友人

2009年11月 5日 (木)

“神様から信じる心を与えられる”

神様を信頼することについて考えました。

『信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。』新約聖書 ヘブル人への手紙11:1

信仰とは、神様への信頼である。

信頼を強める…というとどうしたら良いか難しい感じがする。

けれど、私たちは日常の中で、普通に人を信頼したり、信頼しなかったりしている。

信頼は目には見えないものである。

けれども、友人とか付き合いをする中で、この人は信じられるとか、信じてもらうとかという作業をしているのだと思う。

友人との信頼は、順調なときよりも、自分に困難が訪れたときとか、自分が負債を負ったときとか、何もなくなったときとかにわかるのかもしれない。

私も自分の弱さで失敗したとき、それを裁き黙って去っていった人たちと、それを受け入れ、応援してくれた人とがいた。

人との信頼は困難な中、弱さの中でつくづくわかる体験をした。

神様は信頼に足るお方である。

だから、人と人との信頼関係と違って、信頼するお方を自分が信頼しているか否かをいつも問われてしまう気がする。

が、私は神様を信頼する心すら神様からきているのではないかと思う。

エペソ人への手紙2:8.9に次のようにある。

『あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。

行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。』

救いが神様の恵みであり、自分の力によるものではないと言っているのかもしれないが、信頼する、信じる心すら神様からいただいているように思う。

なぜなら、私がイエス様の世界があることを理解したのは、信じられたのはある瞬間からだった。

たぶん、この世に、自分に、人に、信じるものを無くし、すべてにギブアップした状態の瞬間、神様の側の世界を理解し、そのときから信じることができた。

だから、信じることすら自分の力ではないと思う。

信頼するべく神様をどうしたら信じていけるか。

もしかしたら、何か他のものを信じながら、神様を信じることは難しいのかもしれない。

お一人、お一人の心に神様への信頼が与えられ、その信仰にたっていけますように。

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2009年7月21日 (火)

“石焼きビビンバ”

美味しいものは美味しい…神様のことばもそんなふうになるといいなぁと思いました。

『わたしは、天から下って来た生けるパンです。だれでもこのパンを食べるなら、永遠に生きます。またわたしが与えようとするパンは、世のいのちのための、わたしの肉です。』新約聖書 ヨハネの福音書6:51

今日は、我が家で、特別支援学級に通う子どものお母さんたちとのお茶会の日だった。

だいだい3人だけれども、今日は仕事で一人の方が来れずに、2人だった。

いつも、その場で生きている子どもたちの話しを聞くと、ひたむきに生きる素晴らしさを教えられ、感動に浸る。

月1ペースで始めて、5年目になる。

私はお茶会の日はお昼は何にしようか、考える。パン、焼きそば、スパゲッティ、お好み焼きなど、簡単、無難なメニューを考える。私が、とにかく料理が苦手で、人に食べてもらうというおもてなしが苦手なのだ。

今日は、思いがけず、生協の“石焼きビビンバ”セットが冷凍庫にあったので、石焼きで焼いて一緒に食べた。

美味しかった。二人でかなりの量をペロリと食べた。

息子の近況を少し話すと、彼女は「ブログで見ました。」と言ってくれた。

信仰ネタの多いブログだが、拾って読んでくれているみたいでありがたい。

この前、別の友人は、私の母の事などの過去のブログを見ていると言ってくれた。

別のランチ友だちの2人の友人も、わからないところを飛ばしながら見ていると言ってくれた。

“石焼きビビンバ”がみんなにとって美味しいように、神様のことばも、本当は誰にとっても美味しいはずだ。神様がみんなのために書いたことばだから。

この前、いつも訪問してくれるミニマルにも、「今日はセバのことばが多かったから、すんなり入ってきた。」とコメントをもらった。

美味しいものを、固く、食べにくくしているのだなぁと思った。

美味しいものは、子どもにとっても、お年寄りにとっても美味しいはず。

イエス様は誰にでもわかるように、神様について話された。

ノンクリスチャンが読んでくれても、クリスチャンが読んでくれても、ともに、神様のことばは美味しいね…そんなブログになれたらよいなぁと思った。

きっと、日常のいろんなところに、神様の真実と聖書の真実はあるのだと思う。

ブログを宣伝して歩いたのは私だけど、改めて読み続けてくれるノンクリスチャンの友人たちにありがたい思いになる。

霊的?でないタイトルは勇気がいるけど、神様の愛は、聖書知識やそのことばで壁をつくらない。

神様が伝えたいメッセージが、神様の優しさとともに人々の心の中に入りますように。人を慰め、励ましますように。

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2009年7月19日 (日)

“イエス様が友となる”

友だちについてです。

『人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。』新約聖書 ヨハネの福音書15:13

おはようございます。

この日曜日の朝も、神様が教会の外にいる人たちを限りなく愛しておられるのを思いつつ、聖書の分かちあいをしたいと思います。

今日のテーマは、“友”です。

皆さんは友だちはいますか。友だちのことで悩んでいないですか。

私は中学の時、とても心が近いと思う友だちがいました。

ところが月日が立つと、ふれあって、理解しあえたかのような関係が疎遠になりました。「私とあなたは心分かちえる友だちではなかったのですか?」と切ない手紙を書いたのを覚えています。彼女とは、疎遠のまま、終わりました。

私はこの年になっても、“友とは?”と考えてしまうことがあります。(めったにないですが。)

友だちの定義をして、人に当てはめてしまうとたんに、誰が友だちかわからなくなります。友だちとは定義にあてはめたり、求める対象ではないからです。

今、私は基本的に私がイエス様からいただいた良いものを持って、人と分かち合いたいと願っています。(分かち合うのは、神様のことばかりではなく、私の喜びや人に対する気持ちなどです。)分かち合う関係を思うと、私のまわりにいる多くの人が大切な友だちに思えます。

イエス様は、私たちのためにいのちを捨てて、私たちを愛し、私たちの友となってくれました。

皆さんにとって、友だちとはだれですか?

この私たちを大切に思い、深く関わってくれるイエス様を友だちとして持つとき、私たちは友を必要とする人の友になれます。

友には、上下関係はありません。対等な、共に良いものを受け合い、与えあい、支えあう関係です。

イエス様は今日も、いのちをかけて、あなたの友になりたいと言ってくださっています。

それはすばらしい約束です。イエス様を友に持つということは、私を理解し支えてくれる友を持つことです。そのことによって私がまわりの人の友になっていける約束だからです。

人生で友だちは大切です。人は一人では生きられないからです。

私は友だちは何よりの宝物と思います。

2年前に出会った友人は、私に良くこの話をします。

「Sebaさんの名刺を人づてにもらったとき、私、この人と一緒にボランティアをしたいって強烈に思ったんだよね。」

「それって、怖いよね。会ったこともなく思われても、イメージと全然違うこともあるだろうし。」

「でも、予感があたっていたんだよね。」

「本当に私たちはベストパートナーだよね。」

私たちは、スーパーで出会い、メール交換し、今では、ボランティアでも、他でも良いパートナーとしています。

私はここ3〜4年に大切な友人との出会いが多くありました。それはきっと、私がイエス様との友だち関係の良好さと思っています。

イエス様が、あなたの親しい友となりますように。

そのことによって、あなたが、まわりにたくさんの友を作っていけますように。

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2009年7月 3日 (金)

“イエス様の赦しの愛”

イエス様の赦しは、人知を越えていることを思います。

『ほかにもふたりの犯罪人が、イエスとともに死刑にされるために、引かれていった。

「どくろ」と呼ばれている所に来ると、そこで彼らは、イエスと犯罪人とを十字架につけた。

犯罪人のひとりは右に、ひとりは左に。

そのとき、イエスはこう言われた。

「父(神)よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているか自分でわからないのです。」

彼らは、くじを引いて、イエスの着物を分けた。』新約聖書 ルカによる福音書23:32~34

あるクリスチャンの友人と電話で会話していたときのこと。

「久々、会いたくない人と会ってしまい、疲れなかった?」と私が聞いた。

彼女は言った。「自分がまだ、その人を赦していないということにショックだった…。」と。

そのときは「そうなんだ。」と言った。

電話を切ってから、「赦してなくていいんだよ。そんな私たちをイエス様がもう赦してくれているんだから。」という言葉が浮かんだ。

私は牧師たちを赦し、手放し、解放された。

だから、赦すことの自分が受ける恩恵を長い期間、人に証ししてきた。

電話で話しをした友人は、人を赦したかった。が、赦していない現実にかすかに失望してしまった。

けれど、「赦せなくていいんだよ。そんな私たちがイエス様の十字架でもう全部、そのまま、罪あるまま、赦されて受け入れられているんだから。」と本当のことを言ってあげたら、彼女の痛みは、イエス様におおわれたかもしれないと思った。私にとって、大きな気付きだった。

私たちは、何をしたらよいか答えを知っている。

そして、そのようになっていない自分に失望する。

けれども、私たちのすべての罪は、すべて赦されている。

つまり、今、持ち合わせている罪があったとしても、そのままで赦されている。

イエス様は十字架にはりつけにされ、その気絶しそうな苦しみの絶頂の中、十字架上で、「天のお父さん、私を十字架につけているこの人たちを赦してください。」と祈られた。

そのイエス様の十字架の下で、平気に鼻歌を歌いながら、くじを引いて、イエス様の着物を分けるのに夢中になっていたのが、私である。

彼らが、イエス様にしている卑劣な行為の目の前で、イエス様は赦しをとりなされた。

私たちは自分の弱さや足りなさに格闘しなくても、それをも含めてイエス様は、「わたしはあなたの全部を赦したよ。」と抱きしめてくれる。

私が自分の中に醜い自我、恥ずかしいもの、愚かしいこと、惨めなものを見い出したとしても、イエス様はそのままを抱きしめて、赦すよと言ってくれる。

私たちは自分の赦しを越えたイエス様の包みこむ愛におおわれたとき、罪赦され、きよめられているのを体験するのかもしれない。

イエス様は私のために流された血潮の手で、今日もまるごと、私の闇も包みこんでくれている。

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2009年6月20日 (土)

ノンクリスチャンの友へ

ノンクリスチャンの私の友人あてです。

『だれでも誘惑に会ったとき、神によって誘惑された、と言ってはいけません。神は悪に誘惑されることのない方であり、ご自分でだれを誘惑なさることもありません。

人はそれぞれ自分の欲に引かれ、おびき寄せられて、誘惑されるのです。

欲がはらむと罪を生み、罪が熟すると死を生みます。…

すべての良い贈り物、また、すべての完全な賜物は上(神)から来るのであって、光を造られた父(神)から下るのです。父には移り変わりや、移り行く影はありません。』新約聖書 ヤコブの手紙1:14~17

こんにちは。もし、私の友人が、この記事を読んでくれていたら、嬉しいです。

私は去年の7月から、このブログを始めました。私の友好関係はほぼ9割、ノンクリスチャンの方たちなので、その方たちのために始めました。

まわりの友人にも、ブログの名刺を配りまくりました。

ところが、この5月からかなり込み入ったキリスト教の話しになっています。

読んでくれているノンクリスチャンの方には、キリスト教実態に戸惑っているかなぁと思っていますf^_^;

もっと明るく楽しい話しだといいのですが…。

この前、久々ランチした友人からは、「クリスチャンって教会に言っている人ではなかったの?」と素朴な疑問をいただきました。

「イエス様を神様と信じて、その十字架と復活を私のためと信じる人だよ。」と説明しました。

今日も、メールで、「カルトというと新興宗教だけかと思ったけど、ちゃんとしたキリスト教でもカルトがあるのに驚き!!」とメールいただきました。なんか、教会を知らない人にはキリスト教の怖い部分を伝えているみたいですみませんm(_ _)m

でも、率直な感想は凄く嬉しいです。

カルト教会について、弁明させてもらいたいと思います。

神様は完全な方で、慰めに満ちた光なる方です。

でも、人間って、みんな弱いんですね。良いものを信じていても、その人にある弱さのゆえに、聖書とはかけ離れたところに行ってしまうこともあるのです。

クリスチャンでもそうです。愛なる神様に生かされているはずなのだけど、その本質からずれると、人を裁いたり、見下したり、違う世界に行ってしまうのです。

私自身もまた、間違いだらけの弱い人間なので、そのずれやすい人間の性質が良くわかります。

旧約聖書などには、正しい神様の前に、ひたすらずれていくイスラエルの民の歴史を通して、誰もがもつ人の弱さが書かれています。

聖書の素晴らしいところは、絵に書いた餅のような美しい抽象論が書かれてはいないことです。どうしようもない、人間の愚かさ、足りなさがなまなましく書かれてあります。

そんなどうしようもない人間に神様はどうやって救いの手を差しのべてくれたかが書かれてあります。

だから、綺麗ごとだけ言う教会は嘘っぱちかもしれません。(批判的ですみません)

一度、ノンクリスチャンに私の思いを伝えたいなぁと、常々思っていたので、書けて良かったです。

いつでも個人的に質問受け付けますよ♪

込み入った話しなのに読んでくれて、ありがとう。神様にある祝福を祈ります。

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2009年6月19日 (金)

“カルト化教会の痛み”3・孤独な回復の道

カルト化教会を出た人たちは、そこからまた、孤独な道を歩みます。

『見よ。わたしはあなたとともにあり、あなたがどこへ行っても、あなたを守り、あなたをこの地に連れ戻そう。わたしは、あなたに約束したことを成し遂げるまで、決してあなたを捨てない。』旧約聖書 創世記28:15

私の友人は、10年程、カルト化していく教会に属していた。

そこを出たときは、いろんなコントロールから解けず、苦しんでいた。

心も信仰も回復するためのリハビリ期間は少なくとも3年位かかると、専門の方から言われた。

新しい健全な教会に通い始めたが、孤独であった。家庭で、親から虐待を受けた人は、そうでない人にいくら話しをしても理解されない。

同じように、特殊なところを通されたので、その苦しみは、同じ信仰のことであるのに、誰にも理解されない。

本には、「その牧師がおかしかったことを理解できなかったあなたが悪い。」と責められてしまうこともあると書かれていた。

いろんなコントロールがすぐ解けないので、その言動も奇異に見えるときがある。偏見や疎外感に苦しむ。

そのような人たちがどのような孤独をもって、感情があらわれるか、「信仰という名の虐待」の本から書き写す。もし、近くにそのような方がいたら、私たちは、その苦しみを理解しきれなくとも、寄り添い、共に祈るものでありたい。

「・自尊心を失う

・自分自身を失う
・自分が無力な人間であると感じる

・強い罪責感を感じる

・怒りと欲求不満を感じる(多くの時間と可能性を失ったので)

・恐怖と混乱を感じる

・マインド・コントロールされていたため、自分で考えて、決めることがなかなかできない

・だれかに依存したい、自分の代わりにだれかに決めてほしい

・キリスト教、教会、聖書、神に対して、強い反発や拒否を感じる(個人差がある)

・人に対して不信感を感じる(人を信じられない)」

###

神様、神様の尊いお名前を使って、人をマインド・コントロールし、人々に深いダメージを与えるカルト化教会の罪を赦してください。

神様、そこから出て、なお、苦しむ人たちを助けてください。

私たちは、その“信仰の虐待”された経験者ではありません。

本当に理解が足りなく、かえって突き放してしまうものであることを赦してください。

リハビリの道を歩んだ私の友人に、ときに私は冷たかったと思います。

彼女の苦しみを理解しようとしなかった私を赦してください。

その回復の道を歩んでいる人々たちに、神様、「わたしはあなたを捨てない」と語り続けてくださり、あなたとの麗しい関係を、主によって回復させてください。

その歩みを確かにしてくださり、弱いときも、守り導いてくださる主とともにありますようにしてください。

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2009年6月15日 (月)

捨てさせてくれた神様、そして友人

私が手放すものを教えられました。

『キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。

ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことはせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。

そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。』新約聖書 第1ペテロ2:22~24

私は自分がまだ、握っているものを見せられました。

一人の友人が、私の間違いを指摘し、もう一人の友人が、私の“捨てる自由”への願いを懸命に、自分のことのように、もう一人の友人に説明してくれていました。

二人はノンクリスチャンであるのに、彼女たちを通して、私は弱さをはっきり認め、慰めのイエス様に持っていき癒されました。

不思議な体験です。まるで、二人が聖霊様(神の導き、弁護の霊)であるかのような役割をしていてくれているのだなぁと思いました。

なんといっても、“捨てる願い”を一言で理解してくれた友人に驚きました。

私が彼女の中にある痛みや悲しみに近づいたときでした。“捨てられずに苦しむ”そんな苦しみを彼女はしているんだと教えられました。

感謝してお祈りします。

「天のお父さん、今回、私は、自分はイエス様以外、何も無い者だと認めて生きていくために、特別な場所、友人たちを備えてくださり、ありがとうございます。

私の中に、私は何も無いことを、仕事も持っておらず、社会的な地位も名誉もなく、ポジションも肩書きもないことを、はっきり知るために、備えてくださった様々なことをありがとうございます。

私の中で、まわりが福祉の仕事の話しをしているとき、疎外感やひけめを感じた自分に驚きました。

私は、主婦で、何の肩書きもありませんが、イエス様にあって自分の今を誇りに思っていたつもりだからです。

イエス様は、神様であられるのに、その姿は、みすぼらしく、人々が顔をそむける程でした。

神であられたのに、私のために、すべてを捨ててくれました。

地位、名誉、肩書きの誘惑は、私にとって無縁のものと思っていました。ですから、驚きました。

が、友人たちを通して私の捨てるものをはっきり教えられ、感謝します。

友人に帰りがけ、私は愚痴をいいました。

「私は、仕事もしていないし、会の始めの挨拶で、「皆さん、福祉従事者としての苦労を分かち会いましょうと言われたとき、仕事していない私にはきつかったよ。」というと、Kは言いました。

「そうなんだ。」

たった一言だけど、そう言ってくれました。

私の側にある問題を見せてくれた友人たち、受け止めてくれた友人、車中の二人、コメントくれた友人、…たくさんの友人を通して、癒しを受けとれましたから、ありがとうございます。

私は「自分を神のしもべとして推薦します。」というところに立たせてください。

私の握っていたものは、小さいものではありません。

これから、その問題や誘惑がきたときに、きちんと解決しているための取り扱いと信じます。

握っているものを認め、告白し、イエス様に癒してもらい、手放せたことを信じてありがとうございます。

環境を備えてくれ、気づきに至らせてくれた友人たちに感謝します。

愛しい友人にも、この捨てる自由が与えられますように。

イエス様のお名前によって祈ります。アーメン。」

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2009年6月14日 (日)

“捨てる自由”

日曜日の朝、愛されています人々の祝福を願いつつ、私の教えられた分かち合いをします。

『自分のいのちを自分のものとした者はそれを失い、わたし(イエス)のために自分のいのちを失った者は、それを自分のものとします。』新約聖書 マタイの福音書10:39

おはようございます。

今日もそれぞれのところにある日曜日の朝であることを思います。

神様は、この地に満ちておられ、今、教会の外におられる方も、等しく神様は愛しておられることを思います。

この聖書のことばから、最近、私が気がつかされたお話しをしたいと思います。

“自分を捨てる”という発想は、神様を信じる人以外には、あまりありません。

“自分を捨て、神様に従う”ということを意味します。

もっと違ういい方をすると、“自分を捨てた分、神様のいのちが私に満ちる”ということなのかもしれません。

私は、自分の考えや思い、プライドや固執するものをどれだけ捨てて、神様ご自身にあるか…自分を見るのは、難しいです。

私は、ある友人から「あなたの信仰変だよ。」と言われ、とても“傷つきました”。

そして、考えたのです。「信仰だけは、否定されるのはきついから、彼女の前ではもう分かち合わずに黙っていよう。」

けれども、最近、「私の守る信仰とは何でしょうか」と思いました。

イエス様は、私のための十字架のため、いのちまでも捨てられたのに、人を理解することを妨げる私の守る信仰とは何なのかと思わされました。

「“人の心の理解を妨げる信仰”を捨てます。ただ、イエス様とともにおらせてください。」と祈りました。

すると、不思議と信仰を否定されても、“傷つかない”自分を見ました。

何かを自分の中に持っているということは、それを守ろうとするけれど、何もないと守る必要がないことを教えられました。

今、大学の同窓会に来ていますが、福祉の大学なので、皆さんの多くが、卒業されて、その関係の仕事に従事されています。その中で自分は何の仕事もしていないひけめのようなものを見せられました。

この朝にそのことを静かに思うとき、私の中に守ろうとしているものが、まだまだたくさんあるのだなぁと思いました。

“自分のいのちを失う”“自分自身を無くす”ものに与えられる“イエス様とともにあるいのちの喜び”を求めていきたいと思いました。

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天のお父さん、私はかなりのものを捨てたと思いつつ、まだまだたくさん捨てられずにあるものがあるのを知りました。

捨てた後の自由と、神様にある喜びに満たしてください。

自分を守るのではなく、イエス様を愛する心をください。

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赤いハイヒール

同窓会で皆が私との思い出話を話してくれて、改めて自分の昔の姿が浮き彫りにされた感じです。

『泣くのに時があり、ほほえむのに時がある。

嘆くのに時があり、踊るのに時がある。…

神のなさることは、すべて時にかなって美しい。』旧約聖書 伝道者の書3:4.11

今、大学の同窓会で、仙台の温泉地にいる。

大学時代は自分のことしか考えられなかった。この30年ぶりの再会で、学友との新しい出会いにしたいと期待してきた。

サークルネームが“セバ”なので、「おー、セバ!懐かしいなぁ。」と声をかけてもらうが誰かあまり思い出せない人もいる。いかに、自分しかなかったかという感じである。

1人の友人が言った。「セバはよ、ある日、突然、エナメルの赤いハイヒールを履いて、大学に来たんだ。それで、俺は、どうしたんだって聞くとよ。“自分が変わりたいんだ!”って言ったんだ。」

私は、スカートは一切履かず、ズボンにTシャツの飾り気のない格好ばかりしていた。そこに、赤いエナメルのハイヒール…!?我ながら、ちょっとビックリ…。(本人覚えていない。)

「そうなんだ。セバは何かもがいていて、とりあえず、外側から変えようとしてるんだ、って俺は思った。」

すると、近くにいた友人がすかさず、「お前のことだ。外側変えても、中から変えないとダメだ位言ったんだろう。」

「そうかもな。」と話していた。私はあの頃、何より、変わりたかったんだなぁと思った。赤いハイヒールが良かったかどうかは別として、あの頃の虚しく漂う自分を思い出した。

また、ある友人が「セバさ、大学中退したあと、私、セバに会いに東京まで言ったんだよ。覚えてる?どうして会いに行ったか覚えていないけど、すごく心配だったのかも。」あまり、記憶にないが、心配してくれた友がいたのを改めて、知った。

極めつけが、「俺、東京のセバのところに遊びに行く途中、猫が道路でひかれたのを見たんだよ。その話しをセバに会ってしようと思ったんだ。そしたら、セバは、なんだか溢れる思いで、キリスト教の話しをしてくるんで、ひたすら聞いていて、猫の衝撃的な話しできなかったんだよ。」と言われた。そんなに余裕ない自分だったんだなぁと思った。

友人たちとの新しい再会…と楽しみにしていたが、みんな、私との思い出話しをそれぞれにしてくれた。

そして、過去にいた私は、やっぱり友たちのことより、自分のことでいっぱいで、人の優しさとか、心を聞けない悩める者だった。

改めて自分がどんな人間だったか、教えられたのと、いつも周りに優しい友人たちがいたことを確認させられた。

関東会も出来て、再会の約束をした。

朝まで話そうと、隣の部屋は、まだ、にぎわっている。

かつて、私の中で、心のセンサーが壊れていて、大切な人が隣にいても、いないかの如く、自分しかなかった。

関係作りをやり直せるチャンスを与えてもらって、心から感謝している。

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2009年6月12日 (金)

“忘れない神”

神様は、私たちを決して忘れない…そのようなお方であることを感謝します。

『しかし、シオンは言った。「主は私を見捨てた。主は私を忘れた。」と。

「女が自分の乳飲み子を忘れようか。自分の胎の子をあわれまないだろうか。たとい、女たちが忘れても、このわたし(神)はあなたを忘れない。

見よ。わたしは手のひらに、あなたを刻んだ。…

あなたの子どもたちは急いで来る。…目を上げて、あたりを見回せ。彼はみな集まって、あなたのところに来る。』旧約聖書 イザヤ書49:14~18

明日は、大学時代の同窓会みたいなのがあって、仙台に一泊旅行に行く。クリスチャンになって、初めてのこのような旅行である。

その集まりは、新入生歓迎会実行委員会のメンバーらしい。30年近く前のこと、大学中退した私は、ほぼ皆と絶縁状態だった。

たった一人年賀状のやりとりをしていた友人を通して、見つけて貰った。

仙台に住む人たちが中心になって連絡を取ってくれた。彼らも30年ほどの前の名簿しかないのに、一人一人たぐっていくように人探しをしてくれ、私も同窓会メンバーに入れてもらえた。

そのご苦労を思うと共に、思いがけない再会に胸が弾む。

学生時代はとにかく孤独と虚しさがあり、楽しく好き放題のことをしていたが、本当の意味で“生きる”ことをしていなかった。

タイムマシンのように30年前に戻って、再会する友人たちを祈っていける関係がまた始まることがとても嬉しい。神様の計らいを感じる。

神様は、私たち一人一人を決して忘れていない。

たとえ、自分がすべての人に忘れられているようでも、神様は、私たちを決して忘れない。

母親が自分が産んだ赤ん坊を忘れることがあるだろうか。

万一、母親が乳飲み子を忘れたとしても、神様はけっして忘れないと言われる。

神様は、恋人のように、私たちの名前を、手のひらに刻んで、いつも覚えている。

一時たりとも忘れることなく、熱く思い続けている。

神様はイザヤを通して、私たちにそう言っている。

このねたむほどに、私たちの心を神様のところに向けてほしいと願っている神様は、私たちに語りかけてくださる。

この神様との親しい交流が始まるよう、また、いつもそうあり続けるよう祈ります。

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神様、あなたは私を見捨ててしまいましたか。

神様、あなたは私を忘れてしまったのですか。

そんな思いが湧いてきても、神様、あなたは私を何があっても決して忘れないと言ってくださることをありがとうございます。

イエス様の身代わりにするほどに、私を熱く思い続けてくださることをありがとうございます。

あなたの愛に応えられるように、今、私の心をイエス様の血潮できよめ、うるわしいあなたの愛のシャワーの中に入れてください。

あなたを求めます。

あなただけを求めます。

あなたの思いを受け取れる心にしてください。

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