日常生活-子育て

2009年7月14日 (火)

“養い育てる天の父”

天のお父さんの前に、子ども時代を過ごす大切さを思いました。

『ですから、あなたがたは、すべての悪意、すべてのごまかし、いろいろな偽善やねたみ、すべての悪口を捨てて、

生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、みことばの乳を慕い求めなさい。

それによって成長し、救いを得るためです。…

主のもとに来なさい。』新約聖書 第1ペテロの手紙2:1~4

子どもが子どもとして、その時代を過ごさないと、大人として成長できないことを思う。

小さいときの子どもの仕事は“遊ぶこと”であり、“わがままを言う”ことかもしれない。

そんな中でいろんな体験をし、経験を積み重ねる。そんな中で、自分が大人たちから愛されていること、受け入れられていることを知り、間違いを正されることを学ぶ。

同じように、クリスチャンもまた、子ども時代を経ないと大人になれない。

私は息子と祈った2つの祈りを今日、鮮明に思い出した。

一つは、私が息子と毎日毎日遊ぶ3歳の頃、お気に入りのドラミちゃん人形(2センチ位の手のひらにのる物)を、さっきまで遊んでいたのに、無くしてしまった。

探しても探しても見当たらない。

「おかしいねぇ。神様にお祈りしてみようか。神様、ドラミちゃんを見つけてください。」

すると、どちらが入れたのか、ツリーの長靴の中から見つかった。

もう一つは、息子が小学4年のとき、不登校ぎみになる。

「ママ、どうして学校に行かなくてはならないの?」

来る日も来る日も聞いてくる。はじめは、立派な大人になるためとか適当に答えていたが、私も変えられていく。

「そうだね。それじゃさ、どうして学校に行かなくてはならないか、神様に聞いてみようか。ママも20歳のとき、何のために生きるのか神様に聞いて、答えを教えてもらったんだよ。」

「うん、祈る。その答えがわかったら、僕、洗礼を受ける。」

結局、その答えはわからないまま、また、なんとか学校に行き続け、その祈りもその何回か止まりだった気がする。

168センチの大きくなった中2の息子は、「母親はご飯を準備してくれれば、あとは困らない。」という感じで、生意気になった。が、そのときの習慣の名残が一つだけある。

それは、毎月送られてくる80円のキリスト教冊子らみい(15ページ位のマンガ冊子)を欠かさずに読んでいること。

今は教会にも行かないが、子どものような食べ物(冊子)を食べ続けている。

私は神様の前にたくさん、わがままを言ってきた。そんな私に天のお父さんは優しく一つ一つ教え、さとし、養ってくれた。

今、私の天のお父さんへの信頼は、子ども時代のたくさんのわがままな祈りの積み重ねの結果だと思う。

私はそうやって、少しずつ天のお父さんを知り、信頼を深めたのだと思う。

綺麗な祈りや求めを神様は望んではいないと思う。

本音の、身近な必要に応えてくれる神様は、やがて、私たちの信仰を成長させ、私自身を越えた約束を祈る者としてくださる。

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2009年7月 7日 (火)

“息子のピアノ”

息子のピアノを聞いて、私たちの神様からの能力もまた、レッスンが必要なのだなぁと思いました。

『主に感謝することは、良いことです。いと高き方よ。あなたの御名にほめ歌を歌うことは。

朝に、あなたの恵みを、夜ごとに、あなたの真実を言い表すことは。

十弦の琴や六弦の琴、それに立琴によるたえなる調べに合わせて。』旧約聖書 詩篇92:1~3

我が家では、今までにない珍しいことが起こっている。

それは、13歳の息子が、ピアノを自分から1時間も2時間も弾くようになったことだ。

息子は3歳からヤマハ音楽教室に通った。主人が音楽が好きで、息子には、楽器をやらせたかったらしい。

幼稚園に通うころは、すぐに簡単な曲を弾く息子に、私たちは親ばかで、天才かと思う。しかし、「1%の才能と99%の努力」と言われる。その99%がない。

小学1年からピアノの個人レッスンに通うが、普通の子どもと変わらず、練習嫌いに苦労する。

いつか、神様に仕える奏楽者になってほしいというのは、私の密かな願いだった。

息子が6年の初めに将棋に出会うまでは、「一日少なくとも30分、多くて1時間は練習をやろう」と声かけしてきた。

検定もたくさんチャレンジしたので、怠け者といえど、かなりハードに目標定めてやってきた。

将棋に夢中になってから、ピアノはレッスン当日のみになってしまった。「月謝も高いから、辞めていいよ。」と言ったが、「辞めたくない。」とのこと。

ほこりをかぶったピアノだったが、急に毎日1時間以上弾くようになった。

友だちから「ゲームの難しい曲を弾いてくれ」と楽譜を渡され、頼まれたらしい。

自由に楽しく好きな曲を弾いている。私は2階で、ピアノの音を聞きながら、今までの苦労が報われたなぁと、嬉しくなる。

神様の世界は、無理強いは禁物である。が、私たちに与えられている能力を整え発揮するために、ときに、厳しい訓練を通されることもあるのかもしれないと、楽しそうな息子のピアノを聞きながら思った。

ヨセフのように知らずに、環境の中で訓練されることもあるし、はっきり知り、訓練させてもらうときもある。

私たちのレッスンの先生は、神様なのだろう。

持っていても使わないと、増やされないとはそういうことも含んでいるかもしれない。

私は、人とともに祈るのが好きだけれど、はじめは人の祈りが新鮮だった。人と祈り、人から学んだり、状況から学んだ。

そして、だんだん与えられているものが訓練され、神様にあって自由に使えてくるようになるのだなぁと思った。

今の教会の現状は規則とか、聖書のことばに拘束されやすいことが多いから、「努力しよう」とは言いたくない。

けれども、神様が、計画があっての訓練、神様のレッスンは、神様の愛に応答するものにとっては、苦痛なものではなく、自由に与えられているものを使えるための恵みになる。

一人一人に与えられている特別な神様からの能力が、レッスンされ、祝福されますように。そして、神様にある生きがいとなり、神様とともにある喜びを体験できますように。

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2009年6月30日 (火)

“聖書のことばを食べる”

いのちを保つための食べ物について考えました。

『いのちを与えるのは御霊(みたま)です。肉は何の益ももたらしません。

わたし(イエス)があなたがたに話したことばは、霊であり、またいのちです。』新約聖書 ヨハネの福音書6:63

中学に通う息子は、身長168センチで、45キロととても“おやせ”だ。

偏食ぎみで、小さいときから痩せていた。

小学生のときは、あんまり体重が増えないので、一キロ増えたらご褒美物だった。リビングにはそのときのなごりの体重計がホコリをかぶって置かれてある。

健康を保つのに、食事は大切だ。が、それも無理じいになると苦痛になる。

私は、育った家庭での食事が苦痛だった。

味つけが濃かったのと、いつも「残しては駄目だ。」と小言を言われながら食べていたからだ。

だから、息子にはきちんと食べるようには言えない自分がいた。

イエス様のいのちにつながり続けるため、私たちは聖書のことばを食物として食べる。

が、美味しいご馳走も無理じいされては、食べたくなくなる。

「恵みの歩み」の本を書いたマクベイ師が言っていたことを、ふと思い出した。

「聖書は読まなくていい。無理に祈らなくていい。」

それはつまり、「ご飯を食べたくなければ食べなくてもいい。」と言うことであり、「それでも、お腹が空くと、食べたくなるのだから無理をしなくていい」と言う意味合いだったのかなぁと思った。

本来、“聖書を読む”とか“祈りをする”というのは、“美味しいご馳走を食べる”“親しい人と語らう”という楽しく、素敵な特権であるはずだ。それなのに、どこで間違えたか、小言か命令になったとたん、苦痛に変わってしまう。

美味しいご馳走を食べた人は、そのご馳走を無理じいはしない。

まず、私自身にとって“聖書を読む”ということが、すばらしいことであることが、そのことを人に勧めるとき、相手の人に期待を持たせることにつながるのかもしれないと思った。

給食だけは、残さず食べる息子ももうすぐ夏休み…いかに美味しいものを一緒に食べられるか、母の大きな課題である。

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2009年4月30日 (木)

禁止命令に満ちた世の中

中学校からきた息子のプリント(お手紙)を見て、とても教えられたことを分かち合います。

『もしあなたがたが、キリストとともに死んで、この世の幼稚な教えから離れたのなら、どうして、まだこの世の生き方をしているかのように、

「すがるな。味わうな。さわるな。」というような定めに縛られるのですか。

そのようなものはすべて、用いれば滅びるものについてであって、人間の戒めと教えによるものです。』新約聖書 コロサイ人への手紙2:20~23

中学2年の息子の、学校からのプリントを見て驚いた。ゴールデンウィークの過ごし方が書かれてある。なんと禁止命令、指示命令の多いことか!

「〜しなくてはなりません。」「〜しましょう」極めつけは、「自らを厳しくコントロールして、次の行為は絶対にしないでください。具体的な内容は自分で考えましょう。1、生活習慣を乱す行為
2、法にふれる行為 3、危険な行為 4、迷惑をかける行為」そして、横にストップと書いたイラストがある。

学校に迷惑をかける困ったことはしてくれるなという気持ちはわかる。が、子どもたちは、果たしてこのプリントを読むだろうか。

子どもたちも禁止命令に縛られ、気の毒な気もする。

実は、私たちは生まれたときから、「〜してはいけません。」「〜しなさい。」という世界に浸って生きてきた。(親の守りの言葉もあるから、すべてが悪いとは思わないが…)

してみると、神様の子どもになるには、ただイエス様の十字架を信じれば良かったのが、神様の子どもになったとたん「聖書の良い教えに従って、神様に喜ばれる子どもになりましょう。」という世界になりやすいのは、当然のことかもしれない。

私たちの“ただ信じるだけで良い”世界は信仰の入り口だけではない。そのイエス様という門をくぐったら、ずっと続くのである。

私は教会の中に、「ただ信じていく世界」でなく、「良い行いを追及する世界や自分の意志で頑張る世界」が普通に入っていることに、気が滅入っていた。けれども「ただ信じる世界」を保ち続けるということは、本当に難しいことなのだと、朝、子どものプリントを見て思った。

『しかし私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはなりません。』ガラテヤ6:14

###

神様、私は教会の中がどうして、イエス様以外のもの(良い行いなど)が大事にされるのかと葛藤してきました。

けれど、実は、私たちの長年染み付いた習慣がそれで、今、生きている世の中も「〜しなさい」「〜するな」の世界なので、その中から抜けるのは本当に大変なのだと教えられました。

「キリストの十字架だけがすばらしい」と告白し、行動に縛られる世界から解放され、ただ赦されている喜びを動機とした世界に私たちを移してください。

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2009年4月28日 (火)

思い出しました…

子育てに励む立派なお母さんたちの話しを聞き、思ったことです。

『しかし神は、知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれたのです。

また、この世の取るに足りない者や見下されている者を、神は選ばれました。すなわち、有るものをない者のようにするため、無に等しいものを選ばれたのです。

これは、神の御前でだれをも誇らせないためです。』新約聖書 第1コリント1:27.28

今日は、中学でやっている役員の代表者会議が、市役所であった。講演もあり、「子どもたちの性を考える」と題して、男の子と女の子の体のつくりの違い、性欲の違いなど、とても具体的に分かりやすく話された。我が息子も中学2年で、彼の中にどんな変化が起こっているのか、少し理解できた気がする。

思春期に、男の子の多くは、性欲が出てきて(体の基本的な成長)家庭の中にいる異性である母に距離をおきはじめるとあった。

そういえば、息子は最近急に、こたつをかたずけてから、リビングで過ごさす、部屋で過ごすことが多くなった。可愛い一人息子だが、最近は、私もブログを書くのに熱中し、子離れできてよかったなぁと思った。神様がいなかったら、私は子どもが一番で、子どもが神になっていたかもしれない。

帰りにお母さんたちとランチした。皆、立派なお母さんたちで、「私は子どもをこう“しつけ”しているのよ。」などと聞くと、“しつけ”能力がなく、主人に任せている自分を見せつけられる。

私が思春期の頃、母に受け入れられなかったので、私自身は子どもを受容する力だけはあるんじゃないかと思うけど、子どもをしっかり育てられる程、信念もなく、努力もなく、改めて、神様の憐れみで子育てさせてもらっているんだなぁと思った。

この世の中では、
愚かな者、弱い者、取るに足りない者、見下されている者…そんなものが、神様がほめたたえられるために選ばれた。

私は心が癒され、神様の安らぎの中に憩っていると、忘れてしまいそうだけど、神様無しでは生きていくことのできない者なのだなぁと思う。

努力家で、信念があって、立派な人たちの中にあって、“頑張る世界”ではビリッケツのようなものだけど、頑張らなくていい世界に生かされているのを感じた。

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神様、この世の取るに足りない私を選んでくださってありがとうございます。

時々、忘れてしまいますが、神様無しでは育児どころか私自身が生きていくことすらできない者だということを思い出しました。

ただ、神様、あなたのあわれみによって、この世の人たちには隠されているイエス様のいのちによって生かされていることをありがとうございます。

この世の取るに足りない者を通して、神様がすばらしいことが証され、表されますようにしてください。

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2009年4月15日 (水)

便利な世の中

本の注文一つとっても、便利になったと思います。が、変わらない大切なこともあることを思います。

『私は一心に知恵を知り、昼も夜も眠らずに、地上で行われる人の仕事を見ようとしたとき、すべては神のみわざであることがわかった。

人は日の下で行われるみわざを見きわめることはできない。

人は労苦して捜し求めても、見いだすことはない。

知恵ある者が知っていると思っても、見きわめることはできない。』旧約聖書 伝道者の書8:16.17

中学2年の息子が単行本に夢中になっている。「グイン・サーガ」というシリーズのSFの本らしい。

主人がアマゾン(パソコンから)に注文し、郵送され、気がつくとポストに本が入っている。

全国各地の在庫のある古本屋から来る。北海道とか、長野とか、栃木とか、様々な住所から来る。家にいながらにして、注文した本が的確に届くシステムに驚く。(皆さんはきっと普通に使っているかもしれませんが…。)

50年も生きると、私の昔も「あの頃は…」と語り継がれるような過去になる。幼い頃は電話が無かった。が、今や一人一台携帯の時代。

かく言う私も、パソコンこそ使いこなせないが、電動自転車に食器洗い器など、便利なものを使わせてもらっている。

ぐうたら主婦としては、便利な電化製品のある時代に生まれて良かったなぁなどと思う。

が、社会全体を見ると、若者にもけだるさが漂う希望の少ない世の中である。

どんなに便利で物が豊かになっても人の本質、本当に求めるものは変わらないのだと思う。

なぜなら神様が人を造られたのだから。人は関係を築くことがなくては生きられない。神様と私の関係、人と人との関係…その回復を教えてくれるのは聖書。

どんな移り変わる世の中であっても、流されそうになっても、神様のことばほど、人を生かす知恵はない。聖書を読むことができ、そこに生活の基盤をおける幸いを思う。

我が家には、息子のシリーズの単行本があと120冊余り送られてくる予定ということであるが…。

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2009年2月14日 (土)

思春期

息子の笑顔を見ながら、私の思春期の時代を思い出しました。

『しかし、わたし(イエス)が与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。』新約聖書 ヨハネの福音書4:14

私が小学4年の時、父が精神病で入院した。次の年、引っ越しになった。今思うと左遷されたのだと思う。さらに小さい田舎街に移った。その頃、ゴミ収集車とか来ていたのかよくわからないが、庭で母はドラム缶でゴミを良く燃やしていた。

ある日、燃やしきれなくなったのか、私と姉もかり出され、真夜中に近くの川に黒いビニールに入ったゴミ袋を捨てにいったのを覚えている。

母はやるせない毎日の苦しみも悲しみも一緒に捨ててしまいたかったに違いない。

母が笑わず、家庭は暗かったが、外向きの私は、学校が終わると毎日誰かと外で遊んでいた。

そんな私に陰りが表れたのは中学の思春期の頃だった。母と価値観が合わずに、よく喧嘩した。口で言い負かすのは私が強いので言い負かしては、悲しくなってよく一人泣いていた。私の母への激しい反抗期は、大人になってもずっと続いた。気がつけば、私は100%自己嫌悪のどうしようもない状態になっていた。

今、中学一年の息子は良く笑う。小さいときは、学校で何があったか聞いても「わからない」と、学校の話しはほとんどしなかった。本当に忘れてしまっていたように思う。

あどけなさが残る顔にニキビがあって、ちょっぴり大人になってきてる息子とは、最近遅ればせながら、あれやこれや他愛ない話しをよくする。息子は学校での失敗や怒られた話しも楽しそうにする。

私とは違う中学時代を過ごす我が子の笑顔にとても大きな幸せを感じる。

神様が私を癒しつつ、子育てをさせてくださる憐れみを思う。息子の笑顔が何にもかけがえなく思えるのには、神様の私への奇跡がある。

空っぽな私に神様の愛を注いで満たしてくださった。それは砂漠の中にできた泉のごとく、渇(か)れることなく、湧き出てくる水のようだ。決して立派な母親でもなく、素晴らしい子育てをしている訳でもないが、子どもを楽しみ喜べるそんな風に神様は癒してくださった。

そして、泣いたり、笑ったりして神様に話しかける私を神様自身もまた、いとおしい眼差しで聞いてくださっている。

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2009年1月21日 (水)

変わらない安心

どんな状況でも与えられる安心について、聖書は約束しています。

『わたし(イエス)は、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。』新約聖書 ヨハネの福音書14:27

息子が2才頃だったと思う。近くにある教会に用事があり、昼寝している子どもを置いて出かけた。30分だったか、1時間だったか覚えていないが、家に帰ってくると、我が子は「ママがいないよ―!」とばかりに、座り込んで大泣きしていた。かわいそうなことをしてしまったことを覚えている。

日中は母である私と二人っきりの息子は、もれなくママっこで、何をするのも一緒だった。かなりたってから、お父さんと手をつないで、初めて散歩したときは成長した息子にジンときて、感動したものだった。(主人でもダメなときがあったので…)

そんな息子が、10年位で、私より大きくなり、やたら、母親をバカにし、「ママ、夜は出かけないの?」と一人になりたいオーラを出す。

子どもの成長の早さを不思議に思う。

子どもが幼かったあの頃は、お母さんは子どものすべてで、お母さんがいてくれるだけで安心だった。

私もまた、小さいときは、親に守られ、安心の中にいたのだと思う。

ところが、大人になると、責任が出てくるし、自分のことは自分で解決していかないといけなくなる。様々な問題を前にして、不安も出てくる。

神様は天のお父さんとして、わたしに頼りなさいと言ってくれる。自分で解決できないことも、祈りの中で、まかせなさいと言ってくれる。

自分のことは神頼みはしないで、自分でしっかりやりたいと言う人もいるかもしれない。

が、恐れや不安はいろんな行動にブレーキをかける。恐れや不安が自分にも、まわりの人にも良いものはもたらさない。

私は限界だらけで、弱く足りない人間だけど、いつも守り、支え、教え、一緒にいてくださる神様によって、一歩を安心して踏み出すことができる。

安心もまた、環境によらず、自分によらず、変わることのない神様、そして神様のことば(聖書)にあるなら、揺らぐことがなく、奪われることがない。

神様、恐れや不安のあるところに、変わらない神様の安心が与えられますように。

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2009年1月19日 (月)

“恵み”という“新しいぶどう酒”

息子の通う2つの将棋教室の違いを思うとき、私はいつも律法と恵みの違いを思い出します。

『新しいぶどう酒は新しい皮袋(かわぶくろ)に入れなければなりません。』新約聖書 ルカの福音書5:38

今日、一年前に子どもが通っていた将棋教室のお母さんたちとランチした。教室の先生はとても厳しい方で、様々なコントロールの中に親も置かれた。が、そんな中で親同士は深いつながりができ、感謝している。

我が子は今は電車で一時間かかる所の教室に通っている。拘束力は一切なく、来ても来なくてもよい、誰にも注意されないが、ただ自分のやる気だけが試される場所である。息子はそこに通って10か月になるが、ほぼ休まずに喜んで行っている。

親の生き方まで束縛された厳しい教室と、ただ子どものやる気だけが問われる教室(こちらは親は特に関わっていないが)…この2つを思うとき、私はいつも旧約時代と新約時代、律法と恵みの違いを思い出す。

律法の世界は「これはしてはならない。あれもしてはならない。」という世界。もし、してしまったらその場でアウト…石打ちの刑で殺される。

キリストの十字架による赦しの恵みの世界は、ハッキリ言って何をしても、何をしなくてもいい。大事なことはただ一つ、キリストの十字架で赦されていることを受けとることだけ。

ガラテヤ書6:14には『私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはならない。』とある。コロサイ書2:20では、『キリストとともに死んで、この世の幼稚な教えから離れたのなら、どうして…「すがるな。味わうな。さわるな。」というような定めに縛られるのか。』とある。

神様は私たちにまず初めに良い行いを求めていない。私たちが赦され、神様につながり、神様と共に生きていきたいという応答を求めている。

ヨハネの福音書15:75には『わたし(イエス)にとどまり、わたしのことばにとどまるなら何でもほしいものを求めなさい。それはかなえられる。』ということばがある。

神様に赦され、愛されていることを知り、体験したら、神様のために生きたいという願いしか湧いてこないのではないか。それが『わたしにとどまるなら何でも求めよ。かなえられる』と大胆な約束になる。

人は行いをチェックされ、命令され、叱られたからといって、その枠からはみ出さないぐらいが精一杯になる。

もし人が赦され、受け入れられ、期待され、理解されるならば、その心の動機は“そこに応えたい”となるだろう。神様の備えた人の心というぶどう酒は、感謝と喜びに溢れるとき、新しいエネルギーを生み出し、本来の自分らしい輝きを生み出す。

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2009年1月 7日 (水)

50歳の夢

私に与えられている夢…この歳になってもあることを感謝します。

『神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志(こころざし)を立てさせ、事を行わせてくださるのです。』新約聖書 ピリピ人への手紙2:13

明日から子どもの冬休みも終わり。私も冬休み中にしなければならないことで、急に気ぜわしくなった。(たっぷり時間があったのに、慌てて最後にやるのは、残念ながら親子一緒…)

中学の広報にのせてもらう家庭教育学級の紹介文と、その家教の冊子に載せる文の2つ。溜めてていた自分のせいだが、朝からブログを入れて3つの文を書きまくった。(締め切りに追われるちょっとした作家気分!?)

冊子用の報告を書いていて、去年の7月に受けた「中学生のための進路講座」の記憶がよみがえってきた。

中学校では、一年から生徒の夢や適性について考えさせてくれるカリキュラムが組まれている。

我が子は、今将棋に夢中で、それに関連したことが将来は出来たらと考えている。寝言で「次の対局相手誰?」と言ったり、寝ながら手を上げて宙に駒を打つ動作をしたり、まさに寝ても覚めても…将棋である。先はわからないが、夢中になれることがあるのは良いことだ。

私の夢といえば、小さい時から学校の先生だった。高校のころは養護学校の先生になりたかった。が、夢かなわず、今は主婦をしている。

クリスチャンになってからは、教会でフルサポートを受けて神様の働きがしたいと思ったこともある。が、教会で働いたが、除名になり、今に至る。

今、50歳になろうとして、私の夢は神様を伝えることと、神様の祝福を現すこと。

少しずつ、かないつつある。

多分、神様が私に与えてくれていたものは変わらなかったのだと思う。その表し方が先生、牧師などの形を描いたのではないかと思うが、今の自分が、神様が計画し、描いているものに近いのかなと思う。

この歳になっても夢と目標が与えられていることはありがたい。

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2008年12月25日 (木)

桜咲く・発達障害のRくん

発達障害のRくんとそのお母さんの歩みの話しです。

『わたし(神)はあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。…それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。』旧約聖書 エレミヤ書29:11

今、中学3年の特別支援学級に通うRくん。彼を初めて見かけたのは、我が息子と通学班が一緒の小学3年の時。いつもニコニコして、可愛い子どもだった。

ある日、お母さんから悩み事を聞いた。お友だちに親しみの表現をするが、それが上手く伝わらず、その子どもの親から怒鳴られたというような内容だった。

よく教室を出てしまい、いろんなことで協調して出来ず、お母さんは悩んでいたと思う。

小学5年のとき、他の学校の特別支援学級に移った。

Rくんは支援学級では優等生だった。よい先生にめぐり会えて、出来なかった体操、音楽、そして絵の才能を開花した。

普通学級では何かが壁になり、リコーダーが吹けなかったが、練習するようになった。体操は何かが原因で着替えのハードルを越えられなかったが、マラソンが大得意になって、市のマラソン大会に出た。絵の方では、躍動感な運動会の絵に、市でだったか、賞を貰った。

発達障害の子どもは知的障害はないと言われる。が、彼らは普通には理解されにくいストレスや状況があり、まわり(無知な教師や保護者)から理解されにくい。

水泳、テニス、マラソンが得意な彼は中学の特別支援学級に行った。が、それらのクラスでは通常部活は出来ない決まりだった。彼は部活をしたかったが涙を飲んだ。進路情報を尋ねた親に、無知な教師は「ここ(特別支援学級)に来たのだから、市の養護学校に行くのがあたり前。」と調べもせずに言い切った。

お母さんは言い知れない悔しい思いを何度も何度も繰り返した。

市に問い合わせてもたいした情報はない。県の職員に、発達障害の子どもの特別支援学級での在り方を考えてほしいと話すと「法的には、支援学級に発達障害の子どもは入っていません。」との解答。発達障害の子どもを手に負えないと学校や教育委員の人たちが特別支援学級に追いやって、その言いぐさはないだろうと、そのお母さんより私の方が怒りまくった。

子どもも親もたくさんの無理解と口惜しい思いの数々だった。

12月12日、最近新設された県高等養護学校の受験に受かった。(就職を見据えた技術を学べる施設完備の学校)

中学に入ってから、Rくんは小学一年から戻ってスタートしたくもんの勉強が受験に役立った。コツコツと頑張った。

桜咲く。やっと、彼に合った学校生活が迎えられる。おめでとう。優しく人のことも自分のこともちゃんと見れるRくん。どんな高校生活が過ごせるか楽しみにしている。

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2008年12月22日 (月)

我が子が殺される苦悩

イエス様の地上での母マリアの苦悩を思いました。

『マリヤは言った。「ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように。」こうして御使いは彼女から去って行った。』新約聖書 ルカの福音書1:38

今日、クリスマスコンサートに友人たちと出かけた。秋津福音教会主催で小坂忠さん、久米小百合さん、小坂忠さんの娘のAsiahさんの美しい歌声が聞けた。

AsiahさんのHis Handsという歌の前触れの話しが印象に残った。

「私も2人の子どもの母ですが、イエス様を生んだマリアは…御使いに十字架で死ぬことを話されたかはどうかはわからないですが…今この一時、我が腕に抱かれて安らいでおくれと思ったのだと思います。」と話していた。

本当に我が子の幸せを願わない親はおらず、その赤ちゃんの将来の計画(運命)が人々のための十字架刑という死刑だなんて知ったら、胸が張り裂けそうだ。

私の息子が、誰かの罰を代わって「自分は死ぬよ。」と言ったら、「やめなさい!なんで、あんなが責任とらなきゃいけないの!バカなことはやめなさい。」と私は気が狂わんばかりに叫んで止めるだろう。

そんなバカなことをイエス様はされ、私の代わりに私の罰を負って十字架で死んでくれた。

マリアは「バカなことしないで!」と取り乱さなかった。

聖霊によってイエス赤ちゃんを身ごもったときから、33年間、きっとすべてが彼女の理解を越えていた。

十字架にかけられたイエス様を見て、「人々を救うために来たはずなのに、殺されるとは…。」と悲しみの中、思ったかもしれない。

けれども「神様のお考え、計画のとおりを受け入れます。」とあの受胎告知からずっと、神様の計画(運命)を理解できずとも受け止め続けた。

今、私にある苦しみは何故なのだろう…世界の人の罪を背負われたイエス様を神様にお任せしたマリアの苦悩と祝福を思い、慰められたい。

マリアの賛歌
『わがたましいは主をあがめ、わが霊は、わが救い主なる神を喜びたたえます。主はこの卑しいはしために目を留めてくださったからです。ほんとうに、これから後、どの時代の人々も、私をしあわせ者と思うでしょう。』ルカ1:46.48

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2008年12月12日 (金)

悲しみも苦しみも知られている

人が人を理解するのには限界がありますが、それで仕方がないだけなのでしょうか。

『主(神)よ。あなたは私を探(さぐ)り、私を知っておられます。
あなたこそは私のすわるのも、立つのも知っておられ、私の思いを遠くから読み取られます。
あなたは私の歩みと私の伏すのを見守り、私の道をことごとく知っておられます。
ことばが私の舌にのぼる前に、なんと主よ、あなたはそれをことごとく知っておられます。』旧約聖書 詩篇139:1~4

人を引き下げる人がいる。人を引き下げないと自分を保つことが出来ない可哀想な人なのだと思う。

人を引き上げる人もいる。いつもことばで人の徳を高められたらいいけど、難しい。

田中信生先生の「魅力ある生き方ガイド」を読んで、“引き延ばし”というのがあるのを知った。

「これは引き下げることもも引き上げることもしない対応。『みんなそんなものよ』とか『いいんじゃないの』という反応。これは無関心と言える。ときには引き下げられるよりつらい。」

私の友人で離婚した方がいる。その話題はデリケートを要する。彼女がある方に打ち明けたらしい。すると「うちだって主人とうまくいっていない。そんなもんだよ。」と言われたらしい。離婚するほど、苦しいところを通ったのに、友人は自分の夫との些細な喧嘩レベルと同等に扱ってしまった。彼女は話したことを後悔したと言っていた。

また、発達障害のお母さんが「うちの子どもはこんなで苦労している。」というと「うちの子どもだって似たようなものよ。」と言われた。発達障害の子どもがどんなにいろんなことにストレスを溜め、苦労しているか、その親もまたそうであるか、知らなかったのだと思う。全然違うレベルの苦労を同じにされ、聞き流されたのが辛かったらしい。

私は神様に理解されているので、人を理解したいと願っている。が、限界だらけなので、理解にも限界がある。励ますつもりが引き延ばししてしまわないようにと思う。

最終的にはこの世の中で、自分を理解しきってくれる人は一人もいない。みんな、個々に生まれ、個々に死んでいくもののそれも定めだろう。

が、誰にも理解されない自分だけの苦しみを知っていてくださる方がいる。それが、私たちを神様に似る形、霊的な存在として造られた神様である。神様が交流し、愛する存在として人間を他の生き物とは違って、特別に造られた。

詩篇著者ダビデは上記の聖書のことばのように、神様に祈り、神様を告白している。

この世の中で、私が説明する前から私の思いを知って理解してくれる方がいるなんて…こんな素晴らしいことは分かち合わなければもったいない。

神様、あなたは、私が説明する前からすべてを知っていてくれる方でありがとうございます。私の苦しみも悲しみも孤独も知って理解してくださっているのですね。一人一人が知られているという事実を知り、慰められますように。

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2008年12月11日 (木)

問題を受け止める強さ

問題があることが問題なのではなく、どう問題を受け止めるかが次につながる大切な事と思います。

『わたし(神)はあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。…それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。』旧約聖書 エレミヤ書29:11

神様の導きの中で、小学校で発達障害のお母さんの会を始めて4年になる。昨日は、それぞれ食べ物を持ち寄り、クリスマス会(いつもと変わらず、食べながらおしゃべりをするだけだが)をした。

発達障害の子どもを理解してもらうため、新しい方も招いた。PTA役員をやっているお父さんの方が、このような感想をくださった。

「今日はとても楽しかったです。お母さんたちの子どものエピソードは面白くてとても笑えます。皆さん、本当に子どもたちと前向きに向き合っているのがよくわかりました。」

前に初めて来られた方も同じ感想を言ってくれた。

「うちの子はストレスで、鉛筆をかじってしまい、ドンドン短くなって困った。」「そういえば、うちは爪噛みで半年爪切らなかったよ。」等々。どの話しも、もし自分が当事者の親だったら、ズッシリ重くなるような話しを明るく話す。

この会のお母さんたちは育てにくい、また、子どもは生きにくい苦労が沢山あるだろうに実に明るい。

それは、子どもの問題となっているところを正面から見て、受け止めている方たちだからだと思う。

子育ても、仕事も、人間関係も、病気も、心の傷も、霊的な問題も共通点があると私は考えている。

問題となっていることを自覚し、認め、受け入れる…そのことなくして解決へのステップはない。

この会に来ているいるお母さんたちの強さは、自分の子どもには周りが理解し、工夫していかないと普通の子どもたちのように自然にはいかないという現実を受け止めている強さがある。「自分の子どもはこんなだよ。」と人に言って、一緒に人と笑える強さがある。

苦労をして真剣に子育てをする、この会のお母さんたちに私はいつもいろんなことを教えられている。

新しい悩み多きお母さんが来るとみんな真剣に話しを聞き、うちの子どもの場合はこうしたとか、こんなはどうとか自分のことのように親身になってくれる。誰もが、その苦労がわかるから、優しくなれるのだ。

そこに神様の名前はないが、神様が共におられる、私にとってキリストの体のように大切な場所である。

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2008年12月 8日 (月)

子ども時代をやり直した主人

子どものとき、あんなことしたかった…親になって主人はやり直せたみたいです。

『してみると、あなたがたは、悪い者であっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天におられるあなたがたの父(神様)が、どうして、求める者たちに良いものを下さらないことがありましょう。』新約聖書 マタイの福音書7:11

中学になる私の一人息子は今、将棋に夢中である。多趣味な主人の最大の趣味は子育てで、今主人は息子の将棋マネージャーを勝手にやっている。去年、息子が将棋を始めた頃は、主人の方がはるかに強かった。対局したり、適切な本を買ってあげたり、様々な助言をしていた。が、今では子どものほうが、かなり強くなってしまった。が、息子は気がついていないが、大会で負けたときとか、気落ちしたときとか主人は何気なくフォローし、息子の気持ちを盛り上げる。私ですら、「今日の大会は負け越しだったんだ。残念だね。」と言うと、今日の大会での収穫はこれだったとか、周りからこんな評価を受けたとか話してくれるので、入賞できなかった大会でも「参加できて良かったんだね!」と思えるようになるから不思議だ。

そんな主人が「俺はアンパンマンとかポケモンとか、どうして子どもと一緒にあんなに夢中になれたんだろう。親は子どもと一緒にもう一回子ども時代をやり直し、取り戻すのかなぁ。」と言った。

主人のお母さんは、4人の子どもたちをそれぞれそのままで受け止め育ててくれた。が、お父さんは厳しく、特に長男の主人には一番厳しかったようで、子ども時代のいろいろな要求や願いがあっても、厳しいお父さんの中で制約されていたことも多かった。

息子がアンパンマンが好きだと、我が家はアンパンマン一色だった。私も子どもと同じ精神年齢になって楽しんでしまうので、アンパンマンのキャラクターの話題で我が家は飛び交った。

子どもがポケモンとなると主人も私もキャラクターの名前を覚え、車中でポケモンシリトリをよく3人でやった。私は第一弾の105個しか覚えられなかった気がするが。次のキャラクターシリトリからママはハンディ付きだった。

遊戯王、ガンダム、他多数アニメ、カードゲーム、テレビゲーム、主人はどっぷり子どもと遊んだ。主人も楽しかった。

将棋になって、ゲームもカードも卒業した子どもだが、主人は同じ将棋を共有している。

「子どもと一緒に、自分の出来なかった子ども時代を楽しめて良かったね」と私は思う。そんな中にも子ども時代の癒しがあるのかなぁと思った。

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2008年12月 4日 (木)

子どものネット使用による闇の部分

子どものネットによる悪影響について書きます。

『あなたの足の道筋に心を配り、あなたのすべての道を堅(かた)く定めよ。右にも左にもそれてはならない。あなたの足を悪から遠ざけよ。』旧約聖書 箴言4:26.27

私にとって携帯電話は連絡手段として無くてはならない物になっている。ブログもこうして携帯で打っているし。

主人の携帯には迷惑メールがしょっちゅうくる。そんなのを尻目に見ながら、私は迷惑メールは一切こないと喜んでいた。が、3日前不用意に知らない携帯番号の電話をとったら、この3日間変な電話がかかってくる。しまいには「あなたの番号流出してますよ。」と言われた。ショック…。

すぐ電話番号は変えられるらしいから、問題無しだが。

私はPTA連合つながりで、「電子メディアの子どもへの影響」について、一つのグループで勉強をはじめて2年になる。

ゲーム、パソコン、ケータイなどが子どもの生活に与える悪影響を勉強してきた。ゲーム脳、生活の不規則、いじめ、援助交際などの犯罪など、闇の部分を見ると深刻だ。

青少年メディア研究協会の下田博次先生の講演会を先週聞いた。一番印象に残ったのは、子どもたちにとって携帯のネットは「思春期メディア」だということ。

うっぷんばらしがしたくなる不安定な時期、この便利なネットをつかって、いじめをしたり、知らない相談相手を求め、悪い大人にひっかかったりする…という話し。携帯がお年寄りを対象として悪用されるとオレオレ詐欺になるし…。

パソコンや携帯やネットが悪いのでなく、それを悪用する人たちが悪い訳だが、怖い世界である。

携帯番号が漏れたくらいでいやな思いをしている私だが、改めてネットなどでいやな思い、つらい思いに陥っている子どもがたくさんいるだろうことを思った。

子どもが使う場合、パソコンはリビングに置く。携帯もネットを使わないに越したことはないが、その危険性を親も知り、親子のルール作りが大切と私は勉強している。勉強会の親のほとんどは子どものうちは携帯を持たせないらしいが。今、持ってしまっている子達への対処も大切と私は思う。

神様、世の中は、私がついていけないような目まぐるしい変化があります。ブログが出来る時代で、私はこうして書けて見てもらえて感謝しています。しかし、子どもたちのネット犯罪の増加などを聞きます。子どもたちを守ってください。悪を知ることが対処になります。親の責任で子どもたちを守っていけますように。

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2008年11月30日 (日)

今の社会、弱さを知ってる大人が必要

子どもたちの闇もまた、深刻な世の中です。

『悩んでいる者や貧しい者が水を求めても水はなく、その舌は渇きで干からびるが、わたし、主は、彼らに答え、イスラエルの神は、彼らを見捨てない。…わたし(神)は荒野の中に杉や、アカシヤ、ミルトス、オリーブの木を植え、荒地にもみの木、すずかけ、檜(ひのき)も共に植える。』旧約聖書 イザヤ書41:17~19

世の中は格差社会になり、貧しい人は益々貧しく生きにくくなっている。犯罪は横行し、社会の闇は子どもたちもとらえる。

いじめ、不登校、ひきこもり…子ども社会全体ももろく、壊れやすく、暗い影を落としている。

最近、我が息子が通う中学も、少し荒れてきて、4〜5年前の再来かと保護者たちには不安が走る。

核になっている子どもの家庭背景を聞くと、みんな子どもたちが渇いている。不登校の子どもも学年に何人もいると聞く。

今日のライフライン(キリスト教テレビ番組)で玉川キリスト教会の福井誠牧師は、何年かそのように悩みを持つ地域の子どもたちの相談を聞いてきたという。福井牧師は言う。

「子どもの悩みを聞いて、悩みをすぐ解決しようとしない。悩みをかかえて生きていくことが大事。ひきこもりでもすぐ解決しないで付き合う覚悟で別の道が見える。」と言われた。

クリスチャンは聖書からすぐ結論を出しやすい。私もたくさん過ちを犯してきたかもしれない。「どんなことでも益となる」と言うのは、苦しんだ人が告白に至ったとき、そのようになったので、周りで苦しんでいる人に言うことは違う。そこには、共感がなく、「聖書にはこう書いてあるから、あなたは苦しんではいけない。」というメッセージになる。私も失恋した直後で、心がつぶれるようなとき、そのことばを聞いて唖然としたことがある。(その方は慰めようとしてくれたのは理解できたが。)

イエス様はどんな試みや苦しみにも共感され、同情された。

中学で悪さをする子ども、不登校、ひきこもりの子ども、誰も好きで選んでそうなったのではない。本来地域の教会こそがそのような弱さを負う子どもたちの助けが出来れば…と思う。が、現状、弱さを担う大人たちが教会からこぼれてしまっている状態だから、そこまでいかない。

弱さを知ってる大人が必要である。弱さを体験しているクリスチャンの祈りが必要な世の中である。

今朝、「私はそんな子どもたちのために何かしたい!」と思った。さっき、地域の会議が終わった後で、元教師のご婦人が、「私は今、不登校の子どもに理科と数学教えているから、誰にでも必要な子どもがいたら、声かけてください。」と私のところに言って来てくださった。神様、感謝!

神様、闇の中で、光を求める子どもたちに、理解と居場所と愛と祈りと共に動く大人を与えてください。

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2008年11月18日 (火)

孤独を抱えたある中学生

一人の少年について書きます。

『悩んでいる者や貧しい者が水を求めても水はなく、その下は渇きで干からびるが、わたし、主(神)は、彼らを見捨てない。わたしは、裸の丘に川を開き、平地に泉をわかせる。荒野を水のある沢とし、砂漠の地を水の源とする。』旧約聖書 イザヤ書41:17~18

一ヶ月程前、息子が通う中学に役員の仕事で出かけた帰り。正門のところである生徒を見かけた。まだ、帰るには少し早い時間で「あれ?早退の子かな?」と思った。彼は無表情で、カバンをさげて前を見ながら、すたすた歩いて正門を出ていった。すると、50メートルの距離をあけて、学校の男の先生が慌てることもなく、走って追いかけるでもなく、等間隔でずっと歩いてその子どものあとをついて行った。

隣にいた私の友人が、短く彼の家庭環境と最近の彼の行動を話してくれた。その話しを聞きながら、その彼は曲がり角を曲がって見えなくなり、しばらくして先生も曲がり角に消えて行った。

あの先生は途中であの子に追い付くのだろうか、誰もいないあの子の家まで行くんだろうか、ちょっと考えた。

両親の様々な事情で、きちんと親に向き合ってもらえずにいる彼の孤独の無言の叫びを聞いた気がした。

学校ではかなり有名で、彼の悪い噂を何人かから聞いていた。

彼の姿を見て、まだ、幼いあどけなさを残し、子どもと青年の境目にいる彼の悲しい心中を思った。

子どもたちは、自分の家庭しか知らないから、自分が親に愛されているか、いないかはわからないと心理学のある本にあった。

人は愛されるため、育ててもらうために生まれてきたのに、一番大切なものを受けられなかったら、生きていけない程辛いと思う。

自分の孤独な状況を客観的にもみれず、心はすさみ、荒れ果てていく、その少年。まわりに先生とか大人はいるがなかなかその隙間は埋まらないのだろう。黙ってついていって、あのあと、先生は追い付いて何を話しただろうか。

彼のように、心に孤独と闇を抱え、どうしていいかわからない子どもたちがたくさんいるのだろう。

何も出来ない私はその子を神様に見せてもらった気がして、思い出すたびにお祈りしている。

神様、子どもが悪い訳でもないのに、親たちや大人たちの事情で孤独な思いをする子どもたちに目を注いでくださり、彼らの深い孤独をおおい包んで、慰めてください。

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2008年10月25日 (土)

子ども時代を子どもらしく体験する大切さ

今は親の価値基準に子どもたちが縛られやすい世の中ですが、子どもにとって、子どものときしか出来ない遊びや体験が成長の上で不可欠と思います。

『だから、この子どものように、自分を低くする者が、天の御国で一番偉い人です。』新約聖書マタイの福音書18:4

私は、小学校を3回も転校したが、友だちとは、毎日誰かと約束して遊んでいた気がする。

田舎だったからか、時代か、親が教育熱心でなかったからか、習い事もなく、ひたすら遊んだ気がする。

この前、講演会で「子どもたちにとって、体験が大切だ。」と話してた方がいた。

今の子どもは忙しい。息子の友だちで、小学3年位から、びっちり曜日ごとに習い事があり、時計を見ながら遊んでいる子がいた。そこまででなくとも、習い事や塾で忙しい。また、家では、テレビやゲームなどで過ごし、日常体験が今の子どもはぐっと少ないのかもしれない。

私が小学4年のとき、校門の前でひよこを売っているおじさんがいた。友人と一羽だけ買って、交互に世話をすることにした。友人の家が八百屋で、そこで出たメロンの空き箱と、柔らかいクッションが、ひよこの家だった。ある日、帰ると玄関においていたひよこが死んでしまっていた。オイオイ泣いた。その後、テレビで、そのおじさんが不法にひよこを売ったとして、捕まったと放映されていた。が、クラスの男の子の家では、そのひよこたちが、立派な鶏に成長していた。

楽しいことも、嫌なことも、子ども時代として体験し、ちょっとずつ何かを学び、成長していくのだと思う。大人にとっては意味のない無駄と思えるようなことの繰り返しが、子どもの成長に大切なのだと思う。

家庭の事情などで、子ども時代を子どもとして過ごしにくかった人は、もう一度、子どものように過ごす部分も必要かもしれない。

クリスチャンも霊的に子ども時代を過ごしていないと、変に聖書の知識だけに片寄った人間になるのかもしれない。

私たちは、神様の子どもなので、子どもとして甘えたり、たくさんの体験や失敗でいろいろ学ぶそんなときが何より大切と思う。

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2008年10月24日 (金)

孤独なモンスターペアレント

まわりに愚痴ったり、ちょっと相談できる人がいるだけで、大騒ぎにならないということもあると思うのです。

『捕らわれ人は、すぐ解き放たれ、死んで穴に下ることがなく、パンにも事欠かない。』旧約聖書 イザヤ書51:14

私が小学のPTAで長をさせてもらってるとき、「しらみ事件」が学校で起こった。しらみになってしまった子どもがいたのだが、あるお母さんが「そんな不衛生な子どもがいるなら、自分の子どもは、それがなくなるまで、学校に行かせません。」と学校に言ったのだそうだ。「排除の論理だ。」と校長は嘆いていた。

その保護者の方は、今のしらみは、海外旅行などした人がもってくるもので、そこからの感染で、不潔にしていたら、自然発生でなるではないことを知らなかったのだと思う。戦争中のあの忌まわしいあり得ないことが起こったかの如く驚いたに違いない。が、プール時などのタオルの接触を通してなど、感染してしまうことはあるらしい。

その事件以後、毎年、もしシラミがあったときの対処の手紙を出すようになった。

もし、その保護者が、毎年、シラミが感染してしまうこともある、それでも、指定のシャンプーを使えば大丈夫、すぐ治ることを知っていたら、また、誰かに相談できていたら、大事にならなかったのではないかと思う。

モンスターペアレントという言葉が出来て、久しいが、文句を言ってくる親はすべて悪い、アウトというのは、おかしいと思う。

たしかに現場の先生たちも大変だし、保護者の対応だけで、労力を使い果たしては、本来の子どもの指導ができない。

しかし、その保護者たちは孤独で、小さな情報に敏感になっている。昔と違って経済的にも豊かで、子どもも少なく…だから、子育てが楽かというと、とても負いきれないほど、大変だったりするのかもしれない。

地域、近所で子どもを育てていたのが、今はドアを締め切り、一人っきりで子育てしていたりする。

モンスターペアレント対策をする前に、この孤独に子育てして悩む人たちにほっとしてもらい、一緒に考えていく、そんな配慮がなされればなあと思う。

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2008年10月18日 (土)

歯科医院の治療中の息子

息子の通う歯科医院はサービス業と思う程、安心感を与えてくれます。

『神のことばはいきていて、力があり、両刃の剣(つるぎ)よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。』新約聖書 ヘブル人への手紙4:12

昨日、息子の歯科医院に付き合った。とても、親切で、丁寧で、笑顔の素敵な先生のところ。かれこれ、そこの先生のところに通って6年になる。

初めて行ったときは、とても驚いた。出来れば、歯医者のところなんか行きたくない…私たちの時代(小学生を昭和40年代で過ごした子ども)は歯医者が嫌いだった。

月日の流れか、その歯科医院が素晴らしいのか、痛い、我慢するとは縁遠いサービス業を思わせる、居心地のいい、安心してお任せできるところだった。

なので、病院が新しく建てられ、移転した際も、迷わず通い続けた。(方向音痴な私は、何度か迷い、子どもに文句を言われたが…。)

3年程前の暑い夏、学校帰り、子どもは急いでおにぎりを食べて、30分位かけ、自転車でかけつけたため、病院に着いたとたん、食べてきたおにぎりを、きれいなフロァーに吐いてしまったこともあったが。

今日は、レントゲンを見ながら虫歯の治療の説明を聞き、「今やっているのは、奥まで通ってきれいになったか、電気を通して確認しているんですよ。」と言いながら、パソコン画面の動画で説明してくれた。

息子はというと、ぴくん、ぴくんと体が動き、完全に寝ていた。(ここは床屋か!)

私は高校のとき、歯を抜かれた。高齢の先生が「若い人の歯は抜けないねぇ。」と力任せに全力で抜いていたのを思い出す。

聖書のことばは、レントゲンのように、私の隅々まで照らし出す。そして、神様は最高の医者として、私の心の中(霊的なところ)を適切に治療してくれる。治療は死ぬまで続くが、神様にお任せするばかりである。

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2008年10月10日 (金)

信頼できない病院、信頼できる病院

病気になると、病院にいきますが、信頼できるかどうかがとても大切だと体験しました。

『この川が流れて行く所はどこででも、そこに群がるあらゆる生物は生き、非常に多くの魚がいるようになる。…川のほとり、その両岸には、あらゆる果樹が成長し、その葉も枯れず、実も絶えることがなく、…その実は食物となり、その葉は薬となる。』旧約聖書 エゼキエル書47:9~12

中学の息子が、手や足にじんましんができ、ドンドンひどくなった。1か月前に近くの皮膚科に行った。

そこでは、呼ばれると看護師さんから「その台の上に足の患部を見えるように出して待ってください。」と支持がある。看護師さんと入れ替わりで、別の部屋から医者が来る。かがみ込むこともせず、遠目に患部を見て、一言「じんましんだね。看護師から支持を貰って。」と言い、わずか10秒位で部屋を出る。すると、扉の向こうから看護師が入り、すぐに引き出しを開け、薬の塗り方を書いた紙を渡される。診察完了。

たくさんの飲み薬とステロイド入りの塗り薬を貰って帰った。

何の説明もなく、山のような飲み薬は怖くて、飲ませることが出来なかった。塗り薬は、塗ったときはよくなるが、すぐまたブツブツ出てきて、やはり不安で、違う病院へ行こうと思った。

今日、めでたく時間が出来て、違う評判の良い皮膚科に行った。丁寧に見て、丁寧に説明してくれた。

続いて、年配の明るい看護師さんが、薬を実際に患部に塗りながら、漫談のようなトークで、「皮膚の形成のため、早く寝ること、野菜を食べること、適度な運動よ。」と話してくれた。息子も「看護師さん面白かった。」と満足げだった。

とにかく、説明が丁寧でよくわかり、信頼できた。多分、貰った薬は前の皮膚科とそんなに違わない。が、信じて、安心して、言われたとおりにやり、治そうという気持ちになる。

あまり、病院通いをしない私だが、病院や医者や、看護師を信頼できる大切さを学んだ。

私の人生においては、神様のことばが、何より信じられて、そのとおり歩めば、間違いないというのと同じだなぁと思った。

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2008年9月27日 (土)

子どもの良いところのストライクゾーンを広げる

子育てをしていると、子どもの良いところより、出来ないところに目がいきやすいのが、親の常のようです。

『実に神はすべての人間に富と財宝を与え、これを楽しむことを許し、自分の受ける分を受け、自分の労苦を喜ぶようにされた。これこそが神の賜物である。こういう人は、自分の生涯のことをくよくよ思わない。神が彼の心を喜びで満たされるからだ。』旧約聖書 伝道者の書5:19.20

よく言われることだが、私たちは、自分の子どもが誕生したときは、嬉しくて仕方なく、その寝顔をみているだけで幸せだった。それが、いつの間にか、あれが出来ない、これも出来ないと嘆いている。

ある子育て講演会でちょっとしたテストがあった。「今から自分たちのお子さんのいいところを書いてください。」そして、みんな、いろいろ考えて書いた。そのあと、その講師の方はプロジェクターからスクリーンに「こんなのがあります。」と映し出した。そこに書かれてあるのは、・朝ご飯を食べる・元気・よく笑う・いろいろ話す等々…特別なことでなく、日常的な平凡なことだった。

そして講師の方は言われた。「皆さん、お子さんの良いところのストライクゾーンを広げてください。」

今の競争社会、思えば、生まれたときから、寝返った、歩いた、オムツが取れた…なんだかなんでも早く出来ればいい、上手にできた方がいいという価値観に親もドップリ漬かり、ときにはつまらぬ優越感や劣等感に浸ってきたのかもしれない。

その子が持ってる輝きを親も共に喜べるようになれたらいいなと思う。ちなみに、我が子は、だれとでも仲よくなれる自慢の子である。

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2008年9月22日 (月)

我が家の親の声かけ

「宿題やったの?」「今やろうと思ったのに、やる気なくした。」なんてこと、ないですか?

『ひとりひとり、いやいやながらでなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりにしなさい。』新約聖書 第2コリント人への手紙9:7

ドラえもんの中で、いつもお母さんが、「のびた、宿題やったの?」と聞くが、実際、我が子への声かけになると本当に、難しいのを体験した。

我が息子は小学になって、ピアノを習い出し、毎日練習することになった。「練習したらおやつあげるから。」「練習したら遊んであげるから。」何とか毎日練習させようと、怒ったり、なだめたり、声をかけているほうがグッタリする。相手はやる気配を見せない。夕飯前までやらないと、誰もご飯が食べられないルールを作ったり…しかし、意志の弱い私はそれも駄目だった。

大人も子どもも、言われていやいややらせられるのは、楽しくない。長い格闘の末、ある日「ピアノ、何時からやるの?」と聞くと、「今、何時?それじゃ、10分後。」そして「10分たったよ。」と言うと、すぐやるようになった。

中学になった我が子であるが、日常では、朝起きるときから、お風呂に入るときも、寝るときもこの声かけをしている。朝は単に眠くて「あと5分」というのだろうが、お互いいやな思いをせず、自主的な雰囲気になる。「お風呂に入りなさい。」というより、「あと何分したら入るの?」と決めさせる。我が家の中では「あと5分」が多いが、親も子どもも気持ちよく過ごせている。

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2008年9月15日 (月)

自分の多面性、人の多様性を楽しむ

一人一人には数えきれない良い面があるのだと思います。

『しかし、私たちはひとりひとり、キリストの賜物の量(はか)りに従って恵みを与えられました。』新約聖書 4:7

子どもが小学生低学年のとき、田舎に帰り、子どもと私の姉と私とで食事をしに行ったときのこと。子どもに「おばちゃんのいいところは何?」と聞くと「面白いところ。」と即答した。「ママのいいところは何?」と聞くと、「う〜ん、えっと…、えっと…、面白いところ。」と悩みに悩んだ末に言う。(いろいろやってるのに、それだけかい!)「じゃあ、パパは?」と言うと「パソコン出来ること、ゲーム上手いこと、遊んでくれること、面白いこと。」と間髪入れずに答えた。

母のよいところを見い出してもらえなかったのは、残念だが、我が子は、“人間おもしろいことが重要”と思ってるらしい。

私も皆さんからいろんな評価をいただくが、そして、私たちにはいろいろな側面があるのだが。私たちが、人の何を重視しているかということが、人との関係づくりに繋がってくる。自分が持ってる多様な面で、人に楽しんで喜んでもらいたいし、一人一人のもっている多面性を楽しんでいけたらと思う。

かつて、人と違うということが私にはとてもきつかった。自分をあるがままで受け入れられたとき、自分と違う人の多様性を楽しめるようになった。

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2008年9月14日 (日)

男性のもっているプライド

プライドを捨てることが私にとっては、自由になることですが、人のプライドは尊重できたらいいなと思います。

『わたし(神)は、人間の綱、愛のきずなで彼らを引いた。わたしは彼らにとっては、そのあごのくつこをはずす者のようになり、優しくこれに食べさせてきた。』旧約聖書 ホセア書11:4

プライド…それは誰もが持っているが、一般的に女性より男性のほうが、そこに敏感なのではないかと思う。

我が息子がまだ、幼稚園のとき、近所の可愛い女の子と家の前で遊んでいた。「危ないところで遊ばないでよ」と私が注意して叫ぶと、隣にいた主人が「女の子の前で注意するのは、プライドが傷つくからやめたほうがいいよ。」と私にささやいた。そのとき、「男性たるもの、なんと繊細なことよ!」と心の中で思ったが、勉強になった。

昨日は息子の中学の体育祭だった。小学校と一番違うのは、転んだり、失敗したりした男の子たちが、すぐ起き上がって走りださず、あきらめ、ゆっくり歩いたりする姿だった。「失敗しても、転んでも、最後まで頑張ればいいのに…。」と私がつぶやくと、隣にいた主人が「あれが、プライドを保つ精一杯の姿なんだよ。」と解説してくれた。

男性陣のガラスのような傷つき壊れやすいプライドを女性群は理解できず、傷つけてしまっているのかなぁと思った。すくなくとも、プライドが重要でない私はどこかで、誰かの大切なプライドを傷つけているのかも。ごめんなさい。

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2008年9月13日 (土)

夫婦間の愛情が子どもを育てる

子どものために、私たちが優先して大切にすることが、夫婦の関係と思います。

『「ああ、わがわが愛する者。あなたはなんと美しいことよ。…あなたの目は鳩のようだ。」「私の愛する方。あなたはなんと美しく、慕わしい方でしょう。私たちの長いいすは青々としています。」』旧約聖書 雅歌1:15~16

アメリカ人と結婚した友人に「I love you」と日常で言うのか聞いた。言うとのこと。日本には、「あなたを愛しているよ。」と夫婦で言い合う文化はない(そのように語らってるご夫婦もいるかも知れないが。)言わない中で、大切にされてることを悟る文化ではないかと思う。

私は小さい頃、何故か、優しい父に、物凄く気を使った。「なんでも欲しいものを買ってあげるよ。」と言われ、「いえ、大丈夫です。」と答えていたのを覚えている。

今思うと、父が病気になる以前は、母がとても父に気を使っていたからだったのだろう。私たち子どもも、自然に母と同じように父に気を使ったのだと思う。

ある方が言っている。「両親がいつも互いに微笑みを交わしている家庭で育った子どもは、親に微笑みを返し、やがてこの世界に向かって微笑みを提供するだろう。」

言葉を越えた両親の愛情や温かさを子どもは、肌で感じ、育っていくのだろう。子育てで私たちが、努力するのは、ときには子どもに対してよりも、夫婦お互いに対してのときもあるのかもしれない。そして自分を赦すように、相手を夫(妻)を深く赦すことが、子どもの愛情をはぐくむのかもしれない。

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2008年9月11日 (木)

親の力の行使=虐待に思う

今日、自分の思い通りにしたいと力を行使された親に傷んだ友人の話しを聞きました。

『人に思慮があれば、怒りをおそくする。その人の栄光は、そむきを赦すことである。』旧約聖書 箴言19:11

うちの子どもは、小さいとき、とにかく歩くのを嫌がった。ベビーカーの卒業も遅かった。2才頃のある日、選挙の投票に家族で出かけた。子どもは相変わらず、「だっこして〜。」とせがむ。「いつまでも、自分で歩かないのは良くない!」と私は奮起し、無理やり歩かせようとする。歩かない。心の底からメラメラと怒りのようなものが湧いてきた。今まで経験したことのない思いだった。「どうして言うこと聞けないの!!」と叫んだかどうかはさだかでない。と、この思いに支配されるのは危ないと、もう一人の私がさとし、ふっと力が抜けた。私が自分の思い通りに子どもをさせたいという思いがなくなった瞬間であり、いい加減な育児の始まりだったかもしれない。悪くいえば、子どもを良くしようという思いをあきらめ、肩の力が抜けた瞬間だった。

それがベストかどうかわからないが、あの「どうして、お母さんの言うことが聞けないの!」と怒りまくって、子育てしていたら、今の楽しげな、伸び伸びとした、笑顔の子どもはいなかったと思う。

親には力やことばや自分の思いで子どもを縛る権利はない。

子どもには、子どもなりの考えがあり(未熟に思えても)、子どもが自分で歩いて、自分で選んで行く道がある。

親は子どもの道を心配しながらも、そっと応援し、助けていくことしか出来ない。

そして、親も子どもとは違う自分の道を楽しみ歩くことの大切さ、今日、親から虐待され育ったと言う友人の深い痛みを聞きながら思った。

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2008年9月 4日 (木)

遅かったオムツ外し

出来の悪い母親ですが、子どもは元気に成長していて、ありがたいです。母親の仲間入りにされている憐れみを感じます。

『私(パウロ)が植えて、アポロが水を注ぎました。しかし、成長させたのは神です。それで、たいせつなのは、植える者でも水を注ぐ者でもありません。成長させてくださる神なのです。』新約聖書 第1コリント3:6~7

私の子育てといえば、ストレスはあまりなく、自分の出来ない多く(例えばしつけとか)主人がやってくれたので、あまり苦労も感じず、いつも楽しく子どもと過ごせた。が、出来の悪い母親なので、どうしていいかわからないことはたくさんあった。

お母さんたちの中では、オムツ外しの話しが必ず出る。「うちは何才でとれた」「とった」と話す。私は、「うちはまだなんだぁ。」と言うと「大丈夫よ。大人になって、オムツしてる人いないから。」と優秀なお母さんたちに励まされたものだった。

子どもには「パンツにしてみようか。お漏らししちゃっても大丈夫なんだよ。」と話すが慎重派の子どもは失敗を嫌がる。

ある日、「トイレに座ってしてごらん。」と言うと、座り、そして、オシッコをした。子どもはとても嬉しそうに、誇らしげに、私の顔を見て、ニッコリした。

オムツ一つ取るのにもどうしていいか、全くわからない母親だったが、なんとか4才の誕生日の前には外すことが出来た。

すべてはこんな感じで来てるが、子どもは元気に成長してくれて、ありがたい。

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2008年8月21日 (木)

子育ての中で親の力の危険

『イエスは…言われた。「…異邦人の支配者たちは彼らを支配し、偉い人たちは彼らの上に権力をふるいます。…あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。』マタイの福音書20:25.26

前のブログで、子どもが子どもらしく時を過ごす大切さを書いた。「人を知り人を生かす」という本で、クリスチャンで精神科の医者である工藤信夫先生が次のように書いてあった。私の下手な表現をうまく代弁してくれているので抜粋する。

題は力の危険。「親と子、一方があまりにも強すぎると、他方は力の均衡を保つことさえ困難となって防御に回る結果となり、自我の開花は著しく阻害されることもあるのです。…大切なことは、子どもに冒険や失敗、反抗や批判の余地が残されていることです。親は必要以上の過度の力を行使してはならないし、子どもたちから選択の機会を奪ってはならないのです。」

私の場合、母親の価値観を押し付けられ、反抗し続けたが(中学から母が亡くなるまでだったので疲れた)、反抗できなかったら、自分を確立出来ずに、アイデンティティーもなく言いなりになって、何もなかったかもしれない。親は不完全だが、いつも子どもは神様から与えられた、自分とは全く違う存在として、受け入れ、教えられ、その子どもの良さを発見させてもらうことが大切かもしれない。親の力を過度に行使せず、親として子どもに育ててもらうのかもしれない。

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2008年8月18日 (月)

子どもたちと関わる喜び

『弟子たちが…言った。「それでは、天の御国では、だれが一番偉いのでしょうか。」そこで、イエスは小さい子どもを呼び寄せ、彼らの真中に立たせて、言われた。「…あなたがたも悔い改めて子どもたちのようにならない限り、決して天の御国には、はいれません。だから、この子どものように、自分を低くする者が、天の御国で一番偉い人です。」』マタイの福音書18:1~4

私は子どもが大好きだ。子どもと遊んでいると、自分も子どものようになれて楽しい。遊ぶ子どもと同じ精神年齢になって遊べるのが、私の特技かもしれない。

大学では、地域の子どもたちと遊ぶサークルだった。クリスチャンになってからは、教会学校に来る子どもたちと関わってきた。私の子どもが生まれてからは、我が子の友達を家に招くのが楽しかった。

長い間、沢山の子どもたちと交流できたのは、素晴らしい体験だった。

今は我が子も個人行動になり、家に友人を呼ぶことはなくなった。私は我が家が子どもたちのたまり場になってくれればと思ったが、その夢はかなわなかった。

今、私は20歳位年上の地域の人たちと関わることが多くなった。今度はまた違う年代の人たちとの交流を楽しませてくれる神様に感謝している。

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2008年8月15日 (金)

子どもの成長のために大切な子どもとしての体験

『あなたがたのうちに良い働きを始められた方は、キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成させてくださることを私は堅く信じているのです。』ピリピ人への手紙1:6

クリスチャンは聖書の良いことばを知っているがために、自分はそのようにならなくてはならないと自分を縛ってしまったりすることがある。けれども、大切な事は、知っていることではなく、自分の足で一歩一歩失敗したりしながら、そのことばに生きることである。

子どもの成長もそのようだと思う。大人にとっていい子ども、利口な子どもというのは、実は、何かに縛られ、子どもとしての体験が少なかったりする。
良い子どもは、それがその子どもにとって本当に良いか注意しなければならないと言われるゆえんと思う。

子ども時代は成長し大人になるために大切なときである。そこでたくさん失敗したり、悔しい思いをしたり、笑ったり、泣いたり、正直にいろんな体験をしていくことが大人に成長するためになくてはならないことと思う。

子どもたちが、勉強ばかりしたり、親のいいなりになるのでなく、自分の足で一つ一つ体験し、その子どもらしさの良さを伸ばして成長していけますように。親が縛り過ぎず、子どもの良い環境を作っていけますように。

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2008年8月13日 (水)

忍耐をもって走る生活の中に、励ましと支えを沢山見つけられますように

『こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、いっさいの重荷とまとわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競争を忍耐をもって走り続けようではありませんか。』ヘブル人の手紙12:1

マラソン選手は、沿道から聞こえる声援に励まされ、苦しいけれど、頑張って走る。どんな競技にも、応援はつきものだ。

私たちの生活でも、小さな応援が大きな力になる。最近、私が嬉しかったのは、友人が「いつでも愚痴聞くからね。」と言ってもらったことだった。

うちの子どもは将棋をしているが、調子が良いとどんどん一人で進む。が、調子が悪くなると何をやっても勝つ気持ちがしなくなるらしい。マネージャー役の主人は、そこで、絶妙なタイミングで、何気ない励ましの声をかける。そして、後ろ向きの子どもの気持ちが戦えるように助けていく。

ときには、生活で走るのに疲れる、そんなときがあるかもしれない。忍耐して走れるそんな励ましと支えがありますように。

私も楽しくブログを続けさせてもらってるが、主人がいつも、来てくれた人の足跡をみて報告してくれたり、声かけしてくれたり、管理人といろいろ工夫してくれたり。今日は、記録用の厚いノートを買ってきてくれた。

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2008年8月11日 (月)

耳が開かれて話せるようになる

『人々は、耳が聞こえず、口のきけない人を連れて来て、彼の上に手を置いてくださるように願った。そこで、イエスは、その人だけを群衆の中から連れ出し、その両耳に指を差し入れ、それからつばきをして、その人の舌にさわられた。そして、天を見上げ、深く嘆息して、その人に「エパタ。」すなわち、「開け。」と言われた。すると彼の耳が開き、舌のもつれもすぐに解け、はっきりと話せるようになった。』マルコの福音書7:32~35

赤ちゃんは、「あー」とか「うー」とかしか言えないけれど、周りの人たちの言葉を沢山聞いて、話しが出来るようになる。うちの子どもは、言葉を話せるようになるのがとても遅かった。それでも、主人と私が話しを始めると、そこに割り込んできて、訳のわからない言葉で、一緒に会話に参加したものだった。

言葉を話す、それは聞くということと深くつながっている。どのようなことを聞き続けているかが、どのようなことを話せるかにつながる。

イエス様は今日も私に「エパタ。」と言って私の耳を開かせ、神様の知恵を聞かせてくださる。いつも人の心の声が聞こえるように、そして神様からの励ましの声が聞こえるように祈りたい。

『神である主は、私に弟子の舌を与え、疲れた者をことばで励ますことを教え、朝ごとに、私を呼びさまし、私の耳を開かせて、私が弟子のように聞くようにされる。神である主は、私の耳を開かれた。』イザヤ書50:4.5

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2008年8月 8日 (金)

誉めて認めて、高め合う

『親切なことばは蜂蜜、たましいに甘く、骨を健やかにする。』箴言16:24

私の主人は、とても誉め上手だ。私が何かやってることに対しても、さりげなく誉めてくれる。誉められて嬉しいのは、子どもだけではないのだなぁと思う。私はそんな主人に「パパは誉め上手だねぇ。嬉しくてやる気がわいてくる。」とフィードバックする。

人の言葉は、殺しもし、生かしもする。子どもが小さいとき、私はつい「うちの子どもは運動が苦手なんだよねぇ。」と子どもの前で言うと、すかさず、主人が「そんなことはない。いいセンスをもっている。」とか「練習すると、すぐに上手くなる。」とか言う。確かに、私は親から「お前はだらしない。」とか「女のくせに。」とかいろんなことを言われて縛られてきた。「この子は運動が苦手」と言い続けていたら、そうでなくても、そう信じ込んでしまう。人は信じたように行動する。どうせ信じてもらうなら、「やれば必ずできる」そんなチャレンジ精神を持った子どもに育てたい。

自分も誉める、人も誉める、子どもも誉める、良いところや可能性を認めあったら、みんなが嬉しくなる。

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2008年8月 7日 (木)

命を与え、養い続けてくれる神様

『神よ。あなたの御思いを知るのはなんとむずかしいことでしょう。その総計は、なんと多いことでしょう。それを数えようとしても、それは砂よりも数多いのです。私が目ざめるとき、私はなおも、あなたとともにいます。』詩篇139:17.18

結婚して、4年間、子どもが与えられなかった。あまり、考えないようにしていた。が、ある夜、目が覚めて、お祈りした。「神様、私も母親になりたいです。養子でもよいので、母親にしてください。」次の月に妊娠していた。

つわりがひどく、胃液を吐いていた。水すら飲めず、そういうこともあるんだなぁと思った。一週間、入院し、点滴をした。ひどいつわりだったが、ベットの上でこの聖書のことばを思いめぐらした。神様によって人は命与えられ、産まれてくる。この命ほど神秘的で尊く、素晴らしいものはないと思った。

可愛い赤ちゃんだった我が子は、あっという間に大きくなり、母親をちょっとバカにしたり生意気になる。それでも可愛いくて仕方がない。

神様も私たちを子どもとして、いつも心配し、大切な存在として、変わることなく養い続けてくれている。

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2008年8月 6日 (水)

子育てをする親が自分の自尊心を保つ方法

『私たちの齢(よわい)は70年。健やかであっても80年。しかも、その誇りとするところは労苦とわざわいです。…それゆえ、私たちに自分の日を正しく数えることを教えてください。…どうか、私たちの手のわざを確かなものにしてください。』詩篇90:10~17

結婚したころ、主人は優しかったが、まだ、心の傷が完全に癒されていなくて、現実に与えられてるものが見えず、実りのある働きをしないことを嘆いていた。その頃の私の祈りが、この「手のわざを確かなものにしてください。」だった。

子育ての最中、親は子どもの成長を見ていく楽しみがある。子どもが何かうまくいくと、自分のことのように嬉しいし、失敗すると自分のことより、辛かったりすることもある。

ある講演会で、講師の方が次のように言われた。「子どもが誉められるとお母さん自身の自尊心が高まる。が、落とし穴になる。知らないうちに母自身のため、子どもをがんばらせたりする。共依存の防止が必要。お母さん自身の自尊心を子どもの結果以外のところ(働くとかボランティアとか)で持ってください。子ども以外でお母さんも認められ、誉められて、自尊心を高めてください。」

母であっても、また、一人の人間として、私自身の手のわざを確かなものとしてくださいと祈りたい。

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