孤独

2009年6月11日 (木)

孤独の夜に…

昔、イエス様を知らず、孤独が迫ってきました。今、イエス様の孤独があることを知り始めました。

『見よ。わたしはあなたとともにあり、あなたがどこに行っても、あなたを守り、あなたをこの地に連れ戻そう。

わたしは、あなたに約束したことを成し遂げるまで、決してあなたを捨てない。』旧約聖書 創世記28:15

大学を中退した私は、東京に出てきて、デザイン学校に入った。

大都会の中の3畳のアパートに住み、バイトと学校の往復で、声をほとんど発することもなく過ごした。

そんな私も何か月かすると、そこが生活の場になり、知り合いもできていった。

生きる動機に欠けていた私は、何をやってもうまくいかず、やがて、バイト漬けの毎日で、学校の課題がたまっていった。

バイトの寮で、青山のど真ん中に移った。課題がたまって、「このままだと大変だよ。次にあがれないよ。」と3人くらいの男の子たちが、徹夜で課題を手伝ってくれた夜があった。

朝がた、牛丼を買いに行く途中、渋谷のビルの谷間から昇る朝日を見た。

いい友人たちがいるのに、やっぱり心の深いところで孤独を感じている私がいた。そこはイエス様でなければ、決して埋まることのない孤独だったのだと思う。

イエス様に出会って、私を悩ませていた孤独は全く無くなった。

「孤独だ」と嘆くクリスチャンの友人には、「それは、神様ときちんと交わりをしないからだよ。」と平気で言ってきた。

今、イエス様ととても近くにいる感じがする。

そして、時おり、イエス様のとてつもない孤独をわずかだけ見せられる。わずかだけなのは、私には耐えられないから…。

イエス様の歩まれた悲しみの道、イエス様が経験された孤独の道…いままで、知らなかったけど、少しだけ、聖霊様によって教えられる。

イエス様を知らなかったときの私

イエス様の十字架の孤独の道を知らなかった私

孤独が消えて、万々歳と思っていたけど、イエス様といながら、イエス様の心がわからなかった私

「友人よ、あなたが孤独だとうなるとき、神様と交わりしないからだと言った私をごめんなさい。」

「イエス様、あなたの気持ちを知ることよりも、いつも私自身ばかりだったことをごめんなさい。あなたについて行きます。あなたが悲しみと孤独の道を歩まれたから。あなたが、悲しみと孤独を癒されるお方です。」

###

天のお父さん、この地は痛みや悲しみや孤独に満ちています。

イエス様が闇の中に持っていく慰めと希望のともしびは消えることがありません。

私もイエス様のあとをついて行きます。

イエス様のいないところにともしびがともりますように。

イエス様がいてくださって、なお、孤独なところのともしびを温かく、大きくしてください。

私たちがたくさんの慰めと喜びのともしびを人々の中に見ますように。

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2009年5月 1日 (金)

私の初めが神の初めとつながった日(創1:1)

私の初めは、神様の初めにつながっているすばらしさを思います。

『初めに、神が天と地を創造した。』旧約聖書 創世記1:1

私は、病気になって交流がなくなってしまった父と、私と全く違う価値観を持つ母に育てられた。ありったけ、「私は私であるな」と自己否定を身につけた私は、20歳の頃は、人生のさ迷い人だった。

虚無感と孤独の渦の中にいた私は、自分の心の中でいつも問いかけていることがあった。

それは「私は何のために生きているんだろうか?」ということだった。自己否定、自己嫌悪にさいなまれながら、なお「私は何のために生きているのか?」と、うめくように、激しく問い続けていた。

22歳の3月のある日、私はクリスチャンの友人の祈りの中、神様に出会った。それまでも、聖書を読んでいたが、まさにその日、神様に出会った。私の中で何かが変わった。同じ場所にいながら、全くちがう世界に入っていった感覚だった。

「私はどんな存在で、何の役にたつためにいるのか?」そんな悩みをもった人間が、私を造った製作者に出会った…という感じだろうか。

その日、製作者に出会った私は、それだけで良かった。私は何者なのか…、私は何をすれば良いのか…、私はどこに向かっているのか…、そのときは何も分からなかったが、すべてを知っている方に出会ったので、すべてが瞬時に解決したかのようだった。

その日以来、私は苦難のときも、順風満帆なときも、神様がいないかのように遠く感じられたときも、ずっと製作者のいる世界の側にいるのを実感してきた。

私の人生は、造られた方に出会うことによって、すべてに意味があるものとなった。

神様は私たち一人一人を、私たちが生まれる前から見ておられ、私たちが呼吸をする前から私たちの一生の一日一日のスケジュールを作られた。(詩篇139:15.16)

神様は私たちを世界が始まる前から知っていてくださり、私たちをキリストにあって、愛する対象として造られた。(エペソ人への手紙1:4)

『初めに、神が天と地を創造された。』 それは、聖書の初めの一行であるだけでなく、神様の始まりの一行であるだけでなく、私の生きる意味を見い出す一行なのだなぁとしみじみ思った。

###

神様、あなたが世界を造られ、私を造られたことをありがとうございます。

私は造られた方を知ったので、私の人生が偶然で成り立っているのではなく、造られた方の意図によって計画され、期待され、配慮されていることを知っています。

いつも、この造られた方に戻り、私がその造られた方の意図に沿って、最大限に“私らしく”生きていけるように祝福してください。

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2009年4月10日 (金)

十字架以外に誇りなし

「イエス様の十字架だけが私の誇りです。」と言うことが出来る素晴らしさをしみじみと思いました。

『しかし私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはなりません。

この十字架によって、世界は私に対して十字架につけられ、私も世界に対して十字架に十字架につけられたのです。

割礼を受けているか受けていないかは、大事なことではありません。大事なのは新しい創造です。』新約聖書 ガラテヤ人への手紙6:14.15

私が神様に出会ったのは、すべてのどん底…と思えるような中だった。

大学を中退し、東京に出て来て、グラフィックデザイン関係の専門学校に通った。が、続かなかった。比重を占めていたそば屋のバイトも危うくなり、心は孤独と虚無感でおおわれていた。

そんな弱さと挫折と生きる気力の無い中で、神様に出会った。

イエス様の十字架とか、聖書のことはほとんど理解していなかったが、「私を生かしてくださる方がいる。」と実感したときだった。そして、その瞬間からまったく今まで考えたこともない世界に入った感じだった。

それは、挫折ばかりする私だったが、努力や能力や意志の強さとは無縁の“生かされる世界”だった。弱さや足りなさがあってもそのままで、内側から湧き出る喜びのある世界だった。

私は嬉しくて、嬉しくて、たくさんの友人たちに「神様は私たちを愛しているのよ!」と部厚い手紙を書いた。友人たちからは「大丈夫?」と言われた。

私の苦しみは教会生活が始まって4年位してから始まった。初めはただ奉仕が楽しくって仕方なかったのに、教会で語られるメッセージが苦痛で仕方なくなった。

聖書のことが語られているみたいだが、私には親から言われるお小言と同じように聞こえた。

教会はいくつか変わったが、そのたびにメッセージがつらく、砂をかむような思いで聞いた。

そして、大事な恵みの神様と違うことを話されていることが赦せない…というところに至った。それでも、何故か教会の礼拝に行き続けた。私の教会生活で、一貫した悩みが、教会のメッセージだったのだ。

今は、神様はそれぞれに与えてくださってる役割があると思えるようになった。私が人を神のように期待した罪も示され、悔い改めた。人ではなく、神様に期待することが出来るようになった。

私はあの苦しみが、今、ブログに“神様の恵み”を書きたいと駆り立てられる思いになっているのに気がついた。あの苦しみは、本当に私にはなくてはならないものだったと思う。

「私には、イエス様の十字架以外に誇りとするものはない」この告白は、私の努力や能力や意志の強さや立派な行いはいっさい関係がない。私は私の弱さを赦してくれたイエス様の愛によって支えられているということだ。

18節の“割礼”は私にとって何か。「“努力や意志の強さによる良い行い”をしているかどうかは関係ありません。私にとって大事なのは、“イエス様によってもたらされた神様との新しい関係”です。」となるのだなぁと思った。

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2009年2月13日 (金)

“ひとりぼっち”

孤独を感じている人は、気がつかない中、私たちのまわりにいるのかもしれません。

『わたし(神)は決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。』新約聖書 ヘブル人への手紙13:5

自殺願望があって、自殺の名所に行くような人が、人に話しを聞いてもらうだけで、自殺を思いとどまる話しを聞く。

人は追い込まれると、自分は天涯孤独なんだと思うのかもしれない。そんな中、たとえ知らない人であっても優しく声をかけてもらい、親身になって話しを聞いてもらうだけで、少し生きてみようという気持ちになるのかもしれない。

かつての私の場合は、心のセンサーが壊れて、まわりに親身になってくれる友人がいても、孤独のどん底だった。孤独がまとわりついて、生きていくのが辛かった。

最終的に心の奥底の孤独は、環境や人によらず、神様が埋めてくれるものと私は信じている。心に空いたピースの形は神様だけが知っていて、神様がピッタリと埋めてくれると…。

あるボランティアの新聞に「熟年の心理を襲う最大の課題は『ひとりぼっち』になるということ」とあった。

これを読んで“ひとりぼっち”と感じているのは、熟年ばかりではない…と思った。

一人で負いきれない中、子育てをしてる人、働きたいのに働けずやるせない思いでいる人、いろんな人たちが人ごみの中で“ひとりぼっち”と感じてるのかもしれない。

孤独に苦しんだことのない人にはわからない世界かもしれない。孤独を体験し、慰めを体験した者に祈れる祈りがある。

私は地域でつながりを大切にしたいと願っているけど、言い替えれば、自分の地域に“ひとりぼっち”で悲しむ人を少なくしたいということかなぁと思った。

かつての私は孤独で孤独で、泣くばかりの日だったが、忘れたくない思い出である。

神様、かつて孤独だった私の心に神様が来てくださり、いつも知っていてくれ、いつも相談にのってくれ、理解とさとしと慰めを与えてくださることをありがとうございます。それゆえに、私は孤独でなくなりました。
限界のある者なので、人の心奥底はわかりませんが、神様が私を思ってくれる思いが、私を通して、人にも流れていきますように。神様は造られたすべての人を大切に思っていることを人々が知りますようにお願いします。

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2008年12月 1日 (月)

孤独の叫びの先に

孤独には幾つかの種類があると考えています。人に受け入れられない孤独、神様に出会わない孤独、罪を犯したときの神様からの断絶の孤独…イエス様の孤独だけはただ私たちのために経験された物でした。

『イエスは大声で…叫ばれた。「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」』新約聖書 マタイの福音書27:46

神様を知らなかった頃、私は孤独だった

親に受け入れられず、心のセンサーは壊れていた

たくさん優しい友はいた…が孤独は付きまとった

大学中退、東京に出てきて私は孤独だった

一日中誰とも話すことなく過ごし、私の友は日記だった

人が居ても居なくても私の孤独は変わらなかった

夜な夜なお酒を飲んで 日記に孤独の思いを書きなぐった

孤独のどん底…もう生きていけない…そんなとき神様に出会った

その日私の内から愛されてる温かいものが溢れて私を包んだ

神様を知っての日々の中たくさん神様を悲しませてきた

神様が遠くに感じられる日々もあったが神様の私への思いは変わらなかった

今神様が近くに感じられる

どんな友より神様が私の相談相手

イエス様はたくさんの孤独を経験された

弟子に裏切られ、偽証され、人に罵られた

父なる神様が共にいてくださることがイエス様の支えだった

が十字架の上で叫ばれた

「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」

肉体的苦痛と共にイエス様はこのとき霊的な苦痛を体験された

神様と断絶することで

しかしその耐え難い孤独は私たちのためだった

「あなたの孤独は私が引き受けた。赦しを受け取り神様の父なる愛を受け取りなさい。」

イエス様は今日もこのように語られる

誰によっても埋まらない孤独な心にキリストによる神様の愛が溢れますように

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2008年11月18日 (火)

孤独を抱えたある中学生

一人の少年について書きます。

『悩んでいる者や貧しい者が水を求めても水はなく、その下は渇きで干からびるが、わたし、主(神)は、彼らを見捨てない。わたしは、裸の丘に川を開き、平地に泉をわかせる。荒野を水のある沢とし、砂漠の地を水の源とする。』旧約聖書 イザヤ書41:17~18

一ヶ月程前、息子が通う中学に役員の仕事で出かけた帰り。正門のところである生徒を見かけた。まだ、帰るには少し早い時間で「あれ?早退の子かな?」と思った。彼は無表情で、カバンをさげて前を見ながら、すたすた歩いて正門を出ていった。すると、50メートルの距離をあけて、学校の男の先生が慌てることもなく、走って追いかけるでもなく、等間隔でずっと歩いてその子どものあとをついて行った。

隣にいた私の友人が、短く彼の家庭環境と最近の彼の行動を話してくれた。その話しを聞きながら、その彼は曲がり角を曲がって見えなくなり、しばらくして先生も曲がり角に消えて行った。

あの先生は途中であの子に追い付くのだろうか、誰もいないあの子の家まで行くんだろうか、ちょっと考えた。

両親の様々な事情で、きちんと親に向き合ってもらえずにいる彼の孤独の無言の叫びを聞いた気がした。

学校ではかなり有名で、彼の悪い噂を何人かから聞いていた。

彼の姿を見て、まだ、幼いあどけなさを残し、子どもと青年の境目にいる彼の悲しい心中を思った。

子どもたちは、自分の家庭しか知らないから、自分が親に愛されているか、いないかはわからないと心理学のある本にあった。

人は愛されるため、育ててもらうために生まれてきたのに、一番大切なものを受けられなかったら、生きていけない程辛いと思う。

自分の孤独な状況を客観的にもみれず、心はすさみ、荒れ果てていく、その少年。まわりに先生とか大人はいるがなかなかその隙間は埋まらないのだろう。黙ってついていって、あのあと、先生は追い付いて何を話しただろうか。

彼のように、心に孤独と闇を抱え、どうしていいかわからない子どもたちがたくさんいるのだろう。

何も出来ない私はその子を神様に見せてもらった気がして、思い出すたびにお祈りしている。

神様、子どもが悪い訳でもないのに、親たちや大人たちの事情で孤独な思いをする子どもたちに目を注いでくださり、彼らの深い孤独をおおい包んで、慰めてください。

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2008年10月31日 (金)

苦痛の経験が産んだもの

何故、私たちは苦しみに出会うのでしょうか。

『もし私たちが苦しみに会うなら、それはあなたがたの慰めと救いのためです。』新約聖書 第2コリント人への手紙1:6

「姉さん、僕頑張ったからね。」とおじさんが母に話しかけるのを聞いてしまった。

両親が生前の時、父の退職祝いで、親戚が一同に集まったときだったと思う。おじさんが、私に「お前はいったい、何がしたいんだ。」と聞いてきた。私は自分の将来に対する正直な気持ちを話した。その答えとして、おじさんが何を話したかは一切覚えていない。

つまり、母は娘が理解に苦しむ選択ばかりするのを心配して、おじさん(母の弟)に説教を頼んだらしい。

いつでも娘の思いを聞ける近い距離にいながら、全く理解が出来ず心配し、気を揉む母に、どこまでいっても、水と油のように接点がなく、理解してもらうことは出来ないんだと、その現実を改めて突き付けられた気がした。

母は我が子を心配し、母なりに愛情を注いでくれた。が、そのときは、一番理解してほしい人に理解されないことに悶々とした。その影響は大だった。理解されない私はすさんでいった。

「5つの目的」の本に「苦痛の経験こそ、神があなたをミニストリー(奉仕)へと準備させるために最もよく用いられる経験です。神は決して痛みを無駄にはなさいません。」とある。

私にとって、理解される、理解するということは、とても大切なテーマとなった。神様に理解され、人を理解したいと思うようになった。…もちろん、限界はあると思うが。

あの母から理解されない渇望が、理解したい渇望へと変えられた。

もし、苦しみがあるならば、誰かの慰めと救いへとなりますよう、祈ります。

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2008年10月24日 (金)

孤独なモンスターペアレント

まわりに愚痴ったり、ちょっと相談できる人がいるだけで、大騒ぎにならないということもあると思うのです。

『捕らわれ人は、すぐ解き放たれ、死んで穴に下ることがなく、パンにも事欠かない。』旧約聖書 イザヤ書51:14

私が小学のPTAで長をさせてもらってるとき、「しらみ事件」が学校で起こった。しらみになってしまった子どもがいたのだが、あるお母さんが「そんな不衛生な子どもがいるなら、自分の子どもは、それがなくなるまで、学校に行かせません。」と学校に言ったのだそうだ。「排除の論理だ。」と校長は嘆いていた。

その保護者の方は、今のしらみは、海外旅行などした人がもってくるもので、そこからの感染で、不潔にしていたら、自然発生でなるではないことを知らなかったのだと思う。戦争中のあの忌まわしいあり得ないことが起こったかの如く驚いたに違いない。が、プール時などのタオルの接触を通してなど、感染してしまうことはあるらしい。

その事件以後、毎年、もしシラミがあったときの対処の手紙を出すようになった。

もし、その保護者が、毎年、シラミが感染してしまうこともある、それでも、指定のシャンプーを使えば大丈夫、すぐ治ることを知っていたら、また、誰かに相談できていたら、大事にならなかったのではないかと思う。

モンスターペアレントという言葉が出来て、久しいが、文句を言ってくる親はすべて悪い、アウトというのは、おかしいと思う。

たしかに現場の先生たちも大変だし、保護者の対応だけで、労力を使い果たしては、本来の子どもの指導ができない。

しかし、その保護者たちは孤独で、小さな情報に敏感になっている。昔と違って経済的にも豊かで、子どもも少なく…だから、子育てが楽かというと、とても負いきれないほど、大変だったりするのかもしれない。

地域、近所で子どもを育てていたのが、今はドアを締め切り、一人っきりで子育てしていたりする。

モンスターペアレント対策をする前に、この孤独に子育てして悩む人たちにほっとしてもらい、一緒に考えていく、そんな配慮がなされればなあと思う。

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2008年10月18日 (土)

孤独にささやく声

孤独をテーマにブログを書くとき、私はいつも東京に出てきたばかりの頃の自分を思い出します。

『エリヤは答えた。「…ただ私だけが残りましたが、彼らは私のいのちを取ろうとねらっています。」主(神)は仰せられた。「外に出て、山の上で主の前に立て。」…しかし、風の中に…地震の中にも主はおられなかった。…火のあとに、かすかな細い声がした。』旧約聖書 第1列王記19:10~12

大学を中退して、東京の3畳のアパートに引っ越ししたとき、孤独は付きまとったが、それ以上に声を出す機会がなかった。

「おめでとうございます。あなたは、たくさんの人から今回選ばれました。」という田舎から出てきた人をターゲットにするキャッチセールスにも騙された。

電話も、メールもなく、声を出さないと人はたまってしまうことを経験した。

姉が遊びに来てくれたとき、どうでもいい話しで話しがブァーとあふれ出て、止まらなかった。

あの頃、日記が私の友だった。

ある人は、物理的にか精神的に孤立して、人と会話をしないこともあるかもしれない。うわべの話しは表面を過ぎていき、心の渇望が深まるばかりとなることもあるかもしれない。

エリアはニセ預言者と戦い、勝利したが、そのあと極度の疲れの中、自殺願望をもった。「旅は遠いのだから、起きて、食べなさい。」と御使いに言われ、そのとおりにし、力を得た。神様は「エリヤよ、何をしているのか」と言われ、そこに答えたのが上記の言葉。

いろいろな自然現象の中に神様はおらず、語りかけがなかった。そして、やっと、火のあとに、聞き取れないような神様の声がした。

自分たちのまわりにどんなにたくさんの人たちがいても、孤独はその内側からやってきて、まわりと遮断する。たくさんの人が声をかけたとしても、その孤独には届かないかもしれない。

だから、その孤独の心に誰かの言葉が、ちょっとでも届くように祈る。かすかな細い声であっても、必要な声が慰め、癒してくれますように。

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2008年10月11日 (土)

闇の社会に光が来ますように

暗い話しが多く、闇が覆う世の中で、真実の希望がくることを祈ります。

『そのうちに彼らは言うようになった。「さあ、われわれは町を建て、頂(いただき)が天に届く塔を建て、名をあげよう。われわれが全地に散らされるといけないから。」…こうして主(神)は人々を、そこから地の全面に散らされたので、彼らはその町を建てるのをやめた。それゆえ、その町の名はバベルと呼ばれた。』旧約聖書 創世記11:4~9

私たちの住みかは、急激に変化している。ニュースでは、連日のように殺人事件が報道される。格差社会、高齢介護、詐欺やネット犯罪、なんだか闇がどんどん広がる。弱者と言われる人たちが、生きていくのに、しんどい時代。

日本の豊かな経済成長とともに、生活スタイルも、大切にする価値観も違っていく。そんな中で人間関係が希薄になる。

何から、どこから狂ってきたのか、私にはよくわからない。人間は努力の中、豊かになると、そこから堕落して衰退していくのだろうか。聖書でバベルの塔の話しはそのようなことを暗示している。

秋葉原連続殺人の後、朝日新聞に次のようなコメントがあった。「容疑者が求めたものは承認だと思う。だが安定労働層に、皆が幸せになるためには生活レベルを落としてもいい、との発想はない。自分さえ良ければいいのだ。」(赤木氏)「思いこみと勘違いがあっても、身近に「お前、そんな話しを真に受けているの。」と言ってくれる人がいれば誤解は減る。」(宮台氏)「皆はこの社会の常識に守られているが、私は守られていない…と誰かが苦痛を感じたとき…常識を盾にその人を無視したり排除したりするべきではないだろう。常識を大切にする立場から、常識自体の中身を見直すべきだ。人々が人間的な連帯感で結ばれる瞬間にこそ、人が不幸を幸福に転ずるチャンスは訪れるはずだから。」(なだいなだ氏)

社会の孤独と苦悩とそのひずみに、できることは少ないけれど、基本の人間関係の回復が大切なことを思う。

神様、この世の闇に、神様の慰めと希望の光が現されますように。

Hana0919

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