育児

2009年1月 7日 (水)

エデンの園に戻る

拘束と自由、聖書ではそのことについて詳しく書かれています。

『神である主は、東の方エデンに園を設け、そこに主の形造った人(アダム、エバ)を置かれた。…園の中央には、いのちの木、それから善悪の知識の木とを生えさせた。』旧約聖書 創世記2:8.9

かつての私は、自分のしたことが良かったかどうか、うまくいったかどうか、人にどう思われたかなど、たくさんのことに縛られていた。最近は、明らかに面前で失敗しても恥ずかしくなくなった。まわりがどう思うかは気にならなくなった。

スティーブ・マクベイ師は「恵みの歩み」の本で次のように言う。

「神は多くの木を園に置かれた。アダムとエバが食べてはならない木は一つだけだった。それが善悪の知識の木だった。…アダムとエバはサタンに誘惑され、その木の実を食べてしまった。すると突然彼らの目が開かれた。初めて善と悪を意識した。その日以来ずっと彼らの人生は、善悪の価値基準によって裁かれる人生となった。」

私たちが、善悪に縛られているのは、アダムとエバのせい…とも言えるかもしれないが、大切なのは、私たち生まれながらに皆持っている性質だということ。

エデンの園では、裸であったにもかかわらず、神様を見て喜んでいたので、恥ずかしくなかった。

が、自分に基準がむけられたとたんに、自分の弱さ、足りなさ、惨めさ、苦々(にがにが)しさ、失敗などに縛られ、失望するようになった。

そして、木の葉で隠すごとく、つくろうことに労力を費やす。

自分を守るためにアダムのように「この女が食べさせた。」と人のせいにする。

出産と労働が呪いとなり、死がもたらされた。

私たちは、善悪の知識の実を食べ続けて縛られている。

ローマ人の手紙5章では、「アダムの違反によって、私たちは様々なものに縛られたが、キリストの恵みによって、神様とつながり―エデンの園に戻り―すべてのものから解放される」という内容がある。

私たちはいつまでも変わらず、弱く、足りなく、失敗しやすいものであるが、いつも、キリストの十字架で赦され、「大丈夫。そのまんまでいいんだよ」と受け入れられている。

神様、私たちは神様の前に裸で出たら、恥ずかしい位、弱さを持った者ですが、赦されて、受け入れられていることを感謝します。自分に縛られず、神様のいのちに生かされる…それは間違いを認め謝ること、そこからのみ赦しを受け取れることを感謝します。自由を与えにきたイエス様、あなたによって赦され、自分中心から神様中心の私たちになれますように。

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2008年12月11日 (木)

問題を受け止める強さ

問題があることが問題なのではなく、どう問題を受け止めるかが次につながる大切な事と思います。

『わたし(神)はあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。…それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。』旧約聖書 エレミヤ書29:11

神様の導きの中で、小学校で発達障害のお母さんの会を始めて4年になる。昨日は、それぞれ食べ物を持ち寄り、クリスマス会(いつもと変わらず、食べながらおしゃべりをするだけだが)をした。

発達障害の子どもを理解してもらうため、新しい方も招いた。PTA役員をやっているお父さんの方が、このような感想をくださった。

「今日はとても楽しかったです。お母さんたちの子どものエピソードは面白くてとても笑えます。皆さん、本当に子どもたちと前向きに向き合っているのがよくわかりました。」

前に初めて来られた方も同じ感想を言ってくれた。

「うちの子はストレスで、鉛筆をかじってしまい、ドンドン短くなって困った。」「そういえば、うちは爪噛みで半年爪切らなかったよ。」等々。どの話しも、もし自分が当事者の親だったら、ズッシリ重くなるような話しを明るく話す。

この会のお母さんたちは育てにくい、また、子どもは生きにくい苦労が沢山あるだろうに実に明るい。

それは、子どもの問題となっているところを正面から見て、受け止めている方たちだからだと思う。

子育ても、仕事も、人間関係も、病気も、心の傷も、霊的な問題も共通点があると私は考えている。

問題となっていることを自覚し、認め、受け入れる…そのことなくして解決へのステップはない。

この会に来ているいるお母さんたちの強さは、自分の子どもには周りが理解し、工夫していかないと普通の子どもたちのように自然にはいかないという現実を受け止めている強さがある。「自分の子どもはこんなだよ。」と人に言って、一緒に人と笑える強さがある。

苦労をして真剣に子育てをする、この会のお母さんたちに私はいつもいろんなことを教えられている。

新しい悩み多きお母さんが来るとみんな真剣に話しを聞き、うちの子どもの場合はこうしたとか、こんなはどうとか自分のことのように親身になってくれる。誰もが、その苦労がわかるから、優しくなれるのだ。

そこに神様の名前はないが、神様が共におられる、私にとってキリストの体のように大切な場所である。

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2008年11月 6日 (木)

サンタクロースを殺さないで

サンタクロースを信じる子ども、いないと言われて信じていない子ども、様々だったのを思い出しました。

『すべての良い贈り物、また、すべての完全な賜物は上から来るのであって、光を造られた父から下るのです。』新約聖書 ヤコブの手紙1:17

我が家は、神様がいるので、サンタクロースは不在だった。息子が幼稚園のとき、近所の人が「サンタさんから何か貰った?」と聞かれると、「うん、幼稚園に来たサンタさんから貰ったよ。」と答えていた。

我が家では、主人が息子とじっくり相談を重ね、主人がクリスマスプレゼントを買うので、イブの夜のサンタはいなかった。

その頃、お母さんたちの会話では、「まだ、お宅のお子さんはサンタ信じてる?」「薄々気がついて来てるかなぁ。」なんて話しで盛り上がっていた。

小学2年か3年のとき、息子の友人4〜5人が家に来て、会話していた。「昨日、サンタが来て、ゲームをおいて行ってくれたんだよ。」「お前サンタ信じてるのかよ。あれ、父ちゃんだぜ。」「そうだよなぁ。」「違うよ。サンタだよ!だって父ちゃんがゲーム買ってくれる訳ないもの。」「……。」「うそ、うそ、知ってるよ。父ちゃんだよな。」

横でじっと話しを聞いていた私は、家庭でのロマンはこうやって崩されていくのかと、ちょっと気の毒だった。

賀来周一著の「気持ち整理&生き方発見」(カウセリング・ノートより)に「サンタクロースを殺さないで」と言う面白い記事を見つけた。

「空から煙突を通ってサンタクロースがやってきるのは、幸せが予測のつかない意外なかたちでやってくる象徴です。…クリスマス…この日ばかりは子どもの心を取り返したいと願うお父さんや、これを機会に家族の絆を回復しようとするお母さん…幸せでありたい願いの表れです。その時こそ、サンタクロースに登場してもらうよい機会ではないでしょうか。」

我が家にはサンタはいなくても、困らなかったと思うが、サンタへのささやかな夢や大人の願いの分析になるほどなぁと思った。

そして、プレゼントもまた、素晴らしいが、「私はあなたがとっても大切な存在で、いつも一緒にいたいんだよ。」という親から子どもへのメッセージがすべてにまさると思う。

今日も天のお父さん(神様)は私たち子どもにこのメッセージを降り注いでくれている。

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2008年9月11日 (木)

親の力の行使=虐待に思う

今日、自分の思い通りにしたいと力を行使された親に傷んだ友人の話しを聞きました。

『人に思慮があれば、怒りをおそくする。その人の栄光は、そむきを赦すことである。』旧約聖書 箴言19:11

うちの子どもは、小さいとき、とにかく歩くのを嫌がった。ベビーカーの卒業も遅かった。2才頃のある日、選挙の投票に家族で出かけた。子どもは相変わらず、「だっこして〜。」とせがむ。「いつまでも、自分で歩かないのは良くない!」と私は奮起し、無理やり歩かせようとする。歩かない。心の底からメラメラと怒りのようなものが湧いてきた。今まで経験したことのない思いだった。「どうして言うこと聞けないの!!」と叫んだかどうかはさだかでない。と、この思いに支配されるのは危ないと、もう一人の私がさとし、ふっと力が抜けた。私が自分の思い通りに子どもをさせたいという思いがなくなった瞬間であり、いい加減な育児の始まりだったかもしれない。悪くいえば、子どもを良くしようという思いをあきらめ、肩の力が抜けた瞬間だった。

それがベストかどうかわからないが、あの「どうして、お母さんの言うことが聞けないの!」と怒りまくって、子育てしていたら、今の楽しげな、伸び伸びとした、笑顔の子どもはいなかったと思う。

親には力やことばや自分の思いで子どもを縛る権利はない。

子どもには、子どもなりの考えがあり(未熟に思えても)、子どもが自分で歩いて、自分で選んで行く道がある。

親は子どもの道を心配しながらも、そっと応援し、助けていくことしか出来ない。

そして、親も子どもとは違う自分の道を楽しみ歩くことの大切さ、今日、親から虐待され育ったと言う友人の深い痛みを聞きながら思った。

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2008年8月15日 (金)

子どもの成長のために大切な子どもとしての体験

『あなたがたのうちに良い働きを始められた方は、キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成させてくださることを私は堅く信じているのです。』ピリピ人への手紙1:6

クリスチャンは聖書の良いことばを知っているがために、自分はそのようにならなくてはならないと自分を縛ってしまったりすることがある。けれども、大切な事は、知っていることではなく、自分の足で一歩一歩失敗したりしながら、そのことばに生きることである。

子どもの成長もそのようだと思う。大人にとっていい子ども、利口な子どもというのは、実は、何かに縛られ、子どもとしての体験が少なかったりする。
良い子どもは、それがその子どもにとって本当に良いか注意しなければならないと言われるゆえんと思う。

子ども時代は成長し大人になるために大切なときである。そこでたくさん失敗したり、悔しい思いをしたり、笑ったり、泣いたり、正直にいろんな体験をしていくことが大人に成長するためになくてはならないことと思う。

子どもたちが、勉強ばかりしたり、親のいいなりになるのでなく、自分の足で一つ一つ体験し、その子どもらしさの良さを伸ばして成長していけますように。親が縛り過ぎず、子どもの良い環境を作っていけますように。

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2008年8月11日 (月)

耳が開かれて話せるようになる

『人々は、耳が聞こえず、口のきけない人を連れて来て、彼の上に手を置いてくださるように願った。そこで、イエスは、その人だけを群衆の中から連れ出し、その両耳に指を差し入れ、それからつばきをして、その人の舌にさわられた。そして、天を見上げ、深く嘆息して、その人に「エパタ。」すなわち、「開け。」と言われた。すると彼の耳が開き、舌のもつれもすぐに解け、はっきりと話せるようになった。』マルコの福音書7:32~35

赤ちゃんは、「あー」とか「うー」とかしか言えないけれど、周りの人たちの言葉を沢山聞いて、話しが出来るようになる。うちの子どもは、言葉を話せるようになるのがとても遅かった。それでも、主人と私が話しを始めると、そこに割り込んできて、訳のわからない言葉で、一緒に会話に参加したものだった。

言葉を話す、それは聞くということと深くつながっている。どのようなことを聞き続けているかが、どのようなことを話せるかにつながる。

イエス様は今日も私に「エパタ。」と言って私の耳を開かせ、神様の知恵を聞かせてくださる。いつも人の心の声が聞こえるように、そして神様からの励ましの声が聞こえるように祈りたい。

『神である主は、私に弟子の舌を与え、疲れた者をことばで励ますことを教え、朝ごとに、私を呼びさまし、私の耳を開かせて、私が弟子のように聞くようにされる。神である主は、私の耳を開かれた。』イザヤ書50:4.5

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2008年8月 8日 (金)

誉めて認めて、高め合う

『親切なことばは蜂蜜、たましいに甘く、骨を健やかにする。』箴言16:24

私の主人は、とても誉め上手だ。私が何かやってることに対しても、さりげなく誉めてくれる。誉められて嬉しいのは、子どもだけではないのだなぁと思う。私はそんな主人に「パパは誉め上手だねぇ。嬉しくてやる気がわいてくる。」とフィードバックする。

人の言葉は、殺しもし、生かしもする。子どもが小さいとき、私はつい「うちの子どもは運動が苦手なんだよねぇ。」と子どもの前で言うと、すかさず、主人が「そんなことはない。いいセンスをもっている。」とか「練習すると、すぐに上手くなる。」とか言う。確かに、私は親から「お前はだらしない。」とか「女のくせに。」とかいろんなことを言われて縛られてきた。「この子は運動が苦手」と言い続けていたら、そうでなくても、そう信じ込んでしまう。人は信じたように行動する。どうせ信じてもらうなら、「やれば必ずできる」そんなチャレンジ精神を持った子どもに育てたい。

自分も誉める、人も誉める、子どもも誉める、良いところや可能性を認めあったら、みんなが嬉しくなる。

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2008年8月 7日 (木)

命を与え、養い続けてくれる神様

『神よ。あなたの御思いを知るのはなんとむずかしいことでしょう。その総計は、なんと多いことでしょう。それを数えようとしても、それは砂よりも数多いのです。私が目ざめるとき、私はなおも、あなたとともにいます。』詩篇139:17.18

結婚して、4年間、子どもが与えられなかった。あまり、考えないようにしていた。が、ある夜、目が覚めて、お祈りした。「神様、私も母親になりたいです。養子でもよいので、母親にしてください。」次の月に妊娠していた。

つわりがひどく、胃液を吐いていた。水すら飲めず、そういうこともあるんだなぁと思った。一週間、入院し、点滴をした。ひどいつわりだったが、ベットの上でこの聖書のことばを思いめぐらした。神様によって人は命与えられ、産まれてくる。この命ほど神秘的で尊く、素晴らしいものはないと思った。

可愛い赤ちゃんだった我が子は、あっという間に大きくなり、母親をちょっとバカにしたり生意気になる。それでも可愛いくて仕方がない。

神様も私たちを子どもとして、いつも心配し、大切な存在として、変わることなく養い続けてくれている。

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2008年8月 2日 (土)

厳しい律法で、子どもの肯定感は育たない

『律法を行うことによっては、だれひとり神の前に義と認められないからです。律法によっては、かえって罪の意識が生じるのです。…ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによるあがないのゆえに、価なしに義と認められるのです。』ローマ人への手紙3:20.24

神様を信じてる人はキリスト病になりやすいと私は思っている。聖書には素晴らしい神様の教えが満載である。すると、クリスチャンはその良い教えを知り、あたかも出来てるかのようにつくろう。そうしないと駄目な落ちこぼれクリスチャンになってしまう気がする。

キリストが十字架にかかられ、新しい契約の時代がきた。それが、ユダヤ人も使ってる聖書の旧約に対して新約なのだ。旧約時代、神様はイスラエルの民を選び、歴史の中で、神様に従うことを望まれた。が、人間は弱くて従えなかった。新約時代、キリストは、その弱さを神様の前に赦すため、私の代わりに死刑の処刑を受け、私の神様への罪を無しにしてくれた。

今、新約時代、クリスチャンは〜しなければならない世界から解かれた。「イエス様、ごめんさい。」ということで、赦され、癒され、受け入れられる。そして、赦された私は、感謝とあわれみのうちに、神様についていきたいと応答する。神様との新しい関係の中に入っていく。

厳格な家庭にも、同じような両親の律法の世界があったりするのかもしれない。本来、子どもは受け入れられて、ありのまま、わがまま言ったり元気に育つ。家庭の厳格な律法に縛られている良い子どもはあぶない。〜しなければならない世界には、到達点がなく、自分自身でよいという肯定感は決して育たない。

律法の縛りから解かれ、私たちは一人一人はこのままで素晴らしい存在であることを受け取れますように

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2008年7月31日 (木)

自殺願望をもったエリヤに神様がしたこと

『彼(エリヤ)は、…自分の死を願って言った。「主(神)よ。もう十分です。私のいのちを取り去ってさい。」…主の使いがもう一度戻って来て、彼にさわり、「起きて、食べなさい。旅はまだ遠いのだから。」と言った。』第1列王記19:4.7

ときとして、人は大きなことをした後、精魂尽き果ててしまうことがある。エリヤは信仰の人で、バアルの預言者450人を一人で相手にし、どちらが本当の神か戦いをし、みごと勝利を治めた。

そんな英雄エリヤは、その後、命を狙われ、「もう駄目だ」と神様に自殺願望を話す。

エリヤに神様がされたことは、何か特別なことではなかった。食べて力をつけさせることだった。

私の息子は基本的に能天気なタイプだが、小さいときから、お腹が空くと人生ブルーになり、悲しくなる。親は「大変だ。食べ物、食べ物」と慌てる。食べるといつもの明るい子どもに戻る。

人生疲れ果てて、死んでしまいたいと思うときがあるかもしれない。そんなときは、まず、よく休み、食べることかもしれない。旅は続いている。ゆっくり、歩けばいい。

神様、自殺をしたい程に苦しんでいる人がいるのなら、誰かを送ってください。その疲れが少しとれるように、休み、食べられますように。そして、旅の途中でしかないことを思い出させてくださり、新しい力を与えてください。

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2008年7月26日 (土)

子どもの不登校で、変えられた私の祈り

『わたし(キリスト)が来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。』ヨハネの福音書10:10

子どもが小学4年のとき、先生と合わなくて、毎日のように、「ママ、なんで学校いくの?どうして勉強しなくちゃいけないの?」と問われた。「ママは20才のとき、何のため生きるか悩んだけど、あなたは今その問いにぶつかったんだね。答えがわかるように、神様に祈ろう。」と一緒によく祈った。

ある日とうとうベッドに体を丸めて、「学校、行きたくない。」と言う。「じゃ、なんて連絡帳に書けばいいの?」と私は泣いていた。主人が「明日も学校休んだら、校長に話しをしに行く。」と言うと、子どもはシャキンとなって次の日、学校へ行った。が、すでに体調悪いとかなり休んだ後だった。

それまで、子どものことは順調で悩んだこともなく、ピアノが上手になるようになんて、のんきに祈っていた。が、それを境に、子どもがイエス様に会えるよう、神と人に役立つものになるよう、私の子どもへの祈りは変わった。子どもの人生に何が必要か、教えられた。

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