日常生活-地域社会

2009年11月13日 (金)

“すべてはイエス様によって赦された”

私たちの隠したいような弱さをイエス様は赦し癒してくれました。

『そこで女が見ると、その木は、まことに食べるのに良く、目には慕わしく、賢くするというその木はいかにも好ましかった。それで女はその実を取って食べ、いっしょにいた夫にも与えたので、夫も食べた。

このようにして、ふたりの目は開かれ、それで彼らは、いちじくの葉をつづり合わせて、自分たちの腰のおおいを作った。

そよ風の吹くころ、彼らは園を歩き回られる神である主の声を聞いた。それで人とその妻は、神である主の御顔を避けて園の木の間に身を隠した。』旧約聖書 創世記3:6.7

発達障害の親の会が始まって、5年になる。

集まっているお母さんたちは、実に前向きで、その時々の悩みはあっても、我が子にとって、何が良いのかいつも模索している。

他方、あまりそのような会には来ない人の中には、我が子の特徴や課題を見ようとせず、問題がないから大丈夫という方もいる。

子どもの課題が明らかであっても、人の弱さがそのことを受け止めきれず、問題無しとし、子どものゆきずまりを放置してしまう。

人の中にある自分の弱さに対しても、私たちは同じなのだなぁと思う。

自分に歴然とした弱さや足りなさがあっても、それを受け止める力がないと、あるものを無いかの如く、隠したり、ごまかしたりして過ごす。

実は、あのアダムとエバが食べてはならない善悪の木の実を食べて以来、私たちは自分を隠すということを神様にも人にもするようになったのだと思う。

なぜ、隠すかというとその弱さを自分で受け入れることができずに、恥ずかしいとするからなのだと思う。

イエス様は私たちの弱さや足りなさや汚れや恥や、そのような人に知られたくないそのやみの部分を赦すために、十字架にかかってくださった。

私の隠したいようなすべてを、イエス様は十字架ですべて赦して受け入れてくれた。

私たちもそれを受け入れ、赦しと癒しときよめを体験できる。

では、私はどれだけ、イエス様が赦してくれた自分自身を受け入れているか。

それは、自分がどれだけ、そのような恥かしいと思えるような弱さを人にも神様にも言えているかなのだと思う。

私はある時まで決して人に話したことのない癒されていない自分にある心の傷の部分を、ある時から人に話すことができる自分に気がついた。

そうか、人にも話せているのは、そんな弱さもイエス様に受け入れられていることを私も受け取っているからだと気がつかされた。

私たちは、いちじくの葉っぱをどれだけ心の中でくっつけて隠しているだろうか。

隠していることが悪い…というのではない。そこもまた、イエス様が赦されたところであることを受け入れ、もう一度、神様の前に告白していくならば、イエス様がいちじくの葉っぱを優しくはがしながら、「大丈夫だよ。そこも赦され、癒され、わたしの栄光が包まれた患部となったよ。」と語ってくださる。

一枚一枚、いちじくの葉っぱをはがし、私たちのすべてが赦され癒され、イエス様の愛でおおわれているのが明らかになりますように。

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2009年8月10日 (月)

“地域納涼祭”

地域の納涼祭があり、お手伝いをしました。

『さあ、わたしの父に祝福された人たち。世の初めから、あなたがたのために備えられた御国をつぎなさい。

あなたがたは、わたしが空腹であったとき、わたしに食べる物を与え、わたしが旅人であったとき、わたしに宿を貸し、わたしが裸のとき、わたしに着る物を与え、わたしが病気をしたとき、わたしを見舞い、わたしが牢にいるとき、わたしをたずねてくれたからです。』新約聖書 マタイの福音書25:35

8月になると、町内会の納涼祭がある。

息子が小学生時代に、私はPTA役員をやって、地域の方々にとてもお世話になった。

そのことを通して、地域がそこに住む人を支える可能性の大きさを感じた。

地域の弱者は地域でカバーして、支えていけたなら、一番理想なのではないかと思った。

また、PTA役員時代にお世話になって、自治会長の方たちとの交流も始まり、地域の中にすんなり入れてもらえた。

そんな愛着のある地域の人たちと年に一度の大イベントが納涼祭である。

前日、当日、朝5時集合で準備作業が始まる。当日は、私は来賓接待で、ビールやおつまみを運びに走る。

後日のかたずけ、打ち上げ、全部に出て、去年は疲れきって、はぐきが腫れた。

平均年齢は70歳位だろう、年配の男の方たちが力仕事から何まで、手際良くやる。その体力と熱意に頭が下がる。

今年は私は祈り、守られて疲れることなく、準備、当日、かたずけを終えた。

今、地域を支えてくれている方々は、確実にこの70歳代の方たちだ。60代は少ないし、50代はほとんどいない。

私は誰に頼まれた訳でもないが、次を担う世代の人たちが加わるのは、自分に与えられた責任のように感じている。

ボランティアに出てくる人たちは皆さん、前向きで楽しい人たちばかりである。

私より20歳位上の人とも友だちのように話せて、楽しい。

お一人、お一人が尊い神様の作品であり、すばらしい。

地域力、これが希薄になる中、どうしたら、若い世代の人たちが、この地域の一員という特権と楽しみを知って、このコミュニティに入ってきてくれるか、私のいつもつきまとう課題である。

今回のお祭りは、降水率70%という中、雨にも降られず、無事、終わった。

何をした訳でもないが、無事終わったことがとても嬉しかった。

リーダーとなられた、自治会長さんは、親しくさせてもらっている一人なので、どんなに大変だっただろうと、私は何度も何度も「お疲れ様でした。」と労をねぎらう声かけをさせてもらった。

神様が私に、この地域の人たちに愛着を持ち、祈らせてくれているのを思う。

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2009年5月26日 (火)

“絶えることのない永遠のしるし”

一つの神様からの約束の意味を知りました。

『まことに、あなたは喜びをもって出て行き、安らかに導かれて行く。

山と丘は、あなたがたの前で喜びの歌声をあげ、野の木々もみな、手を打ち鳴らす。

いばらの代わりにもみの木が生え、おどろの代わりにミルトスが生える。

これは主の記念となり、絶えることのない永遠のしるしとなる。』旧約聖書 イザヤ書55:12~13

3年前、息子の小学校のPTA会長をした。

全くやるつもりはなかったが、そのお話しをもらったとき、「機会を生かしなさい。」と神様から言われ、引き受けた。

人と出会いたいと、息子が幼稚園から、ほとんど毎年何かの役員をした。が、PTA会長となると、さすがにハードルが高い気がした。

引き受けてからも、「神様、私で大丈夫でしょうか?」といつも祈っていた。

そんなとき、イザヤ55章の約束のことばを神様からもらった。

「そうなんですね。楽しくやらせてくれるんですね、神様。絶えることのない永遠のしるしって何ですか?」と聞いていた。目に見える何かかなぁと思った。

任期につく3か月前、大先輩の方が私のところに来て言った。「会長になるべきなのは、あなたではないからやめなさい。」と言うようなことを言われた。

経験からいっても、能力からいっても、私も全然自信がなかったので、彼女の言われることは「ごもっとも」と思った。けれど、この約束のことばが、自信は全くない私を揺るがなくしていた。

「私の資質や能力を問われたら、やれないのはわかります。でも、私はすべての夜の会議も出席しますし、私がやれることは全部します。」と彼女に言った。30分の押し問答は終わった。

PTA会長は、やってみたら、ひたすら楽しかった。学校を越えて、たくさんの人と知り合いになった。

私たちの小学校では、歴代PTA会長は、掲額(けいがく)があった。私は17代目というのだが、他の人と同じ役員なのに、私だけ大きな写真を壁にかけられ、功績をたたえられる…というのは、違和感があり、抵抗があった。

写真を掲げなくて良いように、2年間神様に祈った。「歴代やってきていることを辞める訳にはいかない。」と校長に言われていた。しかし、私が会長を降りるとき、校長が変わり、「好きなようにしてください。」と、掲額辞退に至った。

今、子どもの中学で文化という役員をやっている。人気のない役だが、sebaさんがやるならと、たくさんの人が立候補してくれた。みんなとできて、楽しくやれている。

私自身に良いものはない。良いものがあるとしたら、それはイエス様だ。私のうちに住まわれるイエス様の喜びがまわりの人たちに喜びを与える。

『主の記念、絶えることのない永遠のしるし』は『いばらの代わりのもみの木、おどろの代わりのミルトスの木』であった。

永遠のしるしは、私を通して、イエス様のいのちがまわりの人たちに影響を与える…という約束と知った。

主の記念と絶えることのない永遠のしるしとは、人の中に与えられる。

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2009年4月28日 (火)

思い出しました…

子育てに励む立派なお母さんたちの話しを聞き、思ったことです。

『しかし神は、知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれたのです。

また、この世の取るに足りない者や見下されている者を、神は選ばれました。すなわち、有るものをない者のようにするため、無に等しいものを選ばれたのです。

これは、神の御前でだれをも誇らせないためです。』新約聖書 第1コリント1:27.28

今日は、中学でやっている役員の代表者会議が、市役所であった。講演もあり、「子どもたちの性を考える」と題して、男の子と女の子の体のつくりの違い、性欲の違いなど、とても具体的に分かりやすく話された。我が息子も中学2年で、彼の中にどんな変化が起こっているのか、少し理解できた気がする。

思春期に、男の子の多くは、性欲が出てきて(体の基本的な成長)家庭の中にいる異性である母に距離をおきはじめるとあった。

そういえば、息子は最近急に、こたつをかたずけてから、リビングで過ごさす、部屋で過ごすことが多くなった。可愛い一人息子だが、最近は、私もブログを書くのに熱中し、子離れできてよかったなぁと思った。神様がいなかったら、私は子どもが一番で、子どもが神になっていたかもしれない。

帰りにお母さんたちとランチした。皆、立派なお母さんたちで、「私は子どもをこう“しつけ”しているのよ。」などと聞くと、“しつけ”能力がなく、主人に任せている自分を見せつけられる。

私が思春期の頃、母に受け入れられなかったので、私自身は子どもを受容する力だけはあるんじゃないかと思うけど、子どもをしっかり育てられる程、信念もなく、努力もなく、改めて、神様の憐れみで子育てさせてもらっているんだなぁと思った。

この世の中では、
愚かな者、弱い者、取るに足りない者、見下されている者…そんなものが、神様がほめたたえられるために選ばれた。

私は心が癒され、神様の安らぎの中に憩っていると、忘れてしまいそうだけど、神様無しでは生きていくことのできない者なのだなぁと思う。

努力家で、信念があって、立派な人たちの中にあって、“頑張る世界”ではビリッケツのようなものだけど、頑張らなくていい世界に生かされているのを感じた。

###

神様、この世の取るに足りない私を選んでくださってありがとうございます。

時々、忘れてしまいますが、神様無しでは育児どころか私自身が生きていくことすらできない者だということを思い出しました。

ただ、神様、あなたのあわれみによって、この世の人たちには隠されているイエス様のいのちによって生かされていることをありがとうございます。

この世の取るに足りない者を通して、神様がすばらしいことが証され、表されますようにしてください。

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2009年4月21日 (火)

慰めと優しさが満ちた場所

発達障害の親の会から教えられていることの分かち合いです。

『それはあなたが私の内蔵を造り、母の胎のうちで私を組み立てられたからです。

私は感謝します。あなたは私に、奇(くす)しいことをなさって恐ろしいほどです。私のたましいはそれをよく知っています。

私はひそかに造られ、地の深い所で仕組まれたとき、私の骨組みはあなたに隠れませんでした。

あなたの目は胎児の私を見られ、あなたの書物にすべてが、書きしるされました。私のために作られた日々が、しかも、一日もしないうちに。』旧約聖書 詩篇139:7~16

息子の通っていた小学校のお母さんたちが集まっての、発達障害の親の会が発足して、まる4年になる。

「神様、学校で悩むお母さんたちに会わせてください。」という祈りがきかれ、神様の不思議の中で始まった。

今日は特別支援学級に通うお母さん2人と、我が家でお茶会をした。一人は晴れて、この4月から希望していた高等養護学校に入学した。

いろいろな技術を科ごとに習得し、100%就職へつなげてくれる学校とのこと。

といっても、この不況の時代。弱い者はますます隅に追いやられる。

先生たちも、PTAの就職部も力が入っているらしい。「どんな情報でもいいので学校に集めてください。」とのこと。緊迫感が漂う。

が、大きな目標の就労に向け、そんなに一生懸命やってくれる人たちがいるのはありがたい。本当に人間すてたものではない。

中学での卒業式には、特別支援学級の子どもたちのため、他に異動した元担任の先生(音楽の先生)が朝早くこっちの学校へ来てくれて、アンジェラ・アキの「15の君へ」を歌ってくれたらしい。

子育ても難しく、その子どもたちも生きにくい中、子どももお母さんもちゃんと良いものを拾って支えにして生きている。

明日は、普通学級に通う発達障害のお母さんの会がある。(どちらも月1で集まっている。)

お茶やご飯を食べながら、近況報告したり、情報交換する、ひたすらおしゃべりする会である。毎回入れ替わり立ち代わり7〜8人のお母さんが集まる。

が、ここのお母さんたちも、とても明るい。そして、優しさに満ちている。「うちの子ども、どうしたらいいんだろう」と悩むお母さんに、みんな同じ悩みの道を通ってきたので、「つらいね。でも大丈夫よ、きっと。」と受容と慰めのことばがその場を包む

子どもたちも親も、一人一人違うけれど、神様が造られた人はやっぱり素晴らしいと、私はいつも感動する。神様が与えてくださった素晴らしい最高作品を見せられるときである。

♯♯♯

神様、優しさや慰めは楽しいだけのところでなく、悲しみと辛さを通ってきたところにあるのですね。

生きることが大変でも、受け入れあって、向き合っていく力強いお母さんたちに人間の素晴らしさを教えられます。

神様、あなたが計画され造られた一人一人の子どもたちが、自分の居場所を見つけ生きていけるよう助けてください。

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2009年4月11日 (土)

ギデオンのようなしるしを求めた祈り

『ギデオンは神に申し上げた。「もしあなたが仰せられたように、私の手でイスラエルを救おうとされるなら、今、私は打ち場に刈り取った一頭分の羊の毛を置きます。もしその羊の毛の上にだけ露が降りていて、土全体がかわいていたら、あなたがおことばのとおりに私の手でイスラエルを救われることが、わかります。」すると、そのようになった。』旧約聖書 士師記6:36~37

イスラエルの歴史の中、さばきつかさの時代、神様は敵から救うため、弱く、若いギデオンを用いられた。

神様が、ギデオンを遣わそうとすると、彼は尻込みした。そして、神様のしるしを求めた。神様はしるしを表された。

そして、ギデオンは幾つかの神様の不思議なみわざを見ながらもなお、神様のしるしを求めた。「その幼稚な奇跡のしるしに、神はこのような願いにも耳を傾け、ギデオンの信仰を確かにされた。」と注解書に書かれてある。

私も、神様にしるしを求めたときがあった。

8年前、息子の幼稚園のバザー委員長を決める前日だった。前の年、初めてバザーのお手伝いをし、委員長だけは、凄く忙しく、責任も大きいから、絶対避けたい仕事だなぁと思った。

そしてその年。神様から「やりなさい。」と強く迫られている気がした。「なんでもしますが委員長だけは無理です。私にはできません。」「やりなさい。」のやり取りの中、「それでは、神様、明日、私を推薦してくれる人が3人いたら、あなたの決めたこととしてやります。」と心の中で言った。

次の日、違う3人からやるように勧められ、引き受けた。

始まってみるとやることはたくさんあるのに、何をやってよいかわからなかった。一人の経験者に信頼して聞いていたら、突然ファックスで、「あなたが委員長としてダメなところ」が3枚にわたって書かれ、送られてきた。辛かった。

幼稚園の先生からは、会議で決まったことに対して、怒られ、くつがえされた。あとバザーまで5か月もあるのに、不登校気分だった。

家では洗濯物も、台所も山にやり、テーブルは書類の山になった。

神様にもたくさんお祈りした。

何度も窮地に至ったが、最後のほうは、押してくださる神様の風を感じながら、楽しくできた。

あの経験が今に生きている。あの委員長をやったおかげで、その後いろいろな役員の長をさせてもらった。それが今地域の人とのつながりになっている。

ギデオンのように、私もしるしを求めた。けれど、神様に信頼しきれない弱い私を神様はあわれんでくださり、私がステップを踏める足台をおいて、導いてくださったのだなぁと思った。。

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2009年4月10日 (金)

“行い”から“関係”へ

自意識過剰という言葉がありますが、反対語は解放でしょうか。

『しかし私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。

私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。

いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。』新約聖書 ガラテヤ人への手紙2:19.20

ある時、市のボランティアで、講演会が行われ、100人余りの人が聞きに来てくれた。

私も準備係で前列にいたが、講演が始まってから思った。「あっ、水とコップが用意されていない。そういえば、受付にあった。」と急いで、持ってきて、講壇の半分まで登った。水とコップは隠れていただけでちゃんと置かれてあった。私はくるりとユウターンして講壇を降りた。

「あの人何やっているの?」とたくさんの人に見られたかも知れない。失敗をしてしまった。

が、そのとき、私は驚いた!!それは、ちっとも恥ずかしいと思っていない自分がいたことに…。かつての私だったら、誰もたいして気にしていないことでも、「なんて恥ずかしいことをしたんだろう。」と一人真っ赤になっていただろう。

私は変わった。恥じらいがなくなった訳ではないと思う。自分が変なことをしたり、間違っても、「どう思われるか?」というところから、解放された。

私はこう思う。自分が正しいことをしているか、良いことをしているか…自分の行いに注意がいっているときは、自分がどう思われているか気になる。

アダムとエバが善悪の木の実を食べて、裸が恥ずかしいと思ったように。

キリストの十字架は私たちを“行いの善悪”や“義務”から解放してくれた。

キリストとの関係を楽しむようにされた。

だから、私の“へま”にもイエス様が一緒にいてくれたので、恥ずかしくなかった。“行ない”より“共にいる喜び”にあるから自分の行いには縛られないということかなと思う。

2年前はPTA役員をやっていたので、人前に立つことが多かった。あいさつや司会など、たくさんさせてもらった。すべてが楽しかった。うまくいったかどうかは、本当に気にならなかった。何かいつも神様の真ん中にいると感じだった。

失敗、成功、良い、悪い、するべき、頑張るべき…それらはみんな自分から発している。

イエス様は裸の私に白い衣を着せてくれた。私自身は恥ずかしい、惨めな存在だが、神様からみたら、イエス様の着せてくれた白い衣を着た私がいて、受け入れられ、愛されている。

♯♯♯

神様、私たちは失敗したり、恥ずかしい思いになったり、傷ついたりします。

自分に注意がいくと、神様から隠れたくなるような存在です。

けれども、イエス様が白い衣を着せてくれ、私たちの恥を無いものとしてくださってありがとうございます。

イエス様によって、いつも神様との関係だけを喜んでいられますように祝福してください。

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2009年4月 5日 (日)

私を取り囲む喜び

神様がくださった私たち一人一人に与えられている感性、喜びについて書きました。

『キリストの愛が私たちを取り囲んでいる』新約聖書 第2コリント5:14

先週、近所の桜が綺麗なところで、地域の方たちとお母さんたち、子どもたちで花見をした。いつも通っている場所だが、その中に入ることはあまりない。

12畳のゴザをしいて、天井高くには桜のアーチがあり、特別な空間である。

Img_2269sすると、小学6年の子が、寝っころがって、「あぁ、気持ちいいなぁ。桜きれいだなぁ。」とその場所を堪能している。それまで、私は、やれ紙コップだの、料理だのと下ばかり見ていたが、彼の一言に、動かしていた手を休め、上を見た。「本当にいい空間だね。」その子のおかげで目の前のきれいな景色を味わえた。

Img_2218sお母さんに「良い感性をもったお子さんね。」と話すと、「男の子4人いるけど、この子だけが私と感じ方が一緒で、また、理解して動いてくれるの。頼りにしてるの。」と言った。お母さんも働きものだが、この長男もそうらしい。

前のハーベストタイムに目が見えないクリスチャンの女性の方が出ていた。

彼女は口笛で、上手に野鳥の鳴き声を真似し、鳥たちと交流できるらしい。「コツは、下手に鳴くことなんです。すると、そうじゃないよって鳴き返してくるんですよ。」と楽しそうに話す。

彼女が、山の中で、上からも横からも、山の麓(ふもと)からも鳥の鳴き声が聞こえたときがあったらしい。そのとき、自分が宙に浮かんでいるような感覚になったと言っていた。彼女は目は見えないが、誰も知らない神様の作られた鳥たちの世界を味わえるのである。

私の主人は最近、若い頃の趣味が復活している。基本、私から見たら、多趣味である。詩を書くこと、花を育てること、将棋(子どものおかげで復活、一から勉強し直している。)、音楽が好きなことは礼拝賛美を準備することと賛美リードの中で生かされている。

Img_2251s そして、私のブログにつけてくれるため、写真の趣味も復活した。(写真画面をクィックしてくれれば、大きく見れます)

そして、子育てが一番の趣味である主人は、目下、息子の将棋マネージャーを買って出ている。(子どもは自立し始めているので、だんだん頼られるというより、親がついて歩く感じだが。)

私といえば、無趣味で、ただ“人との交流”にひたすら生きがいと喜びを見い出す。私がブログが楽しいのは、訪問してくださる方と、こういう形での交流をしているからだと思う。

キリストは私たちを赦し、癒し、私たちに与えてくれる喜びをもって、そこにキリストの愛を表し、取り囲んでくれているのかもしれない。

神様、私たち一人一人に与えられた、違う感性、喜びをありがとうございます。そこにも、キリストが赦し愛してくださっている愛が溢れていることをありがとうございます。

私たちが、それぞれ与えられている中に、キリストの取り囲んでいる愛を見い出しますように祝福してください。

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2009年3月24日 (火)

地域670世帯の祝福

神様が、地域の中でクリスチャンでない方を通して、良い計画を与えてくださっていることに感謝します。

『しかし、主(神)はヨセフとともにおられ、彼に恵みを施し、監獄の長の心にかなうようにされた。』旧約聖書 創世記39:21

桜見の季節がやってきた。私が町内会の地域の方々と、近場の綺麗な桜の下で桜見を始めて今年で3年目になる。

3年前、私は息子の小学校で2年間PTA会長をした。

一番の収穫は、一気に地域の人たちとの関わりが深くなったことだった。

それまで、地域に興味はなかった。というか、関わりもないので、そこに対する祈りも持てなかった。

3年前、私が住んでいる地域の自治会長の方と、地域まわりをする機会があった。初めてそのときお話しした。

が、何故か私はおしゃべりになり、自分のその時の、地域に対する思いをその方に話しをしていた。

「私はリーダーというタイプではなく、本当は助けを必要とする人たちに仕えたいんです。地域で何かできる仕事があったら、ください。」と熱く語ってしまった。

その方は多分、長年会社でも中心的に働かれ、町内会でも2年のハードな任期を細やかにやられていた。

その次の春から花見が始まった。私は友人のお母さんたちを誘い、その方のセッテングしてくれた地域の方々とお花見をする。

私も小学校の役も終わり、地域お礼と、いろいろお手伝いさせてもらったり、交流させてもらっている。

昨日も総会があった。私が花見をさせてもらってる方々が、歴代の自治会長の方々で、今の町内会をまとめている方たちだと最近わかってきた。

元自治会長さんは、私が3年前に一度きり話しをしたことをずっと忘れずにいてくれているのだと思った。

「やがては初の女性会長をやってくれ。」と良く言われる。七五三とか、伝統行事とか、宗教行事が多く、会長は無理である。会長になって、責任者がそれらに携わらないのはあり得ない。

携わってしまったら、神様の前に懐淫の罪になる。

元自治会長さんが、私の話しを心にとめてくださり、私に良いチャンスをくださっていることがありがたい。私が何かをやるとかは別に、その出会いを与えてくださって、ありがたい。

神様の思いはどこにあるかわからないが、神様が出会わせてくれ、与えてくれた機会に感謝する。

神様、私の町内会は670世帯ある大きな地域です。

神様の不思議で、まず、その中心で運営をされている方々と親しくさせていただきありがとうございます。

私を皆さんに紹介してくださった方を感謝します。

どうぞ、この670世帯の中に神様の祝福を与えてください。

私がもっともふさわしく、主にあって仕えられる場所を与えてください。

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2009年2月21日 (土)

御国のかぎを使う

祈れることの素晴らしさについて書きます。

『わたし(イエス)は、あなたに天の御国のかぎを上げます。何でもあなたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたが地上で解くなら、それは天においても解かれています。』新約聖書 マタイの福音書16:19

私はクリスチャンに成りたての頃、聖書の内容も神様についても、ほとんど詳しく知らなかったが、祈ることの素晴らしさはじんわり感じていた。

自分が環境において、内面においてピンチになったら、神様に祈り、助けをもらえる。

クリスチャンに成り立ての頃は、まだまだ自己中心の塊だったと思うが、それでも誰かと話したら、その人のために祈ることができる。

また、遠くにいて、話すことも交流することができない人のためにも祈ることができる。

信頼する神様に自分の内面、状況、近くの人、遠くの人のために祈れる凄さを思った。

最近、ある役員会の飲み会で、「何か悩み、問題があったら、私に話しをしてください。私、祈りますから。」と言った。すると、その相手は、相談した結果は祈りか…と肩透かしをくらったみたいで、がっかりして苦笑いしていた。私もそれ以上は言わなかったが、「限界ある自分などより、すべてに権力を働かせている神様に祈るのが一番なんだけどなぁ」と思った。

神様を少しずつ知るにしたがって、私の祈りも少しずつ違ってきたかもしれない。

私はアブラハムが祈ったように、私の祈りのゆえに、この土地の人を祝福してくださいと祈る。私の祈りのゆえに、私と出会う人々を祝福してくださいと祈る。私の祈りのゆえに、子どもが通う中学に特別な計らいをしてくださいと祈る。

私は祈ることしかできないが、その祈りを聞かれる神様は、歴史にも働き、また、どんな悪人の心にも働く神である。

私たちに天国の祝福の扉のかぎが託されている。そのかぎ(祈り)を使って、いつでも神様の国にある祝福を人々に与えていけるものとされていることを感謝する。

神様、あなたは無限に良いものを与えたいと思われています。ただ、私たちの側が理解や信頼において限界があるので、神の国のかぎをつかって、なかなか出し入れできません。神様、私が信じて祈る祈りも限界はありますが、私が思わされ、祈れる領域を大切にできますように。私たちをこの世に祝福をもたらす使者としてください。

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2009年1月11日 (日)

地域の人たちとの交流

地域の人たちとの交流に喜んだり、がっかりした私でした。

『わたし(イエス)に仕えるというなら、その人はわたしについて来なさい。わたしがいる所に、わたしに仕える者もいるべきです。もしわたしに仕えるなら、父はその人に報いてくださいます。』新約聖書 ヨハネの福音書12:26

昨日は自治連合会や地域の様々な活動をする人たちが集まっての新春の集いが行われた。参加者は200人近くの立食パーティー。

去年は学校役員をしていたので、実行委員会側で、司会をさせてもらった。

今年は所属する地区婦人会の副会長の代わりに出席した。学校役員をやっていたおかげで、知り合いは多い。が、ちょっと立場が変わっての出席だったので、少し緊張した。

たくさんの人と話すことができ、有意義な楽しいときとなった。

市長がいつもながらに出席されていた。市長はこの地区出身の女性の方で、かつて県議員のとき、私はお世話になったことのある。いつも一言、二言しか話さないが暖かいことばをかけてもらう。町内会の夏祭りでは、「sebaさん、市長室に遊びに来なさい。」と言っていただいた。昨日は小学校の通学路の改善の話しになり、「また、何かあったら、ここに私の秘書がいるから言ってください。」と冗談まじりで私のことを話してくれた。

それから、自治連合会長の方が何回かみんなに挨拶してまわっていた。去年まで、2年、同じ会議に出て、お世話になった。第一印象は凄く怖いと思ったが、地域に対して情熱と信念のあるステキな方である。多分、この集いでは、飲み食いせず、全員に挨拶してまわっていたのだと思う。帰りがけ、私の腕をポンと叩き、ニッコリしながら「よろしく頼むよ。」と言われた。初めてそんな風に言われ、嬉しかった。

地域をよくしていきたい…という気持ちは私もその人と一緒で、いちお、私は若手になる訳で、そんなに話しはしたことなかったが、なんか通じている、応援してもらっているという感じで嬉しかった。

私は町内会にも属していて、その町内会の前会長、現会長にとても可愛がってもらってきた。これから地域で育ててもらうのかなと思っていた。が、身内だからか、忙しかったのか、そちらにも挨拶に行ったがちょっとそっけなかった。私は育ててもらうんじゃなかったの…とショックだった。(忙しかっただけかもしれない。)

所属している婦人会では温かく受け入れられて、期待に応え、若い私がなんでも雑用しますという気持ちでいる。

50歳の私は地域においては若輩者として、応援してもらい、育ててもらいありがたい。生意気だから嫌われる人には嫌われるのだが、キチンと、私を拒絶する方々には挨拶した。

人から育ててもらいたい、励ましをもらうのがとても嬉しいと思う私だが、イエス様の後をついていき、まだまだ私の人間としての訓練と成長は続く予定である。

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2008年12月19日 (金)

知らない他の扉が開かれる

神様が扉を閉ざし、また違う扉を開かれる方であることを教えられました。

『測り綱は、私の好む所に落ちた。まことに、私への、すばらしいゆずりの地だ。…私はいつも、私の前に主を置いた。主が私の右におられるので私はゆるぐことがない。それゆえ、私の心は喜び、私のたましいは楽しんでいる。』旧約聖書 詩篇16:6~9

昨日、子どもの中学でやっている家庭教育学級の講座8回、今年度分が閉講式をもって終わった。みんな、参加した人たちは講座が楽しかったと喜んでくれたし、一緒に講座を準備した人たちにも、ついていけばよくて楽だったと喜んでもらえた。

前年度小学で違う役員をやっていた私は本当に楽しくて、辞めたくなかった。(小学は卒業だったが)最近には珍しく握って手放したくないと思った。半年ぐらい、阻止してるかもしれない人を思ったり葛藤しまくった。

そんな頃、中学で家庭教育学級長をやってくれと、今のパートナーからメールがあり、やとわれ委員長みたいな感じでスタートした。

握っていたものも手放せた。神様がすべての主権を握っている…私は阻止する人を神にしていたと悔い改めた。

あれから10か月。みんなのために、講座を企画し、みんなに連絡をまめにとってお招きする…私にとって得意とする楽しい仕事だった。パートナーとも上手くからみ、役員とかという枠を忘れてしまうほど、二人で楽しんで準備した。

神様が私の生きる最善の場所をご存知なのを思う。パートナーとはあと2年は続けようと話している。

出だしがどたばたした私だが、最善をなしてくださる神様に心から感謝するばかりである。ハ・ヨンショの「幸せな朝」から素敵な一文を書き留めておく。

「神様の働きをする際に扉が閉ざされているということは、他の扉が開いているということを意味しています。神様はすべての扉を閉めてはおられません。一つの扉が閉められれば、神様は私たちが知らない他の扉を開いておかれます。

祈る人には閉ざされた扉は偶然の扉ではありません。それは必然であり、そこには神様の御心があります。」

神様、私たちは閉ざされたところばかり見て、悲しくなります。けれども神様が閉ざし、神様が開かれる方であること、最善を導きたいと思っておられることを感謝します。まだ、知らない扉を期待し祈っていけますように。

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2008年12月 4日 (木)

与えられた能力を増やす方法

与えられている能力(タラント)が祝福され、増やされ、喜びが溢れますように。

『その主人は彼に言った。よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。」』新約聖書 マタイの福音書25:21

人には誰にも与えられている能力がある。それは皆違うし、自分で気がつかないこともあるかもしれない。

自分が楽しくて、興味があり、喜んで出来るようなことの中にそれらはあるかもしれない。

聖書では神様から与えられた能力を「タラント」と言う。

上記の聖書のことばは、ある主人が自分の財産をしもべたちに預け、旅に出て、戻ってきたとき、タラント(能力)を十分に使ったしもべに声をかけたことば。

主人というのは与えてくれた神様を表し、しもべは私たちを表す。

ある物は5タラント、またある者は2タラント、そして別の者は1タラント預かった。多く預かったか、少なく預かったか問題ではない。神様からしたら、皆わずかなものを預かったのだ。

問題は、与えられたものを使ったか、使わずにいたかである。

神様は活用したものには、ねぎらいのことばをかけている。そして、さらにたくさんの物を任せる、与える約束をしてくれている。そして何より素晴らしいことは、与えられた能力を神様のため使うということは、神様と喜びを共有できると言っている。

私は子どもは一人っ子だが、幼稚園、小学、今中学一年、9年間の内、8年間役員などをやった。初めは何もわからず、人から怒られたり色々あったが、だんだんいろんなことを勉強した。

初めはただ出会いを多く作り、誰かに神様を伝えられたらというのが動機だった。が、8年もやっているとかなりプロフェッショナルになる。3年前のPTA会長はハードルが高く感じたが、やれることしか出来ない、やれることを忠実に誠実にやるだけでよいことを学んだ。

今、周りの人からは「好きだねぇ」とか「辞められないのね」とか言われるが、神様とともに徹底して人に仕えるチャンスと感謝している。私にとっては、役員とか、ボランティアが与えられた能力を生かす場所になった。

そして仕える場所は、学校内だけでなく、地域、市の活動に広がり、共に働く人間関係も、広がった。小さな与えられた一つを神様の助けでなせたところから始まっている。そして、私が生かされる場所としてそのボランティアがなくてはならないところになった。

神様に祈る中、私が与えられている能力はわずかでも、神様が増やし、神様の喜びが共にあることを感謝している。

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2008年11月27日 (木)

祈りの中で奇跡を見る

私たちが祈るとき、神様は驚くようなことをしてくださるのを、私たちは見るのでしょう。

『私は一つのことを主(神)に願った。私はそれを求めている。私のいのちの限り、主の家に住むことを。主の麗しさを仰ぎ見、その宮で、思いにふける、そのために。』旧約聖書 詩篇27:4

昨日、祈りについてブログに書いた。今日、つたない私の話しの言わんとしてることと似たような記事をハ・ヨンジョ牧師の「幸せな朝」の本に見つけた。わかりやすい簡潔な文を抜粋することにする。

「祈る人にはすべてのことが神様の計画です。」

「祈る人はすべてのことを治めておられる神様の繊細な御手を感じます。…アブラハムが目を上げて見ると、角をやぶにひっかけている一頭の雄羊がいた。アブラハムは…自分の子の代わりに、全焼のいけにえとしてささげた。(創世記22:13)…これは“偶然”でなく“摂理”でした。私たちが祈れば、神様は私たちの日常的にみられるところでも奇跡を行われます。」

今、衰退している私の属する婦人会、多分私は祈っていたと思うが、ある日、突然、ある場所で、相手の方から「sebaさんが入ってること、他の方から聞きました。私、入ってもいいです。」と初対面の方から言ってもらった。(私は知らなかったが、彼女は私を知っていて声かけてきてくれた。)

私は「おぉぉ!神様」と思った。何故なら、何人かを誘ったが、みんな子どもが小さかったり、仕事してたり、まだ小学の役員を消化していなかったり、とにかく忙しい。状況からして「いつか入ってね。」と控えめに声かけする現状だった。なのに、小学2年と6年のお子さんがいて、保育園の給食の仕事もしてるのに、入ってくれるとのこと!「ありがとう。名前だけで、忙しかったら何もしなくていいから。」と私は恐縮した。

「神様、私祈ったからですか?私の中では、現状では無理と思ってました。」と祈りながら、がぜん、元気が出た。

ボランティア精神豊かな彼女には、もうひとつ、発達障害の親の会のほうにも入っていただいた。

同労者にせよ、友人にせよ、誰にせよ、私にとって出会いは神様の摂理を深く深く感じる場所である。

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2008年10月26日 (日)

ボランティアでの一致、教会での不一致

いつも思うことですが、ボランティア団体で一致して動くことはとても簡単なのに、教会では難しい。何故なのかと考えます。

『さて、主の囚人である私はあなたがたに勧めます。…平和のきずなで結ばれて御霊の一致を熱心に保ちなさい。』新約聖書 エペソ人への手紙4:1~3

今日は市で行われたフェスティバルに、地区婦人会からの働き手として出た。たくわんとだんごを売った。

市の各地区から集まったご婦人たちと、働いた。楽しかった。皆さん、パワフルで、疲れもものともせず働く。だんご組は長蛇の買い物客に応えて、熱い炭火で黙々とだんごを焼いていた。お昼は交代で食べたが、9時から3時まで焼いていた。

私といえば、美味しいたくわんを売るだけだったので、楽だった。

名前も知らない方々と、一つになって動き、一人のあきもなく、無駄もなく、何もわからない私も、その一部としてきっちり動いた。

まさに、みごとな連携プレー。皆さんの頼もしい働きに頭が下がる。また、皆さん、ボランティアとしてやられている方々だから、どなたも優しい。地域でボランティアをやってる人で意地悪な人はいない。無償の奉仕をするくらいな人たちだから、自分の損得を考える人はいないのだと思う。皆さん、年配の方々だが、心の美しい方たちなのだと思った。初めてなのにそこにいてとても居心地がいい。

教会はというと、私が出来が悪かったからと思うが優しい方もいらしたし、とてもお世話になったかたもいらしたが、泣かされた方もいた。要は個性派揃いということか。

いつも感じることだが、世の中のボランティアの一致は具体的だからか、とてもわかりやすい。が、教会の一致は不可能に近いのではないかと感じてしまうことがある。

信仰の画一化(全部同じ)はカルト化だからありえないが、互いの与えられているバラエティーさを認め合いながらの一致、何をもってできるのだろうか。

多分、赦しと愛という私たちの信仰の成長が試されているのに違いない。

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2008年10月24日 (金)

孤独なモンスターペアレント

まわりに愚痴ったり、ちょっと相談できる人がいるだけで、大騒ぎにならないということもあると思うのです。

『捕らわれ人は、すぐ解き放たれ、死んで穴に下ることがなく、パンにも事欠かない。』旧約聖書 イザヤ書51:14

私が小学のPTAで長をさせてもらってるとき、「しらみ事件」が学校で起こった。しらみになってしまった子どもがいたのだが、あるお母さんが「そんな不衛生な子どもがいるなら、自分の子どもは、それがなくなるまで、学校に行かせません。」と学校に言ったのだそうだ。「排除の論理だ。」と校長は嘆いていた。

その保護者の方は、今のしらみは、海外旅行などした人がもってくるもので、そこからの感染で、不潔にしていたら、自然発生でなるではないことを知らなかったのだと思う。戦争中のあの忌まわしいあり得ないことが起こったかの如く驚いたに違いない。が、プール時などのタオルの接触を通してなど、感染してしまうことはあるらしい。

その事件以後、毎年、もしシラミがあったときの対処の手紙を出すようになった。

もし、その保護者が、毎年、シラミが感染してしまうこともある、それでも、指定のシャンプーを使えば大丈夫、すぐ治ることを知っていたら、また、誰かに相談できていたら、大事にならなかったのではないかと思う。

モンスターペアレントという言葉が出来て、久しいが、文句を言ってくる親はすべて悪い、アウトというのは、おかしいと思う。

たしかに現場の先生たちも大変だし、保護者の対応だけで、労力を使い果たしては、本来の子どもの指導ができない。

しかし、その保護者たちは孤独で、小さな情報に敏感になっている。昔と違って経済的にも豊かで、子どもも少なく…だから、子育てが楽かというと、とても負いきれないほど、大変だったりするのかもしれない。

地域、近所で子どもを育てていたのが、今はドアを締め切り、一人っきりで子育てしていたりする。

モンスターペアレント対策をする前に、この孤独に子育てして悩む人たちにほっとしてもらい、一緒に考えていく、そんな配慮がなされればなあと思う。

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2008年10月20日 (月)

難しい人間関係での私の考察

様々な人間関係に私たちは時に苦しみますが、私はその人が良いものを出せない何かの渇きがあるのだと想像すると、かなり、そうしか出来ないのは可哀想にと思えて、楽になりました。

『まことに、あなたは喜びをもって出ていき、安らかに導かれて行く。山と丘は、あなたがたの前で喜びの歌声をあげ、野の木々もみな、手を打ち鳴らす。』旧約聖書 イザヤ書55:12

最近の私は、幾つかのボランティアの合間に、ブログネタを考える、まったりとした静かな時間を過ごしている。

3年前、2年間小学校のPTAの長として務めさせてもらった。今考えると、能力もないのに、神様は楽しくさせてきてくれたなぁと思った。そして、とてもたくさんの人に支えられ、よいパートナーたちに巡りあえて、本当に充実した日々だった。

出会いも学校内から、地域、他の学校の長の方たち、市の方や一気に広がった。

一番勉強になったのは、そういう立場だったゆえに、体験した人間関係だった。

ある方は、ある学校の長にも関わらず、小生意気な私が受け入れられなかったらしく、無視する、会議でバカにする、挨拶をすると「ふん」とソッポを向いた。始めは驚いたし、平和主義でいたい私は、心が痛んだ。が、彼女は親から愛情を受けず、幼稚園生のままで心が止まっているのだなぁと思ったら、可哀想にも思えた。

会長会議が成り立たせず、ワンマンに進める人もいた。いろんな問題が勃発したが、彼女は強気でいないと自分を保つことができないのだなぁということがだんだんわかった。

自分だけが正しいとして、いつも、私に悟りを開いてくるような人もいた。かなり、きつかったが、一年我慢した私も最後に言いたい気持ちをぶつけたら、歯向かわれたと驚かれたが、それから踏み込んでくることはなかった。

凄い個性的な人たちと関わることになったが、意図的に攻撃してきたり、陥れる人は自分の何かを必死で埋め合わせようとし、それが人に悪となっているんだろうなぁと想像すると、可哀想にと思えた。(これは、同じ土俵で自分が立って戦わなくてよい、可哀想にである)

そして、それを越えた素晴らしいたくさんの出会いに感謝している。

上記の聖書のことばは、神様から「その役を引き受けても大丈夫。喜びと安らぎで過ごせるよ。」と約束されたことばで、終わってみれば、そのとおりだった。

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2008年10月14日 (火)

モーセの十戒…その恵みシリーズ4

キリスト教は一神教で、他の神々に仕えてはならないというのは、何故でしょうか。

『あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。』旧約聖書 出エジプト記20:3

地域の方たちと関わらせてもらい、自治会長の方から、「この町内会の初の女性会長で将来はやってよ。」と言っていただいた。基本的に、来たボランティアは特別な理由がない限り、断らないことにしている。その場では、「はい…。」と言った。

そんなとき、町内会の総会資料が回覧で回ってきた。会長の仕事を見ると、とにかく、宗教行事が多い。七五三や、伝統芸の主催や、なんとか様のお祭り…。冗談半分でお声をかけてくださったとしても、私には自治会長は出来ないことをはっきり言わないといけないと思った。

会長に「私はキリスト教なので自治会長は無理だとわかりました。すみませんが出来ません。」と話すと、「そんな堅苦しく考えないで…。」と言われた。

キリスト教は一神教なので、歴史的にも迫害があったし、排他的で融通がきかないと考えられている。

私はこう思う。神様と私の関係は、夫と妻のように、親密で、特別な関係。神様に信頼して応答していき、神様の深さをちょっとずつ知っていく。『永遠の命とは、神様とキリストを知ること。』ヨハネ17:3とある。この関係こそが大切なので、あちこちに目移りしては、神様の世界も、神様の愛情も、神様の奥義と言われるところもわからなくなる。

そこがキリスト教が宗教ではないと言われるところかもしれない。

旧約聖書では、他の宗教に目移りすることを、姦淫していると例えている。

決まり事を守る世界でも、悟りを開く世界でもなく、「ただ、あなたを愛している。」と個人的に語ってくれるところに信じて感謝していく世界。浮気をしていては、本当の神様は見い出せないと、言ってるように思う。

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2008年9月 9日 (火)

踊りに挑戦

いろんな踊り、軽やかに踊れている人は素敵ですね。

『アロンの姉、女預言者ミリヤムはタンバリンを手に取り、女たちもみなタンバリンを持って、踊りながら彼女について出て来た。』旧約聖書 出エジプト記15:20

モーセたちが紅海を渡り、エジプトを脱出し、敵を巻いたとき、その神様の御業を歌って、踊り喜んだ。

神学校時代、学校の出し物で、友人と2人派手なカーテンを体に巻き付け、子どものクリスマス賛美歌に合わせて踊ったことがある。友人の彼女はバレーを習っていた子で、しなやかに踊った。人が喜ぶなら何でもしたいと、私もステージに立ったが、きっと上手くは踊れていなかったと思う。それでも、なんだかやりきったような達成感があった気もする。

今日、婦人会の方にばったり会い、「民謡流しの踊りの練習日、決まったら教えるわね。そして、まつりの当日も浴衣着て、一緒に踊りましょう。」と言われた。かつて、カーテンまで巻き付けて人前で踊った私だが、人前で民謡の踊りなんてとんでもないと思っている自分。何が、私を躊躇させているのかわからない。下手で踊れないと思ってるのか、その民謡流しに抵抗があるのか…。「とにかく、練習だけはいきます。」と応えた。やるからには、楽しくやりたいけれど…神様、私の一歩、前に進めないのは何故でしょうか?

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2008年8月30日 (土)

私を育てようとしてくれる人

人と人の関わりの中で、人は教えてもらったり、育つのですね。

『また、キリストの使徒たちとして権威を主張することもできたのですが、私たちは、あなたがたからも、ほかの人々からも、人からの名誉を受けようとはしませんでした。それどころか、あなたがたの間で、母がその子どもたちを養い育てるように、優しくふるまいました。』新約聖書 第1テサロニケ人への手紙2:6,7

最近、地域にある婦人会に入った。私より20歳位年配の方たちの仲間入り。「あなたは終戦のとき、いましたか。」「いえ、まだ、生まれていません。」などという新鮮な会話をかわす。

その会長をやってる方は、とても気品のある物静かな方。二人で話した会話を思い出す。「私は子どももいなく、この婦人会で皆さんに可愛がってもらったんですよ。」たった一言だったが、彼女にとって、婦人会がどんなに大切な存在なのか教えられた一言だった。

私を他のメンバーの方に紹介するたびに、「この人はこれとあれといろいろやってきた人なんですよ。」と紹介してくれる。過去にしたことはどうでもいいと思うけど、大切に育ててあげたいと思ってくれてる思いが伝わり、ありがたい。私もそこで皆さんに育ててもらい、新しい人を迎えられたらいいなと思う。

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