“私が弱いときこそキリストが現れる”
私が弱いときのことについて書きました。
『しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである。」と言われたのです。
ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。
ですから、私は、キリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじています。なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです。』新約聖書 第2コリント人への手紙12:9.10
この世では強さが求められる。私たち自身も強くなることを願う。
しかし、聖書では、弱さの中にこそキリストの力が宿るとある。
私は今は、かつてより状況に左右されなくなったが、20代のときは、つまずき、ゆきずまり、動けず、倒れる…そんな繰り返しだった。
私が教会で働いていたときは、自分の心の弱さがとても表れていたときでもあった。
牧師の言動に傷つき動けなくなっているとき、一人の年配の友人から、「な〜んだ。弱いなぁ。」と言われ、ムッとしたことがあった。
彼は、牧師と戦っていた。「たとえ、無視されても、私は来続けますよ。」と、戦っていた。
何が正しいか、良いかはわからないが、一つの勢力に立ち向かう彼と、そこで萎(な)えていく私がいた。
私は確かに弱かった。
が、パウロが言う“自分の弱さに甘んじる”はまた、それとは違うのだと思う。
パウロは自分にある弱さ(肉体のとげ)に葛藤していた。イエス様に3度も肉体のとげを除くよう願った。が、それを最終的に、神様が許されたこととして受け入れた。
神様が、自分がごう慢にならないためのものと導かれ、受け入れた。
私は、自分の弱さをとても感じるときがある。反対にすぐいろんなことを忘れて自分が弱い存在だということを忘れてしまうときがある。
自分が弱い存在なのを受け入れているときは、弱く何もできないようで、実はイエス様に近いのかもしれない。
今は、自分の弱さを感じている時期で、そういうときは、人との交流も少なくなる。
けれど、そんな自分をイエス様が受け入れててくれていること、それでも変わることなく愛してくれていることのその恵みを感じる。そして、何もできないような中でも、主をあおぎ感謝している。
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