兄カインは怒り、弟アベルを野原におびき出し、殺してしまう。人類初めての殺人として記されている。

何故、カインのささげ物は受け入れられなかったか。神様は心の動機まで見られる方で、何か問題があったのだろうと言われている。

聖書は不思議なもので、「私たちはカインのような人殺しにならないようにしましょう。」と言われても、ピンとこない。

そのとき、私は聖霊様の光の中、私自身が、まさに人を殺すカインなのだと教えられた。

殺人は良くないし、私は人を殺したいと思ったことはない。が、人間の奥深くにひそんでいるのが、そういう性質だと思った。今はそうでなくとも、大切な人を奪われたりしたら、いつ「殺してやりたい。」と思うかわからない。

また、殺すまでいかなくとも、私たちの自己中心が結局は、自分だけ良ければよいと、人が生かされるのを忘れる存在なのだと思う。私自身の過去を振り返ったとき、自分が生きれば良い…どこかでたくさんの人の生きる場所を奪ってきたのだと思う。

まさにカインこそ、私の姿そのものなのだ。

聖歌400番に「きみもそこにいたのか 十字架につくとき ああ なんだか心が震える」という黒人霊歌がある。

私こそがイエス様を十字架につけた…そのところに立つことが、イエス様と共に十字架に死ぬことなのだと思う。

そんな私が赦され受け入れられた。そこから、初めて「殺してはならない。あなたが生かされて、人を生かしなさい。」という神様の戒めの守りの中に入ることができるのを教えられた。

♯♯♯

私たちは自分はカインのように人殺しはしていない…そんな風に思いやすいものです。

本当に私たちは人を殺していないか、人を生かしているか…大きな律法の壁を感じたとき、イエス様が赦しをくださり、私と共に生きようと言ってくださるあわれみをありがとうございます。

私たちは自分が自分らしく回復して生きるとき、人も認め、受け入れ、尊重し、生かす者に変えられるそんな約束を感謝します。私たちをイエス様の愛でおおってくださり、人を生かす者にしてください。

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2009年4月23日 (木)

「同性愛者」の孤独

耐え難い孤独をも溶かしてくださるイエス様を思いました。

『神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。

神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。』旧約聖書 創世記1:27

私たちは、人を差別はしたくないと思いながら、自分には全く理解できないような人に対しては、偏見で見ているのだろうと思う。

4月19日(土曜日)のキリスト教番組、ハーベストタイムは2週に渡り、男と女―その性についてのテーマだった。そして、今回は元同性愛者のポーク氏のお話しがあった。

私は彼の話しを聞いて、行動に出ているところでは理解できない孤独や寂しさの話しを聞き、やっぱり人は等しく神様に造られたものなのだなぁと思った。ポーク氏の話しを簡単にまとめてみる。

「私の両親は未熟な中で結婚し、私が5歳のときに離婚しました。

父は、いつも結果を求める人で、心が通わず、冷淡で距離感のある人でした。

母は、情緒不安で母と私は一体でした。どこからが母で、どこからが私なのかわかりません。私は母といると安心し、母はいつも子どもの私に相談しました。

私は母といて、母の仕草を学習し、女ぽかったのです。学校ではそのことでからかわれ、いじめられました。

男性に対してはいつも恐怖心がありました。

悩みました。が、自分に何がおこっているのかわかりません。信頼できる人もいません。18歳でゲイバーに誘われ、中毒になっていきます。

24歳のとき、誰もわかってくれないと孤独がおおいました。毎晩、家に帰っては泣きながら寝たものです。男という男に裏切られてきました。

同性愛者は愛情に飢えて、深い心の痛みがあります。人と違うと寂しがっています。

その後、私はクリスチャン夫妻に会い、イエス様を信じます。裏切らない父を見つけたようでした。

聖書のことばに支えられ、神様はうそをつかないと信じていく中変えられていきました。

29歳、10年遅い思春期がやってきました。女性と愛しあう素晴らしさにワクワクしました。そして、妻と結婚しました。」

そのような話しだった。イエス様は誰にも理解されない悲しみや孤独に寄り添い、慰め、癒してくださる方だなぁと思った。

♯♯♯

今、誰にも理解されず、悲しみ、苦しみにある人たちにイエス様が本当の理解者であることを知ることができますように。

孤独、悲しみ、苦しみ…誰も助けられないそのまっただ中の暗闇にイエス様の慰めの希望が光となって照らしますように。

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「教会の苦悩」の本を読んで…

今、読んでいる本を通して、私が過去に悩んできた様々なことを思い出しています。

『あなたの神、主が、この40年の間、荒野であなたを歩ませられた全行程を覚えていなければならない。

それは、あなたを苦しめて、あなたを試み、あなたがその命令を守るかどうか、あなたの心のうちを知るためであった。

それで主は、あなたを苦しめ、飢えさせて、あなたも知らず、あなたの先祖たちも知らなかったマナを食べさせられた。

それは、人はパンだけで生きるのではない、人は主の口から出るすべてのもので生きる、ということを、あなたにわからせるためであった。』旧約聖書 申命記8:2~3

今、「教会の苦悩」H・ティーリケ著の本を読んでいる。昔、買ったが、あまり記憶にないのは、文体が難しく頭や心にあまり入ってこなかったのかもしれない。

内容は“説教に関する発言”である。まさに、私が長年苦しんでいたことの答えが書かれてある。

今、3分の1しか読んでいないが、そこには、説教者は自分自身が聖書のことばに生かされているか、自分の生活のすべてとなり、それを語っているか、語る相手を知っているか、また、キリスト教用語(例えば罪、救い、恩寵など)を使って、抽象的概念だけが流れていないか、など書かれてある。どれもこれも、私も考えたことのある内容ばかりで、面白い。

教会のメッセージに悩み続けた私にとって“メッセージとは何か”は最大のテーマの一つだった。

かつて「神様からずれている弱い私たちが、正しい、聖である神様のことばを取りつぐのは可能なのか。」と考えた。私がその頃、思っていたことは、「愚かで弱い人間が神様のことばを伝える…それは、“告白”を通してしかあり得ないのではないか。」ということだった。

「神様はあなたたちにこう言われます。」と言うときに、メッセンジャーは聞いたことを伝える者ではあるが、同時に神様から言われる聴衆の立場であるということ。

また、聴衆の代表として、語られた者であり、その弱さと足りなさを告白しつつ、分かち合う者であること。

“メッセージとは何か”そんなことを考えて悩み続けた人はあまりいないかもしれない。

が、申命記のこのことばは私たちに真実である。私たちは苦しみの中において『人はパンだけで生きるのではない、人は主の口から出るすべてのもので生きる』ということを神様から教えていただく。

私にとって、教会のメッセージの苦痛が、直接神様のことばを食べる祝福へと変えられた。神様の深い計らいに感謝するばかりである。

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2009年4月21日 (火)

ヨナタンとダビデの友情

「友はいいものだ」と改めて思った今日、ダビデとヨナタンの友情を共に分かち合いたいと思いました。

『ヨナタンは自分と同じほどにダビデを愛したので、ダビデと契約を結んだ。

ヨナタンは着ていた上着を脱いで、それをダビデに与え、自分のよろいかぶと、さらに剣、弓、帯までも彼に与えた。』旧約聖書 第1サムエル記18:3.4

遠方より友来る。一年に一回位のペースで、遠くから友人が会いに来てくれる。

私も一年分の自分の足りなさとそこに働いてくれた神様の素晴らしを話しまくる。

私よりちょっと年上の友人は、私にしてくれた神様の良き出来事を自分のことのように喜んでくれる。

20年前に、教会が私たちの前から無くなったときの共通体験を共に思い出す。私たちの結論は、人はとにかく弱く、いろんなことに誘惑される存在で、自分たちだって気をつけないと…と話しをする。

あの後、別々になってから、彼女は属していた教会を3回ほど移った。出るたびに傷と痛みを負い、いまだに癒えていないと言っていた。

あっという間に時間が過ぎた。「一日あっても足りないね。」と時が立つのを惜しんでくれた。密度の濃い時を過ごして別れた。

聖書では、ダビデとヨナタンの友情が有名だ。

ヨナタンはダビデと出会い、友情を誓い、その生涯、その友情を貫いた。

ヨナタンの父サウル王がダビデの命を狙っていたときも、ダビデを支えた。そして、ヨナタンが本来、王位継承者である状況で「ダビデよ。あなたこそ、イスラエルの王となり、私はあなたの次に立つ者です。」と語る。(1サムエル23:17)

ヨナタンが戦場で殺されたときはダビデは悲しみ、哀歌“弓の歌”を作った。(ヨナタンの弓からとった題名とされる)

『…ああ、勇士は戦いのさなかに倒れる。ヨナタンはおまえの高き所で殺された。

あなたのために私は悲しむ。私の兄弟ヨナタンよ。

あなたは私を大いに喜ばせ、あなたの私への愛は、女の愛にまさって、すばらしかった。

ああ、勇士たちは倒れた。戦いの器(うつわ)はうせた。」(第2サムエル1:25~27

イスラエルの国の王位がサウルからダビデに移っていく情勢の中、美しい友情を貫いた2人。神様が出会わせ、結びあわせてくださった。

私たちは今、イエス様が「わたしがあなたの友です。」と言ってくださる。(ヨハネの福音書15:14)

私の喜びも悲しみも知り、共に寄り添ってくださるイエス様と親しくある日々でありたい。

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2009年4月20日 (月)

“十戒”の恵み・5(共に礼拝する日を待ち望む)

私が日頃思っている、祈っている分かち合いです。

『安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。

6日間、働いて、あなたのすべての仕事をしなければならない。

しかし、7日目は、あなたの神、主の安息である。あなたはどんな仕事もしてはならない。―あなたも、あなたの息子、娘、それにあなたの男奴隷や女奴隷、家畜、また、あなたの町囲みの中にいる在留異国人も。―

それは主が6日のうちに、天と地と海、またそれらの中にいるすべてのものを造り、7日目に休まれたからである。それゆえ、主は安息日を祝福し、これを聖なるものと宣言された。』旧約聖書 出エジプト記20:8~11

旧約の安息日は、新約では「主の日」・日曜日の礼拝になる。

イスラエルの民にとって安息日を覚えるのは、6日で創造され1日休まれた創造主を覚えるため、また、エジプトから救い出された神様を覚えるため(申命記5:15)だった。

今私たちは、聖日に仕事を休んで、十字架にかかられ、復活されたイエス様を覚える。

時間もまた、神様から与えられたものとし、感謝する。

それでは「日曜日には教会に行って礼拝しよう。」ということになる。が、私の大切な友人の何人かは痛みや苦しみの中、教会に行っていないので、安易にそれを言えない。

イエス様はすべての人のために死なれ、その赦しをただで受けよと招いておられる。

が、教会には何か壁を感じる。その壁が障害となって教会にこれない人がいる。

教会の中で楽しくやっている人にはわからないかもしれない。

主の日を教会で、神様の家族で守る…神様を信じた人に特別に与えられた祝福と特権と思う。

が、キリストの体の半分は教会に行けないクリスチャンである。私は、その半分を神様は覚えてくださってる、特別な計画を立ててくださっていると神様から教えられ確信している。

エペソ2章にあるように、キリストにあって、隔ての壁が打ち壊されて、一つのからだとして、神様に仕える日がくることを心から祈っている。

そのとき、ただキリストによって、私たちは誰もが共に主の日を楽しみ、喜び礼拝する。

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2009年4月19日 (日)

“十戒”の恵み・4(まことの礼拝とは)

偶像を造るとは何か、そうでないまことの礼拝とは…について考えてみました。

『あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。上の天にあるものでも、下の地にあるものでも、地の下の水の中にあるものでも、どんな形をも造ってはならない。

それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。

あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神、わたしを憎む者には、父の咎(とが)を子に報い、三代、四代にまで及ぼし、わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施(ほどこ)すからである。』旧約聖書 出エジプト20:4~6

『あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。…どんな形をも造ってはならない。』というのは「まことの神を自分自身が、それ以下のものとして想像してはならない。」という意味だと、J・I・パッカー師は「クリスチャン生活と十戒」(いのちのことば社)の中で言う。

神様は私たちに“想像力”を与えられた。それも良いものであった。が、アダムとエバの堕落以来、私たちの“想像力”も悪い方向へと進むに至った。

神を神たるように想像するのではなく、もっと人間的なもの、しいては人間の欲求の産物として造ってはいけないということだろうか。

もし、人に例えると素晴らしい人がいて、その人を勝手に自分の想像で思い描くこと、ひどいものに想像することかなぁと思った。

神様を勝手に自分の想像の範囲に押し込める…その反対は何かを考えた。

それは、“啓示の神”を信じるということではないか。

イエス様は言われた。『しかし、真の礼拝者たちがまことによって父を礼拝するときが来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。

神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。』(ヨハネの福音書4:23.24

イエス様が来られ、私たちは赦され、神様と人格的な交流ができるようになった。神様の思いを知る聖霊を与えられ、神様と親しい交わりに入れられた。そして、旧約聖書とイエス様によって上から啓示されたところの神様を礼拝できる。

今、最後の時代(聖霊が与えられ、教え導かれる時代)として、私たちはイエス様に赦され、大胆に神様を崇めることができる。

♯♯♯

神様、イエス様が来てくださり、私の罪の赦しを与えてくださり、神様を神様として礼拝できる恵みをありがとうございます。

私たちが自分の想像で造った神様であるなら、私を生かすことも助けることもできません。

すべてに主権をもっておられる全能の神様、愛なる神様を私の神様として礼拝し、あがめられる幸いを感謝します。

神様を私の小さい世界に引き込むことなく、恐れをもって、神様として礼拝できますようお願いします。

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御顔を照らしてください

イエス様によって、今、私たちは神様の御顔を照らされてる者である幸いを思います。

『どうか、神が私たちをあわれみ、祝福し、御顔を私たちの上に照り輝かしてくださるように。』旧約聖書 詩篇67:1

“御顔を照らす”は“微笑む”とも訳せるらしい。

私は民数記6:24~26の祝福の祈りのことばが大好きだ。

この詩篇でも「御顔を私たちの上に照り輝かしてくださるように。」とある。

神様はいつも微笑えんでくださっている。

私にかかっているおおいが取り除かれた時、太陽のように変わらずに輝く神様の光と愛が私を照らし、神様の微笑みを見ることができる。

願わくは、私たちが皆、この神様の微笑みに喜ぶことができますように。

♯♯♯

私たちは神様からずれやすい者です。

そんな私たちにイエス様の完全な十字架による赦しを与えてくださり感謝します。

イエス様の十字架がなければ、私は何を得たとしても神様との親しい交わりはありませんでした。

イエス様が十字架にかかって、私の罪を赦してくださり、私もまた、イエス様と同じように、神様との親しい交わりに入れていただき、ありがとうございます。

この交わりを祝福してくださり、人々が私に照らされている輝きを見て、神様を知ることができますようにしてください。

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2009年4月18日 (土)

花婿の呼びかけ

イエス様の私たちへの愛を雅歌から見てみます。

『私の愛する方は、私に語りかけて言われます。

「…わが愛する者、美しいひとよ。さあ、立って、出ておいで。

岩の裂け目、がけの隠れ場にいる私の鳩よ。

私に、顔を見せておくれ。あなたの声を聞かせておくれ。あなたの声は愛らしく、あなたの顔は美しい。

「私たちのために、ぶどう畑を荒らす狐や小狐を捕らえておくれ。」

私たちのぶどう畑は花盛りだから。』旧約聖書 雅歌2:10~15

神様は私たちに男女が引かれ合い、結婚へと導いてくださる祝福を与えてくださった。

雅歌はそんな男女の愛になぞらえて、キリストとキリスト者の愛を表している。

花婿であるキリストは私たち花嫁に語りかける。

「わが愛する美しい人よ。さあ、わたしのもとに来てください。

あなたの美しい顔を見せてください。あなたの愛らしい声が聞きたいです。

私たちの愛を妨げるもの(ぶどう畑の狐たち)を取り除いてください。

私たちの今、愛し合う関係は時満ちていますから。」

イエス様の私たちへの語りかけは、そんな感じだろうか。

イエス様の命を捨てて愛してくれた愛は、私たちに注がれたとき、様々な困難の中にあっても、私たちに失望をもたらさないものです。(ローマ人の手紙5:5)

苦しみや迫害、飢え、はずかしめ、危険、戦い、何にあっても奪われない喜びを与えてくれるものです。(ローマ8:35~39)

愛されるため、呼び出された私たちの中に、このイエス様の花婿としての愛が満ち溢れますように。

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“十戒”の恵み・3(神様の愛に満たされる)

神様と私の関係でもっとも大切な第一の戒めから分かち合いたいと思います。

『あなたには、わたし(神)のほかに、ほかの神々があってはならない。』旧約聖書 出エジプト記20:3

私は神様に出会った頃、とても神様が近くに感じたり、なんだか遠く感じたりした。

神様は時に私たちにたくさん現れ、時に少ししか現れない方だろうか。

神様はいつも変わらない方で、私たちのうちにおられ、私たちの外には、いつも大雨のように神様の愛と恵みを降り注いでくださっている。

問題は私たちの内側にある。その神様の良いものを隔てるものが私たちにある。

私は自分を見ていると、神様以外のものを神にしてしまいやすいものだなぁと思う。

まず、自分。自分の考えや経験を正しいとしてそこに立ちやすい。私は長年、人を裁く習慣があったが、それもまた、自分が正しいとするところから発する行為である。

アダムとエバが善悪の木の実から食べて以来「神のようになる」誘惑にさらされている。

また、私は人が神のように思えたときがあった。自分の進みたい道をふさいでいるのがあたかも一人の人のように思えた。「神様、あの人を神かのように、絶大な力を行使しているかのように思える私を赦してください。道を開かれるも閉ざされるも神様のなせるわざです。」と祈ったことがある。

反対に、人に必要以上に過信したり、頼りすぎることも、また、人を神にしやすい危険があることを学んだ。

そして、最後に物や出来事などを神としてしまいやすいのが人だと思う。お金、地位、名誉、快楽、財産、持ち物、見た目等々。私たちは第一としたものに支配される(振り回される)者である。

もしそれら一つ一つ、手放していくことができたとき、何が起こるか。

それはまったき神様の支配である。神様の愛だけが私の心に満たされ溢れるのである。それは、エデンの園に戻っての、神様との親しい交わりを楽しむ世界になる。

神様はそのことを私たちに願っておられ、私たちのうちにそのことを切に成したいと思っておられる。

神様の私たちへの関心はこの世の楽しみを越えた「神様に愛される者」になってほしいということなのだなぁと思う。

♯♯♯

神様、あなたが私たちを限りなく愛してくださり、ただその神様の愛を私たちに注ぎたいと切に願っていてくださることをありがとうございます。

私たちは違うものを神にしやすい者ですが、あわれんでくださり、イエス様の赦しの中、一つ一つ手放し、神様だけをお迎えできる準備ができますように導いてください。

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2009年4月17日 (金)

“十戒”の恵み・2(良好な人間関係への道)

第5の戒めからの分かち合いです。人に関する戒めの初めにありますが、私はこの戒めのことばに出会って、“十戒”の奥深さを教えられました。

『あなたの父と母を敬(うやま)え。あなたの神、主が与えようとしておられる地で、あなたの齢(よわい)が長くなるためである。』旧約聖書 出エジプト20:12

私は、精神病になり関わりがなくなった父と、価値観の違う母に育てられ、20歳の時には、全自己否定の人間になっていた。

神様に出会って、少しずつ癒されてはいったが、「神様、父母を敬う…これだけは無理です。勘弁してください。」という感じだった。

が、神様の深いあわれみの中、父母を赦し手放すことができた。ただ神様がそうさせてくれた。そして、新しい天のお父さんに養われる喜びに至った。

その後、何年もたってからこの“あなたの父母を敬え”という聖書のことばに出会った。

そして、そのとき、「これは単なる命令のことばではない。解放に至るためのことばだ。」と感動した。

私たちは、未熟児で生まれ、何もできないところから、まわりの人に育ててもらう。成人になるまで20年もかかる。

人間形成にあたって、そのまわりの育ててくれた人の影響が大きい。その影響を与える大半は父母である。

まわりの人、特に両親が「あなたはそのままでいいのよ」と肯定的に育てると、子どもの中に肯定感が育つ。反対に、「あなたがあなたであるな」という何らかのマイナスメッセージを受け(ことばだけでなく、育児放棄や虐待もそうである。)育つと、その心に否定的なものが育つ。

そして、残念なことに、その基本の人間形成が、後の人間関係に密接に関係してくる。

『あなたの父母を敬え』それは単なるきまりとしてでなく、関係を築くすべての土台となるところになる。

私のように、両親を敬うのは不可能な人はたくさんいる。しかし、ここに、イエス様の十字架が登場するのだ。

赦せない人を赦す…これは大変しんどいことで、自分自身では到底できない。赦したくない心もある。

しかし、親のためでなく、私のこれからの人間関係良好のため、しいては神様とさらに親密になるため、私の将来、未来のために…と思えたら、祈ってみてあまりあることと思う。

イエス様は私たちの傷を癒すため、十字架にかかられた。そして、私たちにいやしと平安を約束してくれている。

私たちがこの聖書のことばを使って祈るかどうか…解放への選択である。

♯♯♯

神様、もしかつての私のように、父母を敬うことが難しいと感じている人がいるなら、神様が助けてください。

神様はその捕らわれに苦しむ我が子をご存じです。

私たちが、自分の力でできることは何もありませんが、イエス様の十字架の力と愛でいやし、おおい、手放し、自由にしてください。心からお願いします。

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“十戒”の恵み・1

モーセに与えられた“十戒”を分かち合うにあたって、聖書からその箇所を写しました。

『わたし(神)は、あなたをエジプトの国、奴隷の家から連れ出した、あなたの神、主である。

あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。

あなたは自分のために、偶像を造ってはならない。…

あなたは、あなたの神、主の御名を、みだりに唱えてはならない。…

安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。

あなたの父と母を敬え。…殺してはならない。姦淫(かんいん)してはならない。盗んではならない。あなたの隣人に対して、偽りの証言をしてはならない。…あなたの隣人のものを、欲しがってはならない。』旧約聖書 出エジプト20:2~17

神様のくすしい御業によって、劇的にエジプトを脱出した大勢いたイスラエルの民に、神様はご自身がどんな方で、どんな民を望んでいたか、示された。

「……してはならない。」という禁止命令に、「はい、喜んで聞きます」とはなかなかなれない。

私などは、母から否定的な小言で育ったので、その傷が残っていたときは、誰かに命令されるだけでも拒否反応を示した。

しかし、神様は10のポイントで“戒め”を示された。それは祝福なる神様が選民イスラエルを神様の祝福にあずからせるためであった。

『今、もしあなたがたが、まことにわたし(神)の声に聞き従い、わたしの契約を守るなら、あなたがたはすべての国々の民の中にあって、わたしの宝となる。全世界はわたしのものであるから。

あなたがたはわたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる。』(出エジプト19:5.6)

神様はイスラエルの民を選ばれ、イスラエルの民と契約された。イスラエルの民が特別に何かすばらしかったのではなく、アブラハムとの契約のゆえであり、アブラハムもまた、ただ神様のあわれみによって選ばれた。

旧約聖書の中に神様の愛が満ちている。

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2009年4月16日 (木)

律法の大切な役割

私は律法主義者(決まり事を人に押し付けてくる人)は嫌いですが、律法は私たちの救いと赦しのために無くてはならない大切な役割をしていると思います。

『それでは、どういうことになりますか。律法(りっぽう)は罪なのでしょうか。絶対にそんなことはありません。ただ、律法によらないでは、私は罪を知ることがなかったでしょう。…

ですから、律法は聖なるものであり、戒めも聖であり、正しく、また良いものなのです。』新約聖書 マタイの福音書7:7~12

モーセはイスラエルの民をエジプトから救うため神様から遣わされることになったとき、神様に聞いた。

「神に遣わされてやってきたと言ったら、『その名はなんですか。』と聞かれる。何と答えれば良いですか。」

神様は言った。「わたしは、『わたしはある。』という者である。」

これは「神様は何にも依存しない神の性質、神様は過去・現在・未来に存在する永遠性、そして神様の主権」を表しているとある。

イスラエルの民にとって、まだ天地を造られた神様は漠然とした方だったかもしれない。

エジプト脱出後は、「あの奴隷生活から解放してくれた偉大な神様」となったが、それまでは、イスラエル全体での統一した神意識はなかったのかもしれない。

私たちの信じる神様はどんな方か。それを表したのが、“十戒”なのだと思う。

イスラエルの民を救い出した神様は、正しく、聖いお方、そして、民と親しく交流することを望み、人と人が侵害しない秩序ある関係を望む神様である。

「神様を愛し、自分を愛するように、人を愛する」ことを望まれた神様である。

律法が無くては、神様がどんなにか正しい、聖いお方か知ることはできない。

そして、それに対し、私がどんなに汚れた不完全な者かも知ることはできない。

聖書のメッセージの素晴らしさは、完全な義で聖なる方が、不完全で弱い私たちをどうしたら受け入れられて、交流することができるか、その聖書全体に、神様の愛の計画がちりばめられていることだろう。

神様の聖さにあずかるにふさわしくないものが、イエス様の十字架で赦され、その愛に応答したいとなったとき、その律法の成就へと導かれていく…神様の計画の大きさを思う。

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2009年4月14日 (火)

神様との会話

『私の言うことを耳に入れてください。主(神)よ。私のうめきを聞き取ってください。

私の叫びの声を心に留めてください。私の王、私の神。私はあなたに祈っています。』旧約聖書 詩篇5:1.2

かつての私は良い祈りをしたいと思った。「聞かれる祈り、勝利する祈り」などの本も読んだ。

あるときから、祈りって、人と話しているのと同じだなぁと思った。

信頼している親しい友とは何時間でもおしゃべりしていられる。神様とは、最も信頼する方なのだから、楽しいこと、嬉しいことも、悩みも、苦しいことも何でも話せる。何も難しいことはないのだなぁと思った。

ある友人が「神様に話しをしているけど、普通の会話をしているように感じない。まるで一人ごとを話しているようだ。」と言った。

「あなたの意見を聞かせてほしいの。」と相談してきてくれる人がいるが、実は自分が話したいだけで、“聞いて受けとめる”心のスペースがない人がいる。心配や悩みで一杯で、人の言葉を片隅にいれる余裕がないのだと思う。私自身が、かつてそんな者だった。

神様との祈りも同じかなと思う。神様は語ってくださる。聖書のことばを与え、語り続けてくれている。

「神様はどう思いますか?」と聞いたら、その答えを待って受けとめる心のスペースが必要なのだと思う。

神様は私たち人間だけを霊的な存在として造られた。それは、神様は私たちとの親しい交わりを求めておられるからである。

イエス様が十字架で死なれたとき、神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けた。決して、普通の人が入ることの出来ない至聖所…神様が臨在する場所に私たちは罪赦されて大胆に入ることができる者とされた。(マタイ27:51,ヘブル10:19~22)

私は最近思うのは、十字架の赦しで、たくさんの祝福をいただいたが、神様と親しく交流する…これにまさるものはないのだなぁということ。

祈りは祝福であり、特権である。もし祈りを義務やなすべき仕事と思っていたらもったいない。神様との親しい交わりがありますように祈ります。

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2009年4月13日 (月)

“たわごと”と思った使徒たち

私たちは信じにくいものです。もし、神様のみわざを信じられるとしたら、それは神様のなせるわざだと思います。

『ちょうどこの日、ふたりの弟子が、エルサレムから11キロメートル余り離れたエマオという村に行く途中であった。

そして、ふたりでこのいっさいの出来事について話し合っていた。

話し合ったり、論じ合ったりしているうちに、イエスご自身が近づいて、彼らとともに道を歩いておられた。

しかしふたりの目はさえぎられていて、イエスだとはわからなかった。』新約聖書 ルカによる福音書24:13~16

聖書では、4福音書にイエス様の十字架とよみがえりの出来事が書かれてある。

しかし、イエス様と一緒に3年間を共にし、十字架とよみがえりの話しを聞かされていた弟子たちにも、イエス様のよみがえりは信じられなかった。

御使いに会って話しを聞いたマリアたちは、使徒たちに話したが、『この話しはたわごとと思い、女たちを信用しなかった。』(ルカ24:11)とある。

イエス様はエマオの途上のふたりに同行するが、共に語らいながらも彼らはイエス様だとわからなかった。

クリスチャンは、このイエス様の十字架と復活を信じるものなので、当たり前のように信じている。

しかし、私たちは基本は、イエス様の出来事が私たちの考えの範疇を越えているので、“たわごと”と思えたり、“目がさえぎられて、イエスだとわからない”者なのだと思う。

私は信じる力がなかったが、信じる信仰を神様が与えてくださったので、“信じられない出来事”を信じるに至ったのだと思う。

女たちは御使いのことばによって、イエス様の十字架とよみがえりを思い出した。(ルカ24:8)

エマオの二人は、かなり長い時間をよみがえられたイエス様と過ごし、目が開かれた時、イエス様とわかった。(ルカ24:31)

また、よみがえられたイエス様が使徒たちに、聖書を悟らせるために彼らの心を開いた。(ルカ24:45)

私がイエス様の十字架とよみがえりを信じたのではない。神様のことばを思い出させていただき、目を開いていただき、心を開いていただき、信じられないような神様のみわざを信じさせてもらったのだ。

♯♯♯

神様、私たちは信じにくいものです。また、神様の計画はいつも、私たちの考えを越えていて、理解したり、信じたりするのが難しいです。

どうぞ、聖書にちりばめられているすばらしい約束が、私自身に与えられているものと信じる信仰と喜びを与えてください。

現実の中に生きて働いている神様をいつも見ることのできる目を与えてください。

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2009年4月12日 (日)

墓から戻って…

今日の礼拝のメッセージを聞きながら、教えられたことを書きます。

『「あなたがたは、なぜ生きている方を死人の中で捜すのですか。

ここにはおられません。よみがえられたのです。まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。

人の子(イエス)は必ず罪人らの手に引き渡され、十字架につけられ、三日目によみがえらなければならない、と言われたでしょう。」

女たちはイエスのみことばを思い出した。

そして、墓から戻って、…一部始終を報告した。』新約聖書 ルカによる福音書24:5~7

人生の中にやってくる深い失意と悲しみ…イエス様を慕っていた人たちにとってそれは、イエス様が十字架にかかって殺され死んでしまったときだった。

「この方こそ、私たちを救ってくださる方」と思ったが、死んでしまった。もう何もない。

そんな失意のどん底にあっても、マリアたちはイエス様の体が置かれている墓に行った。

ところが、あるはずのイエス様のからだがない。途方に暮れた。

そんなとき、御使いが現れ、「なぜ、イエス様を死人の中に捜すのか」と言われる。

御使いたちに、「イエス様の言われたことを思い出しなさい。」と言われ、女たちは思い出した。

私たちも、本当にイエス様が生きて働いてくださっているのか…と失意のどん底に落ちていくときがある。

聖霊様の助けと導きの中、聖書の約束のことばを思い出したい。

イエス様がおられない空っぽの墓を見つめるのではなく、私たちに今日、優しく、私の名前を呼んでくださるイエス様に目を向けられるようにしたい。

私たちのために命を捨てて、愛してくださった方は、最後の敵…死にも打ち勝ちよみがえられ、今、私たちのために祈ってくださる。

墓から戻って、主のもとに行こう。そこは、奪われない安らぎが与えられる場所である。

♯♯♯

神様、今、悲しみと失意の中にいる人に、聖書の、イエス様の話された希望の、慰めの約束のことばを思い出させてください。

そして、空っぽな墓から立ち上がり、そこを出て、イエス様がいるところに戻ることができますように祈ります。

『わたし(イエス)は、あなたがたに平安を残します。わたしはあなたがたにわたしの平安を与えます。…あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。』ヨハネ14:27

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暗やみも光

昨日、ブログを書いた後、ずっと喜びにあふれました。神様の私に対する長く深い配慮に気がついたのです。

『たとい私が「おお、やみよ。私をおおえ。私の回りの光よ。夜となれ。」と言っても、あなた(神)にとっては、やみも暗くなく夜は昼のように明るいのです。暗やみも光も同じことです。』旧約聖書 詩篇139:11~12

どんな意味があるかわからずに、苦しい中にいると、そこが長いトンネルのような気がする。

このままずっと先に光が差し込んではこないのではないか…そんな気持ちになる。

そして、あるとき、トンネルを抜けて光の中に入る。

後ろを振り返ったときに驚く。自分の通ってきた意味のないような苦しい道のりが、実は特別な意味があったことに。暗いトンネルに思えたところに神様の優しい光が差し込んでいたことに。

昨日、私は「十字架以外に誇りなし」のタイトルでブログを書いた。

その後、忙しくて夜まで出かけていたが、喜びに溢れていた。

始めは、大切なことをブログに書けた喜びかなと思った。そして気がついた。

「私のあの苦しくて仕方なかった教会での25年は、神様が私に“神様の恵み”とは何か教えてくれるための特別な道だった」ということ。

そして、「私が一番何を求めていたかを神様は知っておられたのだ。」ということ。

私が求めていたような“神様の恵み”が語られる教会にいたら、きっと今の私はいなかったのだろう。誰かに聞いた借り物のような恵みだったかもしれない。

“神様の恵み”って何?何?何?って疑問をもって、葛藤して、苦しんだから今少しわかって、人と分かち合えている。あの渇望なくして、長い間の疑問なくして、私の場合はここにはたどり着かなかったんだ。神様はそれをご存知で、一番最善の道を通してくださったのだと、神様に感謝があふれた。

過去を振り返ると、泣いたり、騒いだり、怒ったり、不満を抱いたり、恨んだり、裁いたりばかりしてきた。

神様は忍耐してくれた。今、神様の光の中であのトンネルも神様の光だったことを教えてくれた。

神様、感謝します。私のすべてをご存知で、暗く苦しく思えた過去も私に大切なことを教えてくださる道だったことを感謝します。共に分かち合う方々に祝福がありますように。

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2009年4月11日 (土)

律法からの解放

久々掃除をして、捜していた本が見つかりました。掃除半ばに、この本の一文を載せたく、書いてます。

『しかし、今は、私たちは自分を捕らえていた律法に対して死んだので、それから解放され、その結果、古い文字(もんじ)にはよらず、新しい御霊によって仕えているのです。』新約聖書 ローマ人の手紙7:6

私が、神様は“良い行い”ではなく、“関係”を求めておられるのを再確認したのが、マクベイ師の「恵みの歩み」の本だった。

「律法の目的は、神との正しい関係を築くには目に見える規則を守ることによるのではないということを明確にすることです。外的な規則を守ることではなく、内なる願いである新しい律法によって生きているのです。キリストが私たちの人生であることを知ったとき、内におられるキリストの願いによって動機づけられるのです。神に栄光をあらわすことを行いたくなるのです。キリストにある霊的な律法はみこころにかなった生活を送るよう動機と力を与えるのです。もはや律法に目を向けることはしません。主との関係が大切なのです。」

律法と恵みの違いを説明するため、マクベイ師はウォッチマン・ニーのことばを引用している。とてもわかりやすい明確な説明がなされている。

「恵みはすなわち神が自分のために何かをしてくださることを意味する。律法とは自分が神のために何かをすることを意味する。神は聖い義なる私たちへの要求をもっておられる。それが律法である。律法により神が私たちに何かを要求するのであるなら、律法からの解放は神はもう二度と要求しなくなるということになる。そして、主ご自身がそれに答えるのだ。…恵みにより主ご自身がそれをなさるのである。私たちは主のために何もしなくていいのである。これが律法からの解放である。」

神様が求める義はイエス様の十字架で完了した。私たちはそれを信じるだけで、善しとみなされ、神様から受け入れられたのである。

何も神様にお返しはできないけれど、神様がしてくださったことをほめたたえていきたい。

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2009年4月10日 (金)

十字架以外に誇りなし

「イエス様の十字架だけが私の誇りです。」と言うことが出来る素晴らしさをしみじみと思いました。

『しかし私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはなりません。

この十字架によって、世界は私に対して十字架につけられ、私も世界に対して十字架に十字架につけられたのです。

割礼を受けているか受けていないかは、大事なことではありません。大事なのは新しい創造です。』新約聖書 ガラテヤ人への手紙6:14.15

私が神様に出会ったのは、すべてのどん底…と思えるような中だった。

大学を中退し、東京に出て来て、グラフィックデザイン関係の専門学校に通った。が、続かなかった。比重を占めていたそば屋のバイトも危うくなり、心は孤独と虚無感でおおわれていた。

そんな弱さと挫折と生きる気力の無い中で、神様に出会った。

イエス様の十字架とか、聖書のことはほとんど理解していなかったが、「私を生かしてくださる方がいる。」と実感したときだった。そして、その瞬間からまったく今まで考えたこともない世界に入った感じだった。

それは、挫折ばかりする私だったが、努力や能力や意志の強さとは無縁の“生かされる世界”だった。弱さや足りなさがあってもそのままで、内側から湧き出る喜びのある世界だった。

私は嬉しくて、嬉しくて、たくさんの友人たちに「神様は私たちを愛しているのよ!」と部厚い手紙を書いた。友人たちからは「大丈夫?」と言われた。

私の苦しみは教会生活が始まって4年位してから始まった。初めはただ奉仕が楽しくって仕方なかったのに、教会で語られるメッセージが苦痛で仕方なくなった。

聖書のことが語られているみたいだが、私には親から言われるお小言と同じように聞こえた。

教会はいくつか変わったが、そのたびにメッセージがつらく、砂をかむような思いで聞いた。

そして、大事な恵みの神様と違うことを話されていることが赦せない…というところに至った。それでも、何故か教会の礼拝に行き続けた。私の教会生活で、一貫した悩みが、教会のメッセージだったのだ。

今は、神様はそれぞれに与えてくださってる役割があると思えるようになった。私が人を神のように期待した罪も示され、悔い改めた。人ではなく、神様に期待することが出来るようになった。

私はあの苦しみが、今、ブログに“神様の恵み”を書きたいと駆り立てられる思いになっているのに気がついた。あの苦しみは、本当に私にはなくてはならないものだったと思う。

「私には、イエス様の十字架以外に誇りとするものはない」この告白は、私の努力や能力や意志の強さや立派な行いはいっさい関係がない。私は私の弱さを赦してくれたイエス様の愛によって支えられているということだ。

18節の“割礼”は私にとって何か。「“努力や意志の強さによる良い行い”をしているかどうかは関係ありません。私にとって大事なのは、“イエス様によってもたらされた神様との新しい関係”です。」となるのだなぁと思った。

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2009年4月 9日 (木)

“厳しい夫”から“恵みの夫”へ

律法から解放され、キリストとの新しい関係に入れられたということについて、考えました。

『夫のある女は、夫が生きている間は、律法(りっぽう)によって夫に結ばれています。しかし、夫が死ねば、夫に関する律法から解放されます。

…それと同じように、あなたがたも、キリストのからだによって、律法に対しては死んでいるのです。

それは、あなたがたが他の人、すなわち死者の中からよみがえった方と結ばれて、神のために実を結ぶようになるためです。』新約聖書 ローマ人への手紙7:4

私の育った家庭は、私が小学4年の時、父が精神病になり、一気に家庭に暗さや喧嘩がやってきた。

「そんなだったから、今の自分の家庭が、特に何もないような平凡な毎日でも、争いや喧騒がなく、笑いがあるだけで、ものすごく幸せな家庭だと思えるんだ。」と昨日友人に話しをした。

パウロは、律法に縛られていた昔と今は違うということを夫婦関係で示している。

律法とは、神様の民になるための神様の具体的指示や教えをさす。ユダヤ人は、この旧約聖書の律法を守ることによって、神様の民であることを守ろうとした。

しかし、今や、イエス・キリストが十字架にかかってくれ、律法を守れない私たちのすべてを赦してくれた。

もはや、“律法さん”と言う“夫”に従わなくてよいとパウロは言う。

“律法さん”ってどんな“夫”だったか?それは、それは厳しくって、どれか一つの教えをやぶっても、「それでは神様に受け入れられない!」とその代わりになる動物の命が要求された。要は、何をやっても完全ではないから、アウトだった。絶望的だった。

ところが“律法さん”という“夫”が死んでしまった。もう、あの厳しい“律法さん”の言うことを聞く必要は全くなくなった。その関係からは完全に解放された。

“恵みさん”という新しい“夫”と結ばれた。“恵みさん”は私たちの失敗や不完全さを赦してくれる。ただ、「好きにすればいい」というのではなく、影でその処理を犠牲を払ってしてくれる。

だから、失敗を赦されて、ラッキーと能天気ではいられない。私の代わりに命にかえて、守ってくれたこの方あっての今と、ありがたさが溢れる。自分の足りなさを思う程に、それを埋めてくれた“恵みさん”がすばらしい。

この新しい夫こそ、イエス・キリストである。

だから、私は義務や縛りで何かやる必要は一つもない。

ただ、麗しい愛の関係に入れていただき、その方を見上げ、その方をほめたたえる。そのとき、自然と神様の実を結ぶようになる。

神様、イエス様の十字架によって、私たちは新しい関係の世界にいれてもらいました。

私たちの中に、「聖書にかかれてあることだから、それを行わなければならない。」という世界から解放されました。

ただ、イエス様に感謝して、応答する世界、「イエス様のために生きたい」という新しい動機が与えられました。

このイエス様がくださった新しい関係、新しい動機の中で、神様をほめたたえていけますよう祝福してください。

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2009年4月 8日 (水)

過去の日記

20年程前の日記を見ながら、いろいろ考えています。

『彼らは苦しむときには、いつも主(神)も苦しみ、ご自身の使いが彼らを救った。

その愛とあわれみによって主は彼らをあがない、昔からずっと、彼らを背負い、抱いて来られた。』旧約聖書 イザヤ書63:9

私は日記魔だったわりに、ちゃんとした日記があまりない。

神様に出会う前は、日記が心の友だった。恐ろしく迫ってくる孤独や虚無感を、酒を飲みながら、泣きながら、書きなぐっていた。

が、クリスチャンになって、子どもが生まれたとき、(それまでは、証のネタになればととっていた)母亡き後、息子が、こんなドロドロした母の昔を読んでもどうだろうと、捨てた。大学ノート5册位あった。

最近、今から20年前位の5年間書いた日記を見ている。唯一、まともに書き綴ったものだ。8割が、神様への祈りを書いてある。

なんだか、この頃の自分がいとおしい。今は書けない祈りが綴られている。

この5年間は、思えば、物凄くいろんなことのあった期間だった。

神学校卒業。
伝道師として教会へ就職。ゆきずまり。伝道師除名。
他の教会に移動。主人と出会う。結婚。癒し。母召される。教会が教団を出されなくなる。
所属教会がなくなる。等々。

なんだかいつも苦しくて、ゆきずまっていた。

そんな中で一番苦しかったのが、神様が遠く感じられ、いないかのように思えたときだった。そのときの一文を書き写してみる。

「神様、長い月日あなたに祈ることも、求めることもできなくなる程、私の魂は衰えました。

主よ。生かしてください。何も自分は持たないからっぽな器であることを認めます。

神様、あなたはすべてを私のうちから取り去ってしまったかのようです。

あなたの愛をくださいと願っても、心は満たされず、なえ果てました。

挫折、失敗…が終わりきったかのような今、主よ、今こそあなたのお力と愛を与えてください。」

ひたすら神様を、神様の愛を求めていた若き日々、あのときがあって、今の私がいるのだなぁと思った。

神様、苦しみの中にある人のうちに主の慰めを、助けを与えてください。

神様が最良のものを与えたいと願っておられるその信仰に支えてください。

良いときも、悪いときも、神様が変わらず、私たちと共におられ、愛してくださっていることを信じることができますようにお願いします。

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義人はいない、ひとりもいない

聖書でいう“義人”とはどういう人でしょうか。

『義人はいない。ひとりもいない。…

すべての人は罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、…。』新約聖書 ローマ人への手紙3:23

『義人はいない。ひとりもいない。』この聖書のフレーズは、長年聖書を読んでいると馴染んでいる。が、私がクリスチャンになったばかりのときは、ショッキングだった。

「えー!義人はいない、ひとりもいないって、世の中、自分を犠牲にして人のために生きている素晴らしい人たくさんいるじゃないですかぁ。」と私は言った。その場に居合わせた人は、ニコニコと「いえ、ひとりもいないんです。」と言っていた。

相対的に見たら、より良い人も、より悪そうな人もいる。が、完全な神様に対しては、ただのひとりも正しいと受け入れられる人がいない。

けれど、私たちは普通に生活していて、“罪人”呼ばわりされたら、いい気持ちはしない。「100%正しい良い人間ではないかも知れないけど、代わりに十字架刑にかかってもらうほど悪いことはしていない。」と大半の人は思うのではないか。

『その方(聖霊=神様のことを教えてくれる霊)が来ると、罪について、義について、さばきについて、世にその誤りを認めさせます。』(ヨハネの福音書16:8)

2000年前のイエス様の十字架刑が私の代わりだった…この事実は聖霊様無しに、私たち自身では理解し、信じ、受け入れることは無理ではないかと思う。聖霊様の成せる業と思う。

私たちは神様の前に、ひとりとして受け入れられる正しい人はいなく、神様の恵みと憐れみによって、イエス様の十字架の刑罰により、すべての罪が赦され、正しい者と見なされた。

私のちょっとの良いことも、数えきれない悪いことも関係なく、イエス様の十字架の完全制によって赦された。

だから、今、私がちょっと良いことをしても、たくさん良いことをしても、あまり関係ない。

イエス様の十字架によって良しとされたのだから。

神様は良い行いを第一には願っていない。マルタのように忙しくするより、マリアのようにイエス様のところにじっといて、イエス様をお慕いする人を喜ばれる。

『すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、

ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによるあがないのゆえに、値(あたい)なしに義と認められるのです。』ローマ人への手紙3:23.24

神様、私自身は何も良いものはないのに、イエス様の十字架によって、正しい、神様に受け入れられる者とされたことをありがとうございます。

神様の子どもとなり、神様と親しく交流できることが私にとっての“神様からの最大の栄誉”です。

このすべての人たちに提供されているイエス様の十字架のプレゼントが、たくさんの人たちのものとなりますように。

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2009年4月 6日 (月)

神の織りなす織物(コーリー・テン・ブームの詩)

前のブログを書きながら、コーリー・テン・ブームの詩を思いました。前にも書きましたが、改めて書き写します。

『大水もその愛を消すことができません。

洪水も押し流すことができません。』旧約聖書 雅歌8:7

「わたしの隠れ家」の著者コーリー・テン・ブームは、キリストの愛のゆえに、ユダヤ人を保護した。

そのためドイツナチスに捕らえられて、強制収容所でひどい苦しみにあい、釈放されてからオランダに帰り、キリストの証人となった。

「わたしのいのちは神と私の間の織物にすぎない

わたしは色を選ばず神がたゆまず働きたもう

時には神は悲しみを織りなし わたしは愚かな誇りで忘れる

神は表を見 わたしは裏を見ていることを

神は布を広げて なぜなのかをお語りにならない

暗い色糸も巧妙な織り手には

金糸銀糸と同じく神のご計画の模様に必要なのである」

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悲しみの出来事の裏側

イエス様の十字架への道は、その場に居合わせた人たちには誰にも理解できず、ひとつも希望がありませんでした。

『そのとき、群衆が来て、イエスに手をかけて捕らえた。

すると、イエスといっしょにいた者のひとりが、手を伸ばして剣(つるぎ)を抜き、大祭司のしもべに撃ってかかり、その耳を切り落とした。

そのとき、イエスは彼に言われた。「剣をもとに納めなさい。剣を取る者は剣で滅びます。…」』新約聖書 マタイの福音書26:52

ドラマを見ていて、一定の勝ちパターンで勝利してくれるものは、安心して見ることができる。

その代表的なものが、長寿番組「水戸黄門」だろう。旅の最後に、悪者一味が水戸一行を襲う。すると、助さん、格さんが「静まれ、静まれぃ、この紋所が目に入らぬか。」と葵の御紋の印籠を掲げる。一件落着である。

イエス様は、神の子で、嵐を静め、死人を生き返らせた。

イエス様を捕らえに来た人たちを動けなくすることも、イエス様が言うように、御使いの軍団を呼ぶこともできた。ここぞと神の子の権能を使うこともできた。が、イエス様は言われた。

『だが、そのようなことをすれば、こうならなければならないと書いてある聖書(旧約のこと)が、どうして実現されましょう。』(マタイ26:54)

“こうなる”とはイエス様が捕らえられて、十字架にかけられ、殺されることである。

十字架への道は、まわりの人たちにとっても、失意へと向かわせるものだった。

イザヤ53章に、惨めな十字架の道が、悲しげに預言されているが、イエス様に付き従って来た弟子たちや周りの人たちには、真っ暗闇のどん底に落とされた気分だっただろう。

が、神様が計画された救いの業は、私たちが願う方法、考えるところを遥かに越えていた。

『わたし(神)の道は、あなたがたの道より高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い』(イザヤ55:9)とある。

私たちは今、イエス様の十字架によって罪の赦しと永遠のいのちが約束された。

私たちの歩みの中で、「なぜ、願っているとおりに神様はしてくださらないのか?」とドンドン暗闇に向かっているかのような時があるかもしれない。

けれど、ひとり子の命に代えて、私たちを愛してくださる神様の私たちへのその思いは変わらない。

神様の計画が実現していくために、ときとして、私たちには迷い道に入ってしまったかのように思えても、神様が私たちの最善を実現されるためと信じたい。

神様、今、苦しみにある人に神様の深い慰めと支えを与えてください。

私たちに見えることが悪い状態でも、裏側では神様の計画が進められていることを信じることができますように。

特別にキリストの愛を注ぎ、慰められますよう祝福してください。

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2009年4月 5日 (日)

私を取り囲む喜び

神様がくださった私たち一人一人に与えられている感性、喜びについて書きました。

『キリストの愛が私たちを取り囲んでいる』新約聖書 第2コリント5:14

先週、近所の桜が綺麗なところで、地域の方たちとお母さんたち、子どもたちで花見をした。いつも通っている場所だが、その中に入ることはあまりない。

12畳のゴザをしいて、天井高くには桜のアーチがあり、特別な空間である。

Img_2269sすると、小学6年の子が、寝っころがって、「あぁ、気持ちいいなぁ。桜きれいだなぁ。」とその場所を堪能している。それまで、私は、やれ紙コップだの、料理だのと下ばかり見ていたが、彼の一言に、動かしていた手を休め、上を見た。「本当にいい空間だね。」その子のおかげで目の前のきれいな景色を味わえた。

Img_2218sお母さんに「良い感性をもったお子さんね。」と話すと、「男の子4人いるけど、この子だけが私と感じ方が一緒で、また、理解して動いてくれるの。頼りにしてるの。」と言った。お母さんも働きものだが、この長男もそうらしい。

前のハーベストタイムに目が見えないクリスチャンの女性の方が出ていた。

彼女は口笛で、上手に野鳥の鳴き声を真似し、鳥たちと交流できるらしい。「コツは、下手に鳴くことなんです。すると、そうじゃないよって鳴き返してくるんですよ。」と楽しそうに話す。

彼女が、山の中で、上からも横からも、山の麓(ふもと)からも鳥の鳴き声が聞こえたときがあったらしい。そのとき、自分が宙に浮かんでいるような感覚になったと言っていた。彼女は目は見えないが、誰も知らない神様の作られた鳥たちの世界を味わえるのである。

私の主人は最近、若い頃の趣味が復活している。基本、私から見たら、多趣味である。詩を書くこと、花を育てること、将棋(子どものおかげで復活、一から勉強し直している。)、音楽が好きなことは礼拝賛美を準備することと賛美リードの中で生かされている。

Img_2251s そして、私のブログにつけてくれるため、写真の趣味も復活した。(写真画面をクィックしてくれれば、大きく見れます)

そして、子育てが一番の趣味である主人は、目下、息子の将棋マネージャーを買って出ている。(子どもは自立し始めているので、だんだん頼られるというより、親がついて歩く感じだが。)

私といえば、無趣味で、ただ“人との交流”にひたすら生きがいと喜びを見い出す。私がブログが楽しいのは、訪問してくださる方と、こういう形での交流をしているからだと思う。

キリストは私たちを赦し、癒し、私たちに与えてくれる喜びをもって、そこにキリストの愛を表し、取り囲んでくれているのかもしれない。

神様、私たち一人一人に与えられた、違う感性、喜びをありがとうございます。そこにも、キリストが赦し愛してくださっている愛が溢れていることをありがとうございます。

私たちが、それぞれ与えられている中に、キリストの取り囲んでいる愛を見い出しますように祝福してください。

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2009年4月 4日 (土)

「たまにはステーキが食べたい」!?

神様のことばに養われる恵みを思いました。

『わたし(イエス)はいのちのパンです。

あなたがたの先祖は荒野でマナを食べましたが、死にました。

しかし、これは天から下って来たパンで、それを食べると死ぬことがないのです。』新約聖書 ヨハネの福音書6:48~50

「たまにはステーキも食べたい!」お肉のことではない。

30年前、クリスチャンになったばかりの頃、教会の方が言った言葉を鮮明に思い出した。

その頃、教会にはアメリカで神学を学んだ若い牧師が来た。私はスポンジに水を吸い込むように聖書の話しのすべてを新鮮な思いで聞き入っていた。

が、そこにいる年配の方々には、何か物足りなかったのかもしれない。長年、他教会で牧会している、その教会とゆかりの深い方のメッセージも聞きたいということの例えとして言った発言だった。

今、考えると、なんか若い牧師に失礼な気もするが、その方たちの正直な気持ちもわかる気もする。

私も若いときは、いろんな有名なメッセンジャーが来る聖会に良く出かけた。

エジプトを脱出したイスラエルの民は、一ヶ月程旅をする中、度重なる困難に疲労を覚えた。それに加え食糧難と、行き先がわからない不安に「あー、エジプトで肉を食って、パンを食べてたときは良かったなぁ。」とつぶやき出した。そんな民に、神様は「マナ」を与えた。

「マナ」は天から降ってくるうろこのような、白い食べ物である。イスラエルの民が「これは何だろう。」から「なん?」と呼ばれるようになったと聞いたことがある。

一日分ずつ集めて食べる…食いだめはできない私たちの生活に似ている。

神様はイスラエルの民に、日ごとに生きていくための「マナ」を天から降らせ、神様こそが養いを与える神であることを教えられた。

「たまにはステーキも食べたい。」立派な素晴らしいメッセージもいいが、日々3食のご飯のように、私たちを支えてくれるのは、神様がくださる小さな日々の聖書のことばかなぁとしみじみ思った。

神様、あなたがイスラエルの民に、不思議な「マナ」を日ごとに降らせ、食べさせてくれたように、今、私たちに神様のことばを日々与えてくださることをありがとうございます。

それは、私たちが、ご飯だけで生きるのではなく、霊的な糧をいただいて生きていく存在だということを教えてくれます。

この心の糧になる神様の真実なことばをありがとうございます。

そして、私たちは、あなたが私たちを
養ってくださる恵みに満ちた神様であることを知ることができますからありがとうございます。

私たちが日ごとに神様の素晴らしいことばを味わうようにしてください。

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2009年4月 3日 (金)

信頼すること・2

“信じる”とはどういうところでレッスンするのでしょうか。

『すると彼らはイエスに言った。「私たちは、神のわざを行うために、何をすべきでしょうか。」

イエスは答えて言われた。「あなたがたが、神が遣わした者(キリスト)を信じること、それが神のわざです。」』新約聖書 ヨハネの福音書6:28.29

私たちがイエス様を信じる…というとき、私たちは信じにくい者なので、“信じるレッスン”がいると思う。

私が思うに、“信じる”ことができるようになるのに時間もかかるし、いろいろ試されていく中で“信じる”ことをしていくのだと思う。

エジプトを出たイスラエルの民は40年荒野をさ迷った。つぶやいた。不信仰に陥った。その弱さはそのまま、私の弱さだなぁと思う。

人間関係の中で信頼を築くときもそうだと思うが、私は一番大切なのは“正直になる”ということだと思う。

私は“天のお父さん”には赤ちゃんの祈りから始まって良いのではないかと思う。

あまり日頃考えていないのに、世界平和の祈り、神様の栄光が現される祈りをしても、借りてきた祈りのようである。

自分の切実な問題を祈り、一つ一つ教えられて、少年、青年、成人、壮年の祈りになっていくのではないだろうか。

プロセスを飛び越えて、一気に大人の祈りをすると、生活全般に働かれるイエス様、神様の恵みに支えられない。

結婚する前、私は結婚願望が強かった。「神様、この人と結婚します。だから、よろしくね。」と祈り、ガツンと教えられた。悔い改めに導かれ、聞く信仰に変えられた。

イエス様は完全な方だが、私たちが身近な問題から信頼することを学び、本音で祈るなら、そこに少しずつ、イエス様が信頼するお方であることを教えていってくださるのだと思う。

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2009年4月 2日 (木)

私にとっての“5つのパンと2匹の魚”とは…

私たちがもっているものを捧げる祝福について、考えました。

『アンデレがイエスに言った。「ここに少年が大麦のパンを5つと小さい魚を2匹持っています。しかし、こんなに大ぜいの人々では、それが何になりましょう。」

イエスは言われた。「人々をすわらせなさい。」…そこで男たちはすわった。その数はおよそ5000人であった。

そこで、イエスはパンを取り、感謝をささげてから、すわっている人々に分けてやられた。また、小さい魚も同じようにして、彼らにほしいだけ分けられた。』新約聖書 ヨハネの福音書6:9~11

この聖書の箇所は、イエス様の祝福をたくさんの人に与えた記事である。

今日は自分の弁当だった5つのパンと2匹の魚を差し出した少年に焦点をあててみる。

男性だけで5000人、女性と子どもを入れたら、10000万人以上いたかもしれない。

その少年が、「これ、みんなで食べてください」と差し出したのかはよくわからないが、その自分の食べ物だったので、少年はその元の数量を知っていた。

アンデレでなくても、「この人数にこのちっぽけな食糧じゃ、どうにもなりませんよ。」と言いたくなる。

しかし、イエス様はみんなが見ている前で、パンをさいては増やし、魚をちぎっては増やした。そこにいるみんなが十分に食べ、なお12のかごいっぱいに余った。

みんな驚いた。計算にあわないことを見た。

そして、この食べ物を提供した少年は嬉しかったと思う。わずかな自分のために持っていたものを元に、イエス様が増やしてみんなにあげてくれた…と。

人々はイエス様がすごいと、そこしか見ていなかった。誰が提供したか知らなかった。が、少年は自分の持っているものをイエス様が祝福し、増やし、人々に与え、人々を満足させたのを知っていた。イエス様と喜びを共にするということはこういうことかなと思う。

私たちには、自分にも気がつかないようなたくさんの良いものが与えられている。

特別な霊的な能力だけが用いられるのではない。

今、持っているものを「イエス様、祝福し、神様と人のため使ってください。」と捧げたものを用いてくださる。

お菓子作りの得意な人がそこに祈りをもって人に与えるなら、イエス様の祝福となる。それが得意な歌だったり、スポーツだったり、介護の仕事だったり、メールすることだったり、自分の得意なものを捧げると、どんなものでもイエス様の祝福になる。

「これが何になりましょう。」と言わず、「私はこれを持っています。祝福してください。」と差し出し、共にイエス様の喜びにあずかりたい。

神様、あなたが私たち一人一人に良いものを与えてくださっていることをありがとうございます。

それを自分の楽しみに使うならば、それで終わります。

が、その自分が持ってるものをイエス様に捧げるとき、イエス様の祝福へと変えられ、人々にも喜ばれるから不思議です。

自分に与えられているものを感謝し、神様と人々のため、祝福して使ってください。

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2009年4月 1日 (水)

水をぶどう酒(喜び)に変える

イエス様の水をぶどう酒に変える奇跡を見て、この水は私だったと思いました。

『それから3日目に、ガリラヤのカナで婚礼があって…イエスも、また弟子たちも、その婚礼に招かれていた。

ぶどう酒がなくなったとき、母がイエスに向かって「ぶどう酒がありません。」と言った。…

さて、そこには、ユダヤ人のきよめのしきたりによって、それぞれ80リットルから120リットル入りの水がめが6つ置いてあった。

イエスは彼らに言われた。「水がめに水を満たしなさい。」彼らは水がめを縁までいっぱいにした。

イエスは彼らに言われた。「さあ、今くみなさい。そして宴会の世話役のところに持って行きなさい。」』新約聖書 ヨハネの福音書2:1~11

私は中学の頃から生まれ変わりたい願望があった。家がコダゴタしていて、自分に本当に嫌気がさしていた。

よくお風呂に入り、このお風呂から上がったら別人になっていれば…と思った。キリスト教も洗礼も知らない頃である。

イエス様は地上で、初めてされた奇跡が、この有名な「カナの婚礼で水をぶどう酒に変えた」ことだった。

「石の水がめが6つ」はユダヤ教の儀式に使うもので、6は不完全数とある。律法主義的ユダヤ教のの欠陥と不完全性を示すと注解にある。

まさに、私がこの水がめの水だったのだなぁと思った。

高校生のとき、親戚の人に「今が一番楽しいときだなぁ。」と言われた。「別に楽しくない…」と思った。

そして20歳の頃には虚しさと孤独で生きていけないと思った。

イエス様は、そんな喜びのない私自身をこのままで喜びに溢れるものに変えてくれた。

イエス様の十字架で私の悪も傷もすべて赦しおおい、癒してくれた。

無機質な水のような内側を、キリストのいのちと喜びに満たしてくれた。

私自身にイエス様がなしてくれた奇跡だと改めて、この記事を読んで思った。

そして、神様はこの世で「何のために生きているのか。意味すら見い出せない。」と苦しみや悲しみや痛みにある人たちに、同じようにイエス様によるいのちを与え、喜びを与えたいと願っておられる。

神様、水がぶどう酒に変わるなんて、すごい奇跡ですが、今、イエス様の十字架を信じる人のうちに、同じ奇跡が行われることをありがとうございます。

『貧しい者に良い知らせを伝え、心の傷ついた者を癒し、捕らわれ人に解放を、囚人に釈放を告げ、すべての悲しむ者を慰め、シオンの悲しむ者たちに、灰の変わりに頭の飾りを、悲しみの代わりに喜びの油を、憂いの代わりに賛美の外套(がいとう)を着けさせる。』(イザヤ61:1~3)

イエス様によってそのことが成される約束を感謝します。

お一人お一人に豊かにそのことが成りますように祈ります。

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2009年3月31日 (火)

キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さ

私が今神様の恵みにあずかるに至るまで、たくさんのことが関係していたのを思いめぐらしました。

『こういうわけで、私(パウロ)はひざをかがめて、天上と地上で家族と呼ばれるすべてのものの名の元である父の前に祈ります。…

こうしてキリストが、あなたがたの信仰によって、あなたがたの心のうちに住んでいてくださいますように。

また、愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、すべての聖徒とともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように。』新約聖書 エペソ人への手紙3:14~20

前回のブログで、私も月日の中、たくさんの人に支えられ祈られただろうことを感謝した。

イエス様は2000年前私のために罰を代わりに受け死んでくださった。

神様は私が生まれる前からキリストにあって、私を選び、計画してくださった。(エペソ1:4)すべては神様を根底にした感謝になる。

パウロは様々な人を通して、イエス様の宣教を始められた。

パウロは我が同胞(ユダヤ人)が今イエス様を信じないことに涙しながらも、そのことで異邦人も、そしてやがてはユダヤ人も救われていく計画を神様から教えられ語った。(ローマ11章)

今異邦人である私がイエス様を信じるに至ったのは、ユダヤ人の苦しみにも関係があるのだと思った。

なんだか、自分が今ここでイエス様の恵みにあずかることができるのが、考えられないくらいの時の長さや祈りの多さや犠牲や苦労のゆえと思うとき、パウロが言った『キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれだけであるか』を思う。

私はそれらを理解する力を持っていない。私のために祈ってくれた人々の顔をやっと思い出した程度である。

今ここに神様と共にいられる恵み…過去の人たちに感謝を具体的に返すことは出来ないけれど、感謝し、賛美し、神様のあとをついていく中で表したい。

神様、あなたが私たちに与えてくださっている多さ、時の長さ、計画の広さ、その愛の深さを思いめぐらします。

神様がたくさん与えてくださっているのに、いかに感謝せず、見えなくなっていたかを思います。

今、多くのユダヤ人は神様を切に求めているのに、イエス様を信じられずに苦しんでいます。それすら、私たちのためです。ユダヤ人を救ってください。導いてください。苦しみの中から守ってください。

あなたの与えてくださってる多さを覚え、ほめたたえられますように。

私のくちびるから不満とつぶやきの一切を取り去ってくださり、祈り、賛美するくちびるに変えてください。

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2009年3月30日 (月)

パウロを導き助けた人々

パウロが迫害から宣教へと方向転換する記事の中に、パウロに影響を与え、支えた人たちがいることを思い、教えられました。

『しかし、聖霊に満たされていたステパノは、…こう言った。「見なさい。天が開けて、人の子が神の右に立っておられるのが見えます。」

人々は…ステパノに殺到した。そして彼を町の外に追い出して、石で打ち殺した。

証人たちは、自分たちの着物をサウロ(パウロ)という青年の足もとに置いた。』新約聖書 使徒の働き7:55~58

私たちは人生の中で様々な人と出会い、関わる。パウロの回心(かいしん=イエス様を信じること)の記事を読み、パウロがその前後に3人の重要な人に出会っていたことに気がついた。

一人はステパノ。パウロはユダヤ教(旧約聖書の神様の教え)に反すると、クリスチャンを迫害し、捕らえては、牢屋に入れていた。

その最中、天にイエス様を見ながら、聖霊に満たされ輝きながら殺されていくステパノの死の場面に立ち会う。

そして、イエス様に出会う。自分のしていたことの間違いを教えられ、180度方向転換し、イエス様を伝える者となる。

ここで、イエス様の光で見えなくなったパウロを祈るためにアナニヤが遣わされる。

アナニヤは「神様、パウロという人はクリスチャンを牢屋にぶちこんでるって聞いていますよ。ごめんです。」

人間的には「まっぴらごめん。」と言う気持ちだったと思う。しかし、イエス様はアナニヤに“パウロはこれからどんなに大きい宣教の働き”をするか説明した。アナニヤは行って、パウロのために祈り、パウロの目は見えるようになり、聖霊に満たされた。

パウロはイエス様が神の子であることを伝えた。が、弟子たちは誰もパウロが仲間になったのを信じなかった。

そんな中、一人だけ信じた。それがバルナバで、弟子たちに説明し、信じてもらうところに至った。

パウロの宣教の始まりとなった。

この記事はいつも、劇的に内面の変化を遂げ、宣教師へと変えられていくパウロに目が向くが、神様はパウロに必要な人々を備えられたことを教えられた。

私も、神様がしてくださったいろんなことに感謝しているが、その時、その時、影で祈ってくれたり、支えてくれた人々を思い出した。

もっと早く感謝するべき人々だったが、ダメージのほうが大きいときは、その中にあった感謝な人々が見えなくなっていたような気がする。

今、私が信仰を保ち、神様と共に歩めているのは、神様が手を離さなかったからだが、その苦しみの中でいつも慰め、支え、祈ってくれた人たちがいたからと感謝する。

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2009年3月29日 (日)

もうすぐ50歳…

もうすぐ、50歳の誕生日を迎えるにあたって、私の今の心境を書きました。

『霊の父(神)は、私たちの益のため、私たちをご自分の聖(きよ)さにあずからせようとして、懲(こ)らしめるのです。

すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に平安の義の実を結ばせます。』新約聖書 ヘブル人への手紙12:10.11

私はあと2か月近くで50歳の誕生日がくる。ブログではおおむね50歳なので、その歳で通してきたが。

50歳って言うのは、今までに感じたことのない何か未知な世界のような気がする。

私の母は53歳で亡くなった。その歳にも近ずく。私は地上では後何年居られるのだろうか…と思う。肉体的にも老化が確実に進んでいる。

が、聖書にもあるように気持ちは日ごとに若返っていっているような気がする。

小学校の頃、まだ、自我に目覚めずにいた頃、毎日が楽しかった。放課後、日が暮れるまで、お友だちと遊んだ。暗くなると家に帰り、当たり前のようにご飯を食べて、家族と過ごした。

何の心配もなかった。両親のもとで、安心して、“遊び”と“学び”に熱中した。勉強は特別に出来た子どもではなかったが、学校も放課後も家の生活も父の病気発症まではキラキラしていた。

今、自我に苦しみ、人をさばき、人間の欲望に渦巻いていたところから、神様によって長い訓練を経て、あのキラキラしていた小学生の頃のような自分になっているのを思う。

すべてをご存知の頼れる天のお父さんがいて、私は子どものように安心して外に出る。

そして、とにかく与えられた人や出来事を楽しむ。

家に帰ってくると、何でも話しを聞いてくれる神様が待っていてくれる。

地上の役目が終わったときには、イエス様と一緒に神様の家に戻っていく。

“ホーム”と言う歌があるけれど、“帰ろうよ。神様の家に…。”と思う。

神様、あなたの訓練による平安の義の実をありがとうございます。

それは、何があっても「天のお父さんがいるから大丈夫。」何かあっても「イエス様の十字架で赦され受け入れられているから大丈夫。」どんな時にも「イエス様の愛が注がれているから大丈夫」ということだと思います。

私たちは100%肉体の死を迎える訳ですが、ちゃんと天国という帰る素晴らしい場所が備えられているからありがとうございます。

私は長年、神様を悲しませてきましたが、これから限られた残りの地上での人生、神様を喜び、ほめたたえていけますように、よろしくお願いします。

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2009年3月24日 (火)

15%の相性

集団の中で、少数派になってしまうのは、とても苦痛を伴います。

『主(神)よ。私をいやしてください。私の骨は恐れおののいています。…

帰ってきてください。主よ。私のたましいを助け出してください。あなたの恵みのゆえに、私を助け出してください。…

私は私の嘆きで疲れ果て、私の涙で、夜ごとに私の寝床を漂(ただよ)わせ、私のふしどを押し流します。

私の目は、いらだちで衰え、私のすべての敵のために弱りました。』旧約聖書 詩篇6:2~7

友人が言った。「私は教会に合う自分が15%位かなぁ。教会に行かなくなったら、楽になった。教会に行く前の好きな自分を取り戻しつつあるよ。」

「そうかぁ。それじゃ、私は教会に合う自分は30%位なのかなぁ。」と私は言った。

一つの良いとされる集団の中にいて、みんなが楽しく喜んでいるのに、もし、自分だけが、もしくは自分を含めた少数が喜べない、楽しめない状況に居すわると、何か自分が間違っているような気がする。自分はダメなような気になる。

日本人は集団の中で、画一化とまではいかなくとも、均一性を求められているような気がする。

私もお母さん同士の井戸端会議は苦手だが、「そうだよねぇ。」と合わせる、和と協調がその中心を支え、そこで、違った意見を言おうものなら、雰囲気台無しと煙たがられる。

日本の教会がそうかは知らないが、日本文化の麗しい和と協調性はたぶんに入っていると思う。

神様はバラエティーに富んだ方である。一人一人違った個性が与えられているように違った信仰が与えられている。

お互いが違いを認め受け入れ合える、赦しの教会は理想かなと思う。が、実際は、聖書に忠実な人は良いクリスチャン、教会に行かない人は駄目なクリスチャンとなんかランク付けされているように思うのは、思い過ごしなのだろうか。

私は信仰生活27年、一番大切にしていたことだからだと思うが教会のことで悩み続けた。結果、5回教会を変わった。

今は過去のすべては私にとって意味があったと受け入れている。その時、その時、神様から違うレッスンを受けた気がする。

そして、そんなに教会のことで悩んだのに、神様への信頼は増していくばかりだ。

これは神様のあわれみにほかならない。私が神様を選んだのではなく、神様が私を選び、私の手を離さずにいてくれたからだ。

目に見えないキリストの体の半分は、教会に来ていないクリスチャンだと思う。

感性や信仰が、少数派ゆえに、教会は合わない、私は教会生活は出来ないと静かに教会を去っていく人たちもいるかもしれない。

“イエスを主”という霊が与えられているなら、神様が選ばれ、今もとらえられている人である。神様に愛され、計画の中に生かされている。

神様は教会の外にいるクリスチャンを知り、愛してくださっている。

神様、目に見える教会の外にいるクリスチャンの方々を思います。あなたはその方々の苦しみをご存知です。神様の慰めとクリスチャンとしての希望を与えてください。

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2009年3月22日 (日)

恥は我がもの、栄光は主のもの

本当の謙虚な心で、キリストの香りを放ちたいです。神様、今の私大丈夫ですか?

『しかし、この私は、あなたの力を歌います。

まことに、朝明けには、あなたの恵みを喜び歌います。

それは、私の苦しみの日に、あなたは私のとりで、また、私の逃げ場であられたからです。

私の力、あなたに、私はほめ歌を歌います。

神は私のとりで、私の恵みの神であられます。』旧約聖書 詩篇59:16.17

「恥(はじ)は我がもの、栄光は主のもの!」

神学校時代、同じ寮にいた年配の方が、この言葉を口癖のように言っていたのを思い出した。

本当にそう思う。今となっては、とても奥深い言葉に思える。

前の記事にコメントをいただいた。私としてはとても励まされる。が「これからも、素晴らしい証を…。」と言われると、「私の証、大丈夫ですか?」と思ってしまったりする。

私は証魔で、人を赦せた話しなどは、クリスチャンでない方にもたくさん話したりした。

私にとっては、神様の恵みの中で、自分が癒されたり、変えられたりすることは、その途中は苦しくても、変えてくださった神様が凄いと、感謝に至る。

が、「あなたの証を聞くのは苦痛」と言われたことが何度かある。

私の話し方が悪いのだろうが、「私も変わったのだから、あなたも変わりなさい。」という裏メッセージに聞こえてしまうとのこと。

私は自分のドロドロしたところも、回復したところも、全部赦されているところとして表していきたいが、「恥は我が物、栄光は主のもの」になっているだろうか。

私は私の弱さ、足りなさを通して、なお神様と、神様のことば(聖書のことば)が素晴らしいことを伝えたいと切に願うが、知らず知らずのうちに、傲慢が潜んでいたりしたら、通り良き管(くだ)にはならない。

謙虚だとか、素晴らしいとか言われたときは危ない。立っているものが倒れないように、調子が良いときは調子にのらないようにしたい。

毎日ブログを書いているが、そのときにしか書けないことを聖霊様に教えてもらい、私の匂いでなく、キリストが香る(私の匂いは無くて良い)ブログとなって、神様の良いものを来てくださる方と共に分かち合いたいと思った。

神様、ブログを書き続けられて、感謝します。

毎日、誰かが来てくださってるので、とても励みになっています。

傲慢は知らず知らずのうちに、潜むものかもしれません。

調子が良いときは危ないです。

失敗や弱さで砕かれているときは神様に近いのだと思います。

傲慢にならず、悔いた砕かれた心を与えてください。キリストだけの香りを放てるものに造り変えてください。

訪問してくださる方々に、同じ神様の親しい交わりと祝福を与えてください。

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公平な取り扱い

神様の平等を思い、感謝します。

『天の御国は、自分のぶどう園で働く労務者を雇いに朝早く出かけた主人のようなものです。

彼は、労務者たちと一日一デナリの
約束ができると、彼らをぶどう園にやった。

…こうして、夕方になったので、ぶどう園の主人は、監督に言った。「労務者たちを呼んで、最後に来た者たちから順に、最初に来た者たちにまで、賃金を払ってやりなさい。」』新約聖書 マタイの福音書20:1~16

イエス様が天の御国のたとえについて話された。朝早く、9時、12時、5時に雇われた人たちがいた。が一律一デナリが支払われた。そこで、朝早くから働いていた人が主人に文句を言った。

『この最後の連中は一時間しか働かなかったのに、あなたは私たちと同じにしました。私たちは一日中、労苦と焼けるような暑さを辛抱したのです。』つまり、ずるいと訴えた。

主人は『不当ではない。あなたとは一デナリの約束をした。私は最後の人にも同じたけ上げたいのです。私が気前がいいので、ねたましく思われるのか。』と言う。

私はクリスチャンになりたての頃、教会奉仕が大好きだった。

教会奉仕に明け暮れた。ある時、私は同じ教会で奉仕をしていた女性を怒らせた。私が何と言ったかあまり覚えていないが彼女はこう言った。

「みんながあなたのように時間があって、奉仕に明け暮れる訳ではありません!皆さん、忙しいのですよ。」

そこから察するに、私は「なんで、みんなちゃんと教会奉仕しないんだろう。」的なことを言ったのだろう。事実、その頃、そんな風に思っていた。

あの頃の私は奉仕が楽しかったが、神様への感謝への応答ではなかった。自分の場所がある楽しさだったのだろう。

神様から見たら、私たちがどれだけたくさん労したか、どれだけ長く仕えたかは関係ないのである。

なぜなら、私たちはただ一方的なあわれみで、ふさわしくない者が、神様の恵みをもらったのである。

私たちは報酬として神様にお返しできるものはなく、ただ感謝と応答するだけなのである。

もし、私が何かをやってイライラしていたら、動機が違っているときなのだろう。

神様はすべての人に、公平に同じ恵みとあわれみをくださる。すべての人がただ神様のあわれみに取り扱われる。

そして、少し早く神様に見い出された私は、周りの人のために祈ることを託されているのだと思う。

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2009年3月20日 (金)

弱さがおおわれる

自分の弱さを受け止めて、その次に進むことについて考えました。

『しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである。」と言われたのです。

ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。』新約聖書 第2コリント12:9

昨日の私のブログに「弱さを認め、謙虚に生きる姿は、とても美しく、強い生き方と感じる。」とコメントをいただいた。

私もそう思う。この方が、一般論で言われたのか、私のことを言われたのかわからないが、私に関して言うならば、「私を受け止めてくれた神様が素晴らしいのであって、受け止めてくれる方がいるから、安心して自分の弱さを出せている。」だけである。

私たちは誰もが自分の弱いところ、足りないところ、汚いところ、愚かなところを隠したい。見たくない。ごまかしたい。

アダムとエバが、神様から離れたとき、最初にしたのか、裸が恥ずかしいと隠したこと、神様から隠れたこと、責任転嫁したことだった。

以来、意識していても、無意識でも私たちはそのようなことをしてしまう習性がある。

自分の弱さや足りなさを、「わかるよ。誰だってあることだよ。」と言われたら、なんか安心するし、こんな自分に共感してくれるんだとジンとくる。

赦される、そのままで受け入れるということはそういうことだと思う。

私は誰かが「私はこんな人間なんだ。」と恐る恐る打ち明けてくれても、あまり驚いたことがない。

たぶん、私がそれ以上にひどい人間だったからかもしれないし、自分は体験していないことでも、自分もその立場だったら同じようにしたかもしれないと思えるからだと思う。

もし大切な人が、法に触れるような凄い悪いことをしたと打ち明けてきても、共に痛むことはあっても「信じられない。」とは思わない気がする。

私自身が「信じられない、考えられないようなことをしてきた」のに、神様に赦し、受け入れてもらったのだから。

自分を責めても良いことはない。私も人の弱さを受け入れたいと思う。

そして、神様はその弱さを「イエス様の十字架につけて、赦すよ。」と言ってくださっている。

正しい完全な神様の前には、弱い人間も立派に見える人間も50歩100歩なのだ。みんなアウトなのだ。

「私はダメな人間です。赦してください。」と認めた人がイエス様の赦しで覆われる。

自分を立派な人間と信じている人には神様は遠いのである。

神様、私たちはどうしようもなく、不完全で弱く、足りない者です。

もし、私たちが自分の惨めな部分を見つめるだけなら、絶望です。

けれども、どんな惨めで愚かな部分のある私をイエス様の十字架で整理し、受け入れてくださる神様を感謝します。

世の中に必要なのは、正論の議論ではありません。痛み苦しむ弱さに共感し、ともに祈る心です。神様の深い憐れみがこの地をおおい、癒してくださいますように。

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2009年3月17日 (火)

天にたくわえられる宝

天にたくわえられる宝とはどういうものでしょうか。

『自分の宝を地上にたくわえるのはやめなさい。そこでは虫とさびで、きず物になり、また盗人が穴をあけて盗みます。

自分の宝は、天にたくわえなさい。そこでは、虫もさびもつかず、盗人が穴をあけて盗むこともありません。

あなたの宝のあるところに、あなたの心もあるからです。』新約聖書 マタイの福音書6:19~21

神学校の寮にいたとき、夢を見た。目が覚めたとき、そのことばだけが記憶に残ったので、メモをした。その内容は、こうだった。

「あなたは地上での報酬は少ないが、それは天にたくわえられている。」

その頃は、確かに貧しく、苦しい生活をしていたが、自分のしたい聖書の勉強が出来ていたので、充実していた。だから、特別、何かの報酬が足りないとも思わなかったが、とりあえず、意味もわからず、メモしてしばらく聖書にはさんでいたのを覚えている。

聖書でイエス様は、「あなたの宝を地上ではなく、天にたくわえよ。」と言う。

地上にたくわえられる宝とは、目に見えるもの、一時的で壊れて無くなるもの、天国に持っていけないものではないだろう。

一方、天にたくわえられるものとは、目にはみえないけど、私たちの心の中にあり、私たちを支え、本来の幸せにつながるものではないだろうか。

神様は私たちにとって最も大切なものを見失わないように呼びかけてくれている。

私はあるとき、とても高価なアクセサリーをした。すると、私の注意はそこにいき、無くしてしまうのではないか心配ばかりした。

一度しかない人生を一時的な、失われていくものや事に心に奪われてはもったいない。

神様が私たちを宝として、尊い存在として造られた。私たち自身が宝物であり、実は私たち自身がどう豊かに生きるか、どう永遠の時の中に生きるかが大切なのだと思う。

目に見えるもの、一時的なものに支配されやすい私たちの弱さを知っておられる神様は、どうしたら、私たちがその支配から抜け出せるかも優しく導いて教えてくださる。

私は物ではなかったか、本当に大切な神様以外のことに、長い年月心奪われていた(人を裁くことや人間的評価など)が、一つ一つ手放させてくれ、大切な神様にたどり着いていった気がする。夢で聞いた言葉「あなたの報酬は少ないが天にたくわえられている。」は、今思うと「あなたは悲しいこと、苦しいことが今は多いが、やがてはそれによって神様を知り、神様が宝となる。」というような意味かもしれないと思ったりする。

神様、私たちがとても労力をかけ、心をおき、大切にしているものは、本当に私を生かす宝物でしょうか。

もし、そこに心奪われ私自身が生きない一時的な物ならば、教えてください。そして私自身が豊かに生きるものを宝として祝福してください。

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2009年3月10日 (火)

誕生の神秘

私たち人間の誕生の神秘と存在の尊さを思います。

『それはあなた(神)が私の内臓を造り、母の胎のうちで私を組み立てられたからです。

私は感謝します。

あなたは私に、奇(くす)しいことをなさって恐ろしいほどです。

私のたましいは、それをよく知っています。

私はひそかに造られ、地の深い所で仕組まれたとき、私の骨組みはあなたに隠れてはいませんでした。

あなたの目は胎児の私を見られ、あなたの書物にすべてが、書きしるされました。

私のために作られた日々が、しかも、その一日もないうちに。』旧約聖書 詩篇139:13~16

生命の誕生は神秘である。私はこの聖書の箇所を読むと、神様の創造の御業の素晴らしさと、そうして造られた人の限りない尊さを思う。

「5つの目的」の本の中では、「たとえ両親の計画になかったとしても、神様はあなたが生まれてくるのを心待ちにしていた。」とある。

どこかで何かがうまくいかなくなり、ずっと何年も家に引きこもり、人との関係を切っている人が身内にいる人の話しを聞いた。そのとき、この聖書のことばを思った。

障害があり、生きにくい生活がある子どもたちの話しを聞いたときもこの聖書の箇所を思った。

いつも自分に否定的な思いがまとわりつき、もしかしたら、生まれる前にお母さんの胎内にいたときの、強烈な否定的な印象が自分にインプットされたかもという友人を祈ったときもこの聖書の箇所を思った。

内面にどんなに否定的なイメージを持ったとしても、見た目に何も役にたっていないように見えたとしても、神様にとっては、同じその神秘の創造の御業を一人一人になしたのである。一人一人が神様の創造の作品で、愛され計画がされている尊い存在なのである。

美しい花や綺麗な大自然や夜の星々を見て、私たちは神様の創造の御業をほめたたえる。

同じように、それ以上に人が一人一人、違った個性、才能、感性を持って生まれてきた、創造された…人こそが神様の最大の傑作な作品なのだと思う。

私たちはときには自分に嫌気がさし、他の人を煩わしく思うのだが、神様にとっては一人一人が愛するために造られた大切な存在なのである。

『人とは何者なのでしょう。あなた(神)がこれを心に留められるとは。

人の子とは、何者なのでしょう。あなたがこれをかえりみられるとは。

あなたは、人を、神よりいくらか劣るものとし、これに栄光と誉れの冠をかぶらせました。』詩篇8:3~5

神様、一人一人が神様に愛されるため、神様の神秘な創造のみわざの中で誕生したことをありがとうございます。この素晴らしい神様の傑作作品である私たちが、どんなに尊く、いとおしく思われているか知ることができますよう、祝福してください。

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2009年3月 9日 (月)

私にとって苦しみとは…

私にとっての過去の苦しみの意味は、今はこの聖書のことばにつきます。

『もし私たちが苦しみに会うなら、それはあなたがたの慰めと救いのためです。』新約聖書 第2コリント1:6

苦しい中にあると、どうして自分だけがこんなに苦しい思いをしなくてはならないかと思う。

父の病気、母との確執、自己嫌悪、孤独、虚無感、挫折、迷い、クリスチャンになってからの教会での痛み、神様の役にたっていない感、行きずまり、失敗…私は33歳までは泣いてる日、うめいている日のほうが多かった。

ブログを書くようになって、自分の悲しい経験や苦しい経験が誰かの慰めになっていることを強く思わされるようになった。

誰かが、「私も同じ苦しみがある」と慰められたらと思うと、過去の苦しみ体験を探すようになった。

リック・ウォレン師の「人生を導く5つの目的」で、「神様に仕えるために自分の形(SHAPE)を理解する」という箇所がある。S(スペシャルギフト=霊的賜物)・H(ハート=心)・A(アビリーズ=能力)・P(パーソナリティー=個性)・E(エクペリエンス=経験)…英語の読み方はわからないので、間違っているかも…の5つである。

その中で、経験には、家庭・教育・仕事・霊的・ミニストリー・苦痛の経験が学びとなり神様に仕えるのに生きるとある。

「この最後のカテゴリーである苦痛の経験こそ、神があなたをミニストリー(奉仕)へと準備させるために最もよく用いられる経験です。神は決して痛みを無駄にはなさいません。事実、あなたが最も重要な働きは、あなたが最も苦しんだ経験から生まれてくると言っても過言ではありません。」とその本に書いてある。

今から20年前、私の心の癒しが始まりだした頃、私は自分を観察しようと思った。自分が悲しくて泣いてるときも、もう一人の自分は何を求め、どんな風にされたら慰められるのか、自分で確認しようと…。その観察はずっとは続かなかったようにも思うが、今、私の傷や痛みは一つも無駄になっていないと思う。

神様は、私の苦しみも無駄にされず、それを生かして人に慰めや救いも与えてくださる方だ。

もし、苦しみの中にあるなら、すべての苦しみに慰めを与えてくださる神様の慰めがありますように。

そして、自分にだけ計画されていることのゆえに、その苦しみが誰かの慰めと救いになりますように祈ります。

『神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。こうして、私たちも、自分が神から受ける慰めによって、どのような苦しみの中にいる人をも慰めることができるのです。』第2コリント1:4

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2009年3月 8日 (日)

教会への苦痛

ヨセフのこの聖書のことばは、私への約束のことばで、長い月日をかけてその通りになりました。イザヤ58:10です。

『彼(ヨセフ)のことばがそのとおりになる時まで、主(神)のことばは彼をためした。

王は人をやってヨセフを解放し、国々の民の支配者が、彼を自由にした。』旧約聖書 詩篇105:19.20

私は幾つかの事情も重なり、両親から「そのままで良い」というメッセージをもらわずに育った。父の病気発症と、母との価値観の違いによった。そして、20歳頃には全自己否定の人間になっていた。

母や父からの傷の影響は長く尾をひいたが、父、母の死を通して両親は赦せた。手放した。赦せたのでなく、神様の不思議の中で父、母を受け入れられていた。今から20年近く前である。

私の精神的な苦痛との戦いはその後も続いた。それは教会や牧師のメッセージの中で、私はこのままでよいと感じられない苦痛だった。

私は神様が恵みに満ちたあわれみ深い方であるのは、たぶん、神様に出会った日から感じていた。十字架も聖書も理屈も神学も知らなかったが、体験した。そして、ことあるごとに恵みを体験した。

その体験の神様と教会で語られる神様は、私にとって全く違っていた。

両親が赦せて、手放したように、教会を赦し手放したときに、私の中で恵みの体験と恵みの聖書のことばが一つとなり始めた。

今、思うに、教会や牧師のメッセージが悪かったのでなく、私は今の教会では養われにくい体質の子どもだったのだと思う。

私は自分の両親に影響され傷を受け、様々な癒しを必要としたが、同じ環境で両親に育てられた姉は私のような顕著な傷はなかった。姉には両親を赦すなんて発想はなく、父、母を大切にし、天国に見送った。

同じイエス様の十字架に赦された神様の子どももまた、いろんな体質の子どもがいて、今の教会では育ちにくい子どももいるのだと思う。

なぜ、私は教会にかろうじて居るのか?…教会の外にいるクリスチャンの代弁者にちょっとはなれるからかもしれないと今日思った。

誰もが楽しく、苦痛を感じてない環境で、同じ環境なのに、一人苦痛を感じたら、感じた自分がおかしい、変、間違いと思えてしまう。自分も周りも…。

そのような人のために言わせてもらうなら、神様は「苦痛を感じてもかまわないよ。みんな、感性も違うし、わたしはあなたの気持ちをよく知ってるよ。そのままでいいんだよ。」と言っている。今の私が神様からそう言われている。

そのままで受け入れてくれる神様の中に入る方法は、人や環境や神様以外に期待しているものを手放すことしかないと思う。

神様、私たちは握っているものが何かわからない時があります。また、自分の力では手放すことはできません。神様、あなたが、私を愛し、安心の中に入れたいということが信じられますように。あなたの安心の中に、手放し、神様の自由の中にいれてください。神様の与えてくださる自由は誰にもおびやかされないからです。

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2009年3月 7日 (土)

人が主に向くなら…

神様はいつも変わらず、私たちを祝福したいと待っていてくれています。

『主(神)があなたを祝福し、あなたを守られますように。

主が御顔をあなたに照らし、あなたを恵まれますように。

主が御顔をあなたに向け、あなたに平安を与えられますように。』旧約聖書 民数記6:24~26

“悔い改め”(くいあらため)は、キリスト教用語でクリスチャンは良く使う。自分の間違いを認め、行動を改めると言うことだと思うが、私たちはちょっと間違うと、自分の力で、改めようとしてしまう。

自分の力で改めていけるぐらい、意志が強く、自分を変えられるなら神様の助けはいらない。

キリスト教番組「ライフライン」で、あるメッセンジャーの方が面白い描写をしていた。

「私たちは太陽に背中を向けて歩いていると、自分の影だけが見えます。神様との関係においても、神様に背中を向けると自分の悪いところだけ見て歩くようです。が、いったん、神様を向くと神様の光に照らされます。」

“悔い改め”はそういう意味で、自分から神様を見るということかもしれない。

私は民数記のこの箇所が好きだ。神様が私を祝福してくださるので、私は守られる。神様が私にほほえんでくださるので、私は恵まれる。神様が私を見ているので、私に平安が与えられる。

意志も弱く、力もなく、知恵もないそんな私に神様が臨まれるので、私は守られ、恵まれ、平安が与えられる。

すべての祝福の起因は私には一切なく、ただ神様にのみある。私の祝福の原因は神様の主権による。

私が弱さを覚え、足りなさを覚え、無力だと感じても、私の祝福の源は神様にある。

ひっそり自分の影を見るのを止めて、神様のほうに向くならば、神様はいつもほほえんで光を照らしてくださる。神様、ありがとう!

「しかし、人が主に向くなら、そのおおいは取り除かれるのです。

主は御霊(みたま)です。そして、主の御霊のあるところには自由があります。

私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。』第2コリント3:16~18

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2009年3月 5日 (木)

賜物の開花

自分をありのままで受け止めていくことが、自分に与えられた賜物(才能、能力)を豊かに使えることにつながると思います。

『キリストは、私たち一人一人に特別な能力を与えてくださいました。それは、彼がその豊かな賜物(たまもの)の宝庫から、私たちに与えたいと願われたものです。』新約聖書 エペソ人への手紙4:7(LB訳)

私自身がそういう者だったが、自己否定の強い人は、その否定を補おうとして、自己実現を目標としたり、現実より将来に強く思いがいって足元が見えなくなったりする。

20年前、私は60人規模の教会のスタッフだったときの話し。スタッフ会議で、他の人たちが牧師から次々に華々しい役割を言い渡されていた。私は心の中で「自分は何もしていない。出来ていない。私は何をやっているんだろう。」と思った。そして、せきを切ったように、悲しみが込み上げてきて、みんなの前で、声をあげて号泣してしまったことがある。

そのとき牧師は「あなたには個人伝道の賜物があるよ。」と言った。が、自己否定の強かった私は、「そんなもんがなんだ。そんなものいらない。もっと違うものが欲しいんだ!」と心で叫んで、再び、泣き続けていた。

自己否定の中には、現実のまわりにある宝物も、自分にある素晴らしい神様からの贈り物にも気がつかない。

何度も書いているが、3年前、人を赦し、自分が神様からとても赦され愛され受け入れられていることを知ったとき、「私自身はなんて可能性に満ちたたくさんの良いものが与えられている神様の作品なんでしょう!」と思った。

私は人が好きなので、人と関わり、話しをしているだけで楽しく、幸せな気分になる。まさに、その親しみと楽しみの中で神様を紹介していける…個人伝道の賜物が神様から与えられていると感謝する。

私たちはイエス様の十字架で赦されて、そのままで受け入れられている。もし、「私の賜物、与えられているものは何かなぁ。わからないなぁ。」と思うならば、「私が赦され、愛され、受け入れられてることをたくさん知れますように。」と祈るところからスタートとしてみるのが良いかもしれない。

神様は私たち一人一人を尊い存在として造り、個性を与え、私にしか感じられない感性をあたえ、贈り物を与え、喜び、楽しみ、自分にだけの特別な計画を立ててくださっている。

神様、あなたにとって、お一人お一人がいとおしく、大切な存在で、特別な存在として、贈り物を与えてくださっていることをありがとうございます。一人一人に与えられている素晴らしい贈り物(賜物)が豊かに使われていきますように祈ります。

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2009年3月 4日 (水)

未開封の贈り物

私たちにたくさんのものが賜物(神様からの贈り物)として与えられています。

『天の御国は、しもべたちを呼んで、自分の財産を預け、旅に出て行くような人のようです。…

5タラント預かった者は、すぐに行って、それで商売をして、さらに5タラントもうけた。…

その主人は彼に言った。「よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。」』新約聖書 マタイの福音書25:14~21

今日は、教会の友人と交流した。彼女は3児の母で、熱心なクリスチャン。私が彼女に「あなたの神様から与えられた賜物(神と人に仕える能力)は何ですか?」と聞くと、彼女は「何でしょう?」と言った。

私は少し驚いた。賜物は神様からの贈り物で、自分に何を与えられているか知り、管理し、有効に使い、増やす、とても大きな生き甲斐につながる物だと思うので、追及してこなかったのかなぁと思った。きっと、いくつかはわかっているのだと思うが改めて聞かれたので、そう答えたのかもしれない。

「あなたは良く祈ってくれるし、変わらずいつも祈ってくれるので、それも与えられたものですよね。」と言うと「当たり前と思ってたけど、言われてみると、一度祈り始めた人のことは、会わなくなってもずっと祈ってる。」と言っていた。

私たちには何十、何百と個性があり、情熱、興味を傾けられるものがあると本にあった。自分に与えられているものは何か、知り、自覚し、管理し、使う大切さを思う。

リック・ウォレン師の「人生を導く5つの目的」で、「神は霊的賜物を、無償で提供された贈り物として、私たちに与えてくださった。…せっかくの贈り物も未開封のままでは意味がありません。」とある。

霊的かどうかは別として、私は人が大好きで、人と関わるのがとても好きだ。私が地域ボランティアをやっている動機でもある。ブログを書くようになり、私は文を書くのが、とても好きなことを発見した。(好きと上手いは違うと思うが…)親との関係で、理解されないことに苦しみ、理解されにくい少数派の人たちに心がいく。

神様はすべての人に惜しみなく、贈り物をされた。どうか、そのプレゼントの箱に気がつかず、未開封となりませんように。また、その贈り物を良く使うと増やされる、そして神様と喜びを共にできるので、お一人お一人に与えられたものが、祝福されますように祈ります。

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2009年3月 3日 (火)

恵みの歩み2

解放は自分に目を向けることから解かれること、良いことをしようとすることから解かれることです。

『あなたがたがわたし(イエス)にとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。

あなたがたが多くの実を結び、わたしの弟子となることによって、わたしの父(神)は栄光をお受けになるのです。』新約聖書 ヨハネの福音書15:7.8

あるとき、私はつまらないことをふと思ったが、「これは神様の喜ばれるような良い願いではないから、祈るのはやめよう。」と思った。

が、その願いが聞かれた。そして、神様がこの聖書の箇所から「何でも求めなさい。神様の栄光のために。」と言われた気がした。

私がイエス様にとどまるというと、イエス様の言われることを守っているなら、そのとおり行っているなら…という意味かなぁと長年思っていた。

イエス様が言われたとおりに守るのは、100%無理だと思う。

実は、イエス様を信じ、イエス様とふさわしい関係でつながっているなら…という意味だということを、「恵みの歩み」の本を読みながら、思った。「恵みの歩み」から、印象的なところをピックアップしてみたい。

「サタンはクリスチャンが律法に従うことが勝利への道であると信じ込ませます。律法を行うことは不可能です。もしみこころに従って生きることを願うのなら、主ご自身に目を向けることです。」

「自分の価値基準を放棄する理由として、善悪にとらわれると神よりも自分に目を向けるようになるというのがあります。堕落以前、アダムとエバにとって善悪は関係ありませんでした。彼らは自分たちの行動に目を向けていたのでなく、神との関係にもとずいて人生をたてあげていたのです。…彼らが主ご自身に目を向けることが神の目的でした。堕落以前、いつも神に目を向けていたので、裸であったことさえ、気になりませんでした。」

今、私たちは、善悪の木の実を食べ続けているかのような、裸の人間のような気がする。

しかし、キリストによって、いのちの木につなげられた。裸ではなく、キリストの白い衣を着させられている。赦されて、もういのちの木にしっかりつながっているので、枝である私が頑張る必要は何もない。いのちを受け継ぐだけなのである。

神様、私たちがイエス様によって、ぶどうの木につながっているものであることをありがとうございます。イエス様の良いものが私に流れ、良い実を結べることをありがとうございます。頑張ること、神様のみこころは何か思いあぐねること、努力することをやめて、ただ憐れみによって、つなげていただいてること、赦されて受け入れられていることを大いに喜べますように。

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2009年3月 2日 (月)

恵みの歩み

神様との関係はハネムーンのように恵みの中を歩ませてもらうのだと思います。

『その永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ることです。』新約聖書 ヨハネの福音書17:3

私がマクベイ師の「恵みの歩み」の本を手にとって、読んだのは、2007年1月1日だった。

暇な正月、布団に潜って本でも読もうかなと、本棚にあるマクベイ師の本をとった。人から一年前に借りて、そのままだった本だ。(後日、友人が新しい本を買って来てくれ、その本は返してくれた。)

イッキに読んだ。驚いて、呆然としてしまった。私は長い間、まわりの友人に話しをしてきていた。「教会で語られることは、神様の恵みであって、義務や規則ではないはず…。」と。あまり賛同は得られなかった。親しい友人からも、「あまり目くじらたてなくてもいいのでは…。」と理解が得られなかった。

そんな“神様の恵みの信仰”が聖書的根拠とマクベイ師の証とともに書かれてあった。

多分、私にとってこの本と出会ったのは、この時でなくてはならなかった。その前では問題だった。

私は、教会での牧師たちのメッセージに苦痛を感じてきたし、葛藤しまくっていた。

が、一年ほど前に、牧師たちを赦す祈りをし、要求することをやめ、癒された。癒される前だったら、この本を盾に自分は正しいと喧嘩を売っていたかもしれない。

私が考える“恵みの信仰”はマクベイ師のように聖書の体系化されたものではないけれど、やっと私の信仰を支持してくれる人(本)に出会えた…という感じだった。

「神様、私自身はこの与えられた信仰でいっていいのですね。」という感じだった。

10年ほど、聖会とかセミナーに縁もなかった私だったが、その年の10月、たまたまマクベイ師が、東京にくるというので、友人たちと3日間のセミナーに出た。私は本との衝撃が大きかったので、静かな思いで聞けた。

何故、この本との出会いについて書いているか。実は、この本の内容を掘り下げて取り上げようとしたが、うまくいかず、取り合えず、私にとって、素晴らしい出会いだったと紹介することにした。

マクベイ師は「もう私たちは古い人に死んで、新しいいのちに生きているので、義務や努力をしなくてよいのだよ。」

「聖書を読みたくなかったら、無理しなくていい。祈りも無理しなくていい。神様とつながってるから自然に読みたくなる、祈りたくなる。」

「大好きな彼女と、会ったら、まずキスすることに決めて、無理に一時間話そうと決めますか?好きな人と自然に長く話したい、一緒にいたいと思いませんか?神様と私たちの関係も義務ではないのです。」というような話しをしていた。

神様は計り知れない恵みの啓示を表す方である。私たちは恵みの中に漂い、その中に溢れるのである。

スティーブ・マクベイ著
尾山謙仁訳
ファミリーネットワーク発行
「恵みの歩み」シリーズをお勧めします。

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2009年3月 1日 (日)

古い自分に死んだ気がしない?

キリストの十字架で死んだ気がしない人について、書かれてある本の中を紹介します。

『しかし私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。

私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。』新約聖書 ガラテヤ人への手紙2:19.20

イエス様の十字架が自分の罪のためだと信じる人は、キリストと共に死に、新しい霊のいのちをいただいた。

スティーブ・マクベイ師は「恵みの歩み」の本の中で、「古い自分に死に、全く新しい自分に私たちはなった。が、本当に死んだ気がしない人」について、書いてある。

「自分の罪の性質が死んだとは感じないかもしれません。しかし神はその罪はすでに死んだと言われたのです。これは罪のない完全な人間になるということではありません。しかしながら習慣的に罪を犯すことは自分の性質ではなくなったということを意味します。肉と霊の葛藤はありますが、キリストの人生により、新しい自分は罪に立ち向かう意志があります。勝利の人生の力があるのです。…神はそっくり新しいものと入れ替えたのです。」とある。

「自分の罪の性質が死んでしまったように感じないなら、この真理を拒絶する誘惑を受けているのです。」

「クリスチャンになったとき、すべての罪が赦されたことを理解したでしょう。その赦しは自分の行動を変える十分な動機となったでしょうか。キリストとの関係が新しいアイデンティティーを与えるのです。キリストにあるアイデンティティーの正しい理解が罪に対して異なる動機となるのです。」

マクベイ師はセミナーの中で、「もう私たちは新しいいのちに生かされているのでありのままでいれば良く、無理に何かをしなくていいのです。」と言っていた。

キリストの十字架を信じた人は、古い自分に確実に死に、新しいいのちを与えられたのである。それを信じていくかどうかなのだと思う。

聖書に約束されていることは新しいいのちを与えられた人のうちに成る。神様が信仰を与え、聖書のことばで確信を与え、聖霊様の助けによって成る。私たちはもはや古い自分に死に、新しいいのちに生かされている。

神様、イエス様の十字架で、古い自分に死に、新しいいのちを与えられたことをありがとうございます。この新しいいのちが生き生きと生きるように、イエス様との関係をふさわしいものとしてください。律法から解かれたので、キリストの自由に生きるものとしてください。

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2009年2月28日 (土)

よみがえりがなかったら…

イエス様の十字架と同じように大切なよみがえりを思います。

『そして、もしキリストがよみがえらなかったら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお、自分の罪の中にいるのです。…

もし、私たちがこの世にあってキリストに単なる希望を置いてるだけなら、私たちは、すべての人の中で一番哀れな者です。

しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。』新約聖書 第1コリント人への手紙15:17~20

イエス様が私の罪のため、身代わりとなって十字架にかかってくれた…これは信仰の原点だとすると、イエス様が十字架で死に3日目によみがえられた…これは何になるか?信仰の発展だろうか?

歴史上で、イエス様が十字架にかかられたことは信じられても、3か目によみがえられたことを信じるのは、また、難しいことである。死んだ者が生き返るなんて…と。

聖書で、パウロは「もしキリストが復活されなかったのなら、私たちの信仰は意味のないものだ」と言っている。

信じる…私たちには信じられることと、信じられないことがあり、信じることに限界がある。

私はイエス様の十字架、復活、再臨をすぐ信じたか。イエス様を信じて心にお迎えしたとき、十字架の意味も、復活もよくわからなかった気がする。

クリスチャンに成り立ての頃、ある牧師の方が言った。「聖書で信じられるところだけ切り取って信じたら、それは聖書の信仰ではなく、その人の信仰になる。」と。

パウロの時代、体の復活はないという信者たちがいた。ギリシャ人は霊魂の不滅を信じ、体の復活は信じなかったのだそうだ。

もし、イエス様の復活がなかったとしたら、私たちはみじめに死んでいった神様を信じることになる。

私たちもキリストと共に十字架にかけられ、古い人間的な自分に死んだ。が、イエス様のよみがえりがなかったら、私たちも古い自分に死んだままになる。

イエス様はよみがえられた。どうやってそれを知ることが出来るか。私が古い自分に死に、新しいいのちに共に生かされている体験によって知れる。

神様を知らない人はどうやって知り、信じるのか。私たちにイエス様の新しいいのちの現れを見ることによってかもしれない。

この今もよみがえり、私たちと共にいてくださるイエス様のよみがえり、そして再臨もまた、十字架と共に人々に明らかになりますように。

神様、イエス様のよみがえりをありがとうございます。私たちは、そのことによって、キリストと共に死に、新しいいのちで生かされていることを経験できますからありがとうございます。キリストの死とよみがえりによって与えられた素晴らしい永遠のいのちが人々に明らかになりますように祝福してください。

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2009年2月27日 (金)

はずかしめの刑

イエス様の十字架がどんなにみじめな、はずかしめのものだったか聞き、教えられました。

『道を行く人々は、頭を振りながらイエスをののしって、言った。「神殿を打ちこわして三日で建てる人よ。もし、神の子なら、自分を救ってみろ。十字架から降りてこい。」

同じように、祭司長たちも律法学者、長老たちといっしょになって、イエスをあざけって言った。「彼は他人を救ったが、自分は救えない。イスラエルの王さまなら、今、十字架から降りてもらおうか。そうしたら、われわれは信じるから。…」

イエスといっしょに十字架につけられた強盗どもも、同じようにイエスをののしった。』新約聖書 マタイの福音書27:39~44

1月24日のテレビのキリスト教番組「ハーベストタイム」で、中川先生のお話しの中に、イエス様がかかられた十字架の説明があった。

「十字架というのは、見せしめの刑です。長く人々の目にさらすのが目的でした。張りつけの十字架も、人々の目の高さにあります。そこにかけられた人は素っ裸ではずかしめの刑を受けます。糞尿は垂れ流しになります。」と話していた。

十字架は、手足に釘を打たれ、失神してしまうような、考えられない痛みと前に誰かに聞いた。また、ずっと、信頼する天のお父さんである神様に、(人々の身代わりの)裁きのゆえに、断絶され、絶望の状態だと聞いてきた。

改めて、それらに加え、すべての人たちの前に裸になり、見せしめに会い、はずかしめられ、ののしられ、あざけられ、さんざんだったことを思った。

ハ・ヨンジョ師の本で「あなたは不当な扱い、不当なもてなしを受け、怒りましたか。怒らずにそれを受け入れてください。」という箇所があった。

私は不当な扱いを受けると怒る。自分の権利を主張する。当たり前だと思う。

けれど、神の子であられるイエス様がどんな状況で殺されたか、それは実は私の罪のためであったことを思うと、考えさせられる。

十字架のペンダントのように、イエス様の十字架はキラキラと美しくなく、見ていられない、惨めで、汚いものだった。そこまで、私のために、イエス様はなしてくださった。

なんだかあれが、これが不当だと叫ぶ自分は何者だろうかと思ってしまう。

私は「これをします、あれもします」と言う前に、糞尿にまみれながら、私の代わりにはずかしめの刑を受けられたイエス様を静かに思いたい。そこから神様のあわれみに包まれたい。

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2009年2月26日 (木)

良い羊飼い

ダビデの告白を詩篇23篇からみてみます。

『主は私の羊飼い。
私は、乏しいことがありません。

主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴(ともな)われます。

主は私のたましいを生き返らせ、御名(みな)のために、私を義の道に導かれます。
たとい、死の影の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。

あなたが私とともにおられますから。

あなたのむちとあなたの杖(つえ)、それが私の慰めです。』旧約聖書 詩篇23:1~4

詩人ダビデは神様について、神様を賛美することについて、その祈りについて、素晴らしい表現を用いて詩を書き、神様を告白している。

その有名な一つにこの詩篇23篇がある。

ダビデは「神様は私の羊飼いだ」と告白する。ダビデ自身、お父さんの羊を飼う手伝いをしていたので、“羊飼い”というのがとても身近だった。

新約聖書のヨハネの福音書10章に「わたしは良い羊飼い(牧者)」とイエス様が言っている。「良い羊飼いは羊のためにいのちを捨て、羊を守る。良い羊飼いは羊のために心にかけ、いのちを得、豊かに持つために尽くす。」とある。イエス様は私たちのため、十字架で死なれ、そのことをされた。

ダビデにとって、神様は、信頼する唯一の方で、自分を支え、守り、祝福してくださることを知っていた。

ダビデの神様への祈りは、ときに激しい訴えとなり、ときに苦悩を表している。

サウロ王に理不尽に命を狙われ、殺されそうになり、精神的にも、肉体的にも死に追いやられた。そのときも、また、神様に訴え、祈った。

イエス様がまだ来られない時代、神様を近くに感じ、信頼し、神様と歩まれたダビデ。神様を、ダビデが良いときも苦しいときもいつも近くにいてくれたのを感じたのだろう。

私は詩篇23篇の5.6節がとても好きだ。神様が、苦しみの中にあっても私たちを食事に招き、喜びと楽しみの中に入れてくれる約束が5節にある。

そして、私が逃げても、神様のいつくしみと恵みは、私を追って来るとダビデは表現する。私も同じように神様を告白したい。

『私の敵の前で、あなたは私のために食事をととのえ、私の頭に油をそそいでくださいます。

私の杯は、あふれています。

まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう。

私はいつまでも、主の家に住まいましょう。』詩篇23:5.6

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2009年2月25日 (水)

養う牧者の約束

この聖書で約束されたことが、どうしたらそのとおりになるのか、悩んだ日々を思い出しました。

『わたし(神)の羊はかすめ奪われ、牧者(ぼくしゃ)がいないため、あらゆる野の獣のえじきとなっている。それなのに、わたしの牧者たちは、わたしの羊を捜し求めず、かえって牧者たちは自分を養い、わたしの羊を養わない。…

まことに神である主はこう仰せられる。見よ。わたしは自分でわたしの羊を捜し出し、これの世話をする。

…わたしはわたしの羊を、雲と暗やみの日に散らされたすべての所から救い出して、世話をする。』旧約聖書 エゼキエル書34:8~

数年前、私は属している教会で悩んでいた。この教会は本当に牧会されているのだろうか。養われているのだろうか。牧会について、深く考えるときだった。

そんな中で、このエゼキエル34章を何度も開き、神様の牧会と養いがあるように祈った。

この聖書のことばは私の中にどのようになるのかわからなかった。

その教会は結局閉じられた。今、思うと、牧師の問題は大きかったが、共同体として、自分たちも足りなかったかもしれない。

その教会が閉じられる少し前、私は牧師を赦すことが出来て、牧師に期待することをやめ、牧師に要求することをやめ、牧師を手放した。

それが、神様からさらに受け入れられていることを感じられる信仰の転機となった。

エゼキエル34章の約束があるのに、どうしてこのことが実現しないか悩んでいた日々を思い出した。

私の中でこの聖書のことばは実現した。それは皮肉にも現実の牧師に期待しなくなる、神様だけに期待するという方法をもってだった。

ここで語られているメッセージがそういうことなのかどうかはわからないが、私の中で、遠い約束が実現したときだった。

『わたし(神)は、彼らを牧するひとりの牧者、わたしのしもべダビデを起こす。彼は彼らを養い、彼らの牧者となる。』エゼキエル34:23

神様、神様がイエス様を与え、わたしたちを牧する牧者となってくださっていることをありがとうございます。聖書に約束されていることを神様は与えてくださいますが、私たちの側で何かを手放さないと受け取れないということもあるのかもしれません。ますます神様とイエス様の養いと恵みを受けとれますように。

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2009年2月23日 (月)

正しいことばではなく…

正しいことを言うことは、時に、人を突き放してしまいます。

『喜ぶ者といっしょに喜び、泣く者といっしょに泣きなさい。』新約聖書 ローマ人への手紙12:15

息子がドリルで勉強していて、よく後ろの解答を安易に見ている。解答を見て勉強するのも、勉強の一つかも知れない。でも、それは自分が理解したことではなく、理解するプロセスにあるということだ。

私は聖書のことばも、安易に使い、正解を言うことで人を裁いたり、傷つけりしてしまう危険性があるのを思う。聖書のことばは真実で、信じる者には神様の力だが、人に押し付けられるとなんだかつらい。

例えば、苦しみにある本人が、その苦しみのプロセスの中で聖書のことばを自分の物としていくのを、まわりは祈って待つときもあるのかも知れない。

若い時、失恋し、その直後にクリスチャンの友人に話しをした時のこと。その友人は「神様はすべて益としてくださるわ。」と言った。それは真実で、正解だけど、今泣いてたばかりの私には慰めにはならなかった。

ある方が亡くなったとき、絶望にうちひしがれているノンクリスチャンの遺族の前で、「ハレルヤ、彼女は天国にいきました。」と言った。自分の子どもが亡くなったとき、同じように言えるのだろうかと思った。

きっと、同じような失敗を私自身数多くしてきたに違いない。

“喧嘩の末に…”のブログに出てきた友人に「sebaさん、あなたもキリスト病だよ。教会病だよ。」と言われた。そのことに関しては、「そうかもね。」と凄く素直に受け止められた。どこが…かはわからないが。たぶん、そうかもと。

ネットサーフィンの中で「君が生きる」というブログの「軽々しい正しさ」というタイトルの中で次のように書かれていた。(勝手に引用、すみません)

「正しくなくったっていいんだ。きみのことばで話しをしてくれ。君を知りたいんだ。」

“キリスト病”にならないとはこういうことかなぁ、私の友人が言いたいことってこういうことかなぁと思った。

私は基本的にノンクリスチャンとの付き合いが多いし、クリスチャンよりノンクリスチャンといる方が居心地が良い。正しいことを言わず、正直なことを言ってくれるからホッとする。自分の弱さを繕わずに出せる感じがする。

“あの人が嫌い”と教会で言おうものなら、“赦しましょう”と言われる。赦すのに、時間がかかったり、それなりのプロセスもいる。神様は聖書と聖霊様で導いてくれるが、無理矢理に力で従わせることはしない。神様の温かな愛情の中に受け入れ、赦し、癒し、恵みの次のステップへと手をひいてくださる。間違いをした子どもが、優しいお父さんに諭され、安心して手をひいてもらい我が家に帰るように。

神様、私が正しいことを言い、人を無意識に裁いていたら許してください。私たちは何かを理解するのに時間がかかります。正しいことを言うよりも、人と気持ちを共有する心をください。

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2009年2月22日 (日)

約束された天にあるすべての霊的祝福

霊的祝福について書きます。

『神はキリストにおいて、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。』新約聖書 エペソ人への手紙1:3

神様は私たちをキリストにあって、神様の子どもとしてくれて、たくさんの約束を聖書を通してしてしてくれている。

それは良い子どもならもらえて、悪い子どもならもらえないという約束ではない。なぜなら、私たちは皆一人として、もらうにふさわしくないが、キリストの十字架の赦しの完全性によって、信じるすべての人がもらえる約束だからだ。

『神はキリストにおいて、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださる。』とはどんな祝福か?

ある礼拝のメッセージで、「それはイエス様が体験したすべての霊的祝福だ」と言っていた。

私たちは肉体を持ち、地上にあっては弱さの中で生活しているが、一方では“天にあるすべての霊的祝福”で祝福されるのである。

霊的祝福の表れは、神様との親しい交わり、キリストの赦しの憐れみ、聖霊様の満たし。地上にいながらにして、天国と同じ喜びにあふれ、苦難の中にあって感謝と賛美に満たされた状態…だろうか。

私たちは感じていようが、あまり感じていないだろうが、“天にあるすべての霊的祝福をもって祝福される者”である。

第1ペテロ3:9には『悪をもって悪に報いず、侮辱をもって侮辱に報いず、かえって祝福を与えなさい。あなたがたは祝福を受け継ぐために召されたのだからです。』とある。

私は悪意をもって接してくる人に苦々しい思いで、この箇所を読んで祈る。

悪や侮辱を与える人の祝福を祈るのは大変だけど、実は私たちは“天にあるすべての霊的祝福”を約束されている。与えていく程に、受けている大きさに気がつかされるのかもしれない。

神様、私たちは神様とキリストによって、天にあるすべての霊的祝福を約束されていることをありがとうございます。与えても与えても、尽きることなく注がれている祝福をありがとうございます。たくさんの祝福を与えていけますように。祝福されている多さを知ることができますように。

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2009年2月21日 (土)

御国のかぎを使う

祈れることの素晴らしさについて書きます。

『わたし(イエス)は、あなたに天の御国のかぎを上げます。何でもあなたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたが地上で解くなら、それは天においても解かれています。』新約聖書 マタイの福音書16:19

私はクリスチャンに成りたての頃、聖書の内容も神様についても、ほとんど詳しく知らなかったが、祈ることの素晴らしさはじんわり感じていた。

自分が環境において、内面においてピンチになったら、神様に祈り、助けをもらえる。

クリスチャンに成り立ての頃は、まだまだ自己中心の塊だったと思うが、それでも誰かと話したら、その人のために祈ることができる。

また、遠くにいて、話すことも交流することができない人のためにも祈ることができる。

信頼する神様に自分の内面、状況、近くの人、遠くの人のために祈れる凄さを思った。

最近、ある役員会の飲み会で、「何か悩み、問題があったら、私に話しをしてください。私、祈りますから。」と言った。すると、その相手は、相談した結果は祈りか…と肩透かしをくらったみたいで、がっかりして苦笑いしていた。私もそれ以上は言わなかったが、「限界ある自分などより、すべてに権力を働かせている神様に祈るのが一番なんだけどなぁ」と思った。

神様を少しずつ知るにしたがって、私の祈りも少しずつ違ってきたかもしれない。

私はアブラハムが祈ったように、私の祈りのゆえに、この土地の人を祝福してくださいと祈る。私の祈りのゆえに、私と出会う人々を祝福してくださいと祈る。私の祈りのゆえに、子どもが通う中学に特別な計らいをしてくださいと祈る。

私は祈ることしかできないが、その祈りを聞かれる神様は、歴史にも働き、また、どんな悪人の心にも働く神である。

私たちに天国の祝福の扉のかぎが託されている。そのかぎ(祈り)を使って、いつでも神様の国にある祝福を人々に与えていけるものとされていることを感謝する。

神様、あなたは無限に良いものを与えたいと思われています。ただ、私たちの側が理解や信頼において限界があるので、神の国のかぎをつかって、なかなか出し入れできません。神様、私が信じて祈る祈りも限界はありますが、私が思わされ、祈れる領域を大切にできますように。私たちをこの世に祝福をもたらす使者としてください。

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莫大な相続財産

神様の子どもとなり、たくさんの相続財産をいただいていることを感謝します。

『どうか、私たちの主イエス・キリストの神、すなわち栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を、あなたがたに与えてくださいますように。

また、あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって、神の召しによって与えられる望みがどのようなものか、聖徒の受け継ぐものがどのように栄光に富んだものか、

また、神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかをあなたがたが知ることができますように。』新約聖書 エペソ人への手紙1:17~19

人は皆裸で生まれ、裸で死んでいく。だから、平等といえば平等である。が、生まれ落ちたとたん、その周りの環境が違い、それは人が選べない。

平和な国に生まれたり、そこが戦争のさ中だったり、豊かな家庭だったり、貧しい場所だったり…。

赤ん坊はみんな同じなのに、その環境や身分で内側の雰囲気まで変わってくるのは面白い。私は一般庶民だが、皇室に生まれついた子どもは、子どもながらに皇室の高貴な雰囲気をすでに身につけている。

しかし、聖書では、神様を信じるものに平等に相続財産を与えると言っている。神様の子どもになることもイエス様の十字架によるので、人の能力や力に起因しないので、平等にチャンスが与えられている。

神様の子どもにふさわしくないものが、ただ憐れみで神様の子どもにしてもらったその相続財産は何か。

たくさんあるし、数えきれない気もするが、思いつくところであげてみたい。

神様の子どもとなり、私たちは新しい家族に加えられた。新しい父を持つ。その父は、最善を知っておられ、この世にあって、権力のある方であり、相談にのってくれ、慰め、励ましてくれる神様である。この世で経験したことのない、新しい信頼関係を与えられる。

長男役のイエス様を与えられる。イエス様のかかってくれた十字架で、私たちはどんな中にあっても、赦される受容体験を続けていける。

聖霊様を与えられる。目に見えない神様やイエス様であるが、私たちが聖書のことばを神様のメッセージとして受けとれるように、手をとって導いてくれる。

新しいいのちを与えられる。この世に生まれたときに与えられた命ではない、正しい神様の喜ぶことを喜べるこの世にあって、流されないいのちである。そのいのちは肉体が滅びても続く永遠のいのちである。

聖書のことば(神の知恵)、祈り、信仰(神への信頼)が与えられる。

祈りを通して、神様の倉庫の扉を開き、そこにあるものを活用できるようになる。

変わらない希望と愛が与えられる。

神様、あなたが与えてくだっているものが、どんなにたくさんあり、素晴らしいものであるか、私の心の目がはっきり見えて知ることができ、喜び、感謝し、活用していくことができますように。

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2009年2月20日 (金)

砕きたまえ!

私が変えられるということについて、引き続き考えています。

『陶器師は、粘土で制作中の器を自分の手でこわし、再びそれを陶器師自身の気に入ったほかの器に作り替えた。』旧約聖書 イザヤ書18:4

「人生を導く5つの目的」の本には、第3の目的として、“あなたはキリストのようになるために造られた”とある。

なんだかおこがましい感じがするけれど、私がなりたい目標はキリストという訳だ。それは、もちろん、私の努力ではなく、神様が私の内側に働いてそのことがなされる。外的には、聖書のことばと人と環境を用いると本にあった。

自分が変わるということは、いつも痛みが伴う。時には大手術となる。誰もそんな苦しみは望まないし、私もそのきつさが良くわかるから、「私を変えてください。」なんて、怖くて安易に祈れない。

しかし、時に癒しのため、自由のため、本当の平安の義の実のため、そして神様と深く交流するため手術や治療をして、変えられることは必要になる。

昨日ブログに書いた友人は「sebaさんは変わらないから、癒しのミニストリーが開かれないんだよ。」と言う。私への愛情であってもきつい口調で言われると、「だったら、そんなミニストリーはいらない!」と叫びたくなる。が、本当は誰かの癒しを助けるための神様の働きをしたいと切に願っている。

もう一人、愛情深い友人がいるが彼女からも「そこを変えていかないとミニストリーが開かれないよ。」と言われた。

私にとっては、虐待を受けて育った2人の友人は私に色々教えてくれる先生だ。「何故、両者でなく、私だけ変わらなくてはいけないの?」と悔しい気持ちにもなる。そんなの変と無視したくもなる。

でも、きっと今は私が変わらなくてはならない時期なのだと昨日改めて神様の恵みの中で思った。

私は変わる方法を知っている。祈れば良いのだ。それは神様にかなった祈りなので、すでに聞かれた祈りである。ただ、私の成長と変化のため、神様が何をなさるかはわからない。

まな板のコイ状態である。聖書的には、「台の上に置かれた陶器」状態である。

神様、何もなく、楽しく平安無事に過ごしていると、私はこのままで十分と思います。神様は今のこのままの私を全部受け入れてくれていることも知っています。ただ、私が神様の働きをしていくのに、神様が使いやすい陶器に作り変えなくてはいけないことも知っています。神様の恵みは私に十分です。次は私が少しでも神様のお役にたてるようになる番です。神様に私を差し出します。砕いて粉々にし、神様の使いやすいように作ってください。

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2009年2月18日 (水)

多くの実を結ぶ

良い木は良い実を結びます。良い木にはなれませんが、イエス様に接ぎ木され、“イエス様の実”を結ぶことができます。

『わたし(イエス)はまことのぶどうの木であり、わたしの父(神)は農夫です。…

わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。』新約聖書 ヨハネの福音書15:1.5

親からたくさんの愛情を受けて育った子どもは愛情深い子になる。

人は目に見えないものを受けて、その受けたものを蓄え、成長する。

受けていないものは、蓄えられないし、外に表していくことも難しい。

実は目に見える外見とかよりも、何を受けて内面に蓄えているかのほうが、生き方を表していくうえで大切だと思う。外見は衰えていくが、目に見えない内面は、外へと表れて、輝く。

人間は不完全で、親も不完全で、良いものも悪いものも与えてくれる。

私たちにあるものがどこまでいっても不完全なもので蓄積されていくなら、どうしたらよいのか。

りんごの木はりんごの実を結ぶ。梨の木は梨の実を結ぶ。

しょせん、私たちが努力しても、その中で結ぶ実は“自己中心”の醜い実である。

聖書では、イエス様につながるなら、イエス様の品性の実を結ぶと約束してくれている。

“自己中心”の実から、イエス様に接ぎ木され、“イエス様の実”を結ぶのである。

この約束は、私たちにとって、慰めと希望のメッセージである。

神様、今日もイエス様につながり、“私の実”ではなく、“イエス様の実”を結びますようにしてください。

『御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。』ガラテヤ人への手紙5:22.23

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2009年2月12日 (木)

“救い”とは“自由”

「救いとは自由です」とある本にありましたが、本当にそのとおりだと思います。

『わたし(神)の好む断食(だんじき)とは、これではないか。悪のきずなを解き、くびきのなわめをほどき、しいたげられた者たちを自由の身とし、すべてのくびきを砕くことではないか。…』旧約聖書 イザヤ書58:6

ここ2〜3日、久々ひどい風邪でうなされた。

始めは喉の痛み。やがて強烈な喉の奥の痛みと咳、そして、体中の痛みと高熱。

私たちの罪もまた始めは小さいようなものでも、そのままでは段々重なり、死へと向かう。

ハ・ヨンショ師の「幸せな朝」に“救いの別のことばは自由です―あなたはまことの自由人ですか―”というタイトルで次のようにある。

「救いを他のことばで表現するなら自由です。私たちを縛って自分の良心に従って生きられないようにさせ、サタンに引きずり回させていたすべての罪の鎖が解かれ、解放されたのです。」

聖書でいう罪というのは、法的に裁かれるような悪いことだけでなく、悪い考え、悪い思い、正しい造られた神を信じないことも罪という。

アダムとエバ以来、私たちは生まれながらに良心に従えず、悪を行ってしまう。もし、私は悪いことをしたことも思ったこともないと言う人がいるなら、うそをついているか、良心に鈍感なのかもしれない。独善は神様が最も嫌われるものである。

その罪に縛られて不自由だと感じないで生きている人もいる。が、その先には解決のない死が待っている。

イザヤ58章は私が神様からの使命として与えられたことばである。

私は神様と共に歩まなかった時代、悪のきずなとくびきにがんじからめだった。だから、そこから解かれるということがどんなに自由なことか、体験してきた。

神様を知ったばかりのころは、神様の話しばかりをして友人にうとまれた。

今はしつこく求めるのは神様にであって、人に対しては神様にある自由人として接することが私には求められている気がする。きっと、私が人の悪のきずなを解き、くびきのなわめをほどき、すべてのくびきを砕くこと…それは私が神様にあってどれだけ自由人かにかかっている気がする。

私はまだまだ、まったき自由人への途上にあるが、苦しむ人のなわめを解きたいと願っている。

神様、イエス様が自由を与えるために来てくださり、私たちを解放してくださったことを感謝します。この神様の自由が私だけのものとならないように、与えられた自由をもって、愛で仕えられますように。自分の中に愛がない部分をたくさん見てしまいますが、そこをも解いてくださり、神様の愛によって、愛する自由人へと近づけてください。

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2009年2月11日 (水)

できる形のとりなし

イエス様の中に究極の人のためのとりなしの祈りをみます。そのレベルにはすぐ達しなくても、私が今出来るとりなしの祈りについて書きます。

『そのとき、イエスはこう言われた。「父よ。彼らをお赦(ゆる)しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」』新約聖書 ルカによる福音書23:34

かつて私は、人を裁くことが多かったが、自分が神様に受け入れられていることを体験する中、人を裁くことは少なくなったと思う。

それでも、キツい対応を受けたりすると、傷になってしまい、「こんなことされたんだよぉ。きつかったよぉ。」と誰かに漏らしてしまう自分がいる。

最近、教えられていることは、皆罪の性質を持っていて、たまたま私がそのことを人から受けた…神様がその人の中に潜んでいる弱さを私に見せてくれたんだと思うようになった。実は、罪の性質、その弱さで、人に不愉快な思いを与えている人は自分もそのことに縛られ、その人自身が一番苦しいのかも知れない。私も人と上手く関係が持てなかった頃は、私自身が余裕がなく、苦しかった。

人から受けた傷が癒されないまま、誰かに痛みを打ち明けながら、イエス様のことを思った。

イエス様は一つも悪いことをしておらず、人々のために生きてこられたのに、その結果は十字架刑である。

私などは、不正をしていないのに、誤解されたり、悪態つかれただけで耐えられない程なのに、イエス様は妬まれたり、恨まれたりしたあげくが命を無くす状況に追い込まれた。妬みや憎しみは、自分たちの深い罪の性質の故だったが、彼らはそれを自分の義とした。

そんな中で十字架の上でイエス様が祈られた祈りは「父よ。彼らを赦してください。彼らは何をしているのかわからないのです。」という究極のとりなしの祈りだった。

自分に攻撃が来たり、不利益をこうむったり、傷をつけられ痛む中、まず、その相手のために祈るのは無理。生身の体、心が痛いのに、自分の痛みのことではなく、相手のために祈るのは…とても難しい。

けれども、自分も痛いけれど、同じ位、相手もどうしようもない足りなさや弱さや罪の性質に縛られて苦しんでる、あるいはその結果を刈り取ってるんだと時間をかけて思うことはできる気がする。

ステパノもまた、人々から石を投げつけられ、殉教するときに「主よ。この罪を彼らに負わせないでください。」と祈られた。ステパノは聖霊に満たされ天の神の栄光とイエス様を見ていた。

私がそのレベルに達するのは、まだまだだが、今出来るところからのとりなしの祈りを神様は祝福してくれると思う。

神様、私たちはキリストを信じる故に妬まれたり、恨まれたりもすると聖書にはあります。また、傷を受けたり、不利益をこうむることもあります。神様が私たちの弱さをいつも赦してくださり、神様の安心の中に、受けたダメージを癒してくださることをありがとうございます。そして、ダメージを与えた人のために祈るイエス様の愛を与えてください。

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2009年2月10日 (火)

『死んでも生きる』とは

『死んでも生きる』とはどういうことか、考えました。

『イエスは言われた。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。」』新約聖書 ヨハネの福音書11:25

前回のブログの聖書箇所と同じ12章のことば。ラザロが死んで、嘆く兄弟のマルタにイエス様が言ったことば。

ここはイースター(イエス様の復活を祝う復活祭)で良く引用される。だから、クリスチャンになったときから、とても馴染みのある箇所である。

けれども、『イエス様を信じる者は死んでも生きる』というのはわかるようで、よくわからなかった。

確かにイエス様を信じる者は天国が約束されている。

前にも書いたが、ある人が「私たちは今、病気をかかえていても、大丈夫。天国に行ったら永遠に健康で生きるのです。」と言った。すごく、違和感を感じた。地上の苦しみは天国にいけば、帳消しになるから我慢しろ…と私には聞こえた。

今ははっきりわかる。肉体の死後に永遠の天国に行くことが約束されているが、それだけではない。

この地上で神様との親しい交わりを通して、私たちは地上にいながらにして、天国を体験できるのである。

もし、地上で神様との親しい交わりを経験せず、天国があると言われても、絵にかいた餅のようになる。

この地上で、神様と交わり、天国の前味を味わい、そして、天国の渇望の中、私たちは天国に移される。

霊的に死んでいた者が、キリストによって、生き返り、神様と地上で交流できるこの恵みをほめたたえる。

神様、イエス様の十字架により、赦されて神様と親しく交われるものであることを感謝します。復活されたイエス様によって、私たちも霊的に死んでいたものが、霊に生きるものとされたことを感謝します。肉体の死が訪れても、霊に生きたように天国で神様と変わらず親しい交われが持てることを感謝します。

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2009年2月 9日 (月)

死だけで終わらない約束

母の死のときに約束してくれたことを、神様はそのとおりにしてくれました。

『この病気は死で終わるだけのものではなく、神の栄光のためのものです。神の子がそれによって栄光を受けるためです。』新約聖書 ヨハネの福音書11:4

私の母は53歳で天に召された。私も限りなく、その歳に近づいている。

20年余り前になる。母が末期ガンだということを姉から聞いた。私は親を泣かせた親不幸者だったので、「今、母に死なれては困る。」ということが一番初めに思った。

クリスチャンの姉と祈った。そのとき、『この病気は死で終わるだけのものではなく…』の神様からの約束を受け取った。それからは、この聖書のことばを握り、このことばがその通りになるようにと祈った。

母は酸素マスクの中、亡くなる20日前にイエス様を信じた。「意識がもうろうとしている中、母は、本当にイエス様を信じ、受け入れたのだろうか」と姉と話しをした。すると、次の日、母の意識がはっきりし、「イエス様が、モンペみたいなのをはいて、夢に出たっけよ。『そっちには人は少ないがこっちにはたくさんいる。』って言っていた。」と母が言った。祈りと賛美の中穏やかに母は天国に移された。

統合失調症の父は「オレも母さんのところへ行く。」と言った。洗礼を受け、礼拝に出る生活をした。母の死から3年後、病気で天国に召された。最後の言葉は牧師の「癒されるように」という祈りに「アーメン」と大きく祈った言葉だった。

それらを見送った祖母が、姉と同居することになった。「姉ちゃん(私の姉のこと)に面倒をみてもらうんだから、姉ちゃんの信じる神様を信じる。」とイエス様を信じた。ルツのような信仰を持った。じいちゃんの位牌も焼き払った。長年違う宗教の習慣にあったので、何が神様にかなっているかいなかは混同していた。が、姉ちゃんの信じる神様を自分の神様とした。

母の死に対して約束されたことが、その通りになった。

『もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る、とわたし(イエス)は言ったではありませんか。』ヨハネ11:40

私たちはそこで、信じられないという心の石を取りのけるだけである。そして、神様がしてくれる栄光をただ見させてもらうだけである。

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2009年2月 8日 (日)

つながれていないことば

人を縛る言葉もあれば、誰にもしばられず放たれていくことばもあります。

『私は、福音のために、苦しみを受け、犯罪者のようにつながれています。しかし、神のことばは、つながれてはいません。』新約聖書 第2テモテへの手紙2:9

飲み会で友人と話しをしていたときのこと。(私はもっぱらウーロン茶で、飲んでる人のテンションについていける)私が、友人に「あのとき、あなたはこんな風に話したよね。」とその内容を再現する。すると、友人は驚いて、「よく覚えているねぇ。」と感心した。

そういえば、私は昔から人が言うことをよく覚えている。かつては、言った言葉じりだけしか捕らえられなくて、その言葉に対して怒ったり、誤解したりしたものだ。

友人たちとの会話のポイントを覚えているおかげで、ブログで、回想録を書くときは役にたっている。

記憶力はどちらかというと良いほうではないが、不思議と人が言ったこと、話したことは忘れない。

今は、それを相手の情報源としてストックするので、次の時にあったときなど、相手の近況を聞くキッカケになったりする。

多分、私にとっては、言葉からくる情報源が一番入りやすく、残り易い。(人の表情は見逃したり、察する想像力には欠ける)そして、人には興味があるので、かなり大事なことは漏らさず聞いている。(かと言って、大事なことをすっぽり聞き逃していることもあるかもしれないが…)

違う角度から言うと、かつての私は人の言葉に縛られやすかったのかもしれない。いやな言葉も残りやすかったかもしれない。

今は聖書のことばこそが真実で、私を生かしてくれる唯一のものだと信じている。人を知る上で、その人が言う言葉は大切だが、それが私を縛ったりすることはあまりない気がする。

神様のことばは、私を慰め、私を支える。そして、それだけでなく、神様のことばはつながれていないとパウロはテモテへの手紙で言う。

この手紙を書いたときパウロはキリストを宣教したために、捕らえられて獄中にいた。しかし、神のことばは何にも拘束されていないと大胆に言う。

神様のことばを内側に留め、そして誰にも縛られないものとして、外に、人々に届けるものでありたい。

神様のことばを聖書を通して、与えてくださっていることをありがとうございます。真実で、人を生かす神様のことばに日々生かしてください。そして、この決して縛られることのない神様のことばが、人々に伝わり、留まり、人を豊かに生かすものとしてください。

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2009年2月 7日 (土)

服従する自由

神様に服従する自由について書きます。

『あなたは若かった時には、自分で帯を締(し)めて、自分の歩きたい所を歩きました。しかし、年をとると、あなたは自分の手を伸ばし、ほかの人があなたに帯をさせて、あなたの行きたくない所に連れて行きます。』新約聖書 ヨハネの福音書21:18

ある時、道を歩いていたら、何の前触れもなく、突然、キリストの痛みと苦しみがどんなだったか思わされた。それは、私の想像をはるかに越えていて、その道はちょっとだけでも私には堪えられないものなのだと思った。

私が、知らないことはたくさんあるが、知らないから守られていることも、また、たくさんあるのだと思った。

その直後にこの聖書のことばが私の心にとまった。

キリストの計り知れない苦しみと、この聖書のことばの関係は何か?

ちなみにこの聖書の箇所は、イエス様が弟子であるペテロに復活の時に言ったことば。ペテロが殉教することを示していた。

その中身としての意味合いは、「年をとると、従順の信仰をもって、神様に服従する自由と謙遜を持って歩む」ということらしい。

私は過去の信仰生活を振り返るとき、人を裁いたり、人に振り回されたり、随分と神様の恵みを無駄にしてきてしまったなぁと思う。

神様の癒し、恵み満ちた時、自分の計画ではなく、神様が計画されたところを歩みたいと願う。

十字架にかかる前、イエス様は「父よ。みこころならば、この杯(さかずき)をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、みこころのとおりにしてください。」と天のお父さんである神様に祈られた。イエス様ほどの方でも、葛藤があり、それを越えた神様への信頼に、従順の道を進まれた。

これまでの自分は歩きたいところを好きなように歩いて来たが、神様がこれからは私の行きたくないところに連れて言ってくれるのだろうと思う。まだ、行きたくない領域には入っていない。何が待っているのだろうか。

小さなことの信頼の積み重ねの先に“神様へ服従する自由”があることを思う。

それはもはや私の力ではなく、神様の与えてくださった信仰による。

時々小さな選択を迫られるとき、私はこの聖書の箇所を開き、「私の思いでなく、あなたのみこころに従える信仰をください。」と祈っている。

キリストの歩まれた苦難の足跡をたどる…それは、この今、日常の小さなことで聖書のことばに服従する信頼から始まり、キリストの計り知れない自由の中に入れられていく約束につながる。

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2009年2月 6日 (金)

友人との思い出

昔、友人が聖書を開いて分かち合ってくれた話しを思い出します。

『たとい主(神)があなたがたに、乏しいパンとわずかな水とを賜(たま)わっても、あなたの教師はもう隠れることがなく、あなたの目はあなたの教師を見続けよう。

あなたが右に行くにも左に行くにも、あなたの耳はうしろから「これが道だ。これに歩め。」と言うことばを聞く。』旧約聖書 イザヤ書30:20.21

神学校時代、寮が一緒の一人の友人Cさんがいた。年は私より若かったが、教会歴は私よりずっとあった。

あの頃は、何もなかった。お金もなく、質素な生活をした。自慢ではないが、服も上から下までもらいもので、コーディネートしていた。自分だけの生活空間も限られており、ベッドと机だけが自分の空間だった。

彼女は寮にいる間、脳腫瘍が発覚し、手術もした。彼女の家庭環境も複雑のようだった。たくさんの悩みや苦しみがあったのだろうと思うが、いつもコッソリお祈りして、その秘密をコッソリ教えてくれた。

「私、いつも私の笑顔が人を慰めますようにって祈っているのよ。」と彼女が私に教えてくれた。なるほど、彼女の笑顔はいつも素敵だ。信仰をもって、まだ、2〜3年の私は、そうやって影での祈りが、今のその人を作るんだ…と教えられた。

彼女が聖書を開き、一つの箇所を話した。それが、この箇所だった。

「私ね、思うんだけど、何があってもいつも最後に残るのは聖書の神様のことばなんだよね。」と彼女は言った。

あれから、25年くらいたって思う。本当に、人や物事もうつろいやすいけど、神様のことばだけは変わらずにいつもある。

どんな状態であっても、神様は隠れることがなく、「これが道だ。これに歩め。」と教え続けてくれる。

この箇所を見ると、アーメンと思うと共に、彼女の神様のことばに頼っていた姿を思い出す。

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2009年2月 5日 (木)

私のエジプト脱出3(過ぎ越し)

神様がエジプト脱出にあたって、イスラエル人を過ぎ越されて災いから守った話しです。

『あなたがたのいる家々の血は、あなたがたのためにしるしとなる。わたし(神)はその血を見て、あなたがたの所を通り越そう。わたしがエジプトの地を打つとき、あなたがたには滅びのわざわいは起こらない。』旧約聖書 出エジプト12:13

イスラエルの民がエジプトを脱出するのは大変だった。エジプトにとっては、都合の良い奴隷、労働力なので、エジプト王パロは彼らを出て行かせようとはしなかった。

そこで、神様は10の不思議な災いをエジプト全土に行い、イスラエルの民の脱出を計画した。その10番目が最も不思議な出来事だった。

それは神様がモーセに伝えた通りに、イスラエルの民は、自分の家のかもいと門柱に羊の血を塗るということだった。そして、朝まで家の中でじっとしていること。

神様はその血のあるところの家は通り過ぎて、それ以外(エジプトの民)の家の長子(最初に生まれた子ども)をすべて打たれた。それはエジプト全土、家畜にまで及び、人々は激しく泣いた。そして、パロ王が「イスラエル人は出ていけ。」と言う。

これは今、イエス・キリストの十字架の血に重なる。私たちは皆、悪いことをしてきたので、本来すべての人が、義なる神様から裁かれる存在である。しかし、旧約において、動物犠牲の命が、罪をおおったように、今、2000年前のイエス・キリストの犠牲の命の血は、信じる私たちに塗られ、このままで、神様のさばきが通り過ごされる…赦されるのである。

イスラエルの民は羊を殺し、その血を言われたとおりに塗っただけだった。

今の私たちはキリストの十字架が、私のためと信じて、その血で心を清めてもらうだけだ。

見返りを要求される世の中で、私たちが信じただけで、自分の過去の悪もすべて無しとされるというのは、シンプルなようでわかりにくい。

しかし、違う見方をすれば、私たちが生まれながらにもってる罪の性質、やってることや思ってることの悪さは、死んでお詫びしても帳消しにならないほど、神様から見たら、赦されないことだった。

ただ、神様の子どものイエス・キリストの血だけが、神様に赦され、怒りとさばきを通り過ごすのに、有効だった。

私の完全さではなく、ただキリストの十字架の完全さのゆえに、私は神様の前に怒りと裁きが通り過ごされ、良しと見なされた。

今日もキリストの十字架の血が流されたゆえに、その中で私はこのままで良しとされたことをただ感謝したい。

神様、イエス様の流してくれた十字架の血によって、私が受ける裁きが過ぎ越されたことを感謝します。神様のこの素晴らしい知恵と計画をたくさんの人が知り、ただ信じるだけで、過ぎ越されていく恵みを受けられるようにお願いします。

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2009年2月 4日 (水)

私のエジプト脱出2

私もエジプト(古い縛られていた世界)から脱出しました。何から何への脱出だったのでしょうか。

『これは律法の下にある者を(イエス・キリストが)あがない出すためで、その結果、私たちが子としての身分を受けるようになるためです。

そして、あなたがたは子であるゆえに、神は「アバ、父」と呼ぶ、御子の御霊(みたま)を、私たちの心に遣わしてくださいました。

ですから、あなたがたはもはや奴隷ではなく、子です。子ならば、神による相続人です。』新約聖書 ガラテヤ人への手紙4:5.6.7

モーセたちがエジプト脱出の頃はすでに、ヤコブたちがエジプトに移住して400年余りたっていた。

イスラエルの民は苦役を強いられ、エジプト人の奴隷となっていた。そこの生活は苦しかったが、皆、そこでの生活しか知らなかった。彼らが、エジプトを脱出して、新しい生活、自由人としての生活が始まるが、神様にあって生きていけるようになるのに40年の荒野での訓練が必要だった。

聖書では、私たちはエジプトの地(律法の世界)から脱出できて、神様の子どもの身分を与えられたとある。それまでは、奴隷という身分だったとあるが、何の奴隷であったか、3つのことが書かれてある。

一つめは、私は罪の奴隷であった。(ヨハネ8:34)したいと思うことは出来ず、したくないようなことをする弱い者だった。

2つめは、私はこの世の中の悪魔の奴隷だった。(エペソ2:1~3)悪魔の支配下にいたので、その強烈な流れに逆らうことが出来なかった。

私はエペソ2章の初めのほうを読むとき、「私はかつては自分は死んだ魚で、流されるまま、この世の罪と悪に流されていた。」とその映像を思い浮かべる。そんな私がイエス様を信じたら、この世の中の激しい濁流の中にあって、サケが上流へさかのぼるように、力強く登っていくようだと思う。

それは私の力でなく、キリストにある真理による自由と力なのである。

そして3つめは死の恐怖の奴隷だった。(ヘブル2:14.15)肉体の死をいうのだろうが、私には霊的な死が恐ろしかった。神様になかった世界は、私を孤独と虚無感で縛り、私にとっては地獄のように苦しい場所だった。神様はキリストにより、永遠のいのちを与えてくださり、日々、神様と共にいられる安心感と喜びが溢れる中にいれてくださった。私にとっては、地上の天国となった。

誰もが縛られること、拘束されることは喜ばない。キリスト教に入ると、いろんなことを制約されそうと言う人がいるが、実は違う。何故なら、キリストにある生活は“何かをする世界”ではなく、“神様と共にある世界”だから。制約があるのではなく、素晴らしい方とともにいて、その方の光が私たちを照らすのである。

「あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」ヨハネ8:32

「主(神)は御霊(みたま)です。そして、主の御霊のあるところには自由があります。」第2コリント3:17

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ブログを読んでくださる方へ

感謝と祈りを書きました(*^_^*)∨

『神である主は、私に弟子の舌を与え、疲れた者をことばで励ますことを教え、朝ごとに、私を呼びさまし、私の耳を開かせて、私が弟子のように聞くようにされる。』旧約聖書 イザヤ書50:4

ブログを見に来てくださることを感謝します。支えられています。

もともと私は何か人の役にたつならと、がぜん力が湧いてくるタイプなので、訪問してくださる方がいると、それだけで良い聖書のことばを一緒に分かち合いたいと、祈りがわいてくる訳です。

このイザヤ50:4の聖書のことばは、かなり昔から祈っていたものです。「神様、どうぞ、私もそのようになるものにしてください。」と。

10年位前、ある教会の公の預言の中で、「もし、あなたがすべてに感謝するなら、私はあなたの耳を開き、弟子の舌を与えよう。」と言われたのをこの夜に思い出しました。

私の祈っている聖書のことばがあったので、ドキッとしたので、覚えています。「そうかぁ。ポイントはすべてに感謝するならかぁ。」と思いました。

朝はディボーションもままならず、主人に起こされ、弁当を作り、家族がみんな出かけるとまた眠くなる…そんなものだけれど、神様のあわれみを感じます。

最近「ブログを書くようになって、聖書を良く読むようになったね。」と主人に言われました。そうです!前は、苦しいことがあるときだけ、聖書を食い入るように読む…むらのある者でした。今はブログ書き終わったときから、次のを考えて信仰書や聖書を読んでいます。だから、私自身がとても祝福されています。

書いた文も、アップされた画面でも何度も読みます。神様をほめたたえ、私の霊も喜んで、訪問する方にも少しでも役だってもらってると信じられて。

神様の文章を書くのがすごく楽しくてたまりません。

そして、訪問して下さってる方々の上に神様の祝福があるよう、感謝をもって祈っています。

もし覚えてくださる方がいたら、私の耳がいつも開かれて神様の声を聞けるようお祈りくださいm(_ _)m

神様の素晴らしいことばが、私たち一人一人の糧となりますよう、心から祈ります。

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2009年2月 3日 (火)

私のエジプト脱出1

イスラエルの民のエジプト脱出の話しがあるが、私もまた自分では渡ることの出来ない海を渡らせられ、神様の側に脱出できたことを思います。

『主(神)は仰せられた。「わたしは、エジプトにいるわたしの民の悩みを確かに見、追い使う者の前の彼らの叫びを聞いた。わたしは彼らの痛みを知っている。

わたしが下って来たのは、彼らをエジプトの手から救い出し、その地から、広い良い地、乳と蜜の流れる地…に、彼らを上らせるためだ。」』旧約聖書 出エジプト記3:7.8

今から30年近く前、私は孤独と空虚の心の闇が、黒い影となってだんだん私を取り囲み、最後はスッポリと包みそうになった。

そのとき、「私は生きることも、かといって死ぬことも出来ない。」と一人うめいた。

その時、一人の友人が「あなたは神様に近いよ。」と言った。何故だかはらりと涙がこぼれた。私の中で何かが変わった。私は神様に祈った。「今まで自分で生きていくのだと思っていましたが、生かしてくれる神様がいることを今知りました。これからは神様のために生きていけますように。」私の神様を信じ歩みをするスタートの瞬間だった。

あの日から、泣いたりわめいたり、祈らなかったり、聖書を読まなかったり、いろいろあったが、神様が生きて働いてくれていることを信じてきた。神様が信仰を私に与えられたので、信仰がなくならなかった。

聖書に照らし合わせると、あの日、私はエジプトを脱出したのだと思う。紅海が真っ二つに分かれ、かわいた地を歩いたときだったのだ。

神様はイスラエルの民が、エジプトの中で、奴隷として苦役にあずかっているのを見て、そこから救い出そうとされた。

神様に仕えるモーセをリーダーとし、エジプトに10回の災いを与えた後、おびただしい群れのイスラエルの民はエジプト脱出に成功する。

後ろからは、労力を手放したことを後悔したパロ王による軍隊が追いかけてくる。

目の前は水をなみなみとたたえる海。神様は奇跡をなし、海の壁を作り、イスラエルの民をかわいた地を歩かせ、渡らせた。

出エジプトと言われる神様が行った壮大な奇跡である。

そして、私も様々な奴隷となり、自由を封じられていた。イエス様によって、神様につながったとき、様々な縛りから解かれ、神様の約束の土地の側に移された。私にとっての出エジプトとなる。

神様、あなたの奇跡によって、エジプト脱出を計り、私も様々な奴隷の身分から解放されたことを感謝します。深い孤独から解かれ、あなたの愛の中に入れられたことを感謝します。何のために生きるのかわからず、虚無に漂うものが、神様に定められたことを感謝します。

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2009年2月 2日 (月)

低い所に下られ、高く上られた

『―この「上(のぼ)られた」ということばは、彼(イエス)がまず地の低い所に下られた、ということでなくて何でしょう。

この下られた方自身が、すべてのものを満たすために、もろもろの天よりも高く上られた方なのです。―』新約聖書 エペソ人の手紙4:9

私たちの心の奥底はネス湖のように、深く深く暗闇が覆う。

普通は水面に光があたり、キラキラと美しく輝いているようでも、その底は計り知れなく、光は届かず、ドロドロとしている。

そして、ひとたび、思わぬ事態になると、底の沈殿した闇の部分がかき乱され、上のほうにあがってくる。

私もかつて「ネス湖のように」と自分の汚ない醜いものが、かき乱され、浮上してきて、唖然とした体験を書いた。

イエス・キリストは神であられるのに、地上まで下りてきてくださり、神の栄光を捨て、病と悲しみを知る人として生きられた。

イエス・キリストはそこよりさらに深く下りたって、私たちの醜い愚かなな暗闇まで下りてこられた。

イエス・キリストは私たちの闇が深すぎることを驚かなかった。私たちの負いきれない深い闇のため、代わりに神様の前に罰を受けられた。それゆえ、私たちはおおわれ、癒され、清められた。

深く下りられたイエス・キリストは、もろもろの天より高く上られた。

そして、闇しかないようなものを、神様の良いもので満たしてくださった。

神様、イエス様を地上に送ってくださりありがとうございます。私の中の、誰にも触れることのできない闇の中まで来てくださり、ありがとうございます。下られたイエス様はまた、死からの復活により、昇天し、神様の高みまで上られ、今、天からの良いものを私たちに満たしてくださったことをありがとうございます。主のお名前をほめたたえ、あなたに感謝します。

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2009年2月 1日 (日)

神様が遠く感じられる時

神様が遠く感じられる時も、神様は変わらず、私たちを愛して導いてくれています。

『主(神)よ。なぜ、あなたは遠く離れてお立ちなのですか。苦しみのときに、なぜ、身を隠されるのですか。』旧約聖書 詩篇10:1

私は神学校を卒業したとき、そのまま、奉仕教会に就職した。

神様と人に仕えるチャンスだったかも知れないが、私の過去の信仰生活を振り返ったとき、もっとも神様が遠くに感じられたときだったかも知れない。

最近、ブログを書いて過去を振り返る時、すべてに意味があって、たとえ辛かったりしても、一つ一つがきっと私の成長のために無くてはならないときだったのだろうと思う。

人間的に見たら、教会に就職できたのに、失敗してしまった感じである。が、あのとき順調だったら、神様と親しく交流するに至らなかったかもしれない。

リック・ウォレン師の「人生を導く5つの目的」の本に、“神が遠く感じられる時”という項目がある。その中で、次のような言う。

「友情はしばしば、別離や沈黙によって試されます。…あなたとの友情を成長させるために、神は別離のように思われる期間を用いてあなたを試されます。…「魂の暗黒期」…「神の不在の訓練」…「暗闇における訓練」…また、別の人たちは「心の冬」と表現します。…

神に見捨てられたとか拒絶されたと感じるのは、往々にして罪とは関係のないものです。それは、むしろ、信仰のテストです。…

あなたが神の臨在を感じることは、神も願っておられることですが、神はあなたが神を感じることよりも信頼することの方に関心をもっておられます。神を喜ばせるものは感情ではなく、信仰なのです。」

人と人との友情や信頼関係もいろいろな出来事の中で、築かれていく。決して良いときばかりの中では、深い友情や信頼は築かれない。

私たちはいつも、心から神様を感じたり、喜んだりしたいけれど、そうでないときもダビデのように「神様、なぜ遠くにいるのですか。」とうめきながらも信じて祈るときもあるのかも知れない。私たちが遠くに感じても、変わらぬ神様はなお私たちの最善を導いてくださる。

神様、もし、今、神様が遠くに感じている人がいるなら、そのうめきの中にさえ、神様への信頼を見い出してください。聖霊が深いうめきで、私たちのためにとりなしてくださっていることを感謝します。(ローマ8:26)助けてください。

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2009年1月31日 (土)

自分を捨てる祝福

自分を捨てても欲しいものが私にはあります。

『自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世でそのいのちを憎む者はそれを保って永遠のいのちに至るのです。』新約聖書 ヨハネの福音書12:25

“自分を捨てる者が本来の自分を得る”…と聖書では言う。

自分を捨てると言うのは、神様を信じている人たちには馴染み深いが、そうではない人には、考えにも浮かばないアイデアと思う。自分を捨てたら、何が残るのか?何も無くなるのではないか?…と。

逆に私たちは「自分自身をしっかり持て。」と親や周りに言われてきたのではないか。

私の信仰生活は、振り返ると、自分を捨てさせられる連続だった。

21歳の時、教会中心の生活が始まった。教会学校(地域の子どもたちが日曜日の朝に教会に来て、聖書を学ぶ)が盛んだった。教会に通うようになって、すぐに教会学校の先生にしてもらった。(子どもは50人位来るのに、教会員は大人が7人位で、全員総動員で教会学校を支えていた)

教会に通うと同時に、子どもに聖書を教えるため、聖書を勉強するという幸いな環境だった。

一年位そんな生活をして、週報作りもガリ版で教会に泊まりがけで作らせてもらい、クリスチャン生活ドップリだった。

その夏の恒例の湖の近くでのキャンプに前半(小学生の部)は料理手伝い、後半(中学生の部)は教師として、参加した。

中学部のキャンプファイヤーのメッセージを、子どもたちと一緒に聞いていたときのことだった。どんなメッセージか、忘れたが、「私はクリスチャンだろうか。」という疑問が湧いた。高校の時に、洗礼を受けていたが、そこは異端の教会だった。

その場にいた宣教師に、自分の今の心境を話した。「疑いを感じるなら、信仰ではなく、罪です。」とローマ人14:23から言われた。

中学生が寝静まったキャンプ場の湖畔でひっそりと洗礼を受け直した。真っ暗な湖で、悪いことを隠すかのような洗礼だった。

悲しかった。クリスチャンとして、子どもたちに聖書を教えてきたのに、今までの自分の信仰はなんだったのか。

次の日、人前でも涙が止まらず、ハラハラ泣いた。家に帰ってからは声をあげてオイオイ泣いた。

再度の洗礼が必要だったか、それまでの私はクリスチャンだったか、教理的にどうこうではなく、神様の前に、そのことは私にとって必要なことだった。

自分の信仰を捨て、聖書に従う信仰の出発だった。

自分を捨て、聖書に従う…それは本当につらい。自分の今までが否定されるようなことだから。

しかし、神様は自分の考えや信念やこだわりやプライドを捨てるとき、素晴らしいものを与えると約束している。

それは“永遠のいのち”である。ヨハネ17:3では「永遠のいのちとは神様とキリストを深く知っていくこと」とある。私たちが、捨てないと与えられないものがある。大切なもののため、私が今日捨てる考え、思いは何か神様に問いたい。

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2009年1月30日 (金)

教え養う聖霊

神様がくださる聖霊は、私たちには考えられない神様の知恵を教え、私たちを養ってくれます。

『このことをわたし(イエス)は、あなたがたといっしょにいる間に、あなたがたに話しました。

しかし、助け主(ぬし)、すなわち、父(神)がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。』新約聖書 ヨハネの福音書14:25.26

ノンクリスチャンの友人が言った。

「2000年前のこと、イエス様の復活のようなことがなぜ、信じられるの?sebaさんは何年も聖書の勉強してきたし、私が聖書読んでも、よくわからないのも、当然だよね。」

また、富士山に一年に2か月滞在し、山小屋で働くことを長年続けている友人が言った。

「山にいると木も緑もなく、何もないような中で、神がいるって感じる。だけど、偉大な神と僕は交流していない。」

聖書を通して、私たちは神様の計画や思いを知れる。けれども、小さな自分の頭で、計り知れない神様を理解するのは難しい。不可能かもしれない。

イエス様は地上で生活されたとき、弟子たちに上記のことばを話された。

イエス・キリストが十字架で死なれ、3日目に生き返られ、その後、天に上った。が、約束どおり、弟子たちに聖霊(神の霊)を与えられた。

ゆえに心頑なな、悟るに遅い私も、聖書を読み、祈るとき、この聖霊が教えてくれ、語ってくれた。そして、時に自分の不純物な動機が照され暴かれ、時に慰められ、神様に養われ訓練され、教えられ、支えられてきた。

意志や努力と縁遠い私が、なぜ、その内側を癒され、変えられたか、それは聖書によるが、神様が送ってくれた聖霊が教えてくれたからとも言える。

聖書はなんだか難しいが、教会学校の子どもも同じものを使う。「イエス様、ごめんなさいというと、イエス様は十字架の上で、〜ちゃんの罪を赦してくれるんだよ。」という聖書のメッセージを信じて祈る。

イエス様の十字架を信じるものに、神様はプレゼントとして、その心に“助け主”聖霊をくださる。

聖霊によって聖書を読むとき、不思議と聖書のことばが、神様からの語りかけとなる。不思議と聖書の中にある弱さが私のものとなる。不思議と聖書の約束が自分への約束に変わる。

神様、イエス・キリストの十字架を信じるすべての人に、神様の霊を与えてくださることをありがとうございます。神様は聖く正しい方なので、私たちの汚れた心に聖霊として住むことは不可能ですが、私たちの汚れをすべてキリストの十字架で赦し清め、その完全さの故に、聖霊がこのままの私に住まわってくれる恵みを感謝します。神様との交流を望む方々に、キリストの十字架によって聖霊を与えてください。

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2009年1月29日 (木)

不毛の土地の種蒔(たねま)き

種を蒔いてもどうにもならない、そんな土地をキリストは耕してくれました。

『イエスは多くのことを、彼らにたとえで話して聞かされた。

「種(たね)を蒔(ま)く人が種まきに出かけた。

蒔いているとき、道ばたに落ちた種があった。すると鳥が来て食べてしまった。

また、別の種が土の薄い岩地に落ちた。土が深くなかったので、すぐに芽を出した。

しかし、日が上ると、焼けて、根がないために枯れてしまった。

また、別の種はいばらの中に落ちたが、いばらが伸びて、ふさいでしまった。

別の種は良い地に落ちて、あるものは百倍、あるものは60倍、あるものは30倍の実を結んだ。…」』新約聖書 マタイの福音書13:3~9

イエス様が話された天の御国(信仰の世界)を説明する種蒔きのたとえ。種は神様のことば(聖書のことば)。畑は私たちの心。

せっかく、神様のことばという種が蒔かれても、聞く者の心が良い地でなければ、神様のことばの種は成長し、大木になって実を結ぶには至らないという話し。

かつて、私も聖書を読んでも、読んでも心にとまらず、悟らず、根を張らない者だった。

私はどのタイプだったかなと考えると、すべてに当てはまったかもしれない。

母からの傷で、「人に命令されると怒りが湧く」タイプだった。

小さなことにも、大きなことにも不忠実な者だった。

牧師に養われた経験がないが、あまりにも素直ではない、もてあます、ならずものだったのかもしれない。

この3種類の心の畑はどうしたらいいのか。鳥がこないよう種をカバーするか、岩地はドリルで穴を開けるか、いばらは一生懸命むしると良いか…農作業をしたことのない私だが、どれも大変そうだ。無理かも知れない。そんな土地は労力の無駄で見捨てたほうがいいかもしれない。

でも、私がその不毛の土地、手付かずの見捨てられた、種が育つには不可能な土地だったんだ。

そんな土地をケアし、岩地を砕き、いばらをむしり、たくさんの石ころをとってくれたのはイエス様の十字架の愛と赦しと力によった。

目の前にいる人は…3番目の土地の人か、残念……なんてよく思った。

不毛の土地チェックに使っていた箇所にキリストの光があたった瞬間だった。

神様、あなたが不可能なくらい固い岩だらけの私の心の土地を耕してくださったことを教えられました。こんな私が耕されたのだから、どんな畑にも不可能はないのですね。キリストの十字架で、人々の心を耕して、神様のことばの種を成長させてください。

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選びの基準

神様が私を選び、信仰を与え、祝福してくれた理由を思い巡らしてしまうことがあります。

『ですから、兄弟たちよ。ますます熱心に、あなたがたの召されたことと選ばれたこととを確かなものとしなさい。これらのことを行っていれば、つまずくことなど決してありません。』新約聖書 第2ペテロの手紙1:10

選ばれる…飛び抜けた能力の故に選ばれたり、信頼に値するゆえに選ばれたり、色々あるが、選ばれるというのは名誉なことだ。

私の過去をさかのぼると、小学、中学で学級委員の投票があり、ある時からずっと選ばれていた。が、中学一年のとき、遅刻はする、宿題は忘れるで、「学級委員のくせに、ダメじゃん」と周りから責められ、不登校気分になったことを覚えている。

聖書では『神様は私たちを世界の始まる前からキリストにあって選んだ。』(エペソ1:4)と書いてあり、自分が生まれる前から選ばれ、計画されている壮大さにいつも厳粛な気分になる。

なぜ、私が選ばれたか?凄く求めたから?有能な人間の可能性があるから?…なぜを考えるといつも迷路に入ってしまう。

聖書からあえていうなら、『有るものをない者のようにするため、無に等しいものを選ばれたのです。これは、神の御前でだれをも誇らせないためです。』(第1コリント1:28.29)

また、ヤコブとエサウから『その子どもたちは、まだ生まれてもおらず、善も悪も行わないうちに、神の選びの計画の確かさが、行いにはよらず、召してくださる方によるようにと「兄は弟に仕える。」と彼女(リベカ)に告げられたのです。…「わたし(神)は自分のあわれむ者をあわれみ、自分のいつくしむ者をいつくしむ。」』(ローマ9:11.15)とある。

神様の主権は書かれてあるが、どこを探しても、私が有能だからとか、期待するべき者だからとかはない。

どちらかといえば、「神様はすごい!」と人々が言うように、あえて、箸(はし)にも棒にもかからない私が選ばれたということだ。

なぜ私が神様に選ばれ信仰を与えられたか、理由はそんなところで、まさに自分が誇れるものは一つもない。

それでは、何のために選ばれたか…それは至極明快だ。『私たちを、闇の中から、驚くべき神様の光に招いてくれた神様の素晴らしいみわざを現し、伝えるため。』(第1ペテロ2:9)

しばしば、なぜ私がこんな素晴らしい神様の中に選ばれたか考えて、迷宮入りするのだが、なぜ私が…はわからなくとも何のためにに焦点を合わせると前に進める。神様に与えられた特権と恵みに感謝して、今私ができることで神様の愛に応答していきたい。

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2009年1月28日 (水)

賜物投影からの脱出

長い年月をかけ、私は訓練され、自分に与えられた賜物として、自分がすることを教えられました。

『私たちは皆、キリストの体の一部分であって、それぞれに優れた形と驚くべき機能が与えられているのですから、ためらうことなく、ありのままの自分であり続けなさい。』新約聖書 ローマ人への手紙12:5(Msg訳)

神様は一番大切にしているものを用いて、私たちを成長させ、私たちを整えてくださるのかもしれない。

私は信仰もって、28年位だが、自分の心の傷に苦労し、神様に癒されてきた。そして、私にとって、いつもその時々の教会の牧師のメッセージに葛藤してきた。

「神様は愛の方なのに、なぜ、メッセージでは“〜する”世界ばかり語られるのか?」私にとって、教会のメッセージを聞くことは苦痛を伴い、疲れた。

3年前、牧師たちを許したとき、世界が変わった。あんなに求めていたものを、一切期待しなくなった。私が期待して求めるのは神様だけと教えられた。

そして、神様から受け入れられていることをたっぷり感じ、その中で、神様が私にたくさんの賜物(神から与えられた能力)が与えられ、計画がある、神様から期待されていることを受け取れた。

最近、私は教会の扉に立っていることを教えられた。すると、今までノンクリスチャンの世界では生き生きと人と関われるのに、教会に馴染まない自分が不思議だったが、それも賜物のゆえと思えるようになった。

リック・ウォレンの「5つの目的」で、「賜物の誘惑は、妬みか賜物投影だ。」とあった。私は知らないうちに、賜物投影(自分の賜物として与えられていることを他の人もするべきだと思う事)をしていたのかもしれない。

教会の中にいる人にも神様の恵みが語られるのは大切だが、外の方にいる人にはもっと必要だ。私が必要なことを語ればいいのだ…と落ち着いた。

私の中の長年の教会での葛藤と苦しみをも、神様は用いてくださり、今の自分になったこと、苦しみを与えてくれたことに意味があったと、今はその過去に感謝することができる。

家庭で、仕事場で、人間関係で、健康で…様々なことで人は試される。が、もしかしたら、その中でその人の賜物が磨かれ、訓練されているのかもしれない。

賜物について、リック・ウォレンの素晴らしいコメントを載せておく。

「神は目的をもってあなたを造られ、あなたが与えられたものを最大限に活用していくことを期待しておられます。…人は、自分でも気づいていない数十もの隠れた能力や賜物を持っているものです。その多くが単に経験がないために埋もれたままになっているのです。…経験を重ねていけば、最終的に自分は何が得意なのか分かるようになるのです。」(「5つの目的」より)

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2009年1月25日 (日)

扉に立つ私

一週間考えていたことが、ある情景として思い浮かびました。

『キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわし、ご自分の肉において、敵意を廃棄された方です。』新約聖書 エペソ人への手紙3:14.15

一つの情景を思い浮かべている。

大きな建物があり、その中には何人もの人々がいる。扉があり、私はその丁度扉のところに立っている。

扉は開いていて、外の風景が見える。

外にはたくさんの人がいる。

私は扉にいるので、扉の近くにいる外の人の顔が見え、少し話しが聞けて、何を思っているか、どうして建物の中に入ってこないか、少し理解できる。

けれども、建物の中にいる人は、何故その中に人々が入ってこないのか分からず、不思議に思っている。

先週、私は教会の中にいるクリスチャンと外にいるクリスチャンの壁があることを、痛感した。

建物に入ってこない人たちにはそれぞれに事情や理由がある。

が、中にいる人にはそのことが理解できない。親切な人は、外の人のために祈ってくれているに違いない。

けれども、外の人の言動は、中の人から見たらまかり間違えば不信仰に見えたり、怠慢に見えたりする。

人には理解できる範疇があり、私も理解できる人はきっと僅かだ。

ただ、私は扉のところにいて、いつも建物の外を見ているので、扉の近くにいる外のクリスチャンがどんなに神様を求め、神様の中に生々しく生きているか少しわかるだけである。

彼らがどんなに神様に愛され、神様の近くにいるか、中の人うまく説明出来なかった私がいた。

イスラエルの民は捕囚され、裁かれながら尚、神様に選ばれ、愛され計画の中にいた。

今のユダヤ人には神様の召しと賜物は変わらず、異邦人の救いのために、神様の計画の中にいる。(ローマ人への手紙11章)

うまく言えないが、とにかく私は建物の扉のところにいるということ。

神様、教会の外にはたくさんのクリスチャンがいます。その方々も神様が選ばれ、信仰を与えた人たちです。神様は中も外も一つとなって、一つのキリストの体となることを願っています。外にいる人は、深い神様との関わりがありながら、悩んでいます。神様、どうぞ、キリストの大切な体である外の人たちを導き、祝福してください。

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2009年1月24日 (土)

最も大切な信頼

信じることで良しとされ、受け入れられたので、クリスチャンの誇りは自分ではなく、キリストと神様です。

『もしアブラハムが行いによって義と認められたなら、彼は誇ることができます。しかし、神の御前では、そうではありません。

聖書(旧約聖書)では何と言っていますか。「それでアブラハムは神を信じた。それが彼の義とみなされた。」とあります。』新約聖書 ローマ人への手紙4:2.3

昨日のブログで書いたが、神様はアブラハムを選ばれ、アブラハムは神様を信じ、そして「わたし(神)があなたがた(アブラハムを初めとするイスラエル人)の神になる」契約を結ばれた。

新約の時代、その契約はキリストによって異邦人(イスラエルの民以外の人たち)に及んだ。

ユダヤ人は今も多くの人が旧約聖書を信じているので、キリストを認めず、キリスト教もクリスチャンも認めない。

ローマ人の手紙ではイスラエル人が神に選ばれた民であることは変わらず、神の特別な計画があると言う。(ローマ11章)

それはともかく、アブラハムの神様を信じたことが神様から見たら、「それで良し」となり、神様に受け入れられた。正しい者、良い人間、立派な人であったからではない。アブラハムの行いは一切そこに起因しておらず、ただ“信じた”ことだけでオッケーとされた。

キリスト教は宗教ではないと良く聞く。宗教という定義に“何かする”ということが含まれているとしたら、キリスト教は宗教ではない。

“する”世界ではなく、“信じる”世界だから。

もっと平たく言えば、神様を信頼していく世界…それがキリストを信じる人たちの世界である。

行いによって神様に認められた訳ではないのだから、クリスチャンは自分に誇れるものは何もない。誇れるのは、キリストの十字架で赦してもらったこと、また、そのように憐れみの計画をたてられた神様である。

もし自分を誇るクリスチャンがいるとしたら、それは怪しいかもしれない。

“ただ信じた”そのことから出発し、今もそのことのみ神様から求められているのだから。

神様、天地の創造主であられるあなたと、親しく交流し、信頼する信仰も与えてくださりありがとうございます。聖書では、何かをすることを第1としてはいません。ただあなたを信じてついていくことだけです。ただ信じてあなたのことばにとどまるだけです。この“信じる”ということは、“何かをする”ことで自分たちを保ってきた私たちには難しいことでもありますが、神様との信頼関係に人々が入り、神様を喜べますよう祝福してください。

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2009年1月23日 (金)

ブログを読んでくださる皆さんへ

ブログ訪問の感謝と、お知らせです。

『「わたし(神)の思いは、あなたがたの思いと異なり、わたしの道は、あなたがたの道と異なるからだ。…

天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。
雨や雪が天から降っても もとに戻らず、必ず地を潤し、それに物を生えさせ、芽を出させ、種(たね)蒔く者には種を与え、食べる者にはパンを与える。

そのように、わたしの口から出るわたしのことばも、むなしく、わたしのところに帰ってこない。

必ず、わたしの望む事を成し遂げ、わたしの言い送った事を成功させる。」』旧約聖書 イザヤ書55:8~11

私のブログを訪問しに来てくださる皆さん、いつも来てくださりありがとうございますm(_ _)m

訪問して見に来てくださる方がいるので、とても励まされ、毎日アップすることができています。

私の文や内容がつたないものであっても、神様のことば(聖書のことば)を入れているので、誰かの何かに役だってくれるものと信じています。

私自身、何のために生きているかわからないような中から、神様のことばに出会っていき、変えられてきました。

訪問してくださる7割位はクリスチャンの方かなと思います。聖書を読んだことのない人にも、聖書に書かれてあることを少しでも知ってもらいたいなぁと思っています。

それで、引用した聖書の説明が出来るときは書きたいと思います。字数が長すぎると読みずらいので、2000字以内と決めています。体験と聖書の説明を一緒に書くと長くなるので書けるときは2つに分けて書く予定です。

クリスチャンの方にとってはすでに知ってる内容かもしれません。飛ばして、読み安いところを拾い読みしていただけたら、嬉しいです。

聖書は「本の中の本」と言われ、世界中で読まれています。信仰のある方にも、ない方にも有益な本として、その記事を簡単に分かりやすく紹介していけたらと思います。

『種蒔くものには種を与え』…このことばを最近思います。かつて、教会でメッセージのチャンスがあったときなど、徹夜で準備しても、なんかまとまらなかったりしました。

今は毎日訪問してくれる人たちに支えられ、書くのがすごく楽しいです。神様が私にも教え、与えてくれていることを痛感します。

これからもよろしくお願いします(*^_^*)∨

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2009年1月22日 (木)

緋のような罪も白くされる

信仰の人ダビデの罪の告白が、詩篇に書かれています。

『私はあなた(神)に、ただあなたに、罪を犯し、あなたの御目に悪であることを行いました。…

ヒソプをもって私の罪を除いてきよめてください。そうすれば、私はきよくなりましょう。

私を洗ってください。そうすれば、私は雪よりも白くなりましょう。』旧約聖書詩篇51:3~7

聖書に出てくる人物の中で、最も魅力的な一人と言われる信仰の勇者ダビデは詩人でもあった。

ダビデは王サウルに殺されそうになっても、ひたすら惨めに逃げながらも、チャンスがあっても、神が選んで立てた王サウルに手をかけなかった。

サウルの息子、ヨナタンとは生涯の親友としてその友情をつらぬく。

ときに泣き、ときに神に喜び踊り、ときに気が狂ったふりをして逃亡劇を繰り広げ、神様を信じて感情豊かに、勇敢に信仰をつらぬいた。

彼の生き生きとした神様への信仰は詩篇に残っている。

そんな彼も、王となり、優雅なある日、一人の人妻に心引かれる。その夫を激戦の戦場の先頭に立たせ、死ぬようにした。

その人妻を自分のものとしたとき、預言者ナタンが、ダビデのもとにきて、その罪を指摘した。

ダビデが神様の前に、自分の罪を自覚し、砕かれたときの詩がこの詩篇51篇である。

ダビデのしたことを神様は叱責した。その見返りもあった。が、神様はそのことを赦された。

昔、常識的なクリスチャンが「あんな悪いことをした人は赦されないわよね。」と具体的な罪に対して話していた。

神様は殺人も姦淫(かんいん)の罪も赦される。違う言い方をすると、正しい神様からみたら、小さなウソも、殺人も同じ重みのさばきに値する罪なのである。

しかし、今や、それらのすべては、イエス・キリストの十字架によって処理され、赦されたのである。

聖書のテーマの一つは赦しであるが、赦されること、それは神様との親しい回復につながり、本来の自分を取り戻し、神様と共にあり、その力も受けることである。赦されることによって、さばきは遠くに去っていく。緋(ひ)のように真っ赤な罪の心は雪のように白くなる。

神様、あなたは聖であり、善であり、小さな悪も受け付けない方ですが、キリストの十字架のゆえに、私たちが赦され、罪なき者と見なされ、受け入れられていることを感謝します。神様のこの赦しが多くの人の祝福になりますように。

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2009年1月18日 (日)

漸進的な表れ

遠くにいたときはぼんやりしていた景色が、近づく程はっきりする…神様の計画も私たちに与えられた計画もそのように思います。

『「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮かんだことのないもの。神が愛する者のために、神の備えてくださったものは、みなそうである。」
神はこれを、御霊によって私たちに啓示されたのです。御霊はすべてのことを探り、神の深みにまで及ばれるからです。』新約聖書 第1コリント人への手紙2:9.10

神様は人間の考えではなく、神様の考えを今は聖書を通して教えてくれる。神様の側から神様の真実を教えてくれることを啓示と言う。

神様の壮大な計画の全容がわからなかったとき、神様は夢や幻、またイスラエルの歴史の中で預言者をたて、断片的に語られた。

神様の計画がだんだん全容がぼんやりからハッキリわかることを漸進的(ぜんしんてき)に表された…と言うらしい。

つまり、イエス・キリストの十字架による神様の救いは創世記のときから計画され、約束されていたが、どんな形でどんな風にかはハッキリわからなかった。初めてはぼんやりしていたことが少しずつ、少しずつ具体的に示されていった。

イエス様が十字架にかかられているところに立ち合った弟子たちにもわからなかった。

が、今その2000年前の出来事が私の救いと関係していることを、信仰の中で、聖書を通して、神様の霊によって、私たちは知ることが出来る。

きっと、私の中でも漸進的にキリストの救いが示された…というか理解できていったのだと思う。同じように、自分に計画されてることや、自分に与えられているものも、漸進的に明らかにされていく。

20年前、私は伝道したいと思い、神様は祝福すると約束してくれた。がどこで、どんな形でかわからなかった。

ここ1年ぐらいで、急激に様々なグループの人たちとの関わりが広がり、そこで自分がする役割が漠然と見えてきた。

歴史の中でダイナミックに働く神様は、私たち一人一人の計画にも目を止め、細やかに働いてくださる。

私たちの心の中に、私たちの思いも及ばない神様の知恵を与えてくださるその啓示の表れが豊かになされますように。

『ああ、神の知恵とその知識との富は、何と底知れず深いことでしょう。そのさばきは、何と知り尽くしがたく、その道は、何と測り知りがたいことでしょう。…すべてのことが、神から発し、神によって成り、神に至るからです。どうか、この神に、栄光がとこしえにありますように。アーメン。』ローマ11:33~36

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2009年1月15日 (木)

奪われない喜び

どんな状況でも喜びに満たされることは可能でしょうか。

『いつも主(神)にあって、喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。』新約聖書 ピリピ人への手紙4:4

聖書では、誰にも奪われることのない喜びについて書いている。

パウロはピリピ人の教会のクリスチャンに手紙を書いた。テーマは「主にあって喜びなさい。」ということだった。

驚くことに、パウロはこの時、獄中の中にいた。キリストを信じ、宣教しようとする故に、殺されるかもしれない状況の中にいた。

が、それにも関わらず、パウロは喜びに満たされていた。

『たとい私が、あなたがたの信仰の供え物と礼拝とともに、注ぎの供え物となっても(殉教しても)、私は喜びます。…

私はどんな境遇にあっても満ち足りることを学びました。…私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。』ピリピ4:11~13

何故、パウロはそんな状況の中で喜べたのか?それはパウロが環境には頼っていなかったからである。

『しかし、私(パウロ)にとって得であったこのようなもの(パウロの血統と経歴)をみな、私はキリストのゆえに、損と思うようになりました。

それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。』ピリピ3:7.8

パウロの告白である。神様に対する熱心で、クリスチャンを迫害したパウロはダマスコでイエスと衝撃な出会いをし、以来、自分の道からイエス・キリストの道に180度方向転換し、キリストとともに歩んだ。命を捧げても惜しくないほど、キリストの素晴らしさに生かされ、喜んでいる。

地位も名誉も富も、クソ食らえ!と言わんばかりに、ただキリストに生きている。

環境に頼ると、環境が崩れたときに自分も倒れる。自分に頼ると自分が不調なときに落ちていく。

昨日も今日も明日も、変わることのないキリストの素晴らしさに喜んで生きていくとき、環境や自分を越えた変わらない喜びに満たされる。

私たちが、この素晴らしいキリストの喜びに満たされるために、この世の大事にしているしがらみを一つずつ、手放していきたいものである。

神様、私にも、パウロのような変わらないキリストの喜びに満たしてください。そのことを邪魔しているものがあったならば、教えてくださり、手放せるように祈らせてください。聖書が約束しているキリストの喜びが一人一人の上にありますよう祈ります。

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2009年1月 9日 (金)

廃墟から宮殿に…

神様がすべての人の心を廃墟から宮殿にしたいと切に願っているのを思います。

『あなたのうちのある者は、昔の廃墟を建て直し、あなたは古代の礎(いしずえ)を築き直し、「破(やぶ)れを繕(つくろ)う者、市街を住めるように回復する者。」と呼ばれよう。』旧約聖書 イザヤ書58:12

今日、寝ているとき夢を見た。

そこには20年前に天に召された母、そして姉と私がいた。大きな賃貸の家に引っ越しをしてくる。「良かったね。」と喜ぶのもつかの間、雨が降り、あちこちから雨漏りがする。母が急いで大家に言いに行くが、相手にしてもらえない。私がその横で、「小さい部屋でいいから、引っ越ししようよ。」と話しをしている。

目が覚めて、雨は降っていたが、雨漏りしない家にいることに安心した。

かつては私の心の城壁もあちこち崩れ、サタンは同じところから攻めて来て、かき乱された。私の心はまさに廃墟だった。

そんなとき、神様はこのイザヤ58章の約束のことばをくれた。初めは意味がわからなかったが、私が心癒され、癒す手伝いをするものになる意味とわかってきた。

「悪習慣を断ち切る法」(いのちのことば社、アーウィン・ラッツァー著)という本がある。その中の一部の内容を簡単に紹介する。

「なぜ人は誘惑されるのか。執ような誘惑を避けたことがなければ、神を愛しているとは言えない。神の前に何を選ぶか忠実さが試されている。誘惑や困難は私たちが、この世よりも神を選ぶ機会なのである。

また、ゲーテのことばに、「才能は孤独の中に形作られるが、人格は人生の嵐の中で形成される」というのがある。神は単に誘惑や罪からの勝利よりも、はるかにすばらしいことをしようとしている。罪を除いた後に、肯定的な資質という実り多い人生を与える。

誘惑は神の拡大鏡である。誘惑は不純なものを表面に浮かび上がらせる。そこで初めて神が不純物を吸い上げて取り去る働きを開始なさる。

神は根底にある動機を突いてこられる。心を建て直し、新しい価値観を与えてくださる。私たちの最も重要な部分は、神を除いては誰にも見えない部分である。神はそこから御業を始めようと望まれる。」

私たちはたくさんの弱さを持ち、たくさんの誘惑を受け、たくさんの罪を犯す。しかし、神様は私たちが失望せずに神様の約束の聖書のことばを適応し、本気になってそれらからの脱出を願うものに、それを成してくださる。それだけでなく、私たちを廃墟から神様の霊が住む宮殿にしてくださる。まさに神業である。

『あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まわれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではない…自分のからだをもって、神の栄光を現しなさい。」第1コリント6:19.20

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親密な関係

神様と親しくなりたいのになりきれない私の葛藤がありました。

『しかし、人が主(神)に向くなら、そのおおいは取り除かれるのです。…
私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊(みたま)なる主の働きです。』新約聖書 第2コリント人への手紙3:16.18

人が心底、相手の人と心を通じ合わせたいと思ったら、どうするだろうか?

たくさんの時間が必要かもしれないし、わずかな時間でわかり合えることもあるかもしれない。

多くのことばが必要かもしれないし、ことばが少なく理解し合えるかもしれない。

そこにはまる裸で、相手に対して正直で、誠実であることが必要だ。

ある日、私は神様と格闘していた。私の心の中は、神様の思いのすべてで埋め尽くしたかった。それなのに、人間的な楽しみや捕らわれが心に流れると、とたんに神様と親しく祈るのが難しくなる。

何がなんでも、私は心の要塞の崩れから漏れて流れてくる人間的なものを追い払う必要があった。

傷や罪を告白したり、聖書の約束のことばで祈ったり、いろいろ試した。

「神様、私はただあなたとだけ祈って語り合いたいのです。」

神様は聖書を通して言われた。『あなたは他のものに支配されてはならない。私はねたむ神である。』出エジプト34:14

「神様、あなたは私の気持ちが100%あなたにあることを願っているのですね。僅かな神様と違うものを持つ私の罪を赦してください。」

長年葛藤してきた傷は癒された。私の弱さ、足りなさが神様の前に、とてつもなく悲しませるものであることに気が付いた時に、本当の悔い改めに導かれた。

私のおおいは神様によってとられた。そして、おおいのために僅かしか見えなかった神様の光が大きく私を照らし、神様との親しい交流が始まった。

神様と親しくなる方法、神様はご人格をもって、私たちと交流してくださるのだから、それは人と親しくなる方法と何ら変わらない。

違うことは、そちらは私のすべてをご存じであるということ。

誰にも知らなれていないということでも、すべての弱さをとことん神様には告白して、赦してもらい、癒してもらい、きよめてもらうこと…神様ととにかくさらに深く親しくなるためには、私はしておきたいことだった。

神様、あなたの深さ、広さ、高さは私の思いをはるかに越えて、知ることは出来ません。それでも、主に向くならおおいを取り除き、私たちを主の光で照らし、神様と親睦を更に深めさせてくださる約束を感謝します。お一人お一人が神様と親しい関係にありますように。

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2009年1月 7日 (水)

エデンの園に戻る

拘束と自由、聖書ではそのことについて詳しく書かれています。

『神である主は、東の方エデンに園を設け、そこに主の形造った人(アダム、エバ)を置かれた。…園の中央には、いのちの木、それから善悪の知識の木とを生えさせた。』旧約聖書 創世記2:8.9

かつての私は、自分のしたことが良かったかどうか、うまくいったかどうか、人にどう思われたかなど、たくさんのことに縛られていた。最近は、明らかに面前で失敗しても恥ずかしくなくなった。まわりがどう思うかは気にならなくなった。

スティーブ・マクベイ師は「恵みの歩み」の本で次のように言う。

「神は多くの木を園に置かれた。アダムとエバが食べてはならない木は一つだけだった。それが善悪の知識の木だった。…アダムとエバはサタンに誘惑され、その木の実を食べてしまった。すると突然彼らの目が開かれた。初めて善と悪を意識した。その日以来ずっと彼らの人生は、善悪の価値基準によって裁かれる人生となった。」

私たちが、善悪に縛られているのは、アダムとエバのせい…とも言えるかもしれないが、大切なのは、私たち生まれながらに皆持っている性質だということ。

エデンの園では、裸であったにもかかわらず、神様を見て喜んでいたので、恥ずかしくなかった。

が、自分に基準がむけられたとたんに、自分の弱さ、足りなさ、惨めさ、苦々(にがにが)しさ、失敗などに縛られ、失望するようになった。

そして、木の葉で隠すごとく、つくろうことに労力を費やす。

自分を守るためにアダムのように「この女が食べさせた。」と人のせいにする。

出産と労働が呪いとなり、死がもたらされた。

私たちは、善悪の知識の実を食べ続けて縛られている。

ローマ人の手紙5章では、「アダムの違反によって、私たちは様々なものに縛られたが、キリストの恵みによって、神様とつながり―エデンの園に戻り―すべてのものから解放される」という内容がある。

私たちはいつまでも変わらず、弱く、足りなく、失敗しやすいものであるが、いつも、キリストの十字架で赦され、「大丈夫。そのまんまでいいんだよ」と受け入れられている。

神様、私たちは神様の前に裸で出たら、恥ずかしい位、弱さを持った者ですが、赦されて、受け入れられていることを感謝します。自分に縛られず、神様のいのちに生かされる…それは間違いを認め謝ること、そこからのみ赦しを受け取れることを感謝します。自由を与えにきたイエス様、あなたによって赦され、自分中心から神様中心の私たちになれますように。

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2009年1月 6日 (火)

心のゴミがなくなる

『もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。』新約聖書 第1ヨハネの手紙1:9

今日は燃えるゴミを出す日。年末年始で、ゴミもたまっていたので、出すことができ、すっきりした。

ゴミ…で思い出したが、2年前、「恵みの歩み」の本の著者スティーブ・マクベイ師のセミナーを受けた。そのときの彼のメッセージが思いだされた。

「皆さんは家の中にゴミがあったら、どうしますか?家が散らかってるので、家には入らないでくださいと言うでしょう。イエス様は『大丈夫ですよ。わたしがそのゴミを全部もって行ってあげますよ。』と言います。そして、その通りに持ち去って、家をきれいにしてくれるのです。」

ここでいうゴミと言うのは、私たちの中にある神様には喜ばれない悪い心、思い、考え、行いである。聖書ではそれを罪と言う。

イエス・キリストが喜ばれないゴミ(罪)を持ち去り、心をきれいにしてくれるという話しだった。

人は自分に心にある汚ないもの、みじめなものを見たくないかもしれない。なるべく見ないふりをするかもしれない。

が、私は聖書に書いてあるとおり、自分の汚ないもの、汚れた心、自分中心の動機、弱く愚かなところ、それらに気がついたら、「神様ごめんなさい。赦し、きよめ、癒してください。」と祈ると、癒されきよめられる体験をしてきた。だから、自分の中にゴミを見つけ、認めることは、失望することではなく、希望につながることを体験してきた。

なぜなら、イエス・キリストは私のそれらの弱さのため、十字架にかかり、私のその罪を処理してくれたのだから。

自分の弱さ、足りなさを認め、そこに赦しを受けとる…これが私にとっては心の癒しと平安に繋がっている。

神様は今日も、イエス様の十字架による癒しと平安を与えたいと願っている。

『しかし、彼(イエス)は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎(とが)のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。』イザヤ書53:5

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2009年1月 4日 (日)

特別な身分

『しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣(の)べ伝えるためなのです。』新約聖書 第1ペテロ人への手紙2:9

昨日、一人暮らしする姉と電話で話しをした。「教会には4年位通っていたけど、あのときまでは、神様から語られることはなかった。田舎に帰り、結婚はどうなのか祈っていたとき、『わたし(神様)があなたの夫になる(イザヤ54:5)』とはっきり言われ、嬉しかった。」と話しをしていた。そして、その約束どおり、神様が生活のあらゆる面の相談相手であり、助け主であり、姉が仕えるご主人となっている。

ハ・ヨンジョ師の「幸せな朝」の本に次のようなたとえが書いてある。

「20万円の月給をもらっている会社員が、銀行で残高を照会をした。驚いたことに、通帳に10億円も入っていた。…到底信じられなかったが、時間がたつにつれ、笑いをこらえられないくらい嬉しかった。イエス・キリストを信じ、救われた喜びはこのようです。神様の子どもとなり、天国(神様が持っているもの)を所有することになったのですから。」

私たちは選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民である。

ナルニア国物語に、貧しい子どもが、実は王子だったというような話しがあったが、私たちは神の国の財産を相続している神の子どもである。たくさんの財産、知恵、望み、力を与えられている。(エペソ1:17~19)

神様を与えられ、キリストの愛を与えられただけで素晴らしいが、たくさんのものを与えられているのだから、なおありがたい。

姉は「信仰の友をくださいと祈ったときは『わたし(神様)があなたの友だ。』と言われた。最近『もうあなたをしもべと呼ばない。しもべは主人のすることを知らないから。父(神様)から聞いたことをみな、あなたがたに知らせたからあなたがたは、わたし(イエス)の友です。』(ヨハネ15:15)とまた教えられた。」と喜んでいた。

神様、あなたが与えてくださってるものの大きさ、多さを感謝します。私たちが、神の国のものを相続し、いつも神様とつながっていること、関われていることを感謝します。あなたを信頼し、あなたが与えてくださっているものに目をとめていけますように。そして、私たちを通して、神様が素晴らしい方であることが表されますように。

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2009年1月 2日 (金)

生きていく上で不可欠なもの・2

聖書のテーマは“救い”ですが、それは“赦し”ということとつながっているのだと思います。

『ひとりのみどりご(イエス・キリスト)が、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。』旧約聖書 イザヤ書9:6

聖書は長い年月をかけて、何人もの手によって書かれている。にもかかわらず、そのテーマは一貫している。

一言でいえば“救い”である。何からの救いか?

いろいろな言い方があると思うが、“出エジプト”を思い出してもらうとわかりやすい。奴隷からの救い、異国からの救い、縛りからの救い…。聖書では、『あなたがたはかつては罪の奴隷だった』(ローマ6:17)と言っている。

神様は私たちを神様と交流し、喜ぶ存在としてお造りになった。が、そこからはずれた私たちは、迷い、本来の自分を見失った。(神様の側からいうと、怒りをかい、罰せられる存在)

本来ある神様の領域に戻し、そこに憩わせることが神様の計画だった。

このテーマとなっている“救い”を別の言い方に変えると、関係の回復…神様と私の関係回復…と言えると思う。

人は関係の中で生きている。家族関係が痛むとダメージを受ける。学校での友人関係、会社での人間関係がきついと楽しくない。

本来造られた目的である(存在理由)神様と交流を回復することなしに、私たちは本来の自分をとり戻せない。

イエス・キリストの十字架による赦しなしに、私たちは神様と交流することができない。

私たちがアメーバから偶然進化したのなら、私たちの生き方のすべては偶然の意味のない重なりでしかない。

自分の出生を探り、生育を考えるように、その出発が、神様が私に計画をもって私を誕生させた…そこから始まるなら、私は意味ある存在、計画された存在、特別な価値ある存在なのだ。

“救い”を別の面から見ていうと“赦し”である。キリストによって、赦され、救われた。

言いたかったことは、キリストの十字架…これにまさる奇跡はなく、それだけが素晴らしいということ。何故なら、赦しなくして、私を造られた神様にお会いし、親しく交流することはなかったのだから。

神様、ある方が「私たちは罪が赦された。天国いける。こんな素晴らしいことはない。」と話しをされてるのを聞いて、私は疑問に思いました。皆、そんなに泣いて喜ぶほど、罪赦されたいかと…。でも、今、罪赦されたということは、造ってくださった神様と関係回復をすることであり、本来の自分を見い出すこととわかりました。赦され、神様を近くに親しく慕い、語らい、交流できる幸いを何より感謝します。それゆえに、その橋渡しをしてくれたイエス様を感謝します。

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2008年12月28日 (日)

真実のために闘った マルチィン・ルター

宗教改革者マルチィン・ルターについて思い巡らしました。

『あなたがたも生ける石として、霊の家に築き上げられなさい。そして、聖なる祭司として、イエス・キリストを通して、神に喜ばれる霊のいけにえをささげなさい。…あなたがたは…王である祭司…です。』新約聖書 第1ペテロの手紙2:5.9

今日、“万人祭司”(特別な人ではなく、誰でも神様と交流できる)と言った宗教改革者マルチィン・ルターのことを思った。

16世紀、カトリック教会の免罪符(お金で罪の赦しを買わせる)に対して批判し、対抗したルター。当時はラテン語でミサが行われており、一般大衆は司祭からありがたく、聖書のお話しを聞いていた。ルターは、自国語(ドイツ語)で聖書を訳し、聖書を特別階級の者だけでなく、誰でも読めるようにしてくれた。

ルターがいなかったら、私たちは今のように自由に聖書を読み、自由に祈ることは出来なかった。ルターさん、ありがとう!

また、彼は、「ローマ人の手紙」から「善行によらず、信仰によってのみ神様から義とされる」という聖書の福音の本質を説いた。

しかし、彼は当時はカトリックから断絶され、異端者とされた。ルターは「聖書のみが唯一の権威」であることを、社会的迫害の中、変えることがなかった。

なんでも、新しい道を切り開くときは風あたりが強い。

野茂選手がメジャーに行くときは、野球界からも、マスコミからもこれでもかと叩かれた。が、彼の作った道筋のおかげで、今や活躍する人はメジャーに行くのが普通になった。あのとき、野茂選手に悪態をついた人は、きっとそのことを忘れているだろう。

真実なこと、良いことが時代の中で受け入れられないことがある。その道筋を作ってもらったおかげで今の私たちがいることを思うと、改めて、ルターの真実のための戦いに感謝する。

神様、今私たちは“万人祭司”とされ、聖霊によって、直接神様から聖書について教えてもらえることをありがとうございます。

また、「信じることによって神様から義とされる」というのは、いつの時代にもぶれやすいのだと思います。人は信じるより、何かをすることによって赦されることがわかりやすく、簡単だからです。

神様、私たちも真実のための戦い(聖書にあることを守る)のために勇気を与えてください。

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2008年12月26日 (金)

戦国時代を信仰で生き抜いた大友宗麟

日本史には限りなく疎(うと)い私ですが、NHKの「その時歴史は動いた」で素晴らしい信仰の人の話しを聞き、感動したので、書くことにしました。

『信仰の試練は、火を通して精練されてもなお朽ちて行く金よりも尊いのであって、イエス・キリストの現れのときに称賛と光栄と栄誉に至るものであることがわかります。』新約聖書 第1ペテロ1:7

戦国時代の大名、大友宗麟(おおともそうりん)は、一般的に、キリスト教を利用して、自分の国を豊かにしようとした人として伝えられる。

しかし、彼は戦国時代の大名として、信仰と戦いという矛盾の中で、信仰を貫いた人だった。

彼はキリシタンの理想国家を作ろうとするが、そのための戦い(耳川の戦い―1578年)で2万人の兵士を戦死させてしまう。

「皆愛し合う理想郷を作るため、もっとも大切な部下を死なせてしまった。」と自分の罪の深さを思い、退却する。

1586年(天正14年)12月、日向(ひゅうが)の臼杵(うすき)城に立てこもる。そして2000人の島津軍に囲まれる。その前に、宗麟は領民が捕まり殺されたり、奴隷にならないよう、皆を集めさせて、城にかくまう。

宗麟は自ら領民のために自分の食料、衣服を与え、ひたすら尽くす境地となった。

ろう城3日目、策は尽き果て、あとは祈ることしか出来なかった。信じる神に祈り続けた。奇跡は起きた。島津軍が城から離れていった。

一度は逃げた宗麟の息子が城に向かって助けにきたので、島津軍はそこを離れて、迎え打たなくてはならなくなったのだ。

1587年その時歴史は動いた。一年前に、宗麟自ら、豊臣秀吉に助けを願った。が「四国平定の後に助けに行くので、一年こらえてくれ。」と言われ、その約束のときとなり、秀吉の兵が宗麟の援軍として九州平定に来たのだった。

秀吉が日向を与えると言うのを宗麟は断った。その記録が宣教師によって書かれており、次のようにあった。

「王(宗麟)は新たな国を治めることを望まず、魂が救われることを望み、それを願った。」

ヨーロッパでは“日本の最も叡知聡明な王”とされ、小田信長より高く評価されていた。

晩年、戦国大名でありながら、信仰に生き抜いた宗麟の言葉がとても重みをもって、私の心に突き刺さった。

「人生における敗北、苦しみは試練であり、不幸ではない。

灼熱(しゃくねつ)の炎に磨かれる黄金のように、試練によってこそ人は高められる。」

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2008年12月24日 (水)

失望からの脱出

共に心を合わせて、他の人のために祈る…それは神様のなせる業と感謝します。

『何でもあなたがたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたがたが地上で解くなら、それは天においても解かれているのです。…もし、あなたがたのうちふたりが、どんな事でも、地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父は、それをかなえてくださいます。』新約聖書 マタイの福音書18:18.19

昨日は私たちの教会のクリスマス会をした。我が教会は大人は牧師夫妻と私たち夫婦の4人という、非常に少ない人数で礼拝をしている。牧師は他でも教会をやっていて、忙しいのだが、私たち4人という状態が長く続き、私は辛かった。

様々な4人の事情が重なって最近は、この4人の礼拝もままならなくなった。ずっと私は「神様、いつまで4人なんですか?」とうめいていたが、4人がバラバラになってみて、初めて4人であったことの貴重さを思った。

牧師の奥さんは中国の方だが、素朴で純粋な信仰をもっている。彼女と4か月位会っておらず、会って祈りたいと思った。連絡すると彼女もそう思ってたらしい。

2人で祈り、急きょ、彼女の保育園友達のママさんたちを呼んでクリスマス会をすることとなった。5日後の昨日、実現した。

彼女は「一緒に祈らなかったら、この会は出来なかったよ。」と言った。私もそう思った。

教会4人ですら一致することが難しい。が、まず、私たち女性陣が一致して祈ろうとなった。

彼女も私も一番の願いは、まわりの人の救いである。なんとなく4人で集っていたときには、思わなかったことを教えられてる。

これが少し多い人数となると、全員の一致というより牧師に従うとなるのだろう。

人数が多いか少ないかでなく、今私たちに大事なものが与えられていることを教えられている。

彼女と人の救いのために祈れる…そこには100%の一致がある。

今まで見えなかった中に与えられているものの素晴らしさが見えてきた。

神様、この4人での礼拝が始まって2年半立ちます。何度もいやになりました。が、今、心を合わせて祈れる姉妹が与えられていることを感謝します。私が真剣に祈らなかったことを悔い改めます。人数が少なくとも、神様に従う私たちとして整え、祝福してください。

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2008年12月22日 (月)

我が子が殺される苦悩

イエス様の地上での母マリアの苦悩を思いました。

『マリヤは言った。「ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように。」こうして御使いは彼女から去って行った。』新約聖書 ルカの福音書1:38

今日、クリスマスコンサートに友人たちと出かけた。秋津福音教会主催で小坂忠さん、久米小百合さん、小坂忠さんの娘のAsiahさんの美しい歌声が聞けた。

AsiahさんのHis Handsという歌の前触れの話しが印象に残った。

「私も2人の子どもの母ですが、イエス様を生んだマリアは…御使いに十字架で死ぬことを話されたかはどうかはわからないですが…今この一時、我が腕に抱かれて安らいでおくれと思ったのだと思います。」と話していた。

本当に我が子の幸せを願わない親はおらず、その赤ちゃんの将来の計画(運命)が人々のための十字架刑という死刑だなんて知ったら、胸が張り裂けそうだ。

私の息子が、誰かの罰を代わって「自分は死ぬよ。」と言ったら、「やめなさい!なんで、あんなが責任とらなきゃいけないの!バカなことはやめなさい。」と私は気が狂わんばかりに叫んで止めるだろう。

そんなバカなことをイエス様はされ、私の代わりに私の罰を負って十字架で死んでくれた。

マリアは「バカなことしないで!」と取り乱さなかった。

聖霊によってイエス赤ちゃんを身ごもったときから、33年間、きっとすべてが彼女の理解を越えていた。

十字架にかけられたイエス様を見て、「人々を救うために来たはずなのに、殺されるとは…。」と悲しみの中、思ったかもしれない。

けれども「神様のお考え、計画のとおりを受け入れます。」とあの受胎告知からずっと、神様の計画(運命)を理解できずとも受け止め続けた。

今、私にある苦しみは何故なのだろう…世界の人の罪を背負われたイエス様を神様にお任せしたマリアの苦悩と祝福を思い、慰められたい。

マリアの賛歌
『わがたましいは主をあがめ、わが霊は、わが救い主なる神を喜びたたえます。主はこの卑しいはしために目を留めてくださったからです。ほんとうに、これから後、どの時代の人々も、私をしあわせ者と思うでしょう。』ルカ1:46.48

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2008年12月21日 (日)

傷ついた癒し主

多くの辛い体験は良いものを生み出す話しです。

『私たちの大祭司(イエス・キリスト)は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。』新約聖書 ヘブル人への手紙4:15

昨日のハーベストタイム(キリスト教テレビ番組)で見た話し。

一人の女性の宣教師の人は、今、“祈りのハープ”を通して、神様へ導く働きをしている。

彼女は、自分のお子さんが7才のとき重い病気になった。その時、たくさんの方たちに祈られ支えられた経験をした。そして、人のために祈る大切さを知り、今ハープ演奏を通して祈る活動をしている。

あるとき、山谷にあるホスピスハウス、「きぼうのいえ」に祈りのハープを演奏しにいった。一人の人のために、その人に合わせて演奏する。一人の山谷でのホームレス暮らしが長かった男性がいた。彼は演奏を良く聞いていた。そして、彼は心が変えられ、周りの小さなことに感謝するようになった。その2週間後、天に召された。

もし、祈りのハープを奏でる彼女は、苦しいとき、たくさんの人に祈ってもらう経験がなかったら、“祈りの奏者”としての活動はなかった。

イエス様は私たちのすべての苦しみを知っている。罪は犯されなかったが、私たちが経験するすべての試みを経験され、同情してくださる。イエス様こそが、“傷ついた癒し主”である。

私は若いときは、壁にぶつかってばかりでよく傷んでいた。賢く悟り、上品に歩く人を見て、どうして自分は失敗ばかり繰り返さなくてはならないのだろう。失敗を体験しないと悟れないなんて情けないなぁと思った。

しかし、今、私がたくさんの辛い経験が誰かの理解や慰めになっていることを痛感する。

人は、やっぱり経験しないとわからないことが多い。

今、痛みの中にある人はみんな“傷ついた癒し主”になれる人たちである。

真珠は分泌物を出してあの綺麗な真珠を生み出すと聞いたことがある。

苦しみと悲しみのたくさんの涙から生み出されたその人だけの慰めという真珠が輝きますように。

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2008年12月20日 (土)

阻止される恵み

バラムはロバが話しをしたことを通して、自分が神様と反対の道を歩いていたことに気がつきました。

『ロバは主(神)の使いが抜き身の剣を手に持って道に立ちふさがっているのを見たので、ロバは道からそれて畑の中に行った。そこでバラムはロバを打って道に戻そうとした。…

ロバは、主の使いを見て、バラムを背にしたまま、うずくまってしまった。そこでバラムは怒りを燃やして、杖でロバを打った。

すると、主はロバの口を開かれたので、ロバがバラムに言った。「私があなたに何をしたというのですか。私を3度も打つとは。」…

そのとき、主がバラムの目のおおいを除かれたので、彼は主の使いが抜き身の剣を手に持って道に立ちふさがっているのを見た。彼はひざまずき、伏し拝んだ。

主の使いは彼に言った。「なぜ、あなたは、あなたのロバを3度も打ったのか。敵対して出て来たのはわたしだったのだ。あなたの道がわたしとは反対に向いていたからだ。」』旧約聖書 民数記22:23~32

旧約聖書にはイスラエルの歴史の記事が満載である。すべて、実際あったことで、変わらない神様への関係の教訓に満ちている。私の小さな体験より、何倍も面白く、興味深い。

前回ブログで姉がロバがしゃべった記事からカルト化の教会を出たことを書いた。

バラムは何をしようとしたのか?モアブ王バラクはイスラエルの民の強さを恐れた。そこで有名な占い師バラムを雇い、イスラエルを呪わせようとした。バラムは神様にそのことを話し、「呪ってはならない」と言われたにも関わらず、結局、バラク王と出かけた。バラムの物欲がキッパリ断れない原因だったのか。

「神の怒りが何故燃えたか…神にうかがいを立て、神の思いを知りながら、自分の栄誉と富を求めて行動する、その心情に神は怒った。バラムは神にいつも確かめているようでいながら、実は彼が動機が不純だったことに神は怒られた。」と解説にある。

バラムはロバが口をきいて話しをする…という驚くべき出来事を通し、神様の思いを知り、また、自分の不純な動機に気がつかされる。

私たちも「神様に祈って従います」と言いつつ、自分のしたいことをしてしまう弱い人間である。バラムと同じである。

ペットの犬や猫が口を利かずとも、何かを通して神様と反対の道をいこうとしていたのを教えられたら、幸いである。

神様、私たちは弱く、いつも不純な動機で神様の反対の道を行きやすいものです。キリストの十字架で赦し、正しい道、安心な喜びの道に戻してくださることを感謝します。

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