日記・コラム・つぶやき

2009年10月28日 (水)

“ブログを書く動機”

毎日ブログを書いていますが、書く動機となっているものの話しです。

『もしあなたのみおしえが私の喜びでなかったら、私は自分の悩みの中で滅んでいたでしょう。

私はあなたの戒めを決して忘れません。それによって、あなたは私を生かしてくださったからです。…

あなたのみことばは、私の上あごに、なんと甘いことでしょう。蜜よりも私の口に甘いのです。…

あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です。』旧約聖書 詩篇119:92.93.103.105

ブログ訪問いつも、ありがとうございます。

皆さんが訪問に来てくださるので、私も休むことなく、毎日続けられています。

私は努力する…とは無縁の人間なので、このブログを書く、皆さんと分かち合う…ということが楽しいと思わなければ、決して続きません。

また、聖霊様の助けとあわれみの中で書かせてもらっていると感じています。

始めの頃は、書く記事のネタ帳を作っていました。幾つか書く記事の候補があって、そこから選んで書いていました。

今はネタ帳は無しです。何を書こうかなぁと夜になって考えるのですが、何も浮かばないときは、お風呂の中で、「神様、何を書いたらいいでしょうか」と聞きます。

個室のお風呂場で決まることが多いです。

私にとって、聖書のことばや自分の体験や神様を分かち合えることはとても幸せなことです。

たぶん、私の生きている上で、一番強い欲求がこのようなことなのだと思います。

なぜ、私にとって、その欲求が一番強いかといえば、そのように造られているからかもしれませんが、自分の過去を振り返るとき、地獄のように苦しい日々があったからとも思います。

イエス様に出会わない頃、何のために生きているか本当に苦しみました。

だから私は今普通に生活していますが、もし何のために生きているかわからなかったならば、やはり昔と同じように、地獄のように苦しんでいると思います。

ですから、私が今普通のように生きているこの日々は、イエス様無しにはあり得ず、ただあわれみによって生かされていることを思います。

信仰生活を始めて30年ですが、私の中ではこのイエス様の十字架の赦しの意味が日ごとに大きくなり、心を占めています。

霊的なことで、外からはわかりにくいことですが、この主の霊に生かされている喜びを思うとき、分かち合いたい思いがますます強くなります。

ブログという形で、いろんなことを分かち合える恵みを思い感謝しています。

今日は、お風呂の個室で、私がブログを書き続ける訳、動機みたなことを分かち合いたいと思わされ、このような記事を書きました。

神様、イエス様、聖霊様の良いことを少しでも分かち合えたらばありがたいと願っています。

訪問ありがとうございます。神様の祝福がありますように。

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2009年7月22日 (水)

“教会の遠く外まで”

教会の遠く外のクリスチャンと関わったときの話しです。

『私は、ギリシャ人にも未開人にも、知識ある人にも知識のない人にも、返さなければならない負債を負っています。

ですから、私としては、ローマにいるあなたがたにも、ぜひ福音を伝えたいのです。』新約聖書 ローマ人への手紙1:14.15

教会の遠く外にいて、教会に入ることのできない方とやりとりをしたときのことを思い出しました。

その方の信仰は、幼子のごとく、純粋でした。

彼はなぜ、教会たちから締め出されたのか、私たちは最後まで関われなかったのか思います。

私の歩んだ教会たちで話しをした教会が閉じられる少し前の話し。

牧師夫妻が、一人の女性の方をしばらく、自分の家に住まわせていた。

彼女には付き合っている方がいて、一時その方から離れるために、そこに居候させてもらっていた。

もう、彼のところに戻ったり、そこから脱出?したり繰り返していた。

どちらの方も、精神的に病んでいて、依存して付き合ったり、うまくいかなかったりだったのだと思う。

その彼女が、私の電話を彼に教えたので、彼から良く電話がくるようになった。

依存症なので、一度頼れる人だと思うと、四六時中電話がくるようになる。

私も悩んだ。「これから、病院行くのだけど、何と言ったらいいか。」など聞いてくる。

本当は、教会の牧師が対応してくれるといいのだか、かつて、嫌な思いをしたらしく、彼とは関わらないとの一点張りだった。

彼の、人に理解されない言動は、店や教会を出入り禁止されるほどだった。

まさに、世の中からも、教会からも締め出された状態だった。

言動は人から理解されなかったが、彼の信仰は幼子のごとく、素直な信仰だった。

「sebaさん、牧師は僕を赦さないというけれど、イエス様によって、僕も牧師もみんな赦されているんですよね。」と良く言っていた。

彼の信仰だけが純粋に輝いていた。

けれども、四六時中の電話には私も閉口した。

私も悩んだ。私も彼との関係を切ると、誰も頼る人がいなくなるのではないか。

神様に祈り、何人かに相談した。

結局、自分のできないことは、できないと神様にも人にも言おうと言うことになり、彼にもう電話で受け答えはできないと話し、わかってもらえた。

私自身も、自分に自信を無くした。

彼が女性だったら、まだ、もう少し対応できたのだろうかとかいろいろ考えた。

「神様、私には男性の方に福音を伝えたり、関わるのは難しいですか。」

その祈りをしていたとき、神様が答えてくれた聖書のことばがこのローマ人の手紙の箇所だった。

「誰にでも福音を伝えなさい」と神様から言われた気がした。

彼はどうなるのか。教会でチームとかあって、一人の人に対応できたら、一人の負担にならずに関われるのかもと思う。

その前に、彼を理解する人が教会にいなければ、彼はいつまでたっても、出入り禁止状態なのだと思う。

教会の外に神様の愛が具体的に表されますように。

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2009年7月21日 (火)

“石焼きビビンバ”

美味しいものは美味しい…神様のことばもそんなふうになるといいなぁと思いました。

『わたしは、天から下って来た生けるパンです。だれでもこのパンを食べるなら、永遠に生きます。またわたしが与えようとするパンは、世のいのちのための、わたしの肉です。』新約聖書 ヨハネの福音書6:51

今日は、我が家で、特別支援学級に通う子どものお母さんたちとのお茶会の日だった。

だいだい3人だけれども、今日は仕事で一人の方が来れずに、2人だった。

いつも、その場で生きている子どもたちの話しを聞くと、ひたむきに生きる素晴らしさを教えられ、感動に浸る。

月1ペースで始めて、5年目になる。

私はお茶会の日はお昼は何にしようか、考える。パン、焼きそば、スパゲッティ、お好み焼きなど、簡単、無難なメニューを考える。私が、とにかく料理が苦手で、人に食べてもらうというおもてなしが苦手なのだ。

今日は、思いがけず、生協の“石焼きビビンバ”セットが冷凍庫にあったので、石焼きで焼いて一緒に食べた。

美味しかった。二人でかなりの量をペロリと食べた。

息子の近況を少し話すと、彼女は「ブログで見ました。」と言ってくれた。

信仰ネタの多いブログだが、拾って読んでくれているみたいでありがたい。

この前、別の友人は、私の母の事などの過去のブログを見ていると言ってくれた。

別のランチ友だちの2人の友人も、わからないところを飛ばしながら見ていると言ってくれた。

“石焼きビビンバ”がみんなにとって美味しいように、神様のことばも、本当は誰にとっても美味しいはずだ。神様がみんなのために書いたことばだから。

この前、いつも訪問してくれるミニマルにも、「今日はセバのことばが多かったから、すんなり入ってきた。」とコメントをもらった。

美味しいものを、固く、食べにくくしているのだなぁと思った。

美味しいものは、子どもにとっても、お年寄りにとっても美味しいはず。

イエス様は誰にでもわかるように、神様について話された。

ノンクリスチャンが読んでくれても、クリスチャンが読んでくれても、ともに、神様のことばは美味しいね…そんなブログになれたらよいなぁと思った。

きっと、日常のいろんなところに、神様の真実と聖書の真実はあるのだと思う。

ブログを宣伝して歩いたのは私だけど、改めて読み続けてくれるノンクリスチャンの友人たちにありがたい思いになる。

霊的?でないタイトルは勇気がいるけど、神様の愛は、聖書知識やそのことばで壁をつくらない。

神様が伝えたいメッセージが、神様の優しさとともに人々の心の中に入りますように。人を慰め、励ましますように。

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2009年7月20日 (月)

“永遠の愛をもって愛する”

ブログ訪問の方々の神様にある祝福を心から願います。

『それゆえ、私は生きているかぎり、あなた(神)をほめたたえ、あなたの御名により、両手を上げて祈ります。

私のたましいが脂肪と髄(ずい)に満ち足りるかのように、私のくちびるは喜びにあふれて賛美します。

ああ、私は床の上であなたを思い出し、夜ふけて私はあなたを思います。

あなたは私の助けでした。御翼の陰で、私は喜び歌います。

私のたましいは、あなたにすがり、あなたの右の手は、私をささえてくださいます。』旧約聖書 詩篇62:4~8

私は今日は、コメントくださった方々のプリントアウトした紙をファイルに整理し、こんなコメントいただいなたぁと、過去を振り返っていました。

コメントを一度、いただいた方との会話は、私は自慢ではないけど、全部覚えています。

コメントはたった一度でも、その方が、また訪問してくださっているのを見ると嬉しいです。

ずっといつも来てくださっている方が、来られなくなったりすると、一人で寂しく思ったり、その方のために祈ったりして、一人一喜一憂しています。

最近、寝ていて、目覚めるか目覚めないかの中で、神様から語られたり、見せられりいろいろあるのですが、昨日の朝はこんなでした。

16さん、3Cさん、A8さん…目覚めない意識の中でナマログのパソコンナンバーの方を祈っていました。

これは私の信仰とかでなく、神様が一人一人をとても、妬むほどに愛しておられるのを、私に祈らせているんだなぁと思いました。

私も訪問してくださる皆さん一人一人がとても大切な人たちです。

イエス様にある良いものを一緒に食べている…そんな一体感があるからでしょう。

そして、神様が切なる思いで一人一人と親しくしたいと願っているのを、強く思います。

ダビデは、朝ごと、夜ごとに神様を思い、賛美していました。そして、神様の方もまた朝ごと、夜ごとに私たちを切に求めてくださっているのだと思います。

私が訪問してくださる皆さんを思う気持ちは、限界がありますが、神様が一人一人の霊的な祝福を切に願っている、そのほんのわずかを私にも思わさせてくださっているのを思います。

『永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した。それゆえ、わたしはあなたに、誠実を尽くし続けた。』エレミヤ31:3

この聖書のことばは、私に向けられたことばであり、皆さんお一人お一人に向けられたことばです。

どんなに愛してやまないか…私が深くうまく伝えられればと思いつつ。

今日は、聖書中心というより、私の思いを話す中で、神様の思いを書いてみました。

イエス様がいのちを捨てて愛されたお一人お一人の中に、熱くイエス様の愛の焼き印が押されるほどになりますよう、祈ります。

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2009年7月16日 (木)

“ブログ一周年”

ブログ一年にあたり、その経過とこれからの報告です。

『わがたましいよ。主をほめたたえよ。私のうちにあるすべてのものよ。聖なる御名をほめたたえよ。

わがたましいよ。主をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。

主は、あなたのすべての咎(とが)を赦し、あなたのすべての病をいやし、あなたのいのちの穴からあがない、あなたに、恵みとあわれみとの冠をかぶらせ、あなたの一生を良いもので満たされる。

あなたの若さは、わしのように、新しくなる。』旧約聖書 詩篇103:1~5

去年の7月17日に、突然主人に「ブログの画面を作ったから、ブログ書いてみて。」と勧められ、ブログを初めて書いてみた。パソコンも開けない私は、人のブログも見たこともなかったが、ノンクリスチャンの友人に、私のこれまでの歩みの神様にある体験を伝えたいと思った。

まわりのノンクリスチャンの友人や知り合い50人くらいに、とにかくブログ案内をして歩いた。

そして、49年の私の体験と、そこから神様に教えられたことを書いた。書きまくった。そしたら、ネタが無くなり、ゆきずまった。

ある日、「私は教会では苦痛を感じている者だ」と控えめに書いた。(見てくれている人がノンクリスチャンの友人と思うと、教会に対する私の正直な気持ちを書くことにとてもためらった。)

それが、クリスチャンの方に共感されて、だんだん信仰ネタを書くようになった。

だから、いつも見てくれる友人には、分かりにくい話でごめんなさいという思いがあった。

が、一度、正直な気持ちを書いて、共感してもらったりして、私のブログはしっかり信仰ネタブログになってしまった。

その中で、自分の過去を書きながら振り返り、たくさんのことに気がつかされた。

25年の教会生活の苦痛は、今、神様の恵みを分かち合うためだったと理解できたときは、嬉しかった。「神様、苦しみの25年ありがとう」と感謝に溢れた。

5月に教会の中と外というテーマが示され、私自身は悔い改めるとブログで宣言した。

恵みの悔い改めに導かれた2か月だった。ブログの記事では分かりにくいが、とにかく霊的な深いところを探られ、良く泣いて祈った。

私はブログを通して、そして読んでくださる方に支えられ、見えないところで神様に取り扱われた。

神様にある良いものを分かち合う恵みも体験させてもらった。

聖書のことをたくさん語られ、書けてきたことは恵みだった。

たくさんの訪問してくださる方たちとのコメントにも励まされ、コメント無しでも、1日に何度も来てくださる方たちに励まされた。

今、また、私の中で、新しいことが起こっていて、聖書を知る知恵の御霊はどこへ…という感じで、知性が緩慢(かんまん)になっている。

何度も来てくれる方のためにたくさん記事をアップしたいが、神様次第という感じである。

“私の歩んだ教会たち”シリーズもあと2回で終わり。私の教会遍歴にお付き合いいただき、読んでもらいありがとう。

新しいシリーズとして、“自分史”をもう一度、順を追って書こうと思う。まさに私の癒しの旅の証である。

創世記も終わったら、マタイからイエス様を見ていきたい。こちらは、知恵の御霊様次第という感じだが。

自分がどういう状況であれ、神様の良いものを皆さんと分かちあい、また、特に教会の外にいる方たちの癒しのために祈りたい。

記事は少なくても、前よりたくさん礼拝し、今、いろんなことを祈れている。聖霊様のすばらしい体験の中にあって、良い形で、聖書を通して分かち合いたい。

ブログ一年のこれまでとこれからを書いた。

訪問してくださる方々一人一人を心から感謝している。

さらに、ともにすばらしい主を分かち合いたい。

皆さま、今後もよろしくお願いします。

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2009年7月11日 (土)

神は“敵を愛する者”に変えられた

自分の力ではできないが、私は“敵”を祈るものに変えられた話しです。

『「自分の隣人を愛し、自分の敵を憎め。」と言われたのを、あなたがたは聞いています。

しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。』新約聖書 マタイの福音書5:43.44

人間の愛情は、深ければ深いほど、それが変化したとき、その憎しみは深い恐ろしいものになる可能性を思う。

サスペンス物ではないが、殺意にすらなりうる。

私も過去扁で書いたが、若いとき、とても祈っていた好きな男性の人にふられたとき、自分の内側に湧いてくる恐ろしいものを見て、唖然とした経験がある。

そのときは、その人も神にある人だったので、「ひどいふりかたをしたことを本人に謝りなさい。」と神様から言われたらしく、私に謝ってきた。そのことを通して、私は自分の醜く、恐ろしいものを神様に赦して、癒してもらった経験がある。

聖書には“敵”を愛しなさいとある。“敵”と思える人を愛せる訳がない。

無理難題である。

人には不可能なことを神様はされるのだなぁと、今日、私はしみじみと思った。

私にとっての“敵”は、それが自分に苦痛を与えるものであるなら、目に見える教会の何者でもなかった。

25年間、私は教会の中にいながら、教会を裁き、批判してきた。

今、目に見える教会を愛しているか…その域には達していないと思う。

けれども、目に見えない“教会”(目にみえない大きな意味でのキリストのからだ)に対しては、神様の愛を感じる。

今日、ボランティアの帰り道、神様からの熱い愛情が私の胸に注がれ、自転車を降りて歩きながら、神様を賛美してきた。

ときに、その迫りは胸が痛くなるほどのイエス様の愛である。

そういえば、2か月前、この同じ道を胸が苦しくなるほどの聖霊様の悔い改めの霊に迫られ、悔い改めながら、自転車をおして歩いたなぁと思った。

目に見えない“教会”なんて、それまで考えたことも、祈ったこともないのに、突然、あの頃から私の関心事は、目に見えない“教会”であり、教会の外の人たちになった。

だから、私の内側に経験するイエス様の苦しいほどの迫ってくる愛情は、私個人に対するものというより、「わたしはキリストのからだを、一人一人をこのくらい愛している。」という神様からのメッセージになる。

私は25年間も教会を憎んで来たものである。恨んできたものである。

その私が、神様から教会に対する愛情を教えられ、祈るものとなるとはなぁ…私の中でも考えられないことを神様はされるのだなぁと思った。

人間の愛は憎悪になるが、神様の愛は、憎しみすら愛して止まなくさせるのだと思った。

20年前に、エレミヤ書のこのことばが、なぜか私に起こる約束のことばと信じていた。“敵”って誰?と思いつつ。

『必ずわたしはあなたを解き放って、しあわせにする。

必ずわたしは、わざわいの時、苦難の時に、敵があなたにとりなしを頼むようにする。』エレミヤ15:11

教会にとりなしを頼まれた訳ではないが、私にとって、自分のからだの一部であり、イエス様の一部だった“敵”であった“教会”を私は祈るものに、神様は変えられた。

神様のお名前だけをほめたたえます。

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2009年7月 4日 (土)

“風を見て恐れる私”

イエス様を信じているつもりでも、すぐ、不安や恐れに支配されやすい私です。

『すると、夜中の3時ごろ、イエスは湖の上を歩いてこられた。…

しかし、イエスはすぐに彼らに話しかけ、「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない。」と言われた。

すると、ペテロが答えて言った。「主よ。もしあなたでしたら、私に、水の上を歩いてここまで来い、とお命じになってください。」

イエスは「来なさい。」と言われた。そこで、ペテロは舟から出て、水の上を歩いてイエスのほうに行った。

ところが、風を見て、こわくなり、沈みかけたので叫び出し、「主よ。助けてください。」と言った。

そこで、イエスはすぐに手を伸ばして、彼をつかんで言われた。

「信仰の薄い人だな。なぜ疑うのか。」』新約聖書 マタイの福音書14:27~31

弟子たちは真夜中の3時ごろ、舟に乗っていた。

イエス様が湖を歩いてくるのを見て、「あれは幽霊だ。」と言い、おびえ、恐れ、叫んだ。

しかし、それはイエス様だった。ペテロは、「イエス様、私にも水の上を歩いていけるように、おことばをください。」と言う。

イエス様が「来なさい」と言ってくださり、水の上を歩くペテロだったが、風を見て、こわくなり、イエス様に助けを求めた。

この中に、弟子たちのたくさんの感情が出てくる。

私たちは人生の暗やみにいると、不安になったり、恐れが出たり、失望したり、いろんな思いにとらわれる。

そんな中で、イエス様は「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない。」と言ってくださる。

ペテロはそのイエス様に求め、従った。

イエス様とともに水面を歩いたのである。

イエス様が、困難な中、私たちを主によって、奇跡のような中を歩かせてくれる。

しかし、なお、私たちは弱い。水面を歩かせてくださっているのが、イエス様ご自身であるのを忘れてしまうのだ。

風を見て、その導いてくださる主を忘れて、不安の渦に飲み込まれる。

私も昨日、一つのことを考え出したら、不安になって、様々な悪い妄想へと、発展していった。

イエス様を見ないで、まさに状況で、考え、判断していた。

すると「なぜ、わたしを信頼しないのですか?」と語られた。

いかに、見るべきところを見ていなかったか教えられた。

「主よ。あなたを信頼しませんでした。すみませんでした。」と悔い改めた。

イエス様は、あわれみ深いお方である。

ペテロのように、「主よ。助けてください。」と言うものを見放さない。

イエス様はすぐに手を伸ばし、ペテロをつかんで言われる。

「わたしを信頼しなさい。それが、あなたの一番の安心の道だから。」

私はいつも繰り返し、恐れがやってくるような弱いものだ。しかし、イエス様はいつも近くにいて、声をかけてくださり、手を伸ばしてくださり、「わたしを信頼しなさい。」と安心のもとへ導いてくださる。このイエス様を信頼して、ついていけますように。

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2009年7月 3日 (金)

“キリストの愛”

イエス様がいのちを捨てて現してくれた“キリストの愛”を思いました。

『一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。』新約聖書 ヨハネの福音書12:24

一つの簡単なストーリーを思いつきました。

タイトルは“生きるもので不可欠な愛”でしょうか。

あるところに、一人の少女がいました。優しいお母さん、頼れるお父さん、多くの仲の良い兄弟、そしてたくさんの友人がいました。大きな立派な家に住んでいて、広い庭には、可愛い犬たちもいます。少女は健康で、すべてに恵まれ、特別に困ったこともありませんでした。

しかし、何故か、笑うことがありませんでした…ってなると、何かの話しに似ていますね。

そこに、一人の青年が通りかかりました。彼は貧しく、何も持っていません。家もなく、着るものも食べるものもないくらい、貧しかったのです。

彼にはたった一つ隠された財産がありました。それは、彼の心の中がいつも、愛なる神様から溢れるばかりの愛を注がれているということでした。

それで、彼は、その少女を一目見たときに、彼女に無いものがすぐにわかりました。

そして、とてもやるせない思いになりました。それで、彼は、神様の愛を分けてあげたいと思いました。

しかし、彼は、身分も違い、彼女に近づけません。彼は祈りました。

「祈りを聞かれる神様、あなたが私を愛してくれているのを知っています。私の願いもかなえてくださることも知っています。どうぞ、私を愛してくださる神様の愛を、彼女にも与えてください。

もし何かと引き換えにというなら、私は何も持っていません。私の命と引き換えに、彼女に神様の愛を与えてください。」

その青年の祈りは聞かれました。彼女は、その青年の命と引き換えに、神様からの愛をもらいました。

……こんなストーリーです。裕福な少女は私かもしれません。

そして、命を捨ててくれたのは、イエス様です。

私たちが生きていく上で、もっとも大切なのは、“神様の愛”なのだと思いました。

そして、そこにたどり着くため、“キリストの愛”を通るのです。

私は捨てられないものだらけで、自分にあるものを捨てさせられるのに、30年かかりました。

それでは、すっきりすべて捨てられているかといったら、きっと、まだ、たくさん残っています。

生まれたときから、私たちの罪に死なれるために生きてくださったイエス様の愛を思います。

私は何を捨てたらよいのでしょうか。

それが、まだ、わからないのですが、私にとって、このキリストの愛にまさるものはない…証や聖書の分かち合いにおいて、何より伝えたいことはこのキリストの愛なのだと思わされた朝でした。

イエス様はご自身のいのちを捨てられて、キリストの愛を私たちのうちに与えられました。

私が捨てて死ぬことを通して、実を結ぶ…その実が見たいと思った朝でした。

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2009年6月30日 (火)

“私たちに住まわれるいのちのことば”

イエス様のことばは、人の中にいのちとなって生きているのを思います。

『ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。

私たちはこの方(イエス)の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。

この方は恵みとまことに満ちておられた。』新約聖書 ヨハネの福音書1:14

かつて、人のことばに翻弄(ほんろう)されてきた私にとって、私を生かしてくれる“真実のことば”は何より大切なものである。

私は、今、30年の教会生活を振り返っているが、私にとって教会の苦痛は、礼拝で牧師が語るメッセージ…ただその一点だったように思う。

「私が体験している神様はそんな小言や説教ばかりいう神様ではない!」と…。

今、ブログで、聖書のことばを分かち合ったり、思いを分かち合ったりさせてもらっているが、四六時中、聖書を開くようになった。

神様のことばに触れる機会が何倍も増えた。ときには、どこにあった聖書箇所か、分厚い「聖書語句辞典」を引く。

その中で、知らなかった聖書のことばに出会い、感動したりする。

聖書が、神様が何を言っているか聞く作業が楽しい。

そして、もう一人の私が今いる。30年間、「恵みと主権をもっておられる神様の話しを聞きたい。」と渇望し続けた私である。

私にとって、水も食料も乏しかった月日がなければ、その飢え渇く自分は確立しなかった。私にとっての荒野か、砂漠のような食糧難の日々が、私自身の中に、“人は何を求めているか”を教えてくれる人を作った。

イエス様は、神様であられるのに、人となり、私たちの間に住んでくれた。

そのことを通して、私たちは人となられたイエス様の愛を見ることができる。

イエス様に永遠のいのちがあった。

イエス様が十字架にかかり、よみがえられ、今、私たちはこのイエス様のいのちにあずかる。

イエス様が話したことばが、霊であり、いのちだと言われた。(ヨハネ6:63)

イエス様自身が、イエス様のいのちが、聖霊様が、この聖書のことばとともに、私たちのうち側に生きてくださる。

私たちは、聖霊様のはならきによって、心にいますイエス様とともにいられる恵みを思う。

今、真実のことばを求め、渇き、苦しんでいる方がいるならば、イエス様のいのちのことばに出会って、満たされることを願う。

人を慰め、生かし、励まし、支え、助ける真実のことば、聖書のことばが、多くの人々の暗やみに届き、そこを光としてくれるように祈りたい。

聖書のことばは、クリスチャンだけのものではなく、すべての人のためのものだ。

なぜなら、天地を造られ、イエス様を送られた神様は、すべての人々の神様だから。

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天のお父さん、あなたが、聖書を通して、日々私たちを支え、生かしてくださることをありがとうございます。

この何にも変えることのできない聖書のことばが、人々の慰めと励ましとなりますように導いてください。

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“聖書のことばを食べる”

いのちを保つための食べ物について考えました。

『いのちを与えるのは御霊(みたま)です。肉は何の益ももたらしません。

わたし(イエス)があなたがたに話したことばは、霊であり、またいのちです。』新約聖書 ヨハネの福音書6:63

中学に通う息子は、身長168センチで、45キロととても“おやせ”だ。

偏食ぎみで、小さいときから痩せていた。

小学生のときは、あんまり体重が増えないので、一キロ増えたらご褒美物だった。リビングにはそのときのなごりの体重計がホコリをかぶって置かれてある。

健康を保つのに、食事は大切だ。が、それも無理じいになると苦痛になる。

私は、育った家庭での食事が苦痛だった。

味つけが濃かったのと、いつも「残しては駄目だ。」と小言を言われながら食べていたからだ。

だから、息子にはきちんと食べるようには言えない自分がいた。

イエス様のいのちにつながり続けるため、私たちは聖書のことばを食物として食べる。

が、美味しいご馳走も無理じいされては、食べたくなくなる。

「恵みの歩み」の本を書いたマクベイ師が言っていたことを、ふと思い出した。

「聖書は読まなくていい。無理に祈らなくていい。」

それはつまり、「ご飯を食べたくなければ食べなくてもいい。」と言うことであり、「それでも、お腹が空くと、食べたくなるのだから無理をしなくていい」と言う意味合いだったのかなぁと思った。

本来、“聖書を読む”とか“祈りをする”というのは、“美味しいご馳走を食べる”“親しい人と語らう”という楽しく、素敵な特権であるはずだ。それなのに、どこで間違えたか、小言か命令になったとたん、苦痛に変わってしまう。

美味しいご馳走を食べた人は、そのご馳走を無理じいはしない。

まず、私自身にとって“聖書を読む”ということが、すばらしいことであることが、そのことを人に勧めるとき、相手の人に期待を持たせることにつながるのかもしれないと思った。

給食だけは、残さず食べる息子ももうすぐ夏休み…いかに美味しいものを一緒に食べられるか、母の大きな課題である。

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2009年6月29日 (月)

“キリストにあって一つと集められる”

イエス様にあって、一つになる約束に思いめぐらしました。

『神はこの恵みを私たちの上にあふれさせ、あらゆる知恵と思慮深さをもって、みこころの奥義を私たちに知らせてくださいました。

それは、神が御子においてあらかじめ、お立てになったご計画によることであって、時がついに満ちて、この時のためのみこころが実行に移され、

天にあるものも地にあるものも、いっさいのものが、キリストにあって一つに集められることなのです。』新約聖書 エペソ人の手紙1:8~10

パウロはローマの獄中の中で、この手紙を書いた。

注解には、「パウロは獄中で瞑想する機会も多かったのだろう。神の救いの計画の洞察、そして、目に見えない、霊的なキリストの体である教会の深い洞察が書かれてある。」とある。

私は教会像に打撃を受けてきたので、聖書にある教会像は何か遠い世界の話しに聞こえていた。

この小さなブログで、霊的なものを分かち合ったり、共に祈ったりする中で、私の中で、“キリストのからだ体験”をさせてもらっている。

ブログの先にいる会ったこともない方たちと、同じ聖書を分かち合い、ともにアーメンと祈れるとき、私たちは、同じ神様、同じイエス様、同じ御霊にあるのだなぁと思う。

たとえば、初めて教会に行くならば、差し支えない挨拶から、遠まわりの交流が始まる。

「どちらから来ましたか。」

「どちらにお住まいですか。」

そこから一足飛びに、本題にはなかなか入らない。

しかも、私は、教会にあっては、“少数派”の感覚をもった者との自覚がある。

分かち合える人は、100人に一人いれば良いと自分に言い聞かせてきた。

だいたいその一人は、悩みが多く、正直な人たちだった。

教会でのうわべの会話は私は堪えられない。それは、教会でなくても十分にできるから。

自分に正直な人の多くは、自分の弱さを充分に体験している人である。

そんな教会生活の私が、こうしてブログで、多くの方と分かち合えているのだから不思議に思う。

このパソコン世界の、まだるっこい、遠回しの挨拶もない、本題で分かち合える良さなのだと思う。

そして、似たものを求めている人が集まっている。

今、改めて、ブログで、神様の恵みや慰めを分かち合えることを、そんな訳で感謝している。

パウロはユダヤ人と異邦人が一つになる壮大な計画を、神様から教えられ、この手紙を書いた。

キリストにあって一つを体験させられ始めている私は、同じことばが通じる社会で、教会の中と外が一つになることを思わされている。

捕囚の民に預言する人たちは、神は遠くから近くからあなたがたを集めて一つとすると、神様の霊によって語った。

聖書全体に、改めて一つになる約束が多く語られていることを今日、思った。

この約束が私たちにもなりますようにと祈った。

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2009年6月28日 (日)

“霊的養い”(考察と報告)

今日、1日をかけて、長い考察をしていました。

『たとい主があなたがたに、乏しいパンとわずかな水とを賜(たま)わっても、あなたの教師はもう隠れることなく、あなたの目はあなたの教師を見続けよう。

あなたが右に行くにも、左に行くにも、あなたの耳はうしろから「これが道だ。これに歩め。」と言うことばを聞く。』旧約聖書イザヤ書30:20.21

今日は、朝からずっと“霊的養い”について、祈り考えた。

私は、牧師に養われなかったが、教会や他のところで養われたのかもしれない。

教会生活が始まってすぐに教会学校の先生をさせてもらった。「成長」のテキストと聖書で、学びながら、子どもたちと分かち合い、育ててもらった。

最初に通った教会は、聖書勉強会も祈り会もなかったが、あちこちの関連教会の聖書勉強会に出た。

そして、信仰持ってまもなく神学校で勉強できたのは、やっぱり大きかった。

勉強はできるほうでもなかったかもしれないが、「神学概論」というのが、とても好きだった。

“救いとは”“罪とは”“あがないとは”みたいな感じのものを、聖書全体と、聖書箇所から学んだ。

つまり、私は牧師から養われなかったと言いきっているが、やはり教会の中で養われたということに気がついた。

突然、育った我が家の話しになるが、母とは折り合いが悪く、父は病気でほとんど交流がなく、こんな親はいてもいなくても…と昔は思った。(今はイエス様にあって父、母を感謝しているが。)

母とは、母が亡くなる近くまで、私は反抗期だった。あまり、いい家庭の思い出はない。が、喧嘩してたにせよ、関わりが薄かったにせよ、父、母は私の生活のまわりで生きていた。

私が教会にとやかく言っていた時期は、それでも親は生きている…みたいな感じなのかなぁと思った。

私のまわりにもいるし、息子の同級生にもいるが、父か母が、死別か離婚で全くいない人の気持ちは、私にはわからないのかもしれない。近い喪失の気持ちはあっても、私の場合、まだ、生きていた。

今、教会に行かない選択にある人の気持ちは、どんなに大変か、苦労があるのか、私にはまだまだ想像がつかないのかもしれない。

今日、礼拝で行われた賛美、メッセージ、聖さん、祈り、すべてが当たり前と思ってしまう私がいるが、それらのない人には、どんなに貴重なことかと思った。

ブログで、聖さんはできないけど、日曜日にできることは、したいなぁと思った。

私は牧師でもないし、“祝祷(しゅくとう)”みたいなのは、おこがましくてできないが、一週間の歩みの守りを共に祈ることはできるなぁと思った。

私の1日の考察が長くなった。もう日曜日の夕方になってしまったが、次のブログに、訪問してくださる方々のために、一週間のお祈りを書きたいと思います。

必要な方と共に心合わせられたら、幸いです。

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2009年6月22日 (月)

“握っている手を開けますように”(語りかけ)

握っているものを手放させられた私の証と、Setsuさんの神様からの語りかけです。

『私たちが滅びうせなかったのは、主の恵みによる。

主のあわれみは尽きないからだ。

それは朝ごとに新しい。

「あなたの真実は力強い。主こそ、私の受ける分です。」と私のたましいは言う。

それゆえ、私は主を待ち望む。』旧約聖書 哀歌3:22.23.24

立派な会堂から教会がなくなり、私は途方にくれました。

ある教会の賛美礼拝に行き、そこで神様に話かけました。

「神様、私は教会奉仕が大好きでしたが、奉仕どころか、教会まで無くなってしまいました。」

すると、神様は言われました。

「これまでの数々の苦しみは、あなたが握っているものを手放すためだよ。」と。

私は何かを握ってました。それを払われたのです。手を開いてみると、何もないのではありませんでした。

その日から、私は「主こそ、私の受ける分です。」と神様を喜び始めました。

仕事も辞めさせられ、教会もなく、何もないような時期でしたが、生まれて初めて鳥のさえずりに、「神様、鳥の鳴き声がきれいですね。」と言えました。

私の握っていたもの、それは“私の神様にある働き”でした。

神様におまかせしたとき、神様だけが喜べるようになりました。

昨日、Setsuさんが、コメントで、皆さんあてに、神様からの語りかけを書いてくれました。

書き写します。お一人お一人に慰めがありますように。

「神様は私たちの心が何を必要か知っておられます。

何に渇き、何につまづき、何に泣いているかも。

あなたが握っているその手を一度、神様の前で開いてみてください。

あなたの手は、引き裂かれて穴の空いた神様(イエス様)の手を握ることができます。

あなたが隠しているその心の目を、神様の方へ向けてみてください。

神様の心に、あなたのことがしっかり焼き付かれているのを見ることができます。

あなたがまだ形もなかった頃、神様の心にあなたがいて、神様はずっとあなたに思いを焦がしていたことを、あなたのすべての心の傷に深く染み込ませることができるでしょう。」

Setsuさんはここに来られる方々、コメントする方も、そうでない方のためにも祈っています。

ettuさんもここに取り巻く人たちのため、与えられた霊的祈りで祈っています。

私もお二人と同じく、ただ皆さんの霊的祝福を心から祈っています。

この小さなブログを通しても、距離や空間を越えて、神様のよいものを分かちあえますことを願っています。この思いが、祈りとともに、ここに来てくださる皆さんに届きますように。

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“聖霊の小川を泳ぐメダカたち”

聖霊様の小川で泳ぐメダカたちを思いました。

『この川が流れて行く所はどこででも、そこに群がるあらゆる生物は生き、非常に多くの魚がいるようになる。この水がはいると、そこの水が良くなるからである。この川がはいる所では、すべてのものが生きる。』旧約聖書 エゼキエル書47:9

昨日、礼拝の中で、小さな小川を思い出しました。それは幼い頃よく遊んだ、田舎のおばあちゃんの家の畑の近くを流れる小川です。

幅2〜30センチの小さな小川にメダカが可愛らしく群れをなして泳いでいました。

今、メダカはあまり見かけなくなったと言われます。

メダカは本当にきれいな水の中でしか生きることができず、今は環境的にそういうところが少なくなったのだと聞きます。

私のような弱さを抱えたクリスチャンは、小川のような水の中でしか生きられないのかなぁと思ったりしました。

きれいな水とは、聖霊様の中のことです。

そこに何か人間的なものが混じってしまうと、たちまちアプアプして苦しくなってしまうのかなぁと。

けれども、聖霊様は私たちの中にもいてくださいます。

私の中のおられる聖霊様が喜んで、自由に働かれるよう、私の心もまた、イエス様の十字架によってきれいにしてもらっていたいと思いました。

お祈りします。

「神様、私たちにイエス様の十字架の赦しによって、聖霊様を内に住まわせてくださることをありがとうございます。

聖霊様がいてくださらなければ、神様が聖書を通して何をいいたいのか、私にはわかりませんでした。

聖霊様が働いてくださらなければ、2000年前の十字架が自分のためと受けとることができませんでした。

聖霊様は、私の内に住まわり、優しく慰めとあわれみをもって、私の罪を示し、きよめてくださいますから、ありがとうございます。

教会が、私にとって居心地がいいばかりでないのは、私の場合、とても弱さを抱えているからかもしれません。

けれども、きよい聖霊様の流れの中に、憩い、喜び、楽しめる恵みをありがとうございます。

メダカのように、混ぜものがあるところでは生きにくいのかもしれませんが、あわれみの中で生かし続けてくださることを感謝します。

どうぞ、同じ聖霊様のきよい川で、私たちを憩わせ、楽しませ、喜ばせてください。

イエス様のお名前によって祈ります。

アーメン」

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2009年6月21日 (日)

不当なラバンに仕えた“ヤコブ”

叔父ラバンのもとで、ヤコブは苦しみながら20年間仕えました。

『私(ヤコブ)はこのこの20年間、あなた(ラバン)の家で過ごしました。14年間はあなたのふたりの娘たちのために、6年間はあなたの群れのために、あなたに仕えてきました。それなのに、あなたは幾度も私の報酬を変えたのです。

もし、私の父の神、アブラハムの神、イサクの恐れる方が、私についておられなかったなら、あなたはきっと何も持たせずに私を去らせたことでしょう。

神は私の悩みとこの手の苦労とを顧みられて、昨夜さばきをなさったのです。』旧約聖書 創世記31:41.42

兄エサウを差し置いて、父をだましたヤコブ。

自我が強く、狡猾だったヤコブは、叔父ラバンのもとで、20年間仕えることになる。

ラバンはヤコブの上をいく、ずるい人だった。

ヤコブが娘ラケルをお嫁にもらうため、7年間仕えたが、長女レアを与えられた。

ラケルのため、さらに7年間仕えた。

二人の妻のため、子どもの誕生に関して、ヤコブは苦労する。

また、ラバンは幾度もヤコブへの報酬を変えてきた。

ヤコブはラバンに対して不信感を抱いていた。

そんな中で、神様はヤコブに「生まれた国に戻りなさい。」と語られる。

ヤコブはすぐさま、ラバンに内緒で、家族たちを連れて出ていく。

そして、追いかけてきたラバンに、20年分の思いをヤコブは話す。

神様が、ラバンに途中で夢に現れ、「ヤコブと事の善悪を論じないように。」と話す。神様の介入である。

ヤコブは、そのことによって、無事、ラバンと別れていくことができた。

20年の月日は長い。しかし、自分の損得しか考えないようなラバンに対して、ヤコブは誠実に仕えた。

何度も、その偽りの態度に嫌気がさしたことだろうが、我慢した。

そんな中で、神様はともにいてくださり、ヤコブの財産も増やし、子どもたちもたくさん与え、祝福してくれた。

ヤコブが、ラバンに仕えている間、神様に祈った記事はないが、苦しい不当さを感じる中、ヤコブは神様に信頼することを学んでいったのだと思う。

だから、「あなたの生まれた国に帰りなさい。」と神様から言われたとき、ヤコブはすぐに行動に移した。

「神様がいなかったら、私は何もなかっただろう。神様が私の悩みとこの手の苦労を顧みられて、ラバンに介入した。」という告白に至る。

ラバンは最後まで、ずるかった。ミツパの協定においても、ヤコブを見張る…不信感を持ち、ヤコブの立てた石塚を自分の業績にした。

そんなラバンでのもとであったが、ヤコブがそこで、訓練され、神様を信頼するに至らせられた。

そんなラバンのもとで、ヤコブを祝福し、生活の中に介入された神様であった。

私たちも、この人がもっと誠実な人だったらなあとかと良く思う。しかし、神様がヤコブに約束されたように、苦しい中で私たちにも語ってくださるのである。

『見よ。わたしはあなたとともにあり、あなたがどこへ行っても、あなたを守り、あなたをこの地(神の約束の地)に連れ戻そう。わたしは、あなたに約束したことを成し遂げるまで、決してあなたを捨てない。』創世記28:15

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2009年6月20日 (土)

ノンクリスチャンの友へ

ノンクリスチャンの私の友人あてです。

『だれでも誘惑に会ったとき、神によって誘惑された、と言ってはいけません。神は悪に誘惑されることのない方であり、ご自分でだれを誘惑なさることもありません。

人はそれぞれ自分の欲に引かれ、おびき寄せられて、誘惑されるのです。

欲がはらむと罪を生み、罪が熟すると死を生みます。…

すべての良い贈り物、また、すべての完全な賜物は上(神)から来るのであって、光を造られた父(神)から下るのです。父には移り変わりや、移り行く影はありません。』新約聖書 ヤコブの手紙1:14~17

こんにちは。もし、私の友人が、この記事を読んでくれていたら、嬉しいです。

私は去年の7月から、このブログを始めました。私の友好関係はほぼ9割、ノンクリスチャンの方たちなので、その方たちのために始めました。

まわりの友人にも、ブログの名刺を配りまくりました。

ところが、この5月からかなり込み入ったキリスト教の話しになっています。

読んでくれているノンクリスチャンの方には、キリスト教実態に戸惑っているかなぁと思っていますf^_^;

もっと明るく楽しい話しだといいのですが…。

この前、久々ランチした友人からは、「クリスチャンって教会に言っている人ではなかったの?」と素朴な疑問をいただきました。

「イエス様を神様と信じて、その十字架と復活を私のためと信じる人だよ。」と説明しました。

今日も、メールで、「カルトというと新興宗教だけかと思ったけど、ちゃんとしたキリスト教でもカルトがあるのに驚き!!」とメールいただきました。なんか、教会を知らない人にはキリスト教の怖い部分を伝えているみたいですみませんm(_ _)m

でも、率直な感想は凄く嬉しいです。

カルト教会について、弁明させてもらいたいと思います。

神様は完全な方で、慰めに満ちた光なる方です。

でも、人間って、みんな弱いんですね。良いものを信じていても、その人にある弱さのゆえに、聖書とはかけ離れたところに行ってしまうこともあるのです。

クリスチャンでもそうです。愛なる神様に生かされているはずなのだけど、その本質からずれると、人を裁いたり、見下したり、違う世界に行ってしまうのです。

私自身もまた、間違いだらけの弱い人間なので、そのずれやすい人間の性質が良くわかります。

旧約聖書などには、正しい神様の前に、ひたすらずれていくイスラエルの民の歴史を通して、誰もがもつ人の弱さが書かれています。

聖書の素晴らしいところは、絵に書いた餅のような美しい抽象論が書かれてはいないことです。どうしようもない、人間の愚かさ、足りなさがなまなましく書かれてあります。

そんなどうしようもない人間に神様はどうやって救いの手を差しのべてくれたかが書かれてあります。

だから、綺麗ごとだけ言う教会は嘘っぱちかもしれません。(批判的ですみません)

一度、ノンクリスチャンに私の思いを伝えたいなぁと、常々思っていたので、書けて良かったです。

いつでも個人的に質問受け付けますよ♪

込み入った話しなのに読んでくれて、ありがとう。神様にある祝福を祈ります。

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“多く赦された者が多く愛する”

“悔い改め”とは、と考えました。

『すると、その町にひとりの罪深い女がいて、イエスが、パリサイ人の家で食卓についておられることを知り、香油(こうゆ)のはいった石膏(せっこう)のつぼを持って来て、泣きながら、イエスのうしろで御足をぬらし始め、髪の毛でぬぐい、御足に口づけして、香油を塗った。…

「…だからわたし(イエス)は言うのです。『この女の多くの罪は赦されています。というのは、彼女はよけい愛したからです。しかし少ししか赦されない者は、少ししか愛しません。」』新約聖書 ルカによる福音書7:36~50

聖書に出てくることばや、キリスト教用語と言われるものは、いろんな形で使われすぎて、その本来の持つ印象や意味合いが違ってくることがある。

最近、私は“悔い改め”ということばをよくブログで使う。これまでの私の信仰生活には、縁遠かったことばだ。

何故、縁遠かったというと、自分の罪や蒔いた種で、結果、神様から直接砕かれてしまうことを繰り返してきたので、“悔い改め”などということばを使う前に悔い改めにいたらせられた。

今は、“悔い改め”を待ち望んでいる。が、もっと、ふさわしいことばがあるといいかもしれない。

もし、“悔い改め”を日頃、誰かに強要されている人にとっては聞きたくないことばだと思う。

“悔い改め”は、人から言われてするものではない。聖霊様が私の深いところを探ってくださり、そこに光を照らされ、もともとあったものに気がつかされることだと思う。

私は、自分の弱さを神様からと人から赦してもらい、受け入れてもらったのだなぁと思ったとき、この“罪深い女”のことを思い出した。

彼女は世間体においては明らかに不道徳だったかもしれない。

しかし、そんな女を軽蔑するパリサイ人の心をイエス様は知っていた。

「彼女は多く赦されたから、多く愛しました。」と言われた。

正しいイエス様から見たら、目に見える不道徳も、パリサイ人の人を見下す心も同じ罪なのである。

ただ、違うのは、自分の内にあるものを認め赦されたか、気がつかずにいるかの違いなのである。

イエス様は自分の心に気がつかず、女を見下すパリサイ人、シモンに言われた。

『この女を見ましたか。わたしがこの家にはいって来たとき、あなたは足を洗う水をくれなかったが、この女は、涙でわたしの足をぬらし、髪の毛でぬぐってくれました。

あなたは口づけしてくれなかったが、この女は、わたしがはいって来たときから足に口づけしてやめませんでした。

あなたは、わたしの頭に油を塗ってくれなかったが、この女は、わたしの足に香油を塗ってくれたのです。』ルカ7:44~46

イエス様は、皆等しく赦されるべきものがあるが、その赦しを多く受け取ったものが、イエス様への愛の応答が違ってくることを話された。

してみると、“悔い改め”というと、なんとなく固いが、“多く赦され、多く愛するものとなるため、聖霊様、赦される罪を示してください”というのは、今の私の願いに合っているなぁと思った。

多く赦されたい思いすら、神様から来ているのを思う。この後も、“悔い改め”ということばを、使うかもしれないけど、このような意味合いで使いたいと思った。

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2009年6月19日 (金)

“カルト化教会の痛み”3・孤独な回復の道

カルト化教会を出た人たちは、そこからまた、孤独な道を歩みます。

『見よ。わたしはあなたとともにあり、あなたがどこへ行っても、あなたを守り、あなたをこの地に連れ戻そう。わたしは、あなたに約束したことを成し遂げるまで、決してあなたを捨てない。』旧約聖書 創世記28:15

私の友人は、10年程、カルト化していく教会に属していた。

そこを出たときは、いろんなコントロールから解けず、苦しんでいた。

心も信仰も回復するためのリハビリ期間は少なくとも3年位かかると、専門の方から言われた。

新しい健全な教会に通い始めたが、孤独であった。家庭で、親から虐待を受けた人は、そうでない人にいくら話しをしても理解されない。

同じように、特殊なところを通されたので、その苦しみは、同じ信仰のことであるのに、誰にも理解されない。

本には、「その牧師がおかしかったことを理解できなかったあなたが悪い。」と責められてしまうこともあると書かれていた。

いろんなコントロールがすぐ解けないので、その言動も奇異に見えるときがある。偏見や疎外感に苦しむ。

そのような人たちがどのような孤独をもって、感情があらわれるか、「信仰という名の虐待」の本から書き写す。もし、近くにそのような方がいたら、私たちは、その苦しみを理解しきれなくとも、寄り添い、共に祈るものでありたい。

「・自尊心を失う

・自分自身を失う
・自分が無力な人間であると感じる

・強い罪責感を感じる

・怒りと欲求不満を感じる(多くの時間と可能性を失ったので)

・恐怖と混乱を感じる

・マインド・コントロールされていたため、自分で考えて、決めることがなかなかできない

・だれかに依存したい、自分の代わりにだれかに決めてほしい

・キリスト教、教会、聖書、神に対して、強い反発や拒否を感じる(個人差がある)

・人に対して不信感を感じる(人を信じられない)」

###

神様、神様の尊いお名前を使って、人をマインド・コントロールし、人々に深いダメージを与えるカルト化教会の罪を赦してください。

神様、そこから出て、なお、苦しむ人たちを助けてください。

私たちは、その“信仰の虐待”された経験者ではありません。

本当に理解が足りなく、かえって突き放してしまうものであることを赦してください。

リハビリの道を歩んだ私の友人に、ときに私は冷たかったと思います。

彼女の苦しみを理解しようとしなかった私を赦してください。

その回復の道を歩んでいる人々たちに、神様、「わたしはあなたを捨てない」と語り続けてくださり、あなたとの麗しい関係を、主によって回復させてください。

その歩みを確かにしてくださり、弱いときも、守り導いてくださる主とともにありますようにしてください。

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“天からのはしご”(創28:12)

天からはしごがかけられ、私たちの思いを知ってもらい、神様が語ってくださることを感謝します。

『(ヤコブが)ある所に着いたとき、ちょうど日が沈んだので、そこで一夜を明かすことにした。彼はその所の石の一つを取り、それを枕にして、その場所で横になった。

そのうちに、彼は夢を見た。見よ。一つのはしごが地に向けて立てられている。その頂(いただき)は天に届き、見よ、神の使いたちが、そのはしごを上り下りしている。』旧約聖書 創世記28:11.12

ヤコブは一夜にして、命からがら、家を逃げるように出てきた。

母リベカに言われるまま、カランのおじさんのところに旅立つ。

これから自分はどうなっていくんだろうか…迫ってくる孤独と不安の中、ヤコブは、日が沈んだ場所で、寝ることにした。

すると、夢を見る。はしごが、はるかかなたから、地に向けて立てられている。

そして、神の使いたちが、そのはしごを上り、そして下っている。

この箇所は、私も大好きな箇所である。

悲しみや苦しみや孤独や不安、心配の中、祈りのことばも出てこないそんなうめきの中、神様は祈りというはしごを天から地に向けてかけてくださる。

そして、み使いたちは、私たちの祈りや思い、願いをはるかかなたの神様まで届けてくださる。

そしてみ使いは、その答えを地にいる私たちまで持ってきてくれる。

“祈り”…地上の中が混沌としていても、いつも天は開かれていて、神様は私たちの思いを聞いてくださる。

なんと慰めに満ちたことか。

神様ご自身は、ヤコブのすべてを知っていた。そして、その心の深いところに語られた。

「私はあなたとともにあり、どこへ行っても、あなたを守りあなたをこの地に連れ戻そう。わたしは、あなたに約束したことを成し遂げるまで、決してあなたを捨てない。」

不安と孤独の中、神様が、ともにおられ、守り、見捨てないと語ってくださったのである。

眠りからさめてヤコブは言った。「まことに主がこのところにおられるのに、私はそれを知らなかった。」

神様がともにいてくれることをヤコブは知った。このとき、ヤコブは、神様を個人的な関係の中で知った。

“祈り”それは、願いを聞いてもらう手段ではない。

それは、神様と私たちの語らう場所であり、神様を私が知る場所であり、神様をほめたたえる場所である。

イエス様は、私たちのために、天におられる神様と私のかけ橋となってくださった。

私は悲しいとき、泣きながら神様に話しを聞いてもらう。

嬉しいとき、笑いながら神様と話しをする。

悩むとき、解決をもっている神様のところへいく。

神様との語らいは何よりも慰めであり、神様の語りかけが私を生かしてくれる。

###

神様、あなたから私たちに語りかけてくださる慰めを思います。

神様は、ヤコブの心のうちをご存じだったように、私たちの思いを知り、励ましてくださいますからありがとうございます。

私たちの地上において、あなたを知れる幸いを与えてくださり、ありがとうございます。

今、神様との語らいを必要とする人に、天からのはしごをかけてくださり、語ってください。あなたを現してください。

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2009年6月18日 (木)

“カルト化教会にいる人への祈り”

カルト化教会にいて苦しむ人々、そこを出て回復の道を歩いている人々のため、祈ります。

『主のもとに来なさい。主は、人には捨てられたが、神の目には、選ばれた、尊い、生ける石です。

「見よ。わたしはシオンに、選ばれた石、尊い礎石を置く。

彼に信頼する者は、決して失望させられることがない。」』新約聖書 第1ペテロの手紙2:4.6

「天のお父さん、イエス様は、悲しみのところに喜びを、嘆きのところに希望をもたらすために来られました。

けれども、人間の支配欲、顕示欲、そういったものが、神の名前を使って、全く違うことをし、人々を苦しめています。

人間のこの限りない欲望を赦してください。

人々は、神様に喜ばれる熱心で、今、神様以外のものにコントロールされ、苦しんでいます。

どうか、神の名前を使っても、そこに安心や喜びや慰めやあわれみといった良いものがなかったら、それは、イエス様の世界ではないことを知ることができますように助けてください。

巧みにコントロールされているので、苦しいことすら、祝福のためのサタンの攻撃だと言われます。

教会から出たら、祝福されず、呪われると言って、脅されます。

苦しいのに、恐れのため、そこから出ることが出来ません。

パソコンやこのようなブログからも正しい情報を得ていけますよう助けてください。

イエス様の世界は恐れで縛られる世界ではありません。

本当のイエス様のもとに導いてください。

まだ、出られた方たちは、たくさんのダメージで、いろんなことが判断できなくなっています。

時間がかかっても、ゆっくりと受け入れられる環境で、自分を取り戻していけますように。

カルト教会にいた人が裁かれませんように。彼らも犠牲者だからです。

コントロールが解けずに、変なことを言っても、受け入れられる中で回復するので、そのような環境を与えてください。

イエス様の楽しみと喜び、自由と慰めが満ちますように。

イエス様のもとには、決して失望させられないことを感謝します。

人間的な欲望の組織を打ち砕き、教会に、人々にイエス様がきてくださいますよう祈ります。

イエス様のお名前によって祈ります。アーメン。」

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“カルト化教会の痛み”2

カルト化教会の特徴です。

『しかし、あなたには非難するべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった。

それで、あなたは、どこから落ちたかを思い出し、悔い改めて、初めの行いをしなさい。

もしそうでなく、悔い改めることをしないならば、わたしは、あなたのところに行って、あなたの燭台(しょくだい)をその置かれた所から取りはずしてしまおう。』新約聖書 黙示録2:4.5

姉が通っていた教会は、真面目な信仰を持った人たちの素朴な誠実な教会だった。

姉は今でも、信仰の“いろは”はその教会で教えてもらい、養われたと感謝している。

そんな小さな教会だったが、牧師婦人の預言が始まり、変な雰囲気になっていった。

無駄口を慎むとか、横の信徒どうしの親しい交流を避けるとか。

その方は、一にも二にも、謙遜が大事と言っていたらしい。

聖書に聞いていき、答えがないと動かない…そんな傾向はあったが、何故、あの方がカルト化の道をいったのか、とても不思議に思う。

カルト化教会の特徴をパスカル・ズィヴィーは、「“信仰 ”という名の虐待」の本で次のように言う。

「“信仰”という名の虐待」のメカニズムとして5つある。

1、恐怖、脅し

信者たちを支配するために、恐怖、罪責感と脅しを使います。どんな命令でも、信者たちは、牧師に従わなければなりません。…少しずつ、牧師や教会に対して批判する能力がなくなり…最終的に、牧師と教会に全く依存するようになってしまいます。依存すると信者たちは、牧師と教会の精神的な支えを失うことに対する恐怖が大きくなる。自分で、判断することが難しくなる。

2、愛のシャワー

牧師に出会った時の印象は、それまで出会ったこともないようなカリスマ的存在で、霊的で、優しく、情け深く、理解のある人物と思います。…破壊的カルトの中でよく使われる「ラブ・ボミング」(愛の爆撃)、あるいは「ラブ・シャワー」(愛のシャワー)というテクニック。好意の雨をふりそそぎ、ほめます。

3、罪責感

愛のシャワーを浴びた人たちは強い義理を感じるので、本心を伝えることが難しくなります。質問や批判に対しては、罪責感を起こさせます。

4、告白の儀式

信者の人格を無視し、牧師、教会の意向に沿わない思想、感情、行動をすべて告白しなければならないと要求し、個人のプライバシーをすべて奪います。…心が解放されるよりも、自責感に苦しみ、無意識に合わせなくてはならないと感じるようになります。

5、人を奴隷化する権威主義的構造

人間関係がピラミッド型になっています。横の関係が全く許されず、縦のつながりのみ重視します。信者は牧師の許可がなければ、どんなことも決めることができません。密告があり、管理されます。福音のため、ビジョンのためということがあります。

何故、イエス様の愛で始まったことが、人間の欲望の統率になるのだろうか。

まさに、“初めの愛”イエス様ご自身がいなくなったところに悲劇が起こるような気がする。

神様、今もカルト教会は存在し、多くの真面目なクリスチャンが神のためと、コントロールされ、苦しんでいます。

イエス様からくるものは、赦しとあわれみ、癒しと自由、安心と喜びです。

イエス様自身がいる教会、人々へと変えてください。

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“墓にはいないイエス様”

よみがえられたイエス様とともにあることを思います。

『恐れてはいけません。あなたがたが十字架につけられたイエスを捜しているのを、私は知っています。

ここにはおられません。前から言っておられたように、よみがえられたからです。

来て、納めてあった場所を見てごらんなさい。』新約聖書 マタイの福音書28:5.6

私は、先に証したが、大学の同窓会で、一連の私のうちにあるものを見せられ、神様に悔い改めるに至った。

が、何故か2日位、私の中で“恥ずかしい”思いが取り去ることができなかった。

重く心の中に、“恥ずかしい自分”が沈んでいるような感じだった。

昨日の朝、なんかすっきりとした。ただ、ただ、神様を礼拝した。

イエス様は十字架で、私の罪のために、刑罰を受けて、死なれた。

そして、3日目によみがえられた。いきかえられた。

マリアたちが墓に、イエス様の死なれた体を見に行くと、そこにイエス様はおられなかった。

よみがえられた。

「イエス様はよみがえられました。この墓にはおられません。」(マルコ16:6)とみ使いは言った。

そして、この十字架にかけられ、3日目によみがえられたイエス様を信じるものは、この死とよみがえりを体験する。

私は深いところで、“恥ずかしい”と感じる罪を十字架につけ、そこに共に死んだ。

そして、イエス様のよみがえりのように、新しいいのちがよみがえってきた。

今、私たちは、よみがえられたイエス様とともにいる。

その私の内にある霊的な世界においては、古い人に死に、イエス様のいのちをいただいて生き返った。

私の古い人は死んだか、大丈夫か…墓場にいって確認する必要はないのである。

この日々、イエス様の復活のいのちにあることを感謝したい。

『私は、キリストとその復活の力を知り、またキリストの苦しみにあずかることも知って、キリストの死と同じ状態になり、どうにかして、死者の中から復活に達したいのです。』ピリピ3:10.11

###

天のお父さん、私たちは、イエス様の十字架の死にあずかり、日々、古い人に死んで、新しいいのちに生きるものとされていることをありがとうございます。

古い自分は、イエス様の十字架で死にました。

死んだのを、わざわざ墓に戻って見に行くことがありませんように。

そして新しいいのちを与えられたことを感謝し、そのいのちに生きるものとしてください。

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2009年6月17日 (水)

エサウの“殺人未遂事件”(創27)

人間の弱さを越えて、神様の愛とその選びと計画は変わらないことを思います。

『エサウは父のことばを聞くと、大声で泣き叫び、ひどく痛み悲しんで父に言った。「私を、お父さん、私も祝福してください。」

父は言った。「お前の弟(ヤコブ)が来て、だましたのだ。そしておまえの祝福を横取りしてしまったのだ。」

エサウは言った。「彼の名がヤコブというのも、このためか。二度までも私を押しのけてしまって。私の長子の権利を奪い取り、今また、私の祝福を奪い取ってしまった。」…

エサウは、父がヤコブを祝福したあの祝福のことでヤコブを恨んだ。それでエサウは心の中で言った。「父の喪の日も近づいている。そのとき、弟ヤコブを殺してやろう。』旧約聖書 創世記27章

この27章を読むとき、一人一人の人間の弱さが浮き彫りになる。

父イサクが長男のエサウを、自分が死ぬ前に祝福しようとした。

それを聞いた母リベカが、偏愛している弟ヤコブに祝福がいくように仕向ける。

ヤコブもその話しにのっていく。

騙されたエサウは、ヤコブを恨み、殺すことを計画する。

父イサクはもう何もできない。

母リベカは、それを知り、ヤコブのおじさんのラバンのところに行かせる。

一時のつもりだったが、ヤコブは長い間、帰ることはできなくなった。

この誰もが狂ってしまっているような、だましとうそと、殺人未遂のような混乱が起こる中に、神様の恵みはあるか。

人間は過ちを犯してしまい、時にはとんでもないことに巻き込まれていく。

しかし、“人間の願いや努力によるのではなく、あわれんでくださる神による選びの確かさ”(ロマ9:16)は、こんな悲惨な現状にあって、ヤコブに変わらずにあった。

私たちの生活の中にあっても、「神様、あなたを信じているのに、どうしてこんなことが起こるのですか。」と問いたくなるときがある。

「私が悪いんですか。」「あの人のせいですか。」「神様の試練ですか。」と、ぐるぐると答えにならない問いが頭の中をめぐる。

何がなんだかわからない、私たちの中に、解決の糸口が見つからない…そんなときも、神様は変わらず、私たちを選び、私たちを愛し、私たちへの祝福の計画を立てている。

イエス様の十字架で赦された事実は揺らぐことはない。私たちは神様の子どもであり続ける。

ヤコブのように、人をだまし、憎しみを買うような人間であっても、神様の選びと計画は変わらないことに慰められる。

###

神様、生活している中に、混乱がおき、危機状態が起きたときも、変わらずに神様の愛が私たちに対してあることをありがとうございます。

私がどんなに足りないもので、過ちを犯したとしても、イエス様の十字架で赦され、神様の祝福へと導かれることをありがとうございます。

混沌とした中にあっても、あわれみの神様を見続けられるようにしてください。

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2009年6月16日 (火)

“同情されるイエス様”(祈り)

私は同情より、聖書にある正論で人を苦しめた者であったことを思わされました。

『私たちの大祭司(イエス)は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。』新約聖書 ヘブル人への手紙4:14

私はとても、心砕かれて自分の弱さを教えられているときは、人にも優しくなれているかもしれません。

一方、私が調子が良く、すべてがうまく行っているかのような時は、人に同情する心が少なくなるかもしれません。

自分のイエス様にある歩みを見るとき、祈りも癒しも赦すことも、何もかも与えられたものなのに、「あなたもこうしなさい。」と、その心の痛みに寄り添うことなく、言ってきた者だったか、少し教えられました。

神様を信じている人たちの世界で、つらいのは、正しい答えが書かれてあることです。

その正しい答え(=正論)は言われてしまうと、「ごもっとも」としか言えません。けれども、人から言われた正論は、罪責感を強めたり、恥ずかしい思いを強めたり、みじめな思いに落ち込んだりさせるだけです。

病院に行って、あなたの悪い患部はここだと、傷口を開かれて、血を流して終わりです。癒す手立てまでしないで、終わらせるというのは、聖書の、恵みの神様の世界ではありません。

けれども、きっと、同じような聖書の正論で、私はバサバサと人の心を切り、痛ませたまま、私は満足して、帰らせてきたのだと思います。

お祈りします。

「天のお父さん、イエス様は、私たちの苦しみをすべて知っておられ、私たちの弱さに同情されるお方です。

私たちの罪の結果の苦しみですら、「誰もあなたを裁きません。私があなたの罪の責任を全部請け負うから。安心して帰りなさい。」と言われる方です。

それなのに、私は、聖書にある正しいことばで、相手を同情せず、その心を聞かず、切りつけてきた者であることを教えられました。

それは相手に癒しではなく、痛みだけを残します。

この同情できない心を赦してください。

聖書にどう正しいことが書いてあり、どうするかは聖霊様が、慰めの中で、案内してくださいます。

私たちは互いが、同じ弱さを持つものとして、同情し合うものとさせてください。

心の痛みが理解できないときでも、祈るものとしてください。

イエス様のところには、裁きでなく、その互いの弱さを受け入れ合うものとしてください。

私の力ではできませんから、受け入れる心、同じように私たちは弱いものであることを教えてください。

イエス様のもとで、私たちが同情しあい、理解しあい、受け入れあい、赦しあうことが広がりますように。

そして、まわりの人々が、この世にないイエス様の愛を知ることができますように導いてください。

イエス様のお名前で、お祈りします。

アーメン。」

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ずる賢い“ヤコブ”

神様の選びの確かさとはどういうものか、考えました。

『さて、ヤコブが煮物を煮ているとき、エサウが飢え疲れて野から帰って来た。

エサウはヤコブに言った。「どうか、その赤いのを…私に食べさせてくれ。私は飢え疲れているのだから。」…

するとヤコブは、「今すぐ、あなたの長子の権利を私に売りなさい。」と言った。

エサウは、「見てくれ。死にそうなのだ。長子の権利など、今の私に何になろう。」と言った。

それでヤコブは「まず、私に誓いなさい。」と言ったので、エサウはヤコブに誓った。こうして彼の長子の権利をヤコブに売った。』旧約聖書 創世記25:29~33

“長子の権利”とは長男がほかの兄弟の2倍のものを相続し、分配にあずかること。(申命記21:17)

それは、イスラエルにおいて、初子(ういご)が、神様に属するものとされ、特別価値があると考えられたからだそうである。

ヤコブの性格は、ずる賢く、抜け目がなかった。自我が強く、また、人をだますものであった。

自我が強いというところで、私はヤコブを身近に感じている。私もまた、自我の強い者だったから。

彼は、兄から“長子の権利”を買った。エサウは今のお腹を満たしたいため、目の前の食べ物と“長子の権利”を取り換え、売ってしまった。

『こうしてエサウは、長子の権利を軽蔑したのである。』創世記25:34

エサウは、霊的な価値にうとかった。目の前のもの、物質的なもの、お腹を満たすものを選んだ。

一方、ヤコブは、霊的なものに目が向いていた。

ここで、ヤコブのように、霊的なものを大切にしよう、そして、神様の祝福にあずかろうと言うのは、簡単である。

が、私の中でゆきずまってしまう。私の中で、先のブログに書いた“神様の選びの確かさ”から言うと、何を選択したか、何を大切にしたかを越えて、ヤコブは神様の祝福を受け継ぐように選ばれていた。

あるブログで、神様の権能(権利を持って行使できる能力)か、人間の責任か…どちらも100%だとかあったように思う。

難しいところだか、私は神様の権能が100%だと思う。人間は間違いだらけで、その“責任”を問われても、“責任”を果たせない者だ。

私がこれまでの歩み、神様に対して“責任”を果たしてきたかというと、皆無のような気がする。

ただ、神様のあわれみで、神様の一方的な100%の権能により、ここまで歩ませてもらった気がする。

そして、私が果たせているものはない、0%なものだと知るとき、私たちはただ神様に応答して、感謝していけるような気がする。

ヤコブは、人間的に兄エサウの弱さ(近視眼的)に漬け込んで、長子の権利を買った。

ヤコブに神様にかなうものは0%だった。それでも、神様の選びの確かさにより、神様は選んだとおりにヤコブを祝福するのである。神様のあわれみを思う。

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2009年6月15日 (月)

捨てさせてくれた神様、そして友人

私が手放すものを教えられました。

『キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。

ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことはせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。

そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。』新約聖書 第1ペテロ2:22~24

私は自分がまだ、握っているものを見せられました。

一人の友人が、私の間違いを指摘し、もう一人の友人が、私の“捨てる自由”への願いを懸命に、自分のことのように、もう一人の友人に説明してくれていました。

二人はノンクリスチャンであるのに、彼女たちを通して、私は弱さをはっきり認め、慰めのイエス様に持っていき癒されました。

不思議な体験です。まるで、二人が聖霊様(神の導き、弁護の霊)であるかのような役割をしていてくれているのだなぁと思いました。

なんといっても、“捨てる願い”を一言で理解してくれた友人に驚きました。

私が彼女の中にある痛みや悲しみに近づいたときでした。“捨てられずに苦しむ”そんな苦しみを彼女はしているんだと教えられました。

感謝してお祈りします。

「天のお父さん、今回、私は、自分はイエス様以外、何も無い者だと認めて生きていくために、特別な場所、友人たちを備えてくださり、ありがとうございます。

私の中に、私は何も無いことを、仕事も持っておらず、社会的な地位も名誉もなく、ポジションも肩書きもないことを、はっきり知るために、備えてくださった様々なことをありがとうございます。

私の中で、まわりが福祉の仕事の話しをしているとき、疎外感やひけめを感じた自分に驚きました。

私は、主婦で、何の肩書きもありませんが、イエス様にあって自分の今を誇りに思っていたつもりだからです。

イエス様は、神様であられるのに、その姿は、みすぼらしく、人々が顔をそむける程でした。

神であられたのに、私のために、すべてを捨ててくれました。

地位、名誉、肩書きの誘惑は、私にとって無縁のものと思っていました。ですから、驚きました。

が、友人たちを通して私の捨てるものをはっきり教えられ、感謝します。

友人に帰りがけ、私は愚痴をいいました。

「私は、仕事もしていないし、会の始めの挨拶で、「皆さん、福祉従事者としての苦労を分かち会いましょうと言われたとき、仕事していない私にはきつかったよ。」というと、Kは言いました。

「そうなんだ。」

たった一言だけど、そう言ってくれました。

私の側にある問題を見せてくれた友人たち、受け止めてくれた友人、車中の二人、コメントくれた友人、…たくさんの友人を通して、癒しを受けとれましたから、ありがとうございます。

私は「自分を神のしもべとして推薦します。」というところに立たせてください。

私の握っていたものは、小さいものではありません。

これから、その問題や誘惑がきたときに、きちんと解決しているための取り扱いと信じます。

握っているものを認め、告白し、イエス様に癒してもらい、手放せたことを信じてありがとうございます。

環境を備えてくれ、気づきに至らせてくれた友人たちに感謝します。

愛しい友人にも、この捨てる自由が与えられますように。

イエス様のお名前によって祈ります。アーメン。」

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2009年6月14日 (日)

“捨てる自由”

日曜日の朝、愛されています人々の祝福を願いつつ、私の教えられた分かち合いをします。

『自分のいのちを自分のものとした者はそれを失い、わたし(イエス)のために自分のいのちを失った者は、それを自分のものとします。』新約聖書 マタイの福音書10:39

おはようございます。

今日もそれぞれのところにある日曜日の朝であることを思います。

神様は、この地に満ちておられ、今、教会の外におられる方も、等しく神様は愛しておられることを思います。

この聖書のことばから、最近、私が気がつかされたお話しをしたいと思います。

“自分を捨てる”という発想は、神様を信じる人以外には、あまりありません。

“自分を捨て、神様に従う”ということを意味します。

もっと違ういい方をすると、“自分を捨てた分、神様のいのちが私に満ちる”ということなのかもしれません。

私は、自分の考えや思い、プライドや固執するものをどれだけ捨てて、神様ご自身にあるか…自分を見るのは、難しいです。

私は、ある友人から「あなたの信仰変だよ。」と言われ、とても“傷つきました”。

そして、考えたのです。「信仰だけは、否定されるのはきついから、彼女の前ではもう分かち合わずに黙っていよう。」

けれども、最近、「私の守る信仰とは何でしょうか」と思いました。

イエス様は、私のための十字架のため、いのちまでも捨てられたのに、人を理解することを妨げる私の守る信仰とは何なのかと思わされました。

「“人の心の理解を妨げる信仰”を捨てます。ただ、イエス様とともにおらせてください。」と祈りました。

すると、不思議と信仰を否定されても、“傷つかない”自分を見ました。

何かを自分の中に持っているということは、それを守ろうとするけれど、何もないと守る必要がないことを教えられました。

今、大学の同窓会に来ていますが、福祉の大学なので、皆さんの多くが、卒業されて、その関係の仕事に従事されています。その中で自分は何の仕事もしていないひけめのようなものを見せられました。

この朝にそのことを静かに思うとき、私の中に守ろうとしているものが、まだまだたくさんあるのだなぁと思いました。

“自分のいのちを失う”“自分自身を無くす”ものに与えられる“イエス様とともにあるいのちの喜び”を求めていきたいと思いました。

###

天のお父さん、私はかなりのものを捨てたと思いつつ、まだまだたくさん捨てられずにあるものがあるのを知りました。

捨てた後の自由と、神様にある喜びに満たしてください。

自分を守るのではなく、イエス様を愛する心をください。

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赤いハイヒール

同窓会で皆が私との思い出話を話してくれて、改めて自分の昔の姿が浮き彫りにされた感じです。

『泣くのに時があり、ほほえむのに時がある。

嘆くのに時があり、踊るのに時がある。…

神のなさることは、すべて時にかなって美しい。』旧約聖書 伝道者の書3:4.11

今、大学の同窓会で、仙台の温泉地にいる。

大学時代は自分のことしか考えられなかった。この30年ぶりの再会で、学友との新しい出会いにしたいと期待してきた。

サークルネームが“セバ”なので、「おー、セバ!懐かしいなぁ。」と声をかけてもらうが誰かあまり思い出せない人もいる。いかに、自分しかなかったかという感じである。

1人の友人が言った。「セバはよ、ある日、突然、エナメルの赤いハイヒールを履いて、大学に来たんだ。それで、俺は、どうしたんだって聞くとよ。“自分が変わりたいんだ!”って言ったんだ。」

私は、スカートは一切履かず、ズボンにTシャツの飾り気のない格好ばかりしていた。そこに、赤いエナメルのハイヒール…!?我ながら、ちょっとビックリ…。(本人覚えていない。)

「そうなんだ。セバは何かもがいていて、とりあえず、外側から変えようとしてるんだ、って俺は思った。」

すると、近くにいた友人がすかさず、「お前のことだ。外側変えても、中から変えないとダメだ位言ったんだろう。」

「そうかもな。」と話していた。私はあの頃、何より、変わりたかったんだなぁと思った。赤いハイヒールが良かったかどうかは別として、あの頃の虚しく漂う自分を思い出した。

また、ある友人が「セバさ、大学中退したあと、私、セバに会いに東京まで言ったんだよ。覚えてる?どうして会いに行ったか覚えていないけど、すごく心配だったのかも。」あまり、記憶にないが、心配してくれた友がいたのを改めて、知った。

極めつけが、「俺、東京のセバのところに遊びに行く途中、猫が道路でひかれたのを見たんだよ。その話しをセバに会ってしようと思ったんだ。そしたら、セバは、なんだか溢れる思いで、キリスト教の話しをしてくるんで、ひたすら聞いていて、猫の衝撃的な話しできなかったんだよ。」と言われた。そんなに余裕ない自分だったんだなぁと思った。

友人たちとの新しい再会…と楽しみにしていたが、みんな、私との思い出話しをそれぞれにしてくれた。

そして、過去にいた私は、やっぱり友たちのことより、自分のことでいっぱいで、人の優しさとか、心を聞けない悩める者だった。

改めて自分がどんな人間だったか、教えられたのと、いつも周りに優しい友人たちがいたことを確認させられた。

関東会も出来て、再会の約束をした。

朝まで話そうと、隣の部屋は、まだ、にぎわっている。

かつて、私の中で、心のセンサーが壊れていて、大切な人が隣にいても、いないかの如く、自分しかなかった。

関係作りをやり直せるチャンスを与えてもらって、心から感謝している。

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2009年6月13日 (土)

“神の選びの確かさ”

“神様の選びの確かさ”を教えられた分かち合いです。

『その(リベカ)の子どもたちは、まだ生まれておらず、善も悪も行わないうちに、神の選びの確かさが、行いにはよらず、召してくださる方によるようにと、「兄は弟に仕える。」と彼女に告げられたのです。…

神はモーセに、「わたしは自分のあわれむ者をあわれみ、自分のいつくしむ者をいつくしむ。」と言われました。

したがって、事は人間の願いや努力によるのではなく、あわれんでくださる神によるのです。』新約聖書 ローマ人の手紙9:11~16

4年前、NHKの「選民ユダヤ人のガサ追放」という番組を見た。衝撃を受けた。そして、この聖書の箇所の意味が深く理解できたような気がした。

世界中に散らされたユダヤ人は、旧約聖書にある、自分たちこそ、神の選びの民だということに誇りをもち、どこにいても、その信仰を継承してきた。

あるユダヤ人が、イスラエルこそ私たちの地だと約束を信じて、過去のすべてを捨てて戻ってくる。

しかし、政治情勢の厳しい中、彼らはそこから追い出される。

それでもなお、聖書のことばを信じて言う。「聖書には、私たちにこそ、この地を与えると神は約束されているのです。私はこれを信じます。」

命をかけて、生活のすべてをかけて神様を信じる姿がそこにあった。

私は、神様と出会う前、空しさと孤独で、何かを求めていた。そして、生かしてくださる神様に出会った。

私は神様によって見つけてもらったと言いつつ、心の奥底で、他の人より求める気持ちが強かったから信仰をもてたと、どこかで自負していた。

ところが、そのユダヤ人の方の神様を信じる気持ちは、半端ではない。全生活をなげうっても、聖書の約束を信じてイスラエルに戻ってきた。そして、どんな厳しい現状でも、なお信じている。

しかし、イエス様をまだ見い出していない。

“事は人間の願いや努力によらず…”とあるが、私の中に、いかに“願いや努力”によって神様の事が成ると思っていたかを見せられた。

「兄エサウは弟ヤコブに仕える」ということが、まだ生まれる前から、善も悪も行わないうちに、“神の選びの計画の確かさ”が、行いによらず、ただ神様によって決まっていたと、聖書にある。

人間側にはその選ばれる理由はひとつもなく、神様の選んだということだけがすべての理由だという。

前はこの箇所を読んで、何か不公平感をもっていた。私たちは何をしても、自分には選択権がないのかと。

しかし、神様は滅びゆくものを、ただ神様のあわれみで選んでくださったのだ。

“神様の選びの計画の確かさ”、それはまったく私の側に選ばれる理由はないのに“神様のあわれみ”という理由で選ばれたということを知った。

神様の深いあわれみの中で、揺らがない選ばれた者としてある恵み、心から感謝する。

そして、ローマ11章では、神様はイスラエルの民を選ばれたことは、無効となっていないという。

それは、異邦人の救いのためで、一時的であることが書かれている。

神様に感謝します。

###

神様、私たちの神様の選びが、神様によって成り立っているので、揺らがないことをありがとうございます。

私が何か間違ってしまっても、それでも変わらず、選ばれていることをありがとうございます。

この“選びの確かさ”の神様のあわれみの中にいこわせてください。

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2009年6月12日 (金)

“忘れない神”

神様は、私たちを決して忘れない…そのようなお方であることを感謝します。

『しかし、シオンは言った。「主は私を見捨てた。主は私を忘れた。」と。

「女が自分の乳飲み子を忘れようか。自分の胎の子をあわれまないだろうか。たとい、女たちが忘れても、このわたし(神)はあなたを忘れない。

見よ。わたしは手のひらに、あなたを刻んだ。…

あなたの子どもたちは急いで来る。…目を上げて、あたりを見回せ。彼はみな集まって、あなたのところに来る。』旧約聖書 イザヤ書49:14~18

明日は、大学時代の同窓会みたいなのがあって、仙台に一泊旅行に行く。クリスチャンになって、初めてのこのような旅行である。

その集まりは、新入生歓迎会実行委員会のメンバーらしい。30年近く前のこと、大学中退した私は、ほぼ皆と絶縁状態だった。

たった一人年賀状のやりとりをしていた友人を通して、見つけて貰った。

仙台に住む人たちが中心になって連絡を取ってくれた。彼らも30年ほどの前の名簿しかないのに、一人一人たぐっていくように人探しをしてくれ、私も同窓会メンバーに入れてもらえた。

そのご苦労を思うと共に、思いがけない再会に胸が弾む。

学生時代はとにかく孤独と虚しさがあり、楽しく好き放題のことをしていたが、本当の意味で“生きる”ことをしていなかった。

タイムマシンのように30年前に戻って、再会する友人たちを祈っていける関係がまた始まることがとても嬉しい。神様の計らいを感じる。

神様は、私たち一人一人を決して忘れていない。

たとえ、自分がすべての人に忘れられているようでも、神様は、私たちを決して忘れない。

母親が自分が産んだ赤ん坊を忘れることがあるだろうか。

万一、母親が乳飲み子を忘れたとしても、神様はけっして忘れないと言われる。

神様は、恋人のように、私たちの名前を、手のひらに刻んで、いつも覚えている。

一時たりとも忘れることなく、熱く思い続けている。

神様はイザヤを通して、私たちにそう言っている。

このねたむほどに、私たちの心を神様のところに向けてほしいと願っている神様は、私たちに語りかけてくださる。

この神様との親しい交流が始まるよう、また、いつもそうあり続けるよう祈ります。

###

神様、あなたは私を見捨ててしまいましたか。

神様、あなたは私を忘れてしまったのですか。

そんな思いが湧いてきても、神様、あなたは私を何があっても決して忘れないと言ってくださることをありがとうございます。

イエス様の身代わりにするほどに、私を熱く思い続けてくださることをありがとうございます。

あなたの愛に応えられるように、今、私の心をイエス様の血潮できよめ、うるわしいあなたの愛のシャワーの中に入れてください。

あなたを求めます。

あなただけを求めます。

あなたの思いを受け取れる心にしてください。

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『蟹工船』と“神様”

『蟹工船』(かにこうせん)と神様…変なタイトルですが、昨日、祈らされた祈りです。

『わたし(神)は、エジプトにいるわたしの民の悩みを確かに見、追い使う者の前の彼らの叫びを聞いた。わたしは痛みを知っている。

わたしが下って来たのは、彼らをエジプトの手から救い出し、その地から、広い良い地、乳と蜜の流れる地、カナン人、ヘテ人、エモリ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人のいる所に、彼らを上らせるためだ。

見よ。今こそ、イスラエル人の叫びはわたしに届いた。わたしはまた、エジプトが彼らをしいたげているそのしいたげを見た。』旧約聖書 出エジプト記3:7~9

昨日、市のボランティア先で―『蟹工船』と現代社会―という講演を思いがけなく聞くことができた。講師は浜林正夫氏(一橋大学名誉教授)である。

小林多喜二著者の『蟹工船』が、今、若者に読まれているというのは、テレビで見て知っていた。

私は読んだことがない。が、今回の講演で、どんな内容なのか、とても詳しく教えてもらった。

大正10年から、蟹工船は始まる。蟹を取って、船の中で缶詰をつくる、つまり漁業と工場が船の中に一つとなっている。

著者小林多喜二は、蟹工船で行われている漁夫の劣悪きわまりない労働実態を“漁夫虐待事件”として2年に渡って調査し、やがて小説にしていく。

労働者である漁夫たちを人間的に取り扱わず、暴力、餓死、病死させた実話をもとに書かれた。

漁夫たちは虐待を受けながらも、団結して、抵抗していくそのプロセスが描かれているとのことだった。

そして、『蟹工船』で行われたようなことは、日本の歴史の中で、朝鮮人強制連行、中国人強制連行などで繰り返されたと話されていた。

私が最も心揺さぶられたのは、“現代の日本社会に『蟹工船』的状況はある―という話しである。

格差社会、派遣切り、最後のセーフネットのはずの生活保護まで人々を守れていない。あとは、犯罪を犯して、刑務所に行くか、死ぬしかない…そんな現状があると話された。

こういう話しを聞くと、「神様、助けを必要とする人たちを助けてください!」と私の中の眠っているものが心を揺さぶる。

豊かな日本と言われる中で、うつ病になったり、自殺したり、失業に途方にくれている人たちがいる。

この講演者は最後に、『蟹工船』と現代は同じなのか…かつて、同じ船の中にあった“団結”が、今は無くなった。“人間のつながり”をどうやって回復していくのかが課題である…とまとめていた。

帰り道、自転車に乗って、祈りながら帰ってきた。

「神様、あなたはイスラエルの民をエジプトから救出した歴史に働かれる神様です。

今の日本の現状を神様はご存じです。

今、苦しむ者たちの叫びを聞いてくださり、神様のお名前によって、その権能によって、彼らを苦しみから救いだしてください。

今の私に日本が神様によって変えられていく幻はありませんが、この日本を変えてくださるのは神様しかいません。

神様、助けてください。」

家に帰り、一日外に出ていたので、うたた寝をした。夢を見た。サラリーマン風のワイシャツを着ているたくさんの男性たちが、一斉に祈っている夢だった。神様の幻(ビィジョン)だろうか。

神様、遣わされた場所で、私たちが祈りを一つとできますように。

このつながりのなくなった社会で、イエス様にあるつながりのくすしいことを表してください。

私自身は、自分のリバイバル(信仰覚醒)のために、悔い改めにもぐっていきます。

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2009年6月11日 (木)

“主が備えてくださる”(アドナイ・イルエ)

“備えてくださる神様”を思いました。

『神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。

それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。』新約聖書 ヨハネの福音書3:16

アブラハムは愛する我が子を、全焼のいけにえとして、神様にささげるように言われた。

アブラハムにとって、イサクは何にも変えがたい存在だったが、神様に従った。

神様は、同じように我が愛する子イエス様を私たちの罪のあがないのためのいけにえとして、殺す計画をされた。

それは、そのイエス様のいのちとひきかえに、私たちの罪が赦され、私たちが神様との関係が回復するためだった。

アブラハムのように、神様も苦悩された。

アブラハムは、その“神様を恐れる心”を神様に知られ、イサクの代わりに雄羊を備えられた。

アブラハムは、モリヤの地にあるその場所の山を“アドナイ・イルエ”と名付けた。

“主(神)が備えてくださる”という告白だった。

神様は、私たちのために備えてくださった。

神様は、私たちが滅びることを望まず、その永遠のいのち、今、この地上にあっても神様とともにあるいのちに生かすため、ひとり子イエス様を十字架にかけられる備えをされた。

そして、そのことは成った。

愛するひとり子イエス様のいのちを代わりとするほどに、私たちを愛してくださった神様は、今日も私の最善を備えてくださっている。

“アドナイ・イルエ”どんな状況にあっても必要と最善を備えてくださる神様をほめたたえます。

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孤独の夜に…

昔、イエス様を知らず、孤独が迫ってきました。今、イエス様の孤独があることを知り始めました。

『見よ。わたしはあなたとともにあり、あなたがどこに行っても、あなたを守り、あなたをこの地に連れ戻そう。

わたしは、あなたに約束したことを成し遂げるまで、決してあなたを捨てない。』旧約聖書 創世記28:15

大学を中退した私は、東京に出てきて、デザイン学校に入った。

大都会の中の3畳のアパートに住み、バイトと学校の往復で、声をほとんど発することもなく過ごした。

そんな私も何か月かすると、そこが生活の場になり、知り合いもできていった。

生きる動機に欠けていた私は、何をやってもうまくいかず、やがて、バイト漬けの毎日で、学校の課題がたまっていった。

バイトの寮で、青山のど真ん中に移った。課題がたまって、「このままだと大変だよ。次にあがれないよ。」と3人くらいの男の子たちが、徹夜で課題を手伝ってくれた夜があった。

朝がた、牛丼を買いに行く途中、渋谷のビルの谷間から昇る朝日を見た。

いい友人たちがいるのに、やっぱり心の深いところで孤独を感じている私がいた。そこはイエス様でなければ、決して埋まることのない孤独だったのだと思う。

イエス様に出会って、私を悩ませていた孤独は全く無くなった。

「孤独だ」と嘆くクリスチャンの友人には、「それは、神様ときちんと交わりをしないからだよ。」と平気で言ってきた。

今、イエス様ととても近くにいる感じがする。

そして、時おり、イエス様のとてつもない孤独をわずかだけ見せられる。わずかだけなのは、私には耐えられないから…。

イエス様の歩まれた悲しみの道、イエス様が経験された孤独の道…いままで、知らなかったけど、少しだけ、聖霊様によって教えられる。

イエス様を知らなかったときの私

イエス様の十字架の孤独の道を知らなかった私

孤独が消えて、万々歳と思っていたけど、イエス様といながら、イエス様の心がわからなかった私

「友人よ、あなたが孤独だとうなるとき、神様と交わりしないからだと言った私をごめんなさい。」

「イエス様、あなたの気持ちを知ることよりも、いつも私自身ばかりだったことをごめんなさい。あなたについて行きます。あなたが悲しみと孤独の道を歩まれたから。あなたが、悲しみと孤独を癒されるお方です。」

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天のお父さん、この地は痛みや悲しみや孤独に満ちています。

イエス様が闇の中に持っていく慰めと希望のともしびは消えることがありません。

私もイエス様のあとをついて行きます。

イエス様のいないところにともしびがともりますように。

イエス様がいてくださって、なお、孤独なところのともしびを温かく、大きくしてください。

私たちがたくさんの慰めと喜びのともしびを人々の中に見ますように。

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2009年6月10日 (水)

カルト化教会に無いもの

神様は何を私たちに求めておられるか教えられた分かち合いです。

『み使いは(アブラハム)に仰せられた。

「あなたの手を、その子に下してはならない。その子に何もしてはならない。今、わたしは、あなたが神を恐れることがよくわかった。あなたは、自分の子、自分のひとり子さえ惜しまないでわたしにささげた。』旧約聖書 創世記22:12

神学校時代、同じ寮で、伝道熱心な男の子がいた。

気があって、よくいろんな話しをした。

ある時、彼が言った。「相手を愛する思いがあるなら、体の癒しもその人のために祈ると思う。」

私が何と言ったことに対する答えか、覚えていない。たぶん、「体の癒しがすべてではない。」ということに対してだと思う。

一緒に卒業した彼は、伝道熱心で神様にまっすぐな感じの人だった。

やがて、彼が属している教会がカルト化してしまった。彼もその中の中心的な牧師の一人だった。

今日、その会話を思い出した。彼がどこからずれてしまったのか、よくわからない。

初めの頃は、「イエス様の愛を語る素晴らしいメッセンジャーだよ。」と彼の噂を聞いていたが。

アブラハムがイサクを捧げる試練の中、神様は言われた。

「今、わたしはあなたが神を恐れることがよくわかった。」

神様は、神様を恐れる心をアブラハムに見て喜ばれた。

“心”とか、“動機”とか見えないことこそ、実は神様が最も求めておられることなんだなぁと、しみじみ思う。

カルト化した教会は、宣教熱心だったりする。とにかく働く。労する。無心になって疲れるまで仕える。そのように牧師にコントロールされてしまうのだが、そこに、主とふれあう“心”がない。

黙示録2章に出てくるエペソ教会は、労苦と忍耐を神様に知られていた。

しかし、“初めの愛”から離れてしまった。

イエス様の赦しとあわれみの中、応答する行為と、“心”を無くし、ひたすら頑張る世界は、見た目な変わらなくても、神様から見たら全く違うのだ。

主にある熱心の中で、神様が最も求めとおられる“神様への心”こそ第一とされるものだなぁと思った。

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愛されたことを世が知るために(祈り)

最後の晩餐で私たちのために祈られたイエス様の祈りが、そのとおりになりますよう、お祈りします。

『またわたし(イエス)は、あなた(神)がわたしに下さった栄光を、彼らに与えました。

それは、わたしたちが一つであるように、彼らも一つであるためです。

わたしは彼らにおり、あなたはわたしにおられます。

それは、彼らが全(まっと)うされて一つとなるためです。

それは、あなたがわたしを遣わされたことと、あなたがわたしを愛されたように彼らも愛されたこととを、この世が知るためです。』新約聖書 ヨハネの福音書17:22.23

「天のお父さん、私たちにイエス様を送ってくださり、ありがとうございます。

イエス様が、最後の晩餐で信頼する神様に祈りました。

そこには、イエス様が最も願っていたことを祈られたのだと思います。

そこには、天のお父さんとイエス様が一つであるように、私たちもまた、一つとなりますようにと祈られました。

それは、神様がイエス様を送ってくださったことと、神様がイエス様を愛されているように、私たちも愛されていることを、この世が知るためです、とあります。

人間的に一つにはなれません。

また、教会のルールや、牧師の指示で一つにはなれません。

それは、イエス様の十字架の赦しのもとにしか、一つになることができません。

もし、私たちがイエス様のもとに一つになって喜ぶことができたら、世の中の人は驚くでしょう。

それは、決してこの世には見られないみ業だからです。

私が一つになれない、イエス様の十字架の赦しに行く妨げになっているものを赦してください。

イエス様が一つになるように十字架の犠牲を払ってくれたのに、それが無効かのように、バラバラの心を赦してください。

イエス様が十字架にかかられたのは、私を赦してくれるためでした。

主よ。今、私に豊かな赦しを与えてくださり、私が赦すものとなるよう癒してください。

私たちがイエス様の十字架の赦しのもとに憩い、自由に一つとなることができるよう、あなたのみ業をなしてください。

2000年前、私たちのために祈られたイエス様の祈りがそのとおりになるようにしてください。

今日、お一人お一人にイエス様の赦しがおおい、慰められますよう、祈ります。

イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン」

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2009年6月 9日 (火)

少数派の自分

私の近況…小さな変化です。

『教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。』新約聖書 エペソ人への手紙1:23

私がブログを始めて11か月になる。私はブログの中で変えられてきている。

誰に変えられたかというと、もちろん、神様にであるが、ここに毎日のように訪問してくださる皆さんによってである。

私は教会と言われるところでは、その与えられた信仰が“少数派”となるものだと思う。

だから、いつになっても、どこにいっても、しっくりこない。

ブログでは、とにかく私の本音の本音のところを書いている。聖書の分かち合いにしても、私が美味しいと思うところを共に美味しいと思ってもらっているので、訪問してもらえるのだと思う。

少数派の私も、ブログの中では共に似た感性、信仰の方がいて、そこが集まれば、少数派ではなくなるってことかなぁなんて、訳のわからないことを考えながら出かけた。

私たちの教会は牧師夫妻と私たち夫婦の4人。最近、一人の女性の方が集ってくださっている。

そんなに少なくても、そこに人との信仰の溝を感じてしまう私である。

今日は、牧師の奥さんと共に久々祈った。私は変わり始めている。悔い改めの始まり、教会を赦し、さらに癒しを祈るようになった。ブログの中での導きのおかげである。

彼女はいつも私に愛をもって祈ってくれていたが、私の方には彼女との溝があった。教会の外の人の話しになるとその違いに苦しくなった。

今日、彼女と祈りながら、「私たちは神様にあって一つです。」と祈っていた。彼女もまたそう祈っていた。

心からそう思えた。彼女は、韓国系中国人で、その救霊(イエス様を信じてもらう)の思いに熱い。それなのに、誰を誘っても教会にこないことにガックリきている。胸が苦しくなるらしい。

中国では、迫害の中、人々がイエス様を信じていく。なぜ、日本は違うのかと嘆く。

彼女の神様が与えてくれた熱い救霊の思いに慰めがくるよう祈った。

私の中で何かが変わった。何だろうか。

教会の人と違いはあっても、それを越えて一つであることを受け止められたのか…。まだ、限りなく近くにいる一人と祈れた程度だが。

訪問の皆さんには、私の悔い改めの道に共にお付き合いくださり、心から感謝します。

今、“私の歩んだ教会たち”の証を書いていますが、すべてが懐かしく、そこで失敗したりしている自分がいとおしいです。そこに取り巻く人たちの弱さが受け入れられます。

悔い改めの霊が私をおおったとき、私は「神様、あれもこれもごめんなさい」と号泣しながら、ブログを書いている…そんな想像をするのだが、まだ、その霊はくだっていない。悔い改めというのが、そういうものではないかもしれないし、聖書のことばにより、御霊の啓示により、深いところを見せられたとき、「ごめんなさい」と告白するよう導かれるのでしょう。

神様のよいものを皆さんと分かち合いたいと心から願っています。日々、訪問してくださる方々の祝福を祈っています。訪問、ありがとうございます。

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“神様が求めておられるもの”(創22)

アブラハムは神様から「イサクを全焼のいけにえとして捧げよ。」と言われました。

『これらの出来事の後、神はアブラハムを試練に会わせられた。神は彼に、「アブラハムよ。」と呼びかけられると、彼は、「はい。ここにおります。」と答えた。

神は仰せられた。「あなたの子、あなたの愛しているひとり子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。

そしてわたしがあなたに示す一つの山の上で、全焼(ぜんしょう)のいけにえとしてイサクをささげなさい。」』旧約聖書 創世記22:1~2

神様はアブラハムを試練に会わせられた。その試練は、あまりにも苦しい試練だった。

神様は、アブラハムにとってイサクが年をとってから産まれた何よりも大切な愛して止まない子どもであることを知っておられた。

そのイサクを「全焼のいけにえとしてわたしに捧げよ。」と言われた。

「神様、なぜですか。イサクはあなたが約束の子どもとしてお与えくださったのに。あなたが、わたしにとって最も大切なものであるのをご存じなのに…。」と心のうちで思ったかもしれない。

しかし、翌朝早く、アブラハムは神様の言われるとおりに、イサクを連れて、モリヤの地に向かったのである。

「お父さん、全焼のためのいけにえはどこにあるんですか。」とたきぎを背負ったイサクが聞く。

「我が子よ。それは神ご自身が見つけてくださるのだよ。」と悲痛な思いを胸に秘め、アブラハムは静かに答える。

やがて、神様が言われた山の上に着くと、アブラハムは祭壇を築き、たきぎを並べ、イサクを縛り、祭壇のたきぎの上に置いた。

私は、20年程前、レンブラント展を主人と見に行った。その中で最も忘れられない印象的だったのが、アブラハムがイサクを刀で今にも刺し殺そうと手を振り上げている絵だった。

アブラハムの顔は苦痛でゆがみ、その目から涙が溢れ流れていた。

そして、その絵には、同時にアブラハムのその振り下ろそうとする瞬時に、み使いがその手を押さえていた。

聖書では、アブラハムがイサクを刺し殺そうと手を下ろす瞬間、主の使いが天から呼び止めた。

「その子に何もしてはならない。あなたが神様を恐れることがよくわかった。」

そして、神様は雄羊を用意され、それをアブラハムは捧げた。

アブラハムにとってイサクは神様の約束そのものだった。イサクを通して、アブラハムを大いなる国民とすると、神様は言われた。

そのイサクを神様に捧げる…それは何を意味するのだろうか。

神様は、私たちが神様をさらに信頼することの訓練として、私たちの最も大切にしているものを用いる。

できるならば、そんなことはして欲しくない。しかし、残念ながら、それをもってしかできない訓練があるのかもしれない。

神様を信頼し、神様を恐れる心、神様がどんなものよりも、求めておられるのは、その心である。

神様、今、全焼のいけにえとして、私のからだと心を神様に捧げます。あなたがイエス様の血潮によってきよめてくださり、神様に受け入れられるきよい、生きた供え物としてください。

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2009年6月 8日 (月)

“教会の外のクリスチャンへ”その誇りの信仰

教会の外にいるクリスチャンに慰めのメッセージをいただいたので、書き写します。

『いまは、しばらくの間、さまざまの試練の中で、悲しまなければならないのですが、

信仰の試練は、火を通して精錬されてもなお朽ちていく金よりも尊いのであって、イエス・キリストの現れのときに称賛と栄光と栄誉に至るものであることがわかります。

あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、いま見てはいないけれども信じており、ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどっています。

これは、信仰の結果である、たましいの救いを得ているからです。』新約聖書 第1ペテロの手紙1:6~9

昨日、初めて“せつ”さんという方がコメントをくださいました。教会の外にいるクリスチャンへの神様からのメッセージでした。

私は常々、外の人たちの目には見えにくい深い信仰を感じています。

彼女たちにとっては、神様にあるかないかは、生きるか死ぬかぐらい切迫しています。

その素晴らしい与えられた信仰を素敵な表現をされていて、「ああ、私がずっと伝えたかったことばだ。」と思ったのでコメントをそのまま、写させてもらいます。

「トラブルが起こってしまい、教会に行けなくなってしまっても、なお、神様を愛し続ける方たちの手には、ダイヤモンドのように美しくて強い本物の信仰が握られていますよ。

いつか時が満ちて、その方たちの心が癒える頃、その方たちを必要とするキリストの体である教会に、ふっと導かれる、そんな日がきっと来ます。

神様はその方たちの信仰を誇りに思っておられます。」

アーメンです!!私にもわかります。試練を通され、輝いていく“ダイヤモンドのような本物の信仰”。そして、神様ご自身が、「あなたはわたしの誇りです」と言っておられるのを!

お祈りします。

神様、あなたがすべてをご存じで、私たちのうめきも叫びも聞いておられ、応えてくださる方であることを知っています。

主よ。クリスチャンであるのに、それゆえのような痛みや苦しみがありますが、神様が愛してくださっていることをありがとうございます。

今、現状を見ると、先行き希望がないように思えても、そうでないことをありがとうございます。

私たち外の者の信仰を、ご覧になってくださり誇りに思ってくださっていることをありがとうございます。

私たちの心の傷を癒してください。私たちに赦しを祈る祈りを与えてください。

私たちが赦しを祈るとき、イエス様ご自身のみ業が起こります。

なぜなら、赦しを祈るのは、イエス様の十字架の力によってしか現されないからです。

私たちの傷ついた地に癒しを、そしてキリストの赦しを与えてください。

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2009年6月 7日 (日)

“神は聞かれた”(イシュマエル)

ハガルとイシュマエルは、アブラハムのところから追い出され、荒野をさ迷いました。

『それで彼女(ハガル)はベエル・シェバの荒野をさまよい歩いた。

皮袋の水が尽きたとき、彼女はその子を一本の灌木(かんぼく)の下に投げ出し、自分は、矢の届くほど離れた向こうに行ってすわった。

それは彼女が「私は子どもの死ぬのを見たくない。」と思ったからである。それで、離れてすわったのである。そうして彼女は声をあげて泣いた。

神は少年(イシュマエル)の声を聞かれ、神の使いは天からハガルを呼んで、言った。

「ハガルよ。どうしたのか。恐れてはいけない。神があそこにいる少年の声を聞かれたからだ。…」』旧約聖書 創世記21:14~17

アブラハムはイサクの乳離れの日に、盛大な宴会を催した。

その影で、イシュマエルが、アブラハムの家を出されることになる。

ハガルと子どもイシュマエルは荒野をさ迷い、持っていた水が尽きたとき、死ぬしかないと思った。

ハガルは、目の届くところで、しかも徐々に死んでいく苦しみを見ないですむ所に息子を置き、号泣した。

神様は声を聞かれた。“神は聞かれ”は“イシュマ・エロヒーム”で、“イシュマエル”(神は聞かれる)と重なってるらしい。

泣いたのは、ハガルであったが、神様は少年イシュマエルの声無き声を聞かれたのだろうか。

『「ハガルよ。どうしたというのか。恐れてはいけない。神があそこにいる少年の声を聞かれたからだ。

行ってあの少年を起こし、彼を力づけなさい。わたしはあの子を大いになる国民とするからだ。」

神がハガルの目を開かれたので、彼女は井戸を見つけた。それで行って皮袋に水を満たし、少年に飲ませた。』創世記21:17~19

神様は、悲しみと失意の中、私たちの声なき声すら聞いてくださる。

神様は、声をかけ、優しく励ましてくださる。

神様は、今、どんな状況の中にあっても、私たち一人一人にある計画を教えてくださる。

神様は、その絶望的な現状で、何もないかのような中で、私たちの目を開いてくださり、生きるための希望を与えてくださる。

ハガルは子どもが死ぬのを見たくないと号泣していたが、神様の声に、もう一度、立ち上がった。イシュマエルと共に生きるものとなった。

今、悲しみの中にある人に“イシュマエル”、あなたの声を聞かれる神様が見い出されますように。

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『疲れた人、休ませてあげます』

おはようございます。

このブログに初めて来てくださった方がいましたら、ありがとうございます。

また、いつもながら来てくださる方には、いつもとちょっと違う雰囲気で、接しています。

日曜日、クリスチャンと言われる人には、教会に行く方が多いです。が、そうでない方たちもいます。

また、神様はどこにでもいますので、教会に行かない方とも、聖書から、“神様”“イエス様”という分かち合いができればと思っています。

イエス様は言われました。

『すべて、疲れた人、重荷(おもに)を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしが休ませてあげます。』新約聖書 マタイの福音書11章28節

イエス様は疲れた人、何か負いきれない問題をかかえている人は、イエス様のところに来なさい。イエス様が休ませてあげますと言われました。

疲れた方、問題を抱えた方いますか?

イエス様が「わたしが休ませてあげます。」と言われても、どういう方かわからなければ、信じて行くことはできませんね。

イエス様は神様が人となられた方です。

イエス様には、私たちのような弱さや足りなさはありませんでしたが、あえて、人となられ、すべての人の経験する以上の苦しみを通られました。

だから、もし、私たちが苦しいとき、その苦しみがイエス様には理解できます。

また、悲しいとき、イエス様はどんな悲しみも知っているので、慰めてくださる方なのです。

私は友人によく言います。「私の言っていることには間違いもあるし、本当のところ、どんなに頑張ってもあなたの苦しみはわからない。でも、イエス様は違うよ。イエス様だけはあなたの苦しみを知って慰めてくれる方なんだよ。だから、私のところに来るのもいいけど、イエス様のところに行くのが一番なんだよ。」

あなたのまわりに、「わたしのところに来なさい。わたしがあなたを休ませてあげよう。」と言ってくださる方はいますか。

私はいつもイエス様のところで、いろんなことを相談し、ときには泣いて嘆き、いつも頼っているので、心の深いところで休ませてもらっている感じです。

そして、もし、教会に行ったことがあるけれど、疲れてしまった人がいるなら、教会の弱さを赦してください。

神様は、今、外にいる人にも神様のあたたかいメッセージを伝えたいと願っているのを、私は強く感じています。

『わたしは失われたものを捜し、迷い出たものを連れ戻し、傷ついたものを包み、病気のものを力づける。』旧約聖書 エゼキエル書34章16節

これは、外にいる人への神様の約束です。

失われたかのように誰にも気がつかれない人を捜し、迷い出たものを連れ戻し、傷ついたものを包み、病気のものを力づける…イエス様がなさろうとしてくれていることです。

どんな風にして、教会の外の人にも神様の思いを伝えようか…と思いつつ書きました。

機会があったら、このブログの過去も読んでくださって、よいものをともに分かち合えたらと願っています。よろしくお願いします。

あなた様の神様にある祝福を心からお祈りします。

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2009年6月 6日 (土)

訪問者の皆さんへ(予告…)

『キリストは、自由を得させるために、私たちを解放してくださいました。

ですから、あなたがたは、しっかり立って、またと奴隷のくびきを負わせられないようにしなさい。』新約聖書 ガラテヤ5:1

いつも、ブログ訪問してくださる皆さん、訪問ありがとうございます。

皆さんの訪問に励まされて、ひたすら書いています。

ちょっと書きすぎの感じもありますが、丁寧に読んでいただき、本当に励まされています。

明日のブログアップの時間を予告したいと思い、今、書いています。…爆弾予告じゃないんだから…予告なんていらないですか(・_・;)

私たちクリスチャンは、クリスチャンにしかわからない拘束感があります。

日曜日の10時半、多くの教会が礼拝スタートします。その時間帯に何か違うことを、おおっぴらにすると、なんか言い知れぬ罪責感とか、どう思われるだろう…という感覚がきます。

「教会は行きたくなければ、無理しなくていい」と人には言いながら、しっかり、どっぷり、私も…しなければならない世界に影響されている自分を見ます。

キリスト教ブログ
は10:30からはアップする人がほとんどいません。礼拝に行っているからかもしれないし、聖域の時間になっているからかもしれません。

明日、私の行っている教会はお休みです。牧師がイスラエルに旅行中のためです。

その次の週は、私が不在のため、やっぱり礼拝自体がお休みです。小さな教会なので、そんな感じです。(牧師は他でも礼拝しているので、忙しそうですが…)

そのクリスチャンの聖域とされている時間に、教会に行かれていない方たちを思い、祈りながら、アップします。

ずっと続けられたら、そうしたいですが。

日曜日、10:30の思いを、訪問してくださる方と分かち合いたく、ご報告しました。

教会に行かないクリスチャンに神様の慰めのメッセージが伝わることを心から祈りつつ…。

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弱さを越えてなされた“神の約束”(創20)

アブラハムは恐れのゆえに再び同じようなことをしますが、そこに神様のあわれみを見ます。

『アブラハムは、自分の妻サラのことを、「これは私の妹です。」と言ったので、ゲラルの王アビメレクは、使いをやって、サラを召し入れた。

ところが、神は、夜、夢の中で、アビメレクのところに来られ、そして仰せられた。「あなたが召し入れた女のために、あなたは死ななければならない。あの女は夫のある身である。」』旧約聖書 創世記20:2.3

サラから子どもが生まれる約束が繰り返し神様から語られる中、アブラハムは、また、前と同じようなことをしてしまう。

ゲラルに滞在中、危害を加えられるのを恐れたアブラハムは、ゲラルの王に、サラのことを妹と偽る。ゲラルの王は、サラを自分のところに呼んだ。

ところが、神様が、夢で「サラに触ってはいけない」と言う。

王アビメレクは神様の介入に、非常に恐れを抱き、贈り物をつけて、サラをアブラハムに返す。

カルト教会に行っていた友人が、「神様のみこころだけに従わないといけないから、明確な確信と支持がなければ、決して動けない。」とよく言っていた。

私たちは、弱く、神様が望んでいないことばかりしてしまうような存在である。

神様のみこころは、どこにあるかもわからないことが多かったりする。

しかし、神様は、私たちの弱さや足りなさ、未熟さの中にあって、なお、すべてをご支配しておられ、神様の決められた計画は成されるのである。

もし、私たちに完全さが求められたら、きっと、一つとして神様が約束したことは成らない。私たちはどこまでいっても不完全なのだから。

ここで、「アブラハムは何回同じ失敗を繰り返すのだろう。」と言えるだろうか。

この恐れ、同じ失敗をしてしまうのが、私自身の姿である。

しかし、大きな慰めがある。神様が介入された。アビメレクに「サラに触れてはならない。」と言われた。

そして、神様の配慮は細部に至っていた。

『そこで、アブラハムは祈った。神はアビメレクとその妻、および、はしためたちをいやされたので、彼らはまた子を産むようになった。

主が、アブラハムの妻、サラのゆえに、アビメレクの家のすべての胎を堅く閉じておられたからである。』創世記20:17.18

神様は約束が成るため、すべての胎を閉じられていた。そして、アブラハムの祈りによって開かれた。

弱い私たちを祈り手としてくださる神様も見る。

そして、21章、サラはとうとう、イサクを産んだ。

私たちの弱さを越えて、神様が約束したことは神様によって成されることに感謝する。

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2009年6月 5日 (金)

“ソドムとゴモラ”への神様のさばき

ソドムとゴモラの町々に対する神様のさばきを見て、私たちにも来るさばきの日を思いました。

『「わたしたちはこの場所を滅ぼそうとしているからです。彼らに対する叫びが主の前に大きくなったので、主はこの町を滅ぼすために、わたしたちを遣わされたのです。」…

こうして、神が低地の町々(ソドムとゴモラ)を滅ぼされたとき、神はアブラハムを覚えておられた。

それで、ロトが住んでいた町々を滅ぼされたとき、神はロトをその破壊の中からのがれさせた。』旧約聖書19:13.29

ソドムとゴモラの叫びは非常に大きく、また彼らの罪は神様の前にきわめて重かった。(創世記18:20)

神様はソドムとゴモラの町々を硫黄(いおう)の火を降らせ、滅ぼした。

しかし、アブラハムのとりなしの祈りのゆえに、神様はその滅びの中から、ロトたちを救われた。

聖書にある歴史観は、やがて、終末が来て、この世の中をさばかれるということである。

私たちが終末まで生きていなくても、人間には、一度死ぬことと死後さばきを受けることが定まっている。(ヘブル人への手紙9:27)

イエス・キリストを信じるものが永遠のみ国に移される。

信じないものは、永遠の滅びが与えられている。

その厳しい現実のどこに神様の愛と恵みがあるか。

私たちは、正しい神様の前に、すべての人が、“その罪はきわめて重い”と判断されるものである。

アブラハムのとりなしの祈りを覚えてくださって、神様がロトを破壊の中からのがれさせてくださったように、今、イエス様の十字架の赦しによって、神様からの厳しいさばきからあわれみによって私たちは救い出された。

それは、ただ神様のあわれみによる。

私は、厳しいさばきから、一方的な神様のあわれみで救い出されたものとして、とりなしの祈りを迫られている。

『しかし、愛する人たち。あなたがたは、この一時を見落としてはいけません。

すなわち、主の御前では、一日は千年のようであり、千年は一日のようです。

主は、ある人たちが遅いと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではありません。

かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。』第2ペテロの手紙3:8.9

###

神様、ソドムとゴモラのように裁かれ、滅ぼされるような私を、イエス様によってさばきから救い出してくださり、ありがとうございます。

ただ神様のあわれみによって救い出された私たちは、神様の忍耐を感じながら、人々もまたこの救いに預かることを祈ります。

終末の、さばきの座の厳しい現実にあって、愛します人々にただ神様のあわれみを与えてください。

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再び共に喜び笑わせてください(祈り)

私の歩んだ教会たちを振り返り、お祈りします。

『神よ。私を探(さぐ)り、私の心を知ってください。

私を調べ、私の思い煩(わずら)いを知ってください。

私のうちに傷ついた道があるか、いなかを見て、私をとこしえの道に導いてください。』旧約聖書 詩篇139:23.24

「天のお父さん、あなたがいつも私と共にいてくださる恵みをありがとうございます。

今、私の歩んだ教会たちを振り返り始めています。

「私にとって教会は苦痛でしかなかった。」というようなことを言ってきましたが、教会生活の歩みを思い出していくと、そこにたくさんの神様の恵みが溢れていたことを見ています。

私が最後に教会から受けたダメージが大きくて、その傷のゆえに、すべてがふさがれ、見えなくなっていたのを思います。

神様は、教会を通して数えきれない程のクリスチャンとの交流を与えてくれました。

神様は、教会を通して、いろんなことを経験させてくれました。

神様、あの頃は私自身が人のために祈れないものだったので、たくさんの人が影でひっそりとお祈りしていてくれたことを知りませんでした。

しかし、たくさんの祈りが私のためにあったのを見つけました。

私を苦しめるものとして、私は教会こそ私の“敵”と思ってきましたが、私は大事な私のからだを敵視していたのですね。

赦してください。

私が属するキリストのからだを心から受け入れ、愛することができますように。

そして、その弱さを心から祈ることができますように。

そして、教会の外の人のその痛みを知り、心から祈れますように

どこにいても、私たちは皆、イエス様によって引き寄せられたキリストのからだです。

何をしていてもイエス様の十字架の完全さのゆえ、私たちは初めから同じく、赦され続け、受け入れられ、愛され続けています。

今、目に見える教会の外にいる人に、神様は変わらずその愛をささやいてくれています。

届けてください、あなたの声を

届けてください、あなたのまなざしを

届けてください、今も変わらず、無くてはならない、かけがえのないキリストのからだの一部であることを。

届けてください、神様が親しい交流を楽しみたいように、私もそのことを待ち望んでいることを

“わたしがあなたの傷を直し、あなたの打ち傷をいやすからだ。

見よ。わたしはヤコブの天幕の捕らわれ人を帰らせ、その住まいをあわれもう。

…彼らの中から、感謝と、喜び笑う声がわき出る”(エレミヤ30:17~19)

神様の約束のとおり、人々に主の喜びを返してください。」

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2009年6月 4日 (木)

私ができること…

『必ずわたしはあなたを解き放って、しあわせにする。

必ずわたしは、わざわいの時、苦難の時に、敵があなたにとりなしを頼むようにされる。』旧約聖書 エレミヤ書15:11

ヨエルさんが、夕べ、コメントをくださいました。いつも祈りと誠実さをもって、コメントをくださって感謝しています。

その中に「教会の外と中に“橋”はかけられるか?私たちクリスチャン自身が、“壁”を作っているから無理ではないか…。」とご意見をいただきました。

“橋”は神様が、神様の方法でかけてくださいます。

5月16日のブログから、この教会の中と外の話しが出ました。その日のブログには「神様、私、何か出来ますか。」と書きました。

それから、いろんな過去の出来事などを思い出し、私の中で一つとなっていきました。

そして、すべては神様の中で、私はほんの一部を担うだけなのですが、神様が、私に何をしたらよいか教えてくれました。

私は全自己否定の人間でしたが、イエス様に罪を告白し、全自己肯定の人間に癒してもらいました。

悪いものは吐き出し、良いもの(神様ご自身)を取り入れることの中に癒しと回復がありました。

それを今度はキリストの体でやるよう、教えられました。教会を悔い改めれば、教会はきよめられ、聖霊が満ちます。エゼキエル47章になります。

外の人に対しては、私は教会の人間として悔い改めます。癒しが行われますように。

私自身は壁なので、これから崩されます。どうやってかは、私もわからないし、時間がかかるかもしれないですけど、見ていてください。

私一人が崩れたからって、教会が変わりますか?…大きな壁があったとして、一ミリの穴が開けば、そこから癒しの川は流れるのです。小さな穴は、役割を果たします。

そして、大切なのは、中からではなく、外の人たちから癒しと、とりなしの祈りが始まるということです。

なぜなら、残念ながら、傷んでいるのは中の人ではなく、外の人だからです。そこに癒しがくるとき、赦しの祈りとなり、聖霊に満たされるのでしょう。

これは、私のアイデアではありません。25年間、教会を裁いてきた私には思いつきません。やっと、手放し、赦したばかりの私には思いつきません。

いつ、どんな風にかは、わからないです。

これは、預言とかではなく、私が神様から教えられたことです。

そして、私は悔い改めをすることが宿題となりました。

ブログで、少し教会の悔い改めを祈ったこともありますが、自分が本当に自分のからだとして教会を愛しているか…さぐられました。

まず、自分自身を受け入れるように、教会を自分のこととして、受け入れきることかなと思わされました。

なんか、偉そうなこと言っているかもしれませんが、私自身の右往左往しながらの道を見ていただくだけでいいのです。

たくさんの失敗もあるかもしれませんが、これから、私はイエス様のあとをついていき、悔い改めの道を歩きます。

今、思わされていることは、私は5つほどの教会を変わりましたが、そこにある自分の悔い改める責任の分と人を赦す責任の分を見て祈ることをしようと思います。

自分の責任の分を悔い改めたら、素晴らしいことが起こったのです。

傷と痛みで見えなくなっていた教会の人たちにしていただいたたくさんのことが溢れるように見えてきました。神様の恵みは、教会生活の中にありました。

そのことを振り返りながら、一つ一つの教会にあった恵みを感謝しようと思います。

証のほうは、そんな訳で、私の過去教会のことからになります。よろしくお願いします。

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2009年6月 3日 (水)

“滅ぼすまい”

アブラハムは“ソドムとゴモラ”の人々のため、とりなし、祈りました。

『そこで主は仰せられた。「ソドムとゴモラの叫びは非常に大きく、また彼らの罪はきわめて重い。

わたしは下って行って、わたしに届いた叫びどおりに、彼らが実際に行っているかどうか見よう。わたしは知りたいのだ。」

アブラハムは近づいて申し上げた。「あなたはほんとうに、正しい者を、悪い者といっしょに滅ぼし尽くされるのですか。

もしや、その町の中に50人の正しい者がいるかもしれません。…」

主は答えられた。「もしソドムで50人の正しい者を町の中に見つけたら、その人たちのために、その町全部を赦そう。」』旧約聖書 創世記18章

聖書で、“ソドムとゴモラ”というと、悪に満ちた滅びの町の象徴として、様々なところで使われている。

今、まさにその“ソドムとゴモラ”が神様のさばきで、滅ぼされようとしている。

アブラハムは神様の前に出て、懇願する。

「正しいさばきを行われる神様は、もしその町に50人の正しい者がいても、いっしょに滅ぼすのですか。」

「その50人のために、町全部を赦そう。」

「正しい者が45人いたら、滅ぼされますか。」

「滅ぼすまい、45人のために。」

アブラハムは正しい者が40人、30人、20人、10人いたら…と執拗に聞き、神様は「その人数のために滅ぼすまい」と言われる。

神様は、アブラハムに滅びゆく者への“とりなしの祈り”を与えられた。

ソドムとゴモラは、どう見ても悪に満ちていて、どうにもならなかった。

しかし、アブラハムは、自分の救いのように、必死にお願いした。

私たちの目に見えるところも、また、悪に満ちている。

一人の人を見ても、あまりにも神様からかけ離れ、どうしようもないように思えたりする。

しかし、神様は私たちの“とりなしの祈り”を待っておられる。

「神様、この人に神様にかなっているものが少ししかなくても滅ぼさず、救ってくれますか。」

「滅ぼすまい。」

「良いものがほとんど無くとも救ってくれますか。」

「滅ぼすまい。」と言われるだろうか。

残念なことに、私には神様にかなう正しさは全くなかった。ソドムとゴモラのように容赦なく、滅ぼされるものだった。

「神様、私には全く正しさがありませんが、滅ぼされますか。」

「滅ぼすまい。わたしはイエス・キリストを送って、彼の完全さのゆえに、あなたを赦し、あなたを滅ぼすまい。」と語ってくださる。

今日もイエス様は私たちのために、神様にとりなし祈ってくださる。

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神様、とりなしの祈りの霊を与えてください。滅びゆく人たちがイエス様によって救われていく幻を見させ、今日も祈らせてください。

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言われたことに笑った“サラ”

神様が不可能なところから、約束を成してくださるのは、それが決して人間によらず、神様によるところを示すためと思います。

『するとひとり(神)が言った。「わたしは来年の今ごろ、必ずあなたのところに戻って来ます。そのとき、あなたの妻サラには、男の子ができている。」

アブラハムとサラは年を重ねて老人になっており、サラには普通の女にあることがすでに止まっていた。

それでサラは心の中で笑ってこう言った。「老いぼれてしまったこの私に、何の楽しみがあろう。それに主人も年寄りで。」

そこで主がアブラハムに仰せられた。「…主に不可能なことがあろうか。わたしは来年の今ごろ、定めた時に、あなたのところに戻って来る。そのとき、サラには男の子ができている。』旧約聖書 創世記18:10~14

神様は、ご自身の約束を人の中に確かにするため、繰り返し、その約束が成ることを語ってくださる。

17章では、アブラハムが神様の民になる契約のしるしとして割礼を受けた。

その後、神様はアブラハムに、「サラによって男の子が生まれる」と話す。

それを聞いてアブラハムは笑った。「年老いた私たちから、子どもが生まれるなんて…」と。

そして、再び、神様が現れてそのことを告げたとき、サラもまた心の中で笑った。あり得ないと。

しかし、神様は百歳のアブラハムと90歳のサラから男の子を生まれさせた。

神様が約束されたのに、「まさか、それはあり得ないでしょう。」と笑ってしまったアブラハムとサラであるが、そんな2人を私は笑えないと思う。その当時者であれば、私も笑ったと思う。

神様がなさることは、私たちの考えや思いをはるかに越えている。

『わたし(神)の思いは、あなたがたの思いと異なり、わたしの道は、あなたがたの道と異なるからだ。…

天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。…

わたしの口から出るわたしのことばも、むなしく、わたしのところに帰っては来ない。

必ず、わたしの望む事を成し遂げ、わたしの言い送った事を成功させる。』イザヤ55:8~11

天地を造られた神様は、なんでも願いをかなえてくださる方ではない。

神様ご自身が計画され、約束され、言われたことは、どんなに不可能に思えても、神様が持っている絶対的な権力(主権)のゆえに、成し遂げられる方なのである。

アブラハムもそのあと、なお、失敗を犯す。しかし、人の弱さや足りなさを越えて、神様はご自身が計画され、望まれたことを成就する。

神様は、サラに生まれる男の子を“イサク”と名をつけるように言う。

“イサク”は“彼は笑う”という意味である。

“あり得ないと笑った者”を神様は“約束がなったのを見て笑わせてくださる者”に変えてくださるのである。

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2009年6月 2日 (火)

「ノンクリスチャンの苦悩」ブログの住人さんへ

昨日のブログ、読みました。「これで教会に行くのを最後にします。ブログ最後にします。さようなら。」との内容。私もあなた様のブログは、定期的に見させていただいていたので、何ともいいようのない、気持ちでいました。

「クリスチャンへ。キリスト教に関係ない方々に対しても彼らが幸せになれるように祈ってあげてくださいね。」

というところが、胸に刺さります。

私も今、ちょうど、教会を静かに去って行かれる方々に対する痛みを祈り始めたところなので。

なんだか、私も同じ教会側の弱さと足りなさをもっている者なので、なんか自分に言われたような気がして、胸が痛みます。

クリスチャンと同じで、教会も不完全です。クリスチャン同士で理解しあえないように、教会にいる人と静かに去っていく人にも溝があります。

私は今、教会の中で、去って言った人たちの声も聞かず、知らず、理解せず、楽しくやっているのは、何かイエス様の愛とかけはなれていると感じています。

誰が悪いのでなく、教会側の私が、まず、私の責任の分として、外の人に謝ろうと思っています。

私のために、謝らせてくださいね。

たくさんの配慮が足りなかったこと、赦してくださいね。

私を含め、教会は自分たちに人を合わせようとしてきました。

私を含め、教会は外に出ていった人を追いかけず、しずかに教会で「教会に戻りますように」とお祈りし続けました。

私を含め教会は、自分の信仰を押し付けてきました。

イエス様にある自由とか喜びはそのようなものではありません。

あなた様のブログからアクセスがあり、追記で、私とヨエルさんの記事とブログのアドレスを今日、載せてくれたことを知りました。

教会行くとか、行かないとか…そういうことが大切なのでなく、私を含めた教会が、一人の人に失意を与え、黙って去らせることに、申し訳なく思います。

私は教会に通いながら、25年間教会をさばいてきた者です。そして、今、その教会を祈り始めました。私も25年分の痛みの体験があります。

もし、良かったら、ここでしばし、一緒に交流されませんか。あなた様の失意が慰めと希望になることをお祈りします。

このブログからのお手紙ですみません。

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「傷ついた」と言う言葉に秘められたもの

「傷ついた」と言う言葉にある本質を教えられたときの話しです。

『さばいてはいけません。さばかれないためです。

あなたがさばくとおりに、あなたがたもさばかれ、あなたがたが量(はか)るとおりに、あなたがたも量られるからです。

また、なぜあなたは、兄弟の目のちりに目をつけるが、自分の目の中の梁(はり)には気がつかないのですか。

兄弟に向かって、『あなたの目のちりを取らせてください。』などとどうして言うのですか。見なさい、自分の目には梁があるではありませんか。

偽善者たち。まず自分の目から梁をとりのけなさい。そうすれば、はっきり見えて、兄弟の目からも、ちりを取り除くことができます。』新訳聖書 マタイの福音書7:1~5

4年前、私は小さな教会に属していた。そして、教会が一つとなって、信仰が試されるお祈りをした。私は神様がこの祈りを喜んでいると感じていた。

が、結果、見た目は何も変わらず、サタンの攻撃もあったと思うが、教会は空中分解して閉じられた。

わずかな信徒たちは、深い痛みを持ったまま、離散された民のようになった。

それから、私のあの喧嘩友だちである彼女は、罪責感や恨みや様々なものにずっと苦しんだ。つい半年程前、「私、自分が全部間違っていたとは思わないけど、きついことばで色々言ったことを牧師婦人に謝りたい。」と言った。

私は彼女のいる前で、牧師婦人に電話した。私も交信途絶えて4年ぶりだった。

「彼女が謝りたいと言っているんだけど、この電話で話しをできますか。」

「牧師は傷つきましたねぇ。私は主人の牧師と相談してからでないと、話せるかわかりません。」

「そうですか。それじゃ、どちらでもいいから、私に電話をもらえますか。」と電話を切った。それから相手から電話はなかった。

誰でも弱さを持っているから、私はそのこと(電話がなかったこと)を受け入れられた。しかし、自分の分を謝ろうとした友人は、きつかったかもしれない。

私は牧師婦人の「傷つきましたねぇ」という言葉にハッとさせられた。私自身、何百回と使ってきた言葉だ。

「傷ついた」…それは、「私の悪い分は0%で、あなたの悪い分は100%です。」という宣言なんだと教えられた。

教会がなくなるに至った経緯の中で、誰が悪かったか。私は自分を含めた教会全員の弱さ、責任だったと思っている。

けれど、「あなたが全部悪い」と誰かが思っているなら、その人は自分の責任の分を所有できない。

人の境界線と同じで、自分の責任の分を所有できない人は、いつも人任せなのである。そして人に振り回される法則から抜け出せない。

私自身は「傷ついた」という言葉は安易に使えないと思った。

私は教会を25年もさばいてきた人間である。さばく、批判することも「私が悪いのは0%で、相手が悪いのは100%」ということだと教えられた。

私は今、人のせいにだけして、人に振り回されるより、自分の責任の分を所有し、人に振り回されることなく、神様と歩きたいと思い始めている。

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契約のしるしの“割礼”

アブラハムには、神様の民に選ばれたしるしとして、割礼が与えられました。今、私たちにも、新しいしるしが与えられています。

『次のことが、わたしとあなたがたと、またあなたの後のあなたの子孫との間で、あなたがたが守るべきわたしの契約である。

あなたがたの中のすべての男子は割礼(かつれい)を受けなさい。

あなたがたは、あなたがたの包皮(ほうひ)の肉を切り捨てなさい。

それが、わたしとあなたがたの間の契約のしるしである。』旧約聖書 創世記17:10~11

神様は、アブラハムを選んでご自身の民にするため、アブラハムとその家族とに契約のしるしを与えた。

それは割礼である。割礼とは、「切り取る」「切り捨てる」という意味で、男性の性器の包皮を切開、もしくは切り取ることをいう。

アブラハムは、イシュマエルや奴隷など家のすべての男子を集め、神様が告げられたとおりに、その日に彼らの包皮の肉を切り捨てた。

神様の選びは、神様から一方的なもので、ただ“神様が選ばれた”というだけの理由による。

アブラハムたちは、この神様に選ばれ者のしるしをどんなに誇りに思っただろうか。

アブラハムが神様を信じたその信仰が義とされたことの証明の判ことして、割礼というしるしを受けたのである。(ローマ4:11)

イエス様が来て、私たちも神様の選びの民であることの新しいしるしを受けた。それが聖霊である。(エペソ1:13)

そして、私たちに与えられた神様の民のしるしは、アブラハムがもらったものよりも優れている。

『あなたの神、主は、あなたの心と、あなたの子孫の心の包む皮を切り捨てて、あなたが心を尽くし、精神を尽くし、あなたの神、主を愛し、それであなたが生きるようにされる。』申命記30:6

アブラハムの子孫、イスラエルの民は神に選ばれ、所有されたものとして、神様に従うことを求められた。

しかし、彼らは従うことが出来なかった。

イエス様が来て、聖霊が与えられ、心を包む皮が切り捨てられた。イエス様によって、神様を慕う麗しい関係に戻され、神様に応答し、愛する聖霊が与えれた。

神様がイエス様によって選ばれた民は、見えない心の中に神様の霊というすばらしいしるしを与えられたのである。

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神様、あなたがわたしを選んでくださったしるしとして、聖霊を与えてくださり、ありがとうございます。

聖霊は神様が願うことを教え、そこに導いてくださいます。

あなたの与えてくださった選びのしるしが、私の内で、豊かにあなたをほめたたえられますように。

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2009年6月 1日 (月)

「境界線」の本の紹介

人間関係に悩む人に「境界線」の本はお勧めです。

『しかし、上からの知恵は、第1に純真であり、次に平和、寛容、温順であり、また、あわれみと良い実とに満ち、えこひいきがなく、見せかけのないものです。』ヤコブの手紙3:17

今、ブログ友だちの泉さんが読まれているとのこと、「境界線」(バウンダリーズ)の本の紹介をします。

サブタイトルは、「聖書が語る人間関係の大原則」です。

この本には、支配的な人、迎合的な人(自分を我慢して、人に合わせてしまう人)などが出てきて、なぜ、そうなのか、どうすれば、そこから抜け出せるか、聖書的観点から掘り下げて説明されています。

いつも人にふらまわされている感じがして疲れてしまう人、まわりにイライラしている人、「ノー」と言えず苦しんでいる人などにとっては、本当に目から鱗(ウロコ)となる本でしょう。

私は過保護過干渉で育てられ、そういう人もまた、境界線が健全でなく、人間関係に苦しみます。

学生のころは、親しい友人と意見が合わないだけで、裏切られた感が強くなり、リュックを背負って、一人旅に出ました。いかに、人に影響されまくっていたか…です。

あと、虐待を受けて育った人も境界線が崩れています。自分が自分のままでよい…ということを所有できず、いつも人から踏み込まれ続けるからです。

境界線とは、どこから自分で、どこから人か区別するものです。

庭に冊(さく)がなければ、どこまで自分の家の庭かわかりません。ちゃんと冊とかブロック塀(へい)とかで区別します。

ここでいう境界線はブロック塀ではありません。本の表紙に絵が描いてありますが、相手と話せる程度の風通しの良さがあります。

裏表紙にはその続きの絵があります。その冊には開閉できる門がついています。

その話をする人を自分のところの門を開けて、お招きもできる訳です。

もし冊がなければ、いつも泥棒とか、侵入者に侵害され続けます。

冊があることで、自分のテリトリーの中は安心です。自分の庭だけ掃除をすればいいのです。外で誰かが怒っていようが、攻撃しようが、外の人のことなので、自分が責任を持つ必要がありません。

虐待されたり、境界線が崩れている人は、悪いものを自分に取り込み、良いものを吐き出してしまいます。

自分にとって敵意のある人を取り込み、好意的な人を吐き出してます。

回復した健全な境界線は、良いものを自分の中に取り込み、自分にとって悪い影響を与えるものは吐き出す作業が、スムーズにできるとのことです。

私は第1ヨハネ1:9で、神様の前に傷や弱さや足りなさをいつも認め、告白しました。そして、イエス様の赦しと癒しときよめを受けとる作業を25年してきました。気がついたら、境界線が回復していました。

この本は、人間関係に悩む方にお勧めです。泉さんにとっても、癒しの助けとなるだろうこと、楽しみにしています。

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十字架を背負われるイエス様(祈り)

今、悲しみの中にある人に、それより深いイエス様の慰めがおおい、癒されますように。

『彼(イエス)には、私たちが看とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない。

彼はさげずまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。

人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。

まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。』旧約聖書 イザヤ書53:2~4

「イエス様、あなたが黙って、重たい十字架を引きずるとき

周りの人々は、笑ったり、バカにしたり、罵声を浴びせたり、ののしったり、興味本位で覗いたり、可哀想に同情したり、驚いてみたり…いろいろです

でもその重すぎる十字架は私がかつがなくてはならなかったのですね

イエス様、あなたはすべてを捨てて、その重すぎる十字架を私の代わりに背負ってくださったのですね

私がその十字架を背負うことは耐えられませんでした

笑われたり、罵倒されたり、ののしられたり…十字架の丘までたどりつけず、崩れてしまったでしょう

イエス様は十字架にかかられる前に、黙って十字架を背負われて、すでに、すべてを捨てててくださっていたのですね

溢れるほどの悲しみの中にあったのですね

私がすべてを失ってしまったかのように失意の中にあるとき、イエス様は私のところに来てくださいました

命までも捨てられたイエス様は私の失意もご存じだったのですね

悲しみに刺し通され、天のお父さんに見捨てられたイエス様は、私が愛する人たちと絶たれた孤独をご存知だったのですね

イエス様、私は何もなくなりましたが、あなたの愛をいただきました

イエス様、何もなくなった状況、空っぽになった心にあなたが来て輝いてくださいました

あなただけが私の望みです

あなただけが私のすべてです

イエス様、私のために痛まれて、ごめんなさい

イエス様、あなたの打ち傷で、私の悲しみも苦しみもすべてはおおわれました

イエス様、あなたの愛に今漂っています

あなただけがほめたたえられますように」

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“カルト化した教会”での痛み

私は友人を通して、カルト化した教会で影響を受けた人は、とても深いダメージを負い、その回復に時間がかかるのを見てきました。

『私の兄弟たち。あなたがたのうちに、真理から迷い出た者がいて、だれかがその人を連れ戻すようなことがあれば、罪人を迷いの道から引き戻す者は、罪人のたましいを死から救い出し、また、多くの罪をおおうのだということを、あなたがたは知っていただきたい。』新約聖書 ヤコブの手紙5:19~20

私は、姉や大切な友人が何人も、カルト化した教会に翻弄され、そこから出て、なお、回復するのに、とても苦労するのを見てきました。

私も教会で苦痛を感じましたが、決してカルト教会ではありませんでした。

ちょっと律法主義的であったり、私の考える神様とは違うかなとは思いましたが、それは、それぞれに与えられた信仰の違い程度のことです。

カルト化した教会に深く関わった人は、人格障害みたいになります。

何が正しくて、何が間違いか、拘束から解かれず、普通の生活の中で判断がつかなくなります。

あまりにもそのコントロールが強いので、何をやっても恐れがきます。神の名前を使って、脅されてきたからです。

“教会の外のクリスチャン”を思うとき、彼女たちは、疲れ果て、“神”とか“信仰”と言うことばに対し、深い傷の故に、拒否反応を示し、もっとも教会から離れたところにいる人たちかもしれません。

私は、カルト化教会の専門ではありませんが、身近にあまりにも多く、そのようなところに関わった人がいたので、いろんなことを考えさせられました。

カルト化していく教会は、不思議と同じ道をたどります。違う人たちなのに、なぜだろうと本当に不思議でした。

それは、カルト化教会の本質が、人間の弱さからきているからだと教えられました。

カルト化しそうな危ないと感じる牧師はいます。けれども、神様の顕著な働きや、カリスマ的な引き付ける力がないと、そこは守られる(カルト化しない、誰もそこに巻き込まれない)のかなと思います。

カルト化の定義は神の名前を利用して、自分の私利私欲に人を使い、その拘束力が生活全般に及ぶということだと思います。

「信仰」という名の虐待…(パスカル・ズィビィー著)という本で、私はいろいろ教えてもらいました。

本から引用します。「信仰という名の虐待とは何か…ある家庭は子どもを無視し、親の必要のために利用します。…同じように、普通の教会は、神様の愛と救いを教える場所です。牧師たちは支え、育てていきます。

家族のように信者たちの心を満たさなくてなりません。

しかし、牧師たちの自らの欲求のみを満足させるために信者たちの心を利用するようになると、これは信仰という名の虐待となります。」

長くなりましたので、カルト化の具体的特徴については、次に書きます。

###

神様、あなたは、私たちを自由にするため、喜びを与えるため、豊かに生きるため、イエス様を送ってくださいました。

それなのに、人間的な弱さのため、神様の名前を利用して、神様に集う人を恐怖の中にコントロールする人がいます。

人の深い罪の性質を赦してください。

その中でなお苦しむ人を助け出してください。

そこから出た人に、イエス様の癒しがおおいますようにしてください。

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2009年5月31日 (日)

いざ“約束の地カナン”へ!

神様はアブラハムの子孫にカナンの地を与えると約束しました。私たちはどのようにして、カナンの地に入れるのかを思いました。

『わたし(神)は、あなたが滞在している地、すなわちカナンの全土を、あなたとあなたの後のあなたの子孫に永遠の所有として与える。わたしは、彼らの神となる。』旧約聖書 創世記17:8

神様は、アブラハムに、子孫をおびただしく増やす約束とともに、約束の地カナンを与えると言われた。

アブラハムはその地に滞在していた。しかし、その地を子孫に与えられる計画は壮大だった。

アブラハム、イサク、ヤコブ、ヨセフ…ヨセフと共にヤコブたちはエジプトに移り住む。

そして、モーセによって、イスラエルの民は奴隷になったエジプトの地を脱出する。

40年、イスラエルの荒野をさ迷った後、ヨシュアをリーダーとし、約束の地、カナンにたどり着く。

アブラハムが今いるカナンの地が契約の通り、イスラエルの民のものとなったときだった。

“約束の地カナン”は、私の中で、漠然と神様が宣教するために遣わしてくれる土地なのかなと思っていた。「神様、わたしにとって、約束の土地ってどこですか?」と聞いた。

しかし、今私は思っている。“約束の地カナン”は、霊的な意味で、神様に訓練され、神様の安らぎの中に入ったところを言うのではないかと。

私たちは、イエス様によって、この世(エジプト)から脱出した。

しかし、荒野をさまよったイスラエルの民と同じで、私たちも神様を体験し、神様を信頼するために、様々な荒野のようなところを通され、訓練される。

ヨシュアが信仰の一歩として、ヨルダン川に足をつけたとたん、川が2つに分かれたように、やがて私たちは、神様を信頼してさらに深い領域へと進んでいく。

荒野で神様は、“マナ”を降らせ、日々養われた。

ところが、不思議なことにカナンの地に入ったとたん、マナは降らなくなった。

そして、ヨシュアたちは、カナンの肥沃な土地で、様々なものを収穫して食べた。(ヨシュア記5:12)

荒野で私たちは、神様から信仰の訓練を受けるとともに、養われるための食べ物も与えられる。

しかし、神様への信頼が確立した土地においては、自分で収穫する喜びを神様は与えられる。

神様によって、カナンの土地は私たちにも約束されているが、一足飛びにはそこにはたどり着かないのかもしれない。

しかし、アブラハムたちに約束された地は、私たちにも約束されている。

カナンの地が遠そうに思えても、そこにたどり着かせてくださるのは、神様ご自身である。

いろんな神様の不思議を体験しながら、カナンの地を目指したい。

『主(神)は、あなたをエジプトの地、奴隷の家から連れだし、燃える蛇やさそりのいるあの大きな恐ろしい荒野、水のない、かわききった地を通らせ、堅い岩から、あなたのために水を流れ出させ、あなたの先祖たちの知らなかったマナを、荒野であなたに食べさせた。

それは、あなたを苦しめ、あなたを試み、ついには、あなたをしあわせにするためであった。』(申命記8:14~16)

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与えられた“祝福の特権”

アブラムは「多くの国民の父」となりました。今、私たちも多くの人を祝福するために召されています。

『アブラムは、ひれ伏した。神は彼に告げて仰せられた。

「わたしは、この、わたしの契約をあなたと結ぶ。あなたは多くの国民の父となる。

あなたの名は、もうアブラムと呼んではならない。

あなたの名はアブラハムとなる。

わたしが、あなたを多くの国民の父とするからである。…」』旧約聖書 創世記17:3~6

彼の生まれながらの名前は、“アブラム”であった。(わかりにくいので、ずっとアブラハムと書いてきたが。)

神様はアブラムに現れ、「あなたの名前は今日からアブラハムとなる。」と言われた。

“アブラム”の意味は、「高貴なる父、高められた父」である。

改名された“アブラハム”は「多くの国民の父」と言う意味である。

年老いて死んだも同様の人アブラムは、神様によって、天の星のように、また海べの数えきれない砂のように数多い子孫の父、アブラハムとなった。(ヘブル11:13)

アブラハムは、この日、神様から新しい名前をもらい、新しい出発点に立つ。

私たちもイエス様を信じて新しい出発点に立つとき、神様から見たら、新しい名前がつけられる者となる。

それは“多くの祝福を与える者”という名前である。

神様につながっていないとき、私は、誰をも祝福するすべを知らなかった。

一人で生きていくことすら、しんどく、人どころではなかった。

しかし、イエス様のいのちをいただくと、変えられた。私のために死なれたイエス様の愛に打たれ、私もまた、誰かのために生きたいと願うものとなった。

神様は、私たちに祝福を与える者として召された。(第1ペテロ3:9)

神様ご自身が、私たちを祝福されるので、その祝福がまわりに流れる。

アブラハムは信仰の歴史の中で祝福の始まりとなった。

私は今、神様から受け継いだ祝福が、私のまわりのすべての人に与えられるよう祈りたい。

『悪をもって悪に報いず、侮辱をもって侮辱に報いず、かえって祝福を与えなさい。あなたがたは祝福を受け継ぐために召されたのだからです。』第1ペテロの手紙3:9

###

神様、私たちは祝福を受け継ぎ、与える者として召してくださりありがとうございます。

神様から与えられた特権は使わないと、どんなにたくさん与えられているか知ることができません。

あなたの祝福は、無尽蔵であることを体験させてください。

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2009年5月30日 (土)

イエス様の打ち傷によって癒された

イエス様の打ち傷による癒しを祈ります。

『しかし、彼(イエス)は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎(とが)のために砕かれた。

彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちは癒された。』旧約聖書 イザヤ53:5

“キリストのからだ”の傷の痛みを思いました。

私にとって“キリストのからだ”とは、目に見える教会の中にいる人と、外にいるすべてのクリスチャンです。

その痛みを思いつつ、お祈りします。

「天のお父さん、あなたが私たち、一人一人をこよなく愛してくださっているのがわかります

イエス様は十字架の上で刺し通され、苦しまれました

それは、そのイエス様の打ち傷によって、私たちをいやされるためでした

今イエス様のかかられている十字架を見ます

私のために苦しみ、刺し通されてくださったのですね

イエス様の十字架で流された血潮によって、私たちを赦し、癒し、きよめてください

イエス様の十字架によって、私たちイスラエルの民以外のものも、また一つに集められたのですね

キリストのからだの癒しが行われ、一つに集められますように

今、慰めなる聖霊様、イエス様の十字架による癒しが、痛む傷をおおいますように

神様、あなたが私たちに約束されたイエス様による約束…神様の子どもとされていることは何があっても変わらないことをありがとうございます

それは、イエス様の十字架の完全性のゆえ、神様の偽らない真実のゆえ、ありがとうございます

あなたの子どもとしてふところに抱いてくださり、涙枯れるまで泣かせてください

そして、近くにいつも、このイエス様がいてくださることを教えてください

主の慰めと癒しがキリストの十字架から、隅々まで流れていきますように

主よ、おおってください」

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暗やみの中のイエス様の“ともしび”

イエス様はどこに行かれたいのでしょうか。

『私はあなたの御霊から離れて、どこへ行けましょう。

私はあなたの御前を離れて、どこへのがれましょう。

たとい、天に上っても、そこにはあなたがおられ、私がよみに床を設けても、そこにあなたはおられます。

私が暁(あかつき)の翼をかって、海の果てに住んでも、そこでも、あなたの御手が私を導き、あなたの右の手が私を捕らえます。

たとい私が「おお、やみよ。私をおおえ。私の回りの光よ。夜となれ。」と言っても、あなたにとっては、やみも暗くなく夜は昼のように明るいのです。暗やみも光も同じことです。』旧約聖書 詩篇139:7~12

イエス様は暗やみに消えることのない“ともしび”を持ってこられた

太陽輝く昼だったり、ネオン街のようなにぎやかなところではイエス様の“ともしび”はかき消される

たとえば、光が届かない深海の底の底

そこにイエス様の“ともしび”は輝きだす

深く深く誰も踏み込めないくらい暗い海の底

深く深くイエス様は降りていかれる

悲しみと失意と虚無と苦悩の海の底にイエス様は降りていかれる

イエス様の希望は何ですか

私たちのネス湖のような深い暗闇にともしびを照らされたこと

イエス様の願いは暗やみに“ともしび”を照らしたいということ

イエス様がいるところは暗やみも光と同じです

私たちの誰も踏み込むことのなかった暗やみにイエス様の“ともしび”がともりますように。

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“あなたはご覧になる神”(創16:13)

ハガルに現れた神様は、今、私たちにも現れてくださいます。

『サライは彼女(女奴隷ハガル)をいじめたので、彼女はサライのもとから逃げ去った。…

主の使いは彼女に言った。「あなたの子孫は、わたしが大いにふやすので、数えきれないほどになる。」

さらに、主の使いは彼女に言った。「見よ。あなたは身ごもっている。男の子を産もうとしている。

その子をイシュマエルと名づけなさい。…」

そこで、彼女は自分に語りかけられた主の名を「あなたはエル・ロイ。」と呼んだ。それは、「ご覧になる方のうしろを私が見て、なおもここにいるとは。」と彼女が言ったからである。』旧約聖書
創世記16章

アブラハムには「子どもが与えられる」と神様から約束されていた。

アブラハムも妻サライ(後のサラ)もどんなにか待ち遠しかっただろうか。

あまり長く待たされので、妻のサライは、「奴隷によって子どもが与えられるのだ。」と女奴隷 ハガルに子どもを生ませる。

が、そのことで身ごもった女奴隷ハガルが女主人サライを見下げるようになり、サライは「なんとかしてくれ。」とアブラハムに訴える。結果、女奴隷ハガルはサライのもとから逃げる。

なんだかゴタゴタしている。が、私たちが与えられた約束というのは、長い年月を待たされることが多く、また、大切なことほど、信仰が試されるのだろう。

そんなまわりの人間の弱さのゆえ、ハガル自身は、苦しみの状況下に置かれる。

奴隷であったのに、そこから逃げるというのは、その先、なんの生きていく手立てもなくなることを意味するのだろう。

周りの人のしてしまった結果で、絶望状態に追い込まれる。

そんなハガルに、神様は現れた。そして、その子孫の祝福を約束し、ハガルによって生まれる子どもの名前をつけられた。

「イシュマエル」とは“神は聞かれる”の意味とのこと。何の希望もない状況の中、神はハガルの思いを聞かれた。話す前からすべてを知り、聞いてくださっている。

ハガルは悲しみの中で神様に出会った。そして神様のことをハガルは“あなたはエル・ロイ”と告白する。

“ご覧になる神”という意味である。

私たちの混沌とした闇のような中に、神様は現れる。そのとき、私たちは変わらない状況の中で、慰めと希望を見い出す。

“あなたはエル・ロイ”“神様、あなたは私をご覧になっておられるのですね”

“あなたはエル・ロイ”ご覧になり、慰めをくださる神様がともにおられますように。

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2009年5月29日 (金)

ごめんなさい

今日、もらったコメントを読んで、心痛み、神様に謝りました。

『自分が義人だと自任し、他の人々を見下している者たちに対しては、イエスはこのようなたとえを話された。…

パリサイ人は、立って、心の中でこんな祈りをした。

「神よ。私はほかの人々のように、ゆする者、不正な者、姦淫(かんいん)する者ではなく、ことにこの取税人のようでないことを感謝します。…」

ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。

「神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。」』新約聖書 ルカによる福音書18:9~14

私は今日の朝方、自分を含めた教会の弱さのため、祈りました。

私は教会にいるといいながら、どこかで教会にいる人とは違っている…と自負していたみたいです。

でも、やっぱり、教会の中の人間で、外に人がこぼれていくのを放置していた人間だと突き付けられた気がします。

先ほど、よく遊びにきてくださる“迷える人”さんから、コメントをいただきました。

その前に出した、私の「聖書を読むと安心が来ますよ」というのに対する返答です。

聖書を読まなければならないように圧迫を与えたみたいです。

謝りましたが、愕然とした感じです。

教会来なさい、祈りなさい、聖書を読みなさい…も無理に強いられたら、新しい規則です。

やはり、私も人を自分に合わせてこようとしてた一人なんだと痛感しました。

“迷える人”さん、ごめんなさいね。そうやって、私や教会は、自分に合う人以外を信仰の名前を使って、はじいてきたのかもしれませんね。

イエス様のところは、何かする世界ではありません。何もしなくていいのです。イエス様を信じる以外。いえ、信じることすら、イエス様がされることですね。

###

神様、自分に人を合わせようとする私を赦してください。

人間が作った領域、壁を悔い改めの中、打ち砕いてください。

イエス様のところにこようとする妨げている私のものを、もっと明らかにして、打ち砕いてください。

ただ、自由に人々が喜んでイエス様の中に憩えますよう導いてください。

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「さあ、天を見上げなさい。」(創15:5)

揺らぎやすい私たちにも、神様はアブラハムへと同じことを語ってくださいます。

『そして、彼(アブラハム)を外に連れだして(神は)仰せられた。

「さあ、天を見上げなさい。星を数えることができるなら、それを数えなさい。…あなたの子孫はこのようになる。」

彼は主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。』旧約聖書15:5.6

アブラハムは、「あなたを大いになる国民とする。」とその子孫の繁栄を約束された。

アブラハムはすぐにでも、子どもが与えられ、そのようになると思ったかもしれない。

しかし、現実は、ロト関係良好を保つため、ロトと別々に住むことになったり、敵からのロト救出劇に翻弄(ほんろう)されたりした。

気がつけば、何も神様の約束は成っていないではないか。

それらの後、神様は幻でアブラハムに臨み、言われた。

「アブラムよ。恐れるな。わたしがあなたの盾である。あなたの受ける報いは非常に大きい。」と言われた。

「神様、私に何をお与えになるのですか。あなたが言う、その子どもがいませんのに。」

アブラハムは、恐れ、揺らいだ。

しかし、神様は「私の言うことが信られないのか!」と激怒なさらなかった。

優しく、アブラハムの心を察し、彼を外に連れ出す。

「さあ、天を見上げなさい。あなたの子孫はこの数えきれない星のようになるのだよ。」と言われた。

私たちに神様は約束をくださる。が、私たちは、いつ、どんな方法をもってか知らず、心揺らぐ。

もしかしたら、私の思いこみ、勘違いであったかもしれないと自分自身に語りかける。

そんな弱い私たちにも、神様は、「さあ、天を見上げなさい。いのちを捨て、あなたを取り戻したイエス様にあって、私は聖書にあるとおりに、あなたの約束を進めている。」と優しく言われる。

『彼(アブラハム)は主(神)を信じた。主はそれを彼の義と認めた。』

「アブラハムは約束を信じた」とは書いていない。アブラハムの信じたのは、約束ではなく、語りかけてくださる神様を信じたのだった。

信じられないような中で、それでも、神様を信じる…それは、神様にとって何より嬉しいことだった。

あのエデンの園でのアダムとエバとの麗しい関係を神様は求めている。

神様を使って、奇跡やわざが行われる…のは違うと今、思う。

私が教えられたことは、何かを信じるのではなく、神様ご自身を信頼する歩みこそが、神様が喜んでくださり、私にとっての最大の喜びだったということだった。

私はその神様との関係になるまで、とてつもなく、長い年月を要してしまった気がする。

アブラハムは神様を信じた。神様はそれを彼の義と認め、受け入れられた。

神様は、アブラハムに語りかけたように、「さあ、天を見上げなさい。」と語られる。私はイエス様を私のためにくださった神様を信じたい。

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教会に聖霊が満ちるまで祈ります

教会に行っていないクリスチャン、痛んでいるクリスチャンの癒しのため、祈ります。

『この川が流れて行く所はどこででも、そこに群がるあらゆる生物は生き、非常に多くの魚がいるようになる。

この水がはいると、そこの水が良くなるからである。

この川がはいる所では、すべてのものが生きる。…

そこの魚は大海のように種類も数も非常に多くなる。…

川のほとり、その両岸には、あらゆる果樹が成長し、その葉も枯れず、実も絶えることがなく、毎月新しい実をつける。

その水が聖所から流れ出ているからである。

その実は食物となり、その葉は薬となる。』旧約聖書 エゼキエル書47章

私は、神様に出会う前はボロボロでした。孤独と虚無感、自己嫌悪と恨みの渦の中にいました。

神様に出会い、喜びながら、なお、痛み、うずく傷に悩みました。

神様は私に自分の罪や弱さを告白し続けるという中、癒し続けてくださいました。

最後の深い傷に至るまで、神様は癒しおおってくれました。

気がつくと、クリスチャンになって、30年になりました。

そんな私に、神様は今度は教会の傷を癒すよう、導いてくださいました。

私がエゼキエル47章のように、赦され、癒され、きよめられたとき、聖霊様に満たし、溢れ、流してくださったように、教会にもそれがなることを信じさせてくれました。

私の神様からの働きはたった一人の癒しになるのかもしれません。

けれども、信仰が与えられ、自分の癒しを通して、教会の癒しの幻を見たので、祈っていくことにします。

教会の罪、弱さのために、神様と、外のクリスチャンに向けて祈ります。

今晩、少し祈ります。私が教会の弱さを祈れるのは、私自身が25年教会の中で、痛み、苦しんだから、そのことを祈れると思います。

“私”で祈りますが、“私”とは、“私を含めた教会”のことです。

「私は長い間、聖書のことばで、人を裁いてきました。そのことを赦してください。

聖書のことばは、本来人を生かすために、神様が与えられたものです。

しかし、私は、その生かすことばをもって、人を縛り、人に新しい規則を作り、新しい罪責感を与えてきました。

神様、イエス様の十字架によって、赦してください。癒してください。きよめてください。

どうぞ、私が語るとき、神様のご性質なる愛と慰め、赦しと受け入れを語れますように。

私は、人には重荷を課しておきながら、自分は教師ですべて立派に努めているかのように振る舞いました。

私たちは皆同じ、赦された者です。

誰か偉くて、誰か偉くない世界は、イエス様にある世界ではありません。

イエス様は、誰かに仕えたかったら、低くなりなさいと言われました。

私の傲慢の罪を赦し、癒してください。

私はどこからそうなったでしょうか。

初めは違っていました。神様に熱心になるうち、初めの愛から離れました。

もう一度、私を初めの愛に戻してください。どこからだったのか、どうすればよいのか教えてください。

私を縛り、捕らえているものから解いてくださり、あなたの愛に憩わせてください。

私を赦し、癒し、きよめて神様の親しい関係に戻してください。

イエス様のお名前によって祈ります。アーメン」

どうぞ、中がきよめられ、外が癒されますように。

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イスラエルの牧者たちはいない(日記より)

3年前のある日の日記に私にとって、大切なことが書かれてありました。

『彼らは牧者がいないので、散らされ、あらゆる野の獣のえじきとなり、散らされてしまった。…

見よ。わたしは自分でわたしの羊を捜し出し、これの世話をする。

牧者が昼間、散らされていた自分の羊の中にいて、その群れの世話をするように、わたしはわたしの羊を、雲と暗やみの日に散らされたすべての所から救い出して、世話をする。

わたしは国々の民の中から彼らを連れ出し、国々から彼らを集め、彼らを彼らの地に連れて行き、イスラエルの山々や谷川のほとり、またその国のうちの人の住むすべての所で彼らを養う。…

わたしは、彼らを牧するひとりの牧者、わたしのしもべダビデを起こす。彼は彼らを養い、彼らの牧者となる。』旧約聖書 エゼキエル書34章

前にブログに書いたが、この“イスラエルに牧者はいない。しかし、わたし(神)はひとりの牧者を起こす”という約束を読んで、私は何度もこの箇所を開いては、「神様、いつですか?」と祈った。

そして、私の中で、この約束は成った!

私が牧師や教会に期待するのを止め、一切を手放したとき、私の中で、イエス様が直接の牧者となってくれた。

その後、そのとき属していた教会は混乱し、最後は閉じられた。

その閉じる3か月前、私は、朝8時から祈り始めて、祈りが止まらず10時間ぐらい祈った日があった。

私は、神様とおしゃべりならいくらでもするが、祈りの賜物があるという訳でなく、祈らされて止まらないというのは、先にも後にもその時だけだった。

神様はエペソ2章を通して、教会に集わないクリスチャンに祝福を与える約束、やがて中も外も一つとなると言われた。

そして、最近、その日の日記に目を通した。今、導かれて祈っているようなことを書いていた。

3年間、そんな祈りをしていたのを忘れていた。メモのような殴り書きの日記だが、ちょっと書き写してみる。

「エゼキエル34章によって、イエス・キリストが牧者となる。

教会の外にいる人に向けていく祈り、

教会と自分の罪の悔い改め、

私の役目はボーダーラインとして悔い改め、外の代弁者となる

リバイバル(信仰覚醒)は悔い改めた者から始まる、私から悔い改めの取り扱いを受けます

私の裁く心、偽り、傲慢は主に嫌われるもの、私は徹底して悔い改めます

この教会、牧師には一切何も求めません

この取り組は私一人で取り組みます

教会の人たちと祈って行きたかったが、一緒に取り組む人がいなかったからです

私の動機は主がご存知です

もし不純なものなら、平安もなく、みことばの慰めもありません、神ご自身が裁かれます

もし動機が純粋であるならば、平安があり、みことばの扉が開かれ、新しい慰めが与えられ、主ご自身のあとおしがあります

キリストの体を離れて働くとき、人はずれやすくなる、だからこれは皆さんに与えられるものでなくとも、与えられたチャンスにこの取り組みをあかししていきます。」

最後のほうは意味不明…皆さんって誰?っていう感じだが、祈りと神様から語られた、まじった感じだろうか。

こんな祈りのメモはすっかり忘れていた。

今、一人でなく、祈り支えの中、神様がこのブログを用いてくれようとしている気がする。

イエス様が一人一人の牧者となり、養われ、喜びますよう祈ります。

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2009年5月28日 (木)

渡れない大きな淵があった

イエス様はどんな仲介者であるか考えました。

『しかし、キリストは永遠に存在されるのであって、変わることのない祭司の務めを持っておられます。

したがって、ご自分によって神に近づく人々を、完全に救うことがおできになります。

キリストはいつも生きていて、彼らのために、とりなしをしておられるからです。』新約聖書 ヘブル人への手紙7:24.25

祭司とは、神様に仕えるため、人々から選ばれ、人々に代わる者として任命を受けた。その仕事は、おもに、罪のために、ささげ物といけにえとをささげるためとある。(ヘブル5:1)

神様と人の間に立つものということでは、分かりやすく言うと仲介者と言うことになる。

キリストは祭司であり、神様と人の仲介者である。どんな仲介者か。

仲介者としてのキリストは、普通の仲介者ではなかった。

ルカによる福音書にイエス様が天国と地獄の話しが出てくる。

毎日ぜいたくに遊び暮らす金持ちと、全身おできでその門前に寝る貧乏人ラザロがいた。ラザロはいつもひどい空腹だった。

貧乏人は死んで、アブラハムのいる天国に行く。一方、金持ちは、地獄(ハデス)で苦しむ。そして、ラザロをふところにするアブラハムをはるかかなたに見て言う。

「ラザロに私の舌を冷やすよう、よこしてください。…それがかなわないなら、今、生きている兄弟にこんな苦しいところに来ないよう、言ってください。」

アブラハムは言った。

『私たちとおまえたちの間には、大きな淵(ふち)があります。ここからそちらへ渡ろうとしても、渡れないし、そこからこちらへ越えて来ることもできないのです。』ルカによる福音書16:26

ここでは、地上と永遠の死後の世界の、イエス様による逆転劇を表している。

ここで、語られる神様のメッセージは、死後の救いはないということだろう。

けれども、イエス様の十字架がなければ、私は、地獄で苦しみ続ける金持ちなのだと思った。

イエス様の十字架による仲介がない現実は、恐ろしいもので、絶望的なものだということだ。

イエス様の仲介が、賃貸契約の仲介かのような安易なものではない。

神様と私たちの間には、大きな淵がある。神様の方から人のほうに渡ろうとしても、人があまりにも汚れていて行くことができず、人々のほうから、完全で聖なる神様のほうに越えて来ることもできない…大きな、どうしようもない淵がある。

イエス様は神であったのに、人となられ、ご自分のいのちをもって、神様の前にいけにえとなり、不可能であった神様と人が交流できる仲介者となられた。

神様のところにいるのが当たり前になりそうになったら、私は本来、イエス様の十字架がなかったら、この永遠に苦しむ金持ちであったところに戻って、イエス様の犠牲の仲介を感謝しようと思った。

神様と私の仲介者なるイエス様は今日も私たちのために、生きて働き、とりなしを神様にしてくださっている。

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イエス様のいるところにいる

イエス様といるならば、どんなところにも行けるのかもしれません。

『わたし(イエス)に仕えるというのなら、その人はわたしについて来なさい。

わたしがいる所に、わたしに仕える者もいるべきです。

もしわたしに仕えるなら、父(神)はその人に報いてくださいます。』新約聖書 ヨハネの福音書12:26

4年ほど前、そのとき属していた教会でのこと。

教会員の義理の妹さんが26歳という若さで、不治の病になられた。私たち、小さな教会では、癒されるよう祈った。

その妹さんはイエス様を信じた。教会員の人は牧師に見舞いに行って欲しいと願った。が、なぜか牧師は行かなかった。

その頃、私は地元の病院で、「乳ガン悪性の疑い」と言われ、専門の医師がいる病院を紹介された。家から1時間半もかかる都内にある病院だった。

その病院が、教会員の義理の妹さんが入院している病院だった。

私は定期的に診察でその病院へ行った。そして、その妹さんを病院に行くたびに、お見舞いした。

教会の何人かで祈っていたので、彼女は不治の病で、死を前にしているかのようだったが、癒されると信じていた。お見舞いに行くたび、私は彼女と聖書の話しをしたり、祈ったり したが、神様の癒しを信じていたので、命細くなっていくかのようでも、なぜか、安心していた。が、彼女は亡くなられた。(天国へ行かれた。)

私は何もできなかった。なぜ、神様の備えの中、彼女のところへ見舞いに行くことになったかも良くわからなかった。

私の中で、一つ不思議だったのが、別の方の手術のときは喜んでお見舞いに行く牧師がなぜ、彼女を見舞わなかったか…ということ。

ある日、夕食を作っているとき、突然、聖霊様が教えてくれたような気がした。

「牧師は行きたくなかったのではない、行けなかったのだ。」と。

裁く気持ちとかは無かった。牧師は、自分を通して病の癒しが行われるのを強く願っていたのだと思う。回復の見込みのある方の見舞いには行けたが、死を目の前にしている方には、怖くて行けなかったのだと思った。(牧師は自分が行かない理由すら、気がつかなかったと思うが。)

それを教えられたら、なんか可哀想な気持ちすらした。

私たちは何もできないのである。何かできると思い込んだら、成功するか失敗するかに捕らわれるのかもしれない。

私は悲しみの、絶望の闇の中に、イエス様のともしびを持って行きたいと思う。

私は何もできないし、何も起こらないかもしれない。

そこにイエス様がいるなら、一緒に行きたい。

イエス様は言われた。『わたしに仕えるというのなら、その人はわたしについて来なさい。わたしがいる所に、わたしに仕える者もいるべきです。』

「わたしのいるところにいなさい。」と言われる。大切なことは、何かをしようとするのではなく、イエス様と共にいることである。

私と共にいてくださるイエス様がいるならば、私はイエス様とどこへでも行ける。

何かしようというのは無意味なのだ。イエス様と一緒に、悲しむ人、苦しむ人のところにいるだけである。何かをなさるのは、イエス様だけだから。

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2009年5月27日 (水)

“キリストのからだの痛み”を教えられた出会い

私が少しだけ、変えられたのは、友人Mさんによってでした。

『しかしこういうわけで、器官は多くありますが、からだは一つなのです。…

からだの中で比較的に弱いと見られる器官が、かえってなくてはならないものです。

また、私たちは、からだの中で比較的に尊くないとみなす器官を、ことさらに尊びます。…

それは、からだの中に分裂がなく、各部分が互いにいたわり合うためです。

もし一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、もし一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶのです。

あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。』新約聖書 第1コリント12:20~27

私のブログに何回も何回も登場した喧嘩友達Mさん。

彼女は親から虐待を受けて育ち、そのあとも言葉にならないような辛いところを通された。

彼女のような人には、私が語るような陳腐な神の愛は伝わらなかったのかもしれない。彼女は神様から天国を見せられ、イエス様を信じた。

彼女の希望は教会のリバイバルだった。神様の圧倒的な世界を見させられた人の自然な渇望だった。

が、信仰生活の中に、圧倒的な神様のみわざを見ることはなかった。

彼女が最後に属した教会は空中分解し、無くなった。私の属した教会でもあるが。

彼女は親に見捨てられたように、教会に、神様に見捨てられたような痛みが深く残った。牧師たちの外の人たちに対する冷たい対応が許せなかった。そして、いい知れぬ深い罪責感…私のせいで、すべてがこんなになってしまったのかもしれない…に落ち込んだ。

前にも書いたが、彼女と私の大喧嘩勃発の原因は、私が「癒されたら、また、ふさわしい教会を捜して行けばいいよ。」と言った発言あたりからだった。

「sebaさん、それ、おかしい、間違っているよ。」と言われた。『おかしいも何もそれぞれに信じているところでいいんじゃないの?』と私は心で思った。

そんな会話の後、何度か言い合いをした。私は心に決めた。『私は自分の信仰を否定されることほど、嫌なことはない。彼女の前では、“教会”というキーワードはタブーだから、私から言うのは辞めよう。』

その後、彼女は言った。「教会は行かなくていいんだよね。」私は喧嘩にならないように無言を保った。

彼女の気持ちを、あるとき、聖霊様によって知った。

「親から虐待され、その鎖が巻かれた彼女にとって、教会に行くということは、親のところに頭を下げて戻ることと一緒なんだ…。」と。

彼女はACグループ(アダルト・チルドレンのグループ)に通った。

そこでは、何を言っても許される。受け入れられる。「あんな親、ぶっ殺してやりたい!」とある人が叫んだらしい。

教会や私なら、「それでは、癒されるよう、憎しみがなくなるよう祈りましょう。」と言うところだろう。

教会の縛りから解かれ、彼女はアメリカに旅立った。彼女は、私に、「そのままでは、あなたはいつまでたっても外の声は聞こえないよ。」と教えてくれたのだと今、思う。

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“キリストのからだ”の回復のため、私が出来ること

“キリストのからだ”(見えない大きな教会=外のクリスチャンを含めた)の回復のため私は今、何が出来るか考えました。

『男は何かもらえると思って、ふたりに目を注いだ。すると、ペテロは、「金銀は私にはない。しかし、私にあるものを上げよう。ナザレのイエス・キリストの名によって、歩きなさい。」と言って、彼の右手を取って立たせた。

するとたちまち、彼の足とくるぶしが強くなり、おどり上がってまっすぐに立ち、歩きだした。そして歩いたり、はねたりしながら、神を賛美しつつ、ふたりといっしょに宮にはいって行った。

人々はみな、彼が歩きながら、神を賛美しているのを見た。』新約聖書 使徒の働き3:5~9

神様は、今、私にいろいろなことを教えてくれています。

私は、教会の中と外のちょうど、真ん中(教会の中のドア)にいる者です。

長い間、そこにいて教会批判してきましたが、神様によって本当に癒されました。

まだ、教会の中にかろうじている私は、外の人と一番接触したり、話しを聞きやすい者です。

私の喧嘩友達は、外にいて、私に「あなたは変わらなくてはいけない。」と言いました。そして、今、神様は、私が変わることを強く迫っている感じです。

なぜ、私が変わらなくてはいけないか?

私が教会の中と外の“壁”だからかもしれません。

イエス様はすべての人を赦し受け入れてくれますが、多くの教会が人間的に受け入れる枠を作り、その外に人がこぼれていきます。

私自身、教会の中にいて、傍観者のように教会と牧師を批判してきました。

けれども、それは、私が私自身を裁いてきたことと同じかもしれません。

私が変わる…私が外の人を理解し、受け入れることができれば、私は教会のギリギリのドアに立つものなので、その領域は広がるということです。

私はドアに立ちながら、外を見ています。聞こえなかった声を聞けるようになりたいです。

私が教会の中の者として外の人に出来ることはたくさんあります。

教会が何か足りずに、傷つけて、そっと去られた方に、謝ることができます。

痛みを共有し、祈ることができます。

私には、理解しにくいことでも、一緒 に聞く人、共感する人を捜してくることができます。

昨日、「迷える人」さんにettuさんが言ってくれました。

「ここには、是非、悩みだけを持ってきてほしいです。討論、批判、問答はここには似合わないと思いますから…。」と。

25年間、教会批判してきた私は言いたいです。「討論、批判、問答は誰のためにもなりません。何より、自分自身にダメージを与えます。」

悩みや、痛み、悲しみはいくらでもお付き合いしたいです。

それは一緒に祈り、癒されるためです。癒された人は、イエス様の赦しをたくさん受けます。多く、赦された人は、多く愛するのです。

見えないキリストのからだの癒しと回復は、外の人から始まると私は信じています。多く癒され、赦されるからでしょう。

痛みを負う人たちが癒されるために、私は何度でも、自分がしてきた失敗を証します。

すべての人が癒しと回復にいたるイエス・キリストのみ名が語られますように。

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2009年5月26日 (火)

“絶えることのない永遠のしるし”

一つの神様からの約束の意味を知りました。

『まことに、あなたは喜びをもって出て行き、安らかに導かれて行く。

山と丘は、あなたがたの前で喜びの歌声をあげ、野の木々もみな、手を打ち鳴らす。

いばらの代わりにもみの木が生え、おどろの代わりにミルトスが生える。

これは主の記念となり、絶えることのない永遠のしるしとなる。』旧約聖書 イザヤ書55:12~13

3年前、息子の小学校のPTA会長をした。

全くやるつもりはなかったが、そのお話しをもらったとき、「機会を生かしなさい。」と神様から言われ、引き受けた。

人と出会いたいと、息子が幼稚園から、ほとんど毎年何かの役員をした。が、PTA会長となると、さすがにハードルが高い気がした。

引き受けてからも、「神様、私で大丈夫でしょうか?」といつも祈っていた。

そんなとき、イザヤ55章の約束のことばを神様からもらった。

「そうなんですね。楽しくやらせてくれるんですね、神様。絶えることのない永遠のしるしって何ですか?」と聞いていた。目に見える何かかなぁと思った。

任期につく3か月前、大先輩の方が私のところに来て言った。「会長になるべきなのは、あなたではないからやめなさい。」と言うようなことを言われた。

経験からいっても、能力からいっても、私も全然自信がなかったので、彼女の言われることは「ごもっとも」と思った。けれど、この約束のことばが、自信は全くない私を揺るがなくしていた。

「私の資質や能力を問われたら、やれないのはわかります。でも、私はすべての夜の会議も出席しますし、私がやれることは全部します。」と彼女に言った。30分の押し問答は終わった。

PTA会長は、やってみたら、ひたすら楽しかった。学校を越えて、たくさんの人と知り合いになった。

私たちの小学校では、歴代PTA会長は、掲額(けいがく)があった。私は17代目というのだが、他の人と同じ役員なのに、私だけ大きな写真を壁にかけられ、功績をたたえられる…というのは、違和感があり、抵抗があった。

写真を掲げなくて良いように、2年間神様に祈った。「歴代やってきていることを辞める訳にはいかない。」と校長に言われていた。しかし、私が会長を降りるとき、校長が変わり、「好きなようにしてください。」と、掲額辞退に至った。

今、子どもの中学で文化という役員をやっている。人気のない役だが、sebaさんがやるならと、たくさんの人が立候補してくれた。みんなとできて、楽しくやれている。

私自身に良いものはない。良いものがあるとしたら、それはイエス様だ。私のうちに住まわれるイエス様の喜びがまわりの人たちに喜びを与える。

『主の記念、絶えることのない永遠のしるし』は『いばらの代わりのもみの木、おどろの代わりのミルトスの木』であった。

永遠のしるしは、私を通して、イエス様のいのちがまわりの人たちに影響を与える…という約束と知った。

主の記念と絶えることのない永遠のしるしとは、人の中に与えられる。

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権利を放棄する祝福

自分の権利を放棄する難しさを思います。

『そこで、アブラハムはロトに言った。「どうか私とあなたとの間、また私の牧者たちとあなたの牧者たちとの間に、争いがないようにしてくれ。私たちは、親類同士なのだから。

全地はあなたの前にあるではないか。私から別れてくれないか。もしあなたが左に行けば、私は右に行こう。もしあなたが右に行けば、私は左に行こう。』旧約聖書 創世記13:8.9

私がボランティア役員のリーダーをしていたときのこと。会計報告の計上の仕方で、他の方と意見が違った。私は、どちらが正しいかより、みんなで話しあって決めたかった。が、話し合いはされず、私の間違いとされ、まるめこまれた。なんだか、すごく口惜しかった。

すると神様が、「あなたが低くなるなら、ちょうどいいとき、高くされます。」と言われた。

「え?神様どういう意味ですか?」と聞いたが、私の宿題だったのが、その後の返事はもらえなかった。

自分の権利を放棄するというのは、難しい。私など、不可能に近いかもしれない。

しかし、アブラハムは自分がロトより年長者で、当然彼にある選択権をロトに譲った。

しかも、土地は子孫の約束とからんでいて、アブラハムにとっては、小さな問題ではなかった。それなのに、アブラハムはロトに選ばせ、残りのほうを受け取った。

イエス様のことを宣教して歩いたパウロは言った。

『では、私に(福音をのべ伝えて)どんな報いがあるのでしょう。それは、福音をのべ伝えるときに報酬を求めないで与え、福音の働きによって持つ自分の権利を十分に用いないことです。』(第1コリント9:18)と言った。

この世の中の常識では考えられない発言である。

なぜ、パウロがそう言えたのか。神様であるのに、すべてを放棄し、命まで捨てられたイエス様が迫って来て、パウロ自身、自分の権利を放棄してまで、福音を伝えたい情熱に駆られていたのだと思う。

アブラハムもまた、神様を信じる信仰によって、ロトに選択を任せた。

神様はそのアブラハムの土地を祝福された。

『さあ、目を上げて、あなたがいる所から北と南、東と西を見渡しなさい。

わたしは、あなたが見渡しているこの地全部を、永久にあなたとあなたの子孫とに与えよう。』創世記13:15

アブラハムは神様に信頼し、自分の権利を放棄し、なお、神様の祝福にあずかった。

「あなたの権利を放棄していれば、あなたは神様の時に高くされる。」と私は言われた。

それではその後の私はどうなったか、相変わらず、自分の権利を主張し、高くされる(神様の祝福を見る)にいたっていないような気がする。

###

神様、自分の権利を放棄することは、本当に難しいことです。

もし、私がイエス様によって、自分の権利を放棄できる生き方ができれば、世の中の人は不思議に思うでしょう。

そして、私たちのためにすべてを捨てられたイエス様の愛を知るのでしょう。

権利放棄できないものですが、イエス様によって、できる者へと変えてください。

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2009年5月25日 (月)

私の“ブログ周辺”に思うこと

最近、ブログのコメントがにぎわったり、とても楽しい日々です。そして取り巻く皆さんに感謝します。

『初めからあったもの、目で見たもの、じっと見、また手でさわったもの、すなわち、いのちのことばについて…

私たちの見たこと、聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたも私たちと交わりを持つようになるためです。

私たちの交わりとは、御父および御子イエス・キリストとの交わりです。』新約聖書 第1ヨハネの手紙1:1.3

昨日、礼拝に向かう最中、一つの情景が目に浮かびました。

それはイエス様のもとにいて、楽しそうにそれぞれがいる姿です。

今、このブログの周辺にも、イエス様によって、それぞれが好きなこと楽しんだり、イエス様から良いものをもらったりしているんだなぁと思いました。

このブログ周辺で、イエス様を楽しんでいる一部の人を紹介します。

まず、sebaこと、私。何の考えもなく、主人に言われて、突然去年ブログをスタート。自分の神様にある体験中心に話しを書いていましたが、ネタが切れそうになり、信仰のこと、教会のことなど今中心的に書いて、私自身祝福されています。

神様から聖書の話しを聞いて書いているので、書いている私が、「そんな内容もあったんですね。」と感動しています。

次に、ブログ管理人をやっている主人。綺麗な花や空の写真を撮りに行き、つけてくれています。私は未だに、パソコンは使いこなせず、携帯から記事アップしていますが、私のところに訪問者が増えるよう、日夜?いろんな工夫、努力をしてくれています。

3月頃から来てくださるようになった、求道中とのことの泉さん、イエス様に癒され、慰められているでしょうか。泉さんを通して、私はイエス様の素晴らしさを感じています。

ごく最近来てくださるようになったettuさん、彼が来てからこのブログが変わりました。なんか、コメントの少ないブログでしたが、コメントが増えました。集う人で、交流会になって、素敵です。

ettuさんは、たぶん3日間くらいかけて、私の過去ブログを読んでくれました。私の出会うイエス様を共に喜んでくださり、いつも、祈り、「このブログで交流しましょう」と外に向かって呼びかけてくれています。

ヨエルさんも最近来てくださいましたが、教会に傷んだ人のために祈っていつもコメントしてくれます。

そして、いつも欠かさず、読みにきてくださる皆さん。私は来てくれる人がいなかったら、こんなに神様に聖書のことを“聞く”作業はできなかったと思っています。来てくださる方によって、このブログも、成長している感じです。

私などは、教会でダメージ受けたことのほうが多かったので、霊的家族を知らない孤児のような感じです。

けれども、イエス様のもとで、好きな感じで、やりたいようにやるって、素敵だなぁと思います。

なんだか、私のブログでなく、イエス様にあって、みんなで作っているブログみたいと、胸ときめきます。

皆さんを通して、イエス様につながる喜びを、遅ればせながら感じさせてもらっています。

本当にありがとうございます。この感謝に答えて、私自身は聖書から聞いて分かち合う作業に忠実にありたく思っています。

ブログ訪問されたお一人、お一人に神様の祝福があることを心から願っています。

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2009年5月24日 (日)

“アブラハム”を呼び出された神様

アブラハムを呼び出された神様は、アブラハムに計画をもち、約束を語られました。

『その後、主(神)はアブラムに仰せられた。

「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。

そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。

あなたの名は祝福となる。

あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。

地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。』旧約聖書 創世記12:1~3

このアブラハムの召命(しょうめい=神様から呼び出され、使命と約束を与えられること)の箇所は、アブラハムの記事の中で、私が最も好きな所である。

11章まで、アブラハムに至る系図や、彼の妻の名前が書かれてあるが、この12章で、突然、神様がアブラハムに語られた。それまで、神様とアブラハムの交流はなかった。

アブラハムがどんな人か、どんな信仰を持っているかここの時点で私たちにはアブラハムのことは全くわからないのだが、神様の方からアブラハムに現れ、突然、核心に触れる話しをされたのである。

やがて、信仰の訓練を受け、「信仰の父」と言われたアブラハムであるが、神様とアブラハムの最初の出会いは不思議だった。

神様はなぜ、アブラハムに突然語られたのか。アブラハムはなぜ、突然現れた神様の『わたしが示す地へ行きなさい。』ということばに「はい。」と従えたのか。

神様は、私たちと違って“時”の空間を越えたお方である。新約聖書で言われる“信仰によって神様に義とされる”という大切な核心的なメッセージを私たちに伝えるその始まりとして、アブラハムを選ばれた。

アブラハムの選びは、天地が造られる前から決まっており、アブラハム自身は今の私たちがその信仰を引き継ぐために選ばれた。

アブラハムは異教の地にいたとされる。“神”を知らなかったのではないか。なぜ、約束と命令が語られたとき、「はい。」と従えたか。

神様の側の突然の声に、アブラハムには信じる何かがあった。もう少し、違う言い方をすれば、その声の主が誰かわからなくとも、信じるに値する何かを感じた。私的にいえば、神様が信じる信仰すら与えたから、「はい。」と従えたのだと思う。

私がある日、神様に出会ったとき、「神様のことは何もわからないけれど、この方についていけばいい」と確信した。それなのだと思う。

この召し出されたときの約束は、キリストによって、私たちに引き継がれた。

このとき、アブラハムは神様が言われたすべてを理解していない。それなので、神様は同じことをさらに具体的に繰り返し話された。

まだ、子どもの無かったアブラハムに、神様は「あなたによってその子孫は祝福され、大いなる国民となる」と約束された。

神様はそのとおりになさった。アブラハムの記事のテーマは“子ども”である。“子ども”=“約束の成就”なのだ。

神様は私たち一人一人への約束もアブラハムにされたように成し遂げてくださる。

アブラハムの“子ども事件”を通して、私たちは“神様の約束がなるその時”を共に見てみたい。

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荒野にあった“神様の計画”

神様は私が祈った祈りがそのとおりになるため、30年の荒野を通してくれました。

『主は、あなたをエジプトの地、奴隷の家から連れ出し、燃える蛇やさそりのいるあの大きな恐ろしい荒野、水のない、かわききった地を通らせ、固い岩から、あなたのために水を流れ出させ、

あなたの先祖たちの知らなかったマナを、荒野であなたに食べさせられた。

それは、あなたを苦しめ、あなたを試み、ついには、あなたをしあわせにするためであった。』旧約聖書 申命記8:14~16

私が神様に出会った日、「神様、私を使ってください。」と願った。

神学校に入るとき、「神様、入ってよいか、神様のことばが必要のようです。」と祈り、神様は「主がお入り用です。」と壊れたレコードのように、繰り返し語ってくださった。

神学校を卒業し、「神様、私が神様のことばを伝えるための約束をください。」と韓国の断食祈祷院に行ったとき、神様は、「あなたがたの手で、食物を与えなさい。わたし(イエス)が奇跡をなすから。」と言われた。

28歳だった私は、「こんなに神様を伝えたいという情熱がある私なのだから、神様の願いと私の思いが合致しているのだから、神様の働きをするのに、何の支障もないよね。」と思った。すぐ、神様の働きが開かれると思っていた。

あれから、22年、私はかなり怠けた主婦業をしながら、PTA活動や地域ボランティアや、ランチにいそしんでいる。

神学校を出たときは、教会の中で働きたかった。漠然と、牧師になろうと思っていた。

が、神様はその道は開かなかった。教会嫌いの、人好きの主婦になっていた。

昨日も8年前に、PTA役員をやったお母さんたちとの飲み会があった。あんなに、神様の働きだけを追及していた私が、癒されて、普通の主婦に溶け込んでいる自分が不思議である。

人好きだから、ボランティアもランチも飲み会も、人と会うのは、すべて同じように楽しくてならない。

神様は私の心が癒されて「人好き」の賜物をくれた?と思うほど、人と関わるのが楽しくなった。

今、ブログを通して、私の人との関わりと祈りの領域は広がった。

そして、ブログは、私のまわりにあるすべてをとっぱらった私の一番大切にしている部分の分かち合いである。

それを、読みに来てくださる方たちがいて、ある人は毎日来てくれて、私の話しに耳を傾けてくれるという無言の、しかし、私の一番大切なものを聞いてもらうという深い交流をさせてもらっている。

私がなぜ、30年近く、教会生活に翻弄(ほんろう)されたか。それは、神様のマナ(聖書のことば)を荒野で食べさせもらうためだった。

そして、私は苦しみ、私は訓練され、今、大切な聖書のことばを大切な人たち(会ったことも話しをしたこともない大切な人たち…不思議である)と分かちあい、しあわせな生活に至っている。

人の計画と神様の計画は違う。「神様、私を使ってください。」「神様、あなたのことばを伝えさせてください。」という若き日の祈りは、きかれた。その祈りがそのとおりになるため、神様は荒野を歩ませてくださったと知った。神様の計画のその配慮のきめ細かさ、深さ、高さを思い、ただ神様をほめたたえる。

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2009年5月23日 (土)

“バベルの塔”と“教会”

一つになる…2種類あることを思います。

『さて、全地は一つのことば、一つの話しことばであった。…

そのうちに彼らは言うようになった。「さあ、われわれは町を建て、頂(いただき)が天に届く塔(とう)を建て、名をあげよう。われわれは散らされるといけないから。…

主(神)は仰せになった。「彼らがみな、一つの民、一つのことばで、このようなことをし始めたのなら、今や彼らがしようと思うことで、とどめられることはない。

さあ、降りて行って、そこでの彼らのことばを混乱させ、彼らが互いにことばが通じないようにしよう。」

こうして主は人々を、そこから地の全面に散らされたので、彼らはその町を建てるのをやめた。』旧約聖書 創世記11:1~8

バベルの塔…の話しは有名である。人間のごう慢な性質は、自己顕示欲となって、高く高く塔を建てる。

神様はそれをご覧になり、彼らのことばを混乱させ、互いにことばが通じないようにされ、地の全面に散らされた。

人間的な動機による力の結集は、神様に喜ばれない。一つになる大切さが言われても、どこに一つになるかである。

自分の欲望のために人々をコントロールして、一つ、画一化するのは、たちまちカルト化になる。

神様は、神様のもとに一つとなるため、イエス様を私たち送ってくださった。

バベルの塔以来、地の全面に散らされた人々を、イエス様の十字架のもとに集めた。

そこでは、ことばや、環境や、生育歴や、人種や…すべてを越えて一つ、キリストのからだとなり、キリストの愛にあふれるところを神様は計画され、私たちに約束され、体験させる。

一つとなる。人間側から一つとなるとき、そこには人間栄誉の宗教の霊が働く。

今、私たちは、イエス様によって、聖霊様の導きの中で、啓示される神様の天からの恵みによって、一つとされている。

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神様、あなたが私たちにキリストにあって、一つとさせてくださる約束をありがとうございます。

私たちは、人間的なものを動機として一つになることは簡単にできます。

けれども、キリストにあって一つになるという素晴らしさは全く違った質のものだと思います。

私たちの中に潜む“バベルの塔”(自己顕示欲)を打ち砕いてくださり、キリストの愛に一つとさせてください。

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