エデンの園に戻る
拘束と自由、聖書ではそのことについて詳しく書かれています。
『神である主は、東の方エデンに園を設け、そこに主の形造った人(アダム、エバ)を置かれた。…園の中央には、いのちの木、それから善悪の知識の木とを生えさせた。』旧約聖書 創世記2:8.9
かつての私は、自分のしたことが良かったかどうか、うまくいったかどうか、人にどう思われたかなど、たくさんのことに縛られていた。最近は、明らかに面前で失敗しても恥ずかしくなくなった。まわりがどう思うかは気にならなくなった。
スティーブ・マクベイ師は「恵みの歩み」の本で次のように言う。
「神は多くの木を園に置かれた。アダムとエバが食べてはならない木は一つだけだった。それが善悪の知識の木だった。…アダムとエバはサタンに誘惑され、その木の実を食べてしまった。すると突然彼らの目が開かれた。初めて善と悪を意識した。その日以来ずっと彼らの人生は、善悪の価値基準によって裁かれる人生となった。」
私たちが、善悪に縛られているのは、アダムとエバのせい…とも言えるかもしれないが、大切なのは、私たち生まれながらに皆持っている性質だということ。
エデンの園では、裸であったにもかかわらず、神様を見て喜んでいたので、恥ずかしくなかった。
が、自分に基準がむけられたとたんに、自分の弱さ、足りなさ、惨めさ、苦々(にがにが)しさ、失敗などに縛られ、失望するようになった。
そして、木の葉で隠すごとく、つくろうことに労力を費やす。
自分を守るためにアダムのように「この女が食べさせた。」と人のせいにする。
出産と労働が呪いとなり、死がもたらされた。
私たちは、善悪の知識の実を食べ続けて縛られている。
ローマ人の手紙5章では、「アダムの違反によって、私たちは様々なものに縛られたが、キリストの恵みによって、神様とつながり―エデンの園に戻り―すべてのものから解放される」という内容がある。
私たちはいつまでも変わらず、弱く、足りなく、失敗しやすいものであるが、いつも、キリストの十字架で赦され、「大丈夫。そのまんまでいいんだよ」と受け入れられている。
神様、私たちは神様の前に裸で出たら、恥ずかしい位、弱さを持った者ですが、赦されて、受け入れられていることを感謝します。自分に縛られず、神様のいのちに生かされる…それは間違いを認め謝ること、そこからのみ赦しを受け取れることを感謝します。自由を与えにきたイエス様、あなたによって赦され、自分中心から神様中心の私たちになれますように。
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