障害

2009年3月10日 (火)

誕生の神秘

私たち人間の誕生の神秘と存在の尊さを思います。

『それはあなた(神)が私の内臓を造り、母の胎のうちで私を組み立てられたからです。

私は感謝します。

あなたは私に、奇(くす)しいことをなさって恐ろしいほどです。

私のたましいは、それをよく知っています。

私はひそかに造られ、地の深い所で仕組まれたとき、私の骨組みはあなたに隠れてはいませんでした。

あなたの目は胎児の私を見られ、あなたの書物にすべてが、書きしるされました。

私のために作られた日々が、しかも、その一日もないうちに。』旧約聖書 詩篇139:13~16

生命の誕生は神秘である。私はこの聖書の箇所を読むと、神様の創造の御業の素晴らしさと、そうして造られた人の限りない尊さを思う。

「5つの目的」の本の中では、「たとえ両親の計画になかったとしても、神様はあなたが生まれてくるのを心待ちにしていた。」とある。

どこかで何かがうまくいかなくなり、ずっと何年も家に引きこもり、人との関係を切っている人が身内にいる人の話しを聞いた。そのとき、この聖書のことばを思った。

障害があり、生きにくい生活がある子どもたちの話しを聞いたときもこの聖書の箇所を思った。

いつも自分に否定的な思いがまとわりつき、もしかしたら、生まれる前にお母さんの胎内にいたときの、強烈な否定的な印象が自分にインプットされたかもという友人を祈ったときもこの聖書の箇所を思った。

内面にどんなに否定的なイメージを持ったとしても、見た目に何も役にたっていないように見えたとしても、神様にとっては、同じその神秘の創造の御業を一人一人になしたのである。一人一人が神様の創造の作品で、愛され計画がされている尊い存在なのである。

美しい花や綺麗な大自然や夜の星々を見て、私たちは神様の創造の御業をほめたたえる。

同じように、それ以上に人が一人一人、違った個性、才能、感性を持って生まれてきた、創造された…人こそが神様の最大の傑作な作品なのだと思う。

私たちはときには自分に嫌気がさし、他の人を煩わしく思うのだが、神様にとっては一人一人が愛するために造られた大切な存在なのである。

『人とは何者なのでしょう。あなた(神)がこれを心に留められるとは。

人の子とは、何者なのでしょう。あなたがこれをかえりみられるとは。

あなたは、人を、神よりいくらか劣るものとし、これに栄光と誉れの冠をかぶらせました。』詩篇8:3~5

神様、一人一人が神様に愛されるため、神様の神秘な創造のみわざの中で誕生したことをありがとうございます。この素晴らしい神様の傑作作品である私たちが、どんなに尊く、いとおしく思われているか知ることができますよう、祝福してください。

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2009年1月16日 (金)

大丈夫。やってみればいいよ。(主人の詩)

たとえ障害があっても、何も出来ないわけではありません。
自分だけのやり方で、自分だけのペースで、自分なりのゴールを設定して。

出来る事はいっぱいあるんです。(たぬき)

『恐れるな。わたし(神)はあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。わたしはあなたを強め、あなたを助け、わたしの義の右の手で、あなたを守る。』旧約聖書 イザヤ書41:10

大丈夫。やってみればいいよ。

自分のやり方で、自分のペースで。

その先にはきっと、少しだけ違う自分がいるから。

他の人が無理だって言うかもしれない。
自分で無理だと思うかもしれない。

でも、やってみないと無理かどうか分からないよ。

失敗してしまうかもしれない。

失敗ばかりが続くかもしれない。

でも、失敗したらまたやってみればいいよ。

立ち止まってもいい。やり直してもいい。

回り道してもいい。疲れたら、少し休んでもいい。

明日は自分のやり方が見つかるかもしれない。

明日は自分なりのゴールが見えるかもしれない。

だから、大丈夫。やってみればいいよ。

うまくいっても、いかなくても。

やってみたことは全部無駄にならない。
それは全部、自分の一部になるんだ。

変わっていないように見えるかもしれないけど、

一度に大きく変わるわけじゃないけど、
その先にはきっと、少しだけ違う自分がいるから。

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2008年12月25日 (木)

桜咲く・発達障害のRくん

発達障害のRくんとそのお母さんの歩みの話しです。

『わたし(神)はあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。…それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。』旧約聖書 エレミヤ書29:11

今、中学3年の特別支援学級に通うRくん。彼を初めて見かけたのは、我が息子と通学班が一緒の小学3年の時。いつもニコニコして、可愛い子どもだった。

ある日、お母さんから悩み事を聞いた。お友だちに親しみの表現をするが、それが上手く伝わらず、その子どもの親から怒鳴られたというような内容だった。

よく教室を出てしまい、いろんなことで協調して出来ず、お母さんは悩んでいたと思う。

小学5年のとき、他の学校の特別支援学級に移った。

Rくんは支援学級では優等生だった。よい先生にめぐり会えて、出来なかった体操、音楽、そして絵の才能を開花した。

普通学級では何かが壁になり、リコーダーが吹けなかったが、練習するようになった。体操は何かが原因で着替えのハードルを越えられなかったが、マラソンが大得意になって、市のマラソン大会に出た。絵の方では、躍動感な運動会の絵に、市でだったか、賞を貰った。

発達障害の子どもは知的障害はないと言われる。が、彼らは普通には理解されにくいストレスや状況があり、まわり(無知な教師や保護者)から理解されにくい。

水泳、テニス、マラソンが得意な彼は中学の特別支援学級に行った。が、それらのクラスでは通常部活は出来ない決まりだった。彼は部活をしたかったが涙を飲んだ。進路情報を尋ねた親に、無知な教師は「ここ(特別支援学級)に来たのだから、市の養護学校に行くのがあたり前。」と調べもせずに言い切った。

お母さんは言い知れない悔しい思いを何度も何度も繰り返した。

市に問い合わせてもたいした情報はない。県の職員に、発達障害の子どもの特別支援学級での在り方を考えてほしいと話すと「法的には、支援学級に発達障害の子どもは入っていません。」との解答。発達障害の子どもを手に負えないと学校や教育委員の人たちが特別支援学級に追いやって、その言いぐさはないだろうと、そのお母さんより私の方が怒りまくった。

子どもも親もたくさんの無理解と口惜しい思いの数々だった。

12月12日、最近新設された県高等養護学校の受験に受かった。(就職を見据えた技術を学べる施設完備の学校)

中学に入ってから、Rくんは小学一年から戻ってスタートしたくもんの勉強が受験に役立った。コツコツと頑張った。

桜咲く。やっと、彼に合った学校生活が迎えられる。おめでとう。優しく人のことも自分のこともちゃんと見れるRくん。どんな高校生活が過ごせるか楽しみにしている。

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2008年12月10日 (水)

自分だけの道(主人の詩)

障害があっても、障害がなくても、他の人と同じように出来ないと思う事はたくさんあります。それでも、自分だけの方法を見つけて、少しでも自分の道を進みたいと思うのです。(たぬき)

『イエスはご自身の肉体という垂れ幕を通して、私たちのためにこの新しい生ける道を設けてくださったのです。』新約聖書 ヘブル人への手紙10:20

みんな通る道を、

あなたは通ること
が出来ないから。

自分だけの道を探して、

誰も通ったことの無い道を通って。

ここまで歩いて来たんだね。

その道は、時に
あなたを傷つける。

その道は、時にあなたに挑戦してくる。

絶対に通れないと思えるときがある。

道が見えなくなってしまうこともある。
それでもあなたは、また先に進む道を見つける。

応援してくれる人もいる。

アドバイスしてくれる人もいる。

それは大きな力になるけれど、

本当の答えは誰も教えてくれない。

それは自分だけの道だから、

それは他の誰も通ったことのない道だから、

自分で答えを見つけるしかないんだ。

今ここに立つあなたの姿は、

とても輝いている。
あなたの他には世界のどこにもない、

あなただけの光を放っている。

これからも、あなたの持つその光が、

輝きをましていきますように。

これからも、あなたの進むその道に、

たくさんの光がありますように。

私はいつでも祈ります。

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2008年10月22日 (水)

私は歩く 一歩ずつ前へ(主人の詩)

障害をもっていても、障害を持っていなくても、会社に出れば厳しい現実にさらされる。優しい人ばかりではない。理解してくれる人ばかりではない。それでも、家族がいるから、どんな辛いことも乗り越えられる気がします。

『主よ。まことに、あなたは正しい者を祝福し、大盾で囲むように愛で彼を囲まれます。』旧約聖書詩篇5:12

私は歩く 一歩ずつ前へ。

人から見れば遅かったとしても。

人から見れば進んでいないように見えても。

人から見れば努力が足りないように見えても。

私は歩く 一歩ずつ前へ。

時に浴びせられる冷たい視線。

時に浴びせられる冷たい言葉。

時にひるんでも。

時に立ち止まることがあっても。

私は歩く 一歩ずつ前へ。

受け入れてくれる人がいるから。

受け入れてくれる場所があるから。

そして何より、必要としてくれる人がいるから。

私は歩く 一歩ずつ前へ。

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2008年10月13日 (月)

子供の障害を一緒に背負う母

お母さんの心の責めがなくなりますように。

『キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから購い出してくださいました。なぜなら、「木にかけられる者はすべてのろわれたものである。」と書いてあるからです。』新約聖書 ガラテヤ人への手紙3:13

私が主人と結婚することになったとき、主人のお母さんから手紙をもらった。「息子は障害がある(右手を切断した)から、結婚は出来ないと思っていた。ありがとう。」という内容のものだった。

主人は、ハンディがあったが、お母さんが何でも一人でやれるように厳しく、優しく育ててくれた。だから、今では車も運転するし、パソコンは上手いし、私よりはるかに出来ることが多い。

数年前、お母さんは、地元の日報新聞の応募に募集し、原稿が採用になり、その日報社の出版の本に載った。

主人が3才のときに右手を切断し、入院していたときの描写だった。『「ボク我慢するから…」と左手を口いっぱいに押し込んで痛みに耐え、泣き声を漏らすまい、としている。慌てて口からはずさせ、…息子を背負って真夜中の診療所を抜け出した。「痛いね。ここなら我慢しなくていい。大きな声でいっぱい泣いて… 」』そんな息子と母にフクロウがスローテンポで愛嬌も感じられ温かい鳴き声で鳴く。そこで「あれは何か」としばし息子と彼を背負う母は会話する。

お母さんにとっては忘れられない夜だったのだろう。

「長男の不幸を一生涯かけても償いきれない私は、黄泉への旅路も、この悲しみだけは背負っていかなくてはならない。三途の川のほとりで、またあの夜のように大木の上から慰め、励ましてほしい。ゴロスケオッホー、と。」と文を閉じている。

主人が今、こうしているのは、お母さんの愛情のおかげだし、主人はお母さんに多大なる尊敬をもって、感謝している。

お母さんが裁かれるようなことはないと思うけど、もしその心に責めがあるなら、イエス様が代わりにのろいの木にかかってくれた。すべてが赦されている。黄泉に行かず、息子家族と天国へ行こうよと話したい。

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2008年10月 7日 (火)

私は心の手をたたく(主人の詩)

たとえ障害があっても、心を無くしたわけではありません。みんなと同じように、心躍らせる楽しい気持ちを持つこともいっぱいあるのです。(主人)

『いつも主にあって喜びなさい。』新約聖書 ピリピ人への手紙4:4

私は心の手をたたく。

嬉しいとき。

楽しいとき。

応援するとき。

歌うとき。

現実の右手はないけど、

手をたたきたい時はいっぱいあるんだ。

だから私は、心の手をたたく。

時には思いっきり声をあげ、

時には思いっきり手を上げて、

時には思いっきり足踏みして、

時には思いっきり踊って、

私は心の手をたたく。

心の手をたたくと、
気持ちはもっと弾むんだ。

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2008年9月24日 (水)

もし障害が無かったら?(主人の詩)

主人がとても素敵な詩を書いたので紹介します。(主人は3才のとき、牧草用の機械に挟まれ、右手を失いました。)

『まことに、あなたの大庭にいる一日は千日にまさります。私は悪の天幕に住むよりはむしろ神の宮の門口に立ちたいのです。…なんと幸いなことでしょう。あなたに信頼するその人は。』旧約聖書 詩篇84:10.12

もし障害がなかったら?考えてもしょうがないけど、たぶん多くの障害者が一度は考えることです。私もよく考えました。

もし障害が無かったら?

いろんな楽器を弾いて音楽を思いっきり楽しみたかった。

もし障害が無かったら?

いろんなスポーツに思いっきり挑戦してみたかった。

でも、もし障害が無かったら?

今の自分にはならなかった。

今の人生にはならなかった。

今の家族には逢えなかった。

障害も障害で経験したことも、全部含めて今の自分だね。

Hana04

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2008年9月12日 (金)

障害者が生きやすくなる世界

障害…そのパリアフリーは理解することから始まると思います。

『弟子たちは彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか。」イエスは答えられた。「この人が罪が犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現れるためです。」』新約聖書 ヨハネの福音書9:2.3

北京パラリンピックの卓球女子で金メダルをとったのは、ポーランドのナタリア・パルティカ(19)だった。彼女は生まれつき右腕のひじから先がない。彼女は北京五輪の団体にも出ている。

私の主人も右手を切断して無い。中学のとき、自分で工夫し、ハンディがありながら卓球をしていた。親善試合では負けなしと、強かった。正式試合のとき、相手チームから「左手でボールを上げ、左手で打つのは反則ではないか」と異議申し立てがあった。主人についていた先生は、弁護しなかった。結果、試合の前に棄権となった。もし主人が強くなかったら、誰も文句は言わなかっただろう。

「パパ、パラリンピック卓球で金をとったこんな人がいるよ。パパも、あのまま卓球を続けていたら、パラリンピック行けたかもね。」「まだ、あのころはパラリンピックがなかった。」と会話した。

ハンディはみんな様々にある。目が悪い人は眼鏡をかけるし、いろいろな工夫でそれを補う。ハンディが辛いのでなく、人を差別する心、無理解な思い、人が作りあげたものが、ハンディにさらに壁を作りあげて生きにくくしているのを思う。

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2008年9月 1日 (月)

生まれてきたすべての人は、それだけで素晴らしい存在

命与えられ、生まれてきたすべての人は神様の作品。それだけで、素晴らしい存在なのだと思います。

『私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをもあらかじめ備えてくださったのです。』新約聖書 エペソ人への手紙2:10

大学時代、ゼミの先輩から引き継いで、自閉症の小学5年の男の子と関わらせてもらうことになった。

友人と交代で、週一回ペースで、彼の家に行った。始めはお母さんも一緒で、そのうち、2人で近くの公園に行ったりした。

バスに乗って出かけ、住宅街を通って、 その子の家に着く。妹さんもいて、お父さんにも会ったことがあった気がする。

当時、大学の講義もほとんど休んでいたような無気力な私に、その自閉症の子の何かを考えるゆとりも力もなかった。彼は自閉症特有の言われたことを繰り返すことをしていた。「なにやってるの。駄目じゃないの!」とよく叫んでいた。

今、あの子や、そのお母さんに会ったら、もっと違う関わりができたと思う。そして、その子が生かされているというたくさんの喜びを、その子に見い出せたと思う。人は神様が造られた作品。その個性と素晴らしさを誉め称えていただろう。

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