お祈り

2009年11月 3日 (火)

11/3☆お祈り☆

お一人お一人の祝福を思い、一週間のお祈りをします。

『真理によって彼らを聖め別ってください。あなた(神)のみことばは真理です。

あなたがわたしを世に遣わされたように、わたし(イエス)も彼らを世に遣わしました。

わたしは、彼らのため、わたし自身を聖め別ちます。彼ら自身も真理によって聖め別たれるためです。』新約聖書 ヨハネの福音書17:17~19

天のお父さん、私たちは罪や汚れがあっても、イエス様によって聖いものとされましたからありがとうございます。

自分の顔を見るとしみもしわも汚れもあるものです。同じように、私自身がそれらを持ち合わせてるものです。

しかし、イエス様の十字架の洗いきよめにより、私たちはしみもしわも汚れもないものと神様の前にされましたから、ありがとうございます。(エペソ5:27)

そして、イエス様の新しいいのちにつながり、神様との親しい交流ができる神様の子どもとされましたからありがとうございます。

神様の子どもである聖霊様を私たちの内にいただき、神様のことを教えられ、導かれていますからありがとうございます。

新しい一週間のうちにも主がともにいてくださり、あわれみ、導いてください。

私たちはいつも何をやっても不確かですが、確かで変わることのないイエス様の愛と赦し、受け入れがありますからありがとうございます。

私たちが弱く、振り子のように揺れ動いても、変わらずにいて神様の真理の中に導いてくださる聖霊様をありがとうございます。

人となられたイエス様を近くに感じて、信じてその後を歩むものとさせてください。

希望のないような人たちの中に希望を与えてください。

私たち神様の子どもに与えられている希望の光を主によって放ち、まわりの人たちを照らしください。

孤独な人の近くに受け入れ慰める人を送ってくださり、神様がすべての人を見放さず、愛しておられることを伝えてください。

不安、悩み、思いわずらい、心配のあるところに神様からの安心を与えてください。

神様が私たちのすべてを知っていてくださいますから、ありがとうございます。

最善をご存じの神様に信頼して、歩んでいくことができるように導いてください。

私たちをイエス様の真理によって、この世からきよめ分かってください。

神様の慰めと平安とあわれみの支配の中に憩わせてください。

一人一人を主のみ名によって祝福してください。

すべてを主にゆだね、イエス様のお名前によって祈ります。
アーメン

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2009年10月26日 (月)

10/26☆お祈り☆

神様が私たちをイエス様によって赦し、私たちを和解の使者と遣わされたことを思います。

『神は、キリストによって、私たちをご自分と和解させ、また和解の務めを私たちに与えてくださいました。

すなわち、神は、キリストにあって、この世をご自分と和解させ、違反行為の責めを人々に負わせないで、和解のことばを私たちにゆだねられたのです。

こういうわけで、私たちはキリストの使節なのです。ちょうど神が私たちを通して懇願しておられるようです。私たちは、キリストに代わって、あなたがたにお願いします。神の和解を受け入れなさい。

神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。』新約聖書 第2コリント人への手紙5:18~21

神様は、イエス様によって、敵のような反逆する私たちを赦し、私たちと和解してくださいました。

そして、神様と人々が和解する務めを私たちに与えてくださいました。

私たちが神様からゆだねられていることを感謝して、成すことができますように。

祈ります。

恵み深い天のお父さん、あなたのみ名をあがめます。

あなたは、不従順の中にあって歩み、生まれながらみ怒りを受けるべき私たちをイエス様の十字架のゆえに、赦し受け入れ、神の子どもとしてくださいましたからありがとうございます。

それだけではなく、和解の務めを私たちにゆだねられましたからありがとうございます。

イエス様によって罪赦されて、神様の子どもになったということは、本当にすごいことです。

霊的に、生きる意味も方向性もわからないものが、造られた方を知り、その方にあって生きる意味を見い出し、どこに向かっているか教えられましたからありがとうございます。

どうぞ、私たち小さなものですが、神様の和解の使者として遣わしてください。

そして、同じように、悩む人たちに、神様の愛と慰めと計画と導きが、御霊の働きで示され、現されますよう示してください。

永遠のいのちであるイエス様と神様を知ることの素晴らしさをますます私たちが体験し、人々に現されますように導いてください。

新しい一週間も、神様が愛する方々と共にいて導いてください。

イエス様が私たちをどんなに深く赦してくださったか、知ることができますように。

聖霊様が私たちと共にいて、私たちを導いてください。

聖霊様と親しい交わりの中、聖霊様にある慰めと喜びの中にありますように。

すべてを愛しますイエス様のお名前によって祈ります。アーメン

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2009年10月18日 (日)

10/18☆お祈り☆

神様に愛されています方々を思い、一週間のため、祈ります。

『こういうわけですから、兄弟たち。私たちは、イエスの血によって、大胆にまことの聖所にはいることができるのです。

イエスはご自分の肉体という垂れ幕を通して、私たちのためにこの新しい生ける道を設けてくださったのです。

また、私たちには、神の家をつかさどる、この偉大な祭司があります。』新約聖書 ヘブル人への手紙10:19~21

恵み深い天のお父さん、あなたが私たちを生かし、支え、助け、導いてくださるお方であることをありがとうございます。

私たちのまわりには、突然のように、思いがけないことが起こります。

どうぞ、イエス様によって、あわれみ助け、守ってください。

私の言葉にならないうめきを聞いてくださり、イエス様のとりなしによって、神様のご支配のもと、助けてください。

人は、ときに脅威をもって、私たちを圧迫します。

それがすべてかのように圧迫がきます。

しかし、すべてをご支配しておられる神様、すべてはあなたの許しなくしては起りません。

神様を愛する者、また、そのような人を深く受け入れてくれる人、その人たちに神様の守りを与えてください。

『彼らを恐れてはいけません。…雀(すずめ)の一羽でも、あなたがたの父のお許しなしには地に落ちることはありません。…だから恐れることはありません。あなたがたは、たくさんの雀よりもすぐれた者です。』マタイ10:26~31

イエス様はそのように言われました。

どうぞ、あなたが愛しておられる人に心を留めてくださり、イエス様からの安心を与えてください。

すべての環境もご支配してくださる神様が、守り助けてください。

新しい一週間のお一人お一人をお守りください。

弱いところ、足りないところに助けを与えてくださる神様、私たちの足りないところに働いてください。

イエス様を信頼する心を与えてください。

イエス様がいのちを捨てるほどに私たちを愛されたことを教えてください。

不安や心配なところに安心をください。

悲しみのところに慰めをください。

乏しいところに、あわれみをください。

知恵がないところに神様の知恵を与えてください。

あなたが愛しておられるお一人お一人を覚えて、支えてください。

聖霊様による慰めと励ましを与えてください。

私たちが受け入れられていることを神様と人から体験できますように。

すべてをご支配しておられる神様にゆだねます。

感謝し、イエス様のお名前によって、祈ります。アーメン

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2009年10月12日 (月)

10/12☆お祈り☆

一週間を思いながら、感謝できますよう祈ります。

『しかし、イエスは言われた。「彼らが出かけて行く必要はありません。あなたがたで、あの人たちに何か食べる物を上げなさい。」

すると、弟子たちはイエスに言った。「ここには、パンが5つと魚が二匹よりほかありません。」

すると、イエスは言われた。「それを、ここに持って来なさい。」

そしてイエスは、群衆に命じて草の上にすわらせ、五つのパンと二匹の魚を取り、天を見上げて、それから祝福し、パンを裂いてそれを弟子たちに与えられたので、弟子たちは群衆に配った。』新約聖書 マタイの福音書14:16~19

イエス様は、少年が差し出した、たった五つのパンと二匹の魚を、たくさんにする奇跡を行い、男だけで5千人、女、子どもを入れて大勢の人にパンと魚を与え、余りが12かごいっぱいにありました。

私たちは現実を見て、「これしかありません。」「こんなわずかでどうしようもありません。」と思います。

けれど、信じて差し出すとき、イエス様がそのわずかなものを増やしてくださることを思います。

お祈りします。

『恵み深い天のお父さん、新しい一週間をありがとうございます。

私たちは何もないと思っていても、神様から実にたくさんのものを与えられています。

この精密にできている体、命、健康、体力、知力、…体の感謝をするだけでもたくさんあります。

家族、友人、祈りの友、…また、知らない多くの人に支えられ、生かされています。

私たちは与えられているものより、無いものに目がいきがちですが、与えられているものを感謝する力をください。

神様の愛、イエス様の十字架の赦し、聖霊様の導きと助けを何より感謝します。

与えられている信仰、祈り、みことば、イエス様と人々のとりなしの祈り、たくさんの約束を感謝します。

また、神様が一人一人を愛し、神様の働きと賜物(神様のために使う能力)を与えてくださっていることをありがとうございます。

目に見えて与えているもの、目に見えないもの…ありがとうございます。

神様がくださる信仰と希望と愛をありがとうございます。

私たちに与えられているものを感謝する力をください。

また、イエス様が私たちにあるものを差し出すとき、幾倍にも祝福してくださる神様であることを信じさせてください。

そして、与えられているものを喜んでイエス様に捧げ、そのイエス様の祝福と奇跡を見せてください。

私たちが何もないようでもイエス様の愛が注がれていますから、困難の中、失望することがないよう、聖霊様によってイエス様の注がれた愛を受けるものとしてください。(ローマ
4:5)

神様の国の私たちのうちになる素晴らしさを教えてください。

悩み迷うとき、聖霊なる神様が、私たちを良いところに導き、慰めてください。

この霊的な目がはっきり見えて、あなたの世界を見させ、信じさせてください。

小さく弱い私たちを助け、支えて、保ってください。

すべてを主にゆだね、感謝し、イエス様のお名前によって祈ります。アーメン』

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2009年10月10日 (土)

“弱いものを助けてください”(祈り)

霊的な戦いの中で、祈りました。

『しかし、わたしのしもべ、イスラエルよ。わたしが選んだヤコブ、わたしの友、アブラハムのすえよ。

わたしは、あなたを地の果てから連れ出し、地のはるかな所からあなたを呼び出して言った。

「あなたは、わたしのしもべ。わたしはあなたを選んで、捨てなかった。」

恐れるな。わたしはあなたとともにいる。

たじろぐな。わたしがあなたの神だから。

わたしはあなたを強め、あなたを助け、わたしの義の右の手で、あなたを守る。…

あなたの神、主であるわたしが、あなたの右の手を堅(かた)く握り、「恐れるな。わたしがあなたを助ける。」と言っているのだから。』旧約聖書 イザヤ書41:8~13

天のお父さん、私たちは弱く、小さな存在です。

また、“虫けらのヤコブ”(イザヤ41:14)と呼ばれるように、ときに惨めでどうしようもないような者です。

その私たちを地のはるかな所から呼び出し、「わたしはあなたを選んで、捨てない。」と言ってくださり、ありがとうございます。

神様は、私たちに「恐れるな。」と語っています。それは、あなたがともにいてくださるからです。

また、「たじろぐな。」と言ってくださいます。たじろがなくてよい理由が、あなたが私の神だからです。

私たちがどうしようもなく弱く、足りないとき、あなたが強め、助け、守ってくださいますからありがとうございます。

あなたが私が離れることのないように、しっかりと私の右の手を握ってくださるのでありがとうございます。

神様、どうぞ、弱い私たちを助け、あなたの広いところに立たせてください。

神様、私たちをあわれみ、ただ、助けてください。

くすしきことをなさるのは、神様、あなたです。

私たちに何も力がなく、何も成すすべがないとき、神様がその力と権力をもって、私たちを悪の敵から助けてくれます。

敵は神様との関係を断ち切り、神様を信じなくさせるサタンです。

どうぞ、私たちに神様からの慰めとあわれみを注いでくださり、あなたの中に憩わせてください。

敵が迫り、もう駄目かと思っても、私は弱くとも、あなたが力の神なので、助けてください。

平和の神様が、すみやかに、私の祈りによってサタンを踏みくだいてくださいますように。(ローマ人への手紙16:20)

あなたのみ業を待ち望みます。

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2009年10月 5日 (月)

10/5☆お祈り☆

ブログ周辺の方々を思い、お祈りします。

『ヤコブよ。これらのことを覚えよ。イスラエルよ。あなたはわたしのしもべ。わたしが、あなたを造り上げた。あなたは、わたし自身のしもべだ。

イスラエルよ。あなたはわたしに忘れられることがない。

わたしは、あなたのそむきの罪を雲のように、あなたの罪をかすみのようにぬぐい去った。

わたしに帰れ。わたしは、あなたをあがなったからだ。』旧約聖書 イザヤ書44:21.22

恵み深い天のお父さん、あなたが私たちを造り、また、神様の子どもとなるようイエス様によって買い戻してくださりありがとうございます。

イエス様によって、私のそむきの罪を雲のように、私の罪をかすみのようにぬぐい去ってくださり、ありがとうございます。

そのあわれみの深さを覚え、あなたのお名前をほめたたえます。

神様のお名前が多くのところで、あがめられますように。

私の心があなたをあがめますように。

天で行われていることを地にも表してください。

天の望みを私たちの口にもたらし、祈らせてください。

神様との親しい交わりを祝福してください。

あなたは、太陽のようにいつも変わることなく私たちを愛してくださっています。

が、時に弱く、力なくなり、あなたが遠く感じられる日もあります。

ただ、神様のあわれみによって、あなたの御顔を私たちに照らし、ほほえんでください。

あなたの御顔を私たちに向け、あなたの平安を与えてください。(民数記6:25.26)

困難を覚える日に、あなたが近くにいてくださることを聖霊様によって教えてください。

困難の日に、イエス様もとりなしてくださいますが、また、祈り支えてくれる友を与え、一人でないことを教えてください。

神様が一人一人の小さなことにまで関心を持っておられることを教えてください。

神様が人生の最良の導き手であることを思わせてくださり、信頼させてください。

神様が、イエス様によって一人一人に良いものを分け与えてくださいましたから、ありがとうございます。

与えられたものを持って、神様と人に仕え、神様と喜びをともにできますように祝福してください。

私たちの互いに祈りあう中に、イエス様もともにいてくださり、イエス様の愛を表してください。

聖霊様を深いところに与えられていることをありがとうございます。

聖霊の宮として、聖霊様を喜ばせるものとし、その喜びをともにさせてください。

暗やみの中にこそ、希望の無いようなところにこそ、イエス様の赦しと癒しと愛と希望を与えてください。

そのために祈る者とさせてください。

新しい一週間も主とともにありますように。

イエス様のお名前によって祈ります。アーメン

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2009年9月28日 (月)

9/28☆お祈り☆

ブログ周辺の人たちと心合わせて、一週間のお祈りをします。

『あなた(神)は人をちりに帰らせて言われます。「人の子らよ、帰れ。」

まことに、あなたの目には、千年も、きのうのように過ぎ去り、夜回りのひとときのようです。

あなたが人を押し流すと、彼らは、眠りにおちます。

朝、彼らは移ろう草のようです。

朝は、花を咲かせているが、また移ろい、夕べには、しおれて枯れます。…

それゆえ、私たちに自分の日を正しく数えることを教えてください。

そうして私たちに知恵の心を得させてください。』旧約聖書 詩篇90:3~6.12

恵み深い天のお父さん、私たちは限りある小さな者です。

偉大な神様からしたら、蟻(あり)のような小さな存在です。

けれども、そんな私たち一人一人に心を留め、導いてくださるあわれみをありがとうございます。

現実を見ると、ときにつらく、悲しく、苦しい中にあるときもあります。

そんなとき、神様を見上げると、変わることのない、あわれみといつくしみがあることを思います。

弱く、小さな私たちをあわれんで、助けてください。

一人では乗り越えられないように思える道に、イエス様がともにいて歩いてくれていることを思い出させてください。

この世でたった一人きりかのような孤独に襲われるとき、すべての孤独を知っているイエス様が横にともにいてくださることを思いださせてください。

また、人は一人で生きていくことはできません。理解者を与え、祈り手を送ってください。

新しい一週間も神様とともにありますように。

毎日の繰り返しのような中にも、苦しい中にも、無意味に感じられる中にも、生きている感じがしないような中にも、神様がともにいてください。

今わからなくても、そこに、すべてに意味あることとし、慰めてください。

心が痛む人に、イエス様の十字架の打ち傷により、癒しと平安がありますように。

誰にもわからない体の痛みに、イエス様の癒しがありますように。

イエス様は病を癒し、悪霊を追い出して歩かれました。

今もイエス様の関心は私たちが健やかに豊かに生きるため、主が愛をもって、私たちの中にみ国をもたらせたいと願っています。

病が癒され、サタンが追い出され、安らぎと喜びのみ国を私たちの中にもたらしてください。

私たちに住まわる聖霊様が満ち溢れ喜びますように。

私たちをごう慢の罪から守り、へりくだりの霊とともにありますように。

希望がない人に、主の変わらぬ希望を与えてください。

揺らぐ心に、主がイエス様の揺らがない信頼を与えてください。

愛を知らない人にイエス様の私のためにといのちを捨てたその犠牲の愛を教え、包んでください。

イエス様のお名前によって祈ります。アーメン

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“主にあって死を思う”(祈り)

本「その時の祈り」辻宣道著者(日本基督教団出版社)から、“死を思う”…という祈りを抜粋します。自分の死について、祈るときに教えられるなぁと思い、分かち合いたいと思いました。

『祝宴の家に行くよりは、喪中の家に行くほうがよい。

そこには、すべての人の終わりがあり、生きている者がそれに心を留めるようになるからだ。』旧約聖書 伝道者の書7:2

神様、人間は早い遅いの違いはありますが、いずれは死を迎える存在です。

私が信仰がなかったとき、死は不安であり恐怖でしかありませんでした。

死と向き合ったときどうなるか考えただけで、棒立ちになってしまうような者でした。

しかし、信仰が与えられた今、それは昔のような恐れではなくなりました。

今の私にとって死は「永遠の生命」の入口です。

私のからだはやがて地上から消えて去ります。

愛する人々とも別れなければなりません。それは悲しみであり、耐えがたい苦痛です。

しかし、私には信仰があります。

終わりの日に、主イエス様の栄光のからだと同じからだに化せられる約束を信じ、この悲しみを乗りこえます。

やがて住むところは別々になりますが、再び会える日を信じて静かに死を迎えることができますように。

今こそ信仰のあるなしが問われていることを知って落ち着いた日々を過ごさせてください。

主によって

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sebaの祈り

天のお父さん、人はすべての人が死ぬことが定められています。

誰も自分の死を考えたくないかもしれません。

パウロは、「私の願いは、世を去ってキリストとともにいることです。」(ピリピ1:23)と言いました。

それほどまでに、私はイエス様を愛し、天国を切望しているでしょうか。

天国は現実の苦しみの逃げ道ではありません。

きっと、パウロのようにキリストのため、命をかけた人にとって、イエス様の近くに行くことが喜びなのだと思います。

私にとっての天国がただ慰めと希望だけでなく、「生きることはキリスト、死ぬこともまた益です。」という、あのパウロの告白と近い生き方ができるものとしてください。

あなたの天国の希望を大きく見せてくださり、死を通って喜んで凱旋できるようにしてください。

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2009年9月22日 (火)

9/22☆お祈り☆

一週間のお祈り、忘れていました。心合わせてもらえたら、幸いです。

『悪をもって悪に報いず、侮辱をもって侮辱に報いず、かえって祝福を与えなさい。あなたがたは祝福を受け継ぐために召されたのだからです。』新約聖書 第1ペテロの手紙3:9

天のお父さん、あなたが私たちをあわれみ、いつくしみ、喜び、愛してくださっていることをありがとうございます。

祝福である神様は、私たちに祝福を与える者としてくださいましたから、ありがとうございます。

悪や侮辱に反応せず、上からいただく祝福を与えるもの、受け継ぐ者とされましたから、ありがとうございます。

私たちのまわりの人たちが、私たちを通して神様の祝福を受けますようお願いします。

私たちが祝福する者となるため、神様の祝福をください。

特に天にあるすべての霊的祝福を与えてください。(エペソ1:3)

イエス様の罪の赦し、ひとつに集められること、み国を受け継ぐ者とされたこと、聖霊の証印をありがとうございます。

どうそ、日々、神様とともにいさせてください。

私たちの悩みのとき、神様に叫ぶと応えてくださる主よ、私たちに応えてください。

私たちの弱いとき、その弱さにキリストの力をおおってください。

私たちが人間関係に疲れるとき、上から主の慰めと癒しをください。

そして、まわりの人の祝福を祈る力をください。

迷い悩むとき、主が足もとを照らし共に歩んでください。

体の痛みに神様の癒しを与えてください。

心の痛みにイエス様による癒しと平安を与えてください。

一人孤独を感じるとき、イエス様近くにいてください。

また、地上において一人っきりではないことを教えてください。

生きていく気力を失うほど疲れている人に神様の希望を与えてください。

神様、私たちは弱く小さな者ですが、神様の栄光を現してください。

イエス様の十字架の福音を拡げてください。

聖霊様の豊かな働きが私たちの内になされますよう、導いてください。

すべてを主にゆだね、イエス様のお名前によって祈ります。
アーメン

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2009年9月14日 (月)

9/14☆お祈り☆

ブログ周辺の方たちを思いつつ、一週間のお祈りをします。

『何も思いわずらわないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。

そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。』新約聖書 ピリピ人への手紙4:6.7

恵み深い天のお父さん、あなたが私たち一人一人をご存じですからありがとうございます。

私たちは、それぞれのからだを持ち、気持ちを持ち、個々に生きています。

それゆえに、自分だけのことを誰にもわかってもらえない孤独に襲われることもあるかもしれません。

けれども、私のすべてのことをご存じで、理解し、共感し、あわれみ、愛してくださるイエス様がいますからありがとうございます。

また、私たちの痛みや苦しみが、他の人が同じように感じることはありませんが、その痛みや苦しみを共に自分のことのように考えてくれる友、また、とりなす人が与えられていますからありがとうございます。

私たちはとても弱い存在です。生まれてきたときから、未熟児のようで、動物のようにすぐ立つこともできません。

何もできないものとして生まれ、人から手をかけてもらい、成長します。

もし、心の中に満ちていないもの、傷や痛みがあったら、主よ、あなたが触れて癒してください。

もし、からだの痛みと苦しみがあるなら、主よ、そこにも関心をお持ちの主が触れて癒してください。

私たちの思いわずらいを祈りと願いを主にささげることによって、人知を越えた神の平安に変えてください。

イエス様を信頼する心を与えてくださり、安心を与えてください。

霊の目を開かせてくださり、あなたが与えてくださっているものに感謝する心を与えてください。

変わらないイエス様の私への愛のまなざしを感じて、どんなときも主を喜ぶものとしてください。

悩みの中にある人に慰めと導きをください。

迷いのある人に、主がみことばの光で足元を照らし、歩む一歩を教えてください。

私たちのまわりにいる人をとりなす祈りを与えてください。

ただイエス様の栄光を現してください。

神様のみ国がお一人お一人に与えられますことを信じて祈ります。

聖霊様にある喜びを与えてください。

新しい一週間も主とともにありますように。

希望のない人たちに、そのような場所に神様の希望を届けてください。

イエス様のお名前によって祈ります。アーメン

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2009年9月 7日 (月)

9/7☆お祈り☆

ブログ周辺の方々とともに、一週間のために祈ります。

『この川が流れて行く所はどこでも、そこに群がるあらゆる生物は生き、非常に多くの魚がいるようになる。この水がはいると、そこの水が良くなるからである。この川がはいる所では、すべてのものが生きる。』旧約聖書 エゼキエル書47:9

天のお父さん、あなたが私たちを愛してくださり、聖霊様を与え、あなたの喜びの中に入れてくださることをありがとうございます。

神様、あなたが私たちの廃墟のような状態も御霊の住まわる神殿としてくださいますから、ありがとうございます。

けがれた私たちがイエス様の十字架によりきよめられ、神の霊が住まわるところとされましたから、ありがとうございます。

どうぞ、あなたの願いのとおり、その御霊をもって、みことばを通して、あなたを知るところとさせてください。

どうぞ、あなたとの親しい交流の中に楽しませてください。

聖霊様が満ち溢れ、流れていくほどにしてください。

私たちを通して、その聖霊様が人々にも癒しと慰めとを与えてください。

弱い私たちを助けてくださる聖霊様を感謝します。

私たちはどのように祈ってよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしをしてくださいますからありがとうございます。(ローマ人への手紙8:26)

苦しむ人に主の支えが近くにありますように。

悲しむ人に、主の慰めがありますように。

病で苦しむ人を覚えてください。病を癒し、主をあがめさせてください。

希望の持てない人に、主の希望を与えてください。

一人でいる人に、一人ではないことを現してください。

私たちが人を赦し、自由となり、祝福する者となりますようにしてください。

求める者に、主が与え、あなたの栄光を現してください。

この一週間も神様がともにいてくださいますように。

イエス様の赦しのあわれみの中に生かしてください。

聖霊様とともに主を喜ばせてください。

一週間のお守りがお一人お一人にありますようお願いします。

イエス様のお名前によって祈ります。アーメン

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2009年9月 4日 (金)

“神様のみ国が来ますように”(お祈り)

神様のみ国が来ることを願いつつ、お祈りをのせます。

『あなたがたのある者は、昔の廃墟を建て直し、あなたは古代の礎(いしずえ)を築き直し、

「破れを繕(つくろ)う者、市街を住めるように回復する者。」と呼ばれよう。』旧約聖書イザヤ書58:12

神様、捕らわれ人を解放し、闇にある人に光を与えてください。

霊的な世界での主の働きを顕著なものとし、祝福してください。

あなたが望まれるところが、現実の中でなされるようにしてください。

イエス様の愛が現されるものとしてください。

私たちを祈る者としてくださりありがとうございます。

霊的な目がはっきり見えて、あなたの望むところを願わせてください。

あなたがご自由に働いてください。

私たち人間側が、じゃましたり、止めたりすることなく、聖霊様の自由な働きをなしてください。

あなたこそ、私たちの頼るべきお方であることの信仰を確かなものとしてください。

私たちのあなたへの信頼の妨げになるものを示し、取り去ってください。

ほえたける獅子のようなサタンに対して、はっきりと見極め、戦えるものとしてください。

主のみてにゆだねます。私たち一人一人の人生をあなたのものとしてくださり、あなたが望まれるところへと、あわれみ導いてください。

主の主権、主の御名をあがめます。

イエス様のみなによって祈ります。アーメン

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2009年9月 1日 (火)

“主の大庭においてください”(祈り)

個人的な祈りですが、書きました。

『万軍の主。あなたのお住まいはなんと、慕わしいことでしょう。私のたましいは、大庭を恋い慕って絶え入るばかりです。私の心も、身も、生ける神に喜びの歌を歌います。…

万軍の神、主よ。私の祈りを聞いてください。ヤコブの神よ。耳を傾けてください。

神よ。われらの盾をご覧ください。あなたに油そそがれた者の顔に目を注いでください。…

まことに、あなたの大庭にいる一日は千日にまさります。私は悪の天幕に住むよりはむしろ神の宮の門口に立ちたいのです。』旧約聖書 詩篇84篇

恵み深い天のお父さん、あなたがすべてにまさって王の王、主の主です。

あなたによって、生きていく希望のないものが生きる希望を与えられましたから、ありがとうございます。

あなたによって、傷ついていた者が、傷のある人をとりなす者に変えられましたから、ありがとうございます。

あなたがいなければ、今の私はいません。

あなたが私のすべてとなってくださいましたから、ありがとうございます。

天では、あなたのほかに、だれを持つことができましょう。

地上では、あなたのほかに私はだれをも望みません。(詩篇73:25)

あなたが私の最善をご存じです。

あなたに出会ってこれまで、あなたが私の最善をしてくださいました。

だから、これからもまた、あなたを信頼し、あなたについていきます。

どうぞ、私を見捨てず、見放さず、主よ、共にいてください。

あなたにとっては、やみも暗くなく夜は昼のように明るいのです。暗やみも光も同じことです。(詩篇139:12)

あなたと親しくする主の大庭に私を置いてください。

ただ、あなたと語らう場所を祝福してください。

あなたの大庭にいる一日は千日にまさります。

私はあなたがいない世界の中で憩うより、あなたのいる場所の苦しみを選びます。

主よ。あなたとともにいて、私をあわれみ、祝福してください。

主よ。あなたの愛に包み、悲しみを癒してください。

ただ主を慕い求め、あなたを賛美します。

あなたの栄光の光で私の顔を照らして慰めてください。

イエス様のお名前によって祈ります。アーメン。

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2009年8月30日 (日)

8/30☆お祈り☆

ブログ周辺の方々を思い、お祈りします。

『しかし定めの時が来たので、神はご自分の御子を遣わし、この方を、女から生まれた者、また律法の下にある者となさいました。

これは律法の下にある者をあがない出すためで、その結果、私たちが子としての身分を受けるようになるためです。

そして、あなたがたは子であるゆえに、神は「アバ、父。」と呼ぶ、御子の御霊を、私たちの心に遣わしてくださいました。

ですから、あなたがたはもはや奴隷ではなく、子です。子ならば、神による相続人です。』新約聖書 ガラテヤ人の手紙4:3~7

この世界が造られる前から、私たちを愛し、壮大な救いの計画を立てられておられた神様、あなたのお名前をあがめます。

私たちはどう頑張っても正しい者とはなれず、その弱さの中に絶望的な者でした。

しかし、神様が時が満ちたとき、ずっと旧約時代から預言されていたイエス様を私たちに送ってくれました。

イエス様は処女マリアから生まれましたが、聖霊によりみごもり、人間の罪を受け継ぐことのないきよいお方として生まれました。

それは、私たちの罪を負い、十字架の上で私たちの罪を代わりに受けてくださるためでした。

2000年前のイエス様が十字架にかかられた歴史的事実が、信仰により、私の赦しと癒しと解放、平安が与えられるためとなり、この人の考えを越えた神様の救済のみ業をありがとうございます。

それは、ただ一度だけのイエス様の十字架によって完成され、私たちがそこに何も付け足さなくてよいのでありがとうございます。

私たちはイエス様の十字架で、罪赦され、神様の子どもとされましたから、ありがとうございます。

また、イエス様の御霊をいただき、神様のことを「お父ちゃん」と呼べるようになりましたから、ありがとうございます。

私たちは正しいことができませんでしたが、正しいことを自力でするところから解放されましたから、ありがとうございます。

イエス様が私のうちに生きてくださり、イエス様の愛に応答して生きていくものとされましたから、ありがとうございます。

神様からのたくさんの良いものを約束され、神様の子どもとしてそれらを相続する者となりましたからありがとうございます。

新しい1週間も、愛する方々と、神様、近くにいてください。

私たちが神様の子どもである日々を楽しませてください。

与えられた聖霊様によって、日々、「天にいるお父ちゃん。」と呼び掛け、たよらせてください。

私たちがイエス様の十字架で赦され、受け入れられているすばらしさを体験させてください。

私たちがいただいたイエス様の愛によって、人を祈り、祝福する者とさせてください。

この1週間を神様、ともにいてお守りください。

あなたの御名があがめられ、あなたの御国がきますように。

イエス様のお名前によって祈ります。アーメン

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2009年8月23日 (日)

8/23☆お祈り☆

新しい一週間も神様とともにあることを願い、お祈りします。

『わたし(神)はあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。…

それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。

あなたがたがわたしを呼び求めて歩き、わたしに祈るなら、わたしはあなたがたに聞こう。

もし、あなたがたが心を尽くしてわたしを捜し求めるなら、わたしを見つけるだろう。』旧約聖書 エレミヤ書29:11~13

恵み深く、あわれみ深い神様、あなたは、私たちがあなたを知る前から私たち一人一人をご存じでしたから、ありがとうございます。

神様、あなたは私たちの細部にいたるまで知っておられ、関心をもってくださっています。

神様、あなたの関心事は私たちが本来の自分を取り戻し、豊かに喜んで生きることにありますから、ありがとうございます。

あなたは、私たちの将来を希望あるものに約束してくださっていますから、ありがとうございます。

どうぞ、新しい一週間にも、神様が共にいてください。

そして、神様の私たちの生活、私たち自身に関心を持たれ、関わっていることを豊かに知ることができますようにしてください。

神様を呼び求める者は、その祈りが聞かれ、捜し求める者は神様を見い出すとあります。

神様ご自身は、いつも私たちを見てくださり、聞いていてくださる方ですが、私たちがそのことがわかるように、知ることができるように、祈ること、捜し求めることが大事なのだと思います。

神様、あなたに祈り求める中、あなたを近くに感じ、感謝していく日々としてください。

日ごとにイエス様の十字架で私の罪を洗いきよめてください。

そして、マイナスのダメージから解かれ、神様に愛され、祝福されている者であることを教えてください。

聖霊様、私の内側にいて、慰めを豊かにください。

また、みことばに聖霊様が働き、私の心に創造のみわざをなし、造り変えてください。

御霊のあるところには自由があります。

私の心を聖霊様の住まわる宮としてくださっていますから、聖霊様がご自由に働かれ、喜ばれるところとしてください。

愛する方々とともに、この一週間の祝福を願いつつ、イエス様のお名前によって祈ります。アーメン

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2009年8月22日 (土)

“自己回復のための祈り”

自己回復し、神様の良いものをたくさん心の中にも受けていけますよう、祈ります。

『どうか、私たちの主イエス・キリストの神、すなわち栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を、あなたがたに与えてくださいますように。

また、あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって、神の召しによって与えられる望みがどのようなものか、聖徒の受け継ぐものがどのように栄光に富んだものか、

また、神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかを、あなたがたが知ることができますように。』新約聖書 エペソ人への手紙1:17~19

恵み深く、私たちをあわれみに満たしてくださる神様、今日は、私たちの“自己回復”についてお祈りします。

あなたは私たちを愛してくださり、イエス様の十字架の赦しをくださいました。

赦された私たちは、不完全なままで、イエス様の十字架のゆえに、神様との関係を回復しましたから、ありがとうございます。

この事実は、とても大きなことです。すばらしい神様と親しく交流し、神の子どもとして、たくさんの約束をいただきました。

私たちの傷はイエス様の打ち傷によって癒され、平安をいただきました。

もし、癒しと平安が少なく感じる方がいたならば、主よ、あなたの約束のゆえに癒しと回復を、愛する方々に現してください。

もし、神様から愛されているということをダイレクトに受け止めることができない方がいらしたら、その原因を示し、とりのぞいてください。

神様、ご自身のひとり子をお与えになるほどに、私たちを愛してくださる主よ、その私たちの思いを越えた愛を私たちの中に現してください。

私たちは神様から喜ばれる、愛される、祝福される存在として造られました。

たとえ、私たちが傷だらけであっても、あなたは、私たちをそのままで受け止め、尊いと言ってくださいますからありがとうございます。

神様が私を見るように、私が自分を見ることができますように。

聖書にあることが真実ですから、そのことを受け入れられますように。

聖霊様、あなたの考えておられることを教えてくださり、あなたの成される癒しのみわざを信じさせてください。

ただ、主のご栄光のためにあなたをあがめる者としてくださり、私を通して、あなたがあがめられますように。

あなたが愛しておられるお一人お一人にその神様の思いが豊かに伝わることを願います。

イエス様のお名前によって祈ります。アーメン

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2009年8月16日 (日)

8/16☆お祈り☆

ブログ周辺の方々を思いつつ、一週間のお祈りをします。

『たとい、あなたがたの罪が緋(ひ)のように赤くても、雪のように白くなる。

たとい、紅(くれない)のように赤くても、羊の毛のようになる。

もし喜んで聞こうとするなら、あなたがたは、この国の良い物を食べることができる。…』旧約聖書 イザヤ書1:18.19

私たちの思いを越えて、大きな赦しを与えられる神様、あなたの用意してくださる赦しをありがとうございます。

私たちは罪にまみれ、けがれにまみれた者ですが、見捨てることなく、捕らえてくださり、イエス様のきよめの中で、すべての罪をきよめてくださいますから、ありがとうございます。

私たちの罪がたとえ真っ赤に染まっていても雪のように、白くしてくださるという、神様の真実なことばをありがとうございます。

神様に赦され、心をきよめられると、私たちが負っている責め、罪責感から解放されますからありがとうございます。

心のきよめは、神様を見い出しますからありがとうございます。

心のきよめは、隣人を心から思い、祈る祈りを生み出しますからありがとうございます。

心のきよめは、平和を願いますからありがとうございます。

どうぞ、私たちが何か良いことをしようとする前に、神様の赦しの中におおってください。

あなたのあわれみといつくしみで、私の心をおおってください。

一人孤独にある人を覚えてください。わたしは決してあなたを見放さないと言われたイエス様が近くにいてください。

イエス様に愛され、とりなす者を近くに置き、とりなしをさせてください。

失意にある人にあなたの変わらない希望を与えてください。

不安のある人、心配のある人に、人知を越えた神様の平安を与えてください。

神様に聞いてもらう願いと祈りを用いて、平安を与えてください。

この一週間も神様が私たちとともにいてお守りください。

いつもイエス様の十字架の赦しの中に癒され、きよめられますように。

聖霊様の豊かな働きの中に生かされ、聖霊様とともに喜べますように。

イエス様のお名前によって祈ります。アーメン。

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2009年8月12日 (水)

“慕い求める主よ”(祈り)

個人的に祈った祈りを書きとめました。

『天にいます私たちの父よ。御名があがめられますように。

御国が来ますように。

みこころが天で行われるように地でも行われますように。』新約聖書 マタイの福音書6:9.10

主よ。私を祈りの世界にいざなってください。

祈りの世界に神様の思いを現してくださりありがとうございます。

天でつながれている(祈りの中での)ことは地でもつながれ、天で解かれていることは地でも解かれていますからありがとうございます。

祈りの世界は主のご支配するところとなり、サタンも退きますからありがとうございます。

あなたの祈りを私に祈らせ、神様の国を実現させてください。

神様が言い送ったことは必ず成就しますからありがとうございます。

祈りの中で、天の窓が開かれ、あなたのご栄光を見ることができますからありがとうございます。

それは天地を造られた主のご栄光です。

人である私たちをあわれみ、主の栄光の中に生かしてください。

愛する主よ。あなたが私たちの主です。あなたを慕い求めます。

多くの中で私を選びありがとうございます。

私たちを通して、神様の国の実現を成してください。

愛する主よ。霊であられる主よ。あなたの御名をあがめます。

愛する主よ。主にあって、この世にたりないものはなく、乏しいことはありません。

愛して止まない人々をありがとうございます。

その生涯を主とともに過ごし、主に生かしてください。

祈りの霊を与え、共に祈らせてください。

愛する主よ。あなたを慕い求めます。

あなたこそ私の神です。

私の生涯を主とともにいさせてください。

愛する主、この地上での生涯、私たちを一つとし、愛し合わせてください。

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2009年8月 9日 (日)

8/9☆お祈り☆

ブログ周辺にいますお一人お一人を思いつつ、一週間のお祈りをします。

『さて、神の国はいつ来るのか、とパリサイ人たちに尋ねられたとき、イエスは答えて言われた。

「神の国は、人の目で認められるようにして来るものではありません。

『そら、ここにある。』とか『あそこにある。』とか言えるようなものではありません。いいですか。

神の国は、あなたがたのただ中にあるのです。』新約聖書 ルカによる福音書17:20.21

天地を造られました神様、あなたがその天地を今も治め、すべてのところにいてくださることをありがとうございます。

神様はキリストにおいて、私たちに天にあるすべての霊的祝福をもって、祝福してくださるとありますから、ありがとうございます。(エペソ1:3)

私たちにイエス様も経験された、天にある霊的祝福をたくさん体験させてください。

神様、あなたとの親しい交流は何にもまさる喜びです。

日々、イエス様の十字架の赦しによって、神様との親しい交わりの中に入れてください。

この地上にいながら、あなたと交流し、あなたの慰め、あわれみ、いつくしみに包まれるとき、そこに天国が現されますからありがとうございます。

また、イエス様にあって、私たちが一つに集められることはあなたの計画にあることです。(エペソ1:10)

私たちがひとりぼっちではなく、互いに励まし合い、支え合い、助け合う者として備えられていますから、私たちが与えられた良いものをもって、互いを支えるものとしてください。

私たちはイエス様にあって神様の子どもとされ、御国を受け継ぐ者とされましたからありがとうございます。(エペソ1:11)

あなたが私たちに受け継がせたい財産がどんなにすばらしいものであるか、霊の目が開かれて見えるようにしてください。

そして、受け継いでいるものを豊かに活かしていくことができますよう、導いてください。

私たちの苦しみの中にあって、あなたが与えてくださるものをはっきり見て、その望みに支えられ生きていけますように。

悲しむ人に慰めを、失望する人にキリストの愛を、捕らわれ人には解放を与えてください。

あなたが、この地上の闇に光を与え、神様、あなたこそがすべての主権を持っておられる神様として、その栄光を表してください。

聖霊様が豊かに住まわれ、聖霊様とともに主を喜べますように。

この一週間も主にある守りがあることを願います。

イエス様のお名前によって祈ります。

アーメン。

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2009年8月 3日 (月)

8/3☆お祈り☆

ブログ周辺にいてくださる皆さんを思いながら、一週間の祝福を祈ります。一日遅くなりました。

『何も思い煩(わずら)わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。

そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。』新約聖書 ピリピ4:6

いつも人の思いを越えたことをなさいます神様、あなたのお名前をほめたたえます。

私たちは自分の考えられる範囲でしか、あなたが働いてくださらないと考えやすいものです。

しかし、無から有を生み出し、天地を造られ、今、すべてをご支配しておられるあなたは、私たちの外にも内側にも主の不思議をしてくださる方です。

どうぞ、私たちにあなたのみことばのとおりのことを成してください。

不安や恐れにある人を覚えてください。

何も思いわずらない…それは困難な状態で私たちには、不可能に近い話しです。

しかし、嘘をつくことのない神様が、そのように言われるので、そのことばを信じさせてください。

あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、私たちの願い事を神様、知ってください。

そして、約束のとおりに、人知を越えた神様の平安に私たちの心と思いを守ってください。

悲しみのある人に慰めを与えてください。

義に飢え渇く者に、神様の義を与え、満たしてください。

あわれみ深い人に、あわれみを与えてください。

私たちの心をきよめ、神様を見い出させてください。

迫害される人に、その圧迫を越えた、神様の喜びに満たしてください。

神様、あなたが慰めに満ち、どんな苦しむ人をも慰さめてくださることを、ありがとうございます。

あなたの栄光の現される場所は広がっています。多くの闇に、キリストの光が照らされますように。

新しい一週間、愛されていますお一人お一人に、神様が近くにいてくださいますように。

イエス様の赦しの愛に包まれますように。

聖霊様にある喜びがありますように。

イエス様のお名前によって、お祈りします。

アーメン

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2009年7月28日 (火)

“守り助ける神様”(祈り)

苦しむ人を守られる神様にあって、祈ります。

『主は、ご自分の羽で、あなたをおおわれる。あなたは、その翼の下に身を避ける。主の真実は、大盾であり、とりでである。

あなたは夜の恐怖も恐れず、昼に飛び来る矢も恐れない。

また、暗やみに歩き回る疫病も、真昼に荒らす滅びをも。…

彼がわたしを愛しているから、わたしは彼を助け出そう。

彼がわたしの名を知っているから、わたしは彼を高く上げよう。

彼が、わたしを呼び求めれば、わたしは、彼に答えよう。

わたしは苦しみのときに彼とともにいて、彼を救い彼に誉れを与えよう。

わたしは、彼を長いいのちで満ち足らせ、わたしの救いを彼に見せよう。』旧約聖書 詩篇91篇

天のお父さん、私たちは地上において、いろんなことに出会わされますが、いつもあなたの守りの中に入れてください。

神様がご自身の羽で、ひなどりを守られるように守ってくださいますから、ありがとうございます。

私たちはそこに身を避け、安全です。

神様、あなたの真実は揺らぐことなく、私を守りますからありがとうございます。

私たちがころびそうになっても、あなたが、み使いを送ってくださり、私たちを支え、倒れないようにしてくださいますから、ありがとうございます。

愛する者たちを、主よ、みことばの約束のとおり、助け出してください。

彼らを守り、助け、その叫びに答えてください。

苦しみのとき、彼らとともにいて救ってください。

主よ、あなたがともにとりなし祈ってくださっていることを私に思い出させてください。

あなたの真実は変わらないゆえ、あなたのあわれみは尽きず、あなたがどんなところからも助けてくださることを見させてください。

一人で祈り求めている人に、一人ではないことを教えてください。

私も今日、一人で孤独に祈る人々を思いました。

その人たちに心合わせて祈ります。

一人で寂しく祈る思いを取り去ってくださり、あなたがともに祈るものと、私たちをしてください。

あなたが祈りに応えてくださる主であることを見させてください。

力ある主よ、ただあなたに求めます。

あなただけがすべてをご存じで解決を与えてくださるお方だからです。

イエス様のお名前によって、祈ります。

アーメン。

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2009年7月26日 (日)

7/26☆お祈り☆

ブログ訪問されます皆さんを思いつつ、一週間の祝福をお祈りします。

『わたし(イエス)が来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。』新約聖書 ヨハネの福音書10:10

私たちを愛する対象として造ってくださった神様、どうぞ、私たちに神様の愛が満たされ、溢れるものとしてください。

私たち自身には、人を愛する力もありませんが、神様が、私たちを愛し、喜びを与えてくださいましたから、ありがとうございます。

神様のご性質は愛そのものです。神は愛です。

そしてその神様の愛は、歴史の中で具体的に現され、信仰の中で私たちに現されました。

神様はひとり子であるイエス様を、私たちすべての人たちの救いになるよう、地上に送りました。

そして、十字架にかけ、私たちの罪の身代わりとしてくれました。

そのことによって、私たちは新しいイエス様とつながるいのちをいただきました。(第1ヨハネ4:9.10)

ここに神様の愛が現されました。

新しいいのちは、神様を知ることができ、神様と親しく交流できるいのちです。

新しいいのちは、イエス様によって、古き自分に死に、イエス様の喜ばれることをしたくなるいのちです。

新しいいのちは、神様の霊を内側に宿し、内側から泉の如く、イエス様とともにあることの喜びがわき出るいのちです。

新しいいのちは、自分の喜びが人にも流れ、人を愛し、人を祈り、人に与えていくいのちです。

どうぞ、新しい一週間も、イエス様がくださったいのちが豊かに輝きを増すことのできるよう祝福してください。

悲しみにある人に、そのイエス様のいのちとつながり、深い慰めを与えてください。

どんな苦しみをも慰めてくださる神様の慰めの霊が、その心をおおい、癒してください。(第2コリント1:4)

希望のないようなとき、イエス様に愛されていることを思い出させてください。

その希望は失望に打ち勝つものであることを思い出させてください。

聖霊によって、神様の愛を心に注いでください(ローマ人への手紙4:5)

病に苦しむ人にイエス様の癒しを与えてください。

人に疎外されている人に、神様は見捨てず、見放さない方であることを覚えさせてください。

私たちが見ている世界がすべてではありません。霊の目が開かれて、神様の愛に満ち溢れた世界をはっきりと見させてください。

お一人お一人を神様がこよなく愛されています。

その神様の愛がお一人お一人に流れていくことを心から願い、イエス様のお名前によって祈ります。

アーメン。

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2009年7月24日 (金)

“最もイエス様が現される尊い器”(祈り)

神様が弱き人にこそ栄光を現されるよう、祈ります。

『信じる人々には、次のようなしるしが伴(ともな)います。すなわち、わたし(イエス)の名によって悪霊を追い出し、新しいことばを語り、蛇をもつかみ、たとい毒を飲んでも決して害を受けず、また、病人が手を置けば病人はいやされます。』新約聖書 マルコの福音書16:17.18

この世の中で解決を持たず、イエス様を必要とする方々が、イエス様のお名前で癒され、慰められ、生かされていきますように祈ります。

「神様は全能の力をイエス様のうちに働かせ、死者の中からよみがえらせ、神様の右に座らせられました。

そして、支配、権威、権力、主権…あらゆる力の働きの最も上に、最も力ある方として置かれました。

そして、そのイエス様を教会に与えられました。(エペソ1:20~23)

ですから、教会こそが、イエス様の力のすべてが現れる場所です。

どうぞ、教会である私たち一人一人にイエス様が力ある方であることを信じさせてください。

私たちが自分の中にそのことを体験していかないと、信じて周りの人たちに同じ力が働かれることを信じて祈ることができません。

イエス様が、まず、私たち自身に「あなたの信仰があなたを直したのです。」という信仰と体験を与えてください。

そして、イエス様に助け求める人たちに、イエス様の働きをみせてくださり、人々が安心して帰ることができますようにしてください。

病で苦しむ人たちを覚えてください。

その苦しみはその人だけが知る苦しみです。

しかし、イエス様は病の人で、悲しみの人でした。

イエス様はその痛み苦しむ人を知りたいと願い、イエス様の解決を与えたいと願っています。

どうぞ、誰も知り得ない病の苦しみをイエス様に知っていただき、イエス様に癒していただけますようにしてください。

弱さを覚える人に、イエス様の力がおおいにますように。

悲しみの中にある人にイエス様が来てくださり、喜びの霊を与えてください。

この世の中で、どうしようもなくなった人たちに、神様の栄光が表されると、周りの人々に神様に対する恐れが生じます。

ともに神様をあがめるようになります。

神様は力ある者、知恵ある者をなきものにするため、無に等しい者を選ばれたとあります。(第1コリント1:28)

教会を訪れる無に等しいような弱く力ない人は神様の栄光の器です。

彼らを通してしか現すことのできない神様の栄光があるからです。

どうかそのような、神様が備えられた尊い器を、失望のまま帰らせることがないように。

私たちに現状を見て、無理という判断ではなく、人にはできないが神様にはできるという、その信仰と愛を与えてください。

あなたの栄光が現されるよう、私たちの暗闇を照らしてください。

イエス様のお名前によって祈ります。

アーメン。」

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2009年7月20日 (月)

“イエス様、感謝します”(祈り)

イエス様に感謝して祈ります。

『神よ。あなたは私の神。私はあなたを切に求めます。

水のない、砂漠の衰え果てた地で、私のたましいは、あなたに渇き、私の身も、あなたを慕って気を失うばかりです。

私は、あなたの力と栄光を見るために、こうして聖所で、あなたを仰(あお)ぎ見ています。

あなたの恵みは、いのちにもまさるゆえ、私のくちびるは、あなたを賛美します。』旧約聖書 詩篇63:1~3

イエス様が、限りなく教会を愛し、私を愛してくださっていることを今、思わされています。イエス様に感謝のお祈りをします。

「イエス様、あなたが私に新しいいのちを与えてくださり、ありがとうございます。

イエス様と神様が一つであったように、イエス様のいのちをいただき、私もイエス様と一つとされていますからありがとうございます。

イエス様、あなたがただ私の存在を喜んでくださっていることを知り、ありがとうございます。

私が喜ぶとき、悲しむとき、不安なとき、失敗するとき、そして罪を犯してしまうようなときも、変わらず私を愛し、私の存在を喜んでくださいますからありがとうございます。

私はただあなたの前に、私を差し出します。

あなたが私の主、私を愛してくださるお方だからです。

私のいのちはあなたの中にあります。

あなたを離れて私はどこに行けるでしょうか。

ただ、あなたを慕い求めます。

あなたの力と栄光を表してください。

あなたの愛は、私に深く深くあり、ただあなたを賛美します。

イエス様、あなたの愛を私を通し、伝えさせてください。

イエス様、あなたの愛が全地をおおい、人々が主をあがめますように。

イエス様の御名前によって祈ります。

アーメン。」

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2009年7月19日 (日)

7/19☆お祈り☆

ブログ訪問の方々を思い、一週間の、特に人間関係の祝福を祈ります。

『神は、キリストによって、私たちをご自分と和解させ、また和解の務めを私たちに与えてくださいました。

すなわち、神は、キリストにあって、この世をご自分と和解させ、違反行為の責めを人々に負わせないで、和解のことばを私たちにゆだねられたのです。』新約聖書 第2コリント人への手紙5:18.19

すべての必要をご存じであられます天のお父さん、あなたが、私たちの心の奥底にある、孤独もご存じで、そこを満たしたいと願っておられることをありがとうございます。

まず、イエス様を送ってくださり、私の罪赦されて、天地造られ、今もすべてを保ち支える神様と親しく交流させてもらえますことをありがとうございます。

また、イエス様が与えてくださったいのちを捨てての愛を与えてくださり、ありがとうございます。

神様は神様との関係回復だけでなく、人間関係をも祝福したいと願っておられますから、ありがとうございます。

神様が私たちを祝福してくださいました。それを受けた私たちは、祝福を与えるものとなれましたからありがとうございます。

私たちは親しい人とさらに親しくあれますからありがとうございます。

また、あなたは敵をも祈る思いすら与えてくださいますから、ありがとうございます。

どうぞ、私たちのまわりの人間関係を主のゆえに祝福してください。

もし、その人間関係に悩みがあったら、神様による解決を与えてください。

その人間関係が祝福されるため、私が人から受けてきた傷を神様がイエス様の血潮で洗いきよめ、癒してください。

私たちを神様からたくさんいただいたものとして、良いものを与えていけるよう祝福してください。

込み入ってしまった人間関係に神様の知恵を与えてください。

『主は、人の行いを喜ぶとき、その人の敵をも、その人と和(やわ)らがせる』(箴言16:7)とありますからありがとうございます。

私がののしられ、いわれのない中傷を受けたとき、イエス様が私のためにそうであったことを思い出させてください。そして、私の深い傷を包み、癒してください。

私が誤解され、また、偽証され悔しい思いをしたとき、イエス様が私のためにそうであったことを思い出させてくださり、イエス様の愛で慰めてください。

私が裏切られたと打撃を受けたとき、イエス様こそが、そのようなつらい思いをされた方だったことを思い出させてくださり、イエス様の愛に私を保ってください。

あなたがお一人お一人を愛してくださることを感謝します。

あらゆることを祝福してくださり、主とともに居させてください。

新しい一週間が神様の守り、イエス様の愛、聖霊様の慰めと喜びの中にありますよう祝福してください。

イエス様のお名前によって祈ります。

アーメン。

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2009年7月17日 (金)

“感謝のお祈り”

ブログ一年を感謝し、訪問してくださる皆さんを思い、お祈りします。

『いまだかつて、だれも神を見た者はありません。もし私たちが互いに愛し合うなら、神は私たちのうちにおられ、神の愛が私たちのうちに全(まっと)うされるのです。』新約聖書 第1ヨハネの手紙4:12

ブログを始めて、一年。神様の恵みに感謝します。

そして、訪問してくださる方々に、いつもながらに感謝します。訪問してくださる方がいなければ、私のブログは途中で挫折していました。

私はとにかく人と関わることが好きで、逆を言うと一人コツコツというのが苦手です。

訪問してくださる皆さんに支えられて、このブログを育てていただきましたこと、感謝します。

心を込めて、感謝のお祈りをします。

「天のお父さん、このブログに訪問してくださいます皆さんを心からありがとうございます。

あなたが愛しておられるお一人お一人です。

あなたがこの小さなブログにも呼び集めてくださったお一人お一人です。

私はその心のうちは知りませんが、あなたがご存じでありますからありがとうございます。

私たち人は、理解されたい思い、慰められたい思い、愛されたい思いがあります。

これらは皆、神様が私たちに与えられた思いです。

そして、神様がその思いを埋めたいと願っているのを知っています。

そして、私たち人は不完全であっても、なお、神様の愛の中で、人と人とで埋め合えるように計画されました。

どうぞ、この小さなブログの聖書のことばのまわりに集めてくださった方々の交流も祝福してください。

聖書のことばは、知識として私たちを支えますが、私たちの交流は、人と人とで互いを支えます。

私たちは一人きりで生きてはいけないようにできています。

どうぞ、このブログの周辺にいてくださる皆さんを特別に祝福し、慰めてください。

私たちの交流の真ん中にもイエス様がともにいて、私たちを愛してください。

私自身をも、日々つくり変えてくださり、神様の愛を聞き、分かち合うものとしてください。

いつもここに来てくださるお一人お一人をただただ神様に感謝します。

感謝し、祝福を願い、イエス様のお名前によって祈ります。

アーメン。」

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2009年7月12日 (日)

7/12☆お祈り☆

ブログにきてくださるお一人お一人を思い、祈ります。

『主は遠くから、私に現れた。

「永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した。

それゆえ、わたしはあなたに、誠実を尽くし続けた。

おとめイスラエルよ。わたしは再びあなたを建て直し、あなたは建て直される。

再びあなたはタンバリンで身を飾り、喜び笑う者たちの踊りの輪に出て行こう。…

「さあ、シオンにのぼって、私たちの神、主のもとに行こう。」と呼ばわる日が来るからだ。」』旧約聖書 エレミヤ書

私たちを変わることなく愛し続けてくださる神様、この新しい一週間も愛します神様とともにあることができますから、ありがとうございます。

私たちは小さく、あなたの計りしれない愛、あわれみ、いつくしみを知り尽くすことはできませんが、あなたが揺らぐことなく、変わることなく、私たちの生活に関心を持ち続け、働きかけ続けてくださる方であることをありがとうございます。

私たちの日常の中に、神様の恵みと祝福は満ちています。

どうそ、私たちの目がはっきり見えるようになって、あなたが与えてくださる数々が見えますように。

また、私たちに約束されている霊的な祝福に気がつくことができますように。

また、私たちに与えられている望みがまえますように。

また、私たちに神様を知るための知恵の御霊を与えてください。

私たちに、あなたにあって、生活の困難を乗りきる力を与えてください。

あなたが、私たちの必要をご存じですから、必要を与えてください。

そして、私たちに必要な助けと支えを送ってください。

神様が私をとらえ、捕まえ、支え、導いてくださいますからありがとうございます。

そして、私たちは、一人のように思えるときも一人ではありませんからありがとうございます。

誰かが私たちのために祈り、イエス様がとりなし祈り、聖霊様がうめきの中でとりなしてくださっていますからありがとうございます。

あなたが愛するお一人お一人の神様にある一週間の祝福を心からお祈りします。

イエス様のお名前によって、祈ります。

アーメン。

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“愛に対する悔い改めの祈り”

愛に対して、神様から教えられたので、祈ります。

『また、たとい私が持っている物の全部を貧しい人たちに分け与え、また私のからだを焼かれるために渡しても、愛がなければ、何の役にも立ちません。』新約聖書 第1コリント13:3

天のお父さん、私たちを愛してくださることをありがとうございます。

私はすぐに、自分の本来の姿を忘れてしまう者です。

私が神様から愛されているのであって、私自身には人を愛する力はありません。

私は人を愛する者でありたいと願いつつ、私の中にそれより優先するものがあることを見ました。

主よ。赦してください。

私は悲しく思います。

愛がなければ、すべてはむなしい、何の役にすら立たないとあるのに、愛のない者です。

でも、考えてみれば、私たちがイエス様の愛に到達することは無理で、いつもその足りなさをイエス様の十字架で謝るものです。

あなたが大切なことを教えてくださり、ありがとうございます。

小さな者ですが、まだ知り得ないあなたの愛を少しずつ教えてもらい、あなたに応答する者、あなたにふさわしい関係にある者としてください。

イエス様のお名前によって祈ります。

アーメン。

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2009年7月10日 (金)

“訪問の方々を感謝して”(祈り)

ブログ訪問の方々に感謝して、お祈りします。

『だが、今、ヤコブよ。あなたを造り出した方、主はこう仰せられる。

イスラエルよ。あなたを形造った方、主はこう仰せられる。

「恐れるな。わたしがあなたをあがなったのだ。わたしはあなたの名を呼んだ。

あなたはわたしのもの。あなたが水の中を過ぎるときも、わたしはあなたとともにおり、川を渡るときも、あなたは押し流されない。

火の中を歩いても、あなたは焼かれず、炎はあなたに燃えつかない。

わたしが、あなたの神、主、イスラエルの聖なる者、あなたの救い主であるからだ。』旧約聖書 イザヤ43:1~3

今日は、最近の私には珍しく、3か所のボランティアをはしご?して、夜に帰ります。毎日、家にいることが多くなった私には、ハードな一日です。

この朝、生ログで、訪問者の方々を見て、いつも来てくださる方、パソコン、携帯から過去扁をずっと読んでくださっている方々を見て、本当に感謝の気持ちでいっぱいになりました。

パソコン、携帯ナンバーしか知らない方々も多いですが、神様にある大切なお一人お一人を思います。

お一人お一人を思いつつ、祝福をお祈りさせてもらうことにします。

「天のお父さん、あなたが愛しておられます、お一人お一人をありがとうございます。

神様の分かち合いがともにできていることを通して、私たちは主のパンを食べる目に見えない家族なのだと私は体験させられています。

私の役目は、素晴らしいごちそうは作れずとも、イエス様がくださる朝ごとのパンを受けとり、それを提供することだけです。

私に弱さがあれば、それは私ですが、私に何か良いものがあれば、それは神様のあわれみと、神様ご自身です。

わずかな主のパンを準備し、ともに食べてもらう幸いを思います。

訪問してくださる方にあっては、ナンバーしか知りませんが、あなたが愛してくださっているお一人お一人であることを思います。

私たちの地上でできることはわずかです。

その中で最も大切なことは、“主を知る”ことだと私は思っています。

そして、その主をともに分かち合い、ともに喜ぶとき、それがキリストのからだだと思います。

神様、愛するお一人お一人を祝福してください。

その方々と分かち合う私に至っては、通りよき管(くだ)とし、証、祈り、聖書の分かち合い、報告、何においても、主のよい物を分かち合わせてください。

お一人お一人にあっては、この小さなブログにあっても、主から直接良いものをいただきますように。

聖霊様が豊かに働かれ、神様の恵み、イエス様の愛を伝えてください。

主が、お一人お一人を愛して止まないことを教えてください。

また、もし私の弱さが証できているときには、皆、似たようなところを通される安心と、そこを愛してくださる神様を分かち合えますように。

いつも来てくださるお一人お一人の神様の祝福を心から祈ります。

イエス様のお名前によって祈ります。

アーメン。」

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2009年7月 9日 (木)

“教会のためにささげたキリストの愛”(祈り)

イエス様は教会(キリストにある人々)をいのちを捨てて愛してくださいました。その思いを感じつつ、祈りをします。

『キリストが教会を愛し、教会のためにご自身をささげられたように…愛しなさい。

キリストがそうされたのは、みことばにより、水の洗いをもって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、

ご自身で、しみや、しわや、そのようなものの何一つない、聖く傷のないものとなった栄光を、ご自分の前に立たせるためです。』新約聖書 エペソ人への手紙5:25~27

イエス様、あなたが命を捨てて、私と教会を愛してくださりありがとうございます。

あなたがそのようにされたのは、花嫁である私(教会=イエス様にある人たち)を、みことばと、水のバプテスマにより、罪からきよめ、聖なるものとしてくださるためでした。

そのことによって、私はあなたの前に、しみもしわもなく、けがれもなく、聖く傷のないものとされましたから、ありがとうございます。

今、すべての罪が、イエス様の十字架で赦され、私はあなたに、さらに愛されていることを覚えますから、ありがとうございます。

あなたの愛は深く、高く、広く、私の及びもつかないほどです。

あなたの愛が私をおおうとき、私はただあなたを賛美します。

あなたこそ、賛美されるにふさわしいお方です。

あなたの愛が私に溢れるとき、私はただ私をあなたにささげます。

あなたの栄光を、私を通して表してください。

イエス様、あなたの愛から私を引き離すものはなく、そこには恐れがありません。

あなたの愛は、私を通して人々に表されますからありがとうございます。

この世の中が知ることのない、あなたの愛を私を通し、あなたの愛して止まない教会を通して表してください。

主よ。あなたを賛美します。あなたを愛します。あなたが私を愛してくださっているからです。

あなたのいのちが私の中で輝き、いつまでもあなたとともにいられることをありがとうございます。

ただ、主の栄光だけが表されますように。

イエス様のお名前によって祈ります。アーメン。

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2009年7月 6日 (月)

“悔い改めの祈り”

悔い改めに導かれたので、祈ります。どなたかの今の必要な祈りともなれば、幸いです。

『神よ。御恵みによって、私に情けをかけ、あなたの豊かなあわれみによって、私のそむきの罪をぬぐい去ってください。

どうか私の咎(とが)を、私から全く洗い去り、私の罪から、私をきよめてください。

まことに、私は自分のそむきの罪を知っています。私の罪は、いつも私の目の前にあります。

私はあなたに、ただあなたに、罪を犯し、あなたの御目に悪であることを行いました。

それゆえ、あなたが宣告されるとき、あなたは正しくさばかれるとき、あなたはきよくあられます。』旧約聖書 詩篇51:1~4

イエス様の十字架によって、私のすべての罪を赦してくださり、ありがとうございます。

私の過去、現在、未来までの罪を赦してくださり、ありがとうございます。

私の目に見える罪を赦してくださり、ありがとうございます。

主よ。あなたは、私が気がつかない罪すら先に赦してくれました。

私の中に、私の考えにも及ばない、恐ろしい罪が潜んでいます。

聖霊様が、そこに光を照らされると、私は驚いてしまいます。

それは、私の考えも及ばない恐ろしいものだからです。

しかし、主はそんな罪すら、イエス様の流された涙と、血潮で洗いきよめてくださることをありがとうございます。

私の罪を十字架につけるとき、その部分が癒しでおおわれ、神様がご支配くださる領域に変えられていきますからありがとうございます。

私たち罪あるものに、その内側に主の栄光を現してくださいますからありがとうございます。

ヨシュヤたちが、主の戦いの中で領土を広げたように、私の心の中にも主の領土を広げてください。

この者の内側が、すべて、主の領土となるまで、戦いはありますが、主がともに戦ってくださいますから、ありがとうございます。

私の中は、すべて主の土地です。隅々まで、広くあなたがご支配してくださり、主の平安にあらしてください。

イエス様の十字架を仰ぎみます。日々、あなたにきよめて、聖霊様の豊かに住まわる主の宮としてください。

イエス様のお名前によって、祈ります。アーメン。

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2009年7月 5日 (日)

7/5☆お祈り☆

新しい一週間を、ブログに来てくださる方々と心を合わせて祈ります。

『恐れるな。わたし(神)はあなたとともにいる。

たじろぐな。わたしがあなたの神だから。

わたしはあなたを強め、あなたを助け、あなたの義の右の手で、あなたを守る。』旧約聖書 イザヤ書41:10

「天地を造られ、イエス様を送ってくださり、私たちを愛してくださいます神様、あなたのお名前をほめたたえます。

私たちは小さな存在ですが、神様から決して忘れられることなく、見放されることなく、強められ、助けられ、つかまえられて、守られますから、ありがとうございます。

私たちは自分を見つめると、本当に弱い存在であることを思いますが、この天地造られ、今なお、すべてを治めておられるお方が、私たちを支えてくださっていますからありがとうございます。

新しい一週間も、神様、私たちとともにいてください。

悩むとき、迷うとき、ゆきずまるとき、あなたを見い出すことができるようにしてください。

私たちは一人ではないことを感謝します。神様がともにいてくださり感謝します。

今、この小さなブログを通して、神様が一人と感じている人のために、祈りを集めてくださっていますから、ありがとうございます。

私たちが同じ神様から良いものをいただくとき、私たちは確かに一つですからありがとうございます。

どうぞ、主とともにおらせてください。

神様を近くに感じ、信頼できますように。

イエス様の優しいまなざしを感じて、慰められますように。

聖霊様が私たちのうちで喜び、満ちますように。

あなたがただ、お一人お一人を愛してやまないことを思います。

新しい一週間がそのあなたを感じて生きていけますよう祝福してください。

イエス様のお名前によって祈ります。

アーメン。」

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2009年7月 2日 (木)

“暗やみにも主の慰めに満ちますように”(祈り)

私たちに慰めが満ちるように、そしてこの地の暗やみにも神様の慰めが満ちるようにと祈ります。

『神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。

こうして、私たちも、自分自身が神から受ける慰めによって、どのような苦しみの中にいる人をも慰めることができるのです。』新約聖書 第2コリント人の手紙1:4

私たちは、人と理解し合うことも、その痛みや苦しみや悲しみを分かち合うことも限界があります。

けれども、共に神様に祈ることができるということは、本当に素晴らしいことだと思います。

祈りは、私は何もできません。しかし、神様、あなたが祝福をくださる神様であることを知っていますので、あなたに求めます…という行為ではないでしょうか。

私たちは自分が何もできなくとも、良いものを持っておられる方、神様を知っています。

また、共に心を合わせて祈るということは、良い方に二人で求めることですから、そのことを神様は喜ばれます。

この夜、慰め主なる神様に、私たちを慰めてくださるように、また、遠くにいる人たちにも、等しく神様の慰めと福音が届くよう、祈ります。

「恵みと慰めに満ちた神様、あなたが私たちの中にも、この地にも慰めで満たしたいと願っておられるのを思います。

どうぞ、あわれんでくださり、この聖霊の宮である私の内に、慰めの聖霊様で満たしてください。

満ちるために邪魔をしているものがあったら、聖霊様教えてください。

今、苦しいとき、優しく教えてくださり、きよめてくださり、慰めの雨を私の宮に注いでください。

神様、また、この暗やみの地をあなたはご覧になっています。

今、あなたご自身には、すべての地を満たし溢れさせるだけの量の慰めが、天に蓄えられていますが、地に流れていません。

降り注ぐ雨のように、あなたの慰めを注ぎ、あなたの栄光を表してください。

遣わす人を捜しておられるなら、私をきよめて、使ってください。

パソコンも携帯もない、お金もなく、希望もなく、誰からも声をかけられない、闇の中にたたずみ、ひっそりと息をしている人たちがいます。

主よ。彼らを忘れないでください。

彼らが悪いのではありません。

福音を伝え、慰めを運ぶ人がいないのです。

主よ。私も使ってください。

あなたの慰めと希望の雨が、隅々まで行き渡るように、今、祈る者のうちに、道を平らにしてくださり、進んでいくことができるように導いてください。

あなたが、すべての主権をもって導かれる主です。

主ご自身が、私たちに歩む道を開いて、あなたの恵みと愛を伝えに行かせてください。

『天が地よりも高いように、私の道は、あなたがたの道よりも高く、私の思いは、あなたがたの思いよりも高い。…

わたしの口から出るわたしのことばも、むなしく、わたしのところに帰ってはこない。

必ず、わたしの望む事を成し遂げ、わたしの言い送った事を成功させる。』(イザヤ55:9.11)

神様はこのように約束されています。

人々の救いに関しても、その約束が神様にあって、果たされますからありがとうございます。

私は、教会の中だけで楽しむのは、もう要りません。あなたによって、外に出ていき、実を結ぶものとして祝福してください。

すべてを主にゆだね、イエス様のお名前によって祈ります。

アーメン。」

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2009年6月28日 (日)

6/28☆お祈り☆

コメントくださる方、訪問してくださる方、祈ってくださる方、一人一人を思いつつ、一週間の祝福がありますように祈ります。

『主(神)があなたを祝福し、あなたを守られますように。

主が御顔をあなたに照らし、あなたを恵まれますように。

主が御顔をあなたに向け、あなたに平安を与えられますように。』旧約聖書 民数記6:24~26

天地を造り、私たちに命を与え、私たちを愛して生かしてくださる神様、新しい一週間をありがとうございます。

あなたはどこにでもおられ、私たちの中にも聖霊様を送ってくださり、ともにいてくださることをありがとうございます。

あなたの闇は暗くなく、あなたの暗やみは光と同じですからありがとうございます。

私たちは様々な状況の中にありますが、すべてを神様がご存じですからありがとうございます。

今、孤独な人には神様の癒しを、貧しい人には神様のみ国を、悲しみの人には神様の慰めを、義に渇く人にはキリストの義を与えてください。

不安な人には聖書と聖霊様の安心を、選択を求める人には導きを、傷のある者には癒しを与えてください。

また、仕事場で、家庭で、人間関係で悩む人には、神様にある特別な支えを与えてください。

私たちは弱いものですが、その弱さの中に、イエス様の恵みは充分だと言ってくださいますから、弱さの中で、イエス様の力を現してください。

私たちがいつも神様に愛されていることを覚えさせてください。

サタンは、私たちの行いにケチをつけ、惑わしますが、イエス様の十字架で、すべては赦されていますから、攻撃から守ってください。

私たちは、イエス様によって、もはや罪に定められないとありますから、そこに立たせてください。(ロマ8:1)

このブログの交わりと祈りを感謝します。誰にも覚えられていないようでも、神様に覚えられていますから、ありがとうございます。

誰にも知られていないようでも、ブログに集う方々のために祈っている人たちがいますから、その祈りをありがとうございます。

新しい一週間を主とともに歩めますように。

主の守りと恵みと平安がありますように。

神様に愛されていますお一人お一人を思いつつ、イエス様のお名前によって祈ります。アーメン。

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2009年6月26日 (金)

“元気を失い、疲れ果ててしまわないように”(祈り)

弱さを覚える方と心を合わせて祈ります。

『信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。…

それは、あなたがたの心が元気を失い、疲れ果ててしまわないためです。』新約聖書 ヘブル人の手紙12:2.3

『あなたの神、主であるわたしが、あなたの右の手を堅く握り、「恐れるな。わたしがあなたを助ける。」と言っているのだから。』旧約聖書 イザヤ書41:13

私たちの信仰の歩みは、良いときばかりではありません。

私にもたくさんありましたが、神様が遠くに感じられたり、元気がなくなったり、疲れてしまったり、いろいろな時があります。

けれども、大丈夫です。私たちが、神様の手を離してしまったかのようなときも、神様は私たちの手をしっかりとつかんでくれています。

私のほうで、神様に対して信頼が無くなってしまったかのようでも、私を選んで信仰を与えられたのは神様のほうです。

この弱い私を生かしてくださるのは、神様であることを思い、祈ります。

「天のお父さん(神様)、私たちは弱いものです。

あなたを信頼してついて行きたいと思っていても、ときには行き先に迷い、ときにはあなたを見失ってしまうかのような弱い存在です。

どうぞ、助けてください。

イエス様から目を離すことのないようにしてください。

イエス様の私のための十字架の愛をもう一度教えてください。

イエス様の歩まれた道のりは私のためだったことを思い起こさせてください。

何もできないようなそんなときも、変わらず、イエス様の赦しと受け入れの愛が私を包んでくださることをありがとうございます。

何も出来ずとも、たとえ、私の中に罪があっても、イエス様の十字架のあがないによって、神様から受け入れられる変わらない子どもとされていることをありがとうございます。

聖霊様、どうぞ、私の中で、イエス様を喜ぶ信仰に導いてください。

イエス様は、ご自分の前に置かれていた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍ばれました。

私も神様が約束してくださっているたくさんのことのゆえに喜べるようにしてください。

私に何もないかのようなときも、困難しかないようなときも、イエス様は変わることなく喜ぶ存在なので、主にあって喜びを与えてください。

神様、あなたは見捨てない神であることをありがとうございます。

あなたは、裸の丘に川を、平地に泉を、荒野を水のある沢とし、砂漠の地を水の源としてくださる約束をありがとうございます。(イザヤ41:18)

イエス様がくださる渇くことのない水を飲ませ続けてください。

私のうちでそれが泉のごとくわき上がりますように(ヨハネ4:14)

あなたの変わらないあわれみといつくしみを思います。

弱き私を助け、あなたの支えの中に生かしてください。」

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2009年6月25日 (木)

“解放告げるヨベルの年”(祈り)

“ヨベルの年”、安息の年であり、手放した土地は買い戻され、人は奴隷身分から解放されました。イエス様が来られ、今、私たちは“ヨベルの年”として、解放と回復を与えられました。

『神である主の霊が、わたし(メシヤ・救い主)の上にある。

主はわたしに油をそそぎ、

貧しい者に良いしらせを伝え、

心の傷ついた者をいやすために、わたしを遣わされた。

捕らわれ人には解放を、囚人には釈放を告げ、

主の恵みの年と、われわれの神の復讐(ふくしゅう)の日を告げ、

すべての悲しむ者を慰め、

シオンの悲しむ者たちに、灰の代わりに頭の飾りを、

悲しみの代わりに喜びの油を、

憂(うれ)いの心の代わりに賛美の外套(がいとう)を着けさせるためである。

彼らは、義の樫(かし)の木、栄光を現す主の植木と呼ばれよう。』旧約聖書イザヤ書61:1~3

イエス様によって、“ヨベルの年”であることの感謝を祈ります。

「神様、今、ヨベルの年、神様がすべての人に解放を告げられる年であることをありがとうございます。

イエス様によって、貧しい者に良い知らせが伝えられることをありがとうございます。

イエス様の打ち傷によって、心の傷ついた者を癒してくださることをありがとうございます。

捕らわれ人への解放の宣言をありがとうございます。

囚人には釈放が告げられたことをありがとうございます。

私たちは奴隷の身分から解放されましたからありがとうございます。

罪の奴隷、サタンの奴隷、死の恐怖からの奴隷、そして、律法の奴隷からの解放をありがとうございます。

もはや、誰からも拘束されず、自由の身分となりましたからありがとうございます。

今、恵みの年、救いの日です。

敵であるサタンには神の復讐をなす日としてくださり、イエス様の勝利を喜べますからありがとうございます。

惨めなものを神様の子どもとしてくださり、

悲しみの涙をぬぐい、聖霊様の喜びに満たし、

憂いた心に、賛美を与えてくださりありがとうございます。

イエス様、今あなたが十字架とその復活によって、私たちを解放の日としてくださり、神様の所有の民としてくださり、ありがとうございます。

ただ、あなたのお名前をほめたたえます、主よ。」

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2009年6月18日 (木)

“カルト化教会にいる人への祈り”

カルト化教会にいて苦しむ人々、そこを出て回復の道を歩いている人々のため、祈ります。

『主のもとに来なさい。主は、人には捨てられたが、神の目には、選ばれた、尊い、生ける石です。

「見よ。わたしはシオンに、選ばれた石、尊い礎石を置く。

彼に信頼する者は、決して失望させられることがない。」』新約聖書 第1ペテロの手紙2:4.6

「天のお父さん、イエス様は、悲しみのところに喜びを、嘆きのところに希望をもたらすために来られました。

けれども、人間の支配欲、顕示欲、そういったものが、神の名前を使って、全く違うことをし、人々を苦しめています。

人間のこの限りない欲望を赦してください。

人々は、神様に喜ばれる熱心で、今、神様以外のものにコントロールされ、苦しんでいます。

どうか、神の名前を使っても、そこに安心や喜びや慰めやあわれみといった良いものがなかったら、それは、イエス様の世界ではないことを知ることができますように助けてください。

巧みにコントロールされているので、苦しいことすら、祝福のためのサタンの攻撃だと言われます。

教会から出たら、祝福されず、呪われると言って、脅されます。

苦しいのに、恐れのため、そこから出ることが出来ません。

パソコンやこのようなブログからも正しい情報を得ていけますよう助けてください。

イエス様の世界は恐れで縛られる世界ではありません。

本当のイエス様のもとに導いてください。

まだ、出られた方たちは、たくさんのダメージで、いろんなことが判断できなくなっています。

時間がかかっても、ゆっくりと受け入れられる環境で、自分を取り戻していけますように。

カルト教会にいた人が裁かれませんように。彼らも犠牲者だからです。

コントロールが解けずに、変なことを言っても、受け入れられる中で回復するので、そのような環境を与えてください。

イエス様の楽しみと喜び、自由と慰めが満ちますように。

イエス様のもとには、決して失望させられないことを感謝します。

人間的な欲望の組織を打ち砕き、教会に、人々にイエス様がきてくださいますよう祈ります。

イエス様のお名前によって祈ります。アーメン。」

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2009年6月16日 (火)

“同情されるイエス様”(祈り)

私は同情より、聖書にある正論で人を苦しめた者であったことを思わされました。

『私たちの大祭司(イエス)は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。』新約聖書 ヘブル人への手紙4:14

私はとても、心砕かれて自分の弱さを教えられているときは、人にも優しくなれているかもしれません。

一方、私が調子が良く、すべてがうまく行っているかのような時は、人に同情する心が少なくなるかもしれません。

自分のイエス様にある歩みを見るとき、祈りも癒しも赦すことも、何もかも与えられたものなのに、「あなたもこうしなさい。」と、その心の痛みに寄り添うことなく、言ってきた者だったか、少し教えられました。

神様を信じている人たちの世界で、つらいのは、正しい答えが書かれてあることです。

その正しい答え(=正論)は言われてしまうと、「ごもっとも」としか言えません。けれども、人から言われた正論は、罪責感を強めたり、恥ずかしい思いを強めたり、みじめな思いに落ち込んだりさせるだけです。

病院に行って、あなたの悪い患部はここだと、傷口を開かれて、血を流して終わりです。癒す手立てまでしないで、終わらせるというのは、聖書の、恵みの神様の世界ではありません。

けれども、きっと、同じような聖書の正論で、私はバサバサと人の心を切り、痛ませたまま、私は満足して、帰らせてきたのだと思います。

お祈りします。

「天のお父さん、イエス様は、私たちの苦しみをすべて知っておられ、私たちの弱さに同情されるお方です。

私たちの罪の結果の苦しみですら、「誰もあなたを裁きません。私があなたの罪の責任を全部請け負うから。安心して帰りなさい。」と言われる方です。

それなのに、私は、聖書にある正しいことばで、相手を同情せず、その心を聞かず、切りつけてきた者であることを教えられました。

それは相手に癒しではなく、痛みだけを残します。

この同情できない心を赦してください。

聖書にどう正しいことが書いてあり、どうするかは聖霊様が、慰めの中で、案内してくださいます。

私たちは互いが、同じ弱さを持つものとして、同情し合うものとさせてください。

心の痛みが理解できないときでも、祈るものとしてください。

イエス様のところには、裁きでなく、その互いの弱さを受け入れ合うものとしてください。

私の力ではできませんから、受け入れる心、同じように私たちは弱いものであることを教えてください。

イエス様のもとで、私たちが同情しあい、理解しあい、受け入れあい、赦しあうことが広がりますように。

そして、まわりの人々が、この世にないイエス様の愛を知ることができますように導いてください。

イエス様のお名前で、お祈りします。

アーメン。」

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2009年6月10日 (水)

愛されたことを世が知るために(祈り)

最後の晩餐で私たちのために祈られたイエス様の祈りが、そのとおりになりますよう、お祈りします。

『またわたし(イエス)は、あなた(神)がわたしに下さった栄光を、彼らに与えました。

それは、わたしたちが一つであるように、彼らも一つであるためです。

わたしは彼らにおり、あなたはわたしにおられます。

それは、彼らが全(まっと)うされて一つとなるためです。

それは、あなたがわたしを遣わされたことと、あなたがわたしを愛されたように彼らも愛されたこととを、この世が知るためです。』新約聖書 ヨハネの福音書17:22.23

「天のお父さん、私たちにイエス様を送ってくださり、ありがとうございます。

イエス様が、最後の晩餐で信頼する神様に祈りました。

そこには、イエス様が最も願っていたことを祈られたのだと思います。

そこには、天のお父さんとイエス様が一つであるように、私たちもまた、一つとなりますようにと祈られました。

それは、神様がイエス様を送ってくださったことと、神様がイエス様を愛されているように、私たちも愛されていることを、この世が知るためです、とあります。

人間的に一つにはなれません。

また、教会のルールや、牧師の指示で一つにはなれません。

それは、イエス様の十字架の赦しのもとにしか、一つになることができません。

もし、私たちがイエス様のもとに一つになって喜ぶことができたら、世の中の人は驚くでしょう。

それは、決してこの世には見られないみ業だからです。

私が一つになれない、イエス様の十字架の赦しに行く妨げになっているものを赦してください。

イエス様が一つになるように十字架の犠牲を払ってくれたのに、それが無効かのように、バラバラの心を赦してください。

イエス様が十字架にかかられたのは、私を赦してくれるためでした。

主よ。今、私に豊かな赦しを与えてくださり、私が赦すものとなるよう癒してください。

私たちがイエス様の十字架の赦しのもとに憩い、自由に一つとなることができるよう、あなたのみ業をなしてください。

2000年前、私たちのために祈られたイエス様の祈りがそのとおりになるようにしてください。

今日、お一人お一人にイエス様の赦しがおおい、慰められますよう、祈ります。

イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン」

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2009年6月 5日 (金)

再び共に喜び笑わせてください(祈り)

私の歩んだ教会たちを振り返り、お祈りします。

『神よ。私を探(さぐ)り、私の心を知ってください。

私を調べ、私の思い煩(わずら)いを知ってください。

私のうちに傷ついた道があるか、いなかを見て、私をとこしえの道に導いてください。』旧約聖書 詩篇139:23.24

「天のお父さん、あなたがいつも私と共にいてくださる恵みをありがとうございます。

今、私の歩んだ教会たちを振り返り始めています。

「私にとって教会は苦痛でしかなかった。」というようなことを言ってきましたが、教会生活の歩みを思い出していくと、そこにたくさんの神様の恵みが溢れていたことを見ています。

私が最後に教会から受けたダメージが大きくて、その傷のゆえに、すべてがふさがれ、見えなくなっていたのを思います。

神様は、教会を通して数えきれない程のクリスチャンとの交流を与えてくれました。

神様は、教会を通して、いろんなことを経験させてくれました。

神様、あの頃は私自身が人のために祈れないものだったので、たくさんの人が影でひっそりとお祈りしていてくれたことを知りませんでした。

しかし、たくさんの祈りが私のためにあったのを見つけました。

私を苦しめるものとして、私は教会こそ私の“敵”と思ってきましたが、私は大事な私のからだを敵視していたのですね。

赦してください。

私が属するキリストのからだを心から受け入れ、愛することができますように。

そして、その弱さを心から祈ることができますように。

そして、教会の外の人のその痛みを知り、心から祈れますように

どこにいても、私たちは皆、イエス様によって引き寄せられたキリストのからだです。

何をしていてもイエス様の十字架の完全さのゆえ、私たちは初めから同じく、赦され続け、受け入れられ、愛され続けています。

今、目に見える教会の外にいる人に、神様は変わらずその愛をささやいてくれています。

届けてください、あなたの声を

届けてください、あなたのまなざしを

届けてください、今も変わらず、無くてはならない、かけがえのないキリストのからだの一部であることを。

届けてください、神様が親しい交流を楽しみたいように、私もそのことを待ち望んでいることを

“わたしがあなたの傷を直し、あなたの打ち傷をいやすからだ。

見よ。わたしはヤコブの天幕の捕らわれ人を帰らせ、その住まいをあわれもう。

…彼らの中から、感謝と、喜び笑う声がわき出る”(エレミヤ30:17~19)

神様の約束のとおり、人々に主の喜びを返してください。」

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2009年6月 2日 (火)

「ノンクリスチャンの苦悩」ブログの住人さんへ

昨日のブログ、読みました。「これで教会に行くのを最後にします。ブログ最後にします。さようなら。」との内容。私もあなた様のブログは、定期的に見させていただいていたので、何ともいいようのない、気持ちでいました。

「クリスチャンへ。キリスト教に関係ない方々に対しても彼らが幸せになれるように祈ってあげてくださいね。」

というところが、胸に刺さります。

私も今、ちょうど、教会を静かに去って行かれる方々に対する痛みを祈り始めたところなので。

なんだか、私も同じ教会側の弱さと足りなさをもっている者なので、なんか自分に言われたような気がして、胸が痛みます。

クリスチャンと同じで、教会も不完全です。クリスチャン同士で理解しあえないように、教会にいる人と静かに去っていく人にも溝があります。

私は今、教会の中で、去って言った人たちの声も聞かず、知らず、理解せず、楽しくやっているのは、何かイエス様の愛とかけはなれていると感じています。

誰が悪いのでなく、教会側の私が、まず、私の責任の分として、外の人に謝ろうと思っています。

私のために、謝らせてくださいね。

たくさんの配慮が足りなかったこと、赦してくださいね。

私を含め、教会は自分たちに人を合わせようとしてきました。

私を含め、教会は外に出ていった人を追いかけず、しずかに教会で「教会に戻りますように」とお祈りし続けました。

私を含め教会は、自分の信仰を押し付けてきました。

イエス様にある自由とか喜びはそのようなものではありません。

あなた様のブログからアクセスがあり、追記で、私とヨエルさんの記事とブログのアドレスを今日、載せてくれたことを知りました。

教会行くとか、行かないとか…そういうことが大切なのでなく、私を含めた教会が、一人の人に失意を与え、黙って去らせることに、申し訳なく思います。

私は教会に通いながら、25年間教会をさばいてきた者です。そして、今、その教会を祈り始めました。私も25年分の痛みの体験があります。

もし、良かったら、ここでしばし、一緒に交流されませんか。あなた様の失意が慰めと希望になることをお祈りします。

このブログからのお手紙ですみません。

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2009年6月 1日 (月)

十字架を背負われるイエス様(祈り)

今、悲しみの中にある人に、それより深いイエス様の慰めがおおい、癒されますように。

『彼(イエス)には、私たちが看とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない。

彼はさげずまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。

人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。

まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。』旧約聖書 イザヤ書53:2~4

「イエス様、あなたが黙って、重たい十字架を引きずるとき

周りの人々は、笑ったり、バカにしたり、罵声を浴びせたり、ののしったり、興味本位で覗いたり、可哀想に同情したり、驚いてみたり…いろいろです

でもその重すぎる十字架は私がかつがなくてはならなかったのですね

イエス様、あなたはすべてを捨てて、その重すぎる十字架を私の代わりに背負ってくださったのですね

私がその十字架を背負うことは耐えられませんでした

笑われたり、罵倒されたり、ののしられたり…十字架の丘までたどりつけず、崩れてしまったでしょう

イエス様は十字架にかかられる前に、黙って十字架を背負われて、すでに、すべてを捨てててくださっていたのですね

溢れるほどの悲しみの中にあったのですね

私がすべてを失ってしまったかのように失意の中にあるとき、イエス様は私のところに来てくださいました

命までも捨てられたイエス様は私の失意もご存じだったのですね

悲しみに刺し通され、天のお父さんに見捨てられたイエス様は、私が愛する人たちと絶たれた孤独をご存知だったのですね

イエス様、私は何もなくなりましたが、あなたの愛をいただきました

イエス様、何もなくなった状況、空っぽになった心にあなたが来て輝いてくださいました

あなただけが私の望みです

あなただけが私のすべてです

イエス様、私のために痛まれて、ごめんなさい

イエス様、あなたの打ち傷で、私の悲しみも苦しみもすべてはおおわれました

イエス様、あなたの愛に今漂っています

あなただけがほめたたえられますように」

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2009年5月30日 (土)

イエス様の打ち傷によって癒された

イエス様の打ち傷による癒しを祈ります。

『しかし、彼(イエス)は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎(とが)のために砕かれた。

彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちは癒された。』旧約聖書 イザヤ53:5

“キリストのからだ”の傷の痛みを思いました。

私にとって“キリストのからだ”とは、目に見える教会の中にいる人と、外にいるすべてのクリスチャンです。

その痛みを思いつつ、お祈りします。

「天のお父さん、あなたが私たち、一人一人をこよなく愛してくださっているのがわかります

イエス様は十字架の上で刺し通され、苦しまれました

それは、そのイエス様の打ち傷によって、私たちをいやされるためでした

今イエス様のかかられている十字架を見ます

私のために苦しみ、刺し通されてくださったのですね

イエス様の十字架で流された血潮によって、私たちを赦し、癒し、きよめてください

イエス様の十字架によって、私たちイスラエルの民以外のものも、また一つに集められたのですね

キリストのからだの癒しが行われ、一つに集められますように

今、慰めなる聖霊様、イエス様の十字架による癒しが、痛む傷をおおいますように

神様、あなたが私たちに約束されたイエス様による約束…神様の子どもとされていることは何があっても変わらないことをありがとうございます

それは、イエス様の十字架の完全性のゆえ、神様の偽らない真実のゆえ、ありがとうございます

あなたの子どもとしてふところに抱いてくださり、涙枯れるまで泣かせてください

そして、近くにいつも、このイエス様がいてくださることを教えてください

主の慰めと癒しがキリストの十字架から、隅々まで流れていきますように

主よ、おおってください」

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2009年5月29日 (金)

ごめんなさい

今日、もらったコメントを読んで、心痛み、神様に謝りました。

『自分が義人だと自任し、他の人々を見下している者たちに対しては、イエスはこのようなたとえを話された。…

パリサイ人は、立って、心の中でこんな祈りをした。

「神よ。私はほかの人々のように、ゆする者、不正な者、姦淫(かんいん)する者ではなく、ことにこの取税人のようでないことを感謝します。…」

ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。

「神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。」』新約聖書 ルカによる福音書18:9~14

私は今日の朝方、自分を含めた教会の弱さのため、祈りました。

私は教会にいるといいながら、どこかで教会にいる人とは違っている…と自負していたみたいです。

でも、やっぱり、教会の中の人間で、外に人がこぼれていくのを放置していた人間だと突き付けられた気がします。

先ほど、よく遊びにきてくださる“迷える人”さんから、コメントをいただきました。

その前に出した、私の「聖書を読むと安心が来ますよ」というのに対する返答です。

聖書を読まなければならないように圧迫を与えたみたいです。

謝りましたが、愕然とした感じです。

教会来なさい、祈りなさい、聖書を読みなさい…も無理に強いられたら、新しい規則です。

やはり、私も人を自分に合わせてこようとしてた一人なんだと痛感しました。

“迷える人”さん、ごめんなさいね。そうやって、私や教会は、自分に合う人以外を信仰の名前を使って、はじいてきたのかもしれませんね。

イエス様のところは、何かする世界ではありません。何もしなくていいのです。イエス様を信じる以外。いえ、信じることすら、イエス様がされることですね。

###

神様、自分に人を合わせようとする私を赦してください。

人間が作った領域、壁を悔い改めの中、打ち砕いてください。

イエス様のところにこようとする妨げている私のものを、もっと明らかにして、打ち砕いてください。

ただ、自由に人々が喜んでイエス様の中に憩えますよう導いてください。

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教会に聖霊が満ちるまで祈ります

教会に行っていないクリスチャン、痛んでいるクリスチャンの癒しのため、祈ります。

『この川が流れて行く所はどこででも、そこに群がるあらゆる生物は生き、非常に多くの魚がいるようになる。

この水がはいると、そこの水が良くなるからである。

この川がはいる所では、すべてのものが生きる。…

そこの魚は大海のように種類も数も非常に多くなる。…

川のほとり、その両岸には、あらゆる果樹が成長し、その葉も枯れず、実も絶えることがなく、毎月新しい実をつける。

その水が聖所から流れ出ているからである。

その実は食物となり、その葉は薬となる。』旧約聖書 エゼキエル書47章

私は、神様に出会う前はボロボロでした。孤独と虚無感、自己嫌悪と恨みの渦の中にいました。

神様に出会い、喜びながら、なお、痛み、うずく傷に悩みました。

神様は私に自分の罪や弱さを告白し続けるという中、癒し続けてくださいました。

最後の深い傷に至るまで、神様は癒しおおってくれました。

気がつくと、クリスチャンになって、30年になりました。

そんな私に、神様は今度は教会の傷を癒すよう、導いてくださいました。

私がエゼキエル47章のように、赦され、癒され、きよめられたとき、聖霊様に満たし、溢れ、流してくださったように、教会にもそれがなることを信じさせてくれました。

私の神様からの働きはたった一人の癒しになるのかもしれません。

けれども、信仰が与えられ、自分の癒しを通して、教会の癒しの幻を見たので、祈っていくことにします。

教会の罪、弱さのために、神様と、外のクリスチャンに向けて祈ります。

今晩、少し祈ります。私が教会の弱さを祈れるのは、私自身が25年教会の中で、痛み、苦しんだから、そのことを祈れると思います。

“私”で祈りますが、“私”とは、“私を含めた教会”のことです。

「私は長い間、聖書のことばで、人を裁いてきました。そのことを赦してください。

聖書のことばは、本来人を生かすために、神様が与えられたものです。

しかし、私は、その生かすことばをもって、人を縛り、人に新しい規則を作り、新しい罪責感を与えてきました。

神様、イエス様の十字架によって、赦してください。癒してください。きよめてください。

どうぞ、私が語るとき、神様のご性質なる愛と慰め、赦しと受け入れを語れますように。

私は、人には重荷を課しておきながら、自分は教師ですべて立派に努めているかのように振る舞いました。

私たちは皆同じ、赦された者です。

誰か偉くて、誰か偉くない世界は、イエス様にある世界ではありません。

イエス様は、誰かに仕えたかったら、低くなりなさいと言われました。

私の傲慢の罪を赦し、癒してください。

私はどこからそうなったでしょうか。

初めは違っていました。神様に熱心になるうち、初めの愛から離れました。

もう一度、私を初めの愛に戻してください。どこからだったのか、どうすればよいのか教えてください。

私を縛り、捕らえているものから解いてくださり、あなたの愛に憩わせてください。

私を赦し、癒し、きよめて神様の親しい関係に戻してください。

イエス様のお名前によって祈ります。アーメン」

どうぞ、中がきよめられ、外が癒されますように。

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イスラエルの牧者たちはいない(日記より)

3年前のある日の日記に私にとって、大切なことが書かれてありました。

『彼らは牧者がいないので、散らされ、あらゆる野の獣のえじきとなり、散らされてしまった。…

見よ。わたしは自分でわたしの羊を捜し出し、これの世話をする。

牧者が昼間、散らされていた自分の羊の中にいて、その群れの世話をするように、わたしはわたしの羊を、雲と暗やみの日に散らされたすべての所から救い出して、世話をする。

わたしは国々の民の中から彼らを連れ出し、国々から彼らを集め、彼らを彼らの地に連れて行き、イスラエルの山々や谷川のほとり、またその国のうちの人の住むすべての所で彼らを養う。…

わたしは、彼らを牧するひとりの牧者、わたしのしもべダビデを起こす。彼は彼らを養い、彼らの牧者となる。』旧約聖書 エゼキエル書34章

前にブログに書いたが、この“イスラエルに牧者はいない。しかし、わたし(神)はひとりの牧者を起こす”という約束を読んで、私は何度もこの箇所を開いては、「神様、いつですか?」と祈った。

そして、私の中で、この約束は成った!

私が牧師や教会に期待するのを止め、一切を手放したとき、私の中で、イエス様が直接の牧者となってくれた。

その後、そのとき属していた教会は混乱し、最後は閉じられた。

その閉じる3か月前、私は、朝8時から祈り始めて、祈りが止まらず10時間ぐらい祈った日があった。

私は、神様とおしゃべりならいくらでもするが、祈りの賜物があるという訳でなく、祈らされて止まらないというのは、先にも後にもその時だけだった。

神様はエペソ2章を通して、教会に集わないクリスチャンに祝福を与える約束、やがて中も外も一つとなると言われた。

そして、最近、その日の日記に目を通した。今、導かれて祈っているようなことを書いていた。

3年間、そんな祈りをしていたのを忘れていた。メモのような殴り書きの日記だが、ちょっと書き写してみる。

「エゼキエル34章によって、イエス・キリストが牧者となる。

教会の外にいる人に向けていく祈り、

教会と自分の罪の悔い改め、

私の役目はボーダーラインとして悔い改め、外の代弁者となる

リバイバル(信仰覚醒)は悔い改めた者から始まる、私から悔い改めの取り扱いを受けます

私の裁く心、偽り、傲慢は主に嫌われるもの、私は徹底して悔い改めます

この教会、牧師には一切何も求めません

この取り組は私一人で取り組みます

教会の人たちと祈って行きたかったが、一緒に取り組む人がいなかったからです

私の動機は主がご存知です

もし不純なものなら、平安もなく、みことばの慰めもありません、神ご自身が裁かれます

もし動機が純粋であるならば、平安があり、みことばの扉が開かれ、新しい慰めが与えられ、主ご自身のあとおしがあります

キリストの体を離れて働くとき、人はずれやすくなる、だからこれは皆さんに与えられるものでなくとも、与えられたチャンスにこの取り組みをあかししていきます。」

最後のほうは意味不明…皆さんって誰?っていう感じだが、祈りと神様から語られた、まじった感じだろうか。

こんな祈りのメモはすっかり忘れていた。

今、一人でなく、祈り支えの中、神様がこのブログを用いてくれようとしている気がする。

イエス様が一人一人の牧者となり、養われ、喜びますよう祈ります。

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2009年5月23日 (土)

“キリストのからだ”のための祈り

“キリストのからだ”が癒され、一つになるように、私の“キリストのからだ”への悔い改めの祈りをしました。

『私はひたすら沈黙を守った。よいことさえ、黙っていた。それで私の痛みは激しくなった。

私の心は熱くなり、私はうめく間に、火は燃え上がった。そこで私は自分の舌で、こう言った。…

主よ。今、私は何を待ち望みましょう。私の望み、それはあなたです。

私のすべてのそむきの罪から私を助け出してください。私を愚か者のそしりとしないでください。』旧約聖書 詩篇39:2.3.7.8

今日、自転車で遠くに出かけました。夜、帰り道、神様と話しをしていたら、聖霊様で胸が熱くなり、苦しくなり、自転車から降りて自転車を引きながら、神様に謝ることにしました。

「神様、私は長い年月をかけて、イエス様の十字架で、罪を告白し続けて、癒してもらいました。

私の心は聖霊様が住まわれ、溢れ、流れるような感じです。

それなのに、私は教会のことは、ほとんど祈ってこなかったです。ごめんなさい。

神様は私が癒されたように、キリストの体が癒されるのを願っているのを知っています。

今、私が教会に対して祈って癒しを願ってこなかったことを認めます。ごめんなさい。

イエス様の体である教会は見えない大きな体です。その半分は、共に集い、見える教会になっています。あと半分は見える教会から、そっと離れていった人たちです。

見える教会への罪を告白します。

私は25年間、教会を裁き、批判してきましたが、そのことを赦されたことを感謝します。

けれども、教会を手放し、期待しないところで止まっていました。

『自分の敵を愛し、祈りなさい。』とイエス様は言われました。教会は敵ではありませんが、“敵”は“自分に苦痛を与えるもの”とするなら、当てはまります。

教会のために祈らなかったことを赦してください。

見える教会はイエス様の体の半分です。そこがもし渇いているなら、聖霊による潤いを求めるべきでした。

見える教会から離れていった人たちの苦しみと痛みを知らずにすみませんでした。

これからは、ただ心を真っ白にして、その人たちのうめきと叫びを聞かせて、祈らせてください。

そして、その人たちの痛みと傷が神様によって、慰められ、癒されますように。

ドイツのベルリンの壁が両方から打ち砕かれたように、教会の外と中から打ち砕いてください。

教会の壁とは、イエス様の十字架以外のものです。神様の方法によって、壁を砕き、キリストの体をひとつとしてください。

イエス様の赦しにあって、一つとしてください。

私は自分がただ神様の御手で癒され、回復したので、同じように、痛んでいるイエス様のからだも癒され、回復し、一つとなることが信じられます。

どのようによってかは、今の私にはわかりませんが、あなたがなさることです。

キリストのからだが一つになる喜びも教えてくださり、ありがとうございます。

引き続き、キリストのからだのために祈っていきますので、導いてください。」

聖霊様が迫ってきて、胸が熱く、苦しくなります。頭は熱くなりません。もしかしたら、私の狭い容量の心が、イエス様の痛みを知れるように少しだけ造り変えられたのかもしれません。

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2009年5月21日 (木)

ノアの涙

ノアの話しを通して、教えられた分かち合いです。

『主(神)は、地上に人の悪が増大し、その心に計ることがみな、いつも悪いことだけに傾くのをご覧になった。

それで主は、地上に人を造ったことを悔(く)やみ、心を痛められた。・・・

そこで、神はノアに仰せられた。「すべての肉なるものの終わりが、わたしの前に来ている。地は、彼らのゆえに、暴虐で満ちているからだ。それで今わたしは、彼らを地とともに滅ぼそうとしている。…

しかし、わたしは、あなたと契約を結ぼう。』旧約聖書 創世記6:18

“ノアの方舟(はこぶね)”と言うと、可愛いお舟に、ゾウやら、キリンやら、ウサギやら…顔を出している絵が浮かぶ。

私も何回も、教会学校で子どもたちに話しをしてきた。妙に、明るい、楽しいイメージがついている。

今回、祈って神様から2つのことを教えられた。

ノアの方舟の話しとは、神様が、人々が悪に満ちているのを嘆き、水で一掃しようとされる。しかし、神様に喜ばれる存在のノアと家族は、動物たちとともに、神様の教えてくれた方舟を作り、それに入って助かる。イエス様を信じるものは、同じよう、さばきから守られることを象徴している。

教えられた一つめ。私たちは、イエス様信じて、方舟に乗ろう…とよく言われる。

しかし私はその時代に生きていたら、確実にノアではなく、“悪いことにだけ心が傾く人”、裁かれ、滅ぼされる側の人間だった。

私は神様から見たら、嘆かれ、悔やまれ、悲しまれ、裁きをうける者だった。

ノアの話しは、そんなに明るい楽しい話しではないのではないか。

教えられた2つめ。ノアが方舟の中で、何を思っていたかということ。

私があまりノアの話しに身近さを感じないのは、ノアが立派すぎる人のイメージがあるからかもしれない。(雨も降らない中、ただ神様を信じて、人々にバカにされながら、黙々と方舟を作っていた。)

ノアは、方舟を作りながら、他の人たちに、神様の計画を話し、悔い改めるよう説得したかもしれない。誰もノアの話しを信じなかった。

ノアは家族と方舟に入り、大雨が40日40夜降り続いたとき、神様に守られたと、楽しんだだろうか。

ノアは泣き崩れて号泣したかもしれないと想像したら、なんだかノア自身が、すごく身近かに感じられた。

ノア自身は神様を信じて、裁きから免れたが、家族以外は、すべての人が裁かれ、水の中、死んでいった。

「神様、私は一人も神様を信じるよう、伝えられませんでした。」ノア自身、自分は助かったが、自分の無力感を感じていなかっただろうか。

自分たち以外は、裁かれ、死んでいく。今、イエス様を信じなかった人に起こることは何か。もう水で滅ぼされることはないが、次は火による裁きが予告されている。

私は笑うクリスチャンでいるより、裁きを見せられながら、泣いて祈る者でありたいと思った。

私は今、イエス様によって、裁きから守られている。私が方舟に乗れた(イエス様を信じられた)のは何故かわからない。

けれども、なんのために乗っているかはわかる。うしろの戸(創世記7:16)が閉ざされる前に、一人でも多くの人が一緒に方舟に乗れるよう、祈るためである。

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2009年5月20日 (水)

“教会の外にいるクリスチャンへの約束”

教会の外にいて、痛んでいるクリスチャンのためにお祈りしたいです。

『わたし(神)が彼らを、その地、イスラエルの山々で、一つの国とするとき、ひとりの王が全体の王となる。彼らはもはや2つの国とはならず、もはや決して2つの王国に分かれない。…

わたしのしもべダビデが彼らの王となり、彼ら全体のただひとりの牧者となる。…

わたしは彼らと平和の契約を結ぶ。これはとこしえの契約でとなる。わたしは彼らをかばい、彼らをふやし、わたしの聖所を彼らのうちに永遠に置く。

わたしの住まいは彼らとともにあり、わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。』旧約聖書 エゼキエル書37章

私は25年間、教会に通いながら、教会や牧師を非難し、裁いてきました。

私の信仰生活は、神様から直接の癒しを受けながらも、教会に対しては、苦痛を感じるだけの者でした。

私の日常の一番の悩みは、長い間教会のことでした。

教会は幾つか変わりましたが、よく、教会に行き続けたと思います。それは、ただ神様が私を捕らえてくださっているゆえのあわれみと思います。

4年程前、神様の恵みの中で、関わってきた教会、牧師を赦しました。手放しました。そこに期待することを一切やめることができました。

すると、不思議と、イエス様の十字架の赦しと神様の私への溢れるばかりの思いが注がれました。

目に見えるところから手を引き、ただ神様に信頼する生活が始まりました。

最近、目に見える教会に連なっていないクリスチャンのことをとても考え、祈るようになっています。

イエス様の赦しをいただき、「天のお父さん」と呼ぶ聖霊の救いのあかしをいただいているのに、神様を共に喜ぶ交わりがないため、痛んでいる人たちがたくさんいるのかもしれないと思いました。

4年前、神様がエペソ2章を通して、イエス様の十字架で、教会に集う人たちも教会に集っていない愛されているクリスチャンも、神様はひとつとしてくださるという約束を神様から聞きました。

まだ、教会の外にいるクリスチャンのために、そんなに祈っていないときだったので、良く分からなかったけど、約束の意味は漠然とわかりました。

今日、聖霊様がエゼキエル37章を通して、2つのものをイエス様によって一つにしてくださる約束、そして、神様の臨在(聖所)によって、神様と共にいる幸いの約束を神様から教えられました。

教会の中が、きよめられ、エゼキエル47章のように、聖霊の川が外に溢れますように。

教会の外にいる人たちに癒しが与えられ、神様の臨在の中、神様を崇めていけますように。

『ただわたしのしもべダビデ(イエス・キリスト)が彼らの王となり、彼ら全体のただひとりの牧者となる。』

イエス様によって平和が与えられ、2つのものを一つにし、隔ての壁が打ちこわされますように祈ります。(エペソ2:14)

私ができることは、お祈りすることだけかもしれませんが、癒しと回復と主の臨在を体験できるよう祈ります。

祈りの課題をくだされば、お祈りします。

神様の約束のみことばを信じる方は、共にお祈りしましょう。コメント欄にハンドルネームだけでもくだされば、お祈りします。

共に神様のみわざを祈り、神様がなしてくださる約束と回復を見ていけますように祈ります。

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2009年4月25日 (土)

“十戒”の恵み・6(人を生かす者に変える神)

十戒シリーズが、間があきましたが、私の中ではまだ終わっていなくて、続いて分かち合いたいと思います。後半部分の、人と人の関係についてです。

『殺してはならない。』旧約聖書 出エジプト記20:13

『しかし、カインは弟アベルに話しかけた。「野に行こうではないか。」そして、ふたりが野にいたとき、カインは弟アベルに襲いかかり、彼を殺した。』旧約聖書 創世記4:8

何年か前、ある礼拝で、カインとアベルのメッセージがされていた。ヘブル人への手紙11:4からだった。たぶん内容は「私たちは、神様に受け入れられるささげ物をしよう」という内容だったような気がする。

が、その箇所から聖霊様が私に全く違うメッセージを語ってくれた。

アダムとエバは、エデンの園を追放され、その後、兄カインと弟アベルを出産する。

二人が神様にささげ物をすると、何故か神様はアベルのささげ物を良しとされた。兄カインは怒り、弟アベルを野原におびき出し、殺してしまう。人類初めての殺人として記されている。

何故、カインのささげ物は受け入れられなかったか。神様は心の動機まで見られる方で、何か問題があったのだろうと言われている。

聖書は不思議なもので、「私たちはカインのような人殺しにならないようにしましょう。」と言われても、ピンとこない。

そのとき、私は聖霊様の光の中、私自身が、まさに人を殺すカインなのだと教えられた。

殺人は良くないし、私は人を殺したいと思ったことはない。が、人間の奥深くにひそんでいるのが、そういう性質だと思った。今はそうでなくとも、大切な人を奪われたりしたら、いつ「殺してやりたい。」と思うかわからない。

また、殺すまでいかなくとも、私たちの自己中心が結局は、自分だけ良ければよいと、人が生かされるのを忘れる存在なのだと思う。私自身の過去を振り返ったとき、自分が生きれば良い…どこかでたくさんの人の生きる場所を奪ってきたのだと思う。

まさにカインこそ、私の姿そのものなのだ。

聖歌400番に「きみもそこにいたのか 十字架につくとき ああ なんだか心が震える」という黒人霊歌がある。

私こそがイエス様を十字架につけた…そのところに立つことが、イエス様と共に十字架に死ぬことなのだと思う。

そんな私が赦され受け入れられた。そこから、初めて「殺してはならない。あなたが生かされて、人を生かしなさい。」という神様の戒めの守りの中に入ることができるのを教えられた。

♯♯♯

私たちは自分はカインのように人殺しはしていない…そんな風に思いやすいものです。

本当に私たちは人を殺していないか、人を生かしているか…大きな律法の壁を感じたとき、イエス様が赦しをくださり、私と共に生きようと言ってくださるあわれみをありがとうございます。

私たちは自分が自分らしく回復して生きるとき、人も認め、受け入れ、尊重し、生かす者に変えられるそんな約束を感謝します。私たちをイエス様の愛でおおってくださり、人を生かす者にしてください。

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2009年4月21日 (火)

慰めと優しさが満ちた場所

発達障害の親の会から教えられていることの分かち合いです。

『それはあなたが私の内蔵を造り、母の胎のうちで私を組み立てられたからです。

私は感謝します。あなたは私に、奇(くす)しいことをなさって恐ろしいほどです。私のたましいはそれをよく知っています。

私はひそかに造られ、地の深い所で仕組まれたとき、私の骨組みはあなたに隠れませんでした。

あなたの目は胎児の私を見られ、あなたの書物にすべてが、書きしるされました。私のために作られた日々が、しかも、一日もしないうちに。』旧約聖書 詩篇139:7~16

息子の通っていた小学校のお母さんたちが集まっての、発達障害の親の会が発足して、まる4年になる。

「神様、学校で悩むお母さんたちに会わせてください。」という祈りがきかれ、神様の不思議の中で始まった。

今日は特別支援学級に通うお母さん2人と、我が家でお茶会をした。一人は晴れて、この4月から希望していた高等養護学校に入学した。

いろいろな技術を科ごとに習得し、100%就職へつなげてくれる学校とのこと。

といっても、この不況の時代。弱い者はますます隅に追いやられる。

先生たちも、PTAの就職部も力が入っているらしい。「どんな情報でもいいので学校に集めてください。」とのこと。緊迫感が漂う。

が、大きな目標の就労に向け、そんなに一生懸命やってくれる人たちがいるのはありがたい。本当に人間すてたものではない。

中学での卒業式には、特別支援学級の子どもたちのため、他に異動した元担任の先生(音楽の先生)が朝早くこっちの学校へ来てくれて、アンジェラ・アキの「15の君へ」を歌ってくれたらしい。

子育ても難しく、その子どもたちも生きにくい中、子どももお母さんもちゃんと良いものを拾って支えにして生きている。

明日は、普通学級に通う発達障害のお母さんの会がある。(どちらも月1で集まっている。)

お茶やご飯を食べながら、近況報告したり、情報交換する、ひたすらおしゃべりする会である。毎回入れ替わり立ち代わり7〜8人のお母さんが集まる。

が、ここのお母さんたちも、とても明るい。そして、優しさに満ちている。「うちの子ども、どうしたらいいんだろう」と悩むお母さんに、みんな同じ悩みの道を通ってきたので、「つらいね。でも大丈夫よ、きっと。」と受容と慰めのことばがその場を包む

子どもたちも親も、一人一人違うけれど、神様が造られた人はやっぱり素晴らしいと、私はいつも感動する。神様が与えてくださった素晴らしい最高作品を見せられるときである。

♯♯♯

神様、優しさや慰めは楽しいだけのところでなく、悲しみと辛さを通ってきたところにあるのですね。

生きることが大変でも、受け入れあって、向き合っていく力強いお母さんたちに人間の素晴らしさを教えられます。

神様、あなたが計画され造られた一人一人の子どもたちが、自分の居場所を見つけ生きていけるよう助けてください。

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2009年4月19日 (日)

“十戒”の恵み・4(まことの礼拝とは)

偶像を造るとは何か、そうでないまことの礼拝とは…について考えてみました。

『あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。上の天にあるものでも、下の地にあるものでも、地の下の水の中にあるものでも、どんな形をも造ってはならない。

それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。

あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神、わたしを憎む者には、父の咎(とが)を子に報い、三代、四代にまで及ぼし、わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施(ほどこ)すからである。』旧約聖書 出エジプト20:4~6

『あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。…どんな形をも造ってはならない。』というのは「まことの神を自分自身が、それ以下のものとして想像してはならない。」という意味だと、J・I・パッカー師は「クリスチャン生活と十戒」(いのちのことば社)の中で言う。

神様は私たちに“想像力”を与えられた。それも良いものであった。が、アダムとエバの堕落以来、私たちの“想像力”も悪い方向へと進むに至った。

神を神たるように想像するのではなく、もっと人間的なもの、しいては人間の欲求の産物として造ってはいけないということだろうか。

もし、人に例えると素晴らしい人がいて、その人を勝手に自分の想像で思い描くこと、ひどいものに想像することかなぁと思った。

神様を勝手に自分の想像の範囲に押し込める…その反対は何かを考えた。

それは、“啓示の神”を信じるということではないか。

イエス様は言われた。『しかし、真の礼拝者たちがまことによって父を礼拝するときが来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。

神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。』(ヨハネの福音書4:23.24

イエス様が来られ、私たちは赦され、神様と人格的な交流ができるようになった。神様の思いを知る聖霊を与えられ、神様と親しい交わりに入れられた。そして、旧約聖書とイエス様によって上から啓示されたところの神様を礼拝できる。

今、最後の時代(聖霊が与えられ、教え導かれる時代)として、私たちはイエス様に赦され、大胆に神様を崇めることができる。

♯♯♯

神様、イエス様が来てくださり、私の罪の赦しを与えてくださり、神様を神様として礼拝できる恵みをありがとうございます。

私たちが自分の想像で造った神様であるなら、私を生かすことも助けることもできません。

すべてに主権をもっておられる全能の神様、愛なる神様を私の神様として礼拝し、あがめられる幸いを感謝します。

神様を私の小さい世界に引き込むことなく、恐れをもって、神様として礼拝できますようお願いします。

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御顔を照らしてください

イエス様によって、今、私たちは神様の御顔を照らされてる者である幸いを思います。

『どうか、神が私たちをあわれみ、祝福し、御顔を私たちの上に照り輝かしてくださるように。』旧約聖書 詩篇67:1

“御顔を照らす”は“微笑む”とも訳せるらしい。

私は民数記6:24~26の祝福の祈りのことばが大好きだ。

この詩篇でも「御顔を私たちの上に照り輝かしてくださるように。」とある。

神様はいつも微笑えんでくださっている。

私にかかっているおおいが取り除かれた時、太陽のように変わらずに輝く神様の光と愛が私を照らし、神様の微笑みを見ることができる。

願わくは、私たちが皆、この神様の微笑みに喜ぶことができますように。

♯♯♯

私たちは神様からずれやすい者です。

そんな私たちにイエス様の完全な十字架による赦しを与えてくださり感謝します。

イエス様の十字架がなければ、私は何を得たとしても神様との親しい交わりはありませんでした。

イエス様が十字架にかかって、私の罪を赦してくださり、私もまた、イエス様と同じように、神様との親しい交わりに入れていただき、ありがとうございます。

この交わりを祝福してくださり、人々が私に照らされている輝きを見て、神様を知ることができますようにしてください。

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2009年4月18日 (土)

“十戒”の恵み・3(神様の愛に満たされる)

神様と私の関係でもっとも大切な第一の戒めから分かち合いたいと思います。

『あなたには、わたし(神)のほかに、ほかの神々があってはならない。』旧約聖書 出エジプト記20:3

私は神様に出会った頃、とても神様が近くに感じたり、なんだか遠く感じたりした。

神様は時に私たちにたくさん現れ、時に少ししか現れない方だろうか。

神様はいつも変わらない方で、私たちのうちにおられ、私たちの外には、いつも大雨のように神様の愛と恵みを降り注いでくださっている。

問題は私たちの内側にある。その神様の良いものを隔てるものが私たちにある。

私は自分を見ていると、神様以外のものを神にしてしまいやすいものだなぁと思う。

まず、自分。自分の考えや経験を正しいとしてそこに立ちやすい。私は長年、人を裁く習慣があったが、それもまた、自分が正しいとするところから発する行為である。

アダムとエバが善悪の木の実から食べて以来「神のようになる」誘惑にさらされている。

また、私は人が神のように思えたときがあった。自分の進みたい道をふさいでいるのがあたかも一人の人のように思えた。「神様、あの人を神かのように、絶大な力を行使しているかのように思える私を赦してください。道を開かれるも閉ざされるも神様のなせるわざです。」と祈ったことがある。

反対に、人に必要以上に過信したり、頼りすぎることも、また、人を神にしやすい危険があることを学んだ。

そして、最後に物や出来事などを神としてしまいやすいのが人だと思う。お金、地位、名誉、快楽、財産、持ち物、見た目等々。私たちは第一としたものに支配される(振り回される)者である。

もしそれら一つ一つ、手放していくことができたとき、何が起こるか。

それはまったき神様の支配である。神様の愛だけが私の心に満たされ溢れるのである。それは、エデンの園に戻っての、神様との親しい交わりを楽しむ世界になる。

神様はそのことを私たちに願っておられ、私たちのうちにそのことを切に成したいと思っておられる。

神様の私たちへの関心はこの世の楽しみを越えた「神様に愛される者」になってほしいということなのだなぁと思う。

♯♯♯

神様、あなたが私たちを限りなく愛してくださり、ただその神様の愛を私たちに注ぎたいと切に願っていてくださることをありがとうございます。

私たちは違うものを神にしやすい者ですが、あわれんでくださり、イエス様の赦しの中、一つ一つ手放し、神様だけをお迎えできる準備ができますように導いてください。

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2009年4月16日 (木)

神様の思い

最近、私は神様から一つの思いをいただいています。今までにない感覚ですが、私の願いを神様が応援してくれているのだと思います。

『永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した。それゆえ、わたしはあなたに、誠実を尽くし続けた。

おとめイスラエルよ。わたしは再びあなたを建て直し、あなたは建て直される。

再びあなたはタンバリンで身を飾り、喜び笑う者たちの踊りの輪に出て行こう。』旧約聖書 エレミヤ書31:3.4

私がブログを書き始めて9か月になる。

今はブログを書くこと、訪問してくださる方たちのために祈ることが生活の中心になっている。

最近、神様からたった一つのことを強く語られている気がする。

それは、「私はあなたを愛しているよ。」ということではなく、「私はあなたたちを愛しているよ。」ということである。

「あなたたち」は、私と私の証しを分かち合ってくれている方々。

けれど、「聞いてくれる?あなたのこと、神様はすっごく愛しているんだって。」って言っても何も伝わらない。

たぶん、自分に与えられた神様からの恵みを、人と分かちあいたいという願望を神様が後押ししてくれているのだと思う。

聖書はどこを開いても、神様から私たちへの「愛しているよ」というメッセージに溢れているのだと思う。

ただ、私たちの側で、その恵みの扉を開けることができないと、そのメッセージがときとしてきつく、裁きだけのような神様の印象を与える。

神様は一人子をお与えになるほどに、私たち一人一人を深く愛された。

叱るときも、裁いてるかのようなときも、一貫して変わらないお方である。

私のように気分でコロコロ変わってしまう方ではない。

神様のそんなみんなへの愛情を感じながら、前にも書いたことがあるが、“神様の愛が秘められた十戒”について、祈りつつ、教えられつつ、一緒に分かち合いたいなぁと願っています。

訪問ありがとうございます。神様にある祝福を心から祈っています。

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2009年4月15日 (水)

お招きする準備

イエス様はいつも私たちと親しく交流したいと願っています。

『見よ。わたし(イエス)は、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところにはいって、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。』新約聖書 黙示録3:20

まだ、子どもが小さかった頃、子どもつながりで親しくなった方がいた。よくおしゃべりをしたし、一緒にでかけた。

あまり会う機会がなくなってから、私は時間を作って彼女の家に遊びに行った。彼女と会えることを楽しみにしていた。

ところが、彼女のほうは、忙しく家事をしていた。一度もテーブルにつかず、ほとんど話しもしなかった。私は彼女にとって、必要としなくなった友人になったのだと教えられた。悲しかったが、以後、彼女の家に行くことはなかった。

イエス様は戸の外に立って戸をたたいておられる。私たちの心の真ん中の部屋に入り、共に食事をして楽しもう、交流しよう、お互い深く知り合おうと言ってくださる。

けれども、私たちはイエス様を玄関に待たせたまま、違うことに夢中になりやすいものなのかもしれない。

イエス様をお迎えして、イエス様と楽しく時を過ごすためには、いろんなことを中断したり、ときにはあきらめたりしなくてはならない。

私は今、自分のことは自分でやれている…大丈夫と思っているとき、イエス様と語らうチャンスがあるのにイエス様を求めない、必要としない。

黙示録3章は、ラオデキアの教会へのメッセージである。イエス様のためにと行いにいそしんでいる人たちに宛てられた。

『あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、乏しいものは何もないと言って、実は自分がみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸の者であることを知らない。』(黙示録3:17)

彼らの問題は、自分が現状で大丈夫…と満足している、本当の自分の現状を知らないところにあった。

イエス様は神様の祝福の金(宝)、白い衣(裸の恥をおおう赦し)、目薬(霊的に見える力)を与えてくださると言っている。

イエス様を心の大事な部屋にお迎えし、親しく交流する者への約束は、“わたしの座に着かせる”とある。天国にいる如く、神様の満ちた世界におらせてくださる約束である。

♯♯♯

神様、私たちは、いつもイエス様が優しく声をかけてくださるのに、イエス様を戸の外に待たせっぱなしになりやすいものです。

いつでも、イエス様を歓迎し、心の真ん中にお迎えし、親しい交流を楽しむ者とさせてください。

自分がイエス様との交流を妨げているものを教えてくださり、そこにイエス様の赦しがおおわれ、手放していけるようにしてください。

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2009年4月14日 (火)

神様との会話

『私の言うことを耳に入れてください。主(神)よ。私のうめきを聞き取ってください。

私の叫びの声を心に留めてください。私の王、私の神。私はあなたに祈っています。』旧約聖書 詩篇5:1.2

かつての私は良い祈りをしたいと思った。「聞かれる祈り、勝利する祈り」などの本も読んだ。

あるときから、祈りって、人と話しているのと同じだなぁと思った。

信頼している親しい友とは何時間でもおしゃべりしていられる。神様とは、最も信頼する方なのだから、楽しいこと、嬉しいことも、悩みも、苦しいことも何でも話せる。何も難しいことはないのだなぁと思った。

ある友人が「神様に話しをしているけど、普通の会話をしているように感じない。まるで一人ごとを話しているようだ。」と言った。

「あなたの意見を聞かせてほしいの。」と相談してきてくれる人がいるが、実は自分が話したいだけで、“聞いて受けとめる”心のスペースがない人がいる。心配や悩みで一杯で、人の言葉を片隅にいれる余裕がないのだと思う。私自身が、かつてそんな者だった。

神様との祈りも同じかなと思う。神様は語ってくださる。聖書のことばを与え、語り続けてくれている。

「神様はどう思いますか?」と聞いたら、その答えを待って受けとめる心のスペースが必要なのだと思う。

神様は私たち人間だけを霊的な存在として造られた。それは、神様は私たちとの親しい交わりを求めておられるからである。

イエス様が十字架で死なれたとき、神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けた。決して、普通の人が入ることの出来ない至聖所…神様が臨在する場所に私たちは罪赦されて大胆に入ることができる者とされた。(マタイ27:51,ヘブル10:19~22)

私は最近思うのは、十字架の赦しで、たくさんの祝福をいただいたが、神様と親しく交流する…これにまさるものはないのだなぁということ。

祈りは祝福であり、特権である。もし祈りを義務やなすべき仕事と思っていたらもったいない。神様との親しい交わりがありますように祈ります。

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2009年4月12日 (日)

墓から戻って…

今日の礼拝のメッセージを聞きながら、教えられたことを書きます。

『「あなたがたは、なぜ生きている方を死人の中で捜すのですか。

ここにはおられません。よみがえられたのです。まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。

人の子(イエス)は必ず罪人らの手に引き渡され、十字架につけられ、三日目によみがえらなければならない、と言われたでしょう。」

女たちはイエスのみことばを思い出した。

そして、墓から戻って、…一部始終を報告した。』新約聖書 ルカによる福音書24:5~7

人生の中にやってくる深い失意と悲しみ…イエス様を慕っていた人たちにとってそれは、イエス様が十字架にかかって殺され死んでしまったときだった。

「この方こそ、私たちを救ってくださる方」と思ったが、死んでしまった。もう何もない。

そんな失意のどん底にあっても、マリアたちはイエス様の体が置かれている墓に行った。

ところが、あるはずのイエス様のからだがない。途方に暮れた。

そんなとき、御使いが現れ、「なぜ、イエス様を死人の中に捜すのか」と言われる。

御使いたちに、「イエス様の言われたことを思い出しなさい。」と言われ、女たちは思い出した。

私たちも、本当にイエス様が生きて働いてくださっているのか…と失意のどん底に落ちていくときがある。

聖霊様の助けと導きの中、聖書の約束のことばを思い出したい。

イエス様がおられない空っぽの墓を見つめるのではなく、私たちに今日、優しく、私の名前を呼んでくださるイエス様に目を向けられるようにしたい。

私たちのために命を捨てて、愛してくださった方は、最後の敵…死にも打ち勝ちよみがえられ、今、私たちのために祈ってくださる。

墓から戻って、主のもとに行こう。そこは、奪われない安らぎが与えられる場所である。

♯♯♯

神様、今、悲しみと失意の中にいる人に、聖書の、イエス様の話された希望の、慰めの約束のことばを思い出させてください。

そして、空っぽな墓から立ち上がり、そこを出て、イエス様がいるところに戻ることができますように祈ります。

『わたし(イエス)は、あなたがたに平安を残します。わたしはあなたがたにわたしの平安を与えます。…あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。』ヨハネ14:27

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2009年4月10日 (金)

“行い”から“関係”へ

自意識過剰という言葉がありますが、反対語は解放でしょうか。

『しかし私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。

私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。

いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。』新約聖書 ガラテヤ人への手紙2:19.20

ある時、市のボランティアで、講演会が行われ、100人余りの人が聞きに来てくれた。

私も準備係で前列にいたが、講演が始まってから思った。「あっ、水とコップが用意されていない。そういえば、受付にあった。」と急いで、持ってきて、講壇の半分まで登った。水とコップは隠れていただけでちゃんと置かれてあった。私はくるりとユウターンして講壇を降りた。

「あの人何やっているの?」とたくさんの人に見られたかも知れない。失敗をしてしまった。

が、そのとき、私は驚いた!!それは、ちっとも恥ずかしいと思っていない自分がいたことに…。かつての私だったら、誰もたいして気にしていないことでも、「なんて恥ずかしいことをしたんだろう。」と一人真っ赤になっていただろう。

私は変わった。恥じらいがなくなった訳ではないと思う。自分が変なことをしたり、間違っても、「どう思われるか?」というところから、解放された。

私はこう思う。自分が正しいことをしているか、良いことをしているか…自分の行いに注意がいっているときは、自分がどう思われているか気になる。

アダムとエバが善悪の木の実を食べて、裸が恥ずかしいと思ったように。

キリストの十字架は私たちを“行いの善悪”や“義務”から解放してくれた。

キリストとの関係を楽しむようにされた。

だから、私の“へま”にもイエス様が一緒にいてくれたので、恥ずかしくなかった。“行ない”より“共にいる喜び”にあるから自分の行いには縛られないということかなと思う。

2年前はPTA役員をやっていたので、人前に立つことが多かった。あいさつや司会など、たくさんさせてもらった。すべてが楽しかった。うまくいったかどうかは、本当に気にならなかった。何かいつも神様の真ん中にいると感じだった。

失敗、成功、良い、悪い、するべき、頑張るべき…それらはみんな自分から発している。

イエス様は裸の私に白い衣を着せてくれた。私自身は恥ずかしい、惨めな存在だが、神様からみたら、イエス様の着せてくれた白い衣を着た私がいて、受け入れられ、愛されている。

♯♯♯

神様、私たちは失敗したり、恥ずかしい思いになったり、傷ついたりします。

自分に注意がいくと、神様から隠れたくなるような存在です。

けれども、イエス様が白い衣を着せてくれ、私たちの恥を無いものとしてくださってありがとうございます。

イエス様によって、いつも神様との関係だけを喜んでいられますように祝福してください。

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2009年4月 8日 (水)

過去の日記

20年程前の日記を見ながら、いろいろ考えています。

『彼らは苦しむときには、いつも主(神)も苦しみ、ご自身の使いが彼らを救った。

その愛とあわれみによって主は彼らをあがない、昔からずっと、彼らを背負い、抱いて来られた。』旧約聖書 イザヤ書63:9

私は日記魔だったわりに、ちゃんとした日記があまりない。

神様に出会う前は、日記が心の友だった。恐ろしく迫ってくる孤独や虚無感を、酒を飲みながら、泣きながら、書きなぐっていた。

が、クリスチャンになって、子どもが生まれたとき、(それまでは、証のネタになればととっていた)母亡き後、息子が、こんなドロドロした母の昔を読んでもどうだろうと、捨てた。大学ノート5册位あった。

最近、今から20年前位の5年間書いた日記を見ている。唯一、まともに書き綴ったものだ。8割が、神様への祈りを書いてある。

なんだか、この頃の自分がいとおしい。今は書けない祈りが綴られている。

この5年間は、思えば、物凄くいろんなことのあった期間だった。

神学校卒業。
伝道師として教会へ就職。ゆきずまり。伝道師除名。
他の教会に移動。主人と出会う。結婚。癒し。母召される。教会が教団を出されなくなる。
所属教会がなくなる。等々。

なんだかいつも苦しくて、ゆきずまっていた。

そんな中で一番苦しかったのが、神様が遠く感じられ、いないかのように思えたときだった。そのときの一文を書き写してみる。

「神様、長い月日あなたに祈ることも、求めることもできなくなる程、私の魂は衰えました。

主よ。生かしてください。何も自分は持たないからっぽな器であることを認めます。

神様、あなたはすべてを私のうちから取り去ってしまったかのようです。

あなたの愛をくださいと願っても、心は満たされず、なえ果てました。

挫折、失敗…が終わりきったかのような今、主よ、今こそあなたのお力と愛を与えてください。」

ひたすら神様を、神様の愛を求めていた若き日々、あのときがあって、今の私がいるのだなぁと思った。

神様、苦しみの中にある人のうちに主の慰めを、助けを与えてください。

神様が最良のものを与えたいと願っておられるその信仰に支えてください。

良いときも、悪いときも、神様が変わらず、私たちと共におられ、愛してくださっていることを信じることができますようにお願いします。

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2009年3月28日 (土)

傲慢に捕らえられる恐ろしさ

“傲慢の罪”の恐ろしさを思い、その誘惑から守ってくださるよう神様に祈ります。

『あなたのしもべを、傲慢(ごうまん)の罪から守ってください。それらが私を支配しませんように。』旧約聖書 詩篇19:13

私たち人間は弱いから、様々な誘惑に合う。そして、引き込まれる。3大誘惑?は金銭問題、異性問題、権力問題だろうか。

それらともつながると思うが、私が最も怖いと思っているのが、“傲慢の罪”である。

誰でも高ぶったり、鼻高々になってしまったりすることは良くあると思う。が、私は大切な神様の世界で、“傲慢の罪”に捕らわれ、転落していった人たちを目の当たりに見させてもらった。だから、誰にでも起こりうるものと身の引き締まる思いになる。

ある方は牧師婦人で、本当に熱心に神様に仕えていた。常々、信徒に話すのは、「神様の前にへりくだること。」と話しておられた。が、彼女に教会のための預言が与えられ、預言を始めた。すると、だんだんと教会員への厳しさが増し、カルト化へと傾いた。

ある牧師は、恵みの素晴らしいメッセージを語っていた。が、目に見えないところで、いろいろと人に明らかに出来ないような誤魔化しをしていた。すると神様からのメッセージが、だんだん歪んだメッセージになっていった。

純粋に神様に仕えたいというグループがあった。皆、若く、その心は神様に仕えたいという情熱と希望に満ちていた。やがて、神様の働きが広げられた。いろんな地域に拠点を持つ教会へと成長した。神様の働きが、その教会で顕著に行われているかのように見えた。が、どこから間違ったのか、今はカルト教会となり、信徒を恐怖に縛っている。

どの方も私の身近にいた神様に熱心な方々だった。その人たちの根底に流れるのは私のうちにも確実にあるだろう“人の弱さ”であり“傲慢の罪”と思う。

旧約聖書に初めてイスラエルの王としてたてられたサウル王とその後の王ダビデがいる。サウル王は神様に選ばれたにも関わらず、転落していった。クリスチャンになったばかりの頃、その聖書の箇所を読んで、怖いと思った。私たちはサウルでなく、ダビデのほうになりたい。

私が見た“傲慢の罪”に捕らえられた人たちには、共通点がある。皆、神様に熱心で、神様から顕著な良い賜物(能力)を与えられていた。神様は、すべての人にその神様からの能力を分け与えたいと思っているので、求める人たちに豊かに与えられると信じる。

が、それを与えられたとき、与えてくださった方ではなく、自分を神としてしまう誘惑にのってしまうと、抜け出せなくなるのではないか。

『主(神)は主の御声に聞き従うことほどに、全焼のいけにえや、その他のいけにえを喜ばれるだろうか。見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる。』第1サムエル記15:22

『わたし(神)は主、これがわたしの名。わたしの栄光を他の者に、わたしの栄誉を刻(きざ)んだ像どもに与えない。』イザヤ書42:8

神様、私たちを“傲慢”から守ってください。

いつも悔いた砕かれた心で、神様と近くにいさせてください。

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2009年3月23日 (月)

聖霊様の川

動きが鈍い中で、それでもその心の底を流れる聖霊様の喜びを感じました。

『悩んでいる者や貧しい者が水を求めても水はなく、その舌は渇きで干からびるが、わたし、主(神)は彼らに答え、イスラエルの神は、彼らを見捨てない。

わたしは、裸の丘に川を開き、平地に泉をわかせる。

荒野を水のある沢とし、砂漠の地を水の源(みなもと)とする。』旧約聖書 イザヤ書41:17.18

私は若い頃、「何のために生きているか」と悩んだ。着ることや食べることも忘れて悩んだ。

神様の癒しとあわれみの中、今は見た目はなんとか普通に主婦をして、なんとか普通に子育てをさせてもらっている。

が、最近なんだか冬眠に向かう熊のように、動きが鈍くなり、いろんなことがスムーズにできない。

あんなに人と会ったり、話しをしたりするのが生き甲斐のような私が最低限しか人と連絡を取らない。

動きが鈍くなってこのまま、止まってしまうのではないかという状態の中、ある体験をした。

神様を知らない人に知ってほしいという祈りが与えられ、祈った。

荒野の沢のように、砂漠の水のように、私の心の深いところで、さらさらと聖霊の喜びの川が流れているという体験だった。

精神だけで、食べるのも着るのも忘れて生きていたときがあった。

今もまた、いろんな楽しみが出来なくなり、精神だけが目覚めているような状態になっている。

が、今は神様がいてくれる。神様が聖霊様を与えてくれている。

その与えられたいのちの水は私だけの喜びにとどまらない。その与えられた祈りは、神様の願いの一部を祈る祈りとなり、そして溢れる喜びとなる。

いろんなものが取り去られたとき、見えてくる与えられている大切なものが見えることもあるのかもしれない。

『この川が流れて行く所はどこでも、そこに群がるあらゆる生き物は生き、非常に多くの魚がいるようになる。その水がはいると、そこの水が良くなるからである。この川がはいる所では、すべてのものが生きる。』エゼキエル47:9

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2009年3月22日 (日)

恥は我がもの、栄光は主のもの

本当の謙虚な心で、キリストの香りを放ちたいです。神様、今の私大丈夫ですか?

『しかし、この私は、あなたの力を歌います。

まことに、朝明けには、あなたの恵みを喜び歌います。

それは、私の苦しみの日に、あなたは私のとりで、また、私の逃げ場であられたからです。

私の力、あなたに、私はほめ歌を歌います。

神は私のとりで、私の恵みの神であられます。』旧約聖書 詩篇59:16.17

「恥(はじ)は我がもの、栄光は主のもの!」

神学校時代、同じ寮にいた年配の方が、この言葉を口癖のように言っていたのを思い出した。

本当にそう思う。今となっては、とても奥深い言葉に思える。

前の記事にコメントをいただいた。私としてはとても励まされる。が「これからも、素晴らしい証を…。」と言われると、「私の証、大丈夫ですか?」と思ってしまったりする。

私は証魔で、人を赦せた話しなどは、クリスチャンでない方にもたくさん話したりした。

私にとっては、神様の恵みの中で、自分が癒されたり、変えられたりすることは、その途中は苦しくても、変えてくださった神様が凄いと、感謝に至る。

が、「あなたの証を聞くのは苦痛」と言われたことが何度かある。

私の話し方が悪いのだろうが、「私も変わったのだから、あなたも変わりなさい。」という裏メッセージに聞こえてしまうとのこと。

私は自分のドロドロしたところも、回復したところも、全部赦されているところとして表していきたいが、「恥は我が物、栄光は主のもの」になっているだろうか。

私は私の弱さ、足りなさを通して、なお神様と、神様のことば(聖書のことば)が素晴らしいことを伝えたいと切に願うが、知らず知らずのうちに、傲慢が潜んでいたりしたら、通り良き管(くだ)にはならない。

謙虚だとか、素晴らしいとか言われたときは危ない。立っているものが倒れないように、調子が良いときは調子にのらないようにしたい。

毎日ブログを書いているが、そのときにしか書けないことを聖霊様に教えてもらい、私の匂いでなく、キリストが香る(私の匂いは無くて良い)ブログとなって、神様の良いものを来てくださる方と共に分かち合いたいと思った。

神様、ブログを書き続けられて、感謝します。

毎日、誰かが来てくださってるので、とても励みになっています。

傲慢は知らず知らずのうちに、潜むものかもしれません。

調子が良いときは危ないです。

失敗や弱さで砕かれているときは神様に近いのだと思います。

傲慢にならず、悔いた砕かれた心を与えてください。キリストだけの香りを放てるものに造り変えてください。

訪問してくださる方々に、同じ神様の親しい交わりと祝福を与えてください。

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2009年3月21日 (土)

自己否定の回復

自己否定を癒し、おおってくださる神様を思います。

『神よ。私を探り、私の心を知ってください。

私を調べ、私の思い煩(わずら)いを知ってください。

私のうちに傷のついた道があるか、ないかを見て、私をとこしえの道に導いてください。』旧約聖書 詩篇139:23~24

私は21歳のとき、深い孤独と空虚さにおおわれ、生きていけないとゆきずまった。

そんな中、神様に出会い、生かしてくださる方がいることを知った。

しかし、親から受けた否定的なもの、自己否定と自己嫌悪は簡単には回復しなかった。

クリスチャンになりたてのころ、埼玉から東京に聖書勉強に通っていた。帰りの電車の乗り換えのホームで、突然沈んで、隠れていた自己否定の泥々が湧いてきて溢れるのを感じた。

「私は神様を知って喜んでいるけど、この内側にある自己否定と自己嫌悪の渦の中で一生生きていかなくてはならないのだなぁ。」と思った。

うつ症状もあった。突然、何もやる気力がなくなったりした。

あの頃から25年の月日がかかった。が、今、私は何が上手くいったとか、いかないとか関係なく、自分を楽しめている。自分を喜んでいる。足りないところも含めて自分と受け止めている。汚い自分を見せられたら、「イエス様ごめんなさい。赦して、癒してください。」と祈り、安心を取り戻す。

ある友人が言った。「神様って居るの?」私は答える。「うん、いるよ。全自己否定の人間が全肯定のものになった。これが神様の業でなくて、なんだと思う。」

天地を造られ、私たちを造られた神様はバラエティーに富んでおられる。私には“心の癒しをなしてくださる方”である。

私ができることは、私の症例を紹介して、神様が癒し主であることを宣言することしかできない。

神様は私たち一人一人を愛しておられる。

私たちは神様の愛を受けるために生まれた。

心の内側に特別な苦しみがある人の傷は癒されるため、慰められるため、おおわれるために計画されている。

私たちは愛され、おおわれ、癒される。

神様、あなたが私たちの想像を越えて、私たちの内に生きて働かれることをありがとうございます。

私たちは、人間関係の不完全さの中で痛み、苦しみ、ダメージを受けました。

しかし、神様はどんなダメージに対しても癒しと回復を与えてくださいます。

それは、あのイスラエルの民が惨めに捕囚の民とされましたが、解放の約束が与えられ、回復していったさまのようです。

私たちのうちに傷ついた道があるか、ないかを見て、私たちを神様の癒しと祝福の道に導いてください。

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2009年3月20日 (金)

弱さがおおわれる

自分の弱さを受け止めて、その次に進むことについて考えました。

『しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである。」と言われたのです。

ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。』新約聖書 第2コリント12:9

昨日の私のブログに「弱さを認め、謙虚に生きる姿は、とても美しく、強い生き方と感じる。」とコメントをいただいた。

私もそう思う。この方が、一般論で言われたのか、私のことを言われたのかわからないが、私に関して言うならば、「私を受け止めてくれた神様が素晴らしいのであって、受け止めてくれる方がいるから、安心して自分の弱さを出せている。」だけである。

私たちは誰もが自分の弱いところ、足りないところ、汚いところ、愚かなところを隠したい。見たくない。ごまかしたい。

アダムとエバが、神様から離れたとき、最初にしたのか、裸が恥ずかしいと隠したこと、神様から隠れたこと、責任転嫁したことだった。

以来、意識していても、無意識でも私たちはそのようなことをしてしまう習性がある。

自分の弱さや足りなさを、「わかるよ。誰だってあることだよ。」と言われたら、なんか安心するし、こんな自分に共感してくれるんだとジンとくる。

赦される、そのままで受け入れるということはそういうことだと思う。

私は誰かが「私はこんな人間なんだ。」と恐る恐る打ち明けてくれても、あまり驚いたことがない。

たぶん、私がそれ以上にひどい人間だったからかもしれないし、自分は体験していないことでも、自分もその立場だったら同じようにしたかもしれないと思えるからだと思う。

もし大切な人が、法に触れるような凄い悪いことをしたと打ち明けてきても、共に痛むことはあっても「信じられない。」とは思わない気がする。

私自身が「信じられない、考えられないようなことをしてきた」のに、神様に赦し、受け入れてもらったのだから。

自分を責めても良いことはない。私も人の弱さを受け入れたいと思う。

そして、神様はその弱さを「イエス様の十字架につけて、赦すよ。」と言ってくださっている。

正しい完全な神様の前には、弱い人間も立派に見える人間も50歩100歩なのだ。みんなアウトなのだ。

「私はダメな人間です。赦してください。」と認めた人がイエス様の赦しで覆われる。

自分を立派な人間と信じている人には神様は遠いのである。

神様、私たちはどうしようもなく、不完全で弱く、足りない者です。

もし、私たちが自分の惨めな部分を見つめるだけなら、絶望です。

けれども、どんな惨めで愚かな部分のある私をイエス様の十字架で整理し、受け入れてくださる神様を感謝します。

世の中に必要なのは、正論の議論ではありません。痛み苦しむ弱さに共感し、ともに祈る心です。神様の深い憐れみがこの地をおおい、癒してくださいますように。

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2009年3月17日 (火)

高校中退7万人

『幻がなければ、民はほしいままにふるまう。』旧約聖書 箴言29:18

今日の朝日新聞に「貧困・孤立…遠のく学校―高校中退者、全国で7万人」と言う記事があった。

「彼らはなぜ学校から遠のいていったか。家計の問題や家族の不和、学力不振、社会への不信、それらが招いた無力感、喪失感。10代で厳しい現実を突きつけられ、もがく姿が見えてくる。」と書かれている。

ある子は、子どもが出来て、中退する。が、仕事は不安定な収入しかない。「高校に戻りたい。もっと勉強すればよかった。カネを稼ぐためにはある程度の学歴が必要だ。」と中退を後悔する。

また、ある子は、母親が借金して高校に通わせてくれた。が、いつも将来に不安を覚え、眠れず、起きれず、遅刻が増え、出席日数不足で留年。そのまま中退。「自分にやる気があったら、中退なんてしていなかった。後悔している。」と言う。

私は大学中退組だが、若者の気持ちがよくわかるような気がする。

「何のために生きているのだろう。」「何のために勉強しているんだろう。」そんな迷いの中で、夢や希望よりも空虚さやなげやりな思いが大きくなると、その場で流されていってしまう。

戦後もとても貧しかったと思う。が、誰もが「食べていく。」「生きていく。」というはっきりとした目標があり、貧しい環境を乗り越えていったのではないだろうか。

今の時代の経済格差の苦しみもあるが、生きる喜びや目標が失われているのだと思う。

若者が夢をもって進めない…それは大人たちが、何か生きるために大切にするものをすり替えてしまったつけのようにも思う。

日本事態が憂いている。社会全体が何か生きていくことからずれたほうへと流れているように感じる。

神様、家庭を祝福してください。子どもたちを祝福してください。親を祝福してください。この日本と社会に希望と真実な目標をたえてください。

真実なもの、変わらない希望を混沌とした中に明らかにしてください。若者たちが学ぶ喜びが与えられ、目標をもって生きていけるようにしてください。

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天にたくわえられる宝

天にたくわえられる宝とはどういうものでしょうか。

『自分の宝を地上にたくわえるのはやめなさい。そこでは虫とさびで、きず物になり、また盗人が穴をあけて盗みます。

自分の宝は、天にたくわえなさい。そこでは、虫もさびもつかず、盗人が穴をあけて盗むこともありません。

あなたの宝のあるところに、あなたの心もあるからです。』新約聖書 マタイの福音書6:19~21

神学校の寮にいたとき、夢を見た。目が覚めたとき、そのことばだけが記憶に残ったので、メモをした。その内容は、こうだった。

「あなたは地上での報酬は少ないが、それは天にたくわえられている。」

その頃は、確かに貧しく、苦しい生活をしていたが、自分のしたい聖書の勉強が出来ていたので、充実していた。だから、特別、何かの報酬が足りないとも思わなかったが、とりあえず、意味もわからず、メモしてしばらく聖書にはさんでいたのを覚えている。

聖書でイエス様は、「あなたの宝を地上ではなく、天にたくわえよ。」と言う。

地上にたくわえられる宝とは、目に見えるもの、一時的で壊れて無くなるもの、天国に持っていけないものではないだろう。

一方、天にたくわえられるものとは、目にはみえないけど、私たちの心の中にあり、私たちを支え、本来の幸せにつながるものではないだろうか。

神様は私たちにとって最も大切なものを見失わないように呼びかけてくれている。

私はあるとき、とても高価なアクセサリーをした。すると、私の注意はそこにいき、無くしてしまうのではないか心配ばかりした。

一度しかない人生を一時的な、失われていくものや事に心に奪われてはもったいない。

神様が私たちを宝として、尊い存在として造られた。私たち自身が宝物であり、実は私たち自身がどう豊かに生きるか、どう永遠の時の中に生きるかが大切なのだと思う。

目に見えるもの、一時的なものに支配されやすい私たちの弱さを知っておられる神様は、どうしたら、私たちがその支配から抜け出せるかも優しく導いて教えてくださる。

私は物ではなかったか、本当に大切な神様以外のことに、長い年月心奪われていた(人を裁くことや人間的評価など)が、一つ一つ手放させてくれ、大切な神様にたどり着いていった気がする。夢で聞いた言葉「あなたの報酬は少ないが天にたくわえられている。」は、今思うと「あなたは悲しいこと、苦しいことが今は多いが、やがてはそれによって神様を知り、神様が宝となる。」というような意味かもしれないと思ったりする。

神様、私たちがとても労力をかけ、心をおき、大切にしているものは、本当に私を生かす宝物でしょうか。

もし、そこに心奪われ私自身が生きない一時的な物ならば、教えてください。そして私自身が豊かに生きるものを宝として祝福してください。

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2009年3月16日 (月)

戸をしめて祈る

ある朝、聖書の箇所から神様の優しい語りかけを聞いた気がしました。

『あなたは、祈るときには自分の奥まった部屋にはいりなさい。そして、戸をしめて、隠れた所におられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。』新約聖書マタイの福音書6:6

私は大勢の人の和の中にいると、みんなに合わせた話題を話したいと思うので、無口になったりする。

また、気が合う友人と2人きりで話をすると、いろんなことを分かち合いたいと思い、かなりおしゃべりになる。

自分だけの大切な話を大勢の前では話さない。話をしたい人と二人っきりになるのを待って、話をする。

この聖書の箇所は、いつも聞きなれているイエス様が話された祈りについての箇所である。

『祈るときには、偽善者たちのようであってはいけません。彼らは、人に見られたくて会堂や通りの四つ角に立って祈るのが好きだからです。まことに、あなたがたに告げます。彼らはすでに自分の報いを受け取っているのです。』マタイ6:5

奥まった部屋で、隠れた所におられる神様に祈りなさい…その前にこの注意がある。

私は偽善者か、人に見られたく思っているか…神様は私たちの動機をご存知である。そして、私たちは人がたくさんいるとそっちが気になりやすい、神様より人に注意が行きやすいものであるのを十分知っているのだと思う。

イエス様が言いたいことはこういうことではないか。

「神様はあなたが大勢の中で、注意散漫に神様と話しをすることはあまり意味のないことと思っている。

たった二人だけで大切な話しをしたい。語らいたい。

そのとき、あなたは心から神様に話すだろうし、神様はあなたにこっそりと秘密を話すだろう。あなたの語りかけに応えてくださる。」

神様、あなたと二人きりで語り合える幸いを思います。それはどんなに素晴らしい時でしょうか。

時が過ぎるのも忘れ、いつまでも、いろんなことを語り尽くしたいです。

どうぞ、あなたとの語らいの中に、私の思いを知ってくださり、あなたの思いを教えてください。

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2009年3月15日 (日)

キリストの十字架の愛(祈り)

聖霊様の満たしに感謝して、お祈りをします。

『神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。

私たちが神を愛したのでなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。』新約聖書 第1ヨハネの福音書4:9.10

神様が私たちをそのままで愛してくださっていることをありがとうございます。

私たちが罪あるものでも、イエス様の十字架でその罪赦され、このままで赦されて、受け入れられ、愛されていることをありがとうございます。

私たちがまだ罪にまみれていたときに、イエス様は私のために十字架にかかり、命をかけて愛してくださったことをありがとうございます。

神様がくださったイエス様の十字架の愛は、赦しは揺らぐことなく完全で、素晴らしいのに、どうして私たちはこうも弱く、神様の確かな愛を疑うのでしょうか。

それは、頼りにならない自分に過信しているからかもしれません。

不完全な人を頼りにしてしまっているからかもしれません。

ただイエス様の十字架だけが見えるようにしてください。

そうすれば、私は赦されたことを喜び、もはや古い私ではなく、キリストが私のうちに生きていることを知るでしょう。

キリストの十字架だけを大きく現してください。

この世の移り変わりゆくものではなく、永遠のいのちの輝きが見えてくるでしょう。

ただ、イエス様の愛が見えるものとしてください。

その愛に応えて、私は歩みだすでしょう。

愛なる神様の恵みが豊かに人々に表されますように。

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2009年3月10日 (火)

誕生の神秘

私たち人間の誕生の神秘と存在の尊さを思います。

『それはあなた(神)が私の内臓を造り、母の胎のうちで私を組み立てられたからです。

私は感謝します。

あなたは私に、奇(くす)しいことをなさって恐ろしいほどです。

私のたましいは、それをよく知っています。

私はひそかに造られ、地の深い所で仕組まれたとき、私の骨組みはあなたに隠れてはいませんでした。

あなたの目は胎児の私を見られ、あなたの書物にすべてが、書きしるされました。

私のために作られた日々が、しかも、その一日もないうちに。』旧約聖書 詩篇139:13~16

生命の誕生は神秘である。私はこの聖書の箇所を読むと、神様の創造の御業の素晴らしさと、そうして造られた人の限りない尊さを思う。

「5つの目的」の本の中では、「たとえ両親の計画になかったとしても、神様はあなたが生まれてくるのを心待ちにしていた。」とある。

どこかで何かがうまくいかなくなり、ずっと何年も家に引きこもり、人との関係を切っている人が身内にいる人の話しを聞いた。そのとき、この聖書のことばを思った。

障害があり、生きにくい生活がある子どもたちの話しを聞いたときもこの聖書の箇所を思った。

いつも自分に否定的な思いがまとわりつき、もしかしたら、生まれる前にお母さんの胎内にいたときの、強烈な否定的な印象が自分にインプットされたかもという友人を祈ったときもこの聖書の箇所を思った。

内面にどんなに否定的なイメージを持ったとしても、見た目に何も役にたっていないように見えたとしても、神様にとっては、同じその神秘の創造の御業を一人一人になしたのである。一人一人が神様の創造の作品で、愛され計画がされている尊い存在なのである。

美しい花や綺麗な大自然や夜の星々を見て、私たちは神様の創造の御業をほめたたえる。

同じように、それ以上に人が一人一人、違った個性、才能、感性を持って生まれてきた、創造された…人こそが神様の最大の傑作な作品なのだと思う。

私たちはときには自分に嫌気がさし、他の人を煩わしく思うのだが、神様にとっては一人一人が愛するために造られた大切な存在なのである。

『人とは何者なのでしょう。あなた(神)がこれを心に留められるとは。

人の子とは、何者なのでしょう。あなたがこれをかえりみられるとは。

あなたは、人を、神よりいくらか劣るものとし、これに栄光と誉れの冠をかぶらせました。』詩篇8:3~5

神様、一人一人が神様に愛されるため、神様の神秘な創造のみわざの中で誕生したことをありがとうございます。この素晴らしい神様の傑作作品である私たちが、どんなに尊く、いとおしく思われているか知ることができますよう、祝福してください。

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2009年3月 6日 (金)

あわれみのメリバの水

メリバの水の記事の不満をいうイスラエルの民は私だと思いました。

『ところが会衆のためには水がなかったので、彼らは集まってモーセとアロンとに逆らった。

民はモーセと争って言った。「ああ、私たちの兄弟たちが主の前で死んだとき、私たちも死んでいたのなら。…なぜ、あなたがたは私たちをエジプトから上らせて、この悪い所に引き入れたのか。…」

…主はモーセに告げて仰せられた。「杖を取れ。…あなたがたが彼らの目の前で岩に命じれば、岩から水を出す。」…これがメリバの水…主がご自身を聖なる者として示されたのである。』旧約聖書 民数記20:1~13

私は長年教会の牧師のメッセージに不満だった。批判もしてきた。牧師を赦したあと、まだ、私の中に批判しやすい部分が残っていることに気がついた。癒されたいと思った。

小学校の役員時代、いつも私の仕事に踏み込んでくる人がいた。一年我慢したが、最後に怒った。おとなしい、扱いやすいと思われていた私が怒ったので、その人はビックリしたようだが、以来警戒して距離をおき、踏み込んでこなくなった。そのとき、彼女を裁いていた自分が神様の前にどういうものか教えられ、裁きの気持ちが深いところで癒された。その日の日記を書く。

「2007.4.12〈はざきの癒し〉人を裁く行為は神様の恵みの前にへりくだっていない、私のごう慢と教えられた。裁かないで感謝することが大切!

「自分に死ぬ」ことなしにキリストのいのちは私を通しては流れない。(ヨハネ12:24~26)

神様、あなたの恵みがあり続けのに、その中で人を裁き、無駄な時間を過ごしてきました。25年間を悔い改めます。

今は恵みの時、救いの日、神様の恵みを無駄にしないで、生きていけますように。(第2コリント6:1~10)」

イスラエルの民は指導者モーセに文句を言った。が、これは神様に対する不満の表明でもあると注解にある。

私自身そうだったので、嘆いたり、つぶやいたり、不満を言う弱さのある人の気持ちが良くわかる。

それは弱さであり、傷であり、癒しが必要なのだと思う。

神様、現状に耐えられずつぶやく私たちの心を知ってください。痛みと悲しみ、苦しみを知ってください。そして、神様に癒しおおわれ、荒野の中でも、神様が泉湧くところとしてくださることを信じ、見させてください。

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2009年3月 3日 (火)

恵みの歩み2

解放は自分に目を向けることから解かれること、良いことをしようとすることから解かれることです。

『あなたがたがわたし(イエス)にとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。

あなたがたが多くの実を結び、わたしの弟子となることによって、わたしの父(神)は栄光をお受けになるのです。』新約聖書 ヨハネの福音書15:7.8

あるとき、私はつまらないことをふと思ったが、「これは神様の喜ばれるような良い願いではないから、祈るのはやめよう。」と思った。

が、その願いが聞かれた。そして、神様がこの聖書の箇所から「何でも求めなさい。神様の栄光のために。」と言われた気がした。

私がイエス様にとどまるというと、イエス様の言われることを守っているなら、そのとおり行っているなら…という意味かなぁと長年思っていた。

イエス様が言われたとおりに守るのは、100%無理だと思う。

実は、イエス様を信じ、イエス様とふさわしい関係でつながっているなら…という意味だということを、「恵みの歩み」の本を読みながら、思った。「恵みの歩み」から、印象的なところをピックアップしてみたい。

「サタンはクリスチャンが律法に従うことが勝利への道であると信じ込ませます。律法を行うことは不可能です。もしみこころに従って生きることを願うのなら、主ご自身に目を向けることです。」

「自分の価値基準を放棄する理由として、善悪にとらわれると神よりも自分に目を向けるようになるというのがあります。堕落以前、アダムとエバにとって善悪は関係ありませんでした。彼らは自分たちの行動に目を向けていたのでなく、神との関係にもとずいて人生をたてあげていたのです。…彼らが主ご自身に目を向けることが神の目的でした。堕落以前、いつも神に目を向けていたので、裸であったことさえ、気になりませんでした。」

今、私たちは、善悪の木の実を食べ続けているかのような、裸の人間のような気がする。

しかし、キリストによって、いのちの木につなげられた。裸ではなく、キリストの白い衣を着させられている。赦されて、もういのちの木にしっかりつながっているので、枝である私が頑張る必要は何もない。いのちを受け継ぐだけなのである。

神様、私たちがイエス様によって、ぶどうの木につながっているものであることをありがとうございます。イエス様の良いものが私に流れ、良い実を結べることをありがとうございます。頑張ること、神様のみこころは何か思いあぐねること、努力することをやめて、ただ憐れみによって、つなげていただいてること、赦されて受け入れられていることを大いに喜べますように。

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2009年2月28日 (土)

よみがえりがなかったら…

イエス様の十字架と同じように大切なよみがえりを思います。

『そして、もしキリストがよみがえらなかったら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお、自分の罪の中にいるのです。…

もし、私たちがこの世にあってキリストに単なる希望を置いてるだけなら、私たちは、すべての人の中で一番哀れな者です。

しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。』新約聖書 第1コリント人への手紙15:17~20

イエス様が私の罪のため、身代わりとなって十字架にかかってくれた…これは信仰の原点だとすると、イエス様が十字架で死に3日目によみがえられた…これは何になるか?信仰の発展だろうか?

歴史上で、イエス様が十字架にかかられたことは信じられても、3か目によみがえられたことを信じるのは、また、難しいことである。死んだ者が生き返るなんて…と。

聖書で、パウロは「もしキリストが復活されなかったのなら、私たちの信仰は意味のないものだ」と言っている。

信じる…私たちには信じられることと、信じられないことがあり、信じることに限界がある。

私はイエス様の十字架、復活、再臨をすぐ信じたか。イエス様を信じて心にお迎えしたとき、十字架の意味も、復活もよくわからなかった気がする。

クリスチャンに成り立ての頃、ある牧師の方が言った。「聖書で信じられるところだけ切り取って信じたら、それは聖書の信仰ではなく、その人の信仰になる。」と。

パウロの時代、体の復活はないという信者たちがいた。ギリシャ人は霊魂の不滅を信じ、体の復活は信じなかったのだそうだ。

もし、イエス様の復活がなかったとしたら、私たちはみじめに死んでいった神様を信じることになる。

私たちもキリストと共に十字架にかけられ、古い人間的な自分に死んだ。が、イエス様のよみがえりがなかったら、私たちも古い自分に死んだままになる。

イエス様はよみがえられた。どうやってそれを知ることが出来るか。私が古い自分に死に、新しいいのちに共に生かされている体験によって知れる。

神様を知らない人はどうやって知り、信じるのか。私たちにイエス様の新しいいのちの現れを見ることによってかもしれない。

この今もよみがえり、私たちと共にいてくださるイエス様のよみがえり、そして再臨もまた、十字架と共に人々に明らかになりますように。

神様、イエス様のよみがえりをありがとうございます。私たちは、そのことによって、キリストと共に死に、新しいいのちで生かされていることを経験できますからありがとうございます。キリストの死とよみがえりによって与えられた素晴らしい永遠のいのちが人々に明らかになりますように祝福してください。

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2009年2月23日 (月)

正しいことばではなく…

正しいことを言うことは、時に、人を突き放してしまいます。

『喜ぶ者といっしょに喜び、泣く者といっしょに泣きなさい。』新約聖書 ローマ人への手紙12:15

息子がドリルで勉強していて、よく後ろの解答を安易に見ている。解答を見て勉強するのも、勉強の一つかも知れない。でも、それは自分が理解したことではなく、理解するプロセスにあるということだ。

私は聖書のことばも、安易に使い、正解を言うことで人を裁いたり、傷つけりしてしまう危険性があるのを思う。聖書のことばは真実で、信じる者には神様の力だが、人に押し付けられるとなんだかつらい。

例えば、苦しみにある本人が、その苦しみのプロセスの中で聖書のことばを自分の物としていくのを、まわりは祈って待つときもあるのかも知れない。

若い時、失恋し、その直後にクリスチャンの友人に話しをした時のこと。その友人は「神様はすべて益としてくださるわ。」と言った。それは真実で、正解だけど、今泣いてたばかりの私には慰めにはならなかった。

ある方が亡くなったとき、絶望にうちひしがれているノンクリスチャンの遺族の前で、「ハレルヤ、彼女は天国にいきました。」と言った。自分の子どもが亡くなったとき、同じように言えるのだろうかと思った。

きっと、同じような失敗を私自身数多くしてきたに違いない。

“喧嘩の末に…”のブログに出てきた友人に「sebaさん、あなたもキリスト病だよ。教会病だよ。」と言われた。そのことに関しては、「そうかもね。」と凄く素直に受け止められた。どこが…かはわからないが。たぶん、そうかもと。

ネットサーフィンの中で「君が生きる」というブログの「軽々しい正しさ」というタイトルの中で次のように書かれていた。(勝手に引用、すみません)

「正しくなくったっていいんだ。きみのことばで話しをしてくれ。君を知りたいんだ。」

“キリスト病”にならないとはこういうことかなぁ、私の友人が言いたいことってこういうことかなぁと思った。

私は基本的にノンクリスチャンとの付き合いが多いし、クリスチャンよりノンクリスチャンといる方が居心地が良い。正しいことを言わず、正直なことを言ってくれるからホッとする。自分の弱さを繕わずに出せる感じがする。

“あの人が嫌い”と教会で言おうものなら、“赦しましょう”と言われる。赦すのに、時間がかかったり、それなりのプロセスもいる。神様は聖書と聖霊様で導いてくれるが、無理矢理に力で従わせることはしない。神様の温かな愛情の中に受け入れ、赦し、癒し、恵みの次のステップへと手をひいてくださる。間違いをした子どもが、優しいお父さんに諭され、安心して手をひいてもらい我が家に帰るように。

神様、私が正しいことを言い、人を無意識に裁いていたら許してください。私たちは何かを理解するのに時間がかかります。正しいことを言うよりも、人と気持ちを共有する心をください。

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2009年2月22日 (日)

約束された天にあるすべての霊的祝福

霊的祝福について書きます。

『神はキリストにおいて、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。』新約聖書 エペソ人への手紙1:3

神様は私たちをキリストにあって、神様の子どもとしてくれて、たくさんの約束を聖書を通してしてしてくれている。

それは良い子どもならもらえて、悪い子どもならもらえないという約束ではない。なぜなら、私たちは皆一人として、もらうにふさわしくないが、キリストの十字架の赦しの完全性によって、信じるすべての人がもらえる約束だからだ。

『神はキリストにおいて、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださる。』とはどんな祝福か?

ある礼拝のメッセージで、「それはイエス様が体験したすべての霊的祝福だ」と言っていた。

私たちは肉体を持ち、地上にあっては弱さの中で生活しているが、一方では“天にあるすべての霊的祝福”で祝福されるのである。

霊的祝福の表れは、神様との親しい交わり、キリストの赦しの憐れみ、聖霊様の満たし。地上にいながらにして、天国と同じ喜びにあふれ、苦難の中にあって感謝と賛美に満たされた状態…だろうか。

私たちは感じていようが、あまり感じていないだろうが、“天にあるすべての霊的祝福をもって祝福される者”である。

第1ペテロ3:9には『悪をもって悪に報いず、侮辱をもって侮辱に報いず、かえって祝福を与えなさい。あなたがたは祝福を受け継ぐために召されたのだからです。』とある。

私は悪意をもって接してくる人に苦々しい思いで、この箇所を読んで祈る。

悪や侮辱を与える人の祝福を祈るのは大変だけど、実は私たちは“天にあるすべての霊的祝福”を約束されている。与えていく程に、受けている大きさに気がつかされるのかもしれない。

神様、私たちは神様とキリストによって、天にあるすべての霊的祝福を約束されていることをありがとうございます。与えても与えても、尽きることなく注がれている祝福をありがとうございます。たくさんの祝福を与えていけますように。祝福されている多さを知ることができますように。

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2009年2月21日 (土)

御国のかぎを使う

祈れることの素晴らしさについて書きます。

『わたし(イエス)は、あなたに天の御国のかぎを上げます。何でもあなたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたが地上で解くなら、それは天においても解かれています。』新約聖書 マタイの福音書16:19

私はクリスチャンに成りたての頃、聖書の内容も神様についても、ほとんど詳しく知らなかったが、祈ることの素晴らしさはじんわり感じていた。

自分が環境において、内面においてピンチになったら、神様に祈り、助けをもらえる。

クリスチャンに成り立ての頃は、まだまだ自己中心の塊だったと思うが、それでも誰かと話したら、その人のために祈ることができる。

また、遠くにいて、話すことも交流することができない人のためにも祈ることができる。

信頼する神様に自分の内面、状況、近くの人、遠くの人のために祈れる凄さを思った。

最近、ある役員会の飲み会で、「何か悩み、問題があったら、私に話しをしてください。私、祈りますから。」と言った。すると、その相手は、相談した結果は祈りか…と肩透かしをくらったみたいで、がっかりして苦笑いしていた。私もそれ以上は言わなかったが、「限界ある自分などより、すべてに権力を働かせている神様に祈るのが一番なんだけどなぁ」と思った。

神様を少しずつ知るにしたがって、私の祈りも少しずつ違ってきたかもしれない。

私はアブラハムが祈ったように、私の祈りのゆえに、この土地の人を祝福してくださいと祈る。私の祈りのゆえに、私と出会う人々を祝福してくださいと祈る。私の祈りのゆえに、子どもが通う中学に特別な計らいをしてくださいと祈る。

私は祈ることしかできないが、その祈りを聞かれる神様は、歴史にも働き、また、どんな悪人の心にも働く神である。

私たちに天国の祝福の扉のかぎが託されている。そのかぎ(祈り)を使って、いつでも神様の国にある祝福を人々に与えていけるものとされていることを感謝する。

神様、あなたは無限に良いものを与えたいと思われています。ただ、私たちの側が理解や信頼において限界があるので、神の国のかぎをつかって、なかなか出し入れできません。神様、私が信じて祈る祈りも限界はありますが、私が思わされ、祈れる領域を大切にできますように。私たちをこの世に祝福をもたらす使者としてください。

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莫大な相続財産

神様の子どもとなり、たくさんの相続財産をいただいていることを感謝します。

『どうか、私たちの主イエス・キリストの神、すなわち栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を、あなたがたに与えてくださいますように。

また、あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって、神の召しによって与えられる望みがどのようなものか、聖徒の受け継ぐものがどのように栄光に富んだものか、

また、神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかをあなたがたが知ることができますように。』新約聖書 エペソ人への手紙1:17~19

人は皆裸で生まれ、裸で死んでいく。だから、平等といえば平等である。が、生まれ落ちたとたん、その周りの環境が違い、それは人が選べない。

平和な国に生まれたり、そこが戦争のさ中だったり、豊かな家庭だったり、貧しい場所だったり…。

赤ん坊はみんな同じなのに、その環境や身分で内側の雰囲気まで変わってくるのは面白い。私は一般庶民だが、皇室に生まれついた子どもは、子どもながらに皇室の高貴な雰囲気をすでに身につけている。

しかし、聖書では、神様を信じるものに平等に相続財産を与えると言っている。神様の子どもになることもイエス様の十字架によるので、人の能力や力に起因しないので、平等にチャンスが与えられている。

神様の子どもにふさわしくないものが、ただ憐れみで神様の子どもにしてもらったその相続財産は何か。

たくさんあるし、数えきれない気もするが、思いつくところであげてみたい。

神様の子どもとなり、私たちは新しい家族に加えられた。新しい父を持つ。その父は、最善を知っておられ、この世にあって、権力のある方であり、相談にのってくれ、慰め、励ましてくれる神様である。この世で経験したことのない、新しい信頼関係を与えられる。

長男役のイエス様を与えられる。イエス様のかかってくれた十字架で、私たちはどんな中にあっても、赦される受容体験を続けていける。

聖霊様を与えられる。目に見えない神様やイエス様であるが、私たちが聖書のことばを神様のメッセージとして受けとれるように、手をとって導いてくれる。

新しいいのちを与えられる。この世に生まれたときに与えられた命ではない、正しい神様の喜ぶことを喜べるこの世にあって、流されないいのちである。そのいのちは肉体が滅びても続く永遠のいのちである。

聖書のことば(神の知恵)、祈り、信仰(神への信頼)が与えられる。

祈りを通して、神様の倉庫の扉を開き、そこにあるものを活用できるようになる。

変わらない希望と愛が与えられる。

神様、あなたが与えてくだっているものが、どんなにたくさんあり、素晴らしいものであるか、私の心の目がはっきり見えて知ることができ、喜び、感謝し、活用していくことができますように。

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2009年2月20日 (金)

砕きたまえ!

私が変えられるということについて、引き続き考えています。

『陶器師は、粘土で制作中の器を自分の手でこわし、再びそれを陶器師自身の気に入ったほかの器に作り替えた。』旧約聖書 イザヤ書18:4

「人生を導く5つの目的」の本には、第3の目的として、“あなたはキリストのようになるために造られた”とある。

なんだかおこがましい感じがするけれど、私がなりたい目標はキリストという訳だ。それは、もちろん、私の努力ではなく、神様が私の内側に働いてそのことがなされる。外的には、聖書のことばと人と環境を用いると本にあった。

自分が変わるということは、いつも痛みが伴う。時には大手術となる。誰もそんな苦しみは望まないし、私もそのきつさが良くわかるから、「私を変えてください。」なんて、怖くて安易に祈れない。

しかし、時に癒しのため、自由のため、本当の平安の義の実のため、そして神様と深く交流するため手術や治療をして、変えられることは必要になる。

昨日ブログに書いた友人は「sebaさんは変わらないから、癒しのミニストリーが開かれないんだよ。」と言う。私への愛情であってもきつい口調で言われると、「だったら、そんなミニストリーはいらない!」と叫びたくなる。が、本当は誰かの癒しを助けるための神様の働きをしたいと切に願っている。

もう一人、愛情深い友人がいるが彼女からも「そこを変えていかないとミニストリーが開かれないよ。」と言われた。

私にとっては、虐待を受けて育った2人の友人は私に色々教えてくれる先生だ。「何故、両者でなく、私だけ変わらなくてはいけないの?」と悔しい気持ちにもなる。そんなの変と無視したくもなる。

でも、きっと今は私が変わらなくてはならない時期なのだと昨日改めて神様の恵みの中で思った。

私は変わる方法を知っている。祈れば良いのだ。それは神様にかなった祈りなので、すでに聞かれた祈りである。ただ、私の成長と変化のため、神様が何をなさるかはわからない。

まな板のコイ状態である。聖書的には、「台の上に置かれた陶器」状態である。

神様、何もなく、楽しく平安無事に過ごしていると、私はこのままで十分と思います。神様は今のこのままの私を全部受け入れてくれていることも知っています。ただ、私が神様の働きをしていくのに、神様が使いやすい陶器に作り変えなくてはいけないことも知っています。神様の恵みは私に十分です。次は私が少しでも神様のお役にたてるようになる番です。神様に私を差し出します。砕いて粉々にし、神様の使いやすいように作ってください。

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2009年2月18日 (水)

多くの実を結ぶ

良い木は良い実を結びます。良い木にはなれませんが、イエス様に接ぎ木され、“イエス様の実”を結ぶことができます。

『わたし(イエス)はまことのぶどうの木であり、わたしの父(神)は農夫です。…

わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。』新約聖書 ヨハネの福音書15:1.5

親からたくさんの愛情を受けて育った子どもは愛情深い子になる。

人は目に見えないものを受けて、その受けたものを蓄え、成長する。

受けていないものは、蓄えられないし、外に表していくことも難しい。

実は目に見える外見とかよりも、何を受けて内面に蓄えているかのほうが、生き方を表していくうえで大切だと思う。外見は衰えていくが、目に見えない内面は、外へと表れて、輝く。

人間は不完全で、親も不完全で、良いものも悪いものも与えてくれる。

私たちにあるものがどこまでいっても不完全なもので蓄積されていくなら、どうしたらよいのか。

りんごの木はりんごの実を結ぶ。梨の木は梨の実を結ぶ。

しょせん、私たちが努力しても、その中で結ぶ実は“自己中心”の醜い実である。

聖書では、イエス様につながるなら、イエス様の品性の実を結ぶと約束してくれている。

“自己中心”の実から、イエス様に接ぎ木され、“イエス様の実”を結ぶのである。

この約束は、私たちにとって、慰めと希望のメッセージである。

神様、今日もイエス様につながり、“私の実”ではなく、“イエス様の実”を結びますようにしてください。

『御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。』ガラテヤ人への手紙5:22.23

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2009年2月17日 (火)

不況の波の中で…

朝、一つのテレビ番組を見て思いました。

『…永遠の変わらぬ愛をもって、あなたをあわれむ。…

たとい山々が移り、丘が動いても、わたし(神)の変わらぬ愛はあなたから移らず、わたしの平和の契約は動かない。』

今朝、NHKの8:30から「仕事を失う女性たち―パート解雇で生活困窮・再就職の壁―」という番組を見た。(明日もこのテーマが続くらしい)

100年に一度の不況と言われ、派遣切りや雇用不安定が言われ、連日ニュースが流れる。企業などが雇用を縮小する波は働く女性にも影響を及ぼす。番組では、妊娠で、解雇された女性の話しや、解雇で生活が成り立たない人たちの話しがあった。

ゲスト解説の人が言っていた。「女性だから、独身なら結婚すればいいとか、結婚しているから扶養されればいいとか思われる。社会はいろんな面が変化していて、共働きしないと成り立たない家庭や、長年一人で生計をたててきた女性、母子家庭など、働く必要のある女性が多いが、なおざりにされている。」

社員で働く男性でも、リストラや給与がカットされたりする時代、見えないところでたくさんの人が苦労しているのを思う。

私は発達障害のお母さんたちと交流があるので、その子どもたちが将来、社会の一員として働く姿を見るのが願いとしてある。

が、弱い者がますます生きていくのが難しい世の中になっている。

この闇の中で、現実に生きて働いてくださる神様の栄光があらわされ、闇の中で光となって、歴史の中に表れてくださるのを私たちが信じ、祈ることができますように。

神様、あなたの変わらない愛は、この厳しい現実の中にも働いてくださることを信じます。
100年に一度と言われる不況の中、弱い者ははじき出されています。
緊急事態が発生しているのに、政治はとてもごたごたしています。神様、世の中を広く見据えられるリーダーを日本にもたててください。
また、私が祈る中で、私が今日出来ることを教えてください。
神様、あなたが歴史の中に生きて働いておられる神様であり、真実に私たちの内にも外側にも希望をもたらしてください。
世の中の不安定な中で、変わらぬ愛の契約をもってくださる神様が表され、あなたの栄光がほめたたえられますように。闇の中にいる人々に真実の希望を与えてください。

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2009年2月15日 (日)

円滑な人間関係(境界線の回復)1

人間関係をスムーズにするため、自分の領域をはっきりさせることが大切です。

『もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。』新約聖書 第1ヨハネの手紙1:9

過保護過干渉で育てられた子どもや虐待された子どもは“境界線”が崩れている。私は前者だった。

人はまわり(特に親など身近な人たち)の人に受け入れられ、尊重しながら、自分のアイデンティティーを確立していく。そこに間違いや失敗があっても、まわりの尊重の中で自分を作りあげていく。

ところが、干渉や虐待といういつも、自分で何か決めようとすることに、明らかに自分の領域に踏み込まれると、どこまでが自分の領域で、どこからが人の領域かわからなくなる。結果、人間関係の中で一番大切な自分を大切にし、相手を尊重するということが出来なくなる。

相手を支配したり、迎合(あわせる)したりの人間関係しか作れずに苦しむ。

「境界線」の本にはその定義を次のように書いてある。

「境界線は自分のものを他人のものから区別し、自分で管理できるようにします。…境界線は、善いものを内に保ち、悪いものは外に出すのです。…虐待を受けると、境界線の役割を逆転させ、悪いものを内側にとどめ、善いものを外側に閉め出してしまうことが往々にしてあります。」

嫌いな人ばかりに思いがいく、嫌な言葉だけ残る、自分はダメだと自分を痛めつけるなどそれだと思う。

私はとても人に傷つきやすかった。神様を知らないときは、友だちと意見が合わないだけで「裏切られた」と思い込み、リュックを背負って旅に出た。

クリスチャンになって、ある日から、人に傷ついたら傷ついた私が不完全だ、相手を受け止められない容量の小さい人間だと思い、神様に謝ることを始めた。

「神様、また、ひどいことをあの人は言いました。とても嫌な思いをしましたが、相手を受け止める力も心の広さもない私を赦してください。」

すると、不思議と人への嫌な思いは消えて、神様がその心を慰め、癒し、おおってくれるのを体験した。なので、私は人から嫌な思いを受けたとき、この祈りを続けた。この祈りは「境界線」の本で、「人を赦すと、その人の支配(影響)から解かれる」という文を読む日まで続いた。

自分の罪を告白する…たとえ100%相手が悪いように見えても自分の不完全の分を探して告白し謝る…を私は15年続けた。

私の境界線は回復した。人の影響を前のように受けなくなった。「境界線」の本には次のようにある。私はこの作業をし続けて、回復したのだと今知る。

「私の内に痛みや罪があったとします。癒されるためには自分を開いて神と他者に伝え、痛みや罪を告白することによって、これ以上内側で私たちを毒し続けることがないように『外に出す』のです。(第1ヨハネ1:9・ヤコブ5:16・マルコ7:21~23)」

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2009年2月13日 (金)

“ひとりぼっち”

孤独を感じている人は、気がつかない中、私たちのまわりにいるのかもしれません。

『わたし(神)は決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。』新約聖書 ヘブル人への手紙13:5

自殺願望があって、自殺の名所に行くような人が、人に話しを聞いてもらうだけで、自殺を思いとどまる話しを聞く。

人は追い込まれると、自分は天涯孤独なんだと思うのかもしれない。そんな中、たとえ知らない人であっても優しく声をかけてもらい、親身になって話しを聞いてもらうだけで、少し生きてみようという気持ちになるのかもしれない。

かつての私の場合は、心のセンサーが壊れて、まわりに親身になってくれる友人がいても、孤独のどん底だった。孤独がまとわりついて、生きていくのが辛かった。

最終的に心の奥底の孤独は、環境や人によらず、神様が埋めてくれるものと私は信じている。心に空いたピースの形は神様だけが知っていて、神様がピッタリと埋めてくれると…。

あるボランティアの新聞に「熟年の心理を襲う最大の課題は『ひとりぼっち』になるということ」とあった。

これを読んで“ひとりぼっち”と感じているのは、熟年ばかりではない…と思った。

一人で負いきれない中、子育てをしてる人、働きたいのに働けずやるせない思いでいる人、いろんな人たちが人ごみの中で“ひとりぼっち”と感じてるのかもしれない。

孤独に苦しんだことのない人にはわからない世界かもしれない。孤独を体験し、慰めを体験した者に祈れる祈りがある。

私は地域でつながりを大切にしたいと願っているけど、言い替えれば、自分の地域に“ひとりぼっち”で悲しむ人を少なくしたいということかなぁと思った。

かつての私は孤独で孤独で、泣くばかりの日だったが、忘れたくない思い出である。

神様、かつて孤独だった私の心に神様が来てくださり、いつも知っていてくれ、いつも相談にのってくれ、理解とさとしと慰めを与えてくださることをありがとうございます。それゆえに、私は孤独でなくなりました。
限界のある者なので、人の心奥底はわかりませんが、神様が私を思ってくれる思いが、私を通して、人にも流れていきますように。神様は造られたすべての人を大切に思っていることを人々が知りますようにお願いします。

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2009年2月12日 (木)

“救い”とは“自由”

「救いとは自由です」とある本にありましたが、本当にそのとおりだと思います。

『わたし(神)の好む断食(だんじき)とは、これではないか。悪のきずなを解き、くびきのなわめをほどき、しいたげられた者たちを自由の身とし、すべてのくびきを砕くことではないか。…』旧約聖書 イザヤ書58:6

ここ2〜3日、久々ひどい風邪でうなされた。

始めは喉の痛み。やがて強烈な喉の奥の痛みと咳、そして、体中の痛みと高熱。

私たちの罪もまた始めは小さいようなものでも、そのままでは段々重なり、死へと向かう。

ハ・ヨンショ師の「幸せな朝」に“救いの別のことばは自由です―あなたはまことの自由人ですか―”というタイトルで次のようにある。

「救いを他のことばで表現するなら自由です。私たちを縛って自分の良心に従って生きられないようにさせ、サタンに引きずり回させていたすべての罪の鎖が解かれ、解放されたのです。」

聖書でいう罪というのは、法的に裁かれるような悪いことだけでなく、悪い考え、悪い思い、正しい造られた神を信じないことも罪という。

アダムとエバ以来、私たちは生まれながらに良心に従えず、悪を行ってしまう。もし、私は悪いことをしたことも思ったこともないと言う人がいるなら、うそをついているか、良心に鈍感なのかもしれない。独善は神様が最も嫌われるものである。

その罪に縛られて不自由だと感じないで生きている人もいる。が、その先には解決のない死が待っている。

イザヤ58章は私が神様からの使命として与えられたことばである。

私は神様と共に歩まなかった時代、悪のきずなとくびきにがんじからめだった。だから、そこから解かれるということがどんなに自由なことか、体験してきた。

神様を知ったばかりのころは、神様の話しばかりをして友人にうとまれた。

今はしつこく求めるのは神様にであって、人に対しては神様にある自由人として接することが私には求められている気がする。きっと、私が人の悪のきずなを解き、くびきのなわめをほどき、すべてのくびきを砕くこと…それは私が神様にあってどれだけ自由人かにかかっている気がする。

私はまだまだ、まったき自由人への途上にあるが、苦しむ人のなわめを解きたいと願っている。

神様、イエス様が自由を与えるために来てくださり、私たちを解放してくださったことを感謝します。この神様の自由が私だけのものとならないように、与えられた自由をもって、愛で仕えられますように。自分の中に愛がない部分をたくさん見てしまいますが、そこをも解いてくださり、神様の愛によって、愛する自由人へと近づけてください。

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2009年2月11日 (水)

できる形のとりなし

イエス様の中に究極の人のためのとりなしの祈りをみます。そのレベルにはすぐ達しなくても、私が今出来るとりなしの祈りについて書きます。

『そのとき、イエスはこう言われた。「父よ。彼らをお赦(ゆる)しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」』新約聖書 ルカによる福音書23:34

かつて私は、人を裁くことが多かったが、自分が神様に受け入れられていることを体験する中、人を裁くことは少なくなったと思う。

それでも、キツい対応を受けたりすると、傷になってしまい、「こんなことされたんだよぉ。きつかったよぉ。」と誰かに漏らしてしまう自分がいる。

最近、教えられていることは、皆罪の性質を持っていて、たまたま私がそのことを人から受けた…神様がその人の中に潜んでいる弱さを私に見せてくれたんだと思うようになった。実は、罪の性質、その弱さで、人に不愉快な思いを与えている人は自分もそのことに縛られ、その人自身が一番苦しいのかも知れない。私も人と上手く関係が持てなかった頃は、私自身が余裕がなく、苦しかった。

人から受けた傷が癒されないまま、誰かに痛みを打ち明けながら、イエス様のことを思った。

イエス様は一つも悪いことをしておらず、人々のために生きてこられたのに、その結果は十字架刑である。

私などは、不正をしていないのに、誤解されたり、悪態つかれただけで耐えられない程なのに、イエス様は妬まれたり、恨まれたりしたあげくが命を無くす状況に追い込まれた。妬みや憎しみは、自分たちの深い罪の性質の故だったが、彼らはそれを自分の義とした。

そんな中で十字架の上でイエス様が祈られた祈りは「父よ。彼らを赦してください。彼らは何をしているのかわからないのです。」という究極のとりなしの祈りだった。

自分に攻撃が来たり、不利益をこうむったり、傷をつけられ痛む中、まず、その相手のために祈るのは無理。生身の体、心が痛いのに、自分の痛みのことではなく、相手のために祈るのは…とても難しい。

けれども、自分も痛いけれど、同じ位、相手もどうしようもない足りなさや弱さや罪の性質に縛られて苦しんでる、あるいはその結果を刈り取ってるんだと時間をかけて思うことはできる気がする。

ステパノもまた、人々から石を投げつけられ、殉教するときに「主よ。この罪を彼らに負わせないでください。」と祈られた。ステパノは聖霊に満たされ天の神の栄光とイエス様を見ていた。

私がそのレベルに達するのは、まだまだだが、今出来るところからのとりなしの祈りを神様は祝福してくれると思う。

神様、私たちはキリストを信じる故に妬まれたり、恨まれたりもすると聖書にはあります。また、傷を受けたり、不利益をこうむることもあります。神様が私たちの弱さをいつも赦してくださり、神様の安心の中に、受けたダメージを癒してくださることをありがとうございます。そして、ダメージを与えた人のために祈るイエス様の愛を与えてください。

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2009年2月10日 (火)

『死んでも生きる』とは

『死んでも生きる』とはどういうことか、考えました。

『イエスは言われた。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。」』新約聖書 ヨハネの福音書11:25

前回のブログの聖書箇所と同じ12章のことば。ラザロが死んで、嘆く兄弟のマルタにイエス様が言ったことば。

ここはイースター(イエス様の復活を祝う復活祭)で良く引用される。だから、クリスチャンになったときから、とても馴染みのある箇所である。

けれども、『イエス様を信じる者は死んでも生きる』というのはわかるようで、よくわからなかった。

確かにイエス様を信じる者は天国が約束されている。

前にも書いたが、ある人が「私たちは今、病気をかかえていても、大丈夫。天国に行ったら永遠に健康で生きるのです。」と言った。すごく、違和感を感じた。地上の苦しみは天国にいけば、帳消しになるから我慢しろ…と私には聞こえた。

今ははっきりわかる。肉体の死後に永遠の天国に行くことが約束されているが、それだけではない。

この地上で神様との親しい交わりを通して、私たちは地上にいながらにして、天国を体験できるのである。

もし、地上で神様との親しい交わりを経験せず、天国があると言われても、絵にかいた餅のようになる。

この地上で、神様と交わり、天国の前味を味わい、そして、天国の渇望の中、私たちは天国に移される。

霊的に死んでいた者が、キリストによって、生き返り、神様と地上で交流できるこの恵みをほめたたえる。

神様、イエス様の十字架により、赦されて神様と親しく交われるものであることを感謝します。復活されたイエス様によって、私たちも霊的に死んでいたものが、霊に生きるものとされたことを感謝します。肉体の死が訪れても、霊に生きたように天国で神様と変わらず親しい交われが持てることを感謝します。

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2009年1月25日 (日)

扉に立つ私

一週間考えていたことが、ある情景として思い浮かびました。

『キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわし、ご自分の肉において、敵意を廃棄された方です。』新約聖書 エペソ人への手紙3:14.15

一つの情景を思い浮かべている。

大きな建物があり、その中には何人もの人々がいる。扉があり、私はその丁度扉のところに立っている。

扉は開いていて、外の風景が見える。

外にはたくさんの人がいる。

私は扉にいるので、扉の近くにいる外の人の顔が見え、少し話しが聞けて、何を思っているか、どうして建物の中に入ってこないか、少し理解できる。

けれども、建物の中にいる人は、何故その中に人々が入ってこないのか分からず、不思議に思っている。

先週、私は教会の中にいるクリスチャンと外にいるクリスチャンの壁があることを、痛感した。

建物に入ってこない人たちにはそれぞれに事情や理由がある。

が、中にいる人にはそのことが理解できない。親切な人は、外の人のために祈ってくれているに違いない。

けれども、外の人の言動は、中の人から見たらまかり間違えば不信仰に見えたり、怠慢に見えたりする。

人には理解できる範疇があり、私も理解できる人はきっと僅かだ。

ただ、私は扉のところにいて、いつも建物の外を見ているので、扉の近くにいる外のクリスチャンがどんなに神様を求め、神様の中に生々しく生きているか少しわかるだけである。

彼らがどんなに神様に愛され、神様の近くにいるか、中の人うまく説明出来なかった私がいた。

イスラエルの民は捕囚され、裁かれながら尚、神様に選ばれ、愛され計画の中にいた。

今のユダヤ人には神様の召しと賜物は変わらず、異邦人の救いのために、神様の計画の中にいる。(ローマ人への手紙11章)

うまく言えないが、とにかく私は建物の扉のところにいるということ。

神様、教会の外にはたくさんのクリスチャンがいます。その方々も神様が選ばれ、信仰を与えた人たちです。神様は中も外も一つとなって、一つのキリストの体となることを願っています。外にいる人は、深い神様との関わりがありながら、悩んでいます。神様、どうぞ、キリストの大切な体である外の人たちを導き、祝福してください。

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2009年1月24日 (土)

最も大切な信頼

信じることで良しとされ、受け入れられたので、クリスチャンの誇りは自分ではなく、キリストと神様です。

『もしアブラハムが行いによって義と認められたなら、彼は誇ることができます。しかし、神の御前では、そうではありません。

聖書(旧約聖書)では何と言っていますか。「それでアブラハムは神を信じた。それが彼の義とみなされた。」とあります。』新約聖書 ローマ人への手紙4:2.3

昨日のブログで書いたが、神様はアブラハムを選ばれ、アブラハムは神様を信じ、そして「わたし(神)があなたがた(アブラハムを初めとするイスラエル人)の神になる」契約を結ばれた。

新約の時代、その契約はキリストによって異邦人(イスラエルの民以外の人たち)に及んだ。

ユダヤ人は今も多くの人が旧約聖書を信じているので、キリストを認めず、キリスト教もクリスチャンも認めない。

ローマ人の手紙ではイスラエル人が神に選ばれた民であることは変わらず、神の特別な計画があると言う。(ローマ11章)

それはともかく、アブラハムの神様を信じたことが神様から見たら、「それで良し」となり、神様に受け入れられた。正しい者、良い人間、立派な人であったからではない。アブラハムの行いは一切そこに起因しておらず、ただ“信じた”ことだけでオッケーとされた。

キリスト教は宗教ではないと良く聞く。宗教という定義に“何かする”ということが含まれているとしたら、キリスト教は宗教ではない。

“する”世界ではなく、“信じる”世界だから。

もっと平たく言えば、神様を信頼していく世界…それがキリストを信じる人たちの世界である。

行いによって神様に認められた訳ではないのだから、クリスチャンは自分に誇れるものは何もない。誇れるのは、キリストの十字架で赦してもらったこと、また、そのように憐れみの計画をたてられた神様である。

もし自分を誇るクリスチャンがいるとしたら、それは怪しいかもしれない。

“ただ信じた”そのことから出発し、今もそのことのみ神様から求められているのだから。

神様、天地の創造主であられるあなたと、親しく交流し、信頼する信仰も与えてくださりありがとうございます。聖書では、何かをすることを第1としてはいません。ただあなたを信じてついていくことだけです。ただ信じてあなたのことばにとどまるだけです。この“信じる”ということは、“何かをする”ことで自分たちを保ってきた私たちには難しいことでもありますが、神様との信頼関係に人々が入り、神様を喜べますよう祝福してください。

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2009年1月22日 (木)

緋のような罪も白くされる

信仰の人ダビデの罪の告白が、詩篇に書かれています。

『私はあなた(神)に、ただあなたに、罪を犯し、あなたの御目に悪であることを行いました。…

ヒソプをもって私の罪を除いてきよめてください。そうすれば、私はきよくなりましょう。

私を洗ってください。そうすれば、私は雪よりも白くなりましょう。』旧約聖書詩篇51:3~7

聖書に出てくる人物の中で、最も魅力的な一人と言われる信仰の勇者ダビデは詩人でもあった。

ダビデは王サウルに殺されそうになっても、ひたすら惨めに逃げながらも、チャンスがあっても、神が選んで立てた王サウルに手をかけなかった。

サウルの息子、ヨナタンとは生涯の親友としてその友情をつらぬく。

ときに泣き、ときに神に喜び踊り、ときに気が狂ったふりをして逃亡劇を繰り広げ、神様を信じて感情豊かに、勇敢に信仰をつらぬいた。

彼の生き生きとした神様への信仰は詩篇に残っている。

そんな彼も、王となり、優雅なある日、一人の人妻に心引かれる。その夫を激戦の戦場の先頭に立たせ、死ぬようにした。

その人妻を自分のものとしたとき、預言者ナタンが、ダビデのもとにきて、その罪を指摘した。

ダビデが神様の前に、自分の罪を自覚し、砕かれたときの詩がこの詩篇51篇である。

ダビデのしたことを神様は叱責した。その見返りもあった。が、神様はそのことを赦された。

昔、常識的なクリスチャンが「あんな悪いことをした人は赦されないわよね。」と具体的な罪に対して話していた。

神様は殺人も姦淫(かんいん)の罪も赦される。違う言い方をすると、正しい神様からみたら、小さなウソも、殺人も同じ重みのさばきに値する罪なのである。

しかし、今や、それらのすべては、イエス・キリストの十字架によって処理され、赦されたのである。

聖書のテーマの一つは赦しであるが、赦されること、それは神様との親しい回復につながり、本来の自分を取り戻し、神様と共にあり、その力も受けることである。赦されることによって、さばきは遠くに去っていく。緋(ひ)のように真っ赤な罪の心は雪のように白くなる。

神様、あなたは聖であり、善であり、小さな悪も受け付けない方ですが、キリストの十字架のゆえに、私たちが赦され、罪なき者と見なされ、受け入れられていることを感謝します。神様のこの赦しが多くの人の祝福になりますように。

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2009年1月15日 (木)

奪われない喜び

どんな状況でも喜びに満たされることは可能でしょうか。

『いつも主(神)にあって、喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。』新約聖書 ピリピ人への手紙4:4

聖書では、誰にも奪われることのない喜びについて書いている。

パウロはピリピ人の教会のクリスチャンに手紙を書いた。テーマは「主にあって喜びなさい。」ということだった。

驚くことに、パウロはこの時、獄中の中にいた。キリストを信じ、宣教しようとする故に、殺されるかもしれない状況の中にいた。

が、それにも関わらず、パウロは喜びに満たされていた。

『たとい私が、あなたがたの信仰の供え物と礼拝とともに、注ぎの供え物となっても(殉教しても)、私は喜びます。…

私はどんな境遇にあっても満ち足りることを学びました。…私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。』ピリピ4:11~13

何故、パウロはそんな状況の中で喜べたのか?それはパウロが環境には頼っていなかったからである。

『しかし、私(パウロ)にとって得であったこのようなもの(パウロの血統と経歴)をみな、私はキリストのゆえに、損と思うようになりました。

それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。』ピリピ3:7.8

パウロの告白である。神様に対する熱心で、クリスチャンを迫害したパウロはダマスコでイエスと衝撃な出会いをし、以来、自分の道からイエス・キリストの道に180度方向転換し、キリストとともに歩んだ。命を捧げても惜しくないほど、キリストの素晴らしさに生かされ、喜んでいる。

地位も名誉も富も、クソ食らえ!と言わんばかりに、ただキリストに生きている。

環境に頼ると、環境が崩れたときに自分も倒れる。自分に頼ると自分が不調なときに落ちていく。

昨日も今日も明日も、変わることのないキリストの素晴らしさに喜んで生きていくとき、環境や自分を越えた変わらない喜びに満たされる。

私たちが、この素晴らしいキリストの喜びに満たされるために、この世の大事にしているしがらみを一つずつ、手放していきたいものである。

神様、私にも、パウロのような変わらないキリストの喜びに満たしてください。そのことを邪魔しているものがあったならば、教えてくださり、手放せるように祈らせてください。聖書が約束しているキリストの喜びが一人一人の上にありますよう祈ります。

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2009年1月10日 (土)

ダメージを受けた過去に訣別する方法

ダメージを受けた過去からの訣別、そして新しい世界を神様は約束してくれています。

『しかし私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはなりません。…割礼を受けているか受けていないかは、大事なことではありません。大事なのは新しい創造です。』新約聖書 ガラテヤ人への手紙6:14.15

小さい時の状況は、子どもはあまり客観的に見れないので、家庭の中での欠乏があってもあまり気がつかない。そして、大人になってから、今の自分の傷はあのことから来てるとしみじみ思ったりする。

私は価値観の違う母からのダメージが大きいと思っていた。が、根底に父、母それぞれからの影響による傷があることを3年前はっきり知った。(たくさんの傷があったが、一つずつ癒されて、残ったのが2つだった。)

母からの影響は“権威者を裁く”、父からの影響は“ある一部の人に取り入ろうとする”ことだった。

『私はねたむ神だ。』と語られ、癒された(2日前のブログに書いた)が、それ以前に、境界線が崩れていて、そこから人に取り入ろうとしている自分がいつも誰かに支配されているのを感じていた。

ある時、聖霊様によってだと思うが、小学6年の私が居間で父とテレビを見ている場面がはっきり映像として浮かんだ。

そのときの私は父を受け入れていなかった。かつて本好きで、子煩悩な私の尊敬する父は、精神の病で別人になっていた。

そのときの私は、聖書にある赦しの神様を知らなかった。が、そのときの自分になって祈った。

「父を主の十字架のゆえに赦します。父は病気になり、別人になってしまいましたが、父は神様に祈ることも出来ず、誰にも理解されず、孤独に苦しみました。

また、私も主の十字架のゆえに、赦してください。子どもで父の苦しみがわからなかったし、神様がいてくれたのに祈らなかったことを赦してください。」と祈った。

次の瞬間、神様の霊に満たされた。

そのような中で、人ではなく良いものをくださる神様から良いものをいただこうとなっていった。

父から得られなかったものを、人からもらおうと思ってももらえない。私は人からの支配から自由になりつつあった。

最近、このガラテヤ書のことばの意味を教えられた。割礼とは、神様がいない時代。規則や人間の努力の行いの世界。私たちはそこを脱出して、神様に応答して生きていく世界に移される。

神様と親しい関係を持つ新しい世界には、自分や人の弱さに縛られない…ただ神様からくる愛情を感謝して受けていく世界があるのだ。

神様、私たちは過去のさまざまなことに縛られやすい者です。が、イエス様が十字架にかかり、私も過去に死ぬことが出来て、ありがとうございます。今、私たちは過去の不幸や欠乏や人間の失敗から切り離され、神様との関係の中で愛されて生きていけることを感謝します。この真理の恵みによって、多くの人が過去から切り離され、新しい世界に生きられますように。

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2009年1月 2日 (金)

生きていく上で不可欠なもの・2

聖書のテーマは“救い”ですが、それは“赦し”ということとつながっているのだと思います。

『ひとりのみどりご(イエス・キリスト)が、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。』旧約聖書 イザヤ書9:6

聖書は長い年月をかけて、何人もの手によって書かれている。にもかかわらず、そのテーマは一貫している。

一言でいえば“救い”である。何からの救いか?

いろいろな言い方があると思うが、“出エジプト”を思い出してもらうとわかりやすい。奴隷からの救い、異国からの救い、縛りからの救い…。聖書では、『あなたがたはかつては罪の奴隷だった』(ローマ6:17)と言っている。

神様は私たちを神様と交流し、喜ぶ存在としてお造りになった。が、そこからはずれた私たちは、迷い、本来の自分を見失った。(神様の側からいうと、怒りをかい、罰せられる存在)

本来ある神様の領域に戻し、そこに憩わせることが神様の計画だった。

このテーマとなっている“救い”を別の言い方に変えると、関係の回復…神様と私の関係回復…と言えると思う。

人は関係の中で生きている。家族関係が痛むとダメージを受ける。学校での友人関係、会社での人間関係がきついと楽しくない。

本来造られた目的である(存在理由)神様と交流を回復することなしに、私たちは本来の自分をとり戻せない。

イエス・キリストの十字架による赦しなしに、私たちは神様と交流することができない。

私たちがアメーバから偶然進化したのなら、私たちの生き方のすべては偶然の意味のない重なりでしかない。

自分の出生を探り、生育を考えるように、その出発が、神様が私に計画をもって私を誕生させた…そこから始まるなら、私は意味ある存在、計画された存在、特別な価値ある存在なのだ。

“救い”を別の面から見ていうと“赦し”である。キリストによって、赦され、救われた。

言いたかったことは、キリストの十字架…これにまさる奇跡はなく、それだけが素晴らしいということ。何故なら、赦しなくして、私を造られた神様にお会いし、親しく交流することはなかったのだから。

神様、ある方が「私たちは罪が赦された。天国いける。こんな素晴らしいことはない。」と話しをされてるのを聞いて、私は疑問に思いました。皆、そんなに泣いて喜ぶほど、罪赦されたいかと…。でも、今、罪赦されたということは、造ってくださった神様と関係回復をすることであり、本来の自分を見い出すこととわかりました。赦され、神様を近くに親しく慕い、語らい、交流できる幸いを何より感謝します。それゆえに、その橋渡しをしてくれたイエス様を感謝します。

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2009年1月 1日 (木)

新年の祈り

新しい年にあたって、神様への祈りを書きたいと思います。

『その永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ることです。』新約聖書 ヨハネの福音書17:3

神様、新しい年も生かしてくださりありがとうございます。

神様との日々の交流をありがとうございます。

イエス・キリストの故、日々赦され、受け入れられて、安心の中にいられることを感謝します。

聖霊様と聖書のことばを与え、私を教え、導いてくれることをありがとうございます。

神様が与えてくださった家族、出会い、祈り、働きをありがとうございます。

神様、私を傲慢から守り、あなたとふさわしい関係の中で、あなたを楽しみ、喜べますように。

あなたと心一つになれるように、あなたの祈りが私の祈りとなりますように。

あなたの喜びを私の喜びとなれますように。

あなたの秘密を教えてください。

あなたを教えてください。

聖書のことばにあなたがいます。あなたを探しだすものはあなたを見い出すとありますからありがとうございます。

ますます神様とイエス・キリストの深さ、広さ、高さ、長さを知れますように。

神様が崇められ、イエス・キリストの十字架こそが私たちに与えられた最大のプレゼントであることがあらわされますように。

私を通して、永遠のいのちである神様とキリストがあらわされますように。

私たちの生活のすべてに働かれる神様が、誰も気がつかない小さなことにも、誰も解決できない大きなことにもいて、働いてくださっていることを表してください。

神様がくださる良いものを感謝します。すべてを感謝し、イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン

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2008年12月31日 (水)

生きる上で不可欠なもの

人が生きていく上で不可欠なもの…大切にされている、必要とされている、受け入れれている…というようなことと思います。

『こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です。』新約聖書 第1コリント人への手紙13:13

2008年も残すところ、12時間を切った。

年の終わりにふさわしい何か?を書きたいと思いつつ、このテーマにした。

人間に最も必要なもの…それは愛されていると言うこと…もっと平たく言うと、受け入れられている、認められている、大切と思われている、理解されている、必要とされている…と言ったところだろうか。

人間だけは、未熟児で生まれ、世話してもらわないと育たない。周りとの関係の中で、家族の中で、誰かに育てられる関係の中で養われる。

温かい家庭で育つに越したことはない。そういう人は自然に愛されていること、受け入れられていることを身につけ、安心感と自信の中で生きていけるのかもしれない。

残念ながら、子どもは親や家族を選べない。理想的な家庭で育たなかった人もいる。そこには、受け入れられたい、理解されたい渇望がいつまでも続く。

しかし、神様は不公平な方ではない。そんな特有の渇望をご存じである。そして、求めるものに、内から湧き出る泉の如く、神様の愛を溢れさせてくださる。

なんだか日本全体が今渇望の時期のような気がする。

そして、愛への渇望を知っているものだけが祈れる祈りがある。

私たちの小さな祈りが、そのひとしずくが、川の流れとなって人々を癒し、慰め、生かしてくださいますように。

『しかし、わたし(イエス)が与える水を飲む者はだれでも、決して渇(かわ)くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。』ヨハネ4:14

『だれでも渇いているなら、わたし(イエス)のもとに来て飲みなさい。
わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。』ヨハネ7:37.38

神様、私たちは無力なようでも、神様の約束の真実のことば、神様の力、神様の知恵、神様の財産をいただいていることを感謝します。神様がすべての人を大切に思っていることが、神様を知らない人も知ることが出来ますように。一人一人が大切にされている、赦され受け入れられていることを知ったら、そこに本当の平和が来ます。私たちに祈りを与え、祈らせてください。

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2008年12月29日 (月)

宝の箱をあけて…

誰もが神様から与えられた宝物があり、それを捧げることを神様は喜んでくれます。

『すると、見よ、東方で見た星が彼ら(東方の博士)を先導し、ついに幼子のおられる所まで進んで行き、その上にとどまった。…そしてその家にはいって、母マリヤとともにおられる幼子(イエス)を見、ひれ伏して拝んだ。そして、宝の箱をあけて、黄金、乳香、没薬(もつやく)を贈り物としてささげた。』新約聖書 マタイの福音書2:9~11

星に導かれ、東方の博士たちは、救い主であるイエス赤ちゃんのおられるところに来て、イエス赤ちゃんを礼拝した。そのときに、王にふさわしい黄金、乳香、没薬を宝の箱から出して贈り物として、ささげた。

私たちが宝の箱をもっているとしたら、そこには自分の最も大切なものを入れる。何があるだろうか。

アブラハムにとって、最も大切だったのは祝福の約束の子どもイサクだった。彼は神様に試され、モリヤの地でイサクをささげようとした。

ヤコブにとっては長子の権利(長男が引き継ぐ神様の祝福)を兄から奪い、命からがら逃げたが、故郷に戻る際、神様と相撲を取り、神様の祝福を受けた。

モーセは王宮の身分を捨て、同胞の民ヘブル人を救おうとして、人殺しと呼ばれ、一度は逃げ出したが、やがて出エジプトするため、イスラエル人のリーダーとなっていく。

私たちの宝の箱には苦難と試練がつまっているのかもしれない。そして、訓練され、清められ、王なるイエス様に捧げるにふさわしいものになるのかもしれない。

私は「神様のことを話したい、伝えたい」と言うのが一番の願いだった。20年前、韓国で、神様の祝福の約束をいただいた。が、神様を伝えるまで、たくさんの癒しや訓練が必要だった。私の宝の箱は、神様にふさわしく整えられてから開けられたのかもしれない。

神様、私たち一人一人に特別に大切なものを与えてくださりありがとうございます。それは皆違っています。神様がその一人一人に与えられた宝の箱の中身が、訓練され、清められ、王なる神様にふさわしい贈り物と整えてくださることを感謝します。

与えられているその人だけの宝物を大切にし、また、それによって、神様が喜んでくれる贈り物となりますよう祝福してください。

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2008年12月28日 (日)

真実のために闘った マルチィン・ルター

宗教改革者マルチィン・ルターについて思い巡らしました。

『あなたがたも生ける石として、霊の家に築き上げられなさい。そして、聖なる祭司として、イエス・キリストを通して、神に喜ばれる霊のいけにえをささげなさい。…あなたがたは…王である祭司…です。』新約聖書 第1ペテロの手紙2:5.9

今日、“万人祭司”(特別な人ではなく、誰でも神様と交流できる)と言った宗教改革者マルチィン・ルターのことを思った。

16世紀、カトリック教会の免罪符(お金で罪の赦しを買わせる)に対して批判し、対抗したルター。当時はラテン語でミサが行われており、一般大衆は司祭からありがたく、聖書のお話しを聞いていた。ルターは、自国語(ドイツ語)で聖書を訳し、聖書を特別階級の者だけでなく、誰でも読めるようにしてくれた。

ルターがいなかったら、私たちは今のように自由に聖書を読み、自由に祈ることは出来なかった。ルターさん、ありがとう!

また、彼は、「ローマ人の手紙」から「善行によらず、信仰によってのみ神様から義とされる」という聖書の福音の本質を説いた。

しかし、彼は当時はカトリックから断絶され、異端者とされた。ルターは「聖書のみが唯一の権威」であることを、社会的迫害の中、変えることがなかった。

なんでも、新しい道を切り開くときは風あたりが強い。

野茂選手がメジャーに行くときは、野球界からも、マスコミからもこれでもかと叩かれた。が、彼の作った道筋のおかげで、今や活躍する人はメジャーに行くのが普通になった。あのとき、野茂選手に悪態をついた人は、きっとそのことを忘れているだろう。

真実なこと、良いことが時代の中で受け入れられないことがある。その道筋を作ってもらったおかげで今の私たちがいることを思うと、改めて、ルターの真実のための戦いに感謝する。

神様、今私たちは“万人祭司”とされ、聖霊によって、直接神様から聖書について教えてもらえることをありがとうございます。

また、「信じることによって神様から義とされる」というのは、いつの時代にもぶれやすいのだと思います。人は信じるより、何かをすることによって赦されることがわかりやすく、簡単だからです。

神様、私たちも真実のための戦い(聖書にあることを守る)のために勇気を与えてください。

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死の恐怖からの解放

聖書では死の恐怖からの解放について約束があり、信じるものには、平安の体験が与えられます。

『祝宴の家に行くよりは、喪中の家に行くほうがよい。そこには、すべての人の終わりがあり、生きている者がそれを心に留めるようになるからだ。…知恵ある者の心は喪中の家に向き、愚かな者の心は楽しみの家に向く。』旧約聖書 伝道者の書7:2.4

人はいつかは必ず死ぬ…これは変えることの出来ない事実である。が、多くの人は、健康に時間をかけたり、老後の準備をしたり、保険を注意深く見直したり、年金について考えたりするが、死についてあまり考えない。

考えてもそれを回避することは出来ないし、絶望的になるばかりだからかもしれない。

聖書では、祝宴の家に行くより、喪中の家に行き、死について心に留めよとある。

人は生きたように死んでいくとするなら、自分の死についても考えることが、どう生きるかにつながると思う。

ハ・ヨンショ師の「幸せな朝」に次のような一文がある。

「死を考える人は知恵のある人です。人間が死の前であわてるのは、死について深く考えたことがないからです。しかし、死について考えてきた人は、死が現実として迫って来ても恐れません。」

聖書では、私たちは偶然生まれ、偶然死んでいくのではないと言っている。また、死がすべての終わりにならない道があると約束している。

死に解決がないなら、私たちは何に向かって生きているのだろうか。いつか突然訪れる死に向かって、恐れと隣合わせに生きていくのだろうか。

もし、私たちが、自分にとってたった一度の人生を大切に思い、注意深く生きたいと願うなら、聖書に書いてある“死の恐怖からの解放”の約束について検討しても損はないだろう。

『イエスは、死の苦しみのゆえに、栄光と誉れの冠をお受けになりました。その死は、神の恵みによって、すべての人のために味わわれたものです。…これは、その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人人を解放してくださるためでした。』ヘブル人への手紙2:9~15

神様、私たちはすべての人が通らなければならない死に対して、恐怖があります。神様、どうぞ、死の恐怖から解かれたいと願う人に、解放の約束があることを教えてください。永遠の命…天国は死ななければわからないのでなく、生きながらにして、イエス様と一緒にいる安心の中に体験できることを感謝します。どうぞ、この死の恐怖からの解放が一人一人にとって現実のものとなるよう、私たちを導いてください。

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2008年12月24日 (水)

闇の中の光・メリークリスマス

クリスマスの夜にあなたのためにお祈りします。

『やみの中を歩んでいた民は、大きな光を見た。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が照った。…ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。』旧約聖書 イザヤ書9:2.6

神様、この絶望的な暗闇にイエス様が人となられ来てくださったことをありがとうございます。

私たちの失望の闇にも、欲望の闇にも、病、老い、死の闇にも、憎しみと争いの闇にも解決を与え、消えない希望を与えるために、イエス様が光として来てくださり、ありがとうございます。

どうぞ、このブログを見ている人の闇の中にイエス様が光を与え、慰めを与え、希望を与えてください。

イエス様こそがすべての解決です。解決が見い出せずない人に、共にいて見捨てない神様が一緒にいてくださってることを思えますように。

神様、今100年に一度と言われる不況の中、住むところもなく、食べるものもなく絶望の中にいる人たちがたくさんいます。

今こそ、神様が愛なる方であることを表してくださり、神様が私たちに与えてくださってる祈りと愛が現れますように。一つとなる祈りを与えてください。

今日、孤独な夜を過ごす人に、ひとりではないことを教えてください。

メリークリスマス。あなたの中のイエス様があなたとまわりの人に希望を与え、喜びが溢れますようお祈りします。

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2008年12月21日 (日)

傷ついた癒し主

多くの辛い体験は良いものを生み出す話しです。

『私たちの大祭司(イエス・キリスト)は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。』新約聖書 ヘブル人への手紙4:15

昨日のハーベストタイム(キリスト教テレビ番組)で見た話し。

一人の女性の宣教師の人は、今、“祈りのハープ”を通して、神様へ導く働きをしている。

彼女は、自分のお子さんが7才のとき重い病気になった。その時、たくさんの方たちに祈られ支えられた経験をした。そして、人のために祈る大切さを知り、今ハープ演奏を通して祈る活動をしている。

あるとき、山谷にあるホスピスハウス、「きぼうのいえ」に祈りのハープを演奏しにいった。一人の人のために、その人に合わせて演奏する。一人の山谷でのホームレス暮らしが長かった男性がいた。彼は演奏を良く聞いていた。そして、彼は心が変えられ、周りの小さなことに感謝するようになった。その2週間後、天に召された。

もし、祈りのハープを奏でる彼女は、苦しいとき、たくさんの人に祈ってもらう経験がなかったら、“祈りの奏者”としての活動はなかった。

イエス様は私たちのすべての苦しみを知っている。罪は犯されなかったが、私たちが経験するすべての試みを経験され、同情してくださる。イエス様こそが、“傷ついた癒し主”である。

私は若いときは、壁にぶつかってばかりでよく傷んでいた。賢く悟り、上品に歩く人を見て、どうして自分は失敗ばかり繰り返さなくてはならないのだろう。失敗を体験しないと悟れないなんて情けないなぁと思った。

しかし、今、私がたくさんの辛い経験が誰かの理解や慰めになっていることを痛感する。

人は、やっぱり経験しないとわからないことが多い。

今、痛みの中にある人はみんな“傷ついた癒し主”になれる人たちである。

真珠は分泌物を出してあの綺麗な真珠を生み出すと聞いたことがある。

苦しみと悲しみのたくさんの涙から生み出されたその人だけの慰めという真珠が輝きますように。

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2008年12月13日 (土)

傲慢による損失

傲慢は怖いです。大切なものを失います。

『あなたのしもべを、傲慢の罪から守ってください。それらが私を支配しませんように。そうすれば、私は全(まった)き者となり、大きな罪を、免(まぬが)れて、きよくなるでしょう。』旧約聖書詩篇19:13

私が自分にくる誘惑でもっとも怖いと思うのは“傲慢”。神様にとても祝福され、用いられていた牧師が傲慢のゆえに、転落していったのを見た。そして、それが人間の持っている共通の弱さだとも思う。成果が上がり、結果が出て、人から認められ、すべてが順調なようなとき、人は心にスキができる。

ある教会に属していたときのこと。神様の導きだったと思うが教会のみんなで一つの奇跡を願った。私はそのことが起きたとき、一番危ないのはそこの教会の牧師だと思った。日頃から癒しや奇跡をしたいという欲求が見え隠れしていたので。「あのー、現地着く前にもう一度祈りませんか。」と私は皆に言った。そして、何か起こっても、ただ神様だけが崇められるように祈った。私たちの期待の高まりに反して、目に見えた奇跡は起こらなかったが…。

傲慢は知らず知らずのうちにやってくる。そして一番大切な物を失う。神様とのふさわしい関係を…。神様との親しい交わりを。

神様、弱い私をお守りください。順調なときも、逆境なときも、傲慢にならず、神様とともにいることが出来ますように。

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2008年12月 7日 (日)

ボーダーライン人間の考察 2

私たちは限界だらけですが、イエス様は違ったことにホッとします。

『しかし、上(神)からの知恵は、第一に純真であり、次に平和、寛容、温順であり、また、あわれみと良い実とに満ち、えこひいきがなく、見せかけのないものです。』新約聖書 ヤコブの手紙3:17

昨日のブログで、「ボーダーライン人間の考察」を書いた。ボーダーライン友人2人とメールのやり取りもしながら、また、いろいろ考えた。

私たちは限界のある存在だから、理解にも限界がある。人は痛みを経験した分、優しくもなれるのだと思う。どんなに人がいい方でも、辛い経験をしなかった人、または辛い経験にしなかった人(私の知り合いで、困ったことはすべて人の性にして、「私の人生ケセラセラよ」と言ってる人がいた)には人の痛みは想像がつかない。常識だけ重んじて生きてきた人には非常識にならざるおえない弱い人は理解できない。

痛みの経験はときとして、人を成長させ、他者への理解を増させる。

イエス・キリストは理解において、限界のない方だった。イエス様は皆から白い目で見られたり、避けられたりするような人たちの心の叫びを聞いて、その時々適切に接して、人々を救った。

不正をして性格も悪かったザアカイの家にイエス様は特別に行かれた。姦淫をした現場を捕まえられた女に人々が「石打ちですよね、イエス様」と言うのを、イエス様は赦された(そのあとのご自分の十字架によって)。サマリヤの女とは、ユダヤ人は付き合わない常識があったのに、しかも周りからもさげずまれていた女であったのに、イエス様は一人の人として会話され、彼女に喜びを与えた。悪霊にとりつかれた人はひどく狂暴で誰も寄りつかなかった。が、イエス様は彼らを支配している悪い霊を見抜き、追い出された。

イエス様はこの世のつまはじきにされたような人たちを受け止め、包まれ、立ち上がらせた。

イエス様は分け隔てなく、特に弱さを負い、苦しんでいる人に手を差し伸べられた。

金持ち、身分の高い人、有能な人、品格のある人のみオッケーなどという教会がもしあるとしたら、それは世の中の価値観と変わらないものを大切にしていることになる。

私自身は限界だらけで、だから元気な教会にも馴染めず、病みすぎてる人々には無力だが、イエス様には限界も制限も偏見もなく一人一人を救われる。

『医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招いて、悔い改めさせるために来たのです。』ルカ5:31.32

誰にも理解されないような苦しみの中にある人にこそ、イエス様の救いが現れますように。

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2008年12月 6日 (土)

ボーダーライン人間の考察

人を理解する、とても難しいことですが、私の求めるものです。

『「だれでもわたし(イエス)について来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。自分のいのちを救おうと思う者は、それを失い、わたしのために自分のいのち自分のいのちを失う者は、それを救うのです。」』新約聖書 ルカによる福音書9:23.24

まえにボーダーラインの話しをブログで書いた。(9/21.10/5)私は教会にかろうじて通っているが、教会の外にいるクリスチャンのほうが理解できる人間(元気に教会に通っている人たちに何故か居心地良さを感じない、神様は100%素晴らしいが…)だということ。それを教会の中と外の間にいるボーダーラインで表現した。

この記事を通して、「光の中を歩め」のまこさんやノンクリスチャンの友人に共感して頂いた。元気すぎる人の中にはどっぷり入りきれず、かと言って痛み過ぎてるところにも入りきれないと。自分の立場を理解してくれる人がいるのは大きな励みとなった。

そんなボーダーライン人間の考察である。ABCDの人がいる。A(教会で元気に問題なく過ごす人)、B(教会の元気さに馴染めず、それでもなんとか教会に行っているボーダーライン人間)、C(教会には行けない…というか行かないクリスチャン)、D(教会は勿論、人間社会からはみ出している、社会適応が難しいクリスチャン)。

かつて私はDの領域の人と接していた。

彼をDさんとする。Dさんは親から虐待されて育った。社会適応が難しく、幾つかの教会からも出入り禁止状態になっていた。依存的傾向が強く、私にも一時、四六時中電話がかかってきた。男性だということもあり、最終的には私は相談を受けきれないとお話ししたが。

が、彼の信仰=神様への信頼はまさに幼子の如く、シンプルだった。

「sebaさん、神様はみんなのことをイエス様によって赦しているんですよね。ぼく、間違っていないですよね。だから、ぼくも牧師も赦されているんですよね。」

彼は精神的にも病んでる部分があったせいか、言動が一般の人には理解されず、その牧師にも嫌われ、拒絶されていた。が、彼のほうはちゃんと、人間的視点でなく神様の視点で信仰を捉えていた。

私Bは彼の良さが理解できるところもあったが、わからないところもあった。同じ親から虐待された友人CさんはDさんを信仰の目で見て、とても良く理解し、祈っていた。

私はまずCの領域の人と交流し、痛みと傷の理解を深められるように祈ろうと思っている。

B(ボーダーライン)にはBの負う十字架(イエス様の一部を負って役割を果たすこと)がある。一足飛びに、DとかEとかまで理解出来ないかも知れない。それでも人の痛みを理解したいと願う。そして、神様が私を変革してくれ、その理解を少しずつ広げられることを願う。それが私のイエス様から預かった小さな十字架だから。

神様、私の痛む人へ理解は限界がありますが、神様はすべての人の痛みと苦しみをご存じなことを感謝します。教会の中の人のなかには、教会に来ている、来ないで信仰を判断している人もいるかもしれません。が、神様は人の心を見ています。教会の外にいる人たちの与えられている信仰を祝福してください。

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2008年12月 3日 (水)

「何のために生きているか?」

「何のために生きているか」聖書はこの大問題の答えを持っています。

『その永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ることです。』新約聖書 ヨハネの福音書17:3

「何のために生きているのか」大学中退し、大都会東京に出てきた私は、にぎやかな東京のど真ん中で、一人ポツンと毎日そのことばから考えていた。

「何のために生きているか」家族に愛され、毎日が楽しい人には決して湧いてこない問いではないのか?

あの五里霧中のなかで毎日私は苦しみもだえた。そして、にっちもさっちもいかないドンズマリの中でイエス様に会った。その日が「私は何のため生きているか」から、「誰のために生きているか」に変わった日である。

この前、親に虐待された友人に会い、彼女が「何のために生きているかはわからないが神様に生かされているんだよね。」と言うようなことを言った。「何のためにって、神様に愛されるためじゃないの?」と私はペロリと要らぬことを言ってしまった。それは彼女がゆっくり探せばよい話しだった。

私はイエス様に会った日、本当に「何のために生きるか。」はっきりわかり、「今日から神様のために生かしてください。」と祈ったし、その日以来私の気持ちは神様のため生きると定まった。

が、同じクリスチャンでも、その見い出す時、場所、そしてもしかしたら答えも違うのかも知れない。

「何のため生きているか」わからずに生きることは私には耐え難い。アウシュビッツの収容所かどこかで、人々に課した労働がレンガを一方に運び、また、元のところに戻すと意味の無いことをさせ、苦しませた話しを聞いたことがある。意味が分からず、繰り返すことほど、苦痛なことはない。

だから、人々は「何のため生きているか」わからないまま、毎日同じ繰り返しをよく出来るなぁと感心する。

求めるものに与えてくださる神様、「何のために生きているかわからない」と苦しむ人々に神様の永遠の答えを与えてください。今、毎日が楽しくてそんな問いを考えたことがなかった人も、病や困難や死が近づくと考えるのだと思います。すべての終わりがやってくる前に、「何のために生きているか」この人生の大宿題に解決が与えられた人は幸いと思います。神様、闇の中、孤独の中、苦しむ人に「神様が答えだ」と現れてください。あのヨブがすべてを失い、苦しみの中で圧倒的な神様の現れを見い出したように。

『私(ヨブ)はあなた(神様)のうわさを耳で聞いていました。しかし、今、この目であなたを見ました。』ヨブ記42:5

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2008年12月 2日 (火)

神様の御声が聞けない理由(「幸せな朝」より)

神様との会話を神様は切に願っています。

『しかし、助け主、すなわち、父(神)がわたし(イエス)の名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。』新約聖書 ヨハネの福音書14:26

私はクリスチャンに成り立ての頃は、祈りについて学びをし、本を読み、なんとか30分位は祈りたいものだと思った。が、自分の思いに溢れていて、あまり祈れなかった気がする。

今は私にとって祈りは一番親しい方との楽しい会話なので、何時間でもオッケーである。親しい人とランチをしていると、時がたつのも忘れる…その感覚である。祈りや信仰すら、ただ神様から与えられるものだから、私が自慢する代物ではないが…。

ハ・ヨンジョ牧師の「幸せな朝」に神様の御声が聞けない理由という記事があった。以下に書いてみる。

1.神様との関係が間違っている。みことばと祈りで周波数を合わせる。

2.罪のため接続が良くない。

3.動機が不純。私利私欲、野望がある。

4.聖書の知識不足。

5.傲慢。

6.信仰をもって従わない。

7.自己放棄がない。プライド、意志を折る。以上

私は先に書いたが、人との良好な関係と、神様との良好な関係はだいたい同じなのではないかと思う。神様との関係が特別複雑で神秘的なものではないと思う。

人との関係で一番大切なのは信頼(信仰)。そして、付き合う動機に不純さがなく、相手にわだかまり(罪)がないこと。相手を理解したいと思うなら、真っ白な心で耳を澄まして話しを聞く(自己放棄)。

神様はもっとたくさんの人と、聖書のことばも使ってたくさん語らいたいと願っている。

神様、どうぞ、キリストによって赦され、私たちが神様と大胆に親しく話せる特権を有効に使うことができますように。信頼が揺らいだら、神様が信仰を与えてください。気がつかない罪や不純な動機があったら、示して取り除いてください。自己放棄させてくださり、神様のことばとメッセージで満たしてください。必要な聖書のことばがあったら、聖霊によって思い起こさせてください。求めるものに与えてくださる神様、あなたのことばを今日もください。

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2008年11月28日 (金)

深い闇がおおう時

イエス・キリストは明るく楽しいところに来たのではありません。深く、深く闇がおおうところに光として来られました。

『やみの中を歩んでいた民は、大きな光を見た。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が照った。…ひとりのみどりご(イエス・キリスト)が私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。』旧約聖書 イザヤ書9:2、6

一昨日、クリスチャンの友人2人と会った。2人とも、親から虐待されて育ち、未だに苦しみの中で、神様に祈り生きている。5日前は、もう20年以上の付き合いになるクリスチャンの友人と会った。とても真面目で仕事を頑張る女性だが、うつになり、しばらく休職して、今、復帰している。彼女のお母さんが幼い人で、彼女は子ども時代から親をやり続けなければならなかった。彼女に本当の子ども時代はなかった。

ブログお友だちになったまこさんもお母さんのことで苦しんでいる。

子ども時代一番安心し、リラックスし、子どもらしく生活することが大切なのに、大切な私の友人たちはその家庭でダメージを受け苦しんでいる。

イエス様は深い深い闇の中に、光として来てくれた。その闇は、他の誰にもどうすることもできないほど深く、悲しく、苦しい闇だ。

そしてイエス様だけがそこを照らし、明るく、温かくできる。

紀元前700年代、イエス・キリストが誕生する700年前、預言者イザヤは神様の霊によって、上記のことばを預言した。それは苦しみに会い、うめく捕囚、イスラエルの民の解放を告げるものだった。が、神様はイザヤを通して、今の私たちに語る。

イエス・キリスト=私たちの苦しみから解放する方は来られた。彼はあなたが生きるための最大の助言者になる。彼は力があり、あなたのことを責任をもって養う父となる。あなたはキリストによって、その心に揺らぐことない、決して誰にも奪われることのない平和を心に与えられる。

今日、闇の中で悲しみ、痛み、苦しむ人にイエス・キリストの光が差し込み、希望が照らしますように。

神様、家族関係で傷んでいる人のために祈ります。温かい家族で育った人にはわからない内なる苦しみが捕らえ、縛っています。なぜ、苦しまなくてならないでしょうか。イエス様によって解かれ、自由となれますように。『彼(キリスト)への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。』イザヤ53:5とあります。このみことばのとおりになり『苦しみにあったところに闇がなくなる。…異邦人のガリラヤは栄光を受けた。』9:1このみことばのとおりにしてください。

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2008年11月27日 (木)

祈りの中で奇跡を見る

私たちが祈るとき、神様は驚くようなことをしてくださるのを、私たちは見るのでしょう。

『私は一つのことを主(神)に願った。私はそれを求めている。私のいのちの限り、主の家に住むことを。主の麗しさを仰ぎ見、その宮で、思いにふける、そのために。』旧約聖書 詩篇27:4

昨日、祈りについてブログに書いた。今日、つたない私の話しの言わんとしてることと似たような記事をハ・ヨンジョ牧師の「幸せな朝」の本に見つけた。わかりやすい簡潔な文を抜粋することにする。

「祈る人にはすべてのことが神様の計画です。」

「祈る人はすべてのことを治めておられる神様の繊細な御手を感じます。…アブラハムが目を上げて見ると、角をやぶにひっかけている一頭の雄羊がいた。アブラハムは…自分の子の代わりに、全焼のいけにえとしてささげた。(創世記22:13)…これは“偶然”でなく“摂理”でした。私たちが祈れば、神様は私たちの日常的にみられるところでも奇跡を行われます。」

今、衰退している私の属する婦人会、多分私は祈っていたと思うが、ある日、突然、ある場所で、相手の方から「sebaさんが入ってること、他の方から聞きました。私、入ってもいいです。」と初対面の方から言ってもらった。(私は知らなかったが、彼女は私を知っていて声かけてきてくれた。)

私は「おぉぉ!神様」と思った。何故なら、何人かを誘ったが、みんな子どもが小さかったり、仕事してたり、まだ小学の役員を消化していなかったり、とにかく忙しい。状況からして「いつか入ってね。」と控えめに声かけする現状だった。なのに、小学2年と6年のお子さんがいて、保育園の給食の仕事もしてるのに、入ってくれるとのこと!「ありがとう。名前だけで、忙しかったら何もしなくていいから。」と私は恐縮した。

「神様、私祈ったからですか?私の中では、現状では無理と思ってました。」と祈りながら、がぜん、元気が出た。

ボランティア精神豊かな彼女には、もうひとつ、発達障害の親の会のほうにも入っていただいた。

同労者にせよ、友人にせよ、誰にせよ、私にとって出会いは神様の摂理を深く深く感じる場所である。

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2008年11月26日 (水)

何でも求めなさい

ある人はこんなつまらない祈りは神様に申し訳なくて出来ないと言うかもしれません。が、神様は私たちに幼子の如く、素直さを求めています。

『あなたがたがわたし(イエス)にとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。あなたがたが多くの実を結び、わたしの弟子となることによって、わたしの父は栄光をお受けになるのです。』新約聖書 ヨハネの福音書15:7.8

神様の前には、祈ってよい祈りと、自己中心的な祈ってはいけない祈りがあるのではないかと思っていた。

あるとき、とてもつまらない願いがふと浮かんだが、自分の楽しみの欲ではないか、祈りにふさわしくないものだと頭をよぎった。それで、祈りもしないのに、その願ったとおりになったときがあった。

その週の礼拝の中で、神様から「あなたの小さい願いもかなえてあげました。だから、何でも祈り求めなさい。」と言われた。

私が何故、取るに足らないと思って祈らなかったか。それはヤコブ書4:2.3に「あなたがたのものにならないのは願わないから。願っても受けられないのは、自分の快楽のために使おうとして、悪い動機で願うから。」とあるからだった。

「みことば(聖書のことば)にとどまるなら、何でも求めなさい!」家に帰ってから聖書を開きながら、私の考察が始まった。

神様とのふさわしい関係にあるなら、どんなことでも大胆に祈る…もし間違っていたら、神様が私の祈りを変えてくれて修正してくださる。どんな小さく思えるところにも神様は働いている。祈らなければ、それがわからない。私がこれは祈ったほうが良いとか悪いとか制限しなくていいということか。

「何でも祈りなさい、そこに神様が現れるから…」と言うことだろう。

神様、私たちの内面にも、外側にも、ちっちゃいことにも、大きなことにも、つまらなく思えることにも、大事に思えることにも祈り、神様がすべてのところで生きて働いていることが明らかになり、神様がほめたたえられますように。

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2008年11月18日 (火)

孤独を抱えたある中学生

一人の少年について書きます。

『悩んでいる者や貧しい者が水を求めても水はなく、その下は渇きで干からびるが、わたし、主(神)は、彼らを見捨てない。わたしは、裸の丘に川を開き、平地に泉をわかせる。荒野を水のある沢とし、砂漠の地を水の源とする。』旧約聖書 イザヤ書41:17~18

一ヶ月程前、息子が通う中学に役員の仕事で出かけた帰り。正門のところである生徒を見かけた。まだ、帰るには少し早い時間で「あれ?早退の子かな?」と思った。彼は無表情で、カバンをさげて前を見ながら、すたすた歩いて正門を出ていった。すると、50メートルの距離をあけて、学校の男の先生が慌てることもなく、走って追いかけるでもなく、等間隔でずっと歩いてその子どものあとをついて行った。

隣にいた私の友人が、短く彼の家庭環境と最近の彼の行動を話してくれた。その話しを聞きながら、その彼は曲がり角を曲がって見えなくなり、しばらくして先生も曲がり角に消えて行った。

あの先生は途中であの子に追い付くのだろうか、誰もいないあの子の家まで行くんだろうか、ちょっと考えた。

両親の様々な事情で、きちんと親に向き合ってもらえずにいる彼の孤独の無言の叫びを聞いた気がした。

学校ではかなり有名で、彼の悪い噂を何人かから聞いていた。

彼の姿を見て、まだ、幼いあどけなさを残し、子どもと青年の境目にいる彼の悲しい心中を思った。

子どもたちは、自分の家庭しか知らないから、自分が親に愛されているか、いないかはわからないと心理学のある本にあった。

人は愛されるため、育ててもらうために生まれてきたのに、一番大切なものを受けられなかったら、生きていけない程辛いと思う。

自分の孤独な状況を客観的にもみれず、心はすさみ、荒れ果てていく、その少年。まわりに先生とか大人はいるがなかなかその隙間は埋まらないのだろう。黙ってついていって、あのあと、先生は追い付いて何を話しただろうか。

彼のように、心に孤独と闇を抱え、どうしていいかわからない子どもたちがたくさんいるのだろう。

何も出来ない私はその子を神様に見せてもらった気がして、思い出すたびにお祈りしている。

神様、子どもが悪い訳でもないのに、親たちや大人たちの事情で孤独な思いをする子どもたちに目を注いでくださり、彼らの深い孤独をおおい包んで、慰めてください。

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2008年11月16日 (日)

「信仰」という名の虐待・その3

マインド・コントロールを受けた友人の話しをします。

『主(神)は御霊です。主の御霊のあるところには自由があります。』第2コリント3:17

先に書いたカルト化した教会に通っていた友人がいる。とても真面目で、教会の熱心からこぼれないよう、必死についていったのだと思う。

あるとき、「引っ越ししたい。」と電話で話してきた。「引っ越しすればいいんじゃないの。」と言うと「神様からことばをもらわないと、みこころとわからないので引っ越しできない。」と言った。

その教会は、徹底して神様の声を聞き、そこに従うという指導をされていた。

それは一見、正しいようでもある。神様に聞いて、そこに従えたら、最短でことが進むのかもしれない。

みこころでなければ、行わない=正しいことのように思うが、何か違うんじゃないかと思った。

一つはみこころ=神様の願っている最善はいつも、すぐわかる訳ではないのではないか。すべてを益としてくれる神様にあっては、失敗の選択すら、益となり、訓練となるのではないかということ。

もうひとつは、みこころは、聖書の中にすでに書かれてあるということ。許しなさいとか、自分のしてもらいたいように、人にもしなさいとか書いてある。そして、弱い私たちはなかなか出来ないその中で、祈り、聖書に従えるよう変えられていくのではないか。

さらに、選択において、AかBの選択でみこころ?と言われるほうを選ばなかったらアウトなのか、罰が下るのか、神様はそんな了見のちっちゃい方なのか。神様にあってはAでもBでもない選択の道を用意してくれているかもしれないし、どっちを選んでも、神様に対する信頼や動機で選ぶなら、喜ばれるのでないか。

すでに、彼女はたくさんのマインド・コントロールの中で恐れを抱きながら、動けずに縛られていた。

神様とクリスチャンは人格的な交流の中で、親しくなり、神様を知るようになる。その交流も、「天の父ちゃん、聞いてくださいよ。」と、自分だけの秘密を話し、神様だけの秘密を明かしてくれる関係である。

聖書の中に真実があり、自由と安らぎの約束があるが、悪用して使われると、神様とは全く違うメッセージが伝わることもありうるということ。

人間が欲望から作った縛りや恐れに気がつき、そこから解かれますように。

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「信仰」という名の虐待・その2

カルト化していったある教会について話します。

『私の兄弟たち。あなたがたのうちに、真理から迷い出た者がいて、だれかがその人を連れ戻すようなことがあれば、罪人を迷いの道から引き戻す者は、罪人のたましいを死から救い出し、また、多くの罪をおおうのだということを、あなたがたは知っていなさい。』新約聖書 ヤコブの手紙5:19~20

私が神学校に通い出したころ、その教会はスタートした。牧師と何人かの神学生たちが、自由に楽しそうに、そして真剣に神様についていこうとしていた。私もその徹夜祈祷会に何度か参加した。

彼らは、神様を信じていた。そして、信じる者に神様は癒しを行い、道を開いてくれるのを信じ心から祈り続けた。彼らの教会は力がみなぎり、活気があり、神様が自由に働いていたかのように見えた。人も集まり、献身者が増えた。

やがて、神学校を作り、預言の学校も始まり、新聞や出版にも携わった。宣教にも熱心で、日本中にも伝道拠点を広げた。

私から見たら(私は別の教会に通っていたが、知り合いが多かった。)神様が、信仰が熱く、熱心に祈り求める彼らの教会に特別、働いているかのように見えた。

が、見えないところでたくさんの歪みが出ていた。献身者と言われる神様に忠実で真面目な人たちは、経済的にも大変で苦しかった。が、神様のゆえと皆耐えた。

牧師たちの女性問題が出た。男女同席するべからず令が発せられた。

献金の使い道でも、怪しいうわさが出てきた。

何よりも、神様を信じる人たちが、神様にかなっていない選択をすると裁かれる恐れが出てきた。

その教会につながる多くの牧師たちが、間違ってると声にしたが、聞き入れられずにまわりの牧師たちは教会を出た。

私の友人は、今でもその後遺症に悩んでいる。

彼らは始めからずれていたのか。私は違うと思う。ただ、自分たちだけが正しいと狭くなって、まわりの助言が聞けなくなったのは大きい。傲慢の罪だと思う。

そして、神様は奇跡を成しているし、自分は特別だ、何をしても赦されると思うその闇を、サタンにつけこまれたのだと思う。

あとは、神様が語っているのか、サタンが語っているのか、自分の思いなのかわからなくなってしまったのではないか。

その教会の中心的な牧師の一人は、私が神学生のとき、よく信仰について語りあった友人である。

宣教、伝道も大切だが、私たちは、自分が成長していくこと、人を受け入れ合うことも神様に願われている。自分が神より先に出て、人を神の名でコントロールしたいその小さな欲望が人を支配したとき、神の名前が利用され、人が利用されるのだろう。

神様、彼らが最も大切なこと、神様と正しい関係でいることに気がつき、悔い改めますように。

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2008年11月14日 (金)

さげずまれ、ののしられながら、神の計画を遂行した方

イエス様が通られた道は、さげずみとののしりの道で、哀れに見える道でしたが、見事、神様の計画(神の義を現す)を成しました。

『彼(イエス)は叫ばず、声をあげず、ちまたにその声を聞かせない。彼はいたんだ葦(あし)を折ることもなく、くすぶる燈心(とうしん)を消すこともなく、まことをもって公義をもたらす。彼は衰えず、くじけない。ついには、地に公義を打ち立てる。島々も、そのおしえを待ち望む。』旧約聖書 イザヤ書42:1~4

力と優しさは相反するもののように見える。権力のあるものは、その権力を行使し、弱者が泣きを見る。そんな世の常を良く見かける。

イエス・キリストは神の子どもであり、神様と同じような力を持っていた。人の形をとって生まれたが、イエス様の一声で神の力を現しても良かった。が、人としての限界の中で生きられた。

最もイエス様が無力であったのは、処女マリアから赤ん坊として産まれたときだった。赤ん坊は誰かに何かをしてもらわないと何も出来ない。人と同じようにそこから始めてくれた。この偉大で無力な赤ちゃんを取り巻き、信仰の人たちは、神様への信頼の中、行動した。3人の博士は夢で示され、ヘロデのところに戻らず、別の道を通って帰った。ヨセフたちは夢で「ヘロデがイエス赤ちゃんを殺そうとしているのでエジプトに逃げて。」と語られ、エジプトに逃げた。信仰の人たちと神様によって、イエス赤ちゃんが守られる神業が成された。

荒野で成人となったイエス様がサタンに誘惑されたときは、旧約聖書のことばで対抗して、サタンを退けた。

イエス様は偽証され、人々の妬みで十字架に張り付けにされたとき、人々から「神の子どもなら、十字架から降りてきて、自分を救ったらいいじゃないか。」と言われた。が、その身を任せ、十字架の上で、殺され死なれた。

イエス様は癒しや奇跡も行われたが、自分が神だということを現すためには、ただの一度も神の力を使わなかった。

イエス様の最大の奇跡は死んで三日目に生き返られたこと。

ときに私たちは神様の大きな力で、神業を成し、この世の悪にギャフンと言わせてやりたいなんて、思ったりする。が、イエス・キリストの通られた弱々しい、哀れなほどに人にさげずまれた、いばらの道に神様は神様の栄光の計画をたてられていた。

イエス様の道は力もなく、弱々しい私たちにとって、慰めに満ちた道である。

恵みに満ちた神様、私たちは事が上手くいかなかったり、自分の弱さを痛感するとき、力とか奇跡とか何か強いものを求めたりします。が、弱さや足りなさや欠けの中に神様の慰めやキリストの犠牲の愛を見い出せることを感謝します。一人一人が、神様から深い慰めで支えられ、前に進むことが出来ますように。

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2008年11月 9日 (日)

拒絶される悲しみ・その2

拒絶する人はその人の中に傷や闇があるからそうするのだと思います。屈しなくてよいのです。

『だが、彼らは私がつまずくと喜び、相つどい、私の知らない攻撃者どもが、共に私を目ざして集まり、休みなく私を、中傷した。私の回りの、あざけり、ののしる者どもは私に向かって歯ぎしりした。
わが主(神)よ。いつまでながめておられるのですか?』旧約聖書 詩篇35:14~17

高校のとき、クラスメイトにAさんという人がいた。彼女は私のことが大嫌いだったらしく、私の横を通るときは、わざと突然避けるようなリアクションをとって遠回りをした。特に彼女と何があった訳でもないが、ありありと拒絶された。

何故避けられたのか、多分、私は生徒会などやっていて、生意気だったからかもしれない。人は自分の嫌なところを相手に見ると、赦せないことがあるらしい。彼女は自分の中にある嫌なものを私の中にみて、耐えられなかったのでは?と考える。その人、一人きりの拒絶だったし、それ以上の何もないが辛かった。

大学を中退して東京に来るとき、後輩から一つの情報を聞いた。「新歓係りの1年のBくんが新歓だったsebaの顔も見たくないって。」彼とは、新入生歓迎実行委員会の引き継ぎのとき、一度会ったきりの男の子で、話しもしたこともなかった。またしても、自我が強く生意気そうな先輩に嫌悪感を抱いたのだろう。その街を去るにあたって、はなむけの言葉として、心で泣いて受け止めた。

最近に至っては、プライドの高い人たちにことごとく嫌われ、攻撃され、無視された。友人に話すと「みんな、そういう人にはそれなりの対応をするのに、あなたは持ち上げたり、気を使ったりしたいからだ。」と言われて、すごく納得した。昨日の偉い方たちも、会議で言いたいことをいって、その人たちの気持ちを逆なでしたのかもしれない。

拒絶されると、なんだか自分が間違ってるような、駄目人間のような気持ちになる。

「人間の赤ちゃんは未熟児で産まれ、世話され、受け入れられる体験の中で生きる。受け入れられてる体験がないと死んでしまう」とある本にあった。

それほどに拒絶される体験は、人にダメージを与える。

私たちは皆不完全。完全な人はいない。誰かが誰かを拒絶したなら、それは拒絶した人の傷や闇がもたらしたもの。

私たちは赦されている。誰がなんといおうと神様は受け入れてくださっている。拒絶の闇から守られますよう祈ります。

『神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか。神が義と認めてくださるのです。罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。』ローマ人への手紙8:33.34

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2008年10月31日 (金)

苦痛の経験が産んだもの

何故、私たちは苦しみに出会うのでしょうか。

『もし私たちが苦しみに会うなら、それはあなたがたの慰めと救いのためです。』新約聖書 第2コリント人への手紙1:6

「姉さん、僕頑張ったからね。」とおじさんが母に話しかけるのを聞いてしまった。

両親が生前の時、父の退職祝いで、親戚が一同に集まったときだったと思う。おじさんが、私に「お前はいったい、何がしたいんだ。」と聞いてきた。私は自分の将来に対する正直な気持ちを話した。その答えとして、おじさんが何を話したかは一切覚えていない。

つまり、母は娘が理解に苦しむ選択ばかりするのを心配して、おじさん(母の弟)に説教を頼んだらしい。

いつでも娘の思いを聞ける近い距離にいながら、全く理解が出来ず心配し、気を揉む母に、どこまでいっても、水と油のように接点がなく、理解してもらうことは出来ないんだと、その現実を改めて突き付けられた気がした。

母は我が子を心配し、母なりに愛情を注いでくれた。が、そのときは、一番理解してほしい人に理解されないことに悶々とした。その影響は大だった。理解されない私はすさんでいった。

「5つの目的」の本に「苦痛の経験こそ、神があなたをミニストリー(奉仕)へと準備させるために最もよく用いられる経験です。神は決して痛みを無駄にはなさいません。」とある。

私にとって、理解される、理解するということは、とても大切なテーマとなった。神様に理解され、人を理解したいと思うようになった。…もちろん、限界はあると思うが。

あの母から理解されない渇望が、理解したい渇望へと変えられた。

もし、苦しみがあるならば、誰かの慰めと救いへとなりますよう、祈ります。

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2008年10月27日 (月)

限界を感じる最近

私にとって、今夢中になっていることは仕えるということですが、限界を感じる日々でもあります。

『勤勉で怠らず、霊に燃え、主に仕えなさい。』新約聖書 ローマ人の手紙12:11

我が息子は、一年半前から始めた将棋に夢中である。昨日も大会に行き、5位入賞で、扇子と蕎麦とハンカチと石鹸をもらってきた。疲れ果てて、そのあと、リビングで寝てしまった。途中目を開け、珍しく寝言をいう。「次の対局相手誰?」夢の中でも対局してるらしい。

「何かに夢中になれることは、よいことだね。」と周りの方々に言ってもらえる。私はといえば、自慢ではないが、一芸がない。

が、今、こうして平和な心で日々を過ごしていることは、かつて動機付けがなく、何も出来なかった日々に比べたら、奇跡のようだ。

だから自分に与えられたもの、癒されたものは、自分のためのものではないと思っている。

基本的に人から頼まれたことは断らないことにしているし、人のために喜んでもらえることなら、自発的にしたいと願っている。

神様が足りない私を愛してくれている、それだけで何でも出来る気がする。

が、何でも出来る訳でもない。今朝、「死にたくなるほど、疲れた。祈ってくれ。」と友人から電話があった。

祈っているけど、足りない祈りに、限界を感じる。神様の内側からの熱い霊によらずして、彼女の苦しみからの脱出を祈ることは出来ないのかも。

人に仕えられる楽しさと、仕えきれない限界を感じる今日この頃である。

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2008年10月23日 (木)

少数派であるということ

自分の誰にも理解されないことを神様は理解してくれています。

『女は答えて言われた。「私には夫はありません。」イエスは言われた。私には夫がないというのは、もっともです。あなたには夫が5人あったが、今あなたと一緒にいるのは、あなたの夫ではないからです。あなたが言ったことはほんとうです。」』新約聖書 ヨハネによる福音書4:18

私は信仰生活27年の中で、教会を5回変わっている。クリスチャンにとって、教会は、夫と一緒にやって行けるか、行けないかと同じくらい大切なこと。私にとって、教会との性格不一致はその時々、泣く泣く離婚してきたような状態だ。

多分、それは教会が悪いというより、今の教会においては、私に与えられた感性というか、信仰が少数派なのだと思う。ボーダーラインの人間は右にも、かといって左のグループにも属せないコウモリみないな存在なのかも知れない。

サマリヤの女は、結婚、離婚を繰り返し、人から理解されず、人目を避けて水を汲みにきていた。そこでイエスと語らう。すべて、お見通しのイエスは女の真髄に迫り、質問する。彼女は5回も離婚していて、周りから理解されなかったが、自分を理解し、受け入れてくれる夫を求め、渇望していたのではないか。

その渇望を満たしてくれるのは、夫ではないと言っているのかもしれない。『今こそ、真の礼拝者が霊とまことによって神を礼拝するときです。』『キリストが与える水を飲む者は決して渇かない。』と言っている。

私はボランティアグループに幾つか入っている。そこでの人との関わりがひたすら、楽しい。教会での少数派的な感覚はない。

私は、教会や牧師にいろいろ求めたり、失望したりしてきたが、霊的な部分では、理解されにくい少数派のものが与えられているのだと思うと、少し気が楽になる。

そして、与え満たし続けてくれる神様から良いものをもらい、少数派の担ってる祈りをしていきたいと思う。

世の中の少数派諸君、神様は理解して、応援してくれてる、頑張ろう。

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2008年10月18日 (土)

孤独にささやく声

孤独をテーマにブログを書くとき、私はいつも東京に出てきたばかりの頃の自分を思い出します。

『エリヤは答えた。「…ただ私だけが残りましたが、彼らは私のいのちを取ろうとねらっています。」主(神)は仰せられた。「外に出て、山の上で主の前に立て。」…しかし、風の中に…地震の中にも主はおられなかった。…火のあとに、かすかな細い声がした。』旧約聖書 第1列王記19:10~12

大学を中退して、東京の3畳のアパートに引っ越ししたとき、孤独は付きまとったが、それ以上に声を出す機会がなかった。

「おめでとうございます。あなたは、たくさんの人から今回選ばれました。」という田舎から出てきた人をターゲットにするキャッチセールスにも騙された。

電話も、メールもなく、声を出さないと人はたまってしまうことを経験した。

姉が遊びに来てくれたとき、どうでもいい話しで話しがブァーとあふれ出て、止まらなかった。

あの頃、日記が私の友だった。

ある人は、物理的にか精神的に孤立して、人と会話をしないこともあるかもしれない。うわべの話しは表面を過ぎていき、心の渇望が深まるばかりとなることもあるかもしれない。

エリアはニセ預言者と戦い、勝利したが、そのあと極度の疲れの中、自殺願望をもった。「旅は遠いのだから、起きて、食べなさい。」と御使いに言われ、そのとおりにし、力を得た。神様は「エリヤよ、何をしているのか」と言われ、そこに答えたのが上記の言葉。

いろいろな自然現象の中に神様はおらず、語りかけがなかった。そして、やっと、火のあとに、聞き取れないような神様の声がした。

自分たちのまわりにどんなにたくさんの人たちがいても、孤独はその内側からやってきて、まわりと遮断する。たくさんの人が声をかけたとしても、その孤独には届かないかもしれない。

だから、その孤独の心に誰かの言葉が、ちょっとでも届くように祈る。かすかな細い声であっても、必要な声が慰め、癒してくれますように。

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2008年10月12日 (日)

誰かに打ち明けたい思い

人が人に何かを打ち明ける、そのことによって重いものが軽くなる、そんなこともあるのでしょう。

『私の言うことを耳に入れてください。主(神)よ。私のうめきを聞き取ってください。私の叫びの声を心に留めてください。私の王、私の神。私はあなたに祈っています。』旧約聖書 詩篇5:1.2

「自分のことを人に話したからって、何も変わらない。」とある友人が言った。「変わるとか変わらないでなく、分かち合うことによって何かが違ってくるのではないかしら。」と私は心の中で思ったが、返すことが出来なかった。

人は人との関係の中に支えられて生きている。心が悩んでいる人は、カウンセラーのところに行って、話しを聞いてもらい気づきが与えられる。クリスチャンの癒しのためのグループでは、自分が話しをするとき、まわりの人は何も言わずに聞いているらしい。誰かに聞いてもらう中で、受け入れられてる体験をし、自分を受け入れていくのかもしれない。

工藤氏の「人を知り人を生かす」の本の中で彼はこう言う。「私たち人間は、不都合を隠したい衝動と同じくらい、打ち明けたい本能を持っている。…疎外と外傷に満ちた現代は、心おきなく自分を受けとめてくれ、その胸の中で泣くことのできる人を求めているのではないか。…一つの秘密を語った時、そこから解放され、もう一段高いレベルに足を踏み入れていく。」

私のカウンセラーは神様だった。悲しい時、苦しい時、迷った時、悩んだ時、いつも、すべてを打ち明け、聞いてもらってきた。

人は神様に造られたから、神様と話(祈る)したいように出来ていると私は思う。

そして、人と人で深いところで分かち合えたとき、一人ではない喜びが与えられるのだと思う。

人と人が深いところで分かち合うとき、その全部をそのまま聞きたいと思う心が大切だ。ときには、私も深い秘密を話すことで分かち合えることもある。私が弱さを出すことで分かち合えることもある。

神様が私の話しを全部聞いてくれたように、私も聞いて祈る者となりたい。

Hana0928

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2008年10月11日 (土)

闇の社会に光が来ますように

暗い話しが多く、闇が覆う世の中で、真実の希望がくることを祈ります。

『そのうちに彼らは言うようになった。「さあ、われわれは町を建て、頂(いただき)が天に届く塔を建て、名をあげよう。われわれが全地に散らされるといけないから。」…こうして主(神)は人々を、そこから地の全面に散らされたので、彼らはその町を建てるのをやめた。それゆえ、その町の名はバベルと呼ばれた。』旧約聖書 創世記11:4~9

私たちの住みかは、急激に変化している。ニュースでは、連日のように殺人事件が報道される。格差社会、高齢介護、詐欺やネット犯罪、なんだか闇がどんどん広がる。弱者と言われる人たちが、生きていくのに、しんどい時代。

日本の豊かな経済成長とともに、生活スタイルも、大切にする価値観も違っていく。そんな中で人間関係が希薄になる。

何から、どこから狂ってきたのか、私にはよくわからない。人間は努力の中、豊かになると、そこから堕落して衰退していくのだろうか。聖書でバベルの塔の話しはそのようなことを暗示している。

秋葉原連続殺人の後、朝日新聞に次のようなコメントがあった。「容疑者が求めたものは承認だと思う。だが安定労働層に、皆が幸せになるためには生活レベルを落としてもいい、との発想はない。自分さえ良ければいいのだ。」(赤木氏)「思いこみと勘違いがあっても、身近に「お前、そんな話しを真に受けているの。」と言ってくれる人がいれば誤解は減る。」(宮台氏)「皆はこの社会の常識に守られているが、私は守られていない…と誰かが苦痛を感じたとき…常識を盾にその人を無視したり排除したりするべきではないだろう。常識を大切にする立場から、常識自体の中身を見直すべきだ。人々が人間的な連帯感で結ばれる瞬間にこそ、人が不幸を幸福に転ずるチャンスは訪れるはずだから。」(なだいなだ氏)

社会の孤独と苦悩とそのひずみに、できることは少ないけれど、基本の人間関係の回復が大切なことを思う。

神様、この世の闇に、神様の慰めと希望の光が現されますように。

Hana0919

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2008年10月 8日 (水)

すべての人に与えられている個性と特別な計画

一人一人に特別に与えられた個性と計画によって、生き甲斐が確かなものとなりますように。

『飢えた者に心を配り、悩む者の願いを満足させるなら、あなたの光は、やみの中に輝き上り、あなたの暗やみは、真昼のようになる。』旧約聖書 イザヤ書58:10

神様はとてもバラエティーな方で、人を様々な個性に造られ、また、様々な計画を一人一人にたてられる。人はそれを「生き甲斐」と呼び、聖書では、召し(使命)という。

ときには、その人に与えられている個性が、まわりの人には理解を越えているものでなかなか理解されなかったり、長い年月をかけて実を結ぶこともある。

私は今、50歳にまもなくなるが、24歳のとき、上記のことばを神様から私へのものとして、受け取った。

その頃の私は、クリスチャンになって、3年位で、まだ、大半が自己嫌悪や自己否定の中にいた。たくさんの傷があり、自分の悩みの中にいた。

あのとき、この聖書のことばの深い意味はわからなかった。わかるのは、「飢えた者、悩む者のために心を配りたい。」ということだけだった。

あれから25年、私の暗やみの経験が、神様によって、誰かの慰めになることを経験している。

一人一人に与えられている特別な個性と計画が、その人の輝きとなりますように。

Hana0874

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2008年10月 5日 (日)

苦しみのボーダーライン2 神の計画

苦しみのボーダーラインにコメントをいただきました。その続きがあったので書きますが、具体的なことが書けずに抽象的で伝わるでしょうか。

『キリストこそ私たちの平和であり、2つのものを1つにし、隔ての壁を打ちこわし、ご自分の肉において、敵意を廃棄された方です。…それからキリストは来られて、遠くにいたあなたがたに平和を宣べ、近くにいた人たちにも平和を宣べられました。』新約聖書 エペソ人への手紙2:14~17

4年程前、私の属していた小さな教会が閉じることになった。その3か月前、私たち、教会に集う者は共に祈っていたことがあった。病にある方の癒しを祈った。が、その方は天国に行かれた。

そのとき、教会の人たちが共に祈りながら、違いがあるのがわかった。牧師ほど、遺族から気持ちが離れ、私は真ん中、遺族の方は牧師とは遠くにいた。

もうひとつ、同じ時期に、事件が起こった。当事者を取り巻き、牧師はその方から一番遠くにいた。私は牧師と当事者に関わる友人の伝言役となった。牧師、牧師婦人、私、友人、当事者とラインがあった。

その日、私は何故か一日祈り通した。祈らされた。生まれて、こんなことは初めてだった。

そして、この聖書の言葉を教えられた。この遠く…は私たち異邦人、近く…はユダヤ人のこと。これが私には、教会の外にいるクリスチャンが遠くの人、教会の中にいる人が近くにいる人と思った。異邦人にキリストが現されたように、まず、リバイバル(信仰の覚醒)が教会の外にいる人から起こるように教えられた。いつも、真実に近いのは、弱い人たちである。

教会の外にいるクリスチャンたちに、神様は計画をもっておられるのを私は信じている。

私は相変わらず、教会のボーダーラインのところにいて祈る。リバイバルは外から内へ、教会の壁は外の人の祈りによって崩されることを。

ノンクリスチャンには何のことやらと思われると思う。わかりにくくて、すみません。

弱さを担ってる人に神様は、その御力を現される。なぜなら、力は神様のものだから。

Hana0866

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2008年9月29日 (月)

孤独から解かれる

深い孤独がある人の、その穴が埋まるよう祈っています。

『死の綱が私を取り巻き、よみの恐怖が私を襲い、私は苦しみと悲しみの中にあった。そのとき、私は主(神)の御名を呼び求めた。「主よ。どうか私のいのちを助け出してください。」…まことに、あなた(神)は私のたましいを死から、私の目を涙から、私の足をつまずきから、救い出されました。』旧約聖書 詩篇116:3~8

深い孤独はどこからくるのか?人は愛されるために生まれてきた。理解されない、受け入れられない状況が長く続くと、人の心に穴があく。それが、大切な家族の中であったり、幼少時代であれば、その穴は大きい。

私は居心地の悪い家から早く出たかった。大学生活で家を離れられて嬉しかった。が、一人暮らしを始め、たくさんの友人が出来たが、誰も私を理解してくれないということに愕然とした。(今思うと、人が他の人を理解出来なくて、あたり前なのだが。)親に理解されなかった私は、誰かに理解を求め、得られず、ますます孤独になった。その孤独に耐えられなくなると、旅に出た。「孤独は山にあるのでなく、人の多い街にある。」という三木清の言葉に納得したものだった。

孤独は外からくるものでなく、内側から湧いてくるものだと思う。その孤独の穴を人が埋めるのは難しい。愛するために人を造られた神様によって、私は孤独が埋められた。それだけでなく、そのところから、神様の愛が溢れてくるのを感じる。

神様、孤独な人を神様が愛で満たしたいと思っておられるのを思います。どうぞ、求める人に神様の愛が覆われますように。

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2008年9月23日 (火)

モーセの十戒…その恵みシリーズ3

殺すな…積極的な意味で、人を生かしなさいと言われているような気がします。

『殺してはならない。』旧約聖書 出エジプト記20:13

第6番目の戒め。「これなら、大丈夫、守ってる。」と思うかもしれない。が、この短いことばの中にたくさんの意味合いがあるのだと思う。

注解には、「神から与えられている命の尊さを教えるもの」とある。「殺すな」…には「人を生かしなさい」というメッセージがあると思う。

聖書には、「神を愛し、また、自分を愛するように人を愛しなさい」とある。人を愛するためには、まず、自分が愛されていることを体験する必要がある。人を殺さず、生かせとあるならば、まず、自分が自分らしく生きていないと難しい。

自分が本当に自分らしく生きていないと、きっと、それはその人の人間関係に出てきてしまう。もし、誰かが、人を生かせない否定的なものをぶつけてくるとしたら、実はその人自身が自分を殺し、苦しんでいるのだと思う。

私たちの心の中に、自分を生かせないもの、そして人を生かせず殺してしまうもの、そのようなものがあるのを神様は知っておられる。そして、それを認めたとき、赦し、癒してくださる。

神様、私の心にある自分自身を生かせないもの、人を生かせないものがあることを赦してください。神様の愛の注ぎをうけ、愛され、人が生きることを助ける者としてください。

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2008年8月31日 (日)

一番の相談相手

私の一番の相談相手は神様です。いつも正直な気持ちで語らい、神様の応えを待ちます。

『私の言うことを耳に入れてください。主(神)よ。私のうめきを聞き取ってください。私の叫びの声を心に留めてください。私の王、私の神。私はあなたに祈っています。主よ。朝明けに、私の声を聞いてください。』旧約聖書 詩篇5:1~3

神様との祈り。それは息をするようなものと同じようなものだと聞いたことがある。

神様との祈り。それは私にとっては、一番大切な人との、親密な語らいである。声を出して祈るので、一日家に人がいたりすると声を出して祈りたくて苦しくなる。そういうときは、買い物に出かける途中で声を出して祈り、語らう。

もし私のことを全部知って、最善をしてくれる人、信頼する人がいたら…なんでも相談し、何でも話すと思う。

私にとっては、悩みも悲しみも喜びも疑問も何でも話せるのが神様だし、私自身の100%正直な気持ちを話す。

一人ごとでは決してない。神様の霊をもって、心の中に答えがくるか、聖書を通してくるか、すぐはわからないかだ。が、祈りに応えてくれる神様と信じているので、絶対答えがくる、そして約束されたことは、いつかわからないが、絶対成ると安心して信じられる。気の短い私が、30年近く神様の私への約束を信じてこられたのはまさに神業。

もしあなたも、信頼できる最愛の方と親しくなったら、いつまでも、語らっていたいと思う。

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2008年8月30日 (土)

私のブログ研究

ブログを見に来てくれている人たちにとても励まされ、ブログ続いています。ありがとうございます。

『あなたがたの中で知恵に欠けた人がいるなら、その人は、だれにでも惜しげなく、とがめることなくお与えになる神に願いなさい。そうすればきっと与えられます。』新約聖書 ヤコブの手紙1:5

2日前、子どもの夏休みの宿題を手伝っているときのこと。「ママでも知ってることがあるんだ。」と子どもが言う。「母親をバカにする発言」が子どもは多い。親に問題があるのかもしれないし、子どもに潜む罪の性質かもしれない。

それにしても、私は聖書のことと心の癒しのこと以外は殆んど、よくわからないと自分でも認めているので、子どもの発言には納得してしまう。子どもは博学な主人に何でも聞いて頼っている。私も世の中の知識は主人に聞いたりする。

パソコンも開けない私だが(私のブログは携帯から打ち、主人が管理者となってる)、今日、生まれて初めて、人のブログを見た。

私は聖書のことばを紹介したいと、記事の一番最初にもってきているが、検索のとき、それでは内容がわかりにくいことがわかった。

私のブログはたいした内容ではないが、聖書のことばを紹介してることが、すばらしいと自画自賛する。神様のメッセージのことばが一人でも多くの人に伝えられることを祈りつつ、今日もブログネタをノートにメモっている。

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2008年8月29日 (金)

差別する心

『主人たちよ。あなたがたも、奴隷に対して同じようにふるまいなさい。おどすことはやめなさい。あなたがたは、彼らとあなたがたとの主が天におられ、主は人を差別されることがないことを知っているのですから。』 新約聖書 エペソ人への手紙6:9

小学のとき、アフリカで、白人が椅子に座り、黒人が地べたに座ってる教科書をみて、今の時代でも差別があるのかと、子どもながらに驚いた。中学生のとき、読書家ではなかった私だったが、姉と図書館から、「橋のない川」を借りて一気に全巻読んだ。部落の自分は人と何が違うのかと自問し、揺れ動く主人公の少年が描かれている。

今でもある部落問題。きれいごとはいくらでも言えるが、私が人を差別しないことは出来るか、講演などを聞くたびに思う。たとえば、自分の子どもが部落の人と結婚するとなったら、私はどうだろうと思う。誰もが歴史の中で人間が作った差別と知りながら、そこに入り込んでしまうので、今だに作られた差別が続くのだと思う。

歴史の中で作られた差別を知るとともに、人には差別してしまう性質が根底にある、そのことを私自身が認める、そこから差別がなくなる願いと祈りと行動が始まるのかもしれない。

「神様、私に潜む差別する心を赦してください。そして、差別で今なお苦しむ人たちが、人の作られた差別から解放されますように。」

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2008年8月26日 (火)

虐待されて育った人の傷

『神よ。私を探り、私の心を知ってください。私を調べ、私の思い煩いを知ってください。私のうちに傷のついた道があるか、ないかを見て、私をとこしえの道に導いてください。』詩篇139:23.24

今日、友人と会って話しをした。「親から傷を受けて育った人の痛みは、普通の家庭で育った人にはわからない、それは仕方ないことだ。」と話し合った。ありのままで受け入れられず、虐待されて育った人には次のような結果をもたらすと、本にある。

鬱、孤立、他者を信頼できない、親密な愛着を形成できない、限界を設定できない、深い自己嫌悪、恥、罪悪感、無秩序なライフスタイル、無意味感や無目的感、恐れやパニック、発作的な怒り、自殺願望。

そして、虐待ではなかったが、私もこの幾つかの結果が現れていた。私は早い時期、それらの結果が、親からの影響であることに気がつき、心の癒しの旅が始まった。

本当の自分を所有していく大切さを思う。誰かに侵害されることなく、自分は自分のままでよい、それはカウンセラーに相談する方法もあるし、裁くことなく、そのままで受け止めてくれる人に自分の話しをするのも良いことである。

心の傷で苦しむ人の癒しと回復を祈ります。

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2008年8月16日 (土)

会話(祈り)の中で大切な関係

『まことに、あなた(神)の大庭にいる一日は千日にまさります。私は悪の天幕に住むよりはむしろ神の宮の門口(かどぐち)に立ちたいのです。』詩篇84:10

神学校の時代、屋上に上がって、よくお祈りした。神様の思いを知り、同じ思いで熱く祈りたいと願っていた。ある外国の人の話しで、天国と地獄を見せられたら、真剣に祈らざるおえないと聞いたことがあった。「私にも天国と地獄の幻が見えて、真剣に祈れますように。」と祈ったこともあった。が、幻も見えず、熱く祈ることは出来なかった。

あれから、20年、今思うのは、私が神様に知られていること、愛されていること、そして、私に対してと同じように、神様が一人一人を愛しておられること。神様と親しくなり、神様の気持ちを知るために、私が自分の心にある自己中心を捨てることの大切さを知った。

人と人との関係で、親しくなるために大切なこと、それもまた、相手に対して誠実であること、正直であること、相手の気持ちをよく聞くこと、そんな中で新しい信頼関係が生まれていくのだと思う。

私は自分のうちにある自己中心がひとつずつ捨てさせられるごとに、神様のすばらしさをひとつずつ知り、その関係を喜べるようになった。あの屋上での祈りと違う祈りに変えられた。人と人とも、神様と人とも、相手を大事にするその関係の中で、会話が成り立つのだと思う。

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ふたりはひとりにまさる、様々なパートナーが与えられている感謝

『ふたりはひとりよりもまさっている。ふたりが労苦すれば、良い報いがあるからだ。どちらかが倒れるとき、ひとりがその仲間を起こす。倒れても起こす者のいないひとりぼっちの人はかわいそうだ。…もしひとりなら、打ち負かされても、ふたりなら立ち向かえる。三つよりの糸は簡単には切れない。』伝道者の書4:9~12

「5つの目的」という本の中で、人は神に仕えるために造られたとある。自分の興味や個性を知り、自分らしく仕える大切さが書かれてある。

神様だけでなく、人に仕えるときもまた、自分のタイプを知るのは大切だ。何をしてるときが楽しいか、チームプレーか個人プレータイプか、内向的か外向的か、思考型か感情型か、競争型か協力型か。

私の場合は、チームプレーで協力型で、サポートタイプ。いろいろなボランティアのグループに属しているが、パートナーが、私にはとても大きく占める。精神的パートナーだったり、私のリーダーとしての人だったり、いつも一緒に仕事を分業するパートナーだったり色んな人がいる。

いつもそのパートナーのために祈っている。ひとりでなく、人と共に何かを出来る恵みに感謝している。

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2008年8月15日 (金)

子どもの成長のために大切な子どもとしての体験

『あなたがたのうちに良い働きを始められた方は、キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成させてくださることを私は堅く信じているのです。』ピリピ人への手紙1:6

クリスチャンは聖書の良いことばを知っているがために、自分はそのようにならなくてはならないと自分を縛ってしまったりすることがある。けれども、大切な事は、知っていることではなく、自分の足で一歩一歩失敗したりしながら、そのことばに生きることである。

子どもの成長もそのようだと思う。大人にとっていい子ども、利口な子どもというのは、実は、何かに縛られ、子どもとしての体験が少なかったりする。
良い子どもは、それがその子どもにとって本当に良いか注意しなければならないと言われるゆえんと思う。

子ども時代は成長し大人になるために大切なときである。そこでたくさん失敗したり、悔しい思いをしたり、笑ったり、泣いたり、正直にいろんな体験をしていくことが大人に成長するためになくてはならないことと思う。

子どもたちが、勉強ばかりしたり、親のいいなりになるのでなく、自分の足で一つ一つ体験し、その子どもらしさの良さを伸ばして成長していけますように。親が縛り過ぎず、子どもの良い環境を作っていけますように。

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2008年8月14日 (木)

小学6年のとき、聞かれた祈り

『私は苦しみの中に主を呼び求め、助けを求めてわが神に叫んだ。主はその宮で私の声を聞かれ、御前に助けを求めた私の叫びは、御耳に届いた。』詩篇18:6

私が小学6年のときのこと。私の両親はクリスチャンではなく、私も教会に行った記憶もない。小さいとき、街中で、キリストの絵のついたパンフをもらったことがあるくらいだった。が、なんとなく、神様がいるのかなぁと、夜、ふとんの中でお祈りするのが、日課になっていた。

小学6年で、学校を転校した私は、先生から合唱部に誘われた。しかし、レベルが高く、音階を当てるなんて、私にはとんでもないことで、練習が苦痛だった。そのころ、50メートル走のタイムで、陸上選手が選ばれることになった。

「神様、私は合唱部には向いていません。どうぞ、陸上選手になれるようにしてください。」と必死に祈った。次の日、50メートル走でタイムが計られた。結果は選ばれるラインのタイムではなかった。が、その先生が「お前はもっと早いはずだ。」とか言ってくれ、陸上選手に入れた。ハードルの補欠選手だったと思うが、苦手な合唱部も理由をもって抜けられ、楽しい補欠選手として過ごせた。

祈りが聞かれた!と感謝した私だったが、聖書も知らず、お祈りなんて恥ずかしいかなぁと、中学生になるのを機に祈りをやめた。

すべての人の神様は、信じて祈るすべての人の祈りに応えてくださる。

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2008年7月20日 (日)

二度目の洗礼

『主は私の受ける分です。』詩篇119:57クリスチャンにとって、洗礼は神様の子どもとされたとき、神様とともに歩むスタート、人生の誕生か結婚式に匹敵するほど、記念すべきとき。私は22才のとき、すでにクリスチャンとして教会学校の子どもたちに聖書のお話を教えていた。子どもと富士五湖でキャンプした夜、子どもに話された話しを聞いて、私は本当に神様に受け入れられているクリスチャンか疑問が湧いた。『疑いがあるなら、信仰ではなく、それは罪』という聖書の箇所を言われ、洗礼を受け直おすことにした。真夜中の富士五湖で、子どもたちに内緒で、バプテスマ(洗礼)を受けた。真っ暗な闇が広く漂う静寂な中で、水に潜った。悲しかった。自分の信じてきた信仰を全部否定されたようで。そのとき、それまでの自分の信仰を確かに捨てさせられた。2日泣き続けた。自分を信じるのではなく、神様を信じるスタートだった。良いものを受ける始まりのときだった。
傷つきやすい人は、傷を大事にしやすい。自分を自分で守る自己防衛が働くのかもしれない。自分の傷や考えや思いを捨てる、それは難しいが、良いものを空っぽになった心で受ける準備になる。傷ついたあなたが、良いもので覆われますように。

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あなたの呪縛が解かれるように

『『私がおまえをあわれんでやったように、おまえも仲間をあわれんでやるべきではないか。』こうして、主人は怒って、借金を全部返すまで、彼を獄吏に引き渡した。あなたがたもそれぞれ、心から兄弟を赦さないなら、天のわたしの父も、あなたがたに、このようになさるのです。』
マタイの福音書18:33~34
人からの呪縛、それは実は、その人を許さないことで、自分が獄吏にいれられている状態を言う。どうしたら、扉を開けてそこから出られるか? それは、許せない人を許す、その人に要求して、返してよという手を、その人から離すことしかない。支配されているのは、自分がつかんで離さないから。でも、私たちはわかっていても、自分で要求の手を離せない。神様だけが、私たちにその手を離させてくれる。私の癒しの始まりは、『母を赦します。私も赦してください』この祈りから始まった。
もし苦しんでいる人がいるなら、その呪縛が解かれるように、自由になるように祈ります。

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2008年7月19日 (土)

孤独な心を埋めるもの

『私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し…』第1ヨハネ4:10
三つ子の魂、百までというが、幼いとき、周りから愛情を適度にうけてないと、心の空白は大人になってからではなかなか埋められないのだと思う。20才の頃、私も孤独が押し寄せ、どうすることもできなかった。それは、きっと、周りにどんな優しい友がいても、その優しさを受け止める心のセンサーが壊れてるので、受け止められない。埋まらない。誰にも埋めることのできない暗く深い穴を埋めてくれるのは、私たちを創られた神様だけと私は体験した。私は今、孤独な人の隣で何もできないだろう。でも、心を埋めてくださる神様がいるよと言い、その人のために、神様が愛で満たし溢れ、流してくれることを祈りたい。

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