聖書

2009年9月20日 (日)

『いのちを豊かに持たせる約束』

イエス様にある人には、新しいいのちを与え、それを豊かに与える約束があります。

『わたし(イエス)は門です。だれでも、わたしを通ってはいるなら、救われます。また安らかに出入りし、牧草を見つけます。

盗人が来るのは、ただ盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするだけのためです。わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。

わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。』新約聖書 ヨハネの福音書10:9~11

おはようございます。

今日も神様が私たちに関心を持ち、私たちを祝福したいと願ってくださっています。

聖書にある神様が約束してくださる生き方について考えてみたいと思います。

聖書では、イエス様にあるならいのちを得、また、それを豊かに持つとあります。豊かな人生を約束しています。

まず、神様は私たちが“自分らしく生きる”ことを願っています。

私たちは皆違う個性を与えられています。一人一人が“特別”な存在です。

神様は私たち一人一人が与えられた特性を最大限に生かして、そのままで生きていけることを願いました。

罪は自分自身のイメージをゆがめます。私が私としてありのままであっていいと思えるよう、イエス様の十字架の赦しを与えてくれました。

そして、赦された私たちは神様から愛される対象として生きていきます。

そのとき、私たちは与えられた自分を受け入れられている安心感の中、思う存分自分を発揮できます。

次に私たちは何のため、生まれたかです。

神様に愛されるためであり、神様の愛をもって互いに愛するためです。

また、一人一人に神様の特別な計画があり、そのことを成すためです。

神様の一人一人に与えられた能力と計画は変わらないとあります(ローマ11:29)

そして、どこに向かって生きているかです。

私たちはなんとなく生まれ、なんとなく死んでいくのではありません。

生まれたことに計画と意味があるように、向かう先もまた、ただの死ではありません。

イエス様を信じる人は、新しいいのち、永遠のいのちが与えられ、天国が約束されています。

ただ死で終わるなら、私たちは死に向かっているだけ、何をしても残りません。

聖書ではいつまでも残るものは信仰と希望と愛だとあります。(第1コリント13:13)

イエス様を信じ、イエス様の門を入っていく先には、ありのままで自分らしく、この世での計画をもって、信仰と希望と愛を目指し、天国にいけます。

イエス様が良い牧者となり、イエス様に頼る人たちを今週も導いてくださることを祈ります。

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2009年9月13日 (日)

『誰かのために祈るとりなしの祈り』

人のためとりなす祈りについて考えてみました。

『何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださるということ、これこそ神に対する私たちの確信です。

私たちの願う事を神が聞いてくださると知れば、神の願ったその事は、すでにかなえられたと知るのです。』新約聖書 第1ヨハネの手紙5:14.15

おはようございます。

今日は祈りについて共に考えてみたいと思います。

私は誰かのための祈りというのは、キリスト教の専売特許のように思っていましたが、最近違うように思うようになりました。

私にとっては、祝福の神様に自分のことだけでなく、人のためにも祈ることができるというのは、すばらしいことと思っています。

人のために祈る心すら神様が与えてくださるのだと思います。

神様に祈れる祝福とその特権を思いますが、人の祝福を祈るのには、その祈りたい思いが大切だと思います。

クリスチャンであっても、誰かのために祈りたいという思いが湧いてこなければ、特権も何もありません。

ちょうど、目の前に、貧しい人のためにと食料が山ずみにされていても、それを届けようと動かなければ、そこにそのまま残されているだけです。

イエス様を知らない友人が、人のしあわせを願い、心をそこに集中させている友たちを何人か見ました。

そして、それもその人たちの尊い祈りの形と思いました。

神様は人を造られたときに、その人のために祈るという麗しい行為もするように造られたのだと私は思います。

日本にはお百度参りなど、良く誰か愛する人のため、身をはって願いを捧げる姿があります。

イエス様の世界での祈りは、イエス様が十字架にかかってくださったので、私たちのとりなしの祈りが聞かれます。

イエス様の十字架の犠牲により、私が赦され正しいものと神様に見なされたので、大胆にとりなしの祈りもできるのです。

祈る側が良いことをしていても、悪いことばかりするものでも、大胆に神様の至聖所まで入り、祈れるのです。

神様が私たちにくださったこのすばらしい特権を生かし、キリストの愛をたずさえて、人のしあわせを心から願い、祈るものでありたいと思います。

お一人お一人の誰かのために祈るとりなしの祈りがキリストの愛となって祝福されますように。

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2009年9月 5日 (土)

“小学6年の聞かれた祈り”(自分史8)

私が小学6年のとき、お祈りをしていた話しです。

『主(神)は仰せられた。「まことに彼らはわたしの民、偽りのない子たちだ。」と。

こうして、主は彼らの救い主になられた。

彼らが苦しむときには、いつも主も苦しみ、ご自身の使いが彼らを救った。

その愛とあわれみによって主は彼らをあがない、昔からずっと、彼らを背負い、抱いて来られた。』旧約聖書 イザヤ書63:8.9

小学6年のとき、私は“神様”を信じていた。キリスト教の神様かどうかわからなかったが、祈るならば、祈りを聞いてくださる神様だった。

夜、お布団に入ると私は密かにお布団の中で手を組み、お祈りをした。

転校したばかりで、私は、学校では合唱部に先生に誘われて入った。

ところが、レベルが高くて、ついていけなかった。辞めたかった。

その頃、丁度、陸上の選手選考会があった。100メートルを走り、速い子どもたちが選ばれた。

私は神様にお祈りした。

「神様、私は陸上選手に選ばれて、合唱部は辞めたいです。どうか、そうなりますように。」

なんだかとても毎日、真剣にお祈りした。

そして、その日は来た。陸上選手を決めるための走りをした。

タイムは、選ばれるほどに速くはなかった。が、そこで、タイムをはかった先生が言った。

「お前がこんな遅い訳がない。お前は、今日から陸上部だ。」と。

お祈りはきかれた。私はめでたく、合唱部を辞め、陸上部に入った。

陸上部と言っても、ハードルの補欠だったが、楽しかった記憶がある。

神様は祈りを聞いてくださった。感謝した。私の密かなお布団の中でのお祈りは一年間続いた。

が、中学になるとき、「こんな子どもじみたことは卒業しよう。」と自分で決め、辞めた。

自分史7を書いていたとき、この小学6年の聞かれた祈りを思い出した。

父が病で、父とは気持ちも通わず、寂しかった頃。あの頃、神様は私を知り、私といてくださったのだと思った。

ブログを書きながら、そんな過去の新しい気づきに、神様に感謝が溢れた。

世界の始まる前からキリストにあって私たちを選んで愛する計画をもっておられる神様は、私たちが一人きりだった…そんな風に思っていた過去にも確かにいてくださった。

たとえ、私たちが神様を知らず、信じていなかったとしても。

私たちが、聖霊様にあって過去を振り返るとき、その過去が神様の光で照らされる。

お一人お一人の通られた過去もまた、そのようになりますように

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2009年9月 4日 (金)

“神様のみ国が来ますように”(お祈り)

神様のみ国が来ることを願いつつ、お祈りをのせます。

『あなたがたのある者は、昔の廃墟を建て直し、あなたは古代の礎(いしずえ)を築き直し、

「破れを繕(つくろ)う者、市街を住めるように回復する者。」と呼ばれよう。』旧約聖書イザヤ書58:12

神様、捕らわれ人を解放し、闇にある人に光を与えてください。

霊的な世界での主の働きを顕著なものとし、祝福してください。

あなたが望まれるところが、現実の中でなされるようにしてください。

イエス様の愛が現されるものとしてください。

私たちを祈る者としてくださりありがとうございます。

霊的な目がはっきり見えて、あなたの望むところを願わせてください。

あなたがご自由に働いてください。

私たち人間側が、じゃましたり、止めたりすることなく、聖霊様の自由な働きをなしてください。

あなたこそ、私たちの頼るべきお方であることの信仰を確かなものとしてください。

私たちのあなたへの信頼の妨げになるものを示し、取り去ってください。

ほえたける獅子のようなサタンに対して、はっきりと見極め、戦えるものとしてください。

主のみてにゆだねます。私たち一人一人の人生をあなたのものとしてくださり、あなたが望まれるところへと、あわれみ導いてください。

主の主権、主の御名をあがめます。

イエス様のみなによって祈ります。アーメン

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2009年9月 3日 (木)

“父からの影響”(自分史7)

親から受けられなかった欠乏を神様は埋めてくれます。

『神よ。私を探り、私の心を知ってください。

私を調べ、私の思い煩いを知ってください。

私のうちに傷のついた道があるか、いなかを見て、私をとこしえの道に導いてください。』旧約聖書 詩篇139:23.24

私が小学6年になるとき、私たち家族は再び転勤になり、小学1.2年を過ごした街に戻ってきた。

貸家を借りて、住んだ。母は外にパートに出るようになった。父は退院して、家にいたりした。仕事もしていたかもしれない。

病院から退院した父は人格が変わっていた。

かつては、とても知的で、社交的で、いつも子どもたちのことを一番に考えてくれる素敵な父だった。

精神をわずらい、薬のせいもあるのか、目の前の父は、出された食べ物を子どものことも考えずに食べるような人になっていた。

そのときの私は、変わり果てた父を受け入れられずにいたと思うが、何も考えないようにしていた。

父が変わったことに対する気持ちは誰にも話したことがなかった。話したら恐ろしいことになるから話せなかったのかもしれない。

たぶん、こんな父親は私の父ではない。いなくてよい…と無意識の中で思っていたと思う。

子どもはそのときは、愛されているか、愛されていないかはわからないと聞いたことがある。

私は精神的に父不在となってしまったが、寂しいと思った記憶もない。

が、半世紀生きてくると、父不在の影響が、そのときの自覚しなかった寂しさが長く私の心の傷となって、深いところで影響していたのがわかる。

完全に癒されたと思ったが、まだ、癒されていない部分があるかもしれない。

けれども、神様はその誰にも知られないような深い傷まで、癒しおおいたいと願っておられる。

私は6年のときまで戻り、病であった父を赦し、受け入れられなかった私をイエス様に赦してもらった。

あのころ、オリンピックがあり、白熱するバレーボールを家族で見ていた。

そのとき、私が何を感じたか覚えている。

「この人たちはこんなに勝つことに執念を燃やし、いいなぁ。私はこんな一生懸命なことがなく、虚しいなあ。」と思った。

やがて、私のこの小さな虚しさは少しずつ、成長とともに大きくなっていくことには気がつかなかった。

人は愛されるために生まれてきた…とイエス様にあって良く聞く。

私の両親からの愛されることの欠乏は、私が生きていく意味を見失うところまでになっていく。

けれども、神様に感謝する。不完全な親に愛されることを受けきれなかった私たが、神様のあわれみとイエス様の赦しの愛の中、少しずつ癒されていった。

♯♯♯

神様、人は皆いろんな環境の中で育ちます。

しかし、神様は平等な方で、地上の親の欠乏を埋めてくださる方であることを感謝します。

癒し主なる神様、誰にも埋められない心の空白を癒し、主の愛でおおってください。

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2009年9月 2日 (水)

“キリストのからだの苦しみ”

キリストのからだの苦しみとその回復を思いました。

『あなたがたは使徒と預言者という土台の上に建てられており、キリスト・イエスご自身がその礎石(そせき)です。

この方にあって、組み合わされた建物の全体が成長し、主にある聖なる宮となるのであり、

このキリストにあって、あなたがたもともに建てられ、御霊によって神の御住まいとなるのです。』新約聖書 エペソ人への手紙2:20~22

最近、私は本当にまれにだけれど、イエス様の悲しみや苦しみを霊的に少しだけ、感じるときがある。

昨日は胸の中が重苦しくなり、キリストのからだの苦しみなのかなぁと思った。

イエス様は、私たちのイエス様への信仰を告白するところに、教会を建てられた。(マタイ16:18)

そこは、イエス様の権能が働き、神の御国が現されていく場所である。

目に見える地域教会も教会であるが、私はいつも目に見えないキリストのからだを思う。

キリストのからだの苦しみや痛み…どんなものがあるだろうか。

イエス様を信じたのに、目に見える教会には集えず、孤独にいる人。イエス様がなかなか身近に感じられず苦しむ人。一生懸命にイエス様のためにと働きながら、良いものが与えられず疲れた人。指導的立場にありながら、神様からの恵みの啓示の知恵が与えられず、責任感のみで我力でやっている人。

キリストのからだの様々なところが、傷と痛みで苦しんでいる。

そして、そこに互いが互いを受け入れ合わないさばきや批判があり、キリストのからだは癒されることなく、悲鳴をあげている。

私は自分のお腹が痛かったら、薬を飲む。

足が痛くなったら、歩くのを休む。

虫歯が痛くなったら、歯医者に行く。

自分の大切なからだをいたわり、早く回復し、痛みがなくなるようにする。

キリストのからだは、いろいろな視点からあちらもこちらも傷んでいる。癒しと回復が必要である。

私たちはキリストのからだを、自分のからだのように大切にできるか試されている。

私自身が長年してきたことだが、他者批判はキリストのからだのために何にも回復をもたらさない。

イエス様からいただいた愛をもって祈る…何もできなくとも、何もできないから、イエス様の力が働くことを願い、ただひたすらとりなしの祈りをする…それしか私たちにはできないような気がする。

もし、痛みがあるなら、大切なキリストのなくてはならない一部のあなたが癒されますように。

もし、誰かのために祈れる力が与えられているなら、一つとなってとりなし祈り、キリストの愛による癒しをともに体験できますように。

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2009年9月 1日 (火)

“主の大庭においてください”(祈り)

個人的な祈りですが、書きました。

『万軍の主。あなたのお住まいはなんと、慕わしいことでしょう。私のたましいは、大庭を恋い慕って絶え入るばかりです。私の心も、身も、生ける神に喜びの歌を歌います。…

万軍の神、主よ。私の祈りを聞いてください。ヤコブの神よ。耳を傾けてください。

神よ。われらの盾をご覧ください。あなたに油そそがれた者の顔に目を注いでください。…

まことに、あなたの大庭にいる一日は千日にまさります。私は悪の天幕に住むよりはむしろ神の宮の門口に立ちたいのです。』旧約聖書 詩篇84篇

恵み深い天のお父さん、あなたがすべてにまさって王の王、主の主です。

あなたによって、生きていく希望のないものが生きる希望を与えられましたから、ありがとうございます。

あなたによって、傷ついていた者が、傷のある人をとりなす者に変えられましたから、ありがとうございます。

あなたがいなければ、今の私はいません。

あなたが私のすべてとなってくださいましたから、ありがとうございます。

天では、あなたのほかに、だれを持つことができましょう。

地上では、あなたのほかに私はだれをも望みません。(詩篇73:25)

あなたが私の最善をご存じです。

あなたに出会ってこれまで、あなたが私の最善をしてくださいました。

だから、これからもまた、あなたを信頼し、あなたについていきます。

どうぞ、私を見捨てず、見放さず、主よ、共にいてください。

あなたにとっては、やみも暗くなく夜は昼のように明るいのです。暗やみも光も同じことです。(詩篇139:12)

あなたと親しくする主の大庭に私を置いてください。

ただ、あなたと語らう場所を祝福してください。

あなたの大庭にいる一日は千日にまさります。

私はあなたがいない世界の中で憩うより、あなたのいる場所の苦しみを選びます。

主よ。あなたとともにいて、私をあわれみ、祝福してください。

主よ。あなたの愛に包み、悲しみを癒してください。

ただ主を慕い求め、あなたを賛美します。

あなたの栄光の光で私の顔を照らして慰めてください。

イエス様のお名前によって祈ります。アーメン。

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2009年8月31日 (月)

“神様の栄光を求める”

“神様の栄光”について思いました。

『わたし(神)は主、これがわたしの名。わたしの栄光を他の者に、わたしの栄誉を刻んだ像どもに与えはしない。

先の事は、見よ、すでに起こった。新しい事を、わたしは告げよう。それが起こる前に、あなたがたに聞かせよう。』旧約聖書 イザヤ書42:8.9

“神様の栄光”…かつては私はあまり考えたことがなかった。

今はなぜか、そのことが現されるように切なる願いが湧いてくる。

かつての私は何を求めるクリスチャンであったか。

それは“神様の栄光”ではなく“自分の栄光”…もっとわかりやすく言えば、自分は上手くできているか、やりたいことをやれているか、私の気分はどうなのか…そういうことばかり気をとられていたように思う。

今、読んでいる本、リック・ジョイナーの『収穫』という本に、次のような一文があった。

「教会、奉仕、霊的な真理、霊的賜物、あるいは聖書さえ、私たちが、それらに心を奪われてしまうときには、偶像になりえるのです。

来るべき神の栄光の中を歩む信徒たちは、主の宮に仕えることではなく、主の宮であられるイエスにお仕えすることのみ心を砕くでしょう。」

私は誰よりも、教会で語られるメッセージ批判してきた者だったが、良く聞くのに「今日の礼拝は恵まれた。」とか「恵まれなかった」とか言うのがある。

礼拝は神様に捧げるもので、私が恵まれるかどうか、気分が良くなるかどうか、聖霊に満たされた感じがするかどうかではないように思う。

私は教会や牧師やメッセージに長年心奪われ、まさに、イエス様を忘れて、自分が気持ち良くなることを追及してきたように思う。

そんな私がどうして、“神様の栄光”が心から現されるように願うようになったのだろうか。

神様の内なる癒しとか赦しとか…神様の、イエス様の、聖霊様のみ業でしかない。自分に固執する気持ちから離れられるようにしてもらった。

自分に固執しなくなると、“神様の栄光”=私たちの最善と心から思えるようになる。

私自身を長い間、忍耐し、あわれみ、造り変えてくださった主をただあがめます。

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2009年8月30日 (日)

8/30☆お祈り☆

ブログ周辺の方々を思い、お祈りします。

『しかし定めの時が来たので、神はご自分の御子を遣わし、この方を、女から生まれた者、また律法の下にある者となさいました。

これは律法の下にある者をあがない出すためで、その結果、私たちが子としての身分を受けるようになるためです。

そして、あなたがたは子であるゆえに、神は「アバ、父。」と呼ぶ、御子の御霊を、私たちの心に遣わしてくださいました。

ですから、あなたがたはもはや奴隷ではなく、子です。子ならば、神による相続人です。』新約聖書 ガラテヤ人の手紙4:3~7

この世界が造られる前から、私たちを愛し、壮大な救いの計画を立てられておられた神様、あなたのお名前をあがめます。

私たちはどう頑張っても正しい者とはなれず、その弱さの中に絶望的な者でした。

しかし、神様が時が満ちたとき、ずっと旧約時代から預言されていたイエス様を私たちに送ってくれました。

イエス様は処女マリアから生まれましたが、聖霊によりみごもり、人間の罪を受け継ぐことのないきよいお方として生まれました。

それは、私たちの罪を負い、十字架の上で私たちの罪を代わりに受けてくださるためでした。

2000年前のイエス様が十字架にかかられた歴史的事実が、信仰により、私の赦しと癒しと解放、平安が与えられるためとなり、この人の考えを越えた神様の救済のみ業をありがとうございます。

それは、ただ一度だけのイエス様の十字架によって完成され、私たちがそこに何も付け足さなくてよいのでありがとうございます。

私たちはイエス様の十字架で、罪赦され、神様の子どもとされましたから、ありがとうございます。

また、イエス様の御霊をいただき、神様のことを「お父ちゃん」と呼べるようになりましたから、ありがとうございます。

私たちは正しいことができませんでしたが、正しいことを自力でするところから解放されましたから、ありがとうございます。

イエス様が私のうちに生きてくださり、イエス様の愛に応答して生きていくものとされましたから、ありがとうございます。

神様からのたくさんの良いものを約束され、神様の子どもとしてそれらを相続する者となりましたからありがとうございます。

新しい1週間も、愛する方々と、神様、近くにいてください。

私たちが神様の子どもである日々を楽しませてください。

与えられた聖霊様によって、日々、「天にいるお父ちゃん。」と呼び掛け、たよらせてください。

私たちがイエス様の十字架で赦され、受け入れられているすばらしさを体験させてください。

私たちがいただいたイエス様の愛によって、人を祈り、祝福する者とさせてください。

この1週間を神様、ともにいてお守りください。

あなたの御名があがめられ、あなたの御国がきますように。

イエス様のお名前によって祈ります。アーメン

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“イエス様の十字架を信じる障害”

『義人はいない。ひとりもいない。…

…律法を行うことによっては、だれひとり神の前に義と認められないからです。律法によっては、かえって罪の意識が生じるのです。

しかし、今は、律法と預言者によってあかしされて、神の義が示されました。

すなわち、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、それはすべてを信じる人に与えられ、何の差別もありません。

すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによるあがないのゆえに、価(あたい)なしに義と認められるのです。』新約聖書 ローマ人への手紙3:10.20~24

おはようございます。

今日も、すべての人の唯一なる、天地を造られた神様が、教会の中にも、外にもいてくださり、私たちの小さな祈りも聞いて応えてくださることを信じ、感謝します。

イエス様の十字架刑による赦しのメッセージはシンプルです。

教会学校に通う子どもたちも、みんな素直に「イエス様、私の罪を赦してください。イエス様の十字架で赦されたことをありがとうございます。」と祈れます。

イエス様の十字架が自分のためであったと信じるのに、難しい知識はいりません。

けれど、このシンプルなメッセージがミソなのかもしれません。

イエス様の十字架の死刑が私のためだった…それほどまでに私は悪い人間なのか。

よく聞くのは、「私は法律に触れるような悪いことはしていない。」ということです。

正しい神様の前に、自分が死刑になるほどの罪深い人間だ…というのは、聖霊様がその心の暗やみを照らしてくれないと、わからないのかもしれません。

もう一つ、イエス様の十字架を信じる上で、難しいことがあります。

それは、“ただ信じるだけで赦しを受けられる”ということです。

私は息子にこの世の中では“ただより怖いものはないよ。絶対に何か裏があるから。”と話します。

信じるだけで救われる!?…そんなこと、本当かなぁと思います。

旧約聖書にナアマンという人が出てきます。(第2列王記5章)彼は将軍でしたが、らい病になりました。預言者エリシャは使いをやり、彼に言いました。

「ヨルダン川で7度あなたの身を洗いなさい。治ります。」と。

ナアマンは怒りました。エリシャがいろんなことをして治してくれると思ったからでした。

すると、ナアマンのしもべが「ご主人様は難しいことを言われたら、きっとそのとおりにしたでしょう。」ナアマンのプライドがじゃましているのを指摘しました。

ナアマンは自分のプライドのゆえに、簡単なことに従えなかったことに気がつかされ、幼子の如く、言われたとおりにして、癒されました。

イエス様の十字架を信じることには、自分の内側にある“罪”を認めなければならないと同時に、ただイエス様の十字架を信じるのみ…と人間側の資質とか能力とか何も問われていません。

何も自分にはありませんという人は喜んで信じますが、頭を低くし、自分は何もないと認めないと受けにくいのが、イエス様の十字架です。

イエス様の十字架を信じる者には、罪の赦しだけでなく、イエス様にある新しいいのち、そして、聖霊様が送られ、神様の子どもとなり、その良いものを受け継ぎます。

幼子の如く、平等に与えられているイエス様の十字架のプレゼントを受けとれますように。

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2009年8月29日 (土)

“イエス様に一致するすばらしさ”

イエス様による一致の大切さを思いました。

『ですから、あなたがたが良いとしている事がらによって、そしられないようにしなさい。

なぜなら、神の国は飲み食いのことではなく、義と平和と聖霊による喜びだからです。

このようにキリストに仕える人は、神に喜ばれ、また人々にも認められるのです。

そういうわけですから、私たちは、平和に役立つことと、お互いの霊的成長に役立つこととを追い求めましょう。』新約聖書 ローマ人の手紙14:16~19

もうすぐ総選挙がある。民主党が優勢と言われている。そんな中で、自民党がネガティブキャンペーンというのをやっているらしい。

我が家にもパンフが入っていたが、「民主党はこんな良くない?政策を打ち出している。」という6項目、6ページにわたる説明がされている。

そこには自民党が何をするかは一言も書かれていない。

このパンフが自民党に有利になるのかどうかはわからないが、相手の悪口だけ書かれたパンフはピンとこなくて、私は捨てた。

昔、本物の壺などの鑑定人を育てるのに、どうするかという話しを聞いたことがある。

偽物を一切見せず、本物だけを見せて、見る力を育てるのだそうだ。

私は教会批判を長年してきた人間なので、おこがましい気もするが、教会内で、批判をすると、サタンは手をたたいて喜ぶのだと思う。

それは、教会内の小さな批判もある。が、特に、牧師などが、他教会の批判や、他教団の悪口を言うことは、聖霊様を悲しませる。

牧師は、教会を守りたい、教会の羊たちを守りたいという思いがとても強いのだと思う。

それが、高じると、他者批判になるのかもしれない。

私は、教会を渡り歩いてしまったものとして、教団にはその守るところの教理(教団の教えの特徴とするところ)があるのを見てきた。

けれども、以外とそこに固執しているのは、牧師だけで、信徒はシンプルにイエス様への信仰だけをもっていたりする。

私も与えられた各教団の強調する教えを否定するつもりは全くないが、私は何を信じているかといえば、教団教理ではなく、イエス様だと言いたい。

私は福音派から、聖霊派と言われるところを渡り歩いたが、クリスチャンは皆、信じるところは一緒だと思った。

今、その経験が、いろんな背景をもった人たちとの交流にも役立っているのかなぁと思う。

リック・ジョイナーという人の本を友人から譲り受け、2册読んだ。

やがて、リバイバルが来たときにこぼれていく人の話しがあった。

「支配の霊」と「屈服の霊」に捕らわれる指導者たちと書かれてあった。

上に立つ人は、その人たちにしかわからない誘惑や霊的戦いがあるのだと思う。

今、癒されて思うところは、キリストのからだは、みんなで作りあげるものだということ。(癒されていないころの私は、牧師がすべて悪い…くらいに思っていた。)

教会に批判の霊や、支配の霊、宗教の霊など入りこんで、神様の平和が伝えられる場所が、違うものに支配されていないか…そこで、キリストのからだの共同体をなすものにも、祈り支える責任があるのかもしれない。

教団同士の決して埋まらない溝があるが、イエス様をあがめていくとき、支配の霊に支配されていないものたちから、イエス様にあって一つとなっていくのかもしれない。

ただ、このイエス様だけがあがめられるように、祈ります。

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2009年8月28日 (金)

“告白の力”

神様に対する“告白”とその力について思いました。

『なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。

人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。』新約聖書 ローマ人への手紙10:9.10

告白について考えてみた。

私たちの日常の中にも“告白”はある。

たとえば、好きになった子に自分の気持ちを“告白する”とか、結婚を望んでいる人にプロポーズして“告白する”などある。

“告白”は自分の気持ちをはっきりと相手に伝える。

そのことによって、曖昧だった関係が、成立したり、壊れたり、次がはっきりする。

イエス様を信じる信仰告白が、このローマ人の手紙の10章に書かれてある。

神様は人の心のうちをすべてご存じなので、たとえば、告白しても、しなくてもその心は知られている。

それでは、なぜ、告白が救いのスタートになるのか。

聖書にある多くがそうであるように、それは神様のためというより私たち人間の側のためではないかと思う。

信じている気持ち、その心があるなら、そのことがすでに神様から義とされているが、はっきりと表明することで、私たちは神様との新しい関係に入るのだと思う。

神様は告白を待たれているが、無理強いはしない。自然な告白を神様は喜ばれ、告白によってイエス様につなげられ、神様の子どもとなる。聖霊のしるしが与えられる。

信仰を告白する…これは、自分の行為のようであるが、気持ちを言い表しただけで、ただそれだけですばらしいことが起こるのだから、神様に主権がある。

私たちは良いものをもらっただけである。

第1ヨハネ1:9は私の生活適応の中心になる聖書のことばだ。

『もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。』第1ヨハネ1:9

たった一つの罪を認めて、告白するなら、すべての悪から神様はきよめてくれるとある。

私はこんな風に思っている。

私たちは全部罪や悪は無くならないが、ある一つの罪に気がつき、責められているようなことがあるならば、そのことを神様に申し上げることが良い。

そうすると、イエス様によって赦され、もう一度、神様とのふさわしい関係に入れられる。

別の言い方をすれば、その罪を認め、言い表すところにサタンが入りこむすきはなくなり、神様とのふさわしい関係の中で神様の領域に入る。

そこは、神様がご支配してくださる場所で、神様の良いものに満ちた場所に戻れる。

イエス様に赦され、神様とのふさわしい関係の中で平安の中に入れられる…と私は理解している。

何はともあれ、私たちの気持ちや思いを神様に“告白”することはすばらしいことである。

それは単なる“告白”にとどまらず、キリストの十字架が働かれる場所となり、聖霊様が豊かに働かれる場所となる。

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2009年8月27日 (木)

“イエス様の栄光をあおぐ”

自分で何かをすることより、イエス様に聞くことが大切なことと思います。

『そして彼らの目の前で、(イエスは)御姿が変わり、御顔は太陽のように輝き、御衣(みころも)は光のように白くなった。

しかも、モーセとエリヤが現れてイエスと話し合っているではないか。

すると、ペテロが口出ししてイエスに言った。

「先生。私たちがここにいることは、すばらしいことです。もし、およろしければ、私が、ここに三つの幕屋を造ります。あなたのために一つ、モーセのために一つ、エリヤのために一つ。」

彼がまだ話している間に、見よ、光輝く雲がその人々を包み、雲の中から、「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。彼の言うことを聞きなさい。」という声がした。』新約聖書 マタイの福音書17:2~5

イエス様は、ペテロとヤコブとヨハネを連れて、高い山に行かれた。

そこで、彼らは、光輝くイエス様とモーセとエリヤが話しているのを見た。

モーセは律法、エリヤは預言者…律法と預言は旧約聖書を表す。彼らがイエス様を証しているのだそうだ。

ペテロはこの素晴らしい光景を見て、口出しをした。

「私が、3つの幕屋を造ります。」と言った。

神様が天から「イエスはわたしの愛する子どもであり、彼を喜ぶ。彼に聞きなさい。」と言われた。

教会の働き、クリスチャンの働きは“何かをする”ことではない。

イエス様が十字架のあがないを成してくださったことにより、神様の救いの計画は成された。

私たちがすることは、“イエス様の十字架のみわざ”をほめたたえることであり、イエス様に聞いていくことである。

何かする世界は宗教の霊(人間の力)が働き、イエス様を見上げて聞いていく世界は啓示の神様によって聖霊様が働かれる。

私たちは、イエス様のために、ペテロのように「イエス様、あなたのために私はこれをしましょう。」と言ってはいないだろうか。

イエス様は人間の業を望んではおられない。

私たちが、イエス様の十字架と復活…神様が備えてくださったこの最大のプレゼントを喜ぶとき、神様の、イエス様の、聖霊様の御業が現される。

ただ、主だけがあがめられますように。

♯♯♯

私たちは、生まれたときから、自分のことは自分で考え、責任を持ってやりなさい…と教育されてきました。

ですから、正しい方(イエス様)に聞いて、従うということは、実はとても難しいことです。

私たちが、神様の望まれていない人間的な業ばかりしていることを赦してください。

すべての主導権を持っておられるあなたが成したいことをされるため、私を空っぽにしてくださり、ただあなたが私を通してしたいことをしてください。

そして、人の業ではなく、イエス様にのみ栄光が帰されますようにしてください。

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2009年8月26日 (水)

“両親を赦す・2”

聖書のことばが縛りから解放へとなった体験です。

『あなたの父と母を敬(うやま)え。

あなたの神、主が与えようとしておられる地で、あなたの齢(よわい)が長くなるためである。』旧約聖書 出エジプト記20:12

人間関係がうまくいかずに悩む人、生きていくのが内側からつらく感じる人の中には、幼少時代の影響のための人が多いかもしれない。

前にも書いたが、この十戒の第5の『あなたの父と母を敬え』は、かつて、敬うことのできない私にとっては、見たくないほどのことばだった。

悲しいことに私たちは不完全な親に育てられ、また、ある人はその親がいなかったりする。

その影響や欠乏は仕方ないのか?

神様は欠乏をも埋めてくださる方である。

私は父、母と神様によって和解させてもらったあとに、この『あなたの父と母を敬え。』ということばが、実は縛ることばでなく、限りなく解放へのことばと教えられた。

私たちの傷や痛みが、残念ながら、親や育ててくれた人からくるならば、私たちはそこにその後の人間関係の基礎を作ってしまう。

ある人は親に嘘ばかりつかれて、疑い深い人間になってしまうかもしれない。

ある人は否定ばかりされて、否定の渦から抜けられない。

私は母から考えていることを理解されなった。そして、世の中に出たころは孤独に陥ってしまった。

人間の不完全ゆえに作られた傷と痛み…神様はイエス様によってそれすら癒される。

私が両親からの傷の癒しと解放を受けたとき、それは私の世の中の人たちとの人間関係における解放となった。

『あなたの父と母を敬え』…私にはできません、イエス様の十字架で赦し、そのことをなさせてください……そのように祈り、取り組むことは、私たちにとって小さなことではない。

神様が与えておられる地で、祝福の多いものとされるのだと思う。

ちなみに、私は父、母を赦すことはあまり取り組まずに、神様のあわれみで癒された。

が、私は教会や牧師を“赦す”ということに関しては、25年間つぶやきながら先伸ばしした。

が、神様は忍耐してくださり、時満ちて、私がすんなり赦し手放せる時まで待っていてくださった。

私の罪を指摘してくれた友人にもよった。

人から罪を指摘されるのは、ものすごくつらい。なぜなら、相手も、たくさん罪を犯している人だからである。

願わくは、誰のためでもない、自分の自由と解放のために、“赦す”ことを祈り、聖霊様にその罪を示され、悔い改めることが望ましい。

聖書にあることばも私を縛るためではなく、癒しと解放へ、祝福へと導いてくださるための最善のことばと知った。

♯♯♯

天のお父さん、聖書にある一つ一つが、どれも私たちがなすには不可能なものばかりです。

イエス様はそんな弱く、何もできない私たちをその罪をかかえたままで赦すために来てくれました。

私の力が弱くなり、ただ、イエス様の慰めの力が、その弱い私たちをおおいますよう、あわれんでください。

そして、神様のことばのとおりの祝福を私たちに与えてください。

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2009年8月25日 (火)

“両親を赦す・1”

両親の呪縛から解かれることについて、私が思っている一部を書きます。

『あなたの父と母を敬(うやま)え。

あなたの神、主が与えようとしておられる地で、あなたの齢(よわい)が長くなるためである。』旧約聖書 出エジプト記20:12

昨日、ハチイーさんからコメントをもらった。

「自分の心の平安を得るために赦す必要のある人のリストのトップに父母があります。」とあった。

私も両親からの影響で苦しんだ者として、そのことばだけで、ハチイーさんと苦しみの共有体験をしている気がした。

両親によって苦しみ、そこから解放された者として、私は何か分かち合いたいと切に思った。

が、一方で、神様が与える癒しはまた、一人一人違うのかもしれないとも思った。

私には、大きな勉強になったことがある。

私は母の過保護過干渉で苦しみ、母が天国に移されることを通して、母を赦し、赦され和解した。

が、それは、ただ神様が母を救いに導いてくれたこと、天国の慰めを見せてくれたことを通して、和解に至った。

私は殆んど何もしていない。神様の憐れみの中に入れられただけだ。

それでも、赦した解放感を味わい、虐待されている友人に、赦す素晴らしさを話した。

彼女とはギクシャクしてしまった。

赦せないのに、私が赦すことを強要したかのような感覚を彼女は持ち、苦しんだ。

「癒され方は皆違う。」と私の信仰を否定された。

「これまで、何度も親に合わせて謝り、また、ここでもこっちから向こうに歩み寄って、謝らなくてはいけないのか。」と言っていた。

「Sebaさんは、心の癒しのミニストリーをしたいなら、変わらなければいけない。そのままでは無理と思う。」と2人の友人から別々のときヒィドバックされ、気持ちを返してくれた。

そのときは、「私だけ変わらなくてならないのか!、心の癒しのミニストリーがなんだっていうんだ。私はしたいと思ったけど、神様は与えてない。事実、その実を一つも見ていないどころか、話すのはやめてほしいと言われているではないか。」と思った。

そのやりとりに一年以上関わった。

そして、二人の親に虐待された友人に、私の大切にしていた信仰を否定され、何を否定されても、自分に与えられた信仰だけは否定されたくないと思った。

今回、ブログの中で、私の中に変化がおきて5月からさらに深い悔い改めに導かれた。

そのとき、一番大切に守りたい“私の信仰”も捨てることにした。

それはイエス様への信仰を持たなくなるというのでなく、人との対面の中で自分の信じるところには一切固執しないという思いだった。

もっと、大事なことを書きたいと思いつつ、このような記事になってしまった。

つまり、両親からの呪縛に苦しむ人に、私が何を言ってあげられるか…ということだが、求めるなら、必ず解放される、共にイエス様の力を信じ、祈ろうということである。

“赦す”ということは、手放し自由になることだと思うし、両親に苦しむ人への私の願いでもあるが、それを自分から言ってはいけないことも教えられた。

だから、「親を赦して平安を得たい。」というハチイーさんは、すでに赦す、手放す準備が出来ている訳で6割ぐらい、癒しに近づいていると思う。

自分の傷が親に原因があると知るだけで、3割ぐらいの癒しと解放に近づいていると思う。

聖霊様の成せる業、イエス様の赦しの力、神様の助けの中で、求める人に癒しと解放が与えられることを共に信じて祈りたい。

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2009年8月24日 (月)

“祖母の過去からの解放”(自分史6)

祖母の信仰が、祖母自身の縄目を解いた話しです。

『私たちの負いめをお赦しください。

私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。』新約聖書 マタイの福音書6:11.12

私と姉には“おばあちゃん”と呼ぶ存在の人がいる。

父は6人兄弟の、末っ子だったらしい。私たちの本当の祖母は、私たちが小さいときに亡くなった。

私たちが“おばあちゃん”と呼ぶ人は父のお姉さんにあたる。

私たちの叔母になる。が、結婚し、子どもができずに、父を養子にしたらしい。

小学5年のころ、父の病のときも、よく遊びに来てくれた。

私には何も記憶がないが、母と姑はあまり仲が良くなかったらしい。

ここからは、30年余りたってから、祖母に聞いた話しである。このとき、母はもう天国で、いなかった。

「お前の母さんはなぁ、自分の親が遊びにくるとたくさんのお土産を持たせて帰らせるんだったよ。けれど、私が行くと、挨拶もしないし、お土産も持たせないから、私がじいちゃんに母さんが持たせたと嘘ついて、買ったんだよ。」

祖母は85歳になり、今までは母の話しなど、一度もしたことがなかった。いつも、孫を褒める良い人だった。

急に歳をとり、認知症気味にもなってきて、この話しを繰り返しだした。

姉と住んでいたが、姉が結核で入院したとき、母方の親戚で預かってもらったとき、この話しを繰り返し、2か所で預かり拒否になってしまった。

私は祖母に話した。

「ばあちゃん、母さんは天国に行ったし、母さんがばあちゃんに悪い態度をとったのは申し訳なかった。でも、もう赦してくれないか。」

「いやあ、私は死んだ人には恨みはないよ。」

「それじゃ、ばあちゃん、私と一緒に母さんを赦す祈りをしてほしい。」

そして、私が一区切りずつ祈り、同じことばで、あとからついて祖母が祈った。

「神様、母さんがばあちゃんに挨拶しなかったことを赦してください。ばあちゃんが赦せますように。

母さんがばあちゃんにだけ、お土産を買わないで、ばあちゃんにつらい思いを与えたことを赦してください。ばあちゃんが母さんを赦せますように。

イエス様のお名前によって祈ります。アーメン」

そのときをさかいに、祖母は一度も母の話しをしなくなった。

祖母の幼子のような信仰に神様が働いてくれ、祖母の重い荷物はイエス様が負ってくれたのを見た。

祖母は「私はね、民謡うまいんだよ。」と可愛い自慢をし、民謡を歌い出すのだった。

今、祖母は90歳すぎて、老人ホームで生活している。

小学5年のころ、母と祖母に何があったのか知らないが、祖母の縄目を解いてくれ、楽に、自由に、楽しくさせてくれた神様に感謝した。

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2009年8月23日 (日)

8/23☆お祈り☆

新しい一週間も神様とともにあることを願い、お祈りします。

『わたし(神)はあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。…

それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。

あなたがたがわたしを呼び求めて歩き、わたしに祈るなら、わたしはあなたがたに聞こう。

もし、あなたがたが心を尽くしてわたしを捜し求めるなら、わたしを見つけるだろう。』旧約聖書 エレミヤ書29:11~13

恵み深く、あわれみ深い神様、あなたは、私たちがあなたを知る前から私たち一人一人をご存じでしたから、ありがとうございます。

神様、あなたは私たちの細部にいたるまで知っておられ、関心をもってくださっています。

神様、あなたの関心事は私たちが本来の自分を取り戻し、豊かに喜んで生きることにありますから、ありがとうございます。

あなたは、私たちの将来を希望あるものに約束してくださっていますから、ありがとうございます。

どうぞ、新しい一週間にも、神様が共にいてください。

そして、神様の私たちの生活、私たち自身に関心を持たれ、関わっていることを豊かに知ることができますようにしてください。

神様を呼び求める者は、その祈りが聞かれ、捜し求める者は神様を見い出すとあります。

神様ご自身は、いつも私たちを見てくださり、聞いていてくださる方ですが、私たちがそのことがわかるように、知ることができるように、祈ること、捜し求めることが大事なのだと思います。

神様、あなたに祈り求める中、あなたを近くに感じ、感謝していく日々としてください。

日ごとにイエス様の十字架で私の罪を洗いきよめてください。

そして、マイナスのダメージから解かれ、神様に愛され、祝福されている者であることを教えてください。

聖霊様、私の内側にいて、慰めを豊かにください。

また、みことばに聖霊様が働き、私の心に創造のみわざをなし、造り変えてください。

御霊のあるところには自由があります。

私の心を聖霊様の住まわる宮としてくださっていますから、聖霊様がご自由に働かれ、喜ばれるところとしてください。

愛する方々とともに、この一週間の祝福を願いつつ、イエス様のお名前によって祈ります。アーメン

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『人生を変えるで出会い』

人は誰と出会うかで、人生が変わります。

『それからイエスは、エリコにはいって、町をお通りになった。

ここにザアカイという人がいたが、彼は取税人のかしらで、金持ちであった。

彼は、イエス様がどんな方か見ようとしたが、背が低かったので、群衆のために見ることができなかった。

そこで、イエスを見るために、前方に走り出て、いちじく桑の木に登った。ちょうどイエスがそこを通り過ぎようとしておられたからである。

イエスは、ちょうどそこに来られて、上を見上げて彼に言われた。

「ザアカイ。急いで降りて来なさい。きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから。』新約聖書 ルカの福音書19:1~5

おはようございます。

神様はどこにでもおわれるお方です。家で、その場で、「神様…」と祈るなら、神様は聞いてくださっています。

今日はザアカイとイエス様のお話しをともに分かち合いたいと思います。

ザアカイは人から税金を取る仕事のかしらであった。彼は、だましとったお金で、莫大な富を築いていた。

だから、まわりの人から悪人と思われ、嫌われていた。

ザアカイはイエス様が町を通ると聞き、一目、今噂のイエス様を見たいといちじく桑の木に登った。

「ああ、かの有名なイエス様が見える!」と思ったとき、イエス様は立ち止まった。

そして、ザアカイがいる木の上を見上げた。

そして、なんと「ザアカイ。」と名前を呼んでくれた。

イエス様はザアカイを知っていた。ただ、名前だけではない。まわりの人から見たら、悪人で通るようなザアカイの心をご存知だった。

ザアカイは私腹を肥やしていたが、しあわせではなかった。きっと、自分にも嫌気がさし、孤独であったのだろう。

イエス様はそんなザアカイを知ってくださり、イエス様のほうから、「あなたの家に泊まる予定にしてあるのだよ。」と言ってくれた。

なんか信じがたいことである。

ザアカイはイエス様と出会った。イエス様を大喜びで家に招いた。イエス様と話しをし、交流した。

ザアカイの心の内側中で、大きな変化が起こった。

「イエス様、私はこれから財産の半分を貧しい人たちに分け与えます。私がこれまで、だまし取った物は、4倍にして返します。」

ザアカイはイエス様に何を言われた訳ではなかった。

こんな自分を温かく受け止めてくれるイエス様にあって、そのようにせずにはいられなかった。

イエス様は喜ばれた。

『きょう、救いがこの家に来ました。この人もアブラハムの子なのですから。

人の子(イエス)は、失われた人を捜して救うために来たのです。』ルカ19:9.10

とイエス様は言われた。

イエス様は人のように、表面しか見ないのではなく、心を見られる。

そして、何を求めているか知っておられ、その人の心にある苦しみを取り除いてくださる。

今日、イエス様はあなたの名前を個人的に呼ばれ、あなたを知っている、さあ交流しようと呼びかけてくださっている。

イエス様を感謝し、私の中に歓迎します。

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“否定的な縄目を解く”

否定的な言葉の縛りから解かれ、神様の良いことばが心に与えられますように。

『わたしの好む断食(だんじき)は、これではないか。

悪のきずなを解き、くびきのなわめをほどき、しいたげられた者たちを自由の身とし、すべてのくびきを砕くことではないか。…』旧約聖書 イザヤ書58:6

私たちは知らない間に、何かに縛られ不自由になっていたりする。

その中で、人から言われた言葉は大きい。

私は自分史にも書いたが、小さいときから母に、「お前が男の子だったら、どんなに良かったのに…。」と言われ続け、自分が女であることを呪い、苦しんだ長い時期がある。

人からの言葉は、他の人を慰め、元気づけもすれば、奈落の底においやってしまうこともできる。

一方、どんなに足りないものであっても、良い言葉かけによって、誇りをもって生きていける人もいる。

ある時、テレビで見たのだが、一人の少年は学習障害(何か特別に苦手で出来ないことがある)だった。算数が出来なくて、足し算が出来なかった。

同級生からはバカにされ、先生からは他の勉強はできているのに、何をふざけているのかと理解されなかった。

が、その少年のお父さんがすごかった。「お前は良いものをたくさん持っている。」といつも肯定的に少年に言った。

彼は成人になり、会社勤めをした。得意な分野を生かし、足し算は出来ないからと話し、理解を得た。

家ではいいお父さんである。小学生の息子にも足し算が出来ないことを言い、家族が受け入れている。

彼のお父さんが肯定的に彼を認め、口に出して言ったことが、彼を困難を越え、前向きに生きさせた。

もし、私たちに否定的に考えている何かがあったら、実は、どこかで植えつけられ、信じ込まされたものかもしれない。

神様が言われることが正しいのである。

私たちは神様の目から見たら、高価で尊い。イエス様のいのちの代わりになるほど価値がある者とされた。(イザヤ43:4)

私たちは神様に喜ばれる、良い神様の作品である。(創世記1:31,エペソ2:10)

私たちは生まれる前から、神様に一人一人特別に計画されたものである。(詩篇139:13~16)

神様の私たちへの計画はわざわいでなく、平安を与える計画であり、将来と希望を与える計画である。(エレミヤ29:11)

神様は私たちが本来の自分のありのままで、自分らしく、楽しみと喜びを持って生きることを切に願っておられる。

親にとって、子どもの喜びが親の喜びになり、子どもの笑顔が親のしあわせになるように、天のお父さんもそうである。

私たちが、不完全なまわりの人から植えつけられた縛りやなわめから解かれますように。

そして、私たちにいつも良いものを与えたいという神様のことばが私たちの心を占めて、喜べますよう祈ります。

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2009年8月22日 (土)

“自己回復のための祈り”

自己回復し、神様の良いものをたくさん心の中にも受けていけますよう、祈ります。

『どうか、私たちの主イエス・キリストの神、すなわち栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を、あなたがたに与えてくださいますように。

また、あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって、神の召しによって与えられる望みがどのようなものか、聖徒の受け継ぐものがどのように栄光に富んだものか、

また、神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかを、あなたがたが知ることができますように。』新約聖書 エペソ人への手紙1:17~19

恵み深く、私たちをあわれみに満たしてくださる神様、今日は、私たちの“自己回復”についてお祈りします。

あなたは私たちを愛してくださり、イエス様の十字架の赦しをくださいました。

赦された私たちは、不完全なままで、イエス様の十字架のゆえに、神様との関係を回復しましたから、ありがとうございます。

この事実は、とても大きなことです。すばらしい神様と親しく交流し、神の子どもとして、たくさんの約束をいただきました。

私たちの傷はイエス様の打ち傷によって癒され、平安をいただきました。

もし、癒しと平安が少なく感じる方がいたならば、主よ、あなたの約束のゆえに癒しと回復を、愛する方々に現してください。

もし、神様から愛されているということをダイレクトに受け止めることができない方がいらしたら、その原因を示し、とりのぞいてください。

神様、ご自身のひとり子をお与えになるほどに、私たちを愛してくださる主よ、その私たちの思いを越えた愛を私たちの中に現してください。

私たちは神様から喜ばれる、愛される、祝福される存在として造られました。

たとえ、私たちが傷だらけであっても、あなたは、私たちをそのままで受け止め、尊いと言ってくださいますからありがとうございます。

神様が私を見るように、私が自分を見ることができますように。

聖書にあることが真実ですから、そのことを受け入れられますように。

聖霊様、あなたの考えておられることを教えてくださり、あなたの成される癒しのみわざを信じさせてください。

ただ、主のご栄光のためにあなたをあがめる者としてくださり、私を通して、あなたがあがめられますように。

あなたが愛しておられるお一人お一人にその神様の思いが豊かに伝わることを願います。

イエス様のお名前によって祈ります。アーメン

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“自己回復2・傷の癒し”

癒されることが、イエス様の十字架によって、すべての人に約束されていることを思います。

『あなたの神、主は、あなたのただ中におられる。

救いの勇士だ。

主は喜びをもってあなたのことを楽しみ、その愛によって安らぎを与える。

主は高らかに歌ってあなたのことを喜ばれる。』旧約聖書 ゼパニヤ書3:17

かつての私の心の中は“神様の平安”とかとは、ほど遠く、いつも沈んだり、怒ったり、悲しんだりばかりしていた。

どこから癒されてよいか、わからないほどに荒れ果てていた。

が、罪を告白し続けるて赦しを受けとること25年、そして、4年前からは、人を赦して手放していくことの中で、私は多くの部分が癒された。

すると、今までは、何を祈って癒されていいのか糸口さえ見えなかったのに、一旦癒され始めると、平安が普通の状況になる。

その中で、たまに揺れ動くとき、それがどこから来ているのか良くわかるようになった。

教会と牧師を赦し、神様から赦しをたくさん受けた後、私の心の奥底に2つの傷が残っているのがわかった。

一つは母からの傷で、権威者を裁く思いが、なお、あるのがわかった。

もう一つが父からの傷で、父から受けられなかった愛情を人から受けたいという思いだった。

とにかく、この2つに取り組んだ。神様と祈って会話しているときは、ほとんどの話題がこのことだった。

なぜ、そこまで、この残された深い傷を癒されたいと思ったか…その傷の影響が大きくなっているとき、一番楽しみにしている“神様と話をする”ということがスムーズにいかなくなるのが嫌だった。

最後のこの大物の傷が癒されたかった。

日記も書きまくった。一ヶ月で、一冊書いたりした。良く聖書の言葉を探しながら、祈った。

神様のあわれみの中、神様の啓示の御霊によって、悔い改めに導かれ、その傷が癒された。

私はその心の中にレギオン(大勢の悪霊)がいたのではないかと思うほど、否定的で殺那的で、破壊的だった。

が、イエス様の十字架の赦しによって平安がもたらされ癒された。

だから、癒されない人の苦しみも知っているし、神様の癒し方は千差万別かもしれないが、求めるものには必ず与えられることを信じている。

私は神様が癒してくれたこと、癒されるまでは絶望的なとてもひどい状態だったこと…神様のみわざのすばらしさとそのあわれみ、いつくしみを思うときに、すべてを証しても足りないくらいだと思う。

私が特別だったのではない。

聖書には、イエス様による平安と癒しがはっきりと約束されている。(イザヤ書53:5,第1ペテロ2:24)

私たちがイエス様の十字架によって罪を認め告白し、赦されていくとき、私たちのマイナスのダメージはなくなり、神様から良いもの(神様の愛、喜び、平安、あわれみ、慰めなど)をすぐに常時受けられるようになる。

イエス様の十字架は救われ、天国に行くために有効なだけなのではなく、私たちのダメージを癒され、神様の中に入れられていくために大切なのを思う。

神様がお一人お一人を喜び、楽しみ、愛をもって安らぎを与える対象として、いつも見てくださっていることを、聖霊様と聖書のことばを通して、豊かに知ることができますように。

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2009年8月21日 (金)

“自己像の回復1”

自己像と神様から見た自分が一致したとき、私は回復を得た者となるのだと思います。

『わたしの目には、あなたは高価で尊(たっと)い。

わたしはあなたを愛している。』旧約聖書 イザヤ書43:4

これまで、何度も話してきたことだが、私は自分のイメージ=自己像が、20歳の頃には、とても低く、自分自身を保てないほどになっていた。

イエス様に出会って、孤独や虚無感はすぐになくなったが、その自己像の低さは私を苦しめた。

たった何か一つの失敗や恥ずかしいことをしてしまうと、そこから芋づる式にドンドンと過去の愚かな自分が内側から思い出されて、打ちのめされる。

最後には、もうそんなマイナスの自分に耐えられなくなり、バッタリとベッドに倒れ込んでしまう…そんなにも、自己像がゆがめられていた。

私がいつも陥ってしまう“うつ症状”が癒されたときがあった。

それは24歳のときに、神様に反逆?して、勝手に自分で結婚相手を決め、付き合うのだが、当然の如くうまくいかず、ふられたときだった。

神様に祈り聞く者ではなく、神様を利用するかの者であったことに対して、五日間、ごはんがのどを通らず、「ごめんなさい、神様」としか言葉が出てこなかった。

ごはんを食べていない私は、五日目には心臓がドカドカして、ベッドに倒れ込んだ。

空っぽになった心に聖霊の愛のシャワーが注がれたとき、うつ症状がなくなっていた。

そして、それから何年かして、私は第1ヨハネ1:9のように、自分が嫌な思いをしたとき、相手に不満を抱いたとき、気持ちが沈んだとき…マイナスの感情が襲ったとき、たとえ私の罪は何かわからなくても、その気持ちを告白し、イエス様の赦しと癒しを受けとるようにした。

これは実に20年以上続けた。なぜ、続いたかというと、マイナスの感情や自分の罪を告白し、イエス様の十字架の赦しを受けとると、その傷が癒しおおわれ、神様の平安の中に入れたので、やめられなかった。

私は自分が“神様の目から見て高価で尊い”そんな者には到底思えなかった。

しかし、そう思えないときも、聖書のことば、神様のほうが正しいから、私は神様から見たら高価で尊い存在であった。

私の内側と、聖書のことばにはキャップがあった。

今思うと、サタンが、ダメージを受けている私の傷口に塩を塗るように、“お前は神から見て尊い、愛される存在のはずがない”と執拗にささやくのに、神様に自分の足りなさを認め告白して、その思いから逃れてきたのかもしれない。

聖書が正しいのである。

私たち一人一人は神様の目から見たら、高価で尊い存在である。

イエス様のいのちと代えるほどにとおとい存在なのである。

それを受け入れなくしている傷は一人一人違う。

そのお一人お一人のうちに、神様の思いが自分の思いとなるまでの癒しと回復がありますように。

次のブログに聖書から、そのいくつかの自己像のダメージに対して、聖書がどういっているか、見てみたい。

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2009年8月20日 (木)

“時を越えて解かれた誤解”(自分史6)

35年の歳月を越えて、神様が私の中にあった誤解を解いてくれた話しです。

『互いに忍び合い、だれかがほかの人に不満を抱くことがあっても、互いに赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい。

そして、これらすべての上に、愛を着けなさい。愛は結びの帯(おび)として完全なものです。』新約聖書 コロサイ人の手紙3:13.14

小学5年の担任の先生は、メガネをかけた中年の男の先生だった。

転校してきた私だったが、勝ち気な性格で、皆に溶け込んで、楽しく遊んでいた。

ある体育の授業のとき、何かで、クラスの男の子と喧嘩になった。

勝ち気なわりに、泣き虫な私は、その喧嘩がよほど悔しかったのか、泣いた。

すると、私だけ職員室に呼ばれた。担任の先生に事情を話しした。職員室を出ようとしたとき、先生に呼び止められた。

「Seba、あまり真剣になるな。」と言われた。なんだか私のすべてが否定されたようで悲しさだけが込み上げてきた。そのまま、私は職員室を出た。

たったそれだけのことだったが、その先生の記憶と、そのときの出来事が鮮明に記憶に残っている。

あれから、35年の後、私は人生の過去を振り返り、思い出せる人々を赦す祈りをするよう導かれた。

赦さないのは、その人をつかみ、その人に支配され、その人の悪影響を受け続けると本で読んだからだ。私は神様以外の人から支配されたくないと思った。

私は過去の悪い記憶にあるすべての人の名前を上げて、赦す祈りをした。

その頃、パートで働いていた飲食店の調理場で、きゅうりを切りながら、導かれて一人一人思い出して祈った。

「〜さんをイエス様のお名前で赦します。」と一人ずつ祈った。

なんと上がる名前の多いことか!

そして、小学5年のところで、その担任の先生を赦す祈りをした。

全部祈り終わった後、つきものがとれたように、なんだか心が晴れやかになり、すっきりした感じがした。

そして、過去の何十人という人たちを赦したが、その先生に対して、神様からの悟りをいただいた。

「そうか、あの先生は、そんなに真剣に思いつめると、自分が苦しくなるだけだよ…と言いたかったんだ。私を否定したり、責めたのではなかったんだ。」と。

35年ぶりにとけた誤解だった。

ときに思いやりの言葉をかけられても、自分の心にかかっているヒィルターで、人を判断したり、傷を受けたりすることもある。

万一、悪意でされたことであっても、良いことに変えてくださる神様は、月日を越えて私の中にあった誤解をも解いてくださる方だと思った。

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2009年8月19日 (水)

“私の宝に私の心がある”

私の宝は何か考えました。

『自分の宝を地上にたくわえるのはやめなさい。そこでは虫とさびで、きず物になり、また盗人(ぬすびと)が穴をあけて盗みます。

自分の宝は、天にたくわえなさい。そこでは、虫もさびもつかず、盗人が穴をあけて盗むこともありません。

あなたの宝のあるところに、あなたの心もあるからです。』新約聖書 マタイの福音書6:19~21

いつも、私のブログを熱心に読んでくれる愛すべく友人が私に言った。

「私はめざせ、Sebaのお姉さんなのよ!」

「えっ?私の姉を知らないはずなのに…。」と私は思ったが、姉のことが書かれてあるブログ記事を読んで、そう思ってくれたらしい。

母が亡くなった後、家のかたずけに姉は本当に苦労したらしい。

物が無い時代で苦労している母は、あちこちに宝物のように物をたくさんためていた。

その上、趣味がコレクションだったのか、着物や食器や洋服など、たくさんの物があった。

姉は独身なので、その後、父を天国に送り、祖母が老人ホームに移ると、がぜん、家中の整理を始めた。

築30年以上の古い家は、私が里帰りするたびに、家具が一つずつなくなり、広くなっていった。

そして、姉はいつ自分が天国に行っても、あまり周りに迷惑がかからないようにしたいとのことだった。

私の友人も一人暮らしで、共感するものがあったらしい。

私も昔は漠然とシンプルな生活にあこがれていた。

お箸と茶碗があれば…みたいな生活に憧れていた。

私が大学中退し、東京に出てきたとき、三畳のアパートで暮らした。

友人が泊まりに来ると半畳の押し入れに足を突っ込んで寝てもらった。

物は何も無かった。あれから、30年、少しずつ広いアパートに引っ越していった。

物は最小限で豊かに生きていける。アダムとエバは着るものも食べるものも、何も持っていなくて、神様を賛美し、自然を愛し、動物たちとたわむれ、互いに愛しあった。

そこまでいかなくてもいいかもしれないが、人を豊かにするのは物ではない。

母は、数々の結婚式などの引き出物のタオルケットやシーツなど、使わすに大事にとっていた。

姉と一つ一つ広げていくと、新品同様なのに、あちこちにシミがついていて、ひどいものは捨てた。

まさに、地上にたくわえるものは、虫とさびで、きず物になる。どんな大事な物も天国に持っていくことが出来ない。

天国に持っていけるものは何だろうか。

それは、イエス様との信頼関係なのではないか。

天国はイエス様がいらっしゃるところである。イエス様を賛美するところである。

私の宝のあるところに心がある。

私の宝は何か。私の心を多く占めているものは何か。

この世の物に振り回されず、身軽にイエス様についていける自由人でありたいと思う、近頃である。

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2009年8月18日 (火)

“ゲッセマネでのイエス様の悲しみ”

イエス様の十字架の悲しみを思いました。

『それから、ペテロとゼベダイの子ふたりとをいっしょに連れて行かれたが、イエスは悲しみもだえ始められた。

そのとき、イエスは彼らに言われた。「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。ここを離れないで、わたしといっしょに目をさましていなさい。」

それから、イエスは少し進んで行って、ひれ伏して祈った。

「わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。

しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。」』新約聖書 マタイの福音書26:37~39

イエス様が人として地上に生まれてくれたのは、罪なき者として、私たちの罪を背負われるためだった。

イエス様はお生まれになったときから、十字架のために生きられた。

それは、私たちの罪を背負い、死刑のさばきを受け、のろいとなられるためだった。

十字架にかかられる前に、イエス様は弟子たちを連れられ、ゲッセマネの園で祈られた。

イエス様は「わたしは悲しみのあまりに死ぬほどです。」と弟子たちに言われた。

十字架の上での肉体的苦痛と父なる神様から引き離される精神的苦痛をイエス様は味わわれる。

このゲッセマネにおいて、すでにイエス様は霊的にその裁かれる状態の苦しみの中にいたのではないかと思った。

父なる神様から引き離される…父なる神様と一つとされているイエス様にとって、それは恐ろしいほどの孤独であり、苦痛である。

しかし、一方、ペテロたちは、そんなイエス様の死ぬほどの悲しみをよそに眠ってしまった。

私たちはイエス様の通された、全人類の罪を背負う悲しみや苦しみを知らない。

なぜなら、そのほんの少しであっても、私たちには耐えられないから、イエス様は隠しておられるのだと思う。

ペテロはイエス様の心中を知らなかったし、私も知らなかった。

イエス様は「自分の十字架を背負って、わたしについて来なさい。」と言われた。

その十字架は、イエス様のような耐えられない重荷ではない。

なぜなら、イエス様の十字架刑によって、最も苦しい私の罪のさばきはすでに終わり、私は赦されたものとしてあるからである。

イエス様の十字架が、私の想像しえない耐え難いものであるのを知るとき、私は自分に与えられた軽い十字架は喜んで背負えるのかもしれないと思った。

イエス様が私に与えてくれる十字架は負いやすく、また、私がわずかずつでも、イエス様の私への愛を教えてくれるものなのだと思った。

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2009年8月17日 (月)

“聖霊なる神様の内なる働き”

聖霊なる神様の働きについて、思いました。

『「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮かんだことのないもの。神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、みなそうである。

神はこれを、御霊(みたま)によって私たちに啓示されたのです。

御霊はすべてのことを探り、神の深みにまで及ばれるからです。

いったい、人の心のことは、その人のうちにある霊のほかに、だれが知っているでしょう。

同じように、神のみこころのことは、神の御霊のほかにはだれも知りません。』新約聖書 第1コリント人への手紙2:9~11

旧約時代は神様が顕著に働かれ、イエス様が人となられ、十字架にかかり、よみがえられたのち、聖霊様が私たちに与えられました。

天地創造のとき(もちろん、それ以前から)、神様とともにイエス様も聖霊様もおられました。

この3つが一人(三位一体=さんみいったい)なる神様なのですが、今は聖霊様の時代です。

イエス様の十字架の赦しを信じた人には、神様の子どもとして、しるしに聖霊様が与えられます。

神様はどこにでもおられますが、私たちは神様が住まわる神殿となり、神様なる聖霊様を私たちの内側に宿すのです。

全治全能なる、義であり、聖である神様なる霊を私たちの内側にいただく…考えてみれば、恐れおおいことです。

ただ、イエス様の十字架の赦しが神様の前に完全であるゆえ、そのようになります。

聖霊なる神様は、私たちの心奥深くまでお探りになれます。

聖霊なる神様が、私たちの内側から、神様のことを教えてくれます。

聖霊なる神様は人格をもっておられるので、悲しまれたり、喜ばれたりします。

聖霊様が悲しまれているときは、何かを私たちに教えてくれているときです。

また、聖霊様は、私たちに神様のほうを向くことができるよう、悲しみの中で悔い改めに導いてくれます。

第1コリントの1章には次のような聖書のことばがあります。

『この世の取るに足りない者や見下されている者を、神は選ばれました。…これは、神の御前でだれをも誇らせないためです。』第1コリント1:28.29

神様は人の力や能力によらず、神様の栄光が現されるため、あえて、愚かな者、弱い者、取るに足りない者、無に等しい者を選ばれたとあります。

私は自分を見ると、納得です。とりたて、頭が良い訳でもなく、文章がうまい訳でもなく、知識が豊富な訳でもありません。

けれど、毎日こうして楽しく神様を分かち合わせてもらうとき、聖霊様の助けが絶大だと思うのです。

私が昔から、こんなに神様を証したり、祈れたりしたかというと違います。

私が自分に固執する部分がかなりなくなったということが、私のようなものも通して、聖霊様が自由に働いてくれているかなぁと思います。

かつての私は自我、自己主張、自己顕示欲が強烈に強い者でした。

神様によって、だんだん自分を弱くされ、なんだか「自由に神様の好きにしてください。」となってから、私の中の聖霊様が顕著に働かれるようになった気がします。

聖霊様がお一人お一人の中で、自由に働きたいと願っているのを思います。

自分が握っている制御システムを聖霊様に渡すとき、聖霊様がお一人お一人の中で、神様なる自由な働きをされることを思わされました。

聖霊様なる働きが豊かになるよう、祈ります。

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2009年8月16日 (日)

8/16☆お祈り☆

ブログ周辺の方々を思いつつ、一週間のお祈りをします。

『たとい、あなたがたの罪が緋(ひ)のように赤くても、雪のように白くなる。

たとい、紅(くれない)のように赤くても、羊の毛のようになる。

もし喜んで聞こうとするなら、あなたがたは、この国の良い物を食べることができる。…』旧約聖書 イザヤ書1:18.19

私たちの思いを越えて、大きな赦しを与えられる神様、あなたの用意してくださる赦しをありがとうございます。

私たちは罪にまみれ、けがれにまみれた者ですが、見捨てることなく、捕らえてくださり、イエス様のきよめの中で、すべての罪をきよめてくださいますから、ありがとうございます。

私たちの罪がたとえ真っ赤に染まっていても雪のように、白くしてくださるという、神様の真実なことばをありがとうございます。

神様に赦され、心をきよめられると、私たちが負っている責め、罪責感から解放されますからありがとうございます。

心のきよめは、神様を見い出しますからありがとうございます。

心のきよめは、隣人を心から思い、祈る祈りを生み出しますからありがとうございます。

心のきよめは、平和を願いますからありがとうございます。

どうぞ、私たちが何か良いことをしようとする前に、神様の赦しの中におおってください。

あなたのあわれみといつくしみで、私の心をおおってください。

一人孤独にある人を覚えてください。わたしは決してあなたを見放さないと言われたイエス様が近くにいてください。

イエス様に愛され、とりなす者を近くに置き、とりなしをさせてください。

失意にある人にあなたの変わらない希望を与えてください。

不安のある人、心配のある人に、人知を越えた神様の平安を与えてください。

神様に聞いてもらう願いと祈りを用いて、平安を与えてください。

この一週間も神様が私たちとともにいてお守りください。

いつもイエス様の十字架の赦しの中に癒され、きよめられますように。

聖霊様の豊かな働きの中に生かされ、聖霊様とともに喜べますように。

イエス様のお名前によって祈ります。アーメン。

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“放蕩息子を待つ天の父”

放蕩息子を愛し、受け入れる天のお父さんである神様についてです。

『息子は言った。「おとうさん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。」

ところが父親は、しもべたちに言った。「急いで一番良い着物を持って来て、この子に着せなさい。それから、手に指輪をはめさせ、足にくつをはかせなさい。

そして肥えた子牛を引いて来てほふりなさい。

この息子は、死んでいたのが生き返り、いなくなったのが見つかったのだから。』新約聖書 ルカによる福音書15:21~24

おはようございます。

赦しの神様は私たちのすべての弱さを包み、私たちをイエス様によって、そのままで受け入れてくれています。

教会の中にいても、外にいても、良いことをしていても、良い者でなくても、等しくイエス様の十字架によって、私たちを赦し、受け入れてくれています。

今日は、放蕩(ほうとう)息子から、神様の赦しの大きさを分かち合いたいと思います。

この聖書に出てくる息子は、「お父さん、私に財産の分け前をください。」とお父さんから財産をもらい、旅に出た。

放蕩して、財産を湯水の如く使い果たし、困り、豚の世話をした。ひもじい中、我に帰り、家に帰って雇い人として使ってもらおう、お父さんにお願いしようとした。

家に向かうと、お父さんは大喜びだった。

雇い人どころか、彼を抱きしめ、新しい服を着せ、彼が正当な相続人であるしるしの指輪をはめてもらった。

そして、盛大な祝賀会のためのご馳走に肥えた子牛を殺させた。

これは、神様はどんな悪い者であっても、神様に戻るなら、喜んで神様の子どもとして、迎えてくださることを示しています。

どんな悪い者であっても、神様は喜んで我が子として迎えてくれます。

それは、2つの理由からです。

一つは私たちは皆、神様に逆らい、神様から離れていた放蕩息子のように、良い者ではありません。もれなく、すべての人が正しい神様の前に、放蕩息子だからです。

そして、その私たちの悪いことをイエス様が、全部責任を引き受けてくれ、イエス様の十字架の罰が神様の前に完全に良しとみなされたからです。

私自身、この放蕩息子です。神様から離れていた頃は、神様のいみ嫌うことばかりしていました。神様からは受け入れられないような存在でした。

そんな私が、イエス様の十字架にその悪のすべての責任をおってもらい、神様に抱かれるかわいい戻ってきた息子となりました。

神様からの相続人となり、祝ってもらう存在となりました。

何より、神様との関係が回復し、親しくいつでも交流できる者とされました。

自分は悪かったと、何度も謝る必要はありません。神様のもとに戻れば、赦され抱きしめられます。

何かのお詫びの品を持って神様のところに行く必要もありません。イエス様の十字架が完全であるゆえ、何も付け足すものは必要ありません。

今日も、神様はまだかまだかと遠くから、神様の家に戻る放蕩息子たちを待っていてくれています。

神様の大きな赦しの中に憩い、すべての重荷がおろせますよう祈ります。

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“我が口に賛美を”

賛美について考えました。

『舌は火であり、不義の世界です。舌は私たちの器官の一つですが、からだ全体を汚し、人生の車輪を焼き、そしてゲヘナの火によって焼かれます。…

しかし、舌を制御することは、だれにもできません。それは少しもじっとしていない悪であり、死の毒に満ちています。

私たちは、舌をもって、主であり父である方をほめたたえ、同じ舌をもって、神にかたどって造られた人をのろいます。

賛美とのろいが同じ口から出るのです。私の兄弟たち。このようなことは、あってはなりません。』新約聖書 ヤコブの手紙3:6~12

私は神様を知らないときには、“賛美
”なるものを知らなかった。

私の心から出る言葉(実際、口に出して言っていたかは別として)は、自分をのろい、世の中をのろっていたのかもしれない。

大学時代から、よく大学ノートに、日記を書いていた。日記と言っても、その日の出来事というより、“私は何のため生きているのか”とか“死ぬ程孤独でしかたがない”とか…くる日もくる日もそんな心の内を書きつづっていた。

イエス様と喜びながら生きるようになっても、その日記はずっと取っていた。

いつか、神様を証する日が来たときに、役立つかもしれないと。

けれども、子どもが生まれたときに、ほとんど捨てた。

自分とこの世の中をのろっていたような日を、私の死んだ後、子どもが読んだら具合が悪くなるだろうと思った。

かつて、神様を“賛美”することの知らなかった私は神様を心から賛美する。

そう考えると神様を“賛美”する行為は、私自身にある本来のものでなく、心赦され、きよめられ、神様を信じる思いも与えられて、させてもらえる神様からのすばらしいプレゼントである。

いと小さく、弱い私であるが、天をあおぎ、両手を上げて、この天地を造られ、私たちを愛してくださる神様を賛美するとき、神様はその賛美の中に住まわってくださる。(詩篇22:3)

その神様のただ中に入れられて、神様の性質の中に包まれる。

いつくしみ、あわれみ、慰め、優しさ、希望、喜び、頼もしさ、きよさ、平安、寛大さ…偉大なる神様のご性質の中に入れられて、ただただ神様に感謝する。

それが、礼拝なのだと思う。

神様は汚れた心をイエス様の十字架によってきよめてくださり、神様を感じる世界に賛美の中で入れてくださる。

神様を賛美する…そのことは、地上を歩む私たちに神様が与えてくださった特権であり、祝福なのを思う。

悲しいとき、苦しいとき、そして嬉しいとき、楽しいとき、神様を思い、神様の中に入るため、賛美をしたいと思った。

賛美は神様への信頼の表れとなり、人々への信仰の拡大となり、主の慰めが解き放たれるときとなる。

『真夜中ごろ、パウロとシラスが神に祈りつつ賛美の歌を歌っていると、ほかの囚人たちも聞き入っていた。

ところが突然、大地震が起こって、獄舎の土台が揺れ動き、たちまちとびらが全部あいて、みなの鎖が解けてしまった。』使徒の働き16:25.26

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神様、私たちの心をきよめ、このくちびるがあなたを賛美し続けるようにしてください。

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2009年8月15日 (土)

“40年前を謝る”

母とのことを思いました。

『もし人の罪を赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたを赦してくださいます。

しかし、人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの罪をお赦しになりません。』新約聖書 マタイの福音書6:14.15

昨日のブログに父の入院、母の苦悩を書いた。

小学5年の私は、不思議と泣いたり、悲しんだ記憶がない。

すべてに鈍感な子どもだったのか、母が悲しい話しをしなかったために、心に残っていないのか、ただ、その場面だけが浮かぶ。

それでも20年前に、自分史を書いたときに書き進められず、終わった場面である。

昨日、父、母の描写を書いて、私はその40年程前のあのときにワープしていた。

そして、父の悲しみ、母の悲しみが不思議と一人の人として客観的に理解出来た気がした。

あの頃、暗く、悲壮感の漂う、ヒステリックな母は嫌だった。子どもの私は、可哀想なお母さん…という気持ちはあったか定かではない。

父に至っては、子どもながらになんと受け止めてよいかわからなかった。

私の家庭は悲惨だったが、なぜか私には楽しかった学校生活の思い出しかない。

今日、父母を思いやることの出来なかった子どもだったことをイエス様に謝った。

あの頃の出来事は私が自己否定になる環境の前段階だった。

精神的に父不在となった私は、思春期に入ると、価値観の合わない母と喧嘩ばかりしていた。

母に理解されたいのに理解されず、いつの間にか、母の価値観に自分を否定され、自己嫌悪のかたまりになる。

私が一番最初に神様に、人を赦す祈りをしたのは、クリスチャンになって8年、29歳のときだった。

「神様、私にダメージを与えた母を赦します。」と礼拝の中で祈った。

それから一年後、母は天国に召された。そのとき神様は、私と母を和解させてくれた。母の慰めに満ちた死が、私が母を赦し、親不孝者の私が赦されたときだった。

40年前のことの母のことを私が神様に謝るに至るとは思わなかった。

神様への賛美は、赦された深い思いからくると、マーリン・キャロザース師の「天国の到来」に書いてあった。

マタイの福音書の『人を赦さないなら、神様もあなたの罪を赦さない』というのは、文字通り赦されないという意味ではなく、人を赦さないと、赦されていても神様の赦しを受け取れないという意味と思う。

いつも心柔らかくして、いつでも赦しを受けとれるものでありたい。

∞∞∞

天国の母さん、喧嘩ばかりして、母さんの苦労は全然わかっていなかったけど、たくさん私たちのために苦労してくれたのですね。ありがとう。生きているときに、労をねぎらうことばを一つもかけてあげられなくて、ごめんね。

そんな私の罪もイエス様の十字架で赦され、責められていないから、ありがたいです。

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2009年8月14日 (金)

“鉄格子の父と悲しみにくれる母”(自分史5)

父の精神病院の入院、脱走の話しです。

『わたし、主は、義をもってあなたを召し、あなたの手を握り、あなたを見守り、あなたを民の契約とし、国々の光とする。

こうして、盲人の目を開き、囚人を牢獄から、やみの中に住む者を獄屋から連れ出す。

わたしは主、これがわたしの名。わたしの栄光を他の者に、わたしの栄誉を刻んだ像どもに与えはしない。

先の事は、見よ、すでに起こった。新しい事を、わたしは告げよう。それが起こる前に、あなたがたに聞かせよう。』旧約聖書 イザヤ書42:6~9

医療は進歩している。精神病の治療方法も、入院環境も昔と今では違うのだと思う。

私は最近、クリスチャンの友人を見舞いに、山里離れた精神病院に行ったが、普通の病院と変わらず、とても綺麗だった。父のときのような薄暗さはみじんもなかった。

父が当時で言う分裂病を発症したのは、私が小学4年。40年近く前になる。

小学5年、小さな田舎町に私たちは引っ越しをした。

近くの町の父が入院する精神病院に、母と姉と3人で、一度だけ、お見舞いにいった。

各畳の狭い部屋に鉄格子がされてあった。その中にいる父が母に「母さん、なんで俺はこんなところに入れられてなくちゃ、ならないんだ。」と悲痛な叫びの訴えをしていた。

私たちには、「父さん、お前たちに手紙を書くからな。」と言った。筆まめな父は、実際、私たちにたくさん手紙を書いて送ってくれた。

帰り道、母も姉も私も無言だったように思う。駅に近いところで、3人でラーメンを食べて帰った。

母はどんなにか苦しかっただろうと、今、改めて思う。頼もしい大黒柱の父を頼りにしていた母は、大黒柱を失い、病の父を背負うことになる。

母は神経がピリピリしていた。私と姉はよくふざけて遊んでいたが、笑うと怒られ、「姉ちゃん、バカ」とかふざけていると、「誰がバカだと!」と、母に怒鳴られた。

私は初恋があったり、毎日お友だちと遊んだり、姉との楽しい毎日で、あまり暗くはなっていなかった。毎日、相変わらず、遊ぶのに夢中で楽しかった。

が、母の気持ちを思いやる私はいなかったなぁと思う。

母も子どもには負担をかけまいとあまり父の話しはしなかったのかもしれない。

ある日、母の実家に行き、夜の9時頃、電車で帰ってきた。駅から1分の貸家に向かう途中だった。

母が「あらぁまぁ、なんてことなの。」と叫び、家に近づいたところで立ち尽くした。

暗い家の前に人影があった。裸足で病院を抜け出してきた父だった。

父はどうしても、家族がいる家に帰りたくて、病院を抜け出して来た。

家に入ることもなくタクシーですぐに病院に戻された。

その母の悲痛な叫びとその場面だけが記憶に残っている。

私は母と性格が合わす、母を悪く書いて来たが、どんなに母は苦しかっただろうか。負いきれない重荷を父同様、母も負い、苦しんでいた…今、書きながら母の気持ちがわかるような気がする。

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2009年8月13日 (木)

“無力な姿となられたイエス様”

イエス様が無力な姿であったということは何を意味するか、考えました。

『彼(イエス・キリスト)には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない。

彼はさげずまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。

人が顔をそむけるほどさげずまれ、私たちも彼を尊ばなかった。

まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。

だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。

しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎(とが)のために砕かれた。

彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。』旧約聖書 イザヤ53:2~5

私が教会生活を始めた頃、誰でも参加できる聖書勉強会に出たことがある。

そこに集っていたある青年が言った。

「神様が本当にいるなら、奇跡を起こして見せてほしい。そうしたら、信じる。」と。

クリスチャンになりたての私は、「そうなんだ。」と思った。

4年程前に、友人が身内を天国に送った。病が癒されると信じてきたので、彼女は失意の中に落ちていった。

「神様がいるなら、奇跡を見せてほしい。」と言った。彼女は、神様に訴えるほどに、神様を信じている。ただ、あまりにも、失意の中に落ち込んで、そのときはそこから出られないかのようだった。

私は何も言えなかった。

たぶん、私たちは神様を信頼して歩んでいても、彼女と同じように、「神様、あなたがいらっしゃるなら、その力強い力のみ業を表してください!」と言いたくなるときがある。

求めてはダメということはないし、復活されたイエス様の力はすべてにまさって絶大である。

しかし、イエス様が人となられて地上を歩まれた33年間は、イザヤ53章の描写のごとく、何か弱々しさすら感じるイエス様であった。

もちろん、たくさんの奇跡のみ業もなされた。しかし、ご自身のためには、何一つ奇跡をされなかった。

イエス様は無力な赤ん坊として生まれた。自分では何一つできない赤ん坊。

ヘロデ王が新しい王の誕生を恐れ、ベツレヘム近辺の赤ん坊を殺させる。

そんな中で、み使いがヨセフに現れ、エジプトに一時逃げるように言う。マリアとヨセフに抱かれ、赤ちゃんイエス様は逃げた。

イエス様は十字架の上で、「お前が本当に神なら自分で自分を助けてみろ。」とののしられる。

アメリカ映画のクライマックスなら、なんか凄いことが起きて、どんでん返しになる。

が、イエス様はみ使いを呼ぶことなく、奇跡を起こすことなく、無力な人間のまま、十字架の上で死なれる。

私は最近、けがをした人を見ると、手をおいて癒しを祈りたくなる衝動にかられる。

神様の奇跡を見たら、人は神様を信じるだろうか。

神様は力の神である。しかし、現したいのはご自身の力ではない。

力と力がぶつかり、強い者が力を誇る世の中にあって、神様が望んでいるもの、それはキリストの愛が人を通して表されることだ。

イエス様はご自身のいのちに代えて、私を愛していることを示された。

奇跡や力よりも、弱さの中に表される優しさを神様は望まれているのだと思う。

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2009年8月12日 (水)

“慕い求める主よ”(祈り)

個人的に祈った祈りを書きとめました。

『天にいます私たちの父よ。御名があがめられますように。

御国が来ますように。

みこころが天で行われるように地でも行われますように。』新約聖書 マタイの福音書6:9.10

主よ。私を祈りの世界にいざなってください。

祈りの世界に神様の思いを現してくださりありがとうございます。

天でつながれている(祈りの中での)ことは地でもつながれ、天で解かれていることは地でも解かれていますからありがとうございます。

祈りの世界は主のご支配するところとなり、サタンも退きますからありがとうございます。

あなたの祈りを私に祈らせ、神様の国を実現させてください。

神様が言い送ったことは必ず成就しますからありがとうございます。

祈りの中で、天の窓が開かれ、あなたのご栄光を見ることができますからありがとうございます。

それは天地を造られた主のご栄光です。

人である私たちをあわれみ、主の栄光の中に生かしてください。

愛する主よ。あなたが私たちの主です。あなたを慕い求めます。

多くの中で私を選びありがとうございます。

私たちを通して、神様の国の実現を成してください。

愛する主よ。霊であられる主よ。あなたの御名をあがめます。

愛する主よ。主にあって、この世にたりないものはなく、乏しいことはありません。

愛して止まない人々をありがとうございます。

その生涯を主とともに過ごし、主に生かしてください。

祈りの霊を与え、共に祈らせてください。

愛する主よ。あなたを慕い求めます。

あなたこそ私の神です。

私の生涯を主とともにいさせてください。

愛する主、この地上での生涯、私たちを一つとし、愛し合わせてください。

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2009年8月11日 (火)

“父病を発症”(自分史4)

父が精神病を発症した話しです。

『見よ。わたし(神)のささえるわたしのしもべ、わたしの心の喜ぶわたしが選んだ者。わたしは彼の上にわたしの霊を授け、彼は国々に公義をもたらす。

彼は叫ばず、声をあげず、ちまたにその声を聞かせない。

彼はいたんだ葦(あし)を折ることもなく、くすぶる燈心(とおしん)を消すこともなく、まことをもって公義をもたらす。

彼は衰えず、くじけない。ついには、地に公義を打ち立てる。島々も、そのおしえを待ち望む。』旧約聖書 イザヤ書42:1~4

小学3年、雪の中父と手をつなぎ、街を歩いていた。「クリスマスはどうして、学校が休みではないのだろう」と思ったのを覚えている。

学校でも、家でもたくさんの楽しかった思い出がある。

子どもながらに、「これがしあわせっていうのかなぁ。」と思ったのを覚えている。

小学4年、父は仕事の上での責任の重圧と、胃潰瘍が悪い病気でないか悩んだことが重なり、神経衰弱になる。

異変はあった。怒ることの無い優しい父が、家族でレストランに行ったとき、水の置き方が悪いと、ウェイトレスに怒った。

田舎に帰ったとき、「神経衰弱」と心配して言う父のめいっこに父は喧嘩ごしで怒鳴った。

父の変わっていく姿に子どもたちはやるせない思いで黙っていた。

母から詳しい説明はなかったと思う。

知的で優しく、子煩悩な父は当時の分裂病、今でいう統合失調症で、近くの町の精神病院に入院した。

学校や、お友だち関係は変わらず楽しかったが、家庭は一変した。

平凡な我が家は、何かがガラガラくずれた。いつも美しく髪をセットし、綺麗な母は化粧もせず、憔悴しきっていた。

あの頃、良く同じ夢を見た。人が殺されるような怖い夢で、目が覚めては、隣で寝ている母を起こして、一階のトイレに連れていってもらった。

私は友だちとかと毎日毎日遊んでばかりいて、まだ、楽しいことのほうが優っていたような気がする。というか、入院中、父の病気を詳しく子どもたちは聞かされていなかったからかもしれない。

そんな楽しかったその土地も小学3、4年だけ過ごし、また転校になった。

父は国鉄職員のエリートコース、いずれは駅長の道が約束されていたが、今思うと病によって、その道は絶たれ、左遷になったのだと思う。

私たちは、さらに小さな田舎町に引っ越すことになった。

姉は泣き、私は新天地にワクワクしながらの転校となった。

何人かに見送られ、私たちは小さな田舎町に引っ越しをした。

父の負いきれなかった重圧に、父は病気になった。人は弱く、壊れやすい。

看護師の姉が大人になって私に、「私たちも父親の血を引き継いているから、そのような病気になる可能性もあるんだよ。」と言ったことがある。

私も父親似で、繊細?なところがあると自分では思う。が、神様がともにいてくれて、私の負いきれない重圧は神様が負ってきてくれたのかもしれない。

人は壊れてしまいそうになるくらいに弱い存在…と父から教わったのかもしれない。

イエス様は“いたんだ葦を折ることもなく、くすぶる燈心を消すこともない”最も弱いものをさえ傷つけずその存在を保たれるお方であることは、大きな慰めである。

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2009年8月10日 (月)

“地域納涼祭”

地域の納涼祭があり、お手伝いをしました。

『さあ、わたしの父に祝福された人たち。世の初めから、あなたがたのために備えられた御国をつぎなさい。

あなたがたは、わたしが空腹であったとき、わたしに食べる物を与え、わたしが旅人であったとき、わたしに宿を貸し、わたしが裸のとき、わたしに着る物を与え、わたしが病気をしたとき、わたしを見舞い、わたしが牢にいるとき、わたしをたずねてくれたからです。』新約聖書 マタイの福音書25:35

8月になると、町内会の納涼祭がある。

息子が小学生時代に、私はPTA役員をやって、地域の方々にとてもお世話になった。

そのことを通して、地域がそこに住む人を支える可能性の大きさを感じた。

地域の弱者は地域でカバーして、支えていけたなら、一番理想なのではないかと思った。

また、PTA役員時代にお世話になって、自治会長の方たちとの交流も始まり、地域の中にすんなり入れてもらえた。

そんな愛着のある地域の人たちと年に一度の大イベントが納涼祭である。

前日、当日、朝5時集合で準備作業が始まる。当日は、私は来賓接待で、ビールやおつまみを運びに走る。

後日のかたずけ、打ち上げ、全部に出て、去年は疲れきって、はぐきが腫れた。

平均年齢は70歳位だろう、年配の男の方たちが力仕事から何まで、手際良くやる。その体力と熱意に頭が下がる。

今年は私は祈り、守られて疲れることなく、準備、当日、かたずけを終えた。

今、地域を支えてくれている方々は、確実にこの70歳代の方たちだ。60代は少ないし、50代はほとんどいない。

私は誰に頼まれた訳でもないが、次を担う世代の人たちが加わるのは、自分に与えられた責任のように感じている。

ボランティアに出てくる人たちは皆さん、前向きで楽しい人たちばかりである。

私より20歳位上の人とも友だちのように話せて、楽しい。

お一人、お一人が尊い神様の作品であり、すばらしい。

地域力、これが希薄になる中、どうしたら、若い世代の人たちが、この地域の一員という特権と楽しみを知って、このコミュニティに入ってきてくれるか、私のいつもつきまとう課題である。

今回のお祭りは、降水率70%という中、雨にも降られず、無事、終わった。

何をした訳でもないが、無事終わったことがとても嬉しかった。

リーダーとなられた、自治会長さんは、親しくさせてもらっている一人なので、どんなに大変だっただろうと、私は何度も何度も「お疲れ様でした。」と労をねぎらう声かけをさせてもらった。

神様が私に、この地域の人たちに愛着を持ち、祈らせてくれているのを思う。

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2009年8月 9日 (日)

8/9☆お祈り☆

ブログ周辺にいますお一人お一人を思いつつ、一週間のお祈りをします。

『さて、神の国はいつ来るのか、とパリサイ人たちに尋ねられたとき、イエスは答えて言われた。

「神の国は、人の目で認められるようにして来るものではありません。

『そら、ここにある。』とか『あそこにある。』とか言えるようなものではありません。いいですか。

神の国は、あなたがたのただ中にあるのです。』新約聖書 ルカによる福音書17:20.21

天地を造られました神様、あなたがその天地を今も治め、すべてのところにいてくださることをありがとうございます。

神様はキリストにおいて、私たちに天にあるすべての霊的祝福をもって、祝福してくださるとありますから、ありがとうございます。(エペソ1:3)

私たちにイエス様も経験された、天にある霊的祝福をたくさん体験させてください。

神様、あなたとの親しい交流は何にもまさる喜びです。

日々、イエス様の十字架の赦しによって、神様との親しい交わりの中に入れてください。

この地上にいながら、あなたと交流し、あなたの慰め、あわれみ、いつくしみに包まれるとき、そこに天国が現されますからありがとうございます。

また、イエス様にあって、私たちが一つに集められることはあなたの計画にあることです。(エペソ1:10)

私たちがひとりぼっちではなく、互いに励まし合い、支え合い、助け合う者として備えられていますから、私たちが与えられた良いものをもって、互いを支えるものとしてください。

私たちはイエス様にあって神様の子どもとされ、御国を受け継ぐ者とされましたからありがとうございます。(エペソ1:11)

あなたが私たちに受け継がせたい財産がどんなにすばらしいものであるか、霊の目が開かれて見えるようにしてください。

そして、受け継いでいるものを豊かに活かしていくことができますよう、導いてください。

私たちの苦しみの中にあって、あなたが与えてくださるものをはっきり見て、その望みに支えられ生きていけますように。

悲しむ人に慰めを、失望する人にキリストの愛を、捕らわれ人には解放を与えてください。

あなたが、この地上の闇に光を与え、神様、あなたこそがすべての主権を持っておられる神様として、その栄光を表してください。

聖霊様が豊かに住まわれ、聖霊様とともに主を喜べますように。

この一週間も主にある守りがあることを願います。

イエス様のお名前によって祈ります。

アーメン。

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“天国の喜び”

“天国”を待ち望む心を思いました。

『あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたし(イエス)を信じなさい。

わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。

もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。

わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。

わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。

わたしの行く道はあなたがたをもおらせるためです。』新約聖書 ヨハネの福音書14:1~4

おはようございます。

神様はすべてを造られ、すべての人の神様です。

教会の外にいる人たちにも、神様の計画を知らせたいと切に願っているのを思います。

この朝は、“天国”について、共に分かち合いたいと思います。

聖書では、“人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている”(ヘブル9:27)とあります。

イエス様の十字架を信じた人は、永遠のいのちが与えられ、天国に行きます。

天国とは、どういうところでしょうか。

天国へ行って、戻ってきた人はあまりいません。それでは、死んでみないとわからないのでしょうか。

天国はイエス様がおられるところで、神様の臨在に満ちているところだと思います。

そこでは、人は痛みも悲しみもなく、ただ栄光に変えられた心と体で、おおいなる神様を心から賛美し、喜びに満ちあふれているところだと思います。

昼も夜も神様を賛美し、喜び楽しんでいる場所です。

私は、天国がどんなところか、この地上でも、神様は教えてくれて、わずかであっても体験させてくれるのだと思います。

例えば、礼拝し、神様のご臨在の中に入るとき、それは天国の前味だと思います。

イエス様がいてくれるところで、共に心を合わせて祈ったり、神様の良いものを共有したりするとき、その喜びも天国の前味と思います。

そして、その神様が与えてくれる喜びに満たされるとき、このさらに強い神様の栄光と臨在の中に、喜びと平安の中に持続している状態が天国だと思うのです。

地上で天国は体験できるのです。そして、イエス様と近くにいて喜ぶ天国を切望していくに至るのだと思います。

パウロは言いました。

“私にとっては、生きることはキリスト、死ぬこともまた益です。…

私の願いは、世を去ってキリストとともにいることです。実はそのほうが、はるかにまさっています。”(ピリピ1:21.23)

パウロは、イエス様がいる天国を切望していました。

そして、その天国に行くまで、地上に残された苦しみの働きも全うするのみと思いました。

どうそ、聖書の約束の天国があなたのものとなりますように。

天国の前味を味わい、共に、先に約束されている天国の素晴らしさを楽しみに待ち望めますよう、祈ります。

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2009年8月 8日 (土)

“転校”(自分史3)

小学で初めて転校したときのエピソードです。

『私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをもあらかじめ備えてくださったのです。』新約聖書 エペソ人への手紙2:10

小学に入学して、すべてが新鮮で、楽しかったように思う。

性格は“おとなしかった”と一年生の通信簿にある。おとなしかったし、控えめだった。

父の仕事の関係で、小学校を3回、転校した。私の転機は、3年のときに、小さな町に転校したときから始まる。

姉は転校のたびに、お友だちと別れるのが悲しくて、泣いていた。

私は転校するたび、その新しい土地での新しい出会いにワクワクした。

3年の転校した日、体育館でみんなで鬼ごっこをした。そして、初っぱなから、女の子と喧嘩した。

たぶん、おとなしかったのはまちがいで、こちらの気が強い私のほうが、本当の私だったと思う。

田舎への転校生ということで、注目もあびた。

そんな中で、一人の女のベテラン先生が 私のクラスの担任だった。

その先生は私に非常に良いものを見い出してくれた。今まで、誰も見い出してくれなかった私に秘めた可能性を高く評価してくれた。

そんなことが、私が自分に自信を持つ一歩になったと思う。

理科観察係になり、おたまじゃくしとへちまの観察を先生とともにした。興味深く、楽しくやった。

通信簿には次のように書かれてある。私が、9年間の小中学校で、もっとも評価してもらった時と思う。

「静かな生活の中にも、常に自分で目標を持ち、実行しようと努力している。

おたまじゃくし、へちまの飼育などを1日も忘れたことがなく、観察の目もするどい。

思慮深く、他人の行動をいつも批判的にながめている。」

このときから、私は変わった。目立たず、いつも人の後ろに隠れていたような私は、学級委員長とかをやるようになった。

担任の先生に良いところを認めてもらい、責任を任され、自信をつけていった。

私たちは、誰もが神様の作品で、一人一人が隠された良さを持っている。

それを見い出してくれる人によって、人は伸びていくのだと思う。

子どもの個性はその子どもだけの宝物である。認め、誉めて育ててこそ、良いところが伸びていく。

人もまた、すべての人が神様のすばらしい作品である。認めあい、受け入れあうことによって、互いが成長していくのを思う。

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2009年8月 7日 (金)

“イエス様の十字架の完全性”

「完了した。」と言われたイエス様の十字架を思いました。

『イエスは、酸(す)いぶどう酒を受けられると、「完了した。」と言われた。そして、頭をたれて、霊をお渡しになった。』新約聖書 ヨハネの福音書19:30

イエス様は十字架にかけられ、死刑とされた。イエス様は一つも悪いことをしていないのに、はずかしめの刑罰を受け、死なれた。

それは、実に、正しい神様の前に、私が死刑になるべくところの罪を、イエス様が受けてくださったのだ。

本来、私があの十字架刑ではりつけにされ、はずかしめを受け、呪いを受け、罰を受け、苦しまなくてはならなかった。

しかし、イエス様を十字架刑にかけることは神様の計画であった。

そのことを通して、私たちが、罪をもったまま、弱さをもったままで赦されるためであった。

イエス様の十字架は、私たちに癒しと平安を与えられた。
(イザヤ53:5)

イエス様の十字架は、神様の前に完全ないけにえであり、一つも欠けがなく、私たちが何もつけ足すものはなかった。

「完了した。」

イエス様が十字架の上で、最後に言われたことばである。

完了した。

旧約聖書で、長い年月、預言者を通して語られたことが完了した。

神様か初めから計画していた、私たちを赦し、神様の子どもとする道が完了した。

この世のもろもろの支配するものに対して、その責任を全部引き受け、処理されたゆえに、もはや、私たちはこの世に勝ったものとされた。

そして、もう誰も、何もおびやかす者はいないとされ、平安が与えられるものとなった。(ヨハネ16:33)

イエス・キリストの十字架は、私の罪を赦し、サタンに勝利し、完全なものとして完結した。

このイエス様の赦しと癒しと平安と勝利の喜びを受けとれますよう、祈ります。

「イエス様、私の代わりに私の罪のため、十字架にかかってくださりありがとうございます。

本来、私が自分の内側にあるみにくさを見るとき、私こそが神様の前に罰を受ける存在です。

しかし、あなたが私を愛するゆえに、私のために代わりに死刑の刑罰を受けてくださり、ありがとうございます。

今、あなたの十字架による赦しを受けとります。

あなたの十字架は、完全であるゆえ、不完全でみじめな私をそのままで包みこみ、どんな深い弱さも完全に赦されますからありがとうございます。

イエス様の十字架を信じる私に、癒しをください。

イエス様の十字架により、きよめてください。

イエス様の十字架の勝利を宣言させてください。

サタンも、この世も、誰もが、このイエス様には勝てないですから、ありがとうございます。

イエス様の十字架で、私を慰めてください。

イエス様の十字架のゆえに、私は真っ黒にけがれていても、神様から見たら、真っ白に美しく見なされています。

イエス様の十字架の愛に私を包みこんでください。

イエス様の十字架の命をかけるほどに価値あるものと見なし、愛してくださっていることを教えてください。

私の弱さでなく、イエス様の十字架が大きく現されますように。

イエス様のお名前によって、祈ります。

アーメン。」

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2009年8月 6日 (木)

“十字架の赦しに包むイエス様”

イエス様の十字架の赦しの大きさを教えられた、分かち合いです。

『すると、その町にひとりの罪深い女がいて、イエスがパリサイ人の家で食卓に着いておられることを知り、香油のはいった石膏(せっこう)のつぼを持って来て、

泣きながら、イエスのうしろで御足のそばに立ち、涙で御足をぬらし始め、髪の毛でぬぐい、御足に口づけして、香油を塗った。

イエスを招いたパリサイ人は、これを見て、「この方がもし預言者なら、自分にさわっている女がだれで、どんな女であるか知っておられるはずだ。この女は罪深い者なのだから。」と心ひそかに思っていた。』新約聖書 ルカによる福音書7:37.38

パリサイ人は、罪深い女が、イエス様に近づいて涙で御足を洗い、口づけし、イエス様をもてなしたのを見て思った。

「イエス様ほどの人なら、この女がどんなに罪深いものか知っておられるだろう。」

私は、教会や牧師を裁いてきたが、手放し、裁くことをやめた。

そう思っていた。

自分の中で、受け入れているはずのことが、どうしても受け入れられない葛藤を経験した。そして、私は誰も裁いていないと言いつつ、無意識に人を量(はか)りにかけていたことを神様から教えられた。

“あなたが量るとおりに、あなたも量られる”(マタイ7:2)

私が量っていたはかりで、私自身が縛られていたのを教えられた。

そのことを示され、祈っていくと、そこにすべてを包む赦しの十字架が見えた。

私たちは、誰もが皆赦される存在である。

赦される出来事がないように思えても、私たちは罪の中にいる。

パリサイ人はイエス様にさとされた。

“多くの罪を赦された者が多く愛するようになるのだよ”と。

それは、多く悪いことをしたということではない。私たちが、いかにたくさん赦される者なのか、自分の中に見ることができる、そのような者が多く愛する者となる。

人の行為を客観的に量るものではなく、イエス様の前で泣きながら、「イエス様、赦してくれてありがとう。」と言えるものでありたいと思った。

悔い改めに導かれた日の祈りを書き留める。

「主よ、今、私の生かされているすべては、イエス様の十字架の赦しのもとにあることを知りました。

イエス様に赦され続けている者として、そのあわれみを感謝して、ただ赦しの神様を伝える者としてください。」

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2009年8月 5日 (水)

“異言”

霊的な賜物について書きました。

『「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮かんだことのないもの。神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、みなそうである。」

神はこれを、御霊によって私たちに啓示されたのです。

御霊はすべてのことを探り、神の深みにまで及ばれるからです。』新約聖書 第1コリント2:9.10

神様はバラエティーに富んでおられるお方である。

その神様が一人一人に特別な働きや賜物(神様からの能力)を与えられた。

だから、私は人の信仰が自分と違うのも当然と思うし、人の神様から与えられた信仰は否定したくない。

私はご存じのように、福音派から聖霊派と言われる教団を渡り歩いた。

だから、教団の違いで聖書のとらえ方が違うのも経験してきた。

聖霊を強調すると、福音派にある人の中には、あまりいい思いをしない人もいるのではないかと思ってきた。

事実、神様の霊もすべて神様からただ与えられて、自分が自慢するものではないが、異言(いげん)を与えられた人で、与えられない人を見下す人がいるのを私もみてきた。

たから、私のブログの前半(たぶん5月前)では、聖霊なる神様はあまり登場していない。

私の中では、三位一体(神、イエス、聖霊が3つで一つ)なる神であるが、教団のそのような背景に気を使ってきた。

聖霊なる神様を全面に出すと、せっかくブログの記事を分かちあってくださっている方の中に、引いてしまう人もいるのではないかと。

けれど、聖書では、イエス様が十字架にかかられ、よみがえられ、今聖霊が働かれている時代なのである。

そして、5月から私の中で、聖霊様の働きがとても顕著になった。

そんな訳で、私も聖霊なる神様の記事をいつか書きたいと思っていた。

私は福音派の教会に属しているとき、異言の話しをある聖会で聞いた。

そして、ある日、会社帰りの一人道、歩きながら祈った。

「その聖会で聞いた異言とやらがあるなら、私にもください。」

そして、そのとき与えられた。

けれども、そんなに異言で祈ったりすることもなく、それがどんな良いものかも知らずにきた。

私にとっては、イエス様を信じていれば、同じ神様を信じる人たちと思っている。私にとっては、異言が与えられていても、与えられていなくても関係ない。

大切なのは、私たちの赦しも賜物も与えられているのも、神様のあわれみによることで、また、人へのために流れていくために与えられたものだと思っている。

大切なことは与えられた賜物を人のために使う、与えられた賜物をもって人に仕えるということだと思う。

賜物自慢をする人がいるなら、その人はすでに、出どころと何のために与えられているか、忘れてしまった人だと思う。

私が異言を与えられて祈っている話しをここまで書いたが、いちどは皆さんに伝えたいと思ったので、記事にした。聖霊なる神様となるともっと深い話しと思うが入り口として書いた。

大切なのは、信仰と希望と愛である。もっとも大切なことは愛である。(第1コリント13:13)

注釈:異言(いげん)とは、聖書に出てくる賜物(神様からのプレゼント)。福音派は、もう今は聖書があるから異言はないとする。聖霊派は、多くの人が異言で祈る。

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2009年8月 4日 (火)

“神の国の実現”

神の国の実現について、思いました。

『しかし、わたし(イエス)が神の御霊によって悪霊どもを追い出しているのなら、もう神の国はあなたがたのところに来ているのです。』新約聖書 マタイの福音書12:28

まだイエス様に出会っていない学生のころ、いつも孤独や虚無感に包まれながら思った。

しあわせは、外の環境から来るのではなく、心の中にあるものから来るのだろう。

だから、私は心の中が穏やかになり、喜ぶものになりたい…と。

今から2週間程前、朝方、起きるか起きないかの無意識の中で、神様が私に語ってくれた。

“神の国の実現”

ただその単語なのだが、そのときはそこに含まれている凄さを感じて、私は驚いた。そしてまた、語られた。

“神の国の到来”

“キリストの到来で神の国が実現した”

“キリストの愛が現された”

私は急いで起きて、紙にそのことをメモした。それがどんなに凄いか伝わったが、残念ながら、今はなんだかただの単語になってしまった。

けれど、意味あることばとして大切にしている。

友人と会ったとき、彼女が言った。「しあわせそうな人と、とても苦境にたたされてしんどそうな人といろいろいる。不公平感がある。」

育ちも環境も、体力も精神力も与えられてあるものは皆違う。

そこを突き詰めていくと、神様はえこひいきされないといいつつ、不平等のようかもしれない。

けれども、神様はすべての人に等しく、イエス様の十字架の赦しと愛を提供している。

神の国の実現はもう私たちに等しく与えられている。

それは、パウロのように「どんな境遇にあっても満ち足りる」(ピリピ4:11)体験である。

イエス様の愛があれば、どんな境遇にあっても、感謝と喜びが溢れる約束を神様は与えてくださった。

まだ、私たちの現実がそのようでないとしても、それは、確実に私たちに与えられた約束である。

“キリストの到来で神の国が実現した”

私たち一人一人の中に、キリストの愛が現され、私たちの心の中に神の国が実現されますよう、祈ります。

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2009年8月 3日 (月)

8/3☆お祈り☆

ブログ周辺にいてくださる皆さんを思いながら、一週間の祝福を祈ります。一日遅くなりました。

『何も思い煩(わずら)わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。

そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。』新約聖書 ピリピ4:6

いつも人の思いを越えたことをなさいます神様、あなたのお名前をほめたたえます。

私たちは自分の考えられる範囲でしか、あなたが働いてくださらないと考えやすいものです。

しかし、無から有を生み出し、天地を造られ、今、すべてをご支配しておられるあなたは、私たちの外にも内側にも主の不思議をしてくださる方です。

どうぞ、私たちにあなたのみことばのとおりのことを成してください。

不安や恐れにある人を覚えてください。

何も思いわずらない…それは困難な状態で私たちには、不可能に近い話しです。

しかし、嘘をつくことのない神様が、そのように言われるので、そのことばを信じさせてください。

あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、私たちの願い事を神様、知ってください。

そして、約束のとおりに、人知を越えた神様の平安に私たちの心と思いを守ってください。

悲しみのある人に慰めを与えてください。

義に飢え渇く者に、神様の義を与え、満たしてください。

あわれみ深い人に、あわれみを与えてください。

私たちの心をきよめ、神様を見い出させてください。

迫害される人に、その圧迫を越えた、神様の喜びに満たしてください。

神様、あなたが慰めに満ち、どんな苦しむ人をも慰さめてくださることを、ありがとうございます。

あなたの栄光の現される場所は広がっています。多くの闇に、キリストの光が照らされますように。

新しい一週間、愛されていますお一人お一人に、神様が近くにいてくださいますように。

イエス様の赦しの愛に包まれますように。

聖霊様にある喜びがありますように。

イエス様のお名前によって、お祈りします。

アーメン

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2009年8月 2日 (日)

“幼少時代”(自分史2)

幼少時代は平穏な日々でした。

『あなたがたも、自分の子がパンをくださいと言うときに、だれが石を与えるでしょう。…

してみると、あなたがたは、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えるのを知っているのです。

とすれば、なおのこと、天におられるあなたがたの父が、どうして、求める者たちに良いものを下さらないことがありましょう。』新約聖書 マタイの福音書7:9~11

私は、親は不完全であっても、幼少時代は、平凡で穏やかな日々を過ごした。

父が、私が就学前に胃潰瘍で入院したが、あまり記憶にない。

優しい母親と可愛がってくれる姉、近所の人たちに可愛がられ、いろんな友人と遊びに暮れる日々だった。

父は、本が好きで、社交的で、趣味が多く、子どもを可愛がる人だった。

父の口癖は「ほしいものがあったら、何でも買ってやるぞ。」だった。

週刊少女マンガを毎週買ってきてくれていた。

が、優しく怒ることのほとんどない父だったが、不思議と私と姉は父に遠慮がちだった。

姉が言うには、亭主関白的な父に、母はいろんなことを控えめであったらしい。

そんな父と母の距離を子どもながらに私たちも察していたのか、父にいつも遠慮している私がいた。

それでも幼少時代は楽しい思い出だけが残っている。

親のもとで安心して過ごす子どもにとって、明日は思いわずらわない。自分は知恵も力もなく、いろんなことができないが、責任を持って守ってくれる家族がいる。

その中で、安心しきって、その日、その日を過ごす。

私がクリスチャンになって、三位一体(神様、イエス様、聖霊様が3つでひとつ)なる神様の中で、長い間一番身近に感じたのが、“天のお父さん”と呼べる神様だった。

それはもしかしたら、幼少時代だけではあったけど、優しく頼もしい父と神様が重なり、すんなり入っていけたのかもしれない。

虐待されて育った人などは、神様に優しい父のイメージをすぐ持つのは難しいかもしれない。

人となられたイエス様からや、ダイレクトに働く聖霊様や、神様はその人にあったところから神様の世界に導いてくださるのかもしれない。

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2009年8月 1日 (土)

“聖書の登場人物の見方”

ヨエルさんのブログから、カインの分かち合いをさせてもらい、そこから考えたことです。

『ある時期になって、カインは、地の作物から主へのささげ物を持って来た。

また、アベルは彼の羊の初子の中から、それも最良のものを、それも自分自身で、持って来た。主は、アベルとそのささげ物とに目を留められた。

だが、カインとそのささげ物には目を留められなかった。それで、カインはひどく怒り、顔を伏せた。』旧約聖書 創世記4:4.5

神様からささげ物を喜ばれた弟アベル、そして受け入れられなかった兄カイン。

黙っていても、「私たちはカインのように受け入れられないささげ物でなく、アベルのように、最良のものをささげ、神様に喜ばれる者になりましょう。」と、誰かが語る声が聞こえてくるような気がする。

聖書には、人の失敗や、その限りない弱さが描写されている。

その一方で、素晴らしい信仰の人の話しが出てくる。

とかく、私たちは、その素晴らしい人を見て、見本にしなければと無意識に思う。そのように促され、勧められる。

それでは、どうして聖書には、どうしようもない弱い人々のことが赤裸々に語られているのか。

それは、神様は私たちがどうしようもなく弱い存在であるのを良くご存じだからだと思う。

モーセの十戒や、イエス様が言われた山上の垂訓と言われる完璧な姿に自分を照らし合わせたら、私たちは0点で、なに一つとして成しえない者なのである。

だから、イエス様の赦しが必要なのだ。

イエス様は言われた。「わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招いて、悔い改めさせるために来たのです。」(ルカ5:32)

イエス様は自分が正しいと思っている人を呼びよせるために来たのではないと言っている。

聖書を読むときに、素晴らしい信仰の人を見たら、「そのようでない者を赦し、導いてください。」と祈ればいい。

限りなく弱い人を見て、「これこそ、私自身の姿です。」と思えるなら、そんな私をイエス様の前で赦してもらえばいい。

聖書の呼びかけは「みんな、いい子になろうよ。」と呼びかけていない。

弱く、足りなく、どうしようもない私たちが、イエス様によって赦され、受け入れられ、包まれ、あわれまれ、きよめられ、癒されるためにイエス様は来られた。

イエス様の栄光は、私たちの弱さに働いてくださるところにある。

私たちは、イエス様の働きが私の内に豊になされるため、弱さを誇り、主をあがめるだけである。

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2009年7月31日 (金)

“女であるな”(自分史1)

生まれたときから、私は“女であるな”というメッセージを受けて育ちました。

『女は、静かにして、よく従う心をもって教えを受けなさい。

私は、女が教えたり男を支配したりすることを許しません。ただ、静かにしていなさい。』新約聖書 第1テモテへの手紙2:11~12

私は平凡な公務員の家庭の二女として生まれた。

ところが、この“二女”がくせ者だった。

両親は一番目は女の子だったので、次に生まれる子どもは何が何でも男の子が欲しかった。

誕生して、取り上げられたとき、「おめでとうございます。姫です。」と看護婦さんが言ったらしい。そして、両親が男の子でなかったことにがっかりした話しを何回となく聞かされた。

そして、幼い私は「お前が男の子だったらなぁ。」とため息をつく母の言葉を何十回と耳もとで聞きながら育った。

私の親からの愛称は“かあぼう”だった。つまり、“セバ坊や”“せぃ坊”みたいな感じで呼ばれていた。

私は親が現実を受け入れないところから、呪縛のメッセージを受けた。

それは、“お前は女であるな”というメッセージだった。

それでも、活発な幼少時代はあまり、気にならなかった。

思春期、大学に進むにつれ、自分が女性であることを呪った。が、どうにもならない。

それは、私がクリスチャンになって、神様の働きをしたいと願ったときに、さらに呪いのくさびのように、私を苦しめた。

初めていった教会は女性は公で祈ってはいけない教会だった。

もっとも苦しかったのは、教会で働きをするとき、私は献身者であり、教会から給与をもらい、仕える立場にあったのに、女性であるということで、講壇に立ってメッセージをすることは許されない教会にいたことだった。

私はなぜ女性なのか、ひたすら泣いた。

心が癒され始めて、結婚し、主人は「女性だから…」と条件をつけることのない人だったので、だんだん癒され、女性である自分を自然に受け入れられるようになった。

子どもが生まれると、母親としての幸せを感じた。

今は、女性だから…という前に、神様に愛されているものとして、感謝に溢れるとき、私はきっと女性としての特性が最大限に生かされているのだと思う。

上記にしるしたことばは、聖書のことばだったが、私を苦しめたことばだった。

今は神様から与えられている働きと能力に忠実にあることが、私の神様への応答ということで、この聖書のことばも私の中では問題無しとなった。

神様が女性である私を喜べるようにしてくれたことを感謝する。

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2009年7月30日 (木)

“カルト化教会を出た方のブログ紹介”

かつてカルト化教会にいたチンチロさんのブログ紹介です。

『たとい、私が人の異言や、御使いの異言で話しても、愛がないなら、やかましいどらや、うるさいシンバルと同じです。

また、たとい私が預言の賜物を持っており、またあらゆる奥義とあらゆる知識とに通じ、また、山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、何の値うちもありません。

また、たとい私のからだを焼かれるために渡しても、愛がなければ、何の役にも立ちません。…

こういうわけで、いつまでも残るのは、信仰と希望と愛です。その中で、一番すぐれているのは愛です。』新約聖書 第1コリント13:1~3.13

ブログ紹介をします。このブログに時々訪問してくださるチンチロさんのブログです。

お気に入りブログに載せましたが、「チンチロの小走り日記〜カルト化教会をくぐり抜けて」です。

チンチロさんがかつて通ったその教会は、霊的な世界を強調するあまり、なんでも良くないことは悪霊になってしまったようです。

カルト教会にはとかくありがちだと思います。

確かに目に見えない悪霊の世界はありますが、神様が私たちにくださる霊は“おくびょうの霊ではなく、力と愛と慎みの霊です。”(第2テモテ1:7)

私たちは、皆、神様からずれやすい弱いものですが、教会の中に安心ではなく恐れや恐怖、愛の関係でなく断絶、自由でなく縛り、喜びでなく苦痛…もしそういったものが支配していたら、それはイエス様からかけはなれた世界です。

私はカルト化教会を考えるとき、いつもどうして“初めの愛”で始まっただろうにそのようになってしまったのかと考えます。

人の弱さがすべてかと思います。神様が聖書で強調しているのは“関係”です。

神様との信頼回復の関係であり、イエス様による人と人の和解です。

神様から受けるところの愛は強調しすぎるということはないと思いますが、働きや悪霊などにのみ、焦点が行き過ぎると、イエス様の十字架の赦しがぼやけてしまうのかなぁと思ったりします。

イエス様は私たちの罪を赦し、私たちがイエス様に喜び、愛し合うために来られました。いつもイエス様中心でありたいと思います。

どうぞ、カルト化教会の痛みを負って、また、そのような教会のために祈りに覚えてくださる方など、必要な方はチンチロさんのブログも訪問してみてください。

チンチロさんの神様の祝福を祈ります。

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“あらゆる結び目”

祈りによって固く結び合わされる大切さを神様から教えられました。

『キリストによって、からだ全体は、一つ一つの部分がその力量にふさわしく働く力により、また、備えられたあらゆる結び目によって、しっかりと組み合わされ、結び合わされ、成長して、愛のうちに建てられるのです。』新約聖書 エペソ人への手紙4:16

昨日、コメントで、“長距離ランナーのように無理せず”との言葉をいただき、思い出した。

過去の栄光なのだけど、中学のとき、6クラスある学年の女子で、私は3年間、マラソンで優勝した。

個人競技で自分の力を発揮し、賞を貰えるのは嬉しいものである。

なぜ、体力とスピードがあったのか、よくわからない。が、今はその片鱗すらない。

中学の部活は、バスケットボール部だった。みんなで支え合い、勝ち抜く喜びを経験した。

信仰生活において、私は長い間、マラソンランナーのように、個人競技をしてきたのかもしれない。

私の中で、“鼻の息するものに頼るな”がモットーだった。人に期待して、失望すると祈った。

「神様、ごめんなさい。求めるべきお方はあなただけでした。人に求めたので失望しました。赦してください。」と祈ってきた。ただ、神様だけに期待し、神様だけに求めてきた。

今日、祈りの中で、“あらゆる結び目”ということばを思い出した。

神様は、私たちが神様を信頼して歩まれるのを望んでおられるが、それは決して一人寂しく来なさいと言っていない。

私たちには特別に、人と心合わせて祈ることが与えられている。

祈りはすごい。私が相手のすべてを理解していなくとも、相手の気持ちになって、共に与えてくださる神様に求めていける。

こんなことができるのは祈りしかない。

人と人であれば、限られた中で理解するところまでである。

それを、良いものを与えてくださる神様に一緒にお願いできるのだから、私が相手のすべてを理解していなくとも、一緒に…の気持ちがあれば、いつでも、どこでもできる。

今まで、私の信仰生活は、神様と私、一対一だった。

それは、私が神様をしっかり見い出し、信頼するために必要だった。

これからは、個人競技から、団体競技に移された、そんな気分でいる。

誰かが、神様に渇いていたら、それは私の渇きでもある。

誰かが、苦しんでいたら、私の苦しみでもある。

誰かが傷んでいたら、私の痛みでもある。

神様は、イエス様にあって、祈りと愛の結び目でしっかり結び合わされ、みんなで神様をあがめることを望んでおられる。

誰かが進めずにいたら、自分も戻って一緒に手をつなぎ、一緒に立ち止まり、一緒に泣けばいい。

イエス様にあって、キリストのからだ全体が助け合い、支え合い、結び合い、ゆっくり成長していくのが良い。

誰かが一人飛び抜けて走り出すのは、何の意味もない。

神様がキリストのからだで現したいのは、この世にない、愛である。

私たちは前に前進するのではなく、固く結び合うことなのである。

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2009年7月29日 (水)

“自分史”スタート

自分史シリーズの紹介です。

『それはあなた(神)が私の内臓を造り、母の胎のうちで私を組み立てられたからです。…

あなたの目は胎児の私を見られ、あなたの書物にすべてが、書きしるされました。

私のために作られた日々が、しかも、その一日もないうちに。』旧約聖書 詩篇139:13~16

20年ほど前、カウンセリング講習の中で、“自分史”(自分の歴史)を書く宿題があった。

そのとき、私が小学4年のとき、父が精神病になったところから先が書けなかった。

たぶん、自分の中で受け入れきれていなくて、そこで終わってしまったのだと思う。

このブログの初めのころ(2008年7月)、自分の生い立ちなど、たくさん書いた。

今は自分の50年の歴史を振り返り、すべて神様にあって苦しかったことも感謝している。

もう一度、ゆっくり順を追って、自分の歴史を書いていこうと思う。

特に、価値観の合わない母、精神病の父との中、私はやがて全自己否定、全自己嫌悪のような自分になっていく。

そして、ほとんどすべて神様に癒してもらった。

私の生い立ちの中での傷や痛みと、その癒しが誰かの傷と痛みの癒しと回復につながればと思う。

詩篇139篇を読むとき、神様は私たちの誕生に関わり、私の人生の出発(母の胎内で命授けられた日から)から、私たちをご存知だった。

世界の始まる前から私たち一人一人を知っておられ、計画されていたとある。(エペソ人への手紙1:4)

私たちが命与えられ、この世の中に誕生したのは、偶然ではなく、神様の深い計画によることだった。

そして、私たち一人一人の人生にもまた、神様の特別な計画が与えられている。

そんな壮大な神様の中にある大切な存在の私たちであることを感謝し、その祝福を祈りつつ、この自分史を書きたいと思う。

よろしくお願いします。

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2009年7月28日 (火)

“キリストのからだ・教会”

教会について、思いめぐらしました。

『むしろ、愛をもって真理を語り、あらゆる点において成長し、かしらなるキリストに達することができるためなのです。

キリストによって、からだ全体は、一つ一つの部分がその力量にふさわしく働く力により、また、備えられたあらゆる結び目によって、しっかりと組み合わされ、成長して、愛のうちに建てられるのです。』新約聖書 エペソ人への手紙4:15.16

長年、教会の中で悩んできた私にとって、“教会ってなんだろう?”と言う疑問が、良くわき上がりました。

もちろん、悩みが解決していないさ中、その答えは出ませんでした。

聖書を通して、私が描く教会像はエペソ人の手紙にあるような教会です。

イエス様の権能が豊かに現され、御霊に、イエス様に一つとなり、それぞれが、キリストのからだの成長のために与えられた働きをなすところ。そして、互いがイエス様からいただいた愛によって支えあい、祈りあい、愛しあうところ。

そこはこの世の中の価値観が入り込ます、弱さを持つ人が尊ばれ、祝福される。(第1コリント12:23)

そこでは、イエス様の前に、みんな赦されたものとして、互いの弱さを言い表し、そしてそのことが赦されていることを誰もが共に喜べる。

ただ、誇りとなるお方はイエス様だけで、イエス様だけがあがめられるところ。

私の中では、「これ、なんか変じゃないの?」と目に見える教会に思いつつ、聖書にある教会を思い描くようになりました。

人が不完全なように、教会も完全ではありません。

あら探しするのではなく、その足りないところを、神様とその教会を信じて祈ることこそ、そのからだの一部であるものに、託されているのだと最近思わされるようになりました。

今日、コメントで、matsuさんが、「ここが私の教会」と言ってくれました。

7月17日のコメントで、ettuさんが、「このブログが私の望む教会の一端を備えていると思う」と言ってくれました。

私もここがまた、一つの教会と思えば、3人同じように思う人がいて、教会成立かなぁなんて思いました。

ブログに訪問されている方々には、いろんな方がいて、すでに、しっかりご自身の教会に通われている方もたくさんいると思います。

イエス様のもとに集められて、良いものを共有できていることが幸いです。

ただ、もし今は教会を持たず、寂しい思いをしている方にとって、ここもまた、教会のような、みことばと祈り、交わりのある場所として、その一部を備えている場所として、喜んで安心してきてくだされば、嬉しく思います。

イエス様は、私に20年前に言われました。「あなたの小さな一人分の弁当(5つのパンと2匹の魚)をわたしに差し出しなさい。わたしが奇跡をなして、増やすから。」と。

私自身は、いつも一人分の食べ物しか持たず、そのままでは誰にも分けてあげられない者です。

けれども、増やして人々を祝福するのはイエス様だと言われたので、私自身、多くの食べ物を持っていないことにも、安心しています。

今日、コメントをいただき、そこに応答して、素直な今の気持ちを書かせてもらいました。

教会を必要とされる方にとって、ここが神様と、人とともに交わる慰めの場所となりますよう、祈ります。

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“守り助ける神様”(祈り)

苦しむ人を守られる神様にあって、祈ります。

『主は、ご自分の羽で、あなたをおおわれる。あなたは、その翼の下に身を避ける。主の真実は、大盾であり、とりでである。

あなたは夜の恐怖も恐れず、昼に飛び来る矢も恐れない。

また、暗やみに歩き回る疫病も、真昼に荒らす滅びをも。…

彼がわたしを愛しているから、わたしは彼を助け出そう。

彼がわたしの名を知っているから、わたしは彼を高く上げよう。

彼が、わたしを呼び求めれば、わたしは、彼に答えよう。

わたしは苦しみのときに彼とともにいて、彼を救い彼に誉れを与えよう。

わたしは、彼を長いいのちで満ち足らせ、わたしの救いを彼に見せよう。』旧約聖書 詩篇91篇

天のお父さん、私たちは地上において、いろんなことに出会わされますが、いつもあなたの守りの中に入れてください。

神様がご自身の羽で、ひなどりを守られるように守ってくださいますから、ありがとうございます。

私たちはそこに身を避け、安全です。

神様、あなたの真実は揺らぐことなく、私を守りますからありがとうございます。

私たちがころびそうになっても、あなたが、み使いを送ってくださり、私たちを支え、倒れないようにしてくださいますから、ありがとうございます。

愛する者たちを、主よ、みことばの約束のとおり、助け出してください。

彼らを守り、助け、その叫びに答えてください。

苦しみのとき、彼らとともにいて救ってください。

主よ、あなたがともにとりなし祈ってくださっていることを私に思い出させてください。

あなたの真実は変わらないゆえ、あなたのあわれみは尽きず、あなたがどんなところからも助けてくださることを見させてください。

一人で祈り求めている人に、一人ではないことを教えてください。

私も今日、一人で孤独に祈る人々を思いました。

その人たちに心合わせて祈ります。

一人で寂しく祈る思いを取り去ってくださり、あなたがともに祈るものと、私たちをしてください。

あなたが祈りに応えてくださる主であることを見させてください。

力ある主よ、ただあなたに求めます。

あなただけがすべてをご存じで解決を与えてくださるお方だからです。

イエス様のお名前によって、祈ります。

アーメン。

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2009年7月27日 (月)

“宗教の霊から解かれる”

昨日、緑のオリーブさんとの、“宗教の霊”とはどういうものかを分かち合いをしました。もう一度、改めて皆さんとも“宗教の霊から解かれるとは”について分かち合いたいと思いました。

聖書のことばは、緑のオリーブさんが思いついたものを載せさせてもらいました。新共同訳だそうです。

『主を喜び祝うことこそ、あなたたちの力の源である。』旧約聖書 ネヘミヤ8:10

『主を賛美するために民は創造された。』旧約聖書 詩篇102:18

よく「キリスト教は宗教ではない」ということを聞く。

その深い真意は私にはわからないが、もし“宗教”というものが、人が何かを信じて、そこに向かう行為と定義するなら、キリスト教は宗教ではないのかもしれない。

キリスト教は、人が神に向かうというより、啓示の神に、私たちが従う…のだから。

前のブログに“宗教の霊”に犯されている日本の教会の話しを書いた。

私たちが、神様のため…と言って一生懸命に何かをしたとしたら、そこに“宗教の霊”が働く。

イエス様にある世界は、人が神様に向かって努力する世界ではない。

まず、イエス様が十字架の赦しを提供しておられ、それを信じるだけで私たちは赦され、神様の子どもになれる。

ここに“何かをする”ということは一切無いのである。

ガラテヤ人の手紙には“信じるだけで義とされる”のであって、何かの行いを付け足すのは、神様がくださった良い知らせではないと強調する。

救われ、神様の子どもとなった私たちは次に何をすれば良いのか。

『御霊で始まったあなたがたが、いま肉によって完成されるというのですか』ガラテヤ3:3

信じることで始まったことが、行いによって進むのかとパウロは言う。

救いのスタートも、その成長とするところも、等しくただ与えられたものを受けていくことで進むのであって、私たちの行いによらないと言う。

イエス様の世界は、知る世界、そして信じて受け取っていく世界なのだと思う。

もう、すべては全能の神様が用意しておられる。

「私たちは神様のわざを“行う”ために、“何をするべき”か」と弟子がイエス様に聞いた。

イエス様は「神様が遣わした者(イエス)を“信じること”」とはっきり言われた。(ヨハネ6:28.29)

イエス様を信頼するために、イエス様を知る必要がある。

私たちに求められているのは“何かをすること”ではなく、イエス様と親密な信頼関係を築き、そのイエス様を信じることだけが求られている。

イエス様が愛なる方で、何においても信頼に足る方であることを受け取っていくとき、そのイエス様に自分をささげて、従いたいと願いが湧いてくる。

イエス様とのうるわしき関係の中で、イエス様への応答の中で、イエス様は、信頼した者に成すべきことを教えてくださる。

聖書にあることをする、良いこと、神様の喜びそうなことをする、…その熱心はやがて自分を行いの中で縛っていく。私たちは、良いことを自分の力ではできないものだから。

イエス様とのうるわしい関係の中で、信じて応答することが、“宗教の霊”から解かれていく世界なのだと思う。

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2009年7月26日 (日)

7/26☆お祈り☆

ブログ訪問されます皆さんを思いつつ、一週間の祝福をお祈りします。

『わたし(イエス)が来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。』新約聖書 ヨハネの福音書10:10

私たちを愛する対象として造ってくださった神様、どうぞ、私たちに神様の愛が満たされ、溢れるものとしてください。

私たち自身には、人を愛する力もありませんが、神様が、私たちを愛し、喜びを与えてくださいましたから、ありがとうございます。

神様のご性質は愛そのものです。神は愛です。

そしてその神様の愛は、歴史の中で具体的に現され、信仰の中で私たちに現されました。

神様はひとり子であるイエス様を、私たちすべての人たちの救いになるよう、地上に送りました。

そして、十字架にかけ、私たちの罪の身代わりとしてくれました。

そのことによって、私たちは新しいイエス様とつながるいのちをいただきました。(第1ヨハネ4:9.10)

ここに神様の愛が現されました。

新しいいのちは、神様を知ることができ、神様と親しく交流できるいのちです。

新しいいのちは、イエス様によって、古き自分に死に、イエス様の喜ばれることをしたくなるいのちです。

新しいいのちは、神様の霊を内側に宿し、内側から泉の如く、イエス様とともにあることの喜びがわき出るいのちです。

新しいいのちは、自分の喜びが人にも流れ、人を愛し、人を祈り、人に与えていくいのちです。

どうぞ、新しい一週間も、イエス様がくださったいのちが豊かに輝きを増すことのできるよう祝福してください。

悲しみにある人に、そのイエス様のいのちとつながり、深い慰めを与えてください。

どんな苦しみをも慰めてくださる神様の慰めの霊が、その心をおおい、癒してください。(第2コリント1:4)

希望のないようなとき、イエス様に愛されていることを思い出させてください。

その希望は失望に打ち勝つものであることを思い出させてください。

聖霊によって、神様の愛を心に注いでください(ローマ人への手紙4:5)

病に苦しむ人にイエス様の癒しを与えてください。

人に疎外されている人に、神様は見捨てず、見放さない方であることを覚えさせてください。

私たちが見ている世界がすべてではありません。霊の目が開かれて、神様の愛に満ち溢れた世界をはっきりと見させてください。

お一人お一人を神様がこよなく愛されています。

その神様の愛がお一人お一人に流れていくことを心から願い、イエス様のお名前によって祈ります。

アーメン。

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『水からぶどう酒への奇跡』

水からぶどう酒に変えたイエス様の奇跡からの分かち合いです。

『イエスは彼らに言われた。「水がめに水を満たしなさい。」彼らは水がめを縁までいっぱいにした。

イエスは彼らに言われた。「さあ、今くみなさい。そして宴会の世話役のところに持って行きなさい。」彼らは持って行った。

宴会の世話役はぶどう酒になったその水を味わってみた。』新約聖書 ヨハネの福音書2:7~9

おはようございます。

今日も教会の外にも神様が熱い思いをもっておられることを思いつつ、聖書から分かち合いたいと思います。

イエス様は結婚式で最初の奇跡をされたとあります。

結婚式はどんな国でも、いつの時代でも喜びに満ちたものです。

花婿と花嫁が結婚して、新しいスタートとなる場所です。

人と人の出会いが、愛の中で新しい形を迎えます。

私たちは愛される存在として、神様は造られました。

家庭の中でたくさんの愛情を受けた子どもは、その心の中に、自分と人を愛する力を蓄えるのでしょう。

私はそんなに愛情に恵まれた家庭で育たず、一時、心は空っぽでしたが、神様との関係の中、たくさんの愛情をいただきました。

私はこのイエス様の水をぶどう酒に変えた奇跡を読むと思います。自分は水のように無機質な者だったけど、ぶどう酒のように喜びを与える者に変えられたのだなぁと。

聖書ではぶどう酒には、イエス様が十字架で流された血を象徴しています。

イエス様は私たちの罪のため、代わりに裁かれ、いのちを捨てられました。イエス様の流された血によって私たちに新しいいのちが与えられました。

それは、新しくイエス様とつながるいのちです。

聖書の神様は、関係を大切にされます。

神様との関係回復こそが、人間回復につながることを語っています。

聖書は単なる良い教えとか、悟りとか、規則ではありません。

人は関係の中で、喜びを得て、応答していく者であることを語っています。

まさに、それは結婚のようなすばらしい関係であり、うるわしい関係なのです。

お一人お一人に絶え間なく向けられているイエス様の愛が、その心にふれられて、水のような状態から、人を楽しませるぶどう酒へと変えられていきますよう、お祈りします。

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“枠にはまらず、自分を見い出す”

イエス様につながり、何をしたいか…それがその人に与えられているものだと思います。

『しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。マリヤはその良いほうを選んだのです。彼女からそれを取り上げてはいけません。』新約聖書 ルカによる福音書10:42

何年か前、ある聖会で、「日本の教会は宗教の霊に縛られている。」とメッセンジャーが言ったらしい。

私は、聖会に行った人から聞いたのだが、「宗教の霊」と言われただけで、何を意味するか、すぐにわかった。

それは、“何かをする”ことに捕らわれているということだと思う。

日本人は真面目で、勤勉だ。神様のために…と言って何かを懸命にするのはわかりやすい。

私もクリスチャンになったばかりのときは、教会の奉仕が“いのち”のように楽しかった。

そして、教会奉仕の中で、育ててもらったところもあるかもしれない。

教会の奉仕が悪い訳ではない。けれども、それは一番に大事なものではないと、マルタとマリヤの話しで思う。

ある時、ヨハネの福音書のこの箇所から教えられたことがある。

『あなたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。

あなたがたが多くの実を結び、わたしの弟子となることによって、わたしの父はは栄光をお受けになるのです。』ヨハネの福音書15:7.8

イエス様との関係の中で、湧いてくる願いは皆違い、そのことを求めることによって、多くの実を結ぶようになるとある。

すべての人が、神様から働きと能力を与えられているが、皆違っている。

それを画一化した奉仕に当てはめてしまうと、どこかに苦痛が出てくる。

例えば、クリスチャンは「皆、伝道するべきだ。」と言われても、そのことが得意な人も、楽しい人もいるかもしれないし、そうでない人もいる。

神様は、キリストのからだにバラエティーに個性を与え、働きや能力を与えておられる。

イエス様にあっては、その与えられたところにあって、限りなく拡がっていくのだと思う。

はまらない枠にはめられて、自分にないものを見て、自信をなくすことをイエス様は望まれていない。

自分だけに与えられたものを見い出し、それをもって主に仕えるとき、それはその人の神様にある生き甲斐となり、神様と働きをともに喜べるものとなる。

イエス様につながって、何を求めているか、自分を見つめてみることも大切と思う。

イエス様につながって、今、私は何を願い求めているだろうか…。

イエス様につながって、イエス様の愛を知るものとなり、イエス様の愛を伝えるものとなりたい…が、今私が願い求めていることである。

###

天のお父さん、あなたが一人一人に宝のような働きと能力を与えられていることをありがとうございます。

どうそ、一人一人がそれを自分の中に見い出し、仕えていく喜びの中にいれてください。

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2009年7月25日 (土)

“皆、一つに集められるように”

教会の外にいるキリストのからだの方々を思いました。

『ああ、エルサレム、エルサレム。預言者たちを殺し、自分に遣わされた人たちを石で打つ者。

わたし(イエス)は、めんどりがひなを翼の下に集めるように、あなたの子らを幾たび集めようとしたことか。

それなのに、あなたがたはそれを好まなかった。』新約聖書 マタイの福音書23:37

イエス様は、神様の選びの民、イスラエル人、ユダヤ人をイエス様の元に集めたかったのに、それを拒まれたことを悲しまれた。

パウロにも、同胞であるユダヤ人にこそ、イエス様を信じて欲しかったのに、そのようにならなかった。パウロは言った。

『私には大きな悲しみがあり、私の心には絶えず痛みがあります。

もしできることなら、私の同胞、肉による同国人のために、この私がキリストから引き離されて、のろわれた者となることさえ、願いたいのです。』ローマ人への手紙9:2.3

パウロにとって、イエス様は自分のいのちそのものだった。そのイエス様から引き離されて、のろわれた者となってもいいから、ユダヤ人がイエス様を信じてほしいと激しく願った。パウロのユダヤ人に対する悲しみがどんな深いものであったか、想像がつかない。

私も今日、お祈りしていて、イエス様を信じる人たちが一つとされず、散らばされていることのイエス様の悲しみを、少しだけ、教えられた。

イエス様は悲しまれている。

私たちはイエス様のもとに一つとされ、喜び楽しむはずだったのに、そうではない。

誰が悪いということでなく、そのようになってしまった現状がある。

そして、特にそのことで、目に見える教会の外で、一人、一人バラバラにされてしまったからだを悲しんでいると思った。

神様が選ばれ、イエス様のいのちの代価で買い取られた価値ある一人一人が、神様には尊く、かけがえのない存在である。一人として、欠けることのできない存在である。

皆、イエス様のもとに集まり、からだのそれぞれの部分を担い、支えあい、助け合い、祈りあい、愛しあっていくはずのからだがバラバラに散っているのである。

イエス様がもう一度、イエス様のお名前のもとに集め、そのキリストのからだの回復を願っておられる。

今日、イエス様の悲しみのわずかを共有し、キリストのからだの回復のために祈った。

###

天のお父さん、あなたが選ばれ、イエス様のいのちであがなってくださった尊いお一人お一人をありがとうございます。

いのちを豊かに得るために、神様の愛をキリストのからだの中で表すために召してくださったお一人お一人です。

教会も弱さがありますが、その弱さをイエス様の愛でおおってください。

外にいる人たちが、あなたがいつも熱い思いをもって、集めたいと願っているのを知ることができますように。

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“私の歩んだ教会たち”まとめ

このシリーズを終わるにあたって、気がつかされたことなど、まとめてみました。

『見よ。兄弟たちが一つになって共に住むことは、なんというしあわせ、なんという楽しさであろう。』旧約聖書、詩篇133:1

皆さん、私の長い教会遍歴にお付き合いくださり、ありがとうございます。

とりあえず、振り返って、私なりにまとめてみようかと思います。

30年で7つの教会を渡り歩いた…そんな人は少ないかもしれません。

一番、感謝なことは、私の弱さがあり、教会の弱さがあっても、神様が私を捕まえてくれ続けて、神様から離れることなく、ますます神様を慕い求める気持ちを増してくれているということです。

まさに、人の弱さや足りなさを越えて、神様の恵みは深く、大きいということです。

私たちに与えられた信仰は、神様が与えてくださったものなので、決して取り去られることがないということです。

そして、様々な教会生活を振り返るとき、「私はただ神様にだけ養われた」…とよく言い切ってきましたが、実は、本当にたくさんの方々が関わってくださり、支え、祈ってくださって、今の自分がいるのだということに気がつきました。

出来事も、人も神様が私のために備えて訓練してくれました。

今はこの30年の教会放浪のような日々があったので、さらに神様を信頼し、神様とともにある素晴らしさに至らせてもらったのだと思います。

そんな私の豊富?な教会遍歴を、神様が無駄にすることなく、今、教会の外や外近くにいる方々と分かち合うようにして生かしてくれました。

私は教会の中にいることの苦痛を知っているものです。

そして、それを越えた神様の恵みを教えられたものです。

人同様、教会は不完全で、様々な痛みがありますが、さらに教会の祝福を祈り求めていきたいです。

そして、教会の外で痛む人のよき理解者、とりなし手となりたいです。

皆さん、教会遍歴へのお付き合いありがとうございます。

皆さんにとって、私の経験が何かよいヒントになってくれていたら幸いです。

次は、私の自分史シリーズにお付き合いください。よろしくお願いします。

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2009年7月24日 (金)

“最もイエス様が現される尊い器”(祈り)

神様が弱き人にこそ栄光を現されるよう、祈ります。

『信じる人々には、次のようなしるしが伴(ともな)います。すなわち、わたし(イエス)の名によって悪霊を追い出し、新しいことばを語り、蛇をもつかみ、たとい毒を飲んでも決して害を受けず、また、病人が手を置けば病人はいやされます。』新約聖書 マルコの福音書16:17.18

この世の中で解決を持たず、イエス様を必要とする方々が、イエス様のお名前で癒され、慰められ、生かされていきますように祈ります。

「神様は全能の力をイエス様のうちに働かせ、死者の中からよみがえらせ、神様の右に座らせられました。

そして、支配、権威、権力、主権…あらゆる力の働きの最も上に、最も力ある方として置かれました。

そして、そのイエス様を教会に与えられました。(エペソ1:20~23)

ですから、教会こそが、イエス様の力のすべてが現れる場所です。

どうぞ、教会である私たち一人一人にイエス様が力ある方であることを信じさせてください。

私たちが自分の中にそのことを体験していかないと、信じて周りの人たちに同じ力が働かれることを信じて祈ることができません。

イエス様が、まず、私たち自身に「あなたの信仰があなたを直したのです。」という信仰と体験を与えてください。

そして、イエス様に助け求める人たちに、イエス様の働きをみせてくださり、人々が安心して帰ることができますようにしてください。

病で苦しむ人たちを覚えてください。

その苦しみはその人だけが知る苦しみです。

しかし、イエス様は病の人で、悲しみの人でした。

イエス様はその痛み苦しむ人を知りたいと願い、イエス様の解決を与えたいと願っています。

どうぞ、誰も知り得ない病の苦しみをイエス様に知っていただき、イエス様に癒していただけますようにしてください。

弱さを覚える人に、イエス様の力がおおいにますように。

悲しみの中にある人にイエス様が来てくださり、喜びの霊を与えてください。

この世の中で、どうしようもなくなった人たちに、神様の栄光が表されると、周りの人々に神様に対する恐れが生じます。

ともに神様をあがめるようになります。

神様は力ある者、知恵ある者をなきものにするため、無に等しい者を選ばれたとあります。(第1コリント1:28)

教会を訪れる無に等しいような弱く力ない人は神様の栄光の器です。

彼らを通してしか現すことのできない神様の栄光があるからです。

どうかそのような、神様が備えられた尊い器を、失望のまま帰らせることがないように。

私たちに現状を見て、無理という判断ではなく、人にはできないが神様にはできるという、その信仰と愛を与えてください。

あなたの栄光が現されるよう、私たちの暗闇を照らしてください。

イエス様のお名前によって祈ります。

アーメン。」

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“安心して帰りなさい”

私や教会は、イエス様の力を求めて来る人に、その力が現れるように助けているだろうかと思いました。

『ところで、12年の間長血(ながち)をわずらっている女がいた。…彼女は、イエスのことを耳にして、群衆の中に紛れ込み、うしろから、イエスの着物にさわった。「お着物にさわることでもできれば、きっと直る。」と考えていたからである。

すると、すぐに、血の源がかれて、ひどい痛みが直ったことを、からだが感じた。

イエスも、すぐに、自分のうちから力が外に出て行ったことに気づいて、群衆の中を振り向いて、「だれがわたしの着物にさわったのですか。」と言われた。』新約聖書 マルコの福音書5:25~34

イエス様には何でもできる。イエス様によって、癒しが行われ、悪霊が追い出され、死人がよみがえり、嵐が静まる。

それなのに、私たちはそのイエス様の力強い御業を目の当たりに見ることが少ない。

教会は、イエス様の力が現れ、いっさいのものを、いっさいのものによって満たす方の満ちておられるところとある。(エペソ1:23)

昨日コメントをくださった方のお話しを聞いて、聖書のこの長血をわずらう女の人の話しが思い浮かんだ。

教会に、病んでいる人、悩んでいる人、この世の中ではどうにもならなくなった人が訪問したとする。

教会ができることは何か。「神様、この方の悩みと苦しみから解放してください。」ととりなし祈り、神様に求めることではないか。

12年間、長血をわずらい、多くの医者からひどいめに会わされ、自分の持ち物をみな使い果たしてしまったが、何のかいもなく、かえって悪くなる一方の女の人がいた。

彼女は世の中ではどうにもならない人だった。

が、彼女が信仰でイエス様にさわり、病は癒された。

イエス様は「だれがわたしの着物にさわったのですか。」と聞くと、弟子たちは「この大勢の中で、イエス様に皆押し迫っているのに、だれもかれもありませんよ。」と言った。

が、イエス様は“人を知ろうとして、見回した。”とある。

イエス様は個人的に人を知り、関係をもち、交流したいと願っている。

もしかしたら、イエス様と求める人の間を妨げているのは、目に見えることで状況を判断しているこの弟子たちのような、私たち教会の人間ではないのかと思った。

イエス様はすべてに権能をもって、求める人にダイナミックに働き、人を生かしたいと願っておられる。イエス様の人を思う愛のゆえであり、十字架の死と復活の力による。

そのイエス様の人をいとおしむ思いがときに癒しとなり、ときに奇跡も生む。

私はイエス様を信じないで、現状を見ていないか。

教会は世の中でお手上げのような人こそ受け入れ、その人に神様の栄光が表されることを切に求めているか。

もし、私や教会が、困ってイエス様を頼りに来た人たちに、「あなたは、私たちの手に終えません。帰ってください。」と言うとしたら、イエス様に出会わせるじゃまをしているだけなのである。

イエス様は長血が癒された女の人にこう言われた。

「娘よ。あなたの信仰があなたを直したのです。安心して帰りなさい。病気にかからず、すこやかでいなさい。」

イエス様は今日も教会に足を運ぶ人に同じように優しく語りかけてくださる。

私たちはただこのイエス様が現れる助けをする者なのである。

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2009年7月23日 (木)

“黙っていない神”

イザヤ書から、離散した民への神様のメッセージに思いめぐらしました。

『目を上げて、あたりを見よ。彼らはみな集まって、あなたのもとに来る。

あなたの息子たちは遠くから来、娘たちはわきに抱かれてくる。

そのとき、あなたはこれを見て、晴れやかになり、心は震えて、喜ぶ。』旧約聖書 イザヤ書60:4.5

私はイザヤ書が大好きである。

深い意味がわからなくても、昔から良く読んだ。

イザヤ書は、神様に背いたイスラエルの民が、バビロンに捕囚の民となり、そのところからの解放と回復が後半に預言されている。

それは、私たちの救いと回復に重なる。

あまり教会で、イザヤ書のメッセージを聞いたことはないように思う。

が、注解付き聖書には「イザヤ書の40章から66章は、聖書中、最も卓越したメッセージを伝えている。」とある。

この40章以降の希望に満ちた預言は確かに私たちの慰めなのだと思う。

私は個人的には、このイザヤ書からたくさんの約束のことばを受け取っている。

そして最近、“教会の外の人たち”というテーマで読むと、何もかもが、ピッタリくる。

神様はイザヤの時代に離散した神の民に熱く呼びかけ、その回復を約束された。

時を越えて、今、離散されたかのような教会の外の人たちに神様は関心を持たれ、熱く呼びかけてくれているのを思う。

神様の関心は、離散して、なお、愛して止まない神様の民にある。ここには、救いも関係しているので、まだ、クリスチャンでない人や、まだ、福音すら聞いたことのない神様の民が含まれている。

これまでの私の信仰生活の中で、慰めと支えであった、そして約束の通りにしてくださってきた神様のことばが、今、現実をもって外に向けられ語られている。

『シオンのために、わたし(神)は黙っていない。エルサレムのために、黙りこまない。その義が朝日のように光を放ち、その救いが、たいまつのように燃えるまでは。』イザヤ書62:1

私も黙っていない神様とともに、神様の民とされる人たちが救われ、集められ、回復するのを見るまでは、黙ることなく、その神様の思いを伝えたいと思った。

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神様、イスラエルの民は、他国に捕囚され、その悲しみと苦しみの中、イザヤの希望の預言を聞きました。

神様、あなたが語ることは必ずや実現します。

どうぞ、離散した民のように、悲しみにある人たちに神様の希望の約束が、深い慰めと支えになりますように。

神様が今も変わらず、散らされている人々に熱く関心をもって語っておられるのを知ることができますように。

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2009年7月22日 (水)

“教会の遠く外まで”

教会の遠く外のクリスチャンと関わったときの話しです。

『私は、ギリシャ人にも未開人にも、知識ある人にも知識のない人にも、返さなければならない負債を負っています。

ですから、私としては、ローマにいるあなたがたにも、ぜひ福音を伝えたいのです。』新約聖書 ローマ人への手紙1:14.15

教会の遠く外にいて、教会に入ることのできない方とやりとりをしたときのことを思い出しました。

その方の信仰は、幼子のごとく、純粋でした。

彼はなぜ、教会たちから締め出されたのか、私たちは最後まで関われなかったのか思います。

私の歩んだ教会たちで話しをした教会が閉じられる少し前の話し。

牧師夫妻が、一人の女性の方をしばらく、自分の家に住まわせていた。

彼女には付き合っている方がいて、一時その方から離れるために、そこに居候させてもらっていた。

もう、彼のところに戻ったり、そこから脱出?したり繰り返していた。

どちらの方も、精神的に病んでいて、依存して付き合ったり、うまくいかなかったりだったのだと思う。

その彼女が、私の電話を彼に教えたので、彼から良く電話がくるようになった。

依存症なので、一度頼れる人だと思うと、四六時中電話がくるようになる。

私も悩んだ。「これから、病院行くのだけど、何と言ったらいいか。」など聞いてくる。

本当は、教会の牧師が対応してくれるといいのだか、かつて、嫌な思いをしたらしく、彼とは関わらないとの一点張りだった。

彼の、人に理解されない言動は、店や教会を出入り禁止されるほどだった。

まさに、世の中からも、教会からも締め出された状態だった。

言動は人から理解されなかったが、彼の信仰は幼子のごとく、素直な信仰だった。

「sebaさん、牧師は僕を赦さないというけれど、イエス様によって、僕も牧師もみんな赦されているんですよね。」と良く言っていた。

彼の信仰だけが純粋に輝いていた。

けれども、四六時中の電話には私も閉口した。

私も悩んだ。私も彼との関係を切ると、誰も頼る人がいなくなるのではないか。

神様に祈り、何人かに相談した。

結局、自分のできないことは、できないと神様にも人にも言おうと言うことになり、彼にもう電話で受け答えはできないと話し、わかってもらえた。

私自身も、自分に自信を無くした。

彼が女性だったら、まだ、もう少し対応できたのだろうかとかいろいろ考えた。

「神様、私には男性の方に福音を伝えたり、関わるのは難しいですか。」

その祈りをしていたとき、神様が答えてくれた聖書のことばがこのローマ人の手紙の箇所だった。

「誰にでも福音を伝えなさい」と神様から言われた気がした。

彼はどうなるのか。教会でチームとかあって、一人の人に対応できたら、一人の負担にならずに関われるのかもと思う。

その前に、彼を理解する人が教会にいなければ、彼はいつまでたっても、出入り禁止状態なのだと思う。

教会の外に神様の愛が具体的に表されますように。

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2009年7月21日 (火)

“石焼きビビンバ”

美味しいものは美味しい…神様のことばもそんなふうになるといいなぁと思いました。

『わたしは、天から下って来た生けるパンです。だれでもこのパンを食べるなら、永遠に生きます。またわたしが与えようとするパンは、世のいのちのための、わたしの肉です。』新約聖書 ヨハネの福音書6:51

今日は、我が家で、特別支援学級に通う子どものお母さんたちとのお茶会の日だった。

だいだい3人だけれども、今日は仕事で一人の方が来れずに、2人だった。

いつも、その場で生きている子どもたちの話しを聞くと、ひたむきに生きる素晴らしさを教えられ、感動に浸る。

月1ペースで始めて、5年目になる。

私はお茶会の日はお昼は何にしようか、考える。パン、焼きそば、スパゲッティ、お好み焼きなど、簡単、無難なメニューを考える。私が、とにかく料理が苦手で、人に食べてもらうというおもてなしが苦手なのだ。

今日は、思いがけず、生協の“石焼きビビンバ”セットが冷凍庫にあったので、石焼きで焼いて一緒に食べた。

美味しかった。二人でかなりの量をペロリと食べた。

息子の近況を少し話すと、彼女は「ブログで見ました。」と言ってくれた。

信仰ネタの多いブログだが、拾って読んでくれているみたいでありがたい。

この前、別の友人は、私の母の事などの過去のブログを見ていると言ってくれた。

別のランチ友だちの2人の友人も、わからないところを飛ばしながら見ていると言ってくれた。

“石焼きビビンバ”がみんなにとって美味しいように、神様のことばも、本当は誰にとっても美味しいはずだ。神様がみんなのために書いたことばだから。

この前、いつも訪問してくれるミニマルにも、「今日はセバのことばが多かったから、すんなり入ってきた。」とコメントをもらった。

美味しいものを、固く、食べにくくしているのだなぁと思った。

美味しいものは、子どもにとっても、お年寄りにとっても美味しいはず。

イエス様は誰にでもわかるように、神様について話された。

ノンクリスチャンが読んでくれても、クリスチャンが読んでくれても、ともに、神様のことばは美味しいね…そんなブログになれたらよいなぁと思った。

きっと、日常のいろんなところに、神様の真実と聖書の真実はあるのだと思う。

ブログを宣伝して歩いたのは私だけど、改めて読み続けてくれるノンクリスチャンの友人たちにありがたい思いになる。

霊的?でないタイトルは勇気がいるけど、神様の愛は、聖書知識やそのことばで壁をつくらない。

神様が伝えたいメッセージが、神様の優しさとともに人々の心の中に入りますように。人を慰め、励ましますように。

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“全てを投げうって得る宝”

神の国とは、畑に隠された宝とあります。どんなものでしょうか。

『天の御国は、畑に隠された宝のようなものです。人はその宝を見つけると、それを隠しておいて、大喜びで持ち帰り、持ち物を全部売り払ってその畑を買います。

また、天の御国は、良い真珠を捜している商人のようなものです。

すばらしい値うちの真珠を一つ見つけた者は、行って持ち物を全部売り払ってそれを買います。』新約聖書 マタイの福音書13:44~46

イエス様は神様の国の本質を伝えるのに、いろんな例えを使って説明した。

その一つに、この例えがある。

私たちにとって、最も大切なものは何か。人が、それを手に入れるため、どんな犠牲を払っても惜しくないもの…そんなものはあるのだろうか。

イエス様は、神の国というのは、そのように値のあるものだと説明した。

私たちは日常の中で、無意識に優先順位をつけて生活しているかもしれない。

大切なもの、命、健康、家族、恋人、仕事、お金、地位名誉、楽しむこと…人が大切にするものは千差万別である。

それらは、すべてを投げうっても、どんな犠牲を払っても惜しくないものだろうか。

私はすべてにまさって、命と同じほどに大切なものはイエス様だと思っている。

なんだか模範解答を言っているような感じだが、いつもそう思う。なぜなら、イエス様に出会っていなかったら、今の私の生活の全てはなかったから。

30年程前の私のイエス様のいない生活は悲惨だった。何のために生きているかわからず、生きていく気力も動機も何もなかった。

今、イエス様のいのちと愛に生かされ、喜びの中に生かされているが、そのすべてはイエス様による。

まさに、私もすべてを投げうって、神様の国を得たという感じである。

しかし、私は財産を神の国につぎ込んでいない。

ただ、イエス様の十字架の赦しのゆえに、神の国に入ることができた。

実は、神の国は、私がすべてを犠牲にして捜すものではないのかもしれない。

イエス様がご自身のいのちとすべてを投げうって、私を捕らえ、私を愛し、私を生かしてくれたのかもしれない。

すべてを投げうって愛してくれたイエス様の愛に、30年位の時間差があるが、今応えていきたいと願う日々である。

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神様、私たちに最も大切なものは何か、あなたはご存じです。

私が最も大切に思っているものが、イエス様のいのちをかけてくれたものに見合ったものでしょうか。

神様、あなたが“私たち自身の存在”こそ最も大切なものとし、イエス様のいのちの代わりにしてくれました。

どうぞ、イエス様のいのちの値ほどの私たちに、私たちも愛されているものとしての価値を見い出させてください。

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2009年7月20日 (月)

“永遠の愛をもって愛する”

ブログ訪問の方々の神様にある祝福を心から願います。

『それゆえ、私は生きているかぎり、あなた(神)をほめたたえ、あなたの御名により、両手を上げて祈ります。

私のたましいが脂肪と髄(ずい)に満ち足りるかのように、私のくちびるは喜びにあふれて賛美します。

ああ、私は床の上であなたを思い出し、夜ふけて私はあなたを思います。

あなたは私の助けでした。御翼の陰で、私は喜び歌います。

私のたましいは、あなたにすがり、あなたの右の手は、私をささえてくださいます。』旧約聖書 詩篇62:4~8

私は今日は、コメントくださった方々のプリントアウトした紙をファイルに整理し、こんなコメントいただいなたぁと、過去を振り返っていました。

コメントを一度、いただいた方との会話は、私は自慢ではないけど、全部覚えています。

コメントはたった一度でも、その方が、また訪問してくださっているのを見ると嬉しいです。

ずっといつも来てくださっている方が、来られなくなったりすると、一人で寂しく思ったり、その方のために祈ったりして、一人一喜一憂しています。

最近、寝ていて、目覚めるか目覚めないかの中で、神様から語られたり、見せられりいろいろあるのですが、昨日の朝はこんなでした。

16さん、3Cさん、A8さん…目覚めない意識の中でナマログのパソコンナンバーの方を祈っていました。

これは私の信仰とかでなく、神様が一人一人をとても、妬むほどに愛しておられるのを、私に祈らせているんだなぁと思いました。

私も訪問してくださる皆さん一人一人がとても大切な人たちです。

イエス様にある良いものを一緒に食べている…そんな一体感があるからでしょう。

そして、神様が切なる思いで一人一人と親しくしたいと願っているのを、強く思います。

ダビデは、朝ごと、夜ごとに神様を思い、賛美していました。そして、神様の方もまた朝ごと、夜ごとに私たちを切に求めてくださっているのだと思います。

私が訪問してくださる皆さんを思う気持ちは、限界がありますが、神様が一人一人の霊的な祝福を切に願っている、そのほんのわずかを私にも思わさせてくださっているのを思います。

『永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した。それゆえ、わたしはあなたに、誠実を尽くし続けた。』エレミヤ31:3

この聖書のことばは、私に向けられたことばであり、皆さんお一人お一人に向けられたことばです。

どんなに愛してやまないか…私が深くうまく伝えられればと思いつつ。

今日は、聖書中心というより、私の思いを話す中で、神様の思いを書いてみました。

イエス様がいのちを捨てて愛されたお一人お一人の中に、熱くイエス様の愛の焼き印が押されるほどになりますよう、祈ります。

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“イエス様、感謝します”(祈り)

イエス様に感謝して祈ります。

『神よ。あなたは私の神。私はあなたを切に求めます。

水のない、砂漠の衰え果てた地で、私のたましいは、あなたに渇き、私の身も、あなたを慕って気を失うばかりです。

私は、あなたの力と栄光を見るために、こうして聖所で、あなたを仰(あお)ぎ見ています。

あなたの恵みは、いのちにもまさるゆえ、私のくちびるは、あなたを賛美します。』旧約聖書 詩篇63:1~3

イエス様が、限りなく教会を愛し、私を愛してくださっていることを今、思わされています。イエス様に感謝のお祈りをします。

「イエス様、あなたが私に新しいいのちを与えてくださり、ありがとうございます。

イエス様と神様が一つであったように、イエス様のいのちをいただき、私もイエス様と一つとされていますからありがとうございます。

イエス様、あなたがただ私の存在を喜んでくださっていることを知り、ありがとうございます。

私が喜ぶとき、悲しむとき、不安なとき、失敗するとき、そして罪を犯してしまうようなときも、変わらず私を愛し、私の存在を喜んでくださいますからありがとうございます。

私はただあなたの前に、私を差し出します。

あなたが私の主、私を愛してくださるお方だからです。

私のいのちはあなたの中にあります。

あなたを離れて私はどこに行けるでしょうか。

ただ、あなたを慕い求めます。

あなたの力と栄光を表してください。

あなたの愛は、私に深く深くあり、ただあなたを賛美します。

イエス様、あなたの愛を私を通し、伝えさせてください。

イエス様、あなたの愛が全地をおおい、人々が主をあがめますように。

イエス様の御名前によって祈ります。

アーメン。」

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2009年7月19日 (日)

7/19☆お祈り☆

ブログ訪問の方々を思い、一週間の、特に人間関係の祝福を祈ります。

『神は、キリストによって、私たちをご自分と和解させ、また和解の務めを私たちに与えてくださいました。

すなわち、神は、キリストにあって、この世をご自分と和解させ、違反行為の責めを人々に負わせないで、和解のことばを私たちにゆだねられたのです。』新約聖書 第2コリント人への手紙5:18.19

すべての必要をご存じであられます天のお父さん、あなたが、私たちの心の奥底にある、孤独もご存じで、そこを満たしたいと願っておられることをありがとうございます。

まず、イエス様を送ってくださり、私の罪赦されて、天地造られ、今もすべてを保ち支える神様と親しく交流させてもらえますことをありがとうございます。

また、イエス様が与えてくださったいのちを捨てての愛を与えてくださり、ありがとうございます。

神様は神様との関係回復だけでなく、人間関係をも祝福したいと願っておられますから、ありがとうございます。

神様が私たちを祝福してくださいました。それを受けた私たちは、祝福を与えるものとなれましたからありがとうございます。

私たちは親しい人とさらに親しくあれますからありがとうございます。

また、あなたは敵をも祈る思いすら与えてくださいますから、ありがとうございます。

どうぞ、私たちのまわりの人間関係を主のゆえに祝福してください。

もし、その人間関係に悩みがあったら、神様による解決を与えてください。

その人間関係が祝福されるため、私が人から受けてきた傷を神様がイエス様の血潮で洗いきよめ、癒してください。

私たちを神様からたくさんいただいたものとして、良いものを与えていけるよう祝福してください。

込み入ってしまった人間関係に神様の知恵を与えてください。

『主は、人の行いを喜ぶとき、その人の敵をも、その人と和(やわ)らがせる』(箴言16:7)とありますからありがとうございます。

私がののしられ、いわれのない中傷を受けたとき、イエス様が私のためにそうであったことを思い出させてください。そして、私の深い傷を包み、癒してください。

私が誤解され、また、偽証され悔しい思いをしたとき、イエス様が私のためにそうであったことを思い出させてくださり、イエス様の愛で慰めてください。

私が裏切られたと打撃を受けたとき、イエス様こそが、そのようなつらい思いをされた方だったことを思い出させてくださり、イエス様の愛に私を保ってください。

あなたがお一人お一人を愛してくださることを感謝します。

あらゆることを祝福してくださり、主とともに居させてください。

新しい一週間が神様の守り、イエス様の愛、聖霊様の慰めと喜びの中にありますよう祝福してください。

イエス様のお名前によって祈ります。

アーメン。

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“イエス様が友となる”

友だちについてです。

『人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。』新約聖書 ヨハネの福音書15:13

おはようございます。

この日曜日の朝も、神様が教会の外にいる人たちを限りなく愛しておられるのを思いつつ、聖書の分かちあいをしたいと思います。

今日のテーマは、“友”です。

皆さんは友だちはいますか。友だちのことで悩んでいないですか。

私は中学の時、とても心が近いと思う友だちがいました。

ところが月日が立つと、ふれあって、理解しあえたかのような関係が疎遠になりました。「私とあなたは心分かちえる友だちではなかったのですか?」と切ない手紙を書いたのを覚えています。彼女とは、疎遠のまま、終わりました。

私はこの年になっても、“友とは?”と考えてしまうことがあります。(めったにないですが。)

友だちの定義をして、人に当てはめてしまうとたんに、誰が友だちかわからなくなります。友だちとは定義にあてはめたり、求める対象ではないからです。

今、私は基本的に私がイエス様からいただいた良いものを持って、人と分かち合いたいと願っています。(分かち合うのは、神様のことばかりではなく、私の喜びや人に対する気持ちなどです。)分かち合う関係を思うと、私のまわりにいる多くの人が大切な友だちに思えます。

イエス様は、私たちのためにいのちを捨てて、私たちを愛し、私たちの友となってくれました。

皆さんにとって、友だちとはだれですか?

この私たちを大切に思い、深く関わってくれるイエス様を友だちとして持つとき、私たちは友を必要とする人の友になれます。

友には、上下関係はありません。対等な、共に良いものを受け合い、与えあい、支えあう関係です。

イエス様は今日も、いのちをかけて、あなたの友になりたいと言ってくださっています。

それはすばらしい約束です。イエス様を友に持つということは、私を理解し支えてくれる友を持つことです。そのことによって私がまわりの人の友になっていける約束だからです。

人生で友だちは大切です。人は一人では生きられないからです。

私は友だちは何よりの宝物と思います。

2年前に出会った友人は、私に良くこの話をします。

「Sebaさんの名刺を人づてにもらったとき、私、この人と一緒にボランティアをしたいって強烈に思ったんだよね。」

「それって、怖いよね。会ったこともなく思われても、イメージと全然違うこともあるだろうし。」

「でも、予感があたっていたんだよね。」

「本当に私たちはベストパートナーだよね。」

私たちは、スーパーで出会い、メール交換し、今では、ボランティアでも、他でも良いパートナーとしています。

私はここ3〜4年に大切な友人との出会いが多くありました。それはきっと、私がイエス様との友だち関係の良好さと思っています。

イエス様が、あなたの親しい友となりますように。

そのことによって、あなたが、まわりにたくさんの友を作っていけますように。

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“喜びも悲しみも共に”

共に喜び、共に悲しむことについて、考えました。

『喜ぶ者といっしょに喜び、泣く者といっしょに泣きなさい。』新約聖書 ローマ人への手紙12:15

私がイエス様を信じたばかりの頃、この聖書のことばをよく思った。このように、人と共に喜べる者であり、人と共に泣くものでありたいと思った。

しかし、それは、なかなか難しいことを見てきた。

私はかつては、セルフイメージ(自己像)が低かったので、人が誰かのことをほめると、一緒に喜べなかった。誰かがほめられることを通して、勝手に裏メッセージを受け取り、「自分はどうせダメだ」っていう思いがきた。

また、人の悲しみも、自分が空っぽになっていないと、同じようには悲しめない。

人の悲しみより自分のほうが大変に思い、人の悲しみを過少評価してしまう。

本当に深く人と喜び、深く悲しまれた人はイエス様なのだと思う。

イエス様には、人の奥底にある動機をご存じだった。

パリサイ人など、悪い動機で、イエス様に近づいてくる人に、イエス様は厳しかった。

しかし、その厳しさの中に、本当に大切なことに気がついてほしいという悲しみの中の願いがあったのだと思う。

イスラエルの民は、神様に背き、捕囚(ほしゅう)の民となり、みじめな他国民への捕らわれ人となった。

そこにも、神様のところに気がついて戻ってほしいと悲しみの涙があった。エレミヤが悲しみの預言者として、泣きながら、神様の代弁者となった。

私がイエス様にあって、私の喜びを喜んでもらうとき、私もまた、人の喜びをいっしょに喜びたいと思うものとなれるのだろう。

私が、イエス様によって深い悲しみをいっしょに悲しんでもらえたとき、私もまた人の悲しみをいっしょに悲しむものとなれるのかもしれない。

そして、私たちが、神様の家族としてあるとき、私たちは自分のことのように喜びを共にし、涙を共にできるものと変えられていくのかもしれない。

私たちは一人でない。それは、イエス様が近くにいてくれるからである。

そして、イエス様につながるものどうしで、支えあえるからである。

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天のお父さん、私たちは一人で孤独になるときがあります。

どうぞ、すべてをご存じのイエス様が深いところで私たちを知り、共に喜び、共に悲しんでください。

そして、また、イエス様にあって喜びも悲しみも受け入れられている者どうしとして、私たちが自分のことのように喜び、悲しむ者としてください。

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2009年7月18日 (土)

“深みに漕ぎだす”

日常のようなところに働かれたイエス様のお話しです。

『シモン・ペテロが彼らに言った。「私は漁に行く。」彼らは言った。「私たちもいっしょに行きましょう。」彼らはでかけて、小舟に乗り込んだ。しかし、その夜は何もとれなかった。…

イエスは彼らに言われた。「舟の右側に網をおろしなさい。そうすれば、とれます。」そこで、彼らは網をおろした。すると、おびただしい魚のために、網を引き上げることができなかった。』新約聖書 ヨハネの福音書21:3~6

イエス様は十字架にかかり死なれ、三日目によみがえられた。

そして、弟子たちにご自身を現された。

もう一度現されたのは、ペテロたちの生活の場所の湖畔だった。

ペテロたちは、漁に行った。自分たちの食べる物を取りにいった。漁はペテロの仕事であり、日常であった。

しかし、その夜は何もとれなかった。

ペテロたちはがっかりしたにちがいない。

イエス様が「子どもたちよ。食べる物がありませんね。」と声をかけるとペテロたちは「ありません。」と答えた。

イエス様は「舟の右側に網をおろしなさい。そうすればとれます。」と言われた。

ペテロは漁師で経験豊富であった。「右側も左側も同じですよ。」と私なら言いたくなる。しかし、そのイエス様のことばを信じて従った。

すると、考えられないほどの量の魚がとれた。

私たちの生活の中にも、いつもと変わらないような日常がある。

ペテロたちの漁のように、何十回も何百回も繰り返された日常がある。

すると、そこに経験が積まれる。

私たちは、実は、経験豊富で、実績のある領域に、自信を持ち、自分の力で事を行い易いのかもしれない。

イエス様はそのような領域で、当たり前の事でなく、すばらしい奇跡を表したいと願っておられる。

私たちの舟を漕(こ)ぎだして、イエス様に従うとき、イエス様の経験させてくださる深い領域に入れていただくことができる。

自尊心、自信、知識、経験に頼らず、私たちの思いをはるかにこえた主の世界に、その深みに、信頼して入っていきたい。

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天のお父さん、あなたが私たちを愛し、ただ普通にこの日常で終わらせたくないと思っておられるのを思います。

復活されたイエス様のそのお力は、私たちの全生活に及びます。

どうぞ、私に主への信頼を与えてください。

そして、あなたが導いてくださる深みの領域に連れていってください。

あなたご自身の栄光を見させてください。

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2009年7月17日 (金)

“私の歩んだ教会たち”6-3・閉じる

教会が閉じられる経緯の話しです。

『悩んでいる者や貧しい者が水を求めても水はなく、その舌の渇きで干からびるが、わたし、主は、彼らに答え、イスラエルの神は、彼らを見捨てない。』旧約聖書 イザヤ書41:17

私は長年手放すことのできなかった牧師たちを赦し、解放されていった。

その頃、教会では一人の教会員の義理の妹さんの病の癒しを、心一つにして祈っていた。

特に女性たちの祈り会では熱心に祈った。私たちは、神様が、その死に至るような病も癒してくださると信じて祈った。

私も神様の不思議の中、遠い病院に自分の診察で行くことになり、彼女を何度か見舞った。

が、彼女は亡くなられた。イエス様を信じていたので、天国に行かれた。

が、私たちは癒されることを受け取り、祈ったので、さらに教会が一つとなって祈った。

私自身にそのような大胆な祈りはないが、神様は死からも生かしてくださる…そのことを信じて祈った。

神様が、一歩踏み出した私たちの教会の祈りを喜んでおられるように感じた。

彼女は天国からは戻らなかった。

その結果の受け止め方が牧師、牧師婦人、私、私の喧嘩友達、その義理の妹さんを亡くされた方、みんな違っていた。

多分…教会で大胆な祈りをしたが、それにきちんと備えていなかったからだと思う。サタンの襲撃にあった。

喧嘩友達や、義理の妹さんを亡くされた方は、そのあと色々あり、教会に2度と来なくなった。

私は残ったが、無責任に思えた牧師に怒りが爆発した。

教会は混乱をきたした。今思うと、人は不完全だし、誰でも弱さがあるが、あの時はサタンが働き、互いの弱さや悪いところだけがすべてのようになっていた。

私は、教会の外にいる人たちを見放すのかと牧師に食ってかかった。怒りが溢れて仕方なかった。外の人の痛みを祈れたら良かったのだが、求める神様に求めず、牧師に向かっていた。

怒りやすい私だが、あんなに怒りが継続的に溢れたのは、あの時だけだった。

礼拝者はもともと少なかったが、中心の2人の姉妹を失い、3月で教会は閉じることになった。

ほとんど、礼拝者がいない教会で、私は最後まで残り、その教会のあと片付けまでできたことは、良かった。

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神様、この教会で、私はたくさんのことを学びました。

この教会のときに、牧師たちを手放すことができたのは、祈りの後押しもあったからと感謝します。

教会が大胆な祈りをするとき、サタンの襲撃に会うことも経験しました。

祈り備えられなかったことを赦してください。

未だに、痛手を負い教会から離れたままの姉妹がいます。

主よ。その深い傷を癒してください。

人の弱さを越えた神様の栄光を表してください。

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“感謝のお祈り”

ブログ一年を感謝し、訪問してくださる皆さんを思い、お祈りします。

『いまだかつて、だれも神を見た者はありません。もし私たちが互いに愛し合うなら、神は私たちのうちにおられ、神の愛が私たちのうちに全(まっと)うされるのです。』新約聖書 第1ヨハネの手紙4:12

ブログを始めて、一年。神様の恵みに感謝します。

そして、訪問してくださる方々に、いつもながらに感謝します。訪問してくださる方がいなければ、私のブログは途中で挫折していました。

私はとにかく人と関わることが好きで、逆を言うと一人コツコツというのが苦手です。

訪問してくださる皆さんに支えられて、このブログを育てていただきましたこと、感謝します。

心を込めて、感謝のお祈りをします。

「天のお父さん、このブログに訪問してくださいます皆さんを心からありがとうございます。

あなたが愛しておられるお一人お一人です。

あなたがこの小さなブログにも呼び集めてくださったお一人お一人です。

私はその心のうちは知りませんが、あなたがご存じでありますからありがとうございます。

私たち人は、理解されたい思い、慰められたい思い、愛されたい思いがあります。

これらは皆、神様が私たちに与えられた思いです。

そして、神様がその思いを埋めたいと願っているのを知っています。

そして、私たち人は不完全であっても、なお、神様の愛の中で、人と人とで埋め合えるように計画されました。

どうぞ、この小さなブログの聖書のことばのまわりに集めてくださった方々の交流も祝福してください。

聖書のことばは、知識として私たちを支えますが、私たちの交流は、人と人とで互いを支えます。

私たちは一人きりで生きてはいけないようにできています。

どうぞ、このブログの周辺にいてくださる皆さんを特別に祝福し、慰めてください。

私たちの交流の真ん中にもイエス様がともにいて、私たちを愛してください。

私自身をも、日々つくり変えてくださり、神様の愛を聞き、分かち合うものとしてください。

いつもここに来てくださるお一人お一人をただただ神様に感謝します。

感謝し、祝福を願い、イエス様のお名前によって祈ります。

アーメン。」

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2009年7月16日 (木)

“顔のおおいが取りのけられる”

イエス様と顔と顔を合わせることについて思いました。

『主は御霊です。そして、主の御霊のあるところには自由があります。

私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これは、まさに、御霊なる主の働きによるのです。』新約聖書 第2コリント3:17.18

今日、コメントを初めてくださった方に返事を書いていて、この“顔のおおいが取りのけられる”という箇所を思い出しました。

結婚式でキリスト教式だと、花婿は花嫁の顔のおおいであるベールを上に上げて、顔と顔を見るんですよね。そして、お互いの存在をこの上なく喜びます。

あれの由来は私にはよくわからないですが、キリストと花嫁である教会を表しているのでしょうか。

『今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、その時(キリストの再臨)には、顔と顔とを(キリストと私たち)合わせて見ることになります。

今、私は一部分しか知りませんが、その時には、私が完全に知られているのと同じように、私も完全に知ることになります。』第1コリント13:12

キリストが再び地上に来られる再臨の時、私たちはキリストと顔と顔を合わせて見るようになります。

その時までは、私はイエス様に全部知られていますが、再臨が来ると、私もイエス様を完全に知る者となる約束…すごいですね。

私は神様ではないので、何も知りませんが、ブログにどなたが訪問してくださっているか、知っています。

だから、ずっと来てくださっている方から初コメントをいただくと、「やっとお会いできた!」という感覚を持つのです。

それが、まるで、どんな方だろうというのが、ベールが取り除かれ、顔と顔を合わせた感じだなぁと思ったのです。

そして、私たちのことを完全に知っておられるイエス様自身が、おおいを取りのけ、わたしと交流しましょうと切に願っているのを思いました。

イエス様との交流においては、イエス様ご自身が、顔のおおいを取り除いてくれます。

イエス様の十字架の赦しを準備してくださり、赦されたものとして、おおいを取りのけ、親しく交流してくれます。

その時、私たちはイエス様の十字架に赦され、美しいものとして、しみもけがれもしわもないものとしてイエス様の前に堂々と出られるのです。

イエス様がせつに愛する人たちと顔と顔を合わせたて交流をしたいと望んでおられるのだなぁと思いました。

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“ブログ一周年”

ブログ一年にあたり、その経過とこれからの報告です。

『わがたましいよ。主をほめたたえよ。私のうちにあるすべてのものよ。聖なる御名をほめたたえよ。

わがたましいよ。主をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。

主は、あなたのすべての咎(とが)を赦し、あなたのすべての病をいやし、あなたのいのちの穴からあがない、あなたに、恵みとあわれみとの冠をかぶらせ、あなたの一生を良いもので満たされる。

あなたの若さは、わしのように、新しくなる。』旧約聖書 詩篇103:1~5

去年の7月17日に、突然主人に「ブログの画面を作ったから、ブログ書いてみて。」と勧められ、ブログを初めて書いてみた。パソコンも開けない私は、人のブログも見たこともなかったが、ノンクリスチャンの友人に、私のこれまでの歩みの神様にある体験を伝えたいと思った。

まわりのノンクリスチャンの友人や知り合い50人くらいに、とにかくブログ案内をして歩いた。

そして、49年の私の体験と、そこから神様に教えられたことを書いた。書きまくった。そしたら、ネタが無くなり、ゆきずまった。

ある日、「私は教会では苦痛を感じている者だ」と控えめに書いた。(見てくれている人がノンクリスチャンの友人と思うと、教会に対する私の正直な気持ちを書くことにとてもためらった。)

それが、クリスチャンの方に共感されて、だんだん信仰ネタを書くようになった。

だから、いつも見てくれる友人には、分かりにくい話でごめんなさいという思いがあった。

が、一度、正直な気持ちを書いて、共感してもらったりして、私のブログはしっかり信仰ネタブログになってしまった。

その中で、自分の過去を書きながら振り返り、たくさんのことに気がつかされた。

25年の教会生活の苦痛は、今、神様の恵みを分かち合うためだったと理解できたときは、嬉しかった。「神様、苦しみの25年ありがとう」と感謝に溢れた。

5月に教会の中と外というテーマが示され、私自身は悔い改めるとブログで宣言した。

恵みの悔い改めに導かれた2か月だった。ブログの記事では分かりにくいが、とにかく霊的な深いところを探られ、良く泣いて祈った。

私はブログを通して、そして読んでくださる方に支えられ、見えないところで神様に取り扱われた。

神様にある良いものを分かち合う恵みも体験させてもらった。

聖書のことをたくさん語られ、書けてきたことは恵みだった。

たくさんの訪問してくださる方たちとのコメントにも励まされ、コメント無しでも、1日に何度も来てくださる方たちに励まされた。

今、また、私の中で、新しいことが起こっていて、聖書を知る知恵の御霊はどこへ…という感じで、知性が緩慢(かんまん)になっている。

何度も来てくれる方のためにたくさん記事をアップしたいが、神様次第という感じである。

“私の歩んだ教会たち”シリーズもあと2回で終わり。私の教会遍歴にお付き合いいただき、読んでもらいありがとう。

新しいシリーズとして、“自分史”をもう一度、順を追って書こうと思う。まさに私の癒しの旅の証である。

創世記も終わったら、マタイからイエス様を見ていきたい。こちらは、知恵の御霊様次第という感じだが。

自分がどういう状況であれ、神様の良いものを皆さんと分かちあい、また、特に教会の外にいる方たちの癒しのために祈りたい。

記事は少なくても、前よりたくさん礼拝し、今、いろんなことを祈れている。聖霊様のすばらしい体験の中にあって、良い形で、聖書を通して分かち合いたい。

ブログ一年のこれまでとこれからを書いた。

訪問してくださる方々一人一人を心から感謝している。

さらに、ともにすばらしい主を分かち合いたい。

皆さま、今後もよろしくお願いします。

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2009年7月15日 (水)

“神様に栄光を帰す”(創41)

神様に栄光が帰されますように。

『パロはヨセフに言った。「私は夢を見たが、それを解き明かす者がいない。あなたについて言われていることを聞いた。あなたは夢を聞いて、それを解き明かすということだが。」

ヨセフはパロに答えて言った。

「私ではありません。神がパロの繁栄を知らせてくださるのです。」』旧約聖書 創世記41:16

献酌官はヨセフに夢を解き明かしてもらったのに、ヨセフを思い出さず、忘れてしまった。

そして2年もの月日、ヨセフは忘れられたまま、監獄にいた。

が、献酌官がヨセフを思い出すときが来た。

エジプトのパロ王が夢を見たが、誰も解き明かせなかった。

そして、ヨセフが解き明かせるものとして、報告された。

ヨセフはパロの夢を解き明かした。エジプトに7年の豊作の後、7年のききんが来ることを。

パロはこう聞いた。「あなたは夢を聞いて、それを解き明かすということだが。」

ヨセフは答えた。「私ではありません。神がパロの繁栄を知らせてくださるのです。」

ヨセフは夢を解き明かすのは、神様であることをはっきりと、異教の王に告げた。

そのことにより、パロ王は次のように家臣たちに言った。

「神の霊の宿っているこのような人を、ほかに見つけることができようか。」

そして、パロ王は、神の霊が宿るヨセフにエジプト全土を支配させた。

私たちにも、ヨセフのように、一人一人に神様からの能力が与えられている。

もし、それをもって神様の御業をなしたとき、私たちはただ「神様がなしました。」という者でありたい。

その告白を通して、人々はその素晴らしい御業の出どころを知るのである。

『わたしは主。これがわたしの名。わたしの栄光を他の者に、わたしの栄誉を刻んだ像どもに与えはしない。』イザヤ書42:8

ただ神様がほめたたえられますように。

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2009年7月14日 (火)

“養い育てる天の父”

天のお父さんの前に、子ども時代を過ごす大切さを思いました。

『ですから、あなたがたは、すべての悪意、すべてのごまかし、いろいろな偽善やねたみ、すべての悪口を捨てて、

生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、みことばの乳を慕い求めなさい。

それによって成長し、救いを得るためです。…

主のもとに来なさい。』新約聖書 第1ペテロの手紙2:1~4

子どもが子どもとして、その時代を過ごさないと、大人として成長できないことを思う。

小さいときの子どもの仕事は“遊ぶこと”であり、“わがままを言う”ことかもしれない。

そんな中でいろんな体験をし、経験を積み重ねる。そんな中で、自分が大人たちから愛されていること、受け入れられていることを知り、間違いを正されることを学ぶ。

同じように、クリスチャンもまた、子ども時代を経ないと大人になれない。

私は息子と祈った2つの祈りを今日、鮮明に思い出した。

一つは、私が息子と毎日毎日遊ぶ3歳の頃、お気に入りのドラミちゃん人形(2センチ位の手のひらにのる物)を、さっきまで遊んでいたのに、無くしてしまった。

探しても探しても見当たらない。

「おかしいねぇ。神様にお祈りしてみようか。神様、ドラミちゃんを見つけてください。」

すると、どちらが入れたのか、ツリーの長靴の中から見つかった。

もう一つは、息子が小学4年のとき、不登校ぎみになる。

「ママ、どうして学校に行かなくてはならないの?」

来る日も来る日も聞いてくる。はじめは、立派な大人になるためとか適当に答えていたが、私も変えられていく。

「そうだね。それじゃさ、どうして学校に行かなくてはならないか、神様に聞いてみようか。ママも20歳のとき、何のために生きるのか神様に聞いて、答えを教えてもらったんだよ。」

「うん、祈る。その答えがわかったら、僕、洗礼を受ける。」

結局、その答えはわからないまま、また、なんとか学校に行き続け、その祈りもその何回か止まりだった気がする。

168センチの大きくなった中2の息子は、「母親はご飯を準備してくれれば、あとは困らない。」という感じで、生意気になった。が、そのときの習慣の名残が一つだけある。

それは、毎月送られてくる80円のキリスト教冊子らみい(15ページ位のマンガ冊子)を欠かさずに読んでいること。

今は教会にも行かないが、子どものような食べ物(冊子)を食べ続けている。

私は神様の前にたくさん、わがままを言ってきた。そんな私に天のお父さんは優しく一つ一つ教え、さとし、養ってくれた。

今、私の天のお父さんへの信頼は、子ども時代のたくさんのわがままな祈りの積み重ねの結果だと思う。

私はそうやって、少しずつ天のお父さんを知り、信頼を深めたのだと思う。

綺麗な祈りや求めを神様は望んではいないと思う。

本音の、身近な必要に応えてくれる神様は、やがて、私たちの信仰を成長させ、私自身を越えた約束を祈る者としてくださる。

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“神の時”(創40)

ヨセフは、監獄を出るチャンスを失いましたが、それは、“神様の時”のためでした。

『さて、監獄に監禁されているエジプト王の献酌官と調理官とは、ふたりとも同じ夜にそれぞれ夢を見た。その夢にはおのおの意味があった。…

ふたりは彼(ヨセフ)に答えた。「私たちは夢を見たが、それを解き明かす人がいない。」ヨセフは彼らに言った。

「それを解き明かすことは、神のなさることではありませんか。さあ、それを私に話してください。」…

ヨセフは彼に言った。「…あなたがしあわせになったときには、きっと私を思い出してください。私に恵みを施(ほどこ)してください。私のことをパロに話してください。この家から私が出られるようにしてください。…」

…ところが献酌官はヨセフのことを思い出さず、彼のことを忘れてしまった。』旧約聖書 創世記40

ヨセフは何も悪いことをしていないのに、監獄に入れられた。

が、主はヨセフとともにいてくださった。

エジプト王の献酌官と調理官長のふたりがヨセフと同じ監獄に入れられた。

そのふたりの夢をヨセフが解き明かす。

ヨセフは献酌官に、「ここを出て、夢の通りになったときには、私を思い出し、ここから出られるようにしてください。」と言う。

しかし、なんと、献酌官は、ヨセフのことを思い出さずに、忘れてしまった。

なんと言うことだろうか。夢の解き明かした通りになったのに、ヨセフを忘れてしまうとは。

ヨセフはこの忘れてしまった人によって、監獄から出られるチャンスを失った。

ヨセフの記事には、ヨセフの祈りがない。どのように神様に祈ったのだろうか。

私だったら、「主よ。ひどいです。夢を解き明かし、その通りになったら、出られるように計らってくれると約束したのに、自分のことだけで、私を忘れるなんて…なんてひどいことでしょうか。」と泣いて悔しがったかもしれない。

主とともにおられたヨセフは「主よ。すべての時すらあなたがご支配しておられます。あなたの時を、信頼して待ちます。」という風に祈ったのかもしれない。

人の目に見えることで、最悪のようなことがある。

しかし、この献酌官は、絶妙なタイミングのとき、ヨセフを思い出し、パロ王に彼の話しをする。

神様の計画の中で、そのときでなくてはならないときに思い出されることになる。

献酌官のひどい忘れる行為にすら、神様のみ手をがあった。

神様はすべてに働かれ、人の失敗すら益とされる。

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神様、私たちには、今しか見えず、先がわかりません。

しかし、最善を考えてくださるあなたにあっては、“神のなさることは、すべて時にかなって美しい”(伝道書3:11)となりますから、ありがとうございます。

神様、あなたを信頼し、あなたの時を待つことができますようにしてください。

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2009年7月13日 (月)

“隣人になる”

私は助けを必要とする人の隣人になれるか、考えました。

『ある人が、エルサレムからエリコへ下る道で、強盗に教われた。強盗どもは、その人の着物をはぎ取り、なぐりつけ、半殺しにして逃げて行った。

たまたま、祭司がひとり、その道を下って来たが、彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。

同じようにレビ人も、その場所に来て彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。

ところが、あるサマリヤ人が、旅の途中、そこに来合わせ、彼を見てかわいそうに思い、近寄って傷にオリーブ油とぶどう酒を注いで、ほうたいをし、自分の家畜に乗せて宿に連れて行き、介抱してやった。』新約聖書 ルカによる福音書10:30~34

神様を愛するとともに、『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』ということに対して、律法の専門家は、イエス様に「私の隣人とはだれのことですか。」と聞いた。

イエス様は良きサヤリア人の例をあげ、誰が強盗に襲われた人の隣人になったか彼に聞いた。

神様に仕える祭司とレビ人は、助けを必要とする人を見て、反対側を通り過ぎて行った。

一方、サマリア人は、彼を見てかわいそうに思い、近寄って介抱した。

どちらも助けを必要とする人を見たのに、その次にした行為が違った。

祭司とレビ人は見ると“反対側を通り過ぎて行った。”

なぜ、“反対側を通り過ぎて行く”ことをしたのか。

それは、彼らにはサマリア人の“かわいそうに思う”心がなかったからだと思う。

“かわいそうに思う”と言うのは、上から見下ろす同情ではないと思う。

それは、同じ人として、その人の痛みと傷を自分のことのように感じられる心なのだと思う。

残念ながら、私は自分が経験したことのない状況の苦しみは理解しがたい。かわいそうに思って近寄ることができない。

そして、介抱し、責任を持つことができない。

私の中に何があるのだろうか。私とこの人は関係ない。私が責任を負う必要がない。私には、今違うことをやらなければならない。私には何もできない。私の中の様々なものが、“かわいそう”に思う心を押し退けて、“反対側”に通り過ぎるものとさせる。

私はこの見ても“反対側を通り過ぎる者”であることを教えられた。

私には、“かわいそうに思い”突き動かされる行動がない。それは、その“かわいそう”という思いがないからなのだ。

イエス様は、地上にいる間、心からの同情心…かわいそうに思われ、その助けを必要とする人たちを助けられた。

すべての隣人となられたのは、イエス様だけだった。

私は、サマリヤ人のようではない…ということに気がつかされたとき、初めて、このイエス様にあるあわれみを求めていける者となるのかもしれない。

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神様、私は自分が助けを必要とする人の隣人になりたいです。

イエス様と同じ深い同情心を与え、助けを必要とする人をいつくしみ、できることが出来る隣人とさせてください。

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2009年7月12日 (日)

7/12☆お祈り☆

ブログにきてくださるお一人お一人を思い、祈ります。

『主は遠くから、私に現れた。

「永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した。

それゆえ、わたしはあなたに、誠実を尽くし続けた。

おとめイスラエルよ。わたしは再びあなたを建て直し、あなたは建て直される。

再びあなたはタンバリンで身を飾り、喜び笑う者たちの踊りの輪に出て行こう。…

「さあ、シオンにのぼって、私たちの神、主のもとに行こう。」と呼ばわる日が来るからだ。」』旧約聖書 エレミヤ書

私たちを変わることなく愛し続けてくださる神様、この新しい一週間も愛します神様とともにあることができますから、ありがとうございます。

私たちは小さく、あなたの計りしれない愛、あわれみ、いつくしみを知り尽くすことはできませんが、あなたが揺らぐことなく、変わることなく、私たちの生活に関心を持ち続け、働きかけ続けてくださる方であることをありがとうございます。

私たちの日常の中に、神様の恵みと祝福は満ちています。

どうそ、私たちの目がはっきり見えるようになって、あなたが与えてくださる数々が見えますように。

また、私たちに約束されている霊的な祝福に気がつくことができますように。

また、私たちに与えられている望みがまえますように。

また、私たちに神様を知るための知恵の御霊を与えてください。

私たちに、あなたにあって、生活の困難を乗りきる力を与えてください。

あなたが、私たちの必要をご存じですから、必要を与えてください。

そして、私たちに必要な助けと支えを送ってください。

神様が私をとらえ、捕まえ、支え、導いてくださいますからありがとうございます。

そして、私たちは、一人のように思えるときも一人ではありませんからありがとうございます。

誰かが私たちのために祈り、イエス様がとりなし祈り、聖霊様がうめきの中でとりなしてくださっていますからありがとうございます。

あなたが愛するお一人お一人の神様にある一週間の祝福を心からお祈りします。

イエス様のお名前によって、祈ります。

アーメン。

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『イエス様とともに食事をする』

イエス様は、私たちとの交流を願っておられます。

『わたしは、愛する者をしかったり、懲(こ)らしめたりする。だから、熱心になって、悔い改めなさい。

見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところにはいって、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。』新約聖書 黙示録3:19~20

おはようございます。

今日も、神様が教会の外にいる方たちを愛していることを思いつつ、分かち合いをしたいと思います。

私たちは、親しい友人、大切な人といろんな風にして、ともに過ごします。

映画を見に行ったり、旅行したり、買い物に出かけたり…そんな中で、共に食事をするというのは、また、素敵なことです。

一緒に同じ美味しいものを食べながら、話しに花を咲かせます。

イエス様もまた、私たちと共に食事をしながら、語り合いましょうといいます。

そして、その場所は、私たちの心の中でとあります。

イエス様は一番大切なところで、もっとも重要な話しを食事をしながらしましょうと言っています。

イエス様だけが、私たちのすべてを知っておられ、私たちの必要も知っておられます。

私たちが、イエス様に心の扉を開いて、歓迎してお招きする方法は一つです。

それは、イエス様の声を聞くということです。

イエス様は私に今、何を語っておられるでしょうか。

そのイエス様の声に敏感になり、「イエス様、今扉をあけます。私の部屋にはいってください。ともに私と楽しみ、語らってください。」とお招きするなら、イエス様は喜んで、いつでもともに食事をしてくれます。

優しく、ドアをノックするイエス様、外で忍耐して待ってくださるイエス様、今日もお迎えし、このイエス様が用意してくださった食事して語らうときを楽しみましょう。

###

イエス様、あなたがお一人、お一人を愛して、親しく交流したいと願っておられることをありがとうございます。

何を話そうか迷わずとも、イエス様のほうで何でも知っていて、話しかけてくれますからありがとうございます。

どうか、私たち一人一人に与えられたこのすばらしいイエス様との親しき交流を祝福してください。

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“愛に対する悔い改めの祈り”

愛に対して、神様から教えられたので、祈ります。

『また、たとい私が持っている物の全部を貧しい人たちに分け与え、また私のからだを焼かれるために渡しても、愛がなければ、何の役にも立ちません。』新約聖書 第1コリント13:3

天のお父さん、私たちを愛してくださることをありがとうございます。

私はすぐに、自分の本来の姿を忘れてしまう者です。

私が神様から愛されているのであって、私自身には人を愛する力はありません。

私は人を愛する者でありたいと願いつつ、私の中にそれより優先するものがあることを見ました。

主よ。赦してください。

私は悲しく思います。

愛がなければ、すべてはむなしい、何の役にすら立たないとあるのに、愛のない者です。

でも、考えてみれば、私たちがイエス様の愛に到達することは無理で、いつもその足りなさをイエス様の十字架で謝るものです。

あなたが大切なことを教えてくださり、ありがとうございます。

小さな者ですが、まだ知り得ないあなたの愛を少しずつ教えてもらい、あなたに応答する者、あなたにふさわしい関係にある者としてください。

イエス様のお名前によって祈ります。

アーメン。

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“自分の姿”

愛のない者だということを神様から教えられました。

『すると、ひとりのひとりがイエスのもとに来て言った。

「先生。永遠のいのちを得るためには、どんな良いことをしたらよいのでしょうか。」

イエスは彼に言われた。「なぜ、良いことについて、わたしに尋ねるのですか。良い方は、ひとりです。もし、いのちにはいりたいと思うなら、戒めを守りなさい。」…

この青年はイエスに言った。「そのようなことはみな、守っております。何かまだ欠けているのでしょうか。」』新約聖書 マタイの福音書19:16~22

昨日のブログで、「神は敵を愛する者に変えた」と書いた。

まだ、「愛するには至っていないよ。」と神様からのメッセージか、今日、悔い改めに導かれた。

神様の愛する思いが注がれると、いつも私の胸を熱くする。

そして、聖霊様が住まわるところは、この胸のところなんだなぁと思わされる。

今日、一時、私のからだ全身が、内側も外側も“愛される霊”に包まれ、浸された。私は愛されている者である至福を味わった。

そして、その霊は去った。私に残ったのは、私が、いかに人を愛せないものかという現実だけだった。神様が、人が愛せるようになったということを言ってはいけないと教えてくれた。

富める青年は、イエス様に問う。「永遠のいのちを得るためには、どんな良いことをしたらよいか。」

イエス様が「戒めを守りなさい。」と言うと、この青年は「皆、守っている。」と答える。

「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」も守っているといいきれる青年。

イエス様は、十戒の第10戒「むさぼってはならない」の部分を出し(あなたの持ち物を売り払い、貧しい人に与えよ。)、出来ていないことを指摘した。

青年は多くの財産を持っていたので、悲しんで去っていった。

私もまた、自分の本来の姿が見えないあわれなものである。

人を愛せる者になった…などと言いながら、人を愛することよりも、大切にしたい物があるのを見せられた。

イエス様は私たちを愛するために、いのちを捨てられた。イエス様だけが、戒めを守れたお方で、イエス様だけが、愛なるお方なのだ。

自分がイエス様に似てるかのごとく、勘違いをする愚かさを思った。

私は人を愛せない者として、イエス様の十字架の前にたち、「イエス様、ごめんなさい。」と謝る者である。

そして、あわれみによって、ただイエス様の愛をいただくものである。

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2009年7月11日 (土)

神は“敵を愛する者”に変えられた

自分の力ではできないが、私は“敵”を祈るものに変えられた話しです。

『「自分の隣人を愛し、自分の敵を憎め。」と言われたのを、あなたがたは聞いています。

しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。』新約聖書 マタイの福音書5:43.44

人間の愛情は、深ければ深いほど、それが変化したとき、その憎しみは深い恐ろしいものになる可能性を思う。

サスペンス物ではないが、殺意にすらなりうる。

私も過去扁で書いたが、若いとき、とても祈っていた好きな男性の人にふられたとき、自分の内側に湧いてくる恐ろしいものを見て、唖然とした経験がある。

そのときは、その人も神にある人だったので、「ひどいふりかたをしたことを本人に謝りなさい。」と神様から言われたらしく、私に謝ってきた。そのことを通して、私は自分の醜く、恐ろしいものを神様に赦して、癒してもらった経験がある。

聖書には“敵”を愛しなさいとある。“敵”と思える人を愛せる訳がない。

無理難題である。

人には不可能なことを神様はされるのだなぁと、今日、私はしみじみと思った。

私にとっての“敵”は、それが自分に苦痛を与えるものであるなら、目に見える教会の何者でもなかった。

25年間、私は教会の中にいながら、教会を裁き、批判してきた。

今、目に見える教会を愛しているか…その域には達していないと思う。

けれども、目に見えない“教会”(目にみえない大きな意味でのキリストのからだ)に対しては、神様の愛を感じる。

今日、ボランティアの帰り道、神様からの熱い愛情が私の胸に注がれ、自転車を降りて歩きながら、神様を賛美してきた。

ときに、その迫りは胸が痛くなるほどのイエス様の愛である。

そういえば、2か月前、この同じ道を胸が苦しくなるほどの聖霊様の悔い改めの霊に迫られ、悔い改めながら、自転車をおして歩いたなぁと思った。

目に見えない“教会”なんて、それまで考えたことも、祈ったこともないのに、突然、あの頃から私の関心事は、目に見えない“教会”であり、教会の外の人たちになった。

だから、私の内側に経験するイエス様の苦しいほどの迫ってくる愛情は、私個人に対するものというより、「わたしはキリストのからだを、一人一人をこのくらい愛している。」という神様からのメッセージになる。

私は25年間も教会を憎んで来たものである。恨んできたものである。

その私が、神様から教会に対する愛情を教えられ、祈るものとなるとはなぁ…私の中でも考えられないことを神様はされるのだなぁと思った。

人間の愛は憎悪になるが、神様の愛は、憎しみすら愛して止まなくさせるのだと思った。

20年前に、エレミヤ書のこのことばが、なぜか私に起こる約束のことばと信じていた。“敵”って誰?と思いつつ。

『必ずわたしはあなたを解き放って、しあわせにする。

必ずわたしは、わざわいの時、苦難の時に、敵があなたにとりなしを頼むようにする。』エレミヤ15:11

教会にとりなしを頼まれた訳ではないが、私にとって、自分のからだの一部であり、イエス様の一部だった“敵”であった“教会”を私は祈るものに、神様は変えられた。

神様のお名前だけをほめたたえます。

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2009年7月10日 (金)

“訪問の方々を感謝して”(祈り)

ブログ訪問の方々に感謝して、お祈りします。

『だが、今、ヤコブよ。あなたを造り出した方、主はこう仰せられる。

イスラエルよ。あなたを形造った方、主はこう仰せられる。

「恐れるな。わたしがあなたをあがなったのだ。わたしはあなたの名を呼んだ。

あなたはわたしのもの。あなたが水の中を過ぎるときも、わたしはあなたとともにおり、川を渡るときも、あなたは押し流されない。

火の中を歩いても、あなたは焼かれず、炎はあなたに燃えつかない。

わたしが、あなたの神、主、イスラエルの聖なる者、あなたの救い主であるからだ。』旧約聖書 イザヤ43:1~3

今日は、最近の私には珍しく、3か所のボランティアをはしご?して、夜に帰ります。毎日、家にいることが多くなった私には、ハードな一日です。

この朝、生ログで、訪問者の方々を見て、いつも来てくださる方、パソコン、携帯から過去扁をずっと読んでくださっている方々を見て、本当に感謝の気持ちでいっぱいになりました。

パソコン、携帯ナンバーしか知らない方々も多いですが、神様にある大切なお一人お一人を思います。

お一人お一人を思いつつ、祝福をお祈りさせてもらうことにします。

「天のお父さん、あなたが愛しておられます、お一人お一人をありがとうございます。

神様の分かち合いがともにできていることを通して、私たちは主のパンを食べる目に見えない家族なのだと私は体験させられています。

私の役目は、素晴らしいごちそうは作れずとも、イエス様がくださる朝ごとのパンを受けとり、それを提供することだけです。

私に弱さがあれば、それは私ですが、私に何か良いものがあれば、それは神様のあわれみと、神様ご自身です。

わずかな主のパンを準備し、ともに食べてもらう幸いを思います。

訪問してくださる方にあっては、ナンバーしか知りませんが、あなたが愛してくださっているお一人お一人であることを思います。

私たちの地上でできることはわずかです。

その中で最も大切なことは、“主を知る”ことだと私は思っています。

そして、その主をともに分かち合い、ともに喜ぶとき、それがキリストのからだだと思います。

神様、愛するお一人お一人を祝福してください。

その方々と分かち合う私に至っては、通りよき管(くだ)とし、証、祈り、聖書の分かち合い、報告、何においても、主のよい物を分かち合わせてください。

お一人お一人にあっては、この小さなブログにあっても、主から直接良いものをいただきますように。

聖霊様が豊かに働かれ、神様の恵み、イエス様の愛を伝えてください。

主が、お一人お一人を愛して止まないことを教えてください。

また、もし私の弱さが証できているときには、皆、似たようなところを通される安心と、そこを愛してくださる神様を分かち合えますように。

いつも来てくださるお一人お一人の神様の祝福を心から祈ります。

イエス様のお名前によって祈ります。

アーメン。」

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“ブログの近況”

私のブログの近況報告です。

『「わが子よ。主の懲(こ)らしめを軽んじてはならない。主に責められて弱り果ててはならない。

主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられるからである。」

すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に、平安な義の実を結ばせます。』新約聖書 ヘブル人の手紙12:5.11

ブログ訪問の皆さん、いつも訪問ありがとうございます。

神様にある良いものを皆さんと分かち合いたいと切に願っています。

私の近況を簡単に話すなら、今、神様からの“うるわしい霊的なレッスン”を受けています。とても感謝しています。

が、今週は2回、私はブログアップできるだろうか…と思ってしまいました。

なんだか、だんだん神様次第で記事を書いているので、神様から教えられないと、書けなくなるのではないか…と思ったり。

もうすぐブログを始めて一年になります。神様の祝福の中で、休むことなく、楽しく書いてきました。

けれど、自分も生き物…神様との関係がづれたり、何かで神様との関係がうまくいかなくなったら書けなくなるだろうな…なんて思っています。

今週は一度目は、腕が痛くなって、“ブログアップできないお詫び”の文が頭をよぎりました。(携帯で書いているので、痛いともうパソコンにしないと無理なのかとか…)

主のあわれみの中、腕の痛みは癒していただきました。感謝します。

そして、昨日も、気持ちがブログに向かずに、そこに気持ちが回復するのに、時間がかかりました。

書けないようなときは、その弱さのままを出したほうがいいのかもと思ったりもします。

悔い改めて、神様との関係が回復してから書いてばかりだと、なんだかいつも神様と順調みたいな感じですが、そうではありません。

証や分かち合いにならない状態で書くと、神様との良いものを分かち合えないとも思います。が、日々、自分の弱さを見せられています。

神様との良いものを分かち合うというのは、私は弱く、そこにキリストの力がおおうということでしょう。

皆さんの訪問に励まされています。一日に幾度も来てくださる方には、メールの返事を書きたい…そんな気持ちでブログアップしています。

神様と順調でないときの私も証しとなって表したいと願っています。

ともに主にある良いものを分かち合える恵みを感謝します。

ブログ訪問してくださる皆さんに支えられています。ありがとうございます。

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2009年7月 9日 (木)

“主よ。私の手のわざを確かなものにしてください。”

私の手のわざを確かなものとする…について教えられました。

『私たちの齢(よわい)は70年。健やかであっても80年。しかも、その誇りとするところは労苦とわざわいです。それは早く過ぎ去り、私たちも飛び去るのです。

だれが御怒りの力を知っているでしょう。だれがあなたの激しい怒りを知っているでしょう。

それゆえに、私たちに自分の日を正しく数えることを教えてください。

そうして私たちに知恵の心を得させてください。…

私たちの神、主のご慈愛が私たちの上にありますように。

そして、私たちの手のわざを確かなものとしてください。

どうか、私たちの手のわざを確かなものとしてください。』旧約聖書 詩篇90:10~12.17

今から20年前に、私は結婚した。心が癒されていなくて、普通に穏やかに過ぎていく毎日なのに、この「どうか、私たちの手のわざを確かなものとしてください。」と毎日祈った。

私の中で、神様の働きができない日々がとても悲しかった。

今日、この聖書のことばを開いた。

あの頃の自分を懐かしく思う。神様にある回復をした私には、まったく違うメッセージとなり、このことばが入ってくる。

私たちはやがて、ちりに帰る神様からみたら小さな存在である。

そんな限りある地上にあって、大切なこと、私の手のわざが確かにされること、それは“何かをやっている”とかいうことではない。

永遠の神様の前に大切なこと…それは、神様を愛し、神様を恐れ、神様とともに生きるということ。

限りある私たちが、何かをやっても、それもまた限りあることである。

神様だけがすべての計画をもっておられ、神様だけが、その一部を私たちに託し、私たちは限りある中で、そのことをなす。

しかし、何かをしても、しなくても、ただ神様だけが、永遠の方であり、私たちは御怒りまぬがれ、あわれみの中に生かされるだけだ。

人の評価で、大きなことや小さなことはあるかも知れない。

しかし、絶対的な神様にあっては人間的な基準とは違う基準がある。

主よ。あなたを恐れることを教えてください。

主よ。あなたにふさわしくあるものとしてください。

主よ。砕かれた悔いた心を与えてください。

主よ。あなただけを愛する心を与えてください。

主よ、あなたを愛します。私の手のわざは、私があなたを賛美し、あがめることです。

愛します、主よ。

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“教会のためにささげたキリストの愛”(祈り)

イエス様は教会(キリストにある人々)をいのちを捨てて愛してくださいました。その思いを感じつつ、祈りをします。

『キリストが教会を愛し、教会のためにご自身をささげられたように…愛しなさい。

キリストがそうされたのは、みことばにより、水の洗いをもって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、

ご自身で、しみや、しわや、そのようなものの何一つない、聖く傷のないものとなった栄光を、ご自分の前に立たせるためです。』新約聖書 エペソ人への手紙5:25~27

イエス様、あなたが命を捨てて、私と教会を愛してくださりありがとうございます。

あなたがそのようにされたのは、花嫁である私(教会=イエス様にある人たち)を、みことばと、水のバプテスマにより、罪からきよめ、聖なるものとしてくださるためでした。

そのことによって、私はあなたの前に、しみもしわもなく、けがれもなく、聖く傷のないものとされましたから、ありがとうございます。

今、すべての罪が、イエス様の十字架で赦され、私はあなたに、さらに愛されていることを覚えますから、ありがとうございます。

あなたの愛は深く、高く、広く、私の及びもつかないほどです。

あなたの愛が私をおおうとき、私はただあなたを賛美します。

あなたこそ、賛美されるにふさわしいお方です。

あなたの愛が私に溢れるとき、私はただ私をあなたにささげます。

あなたの栄光を、私を通して表してください。

イエス様、あなたの愛から私を引き離すものはなく、そこには恐れがありません。

あなたの愛は、私を通して人々に表されますからありがとうございます。

この世の中が知ることのない、あなたの愛を私を通し、あなたの愛して止まない教会を通して表してください。

主よ。あなたを賛美します。あなたを愛します。あなたが私を愛してくださっているからです。

あなたのいのちが私の中で輝き、いつまでもあなたとともにいられることをありがとうございます。

ただ、主の栄光だけが表されますように。

イエス様のお名前によって祈ります。アーメン。

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2009年7月 8日 (水)

“私の歩んだ教会たち”6-2・赦す

私が“教会”を赦し、手放したときのことです。

『神は、キリストによって、私たちをご自分と和解させ、また、和解の務めを私たちに与えてくださいました。』新約聖書 第2コリント人への手紙5:18

“期待”が“裏切り”になると、人は心に苦々(にがにが)しい思いをもつ。そして、相手に要求する思いが自分を縛る。

それを“赦せない”思いと言う。

私は教会の牧師たちが赦せなかった。「なぜ、神様はもっと優しく、恵み深く、あわれみに満ちているのに、その神様を聖書からきちんと語らないのですか?」

そのような思いに、がんじがらめになっていた。

時満ちて、そんな私も神様によって悔い改めに至った。

一番大きかったのは、「赦さない行為は、何かを相手に要求し続けていることなので、相手をつかんでいることで、その影響を受け、支配されることになる。」という「境界線」の本の一文に出会ったことだった。

「神様、もっとも嫌だと思う人に、私が要求、期待している限り、私はその人に支配されるのですね。それは嫌です。

神様、あなただけに支配されたいです。

すべての人を赦します。関わったすべての牧師を赦します。」

そうして、過去に関わったすべての牧師の名前をあげて、赦す祈り、相手に要求しないで、期待しないで、手をひく祈りをした。

すっきりした。これで、神様以外に私は支配されていないと感じた。

そのとき、通っていた牧師にも一言、謝った。

これが、25年赦せなくなっていた牧師たちを赦した日となった。

神様以外、誰にも要求しない、誰にも期待しない…神様だけに支配される。そのことのすばらしさは、すぐにやって来た。

私がどんなに神様から愛され、期待され、計画されているか、直接に神様から溢れるばかりに感じることができた。

神様に受け入れられているので、愛されている自分を100%いとおしいと思えた。

もうこの体験は、何度も記事に書いてきたが、私の教会生活でとても大きな出来事だった。

私が“人を裁く”という罪を手放したとき、内側に聖霊様の喜びに溢れるとともに、外側の環境も変わっていく。

神様は忍耐し、私がこのように自分の罪から解放される日を待って、導いてくださっていた。

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神様、“人を裁く”大きな罪を、神様によって、手放すことができて、ありがとうございます。

私の握っていたものが、神様から直接来る恵みを妨げていました。

神様は、私の弱さをご存じで、私が手放せる道筋を忍耐して、作ってくれました。

手放す自由を本を通して教えくれました。

聖霊様が助けてくださり、赦す祈りを、喜んですることができました。

すべてはただあなたによることですが、神様の備えと導きとすべてを感謝します。

同じ苦しみにある人を、主の深い慰めとあわれみに包み、導いてください。

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2009年7月 7日 (火)

“息子のピアノ”

息子のピアノを聞いて、私たちの神様からの能力もまた、レッスンが必要なのだなぁと思いました。

『主に感謝することは、良いことです。いと高き方よ。あなたの御名にほめ歌を歌うことは。

朝に、あなたの恵みを、夜ごとに、あなたの真実を言い表すことは。

十弦の琴や六弦の琴、それに立琴によるたえなる調べに合わせて。』旧約聖書 詩篇92:1~3

我が家では、今までにない珍しいことが起こっている。

それは、13歳の息子が、ピアノを自分から1時間も2時間も弾くようになったことだ。

息子は3歳からヤマハ音楽教室に通った。主人が音楽が好きで、息子には、楽器をやらせたかったらしい。

幼稚園に通うころは、すぐに簡単な曲を弾く息子に、私たちは親ばかで、天才かと思う。しかし、「1%の才能と99%の努力」と言われる。その99%がない。

小学1年からピアノの個人レッスンに通うが、普通の子どもと変わらず、練習嫌いに苦労する。

いつか、神様に仕える奏楽者になってほしいというのは、私の密かな願いだった。

息子が6年の初めに将棋に出会うまでは、「一日少なくとも30分、多くて1時間は練習をやろう」と声かけしてきた。

検定もたくさんチャレンジしたので、怠け者といえど、かなりハードに目標定めてやってきた。

将棋に夢中になってから、ピアノはレッスン当日のみになってしまった。「月謝も高いから、辞めていいよ。」と言ったが、「辞めたくない。」とのこと。

ほこりをかぶったピアノだったが、急に毎日1時間以上弾くようになった。

友だちから「ゲームの難しい曲を弾いてくれ」と楽譜を渡され、頼まれたらしい。

自由に楽しく好きな曲を弾いている。私は2階で、ピアノの音を聞きながら、今までの苦労が報われたなぁと、嬉しくなる。

神様の世界は、無理強いは禁物である。が、私たちに与えられている能力を整え発揮するために、ときに、厳しい訓練を通されることもあるのかもしれないと、楽しそうな息子のピアノを聞きながら思った。

ヨセフのように知らずに、環境の中で訓練されることもあるし、はっきり知り、訓練させてもらうときもある。

私たちのレッスンの先生は、神様なのだろう。

持っていても使わないと、増やされないとはそういうことも含んでいるかもしれない。

私は、人とともに祈るのが好きだけれど、はじめは人の祈りが新鮮だった。人と祈り、人から学んだり、状況から学んだ。

そして、だんだん与えられているものが訓練され、神様にあって自由に使えてくるようになるのだなぁと思った。

今の教会の現状は規則とか、聖書のことばに拘束されやすいことが多いから、「努力しよう」とは言いたくない。

けれども、神様が、計画があっての訓練、神様のレッスンは、神様の愛に応答するものにとっては、苦痛なものではなく、自由に与えられているものを使えるための恵みになる。

一人一人に与えられている特別な神様からの能力が、レッスンされ、祝福されますように。そして、神様にある生きがいとなり、神様とともにある喜びを体験できますように。

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“濡れ衣をきせられた ヨセフ”

ヨセフは、濡れ衣(ぬれぎぬ)をきせられ、監獄に入りますが、そこに神様の計画と慰めがありました。

『これらのことの後、主人の妻はヨセフに目をつけて、「私と寝ておくれ。」と言った。

しかし、彼は拒んで主人の妻に言った。「ご覧ください。私の主人は、家の中のことは何でも私に任せ、気を使わず、全財産を私の手にゆだねられました。

ご主人は、この家の中では私より大きな権威をふるおうとはされず、あなた以外には、何も私に差し止めてはおられません。あなたがご主人の奥さまだからです。

どうして、そのような大きな悪事をして、私は神に罪を犯すことができましょうか。」』旧約聖書 創世記39:7~9

ヨセフは、エジプトに売られたが、主がともにおられたので、主人にことのほか愛され、全財産をまかせられた。

事が順調に進んでいるかと思ったとき、一つの事件が起きる。

主人の妻が、美男子ヨセフに言い寄るのである。

しかし、ヨセフは「信用されているご主人にあって、とんでもありません。神様の前に悪事を働き、罪を犯せません」と毅然とした態度をとる。

主人の妻は、ある日、「ヨセフが悪いことをするために部屋に入ってきた」と偽り、主人は怒り、ヨセフを監獄にいれてしまう。

神様と人の前に、罪を犯さず、誠実に生きているヨセフは、濡れ衣をきせられ、捕らえられてしまう。

「何も悪いことをしていないのに何故ですか?」と問いたくなる状況である。

ヨセフも一人で祈るとき、そのように祈っていたかもしれない。

しかし、神様はここでもヨセフとともにおられ、彼に恵みをほどこし、監獄の長の心にかなうようにされた。

それで監獄の長は、その監獄にいるすべての囚人をヨセフにゆだね、すべてを管理させた。

主がともにおられ、ヨセフが何をしても、主がそれを成功させてくださった。

ヨセフは、人の罪によって、ひどい目にばかり合う。しかし、神様の計画はその中にもあった。

ヨセフに与えられていた能力は“管理する”ということだった。

先ゆきどうなるかわからない中、変化していくその場所で、ヨセフは“管理する”ことを任され、忠実になした。

そのことがやがて、エジプトの王のもとで、エジプトの国の資産を“管理する”ことにつながっていく。

神様のゆるしのもと、ヨセフがおかれた環境はヨセフの神様からの能力を整えていく場所ともなったのである。そして、神様への信頼を深めていく場所であった。

私たちは弱いので、環境や人や自分を見てしまいやすい。

しかし、神様がともにいてくださるならば、そこが、濡れ衣をきせられた監獄であっても、神様の学び家となり、神様との交流の場所となったことは慰められる。

パウロは牢獄にいながら「私はどんな境遇にあっても満ち足りることを学びました。」(ピリピ4:11)と言いました。

神様は、どんな境遇にあっても、私たちをその場所をすばらしい場所と変えてくださる。

ヨセフは拘束された環境の中、神様との語らいを深めていったのだろう。

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2009年7月 6日 (月)

“悔い改めの祈り”

悔い改めに導かれたので、祈ります。どなたかの今の必要な祈りともなれば、幸いです。

『神よ。御恵みによって、私に情けをかけ、あなたの豊かなあわれみによって、私のそむきの罪をぬぐい去ってください。

どうか私の咎(とが)を、私から全く洗い去り、私の罪から、私をきよめてください。

まことに、私は自分のそむきの罪を知っています。私の罪は、いつも私の目の前にあります。

私はあなたに、ただあなたに、罪を犯し、あなたの御目に悪であることを行いました。

それゆえ、あなたが宣告されるとき、あなたは正しくさばかれるとき、あなたはきよくあられます。』旧約聖書 詩篇51:1~4

イエス様の十字架によって、私のすべての罪を赦してくださり、ありがとうございます。

私の過去、現在、未来までの罪を赦してくださり、ありがとうございます。

私の目に見える罪を赦してくださり、ありがとうございます。

主よ。あなたは、私が気がつかない罪すら先に赦してくれました。

私の中に、私の考えにも及ばない、恐ろしい罪が潜んでいます。

聖霊様が、そこに光を照らされると、私は驚いてしまいます。

それは、私の考えも及ばない恐ろしいものだからです。

しかし、主はそんな罪すら、イエス様の流された涙と、血潮で洗いきよめてくださることをありがとうございます。

私の罪を十字架につけるとき、その部分が癒しでおおわれ、神様がご支配くださる領域に変えられていきますからありがとうございます。

私たち罪あるものに、その内側に主の栄光を現してくださいますからありがとうございます。

ヨシュヤたちが、主の戦いの中で領土を広げたように、私の心の中にも主の領土を広げてください。

この者の内側が、すべて、主の領土となるまで、戦いはありますが、主がともに戦ってくださいますから、ありがとうございます。

私の中は、すべて主の土地です。隅々まで、広くあなたがご支配してくださり、主の平安にあらしてください。

イエス様の十字架を仰ぎみます。日々、あなたにきよめて、聖霊様の豊かに住まわる主の宮としてください。

イエス様のお名前によって、祈ります。アーメン。

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“悪い子でももらえる恵み”

良いものを神様からもらう方法について、思いめぐらしました。

『わたし(イエス)はあなたがたに言います。求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。…

してみると、あなたがたも、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。

とすれば、なおのこと、天の父が、求める人たちに、どうして聖霊をくださらないことがありましょう。」』ルカの福音書11:9~13

私は、教会生活をしている中で、時々、一つの疑問が湧いてきて、ずっと残っているときがあった。

5年位前に持っていた疑問は、「クリスチャンはどうして、喜びに満ち溢れていないんだろう。」というものだった。

そういう私も、喜びに溢れている状況ではなかった。

昨日、礼拝の中で、手をあげて神様を賛美しているときだった。

「神様、天にはあなたの喜びが満ち溢れているんですね。

私たちが、ただ手を広げて、神様、あなたの喜びをください。と求めるだけで、神様はくださるんですね。」と思った。

私たちは、自分が良い子ども、立派な子どもでなければ、何か良いものは貰えないと勘違いしている。

何か、一生懸命でないと、精神誠意込めないと良いものは貰えないと思う。

けれど、神様の“恵み”はふさわしくない者に、イエス様のゆえに与えられ続けている。

神様、下さい…と、ただ求めるだけで、神様は喜んでくださる。

私たちが与えられないのは、求めないからかもしれない。

詐欺まがいごとの多いこの世の中、私は事あるごとに、「タダほど怖いものはないんだからね。世の中、そんなうまい話しはないんだからね。」と息子に話す。

そして、そんなことがしっかり自分の中に身についているのかもしれない。

神様からの良いものは、ただで、楽して貰えるようなものではないと…。

天には多くの祝福が満ちている。聖霊様の喜びも溢れている。

神様、下さい…神様を天のお父さんと信頼して、子どもがお父さんから良いものをもらうように、いただいていきたいと思った。

###

神様、天には、今にもこぼれ落ちそうなぐらいの聖霊様の喜びが満ちているのを思いました。

そして、神様は「それをください。」と求めるならば、私たちが悪い子どもであっても、喜んで与えてくださいます。

私たちが、何かしなければ貰えないとか、だまされることのないようにしてください。

すべては、ただあなたの一方的な恵みのゆえに始まったことです。

私たちに聖霊様にある喜びをください。

私たちを聖霊様で満たしてください。

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2009年7月 5日 (日)

7/5☆お祈り☆

新しい一週間を、ブログに来てくださる方々と心を合わせて祈ります。

『恐れるな。わたし(神)はあなたとともにいる。

たじろぐな。わたしがあなたの神だから。

わたしはあなたを強め、あなたを助け、あなたの義の右の手で、あなたを守る。』旧約聖書 イザヤ書41:10

「天地を造られ、イエス様を送ってくださり、私たちを愛してくださいます神様、あなたのお名前をほめたたえます。

私たちは小さな存在ですが、神様から決して忘れられることなく、見放されることなく、強められ、助けられ、つかまえられて、守られますから、ありがとうございます。

私たちは自分を見つめると、本当に弱い存在であることを思いますが、この天地造られ、今なお、すべてを治めておられるお方が、私たちを支えてくださっていますからありがとうございます。

新しい一週間も、神様、私たちとともにいてください。

悩むとき、迷うとき、ゆきずまるとき、あなたを見い出すことができるようにしてください。

私たちは一人ではないことを感謝します。神様がともにいてくださり感謝します。

今、この小さなブログを通して、神様が一人と感じている人のために、祈りを集めてくださっていますから、ありがとうございます。

私たちが同じ神様から良いものをいただくとき、私たちは確かに一つですからありがとうございます。

どうぞ、主とともにおらせてください。

神様を近くに感じ、信頼できますように。

イエス様の優しいまなざしを感じて、慰められますように。

聖霊様が私たちのうちで喜び、満ちますように。

あなたがただ、お一人お一人を愛してやまないことを思います。

新しい一週間がそのあなたを感じて生きていけますよう祝福してください。

イエス様のお名前によって祈ります。

アーメン。」

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『人とは、何者なのでしょう』

天地を造られた神様は、小さな私たちにも関心を持たれています。

『あなた(神)の指のわざである天を見、あなたが整えられた月や星を見ますのに、人とは、何者なのでしょう。

あなたがこれを心に留められるとは。

人の子とは、何者なのでしょう。

あなたがこれを顧(かえり)みられるとは。

あなたは、人を、神よりいくらか劣るものとし、これに栄光と誉れの冠をかぶらせました。

あなたの御手の多くのわざを人に治めさせ、万物を彼の足の下に置かれました。』旧約聖書 詩篇8:3~6

おはようございます。

この日曜日の朝も、神様が教会の外にいる方々を愛してくださっているのを思いつつ、ともに聖書のことばから、神様の思いを分かち合いたいと思います。

詩人ダビデは、空の満天の星を見て、この素敵な詩を歌いました。

真っ暗な夜空、輝く星たちを見ていると、なんか不思議な気持ちになります。

大自然の中にぽつんと立ち、自分がちっぽけな存在に思えます。

そして、あまりにもきれいな、吸い込まれてしまいそうな夜空の星たちの輝きに、自分の悩みも忘れていく感じになります。

詩人ダビデも夜空の星、月を見て、「神様、私たち人間はどういう存在なのでしょうか。

壮大な宇宙、大空、星、月を見るにつけ、それらを造った偉大なる神様が、この小さな人間にも心を留めてくださるということは、いったいどういうことでしょうか。

神様は人だけを神様と交流できる存在と造り、私たち人に神様の栄光と誉れを与えてくださいました。

私たち人に、すべてを支配し、治めさせてくださいました。」

と言うような心境を歌にしました。

天地を造られ、神様と交流ができるのは、人間だけです。

それは、神様が人を神様に似るものに造られたからです。

人間だけが、霊である神様と交流できるように、その心に神様の霊が入るすきまがあるのです。神様と交流する場所です。

けれども、私たちは正しい神様の前に悪い心があるので、神様と交流ができません。

イエス様が十字架で、私たちの代わりにその悪い心の責任を負ってくださいました。

それを信じる人は、悪い心をもったまま、イエス様によって正しいものにみなされ、プレゼントとして神様の御霊=聖霊をいただけるのです。

その神様のお部屋が聖霊で埋まると、私たちに神様のことがよくわかるようになります。

聖霊もまた、神様で、どこにでもおられる神様が私たちのうちにも住んで、ときに慰め、ときに語り、ときに励ましてくださるのです。

イエス様の十字架刑は自分の罪のためだったと信じるだけで、神様の子どものしるしの聖霊をいただけるのです。

天地を創られ、夜空の星々を整えられた神様が、小さな私に心を留めてくださるとは、いったいどういうことでしょうか。

人格を持たれた神様は、今日も私たち一人一人をご存知で、私たちを愛し、私たちに関心を持ち続けてくださっています。

聖霊の部屋が、喜びと愛で満たされますように。

親しく神様との交流を心から楽しめますように祈ります。

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“人材不足”!?

主人が「人材不足になるけど…」と言ったことばから、タイトルを考えました。

『彼らは食事を済ませたとき、イエスはシモン・ペテロに言われた。

「ヨハネの子シモン。あなたは、この人たち以上に、わたしを愛しますか。(アガペー=神の愛で)」

ペテロはイエスに言った。「はい。主よ。私があなたを愛する(ヒィレオー=兄弟愛で)ことは、あなたがご存じです。」イエスは彼に言われた。「わたしの小羊を飼いなさい。」…

イエスは三度ペテロに言われた。「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛しますか(ヒィレオー)。」と言われたので、心を痛めてイエスに言った。

「主よ。あなたはいっさいのことをご存じです。あなたは、私があなたを愛する(ヒィレオー)ことを知っておいでになります。…」』新約聖書 ヨハネの福音書21:15~17

昨日、キリスト教番組「ライフライン」に、盲目でテノール歌手の新垣勉(あらがきつとむ)さんが出て、絶望から、イエス様を賛美するようになった話しをしていた。

戦後、アメリカ兵の父と、日本人の母のもとに生まれたが、両親は離婚し、祖母を母と言われて育った。出産時に、助産婦さんが目を洗う薬を間違って違う薬品を使い、盲目になってしまった。

高校の頃は自殺を何度も考えたらしい。

教会に通うようになり、ある日、牧師に「僕はアメリカに行って、僕を捨てた父を探して、殺したい。」と言った。

すると、牧師は何も言わずに泣いていた。

新垣さんは、「牧師だから、そんなこと言わないで、赦しましょうとか言うのかなと思ったんです。牧師は何も言わずに泣いていたんです。」

自分のために泣いてくれる牧師に、心動かされ、彼の心は溶けていく。

私は「泣いてくれない牧師だったら、どうなっていたかな。」とつぶやいた。

主人は、「現実それでは人材不足になるが……こういう人こそ、牧師になるような人だ。」と言った。

牧師や人に何かを期待して、苦しい思いをしてきたのが私だから、牧師たるもの…とは私は言えない。

しかし、コリントの手紙に出てくるように、“愛がないなら、すべてはむなしい”と思った。

私が、彼の「父を探しあてて、殺したい」と言ったことばを聞いて、その苦しみに一緒に泣けるだろうか。自信はない。

たとえ、すばらしいみことばの解き明かしがあったとしても、癒しがあったとしても、奇跡があったとしても、神の愛が無いなら、すべては虚しい。

ペテロは、イエス様に「他の何よりも、わたしを愛しますか。」と言われた。

ペテロは自分が、イエス様の愛に応えられない者であるのを知っていた。

イエス様を愛し、人を愛するというのは、「私には愛する力は何もありません。」と言うものなのだと思った。

私が何かできると思ったとき、何かをしてしまうのかもしれない。

新垣さんの出会った牧師は、何もできず、ただ彼と心ひとつとなって、泣くだけだったのだなぁと思わされた。

何もできない…その無力さの中にキリストの愛が働くのを思うとき、私は何かができると思っている自分に愕然として泣けてしまった。

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2009年7月 4日 (土)

“私の歩んだ教会たち”6-1・信仰回復

私の信仰回復の教会生活の話しです。

『もし、あなたがたのうちふたりが、どんな事でも、地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父は、それをかなえてくださいます。

ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。』新約聖書 マタイの福音書18:19.20

主人が探し、選んだ教会に私たちは通うことになった。

そこは家族4人とあと4〜5人という小さな教会だった。

私はその教会にすぐ馴染んだ。なぜかというと、そこでの女性の祈り会のテーマが“心の癒し”だったからである。

私にとって、“心の癒し”は最大のテーマだったが、今まで、それを教会の中の誰かと分かち合うことは、ほとんどなかった。

同じことに関心を寄せている人たちと語り、祈れる幸い、私にとっては夢のように思えた。

一方、主人はというと、初っぱなからその牧師に問題を感じたのか、私ほど熱心には教会通いはしなかった。

私は来る日も来る日も、ひたすら礼拝と祈り会に出席した。

私はそれまで、あまり祈ったり、聖書も読まなくなっていた。が、自分の内側を祈り会で聞いてもらい、互いのために祈っていくうちに、どんどん神様とも祈るようになっていた。

私の信仰回復のときだった。

牧師婦人とは良く祈った。会えば祈ったし、電話がくれば祈った。誰かの祈りのリクエストがあれば、祈った。

そういえば、私は人と祈ること、人のために祈ること…好きだったんだよなぁという感覚がよみがえってきた。

私は祈っていると、聖書のことばが浮かぶことが多く、そこに導かれながら祈ることが多かった。

祈ることの楽しさを感じた。神様と個人的にも祈りだし、私の中で止まっていた何かが動きだした。

あえて言うなら、眠らせていた聖霊様が働きだしたという感じだろうか。

かつて上手にピアノを弾けていた人がブランクの後、苦労して弾き始め、感覚を取り戻すように、かつてはたくさん覚えていた聖書箇所を、もう一度少しずつ思い出すような作業をした。

この教会は、5年後に、様々なことが起こって閉じられていく。

神様は私のことを一番ご存知で、この教会を通して信仰回復させてくださったこと、多くのことを学ばさせてもらったことを感謝する。

そんな中でも私の最大の苦痛は、牧師のメッセージだった。

霊的に疲れて、礼拝が終わり家に帰ると、グッタリと寝込んだ。私自身にはそれだけ、ダメージの強いメッセージだったが、女性の祈り会に支えられて教会通いした。

###

神様、この教会に導いてくださり、私にとって信仰回復のときとなったことをありがとうございます。

初めて、女性の方たちと共通の課題で分かち合い、祈れた日々をありがとうございます。

それでも、まだ、私の中では、神様に完全に明け渡していなくて、牧師に心の中で要求していた自分を見ます。

牧師を裁いていた弱い私がいました。

あなたがそんな私を赦し、忍耐をもって導いてくださったことを感謝します。

私は振り返えるとき、教会の問題の中で、私の問題を取り扱い、成長させてくださったことを思い、すべてを感謝します。

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“風を見て恐れる私”

イエス様を信じているつもりでも、すぐ、不安や恐れに支配されやすい私です。

『すると、夜中の3時ごろ、イエスは湖の上を歩いてこられた。…

しかし、イエスはすぐに彼らに話しかけ、「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない。」と言われた。

すると、ペテロが答えて言った。「主よ。もしあなたでしたら、私に、水の上を歩いてここまで来い、とお命じになってください。」

イエスは「来なさい。」と言われた。そこで、ペテロは舟から出て、水の上を歩いてイエスのほうに行った。

ところが、風を見て、こわくなり、沈みかけたので叫び出し、「主よ。助けてください。」と言った。

そこで、イエスはすぐに手を伸ばして、彼をつかんで言われた。

「信仰の薄い人だな。なぜ疑うのか。」』新約聖書 マタイの福音書14:27~31

弟子たちは真夜中の3時ごろ、舟に乗っていた。

イエス様が湖を歩いてくるのを見て、「あれは幽霊だ。」と言い、おびえ、恐れ、叫んだ。

しかし、それはイエス様だった。ペテロは、「イエス様、私にも水の上を歩いていけるように、おことばをください。」と言う。

イエス様が「来なさい」と言ってくださり、水の上を歩くペテロだったが、風を見て、こわくなり、イエス様に助けを求めた。

この中に、弟子たちのたくさんの感情が出てくる。

私たちは人生の暗やみにいると、不安になったり、恐れが出たり、失望したり、いろんな思いにとらわれる。

そんな中で、イエス様は「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない。」と言ってくださる。

ペテロはそのイエス様に求め、従った。

イエス様とともに水面を歩いたのである。

イエス様が、困難な中、私たちを主によって、奇跡のような中を歩かせてくれる。

しかし、なお、私たちは弱い。水面を歩かせてくださっているのが、イエス様ご自身であるのを忘れてしまうのだ。

風を見て、その導いてくださる主を忘れて、不安の渦に飲み込まれる。

私も昨日、一つのことを考え出したら、不安になって、様々な悪い妄想へと、発展していった。

イエス様を見ないで、まさに状況で、考え、判断していた。

すると「なぜ、わたしを信頼しないのですか?」と語られた。

いかに、見るべきところを見ていなかったか教えられた。

「主よ。あなたを信頼しませんでした。すみませんでした。」と悔い改めた。

イエス様は、あわれみ深いお方である。

ペテロのように、「主よ。助けてください。」と言うものを見放さない。

イエス様はすぐに手を伸ばし、ペテロをつかんで言われる。

「わたしを信頼しなさい。それが、あなたの一番の安心の道だから。」

私はいつも繰り返し、恐れがやってくるような弱いものだ。しかし、イエス様はいつも近くにいて、声をかけてくださり、手を伸ばしてくださり、「わたしを信頼しなさい。」と安心のもとへ導いてくださる。このイエス様を信頼して、ついていけますように。

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2009年7月 3日 (金)

“キリストの愛”

イエス様がいのちを捨てて現してくれた“キリストの愛”を思いました。

『一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。』新約聖書 ヨハネの福音書12:24

一つの簡単なストーリーを思いつきました。

タイトルは“生きるもので不可欠な愛”でしょうか。

あるところに、一人の少女がいました。優しいお母さん、頼れるお父さん、多くの仲の良い兄弟、そしてたくさんの友人がいました。大きな立派な家に住んでいて、広い庭には、可愛い犬たちもいます。少女は健康で、すべてに恵まれ、特別に困ったこともありませんでした。

しかし、何故か、笑うことがありませんでした…ってなると、何かの話しに似ていますね。

そこに、一人の青年が通りかかりました。彼は貧しく、何も持っていません。家もなく、着るものも食べるものもないくらい、貧しかったのです。

彼にはたった一つ隠された財産がありました。それは、彼の心の中がいつも、愛なる神様から溢れるばかりの愛を注がれているということでした。

それで、彼は、その少女を一目見たときに、彼女に無いものがすぐにわかりました。

そして、とてもやるせない思いになりました。それで、彼は、神様の愛を分けてあげたいと思いました。

しかし、彼は、身分も違い、彼女に近づけません。彼は祈りました。

「祈りを聞かれる神様、あなたが私を愛してくれているのを知っています。私の願いもかなえてくださることも知っています。どうぞ、私を愛してくださる神様の愛を、彼女にも与えてください。

もし何かと引き換えにというなら、私は何も持っていません。私の命と引き換えに、彼女に神様の愛を与えてください。」

その青年の祈りは聞かれました。彼女は、その青年の命と引き換えに、神様からの愛をもらいました。

……こんなストーリーです。裕福な少女は私かもしれません。

そして、命を捨ててくれたのは、イエス様です。

私たちが生きていく上で、もっとも大切なのは、“神様の愛”なのだと思いました。

そして、そこにたどり着くため、“キリストの愛”を通るのです。

私は捨てられないものだらけで、自分にあるものを捨てさせられるのに、30年かかりました。

それでは、すっきりすべて捨てられているかといったら、きっと、まだ、たくさん残っています。

生まれたときから、私たちの罪に死なれるために生きてくださったイエス様の愛を思います。

私は何を捨てたらよいのでしょうか。

それが、まだ、わからないのですが、私にとって、このキリストの愛にまさるものはない…証や聖書の分かち合いにおいて、何より伝えたいことはこのキリストの愛なのだと思わされた朝でした。

イエス様はご自身のいのちを捨てられて、キリストの愛を私たちのうちに与えられました。

私が捨てて死ぬことを通して、実を結ぶ…その実が見たいと思った朝でした。

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“イエス様の赦しの愛”

イエス様の赦しは、人知を越えていることを思います。

『ほかにもふたりの犯罪人が、イエスとともに死刑にされるために、引かれていった。

「どくろ」と呼ばれている所に来ると、そこで彼らは、イエスと犯罪人とを十字架につけた。

犯罪人のひとりは右に、ひとりは左に。

そのとき、イエスはこう言われた。

「父(神)よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているか自分でわからないのです。」

彼らは、くじを引いて、イエスの着物を分けた。』新約聖書 ルカによる福音書23:32~34

あるクリスチャンの友人と電話で会話していたときのこと。

「久々、会いたくない人と会ってしまい、疲れなかった?」と私が聞いた。

彼女は言った。「自分がまだ、その人を赦していないということにショックだった…。」と。

そのときは「そうなんだ。」と言った。

電話を切ってから、「赦してなくていいんだよ。そんな私たちをイエス様がもう赦してくれているんだから。」という言葉が浮かんだ。

私は牧師たちを赦し、手放し、解放された。

だから、赦すことの自分が受ける恩恵を長い期間、人に証ししてきた。

電話で話しをした友人は、人を赦したかった。が、赦していない現実にかすかに失望してしまった。

けれど、「赦せなくていいんだよ。そんな私たちがイエス様の十字架でもう全部、そのまま、罪あるまま、赦されて受け入れられているんだから。」と本当のことを言ってあげたら、彼女の痛みは、イエス様におおわれたかもしれないと思った。私にとって、大きな気付きだった。

私たちは、何をしたらよいか答えを知っている。

そして、そのようになっていない自分に失望する。

けれども、私たちのすべての罪は、すべて赦されている。

つまり、今、持ち合わせている罪があったとしても、そのままで赦されている。

イエス様は十字架にはりつけにされ、その気絶しそうな苦しみの絶頂の中、十字架上で、「天のお父さん、私を十字架につけているこの人たちを赦してください。」と祈られた。

そのイエス様の十字架の下で、平気に鼻歌を歌いながら、くじを引いて、イエス様の着物を分けるのに夢中になっていたのが、私である。

彼らが、イエス様にしている卑劣な行為の目の前で、イエス様は赦しをとりなされた。

私たちは自分の弱さや足りなさに格闘しなくても、それをも含めてイエス様は、「わたしはあなたの全部を赦したよ。」と抱きしめてくれる。

私が自分の中に醜い自我、恥ずかしいもの、愚かしいこと、惨めなものを見い出したとしても、イエス様はそのままを抱きしめて、赦すよと言ってくれる。

私たちは自分の赦しを越えたイエス様の包みこむ愛におおわれたとき、罪赦され、きよめられているのを体験するのかもしれない。

イエス様は私のために流された血潮の手で、今日もまるごと、私の闇も包みこんでくれている。

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2009年7月 2日 (木)

“私の歩んだ教会たち”5‐1・客員

私たちは客員(きゃくいん)生活を一年間しました。

『私たちは、知ろう。主を知ることを切に追い求めよう。

主は暁(あかつき)の光のように、確かに現れ、大雨のように、私たちのところに来、後の雨のように、地を潤される。』旧約聖書 ホセア書6:3

一人で始まった教会生活であったが、前の教会を出たときは、2歳の息子もいて、主人と3人の放浪になる。

私たちは一つの教会に、客員(お客様)で一年通った。今はカルト化してしまった教会だった。

教会学校も別の部屋であったが、子どもが私から離れたくないので、いつも静かに私の横に座り、礼拝していた。

そこには導かれている感じがしなかった。

いつまでも、お客さん気分で行っていた。

電車を乗り継いでいくのだが、何故か、教会に行かなくてはという気持ちだけで行っていた気がする。

だから、夏の熱い日差しが、とても体にこたえたり、ちゃんと歩かない息子を歩かせる苦労だけが記憶に残っている。

私の願いはただ一つだけだった。

「神様、私たちが属する教会を与えてください!」

そこは預言がされる教会で、ある日、一つの預言を聞いた。

「あなたは扉があって、開かれ、その先に入ります。」とかいう預言だった。

私は、「今まで自分で教会を選んできたが、神様が備え、開いてくださるところに導きいれられるんだ。」と思った。

そのとき、主人は、扉が開いて、光が差し込む幻を見たと言っていた。そして「あなたがたはここではない教会に導かれる」と神様から言われたらしい。

私たちは、客員として通っていた教会に行くのをやめ、教会探しをした。

私は、もうどこに行っても変わらない…あまり期待していないという気持ちだった。

そして、主人に話した。「あなたが探してくれた教会に私も行くことにしたから。」

主人は何週間かかけて、教会探しをした。

そして、決めたところに家族で行くことになった。

私の念願の客員生活脱出であり、また、訓練を受ける教会生活の始まりとなった。

###

私にとって、貴重な客員生活でした。

教会の多くに期待していないのに、教会につながりたいという気持ちだけが強かったんだなぁと思います。

それが良いこととか、悪いことというのでなく、私の中で湧いてきた気持ちです。

教会に失望しながら、教会につながりたい自分が不思議ですが、私の場合は、そのように造られ、また、教会で受ける訓練も残っていたのだと思います。

すべてのときが神様に備えられていたのを感謝します。

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“暗やみにも主の慰めに満ちますように”(祈り)

私たちに慰めが満ちるように、そしてこの地の暗やみにも神様の慰めが満ちるようにと祈ります。

『神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。

こうして、私たちも、自分自身が神から受ける慰めによって、どのような苦しみの中にいる人をも慰めることができるのです。』新約聖書 第2コリント人の手紙1:4

私たちは、人と理解し合うことも、その痛みや苦しみや悲しみを分かち合うことも限界があります。

けれども、共に神様に祈ることができるということは、本当に素晴らしいことだと思います。

祈りは、私は何もできません。しかし、神様、あなたが祝福をくださる神様であることを知っていますので、あなたに求めます…という行為ではないでしょうか。

私たちは自分が何もできなくとも、良いものを持っておられる方、神様を知っています。

また、共に心を合わせて祈るということは、良い方に二人で求めることですから、そのことを神様は喜ばれます。

この夜、慰め主なる神様に、私たちを慰めてくださるように、また、遠くにいる人たちにも、等しく神様の慰めと福音が届くよう、祈ります。

「恵みと慰めに満ちた神様、あなたが私たちの中にも、この地にも慰めで満たしたいと願っておられるのを思います。

どうぞ、あわれんでくださり、この聖霊の宮である私の内に、慰めの聖霊様で満たしてください。

満ちるために邪魔をしているものがあったら、聖霊様教えてください。

今、苦しいとき、優しく教えてくださり、きよめてくださり、慰めの雨を私の宮に注いでください。

神様、また、この暗やみの地をあなたはご覧になっています。

今、あなたご自身には、すべての地を満たし溢れさせるだけの量の慰めが、天に蓄えられていますが、地に流れていません。

降り注ぐ雨のように、あなたの慰めを注ぎ、あなたの栄光を表してください。

遣わす人を捜しておられるなら、私をきよめて、使ってください。

パソコンも携帯もない、お金もなく、希望もなく、誰からも声をかけられない、闇の中にたたずみ、ひっそりと息をしている人たちがいます。

主よ。彼らを忘れないでください。

彼らが悪いのではありません。

福音を伝え、慰めを運ぶ人がいないのです。

主よ。私も使ってください。

あなたの慰めと希望の雨が、隅々まで行き渡るように、今、祈る者のうちに、道を平らにしてくださり、進んでいくことができるように導いてください。

あなたが、すべての主権をもって導かれる主です。

主ご自身が、私たちに歩む道を開いて、あなたの恵みと愛を伝えに行かせてください。

『天が地よりも高いように、私の道は、あなたがたの道よりも高く、私の思いは、あなたがたの思いよりも高い。…

わたしの口から出るわたしのことばも、むなしく、わたしのところに帰ってはこない。

必ず、わたしの望む事を成し遂げ、わたしの言い送った事を成功させる。』(イザヤ55:9.11)

神様はこのように約束されています。

人々の救いに関しても、その約束が神様にあって、果たされますからありがとうございます。

私は、教会の中だけで楽しむのは、もう要りません。あなたによって、外に出ていき、実を結ぶものとして祝福してください。

すべてを主にゆだね、イエス様のお名前によって祈ります。

アーメン。」

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2009年7月 1日 (水)

“Sebaからあなたへの手紙”

手紙形式で、読んでくださる方に、私の思いを書きました。

『どうか、私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安があなたがたの上にありますように。』ガラテヤ人の手紙1:4

思い返せば、私は手紙を書くことが、大好きで、小さいころから手紙を良く書きました。小学4年のときは、文通していた友人がいて、その彼女と初めて会ったときの新鮮さを思い出します。

今は、メールで用事が済みますが、改めて、このブログ訪問の方にお手紙を書いてみることにします。

「お会いしたこともない、あなたを思いお手紙を書きます。

お会いしていませんが、いつも、私のブログを読んでいただいているというだけで、私の中では、あなたとの関係がつながっている不思議を思っています。

Setsuさんが、この前コメントで、『何があっても、私たちはキリストにあって、一つやで!』(たぶん、彼女は関西人?)と言ってくれました。

私は教会でダメージを受けてきたので、“キリストにあって一つ”という感覚を持ったことが今までありませんでした。

私自身もそのような記述を書いたのですが、彼女から言われて、そのとおり…とその思いがストンと心の中に入りました。

私は今まで経験したことのないことを体験しています。

神様の素晴らしさを分かち合いたいと、ブログ記事を書いている訳ですが、毎日のように見に来てくださるお一人お一人を思うと、お会いしたこともないあなたのためにと祈りがわいてくるのです。

神様から同じ良いものを受けて、私たちが共に神様にある祝福にありますようにと祈りが湧いてきます。

今まで、私の霊的賜物が教会の中で使われたことがあまりなかったので、それを分かち合うとそこに祈りが生まれるのを体験しています。

会ったことも、話たこともなく、あなたのことは何もわからないのに、訪問に来てくれ、分かちあってくれた事実に祈りが生まれるのですから、不思議です。

いつもパソコンナンバー(あるいは携帯ナンバー)で祈っています。

私たちはキリストにあって一つなのだと思います。

同じイエス様の赦しを受け、同じ神様の慰めを受け、同じ聖霊様の喜びの水を飲んでいます。

そして、キリストにあって一つというのは、この世の中でランチしたり、お酒飲んだりする楽しみに比べられないすばらしいことなのだと思います。それは天国の交わりです。

ブログを読んでくれるあなたは一人で私に向かってくれているので、“みんな”でキリストにあって一つという感覚はないかもしれません。

でも、私が体験していることを、また、皆さんに返していきたいと思っています。

私にとって、同じ神様の分かち合いをするあなたは、かけがえない存在です。

神様にとって、あなたがそうだからです。

この私のブログを書くということ、あなたが読んでくれるということが、私の中で主にある交わりとなっていますが、さらに、この素晴らしい経験の中で、私たちに神様が良いものを与えてくださるように祈ります。

いつも、訪問ありがとう。私はあなたに読んでもらい、支えられ、教えられていますから感謝しています。

主の恵みがあなたのうえに、さらにありますように心から祈ります。」

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“パウロの手紙”

パウロが書いた手紙にいろいろ思いめぐらしました。

『パウロが自分の手であいさつを書きます。これは私のどの手紙にもあるしるしです。これが私の手紙の書き方です。

どうか、私たちの主イエス・キリストの恵みが、あなたがたすべてとともにありますように。』新約聖書 第2テサロニケ3:17.18

パウロはたくさんの手紙をさまざまな教会宛に書きました。

ときには、牢獄の中にいて、自分自身が危険な状態にありながら、自分のからだは鎖につながれていても、語るべきことを大胆に語れることを知っていました。(エペソ6:20)

『私は、福音のために、苦しみを受け、犯罪者のようにつながれています。しかし、神のことばは、つながれてはいません。』第2テモテへの手紙2:9

と、テモテ宛には書いています。

神様は、パウロに霊感を与えて、神様の思いを書かせました。そして、今日の私たちの信仰の指針としてくれました。

だから、パウロの手紙は、特別なものです。聖書の一部となる計画が神様にあったのですから。

神様は、パウロのその信仰と知識と、そして神様による人々への愛情を用いられました。

ときには、激しい口調でいさめ、熱い思いのたけを語り、いつも、愛する教会の人たちとともにいることを表しました。

そして、一人一人の名前をあげ、よろしくあいさつしたり、具体的な支持を出したり、証したり、彼を通してさまざまなことが、書かれました。

いつもパウロは絶えざる祈りをもって教会の人々のために祈り、その祈りと願いを手紙のことばに託しながら書きました。

最後にパウロの自筆で書く…というのは、その手紙が口述記述式(パウロが口で言ったことを誰かが筆記する)だったため、最後の行だけ、自筆で書いたのでしょう。

パウロは、膨大な旧約聖書理解をもっていましたからそれがふんだんに用いられましたが、彼の純粋で、熱い人々たちへの思いと祈りの深さも神様に用いられました。

パウロは獄中でからだが鎖につながれ、していたことといえば、祈ることと手紙を書くことだったのではないでしょうか。

パウロの手紙は、そんな人間的な拘束と、社会からの遮断の中で生み出されたのですから、不思議です。

私が手紙を書けば、それは、ただの普通の手紙になる訳ですが、私もここに良く来てくださる皆さん宛に、手紙形式で書いてみようかなぁと思い、パウロの手紙のことを書きました。

ブログがある意味、手紙みたいなものですが、私の思いが伝わりますように、願いつつ、次のブログで手紙を書いてみます。

パウロは、手紙の最後に、さらに祈りを込めました。

それは、神様にあるパウロの心からの願いだったのでしょう。

『主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなかがたすべてとともにありますように。』第2コリント人への手紙13:13

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“主がヨセフとともにおられた”

主がヨセフとともにおられたことの祝福を見ます。

『主がヨセフとともにおられたので、彼は幸運な人となり、そのエジプト人の主人の家にいた。

彼の主人は、主が彼とともにおられ、主が彼のすることすべてを成功させてくださるのを見た。

それでヨセフは主人にことのほか愛され、主人は彼を側近の者とし、その家を管理させ、彼の全財産をヨセフの手にゆだねた。

主人が彼に、その家と全財産とを管理させた時から、主はヨセフのゆえに、このエジプト人の家を、祝福された。それで主の祝福が、家や野にある、全財産の上にあった。』旧約聖書 創世記39:2~5

突然、兄たちに裏切られ、遠いエジプトの国に売られたヨセフ。

その衝撃はどんなものだったろうか。

しかし、この39章は、そんな人がした悪による悲惨な状況にも関わらず、“主がともにおられたので”を4回も使われ、この5節までも、“主”が5回出てくる。

この辛い状況の中に、神様がヨセフとともにいてくださり、祝福してくれたことが強調されている。

主がともにいてくださった結果、ヨセフは主人にことのほか愛された。信頼され、大事な仕事の責任を任された。

神様はヨセフのゆえに、このエジプト人の家を祝福された。

神様がともにいてくださる…その祝福は、人間関係、仕事、その人のまわりに及ぶ。

もし、私たちが、ヨセフのように、自分には非がなく、人の悪によって、厳しい状況に置かれているなら、“主がともにおられる”ことを祈る。

ヨセフは、この厳しく苦しい状況を神様にあって受け入れた。

その中で、忠実な管理者という、自分の最善をなした。

神様がともにおられた。その最もなる祝福は、神様がヨセフに“何があっても神様を信頼する信仰を与えられていた”ということではないだろうか。

神様を信頼するヨセフは、これでもかと次々と人の悪の中で翻弄される。

しかし、神様がヨセフとともにおられたので、ヨセフはいつも“神様を信頼し続けることができた”のだと思う。

私たちにもこの神様を信じる信仰が与えられますように。

###

神様、どんな状況の中でも、神様がともにおられ、ヨセフは自分の出来うることをなすことができました。

ヨセフは夜一人になると、たくさん神様に祈り、慰めを受けていたのかもしれません。

ヨセフは、突然の受け入れ難い状況の中で、変わることなくともにいてくださる、助けてくださる神様に支えられたのだと思います。

私たちも人や状況に振り回されやすいですが、いつもこの変わらず、良いことにしてくださる神様を、信頼する信仰を与えてください。

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2009年6月30日 (火)

“私たちに住まわれるいのちのことば”

イエス様のことばは、人の中にいのちとなって生きているのを思います。

『ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。

私たちはこの方(イエス)の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。

この方は恵みとまことに満ちておられた。』新約聖書 ヨハネの福音書1:14

かつて、人のことばに翻弄(ほんろう)されてきた私にとって、私を生かしてくれる“真実のことば”は何より大切なものである。

私は、今、30年の教会生活を振り返っているが、私にとって教会の苦痛は、礼拝で牧師が語るメッセージ…ただその一点だったように思う。

「私が体験している神様はそんな小言や説教ばかりいう神様ではない!」と…。

今、ブログで、聖書のことばを分かち合ったり、思いを分かち合ったりさせてもらっているが、四六時中、聖書を開くようになった。

神様のことばに触れる機会が何倍も増えた。ときには、どこにあった聖書箇所か、分厚い「聖書語句辞典」を引く。

その中で、知らなかった聖書のことばに出会い、感動したりする。

聖書が、神様が何を言っているか聞く作業が楽しい。

そして、もう一人の私が今いる。30年間、「恵みと主権をもっておられる神様の話しを聞きたい。」と渇望し続けた私である。

私にとって、水も食料も乏しかった月日がなければ、その飢え渇く自分は確立しなかった。私にとっての荒野か、砂漠のような食糧難の日々が、私自身の中に、“人は何を求めているか”を教えてくれる人を作った。

イエス様は、神様であられるのに、人となり、私たちの間に住んでくれた。

そのことを通して、私たちは人となられたイエス様の愛を見ることができる。

イエス様に永遠のいのちがあった。

イエス様が十字架にかかり、よみがえられ、今、私たちはこのイエス様のいのちにあずかる。

イエス様が話したことばが、霊であり、いのちだと言われた。(ヨハネ6:63)

イエス様自身が、イエス様のいのちが、聖霊様が、この聖書のことばとともに、私たちのうち側に生きてくださる。

私たちは、聖霊様のはならきによって、心にいますイエス様とともにいられる恵みを思う。

今、真実のことばを求め、渇き、苦しんでいる方がいるならば、イエス様のいのちのことばに出会って、満たされることを願う。

人を慰め、生かし、励まし、支え、助ける真実のことば、聖書のことばが、多くの人々の暗やみに届き、そこを光としてくれるように祈りたい。

聖書のことばは、クリスチャンだけのものではなく、すべての人のためのものだ。

なぜなら、天地を造られ、イエス様を送られた神様は、すべての人々の神様だから。

###

天のお父さん、あなたが、聖書を通して、日々私たちを支え、生かしてくださることをありがとうございます。

この何にも変えることのできない聖書のことばが、人々の慰めと励ましとなりますように導いてください。

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“聖書のことばを食べる”

いのちを保つための食べ物について考えました。

『いのちを与えるのは御霊(みたま)です。肉は何の益ももたらしません。

わたし(イエス)があなたがたに話したことばは、霊であり、またいのちです。』新約聖書 ヨハネの福音書6:63

中学に通う息子は、身長168センチで、45キロととても“おやせ”だ。

偏食ぎみで、小さいときから痩せていた。

小学生のときは、あんまり体重が増えないので、一キロ増えたらご褒美物だった。リビングにはそのときのなごりの体重計がホコリをかぶって置かれてある。

健康を保つのに、食事は大切だ。が、それも無理じいになると苦痛になる。

私は、育った家庭での食事が苦痛だった。

味つけが濃かったのと、いつも「残しては駄目だ。」と小言を言われながら食べていたからだ。

だから、息子にはきちんと食べるようには言えない自分がいた。

イエス様のいのちにつながり続けるため、私たちは聖書のことばを食物として食べる。

が、美味しいご馳走も無理じいされては、食べたくなくなる。

「恵みの歩み」の本を書いたマクベイ師が言っていたことを、ふと思い出した。

「聖書は読まなくていい。無理に祈らなくていい。」

それはつまり、「ご飯を食べたくなければ食べなくてもいい。」と言うことであり、「それでも、お腹が空くと、食べたくなるのだから無理をしなくていい」と言う意味合いだったのかなぁと思った。

本来、“聖書を読む”とか“祈りをする”というのは、“美味しいご馳走を食べる”“親しい人と語らう”という楽しく、素敵な特権であるはずだ。それなのに、どこで間違えたか、小言か命令になったとたん、苦痛に変わってしまう。

美味しいご馳走を食べた人は、そのご馳走を無理じいはしない。

まず、私自身にとって“聖書を読む”ということが、すばらしいことであることが、そのことを人に勧めるとき、相手の人に期待を持たせることにつながるのかもしれないと思った。

給食だけは、残さず食べる息子ももうすぐ夏休み…いかに美味しいものを一緒に食べられるか、母の大きな課題である。

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2009年6月29日 (月)

“キリストにあって一つと集められる”

イエス様にあって、一つになる約束に思いめぐらしました。

『神はこの恵みを私たちの上にあふれさせ、あらゆる知恵と思慮深さをもって、みこころの奥義を私たちに知らせてくださいました。

それは、神が御子においてあらかじめ、お立てになったご計画によることであって、時がついに満ちて、この時のためのみこころが実行に移され、

天にあるものも地にあるものも、いっさいのものが、キリストにあって一つに集められることなのです。』新約聖書 エペソ人の手紙1:8~10

パウロはローマの獄中の中で、この手紙を書いた。

注解には、「パウロは獄中で瞑想する機会も多かったのだろう。神の救いの計画の洞察、そして、目に見えない、霊的なキリストの体である教会の深い洞察が書かれてある。」とある。

私は教会像に打撃を受けてきたので、聖書にある教会像は何か遠い世界の話しに聞こえていた。

この小さなブログで、霊的なものを分かち合ったり、共に祈ったりする中で、私の中で、“キリストのからだ体験”をさせてもらっている。

ブログの先にいる会ったこともない方たちと、同じ聖書を分かち合い、ともにアーメンと祈れるとき、私たちは、同じ神様、同じイエス様、同じ御霊にあるのだなぁと思う。

たとえば、初めて教会に行くならば、差し支えない挨拶から、遠まわりの交流が始まる。

「どちらから来ましたか。」

「どちらにお住まいですか。」

そこから一足飛びに、本題にはなかなか入らない。

しかも、私は、教会にあっては、“少数派”の感覚をもった者との自覚がある。

分かち合える人は、100人に一人いれば良いと自分に言い聞かせてきた。

だいたいその一人は、悩みが多く、正直な人たちだった。

教会でのうわべの会話は私は堪えられない。それは、教会でなくても十分にできるから。

自分に正直な人の多くは、自分の弱さを充分に体験している人である。

そんな教会生活の私が、こうしてブログで、多くの方と分かち合えているのだから不思議に思う。

このパソコン世界の、まだるっこい、遠回しの挨拶もない、本題で分かち合える良さなのだと思う。

そして、似たものを求めている人が集まっている。

今、改めて、ブログで、神様の恵みや慰めを分かち合えることを、そんな訳で感謝している。

パウロはユダヤ人と異邦人が一つになる壮大な計画を、神様から教えられ、この手紙を書いた。

キリストにあって一つを体験させられ始めている私は、同じことばが通じる社会で、教会の中と外が一つになることを思わされている。

捕囚の民に預言する人たちは、神は遠くから近くからあなたがたを集めて一つとすると、神様の霊によって語った。

聖書全体に、改めて一つになる約束が多く語られていることを今日、思った。

この約束が私たちにもなりますようにと祈った。

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“エジプトに連れて行かれたヨセフ”(創37)

ヨセフは兄弟たちの手によって、エジプトに売られていきました。

『彼らは、ヨセフが彼らの近くに来ないうちに、はるかかなたに、彼を見て、彼を殺そうとたくらんだ。…

すると、ユダが兄弟たちに言った。「弟を殺し、その血を隠したとて、何の益になろう。さあ、ヨセフをイシュマエル人に売ろう。われわれが手をかけてはならない。彼はわれわれの肉親の弟だから。」兄弟たちは彼の言うことを聞き入れた。』旧約聖書 創世記37:18.26.27

ヨセフは兄弟たちにねたまれ、憎まれていた。

兄弟たちは、ヨセフを殺す計画を立てる。

ヨセフを捕らえて、穴の中に投げ込む。が、殺さすに、通りかかったミデヤン人の商人に、銀紙20枚で売った。ヨセフはエジプトに連れられて行く。

悲惨な話しである。人間のどこまでも愚かしい行動が、書かれてある。

しかし、兄たちをひどい人たちだとだけ私は言えないと思う。

“十戒”に「殺してはならない。」とある。私たちは「人を殺しはしないよ。」と思うかもしれないが、どんな状況になったら、殺意が湧くかわからない。神様はそのことを良くご存じなのだと思う。

ヨセフは殺されこそされなかったが、エジプトへ売られていった。

ヨセフの生涯のテーマは何だろうか。

私が勝手につけさせてもらえば、創世記50:20ではないかと思ってしまう。

『あなたがた(兄たち)は、私に悪を計りましたが、神はそれを、良いことのための計らいとなさいました。それはきょうのようにして、多くの人々を生かしておくためでした。』

これは、ヨセフが何十年か後、エジプトの王の右腕としての地位につき、食料をもらいにひれ伏す兄たちに言ったことばである。

ヨセフの人生は波乱に満ちていた。しかし、それは神様の計画の中にあった。

その中でノンビリ屋のヨセフは信仰の訓練を受け、神様への信頼を増していった。

そして、ヨセフに言わせたことばが、「人の悪も神は良いことの計画に変えた。」と告白させた。

私たちは、時に厳しい状況に置かれる。それが、人の手による悪であるならば、余計に苦しい。

苦しむ人に安易に、「それをも神様は益にしてくださる。」とは言えない。それは人から言われることではなく、告白でなければ、縛りになる。

しかし、私は今、自分の過去に対して言うなら、神様の恵みは、人の悪を越えていた…と言いたい。

私の教会生活で苦しんだ年月が、今の私を造っている。その中には、人の悪だけでない、自分の弱さゆえの訓練のほうが多かったかもしれない。

本当に過去を振り返って、「自分や人の弱さを越えて神様は良いことをされた。」と私が実感するようになったのは、ブログを書くようになってからだ。

神様がそのときまで、お一人お一人を守り支えられますように。

###

神様、私たちは、今起こっている出来事に意味を見い出せず、苦しむものです。

しかし、ヨセフの波乱に満ちた人生を見るとき、そこにいつも神様がいてくださったこと、その神様に信頼を増していくヨセフがいたことを見ることができるのは、慰めです。

私たちの内側を強め、環境にも支配してくださる神様、どうぞ、ときがきたら、私たちもまた「人は私に悪を計りましたが、神様は良いことに変えられました。」と言えるようにしてください。

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2009年6月28日 (日)

6/28☆お祈り☆

コメントくださる方、訪問してくださる方、祈ってくださる方、一人一人を思いつつ、一週間の祝福がありますように祈ります。

『主(神)があなたを祝福し、あなたを守られますように。

主が御顔をあなたに照らし、あなたを恵まれますように。

主が御顔をあなたに向け、あなたに平安を与えられますように。』旧約聖書 民数記6:24~26

天地を造り、私たちに命を与え、私たちを愛して生かしてくださる神様、新しい一週間をありがとうございます。

あなたはどこにでもおられ、私たちの中にも聖霊様を送ってくださり、ともにいてくださることをありがとうございます。

あなたの闇は暗くなく、あなたの暗やみは光と同じですからありがとうございます。

私たちは様々な状況の中にありますが、すべてを神様がご存じですからありがとうございます。

今、孤独な人には神様の癒しを、貧しい人には神様のみ国を、悲しみの人には神様の慰めを、義に渇く人にはキリストの義を与えてください。

不安な人には聖書と聖霊様の安心を、選択を求める人には導きを、傷のある者には癒しを与えてください。

また、仕事場で、家庭で、人間関係で悩む人には、神様にある特別な支えを与えてください。

私たちは弱いものですが、その弱さの中に、イエス様の恵みは充分だと言ってくださいますから、弱さの中で、イエス様の力を現してください。

私たちがいつも神様に愛されていることを覚えさせてください。

サタンは、私たちの行いにケチをつけ、惑わしますが、イエス様の十字架で、すべては赦されていますから、攻撃から守ってください。

私たちは、イエス様によって、もはや罪に定められないとありますから、そこに立たせてください。(ロマ8:1)

このブログの交わりと祈りを感謝します。誰にも覚えられていないようでも、神様に覚えられていますから、ありがとうございます。

誰にも知られていないようでも、ブログに集う方々のために祈っている人たちがいますから、その祈りをありがとうございます。

新しい一週間を主とともに歩めますように。

主の守りと恵みと平安がありますように。

神様に愛されていますお一人お一人を思いつつ、イエス様のお名前によって祈ります。アーメン。

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“霊的養い”(考察と報告)

今日、1日をかけて、長い考察をしていました。

『たとい主があなたがたに、乏しいパンとわずかな水とを賜(たま)わっても、あなたの教師はもう隠れることなく、あなたの目はあなたの教師を見続けよう。

あなたが右に行くにも、左に行くにも、あなたの耳はうしろから「これが道だ。これに歩め。」と言うことばを聞く。』旧約聖書イザヤ書30:20.21

今日は、朝からずっと“霊的養い”について、祈り考えた。

私は、牧師に養われなかったが、教会や他のところで養われたのかもしれない。

教会生活が始まってすぐに教会学校の先生をさせてもらった。「成長」のテキストと聖書で、学びながら、子どもたちと分かち合い、育ててもらった。

最初に通った教会は、聖書勉強会も祈り会もなかったが、あちこちの関連教会の聖書勉強会に出た。

そして、信仰持ってまもなく神学校で勉強できたのは、やっぱり大きかった。

勉強はできるほうでもなかったかもしれないが、「神学概論」というのが、とても好きだった。

“救いとは”“罪とは”“あがないとは”みたいな感じのものを、聖書全体と、聖書箇所から学んだ。

つまり、私は牧師から養われなかったと言いきっているが、やはり教会の中で養われたということに気がついた。

突然、育った我が家の話しになるが、母とは折り合いが悪く、父は病気でほとんど交流がなく、こんな親はいてもいなくても…と昔は思った。(今はイエス様にあって父、母を感謝しているが。)

母とは、母が亡くなる近くまで、私は反抗期だった。あまり、いい家庭の思い出はない。が、喧嘩してたにせよ、関わりが薄かったにせよ、父、母は私の生活のまわりで生きていた。

私が教会にとやかく言っていた時期は、それでも親は生きている…みたいな感じなのかなぁと思った。

私のまわりにもいるし、息子の同級生にもいるが、父か母が、死別か離婚で全くいない人の気持ちは、私にはわからないのかもしれない。近い喪失の気持ちはあっても、私の場合、まだ、生きていた。

今、教会に行かない選択にある人の気持ちは、どんなに大変か、苦労があるのか、私にはまだまだ想像がつかないのかもしれない。

今日、礼拝で行われた賛美、メッセージ、聖さん、祈り、すべてが当たり前と思ってしまう私がいるが、それらのない人には、どんなに貴重なことかと思った。

ブログで、聖さんはできないけど、日曜日にできることは、したいなぁと思った。

私は牧師でもないし、“祝祷(しゅくとう)”みたいなのは、おこがましくてできないが、一週間の歩みの守りを共に祈ることはできるなぁと思った。

私の1日の考察が長くなった。もう日曜日の夕方になってしまったが、次のブログに、訪問してくださる方々のために、一週間のお祈りを書きたいと思います。

必要な方と共に心合わせられたら、幸いです。

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『神が羊を捜し、世話をします。』

イエス様は群れを残しても、迷った羊一匹を捜しに出かけてくださる方です。

『あなたがたはどう思いますか。もし、だれかが百匹の羊を持っていて、そのうちの一匹が迷い出たとしたら、その人は九十九匹を山に残して、迷った一匹を探しに出かけないでしょうか。

そして、もし、いたとなれば、まことに、あなたがたに告げます。その人は迷わなかった九十九匹の羊以上にこの一匹を喜ぶのです。

このように、この小さい者たちのひとりが滅びることは、天にいますあなたがたの父のみこころではありません。』新約聖書 マタイの福音書18:12~14

おはようございます。

この日曜日の朝も、神様が教会の外にいる人にも、関心をもっておられ、そこに思いがとてもあることを、聖書からともに見たいと思います。

上記の聖書のことばは、イエス様が言われたことばです。

そして、イエス様ご自身が、群れにいる九十九匹を山に残して、迷った一匹の羊を捜しに出かけてくださる方です。

一匹いないけど、九十九匹いるからいいか…とは思いません。

迷った一匹が、大事で、傷だらけになって捜すイエス様の紙芝居を良く、昔読みました。

そして迷った一匹を見つけて、大喜びで帰ってくるのでした。

私たちは、迷っている一匹ならば、イエス様は捜し、見つけ、喜びながら連れ戻してくださる方です。

エゼキエル34章には、人間の牧者たちは羊を捜し求めず、養わず…しかし、神様は違うと言われました。

『わたし(神)は自分でわたしの羊を捜し出し、これの世話をする。

牧者が昼間、散らされていた自分の羊の中にいて、その群れの世話をするように、わたしはわたしの羊を、雲と暗やみの日に散らされたすべての所から救い出して、世話をする。…

わたしは失われたものを捜し、迷い出たものを連れ戻し、傷ついたものを包み、病気のものを力づける。』エゼキエル34:11~16

なんと、群れの外にいるものにとって、慰めに満ちたことを神様は語ってくださっているのでしょうか。

どのようによってかは、具体的には、今の私にもわかりませんが、イエス様によって一つに集め、養ってくださると言ってくれています。(エゼキエル34:23)

私は信じています。今、群れの外にいる人が、神様はそのままにして置かないのを。

神様は、そんな外に対する熱い思いを私にも語ってくれています。

私たちの中に、見えないですが、聖書のことばと聖霊様によって感じられる、このイエス様にともに連なっていけますことを心から祈ります。

###

神様、イエス様が群れを残しても、迷った一匹の羊を捜しに行かれる方であることをありがとうございます。

今、群れの中にいなくても、イエス様が牧者となってくださり、傷ついた者を包み、病気のものを力づけてください。

私たちの側がどんなに迷っても、イエス様のほうで捜しだして、イエス様と一緒に居させてくださることに、安心させてください。

今日も、この小さなブログを通して、神様の思いが伝わるようにしてください。

ともに、このエゼキエルのことばが、お一人お一人の中に実現することを信じて祈りますので、そのようにしてください。

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“罪のない者が、石を投げなさい”

人の罪を前に、私がなせることは何か思いました。

『けれども、彼らが問い続けてやめなかったので、イエスは身を起こして言われた。

「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。」』新約聖書 ヨハネの福音書8:7

前回のブログで、自己義認のテーマで書きました。

実は、教会の中に自己義認があるのではないかと思わされ、それを自分にもあるものと受け取りきれないうちに書いたかなぁと思いました。

書いてからは、私自身もまた、そのようなもので、私は自分の梁を示され、癒されないと、心底、相手のためには祈れないというところに落ち着きましたが…。

私は正義感が強く(それが正しいかは別です。)、弱い立場の人が窮すると、そんな目に合わせた人に怒りやすいものです。

しかし、誰かが人にした間違いを怒るのも、見ぬふりをするのも、冷静に客観的に分析するのも、皆違うような気がします。

パリサイ人たちが、姦淫(かんいん)の女をイエス様に付きだしたとき、「律法でいけば、この女は石打ちの刑で殺されなくてはいけない罪を犯しています。イエス様、あなたは何と言いますか。」と言いました。

イエス様はしばらく地面に何か書いて時間が過ぎていきました。

周りで彼らが問い続けるので、「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。」と言われました。

すると、年長者から去っていき、誰もいなくなりました。

イエス様の選択は誰も取らないものでした。

イエス様を試そうとした悪い動機の人たちには、「自分が罪がなかったら、石を投げなさい。」と皆罪あるものであることを示されました。

罪で告発された女には、「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今から決して罪を犯してはなりません。」と言われました。

罪を犯すことのなかったイエス様だけが言えたことばであり、十字架で私たちの罪を負ってくださったイエス様だけが言えたことばでした。

私は長い間、教会を裁いてきましたし、今尚、違うんじゃないか?と裁きたくなる者です。

でも、もしそこに弱さや間違いがあったら、イエス様にあって赦された者として、出来ることは“とりなして祈る”…それしかないのではないかと思います。

私がもし明らかな間違いを裁いたとたん、私は自己義認に陥るのです。

イエス様が、私の罪のために十字架にかかってくれ、私の罪を赦してくれた事実の前に、人や教会の間違いは“とりなし祈る”ものでありたい…そう思わされました。

###

神様、私は怒りやすい者、人を裁きやすい者です。赦してください。

明らかな間違いや、弱者が痛めつけられることは、本当に頭にきますが、イエス様の前でそれが間違いであることを教えられました。

愛をもってとりなす祈りと、裁く思いで祈る祈りは違うものであることを神様は知っています。

本当に相手に同情し、相手の回復を願うのでなければ、祈りは聞かれないと思います。

自分のための周りを変える祈りは聞かれないからです。

自分も見張り、そのへりくだりの中で、とりなせる者としてください。

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2009年6月27日 (土)

“あのようなものでないことを感謝します”(自己義認)

自己義認について思いました。

『自分を義人だと自任し、他の人々を見下している者たちに対しては、イエスはこのようなたとえを話された。

「ふたりの人が、祈るために宮に上った。ひとりはパリサイ人で、もうひとりは取税人(しゅぜいにん)であった。

パリサイ人は、立って、心の中でこんな祈りをした。

『神よ。私は、ほかの人々のようにゆるす者、不正な者、姦淫(かんいん)する者ではなく、ことにこの取税人のようでないことを、感謝します。

私は週に2度断食し、自分の受けるものはみな、その十分の一をささげております。』

ところが、取税人は、遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。

『神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。』

あなたがたに言うが、この人が、義と認められて家に帰りました。パリサイ人ではありません。

なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。」』新約聖書 ルカによる福音書18:914

人間は弱い。この聖書の記事を読むとき、実は、私たちが往々にして、このパリサイ人であることに気がつかない。

私もまた、自己義認する、このパリサイ人である。

「神様、私は教会に行けて礼拝しているものです。献金し、奉仕しているものです。あの人のように、クリスチャンでありながら、何もしない人ではないことを感謝します。」

そんな気持ちが私の中にも無いだろうか。

私たちは弱い。小さいときから、“何かする”ことで、評価を受けてきた。

そして、行いによらない、全く違う世界にイエス様によって入れてもらったのに、尚、行いの評価で自分を判断し、人を計る。

イエス様は、そのような人を自己義認と人を見下す心、そしてごう慢な者として、神様から良しとはされないことを言われた。

多くの人は、パリサイ人を見て、私はこのようなパリサイ人ではない、こんなに人を見下すものではないと思う。聖霊様が働かれ、私のうちを探ってくださらなければ、私たちは自分の本当の姿を見ることができない。

私が、自分は何か出来ているというところに乗る、その罪が明らかにされ、赦されるように。

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神様、私には、何かをやっていることで、満足する心がたくさんありますから、聖霊様がそのことを照らし、教え、認め、きよめてください。

私たちは、皆イエス様のあわれみによって、滅びからまぬがれたものです。

そのあわれみのもとに生かされているだけです。

教会に行く、献金することすら、神様のあわれみによってできることであり、私たちがその行為で認められようとする心を赦してください。

私たちは、イエス様によって、行いで評価される縛りからは解かれました。

私たちは、ただあなたのみ前にへりくだることを、イエス様とのふさわしい関係として与えてくださいましたから、そのふさわしい関係に入れるように、導いてください。

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“夢見たヨセフ”(創37)

ヨセフの人生を見ていきます。ヨセフは私にとって、身近に感じられる人物です。

『あるとき、ヨセフは夢を見て、それを兄たちに告げた。すると彼らは、ますます彼を憎むようになった。

ヨセフは言った。「どうか私の見たこの夢を聞いてください。

見ると、私たちは畑で束(たば)をたばねていました。すると突然、私の束が立ち上がり、しかもまっすぐに立っているのです。見ると、あなたがたの束が回りに来て、私の束におじきをしました。」』旧約聖書 創世記37:5~7

ヨセフは父ヤコブに偏愛された。それでヨセフだけが、そでつきの長服を着ていた。

兄たちは、そんなヨセフを憎んだ。穏やかに話せないくらいだった。

若いヨセフはそんなことも知らずに、お兄さんたちに自分の見た夢を話す。

「お兄さんたちの束が、僕の束におじぎする夢を見たよ。」

兄たちは言った。「ヨセフ、お前が俺たちを治める王にでもなるというのか。何を馬鹿なこと言うんだ、こいつは。」

ヨセフは、回りの状況が見えたい子だったのだろうか。兄たちの怒りや憎しみがありながら、再び、似た夢を見た話しをする。

ヨセフを偏愛する父、えこひいきされているヨセフを憎む兄たち、その周りの状況がわからず平気で夢の話しをするヨセフ。

これらの人間的な弱さの絡(から)み合いの中、やがて、ヨセフがエジプトに売られる悲惨な結果につながる。

しかし、神様がヨセフの夢で教えた計画は長い年月をかけ、神様の時の中でそのとおりになっていく。

『彼(ヨセフ)のことばがそのとおりになる時まで、主(神)のことばは彼をためした。』詩篇105:19

ヨセフが神様から教えられて、兄たちに言ったことば(ヨセフの将来)は、そのとおりになる時まで、神様自身によって試され、訓練された。

私にも、神様は若いとき、「あなたの神様にある働きはこれだ。」と語られた。

しかし、待てども、待てども、その状況は開かれなかった。

そのとき、この詩篇105:19の聖書のことばに慰められた。

神様は私たち一人一人、すべての人に神様の特別な計画がある。

神様が選び、呼んだということには、礼拝者となるためでもあるが、一人一人の計画や神様からの特別な働きをなすためでもあるのだ。

私は今、25年前に語られた神様の働きのスタートラインにやっと立てた気がする。

神様の計画されたこと、約束されたことは、神様によって必ず成る。

ただ、その訓練もまた伴うということだろう。

ヨセフは、エジプトに売られ、濡れ衣をきせられ、忘れられ、想像を絶する波乱に満ちた人生となった。

しかし、その人生の中にいつも神様がいた。その試練の中で、ヨセフは神様に揺らぐことのない信仰を確立していくのだった。

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“権力によらず、能力によらず、神の霊によって”

神様の主導権を思いました。

『「私が見ますと、全体が金でできている一つの燭台があります。その上部には、鉢があり、その鉢の上には7つのともしび皿があり、その上部にあるともしび皿には、それぞれ7つの管がついています。

また、そのそばには2本のオリーブの木があり、一本はこの鉢の右に、他の一本はその左にあります。」

さらに私は、私に話していたみ使いにこう言った。「主よ。これらは何ですか。」…

すると彼は、私に答えてこう言った。「これが、ゼルバベルへの主のことばだ。

『権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって。』

と万軍の主は仰せられる。

大いなる山よ。おまえは何者だ。ゼルバベルの前で平地となれ。

彼は、『恵みあれ。これに恵みあれ。』と叫びながら、かしら石を運びだそう。』旧約聖書 ゼカリヤ書4:3~7

「権力によらず、能力によらず、神の霊によって」

今から20年位前、私が今にも倒れそうになりながら、教会勤めをしていたとき、洗礼を受けて間もない男の子が、いつもこのことばで一緒に祈ってくれた。

今、神様がすべての主導権をもって、あわれみ、導いてくださるとき、この聖書のことばを思い出した。

ゼカリヤはたくさんの幻を見せられながら、神様のメッセージを伝えた。

ここは、神殿再建のための励ましが書かれている。

捕囚のイスラエルの民は、自分たちの国に戻り、神殿を再建する。そのことは、「権力によらず、能力によらず、神の霊によってなされる。」と言われた。

権力は、集団的な力、能力は個人的な力を意味するらしい。

「社会的な権力や影響力によらず、個人的な力によらず、神様が主導権を握って、その神殿の再建はなされる」と、神様は、再建のまとめ役をしていたゼルバベルに言われた。

大いなる山とは、神殿建築にあたっての様々な困難を示す。

その困難の山は、総督ゼルバベルの前で解決され、建築者たちは、神様の祝福を願いながら、その石を運ぶようになると語られた。

今、私たち自身が聖霊様の住まわる神殿である。

まさに、私たちの神殿は、イエス様によって、建てあげられた。

そこには、社会的な集団の力は一切働いておらず、誰かの個人的な力も働かず、ただ神様の霊によってそのことが成された。

私たちが自分の信仰の出発も、また、その先も、ただ神様の主導権の中で進んでいる…これは大きな慰めである。

私の弱さ、足りなさ、失敗に関係なく、神様によって、事は進められている。

『権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって』

かつての私の信仰の友は、受洗して、クリスチャンになって 間もないのに、神様の働きの本質をとらえていたのだなぁと思った。

私もまた、一人で祈るとき、このことばで、神様の主導権を強調して祈る者でありたいと思った。

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2009年6月26日 (金)

“元気を失い、疲れ果ててしまわないように”(祈り)

弱さを覚える方と心を合わせて祈ります。

『信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。…

それは、あなたがたの心が元気を失い、疲れ果ててしまわないためです。』新約聖書 ヘブル人の手紙12:2.3

『あなたの神、主であるわたしが、あなたの右の手を堅く握り、「恐れるな。わたしがあなたを助ける。」と言っているのだから。』旧約聖書 イザヤ書41:13

私たちの信仰の歩みは、良いときばかりではありません。

私にもたくさんありましたが、神様が遠くに感じられたり、元気がなくなったり、疲れてしまったり、いろいろな時があります。

けれども、大丈夫です。私たちが、神様の手を離してしまったかのようなときも、神様は私たちの手をしっかりとつかんでくれています。

私のほうで、神様に対して信頼が無くなってしまったかのようでも、私を選んで信仰を与えられたのは神様のほうです。

この弱い私を生かしてくださるのは、神様であることを思い、祈ります。

「天のお父さん(神様)、私たちは弱いものです。

あなたを信頼してついて行きたいと思っていても、ときには行き先に迷い、ときにはあなたを見失ってしまうかのような弱い存在です。

どうぞ、助けてください。

イエス様から目を離すことのないようにしてください。

イエス様の私のための十字架の愛をもう一度教えてください。

イエス様の歩まれた道のりは私のためだったことを思い起こさせてください。

何もできないようなそんなときも、変わらず、イエス様の赦しと受け入れの愛が私を包んでくださることをありがとうございます。

何も出来ずとも、たとえ、私の中に罪があっても、イエス様の十字架のあがないによって、神様から受け入れられる変わらない子どもとされていることをありがとうございます。

聖霊様、どうぞ、私の中で、イエス様を喜ぶ信仰に導いてください。

イエス様は、ご自分の前に置かれていた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍ばれました。

私も神様が約束してくださっているたくさんのことのゆえに喜べるようにしてください。

私に何もないかのようなときも、困難しかないようなときも、イエス様は変わることなく喜ぶ存在なので、主にあって喜びを与えてください。

神様、あなたは見捨てない神であることをありがとうございます。

あなたは、裸の丘に川を、平地に泉を、荒野を水のある沢とし、砂漠の地を水の源としてくださる約束をありがとうございます。(イザヤ41:18)

イエス様がくださる渇くことのない水を飲ませ続けてください。

私のうちでそれが泉のごとくわき上がりますように(ヨハネ4:14)

あなたの変わらないあわれみといつくしみを思います。

弱き私を助け、あなたの支えの中に生かしてください。」

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“花婿なるイエス様の愛”

イエス様が私たちに求めておられるのは何か、考えました。

『私の妹、花嫁よ。あなたは私の心を奪った。

あなたのただ一度のまなざしと、あなたの首飾りのただ一つの宝石で、私の心を奪ってしまった。

私の妹よ、花嫁よ。あなたの愛は、なんと麗(うるわ)しいことよ。

あなたの愛は、ぶどう酒よりもはるかにまさり、あなたの香油のかおりは、すべての香料にもまさっている。』旧約聖書 雅歌4:9.10

雅歌では、花婿と花嫁が互いに愛を語り合う。

聖書では、キリストは花婿、教会は花嫁にたとえられる。

イエス様は、花婿のように、私たち一人一人をこよなく愛しておられる。

その愛は深すぎて、私たちはすべてを理解はできない。

しかし、花婿が花嫁に愛をささやくように、私たちを愛しておられる。

イエス様の高尚な愛を人間の男女レベルで想像してよいのだろうかとも思う。

けれども、ここにわかりやすい一つのことが隠されている気がする。

「わが愛する者。あなたはなんと美しいことよ。」と語るとき、花婿が求めているもの、それはただ一つ、花嫁自身だけである。

イエス様が求めておられるのは、私たち自身なのだ。

「イエス様、あなたを愛します。」と私が言いながら、料理を作ることに没頭し、イエス様を待たせ、忘れるならばイエス様は悲しむ。

さらに、イエス様のためにと、プレゼントをあげることも、何かを努力することも、イエス様は求めていない。

イエス様が求めておられるのは、イエス様を愛する心である。

マルタとマリアの話しがあるが、イエス様はマルタに言われた。

「しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。」

マリアは何もせず、ただイエス様の足もとにすわり、イエス様のお話しを聞かれた。

イエス様自身に集中していた。

私たちがイエス様の愛に応えていけるようになるためには、イエス様を知っていく…という道のりが必要である。

一足飛びに、イエス様の愛に応答していけるものにはならないかもしれない。

ただ、イエス様が何を求めておられるか知ったならば、その応答への道に歩めるような気がする。

熱い熱いイエス様の愛に、負けることなく、応答する雅歌の花嫁の姿があった。

『私を封印のようにあなたの心臓の上に、封印のようにあなたの腕につけてください。

愛は死のように強く、ねたみはよみのように激しいからです。

その炎は火の炎、すさまじい炎です。

大水もあなたの愛を消すことができません。

洪水も押し流すことができません。

もし、人が愛を得ようとして、自分の財産をことごとく与えても、ただのさげすみしか得られません。』雅歌8:6.7

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2009年6月25日 (木)

“解放告げるヨベルの年”(祈り)

“ヨベルの年”、安息の年であり、手放した土地は買い戻され、人は奴隷身分から解放されました。イエス様が来られ、今、私たちは“ヨベルの年”として、解放と回復を与えられました。

『神である主の霊が、わたし(メシヤ・救い主)の上にある。

主はわたしに油をそそぎ、

貧しい者に良いしらせを伝え、

心の傷ついた者をいやすために、わたしを遣わされた。

捕らわれ人には解放を、囚人には釈放を告げ、

主の恵みの年と、われわれの神の復讐(ふくしゅう)の日を告げ、

すべての悲しむ者を慰め、

シオンの悲しむ者たちに、灰の代わりに頭の飾りを、

悲しみの代わりに喜びの油を、

憂(うれ)いの心の代わりに賛美の外套(がいとう)を着けさせるためである。

彼らは、義の樫(かし)の木、栄光を現す主の植木と呼ばれよう。』旧約聖書イザヤ書61:1~3

イエス様によって、“ヨベルの年”であることの感謝を祈ります。

「神様、今、ヨベルの年、神様がすべての人に解放を告げられる年であることをありがとうございます。

イエス様によって、貧しい者に良い知らせが伝えられることをありがとうございます。

イエス様の打ち傷によって、心の傷ついた者を癒してくださることをありがとうございます。

捕らわれ人への解放の宣言をありがとうございます。

囚人には釈放が告げられたことをありがとうございます。

私たちは奴隷の身分から解放されましたからありがとうございます。

罪の奴隷、サタンの奴隷、死の恐怖からの奴隷、そして、律法の奴隷からの解放をありがとうございます。

もはや、誰からも拘束されず、自由の身分となりましたからありがとうございます。

今、恵みの年、救いの日です。

敵であるサタンには神の復讐をなす日としてくださり、イエス様の勝利を喜べますからありがとうございます。

惨めなものを神様の子どもとしてくださり、

悲しみの涙をぬぐい、聖霊様の喜びに満たし、

憂いた心に、賛美を与えてくださりありがとうございます。

イエス様、今あなたが十字架とその復活によって、私たちを解放の日としてくださり、神様の所有の民としてくださり、ありがとうございます。

ただ、あなたのお名前をほめたたえます、主よ。」

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“神との格闘”(ヤボクの渡し)

神様は、ときに私たちと戦ってくださり、やすらぎを与えてくださいます。

『ヤコブはひとりだけ、あとに残った。すると、ある人が夜明けまで彼と格闘した。

ところが、その人がヤコブに勝てないのを見てとって、ヤコブのももつがいを打ったので、その人と格闘しているうちに、ヤコブのももつがいがはずれた。

するとその人は言った。「わたしを去らせよ。夜が明けるから。」しかし、ヤコブは答えた。「私はあなたを去らせません。私を祝福してくださらなければ。」

その人は言った。「あなたの名は何というのか。」彼は答えた。「ヤコブです。」

その人は言った。「あなたの名は、もうヤコブとは呼ばれない。イスラエルだ。あなたは神と戦い、人と戦い、勝ったからだ。」』旧約聖書 創世記32:24~28

ヤコブは、自分の育った家に帰るためには、兄エサウとの和解が必要だった。

20年前、父をだまし、兄エサウから長子の権利の祝福を横取りし、殺意を抱かれ、命からがらに逃げた。

ヤコブには恐れがあった。エサウ兄さんはまだ、恨んでいるだろうか。

兄エサウに、使者を送った。返事はなく、400人を引き連れてエサウが来るとのことだった。

ますます、その不安や恐れがヤコブを襲った。

万が一、襲撃されてもいいよう、あれやこれや手を打つ。しかし、不安は大きくなるばかりである。

“ヤボクの渡し”での夜中の神との格闘は有名である。

ヤコブは夜、ひとりになり、祈った。その前に、昼間もヤコブは祈っていた。しかし、今度は、強烈な自我と兄に対する自責の念に対して、格闘して祈った。

ヤコブはももつがいを打たれたとある。その強烈な自我を打たれた。自我は砕かれた。

そして、神様に「あなたはもうヤコブとは呼ばれない。イスラエルだ。」と言われる。

ヤコブは「押し退ける」という意味であった。

それが、「神と戦う者」となり、「神が支配する者」となった。

私は人から「あなたは人を押し退け、ヤコブのような人だ。」と年配の人から言われたことがある。悔しくて、一人神様の前で泣いた。

だから、ヤコブの自我のゆえの様々な葛藤や、やり方がよくわかる。

そんな私も、自分の自我を神様の前に出して、格闘し、少しずつ自我を取られていった気がする。

ヤコブは、すがすがしい朝を迎えられた。もう、恐れや不安はなかった。

自分を守ろうと策を考え、自分が最後部にいるものであった。が、ヤコブは群れの最前にいた。

兄に近づくまで、7回も地に伏しておじきをした。形ではなく、心からの敬意を兄に表した。

『エサウは彼(ヤコブ)を迎えに走って来て、彼をいだき、首に抱きついて口づけし、ふたりは泣いた。』創世記33:3

20年ぶりの和解であった。先頭に立つヤコブのへりくだった態度に、エサウの警戒心が解かれ、憎しみが消えたのだった。

私たちの内にあるものを知っておられる神様は、ときに、私たちと格闘してくださり、私たちの不安や恐れのもととなるものを取り去ってくださる。

神様は私たちに、安心とへりくだりを与え、人とも和解するものとしてくださる方であることを心から感謝する。

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2009年6月24日 (水)

“成長させてくださる神様”(あじさい扁)

私たち一人一人を神様は成長させてくださっているのを、美しいあじさいの花を見ながら思いました。

『私が植えて、アポロが水を注ぎました。しかし、成長させたのは神です。

それで、たいせつなのは、植える者でも水を注ぐ者でもありません。成長させてくださる神なのです。…

私たちは神の協力者であり、あなたがたは神の畑、神の建物です。…

だれも、すでに据(す)えられている土台のほかに、ほかの物を据えることはできないからです。その土台とはイエス・キリストです。』新約聖書 第1コリント3:6~11

我が家の庭には、1メートル以上の高さのあじさいの木がある。

何年か前に、鉢のまま、庭の片隅に置いておいたら、地面に根付き、鉢をやぶって巨大化した。

深い紫色の青々とした大きな花が20以上ついている。

もう、ここが私たちの場所と主張するかのように、激しく降り続ける雨の中を誇らしげに咲いている。

私たちもこの花のようなのだなぁと思った。

私は神様の働きがしたくて仕方がなかった。今に至るのに、30年の月日がたった。

それまでは、土にもぐっていた状態だろうか。神様の忍耐の養いの中で、ただ神様によって成長させられた。私の霊的な賜物が、やっと誰かと分かち合える始まりとなった。

そして、神様は、一人一人に特別な賜物(神様にある能力)と計画を与えてくれている。知っていようがいまいが、もれなく、全員にである!

一つの花が咲くのに、季節や立地条件や、成育状況などいろいろ違う。

けれども、神様は一人一人に特別な良いものを与えておられる。

それを成長させてくださるのは神様である。

もしかしたら、水や日光や肥料が足りなく、元気でないかもしれない。

しかし、どんな乏しい状況の中にあっても、神様は必要を満たし、私たちを養い、成長させてくださる。

その土台は、イエス・キリストという揺らぐことのない希望である。

私たちのうちには、聖霊なる神様を住まわせてくださり、内側からも、外側のほうからも導いてくださる。

今日、雨の中のあじさいの花に感動しながら、私たち自身が、神様にあって、このようであることを感謝した。

♯♯♯

神様、私たちの中に、イエス様のいのちを与えてくださり、ありがとうございます。

ときには、その花が咲かず、自分の成長を疑いたくなりますが、成長させてくださっているのは、神様でありますから、ありがとうございます。

私たちに与えられた変わることのない基礎のイエス様を、また私たちの内には聖霊様を与えてくださっていることをありがとうございます。

私に良いものを与え、計画を与えてくださっている神様をありがとうございます。

私たちも神様の養いの中、時がきたら、綺麗な花を咲かせるものとさせられていることを信じます。

私たちを主の思いのまま、この場所で成長させてください。

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“十字架の救いの確かさ”

イエス・キリストの十字架の“救い”の確かであることの話しです。

『すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、

ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによるあがないのゆえに、価なしに義と認められるのです。』新約聖書 ローマ人への手紙3:23.24

“救い”に関して、迷える人さんから質問がありました。

“救い”とはキリスト教用語みたいなものですが、どうやったら、神の子どもになれるか、新しいいのちが与えられるか、地獄ではなく、天国にいけるかと言うことです。

この“救い”に関しては、とてもシンプルです。

“イエス様の十字架が私のためであった”と信じるすべての人がその“救い”にあずかれます。

一つは、イエス・キリストの十字架のあがないは神様の前に“完全”であったからです。何のつけたしも必要ありません。

次にその“救い”に、信じる以外、人間側には何も要求されていないということです。

“ただ、神の恵みにより”とありますが、すべての人が、神様から見たらアウト(地獄に行き、裁かれる存在)だったのです。

ただ神様が、あわれみと一方的な恵みで、イエス様の十字架の備えをくださったのです。

もし、信じた後の神様への応答のあり方が問われたならば、皆、救われたのか救われないのか怖くて大変です。

再臨や最後の審判に備えなければ、泣いて悔しがるというような箇所があります。

そこをどう解釈するかはありますが、私は第1コリント3:12~15から、イエス様を信じた人は皆救われるがその通されかたが違うのかなと思っています。

ファイナルクエスト(リック・ジョイナー著)の幻の本を読んだことがあります。

個人体験の幻をどう信じるかは別として、天国とはこういうところかもしれないと教えられました。

そこに、「愚かな娘」が天国にいる話しが出てきます。天国の『最も小さなもの』としているという話しでした。

しかし、素晴らしい天国にいるのです。

何か私の中で納得しました。

“救い”に関して、イエス様の十字架に付け足してはいけないとガラテヤ人の手紙にもあります。

私たちは、イエス様の十字架の救いに立つべきで、何をしたから、しなかったから…ということで人を安易に計ってはいけないと思います。

だから、教会に行っていないから、何もイエス様のためにしていないから…とかということで“救い”が無くなるなどということは、全くありません。

“救い”とその次の“成長”の話しは全く別ものです。

人間は弱いので、目に見えることでいろんな判断をしがちですが、人間側の不確かではなく、神様の備えの確かさに目を向けないと、揺れてしまいます。

このイエス・キリストの救いの確かなことを心から感謝して受けられますように。

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2009年6月23日 (火)

“私の歩んだ教会たち”4・1珍事

会堂から教会が去り、残ったメンバーと新しい牧師で、スタートした話しです。

『ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全なおとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです。

それは、私たちがもはや、子どもではなくて、人の悪巧(わるだく)みや、人を欺(あざむ)く悪賢い策略により、教えの風に吹き回されたり、波にもてあそばれたりすることがなく、むしろ、愛をもって真理を語り、あらゆる点において成長し、かしらなるキリストに達することができるためなのです。』新約聖書 エペソ人の手紙4:13~15

会堂から教会がいなくなり、私たちはその会堂に残った。

何人か残った人や、いなくなったのを聞きつけて来た人たち10人ちょっとで、教会がスタートした。

やがて、外国の方が牧師として来てくれた。

が、残った人の中には、ひたすら自己顕示欲が強い方もいらして、昼ごはん作りが強制的に当番で回ってきたり、礼拝の中で、突然異言で祈り、牧師の霊的リードをかき乱したり、取っ組み合いのような女性同士の喧嘩があったり、珍事が続いた。

私は、赤ちゃんが与えられ、教会の珍事には殆んど関わることなく、子育てに守られていた気がする。

次々に教会から人々は悶着を起こしながら、出ていった。いまこそと思いつつ、自己実現が果たせず、牧師に怒りながら出ていった。

私たち夫婦は、初めの残り組の最後のメンバーになった。

が、私もまた、牧師の考えには苦痛を感じていた。

6年過ぎて、私たちもその教会を去ることになった。

牧師の最後のことばは、「この教会の牧師は私ですね。合わなかったら、どうぞ、合う教会に行ってください。」というはなむけのことばをいただいて。

その教会で良いこともあったと思う。宣教師の方と、地域の子どもたちを集めて、英語教室が始まったり、主人が賛美リードしたり。

けれど、私の中で、息子と過ごす毎日は幸せだったが、聖書も開かず、祈ることもしなくなっていた日々だったように思う。

♯♯♯

神様、いろんな人たちがいることを見せられた教会生活でした。

私にとっては、神様との関係も遠くなっていたように思います。

そんな中でも、英語教室を手伝えたり、あの場所で出会った一人の友人とは、今でも、大切な関係を保てていますから、ありがとうございます。

あの頃、私の慰めは、可愛い子どもでした。私の何が良かったか、悪かったかは良くわかりませんが、慰めを与えられていたことを感謝します。

その教会もやがて、たくさんの人が集い活気に溢れている話しを聞きましたから、ありがとうございます。

私にとっては、苦痛でしかない教会でも、誰かにとっては、素晴らしい教会になる…神様のバラエティーさをありがとうございます。

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“私は弱さを誇ります”

弱さについて、聖書から見てみました。

『だれかが弱くて、私が弱くない、ということがあるでしょうか。だれかつまずいて、私の心が激しく痛まないでおられましょうか。

もしどうしても誇る必要があるなら、私は自分の弱さを誇ります。』新約聖書 第2コリント11:29.30

私はどうしようもなく、弱い者だと、今、思わされています。

私はもともと弱かったのです。神様無しでは、ただ孤独と空虚さに漂っているものでした。

心が神様によって癒され、回復によって、元気な者、強い者にされた気がしていました。

が、聖霊様にあって、ひたすらどうしようもなく弱い者だと思わされています。

何をもって弱いというかというのがありますが、この世の中では、“弱さ”は歓迎されません。だから、人は強くあるようにしているのかもしれません。

しかし、パウロは、「どうしても誇る必要があるなら、私は自分の弱さを誇ろう。」と言っています。

これは負け惜しみとかではなく、イエス様にある人の本来の姿なのだと思います。

自分の弱さは何を生むでしょうか。

他者へのいたわり、優しさ、共感、同情、慰め、支えなどです。

世の中では否定されがちな“弱さ”ですが、イエス様の世界では歓迎されるものだと思います。

パウロは宣教にあっては考えられない苦難を通りました。

しかし、人の弱さを知っていました。教会の心づかいの中で、だれかがつまずいたら、激しくともに痛む心がありました。

自分を強いと思っている人は、人の弱さに共感できません。自分にある弱さを所有していないので、人の弱さも見たくない、受け入れたくないのです。

私も今、どうしても誇る必要があるなら、自分の弱さを誇り、人と痛みを共有するものでありたいと思います。

自分が弱い者であったのを忘れかけていましたが、聖霊様が見せてくれる私の本来の姿を歓迎しています。

『しかし、主は、「わたし(イエス)の恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである。」と言われたのです。

ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。』第2コリント12:9

♯♯♯

神様、私は弱い者です。実はあなたがいてくださらなければ、生きていくことすらできないものでした。

こんなに弱い私を愛し、支えてくださり、ありがとうございます。

この世の中にあって、弱さは否定されますが、イエス様の世界は違います。

イエス様ご自身が神様であられたのに、無力な者となってくださいました。

私たちは弱いそのままで受け入れられ、その弱さにイエス様の力が現れるようにしてください。

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2009年6月22日 (月)

“握っている手を開けますように”(語りかけ)

握っているものを手放させられた私の証と、Setsuさんの神様からの語りかけです。

『私たちが滅びうせなかったのは、主の恵みによる。

主のあわれみは尽きないからだ。

それは朝ごとに新しい。

「あなたの真実は力強い。主こそ、私の受ける分です。」と私のたましいは言う。

それゆえ、私は主を待ち望む。』旧約聖書 哀歌3:22.23.24

立派な会堂から教会がなくなり、私は途方にくれました。

ある教会の賛美礼拝に行き、そこで神様に話かけました。

「神様、私は教会奉仕が大好きでしたが、奉仕どころか、教会まで無くなってしまいました。」

すると、神様は言われました。

「これまでの数々の苦しみは、あなたが握っているものを手放すためだよ。」と。

私は何かを握ってました。それを払われたのです。手を開いてみると、何もないのではありませんでした。

その日から、私は「主こそ、私の受ける分です。」と神様を喜び始めました。

仕事も辞めさせられ、教会もなく、何もないような時期でしたが、生まれて初めて鳥のさえずりに、「神様、鳥の鳴き声がきれいですね。」と言えました。

私の握っていたもの、それは“私の神様にある働き”でした。

神様におまかせしたとき、神様だけが喜べるようになりました。

昨日、Setsuさんが、コメントで、皆さんあてに、神様からの語りかけを書いてくれました。

書き写します。お一人お一人に慰めがありますように。

「神様は私たちの心が何を必要か知っておられます。

何に渇き、何につまづき、何に泣いているかも。

あなたが握っているその手を一度、神様の前で開いてみてください。

あなたの手は、引き裂かれて穴の空いた神様(イエス様)の手を握ることができます。

あなたが隠しているその心の目を、神様の方へ向けてみてください。

神様の心に、あなたのことがしっかり焼き付かれているのを見ることができます。

あなたがまだ形もなかった頃、神様の心にあなたがいて、神様はずっとあなたに思いを焦がしていたことを、あなたのすべての心の傷に深く染み込ませることができるでしょう。」

Setsuさんはここに来られる方々、コメントする方も、そうでない方のためにも祈っています。

ettuさんもここに取り巻く人たちのため、与えられた霊的祈りで祈っています。

私もお二人と同じく、ただ皆さんの霊的祝福を心から祈っています。

この小さなブログを通しても、距離や空間を越えて、神様のよいものを分かちあえますことを願っています。この思いが、祈りとともに、ここに来てくださる皆さんに届きますように。

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“私の歩んだ教会たち”3‐3・会堂残る

教会がその立派な建物から出ていった話しです。

『私は一つのことを主に願った。私はそれを求めている。

私のいのちの日の限り、主の家に住むことを。

主の麗しさを仰ぎ見、その宮で、思いにふける、そのために。』旧約聖書 詩篇27:4

賛美に満ち溢れた教会には、笑いがあり、人々は生き生きしているかのようだった。

結婚式に来てくれた、前の教会の友人が言った。

「この教会は、賛美の天使たちが集まっている。だけれど、戦う戦士がいない。」と。

牧師の過ちは、多分教会全体の責任でもあり、特に牧師の近くにいる人たちが、「イエスマン」ではなく(何でも、「はい、はい」と聞かずに)間違ったことは、信頼関係のもとにハッキリ教えてあげることが、責任としてあるのだと思う。

牧師は幾つかの間違いをした。人間、誰でも間違いも、過ちもある。だから、それは、とても大きな問題ではないかもしれない。

教団からは、その間違いを認め、牧師を3か月ほど謹慎し、牧師を休んでくれと言われたらしい。

が、その話しを蹴って、何の謝罪もなく、その美しい立派な会堂を出ていった。

信者の6割はついていったと思う。

私は内情を良く知っていたので、ここでお別れだと思った。

サタンは牧師を攻撃する。牧師しか経験しない誘惑があるのだと思う。

それを支えるのが、信徒であり、まわりにいる人たちなのだと思う。

教会は民主主義、多数決の世界でないと良く言われるが、牧師がすべての教会の実権を握っているのではないと思う。(これはただ私の考えだけれど。)

牧師は霊的指導者として、人より託されているものが多いかもしれないが、より神様の声を聞くと同時に人の声を同じくらい熱心に聞くものだと思う。

なぜなら、神様から語られたことを、どんなことを考えているかその聴衆に噛み砕いて、語るのが牧師の仕事だと思うから、どちらの作業も大切だと思う。

そして、その託された一部を、他の部分が支え、補うのが教会かと思う。

あのとき、私は教会が去っていったことに悲しくて、何日か泣いていた。

あのときは、私にもその責任の一部があったことには、思い至らなかった。

♯♯♯

神様、人は皆弱いです。

牧師は特に霊的攻撃を受け、様々な誘惑に合います。

あのとき、私が教会のため、牧師のために祈れなかったものであることを赦してください。

私たちの戦いは血肉(けつにく)によらず、霊的な戦いです。

私たちが、人が人を裁いたりすることをサタンは手を叩いて喜んでいます。

私たちの中に裁く心でなく、赦す心を与えてください。

私たちは誰でも間違います。間違いが問題なのでなく、裁く思いや隠す心が問題なのです。

イエス様にあって、私たちが一つとなり、弱く間違いやすい中にこそ、イエス様の愛が現れ、人々が神様を崇めるようにさせてください。

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“聖霊の小川を泳ぐメダカたち”

聖霊様の小川で泳ぐメダカたちを思いました。

『この川が流れて行く所はどこででも、そこに群がるあらゆる生物は生き、非常に多くの魚がいるようになる。この水がはいると、そこの水が良くなるからである。この川がはいる所では、すべてのものが生きる。』旧約聖書 エゼキエル書47:9

昨日、礼拝の中で、小さな小川を思い出しました。それは幼い頃よく遊んだ、田舎のおばあちゃんの家の畑の近くを流れる小川です。

幅2〜30センチの小さな小川にメダカが可愛らしく群れをなして泳いでいました。

今、メダカはあまり見かけなくなったと言われます。

メダカは本当にきれいな水の中でしか生きることができず、今は環境的にそういうところが少なくなったのだと聞きます。

私のような弱さを抱えたクリスチャンは、小川のような水の中でしか生きられないのかなぁと思ったりしました。

きれいな水とは、聖霊様の中のことです。

そこに何か人間的なものが混じってしまうと、たちまちアプアプして苦しくなってしまうのかなぁと。

けれども、聖霊様は私たちの中にもいてくださいます。

私の中のおられる聖霊様が喜んで、自由に働かれるよう、私の心もまた、イエス様の十字架によってきれいにしてもらっていたいと思いました。

お祈りします。

「神様、私たちにイエス様の十字架の赦しによって、聖霊様を内に住まわせてくださることをありがとうございます。

聖霊様がいてくださらなければ、神様が聖書を通して何をいいたいのか、私にはわかりませんでした。

聖霊様が働いてくださらなければ、2000年前の十字架が自分のためと受けとることができませんでした。

聖霊様は、私の内に住まわり、優しく慰めとあわれみをもって、私の罪を示し、きよめてくださいますから、ありがとうございます。

教会が、私にとって居心地がいいばかりでないのは、私の場合、とても弱さを抱えているからかもしれません。

けれども、きよい聖霊様の流れの中に、憩い、喜び、楽しめる恵みをありがとうございます。

メダカのように、混ぜものがあるところでは生きにくいのかもしれませんが、あわれみの中で生かし続けてくださることを感謝します。

どうぞ、同じ聖霊様のきよい川で、私たちを憩わせ、楽しませ、喜ばせてください。

イエス様のお名前によって祈ります。

アーメン」

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2009年6月21日 (日)

“神がまず私たちを愛された”

教会の外の方のために書きました。

『神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。

私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちのために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。』新約聖書 第1ヨハネ4:9.10

この日曜日の朝、おはようございます。

この時間帯は、教会に行って礼拝されている方もいます。

が、天地を造られ、私たちに命を与え、私たちひとりひとりに計画を持たれておられる神様は、すべての人の神様です。

信じていようが、いまいが、良いことをしていようが、悪いことをしていようが、すべての神様です。

そして、神様はすべての人に等しく神様の恵みを提供したいと願っています。

“私たちが神を愛したのでなく、神が私たちを愛し…”

実は、このメッセージがとても大切です。

もしこのような箇所を抜きにして、聖書を読むと、ただの良い人作りの本、“善行と頑張り”だけの本になります。

それは、私にとっては、恐ろしいことです。この世の中の、努力、善行、意志の強さ、選択する力、頑張る世界…そういったものから、しっかりとこぼれ落ちた人間だからです。

そのことをまた、神様の世界でさせられるとするなら、ゾッとします。

聖書に書かれてある世界は、“まず神様からひたすら良いものを受けなさい。”という世界です。

この箇所の前後に“愛し合いなさい”と繰り返し書かれてあります。

私は自分の力で人を愛することはできません。

愛せるだけの神様の愛情をまずたくさんいただくことだと思います。

私は聖書にあることができないとき、無理しません。

というか、ほとんどのことができない者です。

そして、そのような自分を認めます。「イエス様、ごめんなさい」とイエス様のところに行きます。

そして、そんな弱い私をイエス様に包んでもらいます。

イエス様は「大丈夫だよ。あなたの弱さの責任は私が十字架で負ったから。」と言ってくれます。

私は、イエス様と一緒にいる中でたくさんのあわれみを感じ、慰められるのです。

そして、その弱さに慰めとあわれみというベールが包まれていくのを感じます。

愛された、赦されたことに嬉しさがいっぱいになります。

そして、「イエス様、ありがとう。あなたのお役にたちたいです。」となるのです。

私が今、良く賛美する歌の歌詞を載せます。まさに私の今の心境です。

♪罪と恥にまみれた心 けがれなき血で洗ってくれた 打たれ流れた血しおは 私の罪をゆるすため

差し出す何も持たないけれど この手足をささげます

今 天を見上げて立ち上がる 主のまなざし 受けながら

力無くし 流れる涙 刺されたみ手で ぬぐってくれた

数えきれない 主の傷あとは 私をとわに 生かすため

差し出す何も 持たないけれど 歌をもってたたえます

今天を見上げて 立ち上がる 愛と力 受けながら ♪♪

皆さんの上に、このイエス様の慰めと優しさが満ちあふれますように祈ります。

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不当なラバンに仕えた“ヤコブ”

叔父ラバンのもとで、ヤコブは苦しみながら20年間仕えました。

『私(ヤコブ)はこのこの20年間、あなた(ラバン)の家で過ごしました。14年間はあなたのふたりの娘たちのために、6年間はあなたの群れのために、あなたに仕えてきました。それなのに、あなたは幾度も私の報酬を変えたのです。

もし、私の父の神、アブラハムの神、イサクの恐れる方が、私についておられなかったなら、あなたはきっと何も持たせずに私を去らせたことでしょう。

神は私の悩みとこの手の苦労とを顧みられて、昨夜さばきをなさったのです。』旧約聖書 創世記31:41.42

兄エサウを差し置いて、父をだましたヤコブ。

自我が強く、狡猾だったヤコブは、叔父ラバンのもとで、20年間仕えることになる。

ラバンはヤコブの上をいく、ずるい人だった。

ヤコブが娘ラケルをお嫁にもらうため、7年間仕えたが、長女レアを与えられた。

ラケルのため、さらに7年間仕えた。

二人の妻のため、子どもの誕生に関して、ヤコブは苦労する。

また、ラバンは幾度もヤコブへの報酬を変えてきた。

ヤコブはラバンに対して不信感を抱いていた。

そんな中で、神様はヤコブに「生まれた国に戻りなさい。」と語られる。

ヤコブはすぐさま、ラバンに内緒で、家族たちを連れて出ていく。

そして、追いかけてきたラバンに、20年分の思いをヤコブは話す。

神様が、ラバンに途中で夢に現れ、「ヤコブと事の善悪を論じないように。」と話す。神様の介入である。

ヤコブは、そのことによって、無事、ラバンと別れていくことができた。

20年の月日は長い。しかし、自分の損得しか考えないようなラバンに対して、ヤコブは誠実に仕えた。

何度も、その偽りの態度に嫌気がさしたことだろうが、我慢した。

そんな中で、神様はともにいてくださり、ヤコブの財産も増やし、子どもたちもたくさん与え、祝福してくれた。

ヤコブが、ラバンに仕えている間、神様に祈った記事はないが、苦しい不当さを感じる中、ヤコブは神様に信頼することを学んでいったのだと思う。

だから、「あなたの生まれた国に帰りなさい。」と神様から言われたとき、ヤコブはすぐに行動に移した。

「神様がいなかったら、私は何もなかっただろう。神様が私の悩みとこの手の苦労を顧みられて、ラバンに介入した。」という告白に至る。

ラバンは最後まで、ずるかった。ミツパの協定においても、ヤコブを見張る…不信感を持ち、ヤコブの立てた石塚を自分の業績にした。

そんなラバンでのもとであったが、ヤコブがそこで、訓練され、神様を信頼するに至らせられた。

そんなラバンのもとで、ヤコブを祝福し、生活の中に介入された神様であった。

私たちも、この人がもっと誠実な人だったらなあとかと良く思う。しかし、神様がヤコブに約束されたように、苦しい中で私たちにも語ってくださるのである。

『見よ。わたしはあなたとともにあり、あなたがどこへ行っても、あなたを守り、あなたをこの地(神の約束の地)に連れ戻そう。わたしは、あなたに約束したことを成し遂げるまで、決してあなたを捨てない。』創世記28:15

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2009年6月20日 (土)

ノンクリスチャンの友へ

ノンクリスチャンの私の友人あてです。

『だれでも誘惑に会ったとき、神によって誘惑された、と言ってはいけません。神は悪に誘惑されることのない方であり、ご自分でだれを誘惑なさることもありません。

人はそれぞれ自分の欲に引かれ、おびき寄せられて、誘惑されるのです。

欲がはらむと罪を生み、罪が熟すると死を生みます。…

すべての良い贈り物、また、すべての完全な賜物は上(神)から来るのであって、光を造られた父(神)から下るのです。父には移り変わりや、移り行く影はありません。』新約聖書 ヤコブの手紙1:14~17

こんにちは。もし、私の友人が、この記事を読んでくれていたら、嬉しいです。

私は去年の7月から、このブログを始めました。私の友好関係はほぼ9割、ノンクリスチャンの方たちなので、その方たちのために始めました。

まわりの友人にも、ブログの名刺を配りまくりました。

ところが、この5月からかなり込み入ったキリスト教の話しになっています。

読んでくれているノンクリスチャンの方には、キリスト教実態に戸惑っているかなぁと思っていますf^_^;

もっと明るく楽しい話しだといいのですが…。

この前、久々ランチした友人からは、「クリスチャンって教会に言っている人ではなかったの?」と素朴な疑問をいただきました。

「イエス様を神様と信じて、その十字架と復活を私のためと信じる人だよ。」と説明しました。

今日も、メールで、「カルトというと新興宗教だけかと思ったけど、ちゃんとしたキリスト教でもカルトがあるのに驚き!!」とメールいただきました。なんか、教会を知らない人にはキリスト教の怖い部分を伝えているみたいですみませんm(_ _)m

でも、率直な感想は凄く嬉しいです。

カルト教会について、弁明させてもらいたいと思います。

神様は完全な方で、慰めに満ちた光なる方です。

でも、人間って、みんな弱いんですね。良いものを信じていても、その人にある弱さのゆえに、聖書とはかけ離れたところに行ってしまうこともあるのです。

クリスチャンでもそうです。愛なる神様に生かされているはずなのだけど、その本質からずれると、人を裁いたり、見下したり、違う世界に行ってしまうのです。

私自身もまた、間違いだらけの弱い人間なので、そのずれやすい人間の性質が良くわかります。

旧約聖書などには、正しい神様の前に、ひたすらずれていくイスラエルの民の歴史を通して、誰もがもつ人の弱さが書かれています。

聖書の素晴らしいところは、絵に書いた餅のような美しい抽象論が書かれてはいないことです。どうしようもない、人間の愚かさ、足りなさがなまなましく書かれてあります。

そんなどうしようもない人間に神様はどうやって救いの手を差しのべてくれたかが書かれてあります。

だから、綺麗ごとだけ言う教会は嘘っぱちかもしれません。(批判的ですみません)

一度、ノンクリスチャンに私の思いを伝えたいなぁと、常々思っていたので、書けて良かったです。

いつでも個人的に質問受け付けますよ♪

込み入った話しなのに読んでくれて、ありがとう。神様にある祝福を祈ります。

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“私の歩んだ教会たち”3‐2・結婚式

私たちはたくさんの教会員の方々に労していただき、素晴らしい結婚式をあげることができました。

『あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。

そして、神は教会の中で人々を次のように任命されました。

すなわち、第1に使徒、次に預言者、次に教師、それから奇跡を行う者、それからいやしの賜物を持つ者、助ける者、治める者、異言を語る者などです。』新約聖書 第1コリント12:27.28

10人位で始まった教会は、たちまち人が増えた。

新しい立派な会堂も建った。

60人ぐらいの礼拝は、素晴らしい。賛美リードがいて、バンドがあって、それぞれの得意分野で、皆教会に仕えていた。

沢山集っているということは、賜物も多様にあるということだ。

そんな新しい会堂で、私は主人と結婚式、披露宴をしてもらった。

私たちは、貧乏だったので、すべてが教会の方々の手作りだった。

結婚式での奏楽、カメラマン、ビデオ取り、すてきなお花の飾り。披露宴でのプロなみの演奏者、手作りウェディングケーキ、私と主人の出会いを作った寸劇の役者…、披露宴でのティーパーティーのお菓子。沢山の人たちの手によって、結婚式をしてもらった。

そこには、たくさんの労力と祈りとお金がかけられていたのを今、思う。

親族、友人たちや前の教会でお世話になった方々を呼んでの結婚式、教会員も参加してくれ、100人位の盛大な結婚式になった。

あれが、私が大勢の方にお世話になった最後になる。その一年後には、輝いていたはずの教会は、立派な建物を残して、いなくなってしまった。

たくさんの人に祝福された結婚式、今はクリスチャンと出会うことも少なくなり、あの頃、神様がしてくださった不思議を思う。

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神様、あなたがひとりひとりに良いものを与えてくださってありがとうございます。

私たちの結婚式イベントには、本当にたくさんの方々が関わってくださったことをありがとうございます。

あの結婚式は、今の私にとっては、キリストのからだの多様性の素晴らしさでした。

神様、お世話になった方々とは、今は交流もなく、感謝をお返しすることができませんが、神様、心からありがとうございます。

そして、神様はあのように、イエス様にあって一つで、多様性をもって喜んでいく教会を望んでおられるのを思います。

そのような教会にたくさんの人たちが連なって喜べるようにしてください。

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“多く赦された者が多く愛する”

“悔い改め”とは、と考えました。

『すると、その町にひとりの罪深い女がいて、イエスが、パリサイ人の家で食卓についておられることを知り、香油(こうゆ)のはいった石膏(せっこう)のつぼを持って来て、泣きながら、イエスのうしろで御足をぬらし始め、髪の毛でぬぐい、御足に口づけして、香油を塗った。…

「…だからわたし(イエス)は言うのです。『この女の多くの罪は赦されています。というのは、彼女はよけい愛したからです。しかし少ししか赦されない者は、少ししか愛しません。」』新約聖書 ルカによる福音書7:36~50

聖書に出てくることばや、キリスト教用語と言われるものは、いろんな形で使われすぎて、その本来の持つ印象や意味合いが違ってくることがある。

最近、私は“悔い改め”ということばをよくブログで使う。これまでの私の信仰生活には、縁遠かったことばだ。

何故、縁遠かったというと、自分の罪や蒔いた種で、結果、神様から直接砕かれてしまうことを繰り返してきたので、“悔い改め”などということばを使う前に悔い改めにいたらせられた。

今は、“悔い改め”を待ち望んでいる。が、もっと、ふさわしいことばがあるといいかもしれない。

もし、“悔い改め”を日頃、誰かに強要されている人にとっては聞きたくないことばだと思う。

“悔い改め”は、人から言われてするものではない。聖霊様が私の深いところを探ってくださり、そこに光を照らされ、もともとあったものに気がつかされることだと思う。

私は、自分の弱さを神様からと人から赦してもらい、受け入れてもらったのだなぁと思ったとき、この“罪深い女”のことを思い出した。

彼女は世間体においては明らかに不道徳だったかもしれない。

しかし、そんな女を軽蔑するパリサイ人の心をイエス様は知っていた。

「彼女は多く赦されたから、多く愛しました。」と言われた。

正しいイエス様から見たら、目に見える不道徳も、パリサイ人の人を見下す心も同じ罪なのである。

ただ、違うのは、自分の内にあるものを認め赦されたか、気がつかずにいるかの違いなのである。

イエス様は自分の心に気がつかず、女を見下すパリサイ人、シモンに言われた。

『この女を見ましたか。わたしがこの家にはいって来たとき、あなたは足を洗う水をくれなかったが、この女は、涙でわたしの足をぬらし、髪の毛でぬぐってくれました。

あなたは口づけしてくれなかったが、この女は、わたしがはいって来たときから足に口づけしてやめませんでした。

あなたは、わたしの頭に油を塗ってくれなかったが、この女は、わたしの足に香油を塗ってくれたのです。』ルカ7:44~46

イエス様は、皆等しく赦されるべきものがあるが、その赦しを多く受け取ったものが、イエス様への愛の応答が違ってくることを話された。

してみると、“悔い改め”というと、なんとなく固いが、“多く赦され、多く愛するものとなるため、聖霊様、赦される罪を示してください”というのは、今の私の願いに合っているなぁと思った。

多く赦されたい思いすら、神様から来ているのを思う。この後も、“悔い改め”ということばを、使うかもしれないけど、このような意味合いで使いたいと思った。

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2009年6月19日 (金)

“カルト化教会の痛み”3・孤独な回復の道

カルト化教会を出た人たちは、そこからまた、孤独な道を歩みます。

『見よ。わたしはあなたとともにあり、あなたがどこへ行っても、あなたを守り、あなたをこの地に連れ戻そう。わたしは、あなたに約束したことを成し遂げるまで、決してあなたを捨てない。』旧約聖書 創世記28:15

私の友人は、10年程、カルト化していく教会に属していた。

そこを出たときは、いろんなコントロールから解けず、苦しんでいた。

心も信仰も回復するためのリハビリ期間は少なくとも3年位かかると、専門の方から言われた。

新しい健全な教会に通い始めたが、孤独であった。家庭で、親から虐待を受けた人は、そうでない人にいくら話しをしても理解されない。

同じように、特殊なところを通されたので、その苦しみは、同じ信仰のことであるのに、誰にも理解されない。

本には、「その牧師がおかしかったことを理解できなかったあなたが悪い。」と責められてしまうこともあると書かれていた。

いろんなコントロールがすぐ解けないので、その言動も奇異に見えるときがある。偏見や疎外感に苦しむ。

そのような人たちがどのような孤独をもって、感情があらわれるか、「信仰という名の虐待」の本から書き写す。もし、近くにそのような方がいたら、私たちは、その苦しみを理解しきれなくとも、寄り添い、共に祈るものでありたい。

「・自尊心を失う

・自分自身を失う
・自分が無力な人間であると感じる

・強い罪責感を感じる

・怒りと欲求不満を感じる(多くの時間と可能性を失ったので)

・恐怖と混乱を感じる

・マインド・コントロールされていたため、自分で考えて、決めることがなかなかできない

・だれかに依存したい、自分の代わりにだれかに決めてほしい

・キリスト教、教会、聖書、神に対して、強い反発や拒否を感じる(個人差がある)

・人に対して不信感を感じる(人を信じられない)」

###

神様、神様の尊いお名前を使って、人をマインド・コントロールし、人々に深いダメージを与えるカルト化教会の罪を赦してください。

神様、そこから出て、なお、苦しむ人たちを助けてください。

私たちは、その“信仰の虐待”された経験者ではありません。

本当に理解が足りなく、かえって突き放してしまうものであることを赦してください。

リハビリの道を歩んだ私の友人に、ときに私は冷たかったと思います。

彼女の苦しみを理解しようとしなかった私を赦してください。

その回復の道を歩んでいる人々たちに、神様、「わたしはあなたを捨てない」と語り続けてくださり、あなたとの麗しい関係を、主によって回復させてください。

その歩みを確かにしてくださり、弱いときも、守り導いてくださる主とともにありますようにしてください。

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“天からのはしご”(創28:12)

天からはしごがかけられ、私たちの思いを知ってもらい、神様が語ってくださることを感謝します。

『(ヤコブが)ある所に着いたとき、ちょうど日が沈んだので、そこで一夜を明かすことにした。彼はその所の石の一つを取り、それを枕にして、その場所で横になった。

そのうちに、彼は夢を見た。見よ。一つのはしごが地に向けて立てられている。その頂(いただき)は天に届き、見よ、神の使いたちが、そのはしごを上り下りしている。』旧約聖書 創世記28:11.12

ヤコブは一夜にして、命からがら、家を逃げるように出てきた。

母リベカに言われるまま、カランのおじさんのところに旅立つ。

これから自分はどうなっていくんだろうか…迫ってくる孤独と不安の中、ヤコブは、日が沈んだ場所で、寝ることにした。

すると、夢を見る。はしごが、はるかかなたから、地に向けて立てられている。

そして、神の使いたちが、そのはしごを上り、そして下っている。

この箇所は、私も大好きな箇所である。

悲しみや苦しみや孤独や不安、心配の中、祈りのことばも出てこないそんなうめきの中、神様は祈りというはしごを天から地に向けてかけてくださる。

そして、み使いたちは、私たちの祈りや思い、願いをはるかかなたの神様まで届けてくださる。

そしてみ使いは、その答えを地にいる私たちまで持ってきてくれる。

“祈り”…地上の中が混沌としていても、いつも天は開かれていて、神様は私たちの思いを聞いてくださる。

なんと慰めに満ちたことか。

神様ご自身は、ヤコブのすべてを知っていた。そして、その心の深いところに語られた。

「私はあなたとともにあり、どこへ行っても、あなたを守りあなたをこの地に連れ戻そう。わたしは、あなたに約束したことを成し遂げるまで、決してあなたを捨てない。」

不安と孤独の中、神様が、ともにおられ、守り、見捨てないと語ってくださったのである。

眠りからさめてヤコブは言った。「まことに主がこのところにおられるのに、私はそれを知らなかった。」

神様がともにいてくれることをヤコブは知った。このとき、ヤコブは、神様を個人的な関係の中で知った。

“祈り”それは、願いを聞いてもらう手段ではない。

それは、神様と私たちの語らう場所であり、神様を私が知る場所であり、神様をほめたたえる場所である。

イエス様は、私たちのために、天におられる神様と私のかけ橋となってくださった。

私は悲しいとき、泣きながら神様に話しを聞いてもらう。

嬉しいとき、笑いながら神様と話しをする。

悩むとき、解決をもっている神様のところへいく。

神様との語らいは何よりも慰めであり、神様の語りかけが私を生かしてくれる。

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神様、あなたから私たちに語りかけてくださる慰めを思います。

神様は、ヤコブの心のうちをご存じだったように、私たちの思いを知り、励ましてくださいますからありがとうございます。

私たちの地上において、あなたを知れる幸いを与えてくださり、ありがとうございます。

今、神様との語らいを必要とする人に、天からのはしごをかけてくださり、語ってください。あなたを現してください。

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2009年6月18日 (木)

“カルト化教会にいる人への祈り”

カルト化教会にいて苦しむ人々、そこを出て回復の道を歩いている人々のため、祈ります。

『主のもとに来なさい。主は、人には捨てられたが、神の目には、選ばれた、尊い、生ける石です。

「見よ。わたしはシオンに、選ばれた石、尊い礎石を置く。

彼に信頼する者は、決して失望させられることがない。」』新約聖書 第1ペテロの手紙2:4.6

「天のお父さん、イエス様は、悲しみのところに喜びを、嘆きのところに希望をもたらすために来られました。

けれども、人間の支配欲、顕示欲、そういったものが、神の名前を使って、全く違うことをし、人々を苦しめています。

人間のこの限りない欲望を赦してください。

人々は、神様に喜ばれる熱心で、今、神様以外のものにコントロールされ、苦しんでいます。

どうか、神の名前を使っても、そこに安心や喜びや慰めやあわれみといった良いものがなかったら、それは、イエス様の世界ではないことを知ることができますように助けてください。

巧みにコントロールされているので、苦しいことすら、祝福のためのサタンの攻撃だと言われます。

教会から出たら、祝福されず、呪われると言って、脅されます。

苦しいのに、恐れのため、そこから出ることが出来ません。

パソコンやこのようなブログからも正しい情報を得ていけますよう助けてください。

イエス様の世界は恐れで縛られる世界ではありません。

本当のイエス様のもとに導いてください。

まだ、出られた方たちは、たくさんのダメージで、いろんなことが判断できなくなっています。

時間がかかっても、ゆっくりと受け入れられる環境で、自分を取り戻していけますように。

カルト教会にいた人が裁かれませんように。彼らも犠牲者だからです。

コントロールが解けずに、変なことを言っても、受け入れられる中で回復するので、そのような環境を与えてください。

イエス様の楽しみと喜び、自由と慰めが満ちますように。

イエス様のもとには、決して失望させられないことを感謝します。

人間的な欲望の組織を打ち砕き、教会に、人々にイエス様がきてくださいますよう祈ります。

イエス様のお名前によって祈ります。アーメン。」

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“カルト化教会の痛み”2

カルト化教会の特徴です。

『しかし、あなたには非難するべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった。

それで、あなたは、どこから落ちたかを思い出し、悔い改めて、初めの行いをしなさい。

もしそうでなく、悔い改めることをしないならば、わたしは、あなたのところに行って、あなたの燭台(しょくだい)をその置かれた所から取りはずしてしまおう。』新約聖書 黙示録2:4.5

姉が通っていた教会は、真面目な信仰を持った人たちの素朴な誠実な教会だった。

姉は今でも、信仰の“いろは”はその教会で教えてもらい、養われたと感謝している。

そんな小さな教会だったが、牧師婦人の預言が始まり、変な雰囲気になっていった。

無駄口を慎むとか、横の信徒どうしの親しい交流を避けるとか。

その方は、一にも二にも、謙遜が大事と言っていたらしい。

聖書に聞いていき、答えがないと動かない…そんな傾向はあったが、何故、あの方がカルト化の道をいったのか、とても不思議に思う。

カルト化教会の特徴をパスカル・ズィヴィーは、「“信仰 ”という名の虐待」の本で次のように言う。

「“信仰”という名の虐待」のメカニズムとして5つある。

1、恐怖、脅し

信者たちを支配するために、恐怖、罪責感と脅しを使います。どんな命令でも、信者たちは、牧師に従わなければなりません。…少しずつ、牧師や教会に対して批判する能力がなくなり…最終的に、牧師と教会に全く依存するようになってしまいます。依存すると信者たちは、牧師と教会の精神的な支えを失うことに対する恐怖が大きくなる。自分で、判断することが難しくなる。

2、愛のシャワー

牧師に出会った時の印象は、それまで出会ったこともないようなカリスマ的存在で、霊的で、優しく、情け深く、理解のある人物と思います。…破壊的カルトの中でよく使われる「ラブ・ボミング」(愛の爆撃)、あるいは「ラブ・シャワー」(愛のシャワー)というテクニック。好意の雨をふりそそぎ、ほめます。

3、罪責感

愛のシャワーを浴びた人たちは強い義理を感じるので、本心を伝えることが難しくなります。質問や批判に対しては、罪責感を起こさせます。

4、告白の儀式

信者の人格を無視し、牧師、教会の意向に沿わない思想、感情、行動をすべて告白しなければならないと要求し、個人のプライバシーをすべて奪います。…心が解放されるよりも、自責感に苦しみ、無意識に合わせなくてはならないと感じるようになります。

5、人を奴隷化する権威主義的構造

人間関係がピラミッド型になっています。横の関係が全く許されず、縦のつながりのみ重視します。信者は牧師の許可がなければ、どんなことも決めることができません。密告があり、管理されます。福音のため、ビジョンのためということがあります。

何故、イエス様の愛で始まったことが、人間の欲望の統率になるのだろうか。

まさに、“初めの愛”イエス様ご自身がいなくなったところに悲劇が起こるような気がする。

神様、今もカルト教会は存在し、多くの真面目なクリスチャンが神のためと、コントロールされ、苦しんでいます。

イエス様からくるものは、赦しとあわれみ、癒しと自由、安心と喜びです。

イエス様自身がいる教会、人々へと変えてください。

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“墓にはいないイエス様”

よみがえられたイエス様とともにあることを思います。

『恐れてはいけません。あなたがたが十字架につけられたイエスを捜しているのを、私は知っています。

ここにはおられません。前から言っておられたように、よみがえられたからです。

来て、納めてあった場所を見てごらんなさい。』新約聖書 マタイの福音書28:5.6

私は、先に証したが、大学の同窓会で、一連の私のうちにあるものを見せられ、神様に悔い改めるに至った。

が、何故か2日位、私の中で“恥ずかしい”思いが取り去ることができなかった。

重く心の中に、“恥ずかしい自分”が沈んでいるような感じだった。

昨日の朝、なんかすっきりとした。ただ、ただ、神様を礼拝した。

イエス様は十字架で、私の罪のために、刑罰を受けて、死なれた。

そして、3日目によみがえられた。いきかえられた。

マリアたちが墓に、イエス様の死なれた体を見に行くと、そこにイエス様はおられなかった。

よみがえられた。

「イエス様はよみがえられました。この墓にはおられません。」(マルコ16:6)とみ使いは言った。

そして、この十字架にかけられ、3日目によみがえられたイエス様を信じるものは、この死とよみがえりを体験する。

私は深いところで、“恥ずかしい”と感じる罪を十字架につけ、そこに共に死んだ。

そして、イエス様のよみがえりのように、新しいいのちがよみがえってきた。

今、私たちは、よみがえられたイエス様とともにいる。

その私の内にある霊的な世界においては、古い人に死に、イエス様のいのちをいただいて生き返った。

私の古い人は死んだか、大丈夫か…墓場にいって確認する必要はないのである。

この日々、イエス様の復活のいのちにあることを感謝したい。

『私は、キリストとその復活の力を知り、またキリストの苦しみにあずかることも知って、キリストの死と同じ状態になり、どうにかして、死者の中から復活に達したいのです。』ピリピ3:10.11

###

天のお父さん、私たちは、イエス様の十字架の死にあずかり、日々、古い人に死んで、新しいいのちに生きるものとされていることをありがとうございます。

古い自分は、イエス様の十字架で死にました。

死んだのを、わざわざ墓に戻って見に行くことがありませんように。

そして新しいいのちを与えられたことを感謝し、そのいのちに生きるものとしてください。

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“私の歩んだ教会たち”3‐1・恵みの教会

教会で神様の恵みをひたすら感じた3年間でした。

『おとめイスラエルよ。わたし(神)は再びあなたを建て直し、あなたは建て直される。』旧約聖書 エレミヤ書31:4

新しく通う教会の近くに、私は引っ越しをした。

引っ越し先は、お金も何も無く、今にも崩れそうなボロアパートだった。

が、礼拝は楽しかった。

賛美はワーシップソングになり、賛美の中に、神様の臨在をいつも感じた。

聖霊様が、私の心にシャワーの慰めを毎回くださり、私は礼拝ごとに、その慰めに泣いた。

号泣になり、トイレに駆け込んで、泣くこともしばしばあった。

その頃、この聖書のことばを見つけて、紙に書いた。

私の内に、心の癒しが起こると信じられた。

新しく覚えたワーシップソングを昼も夜も賛美した。

バイト先の仕事場でも、トイレに行くたびに、そこであふれる思いを賛美した。

礼拝メッセージのテーマは、“恵み”だった。神様が一方的に私たちを赦してくれるメッセージを私の霊は喜んで聞いた。

すべてが、順調のような信仰生活だった。

開拓のようなその教会に、人々は増え、新しい会堂を建てるに至った。

私の信仰生活も、教会もすべては順調かのようだった。

この2年後に、この教会が、いろいろな問題が起こり、この立派に建てられた会堂から教会の人たちが出ていくことになるとは、あの頃、誰もが想像しなかった。

###

神様、ワーシップソングの礼拝の中で、私はたくさんの慰めを受け、癒されていった、そのことをありがとうございます。

賛美の内に住まわる神様を体験する日々でしたから、ありがとうございます。

聖書の話しも、神様の恵みが中心で、慰められました。

短い期間でしたが、その教会で、私は恵みの神様、恵みのメッセージ、慰めの霊をたくさん経験できて、ありがとうございます。

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2009年6月17日 (水)

エサウの“殺人未遂事件”(創27)

人間の弱さを越えて、神様の愛とその選びと計画は変わらないことを思います。

『エサウは父のことばを聞くと、大声で泣き叫び、ひどく痛み悲しんで父に言った。「私を、お父さん、私も祝福してください。」

父は言った。「お前の弟(ヤコブ)が来て、だましたのだ。そしておまえの祝福を横取りしてしまったのだ。」

エサウは言った。「彼の名がヤコブというのも、このためか。二度までも私を押しのけてしまって。私の長子の権利を奪い取り、今また、私の祝福を奪い取ってしまった。」…

エサウは、父がヤコブを祝福したあの祝福のことでヤコブを恨んだ。それでエサウは心の中で言った。「父の喪の日も近づいている。そのとき、弟ヤコブを殺してやろう。』旧約聖書 創世記27章

この27章を読むとき、一人一人の人間の弱さが浮き彫りになる。

父イサクが長男のエサウを、自分が死ぬ前に祝福しようとした。

それを聞いた母リベカが、偏愛している弟ヤコブに祝福がいくように仕向ける。

ヤコブもその話しにのっていく。

騙されたエサウは、ヤコブを恨み、殺すことを計画する。

父イサクはもう何もできない。

母リベカは、それを知り、ヤコブのおじさんのラバンのところに行かせる。

一時のつもりだったが、ヤコブは長い間、帰ることはできなくなった。

この誰もが狂ってしまっているような、だましとうそと、殺人未遂のような混乱が起こる中に、神様の恵みはあるか。

人間は過ちを犯してしまい、時にはとんでもないことに巻き込まれていく。

しかし、“人間の願いや努力によるのではなく、あわれんでくださる神による選びの確かさ”(ロマ9:16)は、こんな悲惨な現状にあって、ヤコブに変わらずにあった。

私たちの生活の中にあっても、「神様、あなたを信じているのに、どうしてこんなことが起こるのですか。」と問いたくなるときがある。

「私が悪いんですか。」「あの人のせいですか。」「神様の試練ですか。」と、ぐるぐると答えにならない問いが頭の中をめぐる。

何がなんだかわからない、私たちの中に、解決の糸口が見つからない…そんなときも、神様は変わらず、私たちを選び、私たちを愛し、私たちへの祝福の計画を立てている。

イエス様の十字架で赦された事実は揺らぐことはない。私たちは神様の子どもであり続ける。

ヤコブのように、人をだまし、憎しみを買うような人間であっても、神様の選びと計画は変わらないことに慰められる。

###

神様、生活している中に、混乱がおき、危機状態が起きたときも、変わらずに神様の愛が私たちに対してあることをありがとうございます。

私がどんなに足りないもので、過ちを犯したとしても、イエス様の十字架で赦され、神様の祝福へと導かれることをありがとうございます。

混沌とした中にあっても、あわれみの神様を見続けられるようにしてください。

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2009年6月16日 (火)

“同情されるイエス様”(祈り)

私は同情より、聖書にある正論で人を苦しめた者であったことを思わされました。

『私たちの大祭司(イエス)は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。』新約聖書 ヘブル人への手紙4:14

私はとても、心砕かれて自分の弱さを教えられているときは、人にも優しくなれているかもしれません。

一方、私が調子が良く、すべてがうまく行っているかのような時は、人に同情する心が少なくなるかもしれません。

自分のイエス様にある歩みを見るとき、祈りも癒しも赦すことも、何もかも与えられたものなのに、「あなたもこうしなさい。」と、その心の痛みに寄り添うことなく、言ってきた者だったか、少し教えられました。

神様を信じている人たちの世界で、つらいのは、正しい答えが書かれてあることです。

その正しい答え(=正論)は言われてしまうと、「ごもっとも」としか言えません。けれども、人から言われた正論は、罪責感を強めたり、恥ずかしい思いを強めたり、みじめな思いに落ち込んだりさせるだけです。

病院に行って、あなたの悪い患部はここだと、傷口を開かれて、血を流して終わりです。癒す手立てまでしないで、終わらせるというのは、聖書の、恵みの神様の世界ではありません。

けれども、きっと、同じような聖書の正論で、私はバサバサと人の心を切り、痛ませたまま、私は満足して、帰らせてきたのだと思います。

お祈りします。

「天のお父さん、イエス様は、私たちの苦しみをすべて知っておられ、私たちの弱さに同情されるお方です。

私たちの罪の結果の苦しみですら、「誰もあなたを裁きません。私があなたの罪の責任を全部請け負うから。安心して帰りなさい。」と言われる方です。

それなのに、私は、聖書にある正しいことばで、相手を同情せず、その心を聞かず、切りつけてきた者であることを教えられました。

それは相手に癒しではなく、痛みだけを残します。

この同情できない心を赦してください。

聖書にどう正しいことが書いてあり、どうするかは聖霊様が、慰めの中で、案内してくださいます。

私たちは互いが、同じ弱さを持つものとして、同情し合うものとさせてください。

心の痛みが理解できないときでも、祈るものとしてください。

イエス様のところには、裁きでなく、その互いの弱さを受け入れ合うものとしてください。

私の力ではできませんから、受け入れる心、同じように私たちは弱いものであることを教えてください。

イエス様のもとで、私たちが同情しあい、理解しあい、受け入れあい、赦しあうことが広がりますように。

そして、まわりの人々が、この世にないイエス様の愛を知ることができますように導いてください。

イエス様のお名前で、お祈りします。

アーメン。」

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ずる賢い“ヤコブ”

神様の選びの確かさとはどういうものか、考えました。

『さて、ヤコブが煮物を煮ているとき、エサウが飢え疲れて野から帰って来た。

エサウはヤコブに言った。「どうか、その赤いのを…私に食べさせてくれ。私は飢え疲れているのだから。」…

するとヤコブは、「今すぐ、あなたの長子の権利を私に売りなさい。」と言った。

エサウは、「見てくれ。死にそうなのだ。長子の権利など、今の私に何になろう。」と言った。

それでヤコブは「まず、私に誓いなさい。」と言ったので、エサウはヤコブに誓った。こうして彼の長子の権利をヤコブに売った。』旧約聖書 創世記25:29~33

“長子の権利”とは長男がほかの兄弟の2倍のものを相続し、分配にあずかること。(申命記21:17)

それは、イスラエルにおいて、初子(ういご)が、神様に属するものとされ、特別価値があると考えられたからだそうである。

ヤコブの性格は、ずる賢く、抜け目がなかった。自我が強く、また、人をだますものであった。

自我が強いというところで、私はヤコブを身近に感じている。私もまた、自我の強い者だったから。

彼は、兄から“長子の権利”を買った。エサウは今のお腹を満たしたいため、目の前の食べ物と“長子の権利”を取り換え、売ってしまった。

『こうしてエサウは、長子の権利を軽蔑したのである。』創世記25:34

エサウは、霊的な価値にうとかった。目の前のもの、物質的なもの、お腹を満たすものを選んだ。

一方、ヤコブは、霊的なものに目が向いていた。

ここで、ヤコブのように、霊的なものを大切にしよう、そして、神様の祝福にあずかろうと言うのは、簡単である。

が、私の中でゆきずまってしまう。私の中で、先のブログに書いた“神様の選びの確かさ”から言うと、何を選択したか、何を大切にしたかを越えて、ヤコブは神様の祝福を受け継ぐように選ばれていた。

あるブログで、神様の権能(権利を持って行使できる能力)か、人間の責任か…どちらも100%だとかあったように思う。

難しいところだか、私は神様の権能が100%だと思う。人間は間違いだらけで、その“責任”を問われても、“責任”を果たせない者だ。

私がこれまでの歩み、神様に対して“責任”を果たしてきたかというと、皆無のような気がする。

ただ、神様のあわれみで、神様の一方的な100%の権能により、ここまで歩ませてもらった気がする。

そして、私が果たせているものはない、0%なものだと知るとき、私たちはただ神様に応答して、感謝していけるような気がする。

ヤコブは、人間的に兄エサウの弱さ(近視眼的)に漬け込んで、長子の権利を買った。

ヤコブに神様にかなうものは0%だった。それでも、神様の選びの確かさにより、神様は選んだとおりにヤコブを祝福するのである。神様のあわれみを思う。

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2009年6月15日 (月)

捨てさせてくれた神様、そして友人

私が手放すものを教えられました。

『キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。

ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことはせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。

そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。』新約聖書 第1ペテロ2:22~24

私は自分がまだ、握っているものを見せられました。

一人の友人が、私の間違いを指摘し、もう一人の友人が、私の“捨てる自由”への願いを懸命に、自分のことのように、もう一人の友人に説明してくれていました。

二人はノンクリスチャンであるのに、彼女たちを通して、私は弱さをはっきり認め、慰めのイエス様に持っていき癒されました。

不思議な体験です。まるで、二人が聖霊様(神の導き、弁護の霊)であるかのような役割をしていてくれているのだなぁと思いました。

なんといっても、“捨てる願い”を一言で理解してくれた友人に驚きました。

私が彼女の中にある痛みや悲しみに近づいたときでした。“捨てられずに苦しむ”そんな苦しみを彼女はしているんだと教えられました。

感謝してお祈りします。

「天のお父さん、今回、私は、自分はイエス様以外、何も無い者だと認めて生きていくために、特別な場所、友人たちを備えてくださり、ありがとうございます。

私の中に、私は何も無いことを、仕事も持っておらず、社会的な地位も名誉もなく、ポジションも肩書きもないことを、はっきり知るために、備えてくださった様々なことをありがとうございます。

私の中で、まわりが福祉の仕事の話しをしているとき、疎外感やひけめを感じた自分に驚きました。

私は、主婦で、何の肩書きもありませんが、イエス様にあって自分の今を誇りに思っていたつもりだからです。

イエス様は、神様であられるのに、その姿は、みすぼらしく、人々が顔をそむける程でした。

神であられたのに、私のために、すべてを捨ててくれました。

地位、名誉、肩書きの誘惑は、私にとって無縁のものと思っていました。ですから、驚きました。

が、友人たちを通して私の捨てるものをはっきり教えられ、感謝します。

友人に帰りがけ、私は愚痴をいいました。

「私は、仕事もしていないし、会の始めの挨拶で、「皆さん、福祉従事者としての苦労を分かち会いましょうと言われたとき、仕事していない私にはきつかったよ。」というと、Kは言いました。

「そうなんだ。」

たった一言だけど、そう言ってくれました。

私の側にある問題を見せてくれた友人たち、受け止めてくれた友人、車中の二人、コメントくれた友人、…たくさんの友人を通して、癒しを受けとれましたから、ありがとうございます。

私は「自分を神のしもべとして推薦します。」というところに立たせてください。

私の握っていたものは、小さいものではありません。

これから、その問題や誘惑がきたときに、きちんと解決しているための取り扱いと信じます。

握っているものを認め、告白し、イエス様に癒してもらい、手放せたことを信じてありがとうございます。

環境を備えてくれ、気づきに至らせてくれた友人たちに感謝します。

愛しい友人にも、この捨てる自由が与えられますように。

イエス様のお名前によって祈ります。アーメン。」

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2009年6月14日 (日)

“捨てる自由”

日曜日の朝、愛されています人々の祝福を願いつつ、私の教えられた分かち合いをします。

『自分のいのちを自分のものとした者はそれを失い、わたし(イエス)のために自分のいのちを失った者は、それを自分のものとします。』新約聖書 マタイの福音書10:39

おはようございます。

今日もそれぞれのところにある日曜日の朝であることを思います。

神様は、この地に満ちておられ、今、教会の外におられる方も、等しく神様は愛しておられることを思います。

この聖書のことばから、最近、私が気がつかされたお話しをしたいと思います。

“自分を捨てる”という発想は、神様を信じる人以外には、あまりありません。

“自分を捨て、神様に従う”ということを意味します。

もっと違ういい方をすると、“自分を捨てた分、神様のいのちが私に満ちる”ということなのかもしれません。

私は、自分の考えや思い、プライドや固執するものをどれだけ捨てて、神様ご自身にあるか…自分を見るのは、難しいです。

私は、ある友人から「あなたの信仰変だよ。」と言われ、とても“傷つきました”。

そして、考えたのです。「信仰だけは、否定されるのはきついから、彼女の前ではもう分かち合わずに黙っていよう。」

けれども、最近、「私の守る信仰とは何でしょうか」と思いました。

イエス様は、私のための十字架のため、いのちまでも捨てられたのに、人を理解することを妨げる私の守る信仰とは何なのかと思わされました。

「“人の心の理解を妨げる信仰”を捨てます。ただ、イエス様とともにおらせてください。」と祈りました。

すると、不思議と信仰を否定されても、“傷つかない”自分を見ました。

何かを自分の中に持っているということは、それを守ろうとするけれど、何もないと守る必要がないことを教えられました。

今、大学の同窓会に来ていますが、福祉の大学なので、皆さんの多くが、卒業されて、その関係の仕事に従事されています。その中で自分は何の仕事もしていないひけめのようなものを見せられました。

この朝にそのことを静かに思うとき、私の中に守ろうとしているものが、まだまだたくさんあるのだなぁと思いました。

“自分のいのちを失う”“自分自身を無くす”ものに与えられる“イエス様とともにあるいのちの喜び”を求めていきたいと思いました。

###

天のお父さん、私はかなりのものを捨てたと思いつつ、まだまだたくさん捨てられずにあるものがあるのを知りました。

捨てた後の自由と、神様にある喜びに満たしてください。

自分を守るのではなく、イエス様を愛する心をください。

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赤いハイヒール

同窓会で皆が私との思い出話を話してくれて、改めて自分の昔の姿が浮き彫りにされた感じです。

『泣くのに時があり、ほほえむのに時がある。

嘆くのに時があり、踊るのに時がある。…

神のなさることは、すべて時にかなって美しい。』旧約聖書 伝道者の書3:4.11

今、大学の同窓会で、仙台の温泉地にいる。

大学時代は自分のことしか考えられなかった。この30年ぶりの再会で、学友との新しい出会いにしたいと期待してきた。

サークルネームが“セバ”なので、「おー、セバ!懐かしいなぁ。」と声をかけてもらうが誰かあまり思い出せない人もいる。いかに、自分しかなかったかという感じである。

1人の友人が言った。「セバはよ、ある日、突然、エナメルの赤いハイヒールを履いて、大学に来たんだ。それで、俺は、どうしたんだって聞くとよ。“自分が変わりたいんだ!”って言ったんだ。」

私は、スカートは一切履かず、ズボンにTシャツの飾り気のない格好ばかりしていた。そこに、赤いエナメルのハイヒール…!?我ながら、ちょっとビックリ…。(本人覚えていない。)

「そうなんだ。セバは何かもがいていて、とりあえず、外側から変えようとしてるんだ、って俺は思った。」

すると、近くにいた友人がすかさず、「お前のことだ。外側変えても、中から変えないとダメだ位言ったんだろう。」

「そうかもな。」と話していた。私はあの頃、何より、変わりたかったんだなぁと思った。赤いハイヒールが良かったかどうかは別として、あの頃の虚しく漂う自分を思い出した。

また、ある友人が「セバさ、大学中退したあと、私、セバに会いに東京まで言ったんだよ。覚えてる?どうして会いに行ったか覚えていないけど、すごく心配だったのかも。」あまり、記憶にないが、心配してくれた友がいたのを改めて、知った。

極めつけが、「俺、東京のセバのところに遊びに行く途中、猫が道路でひかれたのを見たんだよ。その話しをセバに会ってしようと思ったんだ。そしたら、セバは、なんだか溢れる思いで、キリスト教の話しをしてくるんで、ひたすら聞いていて、猫の衝撃的な話しできなかったんだよ。」と言われた。そんなに余裕ない自分だったんだなぁと思った。

友人たちとの新しい再会…と楽しみにしていたが、みんな、私との思い出話しをそれぞれにしてくれた。

そして、過去にいた私は、やっぱり友たちのことより、自分のことでいっぱいで、人の優しさとか、心を聞けない悩める者だった。

改めて自分がどんな人間だったか、教えられたのと、いつも周りに優しい友人たちがいたことを確認させられた。

関東会も出来て、再会の約束をした。

朝まで話そうと、隣の部屋は、まだ、にぎわっている。

かつて、私の中で、心のセンサーが壊れていて、大切な人が隣にいても、いないかの如く、自分しかなかった。

関係作りをやり直せるチャンスを与えてもらって、心から感謝している。

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2009年6月13日 (土)

“神の選びの確かさ”

“神様の選びの確かさ”を教えられた分かち合いです。

『その(リベカ)の子どもたちは、まだ生まれておらず、善も悪も行わないうちに、神の選びの確かさが、行いにはよらず、召してくださる方によるようにと、「兄は弟に仕える。」と彼女に告げられたのです。…

神はモーセに、「わたしは自分のあわれむ者をあわれみ、自分のいつくしむ者をいつくしむ。」と言われました。

したがって、事は人間の願いや努力によるのではなく、あわれんでくださる神によるのです。』新約聖書 ローマ人の手紙9:11~16

4年前、NHKの「選民ユダヤ人のガサ追放」という番組を見た。衝撃を受けた。そして、この聖書の箇所の意味が深く理解できたような気がした。

世界中に散らされたユダヤ人は、旧約聖書にある、自分たちこそ、神の選びの民だということに誇りをもち、どこにいても、その信仰を継承してきた。

あるユダヤ人が、イスラエルこそ私たちの地だと約束を信じて、過去のすべてを捨てて戻ってくる。

しかし、政治情勢の厳しい中、彼らはそこから追い出される。

それでもなお、聖書のことばを信じて言う。「聖書には、私たちにこそ、この地を与えると神は約束されているのです。私はこれを信じます。」

命をかけて、生活のすべてをかけて神様を信じる姿がそこにあった。

私は、神様と出会う前、空しさと孤独で、何かを求めていた。そして、生かしてくださる神様に出会った。

私は神様によって見つけてもらったと言いつつ、心の奥底で、他の人より求める気持ちが強かったから信仰をもてたと、どこかで自負していた。

ところが、そのユダヤ人の方の神様を信じる気持ちは、半端ではない。全生活をなげうっても、聖書の約束を信じてイスラエルに戻ってきた。そして、どんな厳しい現状でも、なお信じている。

しかし、イエス様をまだ見い出していない。

“事は人間の願いや努力によらず…”とあるが、私の中に、いかに“願いや努力”によって神様の事が成ると思っていたかを見せられた。

「兄エサウは弟ヤコブに仕える」ということが、まだ生まれる前から、善も悪も行わないうちに、“神の選びの計画の確かさ”が、行いによらず、ただ神様によって決まっていたと、聖書にある。

人間側にはその選ばれる理由はひとつもなく、神様の選んだということだけがすべての理由だという。

前はこの箇所を読んで、何か不公平感をもっていた。私たちは何をしても、自分には選択権がないのかと。

しかし、神様は滅びゆくものを、ただ神様のあわれみで選んでくださったのだ。

“神様の選びの計画の確かさ”、それはまったく私の側に選ばれる理由はないのに“神様のあわれみ”という理由で選ばれたということを知った。

神様の深いあわれみの中で、揺らがない選ばれた者としてある恵み、心から感謝する。

そして、ローマ11章では、神様はイスラエルの民を選ばれたことは、無効となっていないという。

それは、異邦人の救いのためで、一時的であることが書かれている。

神様に感謝します。

###

神様、私たちの神様の選びが、神様によって成り立っているので、揺らがないことをありがとうございます。

私が何か間違ってしまっても、それでも変わらず、選ばれていることをありがとうございます。

この“選びの確かさ”の神様のあわれみの中にいこわせてください。

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2009年6月12日 (金)

“忘れない神”

神様は、私たちを決して忘れない…そのようなお方であることを感謝します。

『しかし、シオンは言った。「主は私を見捨てた。主は私を忘れた。」と。

「女が自分の乳飲み子を忘れようか。自分の胎の子をあわれまないだろうか。たとい、女たちが忘れても、このわたし(神)はあなたを忘れない。

見よ。わたしは手のひらに、あなたを刻んだ。…

あなたの子どもたちは急いで来る。…目を上げて、あたりを見回せ。彼はみな集まって、あなたのところに来る。』旧約聖書 イザヤ書49:14~18

明日は、大学時代の同窓会みたいなのがあって、仙台に一泊旅行に行く。クリスチャンになって、初めてのこのような旅行である。

その集まりは、新入生歓迎会実行委員会のメンバーらしい。30年近く前のこと、大学中退した私は、ほぼ皆と絶縁状態だった。

たった一人年賀状のやりとりをしていた友人を通して、見つけて貰った。

仙台に住む人たちが中心になって連絡を取ってくれた。彼らも30年ほどの前の名簿しかないのに、一人一人たぐっていくように人探しをしてくれ、私も同窓会メンバーに入れてもらえた。

そのご苦労を思うと共に、思いがけない再会に胸が弾む。

学生時代はとにかく孤独と虚しさがあり、楽しく好き放題のことをしていたが、本当の意味で“生きる”ことをしていなかった。

タイムマシンのように30年前に戻って、再会する友人たちを祈っていける関係がまた始まることがとても嬉しい。神様の計らいを感じる。

神様は、私たち一人一人を決して忘れていない。

たとえ、自分がすべての人に忘れられているようでも、神様は、私たちを決して忘れない。

母親が自分が産んだ赤ん坊を忘れることがあるだろうか。

万一、母親が乳飲み子を忘れたとしても、神様はけっして忘れないと言われる。

神様は、恋人のように、私たちの名前を、手のひらに刻んで、いつも覚えている。

一時たりとも忘れることなく、熱く思い続けている。

神様はイザヤを通して、私たちにそう言っている。

このねたむほどに、私たちの心を神様のところに向けてほしいと願っている神様は、私たちに語りかけてくださる。

この神様との親しい交流が始まるよう、また、いつもそうあり続けるよう祈ります。

###

神様、あなたは私を見捨ててしまいましたか。

神様、あなたは私を忘れてしまったのですか。

そんな思いが湧いてきても、神様、あなたは私を何があっても決して忘れないと言ってくださることをありがとうございます。

イエス様の身代わりにするほどに、私を熱く思い続けてくださることをありがとうございます。

あなたの愛に応えられるように、今、私の心をイエス様の血潮できよめ、うるわしいあなたの愛のシャワーの中に入れてください。

あなたを求めます。

あなただけを求めます。

あなたの思いを受け取れる心にしてください。

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『蟹工船』と“神様”

『蟹工船』(かにこうせん)と神様…変なタイトルですが、昨日、祈らされた祈りです。

『わたし(神)は、エジプトにいるわたしの民の悩みを確かに見、追い使う者の前の彼らの叫びを聞いた。わたしは痛みを知っている。

わたしが下って来たのは、彼らをエジプトの手から救い出し、その地から、広い良い地、乳と蜜の流れる地、カナン人、ヘテ人、エモリ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人のいる所に、彼らを上らせるためだ。

見よ。今こそ、イスラエル人の叫びはわたしに届いた。わたしはまた、エジプトが彼らをしいたげているそのしいたげを見た。』旧約聖書 出エジプト記3:7~9

昨日、市のボランティア先で―『蟹工船』と現代社会―という講演を思いがけなく聞くことができた。講師は浜林正夫氏(一橋大学名誉教授)である。

小林多喜二著者の『蟹工船』が、今、若者に読まれているというのは、テレビで見て知っていた。

私は読んだことがない。が、今回の講演で、どんな内容なのか、とても詳しく教えてもらった。

大正10年から、蟹工船は始まる。蟹を取って、船の中で缶詰をつくる、つまり漁業と工場が船の中に一つとなっている。

著者小林多喜二は、蟹工船で行われている漁夫の劣悪きわまりない労働実態を“漁夫虐待事件”として2年に渡って調査し、やがて小説にしていく。

労働者である漁夫たちを人間的に取り扱わず、暴力、餓死、病死させた実話をもとに書かれた。

漁夫たちは虐待を受けながらも、団結して、抵抗していくそのプロセスが描かれているとのことだった。

そして、『蟹工船』で行われたようなことは、日本の歴史の中で、朝鮮人強制連行、中国人強制連行などで繰り返されたと話されていた。

私が最も心揺さぶられたのは、“現代の日本社会に『蟹工船』的状況はある―という話しである。

格差社会、派遣切り、最後のセーフネットのはずの生活保護まで人々を守れていない。あとは、犯罪を犯して、刑務所に行くか、死ぬしかない…そんな現状があると話された。

こういう話しを聞くと、「神様、助けを必要とする人たちを助けてください!」と私の中の眠っているものが心を揺さぶる。

豊かな日本と言われる中で、うつ病になったり、自殺したり、失業に途方にくれている人たちがいる。

この講演者は最後に、『蟹工船』と現代は同じなのか…かつて、同じ船の中にあった“団結”が、今は無くなった。“人間のつながり”をどうやって回復していくのかが課題である…とまとめていた。

帰り道、自転車に乗って、祈りながら帰ってきた。

「神様、あなたはイスラエルの民をエジプトから救出した歴史に働かれる神様です。

今の日本の現状を神様はご存じです。

今、苦しむ者たちの叫びを聞いてくださり、神様のお名前によって、その権能によって、彼らを苦しみから救いだしてください。

今の私に日本が神様によって変えられていく幻はありませんが、この日本を変えてくださるのは神様しかいません。

神様、助けてください。」

家に帰り、一日外に出ていたので、うたた寝をした。夢を見た。サラリーマン風のワイシャツを着ているたくさんの男性たちが、一斉に祈っている夢だった。神様の幻(ビィジョン)だろうか。

神様、遣わされた場所で、私たちが祈りを一つとできますように。

このつながりのなくなった社会で、イエス様にあるつながりのくすしいことを表してください。

私自身は、自分のリバイバル(信仰覚醒)のために、悔い改めにもぐっていきます。

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2009年6月11日 (木)

“主が備えてくださる”(アドナイ・イルエ)

“備えてくださる神様”を思いました。

『神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。

それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。』新約聖書 ヨハネの福音書3:16

アブラハムは愛する我が子を、全焼のいけにえとして、神様にささげるように言われた。

アブラハムにとって、イサクは何にも変えがたい存在だったが、神様に従った。

神様は、同じように我が愛する子イエス様を私たちの罪のあがないのためのいけにえとして、殺す計画をされた。

それは、そのイエス様のいのちとひきかえに、私たちの罪が赦され、私たちが神様との関係が回復するためだった。

アブラハムのように、神様も苦悩された。

アブラハムは、その“神様を恐れる心”を神様に知られ、イサクの代わりに雄羊を備えられた。

アブラハムは、モリヤの地にあるその場所の山を“アドナイ・イルエ”と名付けた。

“主(神)が備えてくださる”という告白だった。

神様は、私たちのために備えてくださった。

神様は、私たちが滅びることを望まず、その永遠のいのち、今、この地上にあっても神様とともにあるいのちに生かすため、ひとり子イエス様を十字架にかけられる備えをされた。

そして、そのことは成った。

愛するひとり子イエス様のいのちを代わりとするほどに、私たちを愛してくださった神様は、今日も私の最善を備えてくださっている。

“アドナイ・イルエ”どんな状況にあっても必要と最善を備えてくださる神様をほめたたえます。

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孤独の夜に…

昔、イエス様を知らず、孤独が迫ってきました。今、イエス様の孤独があることを知り始めました。

『見よ。わたしはあなたとともにあり、あなたがどこに行っても、あなたを守り、あなたをこの地に連れ戻そう。

わたしは、あなたに約束したことを成し遂げるまで、決してあなたを捨てない。』旧約聖書 創世記28:15

大学を中退した私は、東京に出てきて、デザイン学校に入った。

大都会の中の3畳のアパートに住み、バイトと学校の往復で、声をほとんど発することもなく過ごした。

そんな私も何か月かすると、そこが生活の場になり、知り合いもできていった。

生きる動機に欠けていた私は、何をやってもうまくいかず、やがて、バイト漬けの毎日で、学校の課題がたまっていった。

バイトの寮で、青山のど真ん中に移った。課題がたまって、「このままだと大変だよ。次にあがれないよ。」と3人くらいの男の子たちが、徹夜で課題を手伝ってくれた夜があった。

朝がた、牛丼を買いに行く途中、渋谷のビルの谷間から昇る朝日を見た。

いい友人たちがいるのに、やっぱり心の深いところで孤独を感じている私がいた。そこはイエス様でなければ、決して埋まることのない孤独だったのだと思う。

イエス様に出会って、私を悩ませていた孤独は全く無くなった。

「孤独だ」と嘆くクリスチャンの友人には、「それは、神様ときちんと交わりをしないからだよ。」と平気で言ってきた。

今、イエス様ととても近くにいる感じがする。

そして、時おり、イエス様のとてつもない孤独をわずかだけ見せられる。わずかだけなのは、私には耐えられないから…。

イエス様の歩まれた悲しみの道、イエス様が経験された孤独の道…いままで、知らなかったけど、少しだけ、聖霊様によって教えられる。

イエス様を知らなかったときの私

イエス様の十字架の孤独の道を知らなかった私

孤独が消えて、万々歳と思っていたけど、イエス様といながら、イエス様の心がわからなかった私

「友人よ、あなたが孤独だとうなるとき、神様と交わりしないからだと言った私をごめんなさい。」

「イエス様、あなたの気持ちを知ることよりも、いつも私自身ばかりだったことをごめんなさい。あなたについて行きます。あなたが悲しみと孤独の道を歩まれたから。あなたが、悲しみと孤独を癒されるお方です。」

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天のお父さん、この地は痛みや悲しみや孤独に満ちています。

イエス様が闇の中に持っていく慰めと希望のともしびは消えることがありません。

私もイエス様のあとをついて行きます。

イエス様のいないところにともしびがともりますように。

イエス様がいてくださって、なお、孤独なところのともしびを温かく、大きくしてください。

私たちがたくさんの慰めと喜びのともしびを人々の中に見ますように。

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2009年6月10日 (水)

カルト化教会に無いもの

神様は何を私たちに求めておられるか教えられた分かち合いです。

『み使いは(アブラハム)に仰せられた。

「あなたの手を、その子に下してはならない。その子に何もしてはならない。今、わたしは、あなたが神を恐れることがよくわかった。あなたは、自分の子、自分のひとり子さえ惜しまないでわたしにささげた。』旧約聖書 創世記22:12

神学校時代、同じ寮で、伝道熱心な男の子がいた。

気があって、よくいろんな話しをした。

ある時、彼が言った。「相手を愛する思いがあるなら、体の癒しもその人のために祈ると思う。」

私が何と言ったことに対する答えか、覚えていない。たぶん、「体の癒しがすべてではない。」ということに対してだと思う。

一緒に卒業した彼は、伝道熱心で神様にまっすぐな感じの人だった。

やがて、彼が属している教会がカルト化してしまった。彼もその中の中心的な牧師の一人だった。

今日、その会話を思い出した。彼がどこからずれてしまったのか、よくわからない。

初めの頃は、「イエス様の愛を語る素晴らしいメッセンジャーだよ。」と彼の噂を聞いていたが。

アブラハムがイサクを捧げる試練の中、神様は言われた。

「今、わたしはあなたが神を恐れることがよくわかった。」

神様は、神様を恐れる心をアブラハムに見て喜ばれた。

“心”とか、“動機”とか見えないことこそ、実は神様が最も求めておられることなんだなぁと、しみじみ思う。

カルト化した教会は、宣教熱心だったりする。とにかく働く。労する。無心になって疲れるまで仕える。そのように牧師にコントロールされてしまうのだが、そこに、主とふれあう“心”がない。

黙示録2章に出てくるエペソ教会は、労苦と忍耐を神様に知られていた。

しかし、“初めの愛”から離れてしまった。

イエス様の赦しとあわれみの中、応答する行為と、“心”を無くし、ひたすら頑張る世界は、見た目な変わらなくても、神様から見たら全く違うのだ。

主にある熱心の中で、神様が最も求めとおられる“神様への心”こそ第一とされるものだなぁと思った。

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愛されたことを世が知るために(祈り)

最後の晩餐で私たちのために祈られたイエス様の祈りが、そのとおりになりますよう、お祈りします。

『またわたし(イエス)は、あなた(神)がわたしに下さった栄光を、彼らに与えました。

それは、わたしたちが一つであるように、彼らも一つであるためです。

わたしは彼らにおり、あなたはわたしにおられます。

それは、彼らが全(まっと)うされて一つとなるためです。

それは、あなたがわたしを遣わされたことと、あなたがわたしを愛されたように彼らも愛されたこととを、この世が知るためです。』新約聖書 ヨハネの福音書17:22.23

「天のお父さん、私たちにイエス様を送ってくださり、ありがとうございます。

イエス様が、最後の晩餐で信頼する神様に祈りました。

そこには、イエス様が最も願っていたことを祈られたのだと思います。

そこには、天のお父さんとイエス様が一つであるように、私たちもまた、一つとなりますようにと祈られました。

それは、神様がイエス様を送ってくださったことと、神様がイエス様を愛されているように、私たちも愛されていることを、この世が知るためです、とあります。

人間的に一つにはなれません。

また、教会のルールや、牧師の指示で一つにはなれません。

それは、イエス様の十字架の赦しのもとにしか、一つになることができません。

もし、私たちがイエス様のもとに一つになって喜ぶことができたら、世の中の人は驚くでしょう。

それは、決してこの世には見られないみ業だからです。

私が一つになれない、イエス様の十字架の赦しに行く妨げになっているものを赦してください。

イエス様が一つになるように十字架の犠牲を払ってくれたのに、それが無効かのように、バラバラの心を赦してください。

イエス様が十字架にかかられたのは、私を赦してくれるためでした。

主よ。今、私に豊かな赦しを与えてくださり、私が赦すものとなるよう癒してください。

私たちがイエス様の十字架の赦しのもとに憩い、自由に一つとなることができるよう、あなたのみ業をなしてください。

2000年前、私たちのために祈られたイエス様の祈りがそのとおりになるようにしてください。

今日、お一人お一人にイエス様の赦しがおおい、慰められますよう、祈ります。

イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン」

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2009年6月 9日 (火)

少数派の自分

私の近況…小さな変化です。

『教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。』新約聖書 エペソ人への手紙1:23

私がブログを始めて11か月になる。私はブログの中で変えられてきている。

誰に変えられたかというと、もちろん、神様にであるが、ここに毎日のように訪問してくださる皆さんによってである。

私は教会と言われるところでは、その与えられた信仰が“少数派”となるものだと思う。

だから、いつになっても、どこにいっても、しっくりこない。

ブログでは、とにかく私の本音の本音のところを書いている。聖書の分かち合いにしても、私が美味しいと思うところを共に美味しいと思ってもらっているので、訪問してもらえるのだと思う。

少数派の私も、ブログの中では共に似た感性、信仰の方がいて、そこが集まれば、少数派ではなくなるってことかなぁなんて、訳のわからないことを考えながら出かけた。

私たちの教会は牧師夫妻と私たち夫婦の4人。最近、一人の女性の方が集ってくださっている。

そんなに少なくても、そこに人との信仰の溝を感じてしまう私である。

今日は、牧師の奥さんと共に久々祈った。私は変わり始めている。悔い改めの始まり、教会を赦し、さらに癒しを祈るようになった。ブログの中での導きのおかげである。

彼女はいつも私に愛をもって祈ってくれていたが、私の方には彼女との溝があった。教会の外の人の話しになるとその違いに苦しくなった。

今日、彼女と祈りながら、「私たちは神様にあって一つです。」と祈っていた。彼女もまたそう祈っていた。

心からそう思えた。彼女は、韓国系中国人で、その救霊(イエス様を信じてもらう)の思いに熱い。それなのに、誰を誘っても教会にこないことにガックリきている。胸が苦しくなるらしい。

中国では、迫害の中、人々がイエス様を信じていく。なぜ、日本は違うのかと嘆く。

彼女の神様が与えてくれた熱い救霊の思いに慰めがくるよう祈った。

私の中で何かが変わった。何だろうか。

教会の人と違いはあっても、それを越えて一つであることを受け止められたのか…。まだ、限りなく近くにいる一人と祈れた程度だが。

訪問の皆さんには、私の悔い改めの道に共にお付き合いくださり、心から感謝します。

今、“私の歩んだ教会たち”の証を書いていますが、すべてが懐かしく、そこで失敗したりしている自分がいとおしいです。そこに取り巻く人たちの弱さが受け入れられます。

悔い改めの霊が私をおおったとき、私は「神様、あれもこれもごめんなさい」と号泣しながら、ブログを書いている…そんな想像をするのだが、まだ、その霊はくだっていない。悔い改めというのが、そういうものではないかもしれないし、聖書のことばにより、御霊の啓示により、深いところを見せられたとき、「ごめんなさい」と告白するよう導かれるのでしょう。

神様のよいものを皆さんと分かち合いたいと心から願っています。日々、訪問してくださる方々の祝福を祈っています。訪問、ありがとうございます。

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“私の歩んだ教会たち”2-3・除名

私が伝道師除名になったときの話しです。

『謙遜と柔和の限りを尽くし、寛容を示し、愛をもって互いに忍び合い、平和のきずなで結ばれて御霊の一致を熱心に保ちなさい。

からだは一つ、御霊は一つです。あなたがたが召されたとき、召しのもたらした望みが一つであったのと同じです。』新約聖書 エペソ人への手紙4:2~4

私が教会で働き出して8か月。もう何もかも駄目だと思うくらい、前に進めなくなっていた。

神様も信仰も祈りも何もないかのようになっていた。

そんなとき、近くで集会をやっているのを知り、休みの月曜日に行った。

そこの礼拝形式とメッセージの新鮮さに胸打たれた。「ああ、私が求めていた神様はここにいる…。」という感じで、砂漠で水を飲んだように元気になった。

今考えると、とんでもないことを言ったのだなぁと思うが、何も考えていない私は、次の日、牧師に言った。

「私は元気がほしいので、休みのときはこの集会に継続して出ることにしました。」

すると、牧師の顔色が変わった。改革派といわれる生真面目な教会で、聖霊派と言われる教会は異端視扱いである。

牧師は何よりそのようなものが教会に入り込むのを恐れていた。凄く敏感になっていた。

「わかりました。3日待ってください。あなたを伝道師除名にするか、どうか話し合いをします。」

私の中で思わね展開だった。悲しくなかった。3日間、「神様、除名の決定が下りますように。」とこのときばかり、ひたすら、祈った。

神様の導きで、教会で働きだしたのに、自分から辞める訳にいかない。神様に申し訳ないと思っていた。

除名になって、この教会から出られるならそうしてほしいと強く願った。

私の何かが間違っているとしたら、何もかも間違っていたかもしれないが、そう思った。

3日後、除名が下された。秘かに神様に感謝した。

私は12月のある日までとなり、残りの数回の礼拝出席をした。

最後の日、「今日、礼拝後、総会があるので出てください。」と言われたが、出なかった。それも責任的にどうであったかと問われるだろうが、出なかった。

牧師は、私が働きをまっとう出来なかったことを教会の人に謝らせたかったのかもしれない。

このとき、信仰深い婦人たち何人かが、私のために心痛め、祈ってくれていたのを後で知った。

私は逃げるように荷物をまとめ、集会をしていた教会のある土地へと県をまたいで引っ越しした。それが今住んでいる土地になる。

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神様、あなたがくださった場所で、きちんと働きができずにすみませんでした。

私は出られて嬉しかったですが、教会を悩ませ、たくさんの迷惑を教会の人たちにかけたことを赦してください。

福音書派と聖霊派にもまた、大きな溝があります。

今の福音派がどうなっているかわかりませんが、私たちは、皆、神様にあって一つです。

福音派に通う親しい友人もいますが、共に祈れています。

その溝は何でしょうか。

神様の霊は混乱させる霊ではなく、喜びと導きをもたらすものです。

日本の歴史の中で、何が正しいとか、分派とかいろんな間違いがあったと思いますが、その傷を癒してください。

御霊は一つです。あなたが喜びをもたらし、赦しをもたらし、癒しをもたらす神様の霊にあって、私たちを一つとしてください。

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“神様が求めておられるもの”(創22)