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2012年2月

2012年2月29日 (水)

“上から来られたイエス様によって”

朽ちていく肉体にあっても、御霊に生かされ、キリストのいのちに生かされますよう祈りました。

『それでイエスは彼らに言われた。「あなたがたが来たのは下からであり、わたしが来たのは上からです。


あなたがたはこの世の者であり、わたしはこの世の者ではありません。


それでわたしは、あなたがたが自分の罪の中で死ぬと、あなたがたに言ったのです。


もしあなたがたが、わたしのことを信じなければ、あなたがたは自分の罪の中で死ぬのです。」』新約聖書 ヨハネの福音書8:23.24

神様は天地を造られ、今世界を保って働かれる方であり、私たち人間を愛して、イエス様を送られ、私たちに救済を与えられた。

私たちが来たのは、下からであり、人間レベルのことしか知ることができない。

下から来た私たちは、アダムとエバ以来皆、自分が神様のようであるから、それぞれめいめいに考えて、自分の意見をいいあい、何が正しいのかわからない複雑な世界になる。

上からこられたイエス様は神様と一つで、神様が思うことのみをなさる。

上からの知識や知恵はシンプルで、子どもでもわかるようなものだが、御霊が与えられていない人や、御霊を歓迎しない人にはまったく見えない。

私たちは自分の罪の中で死ぬ者であった。

ただお一人イエス様だけが神様と私たちの完全な仲介者であり、上から来られた方であり、罪の中に滅びゆくものを救ってくだっさった方である。

私たちはこの世に属する者であったが、イエス様によってきよめ分かたれ、神様のものとなり、イエス様とともにこの世のものでなくなった。

ブログを書くときは、御霊にあってイエス様を思い、天にある恵みを与えられていることを感謝する。

しかし、普通に生活していると、この世のことを考えて、この世に埋没してしまいそうになる。

“永遠のいのち”は、イエス様から与えられたいのちだが、また永遠につながる、イエス様につながるいのちなのだと思う。

歳をとって、体力が衰え、体が衰えても、私たちは罪赦され、神様のものとされたのだから、この朽ちていく体にあって、日々御霊に生かされ、イエス様にある喜びに生かされたいと思った。

天のお父さん、私たちの地上での命と生活は限られています。

どうぞ、どんなときも朽ちていく肉体にあっても、御霊が喜び、主を賛美して生かされていきますように。

私の自我が日々十字架につけられ、キリストがどんなときも、ますますに現されていきますように。

イエス様とともに、上からの祝福を与えらてくださる主を感謝します。

感謝し、イエス様のみなによって祈ります。アーメン

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2012年2月28日 (火)

“私たちの心を照らすイエス様”

イエス様は世の光として来られ、私たちの心も照らしてくださいます。

『そこで、イエスは言われた。「わたしはさばきのためにこの世に来ました。


それは、目の見えない者が見えるようになり、見える者が盲目となるためです。」…


「もしあなたがたが、盲目であったなら、あなたがたに罪はなかったでしょう。しかし、あなたがたは今、『私たちは目が見える。』と言っています。あなたがたの罪は残るのです。」』新約聖書 ヨハネの福音書9:39.41

イエス様は世の光として来られた。

イエス様の光が照らすと、今まで見えなかった霊的な世界が見える。

いくら、イエス様が霊的なものを現してくださっても、御霊の光が私たちのうちに輝かないと、私たちは霊的な世界を見ることはできない。

生まれつきの盲人は、イエス様によって見えるようになった。

シロアムの池で洗うようにイエス様に言われ、そのようにして見えるようになった。

これはイエス様が盲人を癒された奇跡でもあるが、霊的な見えないものが見えるようになる奇跡でもある。

そして、イエス様の光に照らされて歩む私たちは、今まで古い人で生きてきたときの価値観に縛られず、他の人たちには見えないイエス様の霊的な世界を大切にして歩むようになる。

「私たちは目が見える」という者は罪が残るとある。

イエス様にありながら、霊的な世界が見えないとしたら、それはごう慢の罪によるのかもしれない。

人は皆、等しく弱い。


誰もがサタンにすきを狙われ、ごう慢におちいりやすい。

聖霊様が光となって私を照らすとき、私は自分の罪を見せられ、砕かれる。

イエス様の十字架を見上げ、そこにだけ、救いがあるのを見て、そのあわれみに包まれる。

私たちが謙遜になるのは、自分の力ではできない。

なぜなら、聖霊様によらないと、神様の前の本当の自分の姿を見れないし、イエス様の十字架のあわれみも見れない。

私たちに聖霊様が注がれて、私たちの隅々まで内側を照らされる…そのことを私たちは恐れなくてよい。

イエス様は私たちの罪を赦し、きよめ、主と親しく交わる幸いを与えてくださる。

主の庭にいて喜び楽しむ幸いが与えられている。

どうぞ、イエス様の光が隅々まで私を照らして、罪赦され、主とともにいる喜びにあれますように。

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2012年2月27日 (月)

“イエス様の光が導くところ”

イエス様は御霊によって、私たちを照らして十字架の癒しへと導いてくださいます。

『けれども、彼らが問い続けてやめなかったので、イエスは身を起こして言われた。


「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。」』新約聖書 ヨハネの福音書8:7


御霊は私たちの罪を内側から照らしてくれる。

御霊によらなければ、私は神様の前に死刑にかかるほどの罪人であることを知ることはできない。

御霊がないところでは、人が人を裁く。

御霊は内面に深くあるところを照らすが、肉の目は、「私は正しいが、この人は間違っている。」と人を裁く。


世の光となられたイエス様は、罪ある女を差し出した人たちに、「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。」と言われた。

イエス様のそのことばに、誰も石を投げることはできずに、離れていった。

イエス様も罪ある人たちを十字架で赦すために来られたのだから、この女の人を罪に定めることはしなかった。


至聖所の真っ暗な中では燭台が光り、あたりを照らした。

イエス様は私たちの隅々までの小さな見えないような汚れも咎も照らし、明らかにする。


しかし、それだけでは終わらなかった。

その罪が赦される十字架の道をも、御霊の光によって照らして教えてくださる。

この前読んだ本で、もし私たちが自分の罪に苦しくなって、責めをたくさん感じるだけであるならば、それは、御霊が示しているのではなく、サタンである…とあった。

私たちは、自分の罪を認めることが信仰的と考えがちだが、救いの道のない責めは、イエス様の栄光を現さない。

私たちに罪を見せる働きがイエス様の十字架の救いに導く以外のものは、サタンの失望させる策略として、退けたほうがいい。

すばらしい医者は、体の悪いところを見つけ、メスで開いて、指摘して終わらない。

悪いものを除き、縫い合わせ、癒す。

イエス様の光もいつも罪と十字架の救いがセットになって、私たちをあわれみへと、イエス様の愛へと導く。

どうか、聖霊様が日々、私たちの内側を照らしてくださり、罪を十字架にかけて、癒し、きよめ、回復させてくださいますように。

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2012年2月26日 (日)

“生ける水の川が流れる”

イエス様によって私たちに与えられた御霊を今日も感謝しました。

『さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立って、大声で言われた。


「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。


わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」

これは、イエスを信じる者が後になってから受ける御霊のことを言われたのである。


イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊はまだ注がれていなかったからである。』新約聖書 ヨハネの福音書7:37〜39


私は30年間の信仰生活の中、7つの教会を変わったが、はじめは福音派の最もかたいようなところから始まった。後半はペンテコステ派のようなところや聖霊派のようなところに移った。

が、信仰年月を経るほどに、牧師のメッセージが律法的に感じられて、苦痛だった。

たぶんに、私が神様を見ないで人ばかり見ていたことにも問題があったのだと思う。

最近、御霊の働きを教えられるにつれて、私たちは肉の力では神様には全く従えない者であること、イエス様の十字架に自分の自我をつけて死なせるほどに、御霊の働きが豊かになることがわかってきた。

クリスチャンはイエス様を信じて、御霊が与えられている人たちである。

が、見た目…強いクリスチャンもいれば、弱そうなクリスチャンもいる。

もしかしたら、強そうなクリスチャンは、たましいにおいて強く、知識が豊かで、感情をコントロールでき、意思のとても強い人だったりするのかもしれない。

そのような人は、世の中でもその強さを発揮し、人々から一目おかれていたりする人もいるのかもしれない。

しかし、御霊の法則で生かされている人は、自分の知識、感情、意思すら神様に捧げて、御霊の導かれるままに進む。

この世では、愚かで弱く、取るに足りない、見下された、無に等しい人たちを神様は選ばれた(第1コリント1:26〜31)とある。

それは、神様が栄光を取られるためで、神様の前でだれも誇らせないためである。

イエス様の十字架の前に、私たちが神となることをやめて、聖霊なる神様におまかせしていくとき、私たちの内側にイエス様の性質が宿っていく。

それは、人を赦したり、愛したり、平和をもたらしたり、柔和になったりしていくことである。

イエス様の十字架の奇跡のみわざは、私たちの内側に御霊が注がれ、生ける水の川のように、イエス様の性質が現されていくことである。

肉の力で、私たちは立派なクリスチャンになろうとするならば、100%不可能なのは、イスラエルの民が立証済みなのである。

私が教会で、牧師たちからのメッセージに圧迫感を持ち、希望を見いだせなかった理由がはっきりとわかった。


「私たちは赦すことも、愛することもできません。しかし、私たちのたましいの自我が十字架につけられ死ぬと、御霊が働き、導いてくれます。」

ということである。私自身も、御霊に満たされる生活に向かっている途中だが、私たちに与えられた御霊と、イエス様の十字架の力を感謝していきたいと思う日々である。

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2012年2月25日 (土)

“御霊がいのちを与える”

いのちを与えた御霊に生かされる幸いを思いました。

『いのちを与えるのは御霊です。肉は何の益ももたらしません。わたしがあなたがたに話したことばは、霊であり、またいのちです。』新約聖書 ヨハネの福音書6:63


私は信仰生活30年と良く書くが、自分としては信仰生活が長いことを自慢しているつもりはない。

私がやっと紆余曲折の中、ぼんやりしていたものが少し見えてきて教えられて分かち合ったことを、最近信仰を与えられた方がすんなり分かっていたりする。

「御霊にあることは先の者が後になり、後の者が先になったりなんだなぁ。」と思う。

けれども、それが御霊にあることだと、不思議と嬉しい。

私の信仰生活の30年の自分の失敗も弱さも、神様はすべて益とされていると思うから、それは深い感謝につながる。

毎回違う事情で、教会を7回も変わることになっても、教会に失望しきっても、イエス様に対する与えられた信仰はなくなることなく、求め続けていたのは、私によることではなく、御霊によりイエス様によることなのだと思う。

今日、ふと昔の単発の聖霊体験のことを思いだした。

5日間位、自分勝手だった自分にうちひしがれ、悔い改めた後、イエス様の愛が注がれ、喜びにあふれたときがあった。

またそれから何年かしたとき、自分の願いが叶わずに衝撃を受け、崩れてしまいそうな中で、麻酔状態になり、無感覚になって、そのショックから守られたことがあった。

20年以上前のことだった。

あの頃の聖霊体験…のようなことは単発であるが、今は“圧倒的な平安が与えられている”感じで、神の国の御霊にあることなんだなぁと思う。

ここのところ、ヨハネの福音書からブログを書いて、コメントをもらう機会が増えて、とても励まされている。


至聖所の燭台のあかりがぼんやりで、いろんなことがわからなかった私だが、最近は御霊なる燭台のあかりが周りを照らして、神様のことを教えられている感じがする。

私にとっては、肉の働きで良いクリスチャンにならなければならないように迫られたことへの強烈な反発が、今、聖霊様におまかせすれば、聖霊様が全部してくださる安心感に変わっている。

私自身が人に求めて失望していたことが、御霊に求めて希望を与えられるように変えられた。

御霊が教え、導いてくださることは、見たことも聞いたこともないすばらしい神の国のことである。

イエス様が天から下って来た生けるパンとなり、いのちとなり、私たちに日々与えてくださり、御霊に生かしてくださる恵みを感謝します。

お一人お一人にイエス様によって与えられた御霊が、豊かに働き導き、神の国の喜びを現しますように。

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2012年2月24日 (金)

“御霊がイエス様を信じさせる”

イエス様を信じる信仰が御霊によって与えられていることを思いました。

『すると彼らはイエスに言われた。「私たちは、神のわざを行うために、何をすべきでしょうか。」


イエス様は答えて言われた。「あなたがたが、神が遣わした者を信じること、それが神のわざです。」』新約聖書 ヨハネの福音書6:28.29


神様がモーセに細かく指示して忠実に作らせた幕屋は、神様が罪ある人の中に住まわるために、神様が備えてくださったものだった。


そこで、人は罪のためのいけにえを持ってきたり、祭司が神様の言う通りにして、神様と人の仲介をしたりした。

しかし、人は“何かをする”が、神様が備えてくださったことに沿って、神様に近づくことができただけである。

今、イエス様の十字架のあがないによって、至聖所まで行き、神様と親しく交わることのできる私たちとされたが、それはただイエス様という幕屋の中で、神様に近づけるのであって、私たちが神様の前に勝手にできる何かは一つもない。

イエス様の十字架のあがないがなかったら、私たちは義なる完全なる神様の前に罪ある汚れた者として裁かれ滅びるしかない者である。

だから、私たちが神様のために何をしたらよいか…という質問は、あわれみの道を備えられた神様ではなく、自分に焦点が当たっているのかもしれない。

私自身、「神様、私は神様のためにあれとこれをしましょう。」と繰り返し、祈ってきた者である。

イエス様に出会って、私たちは“何かをする”世界から、“イエス様とともにいる関係”の世界に移された。

私たちがイエス様を信じたことも、またイエス様の選びと主権によることで、私たちにとっては与えられた信仰である。

イエス様の十字架のみわざによって、私たちのうちに復活のいのちが与えられ、イエス様を信じる御霊が与えられた。

御霊に導かれるならば、私たちは神様を信じることしかできなくなる。

“信じる”について、かつて、あるたとえ話を聞いた。

「私たちは日常的にいろんなものを信じて行動している。例えば、東京に行きたいとき、『東京行き』の電車に疑うことなく乗る。これは電車が目的地に行くことを信じているのだ」


御霊が信じさせてくださる信仰は、そのくらい揺らがなく、確かな、当たり前のようなものなのかもしれない。


人々は「イエス様を信じるため、何をしてくれますか。」と聞いた。

イエス様は「神様なる父は天からまことのパンを与え、いのちを与える。わたしがいのちのパンであり、わたしを信じるものは、どんなときも決して渇かない。」と言われた。

イエス様が十字架にかかられ、いのちのパンとなって満たしてくださる方であることこそ、しるしであり、すべてである。

イエス様を信じて、どんな中でも決して渇くことなく満たしてくださるイエス様のいのちが御霊によって、私たちに豊かにありますように。

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2012年2月23日 (木)

“パンの祝福”

イエス様がパンをもって大勢の人たちを祝福した恵みを思いました。

『イエスは言われた。「人々をすわらせなさい。」その場所には草が多かった。そこで男たちはすわった。その数はおよそ5000人であった。


そこで、イエスはパンを取り、感謝をささげてから、すわっている人々に分けてやられた。また、小さい魚も同じようにして、彼らにほしいだけ分けられた。』新約聖書 ヨハネの福音書6:10.11


幕屋の中の聖所は、すっぽりと上まで幕でおおわれていて、聖所に入ったとたんに真っ暗になる。

それが神様の世界を現しているのだなぁと思った。

私たちは、自分の力で神様をは知ることも、見ることも、体験することもできないのである。

神様やイエス様のこと…永遠のいのちについて、教えてくれるのは御霊だけである。

聖所の中で燭台の光がパンを照らしていたように、御霊によって私たちは聖書のことば、いのちのパンであるイエス様のことを教えられる。

小さな無力な少年が差し出した5つのパンと2匹の魚をイエス様は祝福し、増やして人々に分け与えた。

それは、男だけで5000人、実に女、子ども合わせて10000人以上の人たちに与えて、なお、12のかごいっぱいになった。

イエス様のなさることはそんな風なことである。

私たちの計算できないようなことをされる。


イエス様はいのちのパンである。

イエス様のいのちのパンによって、この人の計算とはまったく合わない、どがえしの祝福を与えようとしておられる。

私たちが、自分で握っているものを手放し、イエス様にお返ししたときに、イエス様は私たちの最善をしてくださる。

私たちの自我が主の十字架につけられ、ただ御霊に導かれて、御霊にあるみことばに養われて、イエス様のダイナミックな人々への祝福を見ていくことができますように祈ります。

恵み深い天のお父さん、私たちは自分で計算し「イエス様、こんなに少なくて、それが何になりましょう。役にたちません。」と言ってしまうような、弱い者です。

どうぞ、私たちが目に見えることに目を捕らわれ、心を奪われるのではなく、十字架にかかり、私たちに永遠のいのちを与えられたイエス様を見上げさせてください。

イエス様は私たちの取るに足りない小さなことを用いて、増やし祝福してくださいます。


私が長い間、牧師たちのメッセージを聞くことの苦痛も、今、聖霊様にある良いものを見るように導いてくださいました。

どうぞ、一人一人がイエス様を食べて、いのちに生かされ、それがさらに広げられていきますよう導いてください。

聖霊の光を当てて、一人一人に与えられている小さなお弁当…5つのパンと2匹の魚を見せてくださり、捧げさせてくださり、イエス様の祝福を見せてください。

イエス様のみなによって祈ります。アーメン

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2012年2月22日 (水)

“豊かにいのちを得る”

礼拝が豊かにいのちを得るにつながることを思い、祈りました。

『しかし、真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がそのときです。


父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。


神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。』新約聖書 ヨハネの福音書4:23.24


昨日と同じ聖書箇所から思い巡らしている。


ヨハネの福音書のテーマは、“イエス様が神の子キリストであることを私たちが信じて、豊かにいのちを得る”ことである。(ヨハネ20:31)

豊かにいのちを得ることと、霊とまことを持って礼拝することはつながっている。

主をあがめ、主に自分を捧げる礼拝の中、自分を失う者がいのちを得ることになる。

モーセの時代の幕屋において、“〜しなければならない”という規定があるが、それは、神様の民として、きよい者とされるためであった。

そして、その規定を神様は備えられ、そこに赦しと守りとあわれみがあった。

新約の時代、イエス・キリストが幕屋となられ、私たちが主に深く導かれるように備えてくださった。

十字架による罪の赦し、御霊によるきよめ、御霊に照らされた希望の中でのみことばと祈り、イエス様の十字架による幕屋がさけて至聖所への入室、神様の義ときよさの前に死ななくても良い十字架によるあがないのふた。そこで主にお会いする幸い。

御霊は、私たちにイエス様によってすでに与えてくださった奇跡と恵みを見せてくださる。

自分を無くして、ただ主をあがめ捧げる礼拝は義務ではない。

それは祝福であり、特権であり、奇跡の備えである。

礼拝の祝福の中に、豊かないのちに生かされますよう祈ります。

恵み深い天のお父さん、私は教会に行くようになって、32年ほどたちます。

振り返れば、教会がいつも私の悩みで、苦悩でした。

主は、私が許されるときまで、御霊にある恵みを見えなくし、私が自我を少しずつ捨てていくようにしてくださったのかもしれません。

一度御霊にある恵みが見えると、私は長い間、何をしてきたのだろうかと思います。

イエス様にある変わらない希望はイエス様の十字架によって、私が信じるように導かれたとき、御霊とともに与えられました。

しかし、私は教会の中で人を見て、嘆き続けたのです。

今、教会の中では、どれだけイエス様の十字架が大きく扱われているでしょうか。

どれだけ、与えられた御霊の凄さに主をほめたたえているでしょうか。

私はクリスチャンになったときに、使徒の働きの続きが今で、私たちは聖霊の時代に生かされ、聖霊が働いていると聞きました。

それなのに、聖霊を押しやって、私たちは互いに自分の考えをぶつけあい、主張しています。

御霊は愛です。

御霊による祈りは愛です。

教会は、自分が中心になる世界ではなく、イエス様を愛する、キリストのからだを愛する世界です。

私たちが主を霊とまことによって礼拝し、ただあなただけがあがめられますように。

私たちの心の中もただイエス様だけが生きますように。

私たちをあわれみ、御霊にあって礼拝させ、イエス様に一つとしてください。

イエス様のみなによって祈ります。アーメン

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2012年2月21日 (火)

“霊とまことによって礼拝する特権”

霊とまことによって礼拝することを思いました。

『しかし、真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝するときが来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。


神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。』新約聖書 ヨハネの福音書4:23.24


サマリヤの女はイエス様と会話をしていて、話しは礼拝の話になっていく。

サマリヤの女は、礼拝する場所がサマリヤ人とユダヤ人は違うことをイエス様に言う。

どこで礼拝することが正しいのか。

それに対して、イエス様は次のように言う。


『あなたがたが父を礼拝するのは、この山でもなく、エルサレムでもない、そういう時が来ます。…今がその時です。』

イエス様は礼拝する場所が大事なのではなく、何によって礼拝するのが大事なのかを言われた。

霊とまことによってである。

イエス様を信じる人には、決して渇くことのない水がイエス様によって与えられ、その水はその人のうちで泉となって、わき出る。

私たちはイエス様を信じ、イエス様の十字架のあがないによって、霊が生き、霊から泉となってわき出る御霊を与えられた。

この御霊とイエス様によって、私たちは神様を礼拝することができる。

旧約時代、神様がおられるところは幕屋の至聖所であったが、イエス様の十字架によって、今、私たち自身が御霊の神殿となり、神様のおられるところとなる。

神様はすべてのところにおられるが、イエス・キリストの十字架のみわざによって、私たちの中に神の国を建てられた。

私たちが、このイエス様の十字架と復活により、御霊をいただいたことを感謝し、主をあがめ、主に自分の心を賛美と感謝と祈りで注ぎだすとき、私たちの礼拝は、霊とまことによる礼拝となるのだろう。

私たちは礼拝するために、イエス様によって選ばれ、名前を呼ばれ、招かれた。

私たちは主を礼拝し、主の愛を心にいただき、喜び感謝するために主から招かれた。

私たちにイエス様の十字架によって与えられた御霊を感謝し、礼拝できる特権にあずかれますように。

日曜日、教会で礼拝を保つことのできないキリストのからだにある人に、主が御霊に満たして、その場所で主を礼拝し、祝福されますように。

やがて、キリストのからだが一つ、主をともに礼拝するときまで、御霊が守り、導き、慰め、確かな導きを与えてくださいますように。

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2012年2月19日 (日)

“御霊によって神の国に生きる幸い”

御霊によって生まれ、神の国に生かされている幸いを思いました。


『イエス様は答えて言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。人は新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」…


「人は水と御霊によって生まれなければ、神の国にはいることができません。


肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。」』新約聖書 ヨハネの福音書3:3〜6


イエス様の十字架による死と復活は、私たちに与えられた最大の奇跡である。

なぜならイエス様の十字架を信じる者は、イエス様と同じ古き人への死と新しいいのちによるよみがえりが与えられたのだから。

こんな凄いことをなぜ、私は見過ごして、教会に対して失望ばかりしていたのだろうかと思う。

それは、私の罪や弱さのゆえでもあるし、また、一番大切なものを見せなくさせるサタンの働きにもよるのだろう。

サタンは、教会の中で、イエス様の十字架の死と復活が私たちのために起こった事実を見えなくすることが目的である。

だから、それが大きく見えずに、自分の力で頑張るクリスチャンを喜ぶ。

イエス様の十字架によって死んだ私たちは、御霊によって生まれ、神様の国を体験する。


もう、私たちに与えられた御霊のいのちは、この世の法則では生きない。

この世の自己実現的なことに幸せを見いだそうとする生き方ではない。

私たちのたましいの自我が十字架につけられるほどに、私たちは自分の死を体験し、今まで経験したことのない御霊のいのちを体験していく。

御霊のいのちは、この世にはないものを現す。

イエス様の性質を現す。

イエス様の赦しや愛や祈りを現す。

愛、喜び、平安、寛容、善意、誠実、柔和、自制を現す。(ガラテヤ5:22〜23)

イエス様からこの世のものを期待していたらば、それは全く期待はずれになる。

この世にある環境の苦難を越えた神の国が私たちの内側にたてあげられる。

この世のものと神の国のものと二つのものを同時に与えられることはない。

私たちのたましいの中のプライドや自我や欲や見栄や自尊心を十字架につけていくときに、御霊のいのちが自由に働きだす。

幕屋は神様がおられるところで、至聖所にその神様ご自身のご臨在が現され、私たちを神様の栄光が包む。

イエス様の十字架のみわざによって、御霊によって生まれた私たちの幸いは、主を礼拝し、そのみ光に照らされて豊かないのちに生かされることである。

イエス様が与えてくださった御霊にある祝福の人生へと導かれますように。

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2012年2月17日 (金)

“御霊にきよめをなさる”

御霊の働きの聖化について思いました。

『イエスはこのことを最初のしるしとしてガリラヤのカナで行い、ご自分の栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた。』新約聖書 ヨハネの福音書2:11


イエス様がカナの婚礼で水をぶどう酒に変えられた奇跡を行われた。

水がめはきよめの儀式に使うためのものであったが、6つしかなく、完全な数7個には足りなかった。

私たちもまた、この水がめのようにきよめられるに不完全な者であるが、イエス様は私たちを水がぶどう酒に変えられたように、私たちを全く質の違うものに変えてくださった。


聖書の教理に“聖化”というのがある。

私たちがきよめられ、成長し、変えられていく…みたいなことだと思う。

私たちはイエス様のあがないによって、すでにきよい者とされた。聖徒である。

見た目、どうであれ、聖徒である。

さらにきよくならなくてはならない、成長しなくてはならない、変わらなくてならないとなると、肉的な自分の力が働いて、苦しくなってしまう。

私たちは自分の力ではきよくなることも、キリストに似るように成長することも、変わることもできないのである。

ヨハネの福音書では、水、聖霊、いのち…ということばが出てくるが、これらに密接な関係がある。

水の洗礼(バプテスマ)によって、古き人は葬り去られ、御霊をいただき、いのちをいただく。

私は長い間、“自分はクリスチャンらしく自分の力で変わらなくてはならない。”とどこかで思っていたように思う。

新しく造り変えてくださるのは御霊である。


私たちが日々、イエス様の十字架に自分のたましいの自我の部分、自分が神様となる部分をつけて赦され、いけにえを捧げた後は、青銅の洗盤できよめる。


それは、御霊によって、この世の者と隔離される、分け隔てられることを意味する。

イエス様の十字架によって赦されることは、きよめられることでもある。

御霊が私たちのうちにいて、神の国、イエス様のいのちに導いてくださる。

私たちはこの御霊の働きに信頼すれば良いのである。

水は自分の力でぶどう酒にはなりえなかった。

イエス様のなさることを信じて、信頼して、救いも赦しも、きよめも、成長も、聖霊様がご自由になされるよう、祈ってゆだねていけますように。

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2012年2月16日 (木)

“イエス様がいけにえとして捧げられた”

いけにえとなってくださったイエス様に感謝し、さらに御霊に導かれて進みたいと思いました。

『その翌日、ヨハネは自分のほうにイエスが来られるのを見て言った。


「見よ。世の罪を取り除く神の子羊。…しかし、この方がイスラエルに明らかにされるために、私は来て、水でバプテスマを授けているのです。」』新約聖書 ヨハネの福音書1:29〜31


幕屋では、入り口を入ると、自分の持ってきた動物を、祭壇のうえで、自分で殺していけにえとしてささげる。


律法は神様の聖で義で完全な方である性質を表し、その律法の前に罪を犯すたびにいけにえを持ってきて、赦しをこう。

モーセの時代の人たちは、自分たちがいけにえを捧げる神様の方法で赦されている恵みを覚えるとともに、自分たちがいかに日々赦される存在か認識していたと思う。

クリスチャンで、「私はこんな罪を犯しました。」という人がいるが、私たちの行いだけが罪ではない。私たちは罪がないというなら、神様の前に自分を偽る存在なのである。

自分は神様の前に正しいと自己義認することを神様はとても嫌われるし、私たちは誰も人を裁くことのできない罪人なのである。

パウロは、「私は罪人のかしらです。」と言ったのは、他の人よりも多くの罪を犯したのではなく、聖霊様にあって、自分がいかに罪人であるか見ることができたのだと思う。

聖霊様によらなければ、私たちは内在してる罪を見ることはできない。

私たちは偶像礼拝はしない…といいそうだが、神様を信じないことは、違うものに頼っていることなのだと思う。

そんな弱い私たちのために、イエス様は、まだ私たちが罪人であったときに、ただ一度の私のためのいけにえとなってくださった。

私の罪によって、私がイエス様をいけにえとして十字架につけ、殺したのである。

私たちがイエス様との関係に入るとき、この祭壇を通ることなしに、先に進むことはできない。

私を愛して、救うために、至聖所に入り、神様との親しい交わりにはいり、豊かにいのちを得る初めとして、私たちはいけにえとなられたイエス様をあおぎたい。

イエス様に出会ったナタナエルにイエス様は言われた。

「あなたがいちじくの木の下にいるのを見た、とわたしが言ったので、あなたは信じるのですか。あなたは、それよりもさらに大きなことを見ることになります。」

永遠のいのちとは、神様とイエス様を知り、また見ることである。


イエス様の深みに、私たちは進み、イエス様とともに生かされることのすばらしさを味わうことができますように。

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2012年2月15日 (水)

“幕屋を入り、進む先には…”

イエス様とともに幕屋の備えを歩み進む恵みを思いました。

『この書には書かれていないが、まだほかの多くのしるしをも、イエスは弟子たちの前で行われた。


しかし、これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるため、また、あなたがたが信じて、イエスの御名によっていのちを得るためである。』新約聖書 ヨハネの福音書20:30.31


旧約聖書の幕屋はイエス様のことを現していることを知り、また、ヨハネの福音書が幕屋になぞられた構造になっているのを知り、今日は朝の限られた時間に、ヨハネの福音書をさっと、メモしながら、飛ばし読みした。

確かに①“世の罪を取り除く神の子羊”②“カナの婚礼のみずかめのぶどう酒、ニコデモの新生の記事、サマリヤの女の乾くことのない水、ベテスダの池の癒し”③“5000人の給食”④“姦淫の女に石打ちできなかった人々、盲目のいやし”⑤“大祭司なるイエス様のとりなしの祈り”のようになっているなぁと思った。

幕屋に従って進むことにイエス様の十字架の道も進み、イエス様が十字架で「完了した。」と言ったとき、幕屋が真っ二つにさけ、あがないが完了し、至聖霊所なる神様の臨在の中に、神様と交わる中に入ることができた。


契約の箱のあがないのふたによって、律法で死ぬことなく、あわれみのおおいで守られ、導かれる。

それは、ペテロのイエス様への裏切りを赦され、あわれみにおおわれ、導かれていくことに重なる。

ヨハネの福音書がそんな幕屋にそった構造になっているなんて、すごいなぁと感動ひとしきりである。

しかし、ヨハネが私たちに伝えたかったことは、イエス様がキリストであること、私たちがそれを信じて、主のみ名によってイエス様のいのちを豊かに得るためであった。

私たちは神様から選ばれ、名前を直接呼ばれ、神様に任命された者である。

それは、私たちが神様の愛に満たされて、喜び、神様がほめたたえられるためであった。


私たちはすでに、御霊を与えられているが、そのたましいが救いを得て、喜びとび跳ねて聖霊様に生かされているだろうか。

見たことも、聞いたこともない神様の備えに生かされて、主をあがめているだろうか。

読んだ本に、「幕屋にいけにえを携えて、罪の赦しを受けるのは、信仰の入り口であって、まだまだ先がある。」と書いてあった。

私たちはイエス様の十字架によって、誰も入ることのできなかった至聖所で神様と親しく交わるために生かされている。

神様の愛とあわれみを受けるために生かされている。

幕屋に入り、一歩ずつ、主の愛の備えに歩ませてもらいたいと思った。

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2012年2月14日 (火)

“幕屋の栄光”

幕屋なるイエス・キリストの栄光を思いました。

『幕屋を十枚の幕で造らなければならない。すなわち、寄り糸で織った亜麻布、青色、紫色、緋色の寄り糸で作り、巧みな細工でそれにケルビムを織り込まなければならない。


幕の長さは、おのおの28キュビト、幕の幅は、おのおの4キュビト、幕はみな同じ寸法とする。


その5枚の幕を互いにつなぎ合わせ、また他の5枚の幕も互いにつなぎ合わせなければならない。…


金の留め金50個を作り、その留め金で幕を互いにつなぎ合わせて一つの幕屋とする。』旧約聖書 出エジプト記26:1〜6


幕屋がイエス・キリストご自身を表すというので、今日は、聖書から幕屋のところを少し読んだ。

何を書いているかわからなくて、飛ばしてしまうようなところに、イエス様の深い真髄が書かれてあるのだなぁと思った。

幕屋の中はすべておおわれていて、外からは見えない。

たくさんの人たちが持ち寄って捧げて作った幕屋は、私たち一人一人のキリストのからだでもあると本にあった。

幕屋の幕が細かい規定の中で、つなぎ合わされて一つの幕屋になっているのは、キリストのからだのようだ。

私たちがキリストのからだの一部であるゆえんは何か。

それはただ主のあわれみによって、イエス様の十字架によってあがなわれた者、そして、至聖所に入り、神様と交わることができる者とされたことだけである。

幕屋の中が、罪のためのいけにえが捧げられ、きよめられ、パンをいただき、御霊に光照らされて、祈り、垂れ幕を入って、あがないのふたの前で神様と語らう者とされた。

幕屋にあるのは、ただ神様の一方的な備えの中に、あわれみをいただき、神様の栄光が現されるだけである。

そこには神様の規定に従い、神様に近づく。


そこには、人間の能力も見栄もプライドも努力も主張も何もない。


ただ神様の主権によって、神様のあわれみによって、神様の栄光が私たちの前にあるだけである。

私たちにとっての教会、キリストのからだ、キリストの幕屋は本来そんなところなんだなぁと思った。

私自身がキリストのからだの一部として、神様の栄光を現せなかったとするならば、それは、イエス様の幕屋に人間的なものを持ち込んではいけないのに、平気で勝手に持ち込んでいるからだろう。

イエス様の幕屋に私が持ち込めるものは、ただ一つだけ…いけにえなる罪の告白だけである。

すると御霊が私のたましいを洗いきよめてくださる。

そして、その御霊はみことばに光を当てて、悟りを与え、私の罪深さとイエス様の愛の深さを見せ、御霊の中で祈りを捧げ、神様に触れられるのだろう。

イエス様のためにといいながら、自分の欲を持ち込み、キリストの幕屋を汚すものを赦し、イエス様の血潮で洗いきよめてください。

罪を除く神の子羊なるイエス様だけが栄光をとられ、輝きますように。

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2012年2月13日 (月)

“今こそ礼拝の時”

昨日にひき続き、イエス様の幕屋を通して、礼拝する祝福を思いました。

『しかし、真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。


今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。


神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。』新約聖書 ヨハネの福音書4:23.24


旧約の時代、神様はモーセを通して幕屋を作らせた。

神様は正しく聖く、私たちの汚れの中には住むことができないお方であったが、幕屋を通して、神様がおられるところに私たち人間が近づくことができるようにされた。

昨日読んだ本「ヨハネの福音書の謎」(平野耕一師)を通して、この幕屋こそがイエス・キリストを表していることを教えられた。

青銅の祭壇を通していけにえが捧げられ、罪の赦しが行われる。

イエス様にあっては、私たちのイエス様を信じる信仰の告白によって、罪が赦される。

本書には『子羊を殺したのはまさしく自分であると自覚した人だけが赦される』とある。


罪がないと思う者は、いけにえを携えて、幕屋には来ない。

青銅の洗盤は、水が関係し、イエス様を信じて告白した人には、内側から聖霊が与えられる。

本書では『神様を礼拝する生活で急激な変化がもたらされる。』とあり、それは、水がぶどう酒に変わる質的変化である。

そこから聖所に入るのであるが、そこは信仰の維持のために必要な所だとある。まず、供えのパン。

イエス様は『わたしはいのちのパンです』と言われたが、日々食べ続けないと、霊的いのちは保たれない。

隣においてある黄金の燭台は、真っ暗な中で、みことばのパンを照らし、罪と十字架の救いを見せ、祈りの香が天に上るのを見せる。


聖霊の光は、私たちにイエス様の希望を見せてくださる。

香の壇では、祈りの香がたかれ、朝に夕に祈る人にはキリストのかおりがつく。

垂れ幕は、神聖なる神様を現し、私たちはその先に進めないが、イエス様の十字架によって、あがないが完了し、至聖所の垂れ幕を裂いてくれた。

至聖所…神様が臨在するところには入ることが許されなかったが、イエス様が道となり、真理となり、いのちとなって、神様の臨在するところに導いてくださる。

神様を見たならば、死ぬしかない私たちは、イエス様のあわれみでおおわれ、神様と交わり、親しみ、喜ぶことができる。

これが、礼拝の(神様と交わる)喜びであり、幸せだとある。

昨日と繰り返しになってしまったが、罪の赦しも、御霊も、みことばも、聖霊の悟りも、祈りも、神様の臨在も、あわれみも、礼拝も…すべてがただイエス様によって与えたものばかりである。

礼拝、神様のために生かされる幸せ、喜び、解放、自由はイエス様の犠牲の愛によって与えられた。

イエス様の幕屋によって与えられたものを大切に感謝し、礼拝する人生でありたいと思った。

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2012年2月12日 (日)

“私たちの間に幕屋を張られたイエス様”

幕屋が礼拝を現すという本に教えられました。

『ことばは神となって、私たちの間に住まわれた。


父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。


この方は恵みとまことに満ちておられた。』新約聖書 ヨハネの福音書1:14


今日、平野耕一師の「ヨハネ福音書の謎」(プリズム社)という本を読んだ。とても教えられた。

ヨハネは、イエス様に愛された弟子であったが、他の福音書より60年も後に書かれた。

ヨハネの福音書には、神を現すイエス様のことが書かれてあり、他の福音書と書き方が違っている。

イエス・キリストとモーセの時代の幕屋が関係していると著者は言う。

ヨハネ1:14は原語から直訳的に翻訳した英語の聖書で読むと、次のようになる。

「神はともにおられたロゴスは私たちの間に幕屋を張られた。」

モーセの時代、幕屋は“あかしの幕屋”と呼ばれ、生きて働かれる神がイスラエルの民とともにおられることを幕屋はあかししていた。

幕屋の構造は、庭の門をくぐって庭に入ると青銅の祭壇がある。次に青銅の洗盤。聖所では、供えのパン、黄金の燭台、香の壇、垂れ幕、至聖所の中のあかしの箱。

これが私たちがイエス様にあって神様を礼拝する型となっていると書かれてある。

祭壇は、罪を意識した人がいけにえを持ってきて、自分で動物の命を断つ。

加害者だけの赦しが行われる。バプテスマのヨハネは『見よ。世の罪を取り除く神の子羊』とイエス様を言われた。

洗盤はカナの婚礼で、イエス様が水をぶとう酒に変えたように、イエス様のきよめは、私たちを全く質の違うものに変える新生体験を与える。

パンはイエス様のいのちのパン。

燭台は光。ここで、祭壇で自分の罪のためにいけにえの命を断つほどの罪人の自分と、その赦しと両方を照らす。

聖霊だけが罪とイエス様の赦しと両方を見せてくれる。

香は祈り。祈りは、神様と私たちをつなぐ管である。

垂れ幕は、聖所と至聖所の仕切り。至聖所には年一回、選ばれた大祭司以外入ることができなかった。

だから、務めで入る大祭司の足には鈴がついていて、ロープを巻いた。もし、死んでしまったりしたら、ロープで引っ張るようになっていた。

しかし、イエス様の十字架によって、この幕屋は、上から下まで真っ二つに避けた。

神様に近づくことのできない仕切りをイエス様が取り除いてくださった。

至聖所には契約の箱が入っていた。その中には、モーセの十戒の石の板とマナとアロンの杖が入っていた。

この3つは神様を表すもの。律法とマナと神様の権威を表すアロンの杖。

その上には、あがないのふたがかぶせてある。

中を見てしまうと、正しい聖なる神様を見てしまうと、私たちは死ぬしかないような者であるが、そのふたによって、おおわれていることは神様のあわれみ。

私たちは神様の前に焼き尽くされるような者であるが、イエス様のあがないによって、おおわれている。

ヨハネの福音書をそれにそって書いたと著者は言っているのだろう。

私は旧約聖書が改めて、イエス様の奥義を深く具体的に解き明かしてくれているのだなぁと思い、主に感謝した。

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2012年2月11日 (土)

“神様を愛するとは”

神様を愛する…について思いました。

『「先生。律法の中で、たいせつな戒めはどれですか。」


そこで、イエスは彼に言われた。「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』


これがたいせつな第一の戒めです。


『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。


律法全体と預言者とが、この二つの戒めにかかっているのです。」』新約聖書 マタイの福音書22:36〜40


“神様を愛するとはどういうことか”について聞かれた。

それに対してある友人は、次のように答えた。

「神様を愛するとは神様を知ることです。

神様は霊だから霊によってのみ知ることができます。

霊を生かしてくれるのは、イエス・キリストです。

人の呪われ、汚れたまたしいは日々十字架につけられることによって、神様を知り、神様を愛します。

十字架のことばは、たましいに近づくのではなく、霊に近づき導きます。たましいによっては理解できません。」

神様を愛する…というようなことを私たちクリスチャンは、簡単にいうけれど、それがどういうことかと改めて聞かれると、難しい。


けれども、神様とイエス様を知ることが永遠のいのちに生きることだから(ヨハネ17:3)、神様を愛するということは、神様を霊によって知ることなのだろう。

私たちがアダムとエバが蛇に騙されて、善悪の木の実を食べて以来、私たちは自分たちを神とし、自分で決めて自分で考えてきた。

そこに創造主の神様をあがめ、頼り、信頼することはできなくなった。

私たちの神様と交わる霊はあの日に死んだ。


しかし、イエス様の十字架のあがないを信じる者に神様は新しいいのちをくださった。

神様を知る霊であり、イエス様のこと、奥義を教えてくれる御霊を受け取る霊を与えてくださった。

クリスチャンが神様を愛しているといいながら、その全人格をもって、神様から愛されていることがなかなか体験できないとしたならば、それはすでに新しいいのち、よみがえりのいのちに生かされているのに、古いいのちで生きようとしているからなのかもしれない。

イエス様の十字架は、神様を知らない、信じない人たちにとっても大変換をもたらしてくれるものだが、私たちクリスチャンにとっても日々イエス様の愛を教えてくれるすばらしいものである。

日々十字架につけられ、古い人に死に、イエス様のいのちに生かされていけますように。

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2012年2月10日 (金)

“いのちのパンを食べる”

いのちのパンについて思いました。

『わたしはいのちのパンです。あなたがたの先祖は荒野でマナを食べましたが、死にました。


しかし、これは天から下って来たパンで、それを食べると死ぬことがないのです。


わたしは、天から下って来た生けるパンです。だれでもこのパンを食べるなら、永遠に生きます。


またわたしが与えようとするパンは、世のいのちのための、わたしの肉です。』新約聖書 ヨハネの福音書6:48〜51


私は更年期のせいか、血圧が高くなり、このままではいけないと、本を読んでいる。

その中でどうやって日常的に血圧を下げるか、血圧を下げる食べる物がいろいろと書かれてある。

じゃがいもやキャベツ、コンブ、リンゴなど、たくさんの食べ物が血圧を下げるのに有効と書かれてあった。

食べ物一つ一つに体のための効用があるのを勉強し、神様は私たちの体を整えるために、いろんな形で食べ物を与えて、しかも、美味しく、楽しませてくれているんだなぁと思った。

今日の夕飯には、切り干し大根と、コンブと、とうふで、血圧に良い新サラダを作ってみた。

若いときには全く無頓着だったが、歳をとると、限られた健康をどう維持するか、「食べ物によって命が保たれている。」のをしみじみと思う。

イエス様も霊的ないのちを保つために、いのちのパンであるイエス様を食べなさい…と言われた。

“いのちのパン”というのは、聖書のことばだと思ってきた。

ある意味ではそうなのだと思う。

しかし、いのちのパンはイエス様ご自身であり、イエス様との関係に生かされていくことでもあるのだと思う。


イエス様なしの、単なる聖書の知識では、どんなに深く学んでも生きることはできない。


イエス様が私のために十字架にかかってくださったその関係にあって、御霊の啓示によって、天から与えられたイエス様の教えが、イエス様であり、いのちのパンなのだと思う。


アンパンマンを書いている、やなせたかしはクリスチャンと聞く。


アンパンマンはやさしく困った人を助けるけれど、お腹がすいたとき、アンパンマンが自分の顔を分けてあげるのは、イエス様に似ているのかなぁと思う。


今日、夕方アンパンマンを少し見て、エンディングテーマで「アンパンマンはきみさ、勇気を出して♪」と聞きなれた歌を一緒に口ずさみながら、じ〜んときた。

私たちはイエス様を食べて、イエス様のいのちに生きて、私の中にあるイエス様が生きる。

御霊のみわざによって、あなたがキリストの一部となり、私がキリストの一部となり、私たちがキリストのからだとなって見えるキリストを現すのである。

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2012年2月 8日 (水)

“サタンには御霊で勝つ”

サタンの策略に対して思ったことです。

『悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身につけなさい。


私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪魔に対するものです。』新約聖書 エペソ人への手紙6:11.12


私は初めに導かれた教会が福音派だったからか、自分が霊的なタイプではなかったからかわからないが、“サタン”という存在が良くわからなかった。

たぶん、等しく、イエス様や御霊に対しても、霊的に知ることにうとかったのだと思うが…。

今は、どんな状況にあっても、平安に守られていることが多くなってきたので、言い知れない嫌な思いとか、批判的な思いは、決して状況や人によるのではなく、サタンが忍びよって、偽っているのだなぁと思うようになってきた。

今日、会った友人から、「クリスチャンは豆まきとか厄払いはないのか」と聞かれ、「そういうのは一切ないが、サタンが私の中に入ってきて、相手が憎々しく感じたりしたら、そうさせるサタンだなと思い、『イエス様の名前によってサタンよ、退きなさい。』とかとは祈るけれどね。」と話した。

もう一人の友人が「私もサタンなのか、思いだしたら憎々しくなる身内がいる。」と話しをしていた。ご苦労されたらしいが、サタンがなんとなくわかるノンクリスチャンの友人なのかもしれない。

『私たちの戦いは血肉によらず霊的な戦いだ。』という聖書のことばは昔から良く知っていた。

が、最近は、「この嫌な思いにさせるのは、人ではなく、偽りのサタンなのだなぁ。」と良くわかるようになってきた。

昨日も人と会ったことで少し気持ちが乱されて、私の何が悪かったのだろうかと今朝になって思った。

もしかしたら、無防備に、相手に入っているサタンに影響されたのかもしれないし、私に 何かスキがあったのかもしれない。

サタンに対しては、攻撃が最大の防御なのかもしれない。(まだ、いろいろわからないが。)

攻撃というのは、御霊によって相手を愛して祈る…という意味で使ってみた。

あるクリスチャンの方が、サタンは堕落したみ使いだから、私たちより数倍も知能があって、私たちがサタンのうえをいって、勝つことはできないと言っていた。

なるほどと思う。

私たちはイエス様のお力に頼り、御霊に頼るしかない。

祈りは愛である。

御霊はイエス様の愛である。

御霊で人を愛して祈るとき、サタンは光の前から退散する。

『憎しみは争いをひき起こし、愛はすべてのそむきの罪をおおう。』箴言10:12とある。

サタンは争いを好み、イエス様の愛はすべてのそむきの罪をおおうとも言えよう。

私たちが誰かに敵対しているときは、御霊でなくて、サタンに組みしているのである。

平和の神が、すみやかに、イエス様によって私たちの足でサタンを踏み砕いてくださいますように。 (ローマ16:20)

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2012年2月 7日 (火)

“キリストのからだにある御霊”

キリストのからだに現される御霊を思いました。

『さて、御霊の賜物にはいろいろの種類がありますが、御霊は同じ御霊です。


奉仕にはいろいろの種類がありますが、主は同じ主です。


働きにはいろいろの種類がありますが、神はすべての人の中ですべての働きをなさる同じ神です。


しかし、みなの益となるために、おのおのに御霊の現れが与えられているのです。』新約聖書 第1コリント人への手紙12:4〜7


御霊は、私たちの中で働き、イエス様の一部を現してくれる。

私たちは一人でイエス様のすべてを現すことはできない。

互いの御霊の働きに仕え、また、支えられる。

クリスチャンの交わりがないところには、そのキリストのからだの支えが欠如する。

私にもし癒しや預言の賜物があっても、与える相手がいなければ、それをもって仕える相手がいなければ、それは土に埋めたタラント(賜物)になる。

私たちはイエス様を教会のかしらとした、各器官である。

もし、教会が、互いの賜物によって生かされ支えられていなければ、健全な御霊の働きがなされない。

そして、キリストのからだが一つになるには、ただイエス様の十字架によってのみである。

世の中のボランティアや活動は、皆、同じ事をやっても、動機は様々である。決して、一つには成り得ない。

なぜなら、皆、生き方も考え方も違うから。


しかし、イエス様の十字架に生きるということは、自分のたましいの自我に死ぬことであり、自分の考えを捨てることでもある。

そして、同じ御霊が、それぞれに一部を現して、パズルのようにピッタリと組み合わされて、イエス様を現すのである。

どうぞ、私たちが日々、イエス様の十字架によって自我に死に、御霊に生かされますように。

私たちのそれぞれに与えられた霊的賜物が、一つキリストのからだに生き、また支えられますように。

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2012年2月 6日 (月)

“神様が心を留める人とは、何者でしょう”

今日は友人の家に行き、霊が深く探られました。

『あなたの指のわざである天を見、あなたが整えられた月や星を見ますのに、人とは、何者なのでしょう。


あなたがこれを心に留められるとは。人の子とは、何者なのでしょう。あなたがこれを顧みられるとは。


あなたは、人をいくらか劣るものとし、これに栄光と誉れの冠をかぶらせました。


あなたの御手の多くのわざを人に治めさせ、万物を彼の足の下に置かれました。』旧約聖書 詩篇8:3〜6


神様が私たちを美しく、霊的な存在として造ってくださり、私たちを大切な存在として心に留めてくれました。


それゆえ、御子を与えて、私たちの代わりにしてくださいました。


詩篇の作者は、天や月、星を見ながら、壮大なものを造りおさめておられる神様が、小さな人間をも大切な存在として生かしてくれていること、あわれみを感謝し、主を賛美しました。

私は、今日、出会わされた人の中に、神様が造られた良いものを見、人を造られた主を賛美しました。

本当は、生きていることも奇跡のような神様の保ちと支えがあるのに、私たちはそこには目がいかず、もっとこうしたい、ああなりたい…みたいな欲望に捕らわれる弱い性質を持ったものであることを神様の前に、イエス様の十字架の前に認めました。

最愛の娘を亡くしたお母さんに、私のうちにある御霊が慰めを与えてくれるように…と思いましたが、それすらおごりなのかなぁと思いました。

そのお母さんは、娘の写真を見せながら、笑顔で、生きていた頃の娘の話をしてくれました。その姿に、神様が造られた人の尊厳みたいなものを思いました。

主よ、生かされながら、生かされている奇跡すら見えずに、長い間、つぶやいてきた私を赦してください。

慰めがあるように祈りながら、慰められた私でした。

何も言えない、何もできないのを知って、今日は友人に会いに行きましたが、実は、私は誰にも何もできないのに、できると思ってきた者でした。

何もできない、理解もできず、ことばもない者に、人が生かされていることが、それだけですばらしいことを教えてくださり感謝します。

神様が造られた、神様よりいくらか劣るだけの尊厳のある人を知り、愛し、近づき、寄り添い、祈れますように。

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2012年2月 5日 (日)

“イエス様とともに今を生きる”

今というときをイエス様とともに生きる恵みを思いました。

『キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。


ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。


そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。


それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。


あなたがたは、羊のようにさまよっていましたが、今は、自分のたましいの牧者であり、監督者である方のもとに帰ったのです。』新約聖書 第1ペテロの手紙2:22〜25


私たちには、たくさんのものが与えられているのに、それに気がつかずに、足りないものを欲しがったりする。


今は、普通にある健康を当たり前に思い、普通にご飯を食べられたりできることも当たり前に思ったりする。

目に見えること、また、霊的な祝福、様々な良いものが与えられている。

サタンは、私たちの心のすきに入り込んで、今の大切な与えられている時間やものも見えなくする力があるのだと思う。

私はイエス様に出会うまでは、生きるのに、しんどかった。

現実逃避で、良くあちこちに旅行した。

現実の生活に虚しさを感じて、旅からもどると、その旅を思い返して、楽しい世界に入っていった。

また、クリスチャンになってから、心の傷の中で、自分の存在価値をなかなか見いだせず、保つのが難しかったのだと思う。

霊的に与えられている豊かさよりも、「私は今のこんなはずではない。」と、伝道して歩いている自分の姿を思い浮かべて、そのときの支えにしていた。

そこにある感謝や恵み、大切な友だちなどを見ることができなかった。

伝道して神様に仕える…それが神様のみこころでないはずがない、そう信じて、たましいの中に、自分の神様にある自己実現みたいなものを作っていた。

神様がイエス様によって与えてくれたのは、“今”イエス様とともに生きる時である。

“今”を見失ったら、本当に積み重ねられる時を失ってしまうのだろう。

今、イエス様は、十字架によって私たちの罪も傷も赦しきよめ、神様に和解させてくださった。

もう迷える羊は、先がわからなくても、ここだ、ここに進めというイエス様の声に一歩ずつ、安心してついていくだけだ。

私たちの心にイエス様の安心がありますように。

“今”という時が、イエス様とともに豊かに生かされますように。

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2012年2月 4日 (土)

“自我に死んで御霊に生かされる”

自我に死なせてもらい、御霊に生きる体験をしました。

『心を尽くして主に拠(よ)り頼め。自分の悟りに頼るな。


あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。


そうすれば、主はあなたの道をまっすぐににされる。』旧約聖書
箴言3:5.6


このみことばは、25年ほど前、私の信仰の転機になったみことばだ。

それまでは、「神様が私のいうとうりに動いてください。」と安易に祈る者だった。が、深い悔い改めに導かれて、「私はすべてに主を認めます。」と変えられた。

今日、再びこのみことばを思った。

私は、今、一週間にたった2時間ちょっとだけ、保育園の子どもたちと遊んでいる。

補助に入っている人たちは、ほとんど毎日で、私の2時間ちょっとは…本当にわずかな時間の子どもたちとの関わりだ。

けれども、そのわずかな時間の子どもたちと過ごす時間が、私にとってもかけがえのない時間になっている。

もうすぐ、卒園式で、あと少しで5歳クラスの子どもたちは卒園してしまうのだなぁと思う。

園長に、「卒園式に出たいです。」というと「場所が狭いので遠慮してください。」と言われた。

子どもとわずかな時間しか関わっていない私は、出る資格はないのだなぁと思った3週間前だった。

楽しみにしていたので、とてもガックリきたが、「神様が出なくて良いと言っているのだなぁ。」と、気落ちしながらも、不思議と背後に神様のみ手を覚えて、受け入れた。

子どもたちとは土曜日には会えるのだからと、そのことを感謝した。

先週、副園長先生に明るく「卒園式の出欠の表を書いて帰ってね。」と言われた。

表には、たくさんの臨時職員の人たちが出席にマルをしていた。

本来の私なら、「なんで私だけ出るなと言うんだ。」ともんもんとしたと思う。

が、すでにガックリしながらも、背後におられる神様にあって、卒園式には出られなくても、子どもたちと毎週会える…という良いほうを選んで感謝していたので、静かな気持ちで欠席にマルをした。


今日、園長先生に、「どうぞ、卒園式に出てください。」と言われた。

卒園式は感動物らしく、出られることも嬉しかったが、それ以上に、誰を責めることもなく、イエス様を信じて感謝して、受け止めてこられたプロセスを主に感謝した。

私は、昔、教会の奉仕をしていたので、鍵を持っていたのに、その頃新しく来たあるご婦人が「ちょっと教会の鍵を貸してくれる。」というので渡したことがある。

牧師が変わったり、教会がゴタゴタしているときだった。

再び「教会の鍵を返してください。」というと、突然仕切りはじめたご婦人は、「あなたが鍵を持っている資格はないから返しません。」と言われた。

詐欺師に騙されたような思いで、家で帰って泣いたことを覚えている。

あの頃は、神様がどこにいるか全く見えていなかった。だまされた悔しさに胸が治まらなかった。

ヤコブのように自我の強い私は、ももつがいを打たれ、やっと神様の祝福を受け取れるように少しなったのかなぁと思った。

自我が死につけられると、御霊の喜びと感謝、イエス様のあわれみに深く生かされていく。

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2012年2月 3日 (金)

“イエス様のために生きる”

イエス様のために生きることについて思いました。

『御子は、見えない神のかたちであり、造られたすべてのものより先に生まれた方です。

なぜなら、万物は御子にあって造られたからです。


天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、また見えないもの、王座も主権も支配も権威も、すべて御子によって造られたのです。


万物は、御子によって造られ、御子のために造られたのです。


御子は、万物よりも先に存在し、万物は御子にあって成り立っています。』新約聖書 コロサイ人への手紙1:15〜17


私は若いとき、「自分は何のために生きているのだろう。」と悩み、苦しんだ。

イエス様のところに導かれたとき、何もわからなかったが、御霊がイエス様のために生きればよいのだと教えてくれた。

イエス様のために生かされたい…長くそんなふうに思いながら、イエス様のためではなく、自分のプライドや考えのために多く生きてきた感じもする。

イエス様は万物より先に存在し、すべてイエス様によって、イエス様のために造られた。


イエス様は、いつも私たちを知って、私たちとともにいてくださるお方だが、そのイエス様の壮大さが言われている箇所なのだと思う。

私たちは神様に逆らい、怒りの子どもであったが、裁かれる存在であったが、イエス様の十字架のあがないによって神様の子どもとされた。

それは、私たちが神様とふさわしい関係に戻されたことを意味する。

神様は、イエス様は、親しい交わりをしたくて、人間だけを神様と同じ霊的な存在に造られた。

しかし、アダムとエバは神様に逆らい、麗しい、慕わしい関係が崩れた。

イエス様によって私たちが造られた本来の意味のところに戻れるということは、本来のあるべき姿に戻されていくことなのだろう。

イエス様によって、私たちは神様との関係を回復し、人と人との関係も回復への道を与えられた。

私たちにとってイエス様に生かされるうえで、最も大切なことはこの二つの関係である。


イエス様を知り、イエス様を愛するとき、私たちは人を知り、人を愛する御霊を与えられていくのだろう。

どうぞ、私たちのイエス様との関係が日々、親しくあれますように。

そして、私たちが互いを大切な存在として関わり合えますように。

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2012年2月 2日 (木)

“暗やみの圧制から救い出された主”

イエス様の救いの恵みに感謝し、祈りました。

『神は、私たちを暗やみの圧制から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださいました。』新約聖書 コロサイ人への手紙1:13


イエス様のない世界には、罪と縛りとサタンと死の闇に満ちている。

しかし、それは霊的な目をもって見なければ、見ることができない。

御霊によってしか見えない。

私たちに与えられたイエス様の恵みを感謝し、やみの中にイエス様の希望の光が照り輝きますよう、祈ります。


恵み深い天のお父さん、イエス様を送ってくださり、この世の暗やみの圧制から、私たちを救い出してくださり、愛する御子のご支配の中に移してくださり、ありがとうございます。

かつて、私たちの中に満ちていた暗やみは、イエス様の十字架の救いによって葬り去り、イエス様のいのちの支配の中に生かしてくださり感謝します。

私たちに霊的な視力を与えてください。

この現実の生活の中に、イエス様の力を見、賛美させてください。


人々の死に向かう恐れや不安や孤独に、解決を与えられたイエス様の希望を与えてください。

イエス様にあって、いつまでも変わらないものは信仰と希望と愛です。

私たちにご支配してくださったイエス様によって、御霊によって、私たちに信仰と希望と愛を現すものとしてください。

私たちのキリストのからだがイエス様にあって一つとなり、互いに結び合い、祈りあい、支えあいますように。


それぞれに与えられた器官が、イエス様の愛に応答して、互いのために生かされて、建てあげられますように。


イエス様の十字架のあがないによって、お一人お一人に与えられた御霊が、豊かに働き、祝福されますように。


主のみなをあがめ感謝し、イエス様のみなによって祈ります。アーメン

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2012年2月 1日 (水)

“神と戦うヤコブ、イスラエル”

ヤコブは、イスラエルの祝福のもとになるほどに、神様と戦い、負傷して祝福をいただいたのを思いました。

『ヤコブはひとりだけ、あとに残った。すると、ある人が夜明けまで彼と格闘した。


ところが、その人は、ヤコブが勝てないのを見てとって、ヤコブのもものつがいを打ったので、その人と格闘しているうちに、ヤコブのもものつがいがはずれた。


するとその人は言った。「わたしを去らせよ。夜が明けるから。」しかし、ヤコブは答えた。「私はあなたを去らせません。私を祝福してくださらなければ。」


その人は言った。「あなたの名は何というのか。」彼は答えた。「ヤコブです。」


その人は言った。「あなたの名は、もうヤコブとは呼ばない。イスラエルだ。あなたは神と戦い、人と戦って、勝ったからだ。」』旧約聖書 創世記32:24〜28


昔、神学校の寮に住んでいたとき、年配のおばさん学生の人から言われた。

「sebaさん、あなたってヤコブみたいな人ねぇ。人を押し退けて、我が強くって。」と。


彼女はすごく自由奔放で、口も悪いときもあった。

が、まさにヤコブのごとく、自我の強い私は、悔しくて、悔しくて仕方がなかった。

一人、空き教室で泣きながら「神様、私は侮辱されました。」と祈ったことを覚えている。

そんなこともあったせいか、ヤコブは身近に感じる一人である。

ヤコブは、兄は弟に仕える…と神様に言われたように、エサウの長子の権利を奪った。

ずる賢く、神様の前にいつも正しい人間な訳ではなかった。

そんなヤコブも、やはりずる賢いラバンに長年仕える中、神様に仕えることを学んでいき、変えられていったのだと思う。

しかし、兄エサウと会う前の晩に、ヤコブはどうしても捨てることのできない自我の部分を捨てさせられるべく、神様と戦った。

私も大切な時期に、神様と戦い、自分を捨てさせられるときがある。

どうしようもなく手放せないものほど、その葛藤は大きい。

それを手放したら、どうしようもないと、力を入れて握り、あれこれ言い訳を作ったりする。

しかし、神様によって手放させてもらうとき、私たちは神様のすばらしさ、神様から与えられているすばらしさを見るのだろう。

手放すまでは戦い苦しむ。

しかし、手放していくほどに、霊的なイエス様の良いものを与えられていくのである。

それが自分のいのちを失う者は、イエス様のいのちに生かされるということなのだろう。


私たちは、神様の前に強すぎて、ももつがいをはずされ、負傷し、痛みを負っても、それを越えたイエス様の祝福を体験させてもらえるのである。

私たちにとってヤコブが神様と戦ったペヌエルの地は、祈りなのだろう。御霊が私たちを導き、ペヌエルの地に連れていってくださいますように。

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