映画・テレビ

2009年7月 5日 (日)

“人材不足”!?

主人が「人材不足になるけど…」と言ったことばから、タイトルを考えました。

『彼らは食事を済ませたとき、イエスはシモン・ペテロに言われた。

「ヨハネの子シモン。あなたは、この人たち以上に、わたしを愛しますか。(アガペー=神の愛で)」

ペテロはイエスに言った。「はい。主よ。私があなたを愛する(ヒィレオー=兄弟愛で)ことは、あなたがご存じです。」イエスは彼に言われた。「わたしの小羊を飼いなさい。」…

イエスは三度ペテロに言われた。「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛しますか(ヒィレオー)。」と言われたので、心を痛めてイエスに言った。

「主よ。あなたはいっさいのことをご存じです。あなたは、私があなたを愛する(ヒィレオー)ことを知っておいでになります。…」』新約聖書 ヨハネの福音書21:15~17

昨日、キリスト教番組「ライフライン」に、盲目でテノール歌手の新垣勉(あらがきつとむ)さんが出て、絶望から、イエス様を賛美するようになった話しをしていた。

戦後、アメリカ兵の父と、日本人の母のもとに生まれたが、両親は離婚し、祖母を母と言われて育った。出産時に、助産婦さんが目を洗う薬を間違って違う薬品を使い、盲目になってしまった。

高校の頃は自殺を何度も考えたらしい。

教会に通うようになり、ある日、牧師に「僕はアメリカに行って、僕を捨てた父を探して、殺したい。」と言った。

すると、牧師は何も言わずに泣いていた。

新垣さんは、「牧師だから、そんなこと言わないで、赦しましょうとか言うのかなと思ったんです。牧師は何も言わずに泣いていたんです。」

自分のために泣いてくれる牧師に、心動かされ、彼の心は溶けていく。

私は「泣いてくれない牧師だったら、どうなっていたかな。」とつぶやいた。

主人は、「現実それでは人材不足になるが……こういう人こそ、牧師になるような人だ。」と言った。

牧師や人に何かを期待して、苦しい思いをしてきたのが私だから、牧師たるもの…とは私は言えない。

しかし、コリントの手紙に出てくるように、“愛がないなら、すべてはむなしい”と思った。

私が、彼の「父を探しあてて、殺したい」と言ったことばを聞いて、その苦しみに一緒に泣けるだろうか。自信はない。

たとえ、すばらしいみことばの解き明かしがあったとしても、癒しがあったとしても、奇跡があったとしても、神の愛が無いなら、すべては虚しい。

ペテロは、イエス様に「他の何よりも、わたしを愛しますか。」と言われた。

ペテロは自分が、イエス様の愛に応えられない者であるのを知っていた。

イエス様を愛し、人を愛するというのは、「私には愛する力は何もありません。」と言うものなのだと思った。

私が何かできると思ったとき、何かをしてしまうのかもしれない。

新垣さんの出会った牧師は、何もできず、ただ彼と心ひとつとなって、泣くだけだったのだなぁと思わされた。

何もできない…その無力さの中にキリストの愛が働くのを思うとき、私は何かができると思っている自分に愕然として泣けてしまった。

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2009年6月13日 (土)

“神の選びの確かさ”

“神様の選びの確かさ”を教えられた分かち合いです。

『その(リベカ)の子どもたちは、まだ生まれておらず、善も悪も行わないうちに、神の選びの確かさが、行いにはよらず、召してくださる方によるようにと、「兄は弟に仕える。」と彼女に告げられたのです。…

神はモーセに、「わたしは自分のあわれむ者をあわれみ、自分のいつくしむ者をいつくしむ。」と言われました。

したがって、事は人間の願いや努力によるのではなく、あわれんでくださる神によるのです。』新約聖書 ローマ人の手紙9:11~16

4年前、NHKの「選民ユダヤ人のガサ追放」という番組を見た。衝撃を受けた。そして、この聖書の箇所の意味が深く理解できたような気がした。

世界中に散らされたユダヤ人は、旧約聖書にある、自分たちこそ、神の選びの民だということに誇りをもち、どこにいても、その信仰を継承してきた。

あるユダヤ人が、イスラエルこそ私たちの地だと約束を信じて、過去のすべてを捨てて戻ってくる。

しかし、政治情勢の厳しい中、彼らはそこから追い出される。

それでもなお、聖書のことばを信じて言う。「聖書には、私たちにこそ、この地を与えると神は約束されているのです。私はこれを信じます。」

命をかけて、生活のすべてをかけて神様を信じる姿がそこにあった。

私は、神様と出会う前、空しさと孤独で、何かを求めていた。そして、生かしてくださる神様に出会った。

私は神様によって見つけてもらったと言いつつ、心の奥底で、他の人より求める気持ちが強かったから信仰をもてたと、どこかで自負していた。

ところが、そのユダヤ人の方の神様を信じる気持ちは、半端ではない。全生活をなげうっても、聖書の約束を信じてイスラエルに戻ってきた。そして、どんな厳しい現状でも、なお信じている。

しかし、イエス様をまだ見い出していない。

“事は人間の願いや努力によらず…”とあるが、私の中に、いかに“願いや努力”によって神様の事が成ると思っていたかを見せられた。

「兄エサウは弟ヤコブに仕える」ということが、まだ生まれる前から、善も悪も行わないうちに、“神の選びの計画の確かさ”が、行いによらず、ただ神様によって決まっていたと、聖書にある。

人間側にはその選ばれる理由はひとつもなく、神様の選んだということだけがすべての理由だという。

前はこの箇所を読んで、何か不公平感をもっていた。私たちは何をしても、自分には選択権がないのかと。

しかし、神様は滅びゆくものを、ただ神様のあわれみで選んでくださったのだ。

“神様の選びの計画の確かさ”、それはまったく私の側に選ばれる理由はないのに“神様のあわれみ”という理由で選ばれたということを知った。

神様の深いあわれみの中で、揺らがない選ばれた者としてある恵み、心から感謝する。

そして、ローマ11章では、神様はイスラエルの民を選ばれたことは、無効となっていないという。

それは、異邦人の救いのためで、一時的であることが書かれている。

神様に感謝します。

###

神様、私たちの神様の選びが、神様によって成り立っているので、揺らがないことをありがとうございます。

私が何か間違ってしまっても、それでも変わらず、選ばれていることをありがとうございます。

この“選びの確かさ”の神様のあわれみの中にいこわせてください。

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2009年3月26日 (木)

スキャンダル恐るべし!

お笑いの陣内さんの離婚謝罪会見に思いました。

『神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣(つるぎ)よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄(こつずい)の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。

造られたもので、神の前で隠れおおせるものは何一つなく、神の目には、すべてが裸になり、さらけ出されています。私たちはこの神に対して弁明をするのです。』新約聖書 ヘブル人への手紙4:12.13

芸能界恐るべし…陣内智則さんと藤原紀香さんの離婚が大々的に伝えられ、陣内さんが記者会見で“謝罪”をしているのをテレビで見て、思った。芸能人は、ファンに支えられているので、そのプライベートのことまで、明らかにしていくのは仕方ないのか。気の毒な気持ちにもなる。

かく言う私も「きれいな奥さんもらって、調子ずいちゃったのかね。」と主人に話す。「立派な奥さんに息苦しくって、少し抜け道が欲しかったんじゃないの。」と主人。人のスキャンダルはどうでもいいよと思いつつ、私も茶の間のコメンディターになる。

芸能界恐るべし、芸能人でなくって良かった。

が、聖書では、私たちは神様の前では隠せるものは一つもなく、すべてがお見通しになっているとある。そして、この神様に私たちは釈明するのだとある。

私はあるとき、もし自分の心で思っていること、考えていることが、大きなスクリーンに映し出され、みんなに見られたらどうなるだろうかと思った。表面は美しく着飾って、すましていても、心の中は汚くよごれ、惨めで、悲惨である。私は恥ずかしくて真っ赤になり、その場に居ることに堪えられないだろう。

苦悩して記者会見する陣内さんどころではない。

だから、私たちは、自分の内側を見ようとしない。見ても、あまり良いものがないし、苦しくなるばかりである。

聖書のことばは、私たちの考えや思いの深いところまで照し、私たちの動機も探るとある。ここまでで終わりだったら、悲惨である。手術でお腹を開き、患部発見で終わりになる。痛みが走り、血が患部からダラダラと流れる。

イエス様は私たちの汚れたものを見つけ、取り去り、きれいにして回復させるために来てくれた。

自分の悪いところを反省するところで終わるのはつらい。悪いところを癒しおおってもらうところに回復への道がある。

神様、私たちは、みんな、人には隠しておきたいような部分を持っています。

隠しておけば、誰にも気がつかれず、なんとかなると思います。

けれども、言動の元になっているのは見えない心にあります。

神様がイエス様の十字架で治療し、さっぱりきれいにしてあげるよと言ってくれています。

怖がらず、恐れず、すでにすべてを知っておられる神様の前に認め、癒しおおっていただけますようにお願いします。

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2009年3月14日 (土)

奥田師の「ホームレス支援」見ました

奥田師の活動に、深く慰められ、励まされました。

『そうして、王は…言った。「さあ、わたしの父に祝福された人たち。世の初めから、あなたがたのために備えられた御国を継ぎなさい。

あなたがたは、わたしが空腹であったとき、わたしに食べる物を与え、わたしが渇いていたときに、わたしに飲ませ、わたしが旅人であったとき、わたしに宿を貸し、わたしが裸のとき、わたしに着る物を与え、わたしが牢にいるとき、わたしをたずねてくれたからです。…

あなたがたが、…最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。」』新約聖書 マタイの福音書25:34~40

3月10日のNHKの番組「プロフェッショナル」を見た。“きずなが人を生かすから”のサブテーマで、牧師で、NPOでホームレス支援をしている奥田知志師の話しだった。

ホームレスは家を失った人ではなく、“きずなを失った人々”と言っていた。自立に向けて、サポートしていくが、「無理するな・楽するな」と根気強く声かけしていく。施設入居期間は6か月だが、その間に就職できず、自立できずとも、声をかけ続ける。

「路上生活している人はいろんな傷がある。心の傷と向き合い、今の自分を見ることが出来なければ、本当の自立はない。」と奥田師は言う。

そしてナレーションが言う。「奥田さんには、一つの覚悟がある。それはホームレスのホームになることである。」「野宿状態になった人たちが踏み出すことは難しい。だから、いい面が出ても、悪い面が出ても待つ。一緒に反省するし、一緒に悩むし、一緒に泣く。ホームになるというのは、結局そういうことではないですかね。」と奥田師は言う。

7年声をかけ続け、相手にされず「ほっといてくれ」と言う人がある日心を開き、入院し、最期には「ありがとう。」と言って笑顔で召された。“人は変わる”と彼に教えられたと話す。

私の感想は2つ。一つはとても慰められた。かつて、ある精神を患う人に関わらないと言った牧師がいて、(自分の限界や恐れがあったのだろうと今は同情しているが…)見捨てられた人たちに痛みが拡がったことがある。何故、牧師は外に出ないで教会から動かないのかと思ってきた。だから、計画や賜物も皆違うのだろうが、そのように弱い、助けを必要な人へと出ていく牧師がいることが慰めになった。

もう一つ感じたことは、私には、人を自立に向けるサポートできる能力はないが、身近かにいる人で思わされている人は諦めず、拒絶されても、祈り続けたいという思いだった。

神様は私を諦めなかった。忍耐の限りを尽くしてくれた。何も出来ないようなときでも神様の与えてくださる祈りで、祈り続ける希望と励ましを与えられた。

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2009年3月 7日 (土)

人が主に向くなら…

神様はいつも変わらず、私たちを祝福したいと待っていてくれています。

『主(神)があなたを祝福し、あなたを守られますように。

主が御顔をあなたに照らし、あなたを恵まれますように。

主が御顔をあなたに向け、あなたに平安を与えられますように。』旧約聖書 民数記6:24~26

“悔い改め”(くいあらため)は、キリスト教用語でクリスチャンは良く使う。自分の間違いを認め、行動を改めると言うことだと思うが、私たちはちょっと間違うと、自分の力で、改めようとしてしまう。

自分の力で改めていけるぐらい、意志が強く、自分を変えられるなら神様の助けはいらない。

キリスト教番組「ライフライン」で、あるメッセンジャーの方が面白い描写をしていた。

「私たちは太陽に背中を向けて歩いていると、自分の影だけが見えます。神様との関係においても、神様に背中を向けると自分の悪いところだけ見て歩くようです。が、いったん、神様を向くと神様の光に照らされます。」

“悔い改め”はそういう意味で、自分から神様を見るということかもしれない。

私は民数記のこの箇所が好きだ。神様が私を祝福してくださるので、私は守られる。神様が私にほほえんでくださるので、私は恵まれる。神様が私を見ているので、私に平安が与えられる。

意志も弱く、力もなく、知恵もないそんな私に神様が臨まれるので、私は守られ、恵まれ、平安が与えられる。

すべての祝福の起因は私には一切なく、ただ神様にのみある。私の祝福の原因は神様の主権による。

私が弱さを覚え、足りなさを覚え、無力だと感じても、私の祝福の源は神様にある。

ひっそり自分の影を見るのを止めて、神様のほうに向くならば、神様はいつもほほえんで光を照らしてくださる。神様、ありがとう!

「しかし、人が主に向くなら、そのおおいは取り除かれるのです。

主は御霊(みたま)です。そして、主の御霊のあるところには自由があります。

私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。』第2コリント3:16~18

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2009年2月27日 (金)

はずかしめの刑

イエス様の十字架がどんなにみじめな、はずかしめのものだったか聞き、教えられました。

『道を行く人々は、頭を振りながらイエスをののしって、言った。「神殿を打ちこわして三日で建てる人よ。もし、神の子なら、自分を救ってみろ。十字架から降りてこい。」

同じように、祭司長たちも律法学者、長老たちといっしょになって、イエスをあざけって言った。「彼は他人を救ったが、自分は救えない。イスラエルの王さまなら、今、十字架から降りてもらおうか。そうしたら、われわれは信じるから。…」

イエスといっしょに十字架につけられた強盗どもも、同じようにイエスをののしった。』新約聖書 マタイの福音書27:39~44

1月24日のテレビのキリスト教番組「ハーベストタイム」で、中川先生のお話しの中に、イエス様がかかられた十字架の説明があった。

「十字架というのは、見せしめの刑です。長く人々の目にさらすのが目的でした。張りつけの十字架も、人々の目の高さにあります。そこにかけられた人は素っ裸ではずかしめの刑を受けます。糞尿は垂れ流しになります。」と話していた。

十字架は、手足に釘を打たれ、失神してしまうような、考えられない痛みと前に誰かに聞いた。また、ずっと、信頼する天のお父さんである神様に、(人々の身代わりの)裁きのゆえに、断絶され、絶望の状態だと聞いてきた。

改めて、それらに加え、すべての人たちの前に裸になり、見せしめに会い、はずかしめられ、ののしられ、あざけられ、さんざんだったことを思った。

ハ・ヨンジョ師の本で「あなたは不当な扱い、不当なもてなしを受け、怒りましたか。怒らずにそれを受け入れてください。」という箇所があった。

私は不当な扱いを受けると怒る。自分の権利を主張する。当たり前だと思う。

けれど、神の子であられるイエス様がどんな状況で殺されたか、それは実は私の罪のためであったことを思うと、考えさせられる。

十字架のペンダントのように、イエス様の十字架はキラキラと美しくなく、見ていられない、惨めで、汚いものだった。そこまで、私のために、イエス様はなしてくださった。

なんだかあれが、これが不当だと叫ぶ自分は何者だろうかと思ってしまう。

私は「これをします、あれもします」と言う前に、糞尿にまみれながら、私の代わりにはずかしめの刑を受けられたイエス様を静かに思いたい。そこから神様のあわれみに包まれたい。

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2009年1月13日 (火)

悪魔が喜ぶもの

聖書でいう悪魔(サタン)の働きについて書きます。

『身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたけるししのように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています。堅(かた)く信仰に立って、この悪魔に立ち向かいなさい。』新約聖書 第1ペテロの手紙5:8.9

私が中学生の時、「エクソシスト」という映画が話題になった。それを見たら、気を失ってしまうほど怖い映画だと、噂が流れ、怖いもの見たさに電車に乗って、友人と映画を見に行った。

内容は悪魔に取り付かれた少女を救うため、神父が悪魔払いをして命がけで戦うというような話しだった。怖かったかといえば、少女の首が一回転したりするのだが、そんなに怖くなかった気がする。

聖書では、神様がいるように、神様と人間の関係を断ち切ろうとする人格をもった悪魔(サタン)がいるとある。

何が怖いかといって、悪魔に取りつかれる…というような特別なことより、悪魔がささやき、心のスキに入りこんでくることである。

悪魔の喜ぶものがある。人と人の中に出来る不信感、不和、妬み、争いは手を叩いて喜ぶ。

また、人が堕落していくことを喜ぶ。

「悪習慣を断ち切る法」の本に次のようにある。

「ジェームズ・ストーカーはこう書いた。『人類の大誘惑者(サタン)は2つのうそを用いる。罪を犯す前は、一度ぐらい犯しても問題ではない、ささいなことだ、簡単に立ち直れる、と教える。そして、罪を犯してしまうと、もう望みはない、罪に身を任せてしまったのだから立ち直ろうとすることはない、と告げる。』ストーカーはこのどちらも間違っていると述べている。…

…非常に深い意味で、あなたは新しく出発できる。」

キリストの十字架は私たちの過去、未来、現在のすべての罪を消し去り、帳消しとしてくれる。過去が未来を支配することがないことを約束する。

吠えたけるししのように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回る悪魔が嫌がるもの、それは神様への信頼、感謝、聖書のことばがある。

吸血鬼はニンニクを嫌うように、私たちの心のスキに入りこもうとする悪魔はなにより聖書のことばが嫌いなのである。

『平和の神は、すみやかに、あなたがたの足でサタンを踏み砕いてくださいます。』ローマ人への手紙16:20

『悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身に着けなさい。…救いのかぶとをかぶり、また御霊の与える剣(つるぎ)である、神のことばを受け取りなさい。』エペソ人への手紙6:11~17

神様、弱い私たちですが、聖書のことばに守られ、悪魔の喜ぶ側ではなく、神様が喜ぶ側に立ち続けられるよう、守ってください。

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2009年1月 5日 (月)

非暴力で闘ったキング牧師

テレビ「その時歴史は動いた」で、キング牧師の運動を見て、感動しました。

『すべての谷は埋め立てられ、すべての山や丘は低くなる。盛り上がった地は平地に、険しい地は平野となる。
このようにして、主の栄光が現されると、すべての者が共にこれを見る。』旧約聖書 イザヤ書40:4.5

民主主義国家と言われるアメリカに、オバマ大統領が生まれたが、わずか50年前、黒人差別がまだ、根強く残っていた。

キング牧師は「非暴力」によって、その差別をなくす運動をする。神様が、彼を選ばれ、歴史に働いてくださったことを、改めて思い、感動に溢れた。

1862年、リンカーン大統領により、奴隷制度の廃止をするが、人種差別は根強くあり、州の中には、それが合法化されていた。

1955年、アラバマ州モンゴメリーで一人の黒人女性が、バスの座席を白人に譲らなかったことで逮捕された。キング牧師は、黒人の人たちに「バスに乗らず、歩こう。」と促し、皆歩いた。足の悪いお年寄りの婦人は「私は自分のために歩いているのではなく、私の子どもや孫たちのために歩いているのです。」と言い、歩き続けた。逮捕された黒人女性は、平等に目覚め、バスボイコットする黒人たちによって、勝訴した。

1963年、バーミングハムにてのデモ行進中に、消防署は水を黒人にかけ、警察は警察犬で、無抵抗の黒人を襲わせた。その場で、写真を撮っていた白人ジャーナリストは、アメリカ中にその実態を報道した。

やがて、それらは白人の良心もめざめさせていく。そして、共にデモに参加していくようになる。

国中の動きとなり、ケネディ大統領は公民権法案を提出する。1963年、ジョンソン大統領はそれを成立させた。

差別に悩み、法律を学び、牧師になったキング牧師。

ワシントン大行進デモでの演説「I Have a Dream」(私には夢がある)が有名。

「私には夢がある。…今日も明日も、いろんな困難や挫折に直面しているが、それでもなお、私には夢がある。…いつの日かジョージニア州の赤土の丘の上で、かつての奴隷の子孫たちと、かつての奴隷主の子孫たちとが、共に兄弟愛のテーブルにつくことができるだろう。

すべての谷は埋め立てられ…険しい地は平野となる。このようにして、主の栄光が現されると、すべての者が共にこれを見る。…」

1968年、39歳にして、暗殺されるが、その前日のキング牧師の演説をインターネットから拾った。

「前途に困難な日々が待っています。でも、どうでもよいのです。私は山の頂上に登ってきたのだから。

神の意志を実現したいだけです。神は私が山に登るのを許され、私は頂上から約束の地を見たのです。

…今夜、私は幸せです。心配も恐れも何もありません。神の再臨の栄光をこの目で見たのですから。」

神様、キング牧師を通して、私たちにくださったものをありがとうございます。キング牧師の働きは、世界中の少数派の人々、しいたげられている人々に、今なお希望と励ましを与えてくれています。ありがとうございます。主よ。

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2008年12月27日 (土)

監督に恩返しする仲村トオル

俳優、仲村トオルがテレビで語っていた話しから教えられました。

『もし、あなたがたが心を尽くしてわたし(神)を捜し求めるなら、わたしを見つけるだろう。』旧約聖書 エレミヤ書29:13

最近“K-20”(怪人20面相伝)の映画を放映するということで、宣伝のためか出演者の仲村トオルがよくテレビに出ている。

彼は小学の時、野球に夢中になっていた。が、中学で自分より上手い選手がいることで、野球熱もさめた。それからはなんとなく過ごしていた。こんなことではいけないと、あるとき俳優オーディションを受け、見事主役抜擢となる。

それが、那須博之監督の“ビーバップ・ハイスクール”である。ツッパリ高校生役だった。仲村トオルは「みんな不良みたいなのが、オーディションにきていた。」と言う。「オレは時間守って遅刻しなかったから受かったかな。」と言っていたが、那須監督はたくさんの人の中から、彼に決めていたらしい。

番組では脚本家で故人那須監督の奥さんが、仲村トオル宛に手紙を書いて読んでいた。

仲村トオルは言った。「あの時、見い出してもらって、那須監督は命の恩人。もう恩返しは出来ないけど、『デビュー作品は?』と聞かれたとき『那須監督のビーバップ・ハイスクール』と監督の名前をたくさん出せるよう、頑張ってきた。」と一筋の涙を流しながら、語っていた。

今ではベテラン俳優だが、那須監督に見い出してもらった感謝は彼の中では変わらないのだろう。

聖書的にこの諺(ことわざ)は次のように訳すのはどうだろうか。“初心忘れるべからず”=“自分を見い出して生かしてくれた方を忘れるべからず”

この前、ある友人から「目に見えない神様が存在しているっていう確信はどこから来るの?」と聞かれた。

人によって違うかも知れないが、私はこう答えた。「私の場合は、今の自分の内側を見ると神様がいることがわかる。なぜなら、100%自己否定、自己嫌悪の自分が100%自己肯定にされたのは、神様の何者でもないから…。」

那須監督は、たくさんの人の中から仲村トオルを見い出した。生前、監督は「トオルはいい俳優になる。」と言っていたらしい。

私たちは何の才能もないが、神様から見い出され、生かされた。

何故か。ただ神様の栄光が現されるためである。私は「どうしてそんな良いことが出来るのですか?」と誰かに誉められたら、「死んでいた自分を見い出してくれた神様、イエス様への恩返しです。」と神様の名前を出せるものでありたい。

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2008年12月26日 (金)

戦国時代を信仰で生き抜いた大友宗麟

日本史には限りなく疎(うと)い私ですが、NHKの「その時歴史は動いた」で素晴らしい信仰の人の話しを聞き、感動したので、書くことにしました。

『信仰の試練は、火を通して精練されてもなお朽ちて行く金よりも尊いのであって、イエス・キリストの現れのときに称賛と光栄と栄誉に至るものであることがわかります。』新約聖書 第1ペテロ1:7

戦国時代の大名、大友宗麟(おおともそうりん)は、一般的に、キリスト教を利用して、自分の国を豊かにしようとした人として伝えられる。

しかし、彼は戦国時代の大名として、信仰と戦いという矛盾の中で、信仰を貫いた人だった。

彼はキリシタンの理想国家を作ろうとするが、そのための戦い(耳川の戦い―1578年)で2万人の兵士を戦死させてしまう。

「皆愛し合う理想郷を作るため、もっとも大切な部下を死なせてしまった。」と自分の罪の深さを思い、退却する。

1586年(天正14年)12月、日向(ひゅうが)の臼杵(うすき)城に立てこもる。そして2000人の島津軍に囲まれる。その前に、宗麟は領民が捕まり殺されたり、奴隷にならないよう、皆を集めさせて、城にかくまう。

宗麟は自ら領民のために自分の食料、衣服を与え、ひたすら尽くす境地となった。

ろう城3日目、策は尽き果て、あとは祈ることしか出来なかった。信じる神に祈り続けた。奇跡は起きた。島津軍が城から離れていった。

一度は逃げた宗麟の息子が城に向かって助けにきたので、島津軍はそこを離れて、迎え打たなくてはならなくなったのだ。

1587年その時歴史は動いた。一年前に、宗麟自ら、豊臣秀吉に助けを願った。が「四国平定の後に助けに行くので、一年こらえてくれ。」と言われ、その約束のときとなり、秀吉の兵が宗麟の援軍として九州平定に来たのだった。

秀吉が日向を与えると言うのを宗麟は断った。その記録が宣教師によって書かれており、次のようにあった。

「王(宗麟)は新たな国を治めることを望まず、魂が救われることを望み、それを願った。」

ヨーロッパでは“日本の最も叡知聡明な王”とされ、小田信長より高く評価されていた。

晩年、戦国大名でありながら、信仰に生き抜いた宗麟の言葉がとても重みをもって、私の心に突き刺さった。

「人生における敗北、苦しみは試練であり、不幸ではない。

灼熱(しゃくねつ)の炎に磨かれる黄金のように、試練によってこそ人は高められる。」

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