“養い育てる天の父”
天のお父さんの前に、子ども時代を過ごす大切さを思いました。
『ですから、あなたがたは、すべての悪意、すべてのごまかし、いろいろな偽善やねたみ、すべての悪口を捨てて、
生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、みことばの乳を慕い求めなさい。
それによって成長し、救いを得るためです。…
主のもとに来なさい。』新約聖書 第1ペテロの手紙2:1~4
子どもが子どもとして、その時代を過ごさないと、大人として成長できないことを思う。
小さいときの子どもの仕事は“遊ぶこと”であり、“わがままを言う”ことかもしれない。
そんな中でいろんな体験をし、経験を積み重ねる。そんな中で、自分が大人たちから愛されていること、受け入れられていることを知り、間違いを正されることを学ぶ。
同じように、クリスチャンもまた、子ども時代を経ないと大人になれない。
私は息子と祈った2つの祈りを今日、鮮明に思い出した。
一つは、私が息子と毎日毎日遊ぶ3歳の頃、お気に入りのドラミちゃん人形(2センチ位の手のひらにのる物)を、さっきまで遊んでいたのに、無くしてしまった。
探しても探しても見当たらない。
「おかしいねぇ。神様にお祈りしてみようか。神様、ドラミちゃんを見つけてください。」
すると、どちらが入れたのか、ツリーの長靴の中から見つかった。
もう一つは、息子が小学4年のとき、不登校ぎみになる。
「ママ、どうして学校に行かなくてはならないの?」
来る日も来る日も聞いてくる。はじめは、立派な大人になるためとか適当に答えていたが、私も変えられていく。
「そうだね。それじゃさ、どうして学校に行かなくてはならないか、神様に聞いてみようか。ママも20歳のとき、何のために生きるのか神様に聞いて、答えを教えてもらったんだよ。」
「うん、祈る。その答えがわかったら、僕、洗礼を受ける。」
結局、その答えはわからないまま、また、なんとか学校に行き続け、その祈りもその何回か止まりだった気がする。
168センチの大きくなった中2の息子は、「母親はご飯を準備してくれれば、あとは困らない。」という感じで、生意気になった。が、そのときの習慣の名残が一つだけある。
それは、毎月送られてくる80円のキリスト教冊子らみい(15ページ位のマンガ冊子)を欠かさずに読んでいること。
今は教会にも行かないが、子どものような食べ物(冊子)を食べ続けている。
私は神様の前にたくさん、わがままを言ってきた。そんな私に天のお父さんは優しく一つ一つ教え、さとし、養ってくれた。
今、私の天のお父さんへの信頼は、子ども時代のたくさんのわがままな祈りの積み重ねの結果だと思う。
私はそうやって、少しずつ天のお父さんを知り、信頼を深めたのだと思う。
綺麗な祈りや求めを神様は望んではいないと思う。
本音の、身近な必要に応えてくれる神様は、やがて、私たちの信仰を成長させ、私自身を越えた約束を祈る者としてくださる。
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