心の癒し

2009年11月13日 (金)

“すべてはイエス様によって赦された”

私たちの隠したいような弱さをイエス様は赦し癒してくれました。

『そこで女が見ると、その木は、まことに食べるのに良く、目には慕わしく、賢くするというその木はいかにも好ましかった。それで女はその実を取って食べ、いっしょにいた夫にも与えたので、夫も食べた。

このようにして、ふたりの目は開かれ、それで彼らは、いちじくの葉をつづり合わせて、自分たちの腰のおおいを作った。

そよ風の吹くころ、彼らは園を歩き回られる神である主の声を聞いた。それで人とその妻は、神である主の御顔を避けて園の木の間に身を隠した。』旧約聖書 創世記3:6.7

発達障害の親の会が始まって、5年になる。

集まっているお母さんたちは、実に前向きで、その時々の悩みはあっても、我が子にとって、何が良いのかいつも模索している。

他方、あまりそのような会には来ない人の中には、我が子の特徴や課題を見ようとせず、問題がないから大丈夫という方もいる。

子どもの課題が明らかであっても、人の弱さがそのことを受け止めきれず、問題無しとし、子どものゆきずまりを放置してしまう。

人の中にある自分の弱さに対しても、私たちは同じなのだなぁと思う。

自分に歴然とした弱さや足りなさがあっても、それを受け止める力がないと、あるものを無いかの如く、隠したり、ごまかしたりして過ごす。

実は、あのアダムとエバが食べてはならない善悪の木の実を食べて以来、私たちは自分を隠すということを神様にも人にもするようになったのだと思う。

なぜ、隠すかというとその弱さを自分で受け入れることができずに、恥ずかしいとするからなのだと思う。

イエス様は私たちの弱さや足りなさや汚れや恥や、そのような人に知られたくないそのやみの部分を赦すために、十字架にかかってくださった。

私の隠したいようなすべてを、イエス様は十字架ですべて赦して受け入れてくれた。

私たちもそれを受け入れ、赦しと癒しときよめを体験できる。

では、私はどれだけ、イエス様が赦してくれた自分自身を受け入れているか。

それは、自分がどれだけ、そのような恥かしいと思えるような弱さを人にも神様にも言えているかなのだと思う。

私はある時まで決して人に話したことのない癒されていない自分にある心の傷の部分を、ある時から人に話すことができる自分に気がついた。

そうか、人にも話せているのは、そんな弱さもイエス様に受け入れられていることを私も受け取っているからだと気がつかされた。

私たちは、いちじくの葉っぱをどれだけ心の中でくっつけて隠しているだろうか。

隠していることが悪い…というのではない。そこもまた、イエス様が赦されたところであることを受け入れ、もう一度、神様の前に告白していくならば、イエス様がいちじくの葉っぱを優しくはがしながら、「大丈夫だよ。そこも赦され、癒され、わたしの栄光が包まれた患部となったよ。」と語ってくださる。

一枚一枚、いちじくの葉っぱをはがし、私たちのすべてが赦され癒され、イエス様の愛でおおわれているのが明らかになりますように。

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2009年11月12日 (木)

“イエス様の栄光と人の解放”

イエス様をあがめることは、私たちの解放につながることを思います。

『また私は見た。私は、御座と生き物と長老たちとの回りに、多くの御使いたちの声を聞いた。その数は万の幾万倍、千の幾千倍であった。彼らは大声で言った。

「ほふられた小羊は、力と、富と、知恵と、勢いと、誉れと、栄光と、賛美を受けるにふさわしい方です。」』新約聖書 黙示録5:11~12

私は、イエス様に出会う前は、自己像が低く、私は駄目な人間だと思っていた。

そういうことがどんな風に外側に出るかは、人それぞれだろうが、私は“自己実現”を目指すことによって、それをカバーしたいと考えていた。

自己顕示欲が強かったと思うし、自分を何かをもって表さないと、ちっぽけな自分の存在は明らかにならない位に思っていた。

が、その思いとはうらはらに何をやっても挫折に至った。

イエス様に出会ってからも、自己実現という言葉こそ私の中になくなったが、伝道したり、神様の働きをすることによって、自分を表したい欲求は根強く残っていたと思う。

私の信仰生活の訓練で、私は半強制的に与えられた状況を通して、“自分を捨てる作業”をさせられてきた気がする。

気がついてみたら、心の癒しと共に自分を表れしたいという欲求はほとんどなくなっていた。

全くないかと言われたら、弱さの中で試されたら、眠って残っているものが出てくるかもしれない。

が、昔のその欲望に支配されていた自分を思うと、今は皆無に近いような状態であると思う。

代わりに湧いてくる願いは、「ただ神様、イエス様の栄光が表されますように。」という思いである。これは本来の自分には無かったものだから、神様から与えられたものだと思う。

前者の自己顕示欲が強かったときの私は、いつも、自分は成功したか、失敗したか、人にどう評価されるか、そのことが気になった。

今の私は、たとえ人前でかなりの失敗のような状況になったとしても、そのことが恥ずかしくもなんともない。

大切なことは、イエス様と共にいたかであって、自分が何かを上手くできたかではないから。

天国では、ただイエス様が誉めたたえられるお方として、賛美される。

そこには解放がある。自分の捕らわれからの解放がある。

地上では、私たちがイエス様を礼拝することは、自分を忘れてイエス様を誉めたたえることで自分の縛りからの解放となる。

してみると、自分の捕らわれから解放される生活とは、ただイエス様の栄光を願い求める生活なのだと思う。

イエス様をあがめるということは、強いられてしなければならないことではなく、本来あるべき姿であり、私たちが自分から解放される唯一の道なのではないかと思う。

私たちが心からイエス様をあがめていく礼拝生活がなされますように。

ただイエス様が栄光を受けられますように。

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2009年10月24日 (土)

“イエス様の赦しを受けとる”

私の人を裁きやすい罪を思いました。

『だれが自分の数々のあやまちを悟ることができましょう。

どうか、隠れている私の罪から守ってください。

それらが私を支配しませんように。

そうすれば、私は全(まった)き者となり、大きな罪を、免(まぬが)れて、きよくなるでしょう。』旧約聖書 詩篇19:12.13

私たちには、自分で気がつかない隠されている罪がたくさんあるのだと思う。

沼地の底に沈殿している泥のように、何もない穏やかなときは、水面が太陽の光に照らされ、キラキラと輝いたりしている。

が、一旦、大嵐の中、底までかき乱されると、底にたまっていた臭い泥が、水を真っ黒にする。

また、サタンはそのことを良く知り、私たちの弱さにつけ入ろうとする。

私は長い間、教会を裁いてきた者で、裁くことはサタンを喜ばせるだけで、何の徳もないことを教えられた。

が、何か大事なことを主張することで、違うものを裁く危険性もあるのだと思う。

人からみことばを突き付けられ、裁かれることは悲しいことだが、もし、そこに悲しみがあるだけで、裁き返す気持ちが自分になかったら、神様の守りの中にいることを覚える。

今日、突然、私を裁いた人に対して、怒りが湧いてきて、心の中で厳しい口調で裁き返している自分が出た。

何かおかしいと思いつつ、祈り、その思いは消えた。

裁くより、裁きをじっと受けたほうが、罪を犯さない、神様にある幸い…と心で思った。

裁く姿は、神の如くなる姿であり、自己義認につながり、ごう慢につながる。

イエス様の十字架の前に、私は赦され続けるものである。

計りしれない沼地の泥のように、ときに自分の汚なさ、愚かさを見せられるが、イエス様はそれらの罪も赦された。

私がどんなに赦されているか、その赦しの大きさを受け取っていけるとき、私の裁きやすい心は癒され、おおわれていく。

私たちは人に対抗するのではない。

イエス様の十字架の前に、今日も多く赦されてている者であることを感謝したい。

###

神様、私は誰よりも人を裁きやすいものです。

私は25年間、牧師と教会を裁き続けました。

裁かれる側に立たされると、裁く人たちは私のこれまでの姿だと思わされました。

裁いてきた私を赦してください。

イエス様は私たちを赦し、受け入れるために来てくださいました。

イエス様の赦しを受け、また、この赦される恵みを伝える者としてください。

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2009年10月19日 (月)

“涙の谷にも主の泉わく”

困難な道のりのときほど、イエス様は近くにいてくれます。

『なんと幸いなことでしょう。その力が、あなたにあり、その心の中にシオンへの大路のある人は。

彼らは涙の谷を過ぎるときも、そこを泉のわくところとします。

初めの雨もまたそこを祝福でおおいます。

彼らは、力から力へと進み、シオンにおいて、神の御前に現れます。』旧約聖書 詩篇84:5~7

この詩篇84篇は、巡礼者の喜びの歌とある。

私たちは人生の巡礼者のようである。

良い道を楽しく楽に歩くときもあれば、困難きわまりない道なき道を、手探り状態で進むときもある。

今まで経験したことのないような困難が訪れると、私たちは恐れ、不安になり、心配する。

まるで、出口のないトンネルを歩いているような孤独な不安にかられる。

しかし、私たちにはイエス様がいてくださる。

誰にも訪れるだろう困難は、避けて通れないが、誰と歩くかなのだと思う。

作者は、涙の谷を過ぎるときも、そこを泉わく所とするとある。

涙の谷は、一人で歩いてはいない。すべての苦しみをご存じのイエス様が、ともに歩いてくださっている。

その道が苦しければ苦しいほど、人からは理解されない悲しみとなるが、イエス様だけは離れない。

“主の足跡”…正確には『あしあと』(マーガレット・F・バワーズ作)…という有名な詩がある。まとめるとこんな詩である。

『ある夜、わたしは夢を見た。わたしは、主とともになぎさを歩いていた。

どの光景にも、砂の上にふたりのあしあとが残されていた。わたしと主の。

人生の最後のとき、砂の上にはひとつのあしあとしかなかった。わたしの人生でいちばんつらく、悲しいときだった。

「主よ。あなたはすべての道において、わたしとともに歩み、わたしと語りあってくださると約束されました。それなのに、わたしの人生のいちばんつらいとき、あなたが、なぜ、わたしを捨てられたのか、わたしにはわかりません。」

主は、ささやかれた。「わたしの大切な子よ。わたしは、あなたを愛している。あなたを決して捨てたりはしない。ましてや、苦しみや試みのときに。

あしあとがひとつだったのは、わたしがあなたを背負って歩いていた。」』

イエス様は、私たちが苦しく、悲しく、孤独なときほど、近くで助け、背負ってくださる。

振り返るとき、私たちの困難な道は、イエス様の優しさと慰めに満ちた道になっている。

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2009年10月16日 (金)

“ブログの中での心の癒し”(自分史13)

ブログを書きながら、さらに癒されている自分を見ます。

『まことに主はシオンを慰め、そのすべての廃墟を慰めて、その荒野をエデンのようにし、その砂漠を主の園のようにする。そこには楽しみと喜び、感謝と歌声とがある。』旧約聖書 イザヤ書51:3

ブログを始めて1年3か月になる。証をしたいと、何も考えずに始めて、楽しく続けさせてもらっている。

ブログを書き始めて、数えきれないほどの良いことがあった。その一つとして、自分の過去の経験を書く中で、新しいことに気がつかされ、さらに心が癒されていることがある。

去年の7月、始めたばかりの頃は、母のことをたくさん書いた。

今回も順序だてた自分史で、母とのあつれきを書こうして、書けない自分がいた。前は書けたのに、もう苦しかったことを思い出さなくなっている。

私の過去ブログの母の記事を良く読んでくれていた友人が言った。

「今回の自分史のお母さんの記事、軽くなってるね。なんか楽に読めたよ。」と。

そのとおりなのだ。前は、母のせいで、私はこんなになった…みたいな母が悪者になっていた。

が、不思議と書きながら、母のたくましさや、子どもを思う気持ちや、苦労に気がつかされていった。

私が人に話すように書く…その中にも聖霊様が働いてくださり、母のよいところに気がつかせてくれ、さらに私を癒してくれているのかもしれない。

高校時代の苦しみのメインはやはり母とのことだった。

最も理解してほしい人に理解されないつらさを思った。

神様はそんな私のつらかった経験を益としてくださった。

今、理解されない苦しむ人がいると、自然に気持ちがその人のほうにいく。

神様は人生のすべてをご支配してくださり、過去の痛みすら用いてくださることに感謝する。

神様は私たちを慰め、荒野のように荒れ果てた私たちの心をエデンの園のようにし、砂漠のように殺伐とした心を主の園のように変えてくださる。

そこには、裸で神様を見上げ、神様との関係を楽しんでいる私たちの姿がある。

神様のこの約束がお一人お一人のものとなりますように。

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2009年10月 6日 (火)

“陶器師なる神様”

神様は陶器師として、私を作り替えてくださることを思った。

『陶器師は、粘土で制作中の器(うつわ)を自分の手でこわし、再びそれを陶器師自身の気に入ったほかの器に作り替えた。』旧約聖書 エレミヤ書18:4

神様が私たちを壊す…そういうことがあるだろうか。

私は30年の信仰生活を振り返ると、神様によって自分の何かを捨てさせられる作業を繰り返してきたように思う。

違う言い方をすると、衝撃的な出来事の中で、自分を壊され、新しい自分を作ってきてもらった気がする。

それは、陶器師である神様が、ご自分の気に入ったようにするため、器を壊して作り直しているようである。

今は心の中もかなり癒され、毎日平安の中にいると、あの自我にかたまり、不自由に生きていた自分から解放され、なんだかもう充分かなぁなんて思っていた。

が、神様のあわれみの中、これまでの自分の姿を不思議な形で見せてもらうことになった。

いつも人を慰め、励ましてきたつもりだったが、本当は、弱く助けを必要とする人の本当の深いところの悲しみや痛みを理解せず、慰めや励ましのことばすら虚しくなっていたかもしれない私の姿だった。

何をもって強いと言い、何を持って弱いと定義付けるか…ということはあるが、強そうな人は、「助言し、指示を出し、あなたのためだ。」と言う。ときに悲しげに、ときに泣きながら。

けれども、人の抱える悲しみや痛み、その弱さにあるものは、上から見たら、間違いにしか見えず、その心が見えない。

私は今、自分が砕かれたい、神様のハンマーでこなごなに砕いて欲しい…そんな思いになる。

私は弱さを持った人と共に生きるように神様は造ってくださったと思っている。

いちど、癒され平安の中に入れられ、さらに、イエス様がいるところに行きたいと思った。

誰にも理解されず、この世から見捨てられているような人のところまで。

今の私の強さは、きっと何も持たず、希望もない人には慰めではなく、圧迫でしかないのかもしれない。

神様にかなった祈りや願いはきかれる。だから、ときに怖くて、愛せる者に…なんて祈れなかったりする。(そうなるために何が起こるかわからない。)

聖霊様のあわれみの中、私をこなごなに砕き、神様の喜ばれる器に作り替えてください…と素直に祈る今である。

Hana0863

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2009年10月 3日 (土)

“神様は弱い私たちを愛された”

弱い人間を神様が最初から愛されていたことを思いめぐらしました。

『神は私たちを世界の基(もとい)の置かれる前からキリストのうちに選び、御前で聖(きよ)く、傷のない者にしようとされました。

神は、ただみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられたのです。』新約聖書 エペソ人の手紙1:4.5

昨日、イエス様を求めている方と、教会の方と3人で交流をした。

その求めている方が言った。「神様は、なぜ、アダムとエバが蛇の誘惑に負けてしまうように造られたのでしょうか。」

すると、3人のお子さんがいる教会の方が言った。

「もし、自分の子どもたちが何でも言うことを聞くロボットのようだと、つまらない。悪いことをして謝ったり、ママを喜ばせようと一生懸命になったり、そういうのがかわいいと思う。神様も、私たちがロボットのように言いなりになるのではなく、自由意志を与えられ、関係を喜ばれたのだと思う。」

私も言った。「神様は、ご自身と霊的に交流できるように、人にだけ、霊を与えられたのだから、その麗しい信頼関係の中で、人を愛したかったのだと思う。

世界の始まる前からキリストの救いと選びを用意されていたのだから、その誘惑に負ける弱さすら、イエス様で受け入れる計画が初めからあったということなのかしらね。」

3人で様々な良い話しができ、ともにイエス様の素晴らしさを分かち合った。

アダムとエバ以来、私たちは今なお、試練や誘惑の中で、試されている。

そんな中で神様の信頼を選んでいくとき、私たちが成長させられ、さらに神様にある信頼を築いていく。

神様は私たちが有限の弱い存在であることをご存じだった。

もし私たちが、完全であったら、私たちにイエス様が必要なくなり、私たちが神になってしまう。

世界を造られる前、人を造られる前から神様のイメージの中に、いつも失敗をしてしまう、弱い人間と、その人間を愛するゆえにたてられた救いの計画があった。

それはまた、私がイエス様に出会っていない時代、ただ自分の足りなさ、弱さだけを見せられ絶望する旧約の律法のような時代と、その弱さが赦されおおわれ、癒されるイエス様の時代のようである。

イエス様は言われた。

『わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである。』(第2コリント12:9

そして、パウロはそのイエス様のことばに次のように言った。

『ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。』(第2コリント12:9)

イエス様の十字架の前には、私たちの弱さを誇りとできること、そこにイエス様の恵みが現され、イエス様の救いの力がおおわれることを感謝します。

神様が私たちの弱さを知り抜いて用意された、イエス様の赦しの恵みを感謝します。

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2009年10月 1日 (木)

“イエス様の赦しの深さ”

イエス様の赦しの深さを思いました。

『「どくろ」と呼ばれている所に来ると、そこで彼らは、イエスと犯罪人とを十字架につけた。…

そのとき、イエスはこう言われた。

「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているか自分ではわからないのです。」』新約聖書 ルカによる福音書23:33.34

お祈りしていて、突然、遠藤周作の「沈黙」から思わされた。

島原の乱が鎮圧され間もなく、キリシタンが弾圧されて、踏み絵を踏むか、踏まないか迫られる。

踏み絵を踏まずに殉教する人々、踏んで背教する人々、ユダのように裏切る者、しかし、神様はいないかのように沈黙する…そんな内容の本だ。

私だったら…その場にいたらどうするか?わからない。

けれど、私のうちに聖霊様が深く臨むとき、このストーリーを思い出させ、イエス様が「私はすべての人を赦している。」と語っておられように思う。

どうしようもなく弱く、踏み絵を踏めず、裏切ったような人までも、イエス様はその弱く泣いてる心をご覧になり、イエス様の十字架のゆえに赦しておられる。

ある友人が、人を決して裁かず受け入れるのを、私と別の友人で見ていた。

そのとき、私の近くで見ていた友が言った。

「彼女は、いつも人の悪いところを見ないで、人のいいところを先に見る。だから、人を裁くことばが出ないのだろう。」

なるほどと思いつつ、私のこれまでが、全くその逆であることを改めて気がつかされ、衝撃を受けた。

両親、教会、友人、環境に対して私は、良いところを見ずに、先に悪いところを見て裁いてきたのだと。

今は神様との和解により、すべてを受け入れ、平和な気持ちになっているが、いかに長い間、私は悪いところを探して裁いてきたか思った。

イエス様は、十字架の上で、両手、両足釘で打ち付けられ、はりつけにされ、気絶しそうな体の痛みに刺し通されていた。

そんな中で「お父さん(神様)、罪なき私を十字架につけたこの人たちを赦してください。」と言われた。

不当な屈辱さえ耐えられない私だが、イエス様は不当な裁きの中、苦痛の中で自分を殺そうとする人の赦しを願われた。

イエス様の赦しは、底知れず深い。

限りなく弱く、悪を成すもののその弱さの責任はイエス様が背負われた。

それゆえ、悪いところを見て裁かず、弱さをも包みこんで、愛し、赦し、受け入れられた。

###

イエス様の赦しの深さを教えてください。

イエス様の赦しの深さは、人の思いを越えています。

なぜなら、イエス様の愛は、私たちに理解できないほど、深いからです。

イエス様、あなたが、いのちの犠牲を払い、刺し通されるほどに苦しまれて与えた深い赦しが私の中に、また、闇の隅々に及ぶようにしてください。

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2009年9月15日 (火)

“感謝にあふれますように”

感謝について思ったことです。

『キリストの平和が、あなたがたの心を支配するようにしなさい。そのためにこそあなたがたも召されて一体となったのです。

また、感謝の心を持つ人になりなさい。

キリストのことばを、あなたがたのうちに豊かに住まわせ、知恵を尽くして互いに教え、互いに戒め、詩と賛美と霊の歌とにより、感謝にあふれて心から神に向かって歌いなさい。

あなたがたのすることは、ことばによると行いによるとを問わず、すべて主イエスの名によってなし、主によって父なる神に感謝しなさい。』新約聖書 コロサイ人への手紙3:15~17

感謝する…の反対は何でしょうか。

つぶやく、嘆く、不満を言う…でしょうか。

イエス様に出会っていないときの私は、人生に嘆き、失望しきっていました。

人から見たら、とりたて不幸な環境ではありませんでした。

20歳の私は健康で、行きたい大学に行かせてもらい、仕送りもしてもらい、何の拘束もないような中にいました。

が、自己否定、自己嫌悪のかたまりであった自分のフィルターから見た世の中は、もの悲しげで、絶望的でした。

イエス様に出会った私は変わりました。ただ心のうちから喜びがあふれました。

私はイエス様に出会っていないときに、しあわせは環境からくるのではないことを知っていました。

だから、自分が変わりたい願望がとても強かったです。

イエス様と出会った何が嬉しかったのか…ことばではうまく表せないのですが、イエス様を通って入ると、同じ世界が全く違う世界になったのです。

それでも、心の癒しの回復が進むまで、また、教会内への不満やつぶやきを長年してきた私です。

私にとって教会だけが何にもかえられないくらい大切で、こだわっていたので、そこでの妥協を見い出せず、つぶやいていたのだと思います。握って、神様におまかせできない領域でした。

神様に手放させてもらったとき、すべてに感謝できるようになっていきました。

たくさん教会を移ったことも、教会で苦痛を感じてきたことも意味があったと今では感謝しています。

かつて、心の傷が回復していないとき、私は神様の働きができていないと、深く悲しみました。

今、心の傷が回復すると、見渡す限り、すべてが神様から与えられたチャンスと思えるようになりました。

与えられている今を感謝できるかどうかは、内面のチェック機構になるかもしれません。

感謝できないとしたら、それが悪いのだとは私は思いません。

感謝させない傷や痛みがあるしるしなのではないでしょうか。

無理矢理、感謝しなさいとなると、たちまち無味乾燥な決まり事の世界です。

体調が悪いときは、どこが弱っているのか調べて治療します。

感謝できない傷があったら、本人が誰よりも苦しいので、名医であるイエス様に見てもらい、癒されますように。

感謝にあふれるほど、回復しますように。

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2009年9月 6日 (日)

“廃墟から神殿に”

神様は心の廃墟を御霊の住む神殿に変えてくださいました。

『あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っておられることを知らないのですか。

もし、だれかが神殿をこわすなら、神がその人を滅ぼされます。

神の神殿は聖なるものだからです。あなたがたがその神殿です。』新約聖書第1コリント人への手紙3:16~17

神様は天地を造られ、人を造られました。そして、人が神様と交流できる存在として、特別に備えてくれました。

人が生きていること、それは神様の計画の中で命与えられ、尊い存在として備えられました。

神様は人を自分に似る者とされました。

それは、神様が霊的な存在であるように、人にも神様を知り、神様と交流できる霊を与えられたのです。

私は神様から離れているとき、その心は廃墟のようでした。

破(やぶ)れがひどく、いつもその穴の空いたところ、隙間から侵入者が入り、好き勝手なことをしていくのです。

侵入者の名前はサタンです。

私の廃墟に侵入すると、否定的にさせたり、無いところを見せたり、必要以上に悲しませたりします。

また、過去の失敗や弱さや大きく見せて、失望させます。

その破れのある廃墟には、たくさんのかたずいていないゴミ袋があります。

そのゴミ袋の名前は罪です。罪とは造られた方、神様とふさわしい関係をもてない様々な物です。

そのゴミ袋からは悪臭が放たれています。

神様は、ご自身の造られた家(人の心)が廃墟となっていることを悲しまれています。

その廃墟に神様が備えたかった神様を交流する霊はいません。守りは不在です。

もう一度、神様が造られた本来の姿に戻したいと願われました。

神様は、ご自身のひとりご、イエス様を私たちのために送ってくれました。

そして、私たちの心の住まいを、聖霊様が住まわる宮殿とされました。

イエス様は、ご自身の十字架をもって、その悪臭放つゴミ袋(罪)をきれいに処理し、無くしてくれました。

イエス様は、破れを修復してくれました。

もう、破れから勝手に侵入者は入り込めません。

そこは、神様の霊が住まわる神殿となりました。

私たちいと小さき人間の心に、神様の霊が住まわり、神様と交流を復活するものとなりました。

その宮殿は日々、イエス様によってきれいにされ、聖霊様によって、神様からの喜び、楽しみ、平安が溢れるところとなりました。

さらにその宮殿は、きよめられ、聖霊様が上からさらに注がれ、溢れ、流れるところとなるのです。

宮殿は、やがて、聖霊様が溢れ、川となり、人々にまで流れ、癒し、喜びを与えるようになるのです。

お一人、お一人の宮殿が祝福されますように。

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2009年8月26日 (水)

“両親を赦す・2”

聖書のことばが縛りから解放へとなった体験です。

『あなたの父と母を敬(うやま)え。

あなたの神、主が与えようとしておられる地で、あなたの齢(よわい)が長くなるためである。』旧約聖書 出エジプト記20:12

人間関係がうまくいかずに悩む人、生きていくのが内側からつらく感じる人の中には、幼少時代の影響のための人が多いかもしれない。

前にも書いたが、この十戒の第5の『あなたの父と母を敬え』は、かつて、敬うことのできない私にとっては、見たくないほどのことばだった。

悲しいことに私たちは不完全な親に育てられ、また、ある人はその親がいなかったりする。

その影響や欠乏は仕方ないのか?

神様は欠乏をも埋めてくださる方である。

私は父、母と神様によって和解させてもらったあとに、この『あなたの父と母を敬え。』ということばが、実は縛ることばでなく、限りなく解放へのことばと教えられた。

私たちの傷や痛みが、残念ながら、親や育ててくれた人からくるならば、私たちはそこにその後の人間関係の基礎を作ってしまう。

ある人は親に嘘ばかりつかれて、疑い深い人間になってしまうかもしれない。

ある人は否定ばかりされて、否定の渦から抜けられない。

私は母から考えていることを理解されなった。そして、世の中に出たころは孤独に陥ってしまった。

人間の不完全ゆえに作られた傷と痛み…神様はイエス様によってそれすら癒される。

私が両親からの傷の癒しと解放を受けたとき、それは私の世の中の人たちとの人間関係における解放となった。

『あなたの父と母を敬え』…私にはできません、イエス様の十字架で赦し、そのことをなさせてください……そのように祈り、取り組むことは、私たちにとって小さなことではない。

神様が与えておられる地で、祝福の多いものとされるのだと思う。

ちなみに、私は父、母を赦すことはあまり取り組まずに、神様のあわれみで癒された。

が、私は教会や牧師を“赦す”ということに関しては、25年間つぶやきながら先伸ばしした。

が、神様は忍耐してくださり、時満ちて、私がすんなり赦し手放せる時まで待っていてくださった。

私の罪を指摘してくれた友人にもよった。

人から罪を指摘されるのは、ものすごくつらい。なぜなら、相手も、たくさん罪を犯している人だからである。

願わくは、誰のためでもない、自分の自由と解放のために、“赦す”ことを祈り、聖霊様にその罪を示され、悔い改めることが望ましい。

聖書にあることばも私を縛るためではなく、癒しと解放へ、祝福へと導いてくださるための最善のことばと知った。

♯♯♯

天のお父さん、聖書にある一つ一つが、どれも私たちがなすには不可能なものばかりです。

イエス様はそんな弱く、何もできない私たちをその罪をかかえたままで赦すために来てくれました。

私の力が弱くなり、ただ、イエス様の慰めの力が、その弱い私たちをおおいますよう、あわれんでください。

そして、神様のことばのとおりの祝福を私たちに与えてください。

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2009年8月25日 (火)

“両親を赦す・1”

両親の呪縛から解かれることについて、私が思っている一部を書きます。

『あなたの父と母を敬(うやま)え。

あなたの神、主が与えようとしておられる地で、あなたの齢(よわい)が長くなるためである。』旧約聖書 出エジプト記20:12

昨日、ハチイーさんからコメントをもらった。

「自分の心の平安を得るために赦す必要のある人のリストのトップに父母があります。」とあった。

私も両親からの影響で苦しんだ者として、そのことばだけで、ハチイーさんと苦しみの共有体験をしている気がした。

両親によって苦しみ、そこから解放された者として、私は何か分かち合いたいと切に思った。

が、一方で、神様が与える癒しはまた、一人一人違うのかもしれないとも思った。

私には、大きな勉強になったことがある。

私は母の過保護過干渉で苦しみ、母が天国に移されることを通して、母を赦し、赦され和解した。

が、それは、ただ神様が母を救いに導いてくれたこと、天国の慰めを見せてくれたことを通して、和解に至った。

私は殆んど何もしていない。神様の憐れみの中に入れられただけだ。

それでも、赦した解放感を味わい、虐待されている友人に、赦す素晴らしさを話した。

彼女とはギクシャクしてしまった。

赦せないのに、私が赦すことを強要したかのような感覚を彼女は持ち、苦しんだ。

「癒され方は皆違う。」と私の信仰を否定された。

「これまで、何度も親に合わせて謝り、また、ここでもこっちから向こうに歩み寄って、謝らなくてはいけないのか。」と言っていた。

「Sebaさんは、心の癒しのミニストリーをしたいなら、変わらなければいけない。そのままでは無理と思う。」と2人の友人から別々のときヒィドバックされ、気持ちを返してくれた。

そのときは、「私だけ変わらなくてならないのか!、心の癒しのミニストリーがなんだっていうんだ。私はしたいと思ったけど、神様は与えてない。事実、その実を一つも見ていないどころか、話すのはやめてほしいと言われているではないか。」と思った。

そのやりとりに一年以上関わった。

そして、二人の親に虐待された友人に、私の大切にしていた信仰を否定され、何を否定されても、自分に与えられた信仰だけは否定されたくないと思った。

今回、ブログの中で、私の中に変化がおきて5月からさらに深い悔い改めに導かれた。

そのとき、一番大切に守りたい“私の信仰”も捨てることにした。

それはイエス様への信仰を持たなくなるというのでなく、人との対面の中で自分の信じるところには一切固執しないという思いだった。

もっと、大事なことを書きたいと思いつつ、このような記事になってしまった。

つまり、両親からの呪縛に苦しむ人に、私が何を言ってあげられるか…ということだが、求めるなら、必ず解放される、共にイエス様の力を信じ、祈ろうということである。

“赦す”ということは、手放し自由になることだと思うし、両親に苦しむ人への私の願いでもあるが、それを自分から言ってはいけないことも教えられた。

だから、「親を赦して平安を得たい。」というハチイーさんは、すでに赦す、手放す準備が出来ている訳で6割ぐらい、癒しに近づいていると思う。

自分の傷が親に原因があると知るだけで、3割ぐらいの癒しと解放に近づいていると思う。

聖霊様の成せる業、イエス様の赦しの力、神様の助けの中で、求める人に癒しと解放が与えられることを共に信じて祈りたい。

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2009年8月24日 (月)

“祖母の過去からの解放”(自分史6)

祖母の信仰が、祖母自身の縄目を解いた話しです。

『私たちの負いめをお赦しください。

私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。』新約聖書 マタイの福音書6:11.12

私と姉には“おばあちゃん”と呼ぶ存在の人がいる。

父は6人兄弟の、末っ子だったらしい。私たちの本当の祖母は、私たちが小さいときに亡くなった。

私たちが“おばあちゃん”と呼ぶ人は父のお姉さんにあたる。

私たちの叔母になる。が、結婚し、子どもができずに、父を養子にしたらしい。

小学5年のころ、父の病のときも、よく遊びに来てくれた。

私には何も記憶がないが、母と姑はあまり仲が良くなかったらしい。

ここからは、30年余りたってから、祖母に聞いた話しである。このとき、母はもう天国で、いなかった。

「お前の母さんはなぁ、自分の親が遊びにくるとたくさんのお土産を持たせて帰らせるんだったよ。けれど、私が行くと、挨拶もしないし、お土産も持たせないから、私がじいちゃんに母さんが持たせたと嘘ついて、買ったんだよ。」

祖母は85歳になり、今までは母の話しなど、一度もしたことがなかった。いつも、孫を褒める良い人だった。

急に歳をとり、認知症気味にもなってきて、この話しを繰り返しだした。

姉と住んでいたが、姉が結核で入院したとき、母方の親戚で預かってもらったとき、この話しを繰り返し、2か所で預かり拒否になってしまった。

私は祖母に話した。

「ばあちゃん、母さんは天国に行ったし、母さんがばあちゃんに悪い態度をとったのは申し訳なかった。でも、もう赦してくれないか。」

「いやあ、私は死んだ人には恨みはないよ。」

「それじゃ、ばあちゃん、私と一緒に母さんを赦す祈りをしてほしい。」

そして、私が一区切りずつ祈り、同じことばで、あとからついて祖母が祈った。

「神様、母さんがばあちゃんに挨拶しなかったことを赦してください。ばあちゃんが赦せますように。

母さんがばあちゃんにだけ、お土産を買わないで、ばあちゃんにつらい思いを与えたことを赦してください。ばあちゃんが母さんを赦せますように。

イエス様のお名前によって祈ります。アーメン」

そのときをさかいに、祖母は一度も母の話しをしなくなった。

祖母の幼子のような信仰に神様が働いてくれ、祖母の重い荷物はイエス様が負ってくれたのを見た。

祖母は「私はね、民謡うまいんだよ。」と可愛い自慢をし、民謡を歌い出すのだった。

今、祖母は90歳すぎて、老人ホームで生活している。

小学5年のころ、母と祖母に何があったのか知らないが、祖母の縄目を解いてくれ、楽に、自由に、楽しくさせてくれた神様に感謝した。

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2009年8月22日 (土)

“自己回復2・傷の癒し”

癒されることが、イエス様の十字架によって、すべての人に約束されていることを思います。

『あなたの神、主は、あなたのただ中におられる。

救いの勇士だ。

主は喜びをもってあなたのことを楽しみ、その愛によって安らぎを与える。

主は高らかに歌ってあなたのことを喜ばれる。』旧約聖書 ゼパニヤ書3:17

かつての私の心の中は“神様の平安”とかとは、ほど遠く、いつも沈んだり、怒ったり、悲しんだりばかりしていた。

どこから癒されてよいか、わからないほどに荒れ果てていた。

が、罪を告白し続けるて赦しを受けとること25年、そして、4年前からは、人を赦して手放していくことの中で、私は多くの部分が癒された。

すると、今までは、何を祈って癒されていいのか糸口さえ見えなかったのに、一旦癒され始めると、平安が普通の状況になる。

その中で、たまに揺れ動くとき、それがどこから来ているのか良くわかるようになった。

教会と牧師を赦し、神様から赦しをたくさん受けた後、私の心の奥底に2つの傷が残っているのがわかった。

一つは母からの傷で、権威者を裁く思いが、なお、あるのがわかった。

もう一つが父からの傷で、父から受けられなかった愛情を人から受けたいという思いだった。

とにかく、この2つに取り組んだ。神様と祈って会話しているときは、ほとんどの話題がこのことだった。

なぜ、そこまで、この残された深い傷を癒されたいと思ったか…その傷の影響が大きくなっているとき、一番楽しみにしている“神様と話をする”ということがスムーズにいかなくなるのが嫌だった。

最後のこの大物の傷が癒されたかった。

日記も書きまくった。一ヶ月で、一冊書いたりした。良く聖書の言葉を探しながら、祈った。

神様のあわれみの中、神様の啓示の御霊によって、悔い改めに導かれ、その傷が癒された。

私はその心の中にレギオン(大勢の悪霊)がいたのではないかと思うほど、否定的で殺那的で、破壊的だった。

が、イエス様の十字架の赦しによって平安がもたらされ癒された。

だから、癒されない人の苦しみも知っているし、神様の癒し方は千差万別かもしれないが、求めるものには必ず与えられることを信じている。

私は神様が癒してくれたこと、癒されるまでは絶望的なとてもひどい状態だったこと…神様のみわざのすばらしさとそのあわれみ、いつくしみを思うときに、すべてを証しても足りないくらいだと思う。

私が特別だったのではない。

聖書には、イエス様による平安と癒しがはっきりと約束されている。(イザヤ書53:5,第1ペテロ2:24)

私たちがイエス様の十字架によって罪を認め告白し、赦されていくとき、私たちのマイナスのダメージはなくなり、神様から良いもの(神様の愛、喜び、平安、あわれみ、慰めなど)をすぐに常時受けられるようになる。

イエス様の十字架は救われ、天国に行くために有効なだけなのではなく、私たちのダメージを癒され、神様の中に入れられていくために大切なのを思う。

神様がお一人お一人を喜び、楽しみ、愛をもって安らぎを与える対象として、いつも見てくださっていることを、聖霊様と聖書のことばを通して、豊かに知ることができますように。

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2009年8月15日 (土)

“40年前を謝る”

母とのことを思いました。

『もし人の罪を赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたを赦してくださいます。

しかし、人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの罪をお赦しになりません。』新約聖書 マタイの福音書6:14.15

昨日のブログに父の入院、母の苦悩を書いた。

小学5年の私は、不思議と泣いたり、悲しんだ記憶がない。

すべてに鈍感な子どもだったのか、母が悲しい話しをしなかったために、心に残っていないのか、ただ、その場面だけが浮かぶ。

それでも20年前に、自分史を書いたときに書き進められず、終わった場面である。

昨日、父、母の描写を書いて、私はその40年程前のあのときにワープしていた。

そして、父の悲しみ、母の悲しみが不思議と一人の人として客観的に理解出来た気がした。

あの頃、暗く、悲壮感の漂う、ヒステリックな母は嫌だった。子どもの私は、可哀想なお母さん…という気持ちはあったか定かではない。

父に至っては、子どもながらになんと受け止めてよいかわからなかった。

私の家庭は悲惨だったが、なぜか私には楽しかった学校生活の思い出しかない。

今日、父母を思いやることの出来なかった子どもだったことをイエス様に謝った。

あの頃の出来事は私が自己否定になる環境の前段階だった。

精神的に父不在となった私は、思春期に入ると、価値観の合わない母と喧嘩ばかりしていた。

母に理解されたいのに理解されず、いつの間にか、母の価値観に自分を否定され、自己嫌悪のかたまりになる。

私が一番最初に神様に、人を赦す祈りをしたのは、クリスチャンになって8年、29歳のときだった。

「神様、私にダメージを与えた母を赦します。」と礼拝の中で祈った。

それから一年後、母は天国に召された。そのとき神様は、私と母を和解させてくれた。母の慰めに満ちた死が、私が母を赦し、親不孝者の私が赦されたときだった。

40年前のことの母のことを私が神様に謝るに至るとは思わなかった。

神様への賛美は、赦された深い思いからくると、マーリン・キャロザース師の「天国の到来」に書いてあった。

マタイの福音書の『人を赦さないなら、神様もあなたの罪を赦さない』というのは、文字通り赦されないという意味ではなく、人を赦さないと、赦されていても神様の赦しを受け取れないという意味と思う。

いつも心柔らかくして、いつでも赦しを受けとれるものでありたい。

∞∞∞

天国の母さん、喧嘩ばかりして、母さんの苦労は全然わかっていなかったけど、たくさん私たちのために苦労してくれたのですね。ありがとう。生きているときに、労をねぎらうことばを一つもかけてあげられなくて、ごめんね。

そんな私の罪もイエス様の十字架で赦され、責められていないから、ありがたいです。

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2009年8月 6日 (木)

“十字架の赦しに包むイエス様”

イエス様の十字架の赦しの大きさを教えられた、分かち合いです。

『すると、その町にひとりの罪深い女がいて、イエスがパリサイ人の家で食卓に着いておられることを知り、香油のはいった石膏(せっこう)のつぼを持って来て、

泣きながら、イエスのうしろで御足のそばに立ち、涙で御足をぬらし始め、髪の毛でぬぐい、御足に口づけして、香油を塗った。

イエスを招いたパリサイ人は、これを見て、「この方がもし預言者なら、自分にさわっている女がだれで、どんな女であるか知っておられるはずだ。この女は罪深い者なのだから。」と心ひそかに思っていた。』新約聖書 ルカによる福音書7:37.38

パリサイ人は、罪深い女が、イエス様に近づいて涙で御足を洗い、口づけし、イエス様をもてなしたのを見て思った。

「イエス様ほどの人なら、この女がどんなに罪深いものか知っておられるだろう。」

私は、教会や牧師を裁いてきたが、手放し、裁くことをやめた。

そう思っていた。

自分の中で、受け入れているはずのことが、どうしても受け入れられない葛藤を経験した。そして、私は誰も裁いていないと言いつつ、無意識に人を量(はか)りにかけていたことを神様から教えられた。

“あなたが量るとおりに、あなたも量られる”(マタイ7:2)

私が量っていたはかりで、私自身が縛られていたのを教えられた。

そのことを示され、祈っていくと、そこにすべてを包む赦しの十字架が見えた。

私たちは、誰もが皆赦される存在である。

赦される出来事がないように思えても、私たちは罪の中にいる。

パリサイ人はイエス様にさとされた。

“多くの罪を赦された者が多く愛するようになるのだよ”と。

それは、多く悪いことをしたということではない。私たちが、いかにたくさん赦される者なのか、自分の中に見ることができる、そのような者が多く愛する者となる。

人の行為を客観的に量るものではなく、イエス様の前で泣きながら、「イエス様、赦してくれてありがとう。」と言えるものでありたいと思った。

悔い改めに導かれた日の祈りを書き留める。

「主よ、今、私の生かされているすべては、イエス様の十字架の赦しのもとにあることを知りました。

イエス様に赦され続けている者として、そのあわれみを感謝して、ただ赦しの神様を伝える者としてください。」

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2009年7月 3日 (金)

“イエス様の赦しの愛”

イエス様の赦しは、人知を越えていることを思います。

『ほかにもふたりの犯罪人が、イエスとともに死刑にされるために、引かれていった。

「どくろ」と呼ばれている所に来ると、そこで彼らは、イエスと犯罪人とを十字架につけた。

犯罪人のひとりは右に、ひとりは左に。

そのとき、イエスはこう言われた。

「父(神)よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているか自分でわからないのです。」

彼らは、くじを引いて、イエスの着物を分けた。』新約聖書 ルカによる福音書23:32~34

あるクリスチャンの友人と電話で会話していたときのこと。

「久々、会いたくない人と会ってしまい、疲れなかった?」と私が聞いた。

彼女は言った。「自分がまだ、その人を赦していないということにショックだった…。」と。

そのときは「そうなんだ。」と言った。

電話を切ってから、「赦してなくていいんだよ。そんな私たちをイエス様がもう赦してくれているんだから。」という言葉が浮かんだ。

私は牧師たちを赦し、手放し、解放された。

だから、赦すことの自分が受ける恩恵を長い期間、人に証ししてきた。

電話で話しをした友人は、人を赦したかった。が、赦していない現実にかすかに失望してしまった。

けれど、「赦せなくていいんだよ。そんな私たちがイエス様の十字架でもう全部、そのまま、罪あるまま、赦されて受け入れられているんだから。」と本当のことを言ってあげたら、彼女の痛みは、イエス様におおわれたかもしれないと思った。私にとって、大きな気付きだった。

私たちは、何をしたらよいか答えを知っている。

そして、そのようになっていない自分に失望する。

けれども、私たちのすべての罪は、すべて赦されている。

つまり、今、持ち合わせている罪があったとしても、そのままで赦されている。

イエス様は十字架にはりつけにされ、その気絶しそうな苦しみの絶頂の中、十字架上で、「天のお父さん、私を十字架につけているこの人たちを赦してください。」と祈られた。

そのイエス様の十字架の下で、平気に鼻歌を歌いながら、くじを引いて、イエス様の着物を分けるのに夢中になっていたのが、私である。

彼らが、イエス様にしている卑劣な行為の目の前で、イエス様は赦しをとりなされた。

私たちは自分の弱さや足りなさに格闘しなくても、それをも含めてイエス様は、「わたしはあなたの全部を赦したよ。」と抱きしめてくれる。

私が自分の中に醜い自我、恥ずかしいもの、愚かしいこと、惨めなものを見い出したとしても、イエス様はそのままを抱きしめて、赦すよと言ってくれる。

私たちは自分の赦しを越えたイエス様の包みこむ愛におおわれたとき、罪赦され、きよめられているのを体験するのかもしれない。

イエス様は私のために流された血潮の手で、今日もまるごと、私の闇も包みこんでくれている。

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2009年6月18日 (木)

“墓にはいないイエス様”

よみがえられたイエス様とともにあることを思います。

『恐れてはいけません。あなたがたが十字架につけられたイエスを捜しているのを、私は知っています。

ここにはおられません。前から言っておられたように、よみがえられたからです。

来て、納めてあった場所を見てごらんなさい。』新約聖書 マタイの福音書28:5.6

私は、先に証したが、大学の同窓会で、一連の私のうちにあるものを見せられ、神様に悔い改めるに至った。

が、何故か2日位、私の中で“恥ずかしい”思いが取り去ることができなかった。

重く心の中に、“恥ずかしい自分”が沈んでいるような感じだった。

昨日の朝、なんかすっきりとした。ただ、ただ、神様を礼拝した。

イエス様は十字架で、私の罪のために、刑罰を受けて、死なれた。

そして、3日目によみがえられた。いきかえられた。

マリアたちが墓に、イエス様の死なれた体を見に行くと、そこにイエス様はおられなかった。

よみがえられた。

「イエス様はよみがえられました。この墓にはおられません。」(マルコ16:6)とみ使いは言った。

そして、この十字架にかけられ、3日目によみがえられたイエス様を信じるものは、この死とよみがえりを体験する。

私は深いところで、“恥ずかしい”と感じる罪を十字架につけ、そこに共に死んだ。

そして、イエス様のよみがえりのように、新しいいのちがよみがえってきた。

今、私たちは、よみがえられたイエス様とともにいる。

その私の内にある霊的な世界においては、古い人に死に、イエス様のいのちをいただいて生き返った。

私の古い人は死んだか、大丈夫か…墓場にいって確認する必要はないのである。

この日々、イエス様の復活のいのちにあることを感謝したい。

『私は、キリストとその復活の力を知り、またキリストの苦しみにあずかることも知って、キリストの死と同じ状態になり、どうにかして、死者の中から復活に達したいのです。』ピリピ3:10.11

###

天のお父さん、私たちは、イエス様の十字架の死にあずかり、日々、古い人に死んで、新しいいのちに生きるものとされていることをありがとうございます。

古い自分は、イエス様の十字架で死にました。

死んだのを、わざわざ墓に戻って見に行くことがありませんように。

そして新しいいのちを与えられたことを感謝し、そのいのちに生きるものとしてください。

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2009年6月15日 (月)

捨てさせてくれた神様、そして友人

私が手放すものを教えられました。

『キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。

ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことはせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。

そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。』新約聖書 第1ペテロ2:22~24

私は自分がまだ、握っているものを見せられました。

一人の友人が、私の間違いを指摘し、もう一人の友人が、私の“捨てる自由”への願いを懸命に、自分のことのように、もう一人の友人に説明してくれていました。

二人はノンクリスチャンであるのに、彼女たちを通して、私は弱さをはっきり認め、慰めのイエス様に持っていき癒されました。

不思議な体験です。まるで、二人が聖霊様(神の導き、弁護の霊)であるかのような役割をしていてくれているのだなぁと思いました。

なんといっても、“捨てる願い”を一言で理解してくれた友人に驚きました。

私が彼女の中にある痛みや悲しみに近づいたときでした。“捨てられずに苦しむ”そんな苦しみを彼女はしているんだと教えられました。

感謝してお祈りします。

「天のお父さん、今回、私は、自分はイエス様以外、何も無い者だと認めて生きていくために、特別な場所、友人たちを備えてくださり、ありがとうございます。

私の中に、私は何も無いことを、仕事も持っておらず、社会的な地位も名誉もなく、ポジションも肩書きもないことを、はっきり知るために、備えてくださった様々なことをありがとうございます。

私の中で、まわりが福祉の仕事の話しをしているとき、疎外感やひけめを感じた自分に驚きました。

私は、主婦で、何の肩書きもありませんが、イエス様にあって自分の今を誇りに思っていたつもりだからです。

イエス様は、神様であられるのに、その姿は、みすぼらしく、人々が顔をそむける程でした。

神であられたのに、私のために、すべてを捨ててくれました。

地位、名誉、肩書きの誘惑は、私にとって無縁のものと思っていました。ですから、驚きました。

が、友人たちを通して私の捨てるものをはっきり教えられ、感謝します。

友人に帰りがけ、私は愚痴をいいました。

「私は、仕事もしていないし、会の始めの挨拶で、「皆さん、福祉従事者としての苦労を分かち会いましょうと言われたとき、仕事していない私にはきつかったよ。」というと、Kは言いました。

「そうなんだ。」

たった一言だけど、そう言ってくれました。

私の側にある問題を見せてくれた友人たち、受け止めてくれた友人、車中の二人、コメントくれた友人、…たくさんの友人を通して、癒しを受けとれましたから、ありがとうございます。

私は「自分を神のしもべとして推薦します。」というところに立たせてください。

私の握っていたものは、小さいものではありません。

これから、その問題や誘惑がきたときに、きちんと解決しているための取り扱いと信じます。

握っているものを認め、告白し、イエス様に癒してもらい、手放せたことを信じてありがとうございます。

環境を備えてくれ、気づきに至らせてくれた友人たちに感謝します。

愛しい友人にも、この捨てる自由が与えられますように。

イエス様のお名前によって祈ります。アーメン。」

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2009年6月 8日 (月)

“私の歩んだ教会たち”2‐2・裁き

私が教会に仕えていたときのことです。2(番目の教会)での2(番目のエピソード)です。

『しかし、私にとっては、あなたがたによる判定、あるいは、およそ人間による判決を受けることは、非常に小さなことです。事実、私は自分で自分をさばくことさえしません。

…私をさばく方は主です。…

ですから、あなたがたは、主が来られるまでは、何についても、先走ったさばきをしてはいけません。』新約聖書 第1コリント人への手紙4:3~5

私の限りなく、グレー色の信仰生活は続いた。

教会に仕えながら、神様の喜びがないのは最悪だった。

ある日、決められた時間に仕事場の教会に行けず、遅刻した。

牧師に注意されるなと思った。が、牧師は無言だった。内心、ほっとした。

ところが、その次の週の礼拝に出席し、牧師の礼拝メッセージを聞いていたときのこと。

「こんな人がいます。」と、私の名前こそ出なかったが、高い講壇から、神の名前を使って、その遅刻のことを許されぬ行為と裁かれた。

「そんな…、講壇降りて来て、人として注意してくれればいいことなのに、おかしいよ。」とか思いつつも、落雷を落とされたようなショックに打たれた。

次の日、私はそのショックで、ベッドから起き上がれず、ずっと寝たまま、天井を見つめていた。

私自身が、神様が遠く感じられてどうしようもない中、私の中で、受け止めきれない痛みが積み重なっていった。

青年会で、一言近況報告をみんなでしたとき、私は言った。

「明日をどうやって生きていったらいいだろう…そんな感じです。」

そんな中でも、たくさんの人に支えられた。特に離婚され、クリスチャンになられたばかりのKさん、霊的な賜物があり、よく祈ったMさん。どちらも男性の方だったが、教会に対する痛みを持っていて、よく長く喫茶店で話したり、祈ってもらったり、支えられた。

教会学校の子どもたちは大きな支えだった。子どもたちとの深い交流に慰められた。

私は精神的に病んでいるのではないかと、遠くの診療内科に連れていってくれたご婦人もいた。

何がなんだかわからない毎日だったが、一日一日が終わるのを願うだけだった。

###

神様、私に必要として、通してくださった様々なことを感謝します。

何もできない、神様に祈ることすらできない、最悪な仕え人でしたが、まわりに慰めや支えや祈りの人たちをたくさん置いてくださり、ありがとうございます。

神様、私は過去のことは癒されたので、こうして書いて話せていると思います。

私が教会のたくさんの方に迷惑をかけたこと、全く牧師の意にかなう働きが出来ていなかったこと、赦してくださり、ありがとうございます。

講壇から神様の名前を使って、裁いた牧師を赦します。

神様、講壇からは、裁きではなく、キリストの十字架の赦しが語られるようにしてください。

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2009年6月 4日 (木)

私ができること…

『必ずわたしはあなたを解き放って、しあわせにする。

必ずわたしは、わざわいの時、苦難の時に、敵があなたにとりなしを頼むようにされる。』旧約聖書 エレミヤ書15:11

ヨエルさんが、夕べ、コメントをくださいました。いつも祈りと誠実さをもって、コメントをくださって感謝しています。

その中に「教会の外と中に“橋”はかけられるか?私たちクリスチャン自身が、“壁”を作っているから無理ではないか…。」とご意見をいただきました。

“橋”は神様が、神様の方法でかけてくださいます。

5月16日のブログから、この教会の中と外の話しが出ました。その日のブログには「神様、私、何か出来ますか。」と書きました。

それから、いろんな過去の出来事などを思い出し、私の中で一つとなっていきました。

そして、すべては神様の中で、私はほんの一部を担うだけなのですが、神様が、私に何をしたらよいか教えてくれました。

私は全自己否定の人間でしたが、イエス様に罪を告白し、全自己肯定の人間に癒してもらいました。

悪いものは吐き出し、良いもの(神様ご自身)を取り入れることの中に癒しと回復がありました。

それを今度はキリストの体でやるよう、教えられました。教会を悔い改めれば、教会はきよめられ、聖霊が満ちます。エゼキエル47章になります。

外の人に対しては、私は教会の人間として悔い改めます。癒しが行われますように。

私自身は壁なので、これから崩されます。どうやってかは、私もわからないし、時間がかかるかもしれないですけど、見ていてください。

私一人が崩れたからって、教会が変わりますか?…大きな壁があったとして、一ミリの穴が開けば、そこから癒しの川は流れるのです。小さな穴は、役割を果たします。

そして、大切なのは、中からではなく、外の人たちから癒しと、とりなしの祈りが始まるということです。

なぜなら、残念ながら、傷んでいるのは中の人ではなく、外の人だからです。そこに癒しがくるとき、赦しの祈りとなり、聖霊に満たされるのでしょう。

これは、私のアイデアではありません。25年間、教会を裁いてきた私には思いつきません。やっと、手放し、赦したばかりの私には思いつきません。

いつ、どんな風にかは、わからないです。

これは、預言とかではなく、私が神様から教えられたことです。

そして、私は悔い改めをすることが宿題となりました。

ブログで、少し教会の悔い改めを祈ったこともありますが、自分が本当に自分のからだとして教会を愛しているか…さぐられました。

まず、自分自身を受け入れるように、教会を自分のこととして、受け入れきることかなと思わされました。

なんか、偉そうなこと言っているかもしれませんが、私自身の右往左往しながらの道を見ていただくだけでいいのです。

たくさんの失敗もあるかもしれませんが、これから、私はイエス様のあとをついていき、悔い改めの道を歩きます。

今、思わされていることは、私は5つほどの教会を変わりましたが、そこにある自分の悔い改める責任の分と人を赦す責任の分を見て祈ることをしようと思います。

自分の責任の分を悔い改めたら、素晴らしいことが起こったのです。

傷と痛みで見えなくなっていた教会の人たちにしていただいたたくさんのことが溢れるように見えてきました。神様の恵みは、教会生活の中にありました。

そのことを振り返りながら、一つ一つの教会にあった恵みを感謝しようと思います。

証のほうは、そんな訳で、私の過去教会のことからになります。よろしくお願いします。

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2009年6月 1日 (月)

「境界線」の本の紹介

人間関係に悩む人に「境界線」の本はお勧めです。

『しかし、上からの知恵は、第1に純真であり、次に平和、寛容、温順であり、また、あわれみと良い実とに満ち、えこひいきがなく、見せかけのないものです。』ヤコブの手紙3:17

今、ブログ友だちの泉さんが読まれているとのこと、「境界線」(バウンダリーズ)の本の紹介をします。

サブタイトルは、「聖書が語る人間関係の大原則」です。

この本には、支配的な人、迎合的な人(自分を我慢して、人に合わせてしまう人)などが出てきて、なぜ、そうなのか、どうすれば、そこから抜け出せるか、聖書的観点から掘り下げて説明されています。

いつも人にふらまわされている感じがして疲れてしまう人、まわりにイライラしている人、「ノー」と言えず苦しんでいる人などにとっては、本当に目から鱗(ウロコ)となる本でしょう。

私は過保護過干渉で育てられ、そういう人もまた、境界線が健全でなく、人間関係に苦しみます。

学生のころは、親しい友人と意見が合わないだけで、裏切られた感が強くなり、リュックを背負って、一人旅に出ました。いかに、人に影響されまくっていたか…です。

あと、虐待を受けて育った人も境界線が崩れています。自分が自分のままでよい…ということを所有できず、いつも人から踏み込まれ続けるからです。

境界線とは、どこから自分で、どこから人か区別するものです。

庭に冊(さく)がなければ、どこまで自分の家の庭かわかりません。ちゃんと冊とかブロック塀(へい)とかで区別します。

ここでいう境界線はブロック塀ではありません。本の表紙に絵が描いてありますが、相手と話せる程度の風通しの良さがあります。

裏表紙にはその続きの絵があります。その冊には開閉できる門がついています。

その話をする人を自分のところの門を開けて、お招きもできる訳です。

もし冊がなければ、いつも泥棒とか、侵入者に侵害され続けます。

冊があることで、自分のテリトリーの中は安心です。自分の庭だけ掃除をすればいいのです。外で誰かが怒っていようが、攻撃しようが、外の人のことなので、自分が責任を持つ必要がありません。

虐待されたり、境界線が崩れている人は、悪いものを自分に取り込み、良いものを吐き出してしまいます。

自分にとって敵意のある人を取り込み、好意的な人を吐き出してます。

回復した健全な境界線は、良いものを自分の中に取り込み、自分にとって悪い影響を与えるものは吐き出す作業が、スムーズにできるとのことです。

私は第1ヨハネ1:9で、神様の前に傷や弱さや足りなさをいつも認め、告白しました。そして、イエス様の赦しと癒しときよめを受けとる作業を25年してきました。気がついたら、境界線が回復していました。

この本は、人間関係に悩む方にお勧めです。泉さんにとっても、癒しの助けとなるだろうこと、楽しみにしています。

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2009年5月30日 (土)

イエス様の打ち傷によって癒された

イエス様の打ち傷による癒しを祈ります。

『しかし、彼(イエス)は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎(とが)のために砕かれた。

彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちは癒された。』旧約聖書 イザヤ53:5

“キリストのからだ”の傷の痛みを思いました。

私にとって“キリストのからだ”とは、目に見える教会の中にいる人と、外にいるすべてのクリスチャンです。

その痛みを思いつつ、お祈りします。

「天のお父さん、あなたが私たち、一人一人をこよなく愛してくださっているのがわかります

イエス様は十字架の上で刺し通され、苦しまれました

それは、そのイエス様の打ち傷によって、私たちをいやされるためでした

今イエス様のかかられている十字架を見ます

私のために苦しみ、刺し通されてくださったのですね

イエス様の十字架で流された血潮によって、私たちを赦し、癒し、きよめてください

イエス様の十字架によって、私たちイスラエルの民以外のものも、また一つに集められたのですね

キリストのからだの癒しが行われ、一つに集められますように

今、慰めなる聖霊様、イエス様の十字架による癒しが、痛む傷をおおいますように

神様、あなたが私たちに約束されたイエス様による約束…神様の子どもとされていることは何があっても変わらないことをありがとうございます

それは、イエス様の十字架の完全性のゆえ、神様の偽らない真実のゆえ、ありがとうございます

あなたの子どもとしてふところに抱いてくださり、涙枯れるまで泣かせてください

そして、近くにいつも、このイエス様がいてくださることを教えてください

主の慰めと癒しがキリストの十字架から、隅々まで流れていきますように

主よ、おおってください」

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2009年5月17日 (日)

“見い出される”場所

自分の良さを見い出す…それは見い出す能力にたけた方によってでないと難しいのかもしれません。

『あなたがたがわたし(神)を呼び求めて歩き、わたしに祈るなら、わたしはあなたがたに聞こう。

もし、あなたがたが心を尽くしてわたしを捜し求めるなら、わたしを見つけるだろう。

わたしはあなたがたに見つけられる。…

わたしは、あなたがたの捕らわれ人を帰らせ、わたしがあなたがたを追い散らした先のすべての国々と、すべての場所から、あなたがたを集める。…

わたしはあなたがたを引いて行った先から、あなたがたをもとの所へ帰らせる。』旧約聖書 エレミヤ書29:12~14

ピカソの絵は、世界中で有名だが、私にはその凄い価値がわからない。芸術的センスがないのかもしれない。ただ、周りが凄いと評価するから、「すごいかなぁ…」と思う。

ピカソの絵に芸術的価値を見い出した人がすごいと思う。

私たちは、まわりから認められない環境、評価されない環境にいると、ダメではないのに、自分はダメなんだと思ってしまう。

私たちが「自分は素晴らしい存在なんだ」というのは、そのように評価してくれる人がいて、初めて思えるのではないか。

私は全自己否定の人間だったから、自分が素晴らしいという発想はどこにもなかった。自己嫌悪のかたまりで、いつも具合が悪くなっていた。

そして、イエス様に赦され、受け入れられる繰り返しの中、「神様が私をどう思っているか」自分の歪んだ視点から、その神様の視点に揺らぐことなく立つことができた。

この聖書の箇所に、「神様を呼び求めるなら、祈るなら、聞こう。心を尽くして捜すなら、神様を見つけるだろう。」とある。

捜し求めるなら、神様を見つけるとあるが、実は、「私たちが神様を捜すのでなく、神様が私たちを見つけたい…神様が素晴らしい尊い私たちを見い出したい」と願っておられるということかなぁと思った。

『わたし(神)はあなたがたを引いて行った先から、あなたがたをもとの所へ帰らせる』と言われるが、神様のところに帰るとき、私は、自分がどんなに愛される存在、尊い存在、可能性を秘めた存在、素晴らしい存在なのか知ることができる、発見できるのだろう。

♯♯♯

神様、私たち一人一人、神様の素晴らしい作品であり、どんなにか価値ある尊い存在か、それはあなたから見ないと見い出せないのだと思います。

イエス様のいのちの代わりにしてもらったほどに、私たちを愛し、大切な存在としてくださっていることをありがとうございます。

神様からの視点で、私自身を見い出していけますよう、神様のところに憩わせてください。

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2009年5月14日 (木)

父との2度の和解

母のことを書いたら、父との和解についても書きたくなりました。ただ、神様のしてくださった和解です。

『父がその子をあわれむように、主は、ご自分を恐れる者をあわれまれる。』旧約聖書 詩篇103:13

父は、子どもを可愛いがる、本好きで、社交的な人だった。趣味はカメラとハーモニカ。小さい頃、父の軽快なハーモニカの曲を良く聞いた。

そんな父が私が小学4年に統合失調症(分裂病)になり、入退院を繰り返した。家に戻った頃には、薬のせいか、全く別人のようだった。会話らしい会話をした記憶はない。

父は生きていたが、私の中では、精神的に父不在だった。母が亡くなったとき、父は「母さんと同じ神様を信じる」とイエス様を信じた。

それから3年後、父が亡くなり、告別式が教会で行われた。私は教会に入ったとたん、天国にいる父母の「これから頑張れよ、頑張れよ。」という声が聞こえた。(聖書的にどうかわかないが私には聞こえた。)

私は、その瞬間、何か神様の温かいものに包まれた。会場の前列に座り、私はオイオイ泣いた。父が亡くなり悲しくてではなかった。「父は私を愛してくれた!私が小4までだったが、それまでの愛情で充分だったんだ。父さん、愛してくれてありがとう。」神様のあわれみの中、嬉しくて泣いた。

あれが父との和解だった。そして、もう一つ。それから10年位過ぎてから…。

私の思春期は父不在だった。私の境界線の一部は、そのことで崩れていた。

その崩れた柵(さく)からいつも、泥棒が入りこむように、サタンの入る格好の隙間になっていた。子どもの頃、父に求めて得られなかったものを、人から求めてしまう自分がいた。

その崩れから、圧倒的に悪いものが入って支配されそうな時があった。

神様に祈った。「神様、悪いものを私から退けてください。」

すると、小学6年のとき、父と私がこたつに入って、テレビを見ている場面がはっきりした映像で思い浮かんだ。

その小6の私は祈った。「この病の父を赦します。私は父から必要なものをこのとき、もらえませんでしたが、父は孤独と病で苦しかったのです。私を赦してください。神様を知りませんでしたが、このときも神様がいてくれたのですね。父に何もできなかった私を赦してください。」と祈りました。

その瞬間、崩れた柵が建て直され、回復し、支配しようとしていた悪しき者はいなくなり、聖霊に満たされていた。

父を赦し、私を赦してもらった、父との2度目の和解だった。

父は、幼少の頃、たくさんの愛情をくれた。そして、ずっと日記を書き続けた父の血を引き継いで、私は今文章を書くのが楽しく、ブログを書き続けている。

考えることの好きな性格を引き継ぎ、今、聖書を読みながら、神様を、その思いを思いめぐらしている。

私の与えられた個性の多くは父からもらった。父さん、ありがとう。神様、和解をありがとう。

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赤いカーネーションの鉢に母思う

私のブログではいつも不名誉な母ですが、今日は“ありがとう”を言いたいです。

『母に慰められるよう者のように、わたし(神)はあなたがたを慰め、エルサレムであなたがたは慰められる。』旧約聖書 イザヤ書66:13

日曜日、母の日に、主人と息子で出先から、真っ赤なカーネーションの鉢を買ってきてくれた。

その綺麗な鉢を見ながら、私は天国に行った母を思い出す。

ブログでは、「価値観の違う母に育てられ、私は全自己否定の人間になった。」というところで、母が登場する。

精神の病があった父を抱えながら、女手一つで、姉と私を育ててくれた、たくましい母。なのに、いつも、ブログでは悪者扱いされて、申し訳ない。

母は周りから「美人」と言われる顔だちは綺麗な人だった。父は、そんな母を好きになったのだと思うけれど…そこが人間的には不幸だったかもしれない。

価値観の全く違う父と母は引かれあったのだろうが、父は孤独だった。死ぬほど孤独で、病を発症した。

母は、私から見たらどうしてそこまでと思うくらい、美を追及していた。単におしゃれだっただけかもしれないが、母の誇りとするところは、そこだったのかもしれない。

私は反動か、もともとか、しっかりおしゃれとかとは、縁遠い人間になってしまった。

母は、それでも、私たち娘に、母なりの深い愛情を注ぎ込んでくれた。

私は、自分が大切にしているもの…考え方とか生き方とか…一生懸命に母に理解してほしいと切望した。母だけには理解してほしいと。

母には、母なりの子どもの幸せがあり、私の話しはどこまでいっても母のそれとは重ならなかった。

けれど、母は母なりの愛情を深く深く私に注いでくれていた。それが私が求めるものと違っていただけで。私がほしかったのは、“理解される”ことだけだったが…。

赤いカーネーションの鉢を見ながら、母への感謝がこみあげる。

「かあさん、産んでくれてありがとう。育ててくれてありがとう。私の求めたものでなかったけど、たくさんの母親の愛情ありがとう。子どものためにと、たくさんの苦労ありがとう。ずっと反抗期で、かあさんを泣かせたけど…ありがとう。天国に行く慰めをみせてくれてありがとう。」

好きになれなかった母を今は心から“ありがとう”と言えるようにしてくれた、イエス様、ありがとう。

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2009年5月11日 (月)

喧嘩友だち、アメリカへ立つ

私の大切な友人について、聞いてください。

『友はどんなときにも愛するものだ。兄弟は苦しみを分け合うために生まれる。』旧約聖書 箴言17:17

喧嘩友だちだった親愛なる友人が、来週、ご主人とアメリカに旅立つ。

アメリカに永住することになる。「アメリカに遊びに来てね。」と言われたが、海外旅行どころか、国内旅行もしない私にはちょっと無理っぽい…。

彼女とは、出会って5年位たつが、とにかく良く喧嘩した。女だから、殴り合いこそしないが、激しい言葉で言い合いをした。

お互い、喧嘩すると、すごくエネルギー使うし、日頃温厚(!?)で通ってる私にしては、毎回喧嘩はひどく疲れた。

彼女も体調悪いときもあって、鬱っぽいのに喧嘩してたりしたから、家ではぐったりだったと思う。

彼女との喧嘩のきっかけは、いつもお互いのことではない、第3者に対する私の態度のことであった。

「直せ、変えろ」と言われたが、言われたからってすぐ変われる訳ではない。

最後の喧嘩は、去年の11月頃だった。私は「ねぇ、もう電話切っていい?」彼女は「いいよ。」「それじゃ、バイバイ…」

激しい言葉が行き交った。電話を切って、言葉のアッパーパンチを食らったように、きつい言葉が胸にささった。だけど、心が平安だった。この人とは、なんだか真剣勝負なんだけど、ずっと信頼しあって付き合っていくんだなぁと揺らがない信頼関係を思った。

そのころ、彼女は「あ〜あ、もうやってられねぇよ。みんな、面倒臭い!もういいよ。」と心で思っていたらしいが。

彼女は、親に虐待されて育った。私には理解できないほど、重い過去がある。私は、彼女を理解するのに、時間がかかった。まだ、多くを理解していないかもしれない。

でも、11月の喧嘩にして初めて私は、彼女のきつい言葉の中に、彼女の叫びを聞いた気がした。

表現が違うけど、やっと何回目かの言い合いにして、彼女の言葉の裏に“心の叫び”を聞くことができた。

彼女は、“見捨てられ感”が強い。「そうやって、sebaさん、あんたも私を友だちじゃないとか言って見捨てるんでしょ!」と私に言った。

そのことばは「私はあなたを必要としている!」と言ってくれた“心の叫び”だった。

人生で「あなたが必要だ!」と怒るほどに叫んでくれる友人がいるだろうか…。痛いけど、“心の叫び”が聞こえたら、嬉しかった。

彼女は旅立つ。「教会でもクリスチャンとも良いことはなかった」と言いながら…。

けれども、彼女の神様から与えられた使命と賜物は変わらない。

きっと、どこかで、ご主人と、この世の見捨てられたようなホームレスや囚人の人たちのために仕えている。

人はその友によって磨かれる…とあるが、彼女からたくさんのことを教えられ、少し変えてもらった。

彼女のおかげで、少しだけ、声にならない人たちの叫びを知ることができたような気がする。

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2009年5月 9日 (土)

裸が平気な“エデンの園”

エデンの園で、アダムとエバは裸だったのに、恥ずかしくなかったのは何故でしょうか。

『神である主は、その土地から、見るからに好ましく食べるのに良いすべての木を生えさせた。園の中央にはいのちの木、それから善悪の木とを生えさせた。…

神である主は、人に命じて仰せられた。「あなたは園のどの木からでも思いのままに食べてよい。しかし、善悪の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ。」…

そのとき、人とその妻は、ふたりとも裸であったが、互いに恥ずかしいと思わなかった。』旧約聖書 創世記2:9.16.25

私がエデンの園で、最も驚くことは、「アダムとエバは裸だったが、互いに恥ずかしいと思わなかった。」ということ。

アダムとエバが裸で初めて恥ずかしさを覚えたのは、善悪の木の実を食べてしまったとたんに始まる。

『ふたりの目は開かれ、それで彼らは自分たちが裸であることを知った。そこで、彼らは、いちじくの葉をつづり合わせて、自分たちの腰のおおいを作った。』(創世記3:7)とある。

裸なのに、恥ずかしくないって…ちょっと今の私たちには考えられないが、エデンの園で、神様の秩序の中ではそうだった。

私が思うに、ここに、造られた神様と、その造られた方を慕い喜ぶアダムとエバの麗しい関係を見る気がする。

まさに、アダムとエバは造られた方の秩序の中で、最大限に喜び、楽しみ生きた。

何を喜んだのか。それは、創造主なる神様の存在をただ喜んだ。

神様が人を造られた目的に人は合致していた。(人は神様を礼拝する―あがめる―ために造られた)そこには、自分の裸も気にならないほど、自分ではなく神様を見ていた。だからそこには、悩みも苦しみも悲しみも恥ずかしさも惨めさもなかった。

今、イエス様の十字架の赦しによって、私たちは神様のもとに戻ることができた。日常の様々な悩みや苦しみを横において、神様を礼拝するとき、私たちは神様の臨在の中で、神様が愛なる方であることを体感する。

これが実は、裸であったが恥ずかしくない状態なのではないかと思う。

私たちは地上にいて、肉体を持ち、弱さを持って歩む。

それでも、神様はその生活の中で、神様を見上げ、創造主なる神様をあがめていくとき、私たちが自分のことを忘れられるほど、気にならなくなるほど、神様からの愛と、慰め、励ましにおおい、包んでくださる。

神様を礼拝し続ける生活=神様をあがめ、ほめたたえ続ける生活…それが、エデンの園に戻されるような状態であり、やがてくるパラダイスの前味なのだと思う。

神様をあがめる生活は、私にとって、恥ずかしい私を忘れる捕らわれの無い、解放と祝福の生活になるのだ。

###

神様、私たちは自分に捕らわれやすいものですが、イエス様の十字架の赦しによって、その捕らわれから解放してくださったことをありがとうございます。

自分に捕らわれなくなる、これはイエス様の十字架を知らない人には、考えられない出来事です。

私たちは、すべてをご存知の神様の前には、裸同然ですが、恥となるすべてをイエス様が赦してくださったゆえ、神様を大胆にあがめ、礼拝できますことをありがとうございます。

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2009年5月 8日 (金)

“罪の告白”その確かさと恵み

『ですから、あなたがたは、互いに罪を言い表し、互いのために祈りなさい。

いやされるためです。義人の祈りは働くと、大きな力があります。』新約聖書 ヤコブの手紙5:16

ボンヘッファーの「共に生きる生活」より。

「罪の告白において、確かさに至る道が開かれる。われわれにとってしばしば、神の前での罪の告白が、兄弟の前でするそれよりもやさしいのは、どこに原因があるのだろうか。

神は聖であって罪なき方である。…しかし兄弟は、われわれと同じ罪ある人間である。…

すなわち、われわれは、神の前での罪の告白をもって、しばしば自分自身をあざむいていたのではなかったか。…自分で自分の罪を赦していたのではなかったか。…

われわれが、罪の告白と赦しにおいて関わりをもっているのは、われわれ自身ではなくて、生ける神ご自身であるということの確かさを、ここで一体だれがわれわれに与えるのだろうか。…兄弟が自己欺瞞のくさりを打ち破ってくれる。

兄弟の前で自分の罪を告白する者は、そこでもやはり自分はひとりではないということを知っており、兄弟がそこに現実にいるということの中に、神の臨在を経験するのである。」

私は長い間、神様に自分の内にあるものを認め、告白し、癒しと赦しを受け取ってきた。

が、なぜか、いくら神様に祈っても、なかなか癒されない部分があった。

あるとき、親しいクリスチャンの友人にその話しをしたら、だんだん誰にでも、その弱さが話せている自分がいた。

そのとき、私は話せるのは、その弱さも神様から赦されているのを私自身が受けとったから、誰にでも言えるようになったのだとわかった。

なぜ、神様に告白していただけでは駄目で、人に話したとたん、癒されていったのか、私の中で説明がつかなかった。要は、ボンヘッファーの言われること、兄弟の助けを借りて、神様の赦しを受け取れたということかもなぁと思った。

私は、まずは、神様に正直に告白していく中で、神様は多くの癒しをくださるだろうと信じている。

人の助けを借りるのならば、お互いの弱さを受け入れあっている信頼する友人、一人だけに聞いてもらえば良いのだと思う。

この本の中に、「告白は律法ではなく、恵みだ。」とあったが、同感である。

もし、「…しなければならない。」という世界で“罪の告白”を考えるなら、とてつもなく、苦痛だと思う。

イエス様は「私は健康な人のためでなく、病人のために来た」(ルカ5:31.32)と言われたが、イエス様こそ、名医であり、手術して、悪いところを全部とってくれる…その信頼がなかったら、お任せできない。

神様はイエス様の十字架で、私たちを癒し、悪から離れ、義の道、神様と親しく歩む道を用意しておられる。

神様が私たちに計画しているのは、苦行ではなく、豊かないのちに生きる道である。

###

神様、あなたがイエス様を送ってくださり、イエス様に似る壮大な計画を立ててくださっていることをありがとうございます。

私たちは自分の力では、本当にそのことは無理ですが、神様の深い思いに信頼して、ときには、思いきって手術台に乗ることができますように。

イエス様の十字架に赦される体験に生かされ、神様を日々賛美できますよう、私たち一人一人を祝福してください。

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“罪の告白”と十字架の赦しの体験

“罪の告白”は私たちが個人的に十字架につけられたイエス様の赦しを体験するときだと思います。

『キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。

ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。

そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。』新約聖書 第1ペテロの手紙2:22~25

ボンヘッファーの「共に生きる生活」より。

「罪の告白において、十字架に至る通路が開かれる。すべての罪の根は、高慢である。…

兄弟の前での罪の告白は、最も深い屈辱である。それは、苦痛を与え、へりくだらせ、高慢を徹底的に打ち砕く。…具体的な罪の告白において、古き人は、兄弟の目の前で、苦しみつつ、屈辱的な死をとげる。…

われわれに代わって、罪人の屈辱の死を身に負いたもうたのは、実にほかならぬイエス・キリストご自分であった。…

またもしわれわれが、罪の告白において、罪人の屈辱の死を自分の身に受けることを恥じるなら、われわれは、十字架を負うことを拒むことになるのである。…」

イエス様の十字架は私の身代わりだったと信じる者に、神様は赦しと癒しときよめを約束している。

赦された者が体験できる神様との親しい交わり、その中にある安らぎと喜びが約束されている。

イエス様の十字架は自分のためであった…と信じるとはどういうことか。

漠然となんとなく、みんなのために死んでくれたのではない。もし、そう思っていたら、一般の人のための十字架であり、私個人の私の罪のために死なれた体験はできない。

イエス様の十字架を信じるとは、「私のこの罪も赦してくれたのですね。」と告白することなのだと思う。

私たちはもし赦されていなかったら、“罪の告白”は無意味である。自分の惨めな傷口をさらけだして、笑われて終わり。ますますみじめに落ち込む。

私は「イエス様の十字架は私の罪を完全に赦し、癒し、きよめてくださっている」そのことを信じているか…それは“罪の告白”と結びつく。

私は告白し続けることで癒された。全自己否定の人間が、全自己肯定にまで癒された。

ボンヘッファーが言うように、“罪の告白”は私にとっては屈辱ではなかった。

もし、屈辱とかごまかしとか、何かあって“罪の告白”がためらわれるなら、そのことができるよう、そのことの先にあるものの素晴らしさを知れるよう、信頼が与えられるよう祈って求めることによって、導かれていくのだろう。

聖書でもっとも大きなみわざは、イエス様の十字架の出来事である。

なんとなく十字架を信じるのではなく、古き人に死に、新しい復活のいのちに預かる体験を神様は私たち一人一人に約束しておられる。そのことが、日々、私たち一人一人に確実になりますように。

次につづく

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2009年5月 6日 (水)

“罪の告白”がもたらす良いこと…

本を読んでいて、長年の答えを教えてもらったような記事に出会いました。創世記をちょっとお休みして、この分かち合いにお付き合いください。

『もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦(ゆる)し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。』新約聖書 第1ヨハネの手紙1:9

この聖書のことばは、人々が癒されるためにと、私が神様から教えてもらったものである。

29歳の時、私の中で徐々に心の癒しが始まった。その時の、礼拝メッセージで「傷ついたら、傷つく奴が悪い」と牧師が言った。人間的な言葉だと思った。しかし、人に極度に傷つきやすい私はその日から一つのことを実行した。

誰かの言動に傷つくたび、心の中で、「神様、この人を受け止めきれない弱い、不完全な私を赦してください。」と祈ることをした。不思議と相手がひどい人だ…とそちらに気持ちが向かず、祈るたびに神様から癒される経験をした。

私の中で、傷ついたら、即、自分の不完全さを祈るのは、やみつきになった。神様から癒され続けた。

33歳の時、その教会がなくなった。「何にもなくなっちゃいました。」と言う私に、「あなたがこれまでの苦しいところを通ったのは、あなたが握っているものを手放すためだったのだよ。」と神様に言われた。

握っているものを手放したとたん、鳥のさえずりや花の美しさ…神様の中に生かされていることを充分に喜べるようになった。(それまでは、神様の働きが開かれないことに失望しきっていた。)

私は神様に聞いた。「私は今、神様によって、深い心の癒しを体験しました。この癒しは、誰にでも約束されていますよね。どの聖書のことばで説明すればいいですか?」

そのとき、この「第1ヨハネ1:9によって」と教えられた。私はバカの一つ覚えのように、「神様は、自分の弱さを認め、告白するものに、赦しと癒しときよめをくださる。」話しをこの聖書のことばを出して繰り返ししてきた。

あれから15年、去年親しい友人から言われた。「罪の告白…って、傷んで傷ついている人にとって、それはあまりにしんどいことだよ。sebaさん!」

しんどい人がいる事は理解したが、私にとっての癒しの商売道具(!?)のようなこの聖書のことばをどうしたらいいの?と…しばし、私は無口になった。

ボンヘッファーさんの「共に生きる生活」の「罪の告白」を今日、読んだ。

私に足りなかったのは、“罪の告白”はイエス様の十字架のもとにどんな素晴らしいことをもたらすか…その説明があまりにも足りなかったのだと教えられた。

ボンヘッファーさんの“罪の告白”がもたらすものの説明を、分かち合いたいと思った。

次につづく…

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2009年5月 5日 (火)

男と女が造られた意味(創2:22)

神様が造られた男性と女性について、思ったことを書きます。

『こうして神である主は、人から取ったあばら骨を、ひとりの女に造り上げ、その女を人のところに連れて来られた。』旧約聖書 創世記2:22

私が“女であること”…私の中では長年受け入れることのできない“自己否定”の一つであった。

私は次女として生まれた。両親は男の子の誕生を切望していた。が、誕生したのが女の子と聞き、彼らはガックリとした。父は私を抱き上げることもせず、私の名前は近所の人がつけたと聞いた。

母は、幼い私に、「お前が男の子だったら…」と繰り返し、繰り返しため息混じりに言った。私は家族の中では“カー坊”と呼ばれ、ほとんど親戚や近所の人にもその呼び名は浸透していた。

ありったけ“女であるな”というメッセージをすりこまれた私は、自分が女であることを呪った。

世の中で、男性は敵対するものであったし、自分の女性らしさを否定して、ズボンしかはかなかった。

クリスチャンになってから、“女性であること”のますますの苦しみに出合った。

初めの教会は「女性は公の場所では祈らない」という教会だった。

私が就職した教会は女性のメッセンジャーを認めない教会だった。神学校を出ても、神様のことばを語れないというのは辛かった。私が女性であることの傷がさらに深くなったかのような時だった。

そんな私だったが、主人と出会ってその傷は癒された。主人のお母さんは、男女2人ずつの子どもたちをその個性のまま受け入れてくれる人で、主人も“男だから”という縛りもなく育った。

そして、私を“女のくせに”(これは私の母の口癖)と言うこともなく、ありのままを受け入れてくれた。

私は私のままで良い…女であることの否定的な思いは全くなくなった。

神様はアダムを造り、助け手として、女性エバを造られた。

夫婦としてのパートナーという部分はあるが、社会においても、男性のパートナーとして女性がいると思う。

男女平等と言われる背景に、長い日本の歴史の中で、女性がしいたげられてきた、認められない世の中があったのだと思う。

それぞれ神様に与えられた特徴が尊重され生きていくとき、神様が造られた調和のある社会が成り立つのではないか。

女性は男性に尊重され大切にされることで、その特性を喜ぶ。男性もまた、女性に認められ、尊重されることで、与えられている力を発揮する。

この世の中、女性と男性しかおらず、自分にとっては未知なる異性、時には理解しがたい異性…神様が造られた半分の性を尊重することを神様は宿題として出されておられるのかもしれない。

###

神様、あなたは男性と女性を造られました。

その違いは驚くほどなのかもしれません。けれども、あなたは、私たちは半分しか知らないことを教えてくれているのかもしれません。

私が神にならず、未知なる人たちがいるのを謙虚に受け止め、尊重していけますようにしてください。

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2009年5月 3日 (日)

非常に良く造られたかたち(創1:31)

神様が本来造られた私たちに回復する約束が一人一人になるようにと願います。

『そして神は「われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。…

神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。…

見よ。それは非常に良かった。』旧約聖書 創世記1:26.27.31

「神様は人を神様の“かたち”に造られた」とある。

神様は目に見える形を持たない方だが、その性質を似るものとされたのだろう。

この聖書の箇所で、驚くことは、『神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ。それは非常に良かった。』(創世記1:31)とあることだ。

私たち人間は神様に造られた“非常に良い作品”なのである。

それに比べて自分が“非常に良い作品”と思えないとしたら、何が問題なのか?

神様を知らないときの私は、自己のイメージがとても低かった。“そのままでいいよ”というメッセージを親から受けなかったからだろう。そして、そんな私は自分を大切にするということもできず、ますます傷つき、惨めな状況に落ち込んだ。

私の癒しと回復が始まったのは、神様が私を尊いと思ってくれている…その視点から自分を見れるようになってからだった。

それでも、沼底をかき混ぜると、泥が湧きあふれ、沼の水で真っ黒になるような、否定的なものが私の心をよくおおった。

そんなとき、私はその惑わしに対して叫ぶように、「私は赦されているから、感謝します。」「私は受け入れられているから感謝します。」「私は愛されているから感謝します。」と宣言したものだった。

イエス様は、私たちの自己イメージの回復のために来られた。私たちは神様からずれていたもので、神様との交流も途絶えていた。本当の自己イメージを持たない者だった。が、イエス様の赦しの中で、癒しと回復が始まったのである。

『神は初めから、ご自分でなさろうとしておられることをご存じでした。

神は最初に、神を愛する人々を、神の御子(イエス)と同じかたちに似せて造ろうと決められたのです。…

私たちは、キリストのうちに私たちの命の原形と私たちのあるべき姿を見るのです。』(ローマ人への手紙8:29Msg訳)

天地を造られた神様は、私たちを回復させる目的をもって、イエス様を送ってくださったのだ。イエス様と似るものとさせてくださる約束は見逃せない。私たちに約束されているのだから、信じて祈っていきたい。

###

神様、ゆがめられた自己イメージに苦しむ人に、イエス様の癒しと平安を与えてください。

そして、私たちは尊いすばらしい存在なのだという、聖書にある真実の視点に立つものとしてください。

私たちの汚いもの、みじめなものはすでにイエス様の十字架の上で処理され、赦されました。その赦しをしっかり受け取り、神様に造られた素晴らしい自分を所有できますよう祝福してください。

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2009年5月 2日 (土)

“新しい創造”へ・2(ガラテヤ6:15)

イエス様を信じた人には“新しい創造”が約束されています。

『割礼を受けているか受けていないかは、大事なことではありません。

大事なのは新しい創造です。』新約聖書 ガラテヤ人への手紙6:15

“新しい創造”とは、イエス様を信じた人にだけ起こる創造である。

イエス様が私の罪(神様の前に的外れなこと)のために代わりいのちを捨てて十字架刑を受けてくださったと信じる人には、「もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きている」と告白するに至る。

イエス様の十字架によって、新しいいのちをもらい、神様と親しく交流する中で、私たちの内側がどんどん変えられていく。

イエス様のいのちを捨てた愛の注ぎの中、私は自分のしたいことではなく、神様に応答し、神様の願うところをしたくて仕方なくなる。

そこには、自分の意志や努力はなく、汚れた欲求すら清められる。

私は1年ほど前、突然のように“仕えたい”という思いがドクドク溢れて苦しくなったときが何度かあった。今も静かにそう思う。

それまでは“神様を伝えたい”とか、“こんなことをしたい”という願望だったが、全く異質な、私が今まで感じたことのない思いだった。

“仕える”というのは、たぶん、“伝道する”とか“善意を表す”とかとは全く違う、イエス様に似た性質なのだと思う。

神様が私に本来あったが、崩れていたものを、神様との関係の中で回復してくださった。

神様との日々の親しい関係の中で、『やみの中に、光よあれ』と言われた神様は、今、私たちの心のやみにも、『やみの中に光よ、あれ』と語られる。

そして、私たちは、自分ではない造り変えられていく自分をその内側にみるのである。

無から有を生み出され、やみの中に光を造られた神様にとって、私たちの中に“新しい創造”をなさることは、難しいことではない。

この“新しい創造”を自分の中に成されることは、たったひとつのポイントを押さえているか、否かによる。それは私がこの告白ができるかどうかである。

『しかし私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはなりません。』ガラテヤ6:14

###

神様、今、私たちの中にも、あの天地創造をなされたほどの神様のみわざ“新しい創造”がなされていることをありがとうございます。

さらに、イエス様の十字架以外のいっさいのものを誇りとせず、さらにあなたの私への“新しい創造”のみわざを見せてください。

“割礼”時代に戻らず、“神様との関係による楽しみ”の時代にいさせてください。

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2009年5月 1日 (金)

生きるために与えられた“ことば”(ヨハネ1:1)

神様が創造のみわざに使われた“ことば”が今私を支えてくれる恵みを思います。

『初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。』新約聖書 ヨハネの福音書1:1

私たち人間は、“ことば”に渇き、“ことば”を求める存在なのだと思う。すべての人が…。

それは、神様が“ことば”で私たちを造られ、ただ生物の中で人間だけが“ことば”で神様と交流する意図をもって造られたからだと思う。

私は神様に出会う前、“ことば”を求めていた。それは、私を支えてくれる、私を保ってくれる、私を生かしてくれる“ことば”がどこかに漠然と“ある”と確信して、探し求めていたのだと思う。

あまり読書家ではない私だったが、パスカルの「パンセ」や三木清の「人間とは…」みたいなものに求める“ことば”を探して読んだ。

私は人の言葉にも、無意識に“私を生かしてくれることば”を過度の期待を持って、求めていた。

だから、大学生のときは、親しい友人の言葉に裏切られた…と過剰反応し(ただ私が求める“ことば”が無かっただけなのだが)、リュックを背負って、北海道とか、九州とか旅に出た。

信じられないくらい私は、世の中に溢れる“ことば”に失望したり、苦しんだり、悲しんだりしながら、私を生かす“ことば”を求めていた。

だから、神様に出会い、聖書の“ことば”を知るに至ったときは、感動物だった。

聖書の“ことば”は神様の語りかけとして、私の人生を支えた。神様の“ことば”は、ときには、深く私の心をつらぬき、私を造りかえた。神様の“ことば”はいつも私の人生の解決へと導いてくれた。(たとえ解決されなくとも、「安心してわたし(神様)にまかせなさい」と。)

『人はパンだけで生きるのでなく、神のことばによって生きる』(マタイ4:4)は私の中で実感としてある。

神様の“ことば”(=聖書)がなければ、私は滅んでいた。生きていくことは不可能だった。

だから、私は神様の“ことば”に固執するのだと思う。

“ことば”は神様とともにあり、“ことば”が神様であった。世界が始まる前から、そして天地創造もまた、神様は“ことば”をもって、ご自身を現し続けた。

そして、今、“ことば”は人となって私たちの間に住まわれた。(ヨハネ1:14)イエス様が“ことば”の人であり、今、聖霊様とともに私たちを愛し、赦し、癒すために働かれておられる。

###

私たちを“ことば”で造られた神様は、私たちを神様の“ことば”で生かし、支え続けてくださり、ありがとうございます。

日ごとに私たちに神様の“ことば”を語ってください。

日ごとに“ことば”となって私たちの内にいてくださるイエス様を教えてください。

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2009年4月30日 (木)

タラント発見の旅・4(見つけるカギ)

私が与えられているタラントを見い出せずにいたことから教えられたことです。

『私たちの目標は、神が私たちに定められたその境界の中にとどまることです。』新約聖書 第2コリント10:13(NLT訳)

前にも書いたが、私が自分に与えられているものが、急にたくさん見えてきた体験がある。

それまでは、神様に赦され受け入れられているとは思っていたけれど、人を裁いていた領域があった。そこを手放したとたんに、神様がどんなにか私を思い、私に期待し、良いものをくださり、計画しようとしているか知った。

すでに与えられているのに、なかなかわからないのは自分の中に見い出せない問題があったのだと教えられた時だった。

「5つの目的」の本の中に、「神から与えられるものを用いるために、自分のありのままを受け入れ、楽しむ大切さ」が書かれてある。その一部を書き写す。

「ありのままの自分を受け入れるということは、自分の限界を認めることが含まれています。…パウロは、自分の召し(働き・使命)が、すべてを成し遂げることでも、すべての人を喜ばせることでもなく、神から与えられている自分にふさわさい働きだけに集中することであると理解しました。…境界というのは、私たち一人一人に、それぞれ仕える分野や領域を用意しておられるということです。あなたの形があなたの専門分野を決定します。」

自分に与えられているもの、また、その領域を私自身に託されているものと所有していくとき、私たちは、人が何かをやっているか、やっていないか気にならなくなるのかもしれない。

まさに、私は、自分に与えられていた賜物(能力)と計画を、他の人たちもするべきだと、賜物投影していたことに、私自身の問題があった。(教会で“神様の恵み”が語られるべきだと要求し続けていた)

私に与えられたものを神様からのものと感謝し、自分の与えられた領域を、自分の喜びと神様と人のためにと謙虚な気持ちで使っていきたいと思った。

神様は一人一人に神様の特別な宝を隠しておられ、それをもって、神様と共に生きる喜びの中に入ってほしいと切に願っておられる。

###

神様、どうか、私たち一人一人に、神様が特別に与えられたものを知り、喜んで使っていけますように祝福してください。

求めるものには豊かに与えてくれる神様、与えられているものを豊かに見い出させてください。

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2009年4月26日 (日)

イエス様の赦しのもとに行きましょう

イエス様の赦しは海より深く、私たちを包みます。

『そのとき、ペテロがみもとに来て言った。「主(イエス)よ。兄弟が私に対して罪を犯したばあい、何度まで赦すべきでしょうか。7度まででしょうか。」

イエスは言われた。「7度まで、などとはわたしはいいません。7度を70倍するまでといいます。…』新約聖書 マタイの福音書18:21:22

私たちは、人も出来事も赦しにくい、手放しにくいものです。

また、自分を見たら絶望してしまうほどに、弱く、惨めな、足りない存在です。

ペテロがイエス様に「身近な人が私に対して悪いことをしてきたら、7度も赦したら充分でしょうか。」とイエス様に聞きました。

ユダヤ教の教師は3度まで…と教えていたので、「7度だったら申し分ないでしょう。」と自信に満ちて聞いたのでしょう。

イエス様は7の70倍と言われました。無限にと言うことです。

「えっ!?無限に!?それは、イエス様無理ですよ…。」ペテロはそう思ったかもしれません。

イエス様はご自身がなさらないことを人に言われる方ではありません。

それは、まさにイエス様が「わたしは、あなたがどんなであってもあなたを見捨てません。見放しません。命をかけてあなたを愛し続けます。」と言ってくださっているのだなぁと思いました。

事実、イエス様を裏切ったペテロに復活された主は優しく語りかけました。(ヨハネ21:15~)

イエス様の赦しと受け入れは、私たちの思いをはるかに越えているのです。

イエス様のみもとに行きましょう。ただ、赦されるために。

ただ癒されるために。

私たちが良いことをしても、悪いことをしても、それらは全く関係ないのです。

イエス様の十字架だけが、神様に受け入れられるみわざで、私たちはそのことで、すべての恥をおおわれたのですから。

恐れずに主のもとにいって、慰めとあわれみを受けましょう。

主は私たちの痛みと傷を癒し、ただ主の平安でおおいたいと願っているのですから。

私たちのすべてはもう行く前に赦されています。そのことを受けとるために主のもとに一緒に行きましょう。

イエス様のあとに続いて、私も祈っています。愛されている人たちが、イエス様の赦しと愛と慰めにおおわれるように。心から祈っています。

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“十戒”の恵み・8(性的悩みからの解放、解決扁)

男性は情欲、女性は「この人が私に良いことをしてくれる」という違った思いに支配されやすいと本にありました。神様が私たちに良いことを計画してくれていることを信じます。

『あなたがたを襲う誘惑は、他の人たちが経験したことのないようなものではありません。

神は真実な方ですから、打ち勝つことのできないような誘惑をお許しになることはありません。

むしろ、あなたがたが誘惑にあう時には、それに屈してしまわないように出口を教えてくださるのです。』新約聖書 第1コリント10:13(NLT訳)

マーリン師の「隠れた思い」の本は次のように言う。

「ある誠実な牧師が、一人の女性と肉体関係をもってしまった。なぜか。20年間、一度も恥ずべきことを“した”ことはなかった。が、彼は女性について、“考えをめぐらしていた”のだ。…

想像(空想)する能力は神から私たちへの特別の賜物(たまもの=プレゼント)である。しかし、罪を犯したとき、空想力は破壊的な打撃を受けた。…

マタイ15:18.19には「心から出るものが人を汚す、悪い行いは心から出る」とある。

聖書を読むと神は私たちの心に関心をもっておられることがわかる。

すべてに権威をもっておられるイエスは不品行に対して権威をもっている。

神は聖くなることを望まれ、また、その保証も与えてくださる。」

一冊の本をダイジェストにまとめるとこんなところだろうか。

もっとも教えられたのは、私たちは、行いではなく、思い(空想)をイエス様にあって解決していかないと、その思いは必ず行動に出るということ。

私の経験からは、神様と人に告白する(人には打ち明けられる人に話す)大切さを教えられた。(第1ヨハネ1:9,ヤコブ5:6)

サタンはオレオレ詐欺師のようだ。前者は“恥”で、後者は“緊急性と危機感”で人をコントロールする。詐欺は2人きりの会話だとコントロール可能だが、相手が誰かに相談したとたんその支配を解いてしまう。「それ、詐欺だよ。」と。

性的な問題は「そんな不品行なことを思うのはお前だけだよ。恥ずかしいー。」とサタンは恥で縛る。そんな恥ずかしい思いは誰にも話せないよう仕向ける。誰かに相談したとたん、明るみに出され、制御不能になる。相手の自由を押さえていたが、サタンの思うままに支配することができなくなる。

リック・ウォレン師の「5つの目的」の「誘惑に打ち勝つ」の中に、「楽しみは状況に依存しますが、喜びは神との関係にもとずくものです。」とある。

私はジャニーズ好きを一度、人に話しをしたら誰にでも話せるようになった自分がいた。

私の中で、何が起こったか。そのような性的な恥ずかしいと思うことは、すでにイエス様の十字架で赦されていると受けとることができたということだった。そして、その思いから解かれていった。

神様は何故、私たちが誘惑に会いやすいものとされたか…リック・ウォレン師によると、「神様を選択し、神様を深く愛するチャンスとなる」と言っている。

追記すれば、私の様々な誘惑(人を裁く、神以外を求める)なども、深いところで、そのことを神様がどんな思いで見ておられるか教えられたとき、癒されていった。

###

神様、多くのクリスチャンが、空想の楽しみの中、また、罪責感も感じているのだと思います。

そして、私たちが完全にはなれないとあきらめています。

聖書の、神様の約束、イエス様の赦しの力を信じるかわりに、どうしようもない自分を信じています。

私たちの汚れた空想もイエス様が流された血潮で赦し清め、癒してくださることをありがとうございます。

そして、私たちは罪から離れ、自由にされ、なんの妨げもなく、神様の愛を受けることが一人一人に約束されています。

神様が私たちに願っていることが、神様の愛と、イエス様の十字架の赦しと、聖霊様の教え導きによって成りますよう祝福してください。

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2009年4月23日 (木)

「同性愛者」の孤独

耐え難い孤独をも溶かしてくださるイエス様を思いました。

『神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。

神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。』旧約聖書 創世記1:27

私たちは、人を差別はしたくないと思いながら、自分には全く理解できないような人に対しては、偏見で見ているのだろうと思う。

4月19日(土曜日)のキリスト教番組、ハーベストタイムは2週に渡り、男と女―その性についてのテーマだった。そして、今回は元同性愛者のポーク氏のお話しがあった。

私は彼の話しを聞いて、行動に出ているところでは理解できない孤独や寂しさの話しを聞き、やっぱり人は等しく神様に造られたものなのだなぁと思った。ポーク氏の話しを簡単にまとめてみる。

「私の両親は未熟な中で結婚し、私が5歳のときに離婚しました。

父は、いつも結果を求める人で、心が通わず、冷淡で距離感のある人でした。

母は、情緒不安で母と私は一体でした。どこからが母で、どこからが私なのかわかりません。私は母といると安心し、母はいつも子どもの私に相談しました。

私は母といて、母の仕草を学習し、女ぽかったのです。学校ではそのことでからかわれ、いじめられました。

男性に対してはいつも恐怖心がありました。

悩みました。が、自分に何がおこっているのかわかりません。信頼できる人もいません。18歳でゲイバーに誘われ、中毒になっていきます。

24歳のとき、誰もわかってくれないと孤独がおおいました。毎晩、家に帰っては泣きながら寝たものです。男という男に裏切られてきました。

同性愛者は愛情に飢えて、深い心の痛みがあります。人と違うと寂しがっています。

その後、私はクリスチャン夫妻に会い、イエス様を信じます。裏切らない父を見つけたようでした。

聖書のことばに支えられ、神様はうそをつかないと信じていく中変えられていきました。

29歳、10年遅い思春期がやってきました。女性と愛しあう素晴らしさにワクワクしました。そして、妻と結婚しました。」

そのような話しだった。イエス様は誰にも理解されない悲しみや孤独に寄り添い、慰め、癒してくださる方だなぁと思った。

♯♯♯

今、誰にも理解されず、悲しみ、苦しみにある人たちにイエス様が本当の理解者であることを知ることができますように。

孤独、悲しみ、苦しみ…誰も助けられないそのまっただ中の暗闇にイエス様の慰めの希望が光となって照らしますように。

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2009年4月22日 (水)

赦(ゆる)すとは…

この前、友人と赦しについて分かち合いました。

『しもべの主人は、かわいそうに思って、彼を赦し、借金を免除してやった。

ところが、しもべは、出て行くと、同じしもべ仲間で、彼から百デナリの借りのある者に出会った。彼はその人をつかまえ、首を絞(し)めて、「借金を返せ。」と言った。

彼の仲間は、ひれ伏して、「もう少し待ってくれ。…」…しかし、彼は承知せず、連れて行って、借金を返すまで牢に投げ入れた。』新約聖書 マタイの福音書15:21~35

“ゆるす”これは聖書のメッセージのテーマであり、「イエス様に赦されたのだから、私たちは人を赦さなくてはならない」と良く語られる。

すると、私たちの中で何が起こるか。「赦されたのだから、赦さなくては…。ああ、でも、赦せない。」というジレンマがくる。

何度かブログに書いたが、私は赦せない人たちがいた。

5年位前に、「境界線」の本のある一節に衝撃を受けた。

「誰かを赦すとは、その人を解放すること、つまり彼があなたに対して負っていた負債を取り消すことを意味します。赦すことを拒むなら、あなたはまだその人から何かを求めているのです。そして、たとえあなたが願っているものが復讐だとしても、あなたはその人に永久に縛られてしまいます。」

この箇所を読んで、「私は人を赦さないことで、一番嫌だと思う人に結びついている、影響され続けている、支配されているのだ」と思った。

「それはとんでもない。嫌だ。私は神様からだけ良い影響を受けたい。」と思った。そして過去に会って、思い出す嫌だった人すべての名前をあげて「赦します。」と宣言していった。

なんだか見えない縛りの鎖が断ち切れていくような気がした。とても自由になった気がした。

『こうして、主人は怒って、借金を全部返すまで、彼を獄吏(ごくり)に引き渡した。』(マタイ18:34)

私が誰かを赦さない状態というのは、私が牢屋に入れられ身動き出来ない状態のことである。

最も嫌だという人に、“決して得られないものを要求し続ける”鎖(くさり)でつながり、振り回されている状態である。

私は赦せない人の影響を受けたくないなら、手を放すことだと教えられた。人に要求しない、いっさい期待しない。手放すこと。

そのとき私は、牢屋の鍵が開けられ、自分から外に出て自由になる。

そのとき、私は良い方の影響だけを満喫できる。

神様が願っておられるのは、「わたしが赦したのだから、あなたも赦しなさい。」と言うただ厳しい命令ではない。切に私たちの幸せと自由を願う神様の愛情がそこにある。

♯♯♯

神様、私たちは人を赦しにくいものです。

自分の力で、赦し手放すことは出来ません。

神様の私たちに対する思いを知り、私たちもまたイエス様の赦しの力におおわれ、赦し手放し、神様の愛のご支配の中に憩えますよう、導いてください。

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2009年3月27日 (金)

自分を愛するとは…

自分を愛するということは、神様との関係でどういうことでしょうか。

『あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい。』旧約聖書 レビ記19:18(マタイ22:39

ある友人から聞いた、実際にあった話し。

社会的に偏見と差別を受けるきつい状況にいる人がいた。

もう一人は、とても活発に社会活動をしている方がいた。

その活動家が、厳しい状況にいる人に言った。

「私は世の中の可哀想な人が幸せにならないと、私自身も幸せにはなれないんです。」

すると、相手の方はポツリと一言、静かに言った。

「自分自身が幸せでなくて、人を幸せには出来ない。」

その厳しい状況にあり、同情されるような立場にいる人の真理をついた言葉だった。

かつての私は自己中心だったので、自分以外のことは全く考えられなかった。自分のことで一杯だった。そんな人間が、たまに思いつきで、人のためにと良いことをすると、妙に偽善者ぶってる自分に嫌気がさした。

聖書では、『隣人をあなた自身のように愛せよ。』とある。ここで、ミソなのが、“自分自身を愛する”ということだ。

残念ながら、私たちは赦されないと赦すことができない、慰められないと慰めることができない、たくさん良いものを受けないと良いものは与えていけない。

ちょうど、美味しい物が食べたことがない人が、美味しいものを作れないように…。

私たちはいい子である必要はない。すぐ、わきまえた大人のようになる必要はない。

神様は私たちを神様の子どもとしてくれたのである。神様は立派な人は望んでおられない。

神様が望んでおられるのは神様へ信頼する人である。

「天のお父ちゃん、聞いてくれる!?今日、こんな嫌なことがあったんだよ。とても悲しかったんだ。」

子どもが全幅(ぜんぷく)の信頼を天のお父さんに持ち、たくさん話しを聞いてもらい、たくさん慰められ、たくさん教えられ、たくさん赦され、たくさん受け入れられる…たくさん愛されることがまず、最初なのだ。

神様はワルガキのような、手に焼くようような、手に負えないような子どもたちが大好きである。

なぜなら、人間は限界があるが、「あなたを癒し、育てよう。」と言ってくださる神様には限界がないお方だから。

そのはみ出た個性も、人から理解されない部分も、すべてご存じである。

私たちは自分が受け入れられている、自分がいとおしい、自分が大好き…神様のまなざしと同じ自分になるとき、自分を楽しめ、周りにいる人を楽しめる。自分をいとおしいように、隣人が同じようにいとおしくなる。

神様、私たちを神様の子どもとして、愛してくださっていることを感謝します。

どうぞ、私たちの傷を癒し、あなたが愛してならない私を喜べるようにしてください。

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2009年3月24日 (火)

15%の相性

集団の中で、少数派になってしまうのは、とても苦痛を伴います。

『主(神)よ。私をいやしてください。私の骨は恐れおののいています。…

帰ってきてください。主よ。私のたましいを助け出してください。あなたの恵みのゆえに、私を助け出してください。…

私は私の嘆きで疲れ果て、私の涙で、夜ごとに私の寝床を漂(ただよ)わせ、私のふしどを押し流します。

私の目は、いらだちで衰え、私のすべての敵のために弱りました。』旧約聖書 詩篇6:2~7

友人が言った。「私は教会に合う自分が15%位かなぁ。教会に行かなくなったら、楽になった。教会に行く前の好きな自分を取り戻しつつあるよ。」

「そうかぁ。それじゃ、私は教会に合う自分は30%位なのかなぁ。」と私は言った。

一つの良いとされる集団の中にいて、みんなが楽しく喜んでいるのに、もし、自分だけが、もしくは自分を含めた少数が喜べない、楽しめない状況に居すわると、何か自分が間違っているような気がする。自分はダメなような気になる。

日本人は集団の中で、画一化とまではいかなくとも、均一性を求められているような気がする。

私もお母さん同士の井戸端会議は苦手だが、「そうだよねぇ。」と合わせる、和と協調がその中心を支え、そこで、違った意見を言おうものなら、雰囲気台無しと煙たがられる。

日本の教会がそうかは知らないが、日本文化の麗しい和と協調性はたぶんに入っていると思う。

神様はバラエティーに富んだ方である。一人一人違った個性が与えられているように違った信仰が与えられている。

お互いが違いを認め受け入れ合える、赦しの教会は理想かなと思う。が、実際は、聖書に忠実な人は良いクリスチャン、教会に行かない人は駄目なクリスチャンとなんかランク付けされているように思うのは、思い過ごしなのだろうか。

私は信仰生活27年、一番大切にしていたことだからだと思うが教会のことで悩み続けた。結果、5回教会を変わった。

今は過去のすべては私にとって意味があったと受け入れている。その時、その時、神様から違うレッスンを受けた気がする。

そして、そんなに教会のことで悩んだのに、神様への信頼は増していくばかりだ。

これは神様のあわれみにほかならない。私が神様を選んだのではなく、神様が私を選び、私の手を離さずにいてくれたからだ。

目に見えないキリストの体の半分は、教会に来ていないクリスチャンだと思う。

感性や信仰が、少数派ゆえに、教会は合わない、私は教会生活は出来ないと静かに教会を去っていく人たちもいるかもしれない。

“イエスを主”という霊が与えられているなら、神様が選ばれ、今もとらえられている人である。神様に愛され、計画の中に生かされている。

神様は教会の外にいるクリスチャンを知り、愛してくださっている。

神様、目に見える教会の外にいるクリスチャンの方々を思います。あなたはその方々の苦しみをご存知です。神様の慰めとクリスチャンとしての希望を与えてください。

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2009年3月21日 (土)

自己否定の回復

自己否定を癒し、おおってくださる神様を思います。

『神よ。私を探り、私の心を知ってください。

私を調べ、私の思い煩(わずら)いを知ってください。

私のうちに傷のついた道があるか、ないかを見て、私をとこしえの道に導いてください。』旧約聖書 詩篇139:23~24

私は21歳のとき、深い孤独と空虚さにおおわれ、生きていけないとゆきずまった。

そんな中、神様に出会い、生かしてくださる方がいることを知った。

しかし、親から受けた否定的なもの、自己否定と自己嫌悪は簡単には回復しなかった。

クリスチャンになりたてのころ、埼玉から東京に聖書勉強に通っていた。帰りの電車の乗り換えのホームで、突然沈んで、隠れていた自己否定の泥々が湧いてきて溢れるのを感じた。

「私は神様を知って喜んでいるけど、この内側にある自己否定と自己嫌悪の渦の中で一生生きていかなくてはならないのだなぁ。」と思った。

うつ症状もあった。突然、何もやる気力がなくなったりした。

あの頃から25年の月日がかかった。が、今、私は何が上手くいったとか、いかないとか関係なく、自分を楽しめている。自分を喜んでいる。足りないところも含めて自分と受け止めている。汚い自分を見せられたら、「イエス様ごめんなさい。赦して、癒してください。」と祈り、安心を取り戻す。

ある友人が言った。「神様って居るの?」私は答える。「うん、いるよ。全自己否定の人間が全肯定のものになった。これが神様の業でなくて、なんだと思う。」

天地を造られ、私たちを造られた神様はバラエティーに富んでおられる。私には“心の癒しをなしてくださる方”である。

私ができることは、私の症例を紹介して、神様が癒し主であることを宣言することしかできない。

神様は私たち一人一人を愛しておられる。

私たちは神様の愛を受けるために生まれた。

心の内側に特別な苦しみがある人の傷は癒されるため、慰められるため、おおわれるために計画されている。

私たちは愛され、おおわれ、癒される。

神様、あなたが私たちの想像を越えて、私たちの内に生きて働かれることをありがとうございます。

私たちは、人間関係の不完全さの中で痛み、苦しみ、ダメージを受けました。

しかし、神様はどんなダメージに対しても癒しと回復を与えてくださいます。

それは、あのイスラエルの民が惨めに捕囚の民とされましたが、解放の約束が与えられ、回復していったさまのようです。

私たちのうちに傷ついた道があるか、ないかを見て、私たちを神様の癒しと祝福の道に導いてください。

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2009年3月20日 (金)

弱さがおおわれる

自分の弱さを受け止めて、その次に進むことについて考えました。

『しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである。」と言われたのです。

ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。』新約聖書 第2コリント12:9

昨日の私のブログに「弱さを認め、謙虚に生きる姿は、とても美しく、強い生き方と感じる。」とコメントをいただいた。

私もそう思う。この方が、一般論で言われたのか、私のことを言われたのかわからないが、私に関して言うならば、「私を受け止めてくれた神様が素晴らしいのであって、受け止めてくれる方がいるから、安心して自分の弱さを出せている。」だけである。

私たちは誰もが自分の弱いところ、足りないところ、汚いところ、愚かなところを隠したい。見たくない。ごまかしたい。

アダムとエバが、神様から離れたとき、最初にしたのか、裸が恥ずかしいと隠したこと、神様から隠れたこと、責任転嫁したことだった。

以来、意識していても、無意識でも私たちはそのようなことをしてしまう習性がある。

自分の弱さや足りなさを、「わかるよ。誰だってあることだよ。」と言われたら、なんか安心するし、こんな自分に共感してくれるんだとジンとくる。

赦される、そのままで受け入れるということはそういうことだと思う。

私は誰かが「私はこんな人間なんだ。」と恐る恐る打ち明けてくれても、あまり驚いたことがない。

たぶん、私がそれ以上にひどい人間だったからかもしれないし、自分は体験していないことでも、自分もその立場だったら同じようにしたかもしれないと思えるからだと思う。

もし大切な人が、法に触れるような凄い悪いことをしたと打ち明けてきても、共に痛むことはあっても「信じられない。」とは思わない気がする。

私自身が「信じられない、考えられないようなことをしてきた」のに、神様に赦し、受け入れてもらったのだから。

自分を責めても良いことはない。私も人の弱さを受け入れたいと思う。

そして、神様はその弱さを「イエス様の十字架につけて、赦すよ。」と言ってくださっている。

正しい完全な神様の前には、弱い人間も立派に見える人間も50歩100歩なのだ。みんなアウトなのだ。

「私はダメな人間です。赦してください。」と認めた人がイエス様の赦しで覆われる。

自分を立派な人間と信じている人には神様は遠いのである。

神様、私たちはどうしようもなく、不完全で弱く、足りない者です。

もし、私たちが自分の惨めな部分を見つめるだけなら、絶望です。

けれども、どんな惨めで愚かな部分のある私をイエス様の十字架で整理し、受け入れてくださる神様を感謝します。

世の中に必要なのは、正論の議論ではありません。痛み苦しむ弱さに共感し、ともに祈る心です。神様の深い憐れみがこの地をおおい、癒してくださいますように。

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2009年3月11日 (水)

苦難を味わう

私たちは、苦難から逃げる方法もあるかもしれませんが、それを受け止めていく中で、何かを見い出すことがあるのではないかと思います。

『主(神)の救いを黙って待つのは良い。
人が若いときに、くびきを負うのは良い。

それを負わされたなら、ひとり黙ってすわっているがよい。…

主はいつまでも見放してはおられない。
たとい悩みを受けても、主は、その豊かな恵みによって、あわれんでくださる。』旧約聖書 哀歌(あいか)3:26~32

NHKの大河ドラマ「天地人」で、上杉謙信が、主人公直江兼続に言った言葉が印象的だった。

「兼続、お前は悩み、迷ってばかりいる。それでいいのだ。悩み、迷うものは、考えて何かを見い出す。」というような内容だった。

信心深かったと言われる謙信自身が悩み、迷い、いろいろなことを見い出した人だったのだろう。

家族でアニメを見ていたとき、サナギが出てきた。博学な主人が「サナギって不思議なんだよなぁ。青虫がサナギになって、サナギはじっとしている中で、その体の中はドロドロなんだ。そして、綺麗な蝶々になるんだからなぁ。」と言った。ほほうと、私は横で黙って聞いてサナギの神秘に感心した。

心理学の本に、自己形成をするための危機体験…というようなのがある。何もない中で、自分がなんとなく作られるのではなく、危機状態の中で悩み、自分が形成されるという内容だったと思う。

私の知り合いで「人生なんてケセラセラよ。悩みなんかないわ。」といつも楽しそうな人がいた。あるとき、任された責任を果たしてないなぁ、出来ないんだろうなぁと思って、私がちょっと手を出してしまった。そのときこう言われた。「あなたがやるなと言うから、何も出来なかったのよ。」と。「えっ?私の責任?私の発言って、あなたに特別拘束力ないよね。」と言ったが、とりあえず謝った。

そのあと祈った。「神様、全部私の性にされ、驚きましたが、私も過去にすべてを人の性にだけしてきたことがあるかもしれません。赦してください。これからそのようなことがありませんように。」

悩んだり、迷ったり、苦しんだりは辛いけど、そんな中で人は自己を形づくり、何かを見い出し、成長するのかもしれない。

聖書には“くびきを負う”とは“苦難を味あうこと”とある。なんだか人より苦難が多いように感じると辛くなるときもあるが、そのことからしか見い出せないことがあるのかもしれない。

若いときの苦難は、後の知恵と平安になって、私たちを支えてくれると信じている。

『すべての懲(こ)らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に平安の義の実を結ばせます。』ヘブル人への手紙12:11

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2009年3月 9日 (月)

私にとって苦しみとは…

私にとっての過去の苦しみの意味は、今はこの聖書のことばにつきます。

『もし私たちが苦しみに会うなら、それはあなたがたの慰めと救いのためです。』新約聖書 第2コリント1:6

苦しい中にあると、どうして自分だけがこんなに苦しい思いをしなくてはならないかと思う。

父の病気、母との確執、自己嫌悪、孤独、虚無感、挫折、迷い、クリスチャンになってからの教会での痛み、神様の役にたっていない感、行きずまり、失敗…私は33歳までは泣いてる日、うめいている日のほうが多かった。

ブログを書くようになって、自分の悲しい経験や苦しい経験が誰かの慰めになっていることを強く思わされるようになった。

誰かが、「私も同じ苦しみがある」と慰められたらと思うと、過去の苦しみ体験を探すようになった。

リック・ウォレン師の「人生を導く5つの目的」で、「神様に仕えるために自分の形(SHAPE)を理解する」という箇所がある。S(スペシャルギフト=霊的賜物)・H(ハート=心)・A(アビリーズ=能力)・P(パーソナリティー=個性)・E(エクペリエンス=経験)…英語の読み方はわからないので、間違っているかも…の5つである。

その中で、経験には、家庭・教育・仕事・霊的・ミニストリー・苦痛の経験が学びとなり神様に仕えるのに生きるとある。

「この最後のカテゴリーである苦痛の経験こそ、神があなたをミニストリー(奉仕)へと準備させるために最もよく用いられる経験です。神は決して痛みを無駄にはなさいません。事実、あなたが最も重要な働きは、あなたが最も苦しんだ経験から生まれてくると言っても過言ではありません。」とその本に書いてある。

今から20年前、私の心の癒しが始まりだした頃、私は自分を観察しようと思った。自分が悲しくて泣いてるときも、もう一人の自分は何を求め、どんな風にされたら慰められるのか、自分で確認しようと…。その観察はずっとは続かなかったようにも思うが、今、私の傷や痛みは一つも無駄になっていないと思う。

神様は、私の苦しみも無駄にされず、それを生かして人に慰めや救いも与えてくださる方だ。

もし、苦しみの中にあるなら、すべての苦しみに慰めを与えてくださる神様の慰めがありますように。

そして、自分にだけ計画されていることのゆえに、その苦しみが誰かの慰めと救いになりますように祈ります。

『神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。こうして、私たちも、自分が神から受ける慰めによって、どのような苦しみの中にいる人をも慰めることができるのです。』第2コリント1:4

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2009年3月 8日 (日)

教会への苦痛

ヨセフのこの聖書のことばは、私への約束のことばで、長い月日をかけてその通りになりました。イザヤ58:10です。

『彼(ヨセフ)のことばがそのとおりになる時まで、主(神)のことばは彼をためした。

王は人をやってヨセフを解放し、国々の民の支配者が、彼を自由にした。』旧約聖書 詩篇105:19.20

私は幾つかの事情も重なり、両親から「そのままで良い」というメッセージをもらわずに育った。父の病気発症と、母との価値観の違いによった。そして、20歳頃には全自己否定の人間になっていた。

母や父からの傷の影響は長く尾をひいたが、父、母の死を通して両親は赦せた。手放した。赦せたのでなく、神様の不思議の中で父、母を受け入れられていた。今から20年近く前である。

私の精神的な苦痛との戦いはその後も続いた。それは教会や牧師のメッセージの中で、私はこのままでよいと感じられない苦痛だった。

私は神様が恵みに満ちたあわれみ深い方であるのは、たぶん、神様に出会った日から感じていた。十字架も聖書も理屈も神学も知らなかったが、体験した。そして、ことあるごとに恵みを体験した。

その体験の神様と教会で語られる神様は、私にとって全く違っていた。

両親が赦せて、手放したように、教会を赦し手放したときに、私の中で恵みの体験と恵みの聖書のことばが一つとなり始めた。

今、思うに、教会や牧師のメッセージが悪かったのでなく、私は今の教会では養われにくい体質の子どもだったのだと思う。

私は自分の両親に影響され傷を受け、様々な癒しを必要としたが、同じ環境で両親に育てられた姉は私のような顕著な傷はなかった。姉には両親を赦すなんて発想はなく、父、母を大切にし、天国に見送った。

同じイエス様の十字架に赦された神様の子どももまた、いろんな体質の子どもがいて、今の教会では育ちにくい子どももいるのだと思う。

なぜ、私は教会にかろうじて居るのか?…教会の外にいるクリスチャンの代弁者にちょっとはなれるからかもしれないと今日思った。

誰もが楽しく、苦痛を感じてない環境で、同じ環境なのに、一人苦痛を感じたら、感じた自分がおかしい、変、間違いと思えてしまう。自分も周りも…。

そのような人のために言わせてもらうなら、神様は「苦痛を感じてもかまわないよ。みんな、感性も違うし、わたしはあなたの気持ちをよく知ってるよ。そのままでいいんだよ。」と言っている。今の私が神様からそう言われている。

そのままで受け入れてくれる神様の中に入る方法は、人や環境や神様以外に期待しているものを手放すことしかないと思う。

神様、私たちは握っているものが何かわからない時があります。また、自分の力では手放すことはできません。神様、あなたが、私を愛し、安心の中に入れたいということが信じられますように。あなたの安心の中に、手放し、神様の自由の中にいれてください。神様の与えてくださる自由は誰にもおびやかされないからです。

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2009年3月 6日 (金)

あわれみのメリバの水

メリバの水の記事の不満をいうイスラエルの民は私だと思いました。

『ところが会衆のためには水がなかったので、彼らは集まってモーセとアロンとに逆らった。

民はモーセと争って言った。「ああ、私たちの兄弟たちが主の前で死んだとき、私たちも死んでいたのなら。…なぜ、あなたがたは私たちをエジプトから上らせて、この悪い所に引き入れたのか。…」

…主はモーセに告げて仰せられた。「杖を取れ。…あなたがたが彼らの目の前で岩に命じれば、岩から水を出す。」…これがメリバの水…主がご自身を聖なる者として示されたのである。』旧約聖書 民数記20:1~13

私は長年教会の牧師のメッセージに不満だった。批判もしてきた。牧師を赦したあと、まだ、私の中に批判しやすい部分が残っていることに気がついた。癒されたいと思った。

小学校の役員時代、いつも私の仕事に踏み込んでくる人がいた。一年我慢したが、最後に怒った。おとなしい、扱いやすいと思われていた私が怒ったので、その人はビックリしたようだが、以来警戒して距離をおき、踏み込んでこなくなった。そのとき、彼女を裁いていた自分が神様の前にどういうものか教えられ、裁きの気持ちが深いところで癒された。その日の日記を書く。

「2007.4.12〈はざきの癒し〉人を裁く行為は神様の恵みの前にへりくだっていない、私のごう慢と教えられた。裁かないで感謝することが大切!

「自分に死ぬ」ことなしにキリストのいのちは私を通しては流れない。(ヨハネ12:24~26)

神様、あなたの恵みがあり続けのに、その中で人を裁き、無駄な時間を過ごしてきました。25年間を悔い改めます。

今は恵みの時、救いの日、神様の恵みを無駄にしないで、生きていけますように。(第2コリント6:1~10)」

イスラエルの民は指導者モーセに文句を言った。が、これは神様に対する不満の表明でもあると注解にある。

私自身そうだったので、嘆いたり、つぶやいたり、不満を言う弱さのある人の気持ちが良くわかる。

それは弱さであり、傷であり、癒しが必要なのだと思う。

神様、現状に耐えられずつぶやく私たちの心を知ってください。痛みと悲しみ、苦しみを知ってください。そして、神様に癒しおおわれ、荒野の中でも、神様が泉湧くところとしてくださることを信じ、見させてください。

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更年期見舞い

更年期見舞いをしてくれる友人たちに感激で、泣けました。

『泣くのに時があり、ほほえむのに時がある。嘆くのに時があり、踊るのに時がある。

神のなさることは、すべて時にかなって美しい。』旧約聖書 伝道者の書3:4.11

昨日のブログで、更年期状態の自分のことを書いた。

朝、友人と話しをした。彼女は何年か前、プチ更年期で3年家に引きこもっていたらしい。私に「何かが出来ないと自分を責めないほうがいいよ。」と励ましてくれた。「ありがとう。自己否定が癒されてからの今だから、責めることはないんだけど…。」と話した。

彼女は「なんだかつらかった自分の時を思い出して涙が出てきた。過去の感情って、思い出すんだね。あの時があるから今の自分がいるし、そういう人の気持ちも理解できるんだよね。」と言っていた。

彼女と電話を切って、「私は3か月前までは、飲み会やランチセッティングを積極的にしてたよな。どこから、ますます引きこもるようになったんだろう。」と予定表のついたカレンダーを見た。

すると別の友人から「元気?って寝ているんだよね。あのsebaさんが引きこもってるってビックリしたけど、私はいつもだから、仲間ができたかな。こんど、ランチでもしましょう。」とお見舞いメールをもらった。「私、どうしちゃったかなぁ。」としみじみに思っていたときだったから、なんだかすごく嬉しかった。電話で少し話した。

怪我でも病気でもないのだけど、改めていつもの自分じゃないと思い、励まされて泣けた。自分を責めてもいないし、優しい夫も、休日には黙ってたまった洗濯してくれるし、受容されている。

外に出なくなった分、夕方はゆっくり夕飯が作れて、今までより品数が多くなったりもする。

所属してる幾つかのボランティアの仕事は単発だけど、こなしている。

人から声かけて励ましてもらって泣けてくるのはやっぱりこれでいいのかとどこかで思っているからだろうか。優しい友人たちにも心から感謝。更年期を通り、肉体は老いていくけど、宝は心の中にある。

神様、誰もが通る更年期。私の更年期もありがとうございます。そして、優しく声をかけてくれる友人たち、受け入れてくれる夫、楽しみとなってるブログ、ありがとうございます。神様から見たら、何かをたくさんやっていることも少ししかやっていないことも、大きなことも小さなことも変わらないのですね。私の小さな目立たない生活の中にも、神様を信頼し、神様を礼拝する生活ができますように。願わくは、この静の生活から主の赦した時に解かれて、もう一度活動期に戻れるようにしてください。

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2009年3月 5日 (木)

賜物の開花

自分をありのままで受け止めていくことが、自分に与えられた賜物(才能、能力)を豊かに使えることにつながると思います。

『キリストは、私たち一人一人に特別な能力を与えてくださいました。それは、彼がその豊かな賜物(たまもの)の宝庫から、私たちに与えたいと願われたものです。』新約聖書 エペソ人への手紙4:7(LB訳)

私自身がそういう者だったが、自己否定の強い人は、その否定を補おうとして、自己実現を目標としたり、現実より将来に強く思いがいって足元が見えなくなったりする。

20年前、私は60人規模の教会のスタッフだったときの話し。スタッフ会議で、他の人たちが牧師から次々に華々しい役割を言い渡されていた。私は心の中で「自分は何もしていない。出来ていない。私は何をやっているんだろう。」と思った。そして、せきを切ったように、悲しみが込み上げてきて、みんなの前で、声をあげて号泣してしまったことがある。

そのとき牧師は「あなたには個人伝道の賜物があるよ。」と言った。が、自己否定の強かった私は、「そんなもんがなんだ。そんなものいらない。もっと違うものが欲しいんだ!」と心で叫んで、再び、泣き続けていた。

自己否定の中には、現実のまわりにある宝物も、自分にある素晴らしい神様からの贈り物にも気がつかない。

何度も書いているが、3年前、人を赦し、自分が神様からとても赦され愛され受け入れられていることを知ったとき、「私自身はなんて可能性に満ちたたくさんの良いものが与えられている神様の作品なんでしょう!」と思った。

私は人が好きなので、人と関わり、話しをしているだけで楽しく、幸せな気分になる。まさに、その親しみと楽しみの中で神様を紹介していける…個人伝道の賜物が神様から与えられていると感謝する。

私たちはイエス様の十字架で赦されて、そのままで受け入れられている。もし、「私の賜物、与えられているものは何かなぁ。わからないなぁ。」と思うならば、「私が赦され、愛され、受け入れられてることをたくさん知れますように。」と祈るところからスタートとしてみるのが良いかもしれない。

神様は私たち一人一人を尊い存在として造り、個性を与え、私にしか感じられない感性をあたえ、贈り物を与え、喜び、楽しみ、自分にだけの特別な計画を立ててくださっている。

神様、あなたにとって、お一人お一人がいとおしく、大切な存在で、特別な存在として、贈り物を与えてくださっていることをありがとうございます。一人一人に与えられている素晴らしい贈り物(賜物)が豊かに使われていきますように祈ります。

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2009年3月 1日 (日)

古い自分に死んだ気がしない?

キリストの十字架で死んだ気がしない人について、書かれてある本の中を紹介します。

『しかし私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。

私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。』新約聖書 ガラテヤ人への手紙2:19.20

イエス様の十字架が自分の罪のためだと信じる人は、キリストと共に死に、新しい霊のいのちをいただいた。

スティーブ・マクベイ師は「恵みの歩み」の本の中で、「古い自分に死に、全く新しい自分に私たちはなった。が、本当に死んだ気がしない人」について、書いてある。

「自分の罪の性質が死んだとは感じないかもしれません。しかし神はその罪はすでに死んだと言われたのです。これは罪のない完全な人間になるということではありません。しかしながら習慣的に罪を犯すことは自分の性質ではなくなったということを意味します。肉と霊の葛藤はありますが、キリストの人生により、新しい自分は罪に立ち向かう意志があります。勝利の人生の力があるのです。…神はそっくり新しいものと入れ替えたのです。」とある。

「自分の罪の性質が死んでしまったように感じないなら、この真理を拒絶する誘惑を受けているのです。」

「クリスチャンになったとき、すべての罪が赦されたことを理解したでしょう。その赦しは自分の行動を変える十分な動機となったでしょうか。キリストとの関係が新しいアイデンティティーを与えるのです。キリストにあるアイデンティティーの正しい理解が罪に対して異なる動機となるのです。」

マクベイ師はセミナーの中で、「もう私たちは新しいいのちに生かされているのでありのままでいれば良く、無理に何かをしなくていいのです。」と言っていた。

キリストの十字架を信じた人は、古い自分に確実に死に、新しいいのちを与えられたのである。それを信じていくかどうかなのだと思う。

聖書に約束されていることは新しいいのちを与えられた人のうちに成る。神様が信仰を与え、聖書のことばで確信を与え、聖霊様の助けによって成る。私たちはもはや古い自分に死に、新しいいのちに生かされている。

神様、イエス様の十字架で、古い自分に死に、新しいいのちを与えられたことをありがとうございます。この新しいいのちが生き生きと生きるように、イエス様との関係をふさわしいものとしてください。律法から解かれたので、キリストの自由に生きるものとしてください。

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2009年2月20日 (金)

砕きたまえ!

私が変えられるということについて、引き続き考えています。

『陶器師は、粘土で制作中の器を自分の手でこわし、再びそれを陶器師自身の気に入ったほかの器に作り替えた。』旧約聖書 イザヤ書18:4

「人生を導く5つの目的」の本には、第3の目的として、“あなたはキリストのようになるために造られた”とある。

なんだかおこがましい感じがするけれど、私がなりたい目標はキリストという訳だ。それは、もちろん、私の努力ではなく、神様が私の内側に働いてそのことがなされる。外的には、聖書のことばと人と環境を用いると本にあった。

自分が変わるということは、いつも痛みが伴う。時には大手術となる。誰もそんな苦しみは望まないし、私もそのきつさが良くわかるから、「私を変えてください。」なんて、怖くて安易に祈れない。

しかし、時に癒しのため、自由のため、本当の平安の義の実のため、そして神様と深く交流するため手術や治療をして、変えられることは必要になる。

昨日ブログに書いた友人は「sebaさんは変わらないから、癒しのミニストリーが開かれないんだよ。」と言う。私への愛情であってもきつい口調で言われると、「だったら、そんなミニストリーはいらない!」と叫びたくなる。が、本当は誰かの癒しを助けるための神様の働きをしたいと切に願っている。

もう一人、愛情深い友人がいるが彼女からも「そこを変えていかないとミニストリーが開かれないよ。」と言われた。

私にとっては、虐待を受けて育った2人の友人は私に色々教えてくれる先生だ。「何故、両者でなく、私だけ変わらなくてはいけないの?」と悔しい気持ちにもなる。そんなの変と無視したくもなる。

でも、きっと今は私が変わらなくてはならない時期なのだと昨日改めて神様の恵みの中で思った。

私は変わる方法を知っている。祈れば良いのだ。それは神様にかなった祈りなので、すでに聞かれた祈りである。ただ、私の成長と変化のため、神様が何をなさるかはわからない。

まな板のコイ状態である。聖書的には、「台の上に置かれた陶器」状態である。

神様、何もなく、楽しく平安無事に過ごしていると、私はこのままで十分と思います。神様は今のこのままの私を全部受け入れてくれていることも知っています。ただ、私が神様の働きをしていくのに、神様が使いやすい陶器に作り変えなくてはいけないことも知っています。神様の恵みは私に十分です。次は私が少しでも神様のお役にたてるようになる番です。神様に私を差し出します。砕いて粉々にし、神様の使いやすいように作ってください。

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2009年2月19日 (木)

喧嘩の末に…

大喧嘩した友人と、再び険悪になりましたが、今回はその中に神様が介入してくださり、私が謙虚になれた気がします。

『わたしは、高く聖なるところに住み、心砕かれて、へりくだった人とともに住む。へりくだった人の霊を生かし、砕かれた人の心を生かすためである。』旧約聖書 イザヤ書57:15

今日、友人と会った。去年の11月に大喧嘩したクリスチャンの友人だ。

彼女は親に虐待されて育ち、とてもいろんな視点から物事を見てるし、いつもたくさんの事を教えられる、そして私にも過大なる期待?をしてくれている愛すべき友人だ。

「あの11月に大喧嘩になってから、私自身少しだけ、変わったと思う。『心が癒されたらいろんなことが解決する』と言った私の発言が問題になったが、少しは今、違って考えている。」と私は話した。

が、また、前回と似た話題になってしまった。「sebaさんの、そういう考えを変えなければいけないんだよ。」とまた言われ、ありったけ不愉快な思いを顔に出した。自分の領域に踏み込まれたら怒りで守ることはしていいと境界線の本にあったし、変われとか理解しろと言われてそんなにすぐ出来ない。「出来ないことを要求されるのは違うでしょ。」とぶっちょっらをした。誰だって、変われと踏み込まれたら怒るんじゃないかとも思っていた。

「なんで、怒るかわからない。それがそもそもアダルトチルドレンの癒されていない傷なんじゃないの。」と言われた。

彼女も「言うこと事態に労力いるし、本当に言いたい友人でなければ言わない。」と言った。彼女にとって、私が特別の友人だから言ってくれているのは、ずっと分かっているけど、変われと言われて、喜ぶ人はあまりいない。

「だって、今は不愉快に思うからそのままを表してるだけだよ。変われと言われたって、すぐ変われないよ。」と膨れっ面で私は言った。

そんな会話をしている中で、なんだか神様が温かく包んでくれるのを感じた。なんだか、泣きたくなった。「神様、あなたが変われと言うなら変わりたい。人に踏み込まれても大丈夫になるならそうさせてください。人に対して理解がなく、苦しめているなら、変えてください。」と言う思いになった。

私は今までは、神様から癒しを受けてきたが、人の前に謙虚になって変えられていく時なのかもしれない。

彼女は引っ越しで遠くに行く。もう何回会えるかわからないが、きついけど私のために言ってくれている。

「あなたは神様が送ってくれた天使だね。白い羽が見えるよ。」と冗談半分で言った。親身になって言ってくれる友人は少ない。自分が変わりたいなら、大切にすることなのだろうと思った。神様の恵みがなくては足りない自分を受け止められないが…。

神様、私が理解が足りなく人に圧迫を与えることがあったら、赦してください。私は今まで神様のことばに聖霊が働いて、癒される体験をしてきましたが、これからは、人との中でも教えてくれるのなら、謙虚に受け止めていけますように。喧嘩して、なおつながる信頼関係の友人を感謝します。

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2009年2月16日 (月)

円滑な人間関係3(人を赦す祈り)

人を赦すことで、自分が自由になることを教えられました。

『そこで、主人は彼を呼びつけて言った。「悪いやつだ。おまえがあんなに頼んだからこそ借金全部を赦してやったんだ。私がおまえをあわれんでやったように、おまえも仲間をあわれんでやるべきではないか。」

こうして、主人は怒って、借金を全部返すまで、彼を獄吏(ごくり)に引き渡した。

あなたがたもそれぞれ、心から兄弟を赦さないなら、天のわたしの父も、あなたがたに、このようになさるのです。』新約聖書 マタイの福音書18:32~35

私は5年ほど前、「境界線」の本と出会った。それまでは、自分の赦しを祈り、神様に癒されていたが、その本の一文を通して、“人を赦す祈り”の大切さを教えられた。

「誰かを赦すとは、その人を解放すること、つまり彼があなたに対して負っていた負債を取り消すことを意味します。赦すことを拒むなら、あなたはまだその人から何かを求めているのです。そしてたとえあなたが願っているものが復讐だとしても、あなたはその人に永久に縛られてしまいます。…赦さないということは、あなたを傷つけた人が与える気がないものを要求することです。これは彼をあなたに縛りつけ、境界線を破壊します。…手放して、切り離してください。そうすればあなたは自由になります。」

この箇所を読んで、私は思った。「誰かを赦さないということは、実はその人に支配され、振り回されていることなんだ!私は神様には支配され、良いもので満たされたいが、人を握って、人から支配され振り回されるのはとんでもない!」

そして、まず、過去の嫌だった記憶のある人…中学、高校から今に至る人々を名前をあげて赦す祈りをした。何日かかけて、あらゆる関わりで、記憶に残る人を祈った。自分で人を赦しているかいないかはわからないが、嫌な人の記憶があるという人を基準として祈った。

現実の中で、うまくいかない人にも謝った。なんだか、すっきりした。人に要求して、私が相手に縛られ、支配されていた太い綱が全部切れて、自由になった気がした。

「神様、私は神様以外、誰からも振り回されたり、悪い影響を受けたくありません。どうぞ、人を赦し、自由にしてください。」

人を赦さないのは、獄吏に入れられ、身動きできないことと教えられた。赦しは神様のためでもあるが、それは何より私のためと知った。

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2009年2月15日 (日)

円滑な人間関係(境界線の回復)2

自分の責任の分があると認めることが、境界線作りに大切なことと教えられました。

『まず自分の目から梁(はり)を取りのけなさい。そうすれば、はっきり見えて、兄弟の目からも、ちりを取り除くことができます。』新約聖書 マタイの福音書7:5

善いものは内へ、悪いものは外へ…私がその作業を始めたのはある牧師の一言からだった。「傷ついたとしたら、傷つくやつが悪い。」

これは聖書的なことばとか、メッセージとは思えなかった。が、その日から何故か私は傷ついたときは自分の弱さを神様に告白し、謝った。すると、傷つけた相手でなく、神様に目がいく。そして慰めをうけ、赦しを受け、癒しを受けた。私にとってこの祈りは、傷が傷んだときの軟膏のように、傷がおおわれ、神様の安心に入るので、やめられなかった。

始めは傷が治るのに、かなり祈るのだが、15年も祈ると、即効性が出てきた。というか、境界線が強固になっていたからかもしれない。

この祈りを始めて、5年目の年。仕事を辞めさせられ、教会もなくなり、大好きな教会奉仕もなくなった。そのとき、神様から「あなたは今までは自分の握ってるものがあったが、これからはわたし(神)が受ける分だよ。」と言われた。自己実現でなく、神様と共にいる幸せを感じられるスタートとなった。

そのとき、「神様、私は癒されました。私はどの聖書のことばをもって、神様の癒しを伝えればいいですか。」と祈っていた。そして、第1ヨハネ1:9を教えられた。

けれど、私が喜んでこの聖書のことばを話し、自分の分を謝る祈りを勧めると、友人たちからは不評だった。

「相手に嫌な思いをしたら、自分の分を探して、神様に告白して謝るといいよ。相手の影響受けなくなるよ。」
「それさぁ、私が悪いってこと?」という感じ…。

「傷ついてるのに、その自分が罪を告白するっていうのはきつい。」とも言われた。

体験が先行して、ことば足らずで、友人には嫌な思いを与えてしまっている。

それでも、境界線ができ、人から悪い影響を受けない方法はこの祈りと思う。

マタイ7:5は有名だが、ここにも境界線確立の秘訣を見た。自分の責任の部分を認めると言うことが、人に犯されない、踏み込まれない、支配されない、影響されない自分の領域を確立することだと。

神様にある世界は、なんでもかんでも赦されるというのでなく、自分が認めた分だけ赦されるということ。(神様はもちろん、全部赦しているが、罪の告白は神様に同意することだから、自分が同意した分しか赦しを受け取れない。)

神様は自分の責任の分を告白することを通して、その領域を神様の領域(=神様の赦しと安心の領域)に入ってほしいと願っておられる。

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円滑な人間関係(境界線の回復)1

人間関係をスムーズにするため、自分の領域をはっきりさせることが大切です。

『もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。』新約聖書 第1ヨハネの手紙1:9

過保護過干渉で育てられた子どもや虐待された子どもは“境界線”が崩れている。私は前者だった。

人はまわり(特に親など身近な人たち)の人に受け入れられ、尊重しながら、自分のアイデンティティーを確立していく。そこに間違いや失敗があっても、まわりの尊重の中で自分を作りあげていく。

ところが、干渉や虐待といういつも、自分で何か決めようとすることに、明らかに自分の領域に踏み込まれると、どこまでが自分の領域で、どこからが人の領域かわからなくなる。結果、人間関係の中で一番大切な自分を大切にし、相手を尊重するということが出来なくなる。

相手を支配したり、迎合(あわせる)したりの人間関係しか作れずに苦しむ。

「境界線」の本にはその定義を次のように書いてある。

「境界線は自分のものを他人のものから区別し、自分で管理できるようにします。…境界線は、善いものを内に保ち、悪いものは外に出すのです。…虐待を受けると、境界線の役割を逆転させ、悪いものを内側にとどめ、善いものを外側に閉め出してしまうことが往々にしてあります。」

嫌いな人ばかりに思いがいく、嫌な言葉だけ残る、自分はダメだと自分を痛めつけるなどそれだと思う。

私はとても人に傷つきやすかった。神様を知らないときは、友だちと意見が合わないだけで「裏切られた」と思い込み、リュックを背負って旅に出た。

クリスチャンになって、ある日から、人に傷ついたら傷ついた私が不完全だ、相手を受け止められない容量の小さい人間だと思い、神様に謝ることを始めた。

「神様、また、ひどいことをあの人は言いました。とても嫌な思いをしましたが、相手を受け止める力も心の広さもない私を赦してください。」

すると、不思議と人への嫌な思いは消えて、神様がその心を慰め、癒し、おおってくれるのを体験した。なので、私は人から嫌な思いを受けたとき、この祈りを続けた。この祈りは「境界線」の本で、「人を赦すと、その人の支配(影響)から解かれる」という文を読む日まで続いた。

自分の罪を告白する…たとえ100%相手が悪いように見えても自分の不完全の分を探して告白し謝る…を私は15年続けた。

私の境界線は回復した。人の影響を前のように受けなくなった。「境界線」の本には次のようにある。私はこの作業をし続けて、回復したのだと今知る。

「私の内に痛みや罪があったとします。癒されるためには自分を開いて神と他者に伝え、痛みや罪を告白することによって、これ以上内側で私たちを毒し続けることがないように『外に出す』のです。(第1ヨハネ1:9・ヤコブ5:16・マルコ7:21~23)」

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2009年2月14日 (土)

思春期

息子の笑顔を見ながら、私の思春期の時代を思い出しました。

『しかし、わたし(イエス)が与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。』新約聖書 ヨハネの福音書4:14

私が小学4年の時、父が精神病で入院した。次の年、引っ越しになった。今思うと左遷されたのだと思う。さらに小さい田舎街に移った。その頃、ゴミ収集車とか来ていたのかよくわからないが、庭で母はドラム缶でゴミを良く燃やしていた。

ある日、燃やしきれなくなったのか、私と姉もかり出され、真夜中に近くの川に黒いビニールに入ったゴミ袋を捨てにいったのを覚えている。

母はやるせない毎日の苦しみも悲しみも一緒に捨ててしまいたかったに違いない。

母が笑わず、家庭は暗かったが、外向きの私は、学校が終わると毎日誰かと外で遊んでいた。

そんな私に陰りが表れたのは中学の思春期の頃だった。母と価値観が合わずに、よく喧嘩した。口で言い負かすのは私が強いので言い負かしては、悲しくなってよく一人泣いていた。私の母への激しい反抗期は、大人になってもずっと続いた。気がつけば、私は100%自己嫌悪のどうしようもない状態になっていた。

今、中学一年の息子は良く笑う。小さいときは、学校で何があったか聞いても「わからない」と、学校の話しはほとんどしなかった。本当に忘れてしまっていたように思う。

あどけなさが残る顔にニキビがあって、ちょっぴり大人になってきてる息子とは、最近遅ればせながら、あれやこれや他愛ない話しをよくする。息子は学校での失敗や怒られた話しも楽しそうにする。

私とは違う中学時代を過ごす我が子の笑顔にとても大きな幸せを感じる。

神様が私を癒しつつ、子育てをさせてくださる憐れみを思う。息子の笑顔が何にもかけがえなく思えるのには、神様の私への奇跡がある。

空っぽな私に神様の愛を注いで満たしてくださった。それは砂漠の中にできた泉のごとく、渇(か)れることなく、湧き出てくる水のようだ。決して立派な母親でもなく、素晴らしい子育てをしている訳でもないが、子どもを楽しみ喜べるそんな風に神様は癒してくださった。

そして、泣いたり、笑ったりして神様に話しかける私を神様自身もまた、いとおしい眼差しで聞いてくださっている。

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2009年2月13日 (金)

“ひとりぼっち”

孤独を感じている人は、気がつかない中、私たちのまわりにいるのかもしれません。

『わたし(神)は決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。』新約聖書 ヘブル人への手紙13:5

自殺願望があって、自殺の名所に行くような人が、人に話しを聞いてもらうだけで、自殺を思いとどまる話しを聞く。

人は追い込まれると、自分は天涯孤独なんだと思うのかもしれない。そんな中、たとえ知らない人であっても優しく声をかけてもらい、親身になって話しを聞いてもらうだけで、少し生きてみようという気持ちになるのかもしれない。

かつての私の場合は、心のセンサーが壊れて、まわりに親身になってくれる友人がいても、孤独のどん底だった。孤独がまとわりついて、生きていくのが辛かった。

最終的に心の奥底の孤独は、環境や人によらず、神様が埋めてくれるものと私は信じている。心に空いたピースの形は神様だけが知っていて、神様がピッタリと埋めてくれると…。

あるボランティアの新聞に「熟年の心理を襲う最大の課題は『ひとりぼっち』になるということ」とあった。

これを読んで“ひとりぼっち”と感じているのは、熟年ばかりではない…と思った。

一人で負いきれない中、子育てをしてる人、働きたいのに働けずやるせない思いでいる人、いろんな人たちが人ごみの中で“ひとりぼっち”と感じてるのかもしれない。

孤独に苦しんだことのない人にはわからない世界かもしれない。孤独を体験し、慰めを体験した者に祈れる祈りがある。

私は地域でつながりを大切にしたいと願っているけど、言い替えれば、自分の地域に“ひとりぼっち”で悲しむ人を少なくしたいということかなぁと思った。

かつての私は孤独で孤独で、泣くばかりの日だったが、忘れたくない思い出である。

神様、かつて孤独だった私の心に神様が来てくださり、いつも知っていてくれ、いつも相談にのってくれ、理解とさとしと慰めを与えてくださることをありがとうございます。それゆえに、私は孤独でなくなりました。
限界のある者なので、人の心奥底はわかりませんが、神様が私を思ってくれる思いが、私を通して、人にも流れていきますように。神様は造られたすべての人を大切に思っていることを人々が知りますようにお願いします。

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2009年2月12日 (木)

“救い”とは“自由”

「救いとは自由です」とある本にありましたが、本当にそのとおりだと思います。

『わたし(神)の好む断食(だんじき)とは、これではないか。悪のきずなを解き、くびきのなわめをほどき、しいたげられた者たちを自由の身とし、すべてのくびきを砕くことではないか。…』旧約聖書 イザヤ書58:6

ここ2〜3日、久々ひどい風邪でうなされた。

始めは喉の痛み。やがて強烈な喉の奥の痛みと咳、そして、体中の痛みと高熱。

私たちの罪もまた始めは小さいようなものでも、そのままでは段々重なり、死へと向かう。

ハ・ヨンショ師の「幸せな朝」に“救いの別のことばは自由です―あなたはまことの自由人ですか―”というタイトルで次のようにある。

「救いを他のことばで表現するなら自由です。私たちを縛って自分の良心に従って生きられないようにさせ、サタンに引きずり回させていたすべての罪の鎖が解かれ、解放されたのです。」

聖書でいう罪というのは、法的に裁かれるような悪いことだけでなく、悪い考え、悪い思い、正しい造られた神を信じないことも罪という。

アダムとエバ以来、私たちは生まれながらに良心に従えず、悪を行ってしまう。もし、私は悪いことをしたことも思ったこともないと言う人がいるなら、うそをついているか、良心に鈍感なのかもしれない。独善は神様が最も嫌われるものである。

その罪に縛られて不自由だと感じないで生きている人もいる。が、その先には解決のない死が待っている。

イザヤ58章は私が神様からの使命として与えられたことばである。

私は神様と共に歩まなかった時代、悪のきずなとくびきにがんじからめだった。だから、そこから解かれるということがどんなに自由なことか、体験してきた。

神様を知ったばかりのころは、神様の話しばかりをして友人にうとまれた。

今はしつこく求めるのは神様にであって、人に対しては神様にある自由人として接することが私には求められている気がする。きっと、私が人の悪のきずなを解き、くびきのなわめをほどき、すべてのくびきを砕くこと…それは私が神様にあってどれだけ自由人かにかかっている気がする。

私はまだまだ、まったき自由人への途上にあるが、苦しむ人のなわめを解きたいと願っている。

神様、イエス様が自由を与えるために来てくださり、私たちを解放してくださったことを感謝します。この神様の自由が私だけのものとならないように、与えられた自由をもって、愛で仕えられますように。自分の中に愛がない部分をたくさん見てしまいますが、そこをも解いてくださり、神様の愛によって、愛する自由人へと近づけてください。

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2009年2月 6日 (金)

友人との思い出

昔、友人が聖書を開いて分かち合ってくれた話しを思い出します。

『たとい主(神)があなたがたに、乏しいパンとわずかな水とを賜(たま)わっても、あなたの教師はもう隠れることがなく、あなたの目はあなたの教師を見続けよう。

あなたが右に行くにも左に行くにも、あなたの耳はうしろから「これが道だ。これに歩め。」と言うことばを聞く。』旧約聖書 イザヤ書30:20.21

神学校時代、寮が一緒の一人の友人Cさんがいた。年は私より若かったが、教会歴は私よりずっとあった。

あの頃は、何もなかった。お金もなく、質素な生活をした。自慢ではないが、服も上から下までもらいもので、コーディネートしていた。自分だけの生活空間も限られており、ベッドと机だけが自分の空間だった。

彼女は寮にいる間、脳腫瘍が発覚し、手術もした。彼女の家庭環境も複雑のようだった。たくさんの悩みや苦しみがあったのだろうと思うが、いつもコッソリお祈りして、その秘密をコッソリ教えてくれた。

「私、いつも私の笑顔が人を慰めますようにって祈っているのよ。」と彼女が私に教えてくれた。なるほど、彼女の笑顔はいつも素敵だ。信仰をもって、まだ、2〜3年の私は、そうやって影での祈りが、今のその人を作るんだ…と教えられた。

彼女が聖書を開き、一つの箇所を話した。それが、この箇所だった。

「私ね、思うんだけど、何があってもいつも最後に残るのは聖書の神様のことばなんだよね。」と彼女は言った。

あれから、25年くらいたって思う。本当に、人や物事もうつろいやすいけど、神様のことばだけは変わらずにいつもある。

どんな状態であっても、神様は隠れることがなく、「これが道だ。これに歩め。」と教え続けてくれる。

この箇所を見ると、アーメンと思うと共に、彼女の神様のことばに頼っていた姿を思い出す。

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2009年2月 3日 (火)

私のエジプト脱出1

イスラエルの民のエジプト脱出の話しがあるが、私もまた自分では渡ることの出来ない海を渡らせられ、神様の側に脱出できたことを思います。

『主(神)は仰せられた。「わたしは、エジプトにいるわたしの民の悩みを確かに見、追い使う者の前の彼らの叫びを聞いた。わたしは彼らの痛みを知っている。

わたしが下って来たのは、彼らをエジプトの手から救い出し、その地から、広い良い地、乳と蜜の流れる地…に、彼らを上らせるためだ。」』旧約聖書 出エジプト記3:7.8

今から30年近く前、私は孤独と空虚の心の闇が、黒い影となってだんだん私を取り囲み、最後はスッポリと包みそうになった。

そのとき、「私は生きることも、かといって死ぬことも出来ない。」と一人うめいた。

その時、一人の友人が「あなたは神様に近いよ。」と言った。何故だかはらりと涙がこぼれた。私の中で何かが変わった。私は神様に祈った。「今まで自分で生きていくのだと思っていましたが、生かしてくれる神様がいることを今知りました。これからは神様のために生きていけますように。」私の神様を信じ歩みをするスタートの瞬間だった。

あの日から、泣いたりわめいたり、祈らなかったり、聖書を読まなかったり、いろいろあったが、神様が生きて働いてくれていることを信じてきた。神様が信仰を私に与えられたので、信仰がなくならなかった。

聖書に照らし合わせると、あの日、私はエジプトを脱出したのだと思う。紅海が真っ二つに分かれ、かわいた地を歩いたときだったのだ。

神様はイスラエルの民が、エジプトの中で、奴隷として苦役にあずかっているのを見て、そこから救い出そうとされた。

神様に仕えるモーセをリーダーとし、エジプトに10回の災いを与えた後、おびただしい群れのイスラエルの民はエジプト脱出に成功する。

後ろからは、労力を手放したことを後悔したパロ王による軍隊が追いかけてくる。

目の前は水をなみなみとたたえる海。神様は奇跡をなし、海の壁を作り、イスラエルの民をかわいた地を歩かせ、渡らせた。

出エジプトと言われる神様が行った壮大な奇跡である。

そして、私も様々な奴隷となり、自由を封じられていた。イエス様によって、神様につながったとき、様々な縛りから解かれ、神様の約束の土地の側に移された。私にとっての出エジプトとなる。

神様、あなたの奇跡によって、エジプト脱出を計り、私も様々な奴隷の身分から解放されたことを感謝します。深い孤独から解かれ、あなたの愛の中に入れられたことを感謝します。何のために生きるのかわからず、虚無に漂うものが、神様に定められたことを感謝します。

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2009年1月31日 (土)

自分を捨てる祝福

自分を捨てても欲しいものが私にはあります。

『自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世でそのいのちを憎む者はそれを保って永遠のいのちに至るのです。』新約聖書 ヨハネの福音書12:25

“自分を捨てる者が本来の自分を得る”…と聖書では言う。

自分を捨てると言うのは、神様を信じている人たちには馴染み深いが、そうではない人には、考えにも浮かばないアイデアと思う。自分を捨てたら、何が残るのか?何も無くなるのではないか?…と。

逆に私たちは「自分自身をしっかり持て。」と親や周りに言われてきたのではないか。

私の信仰生活は、振り返ると、自分を捨てさせられる連続だった。

21歳の時、教会中心の生活が始まった。教会学校(地域の子どもたちが日曜日の朝に教会に来て、聖書を学ぶ)が盛んだった。教会に通うようになって、すぐに教会学校の先生にしてもらった。(子どもは50人位来るのに、教会員は大人が7人位で、全員総動員で教会学校を支えていた)

教会に通うと同時に、子どもに聖書を教えるため、聖書を勉強するという幸いな環境だった。

一年位そんな生活をして、週報作りもガリ版で教会に泊まりがけで作らせてもらい、クリスチャン生活ドップリだった。

その夏の恒例の湖の近くでのキャンプに前半(小学生の部)は料理手伝い、後半(中学生の部)は教師として、参加した。

中学部のキャンプファイヤーのメッセージを、子どもたちと一緒に聞いていたときのことだった。どんなメッセージか、忘れたが、「私はクリスチャンだろうか。」という疑問が湧いた。高校の時に、洗礼を受けていたが、そこは異端の教会だった。

その場にいた宣教師に、自分の今の心境を話した。「疑いを感じるなら、信仰ではなく、罪です。」とローマ人14:23から言われた。

中学生が寝静まったキャンプ場の湖畔でひっそりと洗礼を受け直した。真っ暗な湖で、悪いことを隠すかのような洗礼だった。

悲しかった。クリスチャンとして、子どもたちに聖書を教えてきたのに、今までの自分の信仰はなんだったのか。

次の日、人前でも涙が止まらず、ハラハラ泣いた。家に帰ってからは声をあげてオイオイ泣いた。

再度の洗礼が必要だったか、それまでの私はクリスチャンだったか、教理的にどうこうではなく、神様の前に、そのことは私にとって必要なことだった。

自分の信仰を捨て、聖書に従う信仰の出発だった。

自分を捨て、聖書に従う…それは本当につらい。自分の今までが否定されるようなことだから。

しかし、神様は自分の考えや信念やこだわりやプライドを捨てるとき、素晴らしいものを与えると約束している。

それは“永遠のいのち”である。ヨハネ17:3では「永遠のいのちとは神様とキリストを深く知っていくこと」とある。私たちが、捨てないと与えられないものがある。大切なもののため、私が今日捨てる考え、思いは何か神様に問いたい。

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2009年1月26日 (月)

恐怖体験のつながり

恐怖体験を共有し、深い結びつきができた友人の話しをします。

『天の下では、何事にも定まった時期があり、すべての営みには時がある。…

引き裂くのに時があり、縫い合わせるせるのに時がある。

黙っているのに時があり、話しをするのに時がある。

愛するのに時があり、和睦するのに時がある。』旧約聖書 伝道者の書3:1.7.8

今日は、先週に引き続き、息子が一昨年前に将棋の教室に行っていた頃、そこの保護者会で一緒に役員をやっていた友人と会った。

私たちは共に特殊体験をした共同体であり、その恐怖体験と言うか、つらい体験の中で、私たちの結びつきは強くなった。

私は「あの先生から色々言われたことは、つらくて悲しく、苦しかったが、そのおかげで今のお母さん同士親密な関係があるので、先生には感謝している。」と心から思えたし、いつも彼女たちに言う。

どんな恐怖体験かというと、先生のプライドにさわることをすると、呼び出され、その生き方や子育てまで全否定され、おおやけの前でいかにひどいかを名指しで言われる。

私は「次は保護者の会長をやってくれ」と言うようなことを言われ、先生から親子共々、有効な駒として期待されていた。しかし、息子がもうワンステップ、レベルの高い教室を望んでいたので、「なんと言われても、辞めます。」と回答すると、攻撃の的になった。

総会では30分のうち、20分位“いかにこの母親が良くないことをしたか”トウトウと全員の前で語られた。

そんな私を横で見ていてくれ、一緒に心痛めてくれたのが今日会った友人Yさんだった。彼女は先生からすごく好かれていたが、潰されていく人たちに心痛めてくれた。

私は「子どもは辞めますが、私は先生のお手伝いをします。」と言った。が、直接に一回、彼女を通して二回断られた。

断られても断られても、先生に手伝うとアプローチする私にYさんは言った。「何がそこまで、sebaさんを駆り立てるのか?」「神様。私ではない。」と言うと「神様って何だろう。」と言ってくれた。

「ああ、神様は楽しいところに現されるのでなく、自分が苦しい中に現されるんだなぁ。」と感謝した。

今日も彼女は神様に対するポピュラーな質問をたくさんしてくれ、嬉しかった。

先生に対する傷は、その時々で癒されたので、恨みつらみも傷もない。今残ってるのは、特殊体験をした人たちとの深いつながりだけなので、あの恐怖体験を心から感謝する。

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2009年1月22日 (木)

心にのしかかる隠された罪

私たちは、誰にも知られていなくても、悪い事、やましい思いをすると自分が苦しくなります。

『私は黙っているときは、一日中うめいて、私の骨々は疲れ果てました。それは、御手が昼も夜も私の上に重くのしかかり、私の骨髄(こつずい)は、夏のひでりでかわききったからです。

私は、自分の罪を、あなたに知らせ、私の咎(とが)を隠しませんでした。私は申しました。
「私のそむきの罪を主(神)に告白しよう。」
すると、あなた(神)は私の罪のとがめを赦されました。』旧約聖書 詩篇32:3~5

私の故郷は、秋田で一番積雪量の多いところである。冬中ずっと、空はどんよりしていて、しんしんと雪が降り積もる。

年々、積雪量が減っているが、私が子どもの頃は、二階の窓から出入りができるほどに、家のまわりが雪で埋まった。

屋根の上にはたちまち一メートルぐらいの雪が降り積もり、家がつぶれないように、雪下ろしが行われる。

どんより垂れ込める雲、しんしんと降り積もる雪、そして、家をつぶさんばかりに重くのしかかる屋根の雪。

その情景を思い出しながら、人においても、罪と言われる悪い事を隠した心には、良心の責め、罪責感がずっしりと重たく胸にのしかかるのを思った。

責めの原因を誰にも知られていなくても、その心は知っている。

私が小学3年のときの、ある朝自習のこと。皆、クラス中で騒いでいた。そこに先生が入ってきて、怒られた。そして、朝自習のノートを一人ずつチェックされた。私も騒いでいた組で何も書いていなかったが、前に書いた漢字のところをとっさに出してしまった。「皆さん、sebaさんを見習いなさい。」と言われた。嘘をついてしまい、ほめられてしまった。大人になっても、ずっと残っている後味の悪い記憶である。

昨日聞いた話し。中学一年生のある生徒が、冬休みの書き初めの宿題に、お婆ちゃんが書いてくれたものを、何気なく提出したらしい。それが上手だったので、先生が「これを出展に出します。」と言った。その生徒は「間違えて持ってきました。それ、お婆ちゃんが書きました。返してください。」と言ったらしい。皆の前で、本当のことを言うのは勇気がいったかもしれないし、恥ずかしかったかもしれない。が、言えて良かったと他人事ながらにホッとした。

悪い事を隠すのは、誰も知らないようでも自分の良心がうめく。そして、その苦しんでいるのを悲しい思いで神様は見ておられる。

聖書では、神様は悪い事をするなと言っていない。悪い事を「ごめんなさい。」と謝るなら赦されると言っている。素晴らしい神様のメッセージである。

『幸いなことよ。そのそむきを赦され、罪をおおわれた人は。
幸いなことよ。主が、その咎(とが)めをお認めにならない人、心に欺(あざむ)きのないその人は。』詩篇32:1.2

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2009年1月14日 (水)

歪められた自己イメージの回復

自分のイメージは良いでしょうか…その回復について書きます。

『私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをもあらかじめ備えてくださったのです。』新約聖書 エペソ人への手紙2:10

アスリートは、競技で自分が成功するところをとことんイメージすると良く聞く。

私たちも日常の中で何気なくイメージをする。上手くいくイメージの中で、チャレンジの行動も生まれる。恐れがあって、失敗するイメージに捕らわれると、一歩が進めない。

私たちは自分に対して、どんなイメージがあるか。自分のイメージをセルフイメージと言う。劣等感が多い人はセルフイメージが低いと言う。セルフイメージが高い人というのは、自分を自分以上に買いかぶることではなく、ありのままを受けとめて、それをよし(オッケー)とする人である。

神様は天地創造のとき、神様のイメージで人をも造られた。

『「われわれ(神)に似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。…』…そのようにして神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ。それは非常によかった。』創世記1:26~31

神様が造られた人も、神様から見たら非常によかった。完全でも、無限でもなかったかもしれないが、神様のイメージ通りに造られた。

神様は私たちをこのように言う。『わたし(神)の目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。』イザヤ43:4

神様から見ると私たちは高価で尊い存在である。私たちは自分をそのように見ているだろうか。造られた神様とイメージは一致しているだろうか。

私たちは自分をなかなかそのように思えない。

それは、自分のさまざまなイメージが歪められているからである。私たちの悪い考え、思い、失敗などが私たちのイメージを歪めてしまっている。

私たちが造られた方のイメージを自分のものとするために、イエス・キリストの十字架の赦しが必要となる。自分の悪いイメージを作り出してしまうものを十字架につけ、赦され、癒され、清められていくとき、私たちは自分を見て神様の創造を感謝することになるだろう。

神様、私たちを尊い存在として造ってくださり、今もそのように見てくださっていることをありがとうございます。神様のイメージを傷つけている考え、思い、行いを赦し、癒し、清めてください。そして、あなたが私たちを通してたくさんの素晴らしいことを表したいというそのことが、成りますようお願いします。

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2009年1月10日 (土)

ダメージを受けた過去に訣別する方法

ダメージを受けた過去からの訣別、そして新しい世界を神様は約束してくれています。

『しかし私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはなりません。…割礼を受けているか受けていないかは、大事なことではありません。大事なのは新しい創造です。』新約聖書 ガラテヤ人への手紙6:14.15

小さい時の状況は、子どもはあまり客観的に見れないので、家庭の中での欠乏があってもあまり気がつかない。そして、大人になってから、今の自分の傷はあのことから来てるとしみじみ思ったりする。

私は価値観の違う母からのダメージが大きいと思っていた。が、根底に父、母それぞれからの影響による傷があることを3年前はっきり知った。(たくさんの傷があったが、一つずつ癒されて、残ったのが2つだった。)

母からの影響は“権威者を裁く”、父からの影響は“ある一部の人に取り入ろうとする”ことだった。

『私はねたむ神だ。』と語られ、癒された(2日前のブログに書いた)が、それ以前に、境界線が崩れていて、そこから人に取り入ろうとしている自分がいつも誰かに支配されているのを感じていた。

ある時、聖霊様によってだと思うが、小学6年の私が居間で父とテレビを見ている場面がはっきり映像として浮かんだ。

そのときの私は父を受け入れていなかった。かつて本好きで、子煩悩な私の尊敬する父は、精神の病で別人になっていた。

そのときの私は、聖書にある赦しの神様を知らなかった。が、そのときの自分になって祈った。

「父を主の十字架のゆえに赦します。父は病気になり、別人になってしまいましたが、父は神様に祈ることも出来ず、誰にも理解されず、孤独に苦しみました。

また、私も主の十字架のゆえに、赦してください。子どもで父の苦しみがわからなかったし、神様がいてくれたのに祈らなかったことを赦してください。」と祈った。

次の瞬間、神様の霊に満たされた。

そのような中で、人ではなく良いものをくださる神様から良いものをいただこうとなっていった。

父から得られなかったものを、人からもらおうと思ってももらえない。私は人からの支配から自由になりつつあった。

最近、このガラテヤ書のことばの意味を教えられた。割礼とは、神様がいない時代。規則や人間の努力の行いの世界。私たちはそこを脱出して、神様に応答して生きていく世界に移される。

神様と親しい関係を持つ新しい世界には、自分や人の弱さに縛られない…ただ神様からくる愛情を感謝して受けていく世界があるのだ。

神様、私たちは過去のさまざまなことに縛られやすい者です。が、イエス様が十字架にかかり、私も過去に死ぬことが出来て、ありがとうございます。今、私たちは過去の不幸や欠乏や人間の失敗から切り離され、神様との関係の中で愛されて生きていけることを感謝します。この真理の恵みによって、多くの人が過去から切り離され、新しい世界に生きられますように。

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2009年1月 7日 (水)

エデンの園に戻る

拘束と自由、聖書ではそのことについて詳しく書かれています。

『神である主は、東の方エデンに園を設け、そこに主の形造った人(アダム、エバ)を置かれた。…園の中央には、いのちの木、それから善悪の知識の木とを生えさせた。』旧約聖書 創世記2:8.9

かつての私は、自分のしたことが良かったかどうか、うまくいったかどうか、人にどう思われたかなど、たくさんのことに縛られていた。最近は、明らかに面前で失敗しても恥ずかしくなくなった。まわりがどう思うかは気にならなくなった。

スティーブ・マクベイ師は「恵みの歩み」の本で次のように言う。

「神は多くの木を園に置かれた。アダムとエバが食べてはならない木は一つだけだった。それが善悪の知識の木だった。…アダムとエバはサタンに誘惑され、その木の実を食べてしまった。すると突然彼らの目が開かれた。初めて善と悪を意識した。その日以来ずっと彼らの人生は、善悪の価値基準によって裁かれる人生となった。」

私たちが、善悪に縛られているのは、アダムとエバのせい…とも言えるかもしれないが、大切なのは、私たち生まれながらに皆持っている性質だということ。

エデンの園では、裸であったにもかかわらず、神様を見て喜んでいたので、恥ずかしくなかった。

が、自分に基準がむけられたとたんに、自分の弱さ、足りなさ、惨めさ、苦々(にがにが)しさ、失敗などに縛られ、失望するようになった。

そして、木の葉で隠すごとく、つくろうことに労力を費やす。

自分を守るためにアダムのように「この女が食べさせた。」と人のせいにする。

出産と労働が呪いとなり、死がもたらされた。

私たちは、善悪の知識の実を食べ続けて縛られている。

ローマ人の手紙5章では、「アダムの違反によって、私たちは様々なものに縛られたが、キリストの恵みによって、神様とつながり―エデンの園に戻り―すべてのものから解放される」という内容がある。

私たちはいつまでも変わらず、弱く、足りなく、失敗しやすいものであるが、いつも、キリストの十字架で赦され、「大丈夫。そのまんまでいいんだよ」と受け入れられている。

神様、私たちは神様の前に裸で出たら、恥ずかしい位、弱さを持った者ですが、赦されて、受け入れられていることを感謝します。自分に縛られず、神様のいのちに生かされる…それは間違いを認め謝ること、そこからのみ赦しを受け取れることを感謝します。自由を与えにきたイエス様、あなたによって赦され、自分中心から神様中心の私たちになれますように。

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2008年12月21日 (日)

傷ついた癒し主

多くの辛い体験は良いものを生み出す話しです。

『私たちの大祭司(イエス・キリスト)は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。』新約聖書 ヘブル人への手紙4:15

昨日のハーベストタイム(キリスト教テレビ番組)で見た話し。

一人の女性の宣教師の人は、今、“祈りのハープ”を通して、神様へ導く働きをしている。

彼女は、自分のお子さんが7才のとき重い病気になった。その時、たくさんの方たちに祈られ支えられた経験をした。そして、人のために祈る大切さを知り、今ハープ演奏を通して祈る活動をしている。

あるとき、山谷にあるホスピスハウス、「きぼうのいえ」に祈りのハープを演奏しにいった。一人の人のために、その人に合わせて演奏する。一人の山谷でのホームレス暮らしが長かった男性がいた。彼は演奏を良く聞いていた。そして、彼は心が変えられ、周りの小さなことに感謝するようになった。その2週間後、天に召された。

もし、祈りのハープを奏でる彼女は、苦しいとき、たくさんの人に祈ってもらう経験がなかったら、“祈りの奏者”としての活動はなかった。

イエス様は私たちのすべての苦しみを知っている。罪は犯されなかったが、私たちが経験するすべての試みを経験され、同情してくださる。イエス様こそが、“傷ついた癒し主”である。

私は若いときは、壁にぶつかってばかりでよく傷んでいた。賢く悟り、上品に歩く人を見て、どうして自分は失敗ばかり繰り返さなくてはならないのだろう。失敗を体験しないと悟れないなんて情けないなぁと思った。

しかし、今、私がたくさんの辛い経験が誰かの理解や慰めになっていることを痛感する。

人は、やっぱり経験しないとわからないことが多い。

今、痛みの中にある人はみんな“傷ついた癒し主”になれる人たちである。

真珠は分泌物を出してあの綺麗な真珠を生み出すと聞いたことがある。

苦しみと悲しみのたくさんの涙から生み出されたその人だけの慰めという真珠が輝きますように。

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2008年12月14日 (日)

何も喜びがないという日でも…

私にとって、一つの聖書のことばが、ある生活を思い出す、懐かしいものであるときがあります。

『私たちの齢(よわい)は70年。健やかであっても80年。しかも、その誇りとするところは労苦とわざわいです。それは早く過ぎ去り、私たちも飛び去るのです。…それゆえ、私たちに自分の日を正しく数えることを教えてください。そうして私たちに知恵の心を得させてください。』旧約聖書 詩篇90:10.12

主人と結婚した頃、教会の奉仕もなく、事務のパートに出かける毎日だった。特に困難もないのだが、特別神様にある喜びもなく過ごしていた。

その頃よく祈ったときの聖書のことばがこの「自分の日を正しく数えることを教えてください。」だった。何か一つ大きなものがポッカリとない感じがしていた。

心の癒しが進んでいなかったので、そのときの足りないものは“神様にある働き”と感じていた。つまり、「早く神様の具体的な働きを与えてください。」という思いで祈っていた。働いていないと、神様のために使ってもらわないと価値がないかのように感じていた。

あの頃のお気に入りの賛美が‘たとえ何もないような日々にも主はともにおられる’というようなフレーズのあるもので毎日口ずさんでいた。

ある牧師のメッセージで「アブラハムの何も記事が書かれていない空白の30年がある。私たちはそんなことのないよう無駄なく過ごさなくてならない。」とかというようなことを聞き、若かった私はそうなのかなぁと思った。

神様にあっては、すべてに時があるとある。(伝道者の書3章)じっとしているのに時があり、動くのに時があるのかもしれない。

私が順調にすべてのときを、神様に使ってもらい、活発に動いていたら、じっとしている人、じっとせざるおえない人の気持ちがわからなかったと思う。

すべての時を神様にあって有効に使いたいものだが、ときには疲れ、ときには迷い、ときにはわからなく、また待たされじっとしているときもあるのかもしれない。

けれども確かなことは、そこに変わらない愛なる神様は、私たちを愛し、受け入れ、そばにいてくださっているということだ。

『あなたのみわざをあなたのしもべらに、あなたの威光を彼らの子らに見せてください。私たちの神、主のご慈愛が私たちの上にありますように。そして、私たちの手のわざを確かなものにしてください。』詩篇90:16.17

神様、何もないように感じるときもあなたが近くで変わらず愛してくださっていることを教えてください。

Hana0876

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2008年12月12日 (金)

悲しみも苦しみも知られている

人が人を理解するのには限界がありますが、それで仕方がないだけなのでしょうか。

『主(神)よ。あなたは私を探(さぐ)り、私を知っておられます。
あなたこそは私のすわるのも、立つのも知っておられ、私の思いを遠くから読み取られます。
あなたは私の歩みと私の伏すのを見守り、私の道をことごとく知っておられます。
ことばが私の舌にのぼる前に、なんと主よ、あなたはそれをことごとく知っておられます。』旧約聖書 詩篇139:1~4

人を引き下げる人がいる。人を引き下げないと自分を保つことが出来ない可哀想な人なのだと思う。

人を引き上げる人もいる。いつもことばで人の徳を高められたらいいけど、難しい。

田中信生先生の「魅力ある生き方ガイド」を読んで、“引き延ばし”というのがあるのを知った。

「これは引き下げることもも引き上げることもしない対応。『みんなそんなものよ』とか『いいんじゃないの』という反応。これは無関心と言える。ときには引き下げられるよりつらい。」

私の友人で離婚した方がいる。その話題はデリケートを要する。彼女がある方に打ち明けたらしい。すると「うちだって主人とうまくいっていない。そんなもんだよ。」と言われたらしい。離婚するほど、苦しいところを通ったのに、友人は自分の夫との些細な喧嘩レベルと同等に扱ってしまった。彼女は話したことを後悔したと言っていた。

また、発達障害のお母さんが「うちの子どもはこんなで苦労している。」というと「うちの子どもだって似たようなものよ。」と言われた。発達障害の子どもがどんなにいろんなことにストレスを溜め、苦労しているか、その親もまたそうであるか、知らなかったのだと思う。全然違うレベルの苦労を同じにされ、聞き流されたのが辛かったらしい。

私は神様に理解されているので、人を理解したいと願っている。が、限界だらけなので、理解にも限界がある。励ますつもりが引き延ばししてしまわないようにと思う。

最終的にはこの世の中で、自分を理解しきってくれる人は一人もいない。みんな、個々に生まれ、個々に死んでいくもののそれも定めだろう。

が、誰にも理解されない自分だけの苦しみを知っていてくださる方がいる。それが、私たちを神様に似る形、霊的な存在として造られた神様である。神様が交流し、愛する存在として人間を他の生き物とは違って、特別に造られた。

詩篇著者ダビデは上記の聖書のことばのように、神様に祈り、神様を告白している。

この世の中で、私が説明する前から私の思いを知って理解してくれる方がいるなんて…こんな素晴らしいことは分かち合わなければもったいない。

神様、あなたは、私が説明する前からすべてを知っていてくれる方でありがとうございます。私の苦しみも悲しみも孤独も知って理解してくださっているのですね。一人一人が知られているという事実を知り、慰められますように。

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2008年12月 9日 (火)

マイナスメッセージを断ち切る

親がえする大切さを私もお話ししたいと思います。

『神の御霊(みたま)に導かれる人は、だれでも神の子どもです。あなたがたは…子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、「アバ、父。」と呼びます。』ローマ人への手紙8:14.15

私は教会のメッセージの中で、「心の癒し」について教えられなかった。私自身の苦しみや、友人たちの苦しみを通して、神様から教えられてきた。そして、20年前に姉と受けた田中信生先生の「トータルカウンセリング」という講座が私の理解の基本になっているのを思った。

そのノートをとったところから転記してみる。

「私たちは禁止のことば(否定的なことば)を生まれたときから多く聞いている。親の否定的なテープは、親がいなくても、私たちの中で無意識に回っている。大切なのは、新しいメッセージ(神様の聖書のことばのメッセージ)を自分に送っていくことである。そうすると、やがて送らなくても良くなる。親からマイナス禁止令を受けていたが、親がえして、新しい流れで生きるのである。子どもであっても、その真理のエネルギーは人を変え、親をも変える。かわらない親のメッセージに、神様は生きているから逆流していく。」

私は母を赦し、母から解放された気がしていた。(実際、母と和解したときは母が天に召されたときだから母が生きていたら、葛藤が続いていたかもしれない。)

しかし、見えない敵(母によって受けた傷の影響からくるもの)とその後も戦った。私は権威ある人の無理解が赦せなかった。だから、牧師を祈らず、牧師を批判し続けた。3年前、完全に牧師を赦した。手を引いた。期待しなくなった。葛藤はなくなった。求める方、神様だけに求めるようになった。

それまで、半分親がえしてたのが、全部神様に親がえになったのかもしれない(半分ということがあるのか、わからないが)

私にとっては、何かあったら「天のお父ちゃん、聞いてくださいよ」となった。牧師が私の願っていない、私からしたら違うんじゃないかと思うメッセージをしても牧師に目がいかなくなり、「天の父ちゃん!」と与え、教え、養ってくださる神様に行って、安心できるようになった。

「光の中を歩め」のまこさんのブログに「手放す」とあったが、私は母のマイナスのメッセージを手放し、母のメッセージの影響を手放せた。教会に悩み25年位…やっと鼻で息するものでなく、神様に信頼すること、求めることに定まった。

マザー・テレサのことばに、「周りでどんな人がじゃまをしても気にしないでください。問題は私と神様の関係にあるのですから。」とあった。本当に神様との関係の中に解決があるのだと思う。

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2008年12月 8日 (月)

子ども時代をやり直した主人

子どものとき、あんなことしたかった…親になって主人はやり直せたみたいです。

『してみると、あなたがたは、悪い者であっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天におられるあなたがたの父(神様)が、どうして、求める者たちに良いものを下さらないことがありましょう。』新約聖書 マタイの福音書7:11

中学になる私の一人息子は今、将棋に夢中である。多趣味な主人の最大の趣味は子育てで、今主人は息子の将棋マネージャーを勝手にやっている。去年、息子が将棋を始めた頃は、主人の方がはるかに強かった。対局したり、適切な本を買ってあげたり、様々な助言をしていた。が、今では子どものほうが、かなり強くなってしまった。が、息子は気がついていないが、大会で負けたときとか、気落ちしたときとか主人は何気なくフォローし、息子の気持ちを盛り上げる。私ですら、「今日の大会は負け越しだったんだ。残念だね。」と言うと、今日の大会での収穫はこれだったとか、周りからこんな評価を受けたとか話してくれるので、入賞できなかった大会でも「参加できて良かったんだね!」と思えるようになるから不思議だ。

そんな主人が「俺はアンパンマンとかポケモンとか、どうして子どもと一緒にあんなに夢中になれたんだろう。親は子どもと一緒にもう一回子ども時代をやり直し、取り戻すのかなぁ。」と言った。

主人のお母さんは、4人の子どもたちをそれぞれそのままで受け止め育ててくれた。が、お父さんは厳しく、特に長男の主人には一番厳しかったようで、子ども時代のいろいろな要求や願いがあっても、厳しいお父さんの中で制約されていたことも多かった。

息子がアンパンマンが好きだと、我が家はアンパンマン一色だった。私も子どもと同じ精神年齢になって楽しんでしまうので、アンパンマンのキャラクターの話題で我が家は飛び交った。

子どもがポケモンとなると主人も私もキャラクターの名前を覚え、車中でポケモンシリトリをよく3人でやった。私は第一弾の105個しか覚えられなかった気がするが。次のキャラクターシリトリからママはハンディ付きだった。

遊戯王、ガンダム、他多数アニメ、カードゲーム、テレビゲーム、主人はどっぷり子どもと遊んだ。主人も楽しかった。

将棋になって、ゲームもカードも卒業した子どもだが、主人は同じ将棋を共有している。

「子どもと一緒に、自分の出来なかった子ども時代を楽しめて良かったね」と私は思う。そんな中にも子ども時代の癒しがあるのかなぁと思った。

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2008年12月 6日 (土)

ボーダーライン人間の考察

人を理解する、とても難しいことですが、私の求めるものです。

『「だれでもわたし(イエス)について来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。自分のいのちを救おうと思う者は、それを失い、わたしのために自分のいのち自分のいのちを失う者は、それを救うのです。」』新約聖書 ルカによる福音書9:23.24

まえにボーダーラインの話しをブログで書いた。(9/21.10/5)私は教会にかろうじて通っているが、教会の外にいるクリスチャンのほうが理解できる人間(元気に教会に通っている人たちに何故か居心地良さを感じない、神様は100%素晴らしいが…)だということ。それを教会の中と外の間にいるボーダーラインで表現した。

この記事を通して、「光の中を歩め」のまこさんやノンクリスチャンの友人に共感して頂いた。元気すぎる人の中にはどっぷり入りきれず、かと言って痛み過ぎてるところにも入りきれないと。自分の立場を理解してくれる人がいるのは大きな励みとなった。

そんなボーダーライン人間の考察である。ABCDの人がいる。A(教会で元気に問題なく過ごす人)、B(教会の元気さに馴染めず、それでもなんとか教会に行っているボーダーライン人間)、C(教会には行けない…というか行かないクリスチャン)、D(教会は勿論、人間社会からはみ出している、社会適応が難しいクリスチャン)。

かつて私はDの領域の人と接していた。

彼をDさんとする。Dさんは親から虐待されて育った。社会適応が難しく、幾つかの教会からも出入り禁止状態になっていた。依存的傾向が強く、私にも一時、四六時中電話がかかってきた。男性だということもあり、最終的には私は相談を受けきれないとお話ししたが。

が、彼の信仰=神様への信頼はまさに幼子の如く、シンプルだった。

「sebaさん、神様はみんなのことをイエス様によって赦しているんですよね。ぼく、間違っていないですよね。だから、ぼくも牧師も赦されているんですよね。」

彼は精神的にも病んでる部分があったせいか、言動が一般の人には理解されず、その牧師にも嫌われ、拒絶されていた。が、彼のほうはちゃんと、人間的視点でなく神様の視点で信仰を捉えていた。

私Bは彼の良さが理解できるところもあったが、わからないところもあった。同じ親から虐待された友人CさんはDさんを信仰の目で見て、とても良く理解し、祈っていた。

私はまずCの領域の人と交流し、痛みと傷の理解を深められるように祈ろうと思っている。

B(ボーダーライン)にはBの負う十字架(イエス様の一部を負って役割を果たすこと)がある。一足飛びに、DとかEとかまで理解出来ないかも知れない。それでも人の痛みを理解したいと願う。そして、神様が私を変革してくれ、その理解を少しずつ広げられることを願う。それが私のイエス様から預かった小さな十字架だから。

神様、私の痛む人へ理解は限界がありますが、神様はすべての人の痛みと苦しみをご存じなことを感謝します。教会の中の人のなかには、教会に来ている、来ないで信仰を判断している人もいるかもしれません。が、神様は人の心を見ています。教会の外にいる人たちの与えられている信仰を祝福してください。

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2008年12月 3日 (水)

「何のために生きているか?」

「何のために生きているか」聖書はこの大問題の答えを持っています。

『その永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ることです。』新約聖書 ヨハネの福音書17:3

「何のために生きているのか」大学中退し、大都会東京に出てきた私は、にぎやかな東京のど真ん中で、一人ポツンと毎日そのことばから考えていた。

「何のために生きているか」家族に愛され、毎日が楽しい人には決して湧いてこない問いではないのか?

あの五里霧中のなかで毎日私は苦しみもだえた。そして、にっちもさっちもいかないドンズマリの中でイエス様に会った。その日が「私は何のため生きているか」から、「誰のために生きているか」に変わった日である。

この前、親に虐待された友人に会い、彼女が「何のために生きているかはわからないが神様に生かされているんだよね。」と言うようなことを言った。「何のためにって、神様に愛されるためじゃないの?」と私はペロリと要らぬことを言ってしまった。それは彼女がゆっくり探せばよい話しだった。

私はイエス様に会った日、本当に「何のために生きるか。」はっきりわかり、「今日から神様のために生かしてください。」と祈ったし、その日以来私の気持ちは神様のため生きると定まった。

が、同じクリスチャンでも、その見い出す時、場所、そしてもしかしたら答えも違うのかも知れない。

「何のため生きているか」わからずに生きることは私には耐え難い。アウシュビッツの収容所かどこかで、人々に課した労働がレンガを一方に運び、また、元のところに戻すと意味の無いことをさせ、苦しませた話しを聞いたことがある。意味が分からず、繰り返すことほど、苦痛なことはない。

だから、人々は「何のため生きているか」わからないまま、毎日同じ繰り返しをよく出来るなぁと感心する。

求めるものに与えてくださる神様、「何のために生きているかわからない」と苦しむ人々に神様の永遠の答えを与えてください。今、毎日が楽しくてそんな問いを考えたことがなかった人も、病や困難や死が近づくと考えるのだと思います。すべての終わりがやってくる前に、「何のために生きているか」この人生の大宿題に解決が与えられた人は幸いと思います。神様、闇の中、孤独の中、苦しむ人に「神様が答えだ」と現れてください。あのヨブがすべてを失い、苦しみの中で圧倒的な神様の現れを見い出したように。

『私(ヨブ)はあなた(神様)のうわさを耳で聞いていました。しかし、今、この目であなたを見ました。』ヨブ記42:5

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2008年12月 1日 (月)

友人との大喧嘩の産物

雨降って地固まる…とありますが、私はある友人と大喧嘩して私が変えられ、相手を少し理解できるようになった気がします。

『友はどんなときにも愛するものだ。兄弟は苦しみを分け合うために生まれる。』旧約聖書 箴言17:17

私には親から虐待を受けてきた友人たちがいる。私は親からの過保護過干渉の傷、そして親から理解されない傷を受けてきた。だから、集まると傷や癒しなど、共通の話しが多い。そして、共に祈ってきた。

去年の暮れ、ちょっとしたすれ違いから私の中でその関係がギクシャクした。

そして10月、その一人の友人と大喧嘩になった。「もう、電話切っていいかな。」「いいよ。」

彼女の叫びは全くわからないでもないが、なんか私の大事にしている信仰まで否定されたようで悲しかった。が、心の底には、「2人ともそのままで愛してるよ。」という神様からの平安があった。

メールや連絡も途絶えたが、もう一人のSOSの祈りのメールで、再び、3人がつながった。

私もアダルトチルドレンというもので、傷や癒しは同じだとなんとなく思ってきた。が、家に居場所が全くなく、家で深いダメージを受けてきて、今なお見えない何かと戦っている彼女たちが背負っているものは、私の傷とはまた違うのだとこの混乱の関係の痛みの中で知った。

なんとなく気持ちよく、楽しく付き合えないなら付き合わなくてもいいんじゃないの?そんな疑問が湧いた私だったが、「あなたはどこにいたいのか?」神様から問われた。「イエス様がいるところです。」(ヨハネ12:26)

私たちの3人の関係は回復した。というか、たぶん、私が変えられた。

2人は私のためにいつも祈ってくれている。私もまた、2人のために祈る。

私は自分にとって未知な世界の話しを聞く気持ちに変わった。そんなつもりはなかったが、それまでは「癒されたわたしが教えてやろう」というプレッシャーだけを彼女たちに与えていたのかも知れない。

神様のことばを聞くように、友のことばを聞くと、私と違う感じかた、私と違う考えかたが少し理解出来るようになった気がする。

私は長い間、神様に聞いてきたが、もっともっと友人たちを理解するため、訓練され始めているのかもしれない。

神様の導きを感謝します。忍耐し、受け入れ祈ってくれた友を感謝します。私と優しく、温かい関係だけが友だちの関係ではないことも感謝します。うわべでなく、本当の互いの祝福を祈り合える関係を感謝します。また、私を造り変えて、人への理解を少しずつ広げてくださることも感謝します。イエス様がいるところに私もいられますように。

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孤独の叫びの先に

孤独には幾つかの種類があると考えています。人に受け入れられない孤独、神様に出会わない孤独、罪を犯したときの神様からの断絶の孤独…イエス様の孤独だけはただ私たちのために経験された物でした。

『イエスは大声で…叫ばれた。「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」』新約聖書 マタイの福音書27:46

神様を知らなかった頃、私は孤独だった

親に受け入れられず、心のセンサーは壊れていた

たくさん優しい友はいた…が孤独は付きまとった

大学中退、東京に出てきて私は孤独だった

一日中誰とも話すことなく過ごし、私の友は日記だった

人が居ても居なくても私の孤独は変わらなかった

夜な夜なお酒を飲んで 日記に孤独の思いを書きなぐった

孤独のどん底…もう生きていけない…そんなとき神様に出会った

その日私の内から愛されてる温かいものが溢れて私を包んだ

神様を知っての日々の中たくさん神様を悲しませてきた

神様が遠くに感じられる日々もあったが神様の私への思いは変わらなかった

今神様が近くに感じられる

どんな友より神様が私の相談相手

イエス様はたくさんの孤独を経験された

弟子に裏切られ、偽証され、人に罵られた

父なる神様が共にいてくださることがイエス様の支えだった

が十字架の上で叫ばれた

「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」

肉体的苦痛と共にイエス様はこのとき霊的な苦痛を体験された

神様と断絶することで

しかしその耐え難い孤独は私たちのためだった

「あなたの孤独は私が引き受けた。赦しを受け取り神様の父なる愛を受け取りなさい。」

イエス様は今日もこのように語られる

誰によっても埋まらない孤独な心にキリストによる神様の愛が溢れますように

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2008年11月30日 (日)

今の社会、弱さを知ってる大人が必要

子どもたちの闇もまた、深刻な世の中です。

『悩んでいる者や貧しい者が水を求めても水はなく、その舌は渇きで干からびるが、わたし、主は、彼らに答え、イスラエルの神は、彼らを見捨てない。…わたし(神)は荒野の中に杉や、アカシヤ、ミルトス、オリーブの木を植え、荒地にもみの木、すずかけ、檜(ひのき)も共に植える。』旧約聖書 イザヤ書41:17~19

世の中は格差社会になり、貧しい人は益々貧しく生きにくくなっている。犯罪は横行し、社会の闇は子どもたちもとらえる。

いじめ、不登校、ひきこもり…子ども社会全体ももろく、壊れやすく、暗い影を落としている。

最近、我が息子が通う中学も、少し荒れてきて、4〜5年前の再来かと保護者たちには不安が走る。

核になっている子どもの家庭背景を聞くと、みんな子どもたちが渇いている。不登校の子どもも学年に何人もいると聞く。

今日のライフライン(キリスト教テレビ番組)で玉川キリスト教会の福井誠牧師は、何年かそのように悩みを持つ地域の子どもたちの相談を聞いてきたという。福井牧師は言う。

「子どもの悩みを聞いて、悩みをすぐ解決しようとしない。悩みをかかえて生きていくことが大事。ひきこもりでもすぐ解決しないで付き合う覚悟で別の道が見える。」と言われた。

クリスチャンは聖書からすぐ結論を出しやすい。私もたくさん過ちを犯してきたかもしれない。「どんなことでも益となる」と言うのは、苦しんだ人が告白に至ったとき、そのようになったので、周りで苦しんでいる人に言うことは違う。そこには、共感がなく、「聖書にはこう書いてあるから、あなたは苦しんではいけない。」というメッセージになる。私も失恋した直後で、心がつぶれるようなとき、そのことばを聞いて唖然としたことがある。(その方は慰めようとしてくれたのは理解できたが。)

イエス様はどんな試みや苦しみにも共感され、同情された。

中学で悪さをする子ども、不登校、ひきこもりの子ども、誰も好きで選んでそうなったのではない。本来地域の教会こそがそのような弱さを負う子どもたちの助けが出来れば…と思う。が、現状、弱さを担う大人たちが教会からこぼれてしまっている状態だから、そこまでいかない。

弱さを知ってる大人が必要である。弱さを体験しているクリスチャンの祈りが必要な世の中である。

今朝、「私はそんな子どもたちのために何かしたい!」と思った。さっき、地域の会議が終わった後で、元教師のご婦人が、「私は今、不登校の子どもに理科と数学教えているから、誰にでも必要な子どもがいたら、声かけてください。」と私のところに言って来てくださった。神様、感謝!

神様、闇の中で、光を求める子どもたちに、理解と居場所と愛と祈りと共に動く大人を与えてください。

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2008年11月28日 (金)

自己像のダメージからの回復

私たちは自分をどんな風に見ているでしょうか。

『わたし(神)の目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。』旧約聖書 イザヤ書43:4

みんな自己像を持っている。それをセルフイメージと言うが、それが幼少時代周りの人、特に両親によって傷つけられ、ダメージを受け、低い人がいる。

私自身、母親と価値観が違い、そこでぶつかっていたので、「お前はお前であるな」というメッセージを受け取り、100%自己否定の人間だった。

神様にあってから、「あなたの足りないところ、弱いところ、不完全なところは十字架によって全部赦すよ。だからあなたは足りない、弱いそのままでいいんだよ。」と言われ続け、セルフイメージ(自己像)は高くなった。

どこかの本に書いてあった。「不完全な親の目で自分を見る、それは偽りであり、間違った見方である。完全な神様からの目で見た自分が正しい本来の姿である。」

してみると、聖書では「神様の目から見たら、あなたは高価で尊い存在だよ。」と言っている。これこそ、私たちの真実のセルフイメージ(自己像)である。

私も100%自己否定、自己嫌悪が占めていて、聖書のことばが真実とわかっていても、ダメージを受けた感情のほうが優先された。

今、私は足りない自分も含めて100%自分が好きだし、受け入れているし、肯定感に満ちている。惨め、恥ずかしい、隠したい、そんな感情はなくなった。長年かけて、親の目で自分を見る習慣から、神様の目で自分を見る習慣に変わった。

親を赦すと言うことは、虐待を受けてきた人たちには、律法の何者でもないらしく、そのアプローチはタブーらしい。が、私の経験では、親の見方、メッセージを切り離す、手放すために親を赦すという必要性があった。

赦すのは、人間業では不可能で、神業と信じているが、そのことが苦しむ人々に起こるよう祈る。

聖書のことばに影響され、支配されていくと、頭の中で繰り返されていた親のメッセージテープは神様のメッセージテープに変えられる。

神様、神様が見るように、自分を見れるようにしてください。自分に対する間違ったメッセージを主のお名前で切り離してください。今まで親との関係の中に生きていたものを、神様との関係に生かしてください。求め祈ります。

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深い闇がおおう時

イエス・キリストは明るく楽しいところに来たのではありません。深く、深く闇がおおうところに光として来られました。

『やみの中を歩んでいた民は、大きな光を見た。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が照った。…ひとりのみどりご(イエス・キリスト)が私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。』旧約聖書 イザヤ書9:2、6

一昨日、クリスチャンの友人2人と会った。2人とも、親から虐待されて育ち、未だに苦しみの中で、神様に祈り生きている。5日前は、もう20年以上の付き合いになるクリスチャンの友人と会った。とても真面目で仕事を頑張る女性だが、うつになり、しばらく休職して、今、復帰している。彼女のお母さんが幼い人で、彼女は子ども時代から親をやり続けなければならなかった。彼女に本当の子ども時代はなかった。

ブログお友だちになったまこさんもお母さんのことで苦しんでいる。

子ども時代一番安心し、リラックスし、子どもらしく生活することが大切なのに、大切な私の友人たちはその家庭でダメージを受け苦しんでいる。

イエス様は深い深い闇の中に、光として来てくれた。その闇は、他の誰にもどうすることもできないほど深く、悲しく、苦しい闇だ。

そしてイエス様だけがそこを照らし、明るく、温かくできる。

紀元前700年代、イエス・キリストが誕生する700年前、預言者イザヤは神様の霊によって、上記のことばを預言した。それは苦しみに会い、うめく捕囚、イスラエルの民の解放を告げるものだった。が、神様はイザヤを通して、今の私たちに語る。

イエス・キリスト=私たちの苦しみから解放する方は来られた。彼はあなたが生きるための最大の助言者になる。彼は力があり、あなたのことを責任をもって養う父となる。あなたはキリストによって、その心に揺らぐことない、決して誰にも奪われることのない平和を心に与えられる。

今日、闇の中で悲しみ、痛み、苦しむ人にイエス・キリストの光が差し込み、希望が照らしますように。

神様、家族関係で傷んでいる人のために祈ります。温かい家族で育った人にはわからない内なる苦しみが捕らえ、縛っています。なぜ、苦しまなくてならないでしょうか。イエス様によって解かれ、自由となれますように。『彼(キリスト)への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。』イザヤ53:5とあります。このみことばのとおりになり『苦しみにあったところに闇がなくなる。…異邦人のガリラヤは栄光を受けた。』9:1このみことばのとおりにしてください。

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2008年10月31日 (金)

苦痛の経験が産んだもの

何故、私たちは苦しみに出会うのでしょうか。

『もし私たちが苦しみに会うなら、それはあなたがたの慰めと救いのためです。』新約聖書 第2コリント人への手紙1:6

「姉さん、僕頑張ったからね。」とおじさんが母に話しかけるのを聞いてしまった。

両親が生前の時、父の退職祝いで、親戚が一同に集まったときだったと思う。おじさんが、私に「お前はいったい、何がしたいんだ。」と聞いてきた。私は自分の将来に対する正直な気持ちを話した。その答えとして、おじさんが何を話したかは一切覚えていない。

つまり、母は娘が理解に苦しむ選択ばかりするのを心配して、おじさん(母の弟)に説教を頼んだらしい。

いつでも娘の思いを聞ける近い距離にいながら、全く理解が出来ず心配し、気を揉む母に、どこまでいっても、水と油のように接点がなく、理解してもらうことは出来ないんだと、その現実を改めて突き付けられた気がした。

母は我が子を心配し、母なりに愛情を注いでくれた。が、そのときは、一番理解してほしい人に理解されないことに悶々とした。その影響は大だった。理解されない私はすさんでいった。

「5つの目的」の本に「苦痛の経験こそ、神があなたをミニストリー(奉仕)へと準備させるために最もよく用いられる経験です。神は決して痛みを無駄にはなさいません。」とある。

私にとって、理解される、理解するということは、とても大切なテーマとなった。神様に理解され、人を理解したいと思うようになった。…もちろん、限界はあると思うが。

あの母から理解されない渇望が、理解したい渇望へと変えられた。

もし、苦しみがあるならば、誰かの慰めと救いへとなりますよう、祈ります。

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2008年10月15日 (水)

モーセの十戒…その恵みシリーズ5

偶像礼拝の誘惑は、私の中と外に満ちています。

『あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神…。わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施すからである。』旧約聖書 出エジプト20:4.5

わたしたちのまわりには、偶像で満ちている。誰かが立派だとか、素敵だとかというので特別に崇めるのも偶像に仕えていること。私は、教会のリーダーとされる人に、あまり尊敬する人を見い出さなかった。あるときはとても失望した。けれども、もし尊敬する人がいたら、神様より人に重きをおいてしまったかもしれないと最近思う。偶像礼拝の誘惑から守られたのだと感謝している。

また、自分の中に、長年一部の人から認められたいという思いがあった。父不在の家庭の傷と思う。人から認められたいという欲求も、また、むさぼりの罪、偶像礼拝と教えられた。が、なかなか癒されない。

そんな中で、『あなたはほかの神を拝んではならないからである。その名がねたみである主は、ねたむ神であるから。』出エジプト34:1という聖書のことばから教えられた。

私が神様のしもべとして立たず、人に取り入ろうとしているのは、ねたむ神様の前に違うものを選んでるということだった。神様との関係こそ私にとって大切なことだった。

ねたむという言葉は、あまりいい意味で使われないが、この場合、神様の良いもので満たしたいという神様の愛情を感じる。正しく揺らぐことなく評価してくれる神様に心が定まった。

『ほめられたり、そしられたり、悪評を受けたり、好評を博したりすることによって、自分を神のしもべとして推薦しているのです。』第2コリント6:8

Hana0877

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2008年10月13日 (月)

子供の障害を一緒に背負う母

お母さんの心の責めがなくなりますように。

『キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから購い出してくださいました。なぜなら、「木にかけられる者はすべてのろわれたものである。」と書いてあるからです。』新約聖書 ガラテヤ人への手紙3:13

私が主人と結婚することになったとき、主人のお母さんから手紙をもらった。「息子は障害がある(右手を切断した)から、結婚は出来ないと思っていた。ありがとう。」という内容のものだった。

主人は、ハンディがあったが、お母さんが何でも一人でやれるように厳しく、優しく育ててくれた。だから、今では車も運転するし、パソコンは上手いし、私よりはるかに出来ることが多い。

数年前、お母さんは、地元の日報新聞の応募に募集し、原稿が採用になり、その日報社の出版の本に載った。

主人が3才のときに右手を切断し、入院していたときの描写だった。『「ボク我慢するから…」と左手を口いっぱいに押し込んで痛みに耐え、泣き声を漏らすまい、としている。慌てて口からはずさせ、…息子を背負って真夜中の診療所を抜け出した。「痛いね。ここなら我慢しなくていい。大きな声でいっぱい泣いて… 」』そんな息子と母にフクロウがスローテンポで愛嬌も感じられ温かい鳴き声で鳴く。そこで「あれは何か」としばし息子と彼を背負う母は会話する。

お母さんにとっては忘れられない夜だったのだろう。

「長男の不幸を一生涯かけても償いきれない私は、黄泉への旅路も、この悲しみだけは背負っていかなくてはならない。三途の川のほとりで、またあの夜のように大木の上から慰め、励ましてほしい。ゴロスケオッホー、と。」と文を閉じている。

主人が今、こうしているのは、お母さんの愛情のおかげだし、主人はお母さんに多大なる尊敬をもって、感謝している。

お母さんが裁かれるようなことはないと思うけど、もしその心に責めがあるなら、イエス様が代わりにのろいの木にかかってくれた。すべてが赦されている。黄泉に行かず、息子家族と天国へ行こうよと話したい。

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2008年10月12日 (日)

誰かに打ち明けたい思い

人が人に何かを打ち明ける、そのことによって重いものが軽くなる、そんなこともあるのでしょう。

『私の言うことを耳に入れてください。主(神)よ。私のうめきを聞き取ってください。私の叫びの声を心に留めてください。私の王、私の神。私はあなたに祈っています。』旧約聖書 詩篇5:1.2

「自分のことを人に話したからって、何も変わらない。」とある友人が言った。「変わるとか変わらないでなく、分かち合うことによって何かが違ってくるのではないかしら。」と私は心の中で思ったが、返すことが出来なかった。

人は人との関係の中に支えられて生きている。心が悩んでいる人は、カウンセラーのところに行って、話しを聞いてもらい気づきが与えられる。クリスチャンの癒しのためのグループでは、自分が話しをするとき、まわりの人は何も言わずに聞いているらしい。誰かに聞いてもらう中で、受け入れられてる体験をし、自分を受け入れていくのかもしれない。

工藤氏の「人を知り人を生かす」の本の中で彼はこう言う。「私たち人間は、不都合を隠したい衝動と同じくらい、打ち明けたい本能を持っている。…疎外と外傷に満ちた現代は、心おきなく自分を受けとめてくれ、その胸の中で泣くことのできる人を求めているのではないか。…一つの秘密を語った時、そこから解放され、もう一段高いレベルに足を踏み入れていく。」

私のカウンセラーは神様だった。悲しい時、苦しい時、迷った時、悩んだ時、いつも、すべてを打ち明け、聞いてもらってきた。

人は神様に造られたから、神様と話(祈る)したいように出来ていると私は思う。

そして、人と人で深いところで分かち合えたとき、一人ではない喜びが与えられるのだと思う。

人と人が深いところで分かち合うとき、その全部をそのまま聞きたいと思う心が大切だ。ときには、私も深い秘密を話すことで分かち合えることもある。私が弱さを出すことで分かち合えることもある。

神様が私の話しを全部聞いてくれたように、私も聞いて祈る者となりたい。

Hana0928

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2008年10月 6日 (月)

孤独から解放される2

昨日、前のブログ「孤独から解かれる」で、質問を受けましたので、私のつたない体験ですが、そこからもう一度書きます。

『あなたのうちのある者は、廃墟を建て直し、あなたは古代の礎(いしずえ)を築き直し、「破(やぶ)れを繕(つくろ)う者、市街を住めるように回復する者。」と呼ばれよう。』旧約聖書 イザヤ書58:12

底はかとない深く恐ろしい程の孤独は、経験したことのない人にはわからない。きっと、その方は、幸いにして温かい家庭で育てられたのだと思う。

人は関係の中に生きるように造られているが、拒絶、不審、憎悪などは、すでに胎児のときから経験してしまったりすることもある。

詩139篇にあるように、神様はその胎児のときの孤独すら癒してくださる。

一番基本になる家庭の中で、安心した関係作りができ、自分を形成するのだと思う。そこで、温かい関係が出来ていないと、だんだん孤独の穴が広がっていってしまうのだと思う。

私も若い頃は、酒を飲み、「孤独だ!」と泣き叫んでいた。

いちど、空いてしまった穴は、優しい人によっては、決して埋まらないと思う。何故なら、幼少時代に健全に受け入れられなかった人は、人への渇望も強くなり、どんな立派な素晴らしい人によっても、満足できない。

私は神様によって、その穴が埋まった。「神様のみを信頼します。」と神様と共に半世紀歩んだ。

もし底はかとなく孤独の闇にいる人がいるならば、人によってその孤独を埋めるのは難しい。人間、不完全だし、物理的にも四六時中いれないし、何よりその必要を理解したいと思っても限界だらけ。

神様は人を造られ、命を与えたのは、神様の愛を注ぐため。

その誰の手によっても埋まることのない孤独が、知っておられる神様によって埋まりますよう、祈ります。神様は最も孤独な人に、たくさんの愛を注ぎ、最も愛されている人に変えたいと願っています。求めるならば、与えられます。

Hana0905

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2008年10月 4日 (土)

連続幼女誘拐殺人の宮崎勤に思う

殺人犯の罪の重さを思いますが、それを更正させる神様の愛と赦し、その希望の約束を思います。

『私は切なる思いで主(神)を待ち望んだ。主は、私のほうに身を傾け、私の叫びをお聞きになり、私を滅びの穴から、泥沼から、引き上げてくださった。』旧約聖書 詩篇40:1

今日、講演で、連続幼女誘拐殺人で死刑になった宮崎勤のことが話された。彼は手のひらを表に返せない障害を抱えていた。7人家族で、忙しい両親に代わり、住み込みの仕様人と祖父に育てられる。家は地元新聞社経営で裕福で、祖父は町会議員を務める地元の名士であった。ちゃぶ台で生活していたが、家を建て変える際、それを家の人は捨てた。そして、4人座りのダイニングテーブルを買った。宮崎勤は、捨てられたちゃぶ台を拾ってきた。その上で幼児を殺害したとのことだった。

幼児たちを殺したことに、釈明の余地はないが、ちゃぶ台を囲んでの暖かい会話が家庭にあったら…と思う。

今日のハーベストタイム(キリスト教番組)でアルゼンチンのある刑務所の話しがあった。270人の囚人全員がクリスチャンになった。聖書を中心に運営をしている。その中の一人は、2人の人をコンクリート詰めにして殺人を犯した。イエス・キリストに出会い、人生が変わり、「神様の自分への計画のために生きたい。」と言う。

「ここにいる人たちは、穴に落ち込んだ人のようで、上を見上げると、引き上げ助ける神様がいる。」と牧師たちは話す。

神様は、キリストの十字架によって、どんな罪も赦すために、キリストを送られた。私の小さな嘘や争いのためにも、極悪非道な殺人をも、同じように赦すために来られた。私の罪が赦され、神様の平安が心に満ちるように、彼らもイエス・キリストの十字架刑のゆえに、赦され、平和が心に訪れる。まさに、人の力によらず、神のなさる業である。ハレルヤ!

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2008年9月23日 (火)

モーセの十戒…その恵みシリーズ2

私たちの人間関係の基礎となるのは、良くも悪くも両親との関係です。

『あなたの父と母を敬え。あなたの神、主が与えようとしておられる地で、あなたの齢(よわい)が長くなるためである。』旧約聖書 出エジプト記20:12

モーセの十の戒めのこれは、5番目になる。1〜4番目は神様に関する戒めであり、ノンクリスチャンの方には、さらに取っつきにくいと思うので順番を変えた。5番目からは、人に関するもの。

私は聖書の中でできないことだらけだが、このことばは従いたくない、嫌悪感すら示すことば(神様の命令)だった。

今までブログに書いてきたように、幼少時代の両親からの影響は良いものではなく、結果、20歳の頃は、全自己否定、自己嫌悪の人間になってしまった。大きな環境の親を恨むような者だった。そんな親からの呪縛を神様は一つ一つ解いてくれた。

気がつくと、私は過去の父、母を赦し、新しい天のお父さん(神様)から良いものを受けるようになっていた。

「父、母を敬う気持ちにはなれません。」と祈ったことはなかったが、十戒の第5番目が何故これなのかわかった気がした。

父、母を敬えない人も神様に癒してもらい、赦せるようになったとき、実はとてつもない縄目から解かれ、自由にされるのだとわかった。

ある人たちにとっては、聞きたくない戒めかもしれないが、神様のレントゲンでその心を照らし、癒してもらい、「父、母を敬います。」と告白できるよう、神様は願われ、計画されている。ただ、その幸せのゆえに。

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モーセの十戒…その恵みシリーズ1

旧約聖書には厳しい神様の律法が書かれてあります。が、それは私たちを裁くためでなく、癒すため、本来の私たちに回復させるためのものです。

『それでモーセは民に言った。「恐れてはいけません。神が来られたのはあなたがたを試みるためなのです。また、あなたがたに神への恐れが生じて、あなたがたが罪を犯さないためです。」』旧約聖書 出エジプト記20:20

聖書は神様から私たちへのラブレターと言われる。

旧約聖書では神がイスラエルの民に律法を語り、守り行うようにと言う。

私が旧約聖書の時代に、その世界に生きていたら絶望的である。神の厳しい命令を守れず、石打ちの刑に処せられているだろう。では、旧約の救いは何か。

病気をしたとき、検査をする。レントゲン、尿、血液検査…。どこに、問題があるかチェックして、そこにあった処置をする。ときには、大手術となる。

新約の時代、キリストは私たちが、十字架の出来事を信じるだけで赦される。が、その罪という病魔を発見し、自分で認めなくては、赦しは無効となる。自分で自分の間違い(罪)はなかなか気がつかないから、神様の言葉に照らしてみる、神様の力(聖霊)に頼るという方法が必要になる。Hana01

私たちが赦され、正しいと認められていくとき、私たちは自分で傷つけてきた罪による自分のイメージから回復し、健全な愛されている存在としての本来の自分のイメージを取り戻す。

そのために必要なのが、私たちに潜む病魔(罪)の発見であり、旧約の神様の律法は、レントゲンのように役にたつ。そして、その病魔発見ののち、キリストの血潮という薬で塗れば、完全に癒される(赦される)ので、発見しても大丈夫なのである。以上を踏まえて、モーセの十戒をみていきたい。

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2008年9月21日 (日)

苦しみのボーダーライン

一つの集団があれば、中心にいる人もいれば、ギリギリ内側にいる人もいます。

『それどころか、からだの中で比較的に弱いと見られる器官が、かえってなくてはならないものです。また、私たちは、からだの中で比較的に尊くないとみなす器官を、ことさらに尊びます。』新約聖書 第1コリント12:23.24

私は一人でいると、聖書や神様のことばかり考えている、キリスト教バカなのだけれども、いくつかの教会に通ったが、いつもなかなか馴染みきれない苦痛を経験してきた。そして、あるとき、とても驚くような大きな発見をした。

多くの教会には、立派で意志の強い、努力家な、また、活発で元気な方々が集われている。私と言えば、神様には拾ってもらったものの、意志は弱く、たくさんの傷があり、神様の世界にまず、受け入れられることが大事で、その神様の決まり事(律法)に言われて従うのは違うだろと思っている。意志や努力で生きてこられたら、教会に来ていないよと反発の感情を抱いていた。月日の流れる中、私なりに、何が大切でどこに立てばよいかわかったが、多くの教会の中では異端児のような存在だ。

そして、あるときわかったことが、教会において、私は“ボーダーラインの人間”ということ。

上記の聖書のことばについて、以前8月9日のブログに書いた。「弱い人が大切にされている集団は本来神様の望まれてる健全な集団」と。

イエス様は「私は健康な人でなく病人のために来た」と言われたのだから、教会も弱い人が来ても良いところと思う。が、健康な人、力がある人は弱さを担い生きていくのがしんどい人の気持ちがわからない。

私は教会にはかろうじていける元気な人だが、こぼれてしまった人とも接触するボーダーラインの人間だとわかった。

もし、誰かがある集団で、そこにいるのが苦しいと思うなら、その集団が成長して広がるためのボーダーラインにたっているのかもしれない。

Hasu

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2008年9月17日 (水)

私に与えられた神様からの役割

すべての人が、計画され、生まれました。そして、特別な計画を与えられています。

『飢えた者に心を配り、悩む者の願いを満足させるなら、あなたの光は、やみの中に輝き上り、あなたの暗闇は、真昼のようになる。主(神)は絶えず、あなたを導いて、焼けつく土地でも、あなたの思いを満たし、あなたの骨を強くする。あなたは、潤された園のようになり、水のかれない源のようになる。』旧約聖書 イザヤ書58:10~11

今から25年前、私がクリスチャンになったとき。「神様、私は神様のどのような使命に生きていったらよいでしょうか。」と尋ねたとき、教えられた聖書の箇所がイザヤ58章だった。何か悩みがあると、神様が私に計画しているこの約束の聖書の箇所を何回も何回も開いてきた。私が何のため生かされているか、原点に戻る場所だ。

約束のとおり、長い月日を通して、私の傷が癒され、私の暗い過去が、誰かの慰めになるように神様はしてくれた。

そして、今、心の中には、泉のように、小さな穴から水が湧き上がり、溢れるように、神様の愛と、安らぎと喜びが溢れている。

かつての私の心は、不安、恐れ、憎しみ、悲しみ、失望、憂うつ、自己否定、他者否定、妬み、さばき、言い訳…様々なものに満ちていた。そして、私は一生、この暗い、重たい気持ちを引きずり、ごまかして生きていかなくてはならないのか…と思いこんでいた。しかし、キリストは十字架でそれらを持つ私を赦し、きよめてくださった。

だから、すべての人にこの喜びや安らぎは約束されている。なぜなら、私がこの癒しを自分の力で得たのではなく、神様が一方的に愛と力をもって与えてくれたのだから。

悩み、苦しむ人に、求める人に、いのちの泉が湧き溢れますように。与えられている特別な計画を知れますように。

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2008年9月12日 (金)

良い行いにまさる自己受容

人間関係の中で、もっとも大切なのは自己受容です。なぜなら、自分を受け入れてる分しか、人を受け入れられないからです。

『ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによるあがないのゆえに、値なしに義と認められるのです。…人が義と認められるのは、律法の行いによるのではなく、信仰によるというのが、私たちの考えです。』新約聖書 ローマ人への手紙3:24.28

私が正しい神様から受け入れられているのは、私が良いことをしたからでもなく、正しい人間だからでもない。むしろ、神様の前に、怒りを買うようなひどいことをしたことを、私が認め、イエス様に赦してもらったところによる。

けれどクリスチャンとしてあるべき姿を要求されると、息苦しくなってしまう。自由でなく、親にうるさく言われ続けた束縛と似たものを感じる。良い行いを強いられることに、ずっと違和感を感じてきた。

ニール・アンダーソンの本で、人間関係の成長は、「受容→赦し→兄弟愛」「どうあるべきかを尋ねず、何をするべきかを追求すると、成熟する前に行動するのでゆきずまる。」とあった。

自分の足で歩き、アイデンティティーを確立することが、行いに先立つ。私の心の癒しの旅も、自己受容(自分がそのままでいい)→他者受容(相手がそのままでいい)→兄弟愛(神様の愛に応答して、誰かのために仕える)のプロセスを経た。

傷をもっている人は、何にもまして、自分を受け入れていく、自分の弱さを認め、赦していくことが、人間関係において、行いにまさって優先されることと思う。

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2008年9月10日 (水)

過去を振り返られる恵み

過去を振り返るとそこに神様が共にいてくれたことを今思います。

『わがたましいよ。主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。主は、あなたのすべての咎を赦し、あなたのすべての病をいやし、あなたのいのちを穴からあがない、あなたに、恵みとあわれみとの冠をかぶらせ、あなたの一生を良いもので満たされる。』旧約聖書 詩篇103: 2~5

ブログを始めて、私は自分の忘れていた過去を思い出すことができている。そして、心がたくさん癒さた今、過去を振り返るとき、不思議と今までと違った過去が見える。

20年前、カウンセリングのセミナーを受けたとき、自分史を書いてくる宿題があった。そのとき、私は小学4年ときに父が病気したところから先が書けなかった。たぶん、その悲しい出来事をまだ、受け止めきれなかったのだと思う。その後、母との関係の回復、父との関係の回復があり、この2〜3年、父との影響からきた傷、母との影響からきた傷、この2大傷口が癒された。クリスチャンになって、癒しの旅が始まり、25年たっていた。

だから、癒しは影響を受けた年月以上にかかるのかもしれない。が、求めるならば、少しずつでも癒されていく…ということを私は信じている。

過去は変わらないかもしれないけれど、癒しとともに、過去の持つ意味が変わるのかもしれない。辛く、苦しく思えたことも、今、誰かの慰めに少しでもなるならば、私の過去にも神様の愛が満ちている。

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2008年9月 8日 (月)

拾った仔犬と新しい家

私たちは小さな生き物によって、たくさん慰められています。

『そして神は、「われわれに似るように、われわれのかたちに人を造ろう。そして彼らに、海の魚、空の鳥、家畜、地をはうすべてのものを支配させよう。」と仰せられた。』旧約聖書 創世記1:26

姉が中学のとき、白い捨てられた仔犬を拾ってきた。「飼いたい。」と母に頼んだ。昔から、母は動物は飼わないと言っていたので、許可はもらえないと思った。が、「動物は先に死ぬからいやなんだよ。可哀想で…。」と言っていたが、どういう訳か飼うことになった。

犬小屋もなく、夜は玄関にいれて、可愛いがった。が、貸家だったので、玄関が傷がついて、私たちは大家に追い出されることになった。

今、思うとそれから母の持ち家計画が始まったのだろう。ある日、私と姉は一度も見たことも行ったこともない場所だったが、学校帰りに待ち合わせて二人で地図をたよりに新築の家に行った。その日からそこが私たちの住まいだった。

姉はその家に、高校3年間、私は中学、高校6年間住んで離れた。両親と犬のシロが残り、結局最後にシロの面倒をみたのは母だった。

母はよく口癖のように言った。「シロのおかげで、家を建てることになって、ありがたいねぇ」母が親戚に相談して、いろんな苦労をして家を建てたのだなぁと今になって思う。

そんな中で、シロは父、母の慰めになってくれたのを思う。シロは母に看取られ生涯を終えるが、犬は居るだけで、癒し、慰めてくれる不思議な存在だと思う。

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2008年9月 6日 (土)

蛇と闘った母

不完全な親ではあっても、たくさんのことをしてもらい、今の私がいることを感謝しています。

『彼女(妻)は家族の様子をよく見張り、怠惰のパンを食べない。その子たちは立ち上がって、彼女を幸いな者と言い、夫も彼女をほめたたえ…。』旧約聖書 箴言31:27.28

私の心の傷、そしてその癒しの話しで、母がよく登場する。母を悪者にしてしまってる傾向があるが、父が病気で、父の面倒を見ながら子ども2人を育ててくれた立派な母だった。価値観が全く合わなかったことが、私にとって、少し不幸だったが、今ではたくましい母に感謝している。

小学6年のころ、貸家に住んでいた。後ろには土手があった。ある日、信じられないが、60センチぐらいの蛇が家の中に入ってきた。今の私なら、子どもと二階に退散して、主人の帰りを待つだろう。

母はほうきか何かをもって、果敢に立ち向かった。その結果、その蛇が死んだか、逃げたか、あまり記憶がないが、そこに表れるように、母はたくましかった。父が元気なときは、3歩後ろを歩くような、父にひたすらついていく母だったが。

母がしてくれた多くもまた、ブログに沢山書けたらと思う。

私もまた、今、欠けだらけの母親になり、育て方はともかく、子どもへの思いは溢れて変わらない。神様は私をも親にして、育ててくれているのを思う。

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親からの影響を知り癒される

残念ですが、完全な親はいません。その親の影響を少なからず受けて、今の私たちがいます。

『たとい山々が移り、丘が動いても、わたし(神)の変わらぬ愛はあなたから移らず、わたしの平和の契約は動かない。』旧約聖書 イザヤ書54:10

私は基本的には、人間関係は友好的でありたいと思うが、中には、無視する人、攻撃する人、人の批判をして自分を保つ人、いろいろいる。相手理解として、私が思うことは、「この人は親からそのままでいいよ、と受け入れられず、育った人なんだなぁ。」と思う。私や友人の傷の多くが成育過程で親の影響から来ているからだ。そして、かつてカウンセリングの勉強でもそのことを教えられた。

その資料から。Pは交流分析のペアレント(親的自分)、Cはチャイルド(子ども的自分)。過保護、過干渉の親に育てられるとPは同じように面倒みがよい、Cとしての現れは攻撃的(自立への叫び)=かつての私がこれだった。口論する親に育てられた人のPは喧嘩相手を探す、或いは逃げ出す傾向。無関心な親ではPは同じように無関心になる、Cの現れは人懐っこいが確信もてない、親の代わりになる人を探すが見つからないのを信じている。組織的な親(スケジュールどおりでゆとりがない親)に育てられた人のPの現れは、クール、冷静、冷淡になりやすい、反発か服従する。

親は不完全である。私たちがこのままでオッケーとなるために、親を許し、私たちが癒されていくことが必要になる。

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2008年8月31日 (日)

一番の相談相手

私の一番の相談相手は神様です。いつも正直な気持ちで語らい、神様の応えを待ちます。

『私の言うことを耳に入れてください。主(神)よ。私のうめきを聞き取ってください。私の叫びの声を心に留めてください。私の王、私の神。私はあなたに祈っています。主よ。朝明けに、私の声を聞いてください。』旧約聖書 詩篇5:1~3

神様との祈り。それは息をするようなものと同じようなものだと聞いたことがある。

神様との祈り。それは私にとっては、一番大切な人との、親密な語らいである。声を出して祈るので、一日家に人がいたりすると声を出して祈りたくて苦しくなる。そういうときは、買い物に出かける途中で声を出して祈り、語らう。

もし私のことを全部知って、最善をしてくれる人、信頼する人がいたら…なんでも相談し、何でも話すと思う。

私にとっては、悩みも悲しみも喜びも疑問も何でも話せるのが神様だし、私自身の100%正直な気持ちを話す。

一人ごとでは決してない。神様の霊をもって、心の中に答えがくるか、聖書を通してくるか、すぐはわからないかだ。が、祈りに応えてくれる神様と信じているので、絶対答えがくる、そして約束されたことは、いつかわからないが、絶対成ると安心して信じられる。気の短い私が、30年近く神様の私への約束を信じてこられたのはまさに神業。

もしあなたも、信頼できる最愛の方と親しくなったら、いつまでも、語らっていたいと思う。

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2008年8月30日 (土)

リビングで感じる受容体験

我が家のかたずかないリビングの中にも私の受容体験(そのままで赦されている)があります。

『愛はすべてのそむきの罪をおおう。』旧約聖書 箴言10:12

我が家のリビングは、お客様が来るときはかたずけてきれいになる。が、人が来なくなるとたちまち変身する。

子どもの周りは将棋本が散乱し、最近私の周りはブログのための聖書やノートや本や日記で散乱している。

主人はというと、自分の部屋からリュック一つ持って降りてきて、リュックを持って部屋に戻る、慎ましい生活をしている。

主人と結婚して良かったなぁと思うのは、妻の足りないところを責めず、受け入れてくれることだ。リビングが散らかってることはいいことではないが、その中に私の受容体験がある。

小さいときからかたずけが下手な私は母から「お前は女のくせにだらしない。」と言われて育った。私はだらしがないと評価され続けた。

苦手なことがあっても、得意なこともあり、楽しく生きていける今を感謝する。私は部屋をきれいに出来ないが、人を招くときは、きれいにかたずける努力が出来る、それはすごいと自分で思う。足りないことが多いと受け入れられているありがたさも増大する。

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占いに縛られない

我が家はテレビで占いが始まると、すばやくチャンネルを変えます。

『主(神)は主の御声に聞き従うことほどに、全焼のいけにえや、その他のいけにえを喜ばれるだろうか。見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる。まことに、そむくことは占いの罪、従わないことは偶像礼拝の罪だ。』旧約聖書サムエル記15:22.23

放浪癖のあった大学時代、北海道の一人旅のとき、電車の中で一人のおじさんにあった。なんでも、姓名判断をしてるとのこと、私の名前をみてもらった。

「あなたは車を運転したら、交通事故を起こす。」と言われた。心の中で「交通事故!?こわーい。」と思った。幸い?私は運転できないし、名前も変わったが…。

我が家では、占いは神様にそむくこととして、一切見ない。朝、テレビを見ていると、「今日の占い」というコーナーが必ずある。私たち家族は条件反射で誰かがすばやくチャンネルを変える。

人が何を信じても自由だが、人を脅し、縛って信じさせる物はまやかしと思う。なんにでも影響されやすい私は「今日のラッキーカラー」なんて聞いてしまうだけで、影響されるかもしれないし、捕らわれるかもしれないので、聞かない。

本当に人を生かすもの、それは脅しとかではなく、人を慰め励まし、自由にしてくれることばと私は信じている。

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2008年8月29日 (金)

差別する心

『主人たちよ。あなたがたも、奴隷に対して同じようにふるまいなさい。おどすことはやめなさい。あなたがたは、彼らとあなたがたとの主が天におられ、主は人を差別されることがないことを知っているのですから。』 新約聖書 エペソ人への手紙6:9

小学のとき、アフリカで、白人が椅子に座り、黒人が地べたに座ってる教科書をみて、今の時代でも差別があるのかと、子どもながらに驚いた。中学生のとき、読書家ではなかった私だったが、姉と図書館から、「橋のない川」を借りて一気に全巻読んだ。部落の自分は人と何が違うのかと自問し、揺れ動く主人公の少年が描かれている。

今でもある部落問題。きれいごとはいくらでも言えるが、私が人を差別しないことは出来るか、講演などを聞くたびに思う。たとえば、自分の子どもが部落の人と結婚するとなったら、私はどうだろうと思う。誰もが歴史の中で人間が作った差別と知りながら、そこに入り込んでしまうので、今だに作られた差別が続くのだと思う。

歴史の中で作られた差別を知るとともに、人には差別してしまう性質が根底にある、そのことを私自身が認める、そこから差別がなくなる願いと祈りと行動が始まるのかもしれない。

「神様、私に潜む差別する心を赦してください。そして、差別で今なお苦しむ人たちが、人の作られた差別から解放されますように。」

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悲しみ、喜び、感情を表し、表現できる 自由

『しかし、この私は、あなたの力を歌います。まことに、朝明けには、あなたの恵みを喜び歌います。それは、私の苦しみの日に、あなたは私のとりで、また、私の逃げ場であられたからです。』 旧約聖書 詩篇59:16

私は小学生、中学生のとき、よく泣いていた。泣き虫なのだと思う。が、健康面で言うと悲しいとき、しっかり悲しみ、嬉しいとき、しっかり喜ぶことは良いことらしい。

ある本で、一人の人が最愛の人を亡くして、本当は悲しみたかったのに、クリスチャンだったので、まわりから、「天国に行って良かったですね」と言われ、悲しめなくて、うつ病になってしまった人の話しがあった。

誰がなんと言おうと、自分の感情を自分で所有し悲しみ、喜ぶ、また、それを表現することが私たちには許されている。

詩篇は神様への祈りを歌ったもので、ほとんどがダビデの作品。ありのままの姿を表し、人生の喜び、悲しみ、恐れ、失望、落胆、迷い、疑い、怒りを赤裸々に表している。

日本には大人たる者、人格者たるもの、男たる者、感情をあらわにしてはいけないという風潮があるかもしれない。仮面をかぶって、自分をいつわっているより、正直であることが健康的だし、神様が与えられた感情を深く味わうところに、人間らしさがあると思う。

イエス・キリストもまた、共に喜び、悲しみの涙を流され、間違いには激しく怒りを表された。

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2008年8月28日 (木)

傷の癒しのために大切なこと

『しかし、彼(イエス)は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎(とが)のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。』 旧約聖書 イザヤ53:5

神学校時代、授業の一つに牧会カウンセリングというのがあった。そこで一人ずつ自分の話しをして、みんなに聞いてもらう時間があった。私はこんな話しをした。「私は自分の人生、自分の尻を叩いてでも、しなければならないこと(伝道とか宣教だったと思う)を自分に課していきたい。」すると、まわりにいた学生たちから、「何が変か言えないけど、それはなんか変。」と言われた。そこで授業の時間は終わった。

20年たち、過去のそのときの自分の何が変だったのかと思う。たぶん、悲壮感を漂わせながら、人の幸せのため、宣教をしたいと言っていたことだったのではないか。

あのころは、私の傷の全貌が明らかになっていなかった。今ならば自分の心の傷が、どういう生育過程で、何の影響を受けてできたのか、どうしていくことが癒しにつながっていくのか、整理されている。が、自分の傷と気がつかないと、なかなか癒しにつながらない。ある本に、自分の傷の原因がわかると、大半癒されたことになるとあった。私のカウンセラーは神様だったが、自分をありのままに受け入れてくれる環境で、自分の傷を見つけ、癒しと解放、自由へと向かってほしいと願う。誰もが、不完全な親や環境の中で、傷があるのだから。

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2008年8月27日 (水)

ありのままの自分でいることを妨げる比較と評価

『私たちは、この務めがそしられないために、どんなことにも人につまずきを与えないようにと、あらゆることにおいて、自分を神のしもべとして推薦しているのです。…ほめられたり、そしられたり、悪評を受けたり、好評を博したりすることによって、自分を神のしもべとして推薦しているのです。』第2コリント6:3~8

セルフイメージ(自分自身の像)が低い人は、人と比較してガッカリしたりする。かつて、私はある教会のスタッフ会議のとき、皆次々に割り当てられ、私だけ何もなく、私は何をやってるんだろうと思ったら、耐えられず、泣いてしまい、会議を台無しにしてしまったことがある。

自分のありのままを受け入れ、楽しむことが、自分らしく、最大限に生きられることと思う。

「5つの目的」では、「人と比較すること、人の期待に応えようとすることが、ありのままの自分を満喫することを妨げている」とある。そしてジョン・バニヤンのことばを引用し、比較や人の評価にとらわれない生き方の大切さを語っている。「もし私の人生が実を結ばないのであれば、誰が私を賞賛しようと関係ない。もし私の人生が実を結ぶのであれば、誰が私を批判しようと問題ではない。」

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2008年8月26日 (火)

虐待されて育った人の傷

『神よ。私を探り、私の心を知ってください。私を調べ、私の思い煩いを知ってください。私のうちに傷のついた道があるか、ないかを見て、私をとこしえの道に導いてください。』詩篇139:23.24

今日、友人と会って話しをした。「親から傷を受けて育った人の痛みは、普通の家庭で育った人にはわからない、それは仕方ないことだ。」と話し合った。ありのままで受け入れられず、虐待されて育った人には次のような結果をもたらすと、本にある。

鬱、孤立、他者を信頼できない、親密な愛着を形成できない、限界を設定できない、深い自己嫌悪、恥、罪悪感、無秩序なライフスタイル、無意味感や無目的感、恐れやパニック、発作的な怒り、自殺願望。

そして、虐待ではなかったが、私もこの幾つかの結果が現れていた。私は早い時期、それらの結果が、親からの影響であることに気がつき、心の癒しの旅が始まった。

本当の自分を所有していく大切さを思う。誰かに侵害されることなく、自分は自分のままでよい、それはカウンセラーに相談する方法もあるし、裁くことなく、そのままで受け止めてくれる人に自分の話しをするのも良いことである。

心の傷で苦しむ人の癒しと回復を祈ります。

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2008年8月25日 (月)

私にとって、すべてを持っているということ

『私たちは…悲しんでいるようでも、いつも喜んでおり、貧しいようでも、多くの人を富ませ、何も持たないようでも、すべてのものを持っています。』第2コリント6:10

神学校時代は、寮生活をしていた。ある時、夢を見た。「地上でのあなたの報酬は少ないが、それは天に蓄えられている。」と神様から言われた。嬉しくて、目がさめて、そのことばをすぐ紙に書いて、聖書に大事に挟んだ。

神学校では、みんな貧しく、節約して生活していた。服もどこからか送られてきて、上から下まで貰い者で生活できていた。そのことは、私の中で密かに変な自慢だった。食べる物もないと思うとき、奉仕に行った教会の婦人の方から、手作り弁当をもらったり、スープをもらい、「神様は、無いものに与えてくださる神様なんですね、凄いです!」とよく祈った。が、自分の好きな道なので、特にそういう生活に不満はなかった。

私は一番理解されたかった母から理解されない傷が深かった。今、神様から理解されていると思うと、これにまさるものはないと思う。目に見えるもの以上に、目に見えないもので満たしてくれる神様に感謝する。何も持たないようでも、すべてのものを持っていると告白したい。

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2008年8月24日 (日)

落ち着かない、心配する、気を使うところから抜け出す方法

『…イエスがある村に入られ…マルタにマリヤという妹がいたが、主の足もとにすわって、みことばに聞き入っていた。ところが、マルタは、いろいろともてなしのために気が落ち着かず、(イエスの)みもとに来て言った。「主よ。妹に…私の手伝いをするように、妹におっしゃてください。」主は言われた。「マルタ…あなたは、いろいろなことを心配して、気を使っています。しかし、どうしても必要なことはわずかです。…マリヤからそれを取り上げてはいけません。』ルカの福音書1038~42

マルタとマリヤの話しではクリスチャンにとっては、神様のことばを聞き、神様の私への愛情を知ることこそ、もっとも大切なことと言っている。

私は若いとき、教会で奉仕をして働くのが楽しくして仕方なかった。が、反面、マルタのように、どうしてあの人は何もしないのかと、人に苛立っていた。

何かをするという視点だけで物事をみるとそうなってしまうのかもしれない。何かをする以上に、私たちにとって大切なのはどうあるかということなのだと思う。する世界からある世界に移るとき、その人は何か縛られているもの―クリスチャンの律法、親からの縛り、自分自身の枠―から解放されるのかもしれない。

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不信感を抱くより信じたほうが自分のためになる

『私たちはあなたがたに包み隠すことなく話しました。私たちの心は広く開かれています。あなたがたは、私たちの中で制約を受けているのではなく、自分の心で自分を窮屈にしているのです。私は自分の子どもに対するようにいいます。それに報いて、あなたがたのほうでも心を広くしてください。』第2コリント人への手紙6:11~13

私は中学3年のときは、反抗期全開で、学校の先生に対しても反抗的だった。ある日、ちょっとしたことで担任の先生に注意された。私は注意される筋合いはないという態度をとった。それで、職員室に呼ばれ言われた。「私はあなたのために注意しているんですよ。わかったら帰りなさい。」私は心で思った。「嘘だ!自分のために注意してるんだろ!わからないから、ここから動くものか!」悔し涙が、先生の机の書類の上に落ちていた。

そんな反抗的な態度をとったので、高校の内申書は絶対ひどく書かれていると信じ込んでいた。

それから10年余りたった、同窓会。私もさすが、先生とのわだかまりもなく、先生含めみんなと再会した。そこで先生が私の名前を呼んで、「俺の葬式のときは、お前が挨拶をやってくれ。」と言われた。学級委員をやっていたからだったかもしれないが、「そうなんだ。私をいやな生徒と思っていたんではなかったんだ。」と思った。

不信感は自分の世界を窮屈にする。相手の気持ちがわからなかったら、信じたほうがいい。その先生の葬儀に出ることは、かなわなかったが、あのとき先生は私のために怒ってくれたんだなぁと思う。

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2008年8月23日 (土)

幸せはどこにあるか

『心の貧しい者は幸い(さいわい)です。天の御国はその人のものだからです。悲しむ者は幸いです。その人は慰められるからです。柔和な者は幸いです。その人は地を相続するからです。義に飢え渇いている者は幸いです。その人は満ち足りるからです。あわれみ深い者は幸いです。その人はあわれみを受けるからです。心のきよい者は幸いです。その人は神を見るからです。平和をつくる者は幸いです。その人は神の子どもと呼ばれるからです。』マタイの福音書5:3~9

私は若い日々、健康で、大学にも行けて、友だちもたくさんいて、楽しいことにも溢れていて…それでも幸せと言えない、どちらかというとどんよりと心にはびこってる何かがあった。そして、漠然とだったが、幸せは環境にあるのでなく、心の中に確立していくものだと思っていた。

M・J・ドレッシャーの「若い父親のための10章」で著者自身のことが書いてある。よい家族にするために努力し、息子や妻が自分が望むようになるようにと祈ったとのこと。そしてある日、その誤りに気がつく。「他の人をよくするのは、わたしがすることではない。それは神様がされること。わたしのすべきことは、他の人を幸せにすることである。」

幸せは人から貰うものでも、環境から与えられるものでもない。私が作り出すものだと思う。そして、作り出せるだけの心の中にたくさんの幸い(さいわい)を蓄えておくことが、何より大切と思う。

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たった一言にショックを受け、ヘルペス(帯状疱疹)になった私

『わが子よ。私(神)のことばをよく聞け。私の言うことに耳を傾けよ。それをあなたの目から離さず、あなたの心のうちに保て。見いだす者には、それはいのちとなり、その全身を健やかにする。』箴言4:20~22

人間、免疫力がなくなったとたん、病気になるものだと思う。まさに病は気から…だ。神学校を卒業し、晴れて教会で働くことになった顔合わせの日。牧師や役員が勢揃いしている中、役員の長の方に元気に次のように言われた。

「牧師が白と言ったら白、黒と言ったら黒と言って従ってください。」私は心の中で叫んだ。「えー!!教会は神様に従うところではなかったんですか!?」もちろん、新米の私は顔で笑って「はい。」っと言った。

その夜、まゆ毛の上が局部的に、やけどをしたような強烈な痛みを覚えた。鏡で見ると、グズグズと何か沸いてくる。ヘルペス(帯状疱疹)だった。そして、たちまち、頭ぐるりとその神経に菌が回って、一週間位痛い思いをした。

神学校を出た私の最初の洗礼は、私が全く考えたこともない指示を受けたことだった。今だったら、聞き流せたかもしれないが、そのときはあまりのショックに瞬時に体中の免疫ゼロとなり、ヘルペスにやられてしまった。

今では笑い話しのような話しだが、誰かが悪いとか、間違ってるとかいうことではなく、私が人への対応力がなかったということだったと思う。おかげで、私は凄く聖書を読むようになった。人の考えは様々だが、私は聖書のことばを選び、そこに立ちたいと思うようになった。

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人を赦す、それは自分が縛られないための祝福

『さばいてはいけません。そうすれば、自分もさばかれません。人を罪に定めてはいけません。そうすれば、自分も罪に定められません。赦しなさい。そうすれば、自分も赦されます。』ルカの福音書6:37

3年前、「境界線」という本で、衝撃的な一節を見つけた。「赦すことを拒むなら、あなたはまだその人から何かを求めているのです。そして、あなたはその人に永久に縛られてしまいます。」

「もし私が人を赦していなかったら、神様からくる安らぎや喜びという良い影響ではなく、人からくる悪い影響を受け、縛られ、支配されるなんて、とんでもない!」と私は思った。パートで、皿洗いしたり、キュウリを切りながら、これまで出会った嫌な思いをした人の名前をあげて、赦す祈りをした。

私が出会った人たちで嫌だと思っていた人たち、小学の先生から始まり、考えの合わなかった牧師たちに至った。その人たちをそもそも赦していなかったかどうか、わからないが、無意識の中で、人の悪に影響はされたくない、支配されたり、縛られたくないという思いだった。

赦しは相手のためでなく、自分の自由と解放のためにする…この理解は私にとって大きな転機になった。人を赦す祈りによって神様から深く深く赦され受け入れられてる体験をし、自分の尊さをさらに知っていくときとなった。

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2008年8月22日 (金)

人生の劣等生でよかったこと

『苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました。』詩篇119:71

高校2年のとき、数学のテストが採点されて返ってきた。かなり書き込んだし、80点ぐらいはいってるかなぁと思った。ところが、返されたテストを見て、ビックリ。30点だった。私はその場で、声をあげて泣いてしまった。

私の人生、半分以上は泣いたり、わめいたりの日々だった。学校でいうと、30点の劣等生という感じである。

工藤信夫先生の「よりよい人間関係をめざして」という本の一節に次のようにある。「関係は作るものではなく、作られるもの。…人は「私が間違っていました。」とか「私は何も出来ません。どうぞ教えてください。」と言えるようになるまで、長い道のりを要する。(が、その気持ちが関係を作られるようにする)」

ある意味では、私も長い道のりがかかったのかもしれない。が、たくさんの失敗や挫折や弱さや痛みが、今、人との関係に生きているのだと思う。今の私は「私は間違いだらけです。私は何も出来ません。」と、誰にでも、堂々と言える。そんな私を見捨てず、赦し、愛し、生かしてくれる神様がいるから。

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父の分裂病(統合失調症)

『彼(キリスト)はいたんだ葦(あし)を折ることもなく、くすぶる燈心(とうしん)を消すこともなく、まことをもって公義をもたらす。』イザヤ書42:3

父は将来を約束された国鉄職員だった。42歳のとき、仕事のトラブルと体の病気に対する不安で、分裂病(今の統合失調症)を発症した。

「パンセ」の中でパスカルは「人間は考える葦である。」と言った。人は複雑、繊細に出来ている。

父は祖母にその頃、手紙を書いていた。孤独と悩みを綴ったものだった。負いきれない悩みを抱え、どんなに苦しかっただろうかと、大人になり、私も父との関係が癒されて、やっとそう思う。

人は壊れてしまいそうに、ときには弱い存在なのだと思う。私が神様に話しを聞いてもらい、慰められてきたように、私も重荷を背負う人の話しを聞き、寄り添いたい。子どもだった私が、父に何も出来なかったが、天国の父も、自分の病が無駄でなかったと喜んでくれるだろう。

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無に等しいものを新しい力(神の愛)で立たせてくれる

『神に選ばれた人々を訴えるのは誰ですか。神が義と認めてくださるのです。』ローマ人の手紙8:33

神学校を卒業して、教会で働くことになった私だったが、その頃は、元気がなかった。その教会の講壇はとても高く、牧師はガウンを着て、聖書の話しをした。ある時、教会出勤に遅刻してしまった。が、その場では何も注意されなかった。が、その週の礼拝で、名前こそなかったが、遅刻した私のことが話され、(どんな内容か忘れたが)言語道断と裁かれた。私は神の名前を使って裁かれ、とてもショックだった。次の日、雷に打たれたかのように、ベットから動けなかった。

そんな私の弱さが表れる体験の積み重ねの中に今の私がいる。意志の強さや、人間の努力で、少なくとも私は変われない。ただ、足りない者、力の無いもの、弱い者、無に等しいものに、神は赦しと愛を与え、新しい力で立たせてくださる。

『この世の取るに足りない者や見下されている者を、神は選ばれました。すなわち、有るものをない者のようにするため、無に等しいものを選ばれたのです。これは、神の御前でだれをも誇らせないためです。』第1コリント1:28.29

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2008年8月21日 (木)

小さい事に忠実になれる祝福

『小さい事に忠実な人は、大きい事にも忠実であり、小さい事に不忠実な人は、大きい事にも不忠実です。』ルカの福音書16:10

かつて心が病んでた私は、小さい当たり前のことが出来なかった。会社はよく遅刻したし、学生時代も決め事が守れなかった。約束事が大事と知っていても、それをする力がなかった。

「5つの目的」の本で著者は次のように言う。「人の寛大さは、小さな仕事の中に現れる。しもべの心をもって打ち込むなら、どんなつまらないことでも価値ある働きとなるのです。偉大な働きをする機会というのは、しばしば小さな仕事を装って訪れる。人生において、小事が大事を決定することがある。」

人生のすべてがつまらなく、意味を見い出せなかった私だったが、誰のために生きるか知った今、私の中では、すべてに尊い価値を見い出せる。誰かとのランチでのお喋りも、何百人の前でのあいさつも、同じ大切さを持たせてくれたイエス様の私への忠実な養いに感謝している。

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2008年8月20日 (水)

私の歩みを確かにされた神様

『人は心に自分の道を思い巡らす。しかし、その人の歩みを確かなものにするのは主(神)である。』箴言16:9

かつては深い孤独と虚しさに漂っていた私だったが、神様の愛に満たされ、生活は一変した。(心の癒しに関しては25年位かかってるので、私自身はあまり変わっていなかったかもしれないが…)

クリスチャンになったばかりの私は、2つのことを神様に願った。「神様、神学校に行って聖書の学びがしたいです。そして、結婚もさせてください。」

神学校はまもなく行くことが出来た。結婚がかなったのは、その祈りをしてから8年後だった。

今の私の願い、人なみに家族の健康が守られるように…とかはある。が、心の底から湧いてくる思い…人のために仕えたいという強い思いはここ最近である。神様が紆余曲折してきた私のクリスチャン生活も導き癒してくださり、私の本来ある姿に整えてくださったと感謝している。

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2008年8月19日 (火)

私の心はネス湖のように、その底は光が届かず闇が沈殿している

『義人はいない。ひとりもいない。…すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによるあがないのゆえに、値なしに義と認められるのです。』ローマ人の手紙3:10.23.24

マーリン・キャロザースの本「モア・パワー」に次のような一節がある。「私たちの多くの者がネス湖のようです。美しい静かな水面、しかし、心の奥底には、蓄積され、繰り返され、放棄されていない、罪の根源である黒い層が潜んでいます。人間の理性の光が照らせないほど黒ずんだ、暗闇の中に隠されているのです。」

20年前、私の心の癒しが急速に始まったときがあった。そのときは、自殺願望や劣等感や自己嫌悪や惨めな気持ちや様々な否定的な気持ちが瞬時、瞬時に湧いてきた。癒しのときは、底に沈殿された泥のようなものが、かき回され、表面に浮いてくるのかもしれない。

私の心はネス湖のようだと思う。水面は美しく太陽の光にキラキラ輝いていたとしていても、どんな状況で、底まで掻き回され、泥水が湧いてくるか、わからない。

イエス様の愛と真理の光で、深く深く底を照らされて、その泥に光が届いて、赦し、癒し、きよめてもらいたい。

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2008年8月18日 (月)

さすらい人が、その咎(とが)赦され、変えられる

『主(神)はカインに…仰せられた。「…あなたは地上をさまよい歩くさすらい人となるのだ。」カインは主に申し上げた。「私の咎(とが)は、大きすぎて、にないきれません。…私はあなたの御顔から隠れて、地上をさまよい歩くさすらい人とならなければなりません。…」』創世記4:12~14

アダムとエバの子ども、カインは弟アベルを妬み、殺したときの神様との会話。カインの咎の故、神様との関係が切れさすらい人となった。

私もかつては、さすらい人であった。生きる意味がわからず、目標もなく、自分に価値を見い出せず、さすらっていた。東京に住んでいた頃、渋谷の公園や、クラシック音楽喫茶に行っては、何のため生きているかと、日記を書いていた。
すべてが虚しく、うつろで、孤独に満ちていた。

親からたくさん受け入れられて、理解されて育った人は、こんなさすらい人の気分はないのかもしれない。けれど、私は新しい天の父にもう一度、赦され、受け入れられ、愛され、生きる目標を見つけ、自分の価値を見い出し、愛に満たされた。

『私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。』第2コリント3:18

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2008年8月17日 (日)

傲慢な心は人との壁を作り、謙遜は潤滑油になる

『わたし(神)は、高く聖なる所に住み、心砕かれて、へりくだった人とともに住む。へりくだった人の霊を生かし、砕かれた人の心を生かすためである。』イザヤ書57:15

神学校の頃、様々な人間関係があった。年配の女性の人と、仲が悪くなり、嫌だなと思った。すると、体中にじんましんが出来た。

授業の合間に、礼拝があり、その日は、男性の方のピアノ伴奏での賛美歌だった。声量のある賛美に心打たれた。そして、何か自分の人を裁く傲慢を思わされ、神様に謝った。そのとき、体中のじんましんがすーって引いた。

誰もが陥りやすいのが、傲慢だと思う。それは自分の知らないうちにはびこる。そして、神様や人との関係にヒビを入れる。

「5つの目的」の本には「謙遜とは自分の弱さを認め、他人の弱さに忍耐強く対応し、自分のことばかり考えるのをやめ、人に仕えることに焦点をあてること。」とある。

神様と、友人たちとの関係がとても大切な私にとって、傲慢の罪に陥らないようにいつも祈りたい。

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2008年8月15日 (金)

一羽のすずめさえ、忘れられていない、恐れることはない

『5羽の雀(すずめ)は2アサリオンで売っているでしょう。そんな雀の一羽でも、神の御前には忘れられてはいません。』ルカの福音書12:6

私は父の仕事の関係で、小学校を3回転校したので、記憶に残ってることが何年生のときのことか、よく覚えている。小学3年のとき、登校班で学校に行く途中、死んだ雀を見つけた。そんなことが子どもの私たちにとっては一大事なことだった。友人と「学校から帰ったら、埋めてお墓を作ってあげないとね。」と話した。そして、帰ってから急いで埋葬してあげた。

その頃、子どもの私には毎日が楽しく、心配もなく、「これが幸せってものなかぁ」と子ども心に思った。それから、一年もしないうちに、父が病気になり、私のささやかな幸せと感じていた家庭は崩れていった。

♪一羽のすずめさえも神様に忘れられず♪というような賛美歌がある。市場で最も安く売られてる雀さえ、神様には覚えられている。ましてやあなたがた一人一人を忘れる訳がない、恐れることはないと言っている。

私も父の病気、家庭の崩壊、自己否定、孤独、迷いと転がるように闇に入っていったが、神様に忘れられず、今、そのマイナスの時にあまりある神様の愛による癒しと慰めの中にいる。

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2008年8月14日 (木)

孤独と恐れと不安の夜に、天にかけられたはしごの夢を見たヤコブ

『見よ。わたしはあなたとともにあり、あなたがどこへ行っても、あなたを守り、あなたをこの地に連れ戻そう。わたしは、あなたに約束したことを成し遂げるまで、決してあなたを捨てない。』創世記28:15

聖書には、人間臭い、様々な人物が登場する。ヤコブは、ずる賢く、自我の強い若者だった。父イサクの祝福を、兄から奪い、殺されるかも知れないと家から逃げだし、夜を迎える。

「家族と別れ、これから自分はどうなるんだろう。」そんな不安や恐れや孤独を抱えて、ある場所に着き、石を枕に眠り夢を見る。

『一つのはしごが地に向けて立てられている。その頂は天に届き、見よ、神の使いたちが、そのはしごを上り下りしている。』創世記28:11.12

そして神様がその夢の中で沢山の約束をする。上のことばはその一部。「あなたとともにあり、あなたがどこへ行っても守り、連れ戻そう。あなたを見捨ず、約束を果たす。」

今、同じように、孤独と恐れの中にある人に、神様は御使いを使わし、祈りを天まで届けてくれている。そして、すべての人が離れていっても、わたしはともにいて、守り、約束を果たすまで見捨てないと語られる。

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2008年8月12日 (火)

終わりがくる前に、傷ついた人は癒されて、愛情が豊かに受けられるように

『この天地は滅び去ります。しかし、わたし(キリスト)のことばは決して滅びることがありません。…人の子(キリスト)が来るのは、ちょうど、ノアの日のようだからです。…だから、目をさましていなさい。あなたがたは、自分の主がいつ来られるか、知らないからです。』マタイの福音書24:35~42

「クリスチャンの信仰は終末に焦点を合わせていくものだ。」と愛読の信仰書に書いてある。すべてを捨てて、未開の地へ宣教に行く人たちは、この世の中よりやがてくる新しい地への希望を強くもって揺らがないと聞いたことがある。

揺らぎっぱなしの私の終末信仰はいずこに…という感じである。が、私は生きながらにして、地獄と天国を味わってきた。親とよい関係を結べず、孤独のどん底にいたところから、神様の愛情に癒されていく体験をした。人は愛情無しには生きられないし、親子関係の中で、人の愛情センサーが壊れてしまった人は、直さないと良いものを受けとれない。

この世に終わりがくる終末信仰に立っているかクリスチャンには問われている。しかし、クリスチャンでなくとも、この世の終わりは全ての人にとって、肉体の死をもってやってくる。

終わりが来る前に、人が人として愛され生きていく存在だという体験が、傷ついた人たちに癒しが与えてられ、豊かにあってほしいと願う。

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2008年8月10日 (日)

赦されて、母の親不孝と死に対する罪責感から解放される

『こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。』ローマ人への手紙8:1.2

罪責感、自分を責める気持ちから離れられず、苦しむ人がいる。かつては、私も悪いことばかりしてきたので、罪責感はつきものだった気がする。けれど、人を責めると同じように、自分を責めてもそこからは何も生まれない。

私は母を沢山悲しませてきた。母の余命を聞いて、「このまま死なれては、私が困る。まだ、親孝行を何もしていない。」と焦った。

私は親不孝者だったに違いない。しかし母が天国に召された後、不思議と罪責感がなかった。

神様が、私が母を悲しませた数々を全部赦してくれたんだなぁと思った。一つの責めも湧いてこないのが不思議だった。

以下に母の死を思い、うたを詠んだのを、日記から書き移す。

主のみわざ 賛美と祈りで母送る イエスに抱かれ天にのぼりゆく

親子連れ 卒業祝いの会話する ふと母我重ね 涙にじみし

クチナシや 病める我が子にと 鉢買いて 祈る母の年に 我近づきぬ

一度だに あげることなしコチョウラン 母にあげたら 喜びたりしか

母の日に プレゼントの花 あげられず 早すぎたねと 主人言うなり

与える愛 親にならず知らねども 日ごとに増すは そのありがたさ

一周忌 母の写真に笑顔して 心待ちゆく 再会なり

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2008年8月 9日 (土)

年寄りは夢を見、若い男は幻を見る

『その後、わたし(神)は、わたしの霊をすべての人に注ぐ。あなたがたの息子や娘は預言し、年寄りは夢を見、若い男は幻を見る。』ヨエル書2:28

この前、中学生の進路指導の先生のお話を聞いた。進路と言うと、どの高校にいけばよいかということを考えるが、それだけが大切なのではないとのことだった。子どもの夢や、将来、また、適性などを考える大切さが語られていた。

私たち大人も、小さい頃、将来何になりたいか夢があった。私は小さいときから、学校の先生に憧れていた。大学進路の頃は養護学校の先生になりたいと思った。福祉の大学に入り、自閉症の子どもと接したとき、その子どものことではなく、自分のことしか考えていない私に、自分を見せられ、教師は無理と悟った。

この聖書のことばに出てくる人物でいうと、人生の折り返しを過ぎた私は、年寄りかなぁと思う。若者が幻を見て、年をとった者が夢を見る。日常と逆のことが、キリストの霊を注がれたものに起こるとある。

確かに年をとった私は夢を見る。このブログの聖書のことばで、誰かが励まされれば…、足りない私だけど、そんな私を通して、誰かが苦しみから解かれる助けができれば…。教師にはなれないと挫折したころと、今の私は能力的なものは、たいして変わっていない。ただ、変わったことは、私のことを命をかけて愛してくれたキリストがいるということだけかもしれない。

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2008年8月 8日 (金)

コーリー・テン・ブームの詩=神の織りなす模様=

『大水もその愛を消すことができません。洪水も押し流すことができません。』雅歌8:7

20年前の日記に、私には珍しく切り抜きが貼ってある。「わたしの隠れ場」の著者、コーリー・テン・ブームのよんた詩だ。彼女はキリストの愛のゆえに、ナチスからユダヤ人を保護した。その結果、強制収容所で身の毛もよだつ苦しい体験を強いられ、釈放された後、オランダに帰り、キリストを証しした…とある。以下は彼女の詩である。

「わたしのいのちは神と私の間の織物にすぎない
わたしは色を選ばず、神がたゆまず働きたもう
時には神は悲しみを織りなし、わたしは愚かな誇りで忘れる
神は表を見 わたしは裏を見ることを
神は布を広げて なぜなのかをお語りにならない
暗い色糸も 巧妙な織り手には 金糸銀糸と同じく 神のご計画の模様に必要なのである」

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誉めて認めて、高め合う

『親切なことばは蜂蜜、たましいに甘く、骨を健やかにする。』箴言16:24

私の主人は、とても誉め上手だ。私が何かやってることに対しても、さりげなく誉めてくれる。誉められて嬉しいのは、子どもだけではないのだなぁと思う。私はそんな主人に「パパは誉め上手だねぇ。嬉しくてやる気がわいてくる。」とフィードバックする。

人の言葉は、殺しもし、生かしもする。子どもが小さいとき、私はつい「うちの子どもは運動が苦手なんだよねぇ。」と子どもの前で言うと、すかさず、主人が「そんなことはない。いいセンスをもっている。」とか「練習すると、すぐに上手くなる。」とか言う。確かに、私は親から「お前はだらしない。」とか「女のくせに。」とかいろんなことを言われて縛られてきた。「この子は運動が苦手」と言い続けていたら、そうでなくても、そう信じ込んでしまう。人は信じたように行動する。どうせ信じてもらうなら、「やれば必ずできる」そんなチャレンジ精神を持った子どもに育てたい。

自分も誉める、人も誉める、子どもも誉める、良いところや可能性を認めあったら、みんなが嬉しくなる。

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神がきよめた物をきよくないと言ってはならない

『神がきよめた物を、きよくないと言ってはならない。』使徒の働き10:15

聖書では、ユダヤ人こそ神様に選ばれたた民とされていたが、キリストが来て、ユダヤ人だけでなく、異邦人にも福音が伝えるように語られる。弟子ペテロが、神様からそのことを言われた場面。この時以来、ペテロは異邦人伝道の働きをする。

神様はキリストの十字架で私たちのすべての悪いことを赦し、きよめたと言われる。

難しいのは、神様がきよめたといっても、きよいと思えない私たちの内側の問題がある。私たちは尊い存在だと言われても、傷や悪い行いや失敗や様々なものが、私たちの本来の正しい価値を見えなくさせる。私たちの中に、足りないこと、弱いこと、欠けたことがあっても、私たちの存在は変わることなく、尊い存在なのだ。私たちが本来どんな存在か傷つき歪められた思いが癒され、自分を大切なものとして、受け入れていけますように。

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2008年8月 7日 (木)

命を与え、養い続けてくれる神様

『神よ。あなたの御思いを知るのはなんとむずかしいことでしょう。その総計は、なんと多いことでしょう。それを数えようとしても、それは砂よりも数多いのです。私が目ざめるとき、私はなおも、あなたとともにいます。』詩篇139:17.18

結婚して、4年間、子どもが与えられなかった。あまり、考えないようにしていた。が、ある夜、目が覚めて、お祈りした。「神様、私も母親になりたいです。養子でもよいので、母親にしてください。」次の月に妊娠していた。

つわりがひどく、胃液を吐いていた。水すら飲めず、そういうこともあるんだなぁと思った。一週間、入院し、点滴をした。ひどいつわりだったが、ベットの上でこの聖書のことばを思いめぐらした。神様によって人は命与えられ、産まれてくる。この命ほど神秘的で尊く、素晴らしいものはないと思った。

可愛い赤ちゃんだった我が子は、あっという間に大きくなり、母親をちょっとバカにしたり生意気になる。それでも可愛いくて仕方がない。

神様も私たちを子どもとして、いつも心配し、大切な存在として、変わることなく養い続けてくれている。

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親替えによって与えられた平安

『人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。』ヨハネの福音書3:3

中学か高校の頃、私は生まれかわりたい願望があった。お風呂に入ると、「ここから出たとき、別人になっていたらいいな。」とよく思った。

そして、神様にあって私は生まれ変わった。地上の父から、天にいるお父さん(神様)に親替えした。天のお父さんの価値観、教育、養いのもと、生きるようになった。

厳しいと思える訓練もあったが、愛されているのを感じてきた。

『主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられる…。…これによって訓練された人々に平安の義の実を結ばせます。』ヘブル12:6~11

かつては心の中が様々な傷でいっぱいで、どうすることも出来なかったが、天のお父さんの訓練の中、気がつくと、心の中が平安に満ちているようになった。

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人に支配されたり、悪い影響をされずに守られていく方法

『もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。』第1ヨハネ1:9

私は過保護過干渉の母親に育てられ、境界線が育たなかった。どこまでが自分の責任かわからず、人に支配されやすく、影響されやすかった。ある人が「傷つくのは、傷ついた奴が悪い。」と言った。それは、神様からのメッセージではなかったが、心に残った。

その日から今に至るまで、30年間、私は人から傷つけられたときは、「傷ついた自分の不完全さを赦してください。そして、癒してください。」と祈り続けてきた。

私はかつては、友人と意見が違うだけで理解されていないと旅に出るような人間だったが、今ではかなりの状況でも、人の影響を切り離していけるようになった。私の中に人と自分の境目のサクがきっちりとついて、相手が怒ったり、ひどいことをしてきても、それが私の責任であるかないか冷静に見れるようになった。

境界線を作る、それが人に支配されず、影響されずに生きていける方法。それが崩れている人は、自分を赦す、受け入れることによって、その柵がしっかりと出来ていく。

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2008年8月 4日 (月)

くずされることがあっても、建てられもする

『天の下では、何事にも定まった時期があり、すべての営みには時がある。…殺すのに時があり、いやすのに時がある。くずすのに時があり、建てるのに時がある。』伝道者の書3:1.3

私たちが自分でコントロールできないものがたくさんある。“時”もまた、私たちの手を離れた未知なるものである。

私はPTAの仕事を何年かやってきて、いろいろなことを教えられた。ボランティアに何が良くて、絶対というものはないように思う。けれど、私は少なくとも、その年々の人たちが思いと労力をかけてやってくれたことに、頑張ったね、やって良かったねと互いに言い合える、そのプロセスが大切と思う。

ある時、長年引き継がれてきた行事が一人の人によってなくなってしまった。手品のように、キツネにつままれたように無くなってしまった。私は何でそんなことが許されるのかと、かなり長い間、引きずってしまっていた。

しかし、気がつくと、過去を知らない熱心な方々が、また、新しいことを始めてくれていることを見た。くずすのに時があり、建てるのに時がある。過去ばかりみていると、今、素晴らしいことがなされているその時を見逃してしまうのだと教えられた。

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あなたに計画されていることは、わざわいではなく、将来と希望を与えること

『わたし(神)はあなたがたのために立てている計画をよく知っている…それは わざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。』エレミヤ書29:11

何のために生きているのだろう…そんなつぶやきを繰り返している人がいるかもしれない。主人は、学校でいじめられていたとき、「死にたい」というより、「消えてなくなりたい」と思ったという。

今、いじめられていたり、不登校だったり、引きこもっていたり、うつ病だったり、前に進めず、そこにいる人たちのことを思う。

何のために生きてるのだろう…神様は聖書を通して、それは、苦しむためでなく、幸せになるためなんだよと語り続けている。

途方もない重い荷物を抱えて立ち止まっている人の話しを聞くときに、いつもこの聖書のことばを思う。もし、人々によって追い込まれ、苦しんでいる人がいるなら、そこから連れ出し助けることも、また、人に委ねられていると思う。

苦しむ人たちのために祈り続けたい。みんなの関心がそこに集まったら、みんなの少しずつの力で何か出来るように、私は思っている。

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母への怒りが別の人に投影される傷が癒されて

『そして(キリスト)は自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。』第1ペテロの手紙2:24

昔、神学校時代、共に学ぶ学友がいた。男性の人で、有名な大学を出たような人だった。普段、会話をしていると普通なのだが、怒りだすポイントがあった。それは、女性との会話から支持、命令のようなものを感じとった瞬間に起こった。始めはびっくりしたが、きっとお母さんからひどくプライドを傷つけられて育ち、女性との会話で、そこの部分が出るとその人のお母さんに対する怒りが私に投影され、爆発するのだと理解した。

私も母への怒りが吹き出すポイントの場面を持っていた。それは、やはり誰かに命令されることだった。多分、母の一方的な命令に屈した怒りなのだったと思う。それが、仕事先でも、先輩でも、命令された瞬間、母への怒りが出るのだから、どうしようもない。傷だらけの扱いにくい者だったに違いない。

その怒りが目の前の人でなく、母からの傷だと気がついたとき、癒しは始まった。

あなたが、もし、何か不自由なポイントを持っているとしたら、親からの傷が癒されていない場合が大きい。気がつくことが癒しにつながる。その根本のところの傷がいやされ、自由になれますように。

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2008年8月 3日 (日)

誹謗、中傷の石を投げられたとき、そこから守られ、痛みを感じずにいられますように

『人々はこれを聞いて、はらわたが煮え返る思いで、ステパノに向かって歯ぎしりした。しかし、聖霊に満たされていたステパノは天を見つめ…こう言った。「見なさい。天が開けて、人の子が神の右に立っておられるのが見えます。」…こうして彼らがステパノに石を投げつけていると…ステパノは…大声でこう叫んだ。「主よ。この罪を彼らに負わせないでください。」こう言って、眠りについた。』使徒の働き7:54~60

歴史の中で、ステパノはイエス様を宣教し、殺されていった。彼は人々の反感、憎しみをかい、石を投げられ殺された。壮絶な場面である。その中で、ステパノはイエス様だけを見て、イエス様が十字架の上で祈った同じ祈り、「彼らを赦してください。」と言い、死んでいった。

私たちは石を投げられることはないが、人から誹謗、中傷され痛い思いをすることがある。私は長年、そうされると、相手をさばいてきた。そして、自分を保ってきた。去年、信頼していた友人から、あなたの言動についていけないからもう関わらないと言われたとき、一緒にボランティアをしていたので、とても悲しかった。私自身は神様に誓って言えるが、友人に悪いことはしていないと思ったとき、相手をさばく思いより、相手の誤解したまま、私を受け入れられなくなった傷のために、心から祈ることができた。私は足りなくとも、欠けだらけでも、神様に赦されているという神様からの愛情によって、相手のために祈ることができた。多分、生まれて初めての体験と思う。

自分が傷ついては、人のためには思えない。傷も癒えずに、相手を思ってるふりは偽善的と思う。相手にされたことにまさる相手への願いがあるとき、自分の痛みを感じず、相手のことを思えるのだと思う。母の子どもに対する愛情などは、それだろう。

「愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します」第1ヨハネ4:18

あなたが誹謗、中傷をうけたとき、自分が赦され、受け入れられていることを信じ、ぶつかる石が痛く感じなくなりますように。

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2008年8月 2日 (土)

与えられていることに感謝する喜び

『わがたましいよ。主をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを何ひとつ忘れるな。』詩篇103:2

人はのど元すぎれば熱さ忘れるで、苦しいときに願ったことはすぐに忘れる。
健康のありがたさを痛感するのは、たまに病気になって、寝込んだときだったりする。

今、当たり前と思っていることも当たり前でないと思う。今与えられていることを感謝すると、実はたくさんのことが与えられていることに気がつき、益々感謝が湧いてくる。

自転車で出かける途中、私はよくこんな祈りを神様にしている。「神様、今日も元気に出かけられること、感謝します。健康、祈り、家族、友人、経済、能力、楽しみ、天気、与えられている一つ一つ感謝します。」

与えられていることに感謝することは、新しい喜びになる。

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えこひいきする人の弱さから守られますように

『しかし、上からの知恵は、第一に純真であり、次に平和、寛容、温純であり、また、あわれみと良い実とに満ち、えこひいきがなく、見せかけのないものです。』ヤコブの手紙3:17

子どもの頃、学級でまわりの誰かがえこひいきされているのが、いやだった。中学の英語の男の先生は、友人が可愛い子というので、えこひいきしていた。私は心の中で、「やってられないよ」と思い、授業放棄と窓から外を眺め、先生から注意されたものだった。

えこひいきをするというのも、また、人間の弱さと思う。大人になれば、相手の動機も見え隠れし、見ぬふりが出来るのだろうが、思春期のときには、そんな小さなことが凄くいやだった。

神様はえこひいきをなさらない方だというのが、私にとって慰めである。

誰かがえこひいきされ、苦しんでいる人がいたら、そのえこひいきする人間の弱さから切り離され、影響されず、守られますように。

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2008年8月 1日 (金)

人に与えられた、たくましい生命力

『イエスは、また別のたとえを彼らに示して言われた。「天の御国は、からし種のようなものです。それを取って、畑に蒔くと、どんな種よりも小さいのですが、成長すると、どの野菜よりも大きくなり、空の鳥が来て、その枝に巣を作るほどの木になります。』マタイ13:31.32

我が家の庭には桜の木がある。7年前に引っ越してきたときに植えた。とても細くて、風に吹かれて折れそうなので、横に支えの棒を立てた。

愛犬の涼む場所になった。今、その木は小さい庭、ところ狭しと伸び、広がっている。今年、長さ20センチ位の鳥の巣をその木の茂みの中に見つけた。

聖書のことばは、神様の国の生命力を表しているが、人一人一人の与えられてる成長もこのようにたくましいのかもしれない。

桜の太い木の横には、抜けなくなった支え棒が意味もなく、ぼそぼそと立っている。

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2008年7月31日 (木)

大切な人との信頼関係を妨げている傷が癒されますように

『主(神)よ。来てください。(マラナ・タ)』第1コリント16:22

教会で働いていたとき、心の中に神様がいなくなった感じで、空っぽになってしまったというときがあった。ちょうど、教会では、クリスマスの準備をしていた。私の中では、人様のクリスマスの準備どころではなかった。誰もいない教会の会堂で「主よ、私の中に来てください。」とつぶやいた。

『見よ。主(神)の御手が短くて救えないのではない。その耳が遠くて、聞こえないのではない。あなたの咎(とが)が、あなたがたと、あなたがたの神との仕切りとなり、あなたがたの罪が御顔を隠させ、聞いてくださらないのだ。』イザヤ59:1.2

変わらない神様の前に、私の側にその関係を妨げていたものがあったのだなぁと後でわかった。神様との関係が遠く感じられたときだった。

友人同士の関係においても、相手が変わらぬ友情や信頼をもっていてくれても、自分の側にやましいことがあったり、不信の種が芽生えてギクシャクすることがある。

自分の側が大切な人にいつも誠実で、信頼の心を持てますように。

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平和にまさるものはなし

『一切れのかわいたパンがあって、平和であるのは、ごちそうと争いに満ちた家にまさる。』箴言17:1

私の家族は父が病気になり、母は精神的に一人で家を切り盛りした。かつては父に文句も言わず、黙って従っていくような慎ましかった母は、外で働くようになり、みるみるうちにたくましくなっていった。離婚もせず、家族のために働いてくれた母には感謝しているが。

母は家で、父の行動を口うるさく注意するようになった。けんかというのではないけれど、穏やかな家庭ではなかった。早く家を出ていきたいと自立を願ったし、家を出てからは、帰ってきても長くはいたくないと思った。

今、主人と子どもとの私の家庭は、けんかもなく穏やかである。それが当たり前ではない、尊いことと深く思う。かたずいてない部屋だけど…と思うと、いつもこの聖書のことばを思いめぐらし、平和な家庭を支えてくれている神様に感謝している。

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自殺願望をもったエリヤに神様がしたこと

『彼(エリヤ)は、…自分の死を願って言った。「主(神)よ。もう十分です。私のいのちを取り去ってさい。」…主の使いがもう一度戻って来て、彼にさわり、「起きて、食べなさい。旅はまだ遠いのだから。」と言った。』第1列王記19:4.7

ときとして、人は大きなことをした後、精魂尽き果ててしまうことがある。エリヤは信仰の人で、バアルの預言者450人を一人で相手にし、どちらが本当の神か戦いをし、みごと勝利を治めた。

そんな英雄エリヤは、その後、命を狙われ、「もう駄目だ」と神様に自殺願望を話す。

エリヤに神様がされたことは、何か特別なことではなかった。食べて力をつけさせることだった。

私の息子は基本的に能天気なタイプだが、小さいときから、お腹が空くと人生ブルーになり、悲しくなる。親は「大変だ。食べ物、食べ物」と慌てる。食べるといつもの明るい子どもに戻る。

人生疲れ果てて、死んでしまいたいと思うときがあるかもしれない。そんなときは、まず、よく休み、食べることかもしれない。旅は続いている。ゆっくり、歩けばいい。

神様、自殺をしたい程に苦しんでいる人がいるのなら、誰かを送ってください。その疲れが少しとれるように、休み、食べられますように。そして、旅の途中でしかないことを思い出させてくださり、新しい力を与えてください。

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2008年7月30日 (水)

困難な中から解放と自由が与えられますように

『陶器師は、粘土で製作中の器(うつわ)を自分の手でこわし、再びそれを陶器師自身の気に入ったほかの器に作り替えた。』エレミヤ書18:4

人が成長したり、いろんなことを教えられて変わっていくのは、残念ながら、楽しいとき、順風満帆なときではない。苦しいとき、困難なことが押し寄せてくる中でだったりする。

私は、様々な出来事を通して、自分の内側が変えられていくのを体験した。まさに、陶器師(神様)の手にかかり、神様の望むように作り替えられていくような感覚だ。その時々は自分を捨てる、自分を変えるということは、手術を受けるように辛いが、そのあとにあるのはいつも、癒しと回復だった。

『彼(自分)のことばがそのとおりになる時まで、主(神様)のことばは彼をためした。…彼は解放され、…自由にされた。』詩篇105:19.20

あなたが困難の中にあるならば、その中で作り替えられて、解放と自由を与えられますように。

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変わることなく、与えられてる能力と使命

『神の賜物(たまもの)と召命(しょうめい)とは変わることがありません。』ローマ人への手紙11:29

仙台の大学を中退した私は、東京にきた。恵比寿に3畳の部屋を借りて住んだ。自分の新しい道を探して、バイトをしながらデザイン学校に通い始めた。

神様に出会っていないこの頃は、自分の生きる道を探しながらも、孤独だった。一日誰とも話さない日々も続き、夜な夜なお酒を飲みながら、日記に孤独の叫びを殴り書きしてた。

そんな、人の役にたつどころか、生きていくのもしんどい状況だったが、ずっと昔から自分の根底に流れている願望は変わらなかった。それは、人の役にたつことがしたいということだった。

ユダヤ人は神様に選ばれた選民であるにもかかわらず、イエス・キリストを拒んだ。それならば、歴史の中で、ユダヤ人に約束されたことは無効になったのかと、著者パウロは問う。神様が与えられた能力と使命はどんな状況でも変わることなく、必ず果たされると言う。

神様は一人一人に能力と使命を与えておられる。今どんな状態であっても、与えられているものは変わることなく、私たち一人一人そのことを遂行できるように神様は計画されている。あなたの能力をもって与えられた使命が果たされますように。

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2008年7月29日 (火)

祈りが聞かれ、母の死を賛美の歌で送る

『何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださるということ、これこそ神に対する私たちの確信です。』第1ヨハネの手紙5:15

母は亡くなる前にイエス様を信じ、いつ、天国に召されたてもおかしくない状態が続いた。私はひとつのことを神様に祈り、願った。「神様、人は死んでいくとき、最後まで機能しているのが耳だと聞きました。どうか、母が天国へいくときは、私の賛美の歌で母を見送ることが出来ますように。」

それから数日たった夜中、母の病室に一緒にいた姉から電話がかかってきた。母が危篤という。すでに電話を受ける前に、私の中ではひとつの賛美の歌が流れていた。

病室で医者が、「ご臨終です。」というと同時に私は母の耳もとに近づき、ずっと私の中で流れていた賛美を歌った。

♪主イエスをほめよ、主イエスをほめよ、主イエスをほめよそのみわざを。我を罪より、救いあがない、主イエスをほめよ、そのみわざを♪

殆んど口ずさんだことのない賛美だったが、本当に母を送るのピッタリな歌だった。神様は母の死に際して、様々な祈りを聞いてくれた。

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心の重荷をかたずけ、共に交流してくれる

『見よ。わたし(イエス)は、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところにはいって、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。』黙示録3:20

私はかたずけが苦手なので、友人を家に招くときは、家を掃除するのが、一仕事になる。それでも、友を家に呼びたい欲求のほうが強いので、頑張って、掃除し、かたずけをする。

人との親しい交流も、また、そのようだと思う。自分の中に、荷物(悩みなど)が沢山あると、その心の奥底まで、人を迎え、受け止めることが出来ない。きれいになったところで、初めて快くお招きできる。

イエス様も、また、私たちとの交流を望んでいる。ノックされたら、いつでもウェルカムと心の扉を開けなさいと言う。あなたの家にある解決されない荷物やゴミは、私がきれいにするからといっておられる。恥ずかしいから、家は見ないでください…と頑なにドアノブを引っ張るのでなく、こんな状態ですが…と扉をあけたら、その重荷を処理してくださるというのだからありがたい。

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2008年7月28日 (月)

自分を受け入れる中で広がる人との関わり

『イエスは、母と、そばに立っている愛する弟子とを見て、母に「女の方。そこに、あなたの息子がいます。」と言われた。それから その弟子に「そこに、あなたの母がいます。」と言われた。その時から、この弟子は彼女を自分の家に引き取った。』ヨハネの福音書19:26.27

イエス様が十字架の上から母マリアと弟子ヨハネに言われたことば。自己中心を捨て、赦された者の新しい人間関係の象徴である。

私は母が召されたときは、「母さん、天国でまた会おうね。」と泣くことはなかった。その一年後、主人の実家でお正月を過ごしたとき、いつも一緒に正月を過ごした母はもう居ないんだと思い号泣した。そして母に出来なかった親孝行、誰かにします…と 祈った。

今日、地区婦人会に参加した。母ほどの年齢の人たちと、ゆったりとした楽しい一時を過ごす。最近、20歳位年上の人たちと関わりを持たせて貰うことが多いが、年齢を越えて、共感しあえたり、分かち合えたりが楽しい。自分が赦され、自分を受け入れる程に、違う人たちとの出会いが楽しい今である。

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思いわずらいを祈りと願いに変える

『何も思いわずらわないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。』ピリピ人への手紙4:6.7

子どもは小さいときは、くよくよ悩まない。頼りになるお父さんやお母さんのもとで、安心して暮らす。何か困ったことがあっても、家族の人が考えてくれる。

私はかつてはかなり心配症だった。頭の中は何かをいつも心配していた。そのなごりか、口うるさくいう私に小さかった我が子に「ママは心配症なんだから。大丈夫だよ。」とよく言われた。

心配や思いわずらいを自分の中に留めておくのは、事を解決しない。心配を自分から、任せられる方に置く。それが私にとっては祈りであり、その与えられているときを、精一杯生きるときとなる。

あなたの思いわずらいが、願いと祈りに変わり、安心が心に訪れますように。

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2008年7月27日 (日)

傷と痛みも神様の栄光のため

『「先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか。」イエスは答えられた。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現れるためです。」』ヨハネの福音書9:2.3

主人は3歳のとき、牧草用の機械に手を巻き込まれ、右手を失った。お母さんは、何でも一人で出来るよう、しっかり育ててくれたので、何でもできる。パソコンは独学で勉強し、障害者大会で世界3位になった。私などより、はるかに努力家で能力がある。

主人は手を失ったこと以上に辛かったことがある。それはいじめを受けたり、差別や偏見を受けてきたことと思う。右手がない現実ではなく、人が作り出してきたもので苦しんだ。

そんな主人は、上記の聖書の言葉をもって話す。「自分が障害の痛みがなかったら、そつなく何でもやって、神様の慰めや憐れみの世界は知らなかったかもしれない。」主人は神様の愛情を受け、喜んでいる。神様のしてくださった恵みに感謝している。

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受けるよりも与える幸せ

『受けるよりも与えるほうが幸(さいわ)いである。』使徒の働き20:35

イスラエルには2つの湖がある。一つは有名な人の体が浮く塩分の多い死海、その北に小さなガリラヤ湖。この2つはヨルダン川でつながっている。

ガリラヤ湖周辺はイエス様が生活された地域。沢山の水を受け、沢山の水を放出するガリラヤ湖。そこにいる魚は豊富でそのまわりにいる人々を潤す。

一方沢山の水を受け、豊富に水をたたえる死海は生き物はいない。塩分のゆえか、たくさんの水を貯めているにも関わらず、まさに死んだ海となっている。

私はいつもこのガリラヤ湖と死海は人の様を表していると思う。わずかしかもってないようでも、それを誰かのために使うと、自分自身が生きる。自分のためだけに溜め込んでいくと、新鮮な流れを失う。自分に与えられてるものは、私のためではなく、誰かのためのものと信じて、与えていくものでありたいと願っている。

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2008年7月26日 (土)

何度も話す女性の会話の大切さ

『あなたがたも、おのおの自分の妻を自分と同様に愛しなさい。妻もまた自分の夫を敬いなさい。』エペソ人への手紙5:33

主人に、どうして女性はそんなに長電話できるか、不思議がられる。息子までが「ママ、長電話終わったの?」と言う。

ポール・トゥルニエという医師で、心理療法の専門家の人が、「結婚の障害」という本で次のように言う。「男性と女性の会話のもつ意味が違う。会話を通して男性は考えと知識を表現する。女性は感情、情緒を表現する。なぜ妻が、自分の体験を何回も語るかを説明する。夫に報告するためではなく、情緒的な緊張を和らげるため、もう一度話す必要があるのである。」

仕事でお疲れのご主人を妻が優しく迎えられたら素晴らしい。が、妻の話しをよく聞いてあげるだけで、妻たちは明日からの育児も頑張ろうと思えるのだと思う。それが、夫の大きな育児参加となるのだろう。

ランチ産業は盛んだなぁと思うが、夫に聞いてもらえぬ愚痴をランチしながら、友人に聞いて貰うのは、女性のたくましい知恵とも思う。

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自己否定の子どものつくり方、治し方

『わたしの目には、あなたは高価で尊い。』イザヤ43:4

私は20才のときには、100%自己否定、自己嫌悪の人間だったので、自分の生育を振り返り、人はどうやって、否定感を養っていくのかわかる。私の母は、鬼のように怖い訳でも、厳しい訳でもなく、きっと愛情深いほうだったと思う。ただ、不幸なことは、私が父親似だったので、母との価値観が水と油のように違っていたことだった。自分の思いをいくら話しても母には理解できない。理解されないということが一番つらかった。まるで、四角の自分が、丸い入れ物に無理やりいれられ、お前はお前であるなと言われ続ける、否定され続ける感じだった。

今、100%自己肯定感のある私は、弱く足りないところはあるけど、大丈夫。私だけの良いところもたくさんある。良いところも足りないところも神様が見る目と同じ目線で、私は両方含めて大切な存在と思える。子どもを理解し、認め、褒めて褒めすぎることはないと私は思う。

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2008年7月25日 (金)

救い(ゆるし)のかぶとで守られますように

『邪悪な日に対して対抗できるように…神のすべての武具をとりなさい。…救いのかぶとをかぶり、また御霊の与える剣である神のことばを受け取りなさい。』エペソ人への手紙6:13.17

私がPTAの役員を引き受けたとき、先輩の方から「あなたは、やれるような人でないから、降りたほうがいい。」と説得された。「私の能力が問われるなら、確かにアウトかもしれないが、会議には全部出ます」と話した。先輩の方は、その後まわりの何人かに私の事をふさわしくないと電話したらしい。不思議と恐れも怒りもなかった。私は足りないのは充分自分で受け入れてる。なぜなら、神様が受け入れ、赦してくれているから。その日の日記には、みんな赦されていると、みんなの頭に救いのかぶとをかぶらせて歩きたいと書いてあった。

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憎しみが赦しでおおわれて

『憎しみは争いをひき起こし、愛はすべてのそむきの罪をおおう。』箴言10:12

愛情が憎悪に変わる、そんなドラマかサスペンスみたいな恐ろしい体験、皆はしたことあるだろうか?。

かつて、私は一人の男性に心引かれ、彼の活躍や祝福を祈っていた。この人と結婚できたらいいなとも思った。ある時、手紙に思いを書いて渡すと、「これ以上近ずくと、友でもなくなる」と手紙がきて、拒絶の態度を強くされた。

私は何があっても彼のためには、変わらず祈っていくと思っていた。しかし、心の奥深くに眠ってた憎しみとさばきと冷たくさめた思いが湧いてきた。そして、そんな自分に驚き唖然とした。

3ヶ月後、彼から呼び出された。「神様から、ひどい態度をとったことを謝りなさいと言われた。赦してください。」『とんでもない、醜い心の私こそ、神様赦してください』と心の中で叫んだ。彼の謝る言葉に、私の醜い心が神様から赦され、神様の愛でおおわれていくのを覚えた。

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2008年7月24日 (木)

罪責感から解かれる大切なとき

『私は黙っていたときには、一日中、うめいて、私の骨々は疲れ果てました。…「私のそむきの罪を告白しよう。」すると、あなたは私の罪のとがめを赦されました。』詩篇32:3.5

私が小学3年のときのことだった。朝自習は漢字を沢山書くことになっていた。が、教室は騒がしく、みんな遊んでいた。私もしかり。先生が来て怒り、一人ずつのノートのチェックを始めた。私が開いたページには沢山漢字が書いてあった。「今朝書いたの?」と聞かれ、「いいえ」と言えず、「はい」と言ってしまった。「皆さん、彼女を見てごらんなさい。」と先生は私を見本にしてしまった。嘘つきの私を…。

子どもの私にとって忘れることの出来ないことだった。悪いことは、認めさせて謝らせる、子どもにとって罪責感から解かれる大切なときなのだと思う。

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祖母が嫁から受けた傷が癒される

『そして(キリストは)自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。』第1ペテロの手紙2:24

姉が結核になったとき、祖母ははじめ、ご好意で母方の親戚に預けられた。祖母には遠い昔の古傷が心にあった。それは、嫁である私の母にじゃけんにされたことらしい。私には真意はわからないが、祖母は傷つき、自分も気がつかないうち、その話しを繰り返すようになっていた。その結果、その親戚の家から別の親戚の家に移された。そこは母の姉の家だった。同じく愚痴ともならぬ昔話をし、その家からも遠慮の申し出があった。

祖母と話した。「ばあちゃん、母さんが悪いことしたなら、ゆるしてやってくれないか。」祖母は「私は天国に行った人は悪く思ってないよぉ」「それじゃ、私と祈ろう。後に続いてね。母さんのじゃけんにしたのを、イエス様の十字架で赦します。ばあちゃんの傷を癒してください。」

共に祈った。そのときから、祖母は母である嫁の話しはしなくなった。上手に明るく年老いている。

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母の夢に現れたイエス様

『わたし(イエス)の父の家には、住まいがたくさんあります。もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたもおらせるためです。』ヨハネの福音書14:2.3

母は危篤状態の酸素マスクをして、イエス様を自分の神と信じた。次の日、不思議と元気になり、姉に話した。
「昨日の夜、イエス様がなぁ、夢に出てきてなぁ、私に向かって言うんだっけ。「そっちは人少ないでしょうが、こっちには沢山いますよ。」って。イエス様はなぁ、モンペみたいなのをはいていて、後ろに沢山の人がいるんだっけよぉ。」それから20日後、母は天国に召された。聖書も読んだことのない母だったが、夢で会ったイエス様の言葉を信じ、安心して、旅立ったに違いない。

『朽ちるものが朽ちないものを着、死ぬものが不死を着るとき、「死は勝利にのまれた。」としるされている、みことばが実現します。』第1コリント15:54

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2008年7月23日 (水)

さばくことをやめる=人の影響から切り離される

『さばいてはいけません。さばかれないためです。あなたがたがさばくとおりに、あなたがたもさばかれ、あなたがたが量(はか)るとおりに、あなたがたも量られるからです。』マタイ7:1.2

虐待と過保護は同じ傷を持つと聞いたことがある。そんなことはないだろうと思ったが、どちらも親から尊重されず、支配される。そうして育った子どもは、自分だけのバリアを持てず、また、人を支配するか、迎合していく。

私の場合は、過保護のほうだった。どこまでが自分の責任の領域で、どこからが人の責任かわからない。だから、私の場合は、全部人のせいにしてさばいてきた。苦しかった。その逆は、全部自分のせいにして責めること。

どうしたら、自分と他人の領域を分けるか?まず、自分を受け入れること。自分を認め尊重していくことで、自分と他人の境目がはっきりする。それを境界線(バウンダリー)と言うらしい。

あなたの境界線が壊れていたら、それが直され、人の影響で苦しまなくなりますように

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胎児のときの傷がある人の傷が癒されますように

『それはあなた(神)が私の母の胎のうちで私を組み立てられたからです。…あなたの目は胎児の私を見られ、あなたの書物にすべてが、書きしるされました。』詩篇139:13.16

お母さんと胎児はへその緒でつながり、命がつながっている。そして、心もつながっている。お母さんの不安定な気持ちが胎児に影響し、傷を与えることがあるという。

しかし、どんな状況で生まれても、それは神様に選ばれ、与えられた命と思う。

「神様は世界が始まる前に私たちを選び、計画をもたれた」(エペソ1:4)と書いてある。私たちはたまたまの、偶然の産物ではない。きめ細かく計画され、期待され、愛される存在として生まれてきた。それは、不幸な状況を打ち破る揺るぎない事実と私は信じている。

胎児の傷がある方の傷がまったく癒されますように。神様の愛の力におおわれますように

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割礼(過去のしがらみ)が大事ではなく、新しい創造(癒され変えられていくこと)が大事

『割礼を受けているか受けていないかは、大事なことではありません。大事なのは新しい創造です。』ガラテヤ人への手紙6:15

自分は自由だと思っていても何かに縛られ、支配され、影響されている。心に深い傷をもっている人は、過去に縛られている。今の自分がこのようになったのは、過去が悪い、誰かが悪いと。

確かにつらかったかもしれない。けれど、せっかくたった一度の人生、過去の不幸に振り回されてはもったいない。

大事なのは、早くその過去から切り離れられるように癒されて、許されて、その悲しみからしか生まれてこない輝きへとむかえることだ。

あなたの痛みが癒され、新しい創造の中へ入っていけますように

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もし心が暗かったら希望の光に照らされますように

『光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。』ヨハネの福音書1:5

天地創造で、神様はことばですべてを創られたと、聖書には書いてある。『やみが大いなる水の上にあり…そのとき、神が、「光よ。あれ。」と仰せられた。すると光ができた。』創世記1:3 私たち人は言葉によって生きる。ひどい言葉で殺されることもあるし、よい言葉で生き返ることもある。

希望の言葉が与えられると、真っ暗な心は照らされる。神様は、天地創造以来、休むことなく私たちに「光よ。あれ。」と語り続け、その業をされている。そして私たちを希望の約束の中に生かしたいと願っている。

もしあなたが、今、光を必要としているなら、神が与える変わらない希望の言葉が与えられますように。

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求めるならば、与えられる

『求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。』マタイ7:7

前に書いたように、かつて私は何のため生きているのかわからず、悩んでいた。親にお金を出してもらったが、大学3年の終わりに、親に内緒で大学を中退した。そのことは後々母をひどく悲しませてしまった。

私の求めていた生きる道は、大学を辞めなくとも、見つかったかもしれない。けれど、不器用な私はそのようにしかできなかった。

母が召される前、私は母への最後の手紙にこう書いた。「母さん、あのとき大学中退して、悲しませて、ごめんなさい。でも、求めていた私の生きる場所が見つかったよ。今、幸せです。」

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神業の中で家庭を保つ

『人(アダム)にはふさわしい助け手が、見あたらなかった。そこで神が、深い眠りをその人に下されたので彼は眠った。それで、彼のあばら骨の一つを取り…一人の女(エバ)に造り上げ、その女を人(アダム)のところに連れて来られた。』創世記2:20~22

何故、神様は男と女を創られたか?未知なる異性の前に、人は半分しか分からない存在で、すべてを知ってる神様の前で謙虚になるためだと誰かが言っていた。
夫婦は、もともと他人で、しかも未知なる半分なのだから、そこで一緒に生きていくのは、神業なくしてあり得ないのかもしれない。

私は結婚したばかりの頃、かなり夫に優しくなかった。ゴミのことかで喧嘩になり、主人は荷物をまとめて、出ていこうとした。そのとき、結婚式の「あなたは病めるときも妻を愛するか」という誓いを思いだし、主人は出ていくのを思いとどまったと言う。

欠けだらけの私が、平和な家庭を築けてるのは、私の力でなく、ただ、憐れみの連続なのだとそこに神業をみる。

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空虚な闇の底にあった光

『空の空。すべては空。日の下で、どんなに労苦しても、それが人に何の益になろう。』伝道者の書1:2.3

人生をさ迷っていた頃の私の心を支配していたのは、孤独と空しさだった。あるとき、空虚という心にある黒いシミが、だんだん大きなシミになって広がっていくような気がした。
心の中の空虚という闇に覆われてしまったかのような中で、私はイエス様に出会った。

『主(神)は私の叫びをお聞きになり、私を泥沼から引き上げてくださった。』詩篇40:1.2

私も誰かが叫んだら、その泥沼の近くで手を伸ばせるものでありたい。なぜなら、イエス様がそこにおられるから。

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2008年7月22日 (火)

今に生きる

『だから、あすの心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります。』マタイの福音書6:34

かつての私は、2つ癖があった。一つは放浪癖、もうひとつは空想癖。つらい現実に耐えられなくなると、リュックを背負って旅にでた。そして、その楽しかった旅の日々を、繰り返し思い出す。そして、ありもしない未来を思う空想。その2つの癖の間に、現実はない。

深い傷を持っている人は、過去や未来に逃げ、現実に直面できないと本で読んだ。まさにそれだった。

今、私の中にあるのは、過去でも、未来でもなく、この瞬間の誰かへの祈り。過去や未来に縛られず、神様にある現実の祈りの空間につながっている。

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切り離された関係の痛みの癒し

『わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。』マタイの福音書27:46

イエス・キリストは死刑になり、十字架にかけられた。何も悪いことをしていないのに、私の代わりに神様の前に罰を受けてくれた。イエス様にとって、天のお父さんと関係が絶たれたとき、絶望の中、こう叫んだ。

私は信頼する一人の友人がいた。突然、その関わりをやめるとメールがきた。きっと、私の非のゆえであったと思うが、親しい交流が途絶えるのかと胸がつぶれる思いだった。

イエス様の十字架を思った。イエス様は私と違い非はないのに、処刑され、命まで奪われた。私は友は失ったが、命は失ってない。
私の苦しい思いは、私の想像をはるかに越え、私のために苦しまれたイエスの愛の大きさに包まれていた。

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2008年7月21日 (月)

あなたは必ず癒される

『おとめイスラエルよ。わたしは再びあなたを建て直し、あなたは建て直される。』エレミヤ書31:4
母は2番目の子どもは、男の子を切望した。女であったので残念がったし、「お前が男の子だったら」とため息まじりのぼやきをよく聞かされた。当然、子どもの私は、自分が女であることに否定的になった。スカートははかない、男は敵対するもの、自己否定は歪んでいた。
結婚して、主人は私の女性の欠けを責めることなく、受け入れてくれた。女性である前に、パートナーとして、互いがカバーすればよいと考えてくれた。いつの間にか、私は幼少時代の『女であるな』という暗示から解かれ、女性であることを受け入れ、感謝できるようになった。

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与えられているものに目をとめる

『よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』マタイ25:21

母から認められずに育った私は、人一倍自己顕示欲が強かった。

少しずつ、ありのままの自分でよいと受け止められたが、大きな転機は3年前、自分が裁いてきて人たちを徹底して赦す祈りをしたときだった。人を裁いている分、自分を受け入れていなかったらしく、すべて手を離してみたら、自分が本当に受け入れられていることを実感した。
と同時に自分だけに与えられている能力が沢山あることが見えた。与えられていないものにではなく、与えられているものをフルに活用する、それが100%自分らしく生きること、楽しむことと知った。

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自分中心から移される

『あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。』箴言3:6

神様を信じ始めていたころの私は、凄くごう慢で、自己中心だった。神様に聞いて従うのでなく、神様を利用し、神様を従わせようとするフトドキ者だった。

結婚したいと思っていた私は、祈り倒せば、神様は聞いてくれると思っていた。「神様、私、この人と結婚しますから、そのとおりにしてくださいね。」と祈った。お付き合いしたがうまくいくはずもない。付き合いが終わったとき、自分の自己中心の姿だけがよく見えた。口から出る言葉は「神様、ごめんなさい。」だけだった。5日間、胸がつぶれるような思いでご飯が食べられなかった。その5日間の深い反省で、私の中の何かが変わった。ご飯を食べられるようになったころ、私はしつけされた犬のように、「すべてに神様を認めます。神様に従っていきます。」と祈るようになった。私の自己否定からくるうつ症状もそのときからなくなった。

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父の死、そして和解

『神のなさることは、すべて時にかなって美しい。神はまた、人の心に永遠への思いを与えられた。』伝道者の書3:11

私が小4のとき、父の精神病が発病してから、私は父を受け入れられなかった。生きていながらにして、私の心では父は不在だった。
母が召され、3年後父も天国に召された。父の告別式のとき、部屋に入るとき、どこからか「頑張れよ、頑張れよ」と声が聞こえた気がした。私には父と母の天国からの声に聞こえた。告別式の最前列で私は最初から最後まで泣き通しだった。まわりはお父さんとの別れを悲しむ娘に見えたに違いない。しかしそうではなく、父への感謝の涙だった。病気を発病するまで10年間、父は私たち子どもをとても可愛がってくれた。10年だけだったけど、それで充分だった。やっと止まっていた時計が動き始めるよう、その後の病気も私との関係も仕方なかったのだと受け止められたときだった。父さん、育ててくれてありがとうと心で感謝した。

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あなた自身を受け入れられるように

『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』マタイの福音書22:39

私が誰かを大切にし、親切にし、優しくするには、まず、自分にそのように出来ていないと無理だと体験してきた。私が、理解され、赦され、受け入れられていくとき、同じことが初めて隣の友にも出来る。
真面目な人は、自分を責めてしまう。自分を赦し、弱い足りない自分も、また、自分の大切な一部だと受け止めていくとき、不思議とまわりの人の不完全さも楽に受け止めていける。
私もあなたを受け入れます。神様は、あなたのどんな部分も受け入れています。そのために代わりに十字架にかかられたのだから。

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ブログをみてくださった友人へ

『わたし(神)の目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。』イザヤ43:4

かつての私は、友を求めながらも、友に傷つき、リュックを背負って、北へ、南へと現実逃避の旅をしていた。

心が癒された私は、家族と友が何よりの宝物となった。

ブログを見てくださった友だちには感謝します。

聖書の言葉が出だしという、多分慣れない人にはとても入りにくい文ですが、読んでくださって、ありがとうございます。

神様にとって、私は宝物のように大切な存在ですが、私にとって、一人一人の友達がかけがえのない存在です。

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流産の悲しみを慰めてくれたもの

『主(神)よ。あなたは私を探り、私を知っておられます。…ことばが私の舌にのぼる前に、なんと主よ、あなたはそれをことごとく知っておられます。』詩篇1391~4

私は2年間に3回流産という経験をした。何回目だったか、手術が終わりベッドに寝てると、カーテンごしに、病室では「今、何ヵ月?」という妊婦たちの楽しそうな会話が聞こえてきた。なんで同じ部屋なんだろうと涙が流れた。誰にも知られることのない悲しみを理解してくれている人がいることが、慰めだった。あのとき、ベッドの上で何を祈っていたか忘れたが、神様だけは知っていてくれているので、泣きながら神様に話しをしていた自分がいた。
誰にも知られることのない悩みや苦しみや悲しみをもっているあなたが、知ってくださっている方によって支えられますように。

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2008年7月20日 (日)

赤いドライヤー

『友はどんなときにも愛するものだ。兄弟は苦しみを分け合うために生まれる。』箴言17:17
神学校を卒業した私は教会に就職した。が、心の中に沢山の傷が渦巻いていて、誰かの役にたつどころか、明日はどうやって生きていけばよいかとゆきずまっていた。全てがうまくいかなかった。元気のない私は、姉と会い、一緒に食事をした。何か欲しいものはないかと姉に言われ、赤いドライヤーと食料を買ってもらった。両手にドッサリの食料がありがたかった。「姉ちゃん、ありがとう。」というと姉は「お前にはなにもしてやれないから。」とポツリと言った。何もしてやれないと、何も言わず、寄り添ってくれる姉がありがたかった。本当の慰めは何も出来ないけど…そこから始まるのかもしれない。赤いドライヤーはついこの前まで20年使いきった。

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苦しみの中の慰め

『神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。こうして、私たちも、自分自身が神から受ける慰めによって、どのような苦しみの中にいる人をも慰めることができるのです。』第2コリント人への手紙1:4
私が小学4年のとき、父は精神病になり、病院に入院した。優しい、頼もしい父だったから、我が家は一変した。ある夜、母の実家から帰ると、暗い我が家に人影があった。父が病院を抜け出して、私たちに会いにきたらしい。母は泣いていた。父は病院に返された。暗い夜だった。…最近、フラッシュのようにその場面に自分がいるのが、思いだされた。子どもだったので、その感想は言葉にでないが、暗い悲しい我が家の夜だった。今、神様からたくさんの慰めを受け、癒された。すると、あの夜の体験が、誰かの悲しみへの理解につながっていることに気がついた。人生無駄なことは、一つもない。『もし私たちが苦しみに会うなら、それはあなたがたの慰めと救いのためです。』第2コリント1:6

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二度目の洗礼

『主は私の受ける分です。』詩篇119:57クリスチャンにとって、洗礼は神様の子どもとされたとき、神様とともに歩むスタート、人生の誕生か結婚式に匹敵するほど、記念すべきとき。私は22才のとき、すでにクリスチャンとして教会学校の子どもたちに聖書のお話を教えていた。子どもと富士五湖でキャンプした夜、子どもに話された話しを聞いて、私は本当に神様に受け入れられているクリスチャンか疑問が湧いた。『疑いがあるなら、信仰ではなく、それは罪』という聖書の箇所を言われ、洗礼を受け直おすことにした。真夜中の富士五湖で、子どもたちに内緒で、バプテスマ(洗礼)を受けた。真っ暗な闇が広く漂う静寂な中で、水に潜った。悲しかった。自分の信じてきた信仰を全部否定されたようで。そのとき、それまでの自分の信仰を確かに捨てさせられた。2日泣き続けた。自分を信じるのではなく、神様を信じるスタートだった。良いものを受ける始まりのときだった。
傷つきやすい人は、傷を大事にしやすい。自分を自分で守る自己防衛が働くのかもしれない。自分の傷や考えや思いを捨てる、それは難しいが、良いものを空っぽになった心で受ける準備になる。傷ついたあなたが、良いもので覆われますように。

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あなたの呪縛が解かれるように

『『私がおまえをあわれんでやったように、おまえも仲間をあわれんでやるべきではないか。』こうして、主人は怒って、借金を全部返すまで、彼を獄吏に引き渡した。あなたがたもそれぞれ、心から兄弟を赦さないなら、天のわたしの父も、あなたがたに、このようになさるのです。』
マタイの福音書18:33~34
人からの呪縛、それは実は、その人を許さないことで、自分が獄吏にいれられている状態を言う。どうしたら、扉を開けてそこから出られるか? それは、許せない人を許す、その人に要求して、返してよという手を、その人から離すことしかない。支配されているのは、自分がつかんで離さないから。でも、私たちはわかっていても、自分で要求の手を離せない。神様だけが、私たちにその手を離させてくれる。私の癒しの始まりは、『母を赦します。私も赦してください』この祈りから始まった。
もし苦しんでいる人がいるなら、その呪縛が解かれるように、自由になるように祈ります。

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2008年7月19日 (土)

父母の呪縛から解かれる約束

『あなたの父と母を敬え』出エジプト記20:12
モーセが神様からもらった十戒(十の戒め)のひとつ。神様は生めよ、増えよと家族の祝福を語っている。子どもが両親から暖かい愛情で育てられるように神様はされた。が、人間は不完全。父、母を選んだわけでもなく、受け入れられず、親との絆が呪いのような鎖に変わることもある。キリストは人の不完全さをゆるし、その鎖を解くためにきた。私の父母からの呪縛も解かれた。心の癒しの始まりは父母との関係から始まる。誰にも理解されない父母との関係の苦しみを知って、解こうとしてくれる方がいる。

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あなたは必要とされています

『主がお入用(いりよう)なのです。』マタイの福音書21:3
この言葉は、イエス様がエルサレムに入っていくとき、力強い馬ではなく、子ロバを選ばれ、それに乗った記事の中にある。小さなロバをイエス様は必要とされたという話し。私は、クリスチャンになってすぐに、神学校に入り、聖書の勉強をしたいと思った。先輩神学生が、『神様からの許可をもらったほうがよいよ』と言われた。私は必死に祈った。時間がないので、『今日、許可の言葉を聖書から語ってください』と。その夜の聖書勉強会でこの言葉をみんなで勉強した。電車で1時間の帰り道、『主がお入用です』とずっと、この言葉が繰り返し、繰り返し私の心でささやかれた。
今、ささやかれずともこの言葉の真実を思う。神様は私たちが何かをするとかしないとかそんなことに関心をおいていない。私たちの存在そのものを大切に思っている。すべての人が、必要とされている存在だということが神様からのメッセージなのだ。

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よいもので満たされている

『酒に酔ってはいけません。そこには放蕩(ほうとう)があるからです。御霊に満たされなさい』エペソ人への手紙5:18
私は飲み会が大好きで、時間がゆるせば、2次会でも3次会でもどこまでも付き合いたい。けれど、お酒は一滴も飲まない。飲まなくても、人に酔って、楽しいから飲む必要がないとまわりには言っている。飲んでる人は良くないとも思わない。飲む自由があるように、飲まない自由がある。昔はよくお酒を飲んで、溺れた。今は、私をいつも満たしてくださる神様の愛が心にある。せっかく、よいもので満たされているから、違うものでは満たしたくない。聖書の言葉は、今、キリストにあって恵みの時、規律や律法や命令や支配の世界から解かれている。ハレルヤ!

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生きていけると思った

『その永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ることです。』ヨハネの福音書17:3
何のために生きているか?そんな途方もない問いは、普通に暮らしている人はあまりしないのかもしれない。が、若い頃、私には最大の問いだった。そして、その答えが見つからない限り、もう生きていくこともしんどい状態だった。こんな私を心から愛してくれる彼氏でもいれば、生きていけるのかもしれないと漠然と思った。残念ながら、人を愛せない私に、私のすべてを受け入れ、愛を注いでくれる都合の良い彼氏は現れなかった。
私はなんのため生きているのだろう。私をそのままで許し、受け入れ、私のすべてを知っていてくれている神様を知った瞬間、私を生かしてくださる方のため、生きていけると思った。なんのために生きているかわからなかった私が、誰のために生きていけるか視点が変わった瞬間だった。

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孤独な心を埋めるもの

『私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し…』第1ヨハネ4:10
三つ子の魂、百までというが、幼いとき、周りから愛情を適度にうけてないと、心の空白は大人になってからではなかなか埋められないのだと思う。20才の頃、私も孤独が押し寄せ、どうすることもできなかった。それは、きっと、周りにどんな優しい友がいても、その優しさを受け止める心のセンサーが壊れてるので、受け止められない。埋まらない。誰にも埋めることのできない暗く深い穴を埋めてくれるのは、私たちを創られた神様だけと私は体験した。私は今、孤独な人の隣で何もできないだろう。でも、心を埋めてくださる神様がいるよと言い、その人のために、神様が愛で満たし溢れ、流してくれることを祈りたい。

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