日常生活-子育て

2009年7月14日 (火)

“養い育てる天の父”

天のお父さんの前に、子ども時代を過ごす大切さを思いました。

『ですから、あなたがたは、すべての悪意、すべてのごまかし、いろいろな偽善やねたみ、すべての悪口を捨てて、

生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、みことばの乳を慕い求めなさい。

それによって成長し、救いを得るためです。…

主のもとに来なさい。』新約聖書 第1ペテロの手紙2:1~4

子どもが子どもとして、その時代を過ごさないと、大人として成長できないことを思う。

小さいときの子どもの仕事は“遊ぶこと”であり、“わがままを言う”ことかもしれない。

そんな中でいろんな体験をし、経験を積み重ねる。そんな中で、自分が大人たちから愛されていること、受け入れられていることを知り、間違いを正されることを学ぶ。

同じように、クリスチャンもまた、子ども時代を経ないと大人になれない。

私は息子と祈った2つの祈りを今日、鮮明に思い出した。

一つは、私が息子と毎日毎日遊ぶ3歳の頃、お気に入りのドラミちゃん人形(2センチ位の手のひらにのる物)を、さっきまで遊んでいたのに、無くしてしまった。

探しても探しても見当たらない。

「おかしいねぇ。神様にお祈りしてみようか。神様、ドラミちゃんを見つけてください。」

すると、どちらが入れたのか、ツリーの長靴の中から見つかった。

もう一つは、息子が小学4年のとき、不登校ぎみになる。

「ママ、どうして学校に行かなくてはならないの?」

来る日も来る日も聞いてくる。はじめは、立派な大人になるためとか適当に答えていたが、私も変えられていく。

「そうだね。それじゃさ、どうして学校に行かなくてはならないか、神様に聞いてみようか。ママも20歳のとき、何のために生きるのか神様に聞いて、答えを教えてもらったんだよ。」

「うん、祈る。その答えがわかったら、僕、洗礼を受ける。」

結局、その答えはわからないまま、また、なんとか学校に行き続け、その祈りもその何回か止まりだった気がする。

168センチの大きくなった中2の息子は、「母親はご飯を準備してくれれば、あとは困らない。」という感じで、生意気になった。が、そのときの習慣の名残が一つだけある。

それは、毎月送られてくる80円のキリスト教冊子らみい(15ページ位のマンガ冊子)を欠かさずに読んでいること。

今は教会にも行かないが、子どものような食べ物(冊子)を食べ続けている。

私は神様の前にたくさん、わがままを言ってきた。そんな私に天のお父さんは優しく一つ一つ教え、さとし、養ってくれた。

今、私の天のお父さんへの信頼は、子ども時代のたくさんのわがままな祈りの積み重ねの結果だと思う。

私はそうやって、少しずつ天のお父さんを知り、信頼を深めたのだと思う。

綺麗な祈りや求めを神様は望んではいないと思う。

本音の、身近な必要に応えてくれる神様は、やがて、私たちの信仰を成長させ、私自身を越えた約束を祈る者としてくださる。

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2009年7月 7日 (火)

“息子のピアノ”

息子のピアノを聞いて、私たちの神様からの能力もまた、レッスンが必要なのだなぁと思いました。

『主に感謝することは、良いことです。いと高き方よ。あなたの御名にほめ歌を歌うことは。

朝に、あなたの恵みを、夜ごとに、あなたの真実を言い表すことは。

十弦の琴や六弦の琴、それに立琴によるたえなる調べに合わせて。』旧約聖書 詩篇92:1~3

我が家では、今までにない珍しいことが起こっている。

それは、13歳の息子が、ピアノを自分から1時間も2時間も弾くようになったことだ。

息子は3歳からヤマハ音楽教室に通った。主人が音楽が好きで、息子には、楽器をやらせたかったらしい。

幼稚園に通うころは、すぐに簡単な曲を弾く息子に、私たちは親ばかで、天才かと思う。しかし、「1%の才能と99%の努力」と言われる。その99%がない。

小学1年からピアノの個人レッスンに通うが、普通の子どもと変わらず、練習嫌いに苦労する。

いつか、神様に仕える奏楽者になってほしいというのは、私の密かな願いだった。

息子が6年の初めに将棋に出会うまでは、「一日少なくとも30分、多くて1時間は練習をやろう」と声かけしてきた。

検定もたくさんチャレンジしたので、怠け者といえど、かなりハードに目標定めてやってきた。

将棋に夢中になってから、ピアノはレッスン当日のみになってしまった。「月謝も高いから、辞めていいよ。」と言ったが、「辞めたくない。」とのこと。

ほこりをかぶったピアノだったが、急に毎日1時間以上弾くようになった。

友だちから「ゲームの難しい曲を弾いてくれ」と楽譜を渡され、頼まれたらしい。

自由に楽しく好きな曲を弾いている。私は2階で、ピアノの音を聞きながら、今までの苦労が報われたなぁと、嬉しくなる。

神様の世界は、無理強いは禁物である。が、私たちに与えられている能力を整え発揮するために、ときに、厳しい訓練を通されることもあるのかもしれないと、楽しそうな息子のピアノを聞きながら思った。

ヨセフのように知らずに、環境の中で訓練されることもあるし、はっきり知り、訓練させてもらうときもある。

私たちのレッスンの先生は、神様なのだろう。

持っていても使わないと、増やされないとはそういうことも含んでいるかもしれない。

私は、人とともに祈るのが好きだけれど、はじめは人の祈りが新鮮だった。人と祈り、人から学んだり、状況から学んだ。

そして、だんだん与えられているものが訓練され、神様にあって自由に使えてくるようになるのだなぁと思った。

今の教会の現状は規則とか、聖書のことばに拘束されやすいことが多いから、「努力しよう」とは言いたくない。

けれども、神様が、計画があっての訓練、神様のレッスンは、神様の愛に応答するものにとっては、苦痛なものではなく、自由に与えられているものを使えるための恵みになる。

一人一人に与えられている特別な神様からの能力が、レッスンされ、祝福されますように。そして、神様にある生きがいとなり、神様とともにある喜びを体験できますように。

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2009年6月30日 (火)

“聖書のことばを食べる”

いのちを保つための食べ物について考えました。

『いのちを与えるのは御霊(みたま)です。肉は何の益ももたらしません。

わたし(イエス)があなたがたに話したことばは、霊であり、またいのちです。』新約聖書 ヨハネの福音書6:63

中学に通う息子は、身長168センチで、45キロととても“おやせ”だ。

偏食ぎみで、小さいときから痩せていた。

小学生のときは、あんまり体重が増えないので、一キロ増えたらご褒美物だった。リビングにはそのときのなごりの体重計がホコリをかぶって置かれてある。

健康を保つのに、食事は大切だ。が、それも無理じいになると苦痛になる。

私は、育った家庭での食事が苦痛だった。

味つけが濃かったのと、いつも「残しては駄目だ。」と小言を言われながら食べていたからだ。

だから、息子にはきちんと食べるようには言えない自分がいた。

イエス様のいのちにつながり続けるため、私たちは聖書のことばを食物として食べる。

が、美味しいご馳走も無理じいされては、食べたくなくなる。

「恵みの歩み」の本を書いたマクベイ師が言っていたことを、ふと思い出した。

「聖書は読まなくていい。無理に祈らなくていい。」

それはつまり、「ご飯を食べたくなければ食べなくてもいい。」と言うことであり、「それでも、お腹が空くと、食べたくなるのだから無理をしなくていい」と言う意味合いだったのかなぁと思った。

本来、“聖書を読む”とか“祈りをする”というのは、“美味しいご馳走を食べる”“親しい人と語らう”という楽しく、素敵な特権であるはずだ。それなのに、どこで間違えたか、小言か命令になったとたん、苦痛に変わってしまう。

美味しいご馳走を食べた人は、そのご馳走を無理じいはしない。

まず、私自身にとって“聖書を読む”ということが、すばらしいことであることが、そのことを人に勧めるとき、相手の人に期待を持たせることにつながるのかもしれないと思った。

給食だけは、残さず食べる息子ももうすぐ夏休み…いかに美味しいものを一緒に食べられるか、母の大きな課題である。

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2009年4月30日 (木)

禁止命令に満ちた世の中

中学校からきた息子のプリント(お手紙)を見て、とても教えられたことを分かち合います。

『もしあなたがたが、キリストとともに死んで、この世の幼稚な教えから離れたのなら、どうして、まだこの世の生き方をしているかのように、

「すがるな。味わうな。さわるな。」というような定めに縛られるのですか。

そのようなものはすべて、用いれば滅びるものについてであって、人間の戒めと教えによるものです。』新約聖書 コロサイ人への手紙2:20~23

中学2年の息子の、学校からのプリントを見て驚いた。ゴールデンウィークの過ごし方が書かれてある。なんと禁止命令、指示命令の多いことか!

「〜しなくてはなりません。」「〜しましょう」極めつけは、「自らを厳しくコントロールして、次の行為は絶対にしないでください。具体的な内容は自分で考えましょう。1、生活習慣を乱す行為
2、法にふれる行為 3、危険な行為 4、迷惑をかける行為」そして、横にストップと書いたイラストがある。

学校に迷惑をかける困ったことはしてくれるなという気持ちはわかる。が、子どもたちは、果たしてこのプリントを読むだろうか。

子どもたちも禁止命令に縛られ、気の毒な気もする。

実は、私たちは生まれたときから、「〜してはいけません。」「〜しなさい。」という世界に浸って生きてきた。(親の守りの言葉もあるから、すべてが悪いとは思わないが…)

してみると、神様の子どもになるには、ただイエス様の十字架を信じれば良かったのが、神様の子どもになったとたん「聖書の良い教えに従って、神様に喜ばれる子どもになりましょう。」という世界になりやすいのは、当然のことかもしれない。

私たちの“ただ信じるだけで良い”世界は信仰の入り口だけではない。そのイエス様という門をくぐったら、ずっと続くのである。

私は教会の中に、「ただ信じていく世界」でなく、「良い行いを追及する世界や自分の意志で頑張る世界」が普通に入っていることに、気が滅入っていた。けれども「ただ信じる世界」を保ち続けるということは、本当に難しいことなのだと、朝、子どものプリントを見て思った。

『しかし私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはなりません。』ガラテヤ6:14

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神様、私は教会の中がどうして、イエス様以外のもの(良い行いなど)が大事にされるのかと葛藤してきました。

けれど、実は、私たちの長年染み付いた習慣がそれで、今、生きている世の中も「〜しなさい」「〜するな」の世界なので、その中から抜けるのは本当に大変なのだと教えられました。

「キリストの十字架だけがすばらしい」と告白し、行動に縛られる世界から解放され、ただ赦されている喜びを動機とした世界に私たちを移してください。

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2009年4月28日 (火)

思い出しました…

子育てに励む立派なお母さんたちの話しを聞き、思ったことです。

『しかし神は、知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれたのです。

また、この世の取るに足りない者や見下されている者を、神は選ばれました。すなわち、有るものをない者のようにするため、無に等しいものを選ばれたのです。

これは、神の御前でだれをも誇らせないためです。』新約聖書 第1コリント1:27.28

今日は、中学でやっている役員の代表者会議が、市役所であった。講演もあり、「子どもたちの性を考える」と題して、男の子と女の子の体のつくりの違い、性欲の違いなど、とても具体的に分かりやすく話された。我が息子も中学2年で、彼の中にどんな変化が起こっているのか、少し理解できた気がする。

思春期に、男の子の多くは、性欲が出てきて(体の基本的な成長)家庭の中にいる異性である母に距離をおきはじめるとあった。

そういえば、息子は最近急に、こたつをかたずけてから、リビングで過ごさす、部屋で過ごすことが多くなった。可愛い一人息子だが、最近は、私もブログを書くのに熱中し、子離れできてよかったなぁと思った。神様がいなかったら、私は子どもが一番で、子どもが神になっていたかもしれない。

帰りにお母さんたちとランチした。皆、立派なお母さんたちで、「私は子どもをこう“しつけ”しているのよ。」などと聞くと、“しつけ”能力がなく、主人に任せている自分を見せつけられる。

私が思春期の頃、母に受け入れられなかったので、私自身は子どもを受容する力だけはあるんじゃないかと思うけど、子どもをしっかり育てられる程、信念もなく、努力もなく、改めて、神様の憐れみで子育てさせてもらっているんだなぁと思った。

この世の中では、
愚かな者、弱い者、取るに足りない者、見下されている者…そんなものが、神様がほめたたえられるために選ばれた。

私は心が癒され、神様の安らぎの中に憩っていると、忘れてしまいそうだけど、神様無しでは生きていくことのできない者なのだなぁと思う。

努力家で、信念があって、立派な人たちの中にあって、“頑張る世界”ではビリッケツのようなものだけど、頑張らなくていい世界に生かされているのを感じた。

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神様、この世の取るに足りない私を選んでくださってありがとうございます。

時々、忘れてしまいますが、神様無しでは育児どころか私自身が生きていくことすらできない者だということを思い出しました。

ただ、神様、あなたのあわれみによって、この世の人たちには隠されているイエス様のいのちによって生かされていることをありがとうございます。

この世の取るに足りない者を通して、神様がすばらしいことが証され、表されますようにしてください。

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2009年4月15日 (水)

便利な世の中

本の注文一つとっても、便利になったと思います。が、変わらない大切なこともあることを思います。

『私は一心に知恵を知り、昼も夜も眠らずに、地上で行われる人の仕事を見ようとしたとき、すべては神のみわざであることがわかった。

人は日の下で行われるみわざを見きわめることはできない。

人は労苦して捜し求めても、見いだすことはない。

知恵ある者が知っていると思っても、見きわめることはできない。』旧約聖書 伝道者の書8:16.17

中学2年の息子が単行本に夢中になっている。「グイン・サーガ」というシリーズのSFの本らしい。

主人がアマゾン(パソコンから)に注文し、郵送され、気がつくとポストに本が入っている。

全国各地の在庫のある古本屋から来る。北海道とか、長野とか、栃木とか、様々な住所から来る。家にいながらにして、注文した本が的確に届くシステムに驚く。(皆さんはきっと普通に使っているかもしれませんが…。)

50年も生きると、私の昔も「あの頃は…」と語り継がれるような過去になる。幼い頃は電話が無かった。が、今や一人一台携帯の時代。

かく言う私も、パソコンこそ使いこなせないが、電動自転車に食器洗い器など、便利なものを使わせてもらっている。

ぐうたら主婦としては、便利な電化製品のある時代に生まれて良かったなぁなどと思う。

が、社会全体を見ると、若者にもけだるさが漂う希望の少ない世の中である。

どんなに便利で物が豊かになっても人の本質、本当に求めるものは変わらないのだと思う。

なぜなら神様が人を造られたのだから。人は関係を築くことがなくては生きられない。神様と私の関係、人と人との関係…その回復を教えてくれるのは聖書。

どんな移り変わる世の中であっても、流されそうになっても、神様のことばほど、人を生かす知恵はない。聖書を読むことができ、そこに生活の基盤をおける幸いを思う。

我が家には、息子のシリーズの単行本があと120冊余り送られてくる予定ということであるが…。

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2009年2月14日 (土)

思春期

息子の笑顔を見ながら、私の思春期の時代を思い出しました。

『しかし、わたし(イエス)が与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。』新約聖書 ヨハネの福音書4:14

私が小学4年の時、父が精神病で入院した。次の年、引っ越しになった。今思うと左遷されたのだと思う。さらに小さい田舎街に移った。その頃、ゴミ収集車とか来ていたのかよくわからないが、庭で母はドラム缶でゴミを良く燃やしていた。

ある日、燃やしきれなくなったのか、私と姉もかり出され、真夜中に近くの川に黒いビニールに入ったゴミ袋を捨てにいったのを覚えている。

母はやるせない毎日の苦しみも悲しみも一緒に捨ててしまいたかったに違いない。

母が笑わず、家庭は暗かったが、外向きの私は、学校が終わると毎日誰かと外で遊んでいた。

そんな私に陰りが表れたのは中学の思春期の頃だった。母と価値観が合わずに、よく喧嘩した。口で言い負かすのは私が強いので言い負かしては、悲しくなってよく一人泣いていた。私の母への激しい反抗期は、大人になってもずっと続いた。気がつけば、私は100%自己嫌悪のどうしようもない状態になっていた。

今、中学一年の息子は良く笑う。小さいときは、学校で何があったか聞いても「わからない」と、学校の話しはほとんどしなかった。本当に忘れてしまっていたように思う。

あどけなさが残る顔にニキビがあって、ちょっぴり大人になってきてる息子とは、最近遅ればせながら、あれやこれや他愛ない話しをよくする。息子は学校での失敗や怒られた話しも楽しそうにする。

私とは違う中学時代を過ごす我が子の笑顔にとても大きな幸せを感じる。

神様が私を癒しつつ、子育てをさせてくださる憐れみを思う。息子の笑顔が何にもかけがえなく思えるのには、神様の私への奇跡がある。

空っぽな私に神様の愛を注いで満たしてくださった。それは砂漠の中にできた泉のごとく、渇(か)れることなく、湧き出てくる水のようだ。決して立派な母親でもなく、素晴らしい子育てをしている訳でもないが、子どもを楽しみ喜べるそんな風に神様は癒してくださった。

そして、泣いたり、笑ったりして神様に話しかける私を神様自身もまた、いとおしい眼差しで聞いてくださっている。

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2009年1月21日 (水)

変わらない安心

どんな状況でも与えられる安心について、聖書は約束しています。

『わたし(イエス)は、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。』新約聖書 ヨハネの福音書14:27

息子が2才頃だったと思う。近くにある教会に用事があり、昼寝している子どもを置いて出かけた。30分だったか、1時間だったか覚えていないが、家に帰ってくると、我が子は「ママがいないよ―!」とばかりに、座り込んで大泣きしていた。かわいそうなことをしてしまったことを覚えている。

日中は母である私と二人っきりの息子は、もれなくママっこで、何をするのも一緒だった。かなりたってから、お父さんと手をつないで、初めて散歩したときは成長した息子にジンときて、感動したものだった。(主人でもダメなときがあったので…)

そんな息子が、10年位で、私より大きくなり、やたら、母親をバカにし、「ママ、夜は出かけないの?」と一人になりたいオーラを出す。

子どもの成長の早さを不思議に思う。

子どもが幼かったあの頃は、お母さんは子どものすべてで、お母さんがいてくれるだけで安心だった。

私もまた、小さいときは、親に守られ、安心の中にいたのだと思う。

ところが、大人になると、責任が出てくるし、自分のことは自分で解決していかないといけなくなる。様々な問題を前にして、不安も出てくる。

神様は天のお父さんとして、わたしに頼りなさいと言ってくれる。自分で解決できないことも、祈りの中で、まかせなさいと言ってくれる。

自分のことは神頼みはしないで、自分でしっかりやりたいと言う人もいるかもしれない。

が、恐れや不安はいろんな行動にブレーキをかける。恐れや不安が自分にも、まわりの人にも良いものはもたらさない。

私は限界だらけで、弱く足りない人間だけど、いつも守り、支え、教え、一緒にいてくださる神様によって、一歩を安心して踏み出すことができる。

安心もまた、環境によらず、自分によらず、変わることのない神様、そして神様のことば(聖書)にあるなら、揺らぐことがなく、奪われることがない。

神様、恐れや不安のあるところに、変わらない神様の安心が与えられますように。

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2009年1月19日 (月)

“恵み”という“新しいぶどう酒”

息子の通う2つの将棋教室の違いを思うとき、私はいつも律法と恵みの違いを思い出します。

『新しいぶどう酒は新しい皮袋(かわぶくろ)に入れなければなりません。』新約聖書 ルカの福音書5:38

今日、一年前に子どもが通っていた将棋教室のお母さんたちとランチした。教室の先生はとても厳しい方で、様々なコントロールの中に親も置かれた。が、そんな中で親同士は深いつながりができ、感謝している。

我が子は今は電車で一時間かかる所の教室に通っている。拘束力は一切なく、来ても来なくてもよい、誰にも注意されないが、ただ自分のやる気だけが試される場所である。息子はそこに通って10か月になるが、ほぼ休まずに喜んで行っている。

親の生き方まで束縛された厳しい教室と、ただ子どものやる気だけが問われる教室(こちらは親は特に関わっていないが)…この2つを思うとき、私はいつも旧約時代と新約時代、律法と恵みの違いを思い出す。

律法の世界は「これはしてはならない。あれもしてはならない。」という世界。もし、してしまったらその場でアウト…石打ちの刑で殺される。

キリストの十字架による赦しの恵みの世界は、ハッキリ言って何をしても、何をしなくてもいい。大事なことはただ一つ、キリストの十字架で赦されていることを受けとることだけ。

ガラテヤ書6:14には『私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはならない。』とある。コロサイ書2:20では、『キリストとともに死んで、この世の幼稚な教えから離れたのなら、どうして…「すがるな。味わうな。さわるな。」というような定めに縛られるのか。』とある。

神様は私たちにまず初めに良い行いを求めていない。私たちが赦され、神様につながり、神様と共に生きていきたいという応答を求めている。

ヨハネの福音書15:75には『わたし(イエス)にとどまり、わたしのことばにとどまるなら何でもほしいものを求めなさい。それはかなえられる。』ということばがある。

神様に赦され、愛されていることを知り、体験したら、神様のために生きたいという願いしか湧いてこないのではないか。それが『わたしにとどまるなら何でも求めよ。かなえられる』と大胆な約束になる。

人は行いをチェックされ、命令され、叱られたからといって、その枠からはみ出さないぐらいが精一杯になる。

もし人が赦され、受け入れられ、期待され、理解されるならば、その心の動機は“そこに応えたい”となるだろう。神様の備えた人の心というぶどう酒は、感謝と喜びに溢れるとき、新しいエネルギーを生み出し、本来の自分らしい輝きを生み出す。

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2009年1月 7日 (水)

50歳の夢

私に与えられている夢…この歳になってもあることを感謝します。

『神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志(こころざし)を立てさせ、事を行わせてくださるのです。』新約聖書 ピリピ人への手紙2:13

明日から子どもの冬休みも終わり。私も冬休み中にしなければならないことで、急に気ぜわしくなった。(たっぷり時間があったのに、慌てて最後にやるのは、残念ながら親子一緒…)

中学の広報にのせてもらう家庭教育学級の紹介文と、その家教の冊子に載せる文の2つ。溜めてていた自分のせいだが、朝からブログを入れて3つの文を書きまくった。(締め切りに追われるちょっとした作家気分!?)

冊子用の報告を書いていて、去年の7月に受けた「中学生のための進路講座」の記憶がよみがえってきた。

中学校では、一年から生徒の夢や適性について考えさせてくれるカリキュラムが組まれている。

我が子は、今将棋に夢中で、それに関連したことが将来は出来たらと考えている。寝言で「次の対局相手誰?」と言ったり、寝ながら手を上げて宙に駒を打つ動作をしたり、まさに寝ても覚めても…将棋である。先はわからないが、夢中になれることがあるのは良いことだ。

私の夢といえば、小さい時から学校の先生だった。高校のころは養護学校の先生になりたかった。が、夢かなわず、今は主婦をしている。

クリスチャンになってからは、教会でフルサポートを受けて神様の働きがしたいと思ったこともある。が、教会で働いたが、除名になり、今に至る。

今、50歳になろうとして、私の夢は神様を伝えることと、神様の祝福を現すこと。

少しずつ、かないつつある。

多分、神様が私に与えてくれていたものは変わらなかったのだと思う。その表し方が先生、牧師などの形を描いたのではないかと思うが、今の自分が、神様が計画し、描いているものに近いのかなと思う。

この歳になっても夢と目標が与えられていることはありがたい。

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