孤独

2009年6月11日 (木)

孤独の夜に…

昔、イエス様を知らず、孤独が迫ってきました。今、イエス様の孤独があることを知り始めました。

『見よ。わたしはあなたとともにあり、あなたがどこに行っても、あなたを守り、あなたをこの地に連れ戻そう。

わたしは、あなたに約束したことを成し遂げるまで、決してあなたを捨てない。』旧約聖書 創世記28:15

大学を中退した私は、東京に出てきて、デザイン学校に入った。

大都会の中の3畳のアパートに住み、バイトと学校の往復で、声をほとんど発することもなく過ごした。

そんな私も何か月かすると、そこが生活の場になり、知り合いもできていった。

生きる動機に欠けていた私は、何をやってもうまくいかず、やがて、バイト漬けの毎日で、学校の課題がたまっていった。

バイトの寮で、青山のど真ん中に移った。課題がたまって、「このままだと大変だよ。次にあがれないよ。」と3人くらいの男の子たちが、徹夜で課題を手伝ってくれた夜があった。

朝がた、牛丼を買いに行く途中、渋谷のビルの谷間から昇る朝日を見た。

いい友人たちがいるのに、やっぱり心の深いところで孤独を感じている私がいた。そこはイエス様でなければ、決して埋まることのない孤独だったのだと思う。

イエス様に出会って、私を悩ませていた孤独は全く無くなった。

「孤独だ」と嘆くクリスチャンの友人には、「それは、神様ときちんと交わりをしないからだよ。」と平気で言ってきた。

今、イエス様ととても近くにいる感じがする。

そして、時おり、イエス様のとてつもない孤独をわずかだけ見せられる。わずかだけなのは、私には耐えられないから…。

イエス様の歩まれた悲しみの道、イエス様が経験された孤独の道…いままで、知らなかったけど、少しだけ、聖霊様によって教えられる。

イエス様を知らなかったときの私

イエス様の十字架の孤独の道を知らなかった私

孤独が消えて、万々歳と思っていたけど、イエス様といながら、イエス様の心がわからなかった私

「友人よ、あなたが孤独だとうなるとき、神様と交わりしないからだと言った私をごめんなさい。」

「イエス様、あなたの気持ちを知ることよりも、いつも私自身ばかりだったことをごめんなさい。あなたについて行きます。あなたが悲しみと孤独の道を歩まれたから。あなたが、悲しみと孤独を癒されるお方です。」

###

天のお父さん、この地は痛みや悲しみや孤独に満ちています。

イエス様が闇の中に持っていく慰めと希望のともしびは消えることがありません。

私もイエス様のあとをついて行きます。

イエス様のいないところにともしびがともりますように。

イエス様がいてくださって、なお、孤独なところのともしびを温かく、大きくしてください。

私たちがたくさんの慰めと喜びのともしびを人々の中に見ますように。

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2009年5月 1日 (金)

私の初めが神の初めとつながった日(創1:1)

私の初めは、神様の初めにつながっているすばらしさを思います。

『初めに、神が天と地を創造した。』旧約聖書 創世記1:1

私は、病気になって交流がなくなってしまった父と、私と全く違う価値観を持つ母に育てられた。ありったけ、「私は私であるな」と自己否定を身につけた私は、20歳の頃は、人生のさ迷い人だった。

虚無感と孤独の渦の中にいた私は、自分の心の中でいつも問いかけていることがあった。

それは「私は何のために生きているんだろうか?」ということだった。自己否定、自己嫌悪にさいなまれながら、なお「私は何のために生きているのか?」と、うめくように、激しく問い続けていた。

22歳の3月のある日、私はクリスチャンの友人の祈りの中、神様に出会った。それまでも、聖書を読んでいたが、まさにその日、神様に出会った。私の中で何かが変わった。同じ場所にいながら、全くちがう世界に入っていった感覚だった。

「私はどんな存在で、何の役にたつためにいるのか?」そんな悩みをもった人間が、私を造った製作者に出会った…という感じだろうか。

その日、製作者に出会った私は、それだけで良かった。私は何者なのか…、私は何をすれば良いのか…、私はどこに向かっているのか…、そのときは何も分からなかったが、すべてを知っている方に出会ったので、すべてが瞬時に解決したかのようだった。

その日以来、私は苦難のときも、順風満帆なときも、神様がいないかのように遠く感じられたときも、ずっと製作者のいる世界の側にいるのを実感してきた。

私の人生は、造られた方に出会うことによって、すべてに意味があるものとなった。

神様は私たち一人一人を、私たちが生まれる前から見ておられ、私たちが呼吸をする前から私たちの一生の一日一日のスケジュールを作られた。(詩篇139:15.16)

神様は私たちを世界が始まる前から知っていてくださり、私たちをキリストにあって、愛する対象として造られた。(エペソ人への手紙1:4)

『初めに、神が天と地を創造された。』 それは、聖書の初めの一行であるだけでなく、神様の始まりの一行であるだけでなく、私の生きる意味を見い出す一行なのだなぁとしみじみ思った。

###

神様、あなたが世界を造られ、私を造られたことをありがとうございます。

私は造られた方を知ったので、私の人生が偶然で成り立っているのではなく、造られた方の意図によって計画され、期待され、配慮されていることを知っています。

いつも、この造られた方に戻り、私がその造られた方の意図に沿って、最大限に“私らしく”生きていけるように祝福してください。

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2009年4月10日 (金)

十字架以外に誇りなし

「イエス様の十字架だけが私の誇りです。」と言うことが出来る素晴らしさをしみじみと思いました。

『しかし私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはなりません。

この十字架によって、世界は私に対して十字架につけられ、私も世界に対して十字架に十字架につけられたのです。

割礼を受けているか受けていないかは、大事なことではありません。大事なのは新しい創造です。』新約聖書 ガラテヤ人への手紙6:14.15

私が神様に出会ったのは、すべてのどん底…と思えるような中だった。

大学を中退し、東京に出て来て、グラフィックデザイン関係の専門学校に通った。が、続かなかった。比重を占めていたそば屋のバイトも危うくなり、心は孤独と虚無感でおおわれていた。

そんな弱さと挫折と生きる気力の無い中で、神様に出会った。

イエス様の十字架とか、聖書のことはほとんど理解していなかったが、「私を生かしてくださる方がいる。」と実感したときだった。そして、その瞬間からまったく今まで考えたこともない世界に入った感じだった。

それは、挫折ばかりする私だったが、努力や能力や意志の強さとは無縁の“生かされる世界”だった。弱さや足りなさがあってもそのままで、内側から湧き出る喜びのある世界だった。

私は嬉しくて、嬉しくて、たくさんの友人たちに「神様は私たちを愛しているのよ!」と部厚い手紙を書いた。友人たちからは「大丈夫?」と言われた。

私の苦しみは教会生活が始まって4年位してから始まった。初めはただ奉仕が楽しくって仕方なかったのに、教会で語られるメッセージが苦痛で仕方なくなった。

聖書のことが語られているみたいだが、私には親から言われるお小言と同じように聞こえた。

教会はいくつか変わったが、そのたびにメッセージがつらく、砂をかむような思いで聞いた。

そして、大事な恵みの神様と違うことを話されていることが赦せない…というところに至った。それでも、何故か教会の礼拝に行き続けた。私の教会生活で、一貫した悩みが、教会のメッセージだったのだ。

今は、神様はそれぞれに与えてくださってる役割があると思えるようになった。私が人を神のように期待した罪も示され、悔い改めた。人ではなく、神様に期待することが出来るようになった。

私はあの苦しみが、今、ブログに“神様の恵み”を書きたいと駆り立てられる思いになっているのに気がついた。あの苦しみは、本当に私にはなくてはならないものだったと思う。

「私には、イエス様の十字架以外に誇りとするものはない」この告白は、私の努力や能力や意志の強さや立派な行いはいっさい関係がない。私は私の弱さを赦してくれたイエス様の愛によって支えられているということだ。

18節の“割礼”は私にとって何か。「“努力や意志の強さによる良い行い”をしているかどうかは関係ありません。私にとって大事なのは、“イエス様によってもたらされた神様との新しい関係”です。」となるのだなぁと思った。

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2009年2月13日 (金)

“ひとりぼっち”

孤独を感じている人は、気がつかない中、私たちのまわりにいるのかもしれません。

『わたし(神)は決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。』新約聖書 ヘブル人への手紙13:5

自殺願望があって、自殺の名所に行くような人が、人に話しを聞いてもらうだけで、自殺を思いとどまる話しを聞く。

人は追い込まれると、自分は天涯孤独なんだと思うのかもしれない。そんな中、たとえ知らない人であっても優しく声をかけてもらい、親身になって話しを聞いてもらうだけで、少し生きてみようという気持ちになるのかもしれない。

かつての私の場合は、心のセンサーが壊れて、まわりに親身になってくれる友人がいても、孤独のどん底だった。孤独がまとわりついて、生きていくのが辛かった。

最終的に心の奥底の孤独は、環境や人によらず、神様が埋めてくれるものと私は信じている。心に空いたピースの形は神様だけが知っていて、神様がピッタリと埋めてくれると…。

あるボランティアの新聞に「熟年の心理を襲う最大の課題は『ひとりぼっち』になるということ」とあった。

これを読んで“ひとりぼっち”と感じているのは、熟年ばかりではない…と思った。

一人で負いきれない中、子育てをしてる人、働きたいのに働けずやるせない思いでいる人、いろんな人たちが人ごみの中で“ひとりぼっち”と感じてるのかもしれない。

孤独に苦しんだことのない人にはわからない世界かもしれない。孤独を体験し、慰めを体験した者に祈れる祈りがある。

私は地域でつながりを大切にしたいと願っているけど、言い替えれば、自分の地域に“ひとりぼっち”で悲しむ人を少なくしたいということかなぁと思った。

かつての私は孤独で孤独で、泣くばかりの日だったが、忘れたくない思い出である。

神様、かつて孤独だった私の心に神様が来てくださり、いつも知っていてくれ、いつも相談にのってくれ、理解とさとしと慰めを与えてくださることをありがとうございます。それゆえに、私は孤独でなくなりました。
限界のある者なので、人の心奥底はわかりませんが、神様が私を思ってくれる思いが、私を通して、人にも流れていきますように。神様は造られたすべての人を大切に思っていることを人々が知りますようにお願いします。

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2008年12月 1日 (月)

孤独の叫びの先に

孤独には幾つかの種類があると考えています。人に受け入れられない孤独、神様に出会わない孤独、罪を犯したときの神様からの断絶の孤独…イエス様の孤独だけはただ私たちのために経験された物でした。

『イエスは大声で…叫ばれた。「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」』新約聖書 マタイの福音書27:46

神様を知らなかった頃、私は孤独だった

親に受け入れられず、心のセンサーは壊れていた

たくさん優しい友はいた…が孤独は付きまとった

大学中退、東京に出てきて私は孤独だった

一日中誰とも話すことなく過ごし、私の友は日記だった

人が居ても居なくても私の孤独は変わらなかった

夜な夜なお酒を飲んで 日記に孤独の思いを書きなぐった

孤独のどん底…もう生きていけない…そんなとき神様に出会った

その日私の内から愛されてる温かいものが溢れて私を包んだ

神様を知っての日々の中たくさん神様を悲しませてきた

神様が遠くに感じられる日々もあったが神様の私への思いは変わらなかった

今神様が近くに感じられる

どんな友より神様が私の相談相手

イエス様はたくさんの孤独を経験された

弟子に裏切られ、偽証され、人に罵られた

父なる神様が共にいてくださることがイエス様の支えだった

が十字架の上で叫ばれた

「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」

肉体的苦痛と共にイエス様はこのとき霊的な苦痛を体験された

神様と断絶することで

しかしその耐え難い孤独は私たちのためだった

「あなたの孤独は私が引き受けた。赦しを受け取り神様の父なる愛を受け取りなさい。」

イエス様は今日もこのように語られる

誰によっても埋まらない孤独な心にキリストによる神様の愛が溢れますように

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2008年11月18日 (火)

孤独を抱えたある中学生

一人の少年について書きます。

『悩んでいる者や貧しい者が水を求めても水はなく、その下は渇きで干からびるが、わたし、主(神)は、彼らを見捨てない。わたしは、裸の丘に川を開き、平地に泉をわかせる。荒野を水のある沢とし、砂漠の地を水の源とする。』旧約聖書 イザヤ書41:17~18

一ヶ月程前、息子が通う中学に役員の仕事で出かけた帰り。正門のところである生徒を見かけた。まだ、帰るには少し早い時間で「あれ?早退の子かな?」と思った。彼は無表情で、カバンをさげて前を見ながら、すたすた歩いて正門を出ていった。すると、50メートルの距離をあけて、学校の男の先生が慌てることもなく、走って追いかけるでもなく、等間隔でずっと歩いてその子どものあとをついて行った。

隣にいた私の友人が、短く彼の家庭環境と最近の彼の行動を話してくれた。その話しを聞きながら、その彼は曲がり角を曲がって見えなくなり、しばらくして先生も曲がり角に消えて行った。

あの先生は途中であの子に追い付くのだろうか、誰もいないあの子の家まで行くんだろうか、ちょっと考えた。

両親の様々な事情で、きちんと親に向き合ってもらえずにいる彼の孤独の無言の叫びを聞いた気がした。

学校ではかなり有名で、彼の悪い噂を何人かから聞いていた。

彼の姿を見て、まだ、幼いあどけなさを残し、子どもと青年の境目にいる彼の悲しい心中を思った。

子どもたちは、自分の家庭しか知らないから、自分が親に愛されているか、いないかはわからないと心理学のある本にあった。

人は愛されるため、育ててもらうために生まれてきたのに、一番大切なものを受けられなかったら、生きていけない程辛いと思う。

自分の孤独な状況を客観的にもみれず、心はすさみ、荒れ果てていく、その少年。まわりに先生とか大人はいるがなかなかその隙間は埋まらないのだろう。黙ってついていって、あのあと、先生は追い付いて何を話しただろうか。

彼のように、心に孤独と闇を抱え、どうしていいかわからない子どもたちがたくさんいるのだろう。

何も出来ない私はその子を神様に見せてもらった気がして、思い出すたびにお祈りしている。

神様、子どもが悪い訳でもないのに、親たちや大人たちの事情で孤独な思いをする子どもたちに目を注いでくださり、彼らの深い孤独をおおい包んで、慰めてください。

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2008年10月31日 (金)

苦痛の経験が産んだもの

何故、私たちは苦しみに出会うのでしょうか。

『もし私たちが苦しみに会うなら、それはあなたがたの慰めと救いのためです。』新約聖書 第2コリント人への手紙1:6

「姉さん、僕頑張ったからね。」とおじさんが母に話しかけるのを聞いてしまった。

両親が生前の時、父の退職祝いで、親戚が一同に集まったときだったと思う。おじさんが、私に「お前はいったい、何がしたいんだ。」と聞いてきた。私は自分の将来に対する正直な気持ちを話した。その答えとして、おじさんが何を話したかは一切覚えていない。

つまり、母は娘が理解に苦しむ選択ばかりするのを心配して、おじさん(母の弟)に説教を頼んだらしい。

いつでも娘の思いを聞ける近い距離にいながら、全く理解が出来ず心配し、気を揉む母に、どこまでいっても、水と油のように接点がなく、理解してもらうことは出来ないんだと、その現実を改めて突き付けられた気がした。

母は我が子を心配し、母なりに愛情を注いでくれた。が、そのときは、一番理解してほしい人に理解されないことに悶々とした。その影響は大だった。理解されない私はすさんでいった。

「5つの目的」の本に「苦痛の経験こそ、神があなたをミニストリー(奉仕)へと準備させるために最もよく用いられる経験です。神は決して痛みを無駄にはなさいません。」とある。

私にとって、理解される、理解するということは、とても大切なテーマとなった。神様に理解され、人を理解したいと思うようになった。…もちろん、限界はあると思うが。

あの母から理解されない渇望が、理解したい渇望へと変えられた。

もし、苦しみがあるならば、誰かの慰めと救いへとなりますよう、祈ります。

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2008年10月24日 (金)

孤独なモンスターペアレント

まわりに愚痴ったり、ちょっと相談できる人がいるだけで、大騒ぎにならないということもあると思うのです。

『捕らわれ人は、すぐ解き放たれ、死んで穴に下ることがなく、パンにも事欠かない。』旧約聖書 イザヤ書51:14

私が小学のPTAで長をさせてもらってるとき、「しらみ事件」が学校で起こった。しらみになってしまった子どもがいたのだが、あるお母さんが「そんな不衛生な子どもがいるなら、自分の子どもは、それがなくなるまで、学校に行かせません。」と学校に言ったのだそうだ。「排除の論理だ。」と校長は嘆いていた。

その保護者の方は、今のしらみは、海外旅行などした人がもってくるもので、そこからの感染で、不潔にしていたら、自然発生でなるではないことを知らなかったのだと思う。戦争中のあの忌まわしいあり得ないことが起こったかの如く驚いたに違いない。が、プール時などのタオルの接触を通してなど、感染してしまうことはあるらしい。

その事件以後、毎年、もしシラミがあったときの対処の手紙を出すようになった。

もし、その保護者が、毎年、シラミが感染してしまうこともある、それでも、指定のシャンプーを使えば大丈夫、すぐ治ることを知っていたら、また、誰かに相談できていたら、大事にならなかったのではないかと思う。

モンスターペアレントという言葉が出来て、久しいが、文句を言ってくる親はすべて悪い、アウトというのは、おかしいと思う。

たしかに現場の先生たちも大変だし、保護者の対応だけで、労力を使い果たしては、本来の子どもの指導ができない。

しかし、その保護者たちは孤独で、小さな情報に敏感になっている。昔と違って経済的にも豊かで、子どもも少なく…だから、子育てが楽かというと、とても負いきれないほど、大変だったりするのかもしれない。

地域、近所で子どもを育てていたのが、今はドアを締め切り、一人っきりで子育てしていたりする。

モンスターペアレント対策をする前に、この孤独に子育てして悩む人たちにほっとしてもらい、一緒に考えていく、そんな配慮がなされればなあと思う。

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2008年10月18日 (土)

孤独にささやく声

孤独をテーマにブログを書くとき、私はいつも東京に出てきたばかりの頃の自分を思い出します。

『エリヤは答えた。「…ただ私だけが残りましたが、彼らは私のいのちを取ろうとねらっています。」主(神)は仰せられた。「外に出て、山の上で主の前に立て。」…しかし、風の中に…地震の中にも主はおられなかった。…火のあとに、かすかな細い声がした。』旧約聖書 第1列王記19:10~12

大学を中退して、東京の3畳のアパートに引っ越ししたとき、孤独は付きまとったが、それ以上に声を出す機会がなかった。

「おめでとうございます。あなたは、たくさんの人から今回選ばれました。」という田舎から出てきた人をターゲットにするキャッチセールスにも騙された。

電話も、メールもなく、声を出さないと人はたまってしまうことを経験した。

姉が遊びに来てくれたとき、どうでもいい話しで話しがブァーとあふれ出て、止まらなかった。

あの頃、日記が私の友だった。

ある人は、物理的にか精神的に孤立して、人と会話をしないこともあるかもしれない。うわべの話しは表面を過ぎていき、心の渇望が深まるばかりとなることもあるかもしれない。

エリアはニセ預言者と戦い、勝利したが、そのあと極度の疲れの中、自殺願望をもった。「旅は遠いのだから、起きて、食べなさい。」と御使いに言われ、そのとおりにし、力を得た。神様は「エリヤよ、何をしているのか」と言われ、そこに答えたのが上記の言葉。

いろいろな自然現象の中に神様はおらず、語りかけがなかった。そして、やっと、火のあとに、聞き取れないような神様の声がした。

自分たちのまわりにどんなにたくさんの人たちがいても、孤独はその内側からやってきて、まわりと遮断する。たくさんの人が声をかけたとしても、その孤独には届かないかもしれない。

だから、その孤独の心に誰かの言葉が、ちょっとでも届くように祈る。かすかな細い声であっても、必要な声が慰め、癒してくれますように。

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2008年10月11日 (土)

闇の社会に光が来ますように

暗い話しが多く、闇が覆う世の中で、真実の希望がくることを祈ります。

『そのうちに彼らは言うようになった。「さあ、われわれは町を建て、頂(いただき)が天に届く塔を建て、名をあげよう。われわれが全地に散らされるといけないから。」…こうして主(神)は人々を、そこから地の全面に散らされたので、彼らはその町を建てるのをやめた。それゆえ、その町の名はバベルと呼ばれた。』旧約聖書 創世記11:4~9

私たちの住みかは、急激に変化している。ニュースでは、連日のように殺人事件が報道される。格差社会、高齢介護、詐欺やネット犯罪、なんだか闇がどんどん広がる。弱者と言われる人たちが、生きていくのに、しんどい時代。

日本の豊かな経済成長とともに、生活スタイルも、大切にする価値観も違っていく。そんな中で人間関係が希薄になる。

何から、どこから狂ってきたのか、私にはよくわからない。人間は努力の中、豊かになると、そこから堕落して衰退していくのだろうか。聖書でバベルの塔の話しはそのようなことを暗示している。

秋葉原連続殺人の後、朝日新聞に次のようなコメントがあった。「容疑者が求めたものは承認だと思う。だが安定労働層に、皆が幸せになるためには生活レベルを落としてもいい、との発想はない。自分さえ良ければいいのだ。」(赤木氏)「思いこみと勘違いがあっても、身近に「お前、そんな話しを真に受けているの。」と言ってくれる人がいれば誤解は減る。」(宮台氏)「皆はこの社会の常識に守られているが、私は守られていない…と誰かが苦痛を感じたとき…常識を盾にその人を無視したり排除したりするべきではないだろう。常識を大切にする立場から、常識自体の中身を見直すべきだ。人々が人間的な連帯感で結ばれる瞬間にこそ、人が不幸を幸福に転ずるチャンスは訪れるはずだから。」(なだいなだ氏)

社会の孤独と苦悩とそのひずみに、できることは少ないけれど、基本の人間関係の回復が大切なことを思う。

神様、この世の闇に、神様の慰めと希望の光が現されますように。

Hana0919

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2008年10月 6日 (月)

孤独から解放される2

昨日、前のブログ「孤独から解かれる」で、質問を受けましたので、私のつたない体験ですが、そこからもう一度書きます。

『あなたのうちのある者は、廃墟を建て直し、あなたは古代の礎(いしずえ)を築き直し、「破(やぶ)れを繕(つくろ)う者、市街を住めるように回復する者。」と呼ばれよう。』旧約聖書 イザヤ書58:12

底はかとない深く恐ろしい程の孤独は、経験したことのない人にはわからない。きっと、その方は、幸いにして温かい家庭で育てられたのだと思う。

人は関係の中に生きるように造られているが、拒絶、不審、憎悪などは、すでに胎児のときから経験してしまったりすることもある。

詩139篇にあるように、神様はその胎児のときの孤独すら癒してくださる。

一番基本になる家庭の中で、安心した関係作りができ、自分を形成するのだと思う。そこで、温かい関係が出来ていないと、だんだん孤独の穴が広がっていってしまうのだと思う。

私も若い頃は、酒を飲み、「孤独だ!」と泣き叫んでいた。

いちど、空いてしまった穴は、優しい人によっては、決して埋まらないと思う。何故なら、幼少時代に健全に受け入れられなかった人は、人への渇望も強くなり、どんな立派な素晴らしい人によっても、満足できない。

私は神様によって、その穴が埋まった。「神様のみを信頼します。」と神様と共に半世紀歩んだ。

もし底はかとなく孤独の闇にいる人がいるならば、人によってその孤独を埋めるのは難しい。人間、不完全だし、物理的にも四六時中いれないし、何よりその必要を理解したいと思っても限界だらけ。

神様は人を造られ、命を与えたのは、神様の愛を注ぐため。

その誰の手によっても埋まることのない孤独が、知っておられる神様によって埋まりますよう、祈ります。神様は最も孤独な人に、たくさんの愛を注ぎ、最も愛されている人に変えたいと願っています。求めるならば、与えられます。

Hana0905

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2008年10月 4日 (土)

連続幼女誘拐殺人の宮崎勤に思う

殺人犯の罪の重さを思いますが、それを更正させる神様の愛と赦し、その希望の約束を思います。

『私は切なる思いで主(神)を待ち望んだ。主は、私のほうに身を傾け、私の叫びをお聞きになり、私を滅びの穴から、泥沼から、引き上げてくださった。』旧約聖書 詩篇40:1

今日、講演で、連続幼女誘拐殺人で死刑になった宮崎勤のことが話された。彼は手のひらを表に返せない障害を抱えていた。7人家族で、忙しい両親に代わり、住み込みの仕様人と祖父に育てられる。家は地元新聞社経営で裕福で、祖父は町会議員を務める地元の名士であった。ちゃぶ台で生活していたが、家を建て変える際、それを家の人は捨てた。そして、4人座りのダイニングテーブルを買った。宮崎勤は、捨てられたちゃぶ台を拾ってきた。その上で幼児を殺害したとのことだった。

幼児たちを殺したことに、釈明の余地はないが、ちゃぶ台を囲んでの暖かい会話が家庭にあったら…と思う。

今日のハーベストタイム(キリスト教番組)でアルゼンチンのある刑務所の話しがあった。270人の囚人全員がクリスチャンになった。聖書を中心に運営をしている。その中の一人は、2人の人をコンクリート詰めにして殺人を犯した。イエス・キリストに出会い、人生が変わり、「神様の自分への計画のために生きたい。」と言う。

「ここにいる人たちは、穴に落ち込んだ人のようで、上を見上げると、引き上げ助ける神様がいる。」と牧師たちは話す。

神様は、キリストの十字架によって、どんな罪も赦すために、キリストを送られた。私の小さな嘘や争いのためにも、極悪非道な殺人をも、同じように赦すために来られた。私の罪が赦され、神様の平安が心に満ちるように、彼らもイエス・キリストの十字架刑のゆえに、赦され、平和が心に訪れる。まさに、人の力によらず、神のなさる業である。ハレルヤ!

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2008年9月29日 (月)

孤独から解かれる

深い孤独がある人の、その穴が埋まるよう祈っています。

『死の綱が私を取り巻き、よみの恐怖が私を襲い、私は苦しみと悲しみの中にあった。そのとき、私は主(神)の御名を呼び求めた。「主よ。どうか私のいのちを助け出してください。」…まことに、あなた(神)は私のたましいを死から、私の目を涙から、私の足をつまずきから、救い出されました。』旧約聖書 詩篇116:3~8

深い孤独はどこからくるのか?人は愛されるために生まれてきた。理解されない、受け入れられない状況が長く続くと、人の心に穴があく。それが、大切な家族の中であったり、幼少時代であれば、その穴は大きい。

私は居心地の悪い家から早く出たかった。大学生活で家を離れられて嬉しかった。が、一人暮らしを始め、たくさんの友人が出来たが、誰も私を理解してくれないということに愕然とした。(今思うと、人が他の人を理解出来なくて、あたり前なのだが。)親に理解されなかった私は、誰かに理解を求め、得られず、ますます孤独になった。その孤独に耐えられなくなると、旅に出た。「孤独は山にあるのでなく、人の多い街にある。」という三木清の言葉に納得したものだった。

孤独は外からくるものでなく、内側から湧いてくるものだと思う。その孤独の穴を人が埋めるのは難しい。愛するために人を造られた神様によって、私は孤独が埋められた。それだけでなく、そのところから、神様の愛が溢れてくるのを感じる。

神様、孤独な人を神様が愛で満たしたいと思っておられるのを思います。どうぞ、求める人に神様の愛が覆われますように。

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2008年9月21日 (日)

苦しみのボーダーライン

一つの集団があれば、中心にいる人もいれば、ギリギリ内側にいる人もいます。

『それどころか、からだの中で比較的に弱いと見られる器官が、かえってなくてはならないものです。また、私たちは、からだの中で比較的に尊くないとみなす器官を、ことさらに尊びます。』新約聖書 第1コリント12:23.24

私は一人でいると、聖書や神様のことばかり考えている、キリスト教バカなのだけれども、いくつかの教会に通ったが、いつもなかなか馴染みきれない苦痛を経験してきた。そして、あるとき、とても驚くような大きな発見をした。

多くの教会には、立派で意志の強い、努力家な、また、活発で元気な方々が集われている。私と言えば、神様には拾ってもらったものの、意志は弱く、たくさんの傷があり、神様の世界にまず、受け入れられることが大事で、その神様の決まり事(律法)に言われて従うのは違うだろと思っている。意志や努力で生きてこられたら、教会に来ていないよと反発の感情を抱いていた。月日の流れる中、私なりに、何が大切でどこに立てばよいかわかったが、多くの教会の中では異端児のような存在だ。

そして、あるときわかったことが、教会において、私は“ボーダーラインの人間”ということ。

上記の聖書のことばについて、以前8月9日のブログに書いた。「弱い人が大切にされている集団は本来神様の望まれてる健全な集団」と。

イエス様は「私は健康な人でなく病人のために来た」と言われたのだから、教会も弱い人が来ても良いところと思う。が、健康な人、力がある人は弱さを担い生きていくのがしんどい人の気持ちがわからない。

私は教会にはかろうじていける元気な人だが、こぼれてしまった人とも接触するボーダーラインの人間だとわかった。

もし、誰かがある集団で、そこにいるのが苦しいと思うなら、その集団が成長して広がるためのボーダーラインにたっているのかもしれない。

Hasu

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2008年9月20日 (土)

心の空洞を埋めるもの

誰もが、人には理解されない孤独や悲しみを心の片隅にもっているのではないでしょうか。

『永遠の愛をもって、わたし(神)はあなたを愛した。』旧約聖書 エレミヤ書31:3

20代のとき、仕事場の上司に聖書の話しをしたことがある。「聖書では、イエス・キリストが2000年前に、私たちの罪を代わりに負ってくれ、十字架の死刑を受けてくれたといっているんです。」と言うと、上司に「頼んでもいないのに、代わりに罰を受けてくれたって、それ、いい迷惑だ。」と言われた。とても仕事の出来る上司で、私が尊敬する人だったが、そんな風に言われてしまった。

教会では、罪の赦しのための十字架のメッセージはよくされる。が、罪責感を強く持っている人はともかく、罪の赦しだけでは、神様の素晴らしさは伝わらないのかもしれない。

ある友人が、神様との祈りの中、「みんな、愛されたいのですよ。」と神様から言われた。

そうだと思う。私たちのまわりには、不完全な様々な愛が氾濫しているが、皆心のどこかで真実な愛を求めているのだろう。

『神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。』創造記1:27

神様は愛の方であり、その愛を与える対象として、私たちを造られた。だから、私はこう思う。…誰もが、他の人によっては決して埋まることのない心の空洞があり、そこにぴったり合う愛というパズルのような、かたちを埋め込んで満たしてくださるのが、神様だと。愛なる神様はすべての人を満たす方と思っている。

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2008年8月26日 (火)

虐待されて育った人の傷

『神よ。私を探り、私の心を知ってください。私を調べ、私の思い煩いを知ってください。私のうちに傷のついた道があるか、ないかを見て、私をとこしえの道に導いてください。』詩篇139:23.24

今日、友人と会って話しをした。「親から傷を受けて育った人の痛みは、普通の家庭で育った人にはわからない、それは仕方ないことだ。」と話し合った。ありのままで受け入れられず、虐待されて育った人には次のような結果をもたらすと、本にある。

鬱、孤立、他者を信頼できない、親密な愛着を形成できない、限界を設定できない、深い自己嫌悪、恥、罪悪感、無秩序なライフスタイル、無意味感や無目的感、恐れやパニック、発作的な怒り、自殺願望。

そして、虐待ではなかったが、私もこの幾つかの結果が現れていた。私は早い時期、それらの結果が、親からの影響であることに気がつき、心の癒しの旅が始まった。

本当の自分を所有していく大切さを思う。誰かに侵害されることなく、自分は自分のままでよい、それはカウンセラーに相談する方法もあるし、裁くことなく、そのままで受け止めてくれる人に自分の話しをするのも良いことである。

心の傷で苦しむ人の癒しと回復を祈ります。

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2008年8月22日 (金)

父の分裂病(統合失調症)

『彼(キリスト)はいたんだ葦(あし)を折ることもなく、くすぶる燈心(とうしん)を消すこともなく、まことをもって公義をもたらす。』イザヤ書42:3

父は将来を約束された国鉄職員だった。42歳のとき、仕事のトラブルと体の病気に対する不安で、分裂病(今の統合失調症)を発症した。

「パンセ」の中でパスカルは「人間は考える葦である。」と言った。人は複雑、繊細に出来ている。

父は祖母にその頃、手紙を書いていた。孤独と悩みを綴ったものだった。負いきれない悩みを抱え、どんなに苦しかっただろうかと、大人になり、私も父との関係が癒されて、やっとそう思う。

人は壊れてしまいそうに、ときには弱い存在なのだと思う。私が神様に話しを聞いてもらい、慰められてきたように、私も重荷を背負う人の話しを聞き、寄り添いたい。子どもだった私が、父に何も出来なかったが、天国の父も、自分の病が無駄でなかったと喜んでくれるだろう。

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2008年8月18日 (月)

さすらい人が、その咎(とが)赦され、変えられる

『主(神)はカインに…仰せられた。「…あなたは地上をさまよい歩くさすらい人となるのだ。」カインは主に申し上げた。「私の咎(とが)は、大きすぎて、にないきれません。…私はあなたの御顔から隠れて、地上をさまよい歩くさすらい人とならなければなりません。…」』創世記4:12~14

アダムとエバの子ども、カインは弟アベルを妬み、殺したときの神様との会話。カインの咎の故、神様との関係が切れさすらい人となった。

私もかつては、さすらい人であった。生きる意味がわからず、目標もなく、自分に価値を見い出せず、さすらっていた。東京に住んでいた頃、渋谷の公園や、クラシック音楽喫茶に行っては、何のため生きているかと、日記を書いていた。
すべてが虚しく、うつろで、孤独に満ちていた。

親からたくさん受け入れられて、理解されて育った人は、こんなさすらい人の気分はないのかもしれない。けれど、私は新しい天の父にもう一度、赦され、受け入れられ、愛され、生きる目標を見つけ、自分の価値を見い出し、愛に満たされた。

『私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。』第2コリント3:18

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2008年8月15日 (金)

一羽のすずめさえ、忘れられていない、恐れることはない

『5羽の雀(すずめ)は2アサリオンで売っているでしょう。そんな雀の一羽でも、神の御前には忘れられてはいません。』ルカの福音書12:6

私は父の仕事の関係で、小学校を3回転校したので、記憶に残ってることが何年生のときのことか、よく覚えている。小学3年のとき、登校班で学校に行く途中、死んだ雀を見つけた。そんなことが子どもの私たちにとっては一大事なことだった。友人と「学校から帰ったら、埋めてお墓を作ってあげないとね。」と話した。そして、帰ってから急いで埋葬してあげた。

その頃、子どもの私には毎日が楽しく、心配もなく、「これが幸せってものなかぁ」と子ども心に思った。それから、一年もしないうちに、父が病気になり、私のささやかな幸せと感じていた家庭は崩れていった。

♪一羽のすずめさえも神様に忘れられず♪というような賛美歌がある。市場で最も安く売られてる雀さえ、神様には覚えられている。ましてやあなたがた一人一人を忘れる訳がない、恐れることはないと言っている。

私も父の病気、家庭の崩壊、自己否定、孤独、迷いと転がるように闇に入っていったが、神様に忘れられず、今、そのマイナスの時にあまりある神様の愛による癒しと慰めの中にいる。

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2008年8月14日 (木)

孤独と恐れと不安の夜に、天にかけられたはしごの夢を見たヤコブ

『見よ。わたしはあなたとともにあり、あなたがどこへ行っても、あなたを守り、あなたをこの地に連れ戻そう。わたしは、あなたに約束したことを成し遂げるまで、決してあなたを捨てない。』創世記28:15

聖書には、人間臭い、様々な人物が登場する。ヤコブは、ずる賢く、自我の強い若者だった。父イサクの祝福を、兄から奪い、殺されるかも知れないと家から逃げだし、夜を迎える。

「家族と別れ、これから自分はどうなるんだろう。」そんな不安や恐れや孤独を抱えて、ある場所に着き、石を枕に眠り夢を見る。

『一つのはしごが地に向けて立てられている。その頂は天に届き、見よ、神の使いたちが、そのはしごを上り下りしている。』創世記28:11.12

そして神様がその夢の中で沢山の約束をする。上のことばはその一部。「あなたとともにあり、あなたがどこへ行っても守り、連れ戻そう。あなたを見捨ず、約束を果たす。」

今、同じように、孤独と恐れの中にある人に、神様は御使いを使わし、祈りを天まで届けてくれている。そして、すべての人が離れていっても、わたしはともにいて、守り、約束を果たすまで見捨てないと語られる。

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2008年7月19日 (土)

孤独な心を埋めるもの

『私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し…』第1ヨハネ4:10
三つ子の魂、百までというが、幼いとき、周りから愛情を適度にうけてないと、心の空白は大人になってからではなかなか埋められないのだと思う。20才の頃、私も孤独が押し寄せ、どうすることもできなかった。それは、きっと、周りにどんな優しい友がいても、その優しさを受け止める心のセンサーが壊れてるので、受け止められない。埋まらない。誰にも埋めることのできない暗く深い穴を埋めてくれるのは、私たちを創られた神様だけと私は体験した。私は今、孤独な人の隣で何もできないだろう。でも、心を埋めてくださる神様がいるよと言い、その人のために、神様が愛で満たし溢れ、流してくれることを祈りたい。

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