“枠にはまらず、自分を見い出す”
イエス様につながり、何をしたいか…それがその人に与えられているものだと思います。
『しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。マリヤはその良いほうを選んだのです。彼女からそれを取り上げてはいけません。』新約聖書 ルカによる福音書10:42
何年か前、ある聖会で、「日本の教会は宗教の霊に縛られている。」とメッセンジャーが言ったらしい。
私は、聖会に行った人から聞いたのだが、「宗教の霊」と言われただけで、何を意味するか、すぐにわかった。
それは、“何かをする”ことに捕らわれているということだと思う。
日本人は真面目で、勤勉だ。神様のために…と言って何かを懸命にするのはわかりやすい。
私もクリスチャンになったばかりのときは、教会の奉仕が“いのち”のように楽しかった。
そして、教会奉仕の中で、育ててもらったところもあるかもしれない。
教会の奉仕が悪い訳ではない。けれども、それは一番に大事なものではないと、マルタとマリヤの話しで思う。
ある時、ヨハネの福音書のこの箇所から教えられたことがある。
『あなたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。
あなたがたが多くの実を結び、わたしの弟子となることによって、わたしの父はは栄光をお受けになるのです。』ヨハネの福音書15:7.8
イエス様との関係の中で、湧いてくる願いは皆違い、そのことを求めることによって、多くの実を結ぶようになるとある。
すべての人が、神様から働きと能力を与えられているが、皆違っている。
それを画一化した奉仕に当てはめてしまうと、どこかに苦痛が出てくる。
例えば、クリスチャンは「皆、伝道するべきだ。」と言われても、そのことが得意な人も、楽しい人もいるかもしれないし、そうでない人もいる。
神様は、キリストのからだにバラエティーに個性を与え、働きや能力を与えておられる。
イエス様にあっては、その与えられたところにあって、限りなく拡がっていくのだと思う。
はまらない枠にはめられて、自分にないものを見て、自信をなくすことをイエス様は望まれていない。
自分だけに与えられたものを見い出し、それをもって主に仕えるとき、それはその人の神様にある生き甲斐となり、神様と働きをともに喜べるものとなる。
イエス様につながって、何を求めているか、自分を見つめてみることも大切と思う。
イエス様につながって、今、私は何を願い求めているだろうか…。
イエス様につながって、イエス様の愛を知るものとなり、イエス様の愛を伝えるものとなりたい…が、今私が願い求めていることである。
###
天のお父さん、あなたが一人一人に宝のような働きと能力を与えられていることをありがとうございます。
どうそ、一人一人がそれを自分の中に見い出し、仕えていく喜びの中にいれてください。
| 固定リンク | コメント (6) | トラックバック (0)


































































































































































最近のコメント