日記・コラム・つぶやき

2009年10月28日 (水)

“ブログを書く動機”

毎日ブログを書いていますが、書く動機となっているものの話しです。

『もしあなたのみおしえが私の喜びでなかったら、私は自分の悩みの中で滅んでいたでしょう。

私はあなたの戒めを決して忘れません。それによって、あなたは私を生かしてくださったからです。…

あなたのみことばは、私の上あごに、なんと甘いことでしょう。蜜よりも私の口に甘いのです。…

あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です。』旧約聖書 詩篇119:92.93.103.105

ブログ訪問いつも、ありがとうございます。

皆さんが訪問に来てくださるので、私も休むことなく、毎日続けられています。

私は努力する…とは無縁の人間なので、このブログを書く、皆さんと分かち合う…ということが楽しいと思わなければ、決して続きません。

また、聖霊様の助けとあわれみの中で書かせてもらっていると感じています。

始めの頃は、書く記事のネタ帳を作っていました。幾つか書く記事の候補があって、そこから選んで書いていました。

今はネタ帳は無しです。何を書こうかなぁと夜になって考えるのですが、何も浮かばないときは、お風呂の中で、「神様、何を書いたらいいでしょうか」と聞きます。

個室のお風呂場で決まることが多いです。

私にとって、聖書のことばや自分の体験や神様を分かち合えることはとても幸せなことです。

たぶん、私の生きている上で、一番強い欲求がこのようなことなのだと思います。

なぜ、私にとって、その欲求が一番強いかといえば、そのように造られているからかもしれませんが、自分の過去を振り返るとき、地獄のように苦しい日々があったからとも思います。

イエス様に出会わない頃、何のために生きているか本当に苦しみました。

だから私は今普通に生活していますが、もし何のために生きているかわからなかったならば、やはり昔と同じように、地獄のように苦しんでいると思います。

ですから、私が今普通のように生きているこの日々は、イエス様無しにはあり得ず、ただあわれみによって生かされていることを思います。

信仰生活を始めて30年ですが、私の中ではこのイエス様の十字架の赦しの意味が日ごとに大きくなり、心を占めています。

霊的なことで、外からはわかりにくいことですが、この主の霊に生かされている喜びを思うとき、分かち合いたい思いがますます強くなります。

ブログという形で、いろんなことを分かち合える恵みを思い感謝しています。

今日は、お風呂の個室で、私がブログを書き続ける訳、動機みたなことを分かち合いたいと思わされ、このような記事を書きました。

神様、イエス様、聖霊様の良いことを少しでも分かち合えたらばありがたいと願っています。

訪問ありがとうございます。神様の祝福がありますように。

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2009年7月22日 (水)

“教会の遠く外まで”

教会の遠く外のクリスチャンと関わったときの話しです。

『私は、ギリシャ人にも未開人にも、知識ある人にも知識のない人にも、返さなければならない負債を負っています。

ですから、私としては、ローマにいるあなたがたにも、ぜひ福音を伝えたいのです。』新約聖書 ローマ人への手紙1:14.15

教会の遠く外にいて、教会に入ることのできない方とやりとりをしたときのことを思い出しました。

その方の信仰は、幼子のごとく、純粋でした。

彼はなぜ、教会たちから締め出されたのか、私たちは最後まで関われなかったのか思います。

私の歩んだ教会たちで話しをした教会が閉じられる少し前の話し。

牧師夫妻が、一人の女性の方をしばらく、自分の家に住まわせていた。

彼女には付き合っている方がいて、一時その方から離れるために、そこに居候させてもらっていた。

もう、彼のところに戻ったり、そこから脱出?したり繰り返していた。

どちらの方も、精神的に病んでいて、依存して付き合ったり、うまくいかなかったりだったのだと思う。

その彼女が、私の電話を彼に教えたので、彼から良く電話がくるようになった。

依存症なので、一度頼れる人だと思うと、四六時中電話がくるようになる。

私も悩んだ。「これから、病院行くのだけど、何と言ったらいいか。」など聞いてくる。

本当は、教会の牧師が対応してくれるといいのだか、かつて、嫌な思いをしたらしく、彼とは関わらないとの一点張りだった。

彼の、人に理解されない言動は、店や教会を出入り禁止されるほどだった。

まさに、世の中からも、教会からも締め出された状態だった。

言動は人から理解されなかったが、彼の信仰は幼子のごとく、素直な信仰だった。

「sebaさん、牧師は僕を赦さないというけれど、イエス様によって、僕も牧師もみんな赦されているんですよね。」と良く言っていた。

彼の信仰だけが純粋に輝いていた。

けれども、四六時中の電話には私も閉口した。

私も悩んだ。私も彼との関係を切ると、誰も頼る人がいなくなるのではないか。

神様に祈り、何人かに相談した。

結局、自分のできないことは、できないと神様にも人にも言おうと言うことになり、彼にもう電話で受け答えはできないと話し、わかってもらえた。

私自身も、自分に自信を無くした。

彼が女性だったら、まだ、もう少し対応できたのだろうかとかいろいろ考えた。

「神様、私には男性の方に福音を伝えたり、関わるのは難しいですか。」

その祈りをしていたとき、神様が答えてくれた聖書のことばがこのローマ人の手紙の箇所だった。

「誰にでも福音を伝えなさい」と神様から言われた気がした。

彼はどうなるのか。教会でチームとかあって、一人の人に対応できたら、一人の負担にならずに関われるのかもと思う。

その前に、彼を理解する人が教会にいなければ、彼はいつまでたっても、出入り禁止状態なのだと思う。

教会の外に神様の愛が具体的に表されますように。

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2009年7月21日 (火)

“石焼きビビンバ”

美味しいものは美味しい…神様のことばもそんなふうになるといいなぁと思いました。

『わたしは、天から下って来た生けるパンです。だれでもこのパンを食べるなら、永遠に生きます。またわたしが与えようとするパンは、世のいのちのための、わたしの肉です。』新約聖書 ヨハネの福音書6:51

今日は、我が家で、特別支援学級に通う子どものお母さんたちとのお茶会の日だった。

だいだい3人だけれども、今日は仕事で一人の方が来れずに、2人だった。

いつも、その場で生きている子どもたちの話しを聞くと、ひたむきに生きる素晴らしさを教えられ、感動に浸る。

月1ペースで始めて、5年目になる。

私はお茶会の日はお昼は何にしようか、考える。パン、焼きそば、スパゲッティ、お好み焼きなど、簡単、無難なメニューを考える。私が、とにかく料理が苦手で、人に食べてもらうというおもてなしが苦手なのだ。

今日は、思いがけず、生協の“石焼きビビンバ”セットが冷凍庫にあったので、石焼きで焼いて一緒に食べた。

美味しかった。二人でかなりの量をペロリと食べた。

息子の近況を少し話すと、彼女は「ブログで見ました。」と言ってくれた。

信仰ネタの多いブログだが、拾って読んでくれているみたいでありがたい。

この前、別の友人は、私の母の事などの過去のブログを見ていると言ってくれた。

別のランチ友だちの2人の友人も、わからないところを飛ばしながら見ていると言ってくれた。

“石焼きビビンバ”がみんなにとって美味しいように、神様のことばも、本当は誰にとっても美味しいはずだ。神様がみんなのために書いたことばだから。

この前、いつも訪問してくれるミニマルにも、「今日はセバのことばが多かったから、すんなり入ってきた。」とコメントをもらった。

美味しいものを、固く、食べにくくしているのだなぁと思った。

美味しいものは、子どもにとっても、お年寄りにとっても美味しいはず。

イエス様は誰にでもわかるように、神様について話された。

ノンクリスチャンが読んでくれても、クリスチャンが読んでくれても、ともに、神様のことばは美味しいね…そんなブログになれたらよいなぁと思った。

きっと、日常のいろんなところに、神様の真実と聖書の真実はあるのだと思う。

ブログを宣伝して歩いたのは私だけど、改めて読み続けてくれるノンクリスチャンの友人たちにありがたい思いになる。

霊的?でないタイトルは勇気がいるけど、神様の愛は、聖書知識やそのことばで壁をつくらない。

神様が伝えたいメッセージが、神様の優しさとともに人々の心の中に入りますように。人を慰め、励ましますように。

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2009年7月20日 (月)

“永遠の愛をもって愛する”

ブログ訪問の方々の神様にある祝福を心から願います。

『それゆえ、私は生きているかぎり、あなた(神)をほめたたえ、あなたの御名により、両手を上げて祈ります。

私のたましいが脂肪と髄(ずい)に満ち足りるかのように、私のくちびるは喜びにあふれて賛美します。

ああ、私は床の上であなたを思い出し、夜ふけて私はあなたを思います。

あなたは私の助けでした。御翼の陰で、私は喜び歌います。

私のたましいは、あなたにすがり、あなたの右の手は、私をささえてくださいます。』旧約聖書 詩篇62:4~8

私は今日は、コメントくださった方々のプリントアウトした紙をファイルに整理し、こんなコメントいただいなたぁと、過去を振り返っていました。

コメントを一度、いただいた方との会話は、私は自慢ではないけど、全部覚えています。

コメントはたった一度でも、その方が、また訪問してくださっているのを見ると嬉しいです。

ずっといつも来てくださっている方が、来られなくなったりすると、一人で寂しく思ったり、その方のために祈ったりして、一人一喜一憂しています。

最近、寝ていて、目覚めるか目覚めないかの中で、神様から語られたり、見せられりいろいろあるのですが、昨日の朝はこんなでした。

16さん、3Cさん、A8さん…目覚めない意識の中でナマログのパソコンナンバーの方を祈っていました。

これは私の信仰とかでなく、神様が一人一人をとても、妬むほどに愛しておられるのを、私に祈らせているんだなぁと思いました。

私も訪問してくださる皆さん一人一人がとても大切な人たちです。

イエス様にある良いものを一緒に食べている…そんな一体感があるからでしょう。

そして、神様が切なる思いで一人一人と親しくしたいと願っているのを、強く思います。

ダビデは、朝ごと、夜ごとに神様を思い、賛美していました。そして、神様の方もまた朝ごと、夜ごとに私たちを切に求めてくださっているのだと思います。

私が訪問してくださる皆さんを思う気持ちは、限界がありますが、神様が一人一人の霊的な祝福を切に願っている、そのほんのわずかを私にも思わさせてくださっているのを思います。

『永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した。それゆえ、わたしはあなたに、誠実を尽くし続けた。』エレミヤ31:3

この聖書のことばは、私に向けられたことばであり、皆さんお一人お一人に向けられたことばです。

どんなに愛してやまないか…私が深くうまく伝えられればと思いつつ。

今日は、聖書中心というより、私の思いを話す中で、神様の思いを書いてみました。

イエス様がいのちを捨てて愛されたお一人お一人の中に、熱くイエス様の愛の焼き印が押されるほどになりますよう、祈ります。

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2009年7月16日 (木)

“ブログ一周年”

ブログ一年にあたり、その経過とこれからの報告です。

『わがたましいよ。主をほめたたえよ。私のうちにあるすべてのものよ。聖なる御名をほめたたえよ。

わがたましいよ。主をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。

主は、あなたのすべての咎(とが)を赦し、あなたのすべての病をいやし、あなたのいのちの穴からあがない、あなたに、恵みとあわれみとの冠をかぶらせ、あなたの一生を良いもので満たされる。

あなたの若さは、わしのように、新しくなる。』旧約聖書 詩篇103:1~5

去年の7月17日に、突然主人に「ブログの画面を作ったから、ブログ書いてみて。」と勧められ、ブログを初めて書いてみた。パソコンも開けない私は、人のブログも見たこともなかったが、ノンクリスチャンの友人に、私のこれまでの歩みの神様にある体験を伝えたいと思った。

まわりのノンクリスチャンの友人や知り合い50人くらいに、とにかくブログ案内をして歩いた。

そして、49年の私の体験と、そこから神様に教えられたことを書いた。書きまくった。そしたら、ネタが無くなり、ゆきずまった。

ある日、「私は教会では苦痛を感じている者だ」と控えめに書いた。(見てくれている人がノンクリスチャンの友人と思うと、教会に対する私の正直な気持ちを書くことにとてもためらった。)

それが、クリスチャンの方に共感されて、だんだん信仰ネタを書くようになった。

だから、いつも見てくれる友人には、分かりにくい話でごめんなさいという思いがあった。

が、一度、正直な気持ちを書いて、共感してもらったりして、私のブログはしっかり信仰ネタブログになってしまった。

その中で、自分の過去を書きながら振り返り、たくさんのことに気がつかされた。

25年の教会生活の苦痛は、今、神様の恵みを分かち合うためだったと理解できたときは、嬉しかった。「神様、苦しみの25年ありがとう」と感謝に溢れた。

5月に教会の中と外というテーマが示され、私自身は悔い改めるとブログで宣言した。

恵みの悔い改めに導かれた2か月だった。ブログの記事では分かりにくいが、とにかく霊的な深いところを探られ、良く泣いて祈った。

私はブログを通して、そして読んでくださる方に支えられ、見えないところで神様に取り扱われた。

神様にある良いものを分かち合う恵みも体験させてもらった。

聖書のことをたくさん語られ、書けてきたことは恵みだった。

たくさんの訪問してくださる方たちとのコメントにも励まされ、コメント無しでも、1日に何度も来てくださる方たちに励まされた。

今、また、私の中で、新しいことが起こっていて、聖書を知る知恵の御霊はどこへ…という感じで、知性が緩慢(かんまん)になっている。

何度も来てくれる方のためにたくさん記事をアップしたいが、神様次第という感じである。

“私の歩んだ教会たち”シリーズもあと2回で終わり。私の教会遍歴にお付き合いいただき、読んでもらいありがとう。

新しいシリーズとして、“自分史”をもう一度、順を追って書こうと思う。まさに私の癒しの旅の証である。

創世記も終わったら、マタイからイエス様を見ていきたい。こちらは、知恵の御霊様次第という感じだが。

自分がどういう状況であれ、神様の良いものを皆さんと分かちあい、また、特に教会の外にいる方たちの癒しのために祈りたい。

記事は少なくても、前よりたくさん礼拝し、今、いろんなことを祈れている。聖霊様のすばらしい体験の中にあって、良い形で、聖書を通して分かち合いたい。

ブログ一年のこれまでとこれからを書いた。

訪問してくださる方々一人一人を心から感謝している。

さらに、ともにすばらしい主を分かち合いたい。

皆さま、今後もよろしくお願いします。

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2009年7月11日 (土)

神は“敵を愛する者”に変えられた

自分の力ではできないが、私は“敵”を祈るものに変えられた話しです。

『「自分の隣人を愛し、自分の敵を憎め。」と言われたのを、あなたがたは聞いています。

しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。』新約聖書 マタイの福音書5:43.44

人間の愛情は、深ければ深いほど、それが変化したとき、その憎しみは深い恐ろしいものになる可能性を思う。

サスペンス物ではないが、殺意にすらなりうる。

私も過去扁で書いたが、若いとき、とても祈っていた好きな男性の人にふられたとき、自分の内側に湧いてくる恐ろしいものを見て、唖然とした経験がある。

そのときは、その人も神にある人だったので、「ひどいふりかたをしたことを本人に謝りなさい。」と神様から言われたらしく、私に謝ってきた。そのことを通して、私は自分の醜く、恐ろしいものを神様に赦して、癒してもらった経験がある。

聖書には“敵”を愛しなさいとある。“敵”と思える人を愛せる訳がない。

無理難題である。

人には不可能なことを神様はされるのだなぁと、今日、私はしみじみと思った。

私にとっての“敵”は、それが自分に苦痛を与えるものであるなら、目に見える教会の何者でもなかった。

25年間、私は教会の中にいながら、教会を裁き、批判してきた。

今、目に見える教会を愛しているか…その域には達していないと思う。

けれども、目に見えない“教会”(目にみえない大きな意味でのキリストのからだ)に対しては、神様の愛を感じる。

今日、ボランティアの帰り道、神様からの熱い愛情が私の胸に注がれ、自転車を降りて歩きながら、神様を賛美してきた。

ときに、その迫りは胸が痛くなるほどのイエス様の愛である。

そういえば、2か月前、この同じ道を胸が苦しくなるほどの聖霊様の悔い改めの霊に迫られ、悔い改めながら、自転車をおして歩いたなぁと思った。

目に見えない“教会”なんて、それまで考えたことも、祈ったこともないのに、突然、あの頃から私の関心事は、目に見えない“教会”であり、教会の外の人たちになった。

だから、私の内側に経験するイエス様の苦しいほどの迫ってくる愛情は、私個人に対するものというより、「わたしはキリストのからだを、一人一人をこのくらい愛している。」という神様からのメッセージになる。

私は25年間も教会を憎んで来たものである。恨んできたものである。

その私が、神様から教会に対する愛情を教えられ、祈るものとなるとはなぁ…私の中でも考えられないことを神様はされるのだなぁと思った。

人間の愛は憎悪になるが、神様の愛は、憎しみすら愛して止まなくさせるのだと思った。

20年前に、エレミヤ書のこのことばが、なぜか私に起こる約束のことばと信じていた。“敵”って誰?と思いつつ。

『必ずわたしはあなたを解き放って、しあわせにする。

必ずわたしは、わざわいの時、苦難の時に、敵があなたにとりなしを頼むようにする。』エレミヤ15:11

教会にとりなしを頼まれた訳ではないが、私にとって、自分のからだの一部であり、イエス様の一部だった“敵”であった“教会”を私は祈るものに、神様は変えられた。

神様のお名前だけをほめたたえます。

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2009年7月 4日 (土)

“風を見て恐れる私”

イエス様を信じているつもりでも、すぐ、不安や恐れに支配されやすい私です。

『すると、夜中の3時ごろ、イエスは湖の上を歩いてこられた。…

しかし、イエスはすぐに彼らに話しかけ、「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない。」と言われた。

すると、ペテロが答えて言った。「主よ。もしあなたでしたら、私に、水の上を歩いてここまで来い、とお命じになってください。」

イエスは「来なさい。」と言われた。そこで、ペテロは舟から出て、水の上を歩いてイエスのほうに行った。

ところが、風を見て、こわくなり、沈みかけたので叫び出し、「主よ。助けてください。」と言った。

そこで、イエスはすぐに手を伸ばして、彼をつかんで言われた。

「信仰の薄い人だな。なぜ疑うのか。」』新約聖書 マタイの福音書14:27~31

弟子たちは真夜中の3時ごろ、舟に乗っていた。

イエス様が湖を歩いてくるのを見て、「あれは幽霊だ。」と言い、おびえ、恐れ、叫んだ。

しかし、それはイエス様だった。ペテロは、「イエス様、私にも水の上を歩いていけるように、おことばをください。」と言う。

イエス様が「来なさい」と言ってくださり、水の上を歩くペテロだったが、風を見て、こわくなり、イエス様に助けを求めた。

この中に、弟子たちのたくさんの感情が出てくる。

私たちは人生の暗やみにいると、不安になったり、恐れが出たり、失望したり、いろんな思いにとらわれる。

そんな中で、イエス様は「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない。」と言ってくださる。

ペテロはそのイエス様に求め、従った。

イエス様とともに水面を歩いたのである。

イエス様が、困難な中、私たちを主によって、奇跡のような中を歩かせてくれる。

しかし、なお、私たちは弱い。水面を歩かせてくださっているのが、イエス様ご自身であるのを忘れてしまうのだ。

風を見て、その導いてくださる主を忘れて、不安の渦に飲み込まれる。

私も昨日、一つのことを考え出したら、不安になって、様々な悪い妄想へと、発展していった。

イエス様を見ないで、まさに状況で、考え、判断していた。

すると「なぜ、わたしを信頼しないのですか?」と語られた。

いかに、見るべきところを見ていなかったか教えられた。

「主よ。あなたを信頼しませんでした。すみませんでした。」と悔い改めた。

イエス様は、あわれみ深いお方である。

ペテロのように、「主よ。助けてください。」と言うものを見放さない。

イエス様はすぐに手を伸ばし、ペテロをつかんで言われる。

「わたしを信頼しなさい。それが、あなたの一番の安心の道だから。」

私はいつも繰り返し、恐れがやってくるような弱いものだ。しかし、イエス様はいつも近くにいて、声をかけてくださり、手を伸ばしてくださり、「わたしを信頼しなさい。」と安心のもとへ導いてくださる。このイエス様を信頼して、ついていけますように。

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2009年7月 3日 (金)

“キリストの愛”

イエス様がいのちを捨てて現してくれた“キリストの愛”を思いました。

『一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。』新約聖書 ヨハネの福音書12:24

一つの簡単なストーリーを思いつきました。

タイトルは“生きるもので不可欠な愛”でしょうか。

あるところに、一人の少女がいました。優しいお母さん、頼れるお父さん、多くの仲の良い兄弟、そしてたくさんの友人がいました。大きな立派な家に住んでいて、広い庭には、可愛い犬たちもいます。少女は健康で、すべてに恵まれ、特別に困ったこともありませんでした。

しかし、何故か、笑うことがありませんでした…ってなると、何かの話しに似ていますね。

そこに、一人の青年が通りかかりました。彼は貧しく、何も持っていません。家もなく、着るものも食べるものもないくらい、貧しかったのです。

彼にはたった一つ隠された財産がありました。それは、彼の心の中がいつも、愛なる神様から溢れるばかりの愛を注がれているということでした。

それで、彼は、その少女を一目見たときに、彼女に無いものがすぐにわかりました。

そして、とてもやるせない思いになりました。それで、彼は、神様の愛を分けてあげたいと思いました。

しかし、彼は、身分も違い、彼女に近づけません。彼は祈りました。

「祈りを聞かれる神様、あなたが私を愛してくれているのを知っています。私の願いもかなえてくださることも知っています。どうぞ、私を愛してくださる神様の愛を、彼女にも与えてください。

もし何かと引き換えにというなら、私は何も持っていません。私の命と引き換えに、彼女に神様の愛を与えてください。」

その青年の祈りは聞かれました。彼女は、その青年の命と引き換えに、神様からの愛をもらいました。

……こんなストーリーです。裕福な少女は私かもしれません。

そして、命を捨ててくれたのは、イエス様です。

私たちが生きていく上で、もっとも大切なのは、“神様の愛”なのだと思いました。

そして、そこにたどり着くため、“キリストの愛”を通るのです。

私は捨てられないものだらけで、自分にあるものを捨てさせられるのに、30年かかりました。

それでは、すっきりすべて捨てられているかといったら、きっと、まだ、たくさん残っています。

生まれたときから、私たちの罪に死なれるために生きてくださったイエス様の愛を思います。

私は何を捨てたらよいのでしょうか。

それが、まだ、わからないのですが、私にとって、このキリストの愛にまさるものはない…証や聖書の分かち合いにおいて、何より伝えたいことはこのキリストの愛なのだと思わされた朝でした。

イエス様はご自身のいのちを捨てられて、キリストの愛を私たちのうちに与えられました。

私が捨てて死ぬことを通して、実を結ぶ…その実が見たいと思った朝でした。

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2009年6月30日 (火)

“私たちに住まわれるいのちのことば”

イエス様のことばは、人の中にいのちとなって生きているのを思います。

『ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。

私たちはこの方(イエス)の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。

この方は恵みとまことに満ちておられた。』新約聖書 ヨハネの福音書1:14

かつて、人のことばに翻弄(ほんろう)されてきた私にとって、私を生かしてくれる“真実のことば”は何より大切なものである。

私は、今、30年の教会生活を振り返っているが、私にとって教会の苦痛は、礼拝で牧師が語るメッセージ…ただその一点だったように思う。

「私が体験している神様はそんな小言や説教ばかりいう神様ではない!」と…。

今、ブログで、聖書のことばを分かち合ったり、思いを分かち合ったりさせてもらっているが、四六時中、聖書を開くようになった。

神様のことばに触れる機会が何倍も増えた。ときには、どこにあった聖書箇所か、分厚い「聖書語句辞典」を引く。

その中で、知らなかった聖書のことばに出会い、感動したりする。

聖書が、神様が何を言っているか聞く作業が楽しい。

そして、もう一人の私が今いる。30年間、「恵みと主権をもっておられる神様の話しを聞きたい。」と渇望し続けた私である。

私にとって、水も食料も乏しかった月日がなければ、その飢え渇く自分は確立しなかった。私にとっての荒野か、砂漠のような食糧難の日々が、私自身の中に、“人は何を求めているか”を教えてくれる人を作った。

イエス様は、神様であられるのに、人となり、私たちの間に住んでくれた。

そのことを通して、私たちは人となられたイエス様の愛を見ることができる。

イエス様に永遠のいのちがあった。

イエス様が十字架にかかり、よみがえられ、今、私たちはこのイエス様のいのちにあずかる。

イエス様が話したことばが、霊であり、いのちだと言われた。(ヨハネ6:63)

イエス様自身が、イエス様のいのちが、聖霊様が、この聖書のことばとともに、私たちのうち側に生きてくださる。

私たちは、聖霊様のはならきによって、心にいますイエス様とともにいられる恵みを思う。

今、真実のことばを求め、渇き、苦しんでいる方がいるならば、イエス様のいのちのことばに出会って、満たされることを願う。

人を慰め、生かし、励まし、支え、助ける真実のことば、聖書のことばが、多くの人々の暗やみに届き、そこを光としてくれるように祈りたい。

聖書のことばは、クリスチャンだけのものではなく、すべての人のためのものだ。

なぜなら、天地を造られ、イエス様を送られた神様は、すべての人々の神様だから。

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天のお父さん、あなたが、聖書を通して、日々私たちを支え、生かしてくださることをありがとうございます。

この何にも変えることのできない聖書のことばが、人々の慰めと励ましとなりますように導いてください。

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“聖書のことばを食べる”

いのちを保つための食べ物について考えました。

『いのちを与えるのは御霊(みたま)です。肉は何の益ももたらしません。

わたし(イエス)があなたがたに話したことばは、霊であり、またいのちです。』新約聖書 ヨハネの福音書6:63

中学に通う息子は、身長168センチで、45キロととても“おやせ”だ。

偏食ぎみで、小さいときから痩せていた。

小学生のときは、あんまり体重が増えないので、一キロ増えたらご褒美物だった。リビングにはそのときのなごりの体重計がホコリをかぶって置かれてある。

健康を保つのに、食事は大切だ。が、それも無理じいになると苦痛になる。

私は、育った家庭での食事が苦痛だった。

味つけが濃かったのと、いつも「残しては駄目だ。」と小言を言われながら食べていたからだ。

だから、息子にはきちんと食べるようには言えない自分がいた。

イエス様のいのちにつながり続けるため、私たちは聖書のことばを食物として食べる。

が、美味しいご馳走も無理じいされては、食べたくなくなる。

「恵みの歩み」の本を書いたマクベイ師が言っていたことを、ふと思い出した。

「聖書は読まなくていい。無理に祈らなくていい。」

それはつまり、「ご飯を食べたくなければ食べなくてもいい。」と言うことであり、「それでも、お腹が空くと、食べたくなるのだから無理をしなくていい」と言う意味合いだったのかなぁと思った。

本来、“聖書を読む”とか“祈りをする”というのは、“美味しいご馳走を食べる”“親しい人と語らう”という楽しく、素敵な特権であるはずだ。それなのに、どこで間違えたか、小言か命令になったとたん、苦痛に変わってしまう。

美味しいご馳走を食べた人は、そのご馳走を無理じいはしない。

まず、私自身にとって“聖書を読む”ということが、すばらしいことであることが、そのことを人に勧めるとき、相手の人に期待を持たせることにつながるのかもしれないと思った。

給食だけは、残さず食べる息子ももうすぐ夏休み…いかに美味しいものを一緒に食べられるか、母の大きな課題である。

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2009年6月29日 (月)

“キリストにあって一つと集められる”

イエス様にあって、一つになる約束に思いめぐらしました。

『神はこの恵みを私たちの上にあふれさせ、あらゆる知恵と思慮深さをもって、みこころの奥義を私たちに知らせてくださいました。

それは、神が御子においてあらかじめ、お立てになったご計画によることであって、時がついに満ちて、この時のためのみこころが実行に移され、

天にあるものも地にあるものも、いっさいのものが、キリストにあって一つに集められることなのです。』新約聖書 エペソ人の手紙1:8~10

パウロはローマの獄中の中で、この手紙を書いた。

注解には、「パウロは獄中で瞑想する機会も多かったのだろう。神の救いの計画の洞察、そして、目に見えない、霊的なキリストの体である教会の深い洞察が書かれてある。」とある。

私は教会像に打撃を受けてきたので、聖書にある教会像は何か遠い世界の話しに聞こえていた。

この小さなブログで、霊的なものを分かち合ったり、共に祈ったりする中で、私の中で、“キリストのからだ体験”をさせてもらっている。

ブログの先にいる会ったこともない方たちと、同じ聖書を分かち合い、ともにアーメンと祈れるとき、私たちは、同じ神様、同じイエス様、同じ御霊にあるのだなぁと思う。

たとえば、初めて教会に行くならば、差し支えない挨拶から、遠まわりの交流が始まる。

「どちらから来ましたか。」

「どちらにお住まいですか。」

そこから一足飛びに、本題にはなかなか入らない。

しかも、私は、教会にあっては、“少数派”の感覚をもった者との自覚がある。

分かち合える人は、100人に一人いれば良いと自分に言い聞かせてきた。

だいたいその一人は、悩みが多く、正直な人たちだった。

教会でのうわべの会話は私は堪えられない。それは、教会でなくても十分にできるから。

自分に正直な人の多くは、自分の弱さを充分に体験している人である。

そんな教会生活の私が、こうしてブログで、多くの方と分かち合えているのだから不思議に思う。

このパソコン世界の、まだるっこい、遠回しの挨拶もない、本題で分かち合える良さなのだと思う。

そして、似たものを求めている人が集まっている。

今、改めて、ブログで、神様の恵みや慰めを分かち合えることを、そんな訳で感謝している。

パウロはユダヤ人と異邦人が一つになる壮大な計画を、神様から教えられ、この手紙を書いた。

キリストにあって一つを体験させられ始めている私は、同じことばが通じる社会で、教会の中と外が一つになることを思わされている。

捕囚の民に預言する人たちは、神は遠くから近くからあなたがたを集めて一つとすると、神様の霊によって語った。

聖書全体に、改めて一つになる約束が多く語られていることを今日、思った。

この約束が私たちにもなりますようにと祈った。

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2009年6月28日 (日)

“霊的養い”(考察と報告)

今日、1日をかけて、長い考察をしていました。

『たとい主があなたがたに、乏しいパンとわずかな水とを賜(たま)わっても、あなたの教師はもう隠れることなく、あなたの目はあなたの教師を見続けよう。

あなたが右に行くにも、左に行くにも、あなたの耳はうしろから「これが道だ。これに歩め。」と言うことばを聞く。』旧約聖書イザヤ書30:20.21

今日は、朝からずっと“霊的養い”について、祈り考えた。

私は、牧師に養われなかったが、教会や他のところで養われたのかもしれない。

教会生活が始まってすぐに教会学校の先生をさせてもらった。「成長」のテキストと聖書で、学びながら、子どもたちと分かち合い、育ててもらった。

最初に通った教会は、聖書勉強会も祈り会もなかったが、あちこちの関連教会の聖書勉強会に出た。

そして、信仰持ってまもなく神学校で勉強できたのは、やっぱり大きかった。

勉強はできるほうでもなかったかもしれないが、「神学概論」というのが、とても好きだった。

“救いとは”“罪とは”“あがないとは”みたいな感じのものを、聖書全体と、聖書箇所から学んだ。

つまり、私は牧師から養われなかったと言いきっているが、やはり教会の中で養われたということに気がついた。

突然、育った我が家の話しになるが、母とは折り合いが悪く、父は病気でほとんど交流がなく、こんな親はいてもいなくても…と昔は思った。(今はイエス様にあって父、母を感謝しているが。)

母とは、母が亡くなる近くまで、私は反抗期だった。あまり、いい家庭の思い出はない。が、喧嘩してたにせよ、関わりが薄かったにせよ、父、母は私の生活のまわりで生きていた。

私が教会にとやかく言っていた時期は、それでも親は生きている…みたいな感じなのかなぁと思った。

私のまわりにもいるし、息子の同級生にもいるが、父か母が、死別か離婚で全くいない人の気持ちは、私にはわからないのかもしれない。近い喪失の気持ちはあっても、私の場合、まだ、生きていた。

今、教会に行かない選択にある人の気持ちは、どんなに大変か、苦労があるのか、私にはまだまだ想像がつかないのかもしれない。

今日、礼拝で行われた賛美、メッセージ、聖さん、祈り、すべてが当たり前と思ってしまう私がいるが、それらのない人には、どんなに貴重なことかと思った。

ブログで、聖さんはできないけど、日曜日にできることは、したいなぁと思った。

私は牧師でもないし、“祝祷(しゅくとう)”みたいなのは、おこがましくてできないが、一週間の歩みの守りを共に祈ることはできるなぁと思った。

私の1日の考察が長くなった。もう日曜日の夕方になってしまったが、次のブログに、訪問してくださる方々のために、一週間のお祈りを書きたいと思います。

必要な方と共に心合わせられたら、幸いです。

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2009年6月22日 (月)

“握っている手を開けますように”(語りかけ)

握っているものを手放させられた私の証と、Setsuさんの神様からの語りかけです。

『私たちが滅びうせなかったのは、主の恵みによる。

主のあわれみは尽きないからだ。

それは朝ごとに新しい。

「あなたの真実は力強い。主こそ、私の受ける分です。」と私のたましいは言う。

それゆえ、私は主を待ち望む。』旧約聖書 哀歌3:22.23.24

立派な会堂から教会がなくなり、私は途方にくれました。

ある教会の賛美礼拝に行き、そこで神様に話かけました。

「神様、私は教会奉仕が大好きでしたが、奉仕どころか、教会まで無くなってしまいました。」

すると、神様は言われました。

「これまでの数々の苦しみは、あなたが握っているものを手放すためだよ。」と。

私は何かを握ってました。それを払われたのです。手を開いてみると、何もないのではありませんでした。

その日から、私は「主こそ、私の受ける分です。」と神様を喜び始めました。

仕事も辞めさせられ、教会もなく、何もないような時期でしたが、生まれて初めて鳥のさえずりに、「神様、鳥の鳴き声がきれいですね。」と言えました。

私の握っていたもの、それは“私の神様にある働き”でした。

神様におまかせしたとき、神様だけが喜べるようになりました。

昨日、Setsuさんが、コメントで、皆さんあてに、神様からの語りかけを書いてくれました。

書き写します。お一人お一人に慰めがありますように。

「神様は私たちの心が何を必要か知っておられます。

何に渇き、何につまづき、何に泣いているかも。

あなたが握っているその手を一度、神様の前で開いてみてください。

あなたの手は、引き裂かれて穴の空いた神様(イエス様)の手を握ることができます。

あなたが隠しているその心の目を、神様の方へ向けてみてください。

神様の心に、あなたのことがしっかり焼き付かれているのを見ることができます。

あなたがまだ形もなかった頃、神様の心にあなたがいて、神様はずっとあなたに思いを焦がしていたことを、あなたのすべての心の傷に深く染み込ませることができるでしょう。」

Setsuさんはここに来られる方々、コメントする方も、そうでない方のためにも祈っています。

ettuさんもここに取り巻く人たちのため、与えられた霊的祈りで祈っています。

私もお二人と同じく、ただ皆さんの霊的祝福を心から祈っています。

この小さなブログを通しても、距離や空間を越えて、神様のよいものを分かちあえますことを願っています。この思いが、祈りとともに、ここに来てくださる皆さんに届きますように。

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“聖霊の小川を泳ぐメダカたち”

聖霊様の小川で泳ぐメダカたちを思いました。

『この川が流れて行く所はどこででも、そこに群がるあらゆる生物は生き、非常に多くの魚がいるようになる。この水がはいると、そこの水が良くなるからである。この川がはいる所では、すべてのものが生きる。』旧約聖書 エゼキエル書47:9

昨日、礼拝の中で、小さな小川を思い出しました。それは幼い頃よく遊んだ、田舎のおばあちゃんの家の畑の近くを流れる小川です。

幅2〜30センチの小さな小川にメダカが可愛らしく群れをなして泳いでいました。

今、メダカはあまり見かけなくなったと言われます。

メダカは本当にきれいな水の中でしか生きることができず、今は環境的にそういうところが少なくなったのだと聞きます。

私のような弱さを抱えたクリスチャンは、小川のような水の中でしか生きられないのかなぁと思ったりしました。

きれいな水とは、聖霊様の中のことです。

そこに何か人間的なものが混じってしまうと、たちまちアプアプして苦しくなってしまうのかなぁと。

けれども、聖霊様は私たちの中にもいてくださいます。

私の中のおられる聖霊様が喜んで、自由に働かれるよう、私の心もまた、イエス様の十字架によってきれいにしてもらっていたいと思いました。

お祈りします。

「神様、私たちにイエス様の十字架の赦しによって、聖霊様を内に住まわせてくださることをありがとうございます。

聖霊様がいてくださらなければ、神様が聖書を通して何をいいたいのか、私にはわかりませんでした。

聖霊様が働いてくださらなければ、2000年前の十字架が自分のためと受けとることができませんでした。

聖霊様は、私の内に住まわり、優しく慰めとあわれみをもって、私の罪を示し、きよめてくださいますから、ありがとうございます。

教会が、私にとって居心地がいいばかりでないのは、私の場合、とても弱さを抱えているからかもしれません。

けれども、きよい聖霊様の流れの中に、憩い、喜び、楽しめる恵みをありがとうございます。

メダカのように、混ぜものがあるところでは生きにくいのかもしれませんが、あわれみの中で生かし続けてくださることを感謝します。

どうぞ、同じ聖霊様のきよい川で、私たちを憩わせ、楽しませ、喜ばせてください。

イエス様のお名前によって祈ります。

アーメン」

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2009年6月21日 (日)

不当なラバンに仕えた“ヤコブ”

叔父ラバンのもとで、ヤコブは苦しみながら20年間仕えました。

『私(ヤコブ)はこのこの20年間、あなた(ラバン)の家で過ごしました。14年間はあなたのふたりの娘たちのために、6年間はあなたの群れのために、あなたに仕えてきました。それなのに、あなたは幾度も私の報酬を変えたのです。

もし、私の父の神、アブラハムの神、イサクの恐れる方が、私についておられなかったなら、あなたはきっと何も持たせずに私を去らせたことでしょう。

神は私の悩みとこの手の苦労とを顧みられて、昨夜さばきをなさったのです。』旧約聖書 創世記31:41.42

兄エサウを差し置いて、父をだましたヤコブ。

自我が強く、狡猾だったヤコブは、叔父ラバンのもとで、20年間仕えることになる。

ラバンはヤコブの上をいく、ずるい人だった。

ヤコブが娘ラケルをお嫁にもらうため、7年間仕えたが、長女レアを与えられた。

ラケルのため、さらに7年間仕えた。

二人の妻のため、子どもの誕生に関して、ヤコブは苦労する。

また、ラバンは幾度もヤコブへの報酬を変えてきた。

ヤコブはラバンに対して不信感を抱いていた。

そんな中で、神様はヤコブに「生まれた国に戻りなさい。」と語られる。

ヤコブはすぐさま、ラバンに内緒で、家族たちを連れて出ていく。

そして、追いかけてきたラバンに、20年分の思いをヤコブは話す。

神様が、ラバンに途中で夢に現れ、「ヤコブと事の善悪を論じないように。」と話す。神様の介入である。

ヤコブは、そのことによって、無事、ラバンと別れていくことができた。

20年の月日は長い。しかし、自分の損得しか考えないようなラバンに対して、ヤコブは誠実に仕えた。

何度も、その偽りの態度に嫌気がさしたことだろうが、我慢した。

そんな中で、神様はともにいてくださり、ヤコブの財産も増やし、子どもたちもたくさん与え、祝福してくれた。

ヤコブが、ラバンに仕えている間、神様に祈った記事はないが、苦しい不当さを感じる中、ヤコブは神様に信頼することを学んでいったのだと思う。

だから、「あなたの生まれた国に帰りなさい。」と神様から言われたとき、ヤコブはすぐに行動に移した。

「神様がいなかったら、私は何もなかっただろう。神様が私の悩みとこの手の苦労を顧みられて、ラバンに介入した。」という告白に至る。

ラバンは最後まで、ずるかった。ミツパの協定においても、ヤコブを見張る…不信感を持ち、ヤコブの立てた石塚を自分の業績にした。

そんなラバンでのもとであったが、ヤコブがそこで、訓練され、神様を信頼するに至らせられた。

そんなラバンのもとで、ヤコブを祝福し、生活の中に介入された神様であった。

私たちも、この人がもっと誠実な人だったらなあとかと良く思う。しかし、神様がヤコブに約束されたように、苦しい中で私たちにも語ってくださるのである。

『見よ。わたしはあなたとともにあり、あなたがどこへ行っても、あなたを守り、あなたをこの地(神の約束の地)に連れ戻そう。わたしは、あなたに約束したことを成し遂げるまで、決してあなたを捨てない。』創世記28:15

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2009年6月20日 (土)

ノンクリスチャンの友へ

ノンクリスチャンの私の友人あてです。

『だれでも誘惑に会ったとき、神によって誘惑された、と言ってはいけません。神は悪に誘惑されることのない方であり、ご自分でだれを誘惑なさることもありません。

人はそれぞれ自分の欲に引かれ、おびき寄せられて、誘惑されるのです。

欲がはらむと罪を生み、罪が熟すると死を生みます。…

すべての良い贈り物、また、すべての完全な賜物は上(神)から来るのであって、光を造られた父(神)から下るのです。父には移り変わりや、移り行く影はありません。』新約聖書 ヤコブの手紙1:14~17

こんにちは。もし、私の友人が、この記事を読んでくれていたら、嬉しいです。

私は去年の7月から、このブログを始めました。私の友好関係はほぼ9割、ノンクリスチャンの方たちなので、その方たちのために始めました。

まわりの友人にも、ブログの名刺を配りまくりました。

ところが、この5月からかなり込み入ったキリスト教の話しになっています。

読んでくれているノンクリスチャンの方には、キリスト教実態に戸惑っているかなぁと思っていますf^_^;

もっと明るく楽しい話しだといいのですが…。

この前、久々ランチした友人からは、「クリスチャンって教会に言っている人ではなかったの?」と素朴な疑問をいただきました。

「イエス様を神様と信じて、その十字架と復活を私のためと信じる人だよ。」と説明しました。

今日も、メールで、「カルトというと新興宗教だけかと思ったけど、ちゃんとしたキリスト教でもカルトがあるのに驚き!!」とメールいただきました。なんか、教会を知らない人にはキリスト教の怖い部分を伝えているみたいですみませんm(_ _)m

でも、率直な感想は凄く嬉しいです。

カルト教会について、弁明させてもらいたいと思います。

神様は完全な方で、慰めに満ちた光なる方です。

でも、人間って、みんな弱いんですね。良いものを信じていても、その人にある弱さのゆえに、聖書とはかけ離れたところに行ってしまうこともあるのです。

クリスチャンでもそうです。愛なる神様に生かされているはずなのだけど、その本質からずれると、人を裁いたり、見下したり、違う世界に行ってしまうのです。

私自身もまた、間違いだらけの弱い人間なので、そのずれやすい人間の性質が良くわかります。

旧約聖書などには、正しい神様の前に、ひたすらずれていくイスラエルの民の歴史を通して、誰もがもつ人の弱さが書かれています。

聖書の素晴らしいところは、絵に書いた餅のような美しい抽象論が書かれてはいないことです。どうしようもない、人間の愚かさ、足りなさがなまなましく書かれてあります。

そんなどうしようもない人間に神様はどうやって救いの手を差しのべてくれたかが書かれてあります。

だから、綺麗ごとだけ言う教会は嘘っぱちかもしれません。(批判的ですみません)

一度、ノンクリスチャンに私の思いを伝えたいなぁと、常々思っていたので、書けて良かったです。

いつでも個人的に質問受け付けますよ♪

込み入った話しなのに読んでくれて、ありがとう。神様にある祝福を祈ります。

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“多く赦された者が多く愛する”

“悔い改め”とは、と考えました。

『すると、その町にひとりの罪深い女がいて、イエスが、パリサイ人の家で食卓についておられることを知り、香油(こうゆ)のはいった石膏(せっこう)のつぼを持って来て、泣きながら、イエスのうしろで御足をぬらし始め、髪の毛でぬぐい、御足に口づけして、香油を塗った。…

「…だからわたし(イエス)は言うのです。『この女の多くの罪は赦されています。というのは、彼女はよけい愛したからです。しかし少ししか赦されない者は、少ししか愛しません。」』新約聖書 ルカによる福音書7:36~50

聖書に出てくることばや、キリスト教用語と言われるものは、いろんな形で使われすぎて、その本来の持つ印象や意味合いが違ってくることがある。

最近、私は“悔い改め”ということばをよくブログで使う。これまでの私の信仰生活には、縁遠かったことばだ。

何故、縁遠かったというと、自分の罪や蒔いた種で、結果、神様から直接砕かれてしまうことを繰り返してきたので、“悔い改め”などということばを使う前に悔い改めにいたらせられた。

今は、“悔い改め”を待ち望んでいる。が、もっと、ふさわしいことばがあるといいかもしれない。

もし、“悔い改め”を日頃、誰かに強要されている人にとっては聞きたくないことばだと思う。

“悔い改め”は、人から言われてするものではない。聖霊様が私の深いところを探ってくださり、そこに光を照らされ、もともとあったものに気がつかされることだと思う。

私は、自分の弱さを神様からと人から赦してもらい、受け入れてもらったのだなぁと思ったとき、この“罪深い女”のことを思い出した。

彼女は世間体においては明らかに不道徳だったかもしれない。

しかし、そんな女を軽蔑するパリサイ人の心をイエス様は知っていた。

「彼女は多く赦されたから、多く愛しました。」と言われた。

正しいイエス様から見たら、目に見える不道徳も、パリサイ人の人を見下す心も同じ罪なのである。

ただ、違うのは、自分の内にあるものを認め赦されたか、気がつかずにいるかの違いなのである。

イエス様は自分の心に気がつかず、女を見下すパリサイ人、シモンに言われた。

『この女を見ましたか。わたしがこの家にはいって来たとき、あなたは足を洗う水をくれなかったが、この女は、涙でわたしの足をぬらし、髪の毛でぬぐってくれました。

あなたは口づけしてくれなかったが、この女は、わたしがはいって来たときから足に口づけしてやめませんでした。

あなたは、わたしの頭に油を塗ってくれなかったが、この女は、わたしの足に香油を塗ってくれたのです。』ルカ7:44~46

イエス様は、皆等しく赦されるべきものがあるが、その赦しを多く受け取ったものが、イエス様への愛の応答が違ってくることを話された。

してみると、“悔い改め”というと、なんとなく固いが、“多く赦され、多く愛するものとなるため、聖霊様、赦される罪を示してください”というのは、今の私の願いに合っているなぁと思った。

多く赦されたい思いすら、神様から来ているのを思う。この後も、“悔い改め”ということばを、使うかもしれないけど、このような意味合いで使いたいと思った。

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2009年6月19日 (金)

“カルト化教会の痛み”3・孤独な回復の道

カルト化教会を出た人たちは、そこからまた、孤独な道を歩みます。

『見よ。わたしはあなたとともにあり、あなたがどこへ行っても、あなたを守り、あなたをこの地に連れ戻そう。わたしは、あなたに約束したことを成し遂げるまで、決してあなたを捨てない。』旧約聖書 創世記28:15

私の友人は、10年程、カルト化していく教会に属していた。

そこを出たときは、いろんなコントロールから解けず、苦しんでいた。

心も信仰も回復するためのリハビリ期間は少なくとも3年位かかると、専門の方から言われた。

新しい健全な教会に通い始めたが、孤独であった。家庭で、親から虐待を受けた人は、そうでない人にいくら話しをしても理解されない。

同じように、特殊なところを通されたので、その苦しみは、同じ信仰のことであるのに、誰にも理解されない。

本には、「その牧師がおかしかったことを理解できなかったあなたが悪い。」と責められてしまうこともあると書かれていた。

いろんなコントロールがすぐ解けないので、その言動も奇異に見えるときがある。偏見や疎外感に苦しむ。

そのような人たちがどのような孤独をもって、感情があらわれるか、「信仰という名の虐待」の本から書き写す。もし、近くにそのような方がいたら、私たちは、その苦しみを理解しきれなくとも、寄り添い、共に祈るものでありたい。

「・自尊心を失う

・自分自身を失う
・自分が無力な人間であると感じる

・強い罪責感を感じる

・怒りと欲求不満を感じる(多くの時間と可能性を失ったので)

・恐怖と混乱を感じる

・マインド・コントロールされていたため、自分で考えて、決めることがなかなかできない

・だれかに依存したい、自分の代わりにだれかに決めてほしい

・キリスト教、教会、聖書、神に対して、強い反発や拒否を感じる(個人差がある)

・人に対して不信感を感じる(人を信じられない)」

###

神様、神様の尊いお名前を使って、人をマインド・コントロールし、人々に深いダメージを与えるカルト化教会の罪を赦してください。

神様、そこから出て、なお、苦しむ人たちを助けてください。

私たちは、その“信仰の虐待”された経験者ではありません。

本当に理解が足りなく、かえって突き放してしまうものであることを赦してください。

リハビリの道を歩んだ私の友人に、ときに私は冷たかったと思います。

彼女の苦しみを理解しようとしなかった私を赦してください。

その回復の道を歩んでいる人々たちに、神様、「わたしはあなたを捨てない」と語り続けてくださり、あなたとの麗しい関係を、主によって回復させてください。

その歩みを確かにしてくださり、弱いときも、守り導いてくださる主とともにありますようにしてください。

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“天からのはしご”(創28:12)

天からはしごがかけられ、私たちの思いを知ってもらい、神様が語ってくださることを感謝します。

『(ヤコブが)ある所に着いたとき、ちょうど日が沈んだので、そこで一夜を明かすことにした。彼はその所の石の一つを取り、それを枕にして、その場所で横になった。

そのうちに、彼は夢を見た。見よ。一つのはしごが地に向けて立てられている。その頂(いただき)は天に届き、見よ、神の使いたちが、そのはしごを上り下りしている。』旧約聖書 創世記28:11.12

ヤコブは一夜にして、命からがら、家を逃げるように出てきた。

母リベカに言われるまま、カランのおじさんのところに旅立つ。

これから自分はどうなっていくんだろうか…迫ってくる孤独と不安の中、ヤコブは、日が沈んだ場所で、寝ることにした。

すると、夢を見る。はしごが、はるかかなたから、地に向けて立てられている。

そして、神の使いたちが、そのはしごを上り、そして下っている。

この箇所は、私も大好きな箇所である。

悲しみや苦しみや孤独や不安、心配の中、祈りのことばも出てこないそんなうめきの中、神様は祈りというはしごを天から地に向けてかけてくださる。

そして、み使いたちは、私たちの祈りや思い、願いをはるかかなたの神様まで届けてくださる。

そしてみ使いは、その答えを地にいる私たちまで持ってきてくれる。

“祈り”…地上の中が混沌としていても、いつも天は開かれていて、神様は私たちの思いを聞いてくださる。

なんと慰めに満ちたことか。

神様ご自身は、ヤコブのすべてを知っていた。そして、その心の深いところに語られた。

「私はあなたとともにあり、どこへ行っても、あなたを守りあなたをこの地に連れ戻そう。わたしは、あなたに約束したことを成し遂げるまで、決してあなたを捨てない。」

不安と孤独の中、神様が、ともにおられ、守り、見捨てないと語ってくださったのである。

眠りからさめてヤコブは言った。「まことに主がこのところにおられるのに、私はそれを知らなかった。」

神様がともにいてくれることをヤコブは知った。このとき、ヤコブは、神様を個人的な関係の中で知った。

“祈り”それは、願いを聞いてもらう手段ではない。

それは、神様と私たちの語らう場所であり、神様を私が知る場所であり、神様をほめたたえる場所である。

イエス様は、私たちのために、天におられる神様と私のかけ橋となってくださった。

私は悲しいとき、泣きながら神様に話しを聞いてもらう。

嬉しいとき、笑いながら神様と話しをする。

悩むとき、解決をもっている神様のところへいく。

神様との語らいは何よりも慰めであり、神様の語りかけが私を生かしてくれる。

###

神様、あなたから私たちに語りかけてくださる慰めを思います。

神様は、ヤコブの心のうちをご存じだったように、私たちの思いを知り、励ましてくださいますからありがとうございます。

私たちの地上において、あなたを知れる幸いを与えてくださり、ありがとうございます。

今、神様との語らいを必要とする人に、天からのはしごをかけてくださり、語ってください。あなたを現してください。

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2009年6月18日 (木)

“カルト化教会にいる人への祈り”

カルト化教会にいて苦しむ人々、そこを出て回復の道を歩いている人々のため、祈ります。

『主のもとに来なさい。主は、人には捨てられたが、神の目には、選ばれた、尊い、生ける石です。

「見よ。わたしはシオンに、選ばれた石、尊い礎石を置く。

彼に信頼する者は、決して失望させられることがない。」』新約聖書 第1ペテロの手紙2:4.6

「天のお父さん、イエス様は、悲しみのところに喜びを、嘆きのところに希望をもたらすために来られました。

けれども、人間の支配欲、顕示欲、そういったものが、神の名前を使って、全く違うことをし、人々を苦しめています。

人間のこの限りない欲望を赦してください。

人々は、神様に喜ばれる熱心で、今、神様以外のものにコントロールされ、苦しんでいます。

どうか、神の名前を使っても、そこに安心や喜びや慰めやあわれみといった良いものがなかったら、それは、イエス様の世界ではないことを知ることができますように助けてください。

巧みにコントロールされているので、苦しいことすら、祝福のためのサタンの攻撃だと言われます。

教会から出たら、祝福されず、呪われると言って、脅されます。

苦しいのに、恐れのため、そこから出ることが出来ません。

パソコンやこのようなブログからも正しい情報を得ていけますよう助けてください。

イエス様の世界は恐れで縛られる世界ではありません。

本当のイエス様のもとに導いてください。

まだ、出られた方たちは、たくさんのダメージで、いろんなことが判断できなくなっています。

時間がかかっても、ゆっくりと受け入れられる環境で、自分を取り戻していけますように。

カルト教会にいた人が裁かれませんように。彼らも犠牲者だからです。

コントロールが解けずに、変なことを言っても、受け入れられる中で回復するので、そのような環境を与えてください。

イエス様の楽しみと喜び、自由と慰めが満ちますように。

イエス様のもとには、決して失望させられないことを感謝します。

人間的な欲望の組織を打ち砕き、教会に、人々にイエス様がきてくださいますよう祈ります。

イエス様のお名前によって祈ります。アーメン。」

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“カルト化教会の痛み”2

カルト化教会の特徴です。

『しかし、あなたには非難するべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった。

それで、あなたは、どこから落ちたかを思い出し、悔い改めて、初めの行いをしなさい。

もしそうでなく、悔い改めることをしないならば、わたしは、あなたのところに行って、あなたの燭台(しょくだい)をその置かれた所から取りはずしてしまおう。』新約聖書 黙示録2:4.5

姉が通っていた教会は、真面目な信仰を持った人たちの素朴な誠実な教会だった。

姉は今でも、信仰の“いろは”はその教会で教えてもらい、養われたと感謝している。

そんな小さな教会だったが、牧師婦人の預言が始まり、変な雰囲気になっていった。

無駄口を慎むとか、横の信徒どうしの親しい交流を避けるとか。

その方は、一にも二にも、謙遜が大事と言っていたらしい。

聖書に聞いていき、答えがないと動かない…そんな傾向はあったが、何故、あの方がカルト化の道をいったのか、とても不思議に思う。

カルト化教会の特徴をパスカル・ズィヴィーは、「“信仰 ”という名の虐待」の本で次のように言う。

「“信仰”という名の虐待」のメカニズムとして5つある。

1、恐怖、脅し

信者たちを支配するために、恐怖、罪責感と脅しを使います。どんな命令でも、信者たちは、牧師に従わなければなりません。…少しずつ、牧師や教会に対して批判する能力がなくなり…最終的に、牧師と教会に全く依存するようになってしまいます。依存すると信者たちは、牧師と教会の精神的な支えを失うことに対する恐怖が大きくなる。自分で、判断することが難しくなる。

2、愛のシャワー

牧師に出会った時の印象は、それまで出会ったこともないようなカリスマ的存在で、霊的で、優しく、情け深く、理解のある人物と思います。…破壊的カルトの中でよく使われる「ラブ・ボミング」(愛の爆撃)、あるいは「ラブ・シャワー」(愛のシャワー)というテクニック。好意の雨をふりそそぎ、ほめます。

3、罪責感

愛のシャワーを浴びた人たちは強い義理を感じるので、本心を伝えることが難しくなります。質問や批判に対しては、罪責感を起こさせます。

4、告白の儀式

信者の人格を無視し、牧師、教会の意向に沿わない思想、感情、行動をすべて告白しなければならないと要求し、個人のプライバシーをすべて奪います。…心が解放されるよりも、自責感に苦しみ、無意識に合わせなくてはならないと感じるようになります。

5、人を奴隷化する権威主義的構造

人間関係がピラミッド型になっています。横の関係が全く許されず、縦のつながりのみ重視します。信者は牧師の許可がなければ、どんなことも決めることができません。密告があり、管理されます。福音のため、ビジョンのためということがあります。

何故、イエス様の愛で始まったことが、人間の欲望の統率になるのだろうか。

まさに、“初めの愛”イエス様ご自身がいなくなったところに悲劇が起こるような気がする。

神様、今もカルト教会は存在し、多くの真面目なクリスチャンが神のためと、コントロールされ、苦しんでいます。

イエス様からくるものは、赦しとあわれみ、癒しと自由、安心と喜びです。

イエス様自身がいる教会、人々へと変えてください。

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“墓にはいないイエス様”

よみがえられたイエス様とともにあることを思います。

『恐れてはいけません。あなたがたが十字架につけられたイエスを捜しているのを、私は知っています。

ここにはおられません。前から言っておられたように、よみがえられたからです。

来て、納めてあった場所を見てごらんなさい。』新約聖書 マタイの福音書28:5.6

私は、先に証したが、大学の同窓会で、一連の私のうちにあるものを見せられ、神様に悔い改めるに至った。

が、何故か2日位、私の中で“恥ずかしい”思いが取り去ることができなかった。

重く心の中に、“恥ずかしい自分”が沈んでいるような感じだった。

昨日の朝、なんかすっきりとした。ただ、ただ、神様を礼拝した。

イエス様は十字架で、私の罪のために、刑罰を受けて、死なれた。

そして、3日目によみがえられた。いきかえられた。

マリアたちが墓に、イエス様の死なれた体を見に行くと、そこにイエス様はおられなかった。

よみがえられた。

「イエス様はよみがえられました。この墓にはおられません。」(マルコ16:6)とみ使いは言った。

そして、この十字架にかけられ、3日目によみがえられたイエス様を信じるものは、この死とよみがえりを体験する。

私は深いところで、“恥ずかしい”と感じる罪を十字架につけ、そこに共に死んだ。

そして、イエス様のよみがえりのように、新しいいのちがよみがえってきた。

今、私たちは、よみがえられたイエス様とともにいる。

その私の内にある霊的な世界においては、古い人に死に、イエス様のいのちをいただいて生き返った。

私の古い人は死んだか、大丈夫か…墓場にいって確認する必要はないのである。

この日々、イエス様の復活のいのちにあることを感謝したい。

『私は、キリストとその復活の力を知り、またキリストの苦しみにあずかることも知って、キリストの死と同じ状態になり、どうにかして、死者の中から復活に達したいのです。』ピリピ3:10.11

###

天のお父さん、私たちは、イエス様の十字架の死にあずかり、日々、古い人に死んで、新しいいのちに生きるものとされていることをありがとうございます。

古い自分は、イエス様の十字架で死にました。

死んだのを、わざわざ墓に戻って見に行くことがありませんように。

そして新しいいのちを与えられたことを感謝し、そのいのちに生きるものとしてください。

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2009年6月17日 (水)

エサウの“殺人未遂事件”(創27)

人間の弱さを越えて、神様の愛とその選びと計画は変わらないことを思います。

『エサウは父のことばを聞くと、大声で泣き叫び、ひどく痛み悲しんで父に言った。「私を、お父さん、私も祝福してください。」

父は言った。「お前の弟(ヤコブ)が来て、だましたのだ。そしておまえの祝福を横取りしてしまったのだ。」

エサウは言った。「彼の名がヤコブというのも、このためか。二度までも私を押しのけてしまって。私の長子の権利を奪い取り、今また、私の祝福を奪い取ってしまった。」…

エサウは、父がヤコブを祝福したあの祝福のことでヤコブを恨んだ。それでエサウは心の中で言った。「父の喪の日も近づいている。そのとき、弟ヤコブを殺してやろう。』旧約聖書 創世記27章

この27章を読むとき、一人一人の人間の弱さが浮き彫りになる。

父イサクが長男のエサウを、自分が死ぬ前に祝福しようとした。

それを聞いた母リベカが、偏愛している弟ヤコブに祝福がいくように仕向ける。

ヤコブもその話しにのっていく。

騙されたエサウは、ヤコブを恨み、殺すことを計画する。

父イサクはもう何もできない。

母リベカは、それを知り、ヤコブのおじさんのラバンのところに行かせる。

一時のつもりだったが、ヤコブは長い間、帰ることはできなくなった。

この誰もが狂ってしまっているような、だましとうそと、殺人未遂のような混乱が起こる中に、神様の恵みはあるか。

人間は過ちを犯してしまい、時にはとんでもないことに巻き込まれていく。

しかし、“人間の願いや努力によるのではなく、あわれんでくださる神による選びの確かさ”(ロマ9:16)は、こんな悲惨な現状にあって、ヤコブに変わらずにあった。

私たちの生活の中にあっても、「神様、あなたを信じているのに、どうしてこんなことが起こるのですか。」と問いたくなるときがある。

「私が悪いんですか。」「あの人のせいですか。」「神様の試練ですか。」と、ぐるぐると答えにならない問いが頭の中をめぐる。

何がなんだかわからない、私たちの中に、解決の糸口が見つからない…そんなときも、神様は変わらず、私たちを選び、私たちを愛し、私たちへの祝福の計画を立てている。

イエス様の十字架で赦された事実は揺らぐことはない。私たちは神様の子どもであり続ける。

ヤコブのように、人をだまし、憎しみを買うような人間であっても、神様の選びと計画は変わらないことに慰められる。

###

神様、生活している中に、混乱がおき、危機状態が起きたときも、変わらずに神様の愛が私たちに対してあることをありがとうございます。

私がどんなに足りないもので、過ちを犯したとしても、イエス様の十字架で赦され、神様の祝福へと導かれることをありがとうございます。

混沌とした中にあっても、あわれみの神様を見続けられるようにしてください。

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2009年6月16日 (火)

“同情されるイエス様”(祈り)

私は同情より、聖書にある正論で人を苦しめた者であったことを思わされました。

『私たちの大祭司(イエス)は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。』新約聖書 ヘブル人への手紙4:14

私はとても、心砕かれて自分の弱さを教えられているときは、人にも優しくなれているかもしれません。

一方、私が調子が良く、すべてがうまく行っているかのような時は、人に同情する心が少なくなるかもしれません。

自分のイエス様にある歩みを見るとき、祈りも癒しも赦すことも、何もかも与えられたものなのに、「あなたもこうしなさい。」と、その心の痛みに寄り添うことなく、言ってきた者だったか、少し教えられました。

神様を信じている人たちの世界で、つらいのは、正しい答えが書かれてあることです。

その正しい答え(=正論)は言われてしまうと、「ごもっとも」としか言えません。けれども、人から言われた正論は、罪責感を強めたり、恥ずかしい思いを強めたり、みじめな思いに落ち込んだりさせるだけです。

病院に行って、あなたの悪い患部はここだと、傷口を開かれて、血を流して終わりです。癒す手立てまでしないで、終わらせるというのは、聖書の、恵みの神様の世界ではありません。

けれども、きっと、同じような聖書の正論で、私はバサバサと人の心を切り、痛ませたまま、私は満足して、帰らせてきたのだと思います。

お祈りします。

「天のお父さん、イエス様は、私たちの苦しみをすべて知っておられ、私たちの弱さに同情されるお方です。

私たちの罪の結果の苦しみですら、「誰もあなたを裁きません。私があなたの罪の責任を全部請け負うから。安心して帰りなさい。」と言われる方です。

それなのに、私は、聖書にある正しいことばで、相手を同情せず、その心を聞かず、切りつけてきた者であることを教えられました。

それは相手に癒しではなく、痛みだけを残します。

この同情できない心を赦してください。

聖書にどう正しいことが書いてあり、どうするかは聖霊様が、慰めの中で、案内してくださいます。

私たちは互いが、同じ弱さを持つものとして、同情し合うものとさせてください。

心の痛みが理解できないときでも、祈るものとしてください。

イエス様のところには、裁きでなく、その互いの弱さを受け入れ合うものとしてください。

私の力ではできませんから、受け入れる心、同じように私たちは弱いものであることを教えてください。

イエス様のもとで、私たちが同情しあい、理解しあい、受け入れあい、赦しあうことが広がりますように。

そして、まわりの人々が、この世にないイエス様の愛を知ることができますように導いてください。

イエス様のお名前で、お祈りします。

アーメン。」

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ずる賢い“ヤコブ”

神様の選びの確かさとはどういうものか、考えました。

『さて、ヤコブが煮物を煮ているとき、エサウが飢え疲れて野から帰って来た。

エサウはヤコブに言った。「どうか、その赤いのを…私に食べさせてくれ。私は飢え疲れているのだから。」…

するとヤコブは、「今すぐ、あなたの長子の権利を私に売りなさい。」と言った。

エサウは、「見てくれ。死にそうなのだ。長子の権利など、今の私に何になろう。」と言った。

それでヤコブは「まず、私に誓いなさい。」と言ったので、エサウはヤコブに誓った。こうして彼の長子の権利をヤコブに売った。』旧約聖書 創世記25:29~33

“長子の権利”とは長男がほかの兄弟の2倍のものを相続し、分配にあずかること。(申命記21:17)

それは、イスラエルにおいて、初子(ういご)が、神様に属するものとされ、特別価値があると考えられたからだそうである。

ヤコブの性格は、ずる賢く、抜け目がなかった。自我が強く、また、人をだますものであった。

自我が強いというところで、私はヤコブを身近に感じている。私もまた、自我の強い者だったから。

彼は、兄から“長子の権利”を買った。エサウは今のお腹を満たしたいため、目の前の食べ物と“長子の権利”を取り換え、売ってしまった。

『こうしてエサウは、長子の権利を軽蔑したのである。』創世記25:34

エサウは、霊的な価値にうとかった。目の前のもの、物質的なもの、お腹を満たすものを選んだ。

一方、ヤコブは、霊的なものに目が向いていた。

ここで、ヤコブのように、霊的なものを大切にしよう、そして、神様の祝福にあずかろうと言うのは、簡単である。

が、私の中でゆきずまってしまう。私の中で、先のブログに書いた“神様の選びの確かさ”から言うと、何を選択したか、何を大切にしたかを越えて、ヤコブは神様の祝福を受け継ぐように選ばれていた。

あるブログで、神様の権能(権利を持って行使できる能力)か、人間の責任か…どちらも100%だとかあったように思う。

難しいところだか、私は神様の権能が100%だと思う。人間は間違いだらけで、その“責任”を問われても、“責任”を果たせない者だ。

私がこれまでの歩み、神様に対して“責任”を果たしてきたかというと、皆無のような気がする。

ただ、神様のあわれみで、神様の一方的な100%の権能により、ここまで歩ませてもらった気がする。

そして、私が果たせているものはない、0%なものだと知るとき、私たちはただ神様に応答して、感謝していけるような気がする。

ヤコブは、人間的に兄エサウの弱さ(近視眼的)に漬け込んで、長子の権利を買った。

ヤコブに神様にかなうものは0%だった。それでも、神様の選びの確かさにより、神様は選んだとおりにヤコブを祝福するのである。神様のあわれみを思う。

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2009年6月15日 (月)

捨てさせてくれた神様、そして友人

私が手放すものを教えられました。

『キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。

ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことはせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。

そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。』新約聖書 第1ペテロ2:22~24

私は自分がまだ、握っているものを見せられました。

一人の友人が、私の間違いを指摘し、もう一人の友人が、私の“捨てる自由”への願いを懸命に、自分のことのように、もう一人の友人に説明してくれていました。

二人はノンクリスチャンであるのに、彼女たちを通して、私は弱さをはっきり認め、慰めのイエス様に持っていき癒されました。

不思議な体験です。まるで、二人が聖霊様(神の導き、弁護の霊)であるかのような役割をしていてくれているのだなぁと思いました。

なんといっても、“捨てる願い”を一言で理解してくれた友人に驚きました。

私が彼女の中にある痛みや悲しみに近づいたときでした。“捨てられずに苦しむ”そんな苦しみを彼女はしているんだと教えられました。

感謝してお祈りします。

「天のお父さん、今回、私は、自分はイエス様以外、何も無い者だと認めて生きていくために、特別な場所、友人たちを備えてくださり、ありがとうございます。

私の中に、私は何も無いことを、仕事も持っておらず、社会的な地位も名誉もなく、ポジションも肩書きもないことを、はっきり知るために、備えてくださった様々なことをありがとうございます。

私の中で、まわりが福祉の仕事の話しをしているとき、疎外感やひけめを感じた自分に驚きました。

私は、主婦で、何の肩書きもありませんが、イエス様にあって自分の今を誇りに思っていたつもりだからです。

イエス様は、神様であられるのに、その姿は、みすぼらしく、人々が顔をそむける程でした。

神であられたのに、私のために、すべてを捨ててくれました。

地位、名誉、肩書きの誘惑は、私にとって無縁のものと思っていました。ですから、驚きました。

が、友人たちを通して私の捨てるものをはっきり教えられ、感謝します。

友人に帰りがけ、私は愚痴をいいました。

「私は、仕事もしていないし、会の始めの挨拶で、「皆さん、福祉従事者としての苦労を分かち会いましょうと言われたとき、仕事していない私にはきつかったよ。」というと、Kは言いました。

「そうなんだ。」

たった一言だけど、そう言ってくれました。

私の側にある問題を見せてくれた友人たち、受け止めてくれた友人、車中の二人、コメントくれた友人、…たくさんの友人を通して、癒しを受けとれましたから、ありがとうございます。

私は「自分を神のしもべとして推薦します。」というところに立たせてください。

私の握っていたものは、小さいものではありません。

これから、その問題や誘惑がきたときに、きちんと解決しているための取り扱いと信じます。

握っているものを認め、告白し、イエス様に癒してもらい、手放せたことを信じてありがとうございます。

環境を備えてくれ、気づきに至らせてくれた友人たちに感謝します。

愛しい友人にも、この捨てる自由が与えられますように。

イエス様のお名前によって祈ります。アーメン。」

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2009年6月14日 (日)

“捨てる自由”

日曜日の朝、愛されています人々の祝福を願いつつ、私の教えられた分かち合いをします。

『自分のいのちを自分のものとした者はそれを失い、わたし(イエス)のために自分のいのちを失った者は、それを自分のものとします。』新約聖書 マタイの福音書10:39

おはようございます。

今日もそれぞれのところにある日曜日の朝であることを思います。

神様は、この地に満ちておられ、今、教会の外におられる方も、等しく神様は愛しておられることを思います。

この聖書のことばから、最近、私が気がつかされたお話しをしたいと思います。

“自分を捨てる”という発想は、神様を信じる人以外には、あまりありません。

“自分を捨て、神様に従う”ということを意味します。

もっと違ういい方をすると、“自分を捨てた分、神様のいのちが私に満ちる”ということなのかもしれません。

私は、自分の考えや思い、プライドや固執するものをどれだけ捨てて、神様ご自身にあるか…自分を見るのは、難しいです。

私は、ある友人から「あなたの信仰変だよ。」と言われ、とても“傷つきました”。

そして、考えたのです。「信仰だけは、否定されるのはきついから、彼女の前ではもう分かち合わずに黙っていよう。」

けれども、最近、「私の守る信仰とは何でしょうか」と思いました。

イエス様は、私のための十字架のため、いのちまでも捨てられたのに、人を理解することを妨げる私の守る信仰とは何なのかと思わされました。

「“人の心の理解を妨げる信仰”を捨てます。ただ、イエス様とともにおらせてください。」と祈りました。

すると、不思議と信仰を否定されても、“傷つかない”自分を見ました。

何かを自分の中に持っているということは、それを守ろうとするけれど、何もないと守る必要がないことを教えられました。

今、大学の同窓会に来ていますが、福祉の大学なので、皆さんの多くが、卒業されて、その関係の仕事に従事されています。その中で自分は何の仕事もしていないひけめのようなものを見せられました。

この朝にそのことを静かに思うとき、私の中に守ろうとしているものが、まだまだたくさんあるのだなぁと思いました。

“自分のいのちを失う”“自分自身を無くす”ものに与えられる“イエス様とともにあるいのちの喜び”を求めていきたいと思いました。

###

天のお父さん、私はかなりのものを捨てたと思いつつ、まだまだたくさん捨てられずにあるものがあるのを知りました。

捨てた後の自由と、神様にある喜びに満たしてください。

自分を守るのではなく、イエス様を愛する心をください。

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赤いハイヒール

同窓会で皆が私との思い出話を話してくれて、改めて自分の昔の姿が浮き彫りにされた感じです。

『泣くのに時があり、ほほえむのに時がある。

嘆くのに時があり、踊るのに時がある。…

神のなさることは、すべて時にかなって美しい。』旧約聖書 伝道者の書3:4.11

今、大学の同窓会で、仙台の温泉地にいる。

大学時代は自分のことしか考えられなかった。この30年ぶりの再会で、学友との新しい出会いにしたいと期待してきた。

サークルネームが“セバ”なので、「おー、セバ!懐かしいなぁ。」と声をかけてもらうが誰かあまり思い出せない人もいる。いかに、自分しかなかったかという感じである。

1人の友人が言った。「セバはよ、ある日、突然、エナメルの赤いハイヒールを履いて、大学に来たんだ。それで、俺は、どうしたんだって聞くとよ。“自分が変わりたいんだ!”って言ったんだ。」

私は、スカートは一切履かず、ズボンにTシャツの飾り気のない格好ばかりしていた。そこに、赤いエナメルのハイヒール…!?我ながら、ちょっとビックリ…。(本人覚えていない。)

「そうなんだ。セバは何かもがいていて、とりあえず、外側から変えようとしてるんだ、って俺は思った。」

すると、近くにいた友人がすかさず、「お前のことだ。外側変えても、中から変えないとダメだ位言ったんだろう。」

「そうかもな。」と話していた。私はあの頃、何より、変わりたかったんだなぁと思った。赤いハイヒールが良かったかどうかは別として、あの頃の虚しく漂う自分を思い出した。

また、ある友人が「セバさ、大学中退したあと、私、セバに会いに東京まで言ったんだよ。覚えてる?どうして会いに行ったか覚えていないけど、すごく心配だったのかも。」あまり、記憶にないが、心配してくれた友がいたのを改めて、知った。

極めつけが、「俺、東京のセバのところに遊びに行く途中、猫が道路でひかれたのを見たんだよ。その話しをセバに会ってしようと思ったんだ。そしたら、セバは、なんだか溢れる思いで、キリスト教の話しをしてくるんで、ひたすら聞いていて、猫の衝撃的な話しできなかったんだよ。」と言われた。そんなに余裕ない自分だったんだなぁと思った。

友人たちとの新しい再会…と楽しみにしていたが、みんな、私との思い出話しをそれぞれにしてくれた。

そして、過去にいた私は、やっぱり友たちのことより、自分のことでいっぱいで、人の優しさとか、心を聞けない悩める者だった。

改めて自分がどんな人間だったか、教えられたのと、いつも周りに優しい友人たちがいたことを確認させられた。

関東会も出来て、再会の約束をした。

朝まで話そうと、隣の部屋は、まだ、にぎわっている。

かつて、私の中で、心のセンサーが壊れていて、大切な人が隣にいても、いないかの如く、自分しかなかった。

関係作りをやり直せるチャンスを与えてもらって、心から感謝している。

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2009年6月13日 (土)

“神の選びの確かさ”

“神様の選びの確かさ”を教えられた分かち合いです。

『その(リベカ)の子どもたちは、まだ生まれておらず、善も悪も行わないうちに、神の選びの確かさが、行いにはよらず、召してくださる方によるようにと、「兄は弟に仕える。」と彼女に告げられたのです。…

神はモーセに、「わたしは自分のあわれむ者をあわれみ、自分のいつくしむ者をいつくしむ。」と言われました。

したがって、事は人間の願いや努力によるのではなく、あわれんでくださる神によるのです。』新約聖書 ローマ人の手紙9:11~16

4年前、NHKの「選民ユダヤ人のガサ追放」という番組を見た。衝撃を受けた。そして、この聖書の箇所の意味が深く理解できたような気がした。

世界中に散らされたユダヤ人は、旧約聖書にある、自分たちこそ、神の選びの民だということに誇りをもち、どこにいても、その信仰を継承してきた。

あるユダヤ人が、イスラエルこそ私たちの地だと約束を信じて、過去のすべてを捨てて戻ってくる。

しかし、政治情勢の厳しい中、彼らはそこから追い出される。

それでもなお、聖書のことばを信じて言う。「聖書には、私たちにこそ、この地を与えると神は約束されているのです。私はこれを信じます。」

命をかけて、生活のすべてをかけて神様を信じる姿がそこにあった。

私は、神様と出会う前、空しさと孤独で、何かを求めていた。そして、生かしてくださる神様に出会った。

私は神様によって見つけてもらったと言いつつ、心の奥底で、他の人より求める気持ちが強かったから信仰をもてたと、どこかで自負していた。

ところが、そのユダヤ人の方の神様を信じる気持ちは、半端ではない。全生活をなげうっても、聖書の約束を信じてイスラエルに戻ってきた。そして、どんな厳しい現状でも、なお信じている。

しかし、イエス様をまだ見い出していない。

“事は人間の願いや努力によらず…”とあるが、私の中に、いかに“願いや努力”によって神様の事が成ると思っていたかを見せられた。

「兄エサウは弟ヤコブに仕える」ということが、まだ生まれる前から、善も悪も行わないうちに、“神の選びの計画の確かさ”が、行いによらず、ただ神様によって決まっていたと、聖書にある。

人間側にはその選ばれる理由はひとつもなく、神様の選んだということだけがすべての理由だという。

前はこの箇所を読んで、何か不公平感をもっていた。私たちは何をしても、自分には選択権がないのかと。

しかし、神様は滅びゆくものを、ただ神様のあわれみで選んでくださったのだ。

“神様の選びの計画の確かさ”、それはまったく私の側に選ばれる理由はないのに“神様のあわれみ”という理由で選ばれたということを知った。

神様の深いあわれみの中で、揺らがない選ばれた者としてある恵み、心から感謝する。

そして、ローマ11章では、神様はイスラエルの民を選ばれたことは、無効となっていないという。

それは、異邦人の救いのためで、一時的であることが書かれている。

神様に感謝します。

###

神様、私たちの神様の選びが、神様によって成り立っているので、揺らがないことをありがとうございます。

私が何か間違ってしまっても、それでも変わらず、選ばれていることをありがとうございます。

この“選びの確かさ”の神様のあわれみの中にいこわせてください。

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2009年6月12日 (金)

“忘れない神”

神様は、私たちを決して忘れない…そのようなお方であることを感謝します。

『しかし、シオンは言った。「主は私を見捨てた。主は私を忘れた。」と。

「女が自分の乳飲み子を忘れようか。自分の胎の子をあわれまないだろうか。たとい、女たちが忘れても、このわたし(神)はあなたを忘れない。

見よ。わたしは手のひらに、あなたを刻んだ。…

あなたの子どもたちは急いで来る。…目を上げて、あたりを見回せ。彼はみな集まって、あなたのところに来る。』旧約聖書 イザヤ書49:14~18

明日は、大学時代の同窓会みたいなのがあって、仙台に一泊旅行に行く。クリスチャンになって、初めてのこのような旅行である。

その集まりは、新入生歓迎会実行委員会のメンバーらしい。30年近く前のこと、大学中退した私は、ほぼ皆と絶縁状態だった。

たった一人年賀状のやりとりをしていた友人を通して、見つけて貰った。

仙台に住む人たちが中心になって連絡を取ってくれた。彼らも30年ほどの前の名簿しかないのに、一人一人たぐっていくように人探しをしてくれ、私も同窓会メンバーに入れてもらえた。

そのご苦労を思うと共に、思いがけない再会に胸が弾む。

学生時代はとにかく孤独と虚しさがあり、楽しく好き放題のことをしていたが、本当の意味で“生きる”ことをしていなかった。

タイムマシンのように30年前に戻って、再会する友人たちを祈っていける関係がまた始まることがとても嬉しい。神様の計らいを感じる。

神様は、私たち一人一人を決して忘れていない。

たとえ、自分がすべての人に忘れられているようでも、神様は、私たちを決して忘れない。

母親が自分が産んだ赤ん坊を忘れることがあるだろうか。

万一、母親が乳飲み子を忘れたとしても、神様はけっして忘れないと言われる。

神様は、恋人のように、私たちの名前を、手のひらに刻んで、いつも覚えている。

一時たりとも忘れることなく、熱く思い続けている。

神様はイザヤを通して、私たちにそう言っている。

このねたむほどに、私たちの心を神様のところに向けてほしいと願っている神様は、私たちに語りかけてくださる。

この神様との親しい交流が始まるよう、また、いつもそうあり続けるよう祈ります。

###

神様、あなたは私を見捨ててしまいましたか。

神様、あなたは私を忘れてしまったのですか。

そんな思いが湧いてきても、神様、あなたは私を何があっても決して忘れないと言ってくださることをありがとうございます。

イエス様の身代わりにするほどに、私を熱く思い続けてくださることをありがとうございます。

あなたの愛に応えられるように、今、私の心をイエス様の血潮できよめ、うるわしいあなたの愛のシャワーの中に入れてください。

あなたを求めます。

あなただけを求めます。

あなたの思いを受け取れる心にしてください。

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『蟹工船』と“神様”

『蟹工船』(かにこうせん)と神様…変なタイトルですが、昨日、祈らされた祈りです。

『わたし(神)は、エジプトにいるわたしの民の悩みを確かに見、追い使う者の前の彼らの叫びを聞いた。わたしは痛みを知っている。

わたしが下って来たのは、彼らをエジプトの手から救い出し、その地から、広い良い地、乳と蜜の流れる地、カナン人、ヘテ人、エモリ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人のいる所に、彼らを上らせるためだ。

見よ。今こそ、イスラエル人の叫びはわたしに届いた。わたしはまた、エジプトが彼らをしいたげているそのしいたげを見た。』旧約聖書 出エジプト記3:7~9

昨日、市のボランティア先で―『蟹工船』と現代社会―という講演を思いがけなく聞くことができた。講師は浜林正夫氏(一橋大学名誉教授)である。

小林多喜二著者の『蟹工船』が、今、若者に読まれているというのは、テレビで見て知っていた。

私は読んだことがない。が、今回の講演で、どんな内容なのか、とても詳しく教えてもらった。

大正10年から、蟹工船は始まる。蟹を取って、船の中で缶詰をつくる、つまり漁業と工場が船の中に一つとなっている。

著者小林多喜二は、蟹工船で行われている漁夫の劣悪きわまりない労働実態を“漁夫虐待事件”として2年に渡って調査し、やがて小説にしていく。

労働者である漁夫たちを人間的に取り扱わず、暴力、餓死、病死させた実話をもとに書かれた。

漁夫たちは虐待を受けながらも、団結して、抵抗していくそのプロセスが描かれているとのことだった。

そして、『蟹工船』で行われたようなことは、日本の歴史の中で、朝鮮人強制連行、中国人強制連行などで繰り返されたと話されていた。

私が最も心揺さぶられたのは、“現代の日本社会に『蟹工船』的状況はある―という話しである。

格差社会、派遣切り、最後のセーフネットのはずの生活保護まで人々を守れていない。あとは、犯罪を犯して、刑務所に行くか、死ぬしかない…そんな現状があると話された。

こういう話しを聞くと、「神様、助けを必要とする人たちを助けてください!」と私の中の眠っているものが心を揺さぶる。

豊かな日本と言われる中で、うつ病になったり、自殺したり、失業に途方にくれている人たちがいる。

この講演者は最後に、『蟹工船』と現代は同じなのか…かつて、同じ船の中にあった“団結”が、今は無くなった。“人間のつながり”をどうやって回復していくのかが課題である…とまとめていた。

帰り道、自転車に乗って、祈りながら帰ってきた。

「神様、あなたはイスラエルの民をエジプトから救出した歴史に働かれる神様です。

今の日本の現状を神様はご存じです。

今、苦しむ者たちの叫びを聞いてくださり、神様のお名前によって、その権能によって、彼らを苦しみから救いだしてください。

今の私に日本が神様によって変えられていく幻はありませんが、この日本を変えてくださるのは神様しかいません。

神様、助けてください。」

家に帰り、一日外に出ていたので、うたた寝をした。夢を見た。サラリーマン風のワイシャツを着ているたくさんの男性たちが、一斉に祈っている夢だった。神様の幻(ビィジョン)だろうか。

神様、遣わされた場所で、私たちが祈りを一つとできますように。

このつながりのなくなった社会で、イエス様にあるつながりのくすしいことを表してください。

私自身は、自分のリバイバル(信仰覚醒)のために、悔い改めにもぐっていきます。

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2009年6月11日 (木)

“主が備えてくださる”(アドナイ・イルエ)

“備えてくださる神様”を思いました。

『神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。

それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。』新約聖書 ヨハネの福音書3:16

アブラハムは愛する我が子を、全焼のいけにえとして、神様にささげるように言われた。

アブラハムにとって、イサクは何にも変えがたい存在だったが、神様に従った。

神様は、同じように我が愛する子イエス様を私たちの罪のあがないのためのいけにえとして、殺す計画をされた。

それは、そのイエス様のいのちとひきかえに、私たちの罪が赦され、私たちが神様との関係が回復するためだった。

アブラハムのように、神様も苦悩された。

アブラハムは、その“神様を恐れる心”を神様に知られ、イサクの代わりに雄羊を備えられた。

アブラハムは、モリヤの地にあるその場所の山を“アドナイ・イルエ”と名付けた。

“主(神)が備えてくださる”という告白だった。

神様は、私たちのために備えてくださった。

神様は、私たちが滅びることを望まず、その永遠のいのち、今、この地上にあっても神様とともにあるいのちに生かすため、ひとり子イエス様を十字架にかけられる備えをされた。

そして、そのことは成った。

愛するひとり子イエス様のいのちを代わりとするほどに、私たちを愛してくださった神様は、今日も私の最善を備えてくださっている。

“アドナイ・イルエ”どんな状況にあっても必要と最善を備えてくださる神様をほめたたえます。

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孤独の夜に…

昔、イエス様を知らず、孤独が迫ってきました。今、イエス様の孤独があることを知り始めました。

『見よ。わたしはあなたとともにあり、あなたがどこに行っても、あなたを守り、あなたをこの地に連れ戻そう。

わたしは、あなたに約束したことを成し遂げるまで、決してあなたを捨てない。』旧約聖書 創世記28:15

大学を中退した私は、東京に出てきて、デザイン学校に入った。

大都会の中の3畳のアパートに住み、バイトと学校の往復で、声をほとんど発することもなく過ごした。

そんな私も何か月かすると、そこが生活の場になり、知り合いもできていった。

生きる動機に欠けていた私は、何をやってもうまくいかず、やがて、バイト漬けの毎日で、学校の課題がたまっていった。

バイトの寮で、青山のど真ん中に移った。課題がたまって、「このままだと大変だよ。次にあがれないよ。」と3人くらいの男の子たちが、徹夜で課題を手伝ってくれた夜があった。

朝がた、牛丼を買いに行く途中、渋谷のビルの谷間から昇る朝日を見た。

いい友人たちがいるのに、やっぱり心の深いところで孤独を感じている私がいた。そこはイエス様でなければ、決して埋まることのない孤独だったのだと思う。

イエス様に出会って、私を悩ませていた孤独は全く無くなった。

「孤独だ」と嘆くクリスチャンの友人には、「それは、神様ときちんと交わりをしないからだよ。」と平気で言ってきた。

今、イエス様ととても近くにいる感じがする。

そして、時おり、イエス様のとてつもない孤独をわずかだけ見せられる。わずかだけなのは、私には耐えられないから…。

イエス様の歩まれた悲しみの道、イエス様が経験された孤独の道…いままで、知らなかったけど、少しだけ、聖霊様によって教えられる。

イエス様を知らなかったときの私

イエス様の十字架の孤独の道を知らなかった私

孤独が消えて、万々歳と思っていたけど、イエス様といながら、イエス様の心がわからなかった私

「友人よ、あなたが孤独だとうなるとき、神様と交わりしないからだと言った私をごめんなさい。」

「イエス様、あなたの気持ちを知ることよりも、いつも私自身ばかりだったことをごめんなさい。あなたについて行きます。あなたが悲しみと孤独の道を歩まれたから。あなたが、悲しみと孤独を癒されるお方です。」

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天のお父さん、この地は痛みや悲しみや孤独に満ちています。

イエス様が闇の中に持っていく慰めと希望のともしびは消えることがありません。

私もイエス様のあとをついて行きます。

イエス様のいないところにともしびがともりますように。

イエス様がいてくださって、なお、孤独なところのともしびを温かく、大きくしてください。

私たちがたくさんの慰めと喜びのともしびを人々の中に見ますように。

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2009年6月10日 (水)

カルト化教会に無いもの

神様は何を私たちに求めておられるか教えられた分かち合いです。

『み使いは(アブラハム)に仰せられた。

「あなたの手を、その子に下してはならない。その子に何もしてはならない。今、わたしは、あなたが神を恐れることがよくわかった。あなたは、自分の子、自分のひとり子さえ惜しまないでわたしにささげた。』旧約聖書 創世記22:12

神学校時代、同じ寮で、伝道熱心な男の子がいた。

気があって、よくいろんな話しをした。

ある時、彼が言った。「相手を愛する思いがあるなら、体の癒しもその人のために祈ると思う。」

私が何と言ったことに対する答えか、覚えていない。たぶん、「体の癒しがすべてではない。」ということに対してだと思う。

一緒に卒業した彼は、伝道熱心で神様にまっすぐな感じの人だった。

やがて、彼が属している教会がカルト化してしまった。彼もその中の中心的な牧師の一人だった。

今日、その会話を思い出した。彼がどこからずれてしまったのか、よくわからない。

初めの頃は、「イエス様の愛を語る素晴らしいメッセンジャーだよ。」と彼の噂を聞いていたが。

アブラハムがイサクを捧げる試練の中、神様は言われた。

「今、わたしはあなたが神を恐れることがよくわかった。」

神様は、神様を恐れる心をアブラハムに見て喜ばれた。

“心”とか、“動機”とか見えないことこそ、実は神様が最も求めておられることなんだなぁと、しみじみ思う。

カルト化した教会は、宣教熱心だったりする。とにかく働く。労する。無心になって疲れるまで仕える。そのように牧師にコントロールされてしまうのだが、そこに、主とふれあう“心”がない。

黙示録2章に出てくるエペソ教会は、労苦と忍耐を神様に知られていた。

しかし、“初めの愛”から離れてしまった。

イエス様の赦しとあわれみの中、応答する行為と、“心”を無くし、ひたすら頑張る世界は、見た目な変わらなくても、神様から見たら全く違うのだ。

主にある熱心の中で、神様が最も求めとおられる“神様への心”こそ第一とされるものだなぁと思った。

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愛されたことを世が知るために(祈り)

最後の晩餐で私たちのために祈られたイエス様の祈りが、そのとおりになりますよう、お祈りします。

『またわたし(イエス)は、あなた(神)がわたしに下さった栄光を、彼らに与えました。

それは、わたしたちが一つであるように、彼らも一つであるためです。

わたしは彼らにおり、あなたはわたしにおられます。

それは、彼らが全(まっと)うされて一つとなるためです。

それは、あなたがわたしを遣わされたことと、あなたがわたしを愛されたように彼らも愛されたこととを、この世が知るためです。』新約聖書 ヨハネの福音書17:22.23

「天のお父さん、私たちにイエス様を送ってくださり、ありがとうございます。

イエス様が、最後の晩餐で信頼する神様に祈りました。

そこには、イエス様が最も願っていたことを祈られたのだと思います。

そこには、天のお父さんとイエス様が一つであるように、私たちもまた、一つとなりますようにと祈られました。

それは、神様がイエス様を送ってくださったことと、神様がイエス様を愛されているように、私たちも愛されていることを、この世が知るためです、とあります。

人間的に一つにはなれません。

また、教会のルールや、牧師の指示で一つにはなれません。

それは、イエス様の十字架の赦しのもとにしか、一つになることができません。

もし、私たちがイエス様のもとに一つになって喜ぶことができたら、世の中の人は驚くでしょう。

それは、決してこの世には見られないみ業だからです。

私が一つになれない、イエス様の十字架の赦しに行く妨げになっているものを赦してください。

イエス様が一つになるように十字架の犠牲を払ってくれたのに、それが無効かのように、バラバラの心を赦してください。

イエス様が十字架にかかられたのは、私を赦してくれるためでした。

主よ。今、私に豊かな赦しを与えてくださり、私が赦すものとなるよう癒してください。

私たちがイエス様の十字架の赦しのもとに憩い、自由に一つとなることができるよう、あなたのみ業をなしてください。

2000年前、私たちのために祈られたイエス様の祈りがそのとおりになるようにしてください。

今日、お一人お一人にイエス様の赦しがおおい、慰められますよう、祈ります。

イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン」

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2009年6月 9日 (火)

少数派の自分

私の近況…小さな変化です。

『教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。』新約聖書 エペソ人への手紙1:23

私がブログを始めて11か月になる。私はブログの中で変えられてきている。

誰に変えられたかというと、もちろん、神様にであるが、ここに毎日のように訪問してくださる皆さんによってである。

私は教会と言われるところでは、その与えられた信仰が“少数派”となるものだと思う。

だから、いつになっても、どこにいっても、しっくりこない。

ブログでは、とにかく私の本音の本音のところを書いている。聖書の分かち合いにしても、私が美味しいと思うところを共に美味しいと思ってもらっているので、訪問してもらえるのだと思う。

少数派の私も、ブログの中では共に似た感性、信仰の方がいて、そこが集まれば、少数派ではなくなるってことかなぁなんて、訳のわからないことを考えながら出かけた。

私たちの教会は牧師夫妻と私たち夫婦の4人。最近、一人の女性の方が集ってくださっている。

そんなに少なくても、そこに人との信仰の溝を感じてしまう私である。

今日は、牧師の奥さんと共に久々祈った。私は変わり始めている。悔い改めの始まり、教会を赦し、さらに癒しを祈るようになった。ブログの中での導きのおかげである。

彼女はいつも私に愛をもって祈ってくれていたが、私の方には彼女との溝があった。教会の外の人の話しになるとその違いに苦しくなった。

今日、彼女と祈りながら、「私たちは神様にあって一つです。」と祈っていた。彼女もまたそう祈っていた。

心からそう思えた。彼女は、韓国系中国人で、その救霊(イエス様を信じてもらう)の思いに熱い。それなのに、誰を誘っても教会にこないことにガックリきている。胸が苦しくなるらしい。

中国では、迫害の中、人々がイエス様を信じていく。なぜ、日本は違うのかと嘆く。

彼女の神様が与えてくれた熱い救霊の思いに慰めがくるよう祈った。

私の中で何かが変わった。何だろうか。

教会の人と違いはあっても、それを越えて一つであることを受け止められたのか…。まだ、限りなく近くにいる一人と祈れた程度だが。

訪問の皆さんには、私の悔い改めの道に共にお付き合いくださり、心から感謝します。

今、“私の歩んだ教会たち”の証を書いていますが、すべてが懐かしく、そこで失敗したりしている自分がいとおしいです。そこに取り巻く人たちの弱さが受け入れられます。

悔い改めの霊が私をおおったとき、私は「神様、あれもこれもごめんなさい」と号泣しながら、ブログを書いている…そんな想像をするのだが、まだ、その霊はくだっていない。悔い改めというのが、そういうものではないかもしれないし、聖書のことばにより、御霊の啓示により、深いところを見せられたとき、「ごめんなさい」と告白するよう導かれるのでしょう。

神様のよいものを皆さんと分かち合いたいと心から願っています。日々、訪問してくださる方々の祝福を祈っています。訪問、ありがとうございます。

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“神様が求めておられるもの”(創22)

アブラハムは神様から「イサクを全焼のいけにえとして捧げよ。」と言われました。

『これらの出来事の後、神はアブラハムを試練に会わせられた。神は彼に、「アブラハムよ。」と呼びかけられると、彼は、「はい。ここにおります。」と答えた。

神は仰せられた。「あなたの子、あなたの愛しているひとり子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。

そしてわたしがあなたに示す一つの山の上で、全焼(ぜんしょう)のいけにえとしてイサクをささげなさい。」』旧約聖書 創世記22:1~2

神様はアブラハムを試練に会わせられた。その試練は、あまりにも苦しい試練だった。

神様は、アブラハムにとってイサクが年をとってから産まれた何よりも大切な愛して止まない子どもであることを知っておられた。

そのイサクを「全焼のいけにえとしてわたしに捧げよ。」と言われた。

「神様、なぜですか。イサクはあなたが約束の子どもとしてお与えくださったのに。あなたが、わたしにとって最も大切なものであるのをご存じなのに…。」と心のうちで思ったかもしれない。

しかし、翌朝早く、アブラハムは神様の言われるとおりに、イサクを連れて、モリヤの地に向かったのである。

「お父さん、全焼のためのいけにえはどこにあるんですか。」とたきぎを背負ったイサクが聞く。

「我が子よ。それは神ご自身が見つけてくださるのだよ。」と悲痛な思いを胸に秘め、アブラハムは静かに答える。

やがて、神様が言われた山の上に着くと、アブラハムは祭壇を築き、たきぎを並べ、イサクを縛り、祭壇のたきぎの上に置いた。

私は、20年程前、レンブラント展を主人と見に行った。その中で最も忘れられない印象的だったのが、アブラハムがイサクを刀で今にも刺し殺そうと手を振り上げている絵だった。

アブラハムの顔は苦痛でゆがみ、その目から涙が溢れ流れていた。

そして、その絵には、同時にアブラハムのその振り下ろそうとする瞬時に、み使いがその手を押さえていた。

聖書では、アブラハムがイサクを刺し殺そうと手を下ろす瞬間、主の使いが天から呼び止めた。

「その子に何もしてはならない。あなたが神様を恐れることがよくわかった。」

そして、神様は雄羊を用意され、それをアブラハムは捧げた。

アブラハムにとってイサクは神様の約束そのものだった。イサクを通して、アブラハムを大いなる国民とすると、神様は言われた。

そのイサクを神様に捧げる…それは何を意味するのだろうか。

神様は、私たちが神様をさらに信頼することの訓練として、私たちの最も大切にしているものを用いる。

できるならば、そんなことはして欲しくない。しかし、残念ながら、それをもってしかできない訓練があるのかもしれない。

神様を信頼し、神様を恐れる心、神様がどんなものよりも、求めておられるのは、その心である。

神様、今、全焼のいけにえとして、私のからだと心を神様に捧げます。あなたがイエス様の血潮によってきよめてくださり、神様に受け入れられるきよい、生きた供え物としてください。

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2009年6月 8日 (月)

“教会の外のクリスチャンへ”その誇りの信仰

教会の外にいるクリスチャンに慰めのメッセージをいただいたので、書き写します。

『いまは、しばらくの間、さまざまの試練の中で、悲しまなければならないのですが、

信仰の試練は、火を通して精錬されてもなお朽ちていく金よりも尊いのであって、イエス・キリストの現れのときに称賛と栄光と栄誉に至るものであることがわかります。

あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、いま見てはいないけれども信じており、ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどっています。

これは、信仰の結果である、たましいの救いを得ているからです。』新約聖書 第1ペテロの手紙1:6~9

昨日、初めて“せつ”さんという方がコメントをくださいました。教会の外にいるクリスチャンへの神様からのメッセージでした。

私は常々、外の人たちの目には見えにくい深い信仰を感じています。

彼女たちにとっては、神様にあるかないかは、生きるか死ぬかぐらい切迫しています。

その素晴らしい与えられた信仰を素敵な表現をされていて、「ああ、私がずっと伝えたかったことばだ。」と思ったのでコメントをそのまま、写させてもらいます。

「トラブルが起こってしまい、教会に行けなくなってしまっても、なお、神様を愛し続ける方たちの手には、ダイヤモンドのように美しくて強い本物の信仰が握られていますよ。

いつか時が満ちて、その方たちの心が癒える頃、その方たちを必要とするキリストの体である教会に、ふっと導かれる、そんな日がきっと来ます。

神様はその方たちの信仰を誇りに思っておられます。」

アーメンです!!私にもわかります。試練を通され、輝いていく“ダイヤモンドのような本物の信仰”。そして、神様ご自身が、「あなたはわたしの誇りです」と言っておられるのを!

お祈りします。

神様、あなたがすべてをご存じで、私たちのうめきも叫びも聞いておられ、応えてくださる方であることを知っています。

主よ。クリスチャンであるのに、それゆえのような痛みや苦しみがありますが、神様が愛してくださっていることをありがとうございます。

今、現状を見ると、先行き希望がないように思えても、そうでないことをありがとうございます。

私たち外の者の信仰を、ご覧になってくださり誇りに思ってくださっていることをありがとうございます。

私たちの心の傷を癒してください。私たちに赦しを祈る祈りを与えてください。

私たちが赦しを祈るとき、イエス様ご自身のみ業が起こります。

なぜなら、赦しを祈るのは、イエス様の十字架の力によってしか現されないからです。

私たちの傷ついた地に癒しを、そしてキリストの赦しを与えてください。

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2009年6月 7日 (日)

“神は聞かれた”(イシュマエル)

ハガルとイシュマエルは、アブラハムのところから追い出され、荒野をさ迷いました。

『それで彼女(ハガル)はベエル・シェバの荒野をさまよい歩いた。

皮袋の水が尽きたとき、彼女はその子を一本の灌木(かんぼく)の下に投げ出し、自分は、矢の届くほど離れた向こうに行ってすわった。

それは彼女が「私は子どもの死ぬのを見たくない。」と思ったからである。それで、離れてすわったのである。そうして彼女は声をあげて泣いた。

神は少年(イシュマエル)の声を聞かれ、神の使いは天からハガルを呼んで、言った。

「ハガルよ。どうしたのか。恐れてはいけない。神があそこにいる少年の声を聞かれたからだ。…」』旧約聖書 創世記21:14~17

アブラハムはイサクの乳離れの日に、盛大な宴会を催した。

その影で、イシュマエルが、アブラハムの家を出されることになる。

ハガルと子どもイシュマエルは荒野をさ迷い、持っていた水が尽きたとき、死ぬしかないと思った。

ハガルは、目の届くところで、しかも徐々に死んでいく苦しみを見ないですむ所に息子を置き、号泣した。

神様は声を聞かれた。“神は聞かれ”は“イシュマ・エロヒーム”で、“イシュマエル”(神は聞かれる)と重なってるらしい。

泣いたのは、ハガルであったが、神様は少年イシュマエルの声無き声を聞かれたのだろうか。

『「ハガルよ。どうしたというのか。恐れてはいけない。神があそこにいる少年の声を聞かれたからだ。

行ってあの少年を起こし、彼を力づけなさい。わたしはあの子を大いになる国民とするからだ。」

神がハガルの目を開かれたので、彼女は井戸を見つけた。それで行って皮袋に水を満たし、少年に飲ませた。』創世記21:17~19

神様は、悲しみと失意の中、私たちの声なき声すら聞いてくださる。

神様は、声をかけ、優しく励ましてくださる。

神様は、今、どんな状況の中にあっても、私たち一人一人にある計画を教えてくださる。

神様は、その絶望的な現状で、何もないかのような中で、私たちの目を開いてくださり、生きるための希望を与えてくださる。

ハガルは子どもが死ぬのを見たくないと号泣していたが、神様の声に、もう一度、立ち上がった。イシュマエルと共に生きるものとなった。

今、悲しみの中にある人に“イシュマエル”、あなたの声を聞かれる神様が見い出されますように。

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『疲れた人、休ませてあげます』

おはようございます。

このブログに初めて来てくださった方がいましたら、ありがとうございます。

また、いつもながら来てくださる方には、いつもとちょっと違う雰囲気で、接しています。

日曜日、クリスチャンと言われる人には、教会に行く方が多いです。が、そうでない方たちもいます。

また、神様はどこにでもいますので、教会に行かない方とも、聖書から、“神様”“イエス様”という分かち合いができればと思っています。

イエス様は言われました。

『すべて、疲れた人、重荷(おもに)を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしが休ませてあげます。』新約聖書 マタイの福音書11章28節

イエス様は疲れた人、何か負いきれない問題をかかえている人は、イエス様のところに来なさい。イエス様が休ませてあげますと言われました。

疲れた方、問題を抱えた方いますか?

イエス様が「わたしが休ませてあげます。」と言われても、どういう方かわからなければ、信じて行くことはできませんね。

イエス様は神様が人となられた方です。

イエス様には、私たちのような弱さや足りなさはありませんでしたが、あえて、人となられ、すべての人の経験する以上の苦しみを通られました。

だから、もし、私たちが苦しいとき、その苦しみがイエス様には理解できます。

また、悲しいとき、イエス様はどんな悲しみも知っているので、慰めてくださる方なのです。

私は友人によく言います。「私の言っていることには間違いもあるし、本当のところ、どんなに頑張ってもあなたの苦しみはわからない。でも、イエス様は違うよ。イエス様だけはあなたの苦しみを知って慰めてくれる方なんだよ。だから、私のところに来るのもいいけど、イエス様のところに行くのが一番なんだよ。」

あなたのまわりに、「わたしのところに来なさい。わたしがあなたを休ませてあげよう。」と言ってくださる方はいますか。

私はいつもイエス様のところで、いろんなことを相談し、ときには泣いて嘆き、いつも頼っているので、心の深いところで休ませてもらっている感じです。

そして、もし、教会に行ったことがあるけれど、疲れてしまった人がいるなら、教会の弱さを赦してください。

神様は、今、外にいる人にも神様のあたたかいメッセージを伝えたいと願っているのを、私は強く感じています。

『わたしは失われたものを捜し、迷い出たものを連れ戻し、傷ついたものを包み、病気のものを力づける。』旧約聖書 エゼキエル書34章16節

これは、外にいる人への神様の約束です。

失われたかのように誰にも気がつかれない人を捜し、迷い出たものを連れ戻し、傷ついたものを包み、病気のものを力づける…イエス様がなさろうとしてくれていることです。

どんな風にして、教会の外の人にも神様の思いを伝えようか…と思いつつ書きました。

機会があったら、このブログの過去も読んでくださって、よいものをともに分かち合えたらと願っています。よろしくお願いします。

あなた様の神様にある祝福を心からお祈りします。

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2009年6月 6日 (土)

訪問者の皆さんへ(予告…)

『キリストは、自由を得させるために、私たちを解放してくださいました。

ですから、あなたがたは、しっかり立って、またと奴隷のくびきを負わせられないようにしなさい。』新約聖書 ガラテヤ5:1

いつも、ブログ訪問してくださる皆さん、訪問ありがとうございます。

皆さんの訪問に励まされて、ひたすら書いています。

ちょっと書きすぎの感じもありますが、丁寧に読んでいただき、本当に励まされています。

明日のブログアップの時間を予告したいと思い、今、書いています。…爆弾予告じゃないんだから…予告なんていらないですか(・_・;)

私たちクリスチャンは、クリスチャンにしかわからない拘束感があります。

日曜日の10時半、多くの教会が礼拝スタートします。その時間帯に何か違うことを、おおっぴらにすると、なんか言い知れぬ罪責感とか、どう思われるだろう…という感覚がきます。

「教会は行きたくなければ、無理しなくていい」と人には言いながら、しっかり、どっぷり、私も…しなければならない世界に影響されている自分を見ます。

キリスト教ブログ
は10:30からはアップする人がほとんどいません。礼拝に行っているからかもしれないし、聖域の時間になっているからかもしれません。

明日、私の行っている教会はお休みです。牧師がイスラエルに旅行中のためです。

その次の週は、私が不在のため、やっぱり礼拝自体がお休みです。小さな教会なので、そんな感じです。(牧師は他でも礼拝しているので、忙しそうですが…)

そのクリスチャンの聖域とされている時間に、教会に行かれていない方たちを思い、祈りながら、アップします。

ずっと続けられたら、そうしたいですが。

日曜日、10:30の思いを、訪問してくださる方と分かち合いたく、ご報告しました。

教会に行かないクリスチャンに神様の慰めのメッセージが伝わることを心から祈りつつ…。

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弱さを越えてなされた“神の約束”(創20)

アブラハムは恐れのゆえに再び同じようなことをしますが、そこに神様のあわれみを見ます。

『アブラハムは、自分の妻サラのことを、「これは私の妹です。」と言ったので、ゲラルの王アビメレクは、使いをやって、サラを召し入れた。

ところが、神は、夜、夢の中で、アビメレクのところに来られ、そして仰せられた。「あなたが召し入れた女のために、あなたは死ななければならない。あの女は夫のある身である。」』旧約聖書 創世記20:2.3

サラから子どもが生まれる約束が繰り返し神様から語られる中、アブラハムは、また、前と同じようなことをしてしまう。

ゲラルに滞在中、危害を加えられるのを恐れたアブラハムは、ゲラルの王に、サラのことを妹と偽る。ゲラルの王は、サラを自分のところに呼んだ。

ところが、神様が、夢で「サラに触ってはいけない」と言う。

王アビメレクは神様の介入に、非常に恐れを抱き、贈り物をつけて、サラをアブラハムに返す。

カルト教会に行っていた友人が、「神様のみこころだけに従わないといけないから、明確な確信と支持がなければ、決して動けない。」とよく言っていた。

私たちは、弱く、神様が望んでいないことばかりしてしまうような存在である。

神様のみこころは、どこにあるかもわからないことが多かったりする。

しかし、神様は、私たちの弱さや足りなさ、未熟さの中にあって、なお、すべてをご支配しておられ、神様の決められた計画は成されるのである。

もし、私たちに完全さが求められたら、きっと、一つとして神様が約束したことは成らない。私たちはどこまでいっても不完全なのだから。

ここで、「アブラハムは何回同じ失敗を繰り返すのだろう。」と言えるだろうか。

この恐れ、同じ失敗をしてしまうのが、私自身の姿である。

しかし、大きな慰めがある。神様が介入された。アビメレクに「サラに触れてはならない。」と言われた。

そして、神様の配慮は細部に至っていた。

『そこで、アブラハムは祈った。神はアビメレクとその妻、および、はしためたちをいやされたので、彼らはまた子を産むようになった。

主が、アブラハムの妻、サラのゆえに、アビメレクの家のすべての胎を堅く閉じておられたからである。』創世記20:17.18

神様は約束が成るため、すべての胎を閉じられていた。そして、アブラハムの祈りによって開かれた。

弱い私たちを祈り手としてくださる神様も見る。

そして、21章、サラはとうとう、イサクを産んだ。

私たちの弱さを越えて、神様が約束したことは神様によって成されることに感謝する。

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2009年6月 5日 (金)

“ソドムとゴモラ”への神様のさばき

ソドムとゴモラの町々に対する神様のさばきを見て、私たちにも来るさばきの日を思いました。

『「わたしたちはこの場所を滅ぼそうとしているからです。彼らに対する叫びが主の前に大きくなったので、主はこの町を滅ぼすために、わたしたちを遣わされたのです。」…

こうして、神が低地の町々(ソドムとゴモラ)を滅ぼされたとき、神はアブラハムを覚えておられた。

それで、ロトが住んでいた町々を滅ぼされたとき、神はロトをその破壊の中からのがれさせた。』旧約聖書19:13.29

ソドムとゴモラの叫びは非常に大きく、また彼らの罪は神様の前にきわめて重かった。(創世記18:20)

神様はソドムとゴモラの町々を硫黄(いおう)の火を降らせ、滅ぼした。

しかし、アブラハムのとりなしの祈りのゆえに、神様はその滅びの中から、ロトたちを救われた。

聖書にある歴史観は、やがて、終末が来て、この世の中をさばかれるということである。

私たちが終末まで生きていなくても、人間には、一度死ぬことと死後さばきを受けることが定まっている。(ヘブル人への手紙9:27)

イエス・キリストを信じるものが永遠のみ国に移される。

信じないものは、永遠の滅びが与えられている。

その厳しい現実のどこに神様の愛と恵みがあるか。

私たちは、正しい神様の前に、すべての人が、“その罪はきわめて重い”と判断されるものである。

アブラハムのとりなしの祈りを覚えてくださって、神様がロトを破壊の中からのがれさせてくださったように、今、イエス様の十字架の赦しによって、神様からの厳しいさばきからあわれみによって私たちは救い出された。

それは、ただ神様のあわれみによる。

私は、厳しいさばきから、一方的な神様のあわれみで救い出されたものとして、とりなしの祈りを迫られている。

『しかし、愛する人たち。あなたがたは、この一時を見落としてはいけません。

すなわち、主の御前では、一日は千年のようであり、千年は一日のようです。

主は、ある人たちが遅いと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではありません。

かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。』第2ペテロの手紙3:8.9

###

神様、ソドムとゴモラのように裁かれ、滅ぼされるような私を、イエス様によってさばきから救い出してくださり、ありがとうございます。

ただ神様のあわれみによって救い出された私たちは、神様の忍耐を感じながら、人々もまたこの救いに預かることを祈ります。

終末の、さばきの座の厳しい現実にあって、愛します人々にただ神様のあわれみを与えてください。

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再び共に喜び笑わせてください(祈り)

私の歩んだ教会たちを振り返り、お祈りします。

『神よ。私を探(さぐ)り、私の心を知ってください。

私を調べ、私の思い煩(わずら)いを知ってください。

私のうちに傷ついた道があるか、いなかを見て、私をとこしえの道に導いてください。』旧約聖書 詩篇139:23.24

「天のお父さん、あなたがいつも私と共にいてくださる恵みをありがとうございます。

今、私の歩んだ教会たちを振り返り始めています。

「私にとって教会は苦痛でしかなかった。」というようなことを言ってきましたが、教会生活の歩みを思い出していくと、そこにたくさんの神様の恵みが溢れていたことを見ています。

私が最後に教会から受けたダメージが大きくて、その傷のゆえに、すべてがふさがれ、見えなくなっていたのを思います。

神様は、教会を通して数えきれない程のクリスチャンとの交流を与えてくれました。

神様は、教会を通して、いろんなことを経験させてくれました。

神様、あの頃は私自身が人のために祈れないものだったので、たくさんの人が影でひっそりとお祈りしていてくれたことを知りませんでした。

しかし、たくさんの祈りが私のためにあったのを見つけました。

私を苦しめるものとして、私は教会こそ私の“敵”と思ってきましたが、私は大事な私のからだを敵視していたのですね。

赦してください。

私が属するキリストのからだを心から受け入れ、愛することができますように。

そして、その弱さを心から祈ることができますように。

そして、教会の外の人のその痛みを知り、心から祈れますように

どこにいても、私たちは皆、イエス様によって引き寄せられたキリストのからだです。

何をしていてもイエス様の十字架の完全さのゆえ、私たちは初めから同じく、赦され続け、受け入れられ、愛され続けています。

今、目に見える教会の外にいる人に、神様は変わらずその愛をささやいてくれています。

届けてください、あなたの声を

届けてください、あなたのまなざしを

届けてください、今も変わらず、無くてはならない、かけがえのないキリストのからだの一部であることを。

届けてください、神様が親しい交流を楽しみたいように、私もそのことを待ち望んでいることを

“わたしがあなたの傷を直し、あなたの打ち傷をいやすからだ。

見よ。わたしはヤコブの天幕の捕らわれ人を帰らせ、その住まいをあわれもう。

…彼らの中から、感謝と、喜び笑う声がわき出る”(エレミヤ30:17~19)

神様の約束のとおり、人々に主の喜びを返してください。」

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2009年6月 4日 (木)

私ができること…

『必ずわたしはあなたを解き放って、しあわせにする。

必ずわたしは、わざわいの時、苦難の時に、敵があなたにとりなしを頼むようにされる。』旧約聖書 エレミヤ書15:11

ヨエルさんが、夕べ、コメントをくださいました。いつも祈りと誠実さをもって、コメントをくださって感謝しています。

その中に「教会の外と中に“橋”はかけられるか?私たちクリスチャン自身が、“壁”を作っているから無理ではないか…。」とご意見をいただきました。

“橋”は神様が、神様の方法でかけてくださいます。

5月16日のブログから、この教会の中と外の話しが出ました。その日のブログには「神様、私、何か出来ますか。」と書きました。

それから、いろんな過去の出来事などを思い出し、私の中で一つとなっていきました。

そして、すべては神様の中で、私はほんの一部を担うだけなのですが、神様が、私に何をしたらよいか教えてくれました。

私は全自己否定の人間でしたが、イエス様に罪を告白し、全自己肯定の人間に癒してもらいました。

悪いものは吐き出し、良いもの(神様ご自身)を取り入れることの中に癒しと回復がありました。

それを今度はキリストの体でやるよう、教えられました。教会を悔い改めれば、教会はきよめられ、聖霊が満ちます。エゼキエル47章になります。

外の人に対しては、私は教会の人間として悔い改めます。癒しが行われますように。

私自身は壁なので、これから崩されます。どうやってかは、私もわからないし、時間がかかるかもしれないですけど、見ていてください。

私一人が崩れたからって、教会が変わりますか?…大きな壁があったとして、一ミリの穴が開けば、そこから癒しの川は流れるのです。小さな穴は、役割を果たします。

そして、大切なのは、中からではなく、外の人たちから癒しと、とりなしの祈りが始まるということです。

なぜなら、残念ながら、傷んでいるのは中の人ではなく、外の人だからです。そこに癒しがくるとき、赦しの祈りとなり、聖霊に満たされるのでしょう。

これは、私のアイデアではありません。25年間、教会を裁いてきた私には思いつきません。やっと、手放し、赦したばかりの私には思いつきません。

いつ、どんな風にかは、わからないです。

これは、預言とかではなく、私が神様から教えられたことです。

そして、私は悔い改めをすることが宿題となりました。

ブログで、少し教会の悔い改めを祈ったこともありますが、自分が本当に自分のからだとして教会を愛しているか…さぐられました。

まず、自分自身を受け入れるように、教会を自分のこととして、受け入れきることかなと思わされました。

なんか、偉そうなこと言っているかもしれませんが、私自身の右往左往しながらの道を見ていただくだけでいいのです。

たくさんの失敗もあるかもしれませんが、これから、私はイエス様のあとをついていき、悔い改めの道を歩きます。

今、思わされていることは、私は5つほどの教会を変わりましたが、そこにある自分の悔い改める責任の分と人を赦す責任の分を見て祈ることをしようと思います。

自分の責任の分を悔い改めたら、素晴らしいことが起こったのです。

傷と痛みで見えなくなっていた教会の人たちにしていただいたたくさんのことが溢れるように見えてきました。神様の恵みは、教会生活の中にありました。

そのことを振り返りながら、一つ一つの教会にあった恵みを感謝しようと思います。

証のほうは、そんな訳で、私の過去教会のことからになります。よろしくお願いします。

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2009年6月 3日 (水)

“滅ぼすまい”

アブラハムは“ソドムとゴモラ”の人々のため、とりなし、祈りました。

『そこで主は仰せられた。「ソドムとゴモラの叫びは非常に大きく、また彼らの罪はきわめて重い。

わたしは下って行って、わたしに届いた叫びどおりに、彼らが実際に行っているかどうか見よう。わたしは知りたいのだ。」

アブラハムは近づいて申し上げた。「あなたはほんとうに、正しい者を、悪い者といっしょに滅ぼし尽くされるのですか。

もしや、その町の中に50人の正しい者がいるかもしれません。…」

主は答えられた。「もしソドムで50人の正しい者を町の中に見つけたら、その人たちのために、その町全部を赦そう。」』旧約聖書 創世記18章

聖書で、“ソドムとゴモラ”というと、悪に満ちた滅びの町の象徴として、様々なところで使われている。

今、まさにその“ソドムとゴモラ”が神様のさばきで、滅ぼされようとしている。

アブラハムは神様の前に出て、懇願する。

「正しいさばきを行われる神様は、もしその町に50人の正しい者がいても、いっしょに滅ぼすのですか。」

「その50人のために、町全部を赦そう。」

「正しい者が45人いたら、滅ぼされますか。」

「滅ぼすまい、45人のために。」

アブラハムは正しい者が40人、30人、20人、10人いたら…と執拗に聞き、神様は「その人数のために滅ぼすまい」と言われる。

神様は、アブラハムに滅びゆく者への“とりなしの祈り”を与えられた。

ソドムとゴモラは、どう見ても悪に満ちていて、どうにもならなかった。

しかし、アブラハムは、自分の救いのように、必死にお願いした。

私たちの目に見えるところも、また、悪に満ちている。

一人の人を見ても、あまりにも神様からかけ離れ、どうしようもないように思えたりする。

しかし、神様は私たちの“とりなしの祈り”を待っておられる。

「神様、この人に神様にかなっているものが少ししかなくても滅ぼさず、救ってくれますか。」

「滅ぼすまい。」

「良いものがほとんど無くとも救ってくれますか。」

「滅ぼすまい。」と言われるだろうか。

残念なことに、私には神様にかなう正しさは全くなかった。ソドムとゴモラのように容赦なく、滅ぼされるものだった。

「神様、私には全く正しさがありませんが、滅ぼされますか。」

「滅ぼすまい。わたしはイエス・キリストを送って、彼の完全さのゆえに、あなたを赦し、あなたを滅ぼすまい。」と語ってくださる。

今日もイエス様は私たちのために、神様にとりなし祈ってくださる。

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神様、とりなしの祈りの霊を与えてください。滅びゆく人たちがイエス様によって救われていく幻を見させ、今日も祈らせてください。

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言われたことに笑った“サラ”

神様が不可能なところから、約束を成してくださるのは、それが決して人間によらず、神様によるところを示すためと思います。

『するとひとり(神)が言った。「わたしは来年の今ごろ、必ずあなたのところに戻って来ます。そのとき、あなたの妻サラには、男の子ができている。」

アブラハムとサラは年を重ねて老人になっており、サラには普通の女にあることがすでに止まっていた。

それでサラは心の中で笑ってこう言った。「老いぼれてしまったこの私に、何の楽しみがあろう。それに主人も年寄りで。」

そこで主がアブラハムに仰せられた。「…主に不可能なことがあろうか。わたしは来年の今ごろ、定めた時に、あなたのところに戻って来る。そのとき、サラには男の子ができている。』旧約聖書 創世記18:10~14

神様は、ご自身の約束を人の中に確かにするため、繰り返し、その約束が成ることを語ってくださる。

17章では、アブラハムが神様の民になる契約のしるしとして割礼を受けた。

その後、神様はアブラハムに、「サラによって男の子が生まれる」と話す。

それを聞いてアブラハムは笑った。「年老いた私たちから、子どもが生まれるなんて…」と。

そして、再び、神様が現れてそのことを告げたとき、サラもまた心の中で笑った。あり得ないと。

しかし、神様は百歳のアブラハムと90歳のサラから男の子を生まれさせた。

神様が約束されたのに、「まさか、それはあり得ないでしょう。」と笑ってしまったアブラハムとサラであるが、そんな2人を私は笑えないと思う。その当時者であれば、私も笑ったと思う。

神様がなさることは、私たちの考えや思いをはるかに越えている。

『わたし(神)の思いは、あなたがたの思いと異なり、わたしの道は、あなたがたの道と異なるからだ。…

天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。…

わたしの口から出るわたしのことばも、むなしく、わたしのところに帰っては来ない。

必ず、わたしの望む事を成し遂げ、わたしの言い送った事を成功させる。』イザヤ55:8~11

天地を造られた神様は、なんでも願いをかなえてくださる方ではない。

神様ご自身が計画され、約束され、言われたことは、どんなに不可能に思えても、神様が持っている絶対的な権力(主権)のゆえに、成し遂げられる方なのである。

アブラハムもそのあと、なお、失敗を犯す。しかし、人の弱さや足りなさを越えて、神様はご自身が計画され、望まれたことを成就する。

神様は、サラに生まれる男の子を“イサク”と名をつけるように言う。

“イサク”は“彼は笑う”という意味である。

“あり得ないと笑った者”を神様は“約束がなったのを見て笑わせてくださる者”に変えてくださるのである。

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2009年6月 2日 (火)

「ノンクリスチャンの苦悩」ブログの住人さんへ

昨日のブログ、読みました。「これで教会に行くのを最後にします。ブログ最後にします。さようなら。」との内容。私もあなた様のブログは、定期的に見させていただいていたので、何ともいいようのない、気持ちでいました。

「クリスチャンへ。キリスト教に関係ない方々に対しても彼らが幸せになれるように祈ってあげてくださいね。」

というところが、胸に刺さります。

私も今、ちょうど、教会を静かに去って行かれる方々に対する痛みを祈り始めたところなので。

なんだか、私も同じ教会側の弱さと足りなさをもっている者なので、なんか自分に言われたような気がして、胸が痛みます。

クリスチャンと同じで、教会も不完全です。クリスチャン同士で理解しあえないように、教会にいる人と静かに去っていく人にも溝があります。

私は今、教会の中で、去って言った人たちの声も聞かず、知らず、理解せず、楽しくやっているのは、何かイエス様の愛とかけはなれていると感じています。

誰が悪いのでなく、教会側の私が、まず、私の責任の分として、外の人に謝ろうと思っています。

私のために、謝らせてくださいね。

たくさんの配慮が足りなかったこと、赦してくださいね。

私を含め、教会は自分たちに人を合わせようとしてきました。

私を含め、教会は外に出ていった人を追いかけず、しずかに教会で「教会に戻りますように」とお祈りし続けました。

私を含め教会は、自分の信仰を押し付けてきました。

イエス様にある自由とか喜びはそのようなものではありません。

あなた様のブログからアクセスがあり、追記で、私とヨエルさんの記事とブログのアドレスを今日、載せてくれたことを知りました。

教会行くとか、行かないとか…そういうことが大切なのでなく、私を含めた教会が、一人の人に失意を与え、黙って去らせることに、申し訳なく思います。

私は教会に通いながら、25年間教会をさばいてきた者です。そして、今、その教会を祈り始めました。私も25年分の痛みの体験があります。

もし、良かったら、ここでしばし、一緒に交流されませんか。あなた様の失意が慰めと希望になることをお祈りします。

このブログからのお手紙ですみません。

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「傷ついた」と言う言葉に秘められたもの

「傷ついた」と言う言葉にある本質を教えられたときの話しです。

『さばいてはいけません。さばかれないためです。

あなたがさばくとおりに、あなたがたもさばかれ、あなたがたが量(はか)るとおりに、あなたがたも量られるからです。

また、なぜあなたは、兄弟の目のちりに目をつけるが、自分の目の中の梁(はり)には気がつかないのですか。

兄弟に向かって、『あなたの目のちりを取らせてください。』などとどうして言うのですか。見なさい、自分の目には梁があるではありませんか。

偽善者たち。まず自分の目から梁をとりのけなさい。そうすれば、はっきり見えて、兄弟の目からも、ちりを取り除くことができます。』新訳聖書 マタイの福音書7:1~5

4年前、私は小さな教会に属していた。そして、教会が一つとなって、信仰が試されるお祈りをした。私は神様がこの祈りを喜んでいると感じていた。

が、結果、見た目は何も変わらず、サタンの攻撃もあったと思うが、教会は空中分解して閉じられた。

わずかな信徒たちは、深い痛みを持ったまま、離散された民のようになった。

それから、私のあの喧嘩友だちである彼女は、罪責感や恨みや様々なものにずっと苦しんだ。つい半年程前、「私、自分が全部間違っていたとは思わないけど、きついことばで色々言ったことを牧師婦人に謝りたい。」と言った。

私は彼女のいる前で、牧師婦人に電話した。私も交信途絶えて4年ぶりだった。

「彼女が謝りたいと言っているんだけど、この電話で話しをできますか。」

「牧師は傷つきましたねぇ。私は主人の牧師と相談してからでないと、話せるかわかりません。」

「そうですか。それじゃ、どちらでもいいから、私に電話をもらえますか。」と電話を切った。それから相手から電話はなかった。

誰でも弱さを持っているから、私はそのこと(電話がなかったこと)を受け入れられた。しかし、自分の分を謝ろうとした友人は、きつかったかもしれない。

私は牧師婦人の「傷つきましたねぇ」という言葉にハッとさせられた。私自身、何百回と使ってきた言葉だ。

「傷ついた」…それは、「私の悪い分は0%で、あなたの悪い分は100%です。」という宣言なんだと教えられた。

教会がなくなるに至った経緯の中で、誰が悪かったか。私は自分を含めた教会全員の弱さ、責任だったと思っている。

けれど、「あなたが全部悪い」と誰かが思っているなら、その人は自分の責任の分を所有できない。

人の境界線と同じで、自分の責任の分を所有できない人は、いつも人任せなのである。そして人に振り回される法則から抜け出せない。

私自身は「傷ついた」という言葉は安易に使えないと思った。

私は教会を25年もさばいてきた人間である。さばく、批判することも「私が悪いのは0%で、相手が悪いのは100%」ということだと教えられた。

私は今、人のせいにだけして、人に振り回されるより、自分の責任の分を所有し、人に振り回されることなく、神様と歩きたいと思い始めている。

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契約のしるしの“割礼”

アブラハムには、神様の民に選ばれたしるしとして、割礼が与えられました。今、私たちにも、新しいしるしが与えられています。

『次のことが、わたしとあなたがたと、またあなたの後のあなたの子孫との間で、あなたがたが守るべきわたしの契約である。

あなたがたの中のすべての男子は割礼(かつれい)を受けなさい。

あなたがたは、あなたがたの包皮(ほうひ)の肉を切り捨てなさい。

それが、わたしとあなたがたの間の契約のしるしである。』旧約聖書 創世記17:10~11

神様は、アブラハムを選んでご自身の民にするため、アブラハムとその家族とに契約のしるしを与えた。

それは割礼である。割礼とは、「切り取る」「切り捨てる」という意味で、男性の性器の包皮を切開、もしくは切り取ることをいう。

アブラハムは、イシュマエルや奴隷など家のすべての男子を集め、神様が告げられたとおりに、その日に彼らの包皮の肉を切り捨てた。

神様の選びは、神様から一方的なもので、ただ“神様が選ばれた”というだけの理由による。

アブラハムたちは、この神様に選ばれ者のしるしをどんなに誇りに思っただろうか。

アブラハムが神様を信じたその信仰が義とされたことの証明の判ことして、割礼というしるしを受けたのである。(ローマ4:11)

イエス様が来て、私たちも神様の選びの民であることの新しいしるしを受けた。それが聖霊である。(エペソ1:13)

そして、私たちに与えられた神様の民のしるしは、アブラハムがもらったものよりも優れている。

『あなたの神、主は、あなたの心と、あなたの子孫の心の包む皮を切り捨てて、あなたが心を尽くし、精神を尽くし、あなたの神、主を愛し、それであなたが生きるようにされる。』申命記30:6

アブラハムの子孫、イスラエルの民は神に選ばれ、所有されたものとして、神様に従うことを求められた。

しかし、彼らは従うことが出来なかった。

イエス様が来て、聖霊が与えられ、心を包む皮が切り捨てられた。イエス様によって、神様を慕う麗しい関係に戻され、神様に応答し、愛する聖霊が与えれた。

神様がイエス様によって選ばれた民は、見えない心の中に神様の霊というすばらしいしるしを与えられたのである。

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神様、あなたがわたしを選んでくださったしるしとして、聖霊を与えてくださり、ありがとうございます。

聖霊は神様が願うことを教え、そこに導いてくださいます。

あなたの与えてくださった選びのしるしが、私の内で、豊かにあなたをほめたたえられますように。

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2009年6月 1日 (月)

「境界線」の本の紹介

人間関係に悩む人に「境界線」の本はお勧めです。

『しかし、上からの知恵は、第1に純真であり、次に平和、寛容、温順であり、また、あわれみと良い実とに満ち、えこひいきがなく、見せかけのないものです。』ヤコブの手紙3:17

今、ブログ友だちの泉さんが読まれているとのこと、「境界線」(バウンダリーズ)の本の紹介をします。

サブタイトルは、「聖書が語る人間関係の大原則」です。

この本には、支配的な人、迎合的な人(自分を我慢して、人に合わせてしまう人)などが出てきて、なぜ、そうなのか、どうすれば、そこから抜け出せるか、聖書的観点から掘り下げて説明されています。

いつも人にふらまわされている感じがして疲れてしまう人、まわりにイライラしている人、「ノー」と言えず苦しんでいる人などにとっては、本当に目から鱗(ウロコ)となる本でしょう。

私は過保護過干渉で育てられ、そういう人もまた、境界線が健全でなく、人間関係に苦しみます。

学生のころは、親しい友人と意見が合わないだけで、裏切られた感が強くなり、リュックを背負って、一人旅に出ました。いかに、人に影響されまくっていたか…です。

あと、虐待を受けて育った人も境界線が崩れています。自分が自分のままでよい…ということを所有できず、いつも人から踏み込まれ続けるからです。

境界線とは、どこから自分で、どこから人か区別するものです。

庭に冊(さく)がなければ、どこまで自分の家の庭かわかりません。ちゃんと冊とかブロック塀(へい)とかで区別します。

ここでいう境界線はブロック塀ではありません。本の表紙に絵が描いてありますが、相手と話せる程度の風通しの良さがあります。

裏表紙にはその続きの絵があります。その冊には開閉できる門がついています。

その話をする人を自分のところの門を開けて、お招きもできる訳です。

もし冊がなければ、いつも泥棒とか、侵入者に侵害され続けます。

冊があることで、自分のテリトリーの中は安心です。自分の庭だけ掃除をすればいいのです。外で誰かが怒っていようが、攻撃しようが、外の人のことなので、自分が責任を持つ必要がありません。

虐待されたり、境界線が崩れている人は、悪いものを自分に取り込み、良いものを吐き出してしまいます。

自分にとって敵意のある人を取り込み、好意的な人を吐き出してます。

回復した健全な境界線は、良いものを自分の中に取り込み、自分にとって悪い影響を与えるものは吐き出す作業が、スムーズにできるとのことです。

私は第1ヨハネ1:9で、神様の前に傷や弱さや足りなさをいつも認め、告白しました。そして、イエス様の赦しと癒しときよめを受けとる作業を25年してきました。気がついたら、境界線が回復していました。

この本は、人間関係に悩む方にお勧めです。泉さんにとっても、癒しの助けとなるだろうこと、楽しみにしています。

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十字架を背負われるイエス様(祈り)

今、悲しみの中にある人に、それより深いイエス様の慰めがおおい、癒されますように。

『彼(イエス)には、私たちが看とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない。

彼はさげずまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。

人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。

まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。』旧約聖書 イザヤ書53:2~4

「イエス様、あなたが黙って、重たい十字架を引きずるとき

周りの人々は、笑ったり、バカにしたり、罵声を浴びせたり、ののしったり、興味本位で覗いたり、可哀想に同情したり、驚いてみたり…いろいろです

でもその重すぎる十字架は私がかつがなくてはならなかったのですね

イエス様、あなたはすべてを捨てて、その重すぎる十字架を私の代わりに背負ってくださったのですね

私がその十字架を背負うことは耐えられませんでした

笑われたり、罵倒されたり、ののしられたり…十字架の丘までたどりつけず、崩れてしまったでしょう

イエス様は十字架にかかられる前に、黙って十字架を背負われて、すでに、すべてを捨てててくださっていたのですね

溢れるほどの悲しみの中にあったのですね

私がすべてを失ってしまったかのように失意の中にあるとき、イエス様は私のところに来てくださいました

命までも捨てられたイエス様は私の失意もご存じだったのですね

悲しみに刺し通され、天のお父さんに見捨てられたイエス様は、私が愛する人たちと絶たれた孤独をご存知だったのですね

イエス様、私は何もなくなりましたが、あなたの愛をいただきました

イエス様、何もなくなった状況、空っぽになった心にあなたが来て輝いてくださいました

あなただけが私の望みです

あなただけが私のすべてです

イエス様、私のために痛まれて、ごめんなさい

イエス様、あなたの打ち傷で、私の悲しみも苦しみもすべてはおおわれました

イエス様、あなたの愛に今漂っています

あなただけがほめたたえられますように」

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“カルト化した教会”での痛み

私は友人を通して、カルト化した教会で影響を受けた人は、とても深いダメージを負い、その回復に時間がかかるのを見てきました。

『私の兄弟たち。あなたがたのうちに、真理から迷い出た者がいて、だれかがその人を連れ戻すようなことがあれば、罪人を迷いの道から引き戻す者は、罪人のたましいを死から救い出し、また、多くの罪をおおうのだということを、あなたがたは知っていただきたい。』新約聖書 ヤコブの手紙5:19~20

私は、姉や大切な友人が何人も、カルト化した教会に翻弄され、そこから出て、なお、回復するのに、とても苦労するのを見てきました。

私も教会で苦痛を感じましたが、決してカルト教会ではありませんでした。

ちょっと律法主義的であったり、私の考える神様とは違うかなとは思いましたが、それは、それぞれに与えられた信仰の違い程度のことです。

カルト化した教会に深く関わった人は、人格障害みたいになります。

何が正しくて、何が間違いか、拘束から解かれず、普通の生活の中で判断がつかなくなります。

あまりにもそのコントロールが強いので、何をやっても恐れがきます。神の名前を使って、脅されてきたからです。

“教会の外のクリスチャン”を思うとき、彼女たちは、疲れ果て、“神”とか“信仰”と言うことばに対し、深い傷の故に、拒否反応を示し、もっとも教会から離れたところにいる人たちかもしれません。

私は、カルト化教会の専門ではありませんが、身近にあまりにも多く、そのようなところに関わった人がいたので、いろんなことを考えさせられました。

カルト化していく教会は、不思議と同じ道をたどります。違う人たちなのに、なぜだろうと本当に不思議でした。

それは、カルト化教会の本質が、人間の弱さからきているからだと教えられました。

カルト化しそうな危ないと感じる牧師はいます。けれども、神様の顕著な働きや、カリスマ的な引き付ける力がないと、そこは守られる(カルト化しない、誰もそこに巻き込まれない)のかなと思います。

カルト化の定義は神の名前を利用して、自分の私利私欲に人を使い、その拘束力が生活全般に及ぶということだと思います。

「信仰」という名の虐待…(パスカル・ズィビィー著)という本で、私はいろいろ教えてもらいました。

本から引用します。「信仰という名の虐待とは何か…ある家庭は子どもを無視し、親の必要のために利用します。…同じように、普通の教会は、神様の愛と救いを教える場所です。牧師たちは支え、育てていきます。

家族のように信者たちの心を満たさなくてなりません。

しかし、牧師たちの自らの欲求のみを満足させるために信者たちの心を利用するようになると、これは信仰という名の虐待となります。」

長くなりましたので、カルト化の具体的特徴については、次に書きます。

###

神様、あなたは、私たちを自由にするため、喜びを与えるため、豊かに生きるため、イエス様を送ってくださいました。

それなのに、人間的な弱さのため、神様の名前を利用して、神様に集う人を恐怖の中にコントロールする人がいます。

人の深い罪の性質を赦してください。

その中でなお苦しむ人を助け出してください。

そこから出た人に、イエス様の癒しがおおいますようにしてください。

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2009年5月31日 (日)

いざ“約束の地カナン”へ!

神様はアブラハムの子孫にカナンの地を与えると約束しました。私たちはどのようにして、カナンの地に入れるのかを思いました。

『わたし(神)は、あなたが滞在している地、すなわちカナンの全土を、あなたとあなたの後のあなたの子孫に永遠の所有として与える。わたしは、彼らの神となる。』旧約聖書 創世記17:8

神様は、アブラハムに、子孫をおびただしく増やす約束とともに、約束の地カナンを与えると言われた。

アブラハムはその地に滞在していた。しかし、その地を子孫に与えられる計画は壮大だった。

アブラハム、イサク、ヤコブ、ヨセフ…ヨセフと共にヤコブたちはエジプトに移り住む。

そして、モーセによって、イスラエルの民は奴隷になったエジプトの地を脱出する。

40年、イスラエルの荒野をさ迷った後、ヨシュアをリーダーとし、約束の地、カナンにたどり着く。

アブラハムが今いるカナンの地が契約の通り、イスラエルの民のものとなったときだった。

“約束の地カナン”は、私の中で、漠然と神様が宣教するために遣わしてくれる土地なのかなと思っていた。「神様、わたしにとって、約束の土地ってどこですか?」と聞いた。

しかし、今私は思っている。“約束の地カナン”は、霊的な意味で、神様に訓練され、神様の安らぎの中に入ったところを言うのではないかと。

私たちは、イエス様によって、この世(エジプト)から脱出した。

しかし、荒野をさまよったイスラエルの民と同じで、私たちも神様を体験し、神様を信頼するために、様々な荒野のようなところを通され、訓練される。

ヨシュアが信仰の一歩として、ヨルダン川に足をつけたとたん、川が2つに分かれたように、やがて私たちは、神様を信頼してさらに深い領域へと進んでいく。

荒野で神様は、“マナ”を降らせ、日々養われた。

ところが、不思議なことにカナンの地に入ったとたん、マナは降らなくなった。

そして、ヨシュアたちは、カナンの肥沃な土地で、様々なものを収穫して食べた。(ヨシュア記5:12)

荒野で私たちは、神様から信仰の訓練を受けるとともに、養われるための食べ物も与えられる。

しかし、神様への信頼が確立した土地においては、自分で収穫する喜びを神様は与えられる。

神様によって、カナンの土地は私たちにも約束されているが、一足飛びにはそこにはたどり着かないのかもしれない。

しかし、アブラハムたちに約束された地は、私たちにも約束されている。

カナンの地が遠そうに思えても、そこにたどり着かせてくださるのは、神様ご自身である。

いろんな神様の不思議を体験しながら、カナンの地を目指したい。

『主(神)は、あなたをエジプトの地、奴隷の家から連れだし、燃える蛇やさそりのいるあの大きな恐ろしい荒野、水のない、かわききった地を通らせ、堅い岩から、あなたのために水を流れ出させ、あなたの先祖たちの知らなかったマナを、荒野であなたに食べさせた。

それは、あなたを苦しめ、あなたを試み、ついには、あなたをしあわせにするためであった。』(申命記8:14~16)

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与えられた“祝福の特権”

アブラムは「多くの国民の父」となりました。今、私たちも多くの人を祝福するために召されています。

『アブラムは、ひれ伏した。神は彼に告げて仰せられた。

「わたしは、この、わたしの契約をあなたと結ぶ。あなたは多くの国民の父となる。

あなたの名は、もうアブラムと呼んではならない。

あなたの名はアブラハムとなる。

わたしが、あなたを多くの国民の父とするからである。…」』旧約聖書 創世記17:3~6

彼の生まれながらの名前は、“アブラム”であった。(わかりにくいので、ずっとアブラハムと書いてきたが。)

神様はアブラムに現れ、「あなたの名前は今日からアブラハムとなる。」と言われた。

“アブラム”の意味は、「高貴なる父、高められた父」である。

改名された“アブラハム”は「多くの国民の父」と言う意味である。

年老いて死んだも同様の人アブラムは、神様によって、天の星のように、また海べの数えきれない砂のように数多い子孫の父、アブラハムとなった。(ヘブル11:13)

アブラハムは、この日、神様から新しい名前をもらい、新しい出発点に立つ。

私たちもイエス様を信じて新しい出発点に立つとき、神様から見たら、新しい名前がつけられる者となる。

それは“多くの祝福を与える者”という名前である。

神様につながっていないとき、私は、誰をも祝福するすべを知らなかった。

一人で生きていくことすら、しんどく、人どころではなかった。

しかし、イエス様のいのちをいただくと、変えられた。私のために死なれたイエス様の愛に打たれ、私もまた、誰かのために生きたいと願うものとなった。

神様は、私たちに祝福を与える者として召された。(第1ペテロ3:9)

神様ご自身が、私たちを祝福されるので、その祝福がまわりに流れる。

アブラハムは信仰の歴史の中で祝福の始まりとなった。

私は今、神様から受け継いだ祝福が、私のまわりのすべての人に与えられるよう祈りたい。

『悪をもって悪に報いず、侮辱をもって侮辱に報いず、かえって祝福を与えなさい。あなたがたは祝福を受け継ぐために召されたのだからです。』第1ペテロの手紙3:9

###

神様、私たちは祝福を受け継ぎ、与える者として召してくださりありがとうございます。

神様から与えられた特権は使わないと、どんなにたくさん与えられているか知ることができません。

あなたの祝福は、無尽蔵であることを体験させてください。

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2009年5月30日 (土)

イエス様の打ち傷によって癒された

イエス様の打ち傷による癒しを祈ります。

『しかし、彼(イエス)は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎(とが)のために砕かれた。

彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちは癒された。』旧約聖書 イザヤ53:5

“キリストのからだ”の傷の痛みを思いました。

私にとって“キリストのからだ”とは、目に見える教会の中にいる人と、外にいるすべてのクリスチャンです。

その痛みを思いつつ、お祈りします。

「天のお父さん、あなたが私たち、一人一人をこよなく愛してくださっているのがわかります

イエス様は十字架の上で刺し通され、苦しまれました

それは、そのイエス様の打ち傷によって、私たちをいやされるためでした

今イエス様のかかられている十字架を見ます

私のために苦しみ、刺し通されてくださったのですね

イエス様の十字架で流された血潮によって、私たちを赦し、癒し、きよめてください

イエス様の十字架によって、私たちイスラエルの民以外のものも、また一つに集められたのですね

キリストのからだの癒しが行われ、一つに集められますように

今、慰めなる聖霊様、イエス様の十字架による癒しが、痛む傷をおおいますように

神様、あなたが私たちに約束されたイエス様による約束…神様の子どもとされていることは何があっても変わらないことをありがとうございます

それは、イエス様の十字架の完全性のゆえ、神様の偽らない真実のゆえ、ありがとうございます

あなたの子どもとしてふところに抱いてくださり、涙枯れるまで泣かせてください

そして、近くにいつも、このイエス様がいてくださることを教えてください

主の慰めと癒しがキリストの十字架から、隅々まで流れていきますように

主よ、おおってください」

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暗やみの中のイエス様の“ともしび”

イエス様はどこに行かれたいのでしょうか。

『私はあなたの御霊から離れて、どこへ行けましょう。

私はあなたの御前を離れて、どこへのがれましょう。

たとい、天に上っても、そこにはあなたがおられ、私がよみに床を設けても、そこにあなたはおられます。

私が暁(あかつき)の翼をかって、海の果てに住んでも、そこでも、あなたの御手が私を導き、あなたの右の手が私を捕らえます。

たとい私が「おお、やみよ。私をおおえ。私の回りの光よ。夜となれ。」と言っても、あなたにとっては、やみも暗くなく夜は昼のように明るいのです。暗やみも光も同じことです。』旧約聖書 詩篇139:7~12

イエス様は暗やみに消えることのない“ともしび”を持ってこられた

太陽輝く昼だったり、ネオン街のようなにぎやかなところではイエス様の“ともしび”はかき消される

たとえば、光が届かない深海の底の底

そこにイエス様の“ともしび”は輝きだす

深く深く誰も踏み込めないくらい暗い海の底

深く深くイエス様は降りていかれる

悲しみと失意と虚無と苦悩の海の底にイエス様は降りていかれる

イエス様の希望は何ですか

私たちのネス湖のような深い暗闇にともしびを照らされたこと

イエス様の願いは暗やみに“ともしび”を照らしたいということ

イエス様がいるところは暗やみも光と同じです

私たちの誰も踏み込むことのなかった暗やみにイエス様の“ともしび”がともりますように。

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“あなたはご覧になる神”(創16:13)

ハガルに現れた神様は、今、私たちにも現れてくださいます。

『サライは彼女(女奴隷ハガル)をいじめたので、彼女はサライのもとから逃げ去った。…

主の使いは彼女に言った。「あなたの子孫は、わたしが大いにふやすので、数えきれないほどになる。」

さらに、主の使いは彼女に言った。「見よ。あなたは身ごもっている。男の子を産もうとしている。

その子をイシュマエルと名づけなさい。…」

そこで、彼女は自分に語りかけられた主の名を「あなたはエル・ロイ。」と呼んだ。それは、「ご覧になる方のうしろを私が見て、なおもここにいるとは。」と彼女が言ったからである。』旧約聖書
創世記16章

アブラハムには「子どもが与えられる」と神様から約束されていた。

アブラハムも妻サライ(後のサラ)もどんなにか待ち遠しかっただろうか。

あまり長く待たされので、妻のサライは、「奴隷によって子どもが与えられるのだ。」と女奴隷 ハガルに子どもを生ませる。

が、そのことで身ごもった女奴隷ハガルが女主人サライを見下げるようになり、サライは「なんとかしてくれ。」とアブラハムに訴える。結果、女奴隷ハガルはサライのもとから逃げる。

なんだかゴタゴタしている。が、私たちが与えられた約束というのは、長い年月を待たされることが多く、また、大切なことほど、信仰が試されるのだろう。

そんなまわりの人間の弱さのゆえ、ハガル自身は、苦しみの状況下に置かれる。

奴隷であったのに、そこから逃げるというのは、その先、なんの生きていく手立てもなくなることを意味するのだろう。

周りの人のしてしまった結果で、絶望状態に追い込まれる。

そんなハガルに、神様は現れた。そして、その子孫の祝福を約束し、ハガルによって生まれる子どもの名前をつけられた。

「イシュマエル」とは“神は聞かれる”の意味とのこと。何の希望もない状況の中、神はハガルの思いを聞かれた。話す前からすべてを知り、聞いてくださっている。

ハガルは悲しみの中で神様に出会った。そして神様のことをハガルは“あなたはエル・ロイ”と告白する。

“ご覧になる神”という意味である。

私たちの混沌とした闇のような中に、神様は現れる。そのとき、私たちは変わらない状況の中で、慰めと希望を見い出す。

“あなたはエル・ロイ”“神様、あなたは私をご覧になっておられるのですね”

“あなたはエル・ロイ”ご覧になり、慰めをくださる神様がともにおられますように。

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2009年5月29日 (金)

ごめんなさい

今日、もらったコメントを読んで、心痛み、神様に謝りました。

『自分が義人だと自任し、他の人々を見下している者たちに対しては、イエスはこのようなたとえを話された。…

パリサイ人は、立って、心の中でこんな祈りをした。

「神よ。私はほかの人々のように、ゆする者、不正な者、姦淫(かんいん)する者ではなく、ことにこの取税人のようでないことを感謝します。…」

ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。

「神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。」』新約聖書 ルカによる福音書18:9~14

私は今日の朝方、自分を含めた教会の弱さのため、祈りました。

私は教会にいるといいながら、どこかで教会にいる人とは違っている…と自負していたみたいです。

でも、やっぱり、教会の中の人間で、外に人がこぼれていくのを放置していた人間だと突き付けられた気がします。

先ほど、よく遊びにきてくださる“迷える人”さんから、コメントをいただきました。

その前に出した、私の「聖書を読むと安心が来ますよ」というのに対する返答です。

聖書を読まなければならないように圧迫を与えたみたいです。

謝りましたが、愕然とした感じです。

教会来なさい、祈りなさい、聖書を読みなさい…も無理に強いられたら、新しい規則です。

やはり、私も人を自分に合わせてこようとしてた一人なんだと痛感しました。

“迷える人”さん、ごめんなさいね。そうやって、私や教会は、自分に合う人以外を信仰の名前を使って、はじいてきたのかもしれませんね。

イエス様のところは、何かする世界ではありません。何もしなくていいのです。イエス様を信じる以外。いえ、信じることすら、イエス様がされることですね。

###

神様、自分に人を合わせようとする私を赦してください。

人間が作った領域、壁を悔い改めの中、打ち砕いてください。

イエス様のところにこようとする妨げている私のものを、もっと明らかにして、打ち砕いてください。

ただ、自由に人々が喜んでイエス様の中に憩えますよう導いてください。

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「さあ、天を見上げなさい。」(創15:5)

揺らぎやすい私たちにも、神様はアブラハムへと同じことを語ってくださいます。

『そして、彼(アブラハム)を外に連れだして(神は)仰せられた。

「さあ、天を見上げなさい。星を数えることができるなら、それを数えなさい。…あなたの子孫はこのようになる。」

彼は主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。』旧約聖書15:5.6

アブラハムは、「あなたを大いになる国民とする。」とその子孫の繁栄を約束された。

アブラハムはすぐにでも、子どもが与えられ、そのようになると思ったかもしれない。

しかし、現実は、ロト関係良好を保つため、ロトと別々に住むことになったり、敵からのロト救出劇に翻弄(ほんろう)されたりした。

気がつけば、何も神様の約束は成っていないではないか。

それらの後、神様は幻でアブラハムに臨み、言われた。

「アブラムよ。恐れるな。わたしがあなたの盾である。あなたの受ける報いは非常に大きい。」と言われた。

「神様、私に何をお与えになるのですか。あなたが言う、その子どもがいませんのに。」

アブラハムは、恐れ、揺らいだ。

しかし、神様は「私の言うことが信られないのか!」と激怒なさらなかった。

優しく、アブラハムの心を察し、彼を外に連れ出す。

「さあ、天を見上げなさい。あなたの子孫はこの数えきれない星のようになるのだよ。」と言われた。

私たちに神様は約束をくださる。が、私たちは、いつ、どんな方法をもってか知らず、心揺らぐ。

もしかしたら、私の思いこみ、勘違いであったかもしれないと自分自身に語りかける。

そんな弱い私たちにも、神様は、「さあ、天を見上げなさい。いのちを捨て、あなたを取り戻したイエス様にあって、私は聖書にあるとおりに、あなたの約束を進めている。」と優しく言われる。

『彼(アブラハム)は主(神)を信じた。主はそれを彼の義と認めた。』

「アブラハムは約束を信じた」とは書いていない。アブラハムの信じたのは、約束ではなく、語りかけてくださる神様を信じたのだった。

信じられないような中で、それでも、神様を信じる…それは、神様にとって何より嬉しいことだった。

あのエデンの園でのアダムとエバとの麗しい関係を神様は求めている。

神様を使って、奇跡やわざが行われる…のは違うと今、思う。

私が教えられたことは、何かを信じるのではなく、神様ご自身を信頼する歩みこそが、神様が喜んでくださり、私にとっての最大の喜びだったということだった。

私はその神様との関係になるまで、とてつもなく、長い年月を要してしまった気がする。

アブラハムは神様を信じた。神様はそれを彼の義と認め、受け入れられた。

神様は、アブラハムに語りかけたように、「さあ、天を見上げなさい。」と語られる。私はイエス様を私のためにくださった神様を信じたい。

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教会に聖霊が満ちるまで祈ります

教会に行っていないクリスチャン、痛んでいるクリスチャンの癒しのため、祈ります。

『この川が流れて行く所はどこででも、そこに群がるあらゆる生物は生き、非常に多くの魚がいるようになる。

この水がはいると、そこの水が良くなるからである。

この川がはいる所では、すべてのものが生きる。…

そこの魚は大海のように種類も数も非常に多くなる。…

川のほとり、その両岸には、あらゆる果樹が成長し、その葉も枯れず、実も絶えることがなく、毎月新しい実をつける。

その水が聖所から流れ出ているからである。

その実は食物となり、その葉は薬となる。』旧約聖書 エゼキエル書47章

私は、神様に出会う前はボロボロでした。孤独と虚無感、自己嫌悪と恨みの渦の中にいました。

神様に出会い、喜びながら、なお、痛み、うずく傷に悩みました。

神様は私に自分の罪や弱さを告白し続けるという中、癒し続けてくださいました。

最後の深い傷に至るまで、神様は癒しおおってくれました。

気がつくと、クリスチャンになって、30年になりました。

そんな私に、神様は今度は教会の傷を癒すよう、導いてくださいました。

私がエゼキエル47章のように、赦され、癒され、きよめられたとき、聖霊様に満たし、溢れ、流してくださったように、教会にもそれがなることを信じさせてくれました。

私の神様からの働きはたった一人の癒しになるのかもしれません。

けれども、信仰が与えられ、自分の癒しを通して、教会の癒しの幻を見たので、祈っていくことにします。

教会の罪、弱さのために、神様と、外のクリスチャンに向けて祈ります。

今晩、少し祈ります。私が教会の弱さを祈れるのは、私自身が25年教会の中で、痛み、苦しんだから、そのことを祈れると思います。

“私”で祈りますが、“私”とは、“私を含めた教会”のことです。

「私は長い間、聖書のことばで、人を裁いてきました。そのことを赦してください。

聖書のことばは、本来人を生かすために、神様が与えられたものです。

しかし、私は、その生かすことばをもって、人を縛り、人に新しい規則を作り、新しい罪責感を与えてきました。

神様、イエス様の十字架によって、赦してください。癒してください。きよめてください。

どうぞ、私が語るとき、神様のご性質なる愛と慰め、赦しと受け入れを語れますように。

私は、人には重荷を課しておきながら、自分は教師ですべて立派に努めているかのように振る舞いました。

私たちは皆同じ、赦された者です。

誰か偉くて、誰か偉くない世界は、イエス様にある世界ではありません。

イエス様は、誰かに仕えたかったら、低くなりなさいと言われました。

私の傲慢の罪を赦し、癒してください。

私はどこからそうなったでしょうか。

初めは違っていました。神様に熱心になるうち、初めの愛から離れました。

もう一度、私を初めの愛に戻してください。どこからだったのか、どうすればよいのか教えてください。

私を縛り、捕らえているものから解いてくださり、あなたの愛に憩わせてください。

私を赦し、癒し、きよめて神様の親しい関係に戻してください。

イエス様のお名前によって祈ります。アーメン」

どうぞ、中がきよめられ、外が癒されますように。

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イスラエルの牧者たちはいない(日記より)

3年前のある日の日記に私にとって、大切なことが書かれてありました。

『彼らは牧者がいないので、散らされ、あらゆる野の獣のえじきとなり、散らされてしまった。…

見よ。わたしは自分でわたしの羊を捜し出し、これの世話をする。

牧者が昼間、散らされていた自分の羊の中にいて、その群れの世話をするように、わたしはわたしの羊を、雲と暗やみの日に散らされたすべての所から救い出して、世話をする。

わたしは国々の民の中から彼らを連れ出し、国々から彼らを集め、彼らを彼らの地に連れて行き、イスラエルの山々や谷川のほとり、またその国のうちの人の住むすべての所で彼らを養う。…

わたしは、彼らを牧するひとりの牧者、わたしのしもべダビデを起こす。彼は彼らを養い、彼らの牧者となる。』旧約聖書 エゼキエル書34章

前にブログに書いたが、この“イスラエルに牧者はいない。しかし、わたし(神)はひとりの牧者を起こす”という約束を読んで、私は何度もこの箇所を開いては、「神様、いつですか?」と祈った。

そして、私の中で、この約束は成った!

私が牧師や教会に期待するのを止め、一切を手放したとき、私の中で、イエス様が直接の牧者となってくれた。

その後、そのとき属していた教会は混乱し、最後は閉じられた。

その閉じる3か月前、私は、朝8時から祈り始めて、祈りが止まらず10時間ぐらい祈った日があった。

私は、神様とおしゃべりならいくらでもするが、祈りの賜物があるという訳でなく、祈らされて止まらないというのは、先にも後にもその時だけだった。

神様はエペソ2章を通して、教会に集わないクリスチャンに祝福を与える約束、やがて中も外も一つとなると言われた。

そして、最近、その日の日記に目を通した。今、導かれて祈っているようなことを書いていた。

3年間、そんな祈りをしていたのを忘れていた。メモのような殴り書きの日記だが、ちょっと書き写してみる。

「エゼキエル34章によって、イエス・キリストが牧者となる。

教会の外にいる人に向けていく祈り、

教会と自分の罪の悔い改め、

私の役目はボーダーラインとして悔い改め、外の代弁者となる

リバイバル(信仰覚醒)は悔い改めた者から始まる、私から悔い改めの取り扱いを受けます

私の裁く心、偽り、傲慢は主に嫌われるもの、私は徹底して悔い改めます

この教会、牧師には一切何も求めません

この取り組は私一人で取り組みます

教会の人たちと祈って行きたかったが、一緒に取り組む人がいなかったからです

私の動機は主がご存知です

もし不純なものなら、平安もなく、みことばの慰めもありません、神ご自身が裁かれます

もし動機が純粋であるならば、平安があり、みことばの扉が開かれ、新しい慰めが与えられ、主ご自身のあとおしがあります

キリストの体を離れて働くとき、人はずれやすくなる、だからこれは皆さんに与えられるものでなくとも、与えられたチャンスにこの取り組みをあかししていきます。」

最後のほうは意味不明…皆さんって誰?っていう感じだが、祈りと神様から語られた、まじった感じだろうか。

こんな祈りのメモはすっかり忘れていた。

今、一人でなく、祈り支えの中、神様がこのブログを用いてくれようとしている気がする。

イエス様が一人一人の牧者となり、養われ、喜びますよう祈ります。

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2009年5月28日 (木)

渡れない大きな淵があった

イエス様はどんな仲介者であるか考えました。

『しかし、キリストは永遠に存在されるのであって、変わることのない祭司の務めを持っておられます。

したがって、ご自分によって神に近づく人々を、完全に救うことがおできになります。

キリストはいつも生きていて、彼らのために、とりなしをしておられるからです。』新約聖書 ヘブル人への手紙7:24.25

祭司とは、神様に仕えるため、人々から選ばれ、人々に代わる者として任命を受けた。その仕事は、おもに、罪のために、ささげ物といけにえとをささげるためとある。(ヘブル5:1)

神様と人の間に立つものということでは、分かりやすく言うと仲介者と言うことになる。

キリストは祭司であり、神様と人の仲介者である。どんな仲介者か。

仲介者としてのキリストは、普通の仲介者ではなかった。

ルカによる福音書にイエス様が天国と地獄の話しが出てくる。

毎日ぜいたくに遊び暮らす金持ちと、全身おできでその門前に寝る貧乏人ラザロがいた。ラザロはいつもひどい空腹だった。

貧乏人は死んで、アブラハムのいる天国に行く。一方、金持ちは、地獄(ハデス)で苦しむ。そして、ラザロをふところにするアブラハムをはるかかなたに見て言う。

「ラザロに私の舌を冷やすよう、よこしてください。…それがかなわないなら、今、生きている兄弟にこんな苦しいところに来ないよう、言ってください。」

アブラハムは言った。

『私たちとおまえたちの間には、大きな淵(ふち)があります。ここからそちらへ渡ろうとしても、渡れないし、そこからこちらへ越えて来ることもできないのです。』ルカによる福音書16:26

ここでは、地上と永遠の死後の世界の、イエス様による逆転劇を表している。

ここで、語られる神様のメッセージは、死後の救いはないということだろう。

けれども、イエス様の十字架がなければ、私は、地獄で苦しみ続ける金持ちなのだと思った。

イエス様の十字架による仲介がない現実は、恐ろしいもので、絶望的なものだということだ。

イエス様の仲介が、賃貸契約の仲介かのような安易なものではない。

神様と私たちの間には、大きな淵がある。神様の方から人のほうに渡ろうとしても、人があまりにも汚れていて行くことができず、人々のほうから、完全で聖なる神様のほうに越えて来ることもできない…大きな、どうしようもない淵がある。

イエス様は神であったのに、人となられ、ご自分のいのちをもって、神様の前にいけにえとなり、不可能であった神様と人が交流できる仲介者となられた。

神様のところにいるのが当たり前になりそうになったら、私は本来、イエス様の十字架がなかったら、この永遠に苦しむ金持ちであったところに戻って、イエス様の犠牲の仲介を感謝しようと思った。

神様と私の仲介者なるイエス様は今日も私たちのために、生きて働き、とりなしを神様にしてくださっている。

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イエス様のいるところにいる

イエス様といるならば、どんなところにも行けるのかもしれません。

『わたし(イエス)に仕えるというのなら、その人はわたしについて来なさい。

わたしがいる所に、わたしに仕える者もいるべきです。

もしわたしに仕えるなら、父(神)はその人に報いてくださいます。』新約聖書 ヨハネの福音書12:26

4年ほど前、そのとき属していた教会でのこと。

教会員の義理の妹さんが26歳という若さで、不治の病になられた。私たち、小さな教会では、癒されるよう祈った。

その妹さんはイエス様を信じた。教会員の人は牧師に見舞いに行って欲しいと願った。が、なぜか牧師は行かなかった。

その頃、私は地元の病院で、「乳ガン悪性の疑い」と言われ、専門の医師がいる病院を紹介された。家から1時間半もかかる都内にある病院だった。

その病院が、教会員の義理の妹さんが入院している病院だった。

私は定期的に診察でその病院へ行った。そして、その妹さんを病院に行くたびに、お見舞いした。

教会の何人かで祈っていたので、彼女は不治の病で、死を前にしているかのようだったが、癒されると信じていた。お見舞いに行くたび、私は彼女と聖書の話しをしたり、祈ったり したが、神様の癒しを信じていたので、命細くなっていくかのようでも、なぜか、安心していた。が、彼女は亡くなられた。(天国へ行かれた。)

私は何もできなかった。なぜ、神様の備えの中、彼女のところへ見舞いに行くことになったかも良くわからなかった。

私の中で、一つ不思議だったのが、別の方の手術のときは喜んでお見舞いに行く牧師がなぜ、彼女を見舞わなかったか…ということ。

ある日、夕食を作っているとき、突然、聖霊様が教えてくれたような気がした。

「牧師は行きたくなかったのではない、行けなかったのだ。」と。

裁く気持ちとかは無かった。牧師は、自分を通して病の癒しが行われるのを強く願っていたのだと思う。回復の見込みのある方の見舞いには行けたが、死を目の前にしている方には、怖くて行けなかったのだと思った。(牧師は自分が行かない理由すら、気がつかなかったと思うが。)

それを教えられたら、なんか可哀想な気持ちすらした。

私たちは何もできないのである。何かできると思い込んだら、成功するか失敗するかに捕らわれるのかもしれない。

私は悲しみの、絶望の闇の中に、イエス様のともしびを持って行きたいと思う。

私は何もできないし、何も起こらないかもしれない。

そこにイエス様がいるなら、一緒に行きたい。

イエス様は言われた。『わたしに仕えるというのなら、その人はわたしについて来なさい。わたしがいる所に、わたしに仕える者もいるべきです。』

「わたしのいるところにいなさい。」と言われる。大切なことは、何かをしようとするのではなく、イエス様と共にいることである。

私と共にいてくださるイエス様がいるならば、私はイエス様とどこへでも行ける。

何かしようというのは無意味なのだ。イエス様と一緒に、悲しむ人、苦しむ人のところにいるだけである。何かをなさるのは、イエス様だけだから。

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2009年5月27日 (水)

“キリストのからだの痛み”を教えられた出会い

私が少しだけ、変えられたのは、友人Mさんによってでした。

『しかしこういうわけで、器官は多くありますが、からだは一つなのです。…

からだの中で比較的に弱いと見られる器官が、かえってなくてはならないものです。

また、私たちは、からだの中で比較的に尊くないとみなす器官を、ことさらに尊びます。…

それは、からだの中に分裂がなく、各部分が互いにいたわり合うためです。

もし一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、もし一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶのです。

あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。』新約聖書 第1コリント12:20~27

私のブログに何回も何回も登場した喧嘩友達Mさん。

彼女は親から虐待を受けて育ち、そのあとも言葉にならないような辛いところを通された。

彼女のような人には、私が語るような陳腐な神の愛は伝わらなかったのかもしれない。彼女は神様から天国を見せられ、イエス様を信じた。

彼女の希望は教会のリバイバルだった。神様の圧倒的な世界を見させられた人の自然な渇望だった。

が、信仰生活の中に、圧倒的な神様のみわざを見ることはなかった。

彼女が最後に属した教会は空中分解し、無くなった。私の属した教会でもあるが。

彼女は親に見捨てられたように、教会に、神様に見捨てられたような痛みが深く残った。牧師たちの外の人たちに対する冷たい対応が許せなかった。そして、いい知れぬ深い罪責感…私のせいで、すべてがこんなになってしまったのかもしれない…に落ち込んだ。

前にも書いたが、彼女と私の大喧嘩勃発の原因は、私が「癒されたら、また、ふさわしい教会を捜して行けばいいよ。」と言った発言あたりからだった。

「sebaさん、それ、おかしい、間違っているよ。」と言われた。『おかしいも何もそれぞれに信じているところでいいんじゃないの?』と私は心で思った。

そんな会話の後、何度か言い合いをした。私は心に決めた。『私は自分の信仰を否定されることほど、嫌なことはない。彼女の前では、“教会”というキーワードはタブーだから、私から言うのは辞めよう。』

その後、彼女は言った。「教会は行かなくていいんだよね。」私は喧嘩にならないように無言を保った。

彼女の気持ちを、あるとき、聖霊様によって知った。

「親から虐待され、その鎖が巻かれた彼女にとって、教会に行くということは、親のところに頭を下げて戻ることと一緒なんだ…。」と。

彼女はACグループ(アダルト・チルドレンのグループ)に通った。

そこでは、何を言っても許される。受け入れられる。「あんな親、ぶっ殺してやりたい!」とある人が叫んだらしい。

教会や私なら、「それでは、癒されるよう、憎しみがなくなるよう祈りましょう。」と言うところだろう。

教会の縛りから解かれ、彼女はアメリカに旅立った。彼女は、私に、「そのままでは、あなたはいつまでたっても外の声は聞こえないよ。」と教えてくれたのだと今、思う。

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“キリストのからだ”の回復のため、私が出来ること

“キリストのからだ”(見えない大きな教会=外のクリスチャンを含めた)の回復のため私は今、何が出来るか考えました。

『男は何かもらえると思って、ふたりに目を注いだ。すると、ペテロは、「金銀は私にはない。しかし、私にあるものを上げよう。ナザレのイエス・キリストの名によって、歩きなさい。」と言って、彼の右手を取って立たせた。

するとたちまち、彼の足とくるぶしが強くなり、おどり上がってまっすぐに立ち、歩きだした。そして歩いたり、はねたりしながら、神を賛美しつつ、ふたりといっしょに宮にはいって行った。

人々はみな、彼が歩きながら、神を賛美しているのを見た。』新約聖書 使徒の働き3:5~9

神様は、今、私にいろいろなことを教えてくれています。

私は、教会の中と外のちょうど、真ん中(教会の中のドア)にいる者です。

長い間、そこにいて教会批判してきましたが、神様によって本当に癒されました。

まだ、教会の中にかろうじている私は、外の人と一番接触したり、話しを聞きやすい者です。

私の喧嘩友達は、外にいて、私に「あなたは変わらなくてはいけない。」と言いました。そして、今、神様は、私が変わることを強く迫っている感じです。

なぜ、私が変わらなくてはいけないか?

私が教会の中と外の“壁”だからかもしれません。

イエス様はすべての人を赦し受け入れてくれますが、多くの教会が人間的に受け入れる枠を作り、その外に人がこぼれていきます。

私自身、教会の中にいて、傍観者のように教会と牧師を批判してきました。

けれども、それは、私が私自身を裁いてきたことと同じかもしれません。

私が変わる…私が外の人を理解し、受け入れることができれば、私は教会のギリギリのドアに立つものなので、その領域は広がるということです。

私はドアに立ちながら、外を見ています。聞こえなかった声を聞けるようになりたいです。

私が教会の中の者として外の人に出来ることはたくさんあります。

教会が何か足りずに、傷つけて、そっと去られた方に、謝ることができます。

痛みを共有し、祈ることができます。

私には、理解しにくいことでも、一緒 に聞く人、共感する人を捜してくることができます。

昨日、「迷える人」さんにettuさんが言ってくれました。

「ここには、是非、悩みだけを持ってきてほしいです。討論、批判、問答はここには似合わないと思いますから…。」と。

25年間、教会批判してきた私は言いたいです。「討論、批判、問答は誰のためにもなりません。何より、自分自身にダメージを与えます。」

悩みや、痛み、悲しみはいくらでもお付き合いしたいです。

それは一緒に祈り、癒されるためです。癒された人は、イエス様の赦しをたくさん受けます。多く、赦された人は、多く愛するのです。

見えないキリストのからだの癒しと回復は、外の人から始まると私は信じています。多く癒され、赦されるからでしょう。

痛みを負う人たちが癒されるために、私は何度でも、自分がしてきた失敗を証します。

すべての人が癒しと回復にいたるイエス・キリストのみ名が語られますように。

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2009年5月26日 (火)

“絶えることのない永遠のしるし”

一つの神様からの約束の意味を知りました。

『まことに、あなたは喜びをもって出て行き、安らかに導かれて行く。

山と丘は、あなたがたの前で喜びの歌声をあげ、野の木々もみな、手を打ち鳴らす。

いばらの代わりにもみの木が生え、おどろの代わりにミルトスが生える。

これは主の記念となり、絶えることのない永遠のしるしとなる。』旧約聖書 イザヤ書55:12~13

3年前、息子の小学校のPTA会長をした。

全くやるつもりはなかったが、そのお話しをもらったとき、「機会を生かしなさい。」と神様から言われ、引き受けた。

人と出会いたいと、息子が幼稚園から、ほとんど毎年何かの役員をした。が、PTA会長となると、さすがにハードルが高い気がした。

引き受けてからも、「神様、私で大丈夫でしょうか?」といつも祈っていた。

そんなとき、イザヤ55章の約束のことばを神様からもらった。

「そうなんですね。楽しくやらせてくれるんですね、神様。絶えることのない永遠のしるしって何ですか?」と聞いていた。目に見える何かかなぁと思った。

任期につく3か月前、大先輩の方が私のところに来て言った。「会長になるべきなのは、あなたではないからやめなさい。」と言うようなことを言われた。

経験からいっても、能力からいっても、私も全然自信がなかったので、彼女の言われることは「ごもっとも」と思った。けれど、この約束のことばが、自信は全くない私を揺るがなくしていた。

「私の資質や能力を問われたら、やれないのはわかります。でも、私はすべての夜の会議も出席しますし、私がやれることは全部します。」と彼女に言った。30分の押し問答は終わった。

PTA会長は、やってみたら、ひたすら楽しかった。学校を越えて、たくさんの人と知り合いになった。

私たちの小学校では、歴代PTA会長は、掲額(けいがく)があった。私は17代目というのだが、他の人と同じ役員なのに、私だけ大きな写真を壁にかけられ、功績をたたえられる…というのは、違和感があり、抵抗があった。

写真を掲げなくて良いように、2年間神様に祈った。「歴代やってきていることを辞める訳にはいかない。」と校長に言われていた。しかし、私が会長を降りるとき、校長が変わり、「好きなようにしてください。」と、掲額辞退に至った。

今、子どもの中学で文化という役員をやっている。人気のない役だが、sebaさんがやるならと、たくさんの人が立候補してくれた。みんなとできて、楽しくやれている。

私自身に良いものはない。良いものがあるとしたら、それはイエス様だ。私のうちに住まわれるイエス様の喜びがまわりの人たちに喜びを与える。

『主の記念、絶えることのない永遠のしるし』は『いばらの代わりのもみの木、おどろの代わりのミルトスの木』であった。

永遠のしるしは、私を通して、イエス様のいのちがまわりの人たちに影響を与える…という約束と知った。

主の記念と絶えることのない永遠のしるしとは、人の中に与えられる。

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権利を放棄する祝福

自分の権利を放棄する難しさを思います。

『そこで、アブラハムはロトに言った。「どうか私とあなたとの間、また私の牧者たちとあなたの牧者たちとの間に、争いがないようにしてくれ。私たちは、親類同士なのだから。

全地はあなたの前にあるではないか。私から別れてくれないか。もしあなたが左に行けば、私は右に行こう。もしあなたが右に行けば、私は左に行こう。』旧約聖書 創世記13:8.9

私がボランティア役員のリーダーをしていたときのこと。会計報告の計上の仕方で、他の方と意見が違った。私は、どちらが正しいかより、みんなで話しあって決めたかった。が、話し合いはされず、私の間違いとされ、まるめこまれた。なんだか、すごく口惜しかった。

すると神様が、「あなたが低くなるなら、ちょうどいいとき、高くされます。」と言われた。

「え?神様どういう意味ですか?」と聞いたが、私の宿題だったのが、その後の返事はもらえなかった。

自分の権利を放棄するというのは、難しい。私など、不可能に近いかもしれない。

しかし、アブラハムは自分がロトより年長者で、当然彼にある選択権をロトに譲った。

しかも、土地は子孫の約束とからんでいて、アブラハムにとっては、小さな問題ではなかった。それなのに、アブラハムはロトに選ばせ、残りのほうを受け取った。

イエス様のことを宣教して歩いたパウロは言った。

『では、私に(福音をのべ伝えて)どんな報いがあるのでしょう。それは、福音をのべ伝えるときに報酬を求めないで与え、福音の働きによって持つ自分の権利を十分に用いないことです。』(第1コリント9:18)と言った。

この世の中の常識では考えられない発言である。

なぜ、パウロがそう言えたのか。神様であるのに、すべてを放棄し、命まで捨てられたイエス様が迫って来て、パウロ自身、自分の権利を放棄してまで、福音を伝えたい情熱に駆られていたのだと思う。

アブラハムもまた、神様を信じる信仰によって、ロトに選択を任せた。

神様はそのアブラハムの土地を祝福された。

『さあ、目を上げて、あなたがいる所から北と南、東と西を見渡しなさい。

わたしは、あなたが見渡しているこの地全部を、永久にあなたとあなたの子孫とに与えよう。』創世記13:15

アブラハムは神様に信頼し、自分の権利を放棄し、なお、神様の祝福にあずかった。

「あなたの権利を放棄していれば、あなたは神様の時に高くされる。」と私は言われた。

それではその後の私はどうなったか、相変わらず、自分の権利を主張し、高くされる(神様の祝福を見る)にいたっていないような気がする。

###

神様、自分の権利を放棄することは、本当に難しいことです。

もし、私がイエス様によって、自分の権利を放棄できる生き方ができれば、世の中の人は不思議に思うでしょう。

そして、私たちのためにすべてを捨てられたイエス様の愛を知るのでしょう。

権利放棄できないものですが、イエス様によって、できる者へと変えてください。

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2009年5月25日 (月)

私の“ブログ周辺”に思うこと

最近、ブログのコメントがにぎわったり、とても楽しい日々です。そして取り巻く皆さんに感謝します。

『初めからあったもの、目で見たもの、じっと見、また手でさわったもの、すなわち、いのちのことばについて…

私たちの見たこと、聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたも私たちと交わりを持つようになるためです。

私たちの交わりとは、御父および御子イエス・キリストとの交わりです。』新約聖書 第1ヨハネの手紙1:1.3

昨日、礼拝に向かう最中、一つの情景が目に浮かびました。

それはイエス様のもとにいて、楽しそうにそれぞれがいる姿です。

今、このブログの周辺にも、イエス様によって、それぞれが好きなこと楽しんだり、イエス様から良いものをもらったりしているんだなぁと思いました。

このブログ周辺で、イエス様を楽しんでいる一部の人を紹介します。

まず、sebaこと、私。何の考えもなく、主人に言われて、突然去年ブログをスタート。自分の神様にある体験中心に話しを書いていましたが、ネタが切れそうになり、信仰のこと、教会のことなど今中心的に書いて、私自身祝福されています。

神様から聖書の話しを聞いて書いているので、書いている私が、「そんな内容もあったんですね。」と感動しています。

次に、ブログ管理人をやっている主人。綺麗な花や空の写真を撮りに行き、つけてくれています。私は未だに、パソコンは使いこなせず、携帯から記事アップしていますが、私のところに訪問者が増えるよう、日夜?いろんな工夫、努力をしてくれています。

3月頃から来てくださるようになった、求道中とのことの泉さん、イエス様に癒され、慰められているでしょうか。泉さんを通して、私はイエス様の素晴らしさを感じています。

ごく最近来てくださるようになったettuさん、彼が来てからこのブログが変わりました。なんか、コメントの少ないブログでしたが、コメントが増えました。集う人で、交流会になって、素敵です。

ettuさんは、たぶん3日間くらいかけて、私の過去ブログを読んでくれました。私の出会うイエス様を共に喜んでくださり、いつも、祈り、「このブログで交流しましょう」と外に向かって呼びかけてくれています。

ヨエルさんも最近来てくださいましたが、教会に傷んだ人のために祈っていつもコメントしてくれます。

そして、いつも欠かさず、読みにきてくださる皆さん。私は来てくれる人がいなかったら、こんなに神様に聖書のことを“聞く”作業はできなかったと思っています。来てくださる方によって、このブログも、成長している感じです。

私などは、教会でダメージ受けたことのほうが多かったので、霊的家族を知らない孤児のような感じです。

けれども、イエス様のもとで、好きな感じで、やりたいようにやるって、素敵だなぁと思います。

なんだか、私のブログでなく、イエス様にあって、みんなで作っているブログみたいと、胸ときめきます。

皆さんを通して、イエス様につながる喜びを、遅ればせながら感じさせてもらっています。

本当にありがとうございます。この感謝に答えて、私自身は聖書から聞いて分かち合う作業に忠実にありたく思っています。

ブログ訪問されたお一人、お一人に神様の祝福があることを心から願っています。

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2009年5月24日 (日)

“アブラハム”を呼び出された神様

アブラハムを呼び出された神様は、アブラハムに計画をもち、約束を語られました。

『その後、主(神)はアブラムに仰せられた。

「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。

そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。

あなたの名は祝福となる。

あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。

地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。』旧約聖書 創世記12:1~3

このアブラハムの召命(しょうめい=神様から呼び出され、使命と約束を与えられること)の箇所は、アブラハムの記事の中で、私が最も好きな所である。

11章まで、アブラハムに至る系図や、彼の妻の名前が書かれてあるが、この12章で、突然、神様がアブラハムに語られた。それまで、神様とアブラハムの交流はなかった。

アブラハムがどんな人か、どんな信仰を持っているかここの時点で私たちにはアブラハムのことは全くわからないのだが、神様の方からアブラハムに現れ、突然、核心に触れる話しをされたのである。

やがて、信仰の訓練を受け、「信仰の父」と言われたアブラハムであるが、神様とアブラハムの最初の出会いは不思議だった。

神様はなぜ、アブラハムに突然語られたのか。アブラハムはなぜ、突然現れた神様の『わたしが示す地へ行きなさい。』ということばに「はい。」と従えたのか。

神様は、私たちと違って“時”の空間を越えたお方である。新約聖書で言われる“信仰によって神様に義とされる”という大切な核心的なメッセージを私たちに伝えるその始まりとして、アブラハムを選ばれた。

アブラハムの選びは、天地が造られる前から決まっており、アブラハム自身は今の私たちがその信仰を引き継ぐために選ばれた。

アブラハムは異教の地にいたとされる。“神”を知らなかったのではないか。なぜ、約束と命令が語られたとき、「はい。」と従えたか。

神様の側の突然の声に、アブラハムには信じる何かがあった。もう少し、違う言い方をすれば、その声の主が誰かわからなくとも、信じるに値する何かを感じた。私的にいえば、神様が信じる信仰すら与えたから、「はい。」と従えたのだと思う。

私がある日、神様に出会ったとき、「神様のことは何もわからないけれど、この方についていけばいい」と確信した。それなのだと思う。

この召し出されたときの約束は、キリストによって、私たちに引き継がれた。

このとき、アブラハムは神様が言われたすべてを理解していない。それなので、神様は同じことをさらに具体的に繰り返し話された。

まだ、子どもの無かったアブラハムに、神様は「あなたによってその子孫は祝福され、大いなる国民となる」と約束された。

神様はそのとおりになさった。アブラハムの記事のテーマは“子ども”である。“子ども”=“約束の成就”なのだ。

神様は私たち一人一人への約束もアブラハムにされたように成し遂げてくださる。

アブラハムの“子ども事件”を通して、私たちは“神様の約束がなるその時”を共に見てみたい。

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荒野にあった“神様の計画”

神様は私が祈った祈りがそのとおりになるため、30年の荒野を通してくれました。

『主は、あなたをエジプトの地、奴隷の家から連れ出し、燃える蛇やさそりのいるあの大きな恐ろしい荒野、水のない、かわききった地を通らせ、固い岩から、あなたのために水を流れ出させ、

あなたの先祖たちの知らなかったマナを、荒野であなたに食べさせられた。

それは、あなたを苦しめ、あなたを試み、ついには、あなたをしあわせにするためであった。』旧約聖書 申命記8:14~16

私が神様に出会った日、「神様、私を使ってください。」と願った。

神学校に入るとき、「神様、入ってよいか、神様のことばが必要のようです。」と祈り、神様は「主がお入り用です。」と壊れたレコードのように、繰り返し語ってくださった。

神学校を卒業し、「神様、私が神様のことばを伝えるための約束をください。」と韓国の断食祈祷院に行ったとき、神様は、「あなたがたの手で、食物を与えなさい。わたし(イエス)が奇跡をなすから。」と言われた。

28歳だった私は、「こんなに神様を伝えたいという情熱がある私なのだから、神様の願いと私の思いが合致しているのだから、神様の働きをするのに、何の支障もないよね。」と思った。すぐ、神様の働きが開かれると思っていた。

あれから、22年、私はかなり怠けた主婦業をしながら、PTA活動や地域ボランティアや、ランチにいそしんでいる。

神学校を出たときは、教会の中で働きたかった。漠然と、牧師になろうと思っていた。

が、神様はその道は開かなかった。教会嫌いの、人好きの主婦になっていた。

昨日も8年前に、PTA役員をやったお母さんたちとの飲み会があった。あんなに、神様の働きだけを追及していた私が、癒されて、普通の主婦に溶け込んでいる自分が不思議である。

人好きだから、ボランティアもランチも飲み会も、人と会うのは、すべて同じように楽しくてならない。

神様は私の心が癒されて「人好き」の賜物をくれた?と思うほど、人と関わるのが楽しくなった。

今、ブログを通して、私の人との関わりと祈りの領域は広がった。

そして、ブログは、私のまわりにあるすべてをとっぱらった私の一番大切にしている部分の分かち合いである。

それを、読みに来てくださる方たちがいて、ある人は毎日来てくれて、私の話しに耳を傾けてくれるという無言の、しかし、私の一番大切なものを聞いてもらうという深い交流をさせてもらっている。

私がなぜ、30年近く、教会生活に翻弄(ほんろう)されたか。それは、神様のマナ(聖書のことば)を荒野で食べさせもらうためだった。

そして、私は苦しみ、私は訓練され、今、大切な聖書のことばを大切な人たち(会ったことも話しをしたこともない大切な人たち…不思議である)と分かちあい、しあわせな生活に至っている。

人の計画と神様の計画は違う。「神様、私を使ってください。」「神様、あなたのことばを伝えさせてください。」という若き日の祈りは、きかれた。その祈りがそのとおりになるため、神様は荒野を歩ませてくださったと知った。神様の計画のその配慮のきめ細かさ、深さ、高さを思い、ただ神様をほめたたえる。

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2009年5月23日 (土)

“バベルの塔”と“教会”

一つになる…2種類あることを思います。

『さて、全地は一つのことば、一つの話しことばであった。…

そのうちに彼らは言うようになった。「さあ、われわれは町を建て、頂(いただき)が天に届く塔(とう)を建て、名をあげよう。われわれは散らされるといけないから。…

主(神)は仰せになった。「彼らがみな、一つの民、一つのことばで、このようなことをし始めたのなら、今や彼らがしようと思うことで、とどめられることはない。

さあ、降りて行って、そこでの彼らのことばを混乱させ、彼らが互いにことばが通じないようにしよう。」

こうして主は人々を、そこから地の全面に散らされたので、彼らはその町を建てるのをやめた。』旧約聖書 創世記11:1~8

バベルの塔…の話しは有名である。人間のごう慢な性質は、自己顕示欲となって、高く高く塔を建てる。

神様はそれをご覧になり、彼らのことばを混乱させ、互いにことばが通じないようにされ、地の全面に散らされた。

人間的な動機による力の結集は、神様に喜ばれない。一つになる大切さが言われても、どこに一つになるかである。

自分の欲望のために人々をコントロールして、一つ、画一化するのは、たちまちカルト化になる。

神様は、神様のもとに一つとなるため、イエス様を私たち送ってくださった。

バベルの塔以来、地の全面に散らされた人々を、イエス様の十字架のもとに集めた。

そこでは、ことばや、環境や、生育歴や、人種や…すべてを越えて一つ、キリストのからだとなり、キリストの愛にあふれるところを神様は計画され、私たちに約束され、体験させる。

一つとなる。人間側から一つとなるとき、そこには人間栄誉の宗教の霊が働く。

今、私たちは、イエス様によって、聖霊様の導きの中で、啓示される神様の天からの恵みによって、一つとされている。

###

神様、あなたが私たちにキリストにあって、一つとさせてくださる約束をありがとうございます。

私たちは、人間的なものを動機として一つになることは簡単にできます。

けれども、キリストにあって一つになるという素晴らしさは全く違った質のものだと思います。

私たちの中に潜む“バベルの塔”(自己顕示欲)を打ち砕いてくださり、キリストの愛に一つとさせてください。

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“キリストのからだ”のための祈り

“キリストのからだ”が癒され、一つになるように、私の“キリストのからだ”への悔い改めの祈りをしました。

『私はひたすら沈黙を守った。よいことさえ、黙っていた。それで私の痛みは激しくなった。

私の心は熱くなり、私はうめく間に、火は燃え上がった。そこで私は自分の舌で、こう言った。…

主よ。今、私は何を待ち望みましょう。私の望み、それはあなたです。

私のすべてのそむきの罪から私を助け出してください。私を愚か者のそしりとしないでください。』旧約聖書 詩篇39:2.3.7.8

今日、自転車で遠くに出かけました。夜、帰り道、神様と話しをしていたら、聖霊様で胸が熱くなり、苦しくなり、自転車から降りて自転車を引きながら、神様に謝ることにしました。

「神様、私は長い年月をかけて、イエス様の十字架で、罪を告白し続けて、癒してもらいました。

私の心は聖霊様が住まわれ、溢れ、流れるような感じです。

それなのに、私は教会のことは、ほとんど祈ってこなかったです。ごめんなさい。

神様は私が癒されたように、キリストの体が癒されるのを願っているのを知っています。

今、私が教会に対して祈って癒しを願ってこなかったことを認めます。ごめんなさい。

イエス様の体である教会は見えない大きな体です。その半分は、共に集い、見える教会になっています。あと半分は見える教会から、そっと離れていった人たちです。

見える教会への罪を告白します。

私は25年間、教会を裁き、批判してきましたが、そのことを赦されたことを感謝します。

けれども、教会を手放し、期待しないところで止まっていました。

『自分の敵を愛し、祈りなさい。』とイエス様は言われました。教会は敵ではありませんが、“敵”は“自分に苦痛を与えるもの”とするなら、当てはまります。

教会のために祈らなかったことを赦してください。

見える教会はイエス様の体の半分です。そこがもし渇いているなら、聖霊による潤いを求めるべきでした。

見える教会から離れていった人たちの苦しみと痛みを知らずにすみませんでした。

これからは、ただ心を真っ白にして、その人たちのうめきと叫びを聞かせて、祈らせてください。

そして、その人たちの痛みと傷が神様によって、慰められ、癒されますように。

ドイツのベルリンの壁が両方から打ち砕かれたように、教会の外と中から打ち砕いてください。

教会の壁とは、イエス様の十字架以外のものです。神様の方法によって、壁を砕き、キリストの体をひとつとしてください。

イエス様の赦しにあって、一つとしてください。

私は自分がただ神様の御手で癒され、回復したので、同じように、痛んでいるイエス様のからだも癒され、回復し、一つとなることが信じられます。

どのようによってかは、今の私にはわかりませんが、あなたがなさることです。

キリストのからだが一つになる喜びも教えてくださり、ありがとうございます。

引き続き、キリストのからだのために祈っていきますので、導いてください。」

聖霊様が迫ってきて、胸が熱く、苦しくなります。頭は熱くなりません。もしかしたら、私の狭い容量の心が、イエス様の痛みを知れるように少しだけ造り変えられたのかもしれません。

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2009年5月22日 (金)

“契約”する神様

神様が今、私たちとしてくれた“新しい契約”とはどんなものでしょうか。

『わたし(神)はあなたがたと契約を立てる。すべて肉なるものは、もはや大洪水の水では断ち切られない。もはや大洪水が地を滅ぼすようなことはない。』旧約聖書 創世記9:11

聖書には、“契約”ということばがたくさん出てくる。

そもそも、新約聖書、旧約聖書の“約”が契約のことで、新しい契約の聖書、古い契約の聖書ということだろうから、聖書は、別の見方をしたら、契約の本かもしれない。

“契約”というと、何を思い出すか。私は、とにかく、引っ越し貧乏で、アパートを借りるたびに、“賃貸契約”をした。

私たちが結婚した頃は、貧しかったので、安い場所に住んだ。そこから、少しランクが上のアパートに引っ越ししようと契約をしにいくと、窓口にいたきつそうな受付の女性の人が、メガネの底からこっちをにらみつけ、「本当に月々支払えるんですか?」と言った。見通しが立っているから借りたのに、見た目で判断され、屈辱的な思いをした。

一般的に“契約”には、4つの要素があるとのことだ。当事者、条件、約束、罰則である。

たとえば、賃貸アパートを借りる場合、当事者は“家主”と“借りる人”、条件は“規則を守り、月々お金を支払う”、約束は“更新時まで、住むことができる”、罰則は“規則に反した場合、即刻出ていく”というようなところだろうか。

旧約聖書で契約と初めて出てきたのが、ノアの契約においてとのこと。この契約には神の恵みの一方的な特質がよく示されているとある。

“契約”の4つの要素に照らし合わせてみたい。

まず、当事者は“神ご自身”、条件は“無条件”、約束は“もう水によって滅ぼさない”、罰則は“無し”である。

つまり、神様は、一方的に、何の条件もなく、普遍的に、永遠に、決して再び洪水では滅ぼさないとした。

今、私たちは新しい契約の時代に入っている。

それはイエス・キリストによる契約である。神様と罪人である私は契約を結んだ。条件はイエス・キリストの十字架の赦しを信じるということ。約束は、私のすべての罪は赦され、神様の子どもになれる。罰則は、もし、信じなければ、罪の結果の裁きをうける。

イエス・キリストの十字架のおかげで、私は何も他に支払うことなく、他に付け足す条件もなく、神様の子どもになる契約が成立したのである。

私が、神様がくださった契約書には、「イエス様を信じます」という告白だけで、イエス様の十字架の支払いによって、神様から契約成立という判こを押してもらい、約束のしるしとして、聖霊様をいただいた。

様々な人間的な契約は、私の条件が吟味されるが、神様がなされる契約は、イエス様のゆえに、私たちの側は無条件であることは、素晴らしい。

###

神様、私たちは今、イエス様の十字架によって、新しい契約を結んでいることをありがとうございます。

イエス様の十字架の支払いが完全であるゆえ、何も他に付け足さす、私たちの条件は一切問われていないことをありがとうございます。

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牧師の前で、友人と大喧嘩(過去扁)

友人の引っ越しを手伝いながら、今まで経験したことのないような、天国のような平安を感じました。

『友はどんなときにも愛するものだ。

兄弟は苦しみを分け合うために生まれる。』旧約聖書 箴言17:17

私が喧嘩友だちのMさんと出会ったのは、5年前。預言者的賜物があるせいか(わからないが)、彼女は優しい反面、ズバリと指摘してくる手厳しいところがあった。

私たちは小さな教会で女性3人で祈り会をしていた。そこにMさんがやって来て、言った。

「みんなさぁ、牧師のいないところで、牧師の悪いところ言うの、やめたほうがいいよ。」私は、「言えないから、こうして祈っているんだよ。」彼女いわく、「言えないって、誰だっていいたくないけど、言っているんだよ。」

ある日、牧師を囲んで、教会のことについて話す場所を作った。私とMさんは、「牧師に思っていることを言おう。」と前日、打ち合わせ済みだった。

ところが、どうしたことか、牧師を前に(牧師はかやの外)私たち2人の激しい言い合いになった。

「sebaさん、あなたが言いたいことを牧師に言わないからダメなんだ。」と言われる。「だから、Mさんみたいに言える人ばかりじゃないんだよ。」「言え!」「言えない!」「言え!」「言えないってば!」

牧師はオロオロしていた。

私たち仲がいいときは、本当に親密だった。が、「変われ!」「変われない!」という喧嘩になると最悪な感じだった。

そんな彼女がアメリカ行きが決まり、最後の2日間、引っ越しの手伝いをした。何を話す訳でもなく、船便荷造りなど、ひたすら手伝った。

ときおり、ご主人の英語とMさんの日本語のやり取りなど、聞きながら、私は今まで感じたことのないような、Mさんと共に過ごす空間に浸っていた。

何故、あんなに幸せを感じたのか…今、わかった気がした。

彼女は、教会の外にいるクリスチャン。彼女を少し理解するのに、5年もかかった。何度も、似たような喧嘩をしながら。

そして、もうしばらく会えなくなる、引っ越し手伝い日は、きっと天国で味あうような、“和解”のときだったかもしれない。赦しあっていないとか言うのではないから“和解”という言葉がふさわしいか…わからないが。

彼女は、私にとって、教会の外の代表だった。彼女に「変われ」と言われた。「変われって言われてすぐ変われないよ。」と言った。

私は教会の中の人と外の人の間に立つ人間。

外の人が何を感じ、苦しんでいるか、彼女からたくさん教えられた。

「変わりなさい。」と今神様から言われている気がする。祈らなかった教会のために祈るように。外の人の声をまっさらになって聞けるように。

あの日、私は教会の外の人と、和解した体験だったのかもしれない。

彼女は、別れ際、私をハグしてくれて、「sebaさんは私の本当の友だちだよ。」と言ってくれた。私もそう思った。

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2009年5月21日 (木)

ノアの涙

ノアの話しを通して、教えられた分かち合いです。

『主(神)は、地上に人の悪が増大し、その心に計ることがみな、いつも悪いことだけに傾くのをご覧になった。

それで主は、地上に人を造ったことを悔(く)やみ、心を痛められた。・・・

そこで、神はノアに仰せられた。「すべての肉なるものの終わりが、わたしの前に来ている。地は、彼らのゆえに、暴虐で満ちているからだ。それで今わたしは、彼らを地とともに滅ぼそうとしている。…

しかし、わたしは、あなたと契約を結ぼう。』旧約聖書 創世記6:18

“ノアの方舟(はこぶね)”と言うと、可愛いお舟に、ゾウやら、キリンやら、ウサギやら…顔を出している絵が浮かぶ。

私も何回も、教会学校で子どもたちに話しをしてきた。妙に、明るい、楽しいイメージがついている。

今回、祈って神様から2つのことを教えられた。

ノアの方舟の話しとは、神様が、人々が悪に満ちているのを嘆き、水で一掃しようとされる。しかし、神様に喜ばれる存在のノアと家族は、動物たちとともに、神様の教えてくれた方舟を作り、それに入って助かる。イエス様を信じるものは、同じよう、さばきから守られることを象徴している。

教えられた一つめ。私たちは、イエス様信じて、方舟に乗ろう…とよく言われる。

しかし私はその時代に生きていたら、確実にノアではなく、“悪いことにだけ心が傾く人”、裁かれ、滅ぼされる側の人間だった。

私は神様から見たら、嘆かれ、悔やまれ、悲しまれ、裁きをうける者だった。

ノアの話しは、そんなに明るい楽しい話しではないのではないか。

教えられた2つめ。ノアが方舟の中で、何を思っていたかということ。

私があまりノアの話しに身近さを感じないのは、ノアが立派すぎる人のイメージがあるからかもしれない。(雨も降らない中、ただ神様を信じて、人々にバカにされながら、黙々と方舟を作っていた。)

ノアは、方舟を作りながら、他の人たちに、神様の計画を話し、悔い改めるよう説得したかもしれない。誰もノアの話しを信じなかった。

ノアは家族と方舟に入り、大雨が40日40夜降り続いたとき、神様に守られたと、楽しんだだろうか。

ノアは泣き崩れて号泣したかもしれないと想像したら、なんだかノア自身が、すごく身近かに感じられた。

ノア自身は神様を信じて、裁きから免れたが、家族以外は、すべての人が裁かれ、水の中、死んでいった。

「神様、私は一人も神様を信じるよう、伝えられませんでした。」ノア自身、自分は助かったが、自分の無力感を感じていなかっただろうか。

自分たち以外は、裁かれ、死んでいく。今、イエス様を信じなかった人に起こることは何か。もう水で滅ぼされることはないが、次は火による裁きが予告されている。

私は笑うクリスチャンでいるより、裁きを見せられながら、泣いて祈る者でありたいと思った。

私は今、イエス様によって、裁きから守られている。私が方舟に乗れた(イエス様を信じられた)のは何故かわからない。

けれども、なんのために乗っているかはわかる。うしろの戸(創世記7:16)が閉ざされる前に、一人でも多くの人が一緒に方舟に乗れるよう、祈るためである。

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“聞く”能力

ブログ近況報告です。

『神である主は、私の耳を開かれた。』旧約聖書 イザヤ50:5

私のブログ訪問を定期的にしてくださる方々に、いつも、感謝しています。

いつも話しますが、私にブログを毎日書かせる動機は「訪問してくださる方がいる。読んでくださる方がいるから書こう。」ということです。

それは我が家に訪問してくださる方のために準備して、ワクワクしながら、待つ…そんな感じです。

私が、おもてなしの中で大切にしたいことは、「私は、あなたと親しく、楽しく、深くお話しをして、関係を深めたいのです。」ということですね。

私は、実生活では、「聞き上手だね。」と友人から時々言われます。私に与えられている能力、賜物の一つと思います。

これは、心が癒されてから、顕著になりました。私は、最高の相談者である神様に何でも相談して、安心しているので、聞いてもらって嬉しいことが人にもしたいのかもしれませんね。

ブログは“書く”という作業ですが、ここでも、私は神様から“聞く”“教えてもらう”という作業をフルにしています。私のわずかな聖書知識や、アイデアでは書けません。だから、“書く”という作業をしながら、私自身が神様から“聞く”ことをしているので、楽しくて仕方ありません。

最近、もうひとつ“聞く”場所が開かれ始めているように思います。

“教会の外にいるクリスチャンの声を聞く”ということです。

私はこの“外にいるクリスチャンの声”を聞いて祈る、もしくは、聞いて、“教会の中の人に伝える”そんなことを任されているような気がしてきました。

今、神様から“聖書の恵みのメッセージ”と“外にいるクリスチャンに対するメッセージ”同時に両方教えられています。

ここでのブログの神様から教えられた聖書の話しは、私にとってもかけがえなく、ずっと続けさせてもらおうと思っています。

もう一つの“外のクリスチャンが神様の約束を体験する”ことを見るために、“聞いて書く”作業はしばらく、合間合間にいれさせてもらいます。

もし、導かれたら、後者のほうだけを新しいブログ開設にして、いつかお引っ越しするかもしれません。

それまで、両方にお付き合いください。聖書の話しは、祈りつつ、1日一つはアップしたいと願っています。

また、コメントの少ないブログでしたが、新しいテーマのせいか、最近時々、コメントをいただいています。交流好きの私としては、幸せ倍増です♪

お時間があったら、コメントも是非、読んでください。私の思いを強力にサポートしてくれ始めたettuさんの思いも綴られています。

神様の良いものをたくさん、分かち合えますよう、心からお祈りしています。

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2009年5月20日 (水)

“教会の外にいるクリスチャンへの約束”

教会の外にいて、痛んでいるクリスチャンのためにお祈りしたいです。

『わたし(神)が彼らを、その地、イスラエルの山々で、一つの国とするとき、ひとりの王が全体の王となる。彼らはもはや2つの国とはならず、もはや決して2つの王国に分かれない。…

わたしのしもべダビデが彼らの王となり、彼ら全体のただひとりの牧者となる。…

わたしは彼らと平和の契約を結ぶ。これはとこしえの契約でとなる。わたしは彼らをかばい、彼らをふやし、わたしの聖所を彼らのうちに永遠に置く。

わたしの住まいは彼らとともにあり、わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。』旧約聖書 エゼキエル書37章

私は25年間、教会に通いながら、教会や牧師を非難し、裁いてきました。

私の信仰生活は、神様から直接の癒しを受けながらも、教会に対しては、苦痛を感じるだけの者でした。

私の日常の一番の悩みは、長い間教会のことでした。

教会は幾つか変わりましたが、よく、教会に行き続けたと思います。それは、ただ神様が私を捕らえてくださっているゆえのあわれみと思います。

4年程前、神様の恵みの中で、関わってきた教会、牧師を赦しました。手放しました。そこに期待することを一切やめることができました。

すると、不思議と、イエス様の十字架の赦しと神様の私への溢れるばかりの思いが注がれました。

目に見えるところから手を引き、ただ神様に信頼する生活が始まりました。

最近、目に見える教会に連なっていないクリスチャンのことをとても考え、祈るようになっています。

イエス様の赦しをいただき、「天のお父さん」と呼ぶ聖霊の救いのあかしをいただいているのに、神様を共に喜ぶ交わりがないため、痛んでいる人たちがたくさんいるのかもしれないと思いました。

4年前、神様がエペソ2章を通して、イエス様の十字架で、教会に集う人たちも教会に集っていない愛されているクリスチャンも、神様はひとつとしてくださるという約束を神様から聞きました。

まだ、教会の外にいるクリスチャンのために、そんなに祈っていないときだったので、良く分からなかったけど、約束の意味は漠然とわかりました。

今日、聖霊様がエゼキエル37章を通して、2つのものをイエス様によって一つにしてくださる約束、そして、神様の臨在(聖所)によって、神様と共にいる幸いの約束を神様から教えられました。

教会の中が、きよめられ、エゼキエル47章のように、聖霊の川が外に溢れますように。

教会の外にいる人たちに癒しが与えられ、神様の臨在の中、神様を崇めていけますように。

『ただわたしのしもべダビデ(イエス・キリスト)が彼らの王となり、彼ら全体のただひとりの牧者となる。』

イエス様によって平和が与えられ、2つのものを一つにし、隔ての壁が打ちこわされますように祈ります。(エペソ2:14)

私ができることは、お祈りすることだけかもしれませんが、癒しと回復と主の臨在を体験できるよう祈ります。

祈りの課題をくだされば、お祈りします。

神様の約束のみことばを信じる方は、共にお祈りしましょう。コメント欄にハンドルネームだけでもくだされば、お祈りします。

共に神様のみわざを祈り、神様がなしてくださる約束と回復を見ていけますように祈ります。

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天国を近くに感じた日

私は、天国をとても意識したときがありました。

『主よ、来てください。』新約聖書 第1コリント16:22

「神様、私、もうすぐ天国に行きますか?」

そんな風に祈っていた日がある。今から4年前だった。

乳癌検査で、「悪性の疑い」と言われた日だった。乳癌、即、天国ではないだろうが、何故かそのときは「もうすぐ私、天国なのかなぁ」と思った。

息子が小さいうちは、死ねない…と常日頃思うのだが、その時は、聖霊に満たされて、天国が近くで輝いているように感じられた。

そのとき、パートで働いていた。経済的にも、シフト的にも、辞められないと思っていた。

が、「私、後どれだけ地上にいられるのか…このままでいいのか…」と思った。

パートの仕事をすぐ辞めた。

「神様、私、神様のために、時間を空けました。何をしたらいいですか?」と祈った。

まもなくPTA会長の話しがあり、2年間やった。昼間も夜も活動で充実していた。今、そのおかげで地域の人たちとの関わりが広がった。

乳癌は半年検査をしたが、誤診のようだった。

一番大切なこと、毎日の忙しい生活の中で忘れそうだけど、私にとって、生活スタイルの転機となった。急激にたくさんの人たちと関わることになった。よく祈るようになった。神様から急速にいろんなことを教えられ始めた。

永遠の時の中で、今が与えられている。

神様、日々、あなたと共にあるように祝福してください。

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2009年5月19日 (火)

天国に移される日

私が天国へ移される日、エノクのようでありたいと願います。

『エノクは神とともに歩んだ。神が彼を取られたので、彼はいなくなった。』旧約聖書 創世記5:24

天国に行くとはどんな風か。ハ・ヨンジョ師の本に、次のような記事があった。

「神様は、朝にエノクの家のドアをノックする。そして、神様は彼を共に過ごす場所へと誘う。エノクは喜んで、神様と出かける。

そして、次の朝も、またその次の朝も…神様はエノクを誘いに来る。エノクは喜んで、毎日、お弁当をもって一緒に出かける。

ある朝、「さあ、愛する人よ。今日は私と遠くに出かけましょう。」と言われる。

「はい、もちろん。喜んで、一緒に参ります。」そうして、エノクは、大好きな神様と遠くに出かけ、家に戻ることはなかった。」

こんな感じの話しだった。

私はとても分かりやすいこの描写が、心に残った。

天国ってどんなところか?地上にいるとき、神様と共にいる喜びを知っている人が、天国で神様と共にいられる素晴らしさを思い描けるのではないか。

私は天国を待ち望んでいるだろうか。

私の今の正直なところの祈りはこんな感じである。

「神様、今、息子は13歳です。どうか、息子が一人立ちするまでは、私を地上においてください。

最近、ブログを通して、たくさんの霊的な祝福をいただいています。もう少し、この地上において、楽しませてください。」

この祈りが神様から見てどうなのかは、わからない。けれど、私はいつか神様の臨在される天国にいくんだなぁとは思っている。

「さあ、今日は私と遠くに行こう。」と神様から言われたとき、「ちょっと待ってください。まだ、やろうと思ってやっていないことがあるので…。」とならないよう、与えられている日々、神様と共に歩みたい。

♯♯♯

神様、あなたが私たちに素晴らしい天国を用意してくださっていることをありがとうございます。

私たちは100%肉体の死を経験しますが、その死すら神様にあっては、慰めと希望であることをありがとうございます。

どうか、この永遠の慰めと希望がたくさんの人たちのものとなりますよう祝福してください。

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2009年5月18日 (月)

“買い戻された”神

私は、神様からどれだけの価値があるか、それは“買い戻された”代価でわかります。

『神である主は、アダムとその妻のために、皮の衣を作り、彼らに着せてくださった。』旧約聖書 創世記3:21

アダムとエバは神様との約束をやぶり、善悪の木の実を食べてしまい、目が開かれ、裸を恥ずかしく思った。神様は動物の皮の衣を作り、着せてくれた。

動物を殺し、その皮で衣を作り、着させてくれた…これは神様に近づくための旧約の時代のいけにえが暗示されている。

神様の前に罪などをつぐなうために、動物の命である血が使われた。

新約においては、イエス様が、そのいけにえとなり、私たちの罪を償ってくれた。

神様はこのいけにえの血によって、罪ある人を“買い取る”ということをした。

この“買い取る”ということばは、“あがなう”と言うことばで使われている。

『ご承知のように、あなたがたが先祖から伝わったむなしい生き方から“あがない出された”のは、銀や金のような朽ちる物にはよらず、傷もなく汚れもない子羊のようなキリストの、尊い血によったのです。』第1ペテロの手紙1:18.19

もし、自分の大切な誰かが、過ちをおかし、牢屋に入ったとする。その罪のつぐないを、身代金がわりに私の子どもを差し出せと言われたら、絶対にできない。まだ、借金してでも、お金を工面することならできるだろうと思った。

そのとき、『銀や金のような朽ちるもの』の意味がわかった気がした。それは私を“買い戻す”には役にたたないのだ。神様の一人っ子であるイエス様の命の血という大きな代価だけが、私を買い戻すために使われたという意味がとても身近に差し迫ってきた。

私をこの世から“買い戻す”ために神様は一番大事なもの…お金になどには変えられない一人の子どもの命を差し出してくれた。

私は神様に尊い代価で買い取られ、神様の子どもにされた。この事実を前に、私は神様に何をお返しできるだろうか…。

お返しできるものは何もないのである。

神様がイエス様の命で買い戻されたのは、私のお金や神様に喜ばれる行いが欲しかったからではない。神様がイエス様の命の代価で買い戻されたのは“私自身”そのもののためだった。

♯♯♯

神様が、もっとも大切にされているイエス様の命で、私を“買い戻す”ことをしてくださり、ありがとうございます。

私はお返しするものは何もありませんが、私自身を差し出します。私をきよめてください。

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人を動かす“十字架の力”

『ユダヤ人はしるしを要求し、ギリシャ人は知恵を追及します。

しかし、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えるのです。

ユダヤ人にとってはつまずき、異邦人にとっては愚かでしょうが、しかし、ユダヤ人であってもギリシャ人であっても、召された者にとっては、キリストは神の力、神の知恵なのです。』新約聖書 第1コリント人への手紙1:22~24

2日前、私のブログ人生の中で初めて(って…まだ10か月だが)コメントを5個もいただいた。

そして「毎日更新、凄い」とのお褒めのことばをいただいた。

「パパ、毎日更新凄いねってほめられたよ。」というと、主人すかさずこう言った。

「はい、私(sebaのこと)は、日夜、家事も忘れて、何にも優先して書き続け、疲れては休息し、また、書き続けるのでした。」

まさにそんな感じ…。私も主人と大笑いした。

コメントで、「キリスト教ってシンプルですね。」といただき、まさに、そのとおりと思った。

今から一年前。私が日曜日の礼拝に行くたび、「イエス・キリストの十字架!!」というイメージが礼拝場所を包んでいた時期があった。

そして、「イエス・キリストの十字架が一番大事なんですよね。神様。」と祈っていたとき、「そうか!イエス様の十字架がなかったら、神様との交わりも何もないのか。神様とは出会えなかったんだ。」と、その十字架の恩恵を改めて、ひしひしと思った。

私の今日のビッグな出来事…それは私のためにイエス様が十字架にかかってくれたこと…すべてはそこから出発する。

私は意志も弱く、努力家ではない。もし意志が強く、努力家だったら、挫折して神様のところにたどり着いていなかった。

何もできない私を動かしているもの、それは、イエス・キリストの十字架の愛なのだと思う。

十字架だけが凄いと思えたのは、本当に最近だが、きっと、理屈を越えたところで、造り変え、動かしてきてくれたのは十字架の力なのだと思う。

「教会行かなくていいよ。」「聖書に従わなくていいよ。」とか言ったら、非難を浴びそうである。異端児扱い!?

だけど、「十字架以外に大事なものはない。」と言いたい。十字架の愛の力だけが、人を変え、人を動かすから。

「十字架を信じているなら、これをしろ、あれをしろ。」と思うかもしれないが、十字架に突き動かされたら、きっとじっとはしていられない。

私はブログ中毒…大丈夫か…と思うが、イエス・キリストの十字架に今、新たな思いで出会い、分かち合いたい気持ちが溢れている。

ブログ訪問してくださり、読んでくださる方々に心から感謝しています。

そして、「イエスの十字架だけが大事なんだ!」と共感してくださる方が増えてほしいと願っています。本当の神様の恵みはイエス様の十字架から流れています。

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2009年5月17日 (日)

“見い出される”場所

自分の良さを見い出す…それは見い出す能力にたけた方によってでないと難しいのかもしれません。

『あなたがたがわたし(神)を呼び求めて歩き、わたしに祈るなら、わたしはあなたがたに聞こう。

もし、あなたがたが心を尽くしてわたしを捜し求めるなら、わたしを見つけるだろう。

わたしはあなたがたに見つけられる。…

わたしは、あなたがたの捕らわれ人を帰らせ、わたしがあなたがたを追い散らした先のすべての国々と、すべての場所から、あなたがたを集める。…

わたしはあなたがたを引いて行った先から、あなたがたをもとの所へ帰らせる。』旧約聖書 エレミヤ書29:12~14

ピカソの絵は、世界中で有名だが、私にはその凄い価値がわからない。芸術的センスがないのかもしれない。ただ、周りが凄いと評価するから、「すごいかなぁ…」と思う。

ピカソの絵に芸術的価値を見い出した人がすごいと思う。

私たちは、まわりから認められない環境、評価されない環境にいると、ダメではないのに、自分はダメなんだと思ってしまう。

私たちが「自分は素晴らしい存在なんだ」というのは、そのように評価してくれる人がいて、初めて思えるのではないか。

私は全自己否定の人間だったから、自分が素晴らしいという発想はどこにもなかった。自己嫌悪のかたまりで、いつも具合が悪くなっていた。

そして、イエス様に赦され、受け入れられる繰り返しの中、「神様が私をどう思っているか」自分の歪んだ視点から、その神様の視点に揺らぐことなく立つことができた。

この聖書の箇所に、「神様を呼び求めるなら、祈るなら、聞こう。心を尽くして捜すなら、神様を見つけるだろう。」とある。

捜し求めるなら、神様を見つけるとあるが、実は、「私たちが神様を捜すのでなく、神様が私たちを見つけたい…神様が素晴らしい尊い私たちを見い出したい」と願っておられるということかなぁと思った。

『わたし(神)はあなたがたを引いて行った先から、あなたがたをもとの所へ帰らせる』と言われるが、神様のところに帰るとき、私は、自分がどんなに愛される存在、尊い存在、可能性を秘めた存在、素晴らしい存在なのか知ることができる、発見できるのだろう。

♯♯♯

神様、私たち一人一人、神様の素晴らしい作品であり、どんなにか価値ある尊い存在か、それはあなたから見ないと見い出せないのだと思います。

イエス様のいのちの代わりにしてもらったほどに、私たちを愛し、大切な存在としてくださっていることをありがとうございます。

神様からの視点で、私自身を見い出していけますよう、神様のところに憩わせてください。

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“いのち”につながっている

イエス様の十字架で、私たちは“いのちにつながっている”ことを思います。

『もしひとりの人の違反により、ひとりによって死が支配するようになったとすれば、なおさらのこと、恵みと義の賜物とを豊かに受けている人々は、ひとりの人、イエス・キリストにより、いのちにあって支配するのです。』新約聖書 ローマ人への手紙5:17

アダムとエバによって、“霊的な死”が入った。

“霊的な死”は、神様とのふさわしい関係が切れること。その結果、人は自分や人や状況の中に縛られるようになる。

イエス様の十字架によって、信じる者には、“霊的ないのち”が与えられた。

“霊的ないのち”とは、神様とつながること、神様との関係がもてること、神様から良いものをいただけること。

“霊的ないのち”をわかりやすく説明しているのが、ヨハネの福音書15章にある“ぶどうの木と枝のたとえ”と思う。

そこでは、神様が農夫で、イエス様がぶどうの木、私たちがそこにつながっている枝だとある。

枝である私たちは、ぶどうの木の養分をもらって生きる。

『あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。』ヨハネ15:7

この聖書のことばは、「神様に従うなら」とか「聖書の言うとおり行うなら」と、私は勘違いしていた。

これは、イエス様につながっているなら…つまり枝となって、ぶどうの木につながっているならという意味と最近知った。

「わたし(イエス)にとどまるなら何でもも求めなさい」と、私は神様から言われ、「え!?神様に喜ばれることを求めるのでなく…何でもですか?」と聞いたことがあった。

最近、その意味がわかってきた。つまり、イエス様につながっていたら、イエス様の願うことを自然に考え、願う。それが、イエス様の木につながる枝ということ。

そして、一人一人違う個性や働きや能力が与えられているので、イエス様色のいのちが流れて、何を願うかは、実は、みんな違うということ。

私はイエス様のいのちを注がれて、私だけが願うことがあり、私だけが結ぶ実があるということ。

これが、イエス様のいのちが自分に流れているということだと思う。

だから、教会みんなで、同じ方法で伝道したり、同じ方法で何かをやるのは、いのちの法則では、ちょっと無理があるかもしれないと最近思うようになった。

イエス様は十字架で、私たちをイエス様のいのちにつなげてくれた。

私は何もできていないようでも、イエス様のいのちは脈々と私の中に流れている。

♯♯♯

私たちは神様に喜ばれているか、喜ばれていないかなど、気になりやすいですが、それは関係なく、すでに、イエス様の十字架によって、いのちを受け継いでいることをありがとうございます。

イエス様が、私たちにいのちの栄養を流して、イエス様の実を結べるようにしてくれていることをありがとうございます。

そのいのちの結果の実をたくさんつけられるよう、私たちを祝福してください。

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2009年5月16日 (土)

教会の外のクリスチャンへ、ettuさんへ

昨日からずっと思っていることです。私の願いと祈りです。

『女が自分の乳飲み子を忘れようか。自分の胎の子をあわれまないだろうか。たとい、女たちが忘れても、このわたし(神)はあなたを忘れない。

見よ。わたしは手のひらに、あなたを刻(きざ)んだ。』旧約聖書 イザヤ書49:15.16

昨日の日中、ちょうど、キリストの体=教会について、お祈りしていました。

「日本の中の“見えないキリストの体”(イエス様を信じているすべての人)の半分は教会に行っていない人たちでしょうか。

その中で私が出会える人は何百万分の一にも満ちません。

神様、どうかその教会に行っていない半分のクリスチャンを覚えてください。

私は目に見える私が関わった教会を赦し、手放し、期待することをやめました。

そして、教会の外のクリスチャンのために祈ってきました。

けれども、もしかしたら、教会の中こそ、欠乏しているのかもしれません。

日本は、過去の戦争など、事実の罪を悔い改めない国と言われています。日本の上空は、黒い悪霊の雲でおおわれ、神様の働きが妨げられているのかもしれません。

教会にも神様が働きにくいのかもしれません。

私は教会の外にいるクリスチャンに関心がありますが、教会の中がきよめられ、聖霊に満たされたら、そのきよい水が、エゼキエル47章のように、外に流れるのかもしれません。

私自身、赦され、癒され、きよめられ、神様の溢れる愛に包まれました。

教会の外の人たちのために、中を祈っていくことが必要なのかもしれません。

神様が、少しずつ、私の祈りを変えてくださることをありがとうございます。」

そんな祈りをしていました。その夜、今は教会の外にいるというettuさんより、コメントをいただきました。

このブログは始めはノンクリスチャンの友人への神様の紹介と思って書き始めました。

だから、本心の教会への苦痛の体験を書き出したときは、すごくためらいました。ノンクリスチャンの友人が、「教会ってそんなに大変なところなの?」と思われたら…せっかく神様のすばらしさを伝えたいはずなのにと。

でも、書いていくうちに、私が人と分かち合えることは、教会で苦しんだ25年の信仰生活から生み出されたものだったと気がつかされました。

ettuさんのコメントを読んで、「神様、教会の外の人たちのために、私、もっと何かできないでしょうか。」と思っています。

教会の外にいるクリスチャンの苦悩。変わらず、神様に愛されているのに、違うメッセージを受け、失望している人たちに、神様は「あなたをそのままで愛している。恋人の名前を手のひらに刻むように、あなたの名前を刻んでいる。」と、言っています。

私ができること、神様が願っていること…神様に聞いていきます。

ettuさんの傷が完全に癒されるよう、祈ります。そして、一緒に外のクリスチャンの癒しのために祈りましょう。神様が良いことをしてくださることを信じて。

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神様が備えられた救いの長さ

聖書のスタートで、神様がイエス様の救いを予告し、計画してくださっている素晴らしさを思います。

『神である主は蛇に仰せられた。「わたしは、おまえと女との間に、また、おまえの子孫と女の子孫との間に、敵意を置く。彼は、おまえの頭を踏み砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく。」』旧約聖書 創世記3:15

アダムとエバが、神様の約束をやぶって、善悪の木の実を食べてしまい、“2つの死”が人を支配することになった。

“肉体の死”と“霊的な死”であった。そして、エデンの園を出て、サタンの支配する世界に置かれる。

そんな瞬間から、神様はイエス・キリストの救いの計画を予告する。

女の子孫…とは、イエス・キリストのことである。

イエス様はサタンの頭を踏み砕き、致命的な打撃を与え、サタンはイエス様のかかとにかみつくが、ちょっとしたダメージしか与えることが出来ない。

聖書は、1600年をかけて、40人によって書かれたと言われるが、この聖書のスタートで、イエス様の救いが語られている。聖書は、66巻通して、串刺しのように、初めから終わりまで、イエス様の救いのメッセージが語られているのが、すごい!

まず、イエス様の十字架とよみがえりによって、最後の敵と言われる“肉体の死”から解放された。

『というのは、死がひとりの人を通して来たように、死者の復活もひとりの人を通して来たからです。

すなわち、アダムにあってすべての人が死んでいるように、キリストによってすべての人が生かされるからです。』第1コリント15:21.22

『そこで、子たちはみな血と肉とを持っているので、主(イエス)もまた同じように、これらのものをお持ちになりました。

これは、その死(イエスの十字架の死)によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、一生涯死の恐怖につながれていて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした。』ヘブル人への手紙2:14.15

アダムとエバによって、“肉体の死”が入り、私たちは死ぬ者とされたが、イエス・キリストの十字架で、永遠に生きる者とされた。

神様は、私たちの弱さをご存知で、この失敗のスタートから、私たちをいのちに生かす計画をたててくださった。

そして、私たちはこの世界が始まる前から、キリストによって選ばれ、聖く、傷のないものになるように計画された。(エペソ1:4)

私たちの思いを越えた、神様の時は、果てしなく長く、そこに私たち一人一人への計画と配慮がある。

私がまだイエス様を知る前から、私はイエス様によって赦され、私が生まれる前から、その赦しは備えられていた。

この地上での生活を終えて、私たちはイエス様と永遠の御国で、神様をあがめるのである。

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2009年5月15日 (金)

高慢から守ってください

私は高慢になりやすい者だと思います。聖書から、高慢からの守りを教えられました。

『ヒソプをもって私の罪を除いてきよめてください。

そうすれば、私はきよくなりましょう。
私を洗ってください。

そうすれば、私は雪よりも白くなりましょう。

私に、楽しみと喜びを、聞かせてください。

そうすれば、あなたがお砕きになった骨が、喜ぶでしょう。…

神よ。私にきよい心を造り、ゆるがない霊を私のうちに新しくしてください。』旧約聖書 詩篇51:7~11

ある友人と話しをしたときのこと。私は言った。「私は自分が高慢になるのが、何より怖い。それは、即、神様との関係が遮断されることだから。」

すると、友人が言った。「でも、自分の高慢って、すぐにはわからないよね。」「確かに…。どうしたら、いいんだろう。」

信仰者ダビデが、戦争に行かせてウリヤを殺し、その人妻バテ・シェバを自分のものにしたことを、預言者ナタンに指摘されたときの心境が、詩篇51篇にある。

どうしたら、私は高慢の罪から守られるか…祈りつつ、その箇所を読んだ。教えられたところを分かち合いたい。

1、“私は咎ある者、罪ある者として生まれました。”(5節)…私はずれやすい、間違いを犯しやすい存在だと認められますように。

2、“神は心のうちの真実を喜ばれる、それゆえ、私の心の奥に知恵を教えてください”(6節)…心の奥の動機を照されるよう、聖書のことばを求められますように。

3、“ヒソプをもって私の罪を除いてきよめてください”(7節)…イエス様の十字架で流された血潮で赦し、癒し、きよめてもらうため、イエス様のところにすぐ、行けますように。

4、“楽しみと喜びを聞かせてください。私の砕かれた骨が喜ぶことでしょう”(8節)…ただ、赦されたことを感謝し、神様とのふさわしい関係を喜べますように。

5、“神よ。私にきよい心を造り、ゆるがない霊を私のうちに新しくしてください。…救いの喜びを私に返し、喜んで仕える霊が、私をささえますように”(10~12節)…私の内に住まわれる聖霊様も喜んでくれますように。救いの喜びと仕える霊が与えられますように。

6、“私は、そむく者たちに、神の道を教えましょう。そうすれば、罪人は、あなたのもとに帰りましょう”(13節)…私は人をさばきやすい者。さばきは自己義認であり、神の義ではない。間違っている人がいたら、さばくのでなく、祈れますように。

7、“神よ。罪から救ってください。そうすれば、私の舌は、あなたの義を高らかに歌うでしょう。…神の誉れを告げるでしょう。”(14.15節)…いつも神様を賛美し、ほめたたえられますように。

###

神様、私はすぐ高慢になりやすいものです。

どうぞ、神様といつも親しい関係の中にいられるよう、私の高慢を赦し、取り去ってください。

神様がくださる喜びと仕える霊に支えてください。

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自分を所有する大切さ

“責任転嫁する”に対するのは“自分を所有する”ということかなと思います。

『すると、(神は)仰せになった。「あなたが裸であるのを、だれがあなたに教えたのか。あなたは、食べてはならない、と命じておいた木から食べたのか。」

人は言った。「あなたが私のそばに置かれたこの女が、あの木から取って私にくれたので、私は食べたのです。」

…女は答えた。「蛇が私を惑わしたのです。それで私は食べたのです。」』旧約聖書 創世記3:11~13

アダムとエバが、神様との約束をやぶり、善悪の木の実を食べると、目が開け、裸を隠し、神様から隠れた。次にしたことが、“責任転嫁”(せきにんてんか)、つまり、約束をやぶったのを、人のせいにしたことだった。

神様は、人を造られたとき、その人の範囲を設けた。

人のせいにする生き方は、楽なようで、実は、自分の問題としてふりかかる。

「境界線」の本に次のようにある。

「境界線は私たちを定義する。何が私であり、何が私でないか、私はどこで終わり、私はどこから始まるか。それによって、私は自分に関する所有権を意識する。」

私たちが、自分の責任を負わないということは、自分を所有することができないことにつながる。

自分の責任を所有するということは、自分の範囲がわかるだけでなく、自分の外を明らかにする。そして、その自分の外には責任を負わなくて良くて、影響されない。

私は親の過保護、過干渉によって、育てられた。だから、境界線が壊れていた。どこから人で、どこから自分か区別がつかず、人の言動に一喜一憂して振り回されていた。

そんな私が、長い年月をかけ、健全な境界線が与えられた。それは、イエス様に自分の責任の分を認め、告白し続けることによってだった。

自分の責任を認めるというのは、しんどいことのように思うが、自分を所有することにつながる。

『まず自分の目から梁(はり=大きな柱)を取りのけなさい。そうすれば、はっきり見えて、兄弟の目からも、ちりを除くことができます。』マタイの福音書7:5

私には、ここは、「あなたが自分の責任部分を認めるなら、あなたは、自分を所有し、そして、人をも尊重できる。」という意味合いがあるのだなぁと思う。

イエス様は私たちの責任部分を赦し、癒してくださり、誰からも踏み込まれることのない自分をもう一度私たちに所有させて、楽しませてくださる。

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イエス様の十字架によって、私たちは誰にも振り回されず、自分を所有して生きていけることをありがとうございます。

責任転嫁しやすい弱さも赦し、癒してください。

あなたを喜ぶ私を所有させてください。

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2009年5月14日 (木)

父との2度の和解

母のことを書いたら、父との和解についても書きたくなりました。ただ、神様のしてくださった和解です。

『父がその子をあわれむように、主は、ご自分を恐れる者をあわれまれる。』旧約聖書 詩篇103:13

父は、子どもを可愛いがる、本好きで、社交的な人だった。趣味はカメラとハーモニカ。小さい頃、父の軽快なハーモニカの曲を良く聞いた。

そんな父が私が小学4年に統合失調症(分裂病)になり、入退院を繰り返した。家に戻った頃には、薬のせいか、全く別人のようだった。会話らしい会話をした記憶はない。

父は生きていたが、私の中では、精神的に父不在だった。母が亡くなったとき、父は「母さんと同じ神様を信じる」とイエス様を信じた。

それから3年後、父が亡くなり、告別式が教会で行われた。私は教会に入ったとたん、天国にいる父母の「これから頑張れよ、頑張れよ。」という声が聞こえた。(聖書的にどうかわかないが私には聞こえた。)

私は、その瞬間、何か神様の温かいものに包まれた。会場の前列に座り、私はオイオイ泣いた。父が亡くなり悲しくてではなかった。「父は私を愛してくれた!私が小4までだったが、それまでの愛情で充分だったんだ。父さん、愛してくれてありがとう。」神様のあわれみの中、嬉しくて泣いた。

あれが父との和解だった。そして、もう一つ。それから10年位過ぎてから…。

私の思春期は父不在だった。私の境界線の一部は、そのことで崩れていた。

その崩れた柵(さく)からいつも、泥棒が入りこむように、サタンの入る格好の隙間になっていた。子どもの頃、父に求めて得られなかったものを、人から求めてしまう自分がいた。

その崩れから、圧倒的に悪いものが入って支配されそうな時があった。

神様に祈った。「神様、悪いものを私から退けてください。」

すると、小学6年のとき、父と私がこたつに入って、テレビを見ている場面がはっきりした映像で思い浮かんだ。

その小6の私は祈った。「この病の父を赦します。私は父から必要なものをこのとき、もらえませんでしたが、父は孤独と病で苦しかったのです。私を赦してください。神様を知りませんでしたが、このときも神様がいてくれたのですね。父に何もできなかった私を赦してください。」と祈りました。

その瞬間、崩れた柵が建て直され、回復し、支配しようとしていた悪しき者はいなくなり、聖霊に満たされていた。

父を赦し、私を赦してもらった、父との2度目の和解だった。

父は、幼少の頃、たくさんの愛情をくれた。そして、ずっと日記を書き続けた父の血を引き継いで、私は今文章を書くのが楽しく、ブログを書き続けている。

考えることの好きな性格を引き継ぎ、今、聖書を読みながら、神様を、その思いを思いめぐらしている。

私の与えられた個性の多くは父からもらった。父さん、ありがとう。神様、和解をありがとう。

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赤いカーネーションの鉢に母思う

私のブログではいつも不名誉な母ですが、今日は“ありがとう”を言いたいです。

『母に慰められるよう者のように、わたし(神)はあなたがたを慰め、エルサレムであなたがたは慰められる。』旧約聖書 イザヤ書66:13

日曜日、母の日に、主人と息子で出先から、真っ赤なカーネーションの鉢を買ってきてくれた。

その綺麗な鉢を見ながら、私は天国に行った母を思い出す。

ブログでは、「価値観の違う母に育てられ、私は全自己否定の人間になった。」というところで、母が登場する。

精神の病があった父を抱えながら、女手一つで、姉と私を育ててくれた、たくましい母。なのに、いつも、ブログでは悪者扱いされて、申し訳ない。

母は周りから「美人」と言われる顔だちは綺麗な人だった。父は、そんな母を好きになったのだと思うけれど…そこが人間的には不幸だったかもしれない。

価値観の全く違う父と母は引かれあったのだろうが、父は孤独だった。死ぬほど孤独で、病を発症した。

母は、私から見たらどうしてそこまでと思うくらい、美を追及していた。単におしゃれだっただけかもしれないが、母の誇りとするところは、そこだったのかもしれない。

私は反動か、もともとか、しっかりおしゃれとかとは、縁遠い人間になってしまった。

母は、それでも、私たち娘に、母なりの深い愛情を注ぎ込んでくれた。

私は、自分が大切にしているもの…考え方とか生き方とか…一生懸命に母に理解してほしいと切望した。母だけには理解してほしいと。

母には、母なりの子どもの幸せがあり、私の話しはどこまでいっても母のそれとは重ならなかった。

けれど、母は母なりの愛情を深く深く私に注いでくれていた。それが私が求めるものと違っていただけで。私がほしかったのは、“理解される”ことだけだったが…。

赤いカーネーションの鉢を見ながら、母への感謝がこみあげる。

「かあさん、産んでくれてありがとう。育ててくれてありがとう。私の求めたものでなかったけど、たくさんの母親の愛情ありがとう。子どものためにと、たくさんの苦労ありがとう。ずっと反抗期で、かあさんを泣かせたけど…ありがとう。天国に行く慰めをみせてくれてありがとう。」

好きになれなかった母を今は心から“ありがとう”と言えるようにしてくれた、イエス様、ありがとう。

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2009年5月13日 (水)

「あなたは、どこにいるのか?」

「あなたは、どこにいるのか」と、今、神様から問われたら、私はどう答えるかと思いました。

『そよ風の吹くころ、彼らは園を歩き回られる神である主の声を聞いた。それで人とその妻は、神である主の御顔を避けて園の木の間に身を隠した。

神である主は、人に呼びかけ、彼に仰せられた。「あなたは、どこにいるのか。」

彼は答えた。「私は園で、あなたの声を聞きました。それで私は裸なので、恐れて、隠れました。」』旧約聖書 創世記3:8~10

善悪の木の実を食べたアダムとエバは、目が開かれた。自分たちの裸を知り、裸を隠した。そして、創世主なる神様を避けて、身を隠した。

それは、造り主なる神様を知らなかったときの私の姿そのものだ。自分を見るとそこに良いものはなく、様々な欲望と惨めさと愚かさがあって、それを隠す毎日だった。が、何の解決もなく、その愚かな自分に埋没していくだけだった。

「あなたはどこにいるのか」と神様はアダムとエバに聞かれた。

「あなたはどこにいるのか」…造り主なる神様との関係をもっていないとき、私はどこにいるかわからなかった。私は何者なのか見い出せなかった。私は何に向かっているのか知らなかった。

今、私はどこにいるか…イエス様の十字架のもとにいる。私を赦してくれた方の前に、安心して、裸の自分をさらけ出し、なお、赦され、おおわれていることのあわれみと慰めの中にいる。

完全なるイエス様の前に、恐れることなく立つことが出来る。それは、ただイエス様の十字架があるから。そのイエス様がかかられた十字架は、私の裸のすべての恥のためであった。もう、イエス様の十字架で全部処分されたので、裸のままで隠すことなく、イエス様の前に立つことが出来る。

この残りの生涯、イエス様の十字架のもとに立ち続けたい。

イエス様はそこから、真実を示してくださり、いのちを注いでくださり、神様との親しい関係にいれてくださる。

『わたし(イエス)が道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。』ヨハネの福音書14:6

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2009年5月12日 (火)

“善悪の木の実”はもう食べなくていいんだよ。

私たちクリスチャン生活で、まだ、“善悪の木の実”を食べて苦しんでいる人を見ます。

『そこで、蛇は言った。「あなたがたは決して死にません。あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目は開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。」…

そこで女はその実を取って食べ、いっしょにいた夫にも与えたので、夫も食べた。

このようにして、ふたりの目は開かれ、それで彼らは自分たちが裸であることを知った。そこで、彼らは、いちじくの葉をつづり合わせて、自分たちの腰のおおいを作った。』旧約聖書 創世記3:4~7

私はある時、この聖書の箇所から、“神のようになる”ということはどういうことか、教えられた。

それは、神様ではなく、自分が正しいとすることなのだ…ということ。自分の中にある知識、感情、意志が正しいと生きることだと。

しかし、私たちは不完全で間違いやすく、私たちの中に完全な正しさはない。

そして、自分を神にすると、その不完全な“自分という神”に振り回され、悩み、ゆきずまるのだということが、私自身において、実証済みなのを思った。

マクベイ師は「恵みの歩み」の本で次のように言う。

「クリスチャンの価値基準を放棄することを強く勧めます。…価値基準に目を向けることは、私たちの生ける神のみこころではないのです。そのようにすることはいくつかの害を及ぼすことになります。…

善悪にとらわれると、神様よりも自分に目を向けるようになります。…

善悪にとらわれることは主の徳ではなく、人間の価値基準を強調します。…

善悪にとらわれることは命ではなく、律法を強調することになります。…

人生における問題意識は「これを行うことは正しいのだろうか。」ではなく、「今、自分はキリストにつながっているだろうか」です。…

自分の行動に目を向けていくのではなく、キリストによって、神との関係に基ずいて人生を立てあげるようになるのです。」

とてもコンパクトにまとめたので、分かりにくいかと思う。

つまり、エデンの園では完全に神様とのふさわしい関係に生かされていた。善悪の木の実を食べて以来、人は、神様との関係が切れて、自分に目を向けるようになり、自分のしたことが“良いか悪いか”その価値基準に縛られた。イエス様の十字架で、私たちはすべて赦されたので、もうその価値基準から解放され、もう一度、神様をただあがめる、喜ぶ生活に戻された。

しかし、クリスチャンは聖書から「赦しなさい。愛しなさい。」「神様によりより頼まなければならないのです。」などと語られるたびに、これは出来ている、これは出来ていない…などと“新しいクリスチャンとしての価値基準”を持ち、苦しむのだ。

何が良いか悪いか、何が出来ているか出来ていないか…は神様からしたらまったく関係ないのだ。もっと言うなら、「私は愛することも、神様が聖書で求めることも全て無理です。出来ていません。」と私は告白する。

そんな私のためにイエス様が命を捨てて、十字架にかかってくれた。神様にとって、神様に従えないことは、イスラエルの民の歴史で明らかであった。

もう一度、イエス様が十字架にかかり、私たちは赦されたのに、アダムとエバのところまで戻って善悪の木の実を食べる必要はない。

“私が十字架で赦されたということを大切にする”ことだけが、私が自分の行動の良し悪しを見るのをやめて、赦されたイエス様に感謝して、応答して生きていける…霊的に死んでいたものが、もう一度神様とつながって生きることなのだと思う。

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“善悪の木の実”を食べた結果(創世記3)

『女は蛇に言った。「私たちは、園にある木の実を食べてよいのです。しかし、園の中央にある木の実について、神は、『あなたがたは、それを食べてはならない。それに触れてもいけない。あなたがたが死ぬといけないからだ。』と仰せになりました。」

そこで、蛇は女に言った。「あなたがたは決して死にません。

あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。」』旧約聖書 創世記3:2~5

サタンである蛇は女に言った。「善悪の木の実を食べても、あなたは死なない。神のように善悪を知るようになる。」と…。

それまで、エデンの園に“死”はなかった。が、神様が「取って食べるその時、あなたがたは必ず死ぬ」(創世記2:16)と言われたので、“死ぬ”と言う概念はあったのだと思う。

エバが善悪の木の実を食べた瞬間、どうなったか…。バッタリ倒れて、息絶えたら分かりやすかったが、そうはならなかった。

善悪の木の実を食べたとき、2つのことが起こった。一つが肉体的な死が入った。

『あなたは顔に汗を流して糧を得、ついにあなたは土に帰る。あなたはそこから取られたのだから。あなたはちりだから、ちりに帰らなければならない。』創世記3:18.19

神様との約束をやぶった結果をそのように宣告された。

もう一つの死が入った。“霊的な死”と言われる。

善悪の木の実を食べないときは、神様と人間は、ふさわさい関係にあった。造られた者が、造った方をあがめる、喜ぶ関係であり、自分たちが裸で大丈夫なほどの関係だった。

が、食べてはならない善悪の木の実を食べたことによって、そのうるわしい均衡は破られた。

“霊的な死”というのは、神様とのその関係が切れたことを意味するのだと思う。

サタンである蛇が言った。「善悪の木の実を食べるとき、あなたがたは神のようになり、善悪を知るようになる。」

そのことばは、エバに魅力的だった。今の私たちにとっても魅力的だと思う。

まさに、嘘をつくのが得意なサタンは、「今よりずっとすばらしいことが起こる」と誘惑した。

善悪を知るようになるとはどういうことか…が“霊的な死”と関係がある。

マクベイ師の「恵みの歩み」に次のような文がある。

「善悪の木の実を食べるかどうかは、生か死の選択、神に完全により頼んで生きるか、神から独立するかということ。…彼女らは禁止されていた木の実を食べた。すると突然彼らの目は開かれた。初めて善と悪を意識した。その日以来ずっと彼らの人生は、善悪の価値基準によって裁かれる人生となった。」

なぜ、善悪の価値基準が入ったことが“霊的な死”なのか長くなったので、「恵みの歩み」を引用しながら、次のブログに書くことにする。

私たちは、知らない間に、イエス様によって、神様との関係を喜ぶように回復されながら、また、この善悪の木の実を食べてしまっていることがあるのだなぁということに、私は驚いてしまう。

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2009年5月11日 (月)

サタンに対抗できる“7つの神の武具”

『あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって、そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。…

しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったそのその大きな愛のゆえに、罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、…キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。』新約聖書 エペソ人への手紙2:1~6

この聖書の箇所の最初を読むと、いつも、これは本当に過去の自分の姿だなぁと思う。

「空中の権威を持つ支配者」とは、サタンのことである。そのサタンの支配する中で、私は濁流の川の中を、死んだ魚のように、汚れと欲にまみれて流されるままに流れていた。

が、イエス様によって、“シャケ”のようになった。どんな流れであっても逆らってのぼっていくものとされた。イエス様がくださった新しいいのちによって。

この世の中にあるもろもろの悪霊(サタン)に対して、対処する秘訣が「悪習慣を断ち切る法」の本に書いてある。神様が私たちにくださった“7つの神の武具”である。(エペソ6:12~18)これらが、何を意味するか、ピックアップしたい。

①真理の帯…まったく正直な態度

②正義の胸当て…すべての罪の告白、これによって、サタンの足がかりは崩壊する。また、私たちの罪を赦すキリストをあおぐ(=私たちに与えられたの神の義)

③平和の福音の備えをはいた足…十字架に赦された喜びからくる、福音を伝えたい情熱

④信仰の大盾(おおたて)…聖書のことばを堅く信じて生きる信仰

⑤救いのかぶと…救いの望みと十字架の完全性に対する確信
⑥御霊の剣…誘惑にあったときに適用できるように聖書のことばを知り、持っておくこと

⑦常に祈る…感謝と信頼に満ちた態度

神様を知らないとき、私にはサタンとの戦いはなかった。サタンの存在を知らなかったから。

今、イエス様が十字架にかかり、復活されたことにより、信じる者にはこの世の支配者サタンに勝利が約束されている。

サタンを恐れる必要はない。が、無防備で狡猾なサタンに戦いは挑めない。神様が与えてくださった“7つの武具”を身にまとい、神様の戦いに参戦したい。

「偽りの父」と呼ばれるサタンは、私たちのつく嘘を喜ぶ。“小さな嘘”はサタンが働く足台となる。私たちの神様にも人にも正直な態度は、素晴らしい武具である。

正義の胸当て…イエス様を信じる信仰によって、私たちは義とされ、神様に受け入れられるものとなった。イエス様によって正しいとされたことを忘れ、私たちの行いによって、正しいとしたとたん、優越感や劣等感、比較や嫉妬など、さまざまなものが入りこむ。

平和の福音の足というのは、何を動機として生きているか…ということかなぁと思う。神様への感謝と信頼によって歩む日々が守りとなる。

信仰の大盾は、サタンの放つ火矢をみな消すことができる。私たちが信じているのは、頼りない自分でも、不完全な人でも、移りやすい環境でもなく、確かで揺らがない神様である。そこに立つことこそ、敵対するものへの最大の防衛になる。

救いのかぶとは、キリストの十字架によって、私は赦された、受け入れられた、裁かれていないということと思う。

御霊の剣は、聖書のことば。聖霊様の助けによって、聖書のことばを蓄え、また、求め、適応する。敵対するサタン撃退のための最大の攻撃方法である。

常に聖霊様の助けの中、祈るのは、神様への信頼につながる。

イエス様にあって、勝利の日となりますように。

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喧嘩友だち、アメリカへ立つ

私の大切な友人について、聞いてください。

『友はどんなときにも愛するものだ。兄弟は苦しみを分け合うために生まれる。』旧約聖書 箴言17:17

喧嘩友だちだった親愛なる友人が、来週、ご主人とアメリカに旅立つ。

アメリカに永住することになる。「アメリカに遊びに来てね。」と言われたが、海外旅行どころか、国内旅行もしない私にはちょっと無理っぽい…。

彼女とは、出会って5年位たつが、とにかく良く喧嘩した。女だから、殴り合いこそしないが、激しい言葉で言い合いをした。

お互い、喧嘩すると、すごくエネルギー使うし、日頃温厚(!?)で通ってる私にしては、毎回喧嘩はひどく疲れた。

彼女も体調悪いときもあって、鬱っぽいのに喧嘩してたりしたから、家ではぐったりだったと思う。

彼女との喧嘩のきっかけは、いつもお互いのことではない、第3者に対する私の態度のことであった。

「直せ、変えろ」と言われたが、言われたからってすぐ変われる訳ではない。

最後の喧嘩は、去年の11月頃だった。私は「ねぇ、もう電話切っていい?」彼女は「いいよ。」「それじゃ、バイバイ…」

激しい言葉が行き交った。電話を切って、言葉のアッパーパンチを食らったように、きつい言葉が胸にささった。だけど、心が平安だった。この人とは、なんだか真剣勝負なんだけど、ずっと信頼しあって付き合っていくんだなぁと揺らがない信頼関係を思った。

そのころ、彼女は「あ〜あ、もうやってられねぇよ。みんな、面倒臭い!もういいよ。」と心で思っていたらしいが。

彼女は、親に虐待されて育った。私には理解できないほど、重い過去がある。私は、彼女を理解するのに、時間がかかった。まだ、多くを理解していないかもしれない。

でも、11月の喧嘩にして初めて私は、彼女のきつい言葉の中に、彼女の叫びを聞いた気がした。

表現が違うけど、やっと何回目かの言い合いにして、彼女の言葉の裏に“心の叫び”を聞くことができた。

彼女は、“見捨てられ感”が強い。「そうやって、sebaさん、あんたも私を友だちじゃないとか言って見捨てるんでしょ!」と私に言った。

そのことばは「私はあなたを必要としている!」と言ってくれた“心の叫び”だった。

人生で「あなたが必要だ!」と怒るほどに叫んでくれる友人がいるだろうか…。痛いけど、“心の叫び”が聞こえたら、嬉しかった。

彼女は旅立つ。「教会でもクリスチャンとも良いことはなかった」と言いながら…。

けれども、彼女の神様から与えられた使命と賜物は変わらない。

きっと、どこかで、ご主人と、この世の見捨てられたようなホームレスや囚人の人たちのために仕えている。

人はその友によって磨かれる…とあるが、彼女からたくさんのことを教えられ、少し変えてもらった。

彼女のおかげで、少しだけ、声にならない人たちの叫びを知ることができたような気がする。

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2009年5月10日 (日)

“サタン”の誘惑(創3:1)

狡猾なサタンの誘惑について、分かち合いたいです。

『さて、神である主が造られたあらゆる野の獣のうちで、蛇(へび)が一番狡猾であった。蛇は女に言った。

「あなたがたは、園のどんな木からも食べてはならない、と神は、ほんとうに言われたのですか。」』旧約聖書 創世記3:1

ここで蛇が登場する。神様が造られた蛇がみんな悪かったかは知らないが、“ある一匹の蛇”が…という意味らしい。

そして、聖書では、この蛇をサタンの象徴として見る。

目には見えない神様がいるように、目には見えないが私たちを欺(あざむ)くサタンは存在する。

サタンの特徴は“嘘をつく”と言うことである。サタンは、私たちを神様から引きはなそうとする。

アーウィン・ラッシァー著の「悪習慣を断ち切る法」という本に次のようにある。

『あなたがたは決して死にません。あなたがたがそれ(善悪の木の実)を食べるそのとき、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。』(創世記3:4.5)

「要するにサタンは、『神は、あなたに可能性をきわめさせないために制限を与えているのだ。あなたは生まれつき神のようになれる権利があるのに、神がさせない。神は少しもあなたの味方ではない。』と言いたかった。

今日でもサタンは同じ作戦を用いて、神の意志に不満を持つように仕向ける。…

サタンは一つの制限にだけ焦点をあてて、それによってエバが神の祝福から目をそらせるように仕向けた。…

彼女が食べてはならない木は確かに一本あったが、食べてもよい木は何百本もあったはずだ。…取ってはいけない一本を示されると、エバは神の寛大さと恵みを忘れてしまった。

今日においても、サタンは一つの問題、一つの怒り、一つの拘束に目を向けさせようとする。」

今日、私は礼拝の中で賛美していて教えられたことがあった。♪命を捨てて愛してくれたイエス様、私は忘れない♪と言う賛美の中で…。

「ボランティアの中で、私に対して批判的に対応してくる人がいて、嫌だなぁと思っていた。なんだかその活動全部が嫌になる気分だった(そんな訳で、先週は休んだ。多分3年位の中で、こんなことで休むのは初めてだった)

私は何を見ていたんだろう。イエス様は私のために命を捨てて愛してくれたのに、私は弱い人の言動に捕らわれて…。

もう一度、命を捨ててくれたイエス様の前に、出会う一人一人を大切に祈っていこう」と思った。

サタンは今も私たちに神様の祝福でないものに目を向けさせ、喜ぶ。けれども、イエス様はサタンに勝利した。

私たちがイエス様のお名前で助けを求めると、神様の安心の中にいれてくれる。

「平和の神は、すみやかに、あなたがたの足でサタンを踏み砕いてくださいます。」ローマ人への手紙16:20

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2009年5月 9日 (土)

裸が平気な“エデンの園”

エデンの園で、アダムとエバは裸だったのに、恥ずかしくなかったのは何故でしょうか。

『神である主は、その土地から、見るからに好ましく食べるのに良いすべての木を生えさせた。園の中央にはいのちの木、それから善悪の木とを生えさせた。…

神である主は、人に命じて仰せられた。「あなたは園のどの木からでも思いのままに食べてよい。しかし、善悪の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ。」…

そのとき、人とその妻は、ふたりとも裸であったが、互いに恥ずかしいと思わなかった。』旧約聖書 創世記2:9.16.25

私がエデンの園で、最も驚くことは、「アダムとエバは裸だったが、互いに恥ずかしいと思わなかった。」ということ。

アダムとエバが裸で初めて恥ずかしさを覚えたのは、善悪の木の実を食べてしまったとたんに始まる。

『ふたりの目は開かれ、それで彼らは自分たちが裸であることを知った。そこで、彼らは、いちじくの葉をつづり合わせて、自分たちの腰のおおいを作った。』(創世記3:7)とある。

裸なのに、恥ずかしくないって…ちょっと今の私たちには考えられないが、エデンの園で、神様の秩序の中ではそうだった。

私が思うに、ここに、造られた神様と、その造られた方を慕い喜ぶアダムとエバの麗しい関係を見る気がする。

まさに、アダムとエバは造られた方の秩序の中で、最大限に喜び、楽しみ生きた。

何を喜んだのか。それは、創造主なる神様の存在をただ喜んだ。

神様が人を造られた目的に人は合致していた。(人は神様を礼拝する―あがめる―ために造られた)そこには、自分の裸も気にならないほど、自分ではなく神様を見ていた。だからそこには、悩みも苦しみも悲しみも恥ずかしさも惨めさもなかった。

今、イエス様の十字架の赦しによって、私たちは神様のもとに戻ることができた。日常の様々な悩みや苦しみを横において、神様を礼拝するとき、私たちは神様の臨在の中で、神様が愛なる方であることを体感する。

これが実は、裸であったが恥ずかしくない状態なのではないかと思う。

私たちは地上にいて、肉体を持ち、弱さを持って歩む。

それでも、神様はその生活の中で、神様を見上げ、創造主なる神様をあがめていくとき、私たちが自分のことを忘れられるほど、気にならなくなるほど、神様からの愛と、慰め、励ましにおおい、包んでくださる。

神様を礼拝し続ける生活=神様をあがめ、ほめたたえ続ける生活…それが、エデンの園に戻されるような状態であり、やがてくるパラダイスの前味なのだと思う。

神様をあがめる生活は、私にとって、恥ずかしい私を忘れる捕らわれの無い、解放と祝福の生活になるのだ。

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神様、私たちは自分に捕らわれやすいものですが、イエス様の十字架の赦しによって、その捕らわれから解放してくださったことをありがとうございます。

自分に捕らわれなくなる、これはイエス様の十字架を知らない人には、考えられない出来事です。

私たちは、すべてをご存知の神様の前には、裸同然ですが、恥となるすべてをイエス様が赦してくださったゆえ、神様を大胆にあがめ、礼拝できますことをありがとうございます。

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エデンの園の記事から…

再び創世記の分かち合いです。まず、エデンの園の記事で教えられたことを分かち合いたいです。

『もしひとりの人の違反により、ひとりによって死が支配するようになったとすれば、なおさらのこと、恵みと義の賜物とを豊かに受けている人々は、ひとりの人イエス・キリストにより、いのちにあって支配するのです。』新約聖書 ローマ人への手紙5:17

エデンの園の記事は、すべての原点を教えてくれているようで、私にとってはとても興味深く、様々なことを教えられてきた。

神様とはどんな方か?礼拝とは?人間の弱さとは?善悪の木の実とは?サタンの誘惑方法とは?、堕落後の人間の生き方とは?、神様の壮大の計画とは?…等々、たくさんのことを教えられている。

分かち合いたいことが山ほどあるが、一歩ずつ進めるようにしたい。

皆さんにとっては、エデンの園はどんなところですか?

善悪の木の実って何ですか?

サタンの蛇が言った「神のようになる」ってどういうことですか?

この記事に隠されている神様の深いメッセージを分かち合えることを心から願っています。

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2009年5月 8日 (金)

“罪の告白”その確かさと恵み

『ですから、あなたがたは、互いに罪を言い表し、互いのために祈りなさい。

いやされるためです。義人の祈りは働くと、大きな力があります。』新約聖書 ヤコブの手紙5:16

ボンヘッファーの「共に生きる生活」より。

「罪の告白において、確かさに至る道が開かれる。われわれにとってしばしば、神の前での罪の告白が、兄弟の前でするそれよりもやさしいのは、どこに原因があるのだろうか。

神は聖であって罪なき方である。…しかし兄弟は、われわれと同じ罪ある人間である。…

すなわち、われわれは、神の前での罪の告白をもって、しばしば自分自身をあざむいていたのではなかったか。…自分で自分の罪を赦していたのではなかったか。…

われわれが、罪の告白と赦しにおいて関わりをもっているのは、われわれ自身ではなくて、生ける神ご自身であるということの確かさを、ここで一体だれがわれわれに与えるのだろうか。…兄弟が自己欺瞞のくさりを打ち破ってくれる。

兄弟の前で自分の罪を告白する者は、そこでもやはり自分はひとりではないということを知っており、兄弟がそこに現実にいるということの中に、神の臨在を経験するのである。」

私は長い間、神様に自分の内にあるものを認め、告白し、癒しと赦しを受け取ってきた。

が、なぜか、いくら神様に祈っても、なかなか癒されない部分があった。

あるとき、親しいクリスチャンの友人にその話しをしたら、だんだん誰にでも、その弱さが話せている自分がいた。

そのとき、私は話せるのは、その弱さも神様から赦されているのを私自身が受けとったから、誰にでも言えるようになったのだとわかった。

なぜ、神様に告白していただけでは駄目で、人に話したとたん、癒されていったのか、私の中で説明がつかなかった。要は、ボンヘッファーの言われること、兄弟の助けを借りて、神様の赦しを受け取れたということかもなぁと思った。

私は、まずは、神様に正直に告白していく中で、神様は多くの癒しをくださるだろうと信じている。

人の助けを借りるのならば、お互いの弱さを受け入れあっている信頼する友人、一人だけに聞いてもらえば良いのだと思う。

この本の中に、「告白は律法ではなく、恵みだ。」とあったが、同感である。

もし、「…しなければならない。」という世界で“罪の告白”を考えるなら、とてつもなく、苦痛だと思う。

イエス様は「私は健康な人のためでなく、病人のために来た」(ルカ5:31.32)と言われたが、イエス様こそ、名医であり、手術して、悪いところを全部とってくれる…その信頼がなかったら、お任せできない。

神様はイエス様の十字架で、私たちを癒し、悪から離れ、義の道、神様と親しく歩む道を用意しておられる。

神様が私たちに計画しているのは、苦行ではなく、豊かないのちに生きる道である。

###

神様、あなたがイエス様を送ってくださり、イエス様に似る壮大な計画を立ててくださっていることをありがとうございます。

私たちは自分の力では、本当にそのことは無理ですが、神様の深い思いに信頼して、ときには、思いきって手術台に乗ることができますように。

イエス様の十字架に赦される体験に生かされ、神様を日々賛美できますよう、私たち一人一人を祝福してください。

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“罪の告白”と十字架の赦しの体験

“罪の告白”は私たちが個人的に十字架につけられたイエス様の赦しを体験するときだと思います。

『キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。

ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。

そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。』新約聖書 第1ペテロの手紙2:22~25

ボンヘッファーの「共に生きる生活」より。

「罪の告白において、十字架に至る通路が開かれる。すべての罪の根は、高慢である。…

兄弟の前での罪の告白は、最も深い屈辱である。それは、苦痛を与え、へりくだらせ、高慢を徹底的に打ち砕く。…具体的な罪の告白において、古き人は、兄弟の目の前で、苦しみつつ、屈辱的な死をとげる。…

われわれに代わって、罪人の屈辱の死を身に負いたもうたのは、実にほかならぬイエス・キリストご自分であった。…

またもしわれわれが、罪の告白において、罪人の屈辱の死を自分の身に受けることを恥じるなら、われわれは、十字架を負うことを拒むことになるのである。…」

イエス様の十字架は私の身代わりだったと信じる者に、神様は赦しと癒しときよめを約束している。

赦された者が体験できる神様との親しい交わり、その中にある安らぎと喜びが約束されている。

イエス様の十字架は自分のためであった…と信じるとはどういうことか。

漠然となんとなく、みんなのために死んでくれたのではない。もし、そう思っていたら、一般の人のための十字架であり、私個人の私の罪のために死なれた体験はできない。

イエス様の十字架を信じるとは、「私のこの罪も赦してくれたのですね。」と告白することなのだと思う。

私たちはもし赦されていなかったら、“罪の告白”は無意味である。自分の惨めな傷口をさらけだして、笑われて終わり。ますますみじめに落ち込む。

私は「イエス様の十字架は私の罪を完全に赦し、癒し、きよめてくださっている」そのことを信じているか…それは“罪の告白”と結びつく。

私は告白し続けることで癒された。全自己否定の人間が、全自己肯定にまで癒された。

ボンヘッファーが言うように、“罪の告白”は私にとっては屈辱ではなかった。

もし、屈辱とかごまかしとか、何かあって“罪の告白”がためらわれるなら、そのことができるよう、そのことの先にあるものの素晴らしさを知れるよう、信頼が与えられるよう祈って求めることによって、導かれていくのだろう。

聖書でもっとも大きなみわざは、イエス様の十字架の出来事である。

なんとなく十字架を信じるのではなく、古き人に死に、新しい復活のいのちに預かる体験を神様は私たち一人一人に約束しておられる。そのことが、日々、私たち一人一人に確実になりますように。

次につづく

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2009年5月 7日 (木)

“罪の告白”は孤独から交わりに入る

ボンヘッファーは、“罪の告白”は、まず、真実な交わりの道に続くと言っています。

『ですから、あなたがたは、互いのために祈りなさい。いやされるためです。』新約聖書 ヤコブの手紙5:16

ボンヘッファーの「共に生きる生活」より。

「自分の悪を抱いてただひとりでいる者は、全くひとりで孤立している。…彼らは敬虔な者としては交わりを持っているが、敬虔でない罪人としての交わりを持っていない。」

「罪は、その人だけとひとりでいようとする。罪は、その人を交わりから遠ざける。人間が孤独になればなるほど、罪の力はその人の上に力をふるい、破壊的になる。

…罪が自白され、口に出されるまでの、激しい戦いがある。…罪の告白が、キリスト者の兄弟の面前でなされることによって、自己義認の最後のとりでは放棄される。…彼はイエス・キリストならびに、兄弟との交わりの中で、彼のすべての罪が赦されていることを見い出す。」

サタンは「そんなひどいことをするのは、お前だけだ。」と嘘をつく。

そして、人は隠れたところでその罪をひっそり温める。

自分の罪を見るのは怖い、ましてや、誰かに話すなんて、とんでもないと思う。

イエス様は罪は犯さなかったが、私たちの弱さに同情できないお方ではない。(ヘブル4:15)

私たちの試練(誘惑)は、皆経験しているものである。(第1コリント10:13)

そして、何よりも素晴らしいことは、私たちの罪は告白することによって、赦しを受け取れることである。(第1ヨハネ1:9)(私たちの罪はすべて赦されているが、認めることを通して、赦されていることを受け取れる。)

牧師の中には、サタンの激しい攻撃の中、誘惑から転落していく人がいるのは何故か。彼は“敬虔な者”であり続けた(自分の弱さを認めず、告白しない)からと思う。私はいつも思う。たった一人の弱さを祈ってもらう友がいるならば、そこから守られただろうと。

自分が罪に無縁だという“敬虔なクリスチャン”は孤独なのである。

イエス様だけがほめたたえられる教会…それは、自己義認を止め、「私は今日もイエス様に赦されました」と喜んで告白し合う教会だと思う。

次へつづく

###

私たちは、誰かに自分の弱さを打ち明けるのはとても勇気が入ります。

こんなに弱いのは、私だけだ、軽蔑されるだろうと思います。

けれど、もしイエス様への信頼の中、罪を告白し、誰か信頼する人にも分かち合うなら、イエス様に赦されたのを経験します。

私たちに、イエス様への信頼を与え、神様と人に告白し、赦しを受け取っていけますように、お願いします。

そして、神様とも人とも、うわべではない、深い交わりに入れますように。

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2009年5月 6日 (水)

“罪の告白”がもたらす良いこと…

本を読んでいて、長年の答えを教えてもらったような記事に出会いました。創世記をちょっとお休みして、この分かち合いにお付き合いください。

『もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦(ゆる)し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。』新約聖書 第1ヨハネの手紙1:9

この聖書のことばは、人々が癒されるためにと、私が神様から教えてもらったものである。

29歳の時、私の中で徐々に心の癒しが始まった。その時の、礼拝メッセージで「傷ついたら、傷つく奴が悪い」と牧師が言った。人間的な言葉だと思った。しかし、人に極度に傷つきやすい私はその日から一つのことを実行した。

誰かの言動に傷つくたび、心の中で、「神様、この人を受け止めきれない弱い、不完全な私を赦してください。」と祈ることをした。不思議と相手がひどい人だ…とそちらに気持ちが向かず、祈るたびに神様から癒される経験をした。

私の中で、傷ついたら、即、自分の不完全さを祈るのは、やみつきになった。神様から癒され続けた。

33歳の時、その教会がなくなった。「何にもなくなっちゃいました。」と言う私に、「あなたがこれまでの苦しいところを通ったのは、あなたが握っているものを手放すためだったのだよ。」と神様に言われた。

握っているものを手放したとたん、鳥のさえずりや花の美しさ…神様の中に生かされていることを充分に喜べるようになった。(それまでは、神様の働きが開かれないことに失望しきっていた。)

私は神様に聞いた。「私は今、神様によって、深い心の癒しを体験しました。この癒しは、誰にでも約束されていますよね。どの聖書のことばで説明すればいいですか?」

そのとき、この「第1ヨハネ1:9によって」と教えられた。私はバカの一つ覚えのように、「神様は、自分の弱さを認め、告白するものに、赦しと癒しときよめをくださる。」話しをこの聖書のことばを出して繰り返ししてきた。

あれから15年、去年親しい友人から言われた。「罪の告白…って、傷んで傷ついている人にとって、それはあまりにしんどいことだよ。sebaさん!」

しんどい人がいる事は理解したが、私にとっての癒しの商売道具(!?)のようなこの聖書のことばをどうしたらいいの?と…しばし、私は無口になった。

ボンヘッファーさんの「共に生きる生活」の「罪の告白」を今日、読んだ。

私に足りなかったのは、“罪の告白”はイエス様の十字架のもとにどんな素晴らしいことをもたらすか…その説明があまりにも足りなかったのだと教えられた。

ボンヘッファーさんの“罪の告白”がもたらすものの説明を、分かち合いたいと思った。

次につづく…

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“独身の女性の祝福”

“独身の女性の祝福”について、本から教えられました。それは、また、既婚者にとっても大切なことと教えられました。

『それゆえ、男はその父母を離れ、妻と結び合い、ふたりは一体となる。』旧約聖書 創世記2:24

この聖書の箇所を読んで、思った。「両親から自立して、夫婦が一つとなるのは、神様が与えられた祝福だけど、独身もまた、祝福されているんだよね…。」そして、本棚にあったギエン・カーセンの「独身の祝福」をもう一度読むことにした。とても教えられたので、分かち合いたい。

ギエン・カーセンさん自身女性の方で、この本では、特に“独身の女性の祝福”が描かれている。

印象的なものをピックアップする。「歌いなさい。」というタイトル。「夫のいない孤独な女性なら歌いなさいですって?」

『「子を産まない不妊の女よ。喜び歌え。産みの苦しみの知らない女よ。喜びの声をあげて叫べ。夫に捨てられた女の子どもは、夫のある女の子どもよりも多いからだ。」と主は仰せられる。』(イザヤ54:1)

「旧約聖書は、母親としての祝福を強調しています。…キリストが来られるとともに、人間存在の強調点は変わりました。今では、地を満たせでなく、天の御国を満たせと命令されています。

イエスが人に求められることは、霊的なものです。…このゆえにイエスは、夫と妻、両親と子どもの関係よりも、ご自身との関係を第1とされました。結婚関係は一時的なことを示されました。(天国に対して)…

霊的な子どもを持つ喜びをイザヤが最初に告げたのは、結婚せず子どものいない女性だったのです。

新しい時代が、イエス・キリストによって到来しました。独身であろうと、結婚していようと、どの女性も神が定められた最高の目標を目指して一役を担うことができるのです。」

一部抜粋だが、ギエン・カーセンさんのすばらしいメッセージが伝わるだろうか。

私自身結婚が遅かったし、私の親しいクリスチャンの友人で、独身の人や離婚した人が多い。

女性が一人で生きていく、それは想像以上に大変なことではないかと思う。

が、神様は、その状況の中すら用い、その人でなければできない神様の計画があるのだと思う。

私の姉は田舎で、一人暮らしである。あるとき、嬉しそうに私に話しをしてくれた。

「神様がね、私に言ったんだよ。『あなたの夫はわたしだ』(イザヤ54:5)って。嬉しかったぁ。』と。

あと一つ。私は既婚者で、夫にたくさん助けられて生きている。が、私たちは皆、神様の前にはたった一人なのだ。“独身の祝福”の人たちのように、この世の人以上に、神様と親しくなるように、神様の前には「私にはあなたの他に頼るべき方はいません。」という信頼関係が大切なのだと思う。

その“自立した信仰”が、“上から良いものを求める信仰”が、夫に求めるだけでなく、与えたいという願いにつながるような気がする。

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2009年5月 5日 (火)

男と女が造られた意味(創2:22)

神様が造られた男性と女性について、思ったことを書きます。

『こうして神である主は、人から取ったあばら骨を、ひとりの女に造り上げ、その女を人のところに連れて来られた。』旧約聖書 創世記2:22

私が“女であること”…私の中では長年受け入れることのできない“自己否定”の一つであった。

私は次女として生まれた。両親は男の子の誕生を切望していた。が、誕生したのが女の子と聞き、彼らはガックリとした。父は私を抱き上げることもせず、私の名前は近所の人がつけたと聞いた。

母は、幼い私に、「お前が男の子だったら…」と繰り返し、繰り返しため息混じりに言った。私は家族の中では“カー坊”と呼ばれ、ほとんど親戚や近所の人にもその呼び名は浸透していた。

ありったけ“女であるな”というメッセージをすりこまれた私は、自分が女であることを呪った。

世の中で、男性は敵対するものであったし、自分の女性らしさを否定して、ズボンしかはかなかった。

クリスチャンになってから、“女性であること”のますますの苦しみに出合った。

初めの教会は「女性は公の場所では祈らない」という教会だった。

私が就職した教会は女性のメッセンジャーを認めない教会だった。神学校を出ても、神様のことばを語れないというのは辛かった。私が女性であることの傷がさらに深くなったかのような時だった。

そんな私だったが、主人と出会ってその傷は癒された。主人のお母さんは、男女2人ずつの子どもたちをその個性のまま受け入れてくれる人で、主人も“男だから”という縛りもなく育った。

そして、私を“女のくせに”(これは私の母の口癖)と言うこともなく、ありのままを受け入れてくれた。

私は私のままで良い…女であることの否定的な思いは全くなくなった。

神様はアダムを造り、助け手として、女性エバを造られた。

夫婦としてのパートナーという部分はあるが、社会においても、男性のパートナーとして女性がいると思う。

男女平等と言われる背景に、長い日本の歴史の中で、女性がしいたげられてきた、認められない世の中があったのだと思う。

それぞれ神様に与えられた特徴が尊重され生きていくとき、神様が造られた調和のある社会が成り立つのではないか。

女性は男性に尊重され大切にされることで、その特性を喜ぶ。男性もまた、女性に認められ、尊重されることで、与えられている力を発揮する。

この世の中、女性と男性しかおらず、自分にとっては未知なる異性、時には理解しがたい異性…神様が造られた半分の性を尊重することを神様は宿題として出されておられるのかもしれない。

###

神様、あなたは男性と女性を造られました。

その違いは驚くほどなのかもしれません。けれども、あなたは、私たちは半分しか知らないことを教えてくれているのかもしれません。

私が神にならず、未知なる人たちがいるのを謙虚に受け止め、尊重していけますようにしてください。

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2009年5月 4日 (月)

息を吹き込まれた存在(創2:7)

神様が、イエス様を通して私たちに与えてくださった素晴らしいものを分かち合います。

『その後、神である主は、土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで、人は生きものになった。』旧約聖書 創世記2:7

旧約聖書で“息”というのは、生命的、霊的両方の意味で用いられている。

『神は人にいのちの息を吹き込まれた。それで、人は生きものになった。』と言うのは、人は神様に与えられた“いのち”で生き、“霊的な存在”(霊である神様と交流できる存在)となったということだろう。

新約聖書では、“息”というと霊的な意味が強くなる。

十字架で死に、3日めによみがえられたイエス様は、弟子たちに現れた。

『イエスは…彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。…」』(ヨハネ2:22)

このときの“息”は霊的なものである。

“霊的な息”とは何か。それは“聖霊なる神”である。

聖書では三位一体(さんみいったい)の神を示している。創造主なる神、子なるイエス、そして助け主なる聖霊の神が、3つにして一人の神なのだ。

天地創造のときに、“息”を吹きかけられ、私たちにいのちを与えられた神様は、イエス様を通して、もう一度、私たちに息を吹きかけられた。

私たちは、ただ肉体的に生きるものとなっただけではなく、霊的に生きるものとなった。

“霊的に生きる”とはどういうことか。

“霊である神様を知る、交流できる、その交流の喜びを体験できる者になった”ということだろう。

『目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人が心に思い浮かんだことのないもの。神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、みなそうである。」

神はこれを御霊によって啓示されたのです。

御霊はすべてを探り、神の深みにまで及ばれるからです。』(第1コリント2:9~10)

私たちは不完全な弱い小さな存在であるが、“聖霊なる神”が私たちに与えられたとき、人知を越えた神様の深みに及ぶ思いを知ることができる。

これは、どんなに努力し学問を学んだ者にも隠された知恵であり、ただ、「イエス様によって、聖霊をください。」と素直に求める者に与えられる。それは、子どもであっても、無学な者であっても、誰にでも求める者に、平等に与えられる神様の奇しさがある。

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神様、いのちを与えてくださった神様は、イエス様を通して、もうひとたび、新しいいのち(聖霊の住まいとなるいのち)を私たちに与えてくださり、ありがとうございます。

この聖霊様が住まわれる神様の宮(私たちの心)が清められ、聖霊様が自由に働かれ、神様の深みに及ぶ思いに私たちが喜び、感動する日々としてください。

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2009年5月 3日 (日)

非常に良く造られたかたち(創1:31)

神様が本来造られた私たちに回復する約束が一人一人になるようにと願います。

『そして神は「われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。…

神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。…

見よ。それは非常に良かった。』旧約聖書 創世記1:26.27.31

「神様は人を神様の“かたち”に造られた」とある。

神様は目に見える形を持たない方だが、その性質を似るものとされたのだろう。

この聖書の箇所で、驚くことは、『神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ。それは非常に良かった。』(創世記1:31)とあることだ。

私たち人間は神様に造られた“非常に良い作品”なのである。

それに比べて自分が“非常に良い作品”と思えないとしたら、何が問題なのか?

神様を知らないときの私は、自己のイメージがとても低かった。“そのままでいいよ”というメッセージを親から受けなかったからだろう。そして、そんな私は自分を大切にするということもできず、ますます傷つき、惨めな状況に落ち込んだ。

私の癒しと回復が始まったのは、神様が私を尊いと思ってくれている…その視点から自分を見れるようになってからだった。

それでも、沼底をかき混ぜると、泥が湧きあふれ、沼の水で真っ黒になるような、否定的なものが私の心をよくおおった。

そんなとき、私はその惑わしに対して叫ぶように、「私は赦されているから、感謝します。」「私は受け入れられているから感謝します。」「私は愛されているから感謝します。」と宣言したものだった。

イエス様は、私たちの自己イメージの回復のために来られた。私たちは神様からずれていたもので、神様との交流も途絶えていた。本当の自己イメージを持たない者だった。が、イエス様の赦しの中で、癒しと回復が始まったのである。

『神は初めから、ご自分でなさろうとしておられることをご存じでした。

神は最初に、神を愛する人々を、神の御子(イエス)と同じかたちに似せて造ろうと決められたのです。…

私たちは、キリストのうちに私たちの命の原形と私たちのあるべき姿を見るのです。』(ローマ人への手紙8:29Msg訳)

天地を造られた神様は、私たちを回復させる目的をもって、イエス様を送ってくださったのだ。イエス様と似るものとさせてくださる約束は見逃せない。私たちに約束されているのだから、信じて祈っていきたい。

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神様、ゆがめられた自己イメージに苦しむ人に、イエス様の癒しと平安を与えてください。

そして、私たちは尊いすばらしい存在なのだという、聖書にある真実の視点に立つものとしてください。

私たちの汚いもの、みじめなものはすでにイエス様の十字架の上で処理され、赦されました。その赦しをしっかり受け取り、神様に造られた素晴らしい自分を所有できますよう祝福してください。

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2009年5月 2日 (土)

“新しい創造”へ・2(ガラテヤ6:15)

イエス様を信じた人には“新しい創造”が約束されています。

『割礼を受けているか受けていないかは、大事なことではありません。

大事なのは新しい創造です。』新約聖書 ガラテヤ人への手紙6:15

“新しい創造”とは、イエス様を信じた人にだけ起こる創造である。

イエス様が私の罪(神様の前に的外れなこと)のために代わりいのちを捨てて十字架刑を受けてくださったと信じる人には、「もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きている」と告白するに至る。

イエス様の十字架によって、新しいいのちをもらい、神様と親しく交流する中で、私たちの内側がどんどん変えられていく。

イエス様のいのちを捨てた愛の注ぎの中、私は自分のしたいことではなく、神様に応答し、神様の願うところをしたくて仕方なくなる。

そこには、自分の意志や努力はなく、汚れた欲求すら清められる。

私は1年ほど前、突然のように“仕えたい”という思いがドクドク溢れて苦しくなったときが何度かあった。今も静かにそう思う。

それまでは“神様を伝えたい”とか、“こんなことをしたい”という願望だったが、全く異質な、私が今まで感じたことのない思いだった。

“仕える”というのは、たぶん、“伝道する”とか“善意を表す”とかとは全く違う、イエス様に似た性質なのだと思う。

神様が私に本来あったが、崩れていたものを、神様との関係の中で回復してくださった。

神様との日々の親しい関係の中で、『やみの中に、光よあれ』と言われた神様は、今、私たちの心のやみにも、『やみの中に光よ、あれ』と語られる。

そして、私たちは、自分ではない造り変えられていく自分をその内側にみるのである。

無から有を生み出され、やみの中に光を造られた神様にとって、私たちの中に“新しい創造”をなさることは、難しいことではない。

この“新しい創造”を自分の中に成されることは、たったひとつのポイントを押さえているか、否かによる。それは私がこの告白ができるかどうかである。

『しかし私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはなりません。』ガラテヤ6:14

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神様、今、私たちの中にも、あの天地創造をなされたほどの神様のみわざ“新しい創造”がなされていることをありがとうございます。

さらに、イエス様の十字架以外のいっさいのものを誇りとせず、さらにあなたの私への“新しい創造”のみわざを見せてください。

“割礼”時代に戻らず、“神様との関係による楽しみ”の時代にいさせてください。

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“新しい創造”へ・1(ガラテヤ6:15)

創造のみわざをなした神様は、今、新約の時代(イエス様が来て十字架にかかられた以降の時代)“新しい創造”をなされているのを思います。

『割礼(かつれい)を受けているか受けていないかは、大事なことではありません。

大事なのは新しい創造です。』

新約聖書 ガラテヤ人への手紙6:15

割礼とは、「男性の性器の包皮を切り取る」ことで、神様がアブラハムとの契約のしるしとして、彼の家の男子すべてが受けたことから始まる。(創世記17)

神様は、その後、モーセを通して割礼を儀式として定めた。(レビ12:3)

割礼は神様に選ばれたイスラエルのしるしと誇りとなった。

ガラテヤ人の教会では、“イエス・キリストを信じることだけで義(神様の前に正しい)とされる”…聖書的な福音が語られていたが、“割礼も受けなければならない”と主張するユダヤ人が出てきた。そして、この手紙の筆者パウロは、激しくその間違いを指摘する。

“割礼”といっても、ピンとこないかもしれないが、“割礼”はここでは、律法を象徴する。旧約聖書の“神様が示されたことを行う”こと。

一方、“新しい創造”とは何か。“割礼”に対比して使われ、“イエス・キリストの十字架を信じるのみで神様から義(正しい)とされる”いわば“恵み”を表す。

“割礼”は“律法”を、“新しい創造”は“恵み”を表す。

私はここ何年か、私にとっての“割礼”とは何か考えてきた。

私にとっての“割礼”とは“良い行いをもって、神様に受け入れられようとすること”である。

“良い行い”の何が神様に反しているか?“良い行い”をもって、私たちは神様に“よし(義)”とされることは不可能なのだ。

私たちの神様への的外れなずれた行為(罪)は、ただイエス・キリストのいのちの代価によってしか神様に受け入れられない。

今、教会においても、個人レベルのクリスチャンにおいても“良い行い”によって神様に受け入れられようとする世界が入っているのを感じる。

それは、“イエス・キリストのしてくださった十字架”が中心でなく、つまり、神様が中心でなく、“人が何をしたか、しないかで神様に受け入れられる”人間中心になる。

では、私にとっての“新しい創造”とは何か。イエス様は十字架で私の的外れ(罪)を代わりに処分してくれ、神様の前に受け入れられる者としてくれた。

私はもう、牛や羊の命をもって、神様の前に赦される必要はない。私はもう“何かをすること”で神様に受け入れてもらう必要はない。

イエス様の十字架は完全で、完了し、私は“何もしない”で、大胆に神様の前に出て、神様と親しい、深い交流ができる。…これが“新しい創造”と思う。

私にとって“良い行い”も付け足して、神様に受け入れててもらおうというのは、完全な赦しの計画を立てた神様と、いのちを捨てて十字架で完了された神様に失礼と思うし、そこに何も付け足さなくていいのである。

“良い行い”で神様に認められようとするのは、神中心でなく、人間中心なのである。

大事な話しをここから分かち合いたいと思ったが、長くなってしまった。その2として、続きを書くことにする。

素晴らしい“新しい創造”をともに分かち合いたい。

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2009年5月 1日 (金)

生きるために与えられた“ことば”(ヨハネ1:1)

神様が創造のみわざに使われた“ことば”が今私を支えてくれる恵みを思います。

『初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。』新約聖書 ヨハネの福音書1:1

私たち人間は、“ことば”に渇き、“ことば”を求める存在なのだと思う。すべての人が…。

それは、神様が“ことば”で私たちを造られ、ただ生物の中で人間だけが“ことば”で神様と交流する意図をもって造られたからだと思う。

私は神様に出会う前、“ことば”を求めていた。それは、私を支えてくれる、私を保ってくれる、私を生かしてくれる“ことば”がどこかに漠然と“ある”と確信して、探し求めていたのだと思う。

あまり読書家ではない私だったが、パスカルの「パンセ」や三木清の「人間とは…」みたいなものに求める“ことば”を探して読んだ。

私は人の言葉にも、無意識に“私を生かしてくれることば”を過度の期待を持って、求めていた。

だから、大学生のときは、親しい友人の言葉に裏切られた…と過剰反応し(ただ私が求める“ことば”が無かっただけなのだが)、リュックを背負って、北海道とか、九州とか旅に出た。

信じられないくらい私は、世の中に溢れる“ことば”に失望したり、苦しんだり、悲しんだりしながら、私を生かす“ことば”を求めていた。

だから、神様に出会い、聖書の“ことば”を知るに至ったときは、感動物だった。

聖書の“ことば”は神様の語りかけとして、私の人生を支えた。神様の“ことば”は、ときには、深く私の心をつらぬき、私を造りかえた。神様の“ことば”はいつも私の人生の解決へと導いてくれた。(たとえ解決されなくとも、「安心してわたし(神様)にまかせなさい」と。)

『人はパンだけで生きるのでなく、神のことばによって生きる』(マタイ4:4)は私の中で実感としてある。

神様の“ことば”(=聖書)がなければ、私は滅んでいた。生きていくことは不可能だった。

だから、私は神様の“ことば”に固執するのだと思う。

“ことば”は神様とともにあり、“ことば”が神様であった。世界が始まる前から、そして天地創造もまた、神様は“ことば”をもって、ご自身を現し続けた。

そして、今、“ことば”は人となって私たちの間に住まわれた。(ヨハネ1:14)イエス様が“ことば”の人であり、今、聖霊様とともに私たちを愛し、赦し、癒すために働かれておられる。

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私たちを“ことば”で造られた神様は、私たちを神様の“ことば”で生かし、支え続けてくださり、ありがとうございます。

日ごとに私たちに神様の“ことば”を語ってください。

日ごとに“ことば”となって私たちの内にいてくださるイエス様を教えてください。

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私の初めが神の初めとつながった日(創1:1)

私の初めは、神様の初めにつながっているすばらしさを思います。

『初めに、神が天と地を創造した。』旧約聖書 創世記1:1

私は、病気になって交流がなくなってしまった父と、私と全く違う価値観を持つ母に育てられた。ありったけ、「私は私であるな」と自己否定を身につけた私は、20歳の頃は、人生のさ迷い人だった。

虚無感と孤独の渦の中にいた私は、自分の心の中でいつも問いかけていることがあった。

それは「私は何のために生きているんだろうか?」ということだった。自己否定、自己嫌悪にさいなまれながら、なお「私は何のために生きているのか?」と、うめくように、激しく問い続けていた。

22歳の3月のある日、私はクリスチャンの友人の祈りの中、神様に出会った。それまでも、聖書を読んでいたが、まさにその日、神様に出会った。私の中で何かが変わった。同じ場所にいながら、全くちがう世界に入っていった感覚だった。

「私はどんな存在で、何の役にたつためにいるのか?」そんな悩みをもった人間が、私を造った製作者に出会った…という感じだろうか。

その日、製作者に出会った私は、それだけで良かった。私は何者なのか…、私は何をすれば良いのか…、私はどこに向かっているのか…、そのときは何も分からなかったが、すべてを知っている方に出会ったので、すべてが瞬時に解決したかのようだった。

その日以来、私は苦難のときも、順風満帆なときも、神様がいないかのように遠く感じられたときも、ずっと製作者のいる世界の側にいるのを実感してきた。

私の人生は、造られた方に出会うことによって、すべてに意味があるものとなった。

神様は私たち一人一人を、私たちが生まれる前から見ておられ、私たちが呼吸をする前から私たちの一生の一日一日のスケジュールを作られた。(詩篇139:15.16)

神様は私たちを世界が始まる前から知っていてくださり、私たちをキリストにあって、愛する対象として造られた。(エペソ人への手紙1:4)

『初めに、神が天と地を創造された。』 それは、聖書の初めの一行であるだけでなく、神様の始まりの一行であるだけでなく、私の生きる意味を見い出す一行なのだなぁとしみじみ思った。

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神様、あなたが世界を造られ、私を造られたことをありがとうございます。

私は造られた方を知ったので、私の人生が偶然で成り立っているのではなく、造られた方の意図によって計画され、期待され、配慮されていることを知っています。

いつも、この造られた方に戻り、私がその造られた方の意図に沿って、最大限に“私らしく”生きていけるように祝福してください。

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創世記から…

次の分かち合いの予告です。

『初めに、神が天と地を創造した。

地には形がなく、何もなかった。やみが大いなる水の上にあり、神の霊が水の上を動いていた。

そのとき、神が「光よ。あれ。」と仰(おお)せられた。すると光ができた。』旧約聖書 1:1.2

いつもブログ訪問ありがとうございます。

私はブログを書くようになって、聖書のことばを考える時間がとても多くなりました。

そして、胸がときめきます。神様は改めて、素晴らしい方だと、喜びに満たされます。

タラントの分かち合いが終わったところで、創世記から共に分かち合いたいと思います。

神様は初めであり、終わりです。この初め…天地創造から始まる創世記には、神様の思いがたくさんつまっているのだろうなぁと思います。

聖書知識としてでなく、私が深く教えられたところを体験と共に書きたいと思います。なので、飛び飛びになりますが、よろしくお願いします。

神様の素晴らしさ、イエス様の赦しの光を共に分かち合えることを願っています。

訪問してくださる方々の神様との親しい交流がありますことを祈ります。

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2009年4月30日 (木)

タラント発見の旅・4(見つけるカギ)

私が与えられているタラントを見い出せずにいたことから教えられたことです。

『私たちの目標は、神が私たちに定められたその境界の中にとどまることです。』新約聖書 第2コリント10:13(NLT訳)

前にも書いたが、私が自分に与えられているものが、急にたくさん見えてきた体験がある。

それまでは、神様に赦され受け入れられているとは思っていたけれど、人を裁いていた領域があった。そこを手放したとたんに、神様がどんなにか私を思い、私に期待し、良いものをくださり、計画しようとしているか知った。

すでに与えられているのに、なかなかわからないのは自分の中に見い出せない問題があったのだと教えられた時だった。

「5つの目的」の本の中に、「神から与えられるものを用いるために、自分のありのままを受け入れ、楽しむ大切さ」が書かれてある。その一部を書き写す。

「ありのままの自分を受け入れるということは、自分の限界を認めることが含まれています。…パウロは、自分の召し(働き・使命)が、すべてを成し遂げることでも、すべての人を喜ばせることでもなく、神から与えられている自分にふさわさい働きだけに集中することであると理解しました。…境界というのは、私たち一人一人に、それぞれ仕える分野や領域を用意しておられるということです。あなたの形があなたの専門分野を決定します。」

自分に与えられているもの、また、その領域を私自身に託されているものと所有していくとき、私たちは、人が何かをやっているか、やっていないか気にならなくなるのかもしれない。

まさに、私は、自分に与えられていた賜物(能力)と計画を、他の人たちもするべきだと、賜物投影していたことに、私自身の問題があった。(教会で“神様の恵み”が語られるべきだと要求し続けていた)

私に与えられたものを神様からのものと感謝し、自分の与えられた領域を、自分の喜びと神様と人のためにと謙虚な気持ちで使っていきたいと思った。

神様は一人一人に神様の特別な宝を隠しておられ、それをもって、神様と共に生きる喜びの中に入ってほしいと切に願っておられる。

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神様、どうか、私たち一人一人に、神様が特別に与えられたものを知り、喜んで使っていけますように祝福してください。

求めるものには豊かに与えてくれる神様、与えられているものを豊かに見い出させてください。

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禁止命令に満ちた世の中

中学校からきた息子のプリント(お手紙)を見て、とても教えられたことを分かち合います。

『もしあなたがたが、キリストとともに死んで、この世の幼稚な教えから離れたのなら、どうして、まだこの世の生き方をしているかのように、

「すがるな。味わうな。さわるな。」というような定めに縛られるのですか。

そのようなものはすべて、用いれば滅びるものについてであって、人間の戒めと教えによるものです。』新約聖書 コロサイ人への手紙2:20~23

中学2年の息子の、学校からのプリントを見て驚いた。ゴールデンウィークの過ごし方が書かれてある。なんと禁止命令、指示命令の多いことか!

「〜しなくてはなりません。」「〜しましょう」極めつけは、「自らを厳しくコントロールして、次の行為は絶対にしないでください。具体的な内容は自分で考えましょう。1、生活習慣を乱す行為
2、法にふれる行為 3、危険な行為 4、迷惑をかける行為」そして、横にストップと書いたイラストがある。

学校に迷惑をかける困ったことはしてくれるなという気持ちはわかる。が、子どもたちは、果たしてこのプリントを読むだろうか。

子どもたちも禁止命令に縛られ、気の毒な気もする。

実は、私たちは生まれたときから、「〜してはいけません。」「〜しなさい。」という世界に浸って生きてきた。(親の守りの言葉もあるから、すべてが悪いとは思わないが…)

してみると、神様の子どもになるには、ただイエス様の十字架を信じれば良かったのが、神様の子どもになったとたん「聖書の良い教えに従って、神様に喜ばれる子どもになりましょう。」という世界になりやすいのは、当然のことかもしれない。

私たちの“ただ信じるだけで良い”世界は信仰の入り口だけではない。そのイエス様という門をくぐったら、ずっと続くのである。

私は教会の中に、「ただ信じていく世界」でなく、「良い行いを追及する世界や自分の意志で頑張る世界」が普通に入っていることに、気が滅入っていた。けれども「ただ信じる世界」を保ち続けるということは、本当に難しいことなのだと、朝、子どものプリントを見て思った。

『しかし私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはなりません。』ガラテヤ6:14

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神様、私は教会の中がどうして、イエス様以外のもの(良い行いなど)が大事にされるのかと葛藤してきました。

けれど、実は、私たちの長年染み付いた習慣がそれで、今、生きている世の中も「〜しなさい」「〜するな」の世界なので、その中から抜けるのは本当に大変なのだと教えられました。

「キリストの十字架だけがすばらしい」と告白し、行動に縛られる世界から解放され、ただ赦されている喜びを動機とした世界に私たちを移してください。

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2009年4月29日 (水)

タラント発見の旅・3(5つの方面から与えられているもの)

「5つの目的」の本より、私たちに与えられている賜物(タラント=神様から与えられている能力)について考えたいと思います。

『私たちは皆、キリストの体の一部分であって、それぞれに優れた形と驚くべき機能が与えられているのですから、ためらうことなく、ありのままの自分であり続けなさい。』新約聖書 ローマ人への手紙12:5(Msg訳)

リック・ウォレン師の「人生を導く5つの目的」から、「神に仕えるために与えられているもの」を共に見たい。

本では、人には5つの方面からタラント(神様からもらった能力)が与えられているとある。

1つ目。自分の霊的賜物。(Spiritual Gifts)これだけは、神様の権能にもとずき、クリスチャンにだけ与えられた能力。第1コリント12:8~10には、知恵、知識のことば・信仰・癒し・奇跡を行う力・預言・霊を見分ける力・異言・異言を解き明かす力とある。どれも、個人レベルでなく、教会のために与えられた物と思う。

2つ目。自分の心(Heart)。「あなたの心は、あなたがしたいと思っていることや、一番大切に考えていることなど、あなたの動機の源になっている場所」とある。「神は私たち一人一人に違った感情の“鼓動”を与えています。私たちが興味あるテーマや光景について考える時、私たちの感情的鼓動は速くなります。…あなたがどこに仕えるかヒントになります。」情熱をもって成したいこと、好きなこと、熱狂的なことの中に与えられた、仕える能力が与えられているとある。

3つ目。自分の能力(Abilities)。得意分野ということと思う。料理、裁縫、歌、管理能力、釣り、大工仕事…なんであっても、神様と人のために使いたいとなったとき、神様に喜ばれる、神様と共に喜ぶものとなる。

4つ目。自分の個性(Personality)。内向的、外交的・思考派、感受性派・チームワークが得意、個人プレーが得意、楽観的、悲観的…今もっている性格や個性も神様は豊かに用いられる。

5つ目。自分の経験(Experience)。家庭・教育・仕事・霊的体験・ミニストリーの経験・苦痛の経験など、過去のどんなことも、無駄にならず、神様は生かしてくれる。「神様は痛みの経験こそ最もよく用いられる」とある。まさに『私の苦しみがあなたの慰めと救いのため』(第2コリント1:6)である。

この頭文字をとって自分の形=SHAPEとある。ちなみに私のSは聖書とあかしの分かち合い、Hは悩み、苦しむ人と共に生きたい、Aは人の話しを聞くのが好き、Pは猪突猛進型、社交型、行動派,Eは両親からの傷、教会での苦痛の体験が今断然、益になっているということ。ノートに書いてみると確認できるかもしれない。

神様は、私たちに与えた能力をもって、神様に仕える喜びを与えている。

ジョン・バニヤンのことば。「もし私の人生が実を結ばないのであれば、誰が私を賞賛しようと関係ない。もし私の人生が実を結ぶのであれば、誰が私を批判しようと問題はない。」

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神様、あなたはお一人一人をオリジナリティに溢れた存在としてお造りになりました。

お一人お一人が今与えられているもの、これから表されていくものを知り、神様に期待し、神様と共に働く喜びに満たされますように祈ります。

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タラント発見の旅・寄り道(私に与えられているもの)

最近、ブログを書きながら、私に与えられている最も大切な、情熱が傾けられることはこれしかないと思わされています。

『私は、「主(神)のことばを宣(の)べ伝えまい。もう主の名で語るまい。」と思いましたが、主のみことばは私の心のうちで、骨の中に閉じ込められて、燃えさかる火のようになり、私はうちにしまっておくのに疲れて耐えられません。』旧約聖書 エレミヤ書20:9

この前、ボランティアの懇親会で、「今、何が一番楽しいの?」と聞かれ、「ブログを書くこと」と私は即答していた。

少し前だったら、「人と会って話すこと」だったが、今や“ブログ中毒”のようだ。

自分で分析するに、ブログをただ書いてるから楽しいということではないと思う。

ブログに書いていることは、私の一番心の底にある本音の神様の分かち合いで、それが書けること。そして、パソコンや携帯で、定期的に訪問してくださる方々がいて、分かち合ってくれていること。私がこういう形で神様をほめたたえ、大好きな聖書のことばを分かち合えていること。そして、ボキャブラリーが少なく、つたない文たけど、神様がこんな風に書いたら?…と教えてくれ、時には書きながら聖書の秘密を神様が教えてくださってること。書きながら、神様はやっぱりすごいと思えること。見えない訪問者の方たちのために祈れる祝福。とにかく、訪問してくださる方あってのブログなのだが、楽しくて仕方がない。

悲しみの人、預言者エレミヤは、イスラエルの民に「このままでは、あなたたちは神様のさばきにあい、バビロンに捕囚されてしまう。悔い改めよ。」と預言する。

が、その悲痛な叫びも民には届かず、エレミヤ自身は迫害にあい苦しむ。そんな中で、「もう神様の思いは語りたくないと思ったが、与えられた神様の思いは黙っているには苦しくて黙っていることは出来ません。」と言っているのが、この聖書の箇所だろう。

私も育児したり、ボランティアしたり、人と交流したり、癒されての日々は楽しいが、私にとって、神様のことばを分かち合うにまさる喜びはない…と今、実感している。

ブログ中毒でいいのか…と思いつつ、今は許されて、このようなときを持たせてもらっている幸せを思う。

私が最も情熱を傾けられることは、神様のあかしをし、神様のことばと思いを分かち合う…これしかないと私に与えられた賜物(神様から与えられた情熱とプレゼント)だと思うのだった。

ブログ訪問感謝します。ともに神様の良いものを分かち合いたいと切に願っています。そして、お一人お一人の生活の祝福を心から祈っています。

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2009年4月28日 (火)

思い出しました…

子育てに励む立派なお母さんたちの話しを聞き、思ったことです。

『しかし神は、知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれたのです。

また、この世の取るに足りない者や見下されている者を、神は選ばれました。すなわち、有るものをない者のようにするため、無に等しいものを選ばれたのです。

これは、神の御前でだれをも誇らせないためです。』新約聖書 第1コリント1:27.28

今日は、中学でやっている役員の代表者会議が、市役所であった。講演もあり、「子どもたちの性を考える」と題して、男の子と女の子の体のつくりの違い、性欲の違いなど、とても具体的に分かりやすく話された。我が息子も中学2年で、彼の中にどんな変化が起こっているのか、少し理解できた気がする。

思春期に、男の子の多くは、性欲が出てきて(体の基本的な成長)家庭の中にいる異性である母に距離をおきはじめるとあった。

そういえば、息子は最近急に、こたつをかたずけてから、リビングで過ごさす、部屋で過ごすことが多くなった。可愛い一人息子だが、最近は、私もブログを書くのに熱中し、子離れできてよかったなぁと思った。神様がいなかったら、私は子どもが一番で、子どもが神になっていたかもしれない。

帰りにお母さんたちとランチした。皆、立派なお母さんたちで、「私は子どもをこう“しつけ”しているのよ。」などと聞くと、“しつけ”能力がなく、主人に任せている自分を見せつけられる。

私が思春期の頃、母に受け入れられなかったので、私自身は子どもを受容する力だけはあるんじゃないかと思うけど、子どもをしっかり育てられる程、信念もなく、努力もなく、改めて、神様の憐れみで子育てさせてもらっているんだなぁと思った。

この世の中では、
愚かな者、弱い者、取るに足りない者、見下されている者…そんなものが、神様がほめたたえられるために選ばれた。

私は心が癒され、神様の安らぎの中に憩っていると、忘れてしまいそうだけど、神様無しでは生きていくことのできない者なのだなぁと思う。

努力家で、信念があって、立派な人たちの中にあって、“頑張る世界”ではビリッケツのようなものだけど、頑張らなくていい世界に生かされているのを感じた。

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神様、この世の取るに足りない私を選んでくださってありがとうございます。

時々、忘れてしまいますが、神様無しでは育児どころか私自身が生きていくことすらできない者だということを思い出しました。

ただ、神様、あなたのあわれみによって、この世の人たちには隠されているイエス様のいのちによって生かされていることをありがとうございます。

この世の取るに足りない者を通して、神様がすばらしいことが証され、表されますようにしてください。

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タラント発見の旅・2(何のために与えられたか)

神様のために与えられた能力(タラント)を使う素晴らしさについて、分かち合いたいと思います。

『その主人は彼に言った。「よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。」』新約聖書 マタイの福音書25:21

神様は私たちすべての人にタラント(神様のために働く能力)を与えられた。ある者は5タラント、ある者は3タラント、ある者は1タラント。数が違うことに悲観する必要はない。神様から見たら、皆“わずかなもの”だから。

大切なことはその与えられたものを有効に活用するということ。自分に与えられたものが何かはっきりしないと意識して神様のために使うことができない。

その与えられたタラントを活用すると3つのすばらしいことが起こる。

一つは「よくやった。」と神様からのねぎらいの声かけがあるということ。声は聞こえないかもしれないが、神様に忠実に従った充実感を体験する。

そして、使えば使うほど、神様はその能力を増やしてくださるということ。わずかと思えても、しっかりとした財産となる。楽しい。増える…というのは、神様の祝福である。

そして、一番大切なことが神様の喜びを体験できるということ。神様をリーダーとし、チームで共に労した喜びであり、その実りを共に味わえる喜びである。

タラントはまず、神様が私たち自身が神様と喜ぶために与えられた。

それからタラントは、人のために使うようにと与えられた。

気前のいい人が、「これでみんなで美味しいものを食べてくれ。」と5万円くれたとする。私がそのお金を預かって、たくさんの人たちで飲み食いして、私が預かったお金で精算したからといって、私は何も自慢できない。お金の出どころが私ではないのだから。そして、人々が恩恵を受けても、言われた通りにしただけのことで特別なことではない。

私が例えば、病を癒したりすることができたとしても、「この能力でみんなを癒してくれ」と預かっただけだから、私も周りも神様にだけ、「ありがとう」と言える。

そして、タラントを活用した人の報酬は“神様と喜びを共にする”である。

私たちは目に見えるものに弱い。誰かが神様の働きをすると、人をほめやすい。また、使った人は、いつの間にか、出どころをしっかり忘れ、「オレ様、凄いだろう。」となる。私たち誰もがもっている弱さ、誘惑と思う。

神様から預かったものを“こわく”なって、全く使わなかった人が聖書にでてくる。預けたご主人からお叱りを受ける。なぜ、彼は“こわかった”のか。

それは、神様を信頼していなかったからだと思う。自分で頑張る世界は、成功したか、失敗したかとても気になる。失敗したら…と恐れがきて、動けない。

神様にとっては、失敗も成功もどうでもよい。人の出来、不出来で左右される方ではない。私たちの失敗に思えるようなことすら、良いことに変えてくださる。

そして、私がタラントを使い神様と共に喜び、そのタラントに人が支えられるとき、私たちは皆で神様の栄光、輝きを見ることになる。

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2009年4月27日 (月)

タラント(与えられた能力)発見の旅・1

神様は一人一人、すべての人に神様の特別な計画を持ち、能力を与えました。そのことを見い出す素晴らしさを思います。

『あなたがたがわたし(イエス)を選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。

それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、父があなたがたにお与えになるためです。』新約聖書 ヨハネの福音書15:16

私が初めて個人的に神様に出会った日、私はこう祈った。

「今まで自分で生きていると思いましたが、生かしてくださる神様がいるのを、今、知りました。神様のために私を使ってください。」

だから、私にとって、神様に私がどう使ってもらえるかを知っていくことはとても重要だった。私は“生きがい”を捜し続けていたが、その日から“神様に生かされる道”を求めるようになった。

神様は一人一人すべての人に特別な神様の計画とそれに伴う能力を与えてくださっている。

それは一つだけでないかも知れないし、当たり前に思っていたものが、実はその人にだけ与えられているものだったりする。

私への神様の計画と能力は、「こういうことかなぁ」とやっと最近、具体的になってきた。が、予告は25年前にあり、そのことがどうやって実現していくのか祈ってきた。

私への予告の聖書のことばはイザヤ58:6~14で、この箇所を何度も何度も開いては、どんな風にこのことが私になるのだろうと期待してきた。

『飢えた者に心を配り、悩む者の願いを満足させるなら、あなたの光は、やみの中に輝き上り、あなたの暗やみは、真昼のようになる。』イザヤ58:10

まだクリスチャンでなかった主人と出会ったとき、主人は「ぼくは光の中の光でなく、闇の中の光となりたい」と言った。神様から私と同じ計画が与えられている人だなぁと思った。

神様は一人一人に特別なその人にだけの神様の計画と働きと能力を与えているが、それを知っているのと、そうでないのでは、その歩み方が違う。

なぜなら、私たちに与えられた神様の働きと能力は、私のいきがいになり、神様とともに喜ぶ体験になるのだから。(マタイ25:21)

神様は「さぁ、わたしがあなたに託したものを使って、わたしの喜びを共にしてくれ。」と私たちに期待している。神様からのタラント(能力)捜しを、リック・ウォレン師の本を参考に共にできたらと願う。

お一人お一人に与えられたタラントの大発見を期待して…。

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神が愛された世

昨日の朝、我が家の小さな庭は、神様が造られた小宇宙のように美しかったです。

『神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。』新約聖書 ヨハネの福音書3:16

八重桜の優しい花びらが、庭中一面にちりばめられています。

花咲く季節を待つあじさいの葉っぱにも、花々にも、雑草にも、地面にも、愛犬のいなくなった犬小屋にも…。

小さな庭の真ん中にそびえ立つ桜の木…そこから散りゆく桜の花びら。

まるでイエス様の赦しのしるしが全地に降り注いでいるかのよう。

イエス様の十字架の赦しは、すべての人に降り注ぐ。

「ただ受けとるだけでいいのですよ。」と降り注ぐ。

悲しむ人にも、見捨てられた人にも、失意にある人にも、憎む人にも、病の人にも、死を前にする人にも…赦しの希望が降り注いでいる。

どうかイエス様のいのちの代価のプレゼントをたくさんの方が受けとれますように。

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2009年4月26日 (日)

草剪くんの事件に思う

草剪くん、裸事件に思ったことを書きます。

『たとい、あなたがたの罪が緋(ひ)のように赤くても、雪のように白くなる。

たとい、紅(くれない)のように赤くても、羊の毛のようになる。』旧約聖書 イザヤ書1:18

今日、礼拝で、賛美しているとき、目をつぶっていたら、テレビで見た草剪くんの罪責感におしつぶされそうな苦しい顔が浮かんだ。

ジャニーズ好きだったからだけでなく、彼は私の好きタレントの一人だった。(また、復帰すると思うけど…)

キリスト教番組以外で、私が唯一DVDにとって見ていた番組が深夜番組「ぷっすま」だった。(草剪くんとユースケ・サンタマリアがゲストを呼んで、様々な…けっこうくだらない…バトルをする番組)

草剪くんはカメラが回っても、トイレに行ったり、ゲームに夢中になって番組忘れたり、自然体なところが面白くて見ていた。

これで、私が一人になったときに楽しむ番組がなくなってしまった。寂しい限り。

彼は真夜中に公園で裸になって、ワイセツ罪で逮捕されてしまった。

仲間に迷惑かけたのが苦しいと思う。きっと胸がおしつぶれされそうに苦しいと思う。

でも、「大丈夫だよ。」と言いたい。私たち、イエス様無しで裸で神様の前に出たら、みんなアウトなんだから…。

苦しいつぶれそうな心にイエス様の赦しと癒しと慰めがありますように。

誰かが彼に福音を語ってくれますように。

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イエス様の赦しのもとに行きましょう

イエス様の赦しは海より深く、私たちを包みます。

『そのとき、ペテロがみもとに来て言った。「主(イエス)よ。兄弟が私に対して罪を犯したばあい、何度まで赦すべきでしょうか。7度まででしょうか。」

イエスは言われた。「7度まで、などとはわたしはいいません。7度を70倍するまでといいます。…』新約聖書 マタイの福音書18:21:22

私たちは、人も出来事も赦しにくい、手放しにくいものです。

また、自分を見たら絶望してしまうほどに、弱く、惨めな、足りない存在です。

ペテロがイエス様に「身近な人が私に対して悪いことをしてきたら、7度も赦したら充分でしょうか。」とイエス様に聞きました。

ユダヤ教の教師は3度まで…と教えていたので、「7度だったら申し分ないでしょう。」と自信に満ちて聞いたのでしょう。

イエス様は7の70倍と言われました。無限にと言うことです。

「えっ!?無限に!?それは、イエス様無理ですよ…。」ペテロはそう思ったかもしれません。

イエス様はご自身がなさらないことを人に言われる方ではありません。

それは、まさにイエス様が「わたしは、あなたがどんなであってもあなたを見捨てません。見放しません。命をかけてあなたを愛し続けます。」と言ってくださっているのだなぁと思いました。

事実、イエス様を裏切ったペテロに復活された主は優しく語りかけました。(ヨハネ21:15~)

イエス様の赦しと受け入れは、私たちの思いをはるかに越えているのです。

イエス様のみもとに行きましょう。ただ、赦されるために。

ただ癒されるために。

私たちが良いことをしても、悪いことをしても、それらは全く関係ないのです。

イエス様の十字架だけが、神様に受け入れられるみわざで、私たちはそのことで、すべての恥をおおわれたのですから。

恐れずに主のもとにいって、慰めとあわれみを受けましょう。

主は私たちの痛みと傷を癒し、ただ主の平安でおおいたいと願っているのですから。

私たちのすべてはもう行く前に赦されています。そのことを受けとるために主のもとに一緒に行きましょう。

イエス様のあとに続いて、私も祈っています。愛されている人たちが、イエス様の赦しと愛と慰めにおおわれるように。心から祈っています。

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“十戒”の恵み・8(性的悩みからの解放、解決扁)

男性は情欲、女性は「この人が私に良いことをしてくれる」という違った思いに支配されやすいと本にありました。神様が私たちに良いことを計画してくれていることを信じます。

『あなたがたを襲う誘惑は、他の人たちが経験したことのないようなものではありません。

神は真実な方ですから、打ち勝つことのできないような誘惑をお許しになることはありません。

むしろ、あなたがたが誘惑にあう時には、それに屈してしまわないように出口を教えてくださるのです。』新約聖書 第1コリント10:13(NLT訳)

マーリン師の「隠れた思い」の本は次のように言う。

「ある誠実な牧師が、一人の女性と肉体関係をもってしまった。なぜか。20年間、一度も恥ずべきことを“した”ことはなかった。が、彼は女性について、“考えをめぐらしていた”のだ。…

想像(空想)する能力は神から私たちへの特別の賜物(たまもの=プレゼント)である。しかし、罪を犯したとき、空想力は破壊的な打撃を受けた。…

マタイ15:18.19には「心から出るものが人を汚す、悪い行いは心から出る」とある。

聖書を読むと神は私たちの心に関心をもっておられることがわかる。

すべてに権威をもっておられるイエスは不品行に対して権威をもっている。

神は聖くなることを望まれ、また、その保証も与えてくださる。」

一冊の本をダイジェストにまとめるとこんなところだろうか。

もっとも教えられたのは、私たちは、行いではなく、思い(空想)をイエス様にあって解決していかないと、その思いは必ず行動に出るということ。

私の経験からは、神様と人に告白する(人には打ち明けられる人に話す)大切さを教えられた。(第1ヨハネ1:9,ヤコブ5:6)

サタンはオレオレ詐欺師のようだ。前者は“恥”で、後者は“緊急性と危機感”で人をコントロールする。詐欺は2人きりの会話だとコントロール可能だが、相手が誰かに相談したとたんその支配を解いてしまう。「それ、詐欺だよ。」と。

性的な問題は「そんな不品行なことを思うのはお前だけだよ。恥ずかしいー。」とサタンは恥で縛る。そんな恥ずかしい思いは誰にも話せないよう仕向ける。誰かに相談したとたん、明るみに出され、制御不能になる。相手の自由を押さえていたが、サタンの思うままに支配することができなくなる。

リック・ウォレン師の「5つの目的」の「誘惑に打ち勝つ」の中に、「楽しみは状況に依存しますが、喜びは神との関係にもとずくものです。」とある。

私はジャニーズ好きを一度、人に話しをしたら誰にでも話せるようになった自分がいた。

私の中で、何が起こったか。そのような性的な恥ずかしいと思うことは、すでにイエス様の十字架で赦されていると受けとることができたということだった。そして、その思いから解かれていった。

神様は何故、私たちが誘惑に会いやすいものとされたか…リック・ウォレン師によると、「神様を選択し、神様を深く愛するチャンスとなる」と言っている。

追記すれば、私の様々な誘惑(人を裁く、神以外を求める)なども、深いところで、そのことを神様がどんな思いで見ておられるか教えられたとき、癒されていった。

###

神様、多くのクリスチャンが、空想の楽しみの中、また、罪責感も感じているのだと思います。

そして、私たちが完全にはなれないとあきらめています。

聖書の、神様の約束、イエス様の赦しの力を信じるかわりに、どうしようもない自分を信じています。

私たちの汚れた空想もイエス様が流された血潮で赦し清め、癒してくださることをありがとうございます。

そして、私たちは罪から離れ、自由にされ、なんの妨げもなく、神様の愛を受けることが一人一人に約束されています。

神様が私たちに願っていることが、神様の愛と、イエス様の十字架の赦しと、聖霊様の教え導きによって成りますよう祝福してください。

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2009年4月25日 (土)

“十戒”の恵み・7(性的悩みからの解放)

クリスチャンのたくさんの人が、性的な問題で苦しんいると思います。もっと、普通に教会でその悩みからの解放について語られたらいいなぁと思います。

『姦淫(かんいん)してはならない。』旧約聖書 出エジプト記20:14

性的な問題の悩み、そしてそこからの抜け道には教会では詳しく話されない。

封印されている。そして、誰もが、性的な問題は私には関係ないという風な顔でいる。その結果、一人一人が隠れたところで、孤独に悩む。

性的な罪を犯したとき、自分もダメージを受け、「自分はもう駄目だ。神様から受け入れられていない。」と思う。

聖書はどう言っているか。私が思うに、他の問題同様、私たちは神様からズレやすいものだ。戒めを自力では決して守れないものだが、イエス様の赦しと癒しによって、その悩みと苦しみから解放しようと言ってくださっているのだと思う。

私は長年、ジャニーズが好きだった。(それが何が問題かと良く言われる。)テレビのブラウン管の中だけのこと。だけど、そんな“素敵なカッコイイ人”、今はやりのイケメンが、現実に現れて、「sebaさん、デートしましょう。」と言われたら、イチコロになってしまうだろうということ。(私にはすばらしい夫がいるにもかかわらず・・・)

ジャニーズや、韓流スターの人気が衰えず、その産業が豊かに成り立っているのは、あたかも自分の“想像上の彼氏”として楽しんでいる多くの女性がいるからなのだと思う。まさに、アイドル(=偶像)とはよく言ったものだ。

私はあるときまで、自分のジャニーズ好きはクリスチャンには誰にも決して告白しなかった。私の性的な恥ずかしい問題として、隠していた。歳を経て、心も癒されていき、神様を喜べるように変えられているのに、アンバランスにそのことを楽しむ私は何なんだろうと思った。

私が、最も教えられた本はマーリン・キャロザース師の「隠れた思い」である。

誘惑は罪ではない、イエス様も悪魔の試みにあったと、別の本にもある。

が、私たちは誘惑すら恥ずかしいこと、神様から受け入れられず、人には話せないことと思ってしまう。

サタンは巧みに、こっそりと、「そんないやらしい思いを抱いているのか。もう駄目だ」と責め立てる。私たちがそこからどうにも抜け出せないように誘導する。

どうすれば、良いか。「隠れた思い」の中ではなんと書かれてあるか。長くなったので、続きはまた、次のブログに書くことにする。次につづく…。

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“十戒”の恵み・6(人を生かす者に変える神)

十戒シリーズが、間があきましたが、私の中ではまだ終わっていなくて、続いて分かち合いたいと思います。後半部分の、人と人の関係についてです。

『殺してはならない。』旧約聖書 出エジプト記20:13

『しかし、カインは弟アベルに話しかけた。「野に行こうではないか。」そして、ふたりが野にいたとき、カインは弟アベルに襲いかかり、彼を殺した。』旧約聖書 創世記4:8

何年か前、ある礼拝で、カインとアベルのメッセージがされていた。ヘブル人への手紙11:4からだった。たぶん内容は「私たちは、神様に受け入れられるささげ物をしよう」という内容だったような気がする。

が、その箇所から聖霊様が私に全く違うメッセージを語ってくれた。

アダムとエバは、エデンの園を追放され、その後、兄カインと弟アベルを出産する。

二人が神様にささげ物をすると、何故か神様はアベルのささげ物を良しとされた。兄カインは怒り、弟アベルを野原におびき出し、殺してしまう。人類初めての殺人として記されている。

何故、カインのささげ物は受け入れられなかったか。神様は心の動機まで見られる方で、何か問題があったのだろうと言われている。

聖書は不思議なもので、「私たちはカインのような人殺しにならないようにしましょう。」と言われても、ピンとこない。

そのとき、私は聖霊様の光の中、私自身が、まさに人を殺すカインなのだと教えられた。

殺人は良くないし、私は人を殺したいと思ったことはない。が、人間の奥深くにひそんでいるのが、そういう性質だと思った。今はそうでなくとも、大切な人を奪われたりしたら、いつ「殺してやりたい。」と思うかわからない。

また、殺すまでいかなくとも、私たちの自己中心が結局は、自分だけ良ければよいと、人が生かされるのを忘れる存在なのだと思う。私自身の過去を振り返ったとき、自分が生きれば良い…どこかでたくさんの人の生きる場所を奪ってきたのだと思う。

まさにカインこそ、私の姿そのものなのだ。

聖歌400番に「きみもそこにいたのか 十字架につくとき ああ なんだか心が震える」という黒人霊歌がある。

私こそがイエス様を十字架につけた…そのところに立つことが、イエス様と共に十字架に死ぬことなのだと思う。

そんな私が赦され受け入れられた。そこから、初めて「殺してはならない。あなたが生かされて、人を生かしなさい。」という神様の戒めの守りの中に入ることができるのを教えられた。

♯♯♯

私たちは自分はカインのように人殺しはしていない…そんな風に思いやすいものです。

本当に私たちは人を殺していないか、人を生かしているか…大きな律法の壁を感じたとき、イエス様が赦しをくださり、私と共に生きようと言ってくださるあわれみをありがとうございます。

私たちは自分が自分らしく回復して生きるとき、人も認め、受け入れ、尊重し、生かす者に変えられるそんな約束を感謝します。私たちをイエス様の愛でおおってくださり、人を生かす者にしてください。

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2009年4月24日 (金)

本の中の本“聖書”

聖書の素晴らしさを思い、神様をほめたたえます。

『聖書はあなたに知恵を与えてキリスト・イエスに対する信仰による救いを受けさせることができるのです。

聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正(きょうせい)と義の訓練とのために有益です。

それは、神の人が、すべての良い働きのためにふさわしい十分に整えられた者となるためです。』新約聖書 第2テモテ3:15.16

私は基本的に活動的タイプで、外に出ているのが好きである。家にじっとしていると具合が悪くなる。

ところが更年期うつ症状があったせいもあったが、今は家にこもっている。

ブログを書く、聖書を読む、本を読む…ひたすらその事をしている。私の人生で、聖書も本もこんなに読んでいるのは、生まれて初めてである。

ひとえに、ブログ訪問してくださる方と神様の良いものを分かち合いたい願いから来ている。訪問してくださる方あっての今である。

聖書は本の中の本と言われる。普通の本も素晴らしいが、聖書にまさるものはなく、聖書は本以上のものだ。

そこには、“啓示する神様”が現されている。“啓示する神様”が聖書のことばを通し、聖霊(神様からの霊)によって、不思議と人格的に個人に語ってくれる。

教えるだけでない、伝えるだけでない、人を慰め、励まし、支え、生かし、造り変えてくれる力がある。

“啓示”を国語辞典で調べた。「啓示とは神が人知では理解できない事柄について愛をもって自ら教え示すこと」とある。

神様は今も私たちの内にも外にも生きて働いて、神様を求める者に聖書のことばをもって語ってくれる。

私自身が自己中心の者から神様を慕う者に変えられた。神様のことばが、長い時間をかけて、私に必要なことを教え、父のように優しく戒め、窮屈なところを矯正し、神様の平安に憩えるように訓練してくれた。

ことばに渇き求める私たちに、神様は、人知では理解できない、思いつかない上からの知恵のことばと愛をもって、今日も優しく私たちの内に神様の創造のみわざをなしてくださる。

♯♯♯

世の中には言葉があふれています。私たちは、自分がおしゃべりをやめなければ、神様のことばは聞こえません。

人のことばも横に置くときも必要です。人のことばに支配されていたら、そこを癒し、そこから解放してください。

神様以上に大切にしていることばがあったら、教えてくださり、まずは、啓示の神様のことばを第1とさせてください。

神様のことばこそ、私たちを本当に生かすことばです。なぜなら、私たちを造られ、私たちの最善を知っておられるのが神様なのですから。

お一人お一人に、日々必要なことばで養ってください。

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命が与えられているしるし

花が咲いたのを見て、私たちも死んでしまっているようでも、イエス様のいのちが与えられているのだなぁと思いました。

『私が植えて、アポロが水を注ぎました。しかし、成長させたのは神です。

それで、たいせつなのは、植える者でも水を注ぐ者でもありません。

成長させてくださる神なのです。…

私たちは神の協力者であり、あなたがたは神の畑、神の建物です。』新約聖書 第1コリント3:6~9

昨日、庭に置かれた鉢の中で、ガザニヤの花がオレンジ色して3つ咲いていた。

春の暖かな日差しを気持ちよさそうに受けて、誇らしげに咲いていた。

嬉しかった。

ついこの前まで、玄関先で、花もつけずに、葉っぱだけがグッタリしていた。

庭担当の主人が「株分けしてやらないと、根が鉢の中でギッチリだ。」と3鉢に分けてあげた。2鉢は、すぐに花を咲かせた。

この最後の鉢は、花は咲かないままかなぁと思った。が、見事に綺麗に咲いた。

花たちは、皆成長するための条件が違う。日なたが良かったり、日陰が良かったり。水分がたくさん必要だったり、少なくって良かったり。植えどきや種の蒔き時も違う。

人も同じだなぁと思う。居心地がいいところもあれば、グッタリする場所もある。「私、生きている?」と思えるときもあれば、綺麗に花を咲かせる―生き生きとしてる自分―の時もある。

ある人はたくさん水―神様や人からの励まし―が必要だったり。基本、花はどんな花でも水と日光、土の養分はいる。

イエス様を信じた人には「天のお父ちゃん!」と呼ぶ聖霊が与えられている。(ローマ人への手紙8:14~16)たとえ、教会に行っていなくとも、何もしてなくても、イエス様のいのちが宿っている。神様の子どもである。

なんだかクリスチャンじゃないのかなぁと思っても、「天のお父ちゃん!」でも、「神様!」でも「イエス様!」でも、そうやって祈ることができるなら、神様の子どもである。

イエス様の十字架の完全性によって赦されている。神様の選びの中に、愛されている。聖霊が静かに心の中で、喜ぶのを待っている。

神様に忘れられずに見られている。神様が優しく語ってくださっている。

♯♯♯

神様、一人一人が神様の大切な子どもとして愛され、計画されていることをありがとうございます。

何かしたとか、教会に行けているとか全然関係ないことをありがとうございます。

ただ、イエス様が十字架で私の罪を処理し完了してくださったので、すべて赦され、今も受け入れられていることをありがとうございます。

私たちの中に、死んでいるかのようでも、眠っているかのようでも、イエス様のいのちが脈々と流れていることをありがとうございます。

ただ、ただ、成長させてくださる神様が、思いのままに成長させてください。一人一人の綺麗な花を咲かせてください。

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2009年4月23日 (木)

「同性愛者」の孤独

耐え難い孤独をも溶かしてくださるイエス様を思いました。

『神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。

神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。』旧約聖書 創世記1:27

私たちは、人を差別はしたくないと思いながら、自分には全く理解できないような人に対しては、偏見で見ているのだろうと思う。

4月19日(土曜日)のキリスト教番組、ハーベストタイムは2週に渡り、男と女―その性についてのテーマだった。そして、今回は元同性愛者のポーク氏のお話しがあった。

私は彼の話しを聞いて、行動に出ているところでは理解できない孤独や寂しさの話しを聞き、やっぱり人は等しく神様に造られたものなのだなぁと思った。ポーク氏の話しを簡単にまとめてみる。

「私の両親は未熟な中で結婚し、私が5歳のときに離婚しました。

父は、いつも結果を求める人で、心が通わず、冷淡で距離感のある人でした。

母は、情緒不安で母と私は一体でした。どこからが母で、どこからが私なのかわかりません。私は母といると安心し、母はいつも子どもの私に相談しました。

私は母といて、母の仕草を学習し、女ぽかったのです。学校ではそのことでからかわれ、いじめられました。

男性に対してはいつも恐怖心がありました。

悩みました。が、自分に何がおこっているのかわかりません。信頼できる人もいません。18歳でゲイバーに誘われ、中毒になっていきます。

24歳のとき、誰もわかってくれないと孤独がおおいました。毎晩、家に帰っては泣きながら寝たものです。男という男に裏切られてきました。

同性愛者は愛情に飢えて、深い心の痛みがあります。人と違うと寂しがっています。

その後、私はクリスチャン夫妻に会い、イエス様を信じます。裏切らない父を見つけたようでした。

聖書のことばに支えられ、神様はうそをつかないと信じていく中変えられていきました。

29歳、10年遅い思春期がやってきました。女性と愛しあう素晴らしさにワクワクしました。そして、妻と結婚しました。」

そのような話しだった。イエス様は誰にも理解されない悲しみや孤独に寄り添い、慰め、癒してくださる方だなぁと思った。

♯♯♯

今、誰にも理解されず、悲しみ、苦しみにある人たちにイエス様が本当の理解者であることを知ることができますように。

孤独、悲しみ、苦しみ…誰も助けられないそのまっただ中の暗闇にイエス様の慰めの希望が光となって照らしますように。

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「教会の苦悩」の本を読んで…

今、読んでいる本を通して、私が過去に悩んできた様々なことを思い出しています。

『あなたの神、主が、この40年の間、荒野であなたを歩ませられた全行程を覚えていなければならない。

それは、あなたを苦しめて、あなたを試み、あなたがその命令を守るかどうか、あなたの心のうちを知るためであった。

それで主は、あなたを苦しめ、飢えさせて、あなたも知らず、あなたの先祖たちも知らなかったマナを食べさせられた。

それは、人はパンだけで生きるのではない、人は主の口から出るすべてのもので生きる、ということを、あなたにわからせるためであった。』旧約聖書 申命記8:2~3

今、「教会の苦悩」H・ティーリケ著の本を読んでいる。昔、買ったが、あまり記憶にないのは、文体が難しく頭や心にあまり入ってこなかったのかもしれない。

内容は“説教に関する発言”である。まさに、私が長年苦しんでいたことの答えが書かれてある。

今、3分の1しか読んでいないが、そこには、説教者は自分自身が聖書のことばに生かされているか、自分の生活のすべてとなり、それを語っているか、語る相手を知っているか、また、キリスト教用語(例えば罪、救い、恩寵など)を使って、抽象的概念だけが流れていないか、など書かれてある。どれもこれも、私も考えたことのある内容ばかりで、面白い。

教会のメッセージに悩み続けた私にとって“メッセージとは何か”は最大のテーマの一つだった。

かつて「神様からずれている弱い私たちが、正しい、聖である神様のことばを取りつぐのは可能なのか。」と考えた。私がその頃、思っていたことは、「愚かで弱い人間が神様のことばを伝える…それは、“告白”を通してしかあり得ないのではないか。」ということだった。

「神様はあなたたちにこう言われます。」と言うときに、メッセンジャーは聞いたことを伝える者ではあるが、同時に神様から言われる聴衆の立場であるということ。

また、聴衆の代表として、語られた者であり、その弱さと足りなさを告白しつつ、分かち合う者であること。

“メッセージとは何か”そんなことを考えて悩み続けた人はあまりいないかもしれない。

が、申命記のこのことばは私たちに真実である。私たちは苦しみの中において『人はパンだけで生きるのではない、人は主の口から出るすべてのもので生きる』ということを神様から教えていただく。

私にとって、教会のメッセージの苦痛が、直接神様のことばを食べる祝福へと変えられた。神様の深い計らいに感謝するばかりである。

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2009年4月22日 (水)

赦(ゆる)すとは…

この前、友人と赦しについて分かち合いました。

『しもべの主人は、かわいそうに思って、彼を赦し、借金を免除してやった。

ところが、しもべは、出て行くと、同じしもべ仲間で、彼から百デナリの借りのある者に出会った。彼はその人をつかまえ、首を絞(し)めて、「借金を返せ。」と言った。

彼の仲間は、ひれ伏して、「もう少し待ってくれ。…」…しかし、彼は承知せず、連れて行って、借金を返すまで牢に投げ入れた。』新約聖書 マタイの福音書15:21~35

“ゆるす”これは聖書のメッセージのテーマであり、「イエス様に赦されたのだから、私たちは人を赦さなくてはならない」と良く語られる。

すると、私たちの中で何が起こるか。「赦されたのだから、赦さなくては…。ああ、でも、赦せない。」というジレンマがくる。

何度かブログに書いたが、私は赦せない人たちがいた。

5年位前に、「境界線」の本のある一節に衝撃を受けた。

「誰かを赦すとは、その人を解放すること、つまり彼があなたに対して負っていた負債を取り消すことを意味します。赦すことを拒むなら、あなたはまだその人から何かを求めているのです。そして、たとえあなたが願っているものが復讐だとしても、あなたはその人に永久に縛られてしまいます。」

この箇所を読んで、「私は人を赦さないことで、一番嫌だと思う人に結びついている、影響され続けている、支配されているのだ」と思った。

「それはとんでもない。嫌だ。私は神様からだけ良い影響を受けたい。」と思った。そして過去に会って、思い出す嫌だった人すべての名前をあげて「赦します。」と宣言していった。

なんだか見えない縛りの鎖が断ち切れていくような気がした。とても自由になった気がした。

『こうして、主人は怒って、借金を全部返すまで、彼を獄吏(ごくり)に引き渡した。』(マタイ18:34)

私が誰かを赦さない状態というのは、私が牢屋に入れられ身動き出来ない状態のことである。

最も嫌だという人に、“決して得られないものを要求し続ける”鎖(くさり)でつながり、振り回されている状態である。

私は赦せない人の影響を受けたくないなら、手を放すことだと教えられた。人に要求しない、いっさい期待しない。手放すこと。

そのとき私は、牢屋の鍵が開けられ、自分から外に出て自由になる。

そのとき、私は良い方の影響だけを満喫できる。

神様が願っておられるのは、「わたしが赦したのだから、あなたも赦しなさい。」と言うただ厳しい命令ではない。切に私たちの幸せと自由を願う神様の愛情がそこにある。

♯♯♯

神様、私たちは人を赦しにくいものです。

自分の力で、赦し手放すことは出来ません。

神様の私たちに対する思いを知り、私たちもまたイエス様の赦しの力におおわれ、赦し手放し、神様の愛のご支配の中に憩えますよう、導いてください。

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2009年4月21日 (火)

慰めと優しさが満ちた場所

発達障害の親の会から教えられていることの分かち合いです。

『それはあなたが私の内蔵を造り、母の胎のうちで私を組み立てられたからです。

私は感謝します。あなたは私に、奇(くす)しいことをなさって恐ろしいほどです。私のたましいはそれをよく知っています。

私はひそかに造られ、地の深い所で仕組まれたとき、私の骨組みはあなたに隠れませんでした。

あなたの目は胎児の私を見られ、あなたの書物にすべてが、書きしるされました。私のために作られた日々が、しかも、一日もしないうちに。』旧約聖書 詩篇139:7~16

息子の通っていた小学校のお母さんたちが集まっての、発達障害の親の会が発足して、まる4年になる。

「神様、学校で悩むお母さんたちに会わせてください。」という祈りがきかれ、神様の不思議の中で始まった。

今日は特別支援学級に通うお母さん2人と、我が家でお茶会をした。一人は晴れて、この4月から希望していた高等養護学校に入学した。

いろいろな技術を科ごとに習得し、100%就職へつなげてくれる学校とのこと。

といっても、この不況の時代。弱い者はますます隅に追いやられる。

先生たちも、PTAの就職部も力が入っているらしい。「どんな情報でもいいので学校に集めてください。」とのこと。緊迫感が漂う。

が、大きな目標の就労に向け、そんなに一生懸命やってくれる人たちがいるのはありがたい。本当に人間すてたものではない。

中学での卒業式には、特別支援学級の子どもたちのため、他に異動した元担任の先生(音楽の先生)が朝早くこっちの学校へ来てくれて、アンジェラ・アキの「15の君へ」を歌ってくれたらしい。

子育ても難しく、その子どもたちも生きにくい中、子どももお母さんもちゃんと良いものを拾って支えにして生きている。

明日は、普通学級に通う発達障害のお母さんの会がある。(どちらも月1で集まっている。)

お茶やご飯を食べながら、近況報告したり、情報交換する、ひたすらおしゃべりする会である。毎回入れ替わり立ち代わり7〜8人のお母さんが集まる。

が、ここのお母さんたちも、とても明るい。そして、優しさに満ちている。「うちの子ども、どうしたらいいんだろう」と悩むお母さんに、みんな同じ悩みの道を通ってきたので、「つらいね。でも大丈夫よ、きっと。」と受容と慰めのことばがその場を包む

子どもたちも親も、一人一人違うけれど、神様が造られた人はやっぱり素晴らしいと、私はいつも感動する。神様が与えてくださった素晴らしい最高作品を見せられるときである。

♯♯♯

神様、優しさや慰めは楽しいだけのところでなく、悲しみと辛さを通ってきたところにあるのですね。

生きることが大変でも、受け入れあって、向き合っていく力強いお母さんたちに人間の素晴らしさを教えられます。

神様、あなたが計画され造られた一人一人の子どもたちが、自分の居場所を見つけ生きていけるよう助けてください。

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ヨナタンとダビデの友情

「友はいいものだ」と改めて思った今日、ダビデとヨナタンの友情を共に分かち合いたいと思いました。

『ヨナタンは自分と同じほどにダビデを愛したので、ダビデと契約を結んだ。

ヨナタンは着ていた上着を脱いで、それをダビデに与え、自分のよろいかぶと、さらに剣、弓、帯までも彼に与えた。』旧約聖書 第1サムエル記18:3.4

遠方より友来る。一年に一回位のペースで、遠くから友人が会いに来てくれる。

私も一年分の自分の足りなさとそこに働いてくれた神様の素晴らしを話しまくる。

私よりちょっと年上の友人は、私にしてくれた神様の良き出来事を自分のことのように喜んでくれる。

20年前に、教会が私たちの前から無くなったときの共通体験を共に思い出す。私たちの結論は、人はとにかく弱く、いろんなことに誘惑される存在で、自分たちだって気をつけないと…と話しをする。

あの後、別々になってから、彼女は属していた教会を3回ほど移った。出るたびに傷と痛みを負い、いまだに癒えていないと言っていた。

あっという間に時間が過ぎた。「一日あっても足りないね。」と時が立つのを惜しんでくれた。密度の濃い時を過ごして別れた。

聖書では、ダビデとヨナタンの友情が有名だ。

ヨナタンはダビデと出会い、友情を誓い、その生涯、その友情を貫いた。

ヨナタンの父サウル王がダビデの命を狙っていたときも、ダビデを支えた。そして、ヨナタンが本来、王位継承者である状況で「ダビデよ。あなたこそ、イスラエルの王となり、私はあなたの次に立つ者です。」と語る。(1サムエル23:17)

ヨナタンが戦場で殺されたときはダビデは悲しみ、哀歌“弓の歌”を作った。(ヨナタンの弓からとった題名とされる)

『…ああ、勇士は戦いのさなかに倒れる。ヨナタンはおまえの高き所で殺された。

あなたのために私は悲しむ。私の兄弟ヨナタンよ。

あなたは私を大いに喜ばせ、あなたの私への愛は、女の愛にまさって、すばらしかった。

ああ、勇士たちは倒れた。戦いの器(うつわ)はうせた。」(第2サムエル1:25~27

イスラエルの国の王位がサウルからダビデに移っていく情勢の中、美しい友情を貫いた2人。神様が出会わせ、結びあわせてくださった。

私たちは今、イエス様が「わたしがあなたの友です。」と言ってくださる。(ヨハネの福音書15:14)

私の喜びも悲しみも知り、共に寄り添ってくださるイエス様と親しくある日々でありたい。

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2009年4月20日 (月)

“十戒”の恵み・5(共に礼拝する日を待ち望む)

私が日頃思っている、祈っている分かち合いです。

『安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。

6日間、働いて、あなたのすべての仕事をしなければならない。

しかし、7日目は、あなたの神、主の安息である。あなたはどんな仕事もしてはならない。―あなたも、あなたの息子、娘、それにあなたの男奴隷や女奴隷、家畜、また、あなたの町囲みの中にいる在留異国人も。―

それは主が6日のうちに、天と地と海、またそれらの中にいるすべてのものを造り、7日目に休まれたからである。それゆえ、主は安息日を祝福し、これを聖なるものと宣言された。』旧約聖書 出エジプト記20:8~11

旧約の安息日は、新約では「主の日」・日曜日の礼拝になる。

イスラエルの民にとって安息日を覚えるのは、6日で創造され1日休まれた創造主を覚えるため、また、エジプトから救い出された神様を覚えるため(申命記5:15)だった。

今私たちは、聖日に仕事を休んで、十字架にかかられ、復活されたイエス様を覚える。

時間もまた、神様から与えられたものとし、感謝する。

それでは「日曜日には教会に行って礼拝しよう。」ということになる。が、私の大切な友人の何人かは痛みや苦しみの中、教会に行っていないので、安易にそれを言えない。

イエス様はすべての人のために死なれ、その赦しをただで受けよと招いておられる。

が、教会には何か壁を感じる。その壁が障害となって教会にこれない人がいる。

教会の中で楽しくやっている人にはわからないかもしれない。

主の日を教会で、神様の家族で守る…神様を信じた人に特別に与えられた祝福と特権と思う。

が、キリストの体の半分は教会に行けないクリスチャンである。私は、その半分を神様は覚えてくださってる、特別な計画を立ててくださっていると神様から教えられ確信している。

エペソ2章にあるように、キリストにあって、隔ての壁が打ち壊されて、一つのからだとして、神様に仕える日がくることを心から祈っている。

そのとき、ただキリストによって、私たちは誰もが共に主の日を楽しみ、喜び礼拝する。

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2009年4月19日 (日)

“十戒”の恵み・4(まことの礼拝とは)

偶像を造るとは何か、そうでないまことの礼拝とは…について考えてみました。

『あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。上の天にあるものでも、下の地にあるものでも、地の下の水の中にあるものでも、どんな形をも造ってはならない。

それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。

あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神、わたしを憎む者には、父の咎(とが)を子に報い、三代、四代にまで及ぼし、わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施(ほどこ)すからである。』旧約聖書 出エジプト20:4~6

『あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。…どんな形をも造ってはならない。』というのは「まことの神を自分自身が、それ以下のものとして想像してはならない。」という意味だと、J・I・パッカー師は「クリスチャン生活と十戒」(いのちのことば社)の中で言う。

神様は私たちに“想像力”を与えられた。それも良いものであった。が、アダムとエバの堕落以来、私たちの“想像力”も悪い方向へと進むに至った。

神を神たるように想像するのではなく、もっと人間的なもの、しいては人間の欲求の産物として造ってはいけないということだろうか。

もし、人に例えると素晴らしい人がいて、その人を勝手に自分の想像で思い描くこと、ひどいものに想像することかなぁと思った。

神様を勝手に自分の想像の範囲に押し込める…その反対は何かを考えた。

それは、“啓示の神”を信じるということではないか。

イエス様は言われた。『しかし、真の礼拝者たちがまことによって父を礼拝するときが来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。

神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。』(ヨハネの福音書4:23.24

イエス様が来られ、私たちは赦され、神様と人格的な交流ができるようになった。神様の思いを知る聖霊を与えられ、神様と親しい交わりに入れられた。そして、旧約聖書とイエス様によって上から啓示されたところの神様を礼拝できる。

今、最後の時代(聖霊が与えられ、教え導かれる時代)として、私たちはイエス様に赦され、大胆に神様を崇めることができる。

♯♯♯

神様、イエス様が来てくださり、私の罪の赦しを与えてくださり、神様を神様として礼拝できる恵みをありがとうございます。

私たちが自分の想像で造った神様であるなら、私を生かすことも助けることもできません。

すべてに主権をもっておられる全能の神様、愛なる神様を私の神様として礼拝し、あがめられる幸いを感謝します。

神様を私の小さい世界に引き込むことなく、恐れをもって、神様として礼拝できますようお願いします。

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御顔を照らしてください

イエス様によって、今、私たちは神様の御顔を照らされてる者である幸いを思います。

『どうか、神が私たちをあわれみ、祝福し、御顔を私たちの上に照り輝かしてくださるように。』旧約聖書 詩篇67:1

“御顔を照らす”は“微笑む”とも訳せるらしい。

私は民数記6:24~26の祝福の祈りのことばが大好きだ。

この詩篇でも「御顔を私たちの上に照り輝かしてくださるように。」とある。

神様はいつも微笑えんでくださっている。

私にかかっているおおいが取り除かれた時、太陽のように変わらずに輝く神様の光と愛が私を照らし、神様の微笑みを見ることができる。

願わくは、私たちが皆、この神様の微笑みに喜ぶことができますように。

♯♯♯

私たちは神様からずれやすい者です。

そんな私たちにイエス様の完全な十字架による赦しを与えてくださり感謝します。

イエス様の十字架がなければ、私は何を得たとしても神様との親しい交わりはありませんでした。

イエス様が十字架にかかって、私の罪を赦してくださり、私もまた、イエス様と同じように、神様との親しい交わりに入れていただき、ありがとうございます。

この交わりを祝福してくださり、人々が私に照らされている輝きを見て、神様を知ることができますようにしてください。

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2009年4月18日 (土)

花婿の呼びかけ

イエス様の私たちへの愛を雅歌から見てみます。

『私の愛する方は、私に語りかけて言われます。

「…わが愛する者、美しいひとよ。さあ、立って、出ておいで。

岩の裂け目、がけの隠れ場にいる私の鳩よ。

私に、顔を見せておくれ。あなたの声を聞かせておくれ。あなたの声は愛らしく、あなたの顔は美しい。

「私たちのために、ぶどう畑を荒らす狐や小狐を捕らえておくれ。」

私たちのぶどう畑は花盛りだから。』旧約聖書 雅歌2:10~15

神様は私たちに男女が引かれ合い、結婚へと導いてくださる祝福を与えてくださった。

雅歌はそんな男女の愛になぞらえて、キリストとキリスト者の愛を表している。

花婿であるキリストは私たち花嫁に語りかける。

「わが愛する美しい人よ。さあ、わたしのもとに来てください。

あなたの美しい顔を見せてください。あなたの愛らしい声が聞きたいです。

私たちの愛を妨げるもの(ぶどう畑の狐たち)を取り除いてください。

私たちの今、愛し合う関係は時満ちていますから。」

イエス様の私たちへの語りかけは、そんな感じだろうか。

イエス様の命を捨てて愛してくれた愛は、私たちに注がれたとき、様々な困難の中にあっても、私たちに失望をもたらさないものです。(ローマ人の手紙5:5)

苦しみや迫害、飢え、はずかしめ、危険、戦い、何にあっても奪われない喜びを与えてくれるものです。(ローマ8:35~39)

愛されるため、呼び出された私たちの中に、このイエス様の花婿としての愛が満ち溢れますように。

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“十戒”の恵み・3(神様の愛に満たされる)

神様と私の関係でもっとも大切な第一の戒めから分かち合いたいと思います。

『あなたには、わたし(神)のほかに、ほかの神々があってはならない。』旧約聖書 出エジプト記20:3

私は神様に出会った頃、とても神様が近くに感じたり、なんだか遠く感じたりした。

神様は時に私たちにたくさん現れ、時に少ししか現れない方だろうか。

神様はいつも変わらない方で、私たちのうちにおられ、私たちの外には、いつも大雨のように神様の愛と恵みを降り注いでくださっている。

問題は私たちの内側にある。その神様の良いものを隔てるものが私たちにある。

私は自分を見ていると、神様以外のものを神にしてしまいやすいものだなぁと思う。

まず、自分。自分の考えや経験を正しいとしてそこに立ちやすい。私は長年、人を裁く習慣があったが、それもまた、自分が正しいとするところから発する行為である。

アダムとエバが善悪の木の実から食べて以来「神のようになる」誘惑にさらされている。

また、私は人が神のように思えたときがあった。自分の進みたい道をふさいでいるのがあたかも一人の人のように思えた。「神様、あの人を神かのように、絶大な力を行使しているかのように思える私を赦してください。道を開かれるも閉ざされるも神様のなせるわざです。」と祈ったことがある。

反対に、人に必要以上に過信したり、頼りすぎることも、また、人を神にしやすい危険があることを学んだ。

そして、最後に物や出来事などを神としてしまいやすいのが人だと思う。お金、地位、名誉、快楽、財産、持ち物、見た目等々。私たちは第一としたものに支配される(振り回される)者である。

もしそれら一つ一つ、手放していくことができたとき、何が起こるか。

それはまったき神様の支配である。神様の愛だけが私の心に満たされ溢れるのである。それは、エデンの園に戻っての、神様との親しい交わりを楽しむ世界になる。

神様はそのことを私たちに願っておられ、私たちのうちにそのことを切に成したいと思っておられる。

神様の私たちへの関心はこの世の楽しみを越えた「神様に愛される者」になってほしいということなのだなぁと思う。

♯♯♯

神様、あなたが私たちを限りなく愛してくださり、ただその神様の愛を私たちに注ぎたいと切に願っていてくださることをありがとうございます。

私たちは違うものを神にしやすい者ですが、あわれんでくださり、イエス様の赦しの中、一つ一つ手放し、神様だけをお迎えできる準備ができますように導いてください。

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2009年4月17日 (金)

“十戒”の恵み・2(良好な人間関係への道)

第5の戒めからの分かち合いです。人に関する戒めの初めにありますが、私はこの戒めのことばに出会って、“十戒”の奥深さを教えられました。

『あなたの父と母を敬(うやま)え。あなたの神、主が与えようとしておられる地で、あなたの齢(よわい)が長くなるためである。』旧約聖書 出エジプト20:12

私は、精神病になり関わりがなくなった父と、価値観の違う母に育てられ、20歳の時には、全自己否定の人間になっていた。

神様に出会って、少しずつ癒されてはいったが、「神様、父母を敬う…これだけは無理です。勘弁してください。」という感じだった。

が、神様の深いあわれみの中、父母を赦し手放すことができた。ただ神様がそうさせてくれた。そして、新しい天のお父さんに養われる喜びに至った。

その後、何年もたってからこの“あなたの父母を敬え”という聖書のことばに出会った。

そして、そのとき、「これは単なる命令のことばではない。解放に至るためのことばだ。」と感動した。

私たちは、未熟児で生まれ、何もできないところから、まわりの人に育ててもらう。成人になるまで20年もかかる。

人間形成にあたって、そのまわりの育ててくれた人の影響が大きい。その影響を与える大半は父母である。

まわりの人、特に両親が「あなたはそのままでいいのよ」と肯定的に育てると、子どもの中に肯定感が育つ。反対に、「あなたがあなたであるな」という何らかのマイナスメッセージを受け(ことばだけでなく、育児放棄や虐待もそうである。)育つと、その心に否定的なものが育つ。

そして、残念なことに、その基本の人間形成が、後の人間関係に密接に関係してくる。

『あなたの父母を敬え』それは単なるきまりとしてでなく、関係を築くすべての土台となるところになる。

私のように、両親を敬うのは不可能な人はたくさんいる。しかし、ここに、イエス様の十字架が登場するのだ。

赦せない人を赦す…これは大変しんどいことで、自分自身では到底できない。赦したくない心もある。

しかし、親のためでなく、私のこれからの人間関係良好のため、しいては神様とさらに親密になるため、私の将来、未来のために…と思えたら、祈ってみてあまりあることと思う。

イエス様は私たちの傷を癒すため、十字架にかかられた。そして、私たちにいやしと平安を約束してくれている。

私たちがこの聖書のことばを使って祈るかどうか…解放への選択である。

♯♯♯

神様、もしかつての私のように、父母を敬うことが難しいと感じている人がいるなら、神様が助けてください。

神様はその捕らわれに苦しむ我が子をご存じです。

私たちが、自分の力でできることは何もありませんが、イエス様の十字架の力と愛でいやし、おおい、手放し、自由にしてください。心からお願いします。

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“十戒”の恵み・1

モーセに与えられた“十戒”を分かち合うにあたって、聖書からその箇所を写しました。

『わたし(神)は、あなたをエジプトの国、奴隷の家から連れ出した、あなたの神、主である。

あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。

あなたは自分のために、偶像を造ってはならない。…

あなたは、あなたの神、主の御名を、みだりに唱えてはならない。…

安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。

あなたの父と母を敬え。…殺してはならない。姦淫(かんいん)してはならない。盗んではならない。あなたの隣人に対して、偽りの証言をしてはならない。…あなたの隣人のものを、欲しがってはならない。』旧約聖書 出エジプト20:2~17

神様のくすしい御業によって、劇的にエジプトを脱出した大勢いたイスラエルの民に、神様はご自身がどんな方で、どんな民を望んでいたか、示された。

「……してはならない。」という禁止命令に、「はい、喜んで聞きます」とはなかなかなれない。

私などは、母から否定的な小言で育ったので、その傷が残っていたときは、誰かに命令されるだけでも拒否反応を示した。

しかし、神様は10のポイントで“戒め”を示された。それは祝福なる神様が選民イスラエルを神様の祝福にあずからせるためであった。

『今、もしあなたがたが、まことにわたし(神)の声に聞き従い、わたしの契約を守るなら、あなたがたはすべての国々の民の中にあって、わたしの宝となる。全世界はわたしのものであるから。

あなたがたはわたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる。』(出エジプト19:5.6)

神様はイスラエルの民を選ばれ、イスラエルの民と契約された。イスラエルの民が特別に何かすばらしかったのではなく、アブラハムとの契約のゆえであり、アブラハムもまた、ただ神様のあわれみによって選ばれた。

旧約聖書の中に神様の愛が満ちている。

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2009年4月16日 (木)

神様の思い

最近、私は神様から一つの思いをいただいています。今までにない感覚ですが、私の願いを神様が応援してくれているのだと思います。

『永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した。それゆえ、わたしはあなたに、誠実を尽くし続けた。

おとめイスラエルよ。わたしは再びあなたを建て直し、あなたは建て直される。

再びあなたはタンバリンで身を飾り、喜び笑う者たちの踊りの輪に出て行こう。』旧約聖書 エレミヤ書31:3.4

私がブログを書き始めて9か月になる。

今はブログを書くこと、訪問してくださる方たちのために祈ることが生活の中心になっている。

最近、神様からたった一つのことを強く語られている気がする。

それは、「私はあなたを愛しているよ。」ということではなく、「私はあなたたちを愛しているよ。」ということである。

「あなたたち」は、私と私の証しを分かち合ってくれている方々。

けれど、「聞いてくれる?あなたのこと、神様はすっごく愛しているんだって。」って言っても何も伝わらない。

たぶん、自分に与えられた神様からの恵みを、人と分かちあいたいという願望を神様が後押ししてくれているのだと思う。

聖書はどこを開いても、神様から私たちへの「愛しているよ」というメッセージに溢れているのだと思う。

ただ、私たちの側で、その恵みの扉を開けることができないと、そのメッセージがときとしてきつく、裁きだけのような神様の印象を与える。

神様は一人子をお与えになるほどに、私たち一人一人を深く愛された。

叱るときも、裁いてるかのようなときも、一貫して変わらないお方である。

私のように気分でコロコロ変わってしまう方ではない。

神様のそんなみんなへの愛情を感じながら、前にも書いたことがあるが、“神様の愛が秘められた十戒”について、祈りつつ、教えられつつ、一緒に分かち合いたいなぁと願っています。

訪問ありがとうございます。神様にある祝福を心から祈っています。

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律法の大切な役割

私は律法主義者(決まり事を人に押し付けてくる人)は嫌いですが、律法は私たちの救いと赦しのために無くてはならない大切な役割をしていると思います。

『それでは、どういうことになりますか。律法(りっぽう)は罪なのでしょうか。絶対にそんなことはありません。ただ、律法によらないでは、私は罪を知ることがなかったでしょう。…

ですから、律法は聖なるものであり、戒めも聖であり、正しく、また良いものなのです。』新約聖書 マタイの福音書7:7~12

モーセはイスラエルの民をエジプトから救うため神様から遣わされることになったとき、神様に聞いた。

「神に遣わされてやってきたと言ったら、『その名はなんですか。』と聞かれる。何と答えれば良いですか。」

神様は言った。「わたしは、『わたしはある。』という者である。」

これは「神様は何にも依存しない神の性質、神様は過去・現在・未来に存在する永遠性、そして神様の主権」を表しているとある。

イスラエルの民にとって、まだ天地を造られた神様は漠然とした方だったかもしれない。

エジプト脱出後は、「あの奴隷生活から解放してくれた偉大な神様」となったが、それまでは、イスラエル全体での統一した神意識はなかったのかもしれない。

私たちの信じる神様はどんな方か。それを表したのが、“十戒”なのだと思う。

イスラエルの民を救い出した神様は、正しく、聖いお方、そして、民と親しく交流することを望み、人と人が侵害しない秩序ある関係を望む神様である。

「神様を愛し、自分を愛するように、人を愛する」ことを望まれた神様である。

律法が無くては、神様がどんなにか正しい、聖いお方か知ることはできない。

そして、それに対し、私がどんなに汚れた不完全な者かも知ることはできない。

聖書のメッセージの素晴らしさは、完全な義で聖なる方が、不完全で弱い私たちをどうしたら受け入れられて、交流することができるか、その聖書全体に、神様の愛の計画がちりばめられていることだろう。

神様の聖さにあずかるにふさわしくないものが、イエス様の十字架で赦され、その愛に応答したいとなったとき、その律法の成就へと導かれていく…神様の計画の大きさを思う。

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2009年4月15日 (水)

便利な世の中

本の注文一つとっても、便利になったと思います。が、変わらない大切なこともあることを思います。

『私は一心に知恵を知り、昼も夜も眠らずに、地上で行われる人の仕事を見ようとしたとき、すべては神のみわざであることがわかった。

人は日の下で行われるみわざを見きわめることはできない。

人は労苦して捜し求めても、見いだすことはない。

知恵ある者が知っていると思っても、見きわめることはできない。』旧約聖書 伝道者の書8:16.17

中学2年の息子が単行本に夢中になっている。「グイン・サーガ」というシリーズのSFの本らしい。

主人がアマゾン(パソコンから)に注文し、郵送され、気がつくとポストに本が入っている。

全国各地の在庫のある古本屋から来る。北海道とか、長野とか、栃木とか、様々な住所から来る。家にいながらにして、注文した本が的確に届くシステムに驚く。(皆さんはきっと普通に使っているかもしれませんが…。)

50年も生きると、私の昔も「あの頃は…」と語り継がれるような過去になる。幼い頃は電話が無かった。が、今や一人一台携帯の時代。

かく言う私も、パソコンこそ使いこなせないが、電動自転車に食器洗い器など、便利なものを使わせてもらっている。

ぐうたら主婦としては、便利な電化製品のある時代に生まれて良かったなぁなどと思う。

が、社会全体を見ると、若者にもけだるさが漂う希望の少ない世の中である。

どんなに便利で物が豊かになっても人の本質、本当に求めるものは変わらないのだと思う。

なぜなら神様が人を造られたのだから。人は関係を築くことがなくては生きられない。神様と私の関係、人と人との関係…その回復を教えてくれるのは聖書。

どんな移り変わる世の中であっても、流されそうになっても、神様のことばほど、人を生かす知恵はない。聖書を読むことができ、そこに生活の基盤をおける幸いを思う。

我が家には、息子のシリーズの単行本があと120冊余り送られてくる予定ということであるが…。

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お招きする準備

イエス様はいつも私たちと親しく交流したいと願っています。

『見よ。わたし(イエス)は、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところにはいって、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。』新約聖書 黙示録3:20

まだ、子どもが小さかった頃、子どもつながりで親しくなった方がいた。よくおしゃべりをしたし、一緒にでかけた。

あまり会う機会がなくなってから、私は時間を作って彼女の家に遊びに行った。彼女と会えることを楽しみにしていた。

ところが、彼女のほうは、忙しく家事をしていた。一度もテーブルにつかず、ほとんど話しもしなかった。私は彼女にとって、必要としなくなった友人になったのだと教えられた。悲しかったが、以後、彼女の家に行くことはなかった。

イエス様は戸の外に立って戸をたたいておられる。私たちの心の真ん中の部屋に入り、共に食事をして楽しもう、交流しよう、お互い深く知り合おうと言ってくださる。

けれども、私たちはイエス様を玄関に待たせたまま、違うことに夢中になりやすいものなのかもしれない。

イエス様をお迎えして、イエス様と楽しく時を過ごすためには、いろんなことを中断したり、ときにはあきらめたりしなくてはならない。

私は今、自分のことは自分でやれている…大丈夫と思っているとき、イエス様と語らうチャンスがあるのにイエス様を求めない、必要としない。

黙示録3章は、ラオデキアの教会へのメッセージである。イエス様のためにと行いにいそしんでいる人たちに宛てられた。

『あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、乏しいものは何もないと言って、実は自分がみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸の者であることを知らない。』(黙示録3:17)

彼らの問題は、自分が現状で大丈夫…と満足している、本当の自分の現状を知らないところにあった。

イエス様は神様の祝福の金(宝)、白い衣(裸の恥をおおう赦し)、目薬(霊的に見える力)を与えてくださると言っている。

イエス様を心の大事な部屋にお迎えし、親しく交流する者への約束は、“わたしの座に着かせる”とある。天国にいる如く、神様の満ちた世界におらせてくださる約束である。

♯♯♯

神様、私たちは、いつもイエス様が優しく声をかけてくださるのに、イエス様を戸の外に待たせっぱなしになりやすいものです。

いつでも、イエス様を歓迎し、心の真ん中にお迎えし、親しい交流を楽しむ者とさせてください。

自分がイエス様との交流を妨げているものを教えてくださり、そこにイエス様の赦しがおおわれ、手放していけるようにしてください。

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2009年4月14日 (火)

神様との会話

『私の言うことを耳に入れてください。主(神)よ。私のうめきを聞き取ってください。

私の叫びの声を心に留めてください。私の王、私の神。私はあなたに祈っています。』旧約聖書 詩篇5:1.2

かつての私は良い祈りをしたいと思った。「聞かれる祈り、勝利する祈り」などの本も読んだ。

あるときから、祈りって、人と話しているのと同じだなぁと思った。

信頼している親しい友とは何時間でもおしゃべりしていられる。神様とは、最も信頼する方なのだから、楽しいこと、嬉しいことも、悩みも、苦しいことも何でも話せる。何も難しいことはないのだなぁと思った。

ある友人が「神様に話しをしているけど、普通の会話をしているように感じない。まるで一人ごとを話しているようだ。」と言った。

「あなたの意見を聞かせてほしいの。」と相談してきてくれる人がいるが、実は自分が話したいだけで、“聞いて受けとめる”心のスペースがない人がいる。心配や悩みで一杯で、人の言葉を片隅にいれる余裕がないのだと思う。私自身が、かつてそんな者だった。

神様との祈りも同じかなと思う。神様は語ってくださる。聖書のことばを与え、語り続けてくれている。

「神様はどう思いますか?」と聞いたら、その答えを待って受けとめる心のスペースが必要なのだと思う。

神様は私たち人間だけを霊的な存在として造られた。それは、神様は私たちとの親しい交わりを求めておられるからである。

イエス様が十字架で死なれたとき、神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けた。決して、普通の人が入ることの出来ない至聖所…神様が臨在する場所に私たちは罪赦されて大胆に入ることができる者とされた。(マタイ27:51,ヘブル10:19~22)

私は最近思うのは、十字架の赦しで、たくさんの祝福をいただいたが、神様と親しく交流する…これにまさるものはないのだなぁということ。

祈りは祝福であり、特権である。もし祈りを義務やなすべき仕事と思っていたらもったいない。神様との親しい交わりがありますように祈ります。

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2009年4月13日 (月)

“たわごと”と思った使徒たち

私たちは信じにくいものです。もし、神様のみわざを信じられるとしたら、それは神様のなせるわざだと思います。

『ちょうどこの日、ふたりの弟子が、エルサレムから11キロメートル余り離れたエマオという村に行く途中であった。

そして、ふたりでこのいっさいの出来事について話し合っていた。

話し合ったり、論じ合ったりしているうちに、イエスご自身が近づいて、彼らとともに道を歩いておられた。

しかしふたりの目はさえぎられていて、イエスだとはわからなかった。』新約聖書 ルカによる福音書24:13~16

聖書では、4福音書にイエス様の十字架とよみがえりの出来事が書かれてある。

しかし、イエス様と一緒に3年間を共にし、十字架とよみがえりの話しを聞かされていた弟子たちにも、イエス様のよみがえりは信じられなかった。

御使いに会って話しを聞いたマリアたちは、使徒たちに話したが、『この話しはたわごとと思い、女たちを信用しなかった。』(ルカ24:11)とある。

イエス様はエマオの途上のふたりに同行するが、共に語らいながらも彼らはイエス様だとわからなかった。

クリスチャンは、このイエス様の十字架と復活を信じるものなので、当たり前のように信じている。

しかし、私たちは基本は、イエス様の出来事が私たちの考えの範疇を越えているので、“たわごと”と思えたり、“目がさえぎられて、イエスだとわからない”者なのだと思う。

私は信じる力がなかったが、信じる信仰を神様が与えてくださったので、“信じられない出来事”を信じるに至ったのだと思う。

女たちは御使いのことばによって、イエス様の十字架とよみがえりを思い出した。(ルカ24:8)

エマオの二人は、かなり長い時間をよみがえられたイエス様と過ごし、目が開かれた時、イエス様とわかった。(ルカ24:31)

また、よみがえられたイエス様が使徒たちに、聖書を悟らせるために彼らの心を開いた。(ルカ24:45)

私がイエス様の十字架とよみがえりを信じたのではない。神様のことばを思い出させていただき、目を開いていただき、心を開いていただき、信じられないような神様のみわざを信じさせてもらったのだ。

♯♯♯

神様、私たちは信じにくいものです。また、神様の計画はいつも、私たちの考えを越えていて、理解したり、信じたりするのが難しいです。

どうぞ、聖書にちりばめられているすばらしい約束が、私自身に与えられているものと信じる信仰と喜びを与えてください。

現実の中に生きて働いている神様をいつも見ることのできる目を与えてください。

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テレビ「ダビィンチ・最後の晩餐の秘密」

こんにちは。いつも訪問ありがとうございます。

4月11日(土曜)、テレビ東京の午後10時から、「美の巨人」という番組をやっていました。私と主人は、終わり頃、チャンネルをたまたま回して、最後のいいところだけ見ました。

レオナルド・ダビィンチの有名な「最後の晩餐」の絵の秘密をやっていました。

2つあって、一つはテーブルに置かれているパン。そのパンと弟子たちの手の位置を♪(音符)にすると一番下が、音階のミになり、一番上がファになり、右からパイプオルガンで弾くと音楽になる。ある音楽家が発見したとその方が解説していました。

ダビィンチは才能溢れ、絵画だけでなく、様々な分野に精通し、音楽にも精通していたのですね。

ちなみに、楽譜は左から弾きますが、ダビィンチは左利きで、鏡文字を書いたりもしていたらしく、鏡をあてると楽譜になる…仕組みだったそうです。

2つ目の秘密は、その楽譜を結び合わせると、文字があらわれます。ヘブル語で「主の聖別に栄光あれ」(とかというフレーズだったと思う)となるらしいです。

才能がありすぎるダビィンチには、あの大作の絵を書き上げるだけでなかったなんて…すごいですね。

記念番組のダビィンチシリーズの最後の最後…一番いいところだけ、私たちは見ました。寝ていた息子に話すと、「どうしてそんな面白いものをDVDにとってくれなかったんだ。」と不満げでした。

なんかすごい秘密を知ったと同時に、才能ありすぎる人の秘密を暴くのに月日がかかるんだなぁと思いました。

そうしてみると、神様の秘密は、一生かかってもあばけないってことですね。

「ダビィンチ・最後の晩餐・テレビ・美の巨人」で検索したら、最後の晩餐の絵と、番組紹介の記事が載ってました。秘密は書いてませんが、良かったら見てみてください。

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2009年4月12日 (日)

墓から戻って…

今日の礼拝のメッセージを聞きながら、教えられたことを書きます。

『「あなたがたは、なぜ生きている方を死人の中で捜すのですか。

ここにはおられません。よみがえられたのです。まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。

人の子(イエス)は必ず罪人らの手に引き渡され、十字架につけられ、三日目によみがえらなければならない、と言われたでしょう。」

女たちはイエスのみことばを思い出した。

そして、墓から戻って、…一部始終を報告した。』新約聖書 ルカによる福音書24:5~7

人生の中にやってくる深い失意と悲しみ…イエス様を慕っていた人たちにとってそれは、イエス様が十字架にかかって殺され死んでしまったときだった。

「この方こそ、私たちを救ってくださる方」と思ったが、死んでしまった。もう何もない。

そんな失意のどん底にあっても、マリアたちはイエス様の体が置かれている墓に行った。

ところが、あるはずのイエス様のからだがない。途方に暮れた。

そんなとき、御使いが現れ、「なぜ、イエス様を死人の中に捜すのか」と言われる。

御使いたちに、「イエス様の言われたことを思い出しなさい。」と言われ、女たちは思い出した。

私たちも、本当にイエス様が生きて働いてくださっているのか…と失意のどん底に落ちていくときがある。

聖霊様の助けと導きの中、聖書の約束のことばを思い出したい。

イエス様がおられない空っぽの墓を見つめるのではなく、私たちに今日、優しく、私の名前を呼んでくださるイエス様に目を向けられるようにしたい。

私たちのために命を捨てて、愛してくださった方は、最後の敵…死にも打ち勝ちよみがえられ、今、私たちのために祈ってくださる。

墓から戻って、主のもとに行こう。そこは、奪われない安らぎが与えられる場所である。

♯♯♯

神様、今、悲しみと失意の中にいる人に、聖書の、イエス様の話された希望の、慰めの約束のことばを思い出させてください。

そして、空っぽな墓から立ち上がり、そこを出て、イエス様がいるところに戻ることができますように祈ります。

『わたし(イエス)は、あなたがたに平安を残します。わたしはあなたがたにわたしの平安を与えます。…あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。』ヨハネ14:27

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暗やみも光

昨日、ブログを書いた後、ずっと喜びにあふれました。神様の私に対する長く深い配慮に気がついたのです。

『たとい私が「おお、やみよ。私をおおえ。私の回りの光よ。夜となれ。」と言っても、あなた(神)にとっては、やみも暗くなく夜は昼のように明るいのです。暗やみも光も同じことです。』旧約聖書 詩篇139:11~12

どんな意味があるかわからずに、苦しい中にいると、そこが長いトンネルのような気がする。

このままずっと先に光が差し込んではこないのではないか…そんな気持ちになる。

そして、あるとき、トンネルを抜けて光の中に入る。

後ろを振り返ったときに驚く。自分の通ってきた意味のないような苦しい道のりが、実は特別な意味があったことに。暗いトンネルに思えたところに神様の優しい光が差し込んでいたことに。

昨日、私は「十字架以外に誇りなし」のタイトルでブログを書いた。

その後、忙しくて夜まで出かけていたが、喜びに溢れていた。

始めは、大切なことをブログに書けた喜びかなと思った。そして気がついた。

「私のあの苦しくて仕方なかった教会での25年は、神様が私に“神様の恵み”とは何か教えてくれるための特別な道だった」ということ。

そして、「私が一番何を求めていたかを神様は知っておられたのだ。」ということ。

私が求めていたような“神様の恵み”が語られる教会にいたら、きっと今の私はいなかったのだろう。誰かに聞いた借り物のような恵みだったかもしれない。

“神様の恵み”って何?何?何?って疑問をもって、葛藤して、苦しんだから今少しわかって、人と分かち合えている。あの渇望なくして、長い間の疑問なくして、私の場合はここにはたどり着かなかったんだ。神様はそれをご存知で、一番最善の道を通してくださったのだと、神様に感謝があふれた。

過去を振り返ると、泣いたり、騒いだり、怒ったり、不満を抱いたり、恨んだり、裁いたりばかりしてきた。

神様は忍耐してくれた。今、神様の光の中であのトンネルも神様の光だったことを教えてくれた。

神様、感謝します。私のすべてをご存知で、暗く苦しく思えた過去も私に大切なことを教えてくださる道だったことを感謝します。共に分かち合う方々に祝福がありますように。

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2009年4月11日 (土)

律法からの解放

久々掃除をして、捜していた本が見つかりました。掃除半ばに、この本の一文を載せたく、書いてます。

『しかし、今は、私たちは自分を捕らえていた律法に対して死んだので、それから解放され、その結果、古い文字(もんじ)にはよらず、新しい御霊によって仕えているのです。』新約聖書 ローマ人の手紙7:6

私が、神様は“良い行い”ではなく、“関係”を求めておられるのを再確認したのが、マクベイ師の「恵みの歩み」の本だった。

「律法の目的は、神との正しい関係を築くには目に見える規則を守ることによるのではないということを明確にすることです。外的な規則を守ることではなく、内なる願いである新しい律法によって生きているのです。キリストが私たちの人生であることを知ったとき、内におられるキリストの願いによって動機づけられるのです。神に栄光をあらわすことを行いたくなるのです。キリストにある霊的な律法はみこころにかなった生活を送るよう動機と力を与えるのです。もはや律法に目を向けることはしません。主との関係が大切なのです。」

律法と恵みの違いを説明するため、マクベイ師はウォッチマン・ニーのことばを引用している。とてもわかりやすい明確な説明がなされている。

「恵みはすなわち神が自分のために何かをしてくださることを意味する。律法とは自分が神のために何かをすることを意味する。神は聖い義なる私たちへの要求をもっておられる。それが律法である。律法により神が私たちに何かを要求するのであるなら、律法からの解放は神はもう二度と要求しなくなるということになる。そして、主ご自身がそれに答えるのだ。…恵みにより主ご自身がそれをなさるのである。私たちは主のために何もしなくていいのである。これが律法からの解放である。」

神様が求める義はイエス様の十字架で完了した。私たちはそれを信じるだけで、善しとみなされ、神様から受け入れられたのである。

何も神様にお返しはできないけれど、神様がしてくださったことをほめたたえていきたい。

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ギデオンのようなしるしを求めた祈り

『ギデオンは神に申し上げた。「もしあなたが仰せられたように、私の手でイスラエルを救おうとされるなら、今、私は打ち場に刈り取った一頭分の羊の毛を置きます。もしその羊の毛の上にだけ露が降りていて、土全体がかわいていたら、あなたがおことばのとおりに私の手でイスラエルを救われることが、わかります。」すると、そのようになった。』旧約聖書 士師記6:36~37

イスラエルの歴史の中、さばきつかさの時代、神様は敵から救うため、弱く、若いギデオンを用いられた。

神様が、ギデオンを遣わそうとすると、彼は尻込みした。そして、神様のしるしを求めた。神様はしるしを表された。

そして、ギデオンは幾つかの神様の不思議なみわざを見ながらもなお、神様のしるしを求めた。「その幼稚な奇跡のしるしに、神はこのような願いにも耳を傾け、ギデオンの信仰を確かにされた。」と注解書に書かれてある。

私も、神様にしるしを求めたときがあった。

8年前、息子の幼稚園のバザー委員長を決める前日だった。前の年、初めてバザーのお手伝いをし、委員長だけは、凄く忙しく、責任も大きいから、絶対避けたい仕事だなぁと思った。

そしてその年。神様から「やりなさい。」と強く迫られている気がした。「なんでもしますが委員長だけは無理です。私にはできません。」「やりなさい。」のやり取りの中、「それでは、神様、明日、私を推薦してくれる人が3人いたら、あなたの決めたこととしてやります。」と心の中で言った。

次の日、違う3人からやるように勧められ、引き受けた。

始まってみるとやることはたくさんあるのに、何をやってよいかわからなかった。一人の経験者に信頼して聞いていたら、突然ファックスで、「あなたが委員長としてダメなところ」が3枚にわたって書かれ、送られてきた。辛かった。

幼稚園の先生からは、会議で決まったことに対して、怒られ、くつがえされた。あとバザーまで5か月もあるのに、不登校気分だった。

家では洗濯物も、台所も山にやり、テーブルは書類の山になった。

神様にもたくさんお祈りした。

何度も窮地に至ったが、最後のほうは、押してくださる神様の風を感じながら、楽しくできた。

あの経験が今に生きている。あの委員長をやったおかげで、その後いろいろな役員の長をさせてもらった。それが今地域の人とのつながりになっている。

ギデオンのように、私もしるしを求めた。けれど、神様に信頼しきれない弱い私を神様はあわれんでくださり、私がステップを踏める足台をおいて、導いてくださったのだなぁと思った。。

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2009年4月10日 (金)

十字架以外に誇りなし

「イエス様の十字架だけが私の誇りです。」と言うことが出来る素晴らしさをしみじみと思いました。

『しかし私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはなりません。

この十字架によって、世界は私に対して十字架につけられ、私も世界に対して十字架に十字架につけられたのです。

割礼を受けているか受けていないかは、大事なことではありません。大事なのは新しい創造です。』新約聖書 ガラテヤ人への手紙6:14.15

私が神様に出会ったのは、すべてのどん底…と思えるような中だった。

大学を中退し、東京に出て来て、グラフィックデザイン関係の専門学校に通った。が、続かなかった。比重を占めていたそば屋のバイトも危うくなり、心は孤独と虚無感でおおわれていた。

そんな弱さと挫折と生きる気力の無い中で、神様に出会った。

イエス様の十字架とか、聖書のことはほとんど理解していなかったが、「私を生かしてくださる方がいる。」と実感したときだった。そして、その瞬間からまったく今まで考えたこともない世界に入った感じだった。

それは、挫折ばかりする私だったが、努力や能力や意志の強さとは無縁の“生かされる世界”だった。弱さや足りなさがあってもそのままで、内側から湧き出る喜びのある世界だった。

私は嬉しくて、嬉しくて、たくさんの友人たちに「神様は私たちを愛しているのよ!」と部厚い手紙を書いた。友人たちからは「大丈夫?」と言われた。

私の苦しみは教会生活が始まって4年位してから始まった。初めはただ奉仕が楽しくって仕方なかったのに、教会で語られるメッセージが苦痛で仕方なくなった。

聖書のことが語られているみたいだが、私には親から言われるお小言と同じように聞こえた。

教会はいくつか変わったが、そのたびにメッセージがつらく、砂をかむような思いで聞いた。

そして、大事な恵みの神様と違うことを話されていることが赦せない…というところに至った。それでも、何故か教会の礼拝に行き続けた。私の教会生活で、一貫した悩みが、教会のメッセージだったのだ。

今は、神様はそれぞれに与えてくださってる役割があると思えるようになった。私が人を神のように期待した罪も示され、悔い改めた。人ではなく、神様に期待することが出来るようになった。

私はあの苦しみが、今、ブログに“神様の恵み”を書きたいと駆り立てられる思いになっているのに気がついた。あの苦しみは、本当に私にはなくてはならないものだったと思う。

「私には、イエス様の十字架以外に誇りとするものはない」この告白は、私の努力や能力や意志の強さや立派な行いはいっさい関係がない。私は私の弱さを赦してくれたイエス様の愛によって支えられているということだ。

18節の“割礼”は私にとって何か。「“努力や意志の強さによる良い行い”をしているかどうかは関係ありません。私にとって大事なのは、“イエス様によってもたらされた神様との新しい関係”です。」となるのだなぁと思った。

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“行い”から“関係”へ

自意識過剰という言葉がありますが、反対語は解放でしょうか。

『しかし私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。

私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。

いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。』新約聖書 ガラテヤ人への手紙2:19.20

ある時、市のボランティアで、講演会が行われ、100人余りの人が聞きに来てくれた。

私も準備係で前列にいたが、講演が始まってから思った。「あっ、水とコップが用意されていない。そういえば、受付にあった。」と急いで、持ってきて、講壇の半分まで登った。水とコップは隠れていただけでちゃんと置かれてあった。私はくるりとユウターンして講壇を降りた。

「あの人何やっているの?」とたくさんの人に見られたかも知れない。失敗をしてしまった。

が、そのとき、私は驚いた!!それは、ちっとも恥ずかしいと思っていない自分がいたことに…。かつての私だったら、誰もたいして気にしていないことでも、「なんて恥ずかしいことをしたんだろう。」と一人真っ赤になっていただろう。

私は変わった。恥じらいがなくなった訳ではないと思う。自分が変なことをしたり、間違っても、「どう思われるか?」というところから、解放された。

私はこう思う。自分が正しいことをしているか、良いことをしているか…自分の行いに注意がいっているときは、自分がどう思われているか気になる。

アダムとエバが善悪の木の実を食べて、裸が恥ずかしいと思ったように。

キリストの十字架は私たちを“行いの善悪”や“義務”から解放してくれた。

キリストとの関係を楽しむようにされた。

だから、私の“へま”にもイエス様が一緒にいてくれたので、恥ずかしくなかった。“行ない”より“共にいる喜び”にあるから自分の行いには縛られないということかなと思う。

2年前はPTA役員をやっていたので、人前に立つことが多かった。あいさつや司会など、たくさんさせてもらった。すべてが楽しかった。うまくいったかどうかは、本当に気にならなかった。何かいつも神様の真ん中にいると感じだった。

失敗、成功、良い、悪い、するべき、頑張るべき…それらはみんな自分から発している。

イエス様は裸の私に白い衣を着せてくれた。私自身は恥ずかしい、惨めな存在だが、神様からみたら、イエス様の着せてくれた白い衣を着た私がいて、受け入れられ、愛されている。

♯♯♯

神様、私たちは失敗したり、恥ずかしい思いになったり、傷ついたりします。

自分に注意がいくと、神様から隠れたくなるような存在です。

けれども、イエス様が白い衣を着せてくれ、私たちの恥を無いものとしてくださってありがとうございます。

イエス様によって、いつも神様との関係だけを喜んでいられますように祝福してください。

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2009年4月 9日 (木)

“厳しい夫”から“恵みの夫”へ

律法から解放され、キリストとの新しい関係に入れられたということについて、考えました。

『夫のある女は、夫が生きている間は、律法(りっぽう)によって夫に結ばれています。しかし、夫が死ねば、夫に関する律法から解放されます。

…それと同じように、あなたがたも、キリストのからだによって、律法に対しては死んでいるのです。

それは、あなたがたが他の人、すなわち死者の中からよみがえった方と結ばれて、神のために実を結ぶようになるためです。』新約聖書 ローマ人への手紙7:4

私の育った家庭は、私が小学4年の時、父が精神病になり、一気に家庭に暗さや喧嘩がやってきた。

「そんなだったから、今の自分の家庭が、特に何もないような平凡な毎日でも、争いや喧騒がなく、笑いがあるだけで、ものすごく幸せな家庭だと思えるんだ。」と昨日友人に話しをした。

パウロは、律法に縛られていた昔と今は違うということを夫婦関係で示している。

律法とは、神様の民になるための神様の具体的指示や教えをさす。ユダヤ人は、この旧約聖書の律法を守ることによって、神様の民であることを守ろうとした。

しかし、今や、イエス・キリストが十字架にかかってくれ、律法を守れない私たちのすべてを赦してくれた。

もはや、“律法さん”と言う“夫”に従わなくてよいとパウロは言う。

“律法さん”ってどんな“夫”だったか?それは、それは厳しくって、どれか一つの教えをやぶっても、「それでは神様に受け入れられない!」とその代わりになる動物の命が要求された。要は、何をやっても完全ではないから、アウトだった。絶望的だった。

ところが“律法さん”という“夫”が死んでしまった。もう、あの厳しい“律法さん”の言うことを聞く必要は全くなくなった。その関係からは完全に解放された。

“恵みさん”という新しい“夫”と結ばれた。“恵みさん”は私たちの失敗や不完全さを赦してくれる。ただ、「好きにすればいい」というのではなく、影でその処理を犠牲を払ってしてくれる。

だから、失敗を赦されて、ラッキーと能天気ではいられない。私の代わりに命にかえて、守ってくれたこの方あっての今と、ありがたさが溢れる。自分の足りなさを思う程に、それを埋めてくれた“恵みさん”がすばらしい。

この新しい夫こそ、イエス・キリストである。

だから、私は義務や縛りで何かやる必要は一つもない。

ただ、麗しい愛の関係に入れていただき、その方を見上げ、その方をほめたたえる。そのとき、自然と神様の実を結ぶようになる。

神様、イエス様の十字架によって、私たちは新しい関係の世界にいれてもらいました。

私たちの中に、「聖書にかかれてあることだから、それを行わなければならない。」という世界から解放されました。

ただ、イエス様に感謝して、応答する世界、「イエス様のために生きたい」という新しい動機が与えられました。

このイエス様がくださった新しい関係、新しい動機の中で、神様をほめたたえていけますよう祝福してください。

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2009年4月 8日 (水)

過去の日記

20年程前の日記を見ながら、いろいろ考えています。

『彼らは苦しむときには、いつも主(神)も苦しみ、ご自身の使いが彼らを救った。

その愛とあわれみによって主は彼らをあがない、昔からずっと、彼らを背負い、抱いて来られた。』旧約聖書 イザヤ書63:9

私は日記魔だったわりに、ちゃんとした日記があまりない。

神様に出会う前は、日記が心の友だった。恐ろしく迫ってくる孤独や虚無感を、酒を飲みながら、泣きながら、書きなぐっていた。

が、クリスチャンになって、子どもが生まれたとき、(それまでは、証のネタになればととっていた)母亡き後、息子が、こんなドロドロした母の昔を読んでもどうだろうと、捨てた。大学ノート5册位あった。

最近、今から20年前位の5年間書いた日記を見ている。唯一、まともに書き綴ったものだ。8割が、神様への祈りを書いてある。

なんだか、この頃の自分がいとおしい。今は書けない祈りが綴られている。

この5年間は、思えば、物凄くいろんなことのあった期間だった。

神学校卒業。
伝道師として教会へ就職。ゆきずまり。伝道師除名。
他の教会に移動。主人と出会う。結婚。癒し。母召される。教会が教団を出されなくなる。
所属教会がなくなる。等々。

なんだかいつも苦しくて、ゆきずまっていた。

そんな中で一番苦しかったのが、神様が遠く感じられ、いないかのように思えたときだった。そのときの一文を書き写してみる。

「神様、長い月日あなたに祈ることも、求めることもできなくなる程、私の魂は衰えました。

主よ。生かしてください。何も自分は持たないからっぽな器であることを認めます。

神様、あなたはすべてを私のうちから取り去ってしまったかのようです。

あなたの愛をくださいと願っても、心は満たされず、なえ果てました。

挫折、失敗…が終わりきったかのような今、主よ、今こそあなたのお力と愛を与えてください。」

ひたすら神様を、神様の愛を求めていた若き日々、あのときがあって、今の私がいるのだなぁと思った。

神様、苦しみの中にある人のうちに主の慰めを、助けを与えてください。

神様が最良のものを与えたいと願っておられるその信仰に支えてください。

良いときも、悪いときも、神様が変わらず、私たちと共におられ、愛してくださっていることを信じることができますようにお願いします。

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義人はいない、ひとりもいない

聖書でいう“義人”とはどういう人でしょうか。

『義人はいない。ひとりもいない。…

すべての人は罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、…。』新約聖書 ローマ人への手紙3:23

『義人はいない。ひとりもいない。』この聖書のフレーズは、長年聖書を読んでいると馴染んでいる。が、私がクリスチャンになったばかりのときは、ショッキングだった。

「えー!義人はいない、ひとりもいないって、世の中、自分を犠牲にして人のために生きている素晴らしい人たくさんいるじゃないですかぁ。」と私は言った。その場に居合わせた人は、ニコニコと「いえ、ひとりもいないんです。」と言っていた。

相対的に見たら、より良い人も、より悪そうな人もいる。が、完全な神様に対しては、ただのひとりも正しいと受け入れられる人がいない。

けれど、私たちは普通に生活していて、“罪人”呼ばわりされたら、いい気持ちはしない。「100%正しい良い人間ではないかも知れないけど、代わりに十字架刑にかかってもらうほど悪いことはしていない。」と大半の人は思うのではないか。

『その方(聖霊=神様のことを教えてくれる霊)が来ると、罪について、義について、さばきについて、世にその誤りを認めさせます。』(ヨハネの福音書16:8)

2000年前のイエス様の十字架刑が私の代わりだった…この事実は聖霊様無しに、私たち自身では理解し、信じ、受け入れることは無理ではないかと思う。聖霊様の成せる業と思う。

私たちは神様の前に、ひとりとして受け入れられる正しい人はいなく、神様の恵みと憐れみによって、イエス様の十字架の刑罰により、すべての罪が赦され、正しい者と見なされた。

私のちょっとの良いことも、数えきれない悪いことも関係なく、イエス様の十字架の完全制によって赦された。

だから、今、私がちょっと良いことをしても、たくさん良いことをしても、あまり関係ない。

イエス様の十字架によって良しとされたのだから。

神様は良い行いを第一には願っていない。マルタのように忙しくするより、マリアのようにイエス様のところにじっといて、イエス様をお慕いする人を喜ばれる。

『すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、

ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによるあがないのゆえに、値(あたい)なしに義と認められるのです。』ローマ人への手紙3:23.24

神様、私自身は何も良いものはないのに、イエス様の十字架によって、正しい、神様に受け入れられる者とされたことをありがとうございます。

神様の子どもとなり、神様と親しく交流できることが私にとっての“神様からの最大の栄誉”です。

このすべての人たちに提供されているイエス様の十字架のプレゼントが、たくさんの人たちのものとなりますように。

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2009年4月 7日 (火)

良いものを受けて与える

与える者でありたいと思いますが、受けること無しに与えるのは不可能です。

『「受けるよりも与えるほうが幸いである。」』新約聖書 使徒の働き20:35

主人が庭にたくさんの花を植えてくれた。が、怠惰な私は水やりを怠って枯らしてしまわないようにと、プレッシャーがかかる。

私たちもご飯を食べないと元気が出ないし、霊的に神様から良いものをもらわないと、神様の安心の中に留まれない。

この聖書のことばを思うとき、いつも思い出すのが、ガリラヤ湖と死海の例えである。

ガリラヤ湖は死海に比べて小さい湖だが、絶(た)えずヨルダン川から水を受け、ヨルダン川へと流していく。景観も美しく、淡水である湖にはたくさんの魚がいる。ペテロたちもここで漁をしていた。

一方、ガリラヤ湖から北にあり、ヨルダン川でつながっている死海は海の6倍の塩分含有量がある。それはヨルダン川にあるわずかな塩分が死海に入ると流れ出る川がないため、水が蒸発して塩分が濃縮されるとある。もちろん、生き物の生存は難しい。

『受けるより与えるほうが幸い』とはイエス様が言われたことば