クリスチャン

2009年7月26日 (日)

“枠にはまらず、自分を見い出す”

イエス様につながり、何をしたいか…それがその人に与えられているものだと思います。

『しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。マリヤはその良いほうを選んだのです。彼女からそれを取り上げてはいけません。』新約聖書 ルカによる福音書10:42

何年か前、ある聖会で、「日本の教会は宗教の霊に縛られている。」とメッセンジャーが言ったらしい。

私は、聖会に行った人から聞いたのだが、「宗教の霊」と言われただけで、何を意味するか、すぐにわかった。

それは、“何かをする”ことに捕らわれているということだと思う。

日本人は真面目で、勤勉だ。神様のために…と言って何かを懸命にするのはわかりやすい。

私もクリスチャンになったばかりのときは、教会の奉仕が“いのち”のように楽しかった。

そして、教会奉仕の中で、育ててもらったところもあるかもしれない。

教会の奉仕が悪い訳ではない。けれども、それは一番に大事なものではないと、マルタとマリヤの話しで思う。

ある時、ヨハネの福音書のこの箇所から教えられたことがある。

『あなたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。

あなたがたが多くの実を結び、わたしの弟子となることによって、わたしの父はは栄光をお受けになるのです。』ヨハネの福音書15:7.8

イエス様との関係の中で、湧いてくる願いは皆違い、そのことを求めることによって、多くの実を結ぶようになるとある。

すべての人が、神様から働きと能力を与えられているが、皆違っている。

それを画一化した奉仕に当てはめてしまうと、どこかに苦痛が出てくる。

例えば、クリスチャンは「皆、伝道するべきだ。」と言われても、そのことが得意な人も、楽しい人もいるかもしれないし、そうでない人もいる。

神様は、キリストのからだにバラエティーに個性を与え、働きや能力を与えておられる。

イエス様にあっては、その与えられたところにあって、限りなく拡がっていくのだと思う。

はまらない枠にはめられて、自分にないものを見て、自信をなくすことをイエス様は望まれていない。

自分だけに与えられたものを見い出し、それをもって主に仕えるとき、それはその人の神様にある生き甲斐となり、神様と働きをともに喜べるものとなる。

イエス様につながって、何を求めているか、自分を見つめてみることも大切と思う。

イエス様につながって、今、私は何を願い求めているだろうか…。

イエス様につながって、イエス様の愛を知るものとなり、イエス様の愛を伝えるものとなりたい…が、今私が願い求めていることである。

###

天のお父さん、あなたが一人一人に宝のような働きと能力を与えられていることをありがとうございます。

どうそ、一人一人がそれを自分の中に見い出し、仕えていく喜びの中にいれてください。

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2009年6月23日 (火)

“私の歩んだ教会たち”4・1珍事

会堂から教会が去り、残ったメンバーと新しい牧師で、スタートした話しです。

『ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全なおとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです。

それは、私たちがもはや、子どもではなくて、人の悪巧(わるだく)みや、人を欺(あざむ)く悪賢い策略により、教えの風に吹き回されたり、波にもてあそばれたりすることがなく、むしろ、愛をもって真理を語り、あらゆる点において成長し、かしらなるキリストに達することができるためなのです。』新約聖書 エペソ人の手紙4:13~15

会堂から教会がいなくなり、私たちはその会堂に残った。

何人か残った人や、いなくなったのを聞きつけて来た人たち10人ちょっとで、教会がスタートした。

やがて、外国の方が牧師として来てくれた。

が、残った人の中には、ひたすら自己顕示欲が強い方もいらして、昼ごはん作りが強制的に当番で回ってきたり、礼拝の中で、突然異言で祈り、牧師の霊的リードをかき乱したり、取っ組み合いのような女性同士の喧嘩があったり、珍事が続いた。

私は、赤ちゃんが与えられ、教会の珍事には殆んど関わることなく、子育てに守られていた気がする。

次々に教会から人々は悶着を起こしながら、出ていった。いまこそと思いつつ、自己実現が果たせず、牧師に怒りながら出ていった。

私たち夫婦は、初めの残り組の最後のメンバーになった。

が、私もまた、牧師の考えには苦痛を感じていた。

6年過ぎて、私たちもその教会を去ることになった。

牧師の最後のことばは、「この教会の牧師は私ですね。合わなかったら、どうぞ、合う教会に行ってください。」というはなむけのことばをいただいて。

その教会で良いこともあったと思う。宣教師の方と、地域の子どもたちを集めて、英語教室が始まったり、主人が賛美リードしたり。

けれど、私の中で、息子と過ごす毎日は幸せだったが、聖書も開かず、祈ることもしなくなっていた日々だったように思う。

♯♯♯

神様、いろんな人たちがいることを見せられた教会生活でした。

私にとっては、神様との関係も遠くなっていたように思います。

そんな中でも、英語教室を手伝えたり、あの場所で出会った一人の友人とは、今でも、大切な関係を保てていますから、ありがとうございます。

あの頃、私の慰めは、可愛い子どもでした。私の何が良かったか、悪かったかは良くわかりませんが、慰めを与えられていたことを感謝します。

その教会もやがて、たくさんの人が集い活気に溢れている話しを聞きましたから、ありがとうございます。

私にとっては、苦痛でしかない教会でも、誰かにとっては、素晴らしい教会になる…神様のバラエティーさをありがとうございます。

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2009年6月22日 (月)

“握っている手を開けますように”(語りかけ)

握っているものを手放させられた私の証と、Setsuさんの神様からの語りかけです。

『私たちが滅びうせなかったのは、主の恵みによる。

主のあわれみは尽きないからだ。

それは朝ごとに新しい。

「あなたの真実は力強い。主こそ、私の受ける分です。」と私のたましいは言う。

それゆえ、私は主を待ち望む。』旧約聖書 哀歌3:22.23.24

立派な会堂から教会がなくなり、私は途方にくれました。

ある教会の賛美礼拝に行き、そこで神様に話かけました。

「神様、私は教会奉仕が大好きでしたが、奉仕どころか、教会まで無くなってしまいました。」

すると、神様は言われました。

「これまでの数々の苦しみは、あなたが握っているものを手放すためだよ。」と。

私は何かを握ってました。それを払われたのです。手を開いてみると、何もないのではありませんでした。

その日から、私は「主こそ、私の受ける分です。」と神様を喜び始めました。

仕事も辞めさせられ、教会もなく、何もないような時期でしたが、生まれて初めて鳥のさえずりに、「神様、鳥の鳴き声がきれいですね。」と言えました。

私の握っていたもの、それは“私の神様にある働き”でした。

神様におまかせしたとき、神様だけが喜べるようになりました。

昨日、Setsuさんが、コメントで、皆さんあてに、神様からの語りかけを書いてくれました。

書き写します。お一人お一人に慰めがありますように。

「神様は私たちの心が何を必要か知っておられます。

何に渇き、何につまづき、何に泣いているかも。

あなたが握っているその手を一度、神様の前で開いてみてください。

あなたの手は、引き裂かれて穴の空いた神様(イエス様)の手を握ることができます。

あなたが隠しているその心の目を、神様の方へ向けてみてください。

神様の心に、あなたのことがしっかり焼き付かれているのを見ることができます。

あなたがまだ形もなかった頃、神様の心にあなたがいて、神様はずっとあなたに思いを焦がしていたことを、あなたのすべての心の傷に深く染み込ませることができるでしょう。」

Setsuさんはここに来られる方々、コメントする方も、そうでない方のためにも祈っています。

ettuさんもここに取り巻く人たちのため、与えられた霊的祈りで祈っています。

私もお二人と同じく、ただ皆さんの霊的祝福を心から祈っています。

この小さなブログを通しても、距離や空間を越えて、神様のよいものを分かちあえますことを願っています。この思いが、祈りとともに、ここに来てくださる皆さんに届きますように。

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“私の歩んだ教会たち”3‐3・会堂残る

教会がその立派な建物から出ていった話しです。

『私は一つのことを主に願った。私はそれを求めている。

私のいのちの日の限り、主の家に住むことを。

主の麗しさを仰ぎ見、その宮で、思いにふける、そのために。』旧約聖書 詩篇27:4

賛美に満ち溢れた教会には、笑いがあり、人々は生き生きしているかのようだった。

結婚式に来てくれた、前の教会の友人が言った。

「この教会は、賛美の天使たちが集まっている。だけれど、戦う戦士がいない。」と。

牧師の過ちは、多分教会全体の責任でもあり、特に牧師の近くにいる人たちが、「イエスマン」ではなく(何でも、「はい、はい」と聞かずに)間違ったことは、信頼関係のもとにハッキリ教えてあげることが、責任としてあるのだと思う。

牧師は幾つかの間違いをした。人間、誰でも間違いも、過ちもある。だから、それは、とても大きな問題ではないかもしれない。

教団からは、その間違いを認め、牧師を3か月ほど謹慎し、牧師を休んでくれと言われたらしい。

が、その話しを蹴って、何の謝罪もなく、その美しい立派な会堂を出ていった。

信者の6割はついていったと思う。

私は内情を良く知っていたので、ここでお別れだと思った。

サタンは牧師を攻撃する。牧師しか経験しない誘惑があるのだと思う。

それを支えるのが、信徒であり、まわりにいる人たちなのだと思う。

教会は民主主義、多数決の世界でないと良く言われるが、牧師がすべての教会の実権を握っているのではないと思う。(これはただ私の考えだけれど。)

牧師は霊的指導者として、人より託されているものが多いかもしれないが、より神様の声を聞くと同時に人の声を同じくらい熱心に聞くものだと思う。

なぜなら、神様から語られたことを、どんなことを考えているかその聴衆に噛み砕いて、語るのが牧師の仕事だと思うから、どちらの作業も大切だと思う。

そして、その託された一部を、他の部分が支え、補うのが教会かと思う。

あのとき、私は教会が去っていったことに悲しくて、何日か泣いていた。

あのときは、私にもその責任の一部があったことには、思い至らなかった。

♯♯♯

神様、人は皆弱いです。

牧師は特に霊的攻撃を受け、様々な誘惑に合います。

あのとき、私が教会のため、牧師のために祈れなかったものであることを赦してください。

私たちの戦いは血肉(けつにく)によらず、霊的な戦いです。

私たちが、人が人を裁いたりすることをサタンは手を叩いて喜んでいます。

私たちの中に裁く心でなく、赦す心を与えてください。

私たちは誰でも間違います。間違いが問題なのでなく、裁く思いや隠す心が問題なのです。

イエス様にあって、私たちが一つとなり、弱く間違いやすい中にこそ、イエス様の愛が現れ、人々が神様を崇めるようにさせてください。

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“聖霊の小川を泳ぐメダカたち”

聖霊様の小川で泳ぐメダカたちを思いました。

『この川が流れて行く所はどこででも、そこに群がるあらゆる生物は生き、非常に多くの魚がいるようになる。この水がはいると、そこの水が良くなるからである。この川がはいる所では、すべてのものが生きる。』旧約聖書 エゼキエル書47:9

昨日、礼拝の中で、小さな小川を思い出しました。それは幼い頃よく遊んだ、田舎のおばあちゃんの家の畑の近くを流れる小川です。

幅2〜30センチの小さな小川にメダカが可愛らしく群れをなして泳いでいました。

今、メダカはあまり見かけなくなったと言われます。

メダカは本当にきれいな水の中でしか生きることができず、今は環境的にそういうところが少なくなったのだと聞きます。

私のような弱さを抱えたクリスチャンは、小川のような水の中でしか生きられないのかなぁと思ったりしました。

きれいな水とは、聖霊様の中のことです。

そこに何か人間的なものが混じってしまうと、たちまちアプアプして苦しくなってしまうのかなぁと。

けれども、聖霊様は私たちの中にもいてくださいます。

私の中のおられる聖霊様が喜んで、自由に働かれるよう、私の心もまた、イエス様の十字架によってきれいにしてもらっていたいと思いました。

お祈りします。

「神様、私たちにイエス様の十字架の赦しによって、聖霊様を内に住まわせてくださることをありがとうございます。

聖霊様がいてくださらなければ、神様が聖書を通して何をいいたいのか、私にはわかりませんでした。

聖霊様が働いてくださらなければ、2000年前の十字架が自分のためと受けとることができませんでした。

聖霊様は、私の内に住まわり、優しく慰めとあわれみをもって、私の罪を示し、きよめてくださいますから、ありがとうございます。

教会が、私にとって居心地がいいばかりでないのは、私の場合、とても弱さを抱えているからかもしれません。

けれども、きよい聖霊様の流れの中に、憩い、喜び、楽しめる恵みをありがとうございます。

メダカのように、混ぜものがあるところでは生きにくいのかもしれませんが、あわれみの中で生かし続けてくださることを感謝します。

どうぞ、同じ聖霊様のきよい川で、私たちを憩わせ、楽しませ、喜ばせてください。

イエス様のお名前によって祈ります。

アーメン」

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2009年6月20日 (土)

“私の歩んだ教会たち”3‐2・結婚式

私たちはたくさんの教会員の方々に労していただき、素晴らしい結婚式をあげることができました。

『あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。

そして、神は教会の中で人々を次のように任命されました。

すなわち、第1に使徒、次に預言者、次に教師、それから奇跡を行う者、それからいやしの賜物を持つ者、助ける者、治める者、異言を語る者などです。』新約聖書 第1コリント12:27.28

10人位で始まった教会は、たちまち人が増えた。

新しい立派な会堂も建った。

60人ぐらいの礼拝は、素晴らしい。賛美リードがいて、バンドがあって、それぞれの得意分野で、皆教会に仕えていた。

沢山集っているということは、賜物も多様にあるということだ。

そんな新しい会堂で、私は主人と結婚式、披露宴をしてもらった。

私たちは、貧乏だったので、すべてが教会の方々の手作りだった。

結婚式での奏楽、カメラマン、ビデオ取り、すてきなお花の飾り。披露宴でのプロなみの演奏者、手作りウェディングケーキ、私と主人の出会いを作った寸劇の役者…、披露宴でのティーパーティーのお菓子。沢山の人たちの手によって、結婚式をしてもらった。

そこには、たくさんの労力と祈りとお金がかけられていたのを今、思う。

親族、友人たちや前の教会でお世話になった方々を呼んでの結婚式、教会員も参加してくれ、100人位の盛大な結婚式になった。

あれが、私が大勢の方にお世話になった最後になる。その一年後には、輝いていたはずの教会は、立派な建物を残して、いなくなってしまった。

たくさんの人に祝福された結婚式、今はクリスチャンと出会うことも少なくなり、あの頃、神様がしてくださった不思議を思う。

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神様、あなたがひとりひとりに良いものを与えてくださってありがとうございます。

私たちの結婚式イベントには、本当にたくさんの方々が関わってくださったことをありがとうございます。

あの結婚式は、今の私にとっては、キリストのからだの多様性の素晴らしさでした。

神様、お世話になった方々とは、今は交流もなく、感謝をお返しすることができませんが、神様、心からありがとうございます。

そして、神様はあのように、イエス様にあって一つで、多様性をもって喜んでいく教会を望んでおられるのを思います。

そのような教会にたくさんの人たちが連なって喜べるようにしてください。

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2009年6月19日 (金)

“カルト化教会の痛み”3・孤独な回復の道

カルト化教会を出た人たちは、そこからまた、孤独な道を歩みます。

『見よ。わたしはあなたとともにあり、あなたがどこへ行っても、あなたを守り、あなたをこの地に連れ戻そう。わたしは、あなたに約束したことを成し遂げるまで、決してあなたを捨てない。』旧約聖書 創世記28:15

私の友人は、10年程、カルト化していく教会に属していた。

そこを出たときは、いろんなコントロールから解けず、苦しんでいた。

心も信仰も回復するためのリハビリ期間は少なくとも3年位かかると、専門の方から言われた。

新しい健全な教会に通い始めたが、孤独であった。家庭で、親から虐待を受けた人は、そうでない人にいくら話しをしても理解されない。

同じように、特殊なところを通されたので、その苦しみは、同じ信仰のことであるのに、誰にも理解されない。

本には、「その牧師がおかしかったことを理解できなかったあなたが悪い。」と責められてしまうこともあると書かれていた。

いろんなコントロールがすぐ解けないので、その言動も奇異に見えるときがある。偏見や疎外感に苦しむ。

そのような人たちがどのような孤独をもって、感情があらわれるか、「信仰という名の虐待」の本から書き写す。もし、近くにそのような方がいたら、私たちは、その苦しみを理解しきれなくとも、寄り添い、共に祈るものでありたい。

「・自尊心を失う

・自分自身を失う
・自分が無力な人間であると感じる

・強い罪責感を感じる

・怒りと欲求不満を感じる(多くの時間と可能性を失ったので)

・恐怖と混乱を感じる

・マインド・コントロールされていたため、自分で考えて、決めることがなかなかできない

・だれかに依存したい、自分の代わりにだれかに決めてほしい

・キリスト教、教会、聖書、神に対して、強い反発や拒否を感じる(個人差がある)

・人に対して不信感を感じる(人を信じられない)」

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神様、神様の尊いお名前を使って、人をマインド・コントロールし、人々に深いダメージを与えるカルト化教会の罪を赦してください。

神様、そこから出て、なお、苦しむ人たちを助けてください。

私たちは、その“信仰の虐待”された経験者ではありません。

本当に理解が足りなく、かえって突き放してしまうものであることを赦してください。

リハビリの道を歩んだ私の友人に、ときに私は冷たかったと思います。

彼女の苦しみを理解しようとしなかった私を赦してください。

その回復の道を歩んでいる人々たちに、神様、「わたしはあなたを捨てない」と語り続けてくださり、あなたとの麗しい関係を、主によって回復させてください。

その歩みを確かにしてくださり、弱いときも、守り導いてくださる主とともにありますようにしてください。

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2009年6月18日 (木)

“カルト化教会にいる人への祈り”

カルト化教会にいて苦しむ人々、そこを出て回復の道を歩いている人々のため、祈ります。

『主のもとに来なさい。主は、人には捨てられたが、神の目には、選ばれた、尊い、生ける石です。

「見よ。わたしはシオンに、選ばれた石、尊い礎石を置く。

彼に信頼する者は、決して失望させられることがない。」』新約聖書 第1ペテロの手紙2:4.6

「天のお父さん、イエス様は、悲しみのところに喜びを、嘆きのところに希望をもたらすために来られました。

けれども、人間の支配欲、顕示欲、そういったものが、神の名前を使って、全く違うことをし、人々を苦しめています。

人間のこの限りない欲望を赦してください。

人々は、神様に喜ばれる熱心で、今、神様以外のものにコントロールされ、苦しんでいます。

どうか、神の名前を使っても、そこに安心や喜びや慰めやあわれみといった良いものがなかったら、それは、イエス様の世界ではないことを知ることができますように助けてください。

巧みにコントロールされているので、苦しいことすら、祝福のためのサタンの攻撃だと言われます。

教会から出たら、祝福されず、呪われると言って、脅されます。

苦しいのに、恐れのため、そこから出ることが出来ません。

パソコンやこのようなブログからも正しい情報を得ていけますよう助けてください。

イエス様の世界は恐れで縛られる世界ではありません。

本当のイエス様のもとに導いてください。

まだ、出られた方たちは、たくさんのダメージで、いろんなことが判断できなくなっています。

時間がかかっても、ゆっくりと受け入れられる環境で、自分を取り戻していけますように。

カルト教会にいた人が裁かれませんように。彼らも犠牲者だからです。

コントロールが解けずに、変なことを言っても、受け入れられる中で回復するので、そのような環境を与えてください。

イエス様の楽しみと喜び、自由と慰めが満ちますように。

イエス様のもとには、決して失望させられないことを感謝します。

人間的な欲望の組織を打ち砕き、教会に、人々にイエス様がきてくださいますよう祈ります。

イエス様のお名前によって祈ります。アーメン。」

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“カルト化教会の痛み”2

カルト化教会の特徴です。

『しかし、あなたには非難するべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった。

それで、あなたは、どこから落ちたかを思い出し、悔い改めて、初めの行いをしなさい。

もしそうでなく、悔い改めることをしないならば、わたしは、あなたのところに行って、あなたの燭台(しょくだい)をその置かれた所から取りはずしてしまおう。』新約聖書 黙示録2:4.5

姉が通っていた教会は、真面目な信仰を持った人たちの素朴な誠実な教会だった。

姉は今でも、信仰の“いろは”はその教会で教えてもらい、養われたと感謝している。

そんな小さな教会だったが、牧師婦人の預言が始まり、変な雰囲気になっていった。

無駄口を慎むとか、横の信徒どうしの親しい交流を避けるとか。

その方は、一にも二にも、謙遜が大事と言っていたらしい。

聖書に聞いていき、答えがないと動かない…そんな傾向はあったが、何故、あの方がカルト化の道をいったのか、とても不思議に思う。

カルト化教会の特徴をパスカル・ズィヴィーは、「“信仰 ”という名の虐待」の本で次のように言う。

「“信仰”という名の虐待」のメカニズムとして5つある。

1、恐怖、脅し

信者たちを支配するために、恐怖、罪責感と脅しを使います。どんな命令でも、信者たちは、牧師に従わなければなりません。…少しずつ、牧師や教会に対して批判する能力がなくなり…最終的に、牧師と教会に全く依存するようになってしまいます。依存すると信者たちは、牧師と教会の精神的な支えを失うことに対する恐怖が大きくなる。自分で、判断することが難しくなる。

2、愛のシャワー

牧師に出会った時の印象は、それまで出会ったこともないようなカリスマ的存在で、霊的で、優しく、情け深く、理解のある人物と思います。…破壊的カルトの中でよく使われる「ラブ・ボミング」(愛の爆撃)、あるいは「ラブ・シャワー」(愛のシャワー)というテクニック。好意の雨をふりそそぎ、ほめます。

3、罪責感

愛のシャワーを浴びた人たちは強い義理を感じるので、本心を伝えることが難しくなります。質問や批判に対しては、罪責感を起こさせます。

4、告白の儀式

信者の人格を無視し、牧師、教会の意向に沿わない思想、感情、行動をすべて告白しなければならないと要求し、個人のプライバシーをすべて奪います。…心が解放されるよりも、自責感に苦しみ、無意識に合わせなくてはならないと感じるようになります。

5、人を奴隷化する権威主義的構造

人間関係がピラミッド型になっています。横の関係が全く許されず、縦のつながりのみ重視します。信者は牧師の許可がなければ、どんなことも決めることができません。密告があり、管理されます。福音のため、ビジョンのためということがあります。

何故、イエス様の愛で始まったことが、人間の欲望の統率になるのだろうか。

まさに、“初めの愛”イエス様ご自身がいなくなったところに悲劇が起こるような気がする。

神様、今もカルト教会は存在し、多くの真面目なクリスチャンが神のためと、コントロールされ、苦しんでいます。

イエス様からくるものは、赦しとあわれみ、癒しと自由、安心と喜びです。

イエス様自身がいる教会、人々へと変えてください。

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“私の歩んだ教会たち”3‐1・恵みの教会

教会で神様の恵みをひたすら感じた3年間でした。

『おとめイスラエルよ。わたし(神)は再びあなたを建て直し、あなたは建て直される。』旧約聖書 エレミヤ書31:4

新しく通う教会の近くに、私は引っ越しをした。

引っ越し先は、お金も何も無く、今にも崩れそうなボロアパートだった。

が、礼拝は楽しかった。

賛美はワーシップソングになり、賛美の中に、神様の臨在をいつも感じた。

聖霊様が、私の心にシャワーの慰めを毎回くださり、私は礼拝ごとに、その慰めに泣いた。

号泣になり、トイレに駆け込んで、泣くこともしばしばあった。

その頃、この聖書のことばを見つけて、紙に書いた。

私の内に、心の癒しが起こると信じられた。

新しく覚えたワーシップソングを昼も夜も賛美した。

バイト先の仕事場でも、トイレに行くたびに、そこであふれる思いを賛美した。

礼拝メッセージのテーマは、“恵み”だった。神様が一方的に私たちを赦してくれるメッセージを私の霊は喜んで聞いた。

すべてが、順調のような信仰生活だった。

開拓のようなその教会に、人々は増え、新しい会堂を建てるに至った。

私の信仰生活も、教会もすべては順調かのようだった。

この2年後に、この教会が、いろいろな問題が起こり、この立派に建てられた会堂から教会の人たちが出ていくことになるとは、あの頃、誰もが想像しなかった。

###

神様、ワーシップソングの礼拝の中で、私はたくさんの慰めを受け、癒されていった、そのことをありがとうございます。

賛美の内に住まわる神様を体験する日々でしたから、ありがとうございます。

聖書の話しも、神様の恵みが中心で、慰められました。

短い期間でしたが、その教会で、私は恵みの神様、恵みのメッセージ、慰めの霊をたくさん経験できて、ありがとうございます。

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2009年6月16日 (火)

“同情されるイエス様”(祈り)

私は同情より、聖書にある正論で人を苦しめた者であったことを思わされました。

『私たちの大祭司(イエス)は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。』新約聖書 ヘブル人への手紙4:14

私はとても、心砕かれて自分の弱さを教えられているときは、人にも優しくなれているかもしれません。

一方、私が調子が良く、すべてがうまく行っているかのような時は、人に同情する心が少なくなるかもしれません。

自分のイエス様にある歩みを見るとき、祈りも癒しも赦すことも、何もかも与えられたものなのに、「あなたもこうしなさい。」と、その心の痛みに寄り添うことなく、言ってきた者だったか、少し教えられました。

神様を信じている人たちの世界で、つらいのは、正しい答えが書かれてあることです。

その正しい答え(=正論)は言われてしまうと、「ごもっとも」としか言えません。けれども、人から言われた正論は、罪責感を強めたり、恥ずかしい思いを強めたり、みじめな思いに落ち込んだりさせるだけです。

病院に行って、あなたの悪い患部はここだと、傷口を開かれて、血を流して終わりです。癒す手立てまでしないで、終わらせるというのは、聖書の、恵みの神様の世界ではありません。

けれども、きっと、同じような聖書の正論で、私はバサバサと人の心を切り、痛ませたまま、私は満足して、帰らせてきたのだと思います。

お祈りします。

「天のお父さん、イエス様は、私たちの苦しみをすべて知っておられ、私たちの弱さに同情されるお方です。

私たちの罪の結果の苦しみですら、「誰もあなたを裁きません。私があなたの罪の責任を全部請け負うから。安心して帰りなさい。」と言われる方です。

それなのに、私は、聖書にある正しいことばで、相手を同情せず、その心を聞かず、切りつけてきた者であることを教えられました。

それは相手に癒しではなく、痛みだけを残します。

この同情できない心を赦してください。

聖書にどう正しいことが書いてあり、どうするかは聖霊様が、慰めの中で、案内してくださいます。

私たちは互いが、同じ弱さを持つものとして、同情し合うものとさせてください。

心の痛みが理解できないときでも、祈るものとしてください。

イエス様のところには、裁きでなく、その互いの弱さを受け入れ合うものとしてください。

私の力ではできませんから、受け入れる心、同じように私たちは弱いものであることを教えてください。

イエス様のもとで、私たちが同情しあい、理解しあい、受け入れあい、赦しあうことが広がりますように。

そして、まわりの人々が、この世にないイエス様の愛を知ることができますように導いてください。

イエス様のお名前で、お祈りします。

アーメン。」

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2009年6月10日 (水)

カルト化教会に無いもの

神様は何を私たちに求めておられるか教えられた分かち合いです。

『み使いは(アブラハム)に仰せられた。

「あなたの手を、その子に下してはならない。その子に何もしてはならない。今、わたしは、あなたが神を恐れることがよくわかった。あなたは、自分の子、自分のひとり子さえ惜しまないでわたしにささげた。』旧約聖書 創世記22:12

神学校時代、同じ寮で、伝道熱心な男の子がいた。

気があって、よくいろんな話しをした。

ある時、彼が言った。「相手を愛する思いがあるなら、体の癒しもその人のために祈ると思う。」

私が何と言ったことに対する答えか、覚えていない。たぶん、「体の癒しがすべてではない。」ということに対してだと思う。

一緒に卒業した彼は、伝道熱心で神様にまっすぐな感じの人だった。

やがて、彼が属している教会がカルト化してしまった。彼もその中の中心的な牧師の一人だった。

今日、その会話を思い出した。彼がどこからずれてしまったのか、よくわからない。

初めの頃は、「イエス様の愛を語る素晴らしいメッセンジャーだよ。」と彼の噂を聞いていたが。

アブラハムがイサクを捧げる試練の中、神様は言われた。

「今、わたしはあなたが神を恐れることがよくわかった。」

神様は、神様を恐れる心をアブラハムに見て喜ばれた。

“心”とか、“動機”とか見えないことこそ、実は神様が最も求めておられることなんだなぁと、しみじみ思う。

カルト化した教会は、宣教熱心だったりする。とにかく働く。労する。無心になって疲れるまで仕える。そのように牧師にコントロールされてしまうのだが、そこに、主とふれあう“心”がない。

黙示録2章に出てくるエペソ教会は、労苦と忍耐を神様に知られていた。

しかし、“初めの愛”から離れてしまった。

イエス様の赦しとあわれみの中、応答する行為と、“心”を無くし、ひたすら頑張る世界は、見た目な変わらなくても、神様から見たら全く違うのだ。

主にある熱心の中で、神様が最も求めとおられる“神様への心”こそ第一とされるものだなぁと思った。

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2009年6月 9日 (火)

少数派の自分

私の近況…小さな変化です。

『教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。』新約聖書 エペソ人への手紙1:23

私がブログを始めて11か月になる。私はブログの中で変えられてきている。

誰に変えられたかというと、もちろん、神様にであるが、ここに毎日のように訪問してくださる皆さんによってである。

私は教会と言われるところでは、その与えられた信仰が“少数派”となるものだと思う。

だから、いつになっても、どこにいっても、しっくりこない。

ブログでは、とにかく私の本音の本音のところを書いている。聖書の分かち合いにしても、私が美味しいと思うところを共に美味しいと思ってもらっているので、訪問してもらえるのだと思う。

少数派の私も、ブログの中では共に似た感性、信仰の方がいて、そこが集まれば、少数派ではなくなるってことかなぁなんて、訳のわからないことを考えながら出かけた。

私たちの教会は牧師夫妻と私たち夫婦の4人。最近、一人の女性の方が集ってくださっている。

そんなに少なくても、そこに人との信仰の溝を感じてしまう私である。

今日は、牧師の奥さんと共に久々祈った。私は変わり始めている。悔い改めの始まり、教会を赦し、さらに癒しを祈るようになった。ブログの中での導きのおかげである。

彼女はいつも私に愛をもって祈ってくれていたが、私の方には彼女との溝があった。教会の外の人の話しになるとその違いに苦しくなった。

今日、彼女と祈りながら、「私たちは神様にあって一つです。」と祈っていた。彼女もまたそう祈っていた。

心からそう思えた。彼女は、韓国系中国人で、その救霊(イエス様を信じてもらう)の思いに熱い。それなのに、誰を誘っても教会にこないことにガックリきている。胸が苦しくなるらしい。

中国では、迫害の中、人々がイエス様を信じていく。なぜ、日本は違うのかと嘆く。

彼女の神様が与えてくれた熱い救霊の思いに慰めがくるよう祈った。

私の中で何かが変わった。何だろうか。

教会の人と違いはあっても、それを越えて一つであることを受け止められたのか…。まだ、限りなく近くにいる一人と祈れた程度だが。

訪問の皆さんには、私の悔い改めの道に共にお付き合いくださり、心から感謝します。

今、“私の歩んだ教会たち”の証を書いていますが、すべてが懐かしく、そこで失敗したりしている自分がいとおしいです。そこに取り巻く人たちの弱さが受け入れられます。

悔い改めの霊が私をおおったとき、私は「神様、あれもこれもごめんなさい」と号泣しながら、ブログを書いている…そんな想像をするのだが、まだ、その霊はくだっていない。悔い改めというのが、そういうものではないかもしれないし、聖書のことばにより、御霊の啓示により、深いところを見せられたとき、「ごめんなさい」と告白するよう導かれるのでしょう。

神様のよいものを皆さんと分かち合いたいと心から願っています。日々、訪問してくださる方々の祝福を祈っています。訪問、ありがとうございます。

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“私の歩んだ教会たち”2-3・除名

私が伝道師除名になったときの話しです。

『謙遜と柔和の限りを尽くし、寛容を示し、愛をもって互いに忍び合い、平和のきずなで結ばれて御霊の一致を熱心に保ちなさい。

からだは一つ、御霊は一つです。あなたがたが召されたとき、召しのもたらした望みが一つであったのと同じです。』新約聖書 エペソ人への手紙4:2~4

私が教会で働き出して8か月。もう何もかも駄目だと思うくらい、前に進めなくなっていた。

神様も信仰も祈りも何もないかのようになっていた。

そんなとき、近くで集会をやっているのを知り、休みの月曜日に行った。

そこの礼拝形式とメッセージの新鮮さに胸打たれた。「ああ、私が求めていた神様はここにいる…。」という感じで、砂漠で水を飲んだように元気になった。

今考えると、とんでもないことを言ったのだなぁと思うが、何も考えていない私は、次の日、牧師に言った。

「私は元気がほしいので、休みのときはこの集会に継続して出ることにしました。」

すると、牧師の顔色が変わった。改革派といわれる生真面目な教会で、聖霊派と言われる教会は異端視扱いである。

牧師は何よりそのようなものが教会に入り込むのを恐れていた。凄く敏感になっていた。

「わかりました。3日待ってください。あなたを伝道師除名にするか、どうか話し合いをします。」

私の中で思わね展開だった。悲しくなかった。3日間、「神様、除名の決定が下りますように。」とこのときばかり、ひたすら、祈った。

神様の導きで、教会で働きだしたのに、自分から辞める訳にいかない。神様に申し訳ないと思っていた。

除名になって、この教会から出られるならそうしてほしいと強く願った。

私の何かが間違っているとしたら、何もかも間違っていたかもしれないが、そう思った。

3日後、除名が下された。秘かに神様に感謝した。

私は12月のある日までとなり、残りの数回の礼拝出席をした。

最後の日、「今日、礼拝後、総会があるので出てください。」と言われたが、出なかった。それも責任的にどうであったかと問われるだろうが、出なかった。

牧師は、私が働きをまっとう出来なかったことを教会の人に謝らせたかったのかもしれない。

このとき、信仰深い婦人たち何人かが、私のために心痛め、祈ってくれていたのを後で知った。

私は逃げるように荷物をまとめ、集会をしていた教会のある土地へと県をまたいで引っ越しした。それが今住んでいる土地になる。

###

神様、あなたがくださった場所で、きちんと働きができずにすみませんでした。

私は出られて嬉しかったですが、教会を悩ませ、たくさんの迷惑を教会の人たちにかけたことを赦してください。

福音書派と聖霊派にもまた、大きな溝があります。

今の福音派がどうなっているかわかりませんが、私たちは、皆、神様にあって一つです。

福音派に通う親しい友人もいますが、共に祈れています。

その溝は何でしょうか。

神様の霊は混乱させる霊ではなく、喜びと導きをもたらすものです。

日本の歴史の中で、何が正しいとか、分派とかいろんな間違いがあったと思いますが、その傷を癒してください。

御霊は一つです。あなたが喜びをもたらし、赦しをもたらし、癒しをもたらす神様の霊にあって、私たちを一つとしてください。

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2009年6月 8日 (月)

“教会の外のクリスチャンへ”その誇りの信仰

教会の外にいるクリスチャンに慰めのメッセージをいただいたので、書き写します。

『いまは、しばらくの間、さまざまの試練の中で、悲しまなければならないのですが、

信仰の試練は、火を通して精錬されてもなお朽ちていく金よりも尊いのであって、イエス・キリストの現れのときに称賛と栄光と栄誉に至るものであることがわかります。

あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、いま見てはいないけれども信じており、ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどっています。

これは、信仰の結果である、たましいの救いを得ているからです。』新約聖書 第1ペテロの手紙1:6~9

昨日、初めて“せつ”さんという方がコメントをくださいました。教会の外にいるクリスチャンへの神様からのメッセージでした。

私は常々、外の人たちの目には見えにくい深い信仰を感じています。

彼女たちにとっては、神様にあるかないかは、生きるか死ぬかぐらい切迫しています。

その素晴らしい与えられた信仰を素敵な表現をされていて、「ああ、私がずっと伝えたかったことばだ。」と思ったのでコメントをそのまま、写させてもらいます。

「トラブルが起こってしまい、教会に行けなくなってしまっても、なお、神様を愛し続ける方たちの手には、ダイヤモンドのように美しくて強い本物の信仰が握られていますよ。

いつか時が満ちて、その方たちの心が癒える頃、その方たちを必要とするキリストの体である教会に、ふっと導かれる、そんな日がきっと来ます。

神様はその方たちの信仰を誇りに思っておられます。」

アーメンです!!私にもわかります。試練を通され、輝いていく“ダイヤモンドのような本物の信仰”。そして、神様ご自身が、「あなたはわたしの誇りです」と言っておられるのを!

お祈りします。

神様、あなたがすべてをご存じで、私たちのうめきも叫びも聞いておられ、応えてくださる方であることを知っています。

主よ。クリスチャンであるのに、それゆえのような痛みや苦しみがありますが、神様が愛してくださっていることをありがとうございます。

今、現状を見ると、先行き希望がないように思えても、そうでないことをありがとうございます。

私たち外の者の信仰を、ご覧になってくださり誇りに思ってくださっていることをありがとうございます。

私たちの心の傷を癒してください。私たちに赦しを祈る祈りを与えてください。

私たちが赦しを祈るとき、イエス様ご自身のみ業が起こります。

なぜなら、赦しを祈るのは、イエス様の十字架の力によってしか現されないからです。

私たちの傷ついた地に癒しを、そしてキリストの赦しを与えてください。

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“私の歩んだ教会たち”2‐2・裁き

私が教会に仕えていたときのことです。2(番目の教会)での2(番目のエピソード)です。

『しかし、私にとっては、あなたがたによる判定、あるいは、およそ人間による判決を受けることは、非常に小さなことです。事実、私は自分で自分をさばくことさえしません。

…私をさばく方は主です。…

ですから、あなたがたは、主が来られるまでは、何についても、先走ったさばきをしてはいけません。』新約聖書 第1コリント人への手紙4:3~5

私の限りなく、グレー色の信仰生活は続いた。

教会に仕えながら、神様の喜びがないのは最悪だった。

ある日、決められた時間に仕事場の教会に行けず、遅刻した。

牧師に注意されるなと思った。が、牧師は無言だった。内心、ほっとした。

ところが、その次の週の礼拝に出席し、牧師の礼拝メッセージを聞いていたときのこと。

「こんな人がいます。」と、私の名前こそ出なかったが、高い講壇から、神の名前を使って、その遅刻のことを許されぬ行為と裁かれた。

「そんな…、講壇降りて来て、人として注意してくれればいいことなのに、おかしいよ。」とか思いつつも、落雷を落とされたようなショックに打たれた。

次の日、私はそのショックで、ベッドから起き上がれず、ずっと寝たまま、天井を見つめていた。

私自身が、神様が遠く感じられてどうしようもない中、私の中で、受け止めきれない痛みが積み重なっていった。

青年会で、一言近況報告をみんなでしたとき、私は言った。

「明日をどうやって生きていったらいいだろう…そんな感じです。」

そんな中でも、たくさんの人に支えられた。特に離婚され、クリスチャンになられたばかりのKさん、霊的な賜物があり、よく祈ったMさん。どちらも男性の方だったが、教会に対する痛みを持っていて、よく長く喫茶店で話したり、祈ってもらったり、支えられた。

教会学校の子どもたちは大きな支えだった。子どもたちとの深い交流に慰められた。

私は精神的に病んでいるのではないかと、遠くの診療内科に連れていってくれたご婦人もいた。

何がなんだかわからない毎日だったが、一日一日が終わるのを願うだけだった。

###

神様、私に必要として、通してくださった様々なことを感謝します。

何もできない、神様に祈ることすらできない、最悪な仕え人でしたが、まわりに慰めや支えや祈りの人たちをたくさん置いてくださり、ありがとうございます。

神様、私は過去のことは癒されたので、こうして書いて話せていると思います。

私が教会のたくさんの方に迷惑をかけたこと、全く牧師の意にかなう働きが出来ていなかったこと、赦してくださり、ありがとうございます。

講壇から神様の名前を使って、裁いた牧師を赦します。

神様、講壇からは、裁きではなく、キリストの十字架の赦しが語られるようにしてください。

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2009年6月 7日 (日)

“私の歩んだ教会たち”2‐1・ヘルペス

神学校を卒業した私は、奉仕教会にそのまま就職しましたが、私の弱さゆえと思いますが、砂を噛むような日々でした。

『苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました。

あなたの御口のおしえは、私にとって幾千の金銀にまさるものです。』旧約聖書 詩篇119:71.72

神学校を卒業した私は、そのまま、奉仕教会に就職した。

私の働きは伝道師的な働きのポジションだったと思う。総会で承認を得て、スタートした。

私は神様の働きができるとワクワクしていた。(今は神様の働きは、教会の中がすべてとは思わないが。)

顔合わせ初日、会議室で、牧師、長老たちと共に集った。

すると、とても人のいい長老さんが私ににこやかに言った。

「sebaさん、牧師が白と言ったら白、牧師が黒と言ったら黒で従ってくださいね。」

「エッ……!?私は神様に従うんじゃないの?牧師に従うの?」と心の中で思った。が、初っぱなから反論できる訳でもなく、にこやかな作り笑いをして「ハイ。」と答えた。

あとは、何が話されたか、全く記憶がなく、ボーゼンと家に帰った。

なんだか体中の力が抜けていくのを感じた。

「牧師に従えって…牧師は神様じゃないし…。」

家に着くと、顔の眉のあたりが、やけどをしたような痛みが走る。初めは、鏡を見ても良くわからなかった。

あまりに痛いので、何度も鏡を見ると、眉の横がグジュグジュとなってくる。

次の日、病院に行った。ヘルペス(帯状疱疹)だった。一点の痛みは、そこから、神経の帯に従って頭ぐるりと一周に渡って痛くなった。

体中の免疫が一気になくなって、ヘルペスの菌にやられたのだろう。

私自身の中に、乗り越えていけない何かがあったのだろうが、教会に仕える立場にありながら、教会生活はグレー色だった。

「神様、どこにいますか?私のところに来てください。」そんな祈りをしながら、神様が遠く遠くに感じらる日々だった。

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神様、念願の教会で働くことになったのに、神様が感じられなくなり、つらかった日々を思い出します。

私があなたに信頼できるための荒野の道のりの始まりでした。

あなたを信頼できず、弱かった私を忍耐して訓練してくださりありがとうございます。

神様に従うのではなく、牧師に従うことを公然と言わせる牧師の信仰を赦します。

牧師にはたくさんの恐れがあったのを今はわかります。

イエス様にあっては、恐れを取り除いて、赦され受け入れられているのですから、イエス様の愛が牧師をおおい、慰めてくださいますようにしてください。

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2009年6月 6日 (土)

訪問者の皆さんへ(予告…)

『キリストは、自由を得させるために、私たちを解放してくださいました。

ですから、あなたがたは、しっかり立って、またと奴隷のくびきを負わせられないようにしなさい。』新約聖書 ガラテヤ5:1

いつも、ブログ訪問してくださる皆さん、訪問ありがとうございます。

皆さんの訪問に励まされて、ひたすら書いています。

ちょっと書きすぎの感じもありますが、丁寧に読んでいただき、本当に励まされています。

明日のブログアップの時間を予告したいと思い、今、書いています。…爆弾予告じゃないんだから…予告なんていらないですか(・_・;)

私たちクリスチャンは、クリスチャンにしかわからない拘束感があります。

日曜日の10時半、多くの教会が礼拝スタートします。その時間帯に何か違うことを、おおっぴらにすると、なんか言い知れぬ罪責感とか、どう思われるだろう…という感覚がきます。

「教会は行きたくなければ、無理しなくていい」と人には言いながら、しっかり、どっぷり、私も…しなければならない世界に影響されている自分を見ます。

キリスト教ブログ
は10:30からはアップする人がほとんどいません。礼拝に行っているからかもしれないし、聖域の時間になっているからかもしれません。

明日、私の行っている教会はお休みです。牧師がイスラエルに旅行中のためです。

その次の週は、私が不在のため、やっぱり礼拝自体がお休みです。小さな教会なので、そんな感じです。(牧師は他でも礼拝しているので、忙しそうですが…)

そのクリスチャンの聖域とされている時間に、教会に行かれていない方たちを思い、祈りながら、アップします。

ずっと続けられたら、そうしたいですが。

日曜日、10:30の思いを、訪問してくださる方と分かち合いたく、ご報告しました。

教会に行かないクリスチャンに神様の慰めのメッセージが伝わることを心から祈りつつ…。

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“私の歩んだ教会たち”1‐3・旅立つ

家族のように暖かい教会でしたが、出ることになったいきさつです。

『見よ。兄弟たちが一つになって共に住むことは、なんというしあわせ、なんという楽しさであろう。』旧約聖書 詩篇133:1

私の初めての教会での生活は、交わり、交わり、交わりだった。

私自身が通う教会は10人ちょっとの小さな教会だったが、私はその教派の他の教会の青年会の交流、夕拝、聖書勉強会、そして大きな教会の牧師から個人的に「教会史」の学びを受けたり、教会生活オンリーの日々だった。

青年会の人たちとの交流はいつも楽しく、心の中が喜び跳ねていた。

そんな私であったが、どうしても、神学校で勉強したいという思いがあって、超教派の学校に入った。

属していた教会教派は、女性が祈らない教会だから、ましてや、女性の働きは制限されていた。

神学校を出たら、教会で働きたいと考えた私はその教会を出ることにした。

どんな風に教会員の方々に話しをしたか覚えていないが、暖かく受け止め理解してもらえた。

まず、礼拝の中で、メッセージをさせてもらった。女性は表だって出ないところで、司会とかも、中学生の男の子がやっていた。そんな中で、神学校で聖書を勉強しているのだからと、礼拝メッセージをさせてもらった。

今思うと、たぶん、その教派ではあり得ないようなことで、牧師たちが守る教理よりも、「成長しなさい」という親心が勝ったのだと思う。

出エジプトのマナが降る話しから、みことばを日々食べる大切さをメッセージした。

その教会を去る日には、教会学校の子どもたちからも、教会員の方々からも「頑張ってね」の応援と、お祈りしている置物の人形をもらった。旅に出る娘を暖かく出してくれる家族のようだった。その教会は、伝道師の方はいたが、いちお無牧(牧師がいない)教会だったのも、私にとっては守りだったかもしれない。

その後の教会を出るときは、穏やかではなく、一つ一つが強烈だったので、初めの教会を出たときの思い出は慰められる。

自分なりの訓練や小さな悩みもあったと思うが、“教会生活”のすべてが楽しく、輝いていたときだったかもしれない。

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神様、初めの教会を通して、子どもたちや、他の地域の教会員や、たくさんの方々と毎日、楽しく過ごさせてくださり、ありがとうございました。

神様の素晴らしさと教会の方々との交流の楽しさと、学びによる感動があった日々でした。

祈りをもって、私を育ててくれた教会員の方々が、祈りをもって出て行くのを暖かく見守ってくださり、ありがとうございました。

そこで、たくさんの人に祈られ、赤ちゃんクリスチャンの私は成長したのだと思います。目に見えないたくさんの尊いお祈りをありがとうございました。

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“私の歩んだ教会たち”1‐2・洗礼

前に正統でない教会で受けたのですが、再度、洗礼を受けるように導かれたときの話しです。

『だれも、ふたりの主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛したり、一方を重んじて他方を軽んじるからです。あなたは神にも仕え、また富にも仕えるということはできません。』新約聖書 マタイの福音書6:24

私が教会に通い、一年程たったころ、教会学校(子どもたちが聖書を勉強するためのクラス)のための同じ教団の近隣教会での合同キャンプがあった。

私は、小学生、中学生キャンプ通しで、キャンプ場で奉仕した。

キャンプも後半になり、明日で終わりという夜、私は、教師としてキャンプファイヤーに中学生と参加した。

そこで、メッセージが語られた。イエス様のもとへの招きのメッセージだったかもしれない。

そこで、私は導かれてしまった。キャンプが終わり、宣教師のところに行った。

「私は前に別の教会で、洗礼を受けましたが、そのとき、イエス様の十字架を知らなかったのです。もう一度、受けたほうがいいですか。」

その方は言った。「ローマ人にありますね。疑いを感じて食べるなら、罪です。信仰から出ていないからです(ロマ14:23)」と。

私は洗礼を受け直すことにした。教理的にどうということでなく、神様から勧められているように思った。

キャンプの責任者になっている牧師に話しをした。

「私、洗礼受け直します。」すると、その牧師は、祈って待っていました…という感じで「そうですね。」と言われた。

真夜中の富士山の麓の湖で、私の洗礼式はひっそりと、こっそりと行われた。

教会員の方から水着を借り、真っ暗な水面で、祈られ、水に浸った。

讃美歌がささやくように歌われる中で…。

次の朝、私は悲しくて仕方なかった。たった一年程度かもしれないが、私の信仰と私のクリスチャン生活のすべてが否定されたかのように、捨てさせられた思いだった。

家に帰っても泣いていた。三日三晩泣き明かした。

この証しを、前にもブログに書いた。が、私の中では、私と神様との出来事で書いた。

今、思う。あの時、たくさんの人たちが、私の洗礼の導きを静かに受け止め、その助けをしてくれたと…。ひとりでは、当然だが、できなかった。

あの洗礼は私にとっては、とても意味のあることだった。

それまでは、私流の信仰だったが、それを捨てさせられ、神様が示す信仰へのスタートとなったのだと思う。

あまりにも、捨てなくてならない自己流がたくさんあったと思うが、まさにつらい洗礼となった。

###

神様、30年近く昔のことが、昨日のことのように思い出されます。

神様の私への導きに、まわりの人たちは迅速に事を行ってくれました。

そして、そこに至るまでの、そのあとの私のための無言の祈りが見えてきます。

たくさんの方に祈っていただいたのですね。

私の信仰の成長には、尊い祈りがあったことを思います。ありがとうございます。

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2009年6月 5日 (金)

再び共に喜び笑わせてください(祈り)

私の歩んだ教会たちを振り返り、お祈りします。

『神よ。私を探(さぐ)り、私の心を知ってください。

私を調べ、私の思い煩(わずら)いを知ってください。

私のうちに傷ついた道があるか、いなかを見て、私をとこしえの道に導いてください。』旧約聖書 詩篇139:23.24

「天のお父さん、あなたがいつも私と共にいてくださる恵みをありがとうございます。

今、私の歩んだ教会たちを振り返り始めています。

「私にとって教会は苦痛でしかなかった。」というようなことを言ってきましたが、教会生活の歩みを思い出していくと、そこにたくさんの神様の恵みが溢れていたことを見ています。

私が最後に教会から受けたダメージが大きくて、その傷のゆえに、すべてがふさがれ、見えなくなっていたのを思います。

神様は、教会を通して数えきれない程のクリスチャンとの交流を与えてくれました。

神様は、教会を通して、いろんなことを経験させてくれました。

神様、あの頃は私自身が人のために祈れないものだったので、たくさんの人が影でひっそりとお祈りしていてくれたことを知りませんでした。

しかし、たくさんの祈りが私のためにあったのを見つけました。

私を苦しめるものとして、私は教会こそ私の“敵”と思ってきましたが、私は大事な私のからだを敵視していたのですね。

赦してください。

私が属するキリストのからだを心から受け入れ、愛することができますように。

そして、その弱さを心から祈ることができますように。

そして、教会の外の人のその痛みを知り、心から祈れますように

どこにいても、私たちは皆、イエス様によって引き寄せられたキリストのからだです。

何をしていてもイエス様の十字架の完全さのゆえ、私たちは初めから同じく、赦され続け、受け入れられ、愛され続けています。

今、目に見える教会の外にいる人に、神様は変わらずその愛をささやいてくれています。

届けてください、あなたの声を

届けてください、あなたのまなざしを

届けてください、今も変わらず、無くてはならない、かけがえのないキリストのからだの一部であることを。

届けてください、神様が親しい交流を楽しみたいように、私もそのことを待ち望んでいることを

“わたしがあなたの傷を直し、あなたの打ち傷をいやすからだ。

見よ。わたしはヤコブの天幕の捕らわれ人を帰らせ、その住まいをあわれもう。

…彼らの中から、感謝と、喜び笑う声がわき出る”(エレミヤ30:17~19)

神様の約束のとおり、人々に主の喜びを返してください。」

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“私の歩んだ教会たち”1‐1

教会生活のスタートをきり、小さな試練の中、成長させてもらったことを思い出します。

『むちを控える者はその子を憎む者である。

子を愛する者はつとめてこれを懲らしめる。』旧約聖書 箴言13:24

「私は何のために生きているか」…そんな問いが頭の中を巡っていた私は、大学中退して、東京に出てきた。

バイト先のクリスチャンの友人が祈ってくれていた。
孤独と空虚が私をおおい尽くす中、「あなたは神様に近いよ。」と友人が言った。そのとき、私は私を生かしてくださる神様に出会った。

教会に通いだした。

福音派と言われる中でも、もっとも固い教会だった。聖書にないことはしない…ということで、女性は祈らない、礼拝は楽器を使わない教会である。

その教会堂を貸している方Hさんがいた。“がんこオヤジ”で通っている方で怒ると怖そうな方。

私はその教会にすぐ馴染んだ。東京に出てきて、知り合いもいないような私にとって、そのアットホームな教会は、家族のようだった。

住んでいる場所からかなり遠いので、前日に教会堂に泊めてもらった。

教会学校や週報作り(ガリ版すり)をさせてもらった。

ある日、渾身の力作とばかり週報をみんなに配ると、Hさんが言った。

「こんなお粗末なものは、恥ずかしくて外には出せない!」

私は怒りが込み上げた。悔しくて泣いたような気がする。(あまり、昔のことなので忘れた)

そんな小さな試練を繰り返しながらも、ご飯を食べさせてもらったり、泊めてもらったり、奉仕をさせてもらった。

その教会はクリスチャンである前に、みんな常識人だった。常識に欠けている私はその皆さんに養っていただいた。

気がつけば、4年通い続けていた。そして、忘れることの出来ないのは、私が冬に教会に泊まるときには、“がんこオヤジ”のHさんは、大切なお客様を招くように、いつも部屋を暖めてくれていた。居心地良く泊まれるよう、ベッドメーキングに気を使ってくれた。

誰よりも誰よりも、私の人間的な成長を願ってくれた。

あのとき、「こんな週報は…」と言ったのは、自分が悪者になっても、「もっと良いものを作りなさい。」というメッセージだと知った。

Hさんだけは、その後、私が教会を去った後も、我が子を心配するように、「元気か?」と便りをくれた。

私を育ててくれた牧師はいなかったが、教会のお父さんはいたんだなぁと思う。

###

神様、私は一人で、神様との関係の中、癒され成長してきたように思っているふしがありましたが、あなたが、愛情深い方を備えてくださり、養ってくださったことをありがとうございます。

私がクリスチャンとして最初に大切なことを教えられ、この教会で養われました。

神様、ありがとうございます。

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2009年6月 4日 (木)

“私の歩んだ教会たち”0‐1

神様に出会う前に、教会に行っていました。正統派かどうかはわからないですが、そこで一度洗礼受けました。(イエス様信じてから、受けなおしました。)

『人は心に計画を持つ。主はその舌に答えをくださる。

人は自分の行いがことごとく純粋だと思う。しかし主は人のたましいの値うちをはかられる。

あなたのしようとすることを主にゆだねよ。そうすれば、あなたの計画はゆるがない。』旧約聖書 箴言16:1.2.3

私は高校生の時、「自分は変わりたい」という願望を強く持っていた。

それは、母は大切な人なはずなのに、ずっと中学から反抗期のようになっていて、いつも口では母を言い負かせてしまい母を泣かせ、自己嫌悪に陥っていたからである。

そんなとき、クラスメートがキリスト教会に行っていて、「sebaさんも行かない?」と誘われた。たぶん、キリスト教は新興宗教と違い、自分を変えられるところかなぁと、かすかな期待があって、行った。

その教会は、異言(神様の霊のことば)で良く祈り、聖書はなぜか文語体…。

『愛は寛容にして、慈悲あり。妬まず、おごらず、高ぶらず、己(おのれ)の利を求めずして、他人の義を思う。おおよそ事忍び……。』

聖書事態難しいのに、さらに文語体で、さらに異言。

何がなんだかサッパリわからなかったが、勧められるままに洗礼を受けた。イエス・キリストの十字架を聞いたか…覚えていない。まして、信じたとか、確信とかは程遠い世界だった。

大学に入り、文語体聖書は片身離さず持っていた。しかし、ご利益的な強調が多い教会に、「私は変わりたい。」という私の願望とはかけ離れていた。教会には行かなくなった。

私の一人求道中の始まりだったかもしれない。

ただ、その文語体聖書を飛ばし読みだが、読んでいた。

孤独をつづる日記には、「神様…」と良く書いていた。祈っていたか、記憶はないが、神様がいる確信はあった。

思い返せば、私が通った教会は5つではなく、6つも7つもあったような気がする。

###

天のお父さん、私はこのころ、まだ神様と出会っていませんでしたが、神様がいることを聞いて信じていました。

私が神様に出会う前から教会というところで、神様をいることを信じさせてくれて、ありがとうございます。

文語体の小難しい聖書でしたが、そこから種を蒔いてくださっていたこと、ありがとうございます。

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私ができること…

『必ずわたしはあなたを解き放って、しあわせにする。

必ずわたしは、わざわいの時、苦難の時に、敵があなたにとりなしを頼むようにされる。』旧約聖書 エレミヤ書15:11

ヨエルさんが、夕べ、コメントをくださいました。いつも祈りと誠実さをもって、コメントをくださって感謝しています。

その中に「教会の外と中に“橋”はかけられるか?私たちクリスチャン自身が、“壁”を作っているから無理ではないか…。」とご意見をいただきました。

“橋”は神様が、神様の方法でかけてくださいます。

5月16日のブログから、この教会の中と外の話しが出ました。その日のブログには「神様、私、何か出来ますか。」と書きました。

それから、いろんな過去の出来事などを思い出し、私の中で一つとなっていきました。

そして、すべては神様の中で、私はほんの一部を担うだけなのですが、神様が、私に何をしたらよいか教えてくれました。

私は全自己否定の人間でしたが、イエス様に罪を告白し、全自己肯定の人間に癒してもらいました。

悪いものは吐き出し、良いもの(神様ご自身)を取り入れることの中に癒しと回復がありました。

それを今度はキリストの体でやるよう、教えられました。教会を悔い改めれば、教会はきよめられ、聖霊が満ちます。エゼキエル47章になります。

外の人に対しては、私は教会の人間として悔い改めます。癒しが行われますように。

私自身は壁なので、これから崩されます。どうやってかは、私もわからないし、時間がかかるかもしれないですけど、見ていてください。

私一人が崩れたからって、教会が変わりますか?…大きな壁があったとして、一ミリの穴が開けば、そこから癒しの川は流れるのです。小さな穴は、役割を果たします。

そして、大切なのは、中からではなく、外の人たちから癒しと、とりなしの祈りが始まるということです。

なぜなら、残念ながら、傷んでいるのは中の人ではなく、外の人だからです。そこに癒しがくるとき、赦しの祈りとなり、聖霊に満たされるのでしょう。

これは、私のアイデアではありません。25年間、教会を裁いてきた私には思いつきません。やっと、手放し、赦したばかりの私には思いつきません。

いつ、どんな風にかは、わからないです。

これは、預言とかではなく、私が神様から教えられたことです。

そして、私は悔い改めをすることが宿題となりました。

ブログで、少し教会の悔い改めを祈ったこともありますが、自分が本当に自分のからだとして教会を愛しているか…さぐられました。

まず、自分自身を受け入れるように、教会を自分のこととして、受け入れきることかなと思わされました。

なんか、偉そうなこと言っているかもしれませんが、私自身の右往左往しながらの道を見ていただくだけでいいのです。

たくさんの失敗もあるかもしれませんが、これから、私はイエス様のあとをついていき、悔い改めの道を歩きます。

今、思わされていることは、私は5つほどの教会を変わりましたが、そこにある自分の悔い改める責任の分と人を赦す責任の分を見て祈ることをしようと思います。

自分の責任の分を悔い改めたら、素晴らしいことが起こったのです。

傷と痛みで見えなくなっていた教会の人たちにしていただいたたくさんのことが溢れるように見えてきました。神様の恵みは、教会生活の中にありました。

そのことを振り返りながら、一つ一つの教会にあった恵みを感謝しようと思います。

証のほうは、そんな訳で、私の過去教会のことからになります。よろしくお願いします。

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2009年6月 2日 (火)

「ノンクリスチャンの苦悩」ブログの住人さんへ

昨日のブログ、読みました。「これで教会に行くのを最後にします。ブログ最後にします。さようなら。」との内容。私もあなた様のブログは、定期的に見させていただいていたので、何ともいいようのない、気持ちでいました。

「クリスチャンへ。キリスト教に関係ない方々に対しても彼らが幸せになれるように祈ってあげてくださいね。」

というところが、胸に刺さります。

私も今、ちょうど、教会を静かに去って行かれる方々に対する痛みを祈り始めたところなので。

なんだか、私も同じ教会側の弱さと足りなさをもっている者なので、なんか自分に言われたような気がして、胸が痛みます。

クリスチャンと同じで、教会も不完全です。クリスチャン同士で理解しあえないように、教会にいる人と静かに去っていく人にも溝があります。

私は今、教会の中で、去って言った人たちの声も聞かず、知らず、理解せず、楽しくやっているのは、何かイエス様の愛とかけはなれていると感じています。

誰が悪いのでなく、教会側の私が、まず、私の責任の分として、外の人に謝ろうと思っています。

私のために、謝らせてくださいね。

たくさんの配慮が足りなかったこと、赦してくださいね。

私を含め、教会は自分たちに人を合わせようとしてきました。

私を含め、教会は外に出ていった人を追いかけず、しずかに教会で「教会に戻りますように」とお祈りし続けました。

私を含め教会は、自分の信仰を押し付けてきました。

イエス様にある自由とか喜びはそのようなものではありません。

あなた様のブログからアクセスがあり、追記で、私とヨエルさんの記事とブログのアドレスを今日、載せてくれたことを知りました。

教会行くとか、行かないとか…そういうことが大切なのでなく、私を含めた教会が、一人の人に失意を与え、黙って去らせることに、申し訳なく思います。

私は教会に通いながら、25年間教会をさばいてきた者です。そして、今、その教会を祈り始めました。私も25年分の痛みの体験があります。

もし、良かったら、ここでしばし、一緒に交流されませんか。あなた様の失意が慰めと希望になることをお祈りします。

このブログからのお手紙ですみません。

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「傷ついた」と言う言葉に秘められたもの

「傷ついた」と言う言葉にある本質を教えられたときの話しです。

『さばいてはいけません。さばかれないためです。

あなたがさばくとおりに、あなたがたもさばかれ、あなたがたが量(はか)るとおりに、あなたがたも量られるからです。

また、なぜあなたは、兄弟の目のちりに目をつけるが、自分の目の中の梁(はり)には気がつかないのですか。

兄弟に向かって、『あなたの目のちりを取らせてください。』などとどうして言うのですか。見なさい、自分の目には梁があるではありませんか。

偽善者たち。まず自分の目から梁をとりのけなさい。そうすれば、はっきり見えて、兄弟の目からも、ちりを取り除くことができます。』新訳聖書 マタイの福音書7:1~5

4年前、私は小さな教会に属していた。そして、教会が一つとなって、信仰が試されるお祈りをした。私は神様がこの祈りを喜んでいると感じていた。

が、結果、見た目は何も変わらず、サタンの攻撃もあったと思うが、教会は空中分解して閉じられた。

わずかな信徒たちは、深い痛みを持ったまま、離散された民のようになった。

それから、私のあの喧嘩友だちである彼女は、罪責感や恨みや様々なものにずっと苦しんだ。つい半年程前、「私、自分が全部間違っていたとは思わないけど、きついことばで色々言ったことを牧師婦人に謝りたい。」と言った。

私は彼女のいる前で、牧師婦人に電話した。私も交信途絶えて4年ぶりだった。

「彼女が謝りたいと言っているんだけど、この電話で話しをできますか。」

「牧師は傷つきましたねぇ。私は主人の牧師と相談してからでないと、話せるかわかりません。」

「そうですか。それじゃ、どちらでもいいから、私に電話をもらえますか。」と電話を切った。それから相手から電話はなかった。

誰でも弱さを持っているから、私はそのこと(電話がなかったこと)を受け入れられた。しかし、自分の分を謝ろうとした友人は、きつかったかもしれない。

私は牧師婦人の「傷つきましたねぇ」という言葉にハッとさせられた。私自身、何百回と使ってきた言葉だ。

「傷ついた」…それは、「私の悪い分は0%で、あなたの悪い分は100%です。」という宣言なんだと教えられた。

教会がなくなるに至った経緯の中で、誰が悪かったか。私は自分を含めた教会全員の弱さ、責任だったと思っている。

けれど、「あなたが全部悪い」と誰かが思っているなら、その人は自分の責任の分を所有できない。

人の境界線と同じで、自分の責任の分を所有できない人は、いつも人任せなのである。そして人に振り回される法則から抜け出せない。

私自身は「傷ついた」という言葉は安易に使えないと思った。

私は教会を25年もさばいてきた人間である。さばく、批判することも「私が悪いのは0%で、相手が悪いのは100%」ということだと教えられた。

私は今、人のせいにだけして、人に振り回されるより、自分の責任の分を所有し、人に振り回されることなく、神様と歩きたいと思い始めている。

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2009年6月 1日 (月)

“カルト化した教会”での痛み

私は友人を通して、カルト化した教会で影響を受けた人は、とても深いダメージを負い、その回復に時間がかかるのを見てきました。

『私の兄弟たち。あなたがたのうちに、真理から迷い出た者がいて、だれかがその人を連れ戻すようなことがあれば、罪人を迷いの道から引き戻す者は、罪人のたましいを死から救い出し、また、多くの罪をおおうのだということを、あなたがたは知っていただきたい。』新約聖書 ヤコブの手紙5:19~20

私は、姉や大切な友人が何人も、カルト化した教会に翻弄され、そこから出て、なお、回復するのに、とても苦労するのを見てきました。

私も教会で苦痛を感じましたが、決してカルト教会ではありませんでした。

ちょっと律法主義的であったり、私の考える神様とは違うかなとは思いましたが、それは、それぞれに与えられた信仰の違い程度のことです。

カルト化した教会に深く関わった人は、人格障害みたいになります。

何が正しくて、何が間違いか、拘束から解かれず、普通の生活の中で判断がつかなくなります。

あまりにもそのコントロールが強いので、何をやっても恐れがきます。神の名前を使って、脅されてきたからです。

“教会の外のクリスチャン”を思うとき、彼女たちは、疲れ果て、“神”とか“信仰”と言うことばに対し、深い傷の故に、拒否反応を示し、もっとも教会から離れたところにいる人たちかもしれません。

私は、カルト化教会の専門ではありませんが、身近にあまりにも多く、そのようなところに関わった人がいたので、いろんなことを考えさせられました。

カルト化していく教会は、不思議と同じ道をたどります。違う人たちなのに、なぜだろうと本当に不思議でした。

それは、カルト化教会の本質が、人間の弱さからきているからだと教えられました。

カルト化しそうな危ないと感じる牧師はいます。けれども、神様の顕著な働きや、カリスマ的な引き付ける力がないと、そこは守られる(カルト化しない、誰もそこに巻き込まれない)のかなと思います。

カルト化の定義は神の名前を利用して、自分の私利私欲に人を使い、その拘束力が生活全般に及ぶということだと思います。

「信仰」という名の虐待…(パスカル・ズィビィー著)という本で、私はいろいろ教えてもらいました。

本から引用します。「信仰という名の虐待とは何か…ある家庭は子どもを無視し、親の必要のために利用します。…同じように、普通の教会は、神様の愛と救いを教える場所です。牧師たちは支え、育てていきます。

家族のように信者たちの心を満たさなくてなりません。

しかし、牧師たちの自らの欲求のみを満足させるために信者たちの心を利用するようになると、これは信仰という名の虐待となります。」

長くなりましたので、カルト化の具体的特徴については、次に書きます。

###

神様、あなたは、私たちを自由にするため、喜びを与えるため、豊かに生きるため、イエス様を送ってくださいました。

それなのに、人間的な弱さのため、神様の名前を利用して、神様に集う人を恐怖の中にコントロールする人がいます。

人の深い罪の性質を赦してください。

その中でなお苦しむ人を助け出してください。

そこから出た人に、イエス様の癒しがおおいますようにしてください。

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2009年5月29日 (金)

ごめんなさい

今日、もらったコメントを読んで、心痛み、神様に謝りました。

『自分が義人だと自任し、他の人々を見下している者たちに対しては、イエスはこのようなたとえを話された。…

パリサイ人は、立って、心の中でこんな祈りをした。

「神よ。私はほかの人々のように、ゆする者、不正な者、姦淫(かんいん)する者ではなく、ことにこの取税人のようでないことを感謝します。…」

ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。

「神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。」』新約聖書 ルカによる福音書18:9~14

私は今日の朝方、自分を含めた教会の弱さのため、祈りました。

私は教会にいるといいながら、どこかで教会にいる人とは違っている…と自負していたみたいです。

でも、やっぱり、教会の中の人間で、外に人がこぼれていくのを放置していた人間だと突き付けられた気がします。

先ほど、よく遊びにきてくださる“迷える人”さんから、コメントをいただきました。

その前に出した、私の「聖書を読むと安心が来ますよ」というのに対する返答です。

聖書を読まなければならないように圧迫を与えたみたいです。

謝りましたが、愕然とした感じです。

教会来なさい、祈りなさい、聖書を読みなさい…も無理に強いられたら、新しい規則です。

やはり、私も人を自分に合わせてこようとしてた一人なんだと痛感しました。

“迷える人”さん、ごめんなさいね。そうやって、私や教会は、自分に合う人以外を信仰の名前を使って、はじいてきたのかもしれませんね。

イエス様のところは、何かする世界ではありません。何もしなくていいのです。イエス様を信じる以外。いえ、信じることすら、イエス様がされることですね。

###

神様、自分に人を合わせようとする私を赦してください。

人間が作った領域、壁を悔い改めの中、打ち砕いてください。

イエス様のところにこようとする妨げている私のものを、もっと明らかにして、打ち砕いてください。

ただ、自由に人々が喜んでイエス様の中に憩えますよう導いてください。

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「さあ、天を見上げなさい。」(創15:5)

揺らぎやすい私たちにも、神様はアブラハムへと同じことを語ってくださいます。

『そして、彼(アブラハム)を外に連れだして(神は)仰せられた。

「さあ、天を見上げなさい。星を数えることができるなら、それを数えなさい。…あなたの子孫はこのようになる。」

彼は主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。』旧約聖書15:5.6

アブラハムは、「あなたを大いになる国民とする。」とその子孫の繁栄を約束された。

アブラハムはすぐにでも、子どもが与えられ、そのようになると思ったかもしれない。

しかし、現実は、ロト関係良好を保つため、ロトと別々に住むことになったり、敵からのロト救出劇に翻弄(ほんろう)されたりした。

気がつけば、何も神様の約束は成っていないではないか。

それらの後、神様は幻でアブラハムに臨み、言われた。

「アブラムよ。恐れるな。わたしがあなたの盾である。あなたの受ける報いは非常に大きい。」と言われた。

「神様、私に何をお与えになるのですか。あなたが言う、その子どもがいませんのに。」

アブラハムは、恐れ、揺らいだ。

しかし、神様は「私の言うことが信られないのか!」と激怒なさらなかった。

優しく、アブラハムの心を察し、彼を外に連れ出す。

「さあ、天を見上げなさい。あなたの子孫はこの数えきれない星のようになるのだよ。」と言われた。

私たちに神様は約束をくださる。が、私たちは、いつ、どんな方法をもってか知らず、心揺らぐ。

もしかしたら、私の思いこみ、勘違いであったかもしれないと自分自身に語りかける。

そんな弱い私たちにも、神様は、「さあ、天を見上げなさい。いのちを捨て、あなたを取り戻したイエス様にあって、私は聖書にあるとおりに、あなたの約束を進めている。」と優しく言われる。

『彼(アブラハム)は主(神)を信じた。主はそれを彼の義と認めた。』

「アブラハムは約束を信じた」とは書いていない。アブラハムの信じたのは、約束ではなく、語りかけてくださる神様を信じたのだった。

信じられないような中で、それでも、神様を信じる…それは、神様にとって何より嬉しいことだった。

あのエデンの園でのアダムとエバとの麗しい関係を神様は求めている。

神様を使って、奇跡やわざが行われる…のは違うと今、思う。

私が教えられたことは、何かを信じるのではなく、神様ご自身を信頼する歩みこそが、神様が喜んでくださり、私にとっての最大の喜びだったということだった。

私はその神様との関係になるまで、とてつもなく、長い年月を要してしまった気がする。

アブラハムは神様を信じた。神様はそれを彼の義と認め、受け入れられた。

神様は、アブラハムに語りかけたように、「さあ、天を見上げなさい。」と語られる。私はイエス様を私のためにくださった神様を信じたい。

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教会に聖霊が満ちるまで祈ります

教会に行っていないクリスチャン、痛んでいるクリスチャンの癒しのため、祈ります。

『この川が流れて行く所はどこででも、そこに群がるあらゆる生物は生き、非常に多くの魚がいるようになる。

この水がはいると、そこの水が良くなるからである。

この川がはいる所では、すべてのものが生きる。…

そこの魚は大海のように種類も数も非常に多くなる。…

川のほとり、その両岸には、あらゆる果樹が成長し、その葉も枯れず、実も絶えることがなく、毎月新しい実をつける。

その水が聖所から流れ出ているからである。

その実は食物となり、その葉は薬となる。』旧約聖書 エゼキエル書47章

私は、神様に出会う前はボロボロでした。孤独と虚無感、自己嫌悪と恨みの渦の中にいました。

神様に出会い、喜びながら、なお、痛み、うずく傷に悩みました。

神様は私に自分の罪や弱さを告白し続けるという中、癒し続けてくださいました。

最後の深い傷に至るまで、神様は癒しおおってくれました。

気がつくと、クリスチャンになって、30年になりました。

そんな私に、神様は今度は教会の傷を癒すよう、導いてくださいました。

私がエゼキエル47章のように、赦され、癒され、きよめられたとき、聖霊様に満たし、溢れ、流してくださったように、教会にもそれがなることを信じさせてくれました。

私の神様からの働きはたった一人の癒しになるのかもしれません。

けれども、信仰が与えられ、自分の癒しを通して、教会の癒しの幻を見たので、祈っていくことにします。

教会の罪、弱さのために、神様と、外のクリスチャンに向けて祈ります。

今晩、少し祈ります。私が教会の弱さを祈れるのは、私自身が25年教会の中で、痛み、苦しんだから、そのことを祈れると思います。

“私”で祈りますが、“私”とは、“私を含めた教会”のことです。

「私は長い間、聖書のことばで、人を裁いてきました。そのことを赦してください。

聖書のことばは、本来人を生かすために、神様が与えられたものです。

しかし、私は、その生かすことばをもって、人を縛り、人に新しい規則を作り、新しい罪責感を与えてきました。

神様、イエス様の十字架によって、赦してください。癒してください。きよめてください。

どうぞ、私が語るとき、神様のご性質なる愛と慰め、赦しと受け入れを語れますように。

私は、人には重荷を課しておきながら、自分は教師ですべて立派に努めているかのように振る舞いました。

私たちは皆同じ、赦された者です。

誰か偉くて、誰か偉くない世界は、イエス様にある世界ではありません。

イエス様は、誰かに仕えたかったら、低くなりなさいと言われました。

私の傲慢の罪を赦し、癒してください。

私はどこからそうなったでしょうか。

初めは違っていました。神様に熱心になるうち、初めの愛から離れました。

もう一度、私を初めの愛に戻してください。どこからだったのか、どうすればよいのか教えてください。

私を縛り、捕らえているものから解いてくださり、あなたの愛に憩わせてください。

私を赦し、癒し、きよめて神様の親しい関係に戻してください。

イエス様のお名前によって祈ります。アーメン」

どうぞ、中がきよめられ、外が癒されますように。

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イスラエルの牧者たちはいない(日記より)

3年前のある日の日記に私にとって、大切なことが書かれてありました。

『彼らは牧者がいないので、散らされ、あらゆる野の獣のえじきとなり、散らされてしまった。…

見よ。わたしは自分でわたしの羊を捜し出し、これの世話をする。

牧者が昼間、散らされていた自分の羊の中にいて、その群れの世話をするように、わたしはわたしの羊を、雲と暗やみの日に散らされたすべての所から救い出して、世話をする。

わたしは国々の民の中から彼らを連れ出し、国々から彼らを集め、彼らを彼らの地に連れて行き、イスラエルの山々や谷川のほとり、またその国のうちの人の住むすべての所で彼らを養う。…

わたしは、彼らを牧するひとりの牧者、わたしのしもべダビデを起こす。彼は彼らを養い、彼らの牧者となる。』旧約聖書 エゼキエル書34章

前にブログに書いたが、この“イスラエルに牧者はいない。しかし、わたし(神)はひとりの牧者を起こす”という約束を読んで、私は何度もこの箇所を開いては、「神様、いつですか?」と祈った。

そして、私の中で、この約束は成った!

私が牧師や教会に期待するのを止め、一切を手放したとき、私の中で、イエス様が直接の牧者となってくれた。

その後、そのとき属していた教会は混乱し、最後は閉じられた。

その閉じる3か月前、私は、朝8時から祈り始めて、祈りが止まらず10時間ぐらい祈った日があった。

私は、神様とおしゃべりならいくらでもするが、祈りの賜物があるという訳でなく、祈らされて止まらないというのは、先にも後にもその時だけだった。

神様はエペソ2章を通して、教会に集わないクリスチャンに祝福を与える約束、やがて中も外も一つとなると言われた。

そして、最近、その日の日記に目を通した。今、導かれて祈っているようなことを書いていた。

3年間、そんな祈りをしていたのを忘れていた。メモのような殴り書きの日記だが、ちょっと書き写してみる。

「エゼキエル34章によって、イエス・キリストが牧者となる。

教会の外にいる人に向けていく祈り、

教会と自分の罪の悔い改め、

私の役目はボーダーラインとして悔い改め、外の代弁者となる

リバイバル(信仰覚醒)は悔い改めた者から始まる、私から悔い改めの取り扱いを受けます

私の裁く心、偽り、傲慢は主に嫌われるもの、私は徹底して悔い改めます

この教会、牧師には一切何も求めません

この取り組は私一人で取り組みます

教会の人たちと祈って行きたかったが、一緒に取り組む人がいなかったからです

私の動機は主がご存知です

もし不純なものなら、平安もなく、みことばの慰めもありません、神ご自身が裁かれます

もし動機が純粋であるならば、平安があり、みことばの扉が開かれ、新しい慰めが与えられ、主ご自身のあとおしがあります

キリストの体を離れて働くとき、人はずれやすくなる、だからこれは皆さんに与えられるものでなくとも、与えられたチャンスにこの取り組みをあかししていきます。」

最後のほうは意味不明…皆さんって誰?っていう感じだが、祈りと神様から語られた、まじった感じだろうか。

こんな祈りのメモはすっかり忘れていた。

今、一人でなく、祈り支えの中、神様がこのブログを用いてくれようとしている気がする。

イエス様が一人一人の牧者となり、養われ、喜びますよう祈ります。

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2009年5月28日 (木)

イエス様のいるところにいる

イエス様といるならば、どんなところにも行けるのかもしれません。

『わたし(イエス)に仕えるというのなら、その人はわたしについて来なさい。

わたしがいる所に、わたしに仕える者もいるべきです。

もしわたしに仕えるなら、父(神)はその人に報いてくださいます。』新約聖書 ヨハネの福音書12:26

4年ほど前、そのとき属していた教会でのこと。

教会員の義理の妹さんが26歳という若さで、不治の病になられた。私たち、小さな教会では、癒されるよう祈った。

その妹さんはイエス様を信じた。教会員の人は牧師に見舞いに行って欲しいと願った。が、なぜか牧師は行かなかった。

その頃、私は地元の病院で、「乳ガン悪性の疑い」と言われ、専門の医師がいる病院を紹介された。家から1時間半もかかる都内にある病院だった。

その病院が、教会員の義理の妹さんが入院している病院だった。

私は定期的に診察でその病院へ行った。そして、その妹さんを病院に行くたびに、お見舞いした。

教会の何人かで祈っていたので、彼女は不治の病で、死を前にしているかのようだったが、癒されると信じていた。お見舞いに行くたび、私は彼女と聖書の話しをしたり、祈ったり したが、神様の癒しを信じていたので、命細くなっていくかのようでも、なぜか、安心していた。が、彼女は亡くなられた。(天国へ行かれた。)

私は何もできなかった。なぜ、神様の備えの中、彼女のところへ見舞いに行くことになったかも良くわからなかった。

私の中で、一つ不思議だったのが、別の方の手術のときは喜んでお見舞いに行く牧師がなぜ、彼女を見舞わなかったか…ということ。

ある日、夕食を作っているとき、突然、聖霊様が教えてくれたような気がした。

「牧師は行きたくなかったのではない、行けなかったのだ。」と。

裁く気持ちとかは無かった。牧師は、自分を通して病の癒しが行われるのを強く願っていたのだと思う。回復の見込みのある方の見舞いには行けたが、死を目の前にしている方には、怖くて行けなかったのだと思った。(牧師は自分が行かない理由すら、気がつかなかったと思うが。)

それを教えられたら、なんか可哀想な気持ちすらした。

私たちは何もできないのである。何かできると思い込んだら、成功するか失敗するかに捕らわれるのかもしれない。

私は悲しみの、絶望の闇の中に、イエス様のともしびを持って行きたいと思う。

私は何もできないし、何も起こらないかもしれない。

そこにイエス様がいるなら、一緒に行きたい。

イエス様は言われた。『わたしに仕えるというのなら、その人はわたしについて来なさい。わたしがいる所に、わたしに仕える者もいるべきです。』

「わたしのいるところにいなさい。」と言われる。大切なことは、何かをしようとするのではなく、イエス様と共にいることである。

私と共にいてくださるイエス様がいるならば、私はイエス様とどこへでも行ける。

何かしようというのは無意味なのだ。イエス様と一緒に、悲しむ人、苦しむ人のところにいるだけである。何かをなさるのは、イエス様だけだから。

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2009年5月27日 (水)

“キリストのからだの痛み”を教えられた出会い

私が少しだけ、変えられたのは、友人Mさんによってでした。

『しかしこういうわけで、器官は多くありますが、からだは一つなのです。…

からだの中で比較的に弱いと見られる器官が、かえってなくてはならないものです。

また、私たちは、からだの中で比較的に尊くないとみなす器官を、ことさらに尊びます。…

それは、からだの中に分裂がなく、各部分が互いにいたわり合うためです。

もし一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、もし一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶのです。

あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。』新約聖書 第1コリント12:20~27

私のブログに何回も何回も登場した喧嘩友達Mさん。

彼女は親から虐待を受けて育ち、そのあとも言葉にならないような辛いところを通された。

彼女のような人には、私が語るような陳腐な神の愛は伝わらなかったのかもしれない。彼女は神様から天国を見せられ、イエス様を信じた。

彼女の希望は教会のリバイバルだった。神様の圧倒的な世界を見させられた人の自然な渇望だった。

が、信仰生活の中に、圧倒的な神様のみわざを見ることはなかった。

彼女が最後に属した教会は空中分解し、無くなった。私の属した教会でもあるが。

彼女は親に見捨てられたように、教会に、神様に見捨てられたような痛みが深く残った。牧師たちの外の人たちに対する冷たい対応が許せなかった。そして、いい知れぬ深い罪責感…私のせいで、すべてがこんなになってしまったのかもしれない…に落ち込んだ。

前にも書いたが、彼女と私の大喧嘩勃発の原因は、私が「癒されたら、また、ふさわしい教会を捜して行けばいいよ。」と言った発言あたりからだった。

「sebaさん、それ、おかしい、間違っているよ。」と言われた。『おかしいも何もそれぞれに信じているところでいいんじゃないの?』と私は心で思った。

そんな会話の後、何度か言い合いをした。私は心に決めた。『私は自分の信仰を否定されることほど、嫌なことはない。彼女の前では、“教会”というキーワードはタブーだから、私から言うのは辞めよう。』

その後、彼女は言った。「教会は行かなくていいんだよね。」私は喧嘩にならないように無言を保った。

彼女の気持ちを、あるとき、聖霊様によって知った。

「親から虐待され、その鎖が巻かれた彼女にとって、教会に行くということは、親のところに頭を下げて戻ることと一緒なんだ…。」と。

彼女はACグループ(アダルト・チルドレンのグループ)に通った。

そこでは、何を言っても許される。受け入れられる。「あんな親、ぶっ殺してやりたい!」とある人が叫んだらしい。

教会や私なら、「それでは、癒されるよう、憎しみがなくなるよう祈りましょう。」と言うところだろう。

教会の縛りから解かれ、彼女はアメリカに旅立った。彼女は、私に、「そのままでは、あなたはいつまでたっても外の声は聞こえないよ。」と教えてくれたのだと今、思う。

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“キリストのからだ”の回復のため、私が出来ること

“キリストのからだ”(見えない大きな教会=外のクリスチャンを含めた)の回復のため私は今、何が出来るか考えました。

『男は何かもらえると思って、ふたりに目を注いだ。すると、ペテロは、「金銀は私にはない。しかし、私にあるものを上げよう。ナザレのイエス・キリストの名によって、歩きなさい。」と言って、彼の右手を取って立たせた。

するとたちまち、彼の足とくるぶしが強くなり、おどり上がってまっすぐに立ち、歩きだした。そして歩いたり、はねたりしながら、神を賛美しつつ、ふたりといっしょに宮にはいって行った。

人々はみな、彼が歩きながら、神を賛美しているのを見た。』新約聖書 使徒の働き3:5~9

神様は、今、私にいろいろなことを教えてくれています。

私は、教会の中と外のちょうど、真ん中(教会の中のドア)にいる者です。

長い間、そこにいて教会批判してきましたが、神様によって本当に癒されました。

まだ、教会の中にかろうじている私は、外の人と一番接触したり、話しを聞きやすい者です。

私の喧嘩友達は、外にいて、私に「あなたは変わらなくてはいけない。」と言いました。そして、今、神様は、私が変わることを強く迫っている感じです。

なぜ、私が変わらなくてはいけないか?

私が教会の中と外の“壁”だからかもしれません。

イエス様はすべての人を赦し受け入れてくれますが、多くの教会が人間的に受け入れる枠を作り、その外に人がこぼれていきます。

私自身、教会の中にいて、傍観者のように教会と牧師を批判してきました。

けれども、それは、私が私自身を裁いてきたことと同じかもしれません。

私が変わる…私が外の人を理解し、受け入れることができれば、私は教会のギリギリのドアに立つものなので、その領域は広がるということです。

私はドアに立ちながら、外を見ています。聞こえなかった声を聞けるようになりたいです。

私が教会の中の者として外の人に出来ることはたくさんあります。

教会が何か足りずに、傷つけて、そっと去られた方に、謝ることができます。

痛みを共有し、祈ることができます。

私には、理解しにくいことでも、一緒 に聞く人、共感する人を捜してくることができます。

昨日、「迷える人」さんにettuさんが言ってくれました。

「ここには、是非、悩みだけを持ってきてほしいです。討論、批判、問答はここには似合わないと思いますから…。」と。

25年間、教会批判してきた私は言いたいです。「討論、批判、問答は誰のためにもなりません。何より、自分自身にダメージを与えます。」

悩みや、痛み、悲しみはいくらでもお付き合いしたいです。

それは一緒に祈り、癒されるためです。癒された人は、イエス様の赦しをたくさん受けます。多く、赦された人は、多く愛するのです。

見えないキリストのからだの癒しと回復は、外の人から始まると私は信じています。多く癒され、赦されるからでしょう。

痛みを負う人たちが癒されるために、私は何度でも、自分がしてきた失敗を証します。

すべての人が癒しと回復にいたるイエス・キリストのみ名が語られますように。

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2009年5月26日 (火)

権利を放棄する祝福

自分の権利を放棄する難しさを思います。

『そこで、アブラハムはロトに言った。「どうか私とあなたとの間、また私の牧者たちとあなたの牧者たちとの間に、争いがないようにしてくれ。私たちは、親類同士なのだから。

全地はあなたの前にあるではないか。私から別れてくれないか。もしあなたが左に行けば、私は右に行こう。もしあなたが右に行けば、私は左に行こう。』旧約聖書 創世記13:8.9

私がボランティア役員のリーダーをしていたときのこと。会計報告の計上の仕方で、他の方と意見が違った。私は、どちらが正しいかより、みんなで話しあって決めたかった。が、話し合いはされず、私の間違いとされ、まるめこまれた。なんだか、すごく口惜しかった。

すると神様が、「あなたが低くなるなら、ちょうどいいとき、高くされます。」と言われた。

「え?神様どういう意味ですか?」と聞いたが、私の宿題だったのが、その後の返事はもらえなかった。

自分の権利を放棄するというのは、難しい。私など、不可能に近いかもしれない。

しかし、アブラハムは自分がロトより年長者で、当然彼にある選択権をロトに譲った。

しかも、土地は子孫の約束とからんでいて、アブラハムにとっては、小さな問題ではなかった。それなのに、アブラハムはロトに選ばせ、残りのほうを受け取った。

イエス様のことを宣教して歩いたパウロは言った。

『では、私に(福音をのべ伝えて)どんな報いがあるのでしょう。それは、福音をのべ伝えるときに報酬を求めないで与え、福音の働きによって持つ自分の権利を十分に用いないことです。』(第1コリント9:18)と言った。

この世の中の常識では考えられない発言である。

なぜ、パウロがそう言えたのか。神様であるのに、すべてを放棄し、命まで捨てられたイエス様が迫って来て、パウロ自身、自分の権利を放棄してまで、福音を伝えたい情熱に駆られていたのだと思う。

アブラハムもまた、神様を信じる信仰によって、ロトに選択を任せた。

神様はそのアブラハムの土地を祝福された。

『さあ、目を上げて、あなたがいる所から北と南、東と西を見渡しなさい。

わたしは、あなたが見渡しているこの地全部を、永久にあなたとあなたの子孫とに与えよう。』創世記13:15

アブラハムは神様に信頼し、自分の権利を放棄し、なお、神様の祝福にあずかった。

「あなたの権利を放棄していれば、あなたは神様の時に高くされる。」と私は言われた。

それではその後の私はどうなったか、相変わらず、自分の権利を主張し、高くされる(神様の祝福を見る)にいたっていないような気がする。

###

神様、自分の権利を放棄することは、本当に難しいことです。

もし、私がイエス様によって、自分の権利を放棄できる生き方ができれば、世の中の人は不思議に思うでしょう。

そして、私たちのためにすべてを捨てられたイエス様の愛を知るのでしょう。

権利放棄できないものですが、イエス様によって、できる者へと変えてください。

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2009年5月24日 (日)

荒野にあった“神様の計画”

神様は私が祈った祈りがそのとおりになるため、30年の荒野を通してくれました。

『主は、あなたをエジプトの地、奴隷の家から連れ出し、燃える蛇やさそりのいるあの大きな恐ろしい荒野、水のない、かわききった地を通らせ、固い岩から、あなたのために水を流れ出させ、

あなたの先祖たちの知らなかったマナを、荒野であなたに食べさせられた。

それは、あなたを苦しめ、あなたを試み、ついには、あなたをしあわせにするためであった。』旧約聖書 申命記8:14~16

私が神様に出会った日、「神様、私を使ってください。」と願った。

神学校に入るとき、「神様、入ってよいか、神様のことばが必要のようです。」と祈り、神様は「主がお入り用です。」と壊れたレコードのように、繰り返し語ってくださった。

神学校を卒業し、「神様、私が神様のことばを伝えるための約束をください。」と韓国の断食祈祷院に行ったとき、神様は、「あなたがたの手で、食物を与えなさい。わたし(イエス)が奇跡をなすから。」と言われた。

28歳だった私は、「こんなに神様を伝えたいという情熱がある私なのだから、神様の願いと私の思いが合致しているのだから、神様の働きをするのに、何の支障もないよね。」と思った。すぐ、神様の働きが開かれると思っていた。

あれから、22年、私はかなり怠けた主婦業をしながら、PTA活動や地域ボランティアや、ランチにいそしんでいる。

神学校を出たときは、教会の中で働きたかった。漠然と、牧師になろうと思っていた。

が、神様はその道は開かなかった。教会嫌いの、人好きの主婦になっていた。

昨日も8年前に、PTA役員をやったお母さんたちとの飲み会があった。あんなに、神様の働きだけを追及していた私が、癒されて、普通の主婦に溶け込んでいる自分が不思議である。

人好きだから、ボランティアもランチも飲み会も、人と会うのは、すべて同じように楽しくてならない。

神様は私の心が癒されて「人好き」の賜物をくれた?と思うほど、人と関わるのが楽しくなった。

今、ブログを通して、私の人との関わりと祈りの領域は広がった。

そして、ブログは、私のまわりにあるすべてをとっぱらった私の一番大切にしている部分の分かち合いである。

それを、読みに来てくださる方たちがいて、ある人は毎日来てくれて、私の話しに耳を傾けてくれるという無言の、しかし、私の一番大切なものを聞いてもらうという深い交流をさせてもらっている。

私がなぜ、30年近く、教会生活に翻弄(ほんろう)されたか。それは、神様のマナ(聖書のことば)を荒野で食べさせもらうためだった。

そして、私は苦しみ、私は訓練され、今、大切な聖書のことばを大切な人たち(会ったことも話しをしたこともない大切な人たち…不思議である)と分かちあい、しあわせな生活に至っている。

人の計画と神様の計画は違う。「神様、私を使ってください。」「神様、あなたのことばを伝えさせてください。」という若き日の祈りは、きかれた。その祈りがそのとおりになるため、神様は荒野を歩ませてくださったと知った。神様の計画のその配慮のきめ細かさ、深さ、高さを思い、ただ神様をほめたたえる。

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2009年5月23日 (土)

“キリストのからだ”のための祈り

“キリストのからだ”が癒され、一つになるように、私の“キリストのからだ”への悔い改めの祈りをしました。

『私はひたすら沈黙を守った。よいことさえ、黙っていた。それで私の痛みは激しくなった。

私の心は熱くなり、私はうめく間に、火は燃え上がった。そこで私は自分の舌で、こう言った。…

主よ。今、私は何を待ち望みましょう。私の望み、それはあなたです。

私のすべてのそむきの罪から私を助け出してください。私を愚か者のそしりとしないでください。』旧約聖書 詩篇39:2.3.7.8

今日、自転車で遠くに出かけました。夜、帰り道、神様と話しをしていたら、聖霊様で胸が熱くなり、苦しくなり、自転車から降りて自転車を引きながら、神様に謝ることにしました。

「神様、私は長い年月をかけて、イエス様の十字架で、罪を告白し続けて、癒してもらいました。

私の心は聖霊様が住まわれ、溢れ、流れるような感じです。

それなのに、私は教会のことは、ほとんど祈ってこなかったです。ごめんなさい。

神様は私が癒されたように、キリストの体が癒されるのを願っているのを知っています。

今、私が教会に対して祈って癒しを願ってこなかったことを認めます。ごめんなさい。

イエス様の体である教会は見えない大きな体です。その半分は、共に集い、見える教会になっています。あと半分は見える教会から、そっと離れていった人たちです。

見える教会への罪を告白します。

私は25年間、教会を裁き、批判してきましたが、そのことを赦されたことを感謝します。

けれども、教会を手放し、期待しないところで止まっていました。

『自分の敵を愛し、祈りなさい。』とイエス様は言われました。教会は敵ではありませんが、“敵”は“自分に苦痛を与えるもの”とするなら、当てはまります。

教会のために祈らなかったことを赦してください。

見える教会はイエス様の体の半分です。そこがもし渇いているなら、聖霊による潤いを求めるべきでした。

見える教会から離れていった人たちの苦しみと痛みを知らずにすみませんでした。

これからは、ただ心を真っ白にして、その人たちのうめきと叫びを聞かせて、祈らせてください。

そして、その人たちの痛みと傷が神様によって、慰められ、癒されますように。

ドイツのベルリンの壁が両方から打ち砕かれたように、教会の外と中から打ち砕いてください。

教会の壁とは、イエス様の十字架以外のものです。神様の方法によって、壁を砕き、キリストの体をひとつとしてください。

イエス様の赦しにあって、一つとしてください。

私は自分がただ神様の御手で癒され、回復したので、同じように、痛んでいるイエス様のからだも癒され、回復し、一つとなることが信じられます。

どのようによってかは、今の私にはわかりませんが、あなたがなさることです。

キリストのからだが一つになる喜びも教えてくださり、ありがとうございます。

引き続き、キリストのからだのために祈っていきますので、導いてください。」

聖霊様が迫ってきて、胸が熱く、苦しくなります。頭は熱くなりません。もしかしたら、私の狭い容量の心が、イエス様の痛みを知れるように少しだけ造り変えられたのかもしれません。

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2009年5月22日 (金)

“契約”する神様

神様が今、私たちとしてくれた“新しい契約”とはどんなものでしょうか。

『わたし(神)はあなたがたと契約を立てる。すべて肉なるものは、もはや大洪水の水では断ち切られない。もはや大洪水が地を滅ぼすようなことはない。』旧約聖書 創世記9:11

聖書には、“契約”ということばがたくさん出てくる。

そもそも、新約聖書、旧約聖書の“約”が契約のことで、新しい契約の聖書、古い契約の聖書ということだろうから、聖書は、別の見方をしたら、契約の本かもしれない。

“契約”というと、何を思い出すか。私は、とにかく、引っ越し貧乏で、アパートを借りるたびに、“賃貸契約”をした。

私たちが結婚した頃は、貧しかったので、安い場所に住んだ。そこから、少しランクが上のアパートに引っ越ししようと契約をしにいくと、窓口にいたきつそうな受付の女性の人が、メガネの底からこっちをにらみつけ、「本当に月々支払えるんですか?」と言った。見通しが立っているから借りたのに、見た目で判断され、屈辱的な思いをした。

一般的に“契約”には、4つの要素があるとのことだ。当事者、条件、約束、罰則である。

たとえば、賃貸アパートを借りる場合、当事者は“家主”と“借りる人”、条件は“規則を守り、月々お金を支払う”、約束は“更新時まで、住むことができる”、罰則は“規則に反した場合、即刻出ていく”というようなところだろうか。

旧約聖書で契約と初めて出てきたのが、ノアの契約においてとのこと。この契約には神の恵みの一方的な特質がよく示されているとある。

“契約”の4つの要素に照らし合わせてみたい。

まず、当事者は“神ご自身”、条件は“無条件”、約束は“もう水によって滅ぼさない”、罰則は“無し”である。

つまり、神様は、一方的に、何の条件もなく、普遍的に、永遠に、決して再び洪水では滅ぼさないとした。

今、私たちは新しい契約の時代に入っている。

それはイエス・キリストによる契約である。神様と罪人である私は契約を結んだ。条件はイエス・キリストの十字架の赦しを信じるということ。約束は、私のすべての罪は赦され、神様の子どもになれる。罰則は、もし、信じなければ、罪の結果の裁きをうける。

イエス・キリストの十字架のおかげで、私は何も他に支払うことなく、他に付け足す条件もなく、神様の子どもになる契約が成立したのである。

私が、神様がくださった契約書には、「イエス様を信じます」という告白だけで、イエス様の十字架の支払いによって、神様から契約成立という判こを押してもらい、約束のしるしとして、聖霊様をいただいた。

様々な人間的な契約は、私の条件が吟味されるが、神様がなされる契約は、イエス様のゆえに、私たちの側は無条件であることは、素晴らしい。

###

神様、私たちは今、イエス様の十字架によって、新しい契約を結んでいることをありがとうございます。

イエス様の十字架の支払いが完全であるゆえ、何も他に付け足さす、私たちの条件は一切問われていないことをありがとうございます。

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牧師の前で、友人と大喧嘩(過去扁)

友人の引っ越しを手伝いながら、今まで経験したことのないような、天国のような平安を感じました。

『友はどんなときにも愛するものだ。

兄弟は苦しみを分け合うために生まれる。』旧約聖書 箴言17:17

私が喧嘩友だちのMさんと出会ったのは、5年前。預言者的賜物があるせいか(わからないが)、彼女は優しい反面、ズバリと指摘してくる手厳しいところがあった。

私たちは小さな教会で女性3人で祈り会をしていた。そこにMさんがやって来て、言った。

「みんなさぁ、牧師のいないところで、牧師の悪いところ言うの、やめたほうがいいよ。」私は、「言えないから、こうして祈っているんだよ。」彼女いわく、「言えないって、誰だっていいたくないけど、言っているんだよ。」

ある日、牧師を囲んで、教会のことについて話す場所を作った。私とMさんは、「牧師に思っていることを言おう。」と前日、打ち合わせ済みだった。

ところが、どうしたことか、牧師を前に(牧師はかやの外)私たち2人の激しい言い合いになった。

「sebaさん、あなたが言いたいことを牧師に言わないからダメなんだ。」と言われる。「だから、Mさんみたいに言える人ばかりじゃないんだよ。」「言え!」「言えない!」「言え!」「言えないってば!」

牧師はオロオロしていた。

私たち仲がいいときは、本当に親密だった。が、「変われ!」「変われない!」という喧嘩になると最悪な感じだった。

そんな彼女がアメリカ行きが決まり、最後の2日間、引っ越しの手伝いをした。何を話す訳でもなく、船便荷造りなど、ひたすら手伝った。

ときおり、ご主人の英語とMさんの日本語のやり取りなど、聞きながら、私は今まで感じたことのないような、Mさんと共に過ごす空間に浸っていた。

何故、あんなに幸せを感じたのか…今、わかった気がした。

彼女は、教会の外にいるクリスチャン。彼女を少し理解するのに、5年もかかった。何度も、似たような喧嘩をしながら。

そして、もうしばらく会えなくなる、引っ越し手伝い日は、きっと天国で味あうような、“和解”のときだったかもしれない。赦しあっていないとか言うのではないから“和解”という言葉がふさわしいか…わからないが。

彼女は、私にとって、教会の外の代表だった。彼女に「変われ」と言われた。「変われって言われてすぐ変われないよ。」と言った。

私は教会の中の人と外の人の間に立つ人間。

外の人が何を感じ、苦しんでいるか、彼女からたくさん教えられた。

「変わりなさい。」と今神様から言われている気がする。祈らなかった教会のために祈るように。外の人の声をまっさらになって聞けるように。

あの日、私は教会の外の人と、和解した体験だったのかもしれない。

彼女は、別れ際、私をハグしてくれて、「sebaさんは私の本当の友だちだよ。」と言ってくれた。私もそう思った。

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2009年5月21日 (木)

ノアの涙

ノアの話しを通して、教えられた分かち合いです。

『主(神)は、地上に人の悪が増大し、その心に計ることがみな、いつも悪いことだけに傾くのをご覧になった。

それで主は、地上に人を造ったことを悔(く)やみ、心を痛められた。・・・

そこで、神はノアに仰せられた。「すべての肉なるものの終わりが、わたしの前に来ている。地は、彼らのゆえに、暴虐で満ちているからだ。それで今わたしは、彼らを地とともに滅ぼそうとしている。…

しかし、わたしは、あなたと契約を結ぼう。』旧約聖書 創世記6:18

“ノアの方舟(はこぶね)”と言うと、可愛いお舟に、ゾウやら、キリンやら、ウサギやら…顔を出している絵が浮かぶ。

私も何回も、教会学校で子どもたちに話しをしてきた。妙に、明るい、楽しいイメージがついている。

今回、祈って神様から2つのことを教えられた。

ノアの方舟の話しとは、神様が、人々が悪に満ちているのを嘆き、水で一掃しようとされる。しかし、神様に喜ばれる存在のノアと家族は、動物たちとともに、神様の教えてくれた方舟を作り、それに入って助かる。イエス様を信じるものは、同じよう、さばきから守られることを象徴している。

教えられた一つめ。私たちは、イエス様信じて、方舟に乗ろう…とよく言われる。

しかし私はその時代に生きていたら、確実にノアではなく、“悪いことにだけ心が傾く人”、裁かれ、滅ぼされる側の人間だった。

私は神様から見たら、嘆かれ、悔やまれ、悲しまれ、裁きをうける者だった。

ノアの話しは、そんなに明るい楽しい話しではないのではないか。

教えられた2つめ。ノアが方舟の中で、何を思っていたかということ。

私があまりノアの話しに身近さを感じないのは、ノアが立派すぎる人のイメージがあるからかもしれない。(雨も降らない中、ただ神様を信じて、人々にバカにされながら、黙々と方舟を作っていた。)

ノアは、方舟を作りながら、他の人たちに、神様の計画を話し、悔い改めるよう説得したかもしれない。誰もノアの話しを信じなかった。

ノアは家族と方舟に入り、大雨が40日40夜降り続いたとき、神様に守られたと、楽しんだだろうか。

ノアは泣き崩れて号泣したかもしれないと想像したら、なんだかノア自身が、すごく身近かに感じられた。

ノア自身は神様を信じて、裁きから免れたが、家族以外は、すべての人が裁かれ、水の中、死んでいった。

「神様、私は一人も神様を信じるよう、伝えられませんでした。」ノア自身、自分は助かったが、自分の無力感を感じていなかっただろうか。

自分たち以外は、裁かれ、死んでいく。今、イエス様を信じなかった人に起こることは何か。もう水で滅ぼされることはないが、次は火による裁きが予告されている。

私は笑うクリスチャンでいるより、裁きを見せられながら、泣いて祈る者でありたいと思った。

私は今、イエス様によって、裁きから守られている。私が方舟に乗れた(イエス様を信じられた)のは何故かわからない。

けれども、なんのために乗っているかはわかる。うしろの戸(創世記7:16)が閉ざされる前に、一人でも多くの人が一緒に方舟に乗れるよう、祈るためである。

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“聞く”能力

ブログ近況報告です。

『神である主は、私の耳を開かれた。』旧約聖書 イザヤ50:5

私のブログ訪問を定期的にしてくださる方々に、いつも、感謝しています。

いつも話しますが、私にブログを毎日書かせる動機は「訪問してくださる方がいる。読んでくださる方がいるから書こう。」ということです。

それは我が家に訪問してくださる方のために準備して、ワクワクしながら、待つ…そんな感じです。

私が、おもてなしの中で大切にしたいことは、「私は、あなたと親しく、楽しく、深くお話しをして、関係を深めたいのです。」ということですね。

私は、実生活では、「聞き上手だね。」と友人から時々言われます。私に与えられている能力、賜物の一つと思います。

これは、心が癒されてから、顕著になりました。私は、最高の相談者である神様に何でも相談して、安心しているので、聞いてもらって嬉しいことが人にもしたいのかもしれませんね。

ブログは“書く”という作業ですが、ここでも、私は神様から“聞く”“教えてもらう”という作業をフルにしています。私のわずかな聖書知識や、アイデアでは書けません。だから、“書く”という作業をしながら、私自身が神様から“聞く”ことをしているので、楽しくて仕方ありません。

最近、もうひとつ“聞く”場所が開かれ始めているように思います。

“教会の外にいるクリスチャンの声を聞く”ということです。

私はこの“外にいるクリスチャンの声”を聞いて祈る、もしくは、聞いて、“教会の中の人に伝える”そんなことを任されているような気がしてきました。

今、神様から“聖書の恵みのメッセージ”と“外にいるクリスチャンに対するメッセージ”同時に両方教えられています。

ここでのブログの神様から教えられた聖書の話しは、私にとってもかけがえなく、ずっと続けさせてもらおうと思っています。

もう一つの“外のクリスチャンが神様の約束を体験する”ことを見るために、“聞いて書く”作業はしばらく、合間合間にいれさせてもらいます。

もし、導かれたら、後者のほうだけを新しいブログ開設にして、いつかお引っ越しするかもしれません。

それまで、両方にお付き合いください。聖書の話しは、祈りつつ、1日一つはアップしたいと願っています。

また、コメントの少ないブログでしたが、新しいテーマのせいか、最近時々、コメントをいただいています。交流好きの私としては、幸せ倍増です♪

お時間があったら、コメントも是非、読んでください。私の思いを強力にサポートしてくれ始めたettuさんの思いも綴られています。

神様の良いものをたくさん、分かち合えますよう、心からお祈りしています。

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2009年5月20日 (水)

“教会の外にいるクリスチャンへの約束”

教会の外にいて、痛んでいるクリスチャンのためにお祈りしたいです。

『わたし(神)が彼らを、その地、イスラエルの山々で、一つの国とするとき、ひとりの王が全体の王となる。彼らはもはや2つの国とはならず、もはや決して2つの王国に分かれない。…

わたしのしもべダビデが彼らの王となり、彼ら全体のただひとりの牧者となる。…

わたしは彼らと平和の契約を結ぶ。これはとこしえの契約でとなる。わたしは彼らをかばい、彼らをふやし、わたしの聖所を彼らのうちに永遠に置く。

わたしの住まいは彼らとともにあり、わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。』旧約聖書 エゼキエル書37章

私は25年間、教会に通いながら、教会や牧師を非難し、裁いてきました。

私の信仰生活は、神様から直接の癒しを受けながらも、教会に対しては、苦痛を感じるだけの者でした。

私の日常の一番の悩みは、長い間教会のことでした。

教会は幾つか変わりましたが、よく、教会に行き続けたと思います。それは、ただ神様が私を捕らえてくださっているゆえのあわれみと思います。

4年程前、神様の恵みの中で、関わってきた教会、牧師を赦しました。手放しました。そこに期待することを一切やめることができました。

すると、不思議と、イエス様の十字架の赦しと神様の私への溢れるばかりの思いが注がれました。

目に見えるところから手を引き、ただ神様に信頼する生活が始まりました。

最近、目に見える教会に連なっていないクリスチャンのことをとても考え、祈るようになっています。

イエス様の赦しをいただき、「天のお父さん」と呼ぶ聖霊の救いのあかしをいただいているのに、神様を共に喜ぶ交わりがないため、痛んでいる人たちがたくさんいるのかもしれないと思いました。

4年前、神様がエペソ2章を通して、イエス様の十字架で、教会に集う人たちも教会に集っていない愛されているクリスチャンも、神様はひとつとしてくださるという約束を神様から聞きました。

まだ、教会の外にいるクリスチャンのために、そんなに祈っていないときだったので、良く分からなかったけど、約束の意味は漠然とわかりました。

今日、聖霊様がエゼキエル37章を通して、2つのものをイエス様によって一つにしてくださる約束、そして、神様の臨在(聖所)によって、神様と共にいる幸いの約束を神様から教えられました。

教会の中が、きよめられ、エゼキエル47章のように、聖霊の川が外に溢れますように。

教会の外にいる人たちに癒しが与えられ、神様の臨在の中、神様を崇めていけますように。

『ただわたしのしもべダビデ(イエス・キリスト)が彼らの王となり、彼ら全体のただひとりの牧者となる。』

イエス様によって平和が与えられ、2つのものを一つにし、隔ての壁が打ちこわされますように祈ります。(エペソ2:14)

私ができることは、お祈りすることだけかもしれませんが、癒しと回復と主の臨在を体験できるよう祈ります。

祈りの課題をくだされば、お祈りします。

神様の約束のみことばを信じる方は、共にお祈りしましょう。コメント欄にハンドルネームだけでもくだされば、お祈りします。

共に神様のみわざを祈り、神様がなしてくださる約束と回復を見ていけますように祈ります。

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2009年5月19日 (火)

天国に移される日

私が天国へ移される日、エノクのようでありたいと願います。

『エノクは神とともに歩んだ。神が彼を取られたので、彼はいなくなった。』旧約聖書 創世記5:24

天国に行くとはどんな風か。ハ・ヨンジョ師の本に、次のような記事があった。

「神様は、朝にエノクの家のドアをノックする。そして、神様は彼を共に過ごす場所へと誘う。エノクは喜んで、神様と出かける。

そして、次の朝も、またその次の朝も…神様はエノクを誘いに来る。エノクは喜んで、毎日、お弁当をもって一緒に出かける。

ある朝、「さあ、愛する人よ。今日は私と遠くに出かけましょう。」と言われる。

「はい、もちろん。喜んで、一緒に参ります。」そうして、エノクは、大好きな神様と遠くに出かけ、家に戻ることはなかった。」

こんな感じの話しだった。

私はとても分かりやすいこの描写が、心に残った。

天国ってどんなところか?地上にいるとき、神様と共にいる喜びを知っている人が、天国で神様と共にいられる素晴らしさを思い描けるのではないか。

私は天国を待ち望んでいるだろうか。

私の今の正直なところの祈りはこんな感じである。

「神様、今、息子は13歳です。どうか、息子が一人立ちするまでは、私を地上においてください。

最近、ブログを通して、たくさんの霊的な祝福をいただいています。もう少し、この地上において、楽しませてください。」

この祈りが神様から見てどうなのかは、わからない。けれど、私はいつか神様の臨在される天国にいくんだなぁとは思っている。

「さあ、今日は私と遠くに行こう。」と神様から言われたとき、「ちょっと待ってください。まだ、やろうと思ってやっていないことがあるので…。」とならないよう、与えられている日々、神様と共に歩みたい。

♯♯♯

神様、あなたが私たちに素晴らしい天国を用意してくださっていることをありがとうございます。

私たちは100%肉体の死を経験しますが、その死すら神様にあっては、慰めと希望であることをありがとうございます。

どうか、この永遠の慰めと希望がたくさんの人たちのものとなりますよう祝福してください。

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2009年5月18日 (月)

“買い戻された”神

私は、神様からどれだけの価値があるか、それは“買い戻された”代価でわかります。

『神である主は、アダムとその妻のために、皮の衣を作り、彼らに着せてくださった。』旧約聖書 創世記3:21

アダムとエバは神様との約束をやぶり、善悪の木の実を食べてしまい、目が開かれ、裸を恥ずかしく思った。神様は動物の皮の衣を作り、着せてくれた。

動物を殺し、その皮で衣を作り、着させてくれた…これは神様に近づくための旧約の時代のいけにえが暗示されている。

神様の前に罪などをつぐなうために、動物の命である血が使われた。

新約においては、イエス様が、そのいけにえとなり、私たちの罪を償ってくれた。

神様はこのいけにえの血によって、罪ある人を“買い取る”ということをした。

この“買い取る”ということばは、“あがなう”と言うことばで使われている。

『ご承知のように、あなたがたが先祖から伝わったむなしい生き方から“あがない出された”のは、銀や金のような朽ちる物にはよらず、傷もなく汚れもない子羊のようなキリストの、尊い血によったのです。』第1ペテロの手紙1:18.19

もし、自分の大切な誰かが、過ちをおかし、牢屋に入ったとする。その罪のつぐないを、身代金がわりに私の子どもを差し出せと言われたら、絶対にできない。まだ、借金してでも、お金を工面することならできるだろうと思った。

そのとき、『銀や金のような朽ちるもの』の意味がわかった気がした。それは私を“買い戻す”には役にたたないのだ。神様の一人っ子であるイエス様の命の血という大きな代価だけが、私を買い戻すために使われたという意味がとても身近に差し迫ってきた。

私をこの世から“買い戻す”ために神様は一番大事なもの…お金になどには変えられない一人の子どもの命を差し出してくれた。

私は神様に尊い代価で買い取られ、神様の子どもにされた。この事実を前に、私は神様に何をお返しできるだろうか…。

お返しできるものは何もないのである。

神様がイエス様の命で買い戻されたのは、私のお金や神様に喜ばれる行いが欲しかったからではない。神様がイエス様の命の代価で買い戻されたのは“私自身”そのもののためだった。

♯♯♯

神様が、もっとも大切にされているイエス様の命で、私を“買い戻す”ことをしてくださり、ありがとうございます。

私はお返しするものは何もありませんが、私自身を差し出します。私をきよめてください。

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人を動かす“十字架の力”

『ユダヤ人はしるしを要求し、ギリシャ人は知恵を追及します。

しかし、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えるのです。

ユダヤ人にとってはつまずき、異邦人にとっては愚かでしょうが、しかし、ユダヤ人であってもギリシャ人であっても、召された者にとっては、キリストは神の力、神の知恵なのです。』新約聖書 第1コリント人への手紙1:22~24

2日前、私のブログ人生の中で初めて(って…まだ10か月だが)コメントを5個もいただいた。

そして「毎日更新、凄い」とのお褒めのことばをいただいた。

「パパ、毎日更新凄いねってほめられたよ。」というと、主人すかさずこう言った。

「はい、私(sebaのこと)は、日夜、家事も忘れて、何にも優先して書き続け、疲れては休息し、また、書き続けるのでした。」

まさにそんな感じ…。私も主人と大笑いした。

コメントで、「キリスト教ってシンプルですね。」といただき、まさに、そのとおりと思った。

今から一年前。私が日曜日の礼拝に行くたび、「イエス・キリストの十字架!!」というイメージが礼拝場所を包んでいた時期があった。

そして、「イエス・キリストの十字架が一番大事なんですよね。神様。」と祈っていたとき、「そうか!イエス様の十字架がなかったら、神様との交わりも何もないのか。神様とは出会えなかったんだ。」と、その十字架の恩恵を改めて、ひしひしと思った。

私の今日のビッグな出来事…それは私のためにイエス様が十字架にかかってくれたこと…すべてはそこから出発する。

私は意志も弱く、努力家ではない。もし意志が強く、努力家だったら、挫折して神様のところにたどり着いていなかった。

何もできない私を動かしているもの、それは、イエス・キリストの十字架の愛なのだと思う。

十字架だけが凄いと思えたのは、本当に最近だが、きっと、理屈を越えたところで、造り変え、動かしてきてくれたのは十字架の力なのだと思う。

「教会行かなくていいよ。」「聖書に従わなくていいよ。」とか言ったら、非難を浴びそうである。異端児扱い!?

だけど、「十字架以外に大事なものはない。」と言いたい。十字架の愛の力だけが、人を変え、人を動かすから。

「十字架を信じているなら、これをしろ、あれをしろ。」と思うかもしれないが、十字架に突き動かされたら、きっとじっとはしていられない。

私はブログ中毒…大丈夫か…と思うが、イエス・キリストの十字架に今、新たな思いで出会い、分かち合いたい気持ちが溢れている。

ブログ訪問してくださり、読んでくださる方々に心から感謝しています。

そして、「イエスの十字架だけが大事なんだ!」と共感してくださる方が増えてほしいと願っています。本当の神様の恵みはイエス様の十字架から流れています。

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2009年5月17日 (日)

“いのち”につながっている

イエス様の十字架で、私たちは“いのちにつながっている”ことを思います。

『もしひとりの人の違反により、ひとりによって死が支配するようになったとすれば、なおさらのこと、恵みと義の賜物とを豊かに受けている人々は、ひとりの人、イエス・キリストにより、いのちにあって支配するのです。』新約聖書 ローマ人への手紙5:17

アダムとエバによって、“霊的な死”が入った。

“霊的な死”は、神様とのふさわしい関係が切れること。その結果、人は自分や人や状況の中に縛られるようになる。

イエス様の十字架によって、信じる者には、“霊的ないのち”が与えられた。

“霊的ないのち”とは、神様とつながること、神様との関係がもてること、神様から良いものをいただけること。

“霊的ないのち”をわかりやすく説明しているのが、ヨハネの福音書15章にある“ぶどうの木と枝のたとえ”と思う。

そこでは、神様が農夫で、イエス様がぶどうの木、私たちがそこにつながっている枝だとある。

枝である私たちは、ぶどうの木の養分をもらって生きる。

『あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。』ヨハネ15:7

この聖書のことばは、「神様に従うなら」とか「聖書の言うとおり行うなら」と、私は勘違いしていた。

これは、イエス様につながっているなら…つまり枝となって、ぶどうの木につながっているならという意味と最近知った。

「わたし(イエス)にとどまるなら何でもも求めなさい」と、私は神様から言われ、「え!?神様に喜ばれることを求めるのでなく…何でもですか?」と聞いたことがあった。

最近、その意味がわかってきた。つまり、イエス様につながっていたら、イエス様の願うことを自然に考え、願う。それが、イエス様の木につながる枝ということ。

そして、一人一人違う個性や働きや能力が与えられているので、イエス様色のいのちが流れて、何を願うかは、実は、みんな違うということ。

私はイエス様のいのちを注がれて、私だけが願うことがあり、私だけが結ぶ実があるということ。

これが、イエス様のいのちが自分に流れているということだと思う。

だから、教会みんなで、同じ方法で伝道したり、同じ方法で何かをやるのは、いのちの法則では、ちょっと無理があるかもしれないと最近思うようになった。

イエス様は十字架で、私たちをイエス様のいのちにつなげてくれた。

私は何もできていないようでも、イエス様のいのちは脈々と私の中に流れている。

♯♯♯

私たちは神様に喜ばれているか、喜ばれていないかなど、気になりやすいですが、それは関係なく、すでに、イエス様の十字架によって、いのちを受け継いでいることをありがとうございます。

イエス様が、私たちにいのちの栄養を流して、イエス様の実を結べるようにしてくれていることをありがとうございます。

そのいのちの結果の実をたくさんつけられるよう、私たちを祝福してください。

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2009年5月16日 (土)

教会の外のクリスチャンへ、ettuさんへ

昨日からずっと思っていることです。私の願いと祈りです。

『女が自分の乳飲み子を忘れようか。自分の胎の子をあわれまないだろうか。たとい、女たちが忘れても、このわたし(神)はあなたを忘れない。

見よ。わたしは手のひらに、あなたを刻(きざ)んだ。』旧約聖書 イザヤ書49:15.16

昨日の日中、ちょうど、キリストの体=教会について、お祈りしていました。

「日本の中の“見えないキリストの体”(イエス様を信じているすべての人)の半分は教会に行っていない人たちでしょうか。

その中で私が出会える人は何百万分の一にも満ちません。

神様、どうかその教会に行っていない半分のクリスチャンを覚えてください。

私は目に見える私が関わった教会を赦し、手放し、期待することをやめました。

そして、教会の外のクリスチャンのために祈ってきました。

けれども、もしかしたら、教会の中こそ、欠乏しているのかもしれません。

日本は、過去の戦争など、事実の罪を悔い改めない国と言われています。日本の上空は、黒い悪霊の雲でおおわれ、神様の働きが妨げられているのかもしれません。

教会にも神様が働きにくいのかもしれません。

私は教会の外にいるクリスチャンに関心がありますが、教会の中がきよめられ、聖霊に満たされたら、そのきよい水が、エゼキエル47章のように、外に流れるのかもしれません。

私自身、赦され、癒され、きよめられ、神様の溢れる愛に包まれました。

教会の外の人たちのために、中を祈っていくことが必要なのかもしれません。

神様が、少しずつ、私の祈りを変えてくださることをありがとうございます。」

そんな祈りをしていました。その夜、今は教会の外にいるというettuさんより、コメントをいただきました。

このブログは始めはノンクリスチャンの友人への神様の紹介と思って書き始めました。

だから、本心の教会への苦痛の体験を書き出したときは、すごくためらいました。ノンクリスチャンの友人が、「教会ってそんなに大変なところなの?」と思われたら…せっかく神様のすばらしさを伝えたいはずなのにと。

でも、書いていくうちに、私が人と分かち合えることは、教会で苦しんだ25年の信仰生活から生み出されたものだったと気がつかされました。

ettuさんのコメントを読んで、「神様、教会の外の人たちのために、私、もっと何かできないでしょうか。」と思っています。

教会の外にいるクリスチャンの苦悩。変わらず、神様に愛されているのに、違うメッセージを受け、失望している人たちに、神様は「あなたをそのままで愛している。恋人の名前を手のひらに刻むように、あなたの名前を刻んでいる。」と、言っています。

私ができること、神様が願っていること…神様に聞いていきます。

ettuさんの傷が完全に癒されるよう、祈ります。そして、一緒に外のクリスチャンの癒しのために祈りましょう。神様が良いことをしてくださることを信じて。

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2009年5月15日 (金)

自分を所有する大切さ

“責任転嫁する”に対するのは“自分を所有する”ということかなと思います。

『すると、(神は)仰せになった。「あなたが裸であるのを、だれがあなたに教えたのか。あなたは、食べてはならない、と命じておいた木から食べたのか。」

人は言った。「あなたが私のそばに置かれたこの女が、あの木から取って私にくれたので、私は食べたのです。」

…女は答えた。「蛇が私を惑わしたのです。それで私は食べたのです。」』旧約聖書 創世記3:11~13

アダムとエバが、神様との約束をやぶり、善悪の木の実を食べると、目が開け、裸を隠し、神様から隠れた。次にしたことが、“責任転嫁”(せきにんてんか)、つまり、約束をやぶったのを、人のせいにしたことだった。

神様は、人を造られたとき、その人の範囲を設けた。

人のせいにする生き方は、楽なようで、実は、自分の問題としてふりかかる。

「境界線」の本に次のようにある。

「境界線は私たちを定義する。何が私であり、何が私でないか、私はどこで終わり、私はどこから始まるか。それによって、私は自分に関する所有権を意識する。」

私たちが、自分の責任を負わないということは、自分を所有することができないことにつながる。

自分の責任を所有するということは、自分の範囲がわかるだけでなく、自分の外を明らかにする。そして、その自分の外には責任を負わなくて良くて、影響されない。

私は親の過保護、過干渉によって、育てられた。だから、境界線が壊れていた。どこから人で、どこから自分か区別がつかず、人の言動に一喜一憂して振り回されていた。

そんな私が、長い年月をかけ、健全な境界線が与えられた。それは、イエス様に自分の責任の分を認め、告白し続けることによってだった。

自分の責任を認めるというのは、しんどいことのように思うが、自分を所有することにつながる。

『まず自分の目から梁(はり=大きな柱)を取りのけなさい。そうすれば、はっきり見えて、兄弟の目からも、ちりを除くことができます。』マタイの福音書7:5

私には、ここは、「あなたが自分の責任部分を認めるなら、あなたは、自分を所有し、そして、人をも尊重できる。」という意味合いがあるのだなぁと思う。

イエス様は私たちの責任部分を赦し、癒してくださり、誰からも踏み込まれることのない自分をもう一度私たちに所有させて、楽しませてくださる。

###

イエス様の十字架によって、私たちは誰にも振り回されず、自分を所有して生きていけることをありがとうございます。

責任転嫁しやすい弱さも赦し、癒してください。

あなたを喜ぶ私を所有させてください。

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2009年5月13日 (水)

「あなたは、どこにいるのか?」

「あなたは、どこにいるのか」と、今、神様から問われたら、私はどう答えるかと思いました。

『そよ風の吹くころ、彼らは園を歩き回られる神である主の声を聞いた。それで人とその妻は、神である主の御顔を避けて園の木の間に身を隠した。

神である主は、人に呼びかけ、彼に仰せられた。「あなたは、どこにいるのか。」

彼は答えた。「私は園で、あなたの声を聞きました。それで私は裸なので、恐れて、隠れました。」』旧約聖書 創世記3:8~10

善悪の木の実を食べたアダムとエバは、目が開かれた。自分たちの裸を知り、裸を隠した。そして、創世主なる神様を避けて、身を隠した。

それは、造り主なる神様を知らなかったときの私の姿そのものだ。自分を見るとそこに良いものはなく、様々な欲望と惨めさと愚かさがあって、それを隠す毎日だった。が、何の解決もなく、その愚かな自分に埋没していくだけだった。

「あなたはどこにいるのか」と神様はアダムとエバに聞かれた。

「あなたはどこにいるのか」…造り主なる神様との関係をもっていないとき、私はどこにいるかわからなかった。私は何者なのか見い出せなかった。私は何に向かっているのか知らなかった。

今、私はどこにいるか…イエス様の十字架のもとにいる。私を赦してくれた方の前に、安心して、裸の自分をさらけ出し、なお、赦され、おおわれていることのあわれみと慰めの中にいる。

完全なるイエス様の前に、恐れることなく立つことが出来る。それは、ただイエス様の十字架があるから。そのイエス様がかかられた十字架は、私の裸のすべての恥のためであった。もう、イエス様の十字架で全部処分されたので、裸のままで隠すことなく、イエス様の前に立つことが出来る。

この残りの生涯、イエス様の十字架のもとに立ち続けたい。

イエス様はそこから、真実を示してくださり、いのちを注いでくださり、神様との親しい関係にいれてくださる。

『わたし(イエス)が道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。』ヨハネの福音書14:6

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2009年5月12日 (火)

“善悪の木の実”はもう食べなくていいんだよ。

私たちクリスチャン生活で、まだ、“善悪の木の実”を食べて苦しんでいる人を見ます。

『そこで、蛇は言った。「あなたがたは決して死にません。あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目は開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。」…

そこで女はその実を取って食べ、いっしょにいた夫にも与えたので、夫も食べた。

このようにして、ふたりの目は開かれ、それで彼らは自分たちが裸であることを知った。そこで、彼らは、いちじくの葉をつづり合わせて、自分たちの腰のおおいを作った。』旧約聖書 創世記3:4~7

私はある時、この聖書の箇所から、“神のようになる”ということはどういうことか、教えられた。

それは、神様ではなく、自分が正しいとすることなのだ…ということ。自分の中にある知識、感情、意志が正しいと生きることだと。

しかし、私たちは不完全で間違いやすく、私たちの中に完全な正しさはない。

そして、自分を神にすると、その不完全な“自分という神”に振り回され、悩み、ゆきずまるのだということが、私自身において、実証済みなのを思った。

マクベイ師は「恵みの歩み」の本で次のように言う。

「クリスチャンの価値基準を放棄することを強く勧めます。…価値基準に目を向けることは、私たちの生ける神のみこころではないのです。そのようにすることはいくつかの害を及ぼすことになります。…

善悪にとらわれると、神様よりも自分に目を向けるようになります。…

善悪にとらわれることは主の徳ではなく、人間の価値基準を強調します。…

善悪にとらわれることは命ではなく、律法を強調することになります。…

人生における問題意識は「これを行うことは正しいのだろうか。」ではなく、「今、自分はキリストにつながっているだろうか」です。…

自分の行動に目を向けていくのではなく、キリストによって、神との関係に基ずいて人生を立てあげるようになるのです。」

とてもコンパクトにまとめたので、分かりにくいかと思う。

つまり、エデンの園では完全に神様とのふさわしい関係に生かされていた。善悪の木の実を食べて以来、人は、神様との関係が切れて、自分に目を向けるようになり、自分のしたことが“良いか悪いか”その価値基準に縛られた。イエス様の十字架で、私たちはすべて赦されたので、もうその価値基準から解放され、もう一度、神様をただあがめる、喜ぶ生活に戻された。

しかし、クリスチャンは聖書から「赦しなさい。愛しなさい。」「神様によりより頼まなければならないのです。」などと語られるたびに、これは出来ている、これは出来ていない…などと“新しいクリスチャンとしての価値基準”を持ち、苦しむのだ。

何が良いか悪いか、何が出来ているか出来ていないか…は神様からしたらまったく関係ないのだ。もっと言うなら、「私は愛することも、神様が聖書で求めることも全て無理です。出来ていません。」と私は告白する。

そんな私のためにイエス様が命を捨てて、十字架にかかってくれた。神様にとって、神様に従えないことは、イスラエルの民の歴史で明らかであった。

もう一度、イエス様が十字架にかかり、私たちは赦されたのに、アダムとエバのところまで戻って善悪の木の実を食べる必要はない。

“私が十字架で赦されたということを大切にする”ことだけが、私が自分の行動の良し悪しを見るのをやめて、赦されたイエス様に感謝して、応答して生きていける…霊的に死んでいたものが、もう一度神様とつながって生きることなのだと思う。

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“善悪の木の実”を食べた結果(創世記3)

『女は蛇に言った。「私たちは、園にある木の実を食べてよいのです。しかし、園の中央にある木の実について、神は、『あなたがたは、それを食べてはならない。それに触れてもいけない。あなたがたが死ぬといけないからだ。』と仰せになりました。」

そこで、蛇は女に言った。「あなたがたは決して死にません。

あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。」』旧約聖書 創世記3:2~5

サタンである蛇は女に言った。「善悪の木の実を食べても、あなたは死なない。神のように善悪を知るようになる。」と…。

それまで、エデンの園に“死”はなかった。が、神様が「取って食べるその時、あなたがたは必ず死ぬ」(創世記2:16)と言われたので、“死ぬ”と言う概念はあったのだと思う。

エバが善悪の木の実を食べた瞬間、どうなったか…。バッタリ倒れて、息絶えたら分かりやすかったが、そうはならなかった。

善悪の木の実を食べたとき、2つのことが起こった。一つが肉体的な死が入った。

『あなたは顔に汗を流して糧を得、ついにあなたは土に帰る。あなたはそこから取られたのだから。あなたはちりだから、ちりに帰らなければならない。』創世記3:18.19

神様との約束をやぶった結果をそのように宣告された。

もう一つの死が入った。“霊的な死”と言われる。

善悪の木の実を食べないときは、神様と人間は、ふさわさい関係にあった。造られた者が、造った方をあがめる、喜ぶ関係であり、自分たちが裸で大丈夫なほどの関係だった。

が、食べてはならない善悪の木の実を食べたことによって、そのうるわしい均衡は破られた。

“霊的な死”というのは、神様とのその関係が切れたことを意味するのだと思う。

サタンである蛇が言った。「善悪の木の実を食べるとき、あなたがたは神のようになり、善悪を知るようになる。」

そのことばは、エバに魅力的だった。今の私たちにとっても魅力的だと思う。

まさに、嘘をつくのが得意なサタンは、「今よりずっとすばらしいことが起こる」と誘惑した。

善悪を知るようになるとはどういうことか…が“霊的な死”と関係がある。

マクベイ師の「恵みの歩み」に次のような文がある。

「善悪の木の実を食べるかどうかは、生か死の選択、神に完全により頼んで生きるか、神から独立するかということ。…彼女らは禁止されていた木の実を食べた。すると突然彼らの目は開かれた。初めて善と悪を意識した。その日以来ずっと彼らの人生は、善悪の価値基準によって裁かれる人生となった。」

なぜ、善悪の価値基準が入ったことが“霊的な死”なのか長くなったので、「恵みの歩み」を引用しながら、次のブログに書くことにする。

私たちは、知らない間に、イエス様によって、神様との関係を喜ぶように回復されながら、また、この善悪の木の実を食べてしまっていることがあるのだなぁということに、私は驚いてしまう。

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2009年5月11日 (月)

サタンに対抗できる“7つの神の武具”

『あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって、そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。…

しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったそのその大きな愛のゆえに、罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、…キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。』新約聖書 エペソ人への手紙2:1~6

この聖書の箇所の最初を読むと、いつも、これは本当に過去の自分の姿だなぁと思う。

「空中の権威を持つ支配者」とは、サタンのことである。そのサタンの支配する中で、私は濁流の川の中を、死んだ魚のように、汚れと欲にまみれて流されるままに流れていた。

が、イエス様によって、“シャケ”のようになった。どんな流れであっても逆らってのぼっていくものとされた。イエス様がくださった新しいいのちによって。

この世の中にあるもろもろの悪霊(サタン)に対して、対処する秘訣が「悪習慣を断ち切る法」の本に書いてある。神様が私たちにくださった“7つの神の武具”である。(エペソ6:12~18)これらが、何を意味するか、ピックアップしたい。

①真理の帯…まったく正直な態度

②正義の胸当て…すべての罪の告白、これによって、サタンの足がかりは崩壊する。また、私たちの罪を赦すキリストをあおぐ(=私たちに与えられたの神の義)

③平和の福音の備えをはいた足…十字架に赦された喜びからくる、福音を伝えたい情熱

④信仰の大盾(おおたて)…聖書のことばを堅く信じて生きる信仰

⑤救いのかぶと…救いの望みと十字架の完全性に対する確信
⑥御霊の剣…誘惑にあったときに適用できるように聖書のことばを知り、持っておくこと

⑦常に祈る…感謝と信頼に満ちた態度

神様を知らないとき、私にはサタンとの戦いはなかった。サタンの存在を知らなかったから。

今、イエス様が十字架にかかり、復活されたことにより、信じる者にはこの世の支配者サタンに勝利が約束されている。

サタンを恐れる必要はない。が、無防備で狡猾なサタンに戦いは挑めない。神様が与えてくださった“7つの武具”を身にまとい、神様の戦いに参戦したい。

「偽りの父」と呼ばれるサタンは、私たちのつく嘘を喜ぶ。“小さな嘘”はサタンが働く足台となる。私たちの神様にも人にも正直な態度は、素晴らしい武具である。

正義の胸当て…イエス様を信じる信仰によって、私たちは義とされ、神様に受け入れられるものとなった。イエス様によって正しいとされたことを忘れ、私たちの行いによって、正しいとしたとたん、優越感や劣等感、比較や嫉妬など、さまざまなものが入りこむ。

平和の福音の足というのは、何を動機として生きているか…ということかなぁと思う。神様への感謝と信頼によって歩む日々が守りとなる。

信仰の大盾は、サタンの放つ火矢をみな消すことができる。私たちが信じているのは、頼りない自分でも、不完全な人でも、移りやすい環境でもなく、確かで揺らがない神様である。そこに立つことこそ、敵対するものへの最大の防衛になる。

救いのかぶとは、キリストの十字架によって、私は赦された、受け入れられた、裁かれていないということと思う。

御霊の剣は、聖書のことば。聖霊様の助けによって、聖書のことばを蓄え、また、求め、適応する。敵対するサタン撃退のための最大の攻撃方法である。

常に聖霊様の助けの中、祈るのは、神様への信頼につながる。

イエス様にあって、勝利の日となりますように。

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喧嘩友だち、アメリカへ立つ

私の大切な友人について、聞いてください。

『友はどんなときにも愛するものだ。兄弟は苦しみを分け合うために生まれる。』旧約聖書 箴言17:17

喧嘩友だちだった親愛なる友人が、来週、ご主人とアメリカに旅立つ。

アメリカに永住することになる。「アメリカに遊びに来てね。」と言われたが、海外旅行どころか、国内旅行もしない私にはちょっと無理っぽい…。

彼女とは、出会って5年位たつが、とにかく良く喧嘩した。女だから、殴り合いこそしないが、激しい言葉で言い合いをした。

お互い、喧嘩すると、すごくエネルギー使うし、日頃温厚(!?)で通ってる私にしては、毎回喧嘩はひどく疲れた。

彼女も体調悪いときもあって、鬱っぽいのに喧嘩してたりしたから、家ではぐったりだったと思う。

彼女との喧嘩のきっかけは、いつもお互いのことではない、第3者に対する私の態度のことであった。

「直せ、変えろ」と言われたが、言われたからってすぐ変われる訳ではない。

最後の喧嘩は、去年の11月頃だった。私は「ねぇ、もう電話切っていい?」彼女は「いいよ。」「それじゃ、バイバイ…」

激しい言葉が行き交った。電話を切って、言葉のアッパーパンチを食らったように、きつい言葉が胸にささった。だけど、心が平安だった。この人とは、なんだか真剣勝負なんだけど、ずっと信頼しあって付き合っていくんだなぁと揺らがない信頼関係を思った。

そのころ、彼女は「あ〜あ、もうやってられねぇよ。みんな、面倒臭い!もういいよ。」と心で思っていたらしいが。

彼女は、親に虐待されて育った。私には理解できないほど、重い過去がある。私は、彼女を理解するのに、時間がかかった。まだ、多くを理解していないかもしれない。

でも、11月の喧嘩にして初めて私は、彼女のきつい言葉の中に、彼女の叫びを聞いた気がした。

表現が違うけど、やっと何回目かの言い合いにして、彼女の言葉の裏に“心の叫び”を聞くことができた。

彼女は、“見捨てられ感”が強い。「そうやって、sebaさん、あんたも私を友だちじゃないとか言って見捨てるんでしょ!」と私に言った。

そのことばは「私はあなたを必要としている!」と言ってくれた“心の叫び”だった。

人生で「あなたが必要だ!」と怒るほどに叫んでくれる友人がいるだろうか…。痛いけど、“心の叫び”が聞こえたら、嬉しかった。

彼女は旅立つ。「教会でもクリスチャンとも良いことはなかった」と言いながら…。

けれども、彼女の神様から与えられた使命と賜物は変わらない。

きっと、どこかで、ご主人と、この世の見捨てられたようなホームレスや囚人の人たちのために仕えている。

人はその友によって磨かれる…とあるが、彼女からたくさんのことを教えられ、少し変えてもらった。

彼女のおかげで、少しだけ、声にならない人たちの叫びを知ることができたような気がする。

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2009年5月 9日 (土)

裸が平気な“エデンの園”

エデンの園で、アダムとエバは裸だったのに、恥ずかしくなかったのは何故でしょうか。

『神である主は、その土地から、見るからに好ましく食べるのに良いすべての木を生えさせた。園の中央にはいのちの木、それから善悪の木とを生えさせた。…

神である主は、人に命じて仰せられた。「あなたは園のどの木からでも思いのままに食べてよい。しかし、善悪の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ。」…

そのとき、人とその妻は、ふたりとも裸であったが、互いに恥ずかしいと思わなかった。』旧約聖書 創世記2:9.16.25

私がエデンの園で、最も驚くことは、「アダムとエバは裸だったが、互いに恥ずかしいと思わなかった。」ということ。

アダムとエバが裸で初めて恥ずかしさを覚えたのは、善悪の木の実を食べてしまったとたんに始まる。

『ふたりの目は開かれ、それで彼らは自分たちが裸であることを知った。そこで、彼らは、いちじくの葉をつづり合わせて、自分たちの腰のおおいを作った。』(創世記3:7)とある。

裸なのに、恥ずかしくないって…ちょっと今の私たちには考えられないが、エデンの園で、神様の秩序の中ではそうだった。

私が思うに、ここに、造られた神様と、その造られた方を慕い喜ぶアダムとエバの麗しい関係を見る気がする。

まさに、アダムとエバは造られた方の秩序の中で、最大限に喜び、楽しみ生きた。

何を喜んだのか。それは、創造主なる神様の存在をただ喜んだ。

神様が人を造られた目的に人は合致していた。(人は神様を礼拝する―あがめる―ために造られた)そこには、自分の裸も気にならないほど、自分ではなく神様を見ていた。だからそこには、悩みも苦しみも悲しみも恥ずかしさも惨めさもなかった。

今、イエス様の十字架の赦しによって、私たちは神様のもとに戻ることができた。日常の様々な悩みや苦しみを横において、神様を礼拝するとき、私たちは神様の臨在の中で、神様が愛なる方であることを体感する。

これが実は、裸であったが恥ずかしくない状態なのではないかと思う。

私たちは地上にいて、肉体を持ち、弱さを持って歩む。

それでも、神様はその生活の中で、神様を見上げ、創造主なる神様をあがめていくとき、私たちが自分のことを忘れられるほど、気にならなくなるほど、神様からの愛と、慰め、励ましにおおい、包んでくださる。

神様を礼拝し続ける生活=神様をあがめ、ほめたたえ続ける生活…それが、エデンの園に戻されるような状態であり、やがてくるパラダイスの前味なのだと思う。

神様をあがめる生活は、私にとって、恥ずかしい私を忘れる捕らわれの無い、解放と祝福の生活になるのだ。

###

神様、私たちは自分に捕らわれやすいものですが、イエス様の十字架の赦しによって、その捕らわれから解放してくださったことをありがとうございます。

自分に捕らわれなくなる、これはイエス様の十字架を知らない人には、考えられない出来事です。

私たちは、すべてをご存知の神様の前には、裸同然ですが、恥となるすべてをイエス様が赦してくださったゆえ、神様を大胆にあがめ、礼拝できますことをありがとうございます。

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2009年5月 8日 (金)

“罪の告白”その確かさと恵み

『ですから、あなたがたは、互いに罪を言い表し、互いのために祈りなさい。

いやされるためです。義人の祈りは働くと、大きな力があります。』新約聖書 ヤコブの手紙5:16

ボンヘッファーの「共に生きる生活」より。

「罪の告白において、確かさに至る道が開かれる。われわれにとってしばしば、神の前での罪の告白が、兄弟の前でするそれよりもやさしいのは、どこに原因があるのだろうか。

神は聖であって罪なき方である。…しかし兄弟は、われわれと同じ罪ある人間である。…

すなわち、われわれは、神の前での罪の告白をもって、しばしば自分自身をあざむいていたのではなかったか。…自分で自分の罪を赦していたのではなかったか。…

われわれが、罪の告白と赦しにおいて関わりをもっているのは、われわれ自身ではなくて、生ける神ご自身であるということの確かさを、ここで一体だれがわれわれに与えるのだろうか。…兄弟が自己欺瞞のくさりを打ち破ってくれる。

兄弟の前で自分の罪を告白する者は、そこでもやはり自分はひとりではないということを知っており、兄弟がそこに現実にいるということの中に、神の臨在を経験するのである。」

私は長い間、神様に自分の内にあるものを認め、告白し、癒しと赦しを受け取ってきた。

が、なぜか、いくら神様に祈っても、なかなか癒されない部分があった。

あるとき、親しいクリスチャンの友人にその話しをしたら、だんだん誰にでも、その弱さが話せている自分がいた。

そのとき、私は話せるのは、その弱さも神様から赦されているのを私自身が受けとったから、誰にでも言えるようになったのだとわかった。

なぜ、神様に告白していただけでは駄目で、人に話したとたん、癒されていったのか、私の中で説明がつかなかった。要は、ボンヘッファーの言われること、兄弟の助けを借りて、神様の赦しを受け取れたということかもなぁと思った。

私は、まずは、神様に正直に告白していく中で、神様は多くの癒しをくださるだろうと信じている。

人の助けを借りるのならば、お互いの弱さを受け入れあっている信頼する友人、一人だけに聞いてもらえば良いのだと思う。

この本の中に、「告白は律法ではなく、恵みだ。」とあったが、同感である。

もし、「…しなければならない。」という世界で“罪の告白”を考えるなら、とてつもなく、苦痛だと思う。

イエス様は「私は健康な人のためでなく、病人のために来た」(ルカ5:31.32)と言われたが、イエス様こそ、名医であり、手術して、悪いところを全部とってくれる…その信頼がなかったら、お任せできない。

神様はイエス様の十字架で、私たちを癒し、悪から離れ、義の道、神様と親しく歩む道を用意しておられる。

神様が私たちに計画しているのは、苦行ではなく、豊かないのちに生きる道である。

###

神様、あなたがイエス様を送ってくださり、イエス様に似る壮大な計画を立ててくださっていることをありがとうございます。

私たちは自分の力では、本当にそのことは無理ですが、神様の深い思いに信頼して、ときには、思いきって手術台に乗ることができますように。

イエス様の十字架に赦される体験に生かされ、神様を日々賛美できますよう、私たち一人一人を祝福してください。

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“罪の告白”と十字架の赦しの体験

“罪の告白”は私たちが個人的に十字架につけられたイエス様の赦しを体験するときだと思います。

『キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。

ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。

そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。』新約聖書 第1ペテロの手紙2:22~25

ボンヘッファーの「共に生きる生活」より。

「罪の告白において、十字架に至る通路が開かれる。すべての罪の根は、高慢である。…

兄弟の前での罪の告白は、最も深い屈辱である。それは、苦痛を与え、へりくだらせ、高慢を徹底的に打ち砕く。…具体的な罪の告白において、古き人は、兄弟の目の前で、苦しみつつ、屈辱的な死をとげる。…

われわれに代わって、罪人の屈辱の死を身に負いたもうたのは、実にほかならぬイエス・キリストご自分であった。…

またもしわれわれが、罪の告白において、罪人の屈辱の死を自分の身に受けることを恥じるなら、われわれは、十字架を負うことを拒むことになるのである。…」

イエス様の十字架は私の身代わりだったと信じる者に、神様は赦しと癒しときよめを約束している。

赦された者が体験できる神様との親しい交わり、その中にある安らぎと喜びが約束されている。

イエス様の十字架は自分のためであった…と信じるとはどういうことか。

漠然となんとなく、みんなのために死んでくれたのではない。もし、そう思っていたら、一般の人のための十字架であり、私個人の私の罪のために死なれた体験はできない。

イエス様の十字架を信じるとは、「私のこの罪も赦してくれたのですね。」と告白することなのだと思う。

私たちはもし赦されていなかったら、“罪の告白”は無意味である。自分の惨めな傷口をさらけだして、笑われて終わり。ますますみじめに落ち込む。

私は「イエス様の十字架は私の罪を完全に赦し、癒し、きよめてくださっている」そのことを信じているか…それは“罪の告白”と結びつく。

私は告白し続けることで癒された。全自己否定の人間が、全自己肯定にまで癒された。

ボンヘッファーが言うように、“罪の告白”は私にとっては屈辱ではなかった。

もし、屈辱とかごまかしとか、何かあって“罪の告白”がためらわれるなら、そのことができるよう、そのことの先にあるものの素晴らしさを知れるよう、信頼が与えられるよう祈って求めることによって、導かれていくのだろう。

聖書でもっとも大きなみわざは、イエス様の十字架の出来事である。

なんとなく十字架を信じるのではなく、古き人に死に、新しい復活のいのちに預かる体験を神様は私たち一人一人に約束しておられる。そのことが、日々、私たち一人一人に確実になりますように。

次につづく

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2009年5月 7日 (木)

“罪の告白”は孤独から交わりに入る

ボンヘッファーは、“罪の告白”は、まず、真実な交わりの道に続くと言っています。

『ですから、あなたがたは、互いのために祈りなさい。いやされるためです。』新約聖書 ヤコブの手紙5:16

ボンヘッファーの「共に生きる生活」より。

「自分の悪を抱いてただひとりでいる者は、全くひとりで孤立している。…彼らは敬虔な者としては交わりを持っているが、敬虔でない罪人としての交わりを持っていない。」

「罪は、その人だけとひとりでいようとする。罪は、その人を交わりから遠ざける。人間が孤独になればなるほど、罪の力はその人の上に力をふるい、破壊的になる。

…罪が自白され、口に出されるまでの、激しい戦いがある。…罪の告白が、キリスト者の兄弟の面前でなされることによって、自己義認の最後のとりでは放棄される。…彼はイエス・キリストならびに、兄弟との交わりの中で、彼のすべての罪が赦されていることを見い出す。」

サタンは「そんなひどいことをするのは、お前だけだ。」と嘘をつく。

そして、人は隠れたところでその罪をひっそり温める。

自分の罪を見るのは怖い、ましてや、誰かに話すなんて、とんでもないと思う。

イエス様は罪は犯さなかったが、私たちの弱さに同情できないお方ではない。(ヘブル4:15)

私たちの試練(誘惑)は、皆経験しているものである。(第1コリント10:13)

そして、何よりも素晴らしいことは、私たちの罪は告白することによって、赦しを受け取れることである。(第1ヨハネ1:9)(私たちの罪はすべて赦されているが、認めることを通して、赦されていることを受け取れる。)

牧師の中には、サタンの激しい攻撃の中、誘惑から転落していく人がいるのは何故か。彼は“敬虔な者”であり続けた(自分の弱さを認めず、告白しない)からと思う。私はいつも思う。たった一人の弱さを祈ってもらう友がいるならば、そこから守られただろうと。

自分が罪に無縁だという“敬虔なクリスチャン”は孤独なのである。

イエス様だけがほめたたえられる教会…それは、自己義認を止め、「私は今日もイエス様に赦されました」と喜んで告白し合う教会だと思う。

次へつづく

###

私たちは、誰かに自分の弱さを打ち明けるのはとても勇気が入ります。

こんなに弱いのは、私だけだ、軽蔑されるだろうと思います。

けれど、もしイエス様への信頼の中、罪を告白し、誰か信頼する人にも分かち合うなら、イエス様に赦されたのを経験します。

私たちに、イエス様への信頼を与え、神様と人に告白し、赦しを受け取っていけますように、お願いします。

そして、神様とも人とも、うわべではない、深い交わりに入れますように。

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2009年5月 6日 (水)

“罪の告白”がもたらす良いこと…

本を読んでいて、長年の答えを教えてもらったような記事に出会いました。創世記をちょっとお休みして、この分かち合いにお付き合いください。

『もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦(ゆる)し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。』新約聖書 第1ヨハネの手紙1:9

この聖書のことばは、人々が癒されるためにと、私が神様から教えてもらったものである。

29歳の時、私の中で徐々に心の癒しが始まった。その時の、礼拝メッセージで「傷ついたら、傷つく奴が悪い」と牧師が言った。人間的な言葉だと思った。しかし、人に極度に傷つきやすい私はその日から一つのことを実行した。

誰かの言動に傷つくたび、心の中で、「神様、この人を受け止めきれない弱い、不完全な私を赦してください。」と祈ることをした。不思議と相手がひどい人だ…とそちらに気持ちが向かず、祈るたびに神様から癒される経験をした。

私の中で、傷ついたら、即、自分の不完全さを祈るのは、やみつきになった。神様から癒され続けた。

33歳の時、その教会がなくなった。「何にもなくなっちゃいました。」と言う私に、「あなたがこれまでの苦しいところを通ったのは、あなたが握っているものを手放すためだったのだよ。」と神様に言われた。

握っているものを手放したとたん、鳥のさえずりや花の美しさ…神様の中に生かされていることを充分に喜べるようになった。(それまでは、神様の働きが開かれないことに失望しきっていた。)

私は神様に聞いた。「私は今、神様によって、深い心の癒しを体験しました。この癒しは、誰にでも約束されていますよね。どの聖書のことばで説明すればいいですか?」

そのとき、この「第1ヨハネ1:9によって」と教えられた。私はバカの一つ覚えのように、「神様は、自分の弱さを認め、告白するものに、赦しと癒しときよめをくださる。」話しをこの聖書のことばを出して繰り返ししてきた。

あれから15年、去年親しい友人から言われた。「罪の告白…って、傷んで傷ついている人にとって、それはあまりにしんどいことだよ。sebaさん!」

しんどい人がいる事は理解したが、私にとっての癒しの商売道具(!?)のようなこの聖書のことばをどうしたらいいの?と…しばし、私は無口になった。

ボンヘッファーさんの「共に生きる生活」の「罪の告白」を今日、読んだ。

私に足りなかったのは、“罪の告白”はイエス様の十字架のもとにどんな素晴らしいことをもたらすか…その説明があまりにも足りなかったのだと教えられた。

ボンヘッファーさんの“罪の告白”がもたらすものの説明を、分かち合いたいと思った。

次につづく…

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2009年5月 4日 (月)

息を吹き込まれた存在(創2:7)

神様が、イエス様を通して私たちに与えてくださった素晴らしいものを分かち合います。

『その後、神である主は、土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで、人は生きものになった。』旧約聖書 創世記2:7

旧約聖書で“息”というのは、生命的、霊的両方の意味で用いられている。

『神は人にいのちの息を吹き込まれた。それで、人は生きものになった。』と言うのは、人は神様に与えられた“いのち”で生き、“霊的な存在”(霊である神様と交流できる存在)となったということだろう。

新約聖書では、“息”というと霊的な意味が強くなる。

十字架で死に、3日めによみがえられたイエス様は、弟子たちに現れた。

『イエスは…彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。…」』(ヨハネ2:22)

このときの“息”は霊的なものである。

“霊的な息”とは何か。それは“聖霊なる神”である。

聖書では三位一体(さんみいったい)の神を示している。創造主なる神、子なるイエス、そして助け主なる聖霊の神が、3つにして一人の神なのだ。

天地創造のときに、“息”を吹きかけられ、私たちにいのちを与えられた神様は、イエス様を通して、もう一度、私たちに息を吹きかけられた。

私たちは、ただ肉体的に生きるものとなっただけではなく、霊的に生きるものとなった。

“霊的に生きる”とはどういうことか。

“霊である神様を知る、交流できる、その交流の喜びを体験できる者になった”ということだろう。

『目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人が心に思い浮かんだことのないもの。神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、みなそうである。」

神はこれを御霊によって啓示されたのです。

御霊はすべてを探り、神の深みにまで及ばれるからです。』(第1コリント2:9~10)

私たちは不完全な弱い小さな存在であるが、“聖霊なる神”が私たちに与えられたとき、人知を越えた神様の深みに及ぶ思いを知ることができる。

これは、どんなに努力し学問を学んだ者にも隠された知恵であり、ただ、「イエス様によって、聖霊をください。」と素直に求める者に与えられる。それは、子どもであっても、無学な者であっても、誰にでも求める者に、平等に与えられる神様の奇しさがある。

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神様、いのちを与えてくださった神様は、イエス様を通して、もうひとたび、新しいいのち(聖霊の住まいとなるいのち)を私たちに与えてくださり、ありがとうございます。

この聖霊様が住まわれる神様の宮(私たちの心)が清められ、聖霊様が自由に働かれ、神様の深みに及ぶ思いに私たちが喜び、感動する日々としてください。

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2009年5月 3日 (日)

非常に良く造られたかたち(創1:31)

神様が本来造られた私たちに回復する約束が一人一人になるようにと願います。

『そして神は「われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。…

神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。…

見よ。それは非常に良かった。』旧約聖書 創世記1:26.27.31

「神様は人を神様の“かたち”に造られた」とある。

神様は目に見える形を持たない方だが、その性質を似るものとされたのだろう。

この聖書の箇所で、驚くことは、『神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ。それは非常に良かった。』(創世記1:31)とあることだ。

私たち人間は神様に造られた“非常に良い作品”なのである。

それに比べて自分が“非常に良い作品”と思えないとしたら、何が問題なのか?

神様を知らないときの私は、自己のイメージがとても低かった。“そのままでいいよ”というメッセージを親から受けなかったからだろう。そして、そんな私は自分を大切にするということもできず、ますます傷つき、惨めな状況に落ち込んだ。

私の癒しと回復が始まったのは、神様が私を尊いと思ってくれている…その視点から自分を見れるようになってからだった。

それでも、沼底をかき混ぜると、泥が湧きあふれ、沼の水で真っ黒になるような、否定的なものが私の心をよくおおった。

そんなとき、私はその惑わしに対して叫ぶように、「私は赦されているから、感謝します。」「私は受け入れられているから感謝します。」「私は愛されているから感謝します。」と宣言したものだった。

イエス様は、私たちの自己イメージの回復のために来られた。私たちは神様からずれていたもので、神様との交流も途絶えていた。本当の自己イメージを持たない者だった。が、イエス様の赦しの中で、癒しと回復が始まったのである。

『神は初めから、ご自分でなさろうとしておられることをご存じでした。

神は最初に、神を愛する人々を、神の御子(イエス)と同じかたちに似せて造ろうと決められたのです。…

私たちは、キリストのうちに私たちの命の原形と私たちのあるべき姿を見るのです。』(ローマ人への手紙8:29Msg訳)

天地を造られた神様は、私たちを回復させる目的をもって、イエス様を送ってくださったのだ。イエス様と似るものとさせてくださる約束は見逃せない。私たちに約束されているのだから、信じて祈っていきたい。

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神様、ゆがめられた自己イメージに苦しむ人に、イエス様の癒しと平安を与えてください。

そして、私たちは尊いすばらしい存在なのだという、聖書にある真実の視点に立つものとしてください。

私たちの汚いもの、みじめなものはすでにイエス様の十字架の上で処理され、赦されました。その赦しをしっかり受け取り、神様に造られた素晴らしい自分を所有できますよう祝福してください。

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2009年5月 2日 (土)

“新しい創造”へ・2(ガラテヤ6:15)

イエス様を信じた人には“新しい創造”が約束されています。

『割礼を受けているか受けていないかは、大事なことではありません。

大事なのは新しい創造です。』新約聖書 ガラテヤ人への手紙6:15

“新しい創造”とは、イエス様を信じた人にだけ起こる創造である。

イエス様が私の罪(神様の前に的外れなこと)のために代わりいのちを捨てて十字架刑を受けてくださったと信じる人には、「もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きている」と告白するに至る。

イエス様の十字架によって、新しいいのちをもらい、神様と親しく交流する中で、私たちの内側がどんどん変えられていく。

イエス様のいのちを捨てた愛の注ぎの中、私は自分のしたいことではなく、神様に応答し、神様の願うところをしたくて仕方なくなる。

そこには、自分の意志や努力はなく、汚れた欲求すら清められる。

私は1年ほど前、突然のように“仕えたい”という思いがドクドク溢れて苦しくなったときが何度かあった。今も静かにそう思う。

それまでは“神様を伝えたい”とか、“こんなことをしたい”という願望だったが、全く異質な、私が今まで感じたことのない思いだった。

“仕える”というのは、たぶん、“伝道する”とか“善意を表す”とかとは全く違う、イエス様に似た性質なのだと思う。

神様が私に本来あったが、崩れていたものを、神様との関係の中で回復してくださった。

神様との日々の親しい関係の中で、『やみの中に、光よあれ』と言われた神様は、今、私たちの心のやみにも、『やみの中に光よ、あれ』と語られる。

そして、私たちは、自分ではない造り変えられていく自分をその内側にみるのである。

無から有を生み出され、やみの中に光を造られた神様にとって、私たちの中に“新しい創造”をなさることは、難しいことではない。

この“新しい創造”を自分の中に成されることは、たったひとつのポイントを押さえているか、否かによる。それは私がこの告白ができるかどうかである。

『しかし私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはなりません。』ガラテヤ6:14

###

神様、今、私たちの中にも、あの天地創造をなされたほどの神様のみわざ“新しい創造”がなされていることをありがとうございます。

さらに、イエス様の十字架以外のいっさいのものを誇りとせず、さらにあなたの私への“新しい創造”のみわざを見せてください。

“割礼”時代に戻らず、“神様との関係による楽しみ”の時代にいさせてください。

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“新しい創造”へ・1(ガラテヤ6:15)

創造のみわざをなした神様は、今、新約の時代(イエス様が来て十字架にかかられた以降の時代)“新しい創造”をなされているのを思います。

『割礼(かつれい)を受けているか受けていないかは、大事なことではありません。

大事なのは新しい創造です。』

新約聖書 ガラテヤ人への手紙6:15

割礼とは、「男性の性器の包皮を切り取る」ことで、神様がアブラハムとの契約のしるしとして、彼の家の男子すべてが受けたことから始まる。(創世記17)

神様は、その後、モーセを通して割礼を儀式として定めた。(レビ12:3)

割礼は神様に選ばれたイスラエルのしるしと誇りとなった。

ガラテヤ人の教会では、“イエス・キリストを信じることだけで義(神様の前に正しい)とされる”…聖書的な福音が語られていたが、“割礼も受けなければならない”と主張するユダヤ人が出てきた。そして、この手紙の筆者パウロは、激しくその間違いを指摘する。

“割礼”といっても、ピンとこないかもしれないが、“割礼”はここでは、律法を象徴する。旧約聖書の“神様が示されたことを行う”こと。

一方、“新しい創造”とは何か。“割礼”に対比して使われ、“イエス・キリストの十字架を信じるのみで神様から義(正しい)とされる”いわば“恵み”を表す。

“割礼”は“律法”を、“新しい創造”は“恵み”を表す。

私はここ何年か、私にとっての“割礼”とは何か考えてきた。

私にとっての“割礼”とは“良い行いをもって、神様に受け入れられようとすること”である。

“良い行い”の何が神様に反しているか?“良い行い”をもって、私たちは神様に“よし(義)”とされることは不可能なのだ。

私たちの神様への的外れなずれた行為(罪)は、ただイエス・キリストのいのちの代価によってしか神様に受け入れられない。

今、教会においても、個人レベルのクリスチャンにおいても“良い行い”によって神様に受け入れられようとする世界が入っているのを感じる。

それは、“イエス・キリストのしてくださった十字架”が中心でなく、つまり、神様が中心でなく、“人が何をしたか、しないかで神様に受け入れられる”人間中心になる。

では、私にとっての“新しい創造”とは何か。イエス様は十字架で私の的外れ(罪)を代わりに処分してくれ、神様の前に受け入れられる者としてくれた。

私はもう、牛や羊の命をもって、神様の前に赦される必要はない。私はもう“何かをすること”で神様に受け入れてもらう必要はない。

イエス様の十字架は完全で、完了し、私は“何もしない”で、大胆に神様の前に出て、神様と親しい、深い交流ができる。…これが“新しい創造”と思う。

私にとって“良い行い”も付け足して、神様に受け入れててもらおうというのは、完全な赦しの計画を立てた神様と、いのちを捨てて十字架で完了された神様に失礼と思うし、そこに何も付け足さなくていいのである。

“良い行い”で神様に認められようとするのは、神中心でなく、人間中心なのである。

大事な話しをここから分かち合いたいと思ったが、長くなってしまった。その2として、続きを書くことにする。

素晴らしい“新しい創造”をともに分かち合いたい。

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2009年4月30日 (木)

タラント発見の旅・4(見つけるカギ)

私が与えられているタラントを見い出せずにいたことから教えられたことです。

『私たちの目標は、神が私たちに定められたその境界の中にとどまることです。』新約聖書 第2コリント10:13(NLT訳)

前にも書いたが、私が自分に与えられているものが、急にたくさん見えてきた体験がある。

それまでは、神様に赦され受け入れられているとは思っていたけれど、人を裁いていた領域があった。そこを手放したとたんに、神様がどんなにか私を思い、私に期待し、良いものをくださり、計画しようとしているか知った。

すでに与えられているのに、なかなかわからないのは自分の中に見い出せない問題があったのだと教えられた時だった。

「5つの目的」の本の中に、「神から与えられるものを用いるために、自分のありのままを受け入れ、楽しむ大切さ」が書かれてある。その一部を書き写す。

「ありのままの自分を受け入れるということは、自分の限界を認めることが含まれています。…パウロは、自分の召し(働き・使命)が、すべてを成し遂げることでも、すべての人を喜ばせることでもなく、神から与えられている自分にふさわさい働きだけに集中することであると理解しました。…境界というのは、私たち一人一人に、それぞれ仕える分野や領域を用意しておられるということです。あなたの形があなたの専門分野を決定します。」

自分に与えられているもの、また、その領域を私自身に託されているものと所有していくとき、私たちは、人が何かをやっているか、やっていないか気にならなくなるのかもしれない。

まさに、私は、自分に与えられていた賜物(能力)と計画を、他の人たちもするべきだと、賜物投影していたことに、私自身の問題があった。(教会で“神様の恵み”が語られるべきだと要求し続けていた)

私に与えられたものを神様からのものと感謝し、自分の与えられた領域を、自分の喜びと神様と人のためにと謙虚な気持ちで使っていきたいと思った。

神様は一人一人に神様の特別な宝を隠しておられ、それをもって、神様と共に生きる喜びの中に入ってほしいと切に願っておられる。

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神様、どうか、私たち一人一人に、神様が特別に与えられたものを知り、喜んで使っていけますように祝福してください。

求めるものには豊かに与えてくれる神様、与えられているものを豊かに見い出させてください。

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2009年4月29日 (水)

タラント発見の旅・3(5つの方面から与えられているもの)

「5つの目的」の本より、私たちに与えられている賜物(タラント=神様から与えられている能力)について考えたいと思います。

『私たちは皆、キリストの体の一部分であって、それぞれに優れた形と驚くべき機能が与えられているのですから、ためらうことなく、ありのままの自分であり続けなさい。』新約聖書 ローマ人への手紙12:5(Msg訳)

リック・ウォレン師の「人生を導く5つの目的」から、「神に仕えるために与えられているもの」を共に見たい。

本では、人には5つの方面からタラント(神様からもらった能力)が与えられているとある。

1つ目。自分の霊的賜物。(Spiritual Gifts)これだけは、神様の権能にもとずき、クリスチャンにだけ与えられた能力。第1コリント12:8~10には、知恵、知識のことば・信仰・癒し・奇跡を行う力・預言・霊を見分ける力・異言・異言を解き明かす力とある。どれも、個人レベルでなく、教会のために与えられた物と思う。

2つ目。自分の心(Heart)。「あなたの心は、あなたがしたいと思っていることや、一番大切に考えていることなど、あなたの動機の源になっている場所」とある。「神は私たち一人一人に違った感情の“鼓動”を与えています。私たちが興味あるテーマや光景について考える時、私たちの感情的鼓動は速くなります。…あなたがどこに仕えるかヒントになります。」情熱をもって成したいこと、好きなこと、熱狂的なことの中に与えられた、仕える能力が与えられているとある。

3つ目。自分の能力(Abilities)。得意分野ということと思う。料理、裁縫、歌、管理能力、釣り、大工仕事…なんであっても、神様と人のために使いたいとなったとき、神様に喜ばれる、神様と共に喜ぶものとなる。

4つ目。自分の個性(Personality)。内向的、外交的・思考派、感受性派・チームワークが得意、個人プレーが得意、楽観的、悲観的…今もっている性格や個性も神様は豊かに用いられる。

5つ目。自分の経験(Experience)。家庭・教育・仕事・霊的体験・ミニストリーの経験・苦痛の経験など、過去のどんなことも、無駄にならず、神様は生かしてくれる。「神様は痛みの経験こそ最もよく用いられる」とある。まさに『私の苦しみがあなたの慰めと救いのため』(第2コリント1:6)である。

この頭文字をとって自分の形=SHAPEとある。ちなみに私のSは聖書とあかしの分かち合い、Hは悩み、苦しむ人と共に生きたい、Aは人の話しを聞くのが好き、Pは猪突猛進型、社交型、行動派,Eは両親からの傷、教会での苦痛の体験が今断然、益になっているということ。ノートに書いてみると確認できるかもしれない。

神様は、私たちに与えた能力をもって、神様に仕える喜びを与えている。

ジョン・バニヤンのことば。「もし私の人生が実を結ばないのであれば、誰が私を賞賛しようと関係ない。もし私の人生が実を結ぶのであれば、誰が私を批判しようと問題はない。」

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神様、あなたはお一人一人をオリジナリティに溢れた存在としてお造りになりました。

お一人お一人が今与えられているもの、これから表されていくものを知り、神様に期待し、神様と共に働く喜びに満たされますように祈ります。

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2009年4月27日 (月)

タラント(与えられた能力)発見の旅・1

神様は一人一人、すべての人に神様の特別な計画を持ち、能力を与えました。そのことを見い出す素晴らしさを思います。

『あなたがたがわたし(イエス)を選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。

それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、父があなたがたにお与えになるためです。』新約聖書 ヨハネの福音書15:16

私が初めて個人的に神様に出会った日、私はこう祈った。

「今まで自分で生きていると思いましたが、生かしてくださる神様がいるのを、今、知りました。神様のために私を使ってください。」

だから、私にとって、神様に私がどう使ってもらえるかを知っていくことはとても重要だった。私は“生きがい”を捜し続けていたが、その日から“神様に生かされる道”を求めるようになった。

神様は一人一人すべての人に特別な神様の計画とそれに伴う能力を与えてくださっている。

それは一つだけでないかも知れないし、当たり前に思っていたものが、実はその人にだけ与えられているものだったりする。

私への神様の計画と能力は、「こういうことかなぁ」とやっと最近、具体的になってきた。が、予告は25年前にあり、そのことがどうやって実現していくのか祈ってきた。

私への予告の聖書のことばはイザヤ58:6~14で、この箇所を何度も何度も開いては、どんな風にこのことが私になるのだろうと期待してきた。

『飢えた者に心を配り、悩む者の願いを満足させるなら、あなたの光は、やみの中に輝き上り、あなたの暗やみは、真昼のようになる。』イザヤ58:10

まだクリスチャンでなかった主人と出会ったとき、主人は「ぼくは光の中の光でなく、闇の中の光となりたい」と言った。神様から私と同じ計画が与えられている人だなぁと思った。

神様は一人一人に特別なその人にだけの神様の計画と働きと能力を与えているが、それを知っているのと、そうでないのでは、その歩み方が違う。

なぜなら、私たちに与えられた神様の働きと能力は、私のいきがいになり、神様とともに喜ぶ体験になるのだから。(マタイ25:21)

神様は「さぁ、わたしがあなたに託したものを使って、わたしの喜びを共にしてくれ。」と私たちに期待している。神様からのタラント(能力)捜しを、リック・ウォレン師の本を参考に共にできたらと願う。

お一人お一人に与えられたタラントの大発見を期待して…。

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2009年4月26日 (日)

イエス様の赦しのもとに行きましょう

イエス様の赦しは海より深く、私たちを包みます。

『そのとき、ペテロがみもとに来て言った。「主(イエス)よ。兄弟が私に対して罪を犯したばあい、何度まで赦すべきでしょうか。7度まででしょうか。」

イエスは言われた。「7度まで、などとはわたしはいいません。7度を70倍するまでといいます。…』新約聖書 マタイの福音書18:21:22

私たちは、人も出来事も赦しにくい、手放しにくいものです。

また、自分を見たら絶望してしまうほどに、弱く、惨めな、足りない存在です。

ペテロがイエス様に「身近な人が私に対して悪いことをしてきたら、7度も赦したら充分でしょうか。」とイエス様に聞きました。

ユダヤ教の教師は3度まで…と教えていたので、「7度だったら申し分ないでしょう。」と自信に満ちて聞いたのでしょう。

イエス様は7の70倍と言われました。無限にと言うことです。

「えっ!?無限に!?それは、イエス様無理ですよ…。」ペテロはそう思ったかもしれません。

イエス様はご自身がなさらないことを人に言われる方ではありません。

それは、まさにイエス様が「わたしは、あなたがどんなであってもあなたを見捨てません。見放しません。命をかけてあなたを愛し続けます。」と言ってくださっているのだなぁと思いました。

事実、イエス様を裏切ったペテロに復活された主は優しく語りかけました。(ヨハネ21:15~)

イエス様の赦しと受け入れは、私たちの思いをはるかに越えているのです。

イエス様のみもとに行きましょう。ただ、赦されるために。

ただ癒されるために。

私たちが良いことをしても、悪いことをしても、それらは全く関係ないのです。

イエス様の十字架だけが、神様に受け入れられるみわざで、私たちはそのことで、すべての恥をおおわれたのですから。

恐れずに主のもとにいって、慰めとあわれみを受けましょう。

主は私たちの痛みと傷を癒し、ただ主の平安でおおいたいと願っているのですから。

私たちのすべてはもう行く前に赦されています。そのことを受けとるために主のもとに一緒に行きましょう。

イエス様のあとに続いて、私も祈っています。愛されている人たちが、イエス様の赦しと愛と慰めにおおわれるように。心から祈っています。

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“十戒”の恵み・8(性的悩みからの解放、解決扁)

男性は情欲、女性は「この人が私に良いことをしてくれる」という違った思いに支配されやすいと本にありました。神様が私たちに良いことを計画してくれていることを信じます。

『あなたがたを襲う誘惑は、他の人たちが経験したことのないようなものではありません。

神は真実な方ですから、打ち勝つことのできないような誘惑をお許しになることはありません。

むしろ、あなたがたが誘惑にあう時には、それに屈してしまわないように出口を教えてくださるのです。』新約聖書 第1コリント10:13(NLT訳)

マーリン師の「隠れた思い」の本は次のように言う。

「ある誠実な牧師が、一人の女性と肉体関係をもってしまった。なぜか。20年間、一度も恥ずべきことを“した”ことはなかった。が、彼は女性について、“考えをめぐらしていた”のだ。…

想像(空想)する能力は神から私たちへの特別の賜物(たまもの=プレゼント)である。しかし、罪を犯したとき、空想力は破壊的な打撃を受けた。…

マタイ15:18.19には「心から出るものが人を汚す、悪い行いは心から出る」とある。

聖書を読むと神は私たちの心に関心をもっておられることがわかる。

すべてに権威をもっておられるイエスは不品行に対して権威をもっている。

神は聖くなることを望まれ、また、その保証も与えてくださる。」

一冊の本をダイジェストにまとめるとこんなところだろうか。

もっとも教えられたのは、私たちは、行いではなく、思い(空想)をイエス様にあって解決していかないと、その思いは必ず行動に出るということ。

私の経験からは、神様と人に告白する(人には打ち明けられる人に話す)大切さを教えられた。(第1ヨハネ1:9,ヤコブ5:6)

サタンはオレオレ詐欺師のようだ。前者は“恥”で、後者は“緊急性と危機感”で人をコントロールする。詐欺は2人きりの会話だとコントロール可能だが、相手が誰かに相談したとたんその支配を解いてしまう。「それ、詐欺だよ。」と。

性的な問題は「そんな不品行なことを思うのはお前だけだよ。恥ずかしいー。」とサタンは恥で縛る。そんな恥ずかしい思いは誰にも話せないよう仕向ける。誰かに相談したとたん、明るみに出され、制御不能になる。相手の自由を押さえていたが、サタンの思うままに支配することができなくなる。

リック・ウォレン師の「5つの目的」の「誘惑に打ち勝つ」の中に、「楽しみは状況に依存しますが、喜びは神との関係にもとずくものです。」とある。

私はジャニーズ好きを一度、人に話しをしたら誰にでも話せるようになった自分がいた。

私の中で、何が起こったか。そのような性的な恥ずかしいと思うことは、すでにイエス様の十字架で赦されていると受けとることができたということだった。そして、その思いから解かれていった。

神様は何故、私たちが誘惑に会いやすいものとされたか…リック・ウォレン師によると、「神様を選択し、神様を深く愛するチャンスとなる」と言っている。

追記すれば、私の様々な誘惑(人を裁く、神以外を求める)なども、深いところで、そのことを神様がどんな思いで見ておられるか教えられたとき、癒されていった。

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神様、多くのクリスチャンが、空想の楽しみの中、また、罪責感も感じているのだと思います。

そして、私たちが完全にはなれないとあきらめています。

聖書の、神様の約束、イエス様の赦しの力を信じるかわりに、どうしようもない自分を信じています。

私たちの汚れた空想もイエス様が流された血潮で赦し清め、癒してくださることをありがとうございます。

そして、私たちは罪から離れ、自由にされ、なんの妨げもなく、神様の愛を受けることが一人一人に約束されています。

神様が私たちに願っていることが、神様の愛と、イエス様の十字架の赦しと、聖霊様の教え導きによって成りますよう祝福してください。

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2009年4月25日 (土)

“十戒”の恵み・7(性的悩みからの解放)

クリスチャンのたくさんの人が、性的な問題で苦しんいると思います。もっと、普通に教会でその悩みからの解放について語られたらいいなぁと思います。

『姦淫(かんいん)してはならない。』旧約聖書 出エジプト記20:14

性的な問題の悩み、そしてそこからの抜け道には教会では詳しく話されない。

封印されている。そして、誰もが、性的な問題は私には関係ないという風な顔でいる。その結果、一人一人が隠れたところで、孤独に悩む。

性的な罪を犯したとき、自分もダメージを受け、「自分はもう駄目だ。神様から受け入れられていない。」と思う。

聖書はどう言っているか。私が思うに、他の問題同様、私たちは神様からズレやすいものだ。戒めを自力では決して守れないものだが、イエス様の赦しと癒しによって、その悩みと苦しみから解放しようと言ってくださっているのだと思う。

私は長年、ジャニーズが好きだった。(それが何が問題かと良く言われる。)テレビのブラウン管の中だけのこと。だけど、そんな“素敵なカッコイイ人”、今はやりのイケメンが、現実に現れて、「sebaさん、デートしましょう。」と言われたら、イチコロになってしまうだろうということ。(私にはすばらしい夫がいるにもかかわらず・・・)

ジャニーズや、韓流スターの人気が衰えず、その産業が豊かに成り立っているのは、あたかも自分の“想像上の彼氏”として楽しんでいる多くの女性がいるからなのだと思う。まさに、アイドル(=偶像)とはよく言ったものだ。

私はあるときまで、自分のジャニーズ好きはクリスチャンには誰にも決して告白しなかった。私の性的な恥ずかしい問題として、隠していた。歳を経て、心も癒されていき、神様を喜べるように変えられているのに、アンバランスにそのことを楽しむ私は何なんだろうと思った。

私が、最も教えられた本はマーリン・キャロザース師の「隠れた思い」である。

誘惑は罪ではない、イエス様も悪魔の試みにあったと、別の本にもある。

が、私たちは誘惑すら恥ずかしいこと、神様から受け入れられず、人には話せないことと思ってしまう。

サタンは巧みに、こっそりと、「そんないやらしい思いを抱いているのか。もう駄目だ」と責め立てる。私たちがそこからどうにも抜け出せないように誘導する。

どうすれば、良いか。「隠れた思い」の中ではなんと書かれてあるか。長くなったので、続きはまた、次のブログに書くことにする。次につづく…。

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“十戒”の恵み・6(人を生かす者に変える神)

十戒シリーズが、間があきましたが、私の中ではまだ終わっていなくて、続いて分かち合いたいと思います。後半部分の、人と人の関係についてです。

『殺してはならない。』旧約聖書 出エジプト記20:13

『しかし、カインは弟アベルに話しかけた。「野に行こうではないか。」そして、ふたりが野にいたとき、カインは弟アベルに襲いかかり、彼を殺した。』旧約聖書 創世記4:8

何年か前、ある礼拝で、カインとアベルのメッセージがされていた。ヘブル人への手紙11:4からだった。たぶん内容は「私たちは、神様に受け入れられるささげ物をしよう」という内容だったような気がする。

が、その箇所から聖霊様が私に全く違うメッセージを語ってくれた。

アダムとエバは、エデンの園を追放され、その後、兄カインと弟アベルを出産する。

二人が神様にささげ物をすると、何故か神様はアベルのささげ物を良しとされた。兄カインは怒り、弟アベルを野原におびき出し、殺してしまう。人類初めての殺人として記されている。

何故、カインのささげ物は受け入れられなかったか。神様は心の動機まで見られる方で、何か問題があったのだろうと言われている。

聖書は不思議なもので、「私たちはカインのような人殺しにならないようにしましょう。」と言われても、ピンとこない。

そのとき、私は聖霊様の光の中、私自身が、まさに人を殺すカインなのだと教えられた。

殺人は良くないし、私は人を殺したいと思ったことはない。が、人間の奥深くにひそんでいるのが、そういう性質だと思った。今はそうでなくとも、大切な人を奪われたりしたら、いつ「殺してやりたい。」と思うかわからない。

また、殺すまでいかなくとも、私たちの自己中心が結局は、自分だけ良ければよいと、人が生かされるのを忘れる存在なのだと思う。私自身の過去を振り返ったとき、自分が生きれば良い…どこかでたくさんの人の生きる場所を奪ってきたのだと思う。

まさにカインこそ、私の姿そのものなのだ。

聖歌400番に「きみもそこにいたのか 十字架につくとき ああ なんだか心が震える」という黒人霊歌がある。

私こそがイエス様を十字架につけた…そのところに立つことが、イエス様と共に十字架に死ぬことなのだと思う。

そんな私が赦され受け入れられた。そこから、初めて「殺してはならない。あなたが生かされて、人を生かしなさい。」という神様の戒めの守りの中に入ることができるのを教えられた。

♯♯♯

私たちは自分はカインのように人殺しはしていない…そんな風に思いやすいものです。

本当に私たちは人を殺していないか、人を生かしているか…大きな律法の壁を感じたとき、イエス様が赦しをくださり、私と共に生きようと言ってくださるあわれみをありがとうございます。

私たちは自分が自分らしく回復して生きるとき、人も認め、受け入れ、尊重し、生かす者に変えられるそんな約束を感謝します。私たちをイエス様の愛でおおってくださり、人を生かす者にしてください。

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2009年4月23日 (木)

「同性愛者」の孤独

耐え難い孤独をも溶かしてくださるイエス様を思いました。

『神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。

神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。』旧約聖書 創世記1:27

私たちは、人を差別はしたくないと思いながら、自分には全く理解できないような人に対しては、偏見で見ているのだろうと思う。

4月19日(土曜日)のキリスト教番組、ハーベストタイムは2週に渡り、男と女―その性についてのテーマだった。そして、今回は元同性愛者のポーク氏のお話しがあった。

私は彼の話しを聞いて、行動に出ているところでは理解できない孤独や寂しさの話しを聞き、やっぱり人は等しく神様に造られたものなのだなぁと思った。ポーク氏の話しを簡単にまとめてみる。

「私の両親は未熟な中で結婚し、私が5歳のときに離婚しました。

父は、いつも結果を求める人で、心が通わず、冷淡で距離感のある人でした。

母は、情緒不安で母と私は一体でした。どこからが母で、どこからが私なのかわかりません。私は母といると安心し、母はいつも子どもの私に相談しました。

私は母といて、母の仕草を学習し、女ぽかったのです。学校ではそのことでからかわれ、いじめられました。

男性に対してはいつも恐怖心がありました。

悩みました。が、自分に何がおこっているのかわかりません。信頼できる人もいません。18歳でゲイバーに誘われ、中毒になっていきます。

24歳のとき、誰もわかってくれないと孤独がおおいました。毎晩、家に帰っては泣きながら寝たものです。男という男に裏切られてきました。

同性愛者は愛情に飢えて、深い心の痛みがあります。人と違うと寂しがっています。

その後、私はクリスチャン夫妻に会い、イエス様を信じます。裏切らない父を見つけたようでした。

聖書のことばに支えられ、神様はうそをつかないと信じていく中変えられていきました。

29歳、10年遅い思春期がやってきました。女性と愛しあう素晴らしさにワクワクしました。そして、妻と結婚しました。」

そのような話しだった。イエス様は誰にも理解されない悲しみや孤独に寄り添い、慰め、癒してくださる方だなぁと思った。

♯♯♯

今、誰にも理解されず、悲しみ、苦しみにある人たちにイエス様が本当の理解者であることを知ることができますように。

孤独、悲しみ、苦しみ…誰も助けられないそのまっただ中の暗闇にイエス様の慰めの希望が光となって照らしますように。

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「教会の苦悩」の本を読んで…

今、読んでいる本を通して、私が過去に悩んできた様々なことを思い出しています。

『あなたの神、主が、この40年の間、荒野であなたを歩ませられた全行程を覚えていなければならない。

それは、あなたを苦しめて、あなたを試み、あなたがその命令を守るかどうか、あなたの心のうちを知るためであった。

それで主は、あなたを苦しめ、飢えさせて、あなたも知らず、あなたの先祖たちも知らなかったマナを食べさせられた。

それは、人はパンだけで生きるのではない、人は主の口から出るすべてのもので生きる、ということを、あなたにわからせるためであった。』旧約聖書 申命記8:2~3

今、「教会の苦悩」H・ティーリケ著の本を読んでいる。昔、買ったが、あまり記憶にないのは、文体が難しく頭や心にあまり入ってこなかったのかもしれない。

内容は“説教に関する発言”である。まさに、私が長年苦しんでいたことの答えが書かれてある。

今、3分の1しか読んでいないが、そこには、説教者は自分自身が聖書のことばに生かされているか、自分の生活のすべてとなり、それを語っているか、語る相手を知っているか、また、キリスト教用語(例えば罪、救い、恩寵など)を使って、抽象的概念だけが流れていないか、など書かれてある。どれもこれも、私も考えたことのある内容ばかりで、面白い。

教会のメッセージに悩み続けた私にとって“メッセージとは何か”は最大のテーマの一つだった。

かつて「神様からずれている弱い私たちが、正しい、聖である神様のことばを取りつぐのは可能なのか。」と考えた。私がその頃、思っていたことは、「愚かで弱い人間が神様のことばを伝える…それは、“告白”を通してしかあり得ないのではないか。」ということだった。

「神様はあなたたちにこう言われます。」と言うときに、メッセンジャーは聞いたことを伝える者ではあるが、同時に神様から言われる聴衆の立場であるということ。

また、聴衆の代表として、語られた者であり、その弱さと足りなさを告白しつつ、分かち合う者であること。

“メッセージとは何か”そんなことを考えて悩み続けた人はあまりいないかもしれない。

が、申命記のこのことばは私たちに真実である。私たちは苦しみの中において『人はパンだけで生きるのではない、人は主の口から出るすべてのもので生きる』ということを神様から教えていただく。

私にとって、教会のメッセージの苦痛が、直接神様のことばを食べる祝福へと変えられた。神様の深い計らいに感謝するばかりである。

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2009年4月21日 (火)

ヨナタンとダビデの友情

「友はいいものだ」と改めて思った今日、ダビデとヨナタンの友情を共に分かち合いたいと思いました。

『ヨナタンは自分と同じほどにダビデを愛したので、ダビデと契約を結んだ。

ヨナタンは着ていた上着を脱いで、それをダビデに与え、自分のよろいかぶと、さらに剣、弓、帯までも彼に与えた。』旧約聖書 第1サムエル記18:3.4

遠方より友来る。一年に一回位のペースで、遠くから友人が会いに来てくれる。

私も一年分の自分の足りなさとそこに働いてくれた神様の素晴らしを話しまくる。

私よりちょっと年上の友人は、私にしてくれた神様の良き出来事を自分のことのように喜んでくれる。

20年前に、教会が私たちの前から無くなったときの共通体験を共に思い出す。私たちの結論は、人はとにかく弱く、いろんなことに誘惑される存在で、自分たちだって気をつけないと…と話しをする。

あの後、別々になってから、彼女は属していた教会を3回ほど移った。出るたびに傷と痛みを負い、いまだに癒えていないと言っていた。

あっという間に時間が過ぎた。「一日あっても足りないね。」と時が立つのを惜しんでくれた。密度の濃い時を過ごして別れた。

聖書では、ダビデとヨナタンの友情が有名だ。

ヨナタンはダビデと出会い、友情を誓い、その生涯、その友情を貫いた。

ヨナタンの父サウル王がダビデの命を狙っていたときも、ダビデを支えた。そして、ヨナタンが本来、王位継承者である状況で「ダビデよ。あなたこそ、イスラエルの王となり、私はあなたの次に立つ者です。」と語る。(1サムエル23:17)

ヨナタンが戦場で殺されたときはダビデは悲しみ、哀歌“弓の歌”を作った。(ヨナタンの弓からとった題名とされる)

『…ああ、勇士は戦いのさなかに倒れる。ヨナタンはおまえの高き所で殺された。

あなたのために私は悲しむ。私の兄弟ヨナタンよ。

あなたは私を大いに喜ばせ、あなたの私への愛は、女の愛にまさって、すばらしかった。

ああ、勇士たちは倒れた。戦いの器(うつわ)はうせた。」(第2サムエル1:25~27

イスラエルの国の王位がサウルからダビデに移っていく情勢の中、美しい友情を貫いた2人。神様が出会わせ、結びあわせてくださった。

私たちは今、イエス様が「わたしがあなたの友です。」と言ってくださる。(ヨハネの福音書15:14)

私の喜びも悲しみも知り、共に寄り添ってくださるイエス様と親しくある日々でありたい。

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