本の紹介

2009年6月12日 (金)

『蟹工船』と“神様”

『蟹工船』(かにこうせん)と神様…変なタイトルですが、昨日、祈らされた祈りです。

『わたし(神)は、エジプトにいるわたしの民の悩みを確かに見、追い使う者の前の彼らの叫びを聞いた。わたしは痛みを知っている。

わたしが下って来たのは、彼らをエジプトの手から救い出し、その地から、広い良い地、乳と蜜の流れる地、カナン人、ヘテ人、エモリ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人のいる所に、彼らを上らせるためだ。

見よ。今こそ、イスラエル人の叫びはわたしに届いた。わたしはまた、エジプトが彼らをしいたげているそのしいたげを見た。』旧約聖書 出エジプト記3:7~9

昨日、市のボランティア先で―『蟹工船』と現代社会―という講演を思いがけなく聞くことができた。講師は浜林正夫氏(一橋大学名誉教授)である。

小林多喜二著者の『蟹工船』が、今、若者に読まれているというのは、テレビで見て知っていた。

私は読んだことがない。が、今回の講演で、どんな内容なのか、とても詳しく教えてもらった。

大正10年から、蟹工船は始まる。蟹を取って、船の中で缶詰をつくる、つまり漁業と工場が船の中に一つとなっている。

著者小林多喜二は、蟹工船で行われている漁夫の劣悪きわまりない労働実態を“漁夫虐待事件”として2年に渡って調査し、やがて小説にしていく。

労働者である漁夫たちを人間的に取り扱わず、暴力、餓死、病死させた実話をもとに書かれた。

漁夫たちは虐待を受けながらも、団結して、抵抗していくそのプロセスが描かれているとのことだった。

そして、『蟹工船』で行われたようなことは、日本の歴史の中で、朝鮮人強制連行、中国人強制連行などで繰り返されたと話されていた。

私が最も心揺さぶられたのは、“現代の日本社会に『蟹工船』的状況はある―という話しである。

格差社会、派遣切り、最後のセーフネットのはずの生活保護まで人々を守れていない。あとは、犯罪を犯して、刑務所に行くか、死ぬしかない…そんな現状があると話された。

こういう話しを聞くと、「神様、助けを必要とする人たちを助けてください!」と私の中の眠っているものが心を揺さぶる。

豊かな日本と言われる中で、うつ病になったり、自殺したり、失業に途方にくれている人たちがいる。

この講演者は最後に、『蟹工船』と現代は同じなのか…かつて、同じ船の中にあった“団結”が、今は無くなった。“人間のつながり”をどうやって回復していくのかが課題である…とまとめていた。

帰り道、自転車に乗って、祈りながら帰ってきた。

「神様、あなたはイスラエルの民をエジプトから救出した歴史に働かれる神様です。

今の日本の現状を神様はご存じです。

今、苦しむ者たちの叫びを聞いてくださり、神様のお名前によって、その権能によって、彼らを苦しみから救いだしてください。

今の私に日本が神様によって変えられていく幻はありませんが、この日本を変えてくださるのは神様しかいません。

神様、助けてください。」

家に帰り、一日外に出ていたので、うたた寝をした。夢を見た。サラリーマン風のワイシャツを着ているたくさんの男性たちが、一斉に祈っている夢だった。神様の幻(ビィジョン)だろうか。

神様、遣わされた場所で、私たちが祈りを一つとできますように。

このつながりのなくなった社会で、イエス様にあるつながりのくすしいことを表してください。

私自身は、自分のリバイバル(信仰覚醒)のために、悔い改めにもぐっていきます。

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2009年6月 1日 (月)

「境界線」の本の紹介

人間関係に悩む人に「境界線」の本はお勧めです。

『しかし、上からの知恵は、第1に純真であり、次に平和、寛容、温順であり、また、あわれみと良い実とに満ち、えこひいきがなく、見せかけのないものです。』ヤコブの手紙3:17

今、ブログ友だちの泉さんが読まれているとのこと、「境界線」(バウンダリーズ)の本の紹介をします。

サブタイトルは、「聖書が語る人間関係の大原則」です。

この本には、支配的な人、迎合的な人(自分を我慢して、人に合わせてしまう人)などが出てきて、なぜ、そうなのか、どうすれば、そこから抜け出せるか、聖書的観点から掘り下げて説明されています。

いつも人にふらまわされている感じがして疲れてしまう人、まわりにイライラしている人、「ノー」と言えず苦しんでいる人などにとっては、本当に目から鱗(ウロコ)となる本でしょう。

私は過保護過干渉で育てられ、そういう人もまた、境界線が健全でなく、人間関係に苦しみます。

学生のころは、親しい友人と意見が合わないだけで、裏切られた感が強くなり、リュックを背負って、一人旅に出ました。いかに、人に影響されまくっていたか…です。

あと、虐待を受けて育った人も境界線が崩れています。自分が自分のままでよい…ということを所有できず、いつも人から踏み込まれ続けるからです。

境界線とは、どこから自分で、どこから人か区別するものです。

庭に冊(さく)がなければ、どこまで自分の家の庭かわかりません。ちゃんと冊とかブロック塀(へい)とかで区別します。

ここでいう境界線はブロック塀ではありません。本の表紙に絵が描いてありますが、相手と話せる程度の風通しの良さがあります。

裏表紙にはその続きの絵があります。その冊には開閉できる門がついています。

その話をする人を自分のところの門を開けて、お招きもできる訳です。

もし冊がなければ、いつも泥棒とか、侵入者に侵害され続けます。

冊があることで、自分のテリトリーの中は安心です。自分の庭だけ掃除をすればいいのです。外で誰かが怒っていようが、攻撃しようが、外の人のことなので、自分が責任を持つ必要がありません。

虐待されたり、境界線が崩れている人は、悪いものを自分に取り込み、良いものを吐き出してしまいます。

自分にとって敵意のある人を取り込み、好意的な人を吐き出してます。

回復した健全な境界線は、良いものを自分の中に取り込み、自分にとって悪い影響を与えるものは吐き出す作業が、スムーズにできるとのことです。

私は第1ヨハネ1:9で、神様の前に傷や弱さや足りなさをいつも認め、告白しました。そして、イエス様の赦しと癒しときよめを受けとる作業を25年してきました。気がついたら、境界線が回復していました。

この本は、人間関係に悩む方にお勧めです。泉さんにとっても、癒しの助けとなるだろうこと、楽しみにしています。

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2009年5月19日 (火)

天国に移される日

私が天国へ移される日、エノクのようでありたいと願います。

『エノクは神とともに歩んだ。神が彼を取られたので、彼はいなくなった。』旧約聖書 創世記5:24

天国に行くとはどんな風か。ハ・ヨンジョ師の本に、次のような記事があった。

「神様は、朝にエノクの家のドアをノックする。そして、神様は彼を共に過ごす場所へと誘う。エノクは喜んで、神様と出かける。

そして、次の朝も、またその次の朝も…神様はエノクを誘いに来る。エノクは喜んで、毎日、お弁当をもって一緒に出かける。

ある朝、「さあ、愛する人よ。今日は私と遠くに出かけましょう。」と言われる。

「はい、もちろん。喜んで、一緒に参ります。」そうして、エノクは、大好きな神様と遠くに出かけ、家に戻ることはなかった。」

こんな感じの話しだった。

私はとても分かりやすいこの描写が、心に残った。

天国ってどんなところか?地上にいるとき、神様と共にいる喜びを知っている人が、天国で神様と共にいられる素晴らしさを思い描けるのではないか。

私は天国を待ち望んでいるだろうか。

私の今の正直なところの祈りはこんな感じである。

「神様、今、息子は13歳です。どうか、息子が一人立ちするまでは、私を地上においてください。

最近、ブログを通して、たくさんの霊的な祝福をいただいています。もう少し、この地上において、楽しませてください。」

この祈りが神様から見てどうなのかは、わからない。けれど、私はいつか神様の臨在される天国にいくんだなぁとは思っている。

「さあ、今日は私と遠くに行こう。」と神様から言われたとき、「ちょっと待ってください。まだ、やろうと思ってやっていないことがあるので…。」とならないよう、与えられている日々、神様と共に歩みたい。

♯♯♯

神様、あなたが私たちに素晴らしい天国を用意してくださっていることをありがとうございます。

私たちは100%肉体の死を経験しますが、その死すら神様にあっては、慰めと希望であることをありがとうございます。

どうか、この永遠の慰めと希望がたくさんの人たちのものとなりますよう祝福してください。

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2009年5月15日 (金)

自分を所有する大切さ

“責任転嫁する”に対するのは“自分を所有する”ということかなと思います。

『すると、(神は)仰せになった。「あなたが裸であるのを、だれがあなたに教えたのか。あなたは、食べてはならない、と命じておいた木から食べたのか。」

人は言った。「あなたが私のそばに置かれたこの女が、あの木から取って私にくれたので、私は食べたのです。」

…女は答えた。「蛇が私を惑わしたのです。それで私は食べたのです。」』旧約聖書 創世記3:11~13

アダムとエバが、神様との約束をやぶり、善悪の木の実を食べると、目が開け、裸を隠し、神様から隠れた。次にしたことが、“責任転嫁”(せきにんてんか)、つまり、約束をやぶったのを、人のせいにしたことだった。

神様は、人を造られたとき、その人の範囲を設けた。

人のせいにする生き方は、楽なようで、実は、自分の問題としてふりかかる。

「境界線」の本に次のようにある。

「境界線は私たちを定義する。何が私であり、何が私でないか、私はどこで終わり、私はどこから始まるか。それによって、私は自分に関する所有権を意識する。」

私たちが、自分の責任を負わないということは、自分を所有することができないことにつながる。

自分の責任を所有するということは、自分の範囲がわかるだけでなく、自分の外を明らかにする。そして、その自分の外には責任を負わなくて良くて、影響されない。

私は親の過保護、過干渉によって、育てられた。だから、境界線が壊れていた。どこから人で、どこから自分か区別がつかず、人の言動に一喜一憂して振り回されていた。

そんな私が、長い年月をかけ、健全な境界線が与えられた。それは、イエス様に自分の責任の分を認め、告白し続けることによってだった。

自分の責任を認めるというのは、しんどいことのように思うが、自分を所有することにつながる。

『まず自分の目から梁(はり=大きな柱)を取りのけなさい。そうすれば、はっきり見えて、兄弟の目からも、ちりを除くことができます。』マタイの福音書7:5

私には、ここは、「あなたが自分の責任部分を認めるなら、あなたは、自分を所有し、そして、人をも尊重できる。」という意味合いがあるのだなぁと思う。

イエス様は私たちの責任部分を赦し、癒してくださり、誰からも踏み込まれることのない自分をもう一度私たちに所有させて、楽しませてくださる。

###

イエス様の十字架によって、私たちは誰にも振り回されず、自分を所有して生きていけることをありがとうございます。

責任転嫁しやすい弱さも赦し、癒してください。

あなたを喜ぶ私を所有させてください。

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2009年5月10日 (日)

“サタン”の誘惑(創3:1)

狡猾なサタンの誘惑について、分かち合いたいです。

『さて、神である主が造られたあらゆる野の獣のうちで、蛇(へび)が一番狡猾であった。蛇は女に言った。

「あなたがたは、園のどんな木からも食べてはならない、と神は、ほんとうに言われたのですか。」』旧約聖書 創世記3:1

ここで蛇が登場する。神様が造られた蛇がみんな悪かったかは知らないが、“ある一匹の蛇”が…という意味らしい。

そして、聖書では、この蛇をサタンの象徴として見る。

目には見えない神様がいるように、目には見えないが私たちを欺(あざむ)くサタンは存在する。

サタンの特徴は“嘘をつく”と言うことである。サタンは、私たちを神様から引きはなそうとする。

アーウィン・ラッシァー著の「悪習慣を断ち切る法」という本に次のようにある。

『あなたがたは決して死にません。あなたがたがそれ(善悪の木の実)を食べるそのとき、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。』(創世記3:4.5)

「要するにサタンは、『神は、あなたに可能性をきわめさせないために制限を与えているのだ。あなたは生まれつき神のようになれる権利があるのに、神がさせない。神は少しもあなたの味方ではない。』と言いたかった。

今日でもサタンは同じ作戦を用いて、神の意志に不満を持つように仕向ける。…

サタンは一つの制限にだけ焦点をあてて、それによってエバが神の祝福から目をそらせるように仕向けた。…

彼女が食べてはならない木は確かに一本あったが、食べてもよい木は何百本もあったはずだ。…取ってはいけない一本を示されると、エバは神の寛大さと恵みを忘れてしまった。

今日においても、サタンは一つの問題、一つの怒り、一つの拘束に目を向けさせようとする。」

今日、私は礼拝の中で賛美していて教えられたことがあった。♪命を捨てて愛してくれたイエス様、私は忘れない♪と言う賛美の中で…。

「ボランティアの中で、私に対して批判的に対応してくる人がいて、嫌だなぁと思っていた。なんだかその活動全部が嫌になる気分だった(そんな訳で、先週は休んだ。多分3年位の中で、こんなことで休むのは初めてだった)

私は何を見ていたんだろう。イエス様は私のために命を捨てて愛してくれたのに、私は弱い人の言動に捕らわれて…。

もう一度、命を捨ててくれたイエス様の前に、出会う一人一人を大切に祈っていこう」と思った。

サタンは今も私たちに神様の祝福でないものに目を向けさせ、喜ぶ。けれども、イエス様はサタンに勝利した。

私たちがイエス様のお名前で助けを求めると、神様の安心の中にいれてくれる。

「平和の神は、すみやかに、あなたがたの足でサタンを踏み砕いてくださいます。」ローマ人への手紙16:20

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2009年5月 8日 (金)

“罪の告白”その確かさと恵み

『ですから、あなたがたは、互いに罪を言い表し、互いのために祈りなさい。

いやされるためです。義人の祈りは働くと、大きな力があります。』新約聖書 ヤコブの手紙5:16

ボンヘッファーの「共に生きる生活」より。

「罪の告白において、確かさに至る道が開かれる。われわれにとってしばしば、神の前での罪の告白が、兄弟の前でするそれよりもやさしいのは、どこに原因があるのだろうか。

神は聖であって罪なき方である。…しかし兄弟は、われわれと同じ罪ある人間である。…

すなわち、われわれは、神の前での罪の告白をもって、しばしば自分自身をあざむいていたのではなかったか。…自分で自分の罪を赦していたのではなかったか。…

われわれが、罪の告白と赦しにおいて関わりをもっているのは、われわれ自身ではなくて、生ける神ご自身であるということの確かさを、ここで一体だれがわれわれに与えるのだろうか。…兄弟が自己欺瞞のくさりを打ち破ってくれる。

兄弟の前で自分の罪を告白する者は、そこでもやはり自分はひとりではないということを知っており、兄弟がそこに現実にいるということの中に、神の臨在を経験するのである。」

私は長い間、神様に自分の内にあるものを認め、告白し、癒しと赦しを受け取ってきた。

が、なぜか、いくら神様に祈っても、なかなか癒されない部分があった。

あるとき、親しいクリスチャンの友人にその話しをしたら、だんだん誰にでも、その弱さが話せている自分がいた。

そのとき、私は話せるのは、その弱さも神様から赦されているのを私自身が受けとったから、誰にでも言えるようになったのだとわかった。

なぜ、神様に告白していただけでは駄目で、人に話したとたん、癒されていったのか、私の中で説明がつかなかった。要は、ボンヘッファーの言われること、兄弟の助けを借りて、神様の赦しを受け取れたということかもなぁと思った。

私は、まずは、神様に正直に告白していく中で、神様は多くの癒しをくださるだろうと信じている。

人の助けを借りるのならば、お互いの弱さを受け入れあっている信頼する友人、一人だけに聞いてもらえば良いのだと思う。

この本の中に、「告白は律法ではなく、恵みだ。」とあったが、同感である。

もし、「…しなければならない。」という世界で“罪の告白”を考えるなら、とてつもなく、苦痛だと思う。

イエス様は「私は健康な人のためでなく、病人のために来た」(ルカ5:31.32)と言われたが、イエス様こそ、名医であり、手術して、悪いところを全部とってくれる…その信頼がなかったら、お任せできない。

神様はイエス様の十字架で、私たちを癒し、悪から離れ、義の道、神様と親しく歩む道を用意しておられる。

神様が私たちに計画しているのは、苦行ではなく、豊かないのちに生きる道である。

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神様、あなたがイエス様を送ってくださり、イエス様に似る壮大な計画を立ててくださっていることをありがとうございます。

私たちは自分の力では、本当にそのことは無理ですが、神様の深い思いに信頼して、ときには、思いきって手術台に乗ることができますように。

イエス様の十字架に赦される体験に生かされ、神様を日々賛美できますよう、私たち一人一人を祝福してください。

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2009年5月 6日 (水)

“罪の告白”がもたらす良いこと…

本を読んでいて、長年の答えを教えてもらったような記事に出会いました。創世記をちょっとお休みして、この分かち合いにお付き合いください。

『もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦(ゆる)し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。』新約聖書 第1ヨハネの手紙1:9

この聖書のことばは、人々が癒されるためにと、私が神様から教えてもらったものである。

29歳の時、私の中で徐々に心の癒しが始まった。その時の、礼拝メッセージで「傷ついたら、傷つく奴が悪い」と牧師が言った。人間的な言葉だと思った。しかし、人に極度に傷つきやすい私はその日から一つのことを実行した。

誰かの言動に傷つくたび、心の中で、「神様、この人を受け止めきれない弱い、不完全な私を赦してください。」と祈ることをした。不思議と相手がひどい人だ…とそちらに気持ちが向かず、祈るたびに神様から癒される経験をした。

私の中で、傷ついたら、即、自分の不完全さを祈るのは、やみつきになった。神様から癒され続けた。

33歳の時、その教会がなくなった。「何にもなくなっちゃいました。」と言う私に、「あなたがこれまでの苦しいところを通ったのは、あなたが握っているものを手放すためだったのだよ。」と神様に言われた。

握っているものを手放したとたん、鳥のさえずりや花の美しさ…神様の中に生かされていることを充分に喜べるようになった。(それまでは、神様の働きが開かれないことに失望しきっていた。)

私は神様に聞いた。「私は今、神様によって、深い心の癒しを体験しました。この癒しは、誰にでも約束されていますよね。どの聖書のことばで説明すればいいですか?」

そのとき、この「第1ヨハネ1:9によって」と教えられた。私はバカの一つ覚えのように、「神様は、自分の弱さを認め、告白するものに、赦しと癒しときよめをくださる。」話しをこの聖書のことばを出して繰り返ししてきた。

あれから15年、去年親しい友人から言われた。「罪の告白…って、傷んで傷ついている人にとって、それはあまりにしんどいことだよ。sebaさん!」

しんどい人がいる事は理解したが、私にとっての癒しの商売道具(!?)のようなこの聖書のことばをどうしたらいいの?と…しばし、私は無口になった。

ボンヘッファーさんの「共に生きる生活」の「罪の告白」を今日、読んだ。

私に足りなかったのは、“罪の告白”はイエス様の十字架のもとにどんな素晴らしいことをもたらすか…その説明があまりにも足りなかったのだと教えられた。

ボンヘッファーさんの“罪の告白”がもたらすものの説明を、分かち合いたいと思った。

次につづく…

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2009年4月29日 (水)

タラント発見の旅・3(5つの方面から与えられているもの)

「5つの目的」の本より、私たちに与えられている賜物(タラント=神様から与えられている能力)について考えたいと思います。

『私たちは皆、キリストの体の一部分であって、それぞれに優れた形と驚くべき機能が与えられているのですから、ためらうことなく、ありのままの自分であり続けなさい。』新約聖書 ローマ人への手紙12:5(Msg訳)

リック・ウォレン師の「人生を導く5つの目的」から、「神に仕えるために与えられているもの」を共に見たい。

本では、人には5つの方面からタラント(神様からもらった能力)が与えられているとある。

1つ目。自分の霊的賜物。(Spiritual Gifts)これだけは、神様の権能にもとずき、クリスチャンにだけ与えられた能力。第1コリント12:8~10には、知恵、知識のことば・信仰・癒し・奇跡を行う力・預言・霊を見分ける力・異言・異言を解き明かす力とある。どれも、個人レベルでなく、教会のために与えられた物と思う。

2つ目。自分の心(Heart)。「あなたの心は、あなたがしたいと思っていることや、一番大切に考えていることなど、あなたの動機の源になっている場所」とある。「神は私たち一人一人に違った感情の“鼓動”を与えています。私たちが興味あるテーマや光景について考える時、私たちの感情的鼓動は速くなります。…あなたがどこに仕えるかヒントになります。」情熱をもって成したいこと、好きなこと、熱狂的なことの中に与えられた、仕える能力が与えられているとある。

3つ目。自分の能力(Abilities)。得意分野ということと思う。料理、裁縫、歌、管理能力、釣り、大工仕事…なんであっても、神様と人のために使いたいとなったとき、神様に喜ばれる、神様と共に喜ぶものとなる。

4つ目。自分の個性(Personality)。内向的、外交的・思考派、感受性派・チームワークが得意、個人プレーが得意、楽観的、悲観的…今もっている性格や個性も神様は豊かに用いられる。

5つ目。自分の経験(Experience)。家庭・教育・仕事・霊的体験・ミニストリーの経験・苦痛の経験など、過去のどんなことも、無駄にならず、神様は生かしてくれる。「神様は痛みの経験こそ最もよく用いられる」とある。まさに『私の苦しみがあなたの慰めと救いのため』(第2コリント1:6)である。

この頭文字をとって自分の形=SHAPEとある。ちなみに私のSは聖書とあかしの分かち合い、Hは悩み、苦しむ人と共に生きたい、Aは人の話しを聞くのが好き、Pは猪突猛進型、社交型、行動派,Eは両親からの傷、教会での苦痛の体験が今断然、益になっているということ。ノートに書いてみると確認できるかもしれない。

神様は、私たちに与えた能力をもって、神様に仕える喜びを与えている。

ジョン・バニヤンのことば。「もし私の人生が実を結ばないのであれば、誰が私を賞賛しようと関係ない。もし私の人生が実を結ぶのであれば、誰が私を批判しようと問題はない。」

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神様、あなたはお一人一人をオリジナリティに溢れた存在としてお造りになりました。

お一人お一人が今与えられているもの、これから表されていくものを知り、神様に期待し、神様と共に働く喜びに満たされますように祈ります。

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2009年4月 6日 (月)

神の織りなす織物(コーリー・テン・ブームの詩)

前のブログを書きながら、コーリー・テン・ブームの詩を思いました。前にも書きましたが、改めて書き写します。

『大水もその愛を消すことができません。

洪水も押し流すことができません。』旧約聖書 雅歌8:7

「わたしの隠れ家」の著者コーリー・テン・ブームは、キリストの愛のゆえに、ユダヤ人を保護した。

そのためドイツナチスに捕らえられて、強制収容所でひどい苦しみにあい、釈放されてからオランダに帰り、キリストの証人となった。

「わたしのいのちは神と私の間の織物にすぎない

わたしは色を選ばず神がたゆまず働きたもう

時には神は悲しみを織りなし わたしは愚かな誇りで忘れる

神は表を見 わたしは裏を見ていることを

神は布を広げて なぜなのかをお語りにならない

暗い色糸も巧妙な織り手には

金糸銀糸と同じく神のご計画の模様に必要なのである」

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2009年3月 9日 (月)

私にとって苦しみとは…

私にとっての過去の苦しみの意味は、今はこの聖書のことばにつきます。

『もし私たちが苦しみに会うなら、それはあなたがたの慰めと救いのためです。』新約聖書 第2コリント1:6

苦しい中にあると、どうして自分だけがこんなに苦しい思いをしなくてはならないかと思う。

父の病気、母との確執、自己嫌悪、孤独、虚無感、挫折、迷い、クリスチャンになってからの教会での痛み、神様の役にたっていない感、行きずまり、失敗…私は33歳までは泣いてる日、うめいている日のほうが多かった。

ブログを書くようになって、自分の悲しい経験や苦しい経験が誰かの慰めになっていることを強く思わされるようになった。

誰かが、「私も同じ苦しみがある」と慰められたらと思うと、過去の苦しみ体験を探すようになった。

リック・ウォレン師の「人生を導く5つの目的」で、「神様に仕えるために自分の形(SHAPE)を理解する」という箇所がある。S(スペシャルギフト=霊的賜物)・H(ハート=心)・A(アビリーズ=能力)・P(パーソナリティー=個性)・E(エクペリエンス=経験)…英語の読み方はわからないので、間違っているかも…の5つである。

その中で、経験には、家庭・教育・仕事・霊的・ミニストリー・苦痛の経験が学びとなり神様に仕えるのに生きるとある。

「この最後のカテゴリーである苦痛の経験こそ、神があなたをミニストリー(奉仕)へと準備させるために最もよく用いられる経験です。神は決して痛みを無駄にはなさいません。事実、あなたが最も重要な働きは、あなたが最も苦しんだ経験から生まれてくると言っても過言ではありません。」とその本に書いてある。

今から20年前、私の心の癒しが始まりだした頃、私は自分を観察しようと思った。自分が悲しくて泣いてるときも、もう一人の自分は何を求め、どんな風にされたら慰められるのか、自分で確認しようと…。その観察はずっとは続かなかったようにも思うが、今、私の傷や痛みは一つも無駄になっていないと思う。

神様は、私の苦しみも無駄にされず、それを生かして人に慰めや救いも与えてくださる方だ。

もし、苦しみの中にあるなら、すべての苦しみに慰めを与えてくださる神様の慰めがありますように。

そして、自分にだけ計画されていることのゆえに、その苦しみが誰かの慰めと救いになりますように祈ります。

『神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。こうして、私たちも、自分が神から受ける慰めによって、どのような苦しみの中にいる人をも慰めることができるのです。』第2コリント1:4

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2009年3月 3日 (火)

恵みの歩み2

解放は自分に目を向けることから解かれること、良いことをしようとすることから解かれることです。

『あなたがたがわたし(イエス)にとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。

あなたがたが多くの実を結び、わたしの弟子となることによって、わたしの父(神)は栄光をお受けになるのです。』新約聖書 ヨハネの福音書15:7.8

あるとき、私はつまらないことをふと思ったが、「これは神様の喜ばれるような良い願いではないから、祈るのはやめよう。」と思った。

が、その願いが聞かれた。そして、神様がこの聖書の箇所から「何でも求めなさい。神様の栄光のために。」と言われた気がした。

私がイエス様にとどまるというと、イエス様の言われることを守っているなら、そのとおり行っているなら…という意味かなぁと長年思っていた。

イエス様が言われたとおりに守るのは、100%無理だと思う。

実は、イエス様を信じ、イエス様とふさわしい関係でつながっているなら…という意味だということを、「恵みの歩み」の本を読みながら、思った。「恵みの歩み」から、印象的なところをピックアップしてみたい。

「サタンはクリスチャンが律法に従うことが勝利への道であると信じ込ませます。律法を行うことは不可能です。もしみこころに従って生きることを願うのなら、主ご自身に目を向けることです。」

「自分の価値基準を放棄する理由として、善悪にとらわれると神よりも自分に目を向けるようになるというのがあります。堕落以前、アダムとエバにとって善悪は関係ありませんでした。彼らは自分たちの行動に目を向けていたのでなく、神との関係にもとずいて人生をたてあげていたのです。…彼らが主ご自身に目を向けることが神の目的でした。堕落以前、いつも神に目を向けていたので、裸であったことさえ、気になりませんでした。」

今、私たちは、善悪の木の実を食べ続けているかのような、裸の人間のような気がする。

しかし、キリストによって、いのちの木につなげられた。裸ではなく、キリストの白い衣を着させられている。赦されて、もういのちの木にしっかりつながっているので、枝である私が頑張る必要は何もない。いのちを受け継ぐだけなのである。

神様、私たちがイエス様によって、ぶどうの木につながっているものであることをありがとうございます。イエス様の良いものが私に流れ、良い実を結べることをありがとうございます。頑張ること、神様のみこころは何か思いあぐねること、努力することをやめて、ただ憐れみによって、つなげていただいてること、赦されて受け入れられていることを大いに喜べますように。

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2009年3月 2日 (月)

恵みの歩み

神様との関係はハネムーンのように恵みの中を歩ませてもらうのだと思います。

『その永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ることです。』新約聖書 ヨハネの福音書17:3

私がマクベイ師の「恵みの歩み」の本を手にとって、読んだのは、2007年1月1日だった。

暇な正月、布団に潜って本でも読もうかなと、本棚にあるマクベイ師の本をとった。人から一年前に借りて、そのままだった本だ。(後日、友人が新しい本を買って来てくれ、その本は返してくれた。)

イッキに読んだ。驚いて、呆然としてしまった。私は長い間、まわりの友人に話しをしてきていた。「教会で語られることは、神様の恵みであって、義務や規則ではないはず…。」と。あまり賛同は得られなかった。親しい友人からも、「あまり目くじらたてなくてもいいのでは…。」と理解が得られなかった。

そんな“神様の恵みの信仰”が聖書的根拠とマクベイ師の証とともに書かれてあった。

多分、私にとってこの本と出会ったのは、この時でなくてはならなかった。その前では問題だった。

私は、教会での牧師たちのメッセージに苦痛を感じてきたし、葛藤しまくっていた。

が、一年ほど前に、牧師たちを赦す祈りをし、要求することをやめ、癒された。癒される前だったら、この本を盾に自分は正しいと喧嘩を売っていたかもしれない。

私が考える“恵みの信仰”はマクベイ師のように聖書の体系化されたものではないけれど、やっと私の信仰を支持してくれる人(本)に出会えた…という感じだった。

「神様、私自身はこの与えられた信仰でいっていいのですね。」という感じだった。

10年ほど、聖会とかセミナーに縁もなかった私だったが、その年の10月、たまたまマクベイ師が、東京にくるというので、友人たちと3日間のセミナーに出た。私は本との衝撃が大きかったので、静かな思いで聞けた。

何故、この本との出会いについて書いているか。実は、この本の内容を掘り下げて取り上げようとしたが、うまくいかず、取り合えず、私にとって、素晴らしい出会いだったと紹介することにした。

マクベイ師は「もう私たちは古い人に死んで、新しいいのちに生きているので、義務や努力をしなくてよいのだよ。」

「聖書を読みたくなかったら、無理しなくていい。祈りも無理しなくていい。神様とつながってるから自然に読みたくなる、祈りたくなる。」

「大好きな彼女と、会ったら、まずキスすることに決めて、無理に一時間話そうと決めますか?好きな人と自然に長く話したい、一緒にいたいと思いませんか?神様と私たちの関係も義務ではないのです。」というような話しをしていた。

神様は計り知れない恵みの啓示を表す方である。私たちは恵みの中に漂い、その中に溢れるのである。

スティーブ・マクベイ著
尾山謙仁訳
ファミリーネットワーク発行
「恵みの歩み」シリーズをお勧めします。

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2008年8月30日 (土)

愛がなければ人生の破産者になる

『私が何を言おうと、何を信じようと、そして何をしようと、愛がなければ私は破産者にすぎません。』 新約聖書 第1コリント人への手紙13:3(Msg訳)

結婚して2年位たつ友人と会った。「主人と私は優先順位が違うみたいだ。」と話していた。

人は皆、限られた時間で何を優先にするかは違う。そして、何を先にしても、何を後にしてもかまわない。

「5つの目的」では、もし人生から愛をひくとゼロになると言っている。そして、聖書でいう愛とは何かと書いている。「愛の本質は何かをしたり、提供するのではなく、どれだけ自分自身を与えるかである。特に男性は理解できない。家族に必要な物を与えてきたのに…と思う。彼らが求めているのは、あなた自身である。」

「愛を示す最善の方法は、一緒に時間を過ごすことである。」とも言っている。私たちは人との関係の中で生きていて、この関係こそが何にもまさる宝物と思う。完全な愛を与えるには程遠いが、自分の時間を大切な人のために使う、自分自身を与える者でありたい。それがなければ、どんなすばらしいことをしても、人生の破産者になる。

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