“すべてはイエス様によって赦された”
私たちの隠したいような弱さをイエス様は赦し癒してくれました。
『そこで女が見ると、その木は、まことに食べるのに良く、目には慕わしく、賢くするというその木はいかにも好ましかった。それで女はその実を取って食べ、いっしょにいた夫にも与えたので、夫も食べた。
このようにして、ふたりの目は開かれ、それで彼らは、いちじくの葉をつづり合わせて、自分たちの腰のおおいを作った。
そよ風の吹くころ、彼らは園を歩き回られる神である主の声を聞いた。それで人とその妻は、神である主の御顔を避けて園の木の間に身を隠した。』旧約聖書 創世記3:6.7
発達障害の親の会が始まって、5年になる。
集まっているお母さんたちは、実に前向きで、その時々の悩みはあっても、我が子にとって、何が良いのかいつも模索している。
他方、あまりそのような会には来ない人の中には、我が子の特徴や課題を見ようとせず、問題がないから大丈夫という方もいる。
子どもの課題が明らかであっても、人の弱さがそのことを受け止めきれず、問題無しとし、子どものゆきずまりを放置してしまう。
人の中にある自分の弱さに対しても、私たちは同じなのだなぁと思う。
自分に歴然とした弱さや足りなさがあっても、それを受け止める力がないと、あるものを無いかの如く、隠したり、ごまかしたりして過ごす。
実は、あのアダムとエバが食べてはならない善悪の木の実を食べて以来、私たちは自分を隠すということを神様にも人にもするようになったのだと思う。
なぜ、隠すかというとその弱さを自分で受け入れることができずに、恥ずかしいとするからなのだと思う。
イエス様は私たちの弱さや足りなさや汚れや恥や、そのような人に知られたくないそのやみの部分を赦すために、十字架にかかってくださった。
私の隠したいようなすべてを、イエス様は十字架ですべて赦して受け入れてくれた。
私たちもそれを受け入れ、赦しと癒しときよめを体験できる。
では、私はどれだけ、イエス様が赦してくれた自分自身を受け入れているか。
それは、自分がどれだけ、そのような恥かしいと思えるような弱さを人にも神様にも言えているかなのだと思う。
私はある時まで決して人に話したことのない癒されていない自分にある心の傷の部分を、ある時から人に話すことができる自分に気がついた。
そうか、人にも話せているのは、そんな弱さもイエス様に受け入れられていることを私も受け取っているからだと気がつかされた。
私たちは、いちじくの葉っぱをどれだけ心の中でくっつけて隠しているだろうか。
隠していることが悪い…というのではない。そこもまた、イエス様が赦されたところであることを受け入れ、もう一度、神様の前に告白していくならば、イエス様がいちじくの葉っぱを優しくはがしながら、「大丈夫だよ。そこも赦され、癒され、わたしの栄光が包まれた患部となったよ。」と語ってくださる。
一枚一枚、いちじくの葉っぱをはがし、私たちのすべてが赦され癒され、イエス様の愛でおおわれているのが明らかになりますように。
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コメント
sebaさん
アーメンです。
以下、同感です。
>自分に歴然とした弱さや足りなさがあっても、それを受け止める力がないと、あるものを無いかの如く、隠したり、ごまかしたりして過ごす。
>なぜ、隠すかというとその弱さを自分で受け入れることができずに、恥ずかしいとするからなのだと思う。
自分で、自分を受け止める力の不足、自分を恥とする思い、そうした弱さゆえに、隠す。話せない。
うんうん、なるほど、と思う。
その力不足や弱さをも認めたくないから、高飛車だったり、寛容に装ったり、やたら活動的だったり、自分から注目をそらせるために、人の噂に熱心になったり・・・いろいろの形が現れるのだろう。
私は、自分の弱さや恥を話せる方だと思う。
しかし、誰にでも、どこででも、ではない。
時、場所、人を選ぶ。
それは、やはり、話せないということと、同じであろうか。
また、私が話すことで、私以外の人の名誉が傷つく場合も話せない。私自身は孤立しているのではなく、だれかれとの関係の中で存在しているのだから。
思いもよらぬところで、
だれかに迷惑を及ぼしたたり、不快な思いをさせたり、怒らせたりする結果もなきにしもあらず、なのだから。
私自身の名誉なんて、「なんぼのもんよ」と思っている。
しかし、私以外の人については、それぞれの思いにおいての名誉観があるのだし、人の心は傷つきやすくできていることを思うと、ストレートに事実を口にはできない。
そうなると、抽象的に、普遍化させた表現や、たとえ話で、語ることになる。
そんなことを思い巡らしながらも、全体として、共感をもって読みました。
私の思いなどを集約しまとめて書いてくださっているとき、信仰の友がここにいる!とうれしくなります。
魂の分かち合いができている感動があります。
投稿: 緑のオリーブ | 2009年11月13日 (金) 10時13分
sebaさんこんにちは。
先日はお祈りどうもありがとうございました。お礼も書けずに、sebaさんのコメントに只々涙が流れるばかりでした。
みことばや、お祈りを通してイエス様が私を癒してくださったと、まさに生きて働いてくださったことを感謝します。
発達障害、だいぶ最近は耳にすることが増えましたが長男のころはまったく自分とは無関係の話だと思っていました。ただ毎日続く地獄のような日々に、自分の人生を呪いながら生きてきました。
そのころはまだ信仰がありませんでした。
他人の言葉、自己嫌悪、どうやって過ごしてきたのかあまり覚えていません。
でも、本当に確かなことは二人の子供達のおかげで、新しい価値観に気付くことが出来ましたし、私自身の障害に目を向けることが出来た、それは辛くもホッとすることでもあります。人生の要所要所で主が私を導いてくださったんだと、今は心から信じています。
私はまだ通院しながら自分を見つめています。無理しないこと、これって以外と難しいです。でもどんなときもイエス様の愛は変わらない、これだけはしっかりと離さないで行こうと思います。
sebaさんありがとうございました。sebaさんの関わられている親の会にも主の祝福がありますように。
投稿: ももこ | 2009年11月13日 (金) 13時59分
クリスチャンは本来、イエス様に赦された者として、自分の弱さも受け入れ、安心して人にも出していけるのかもしれません。が、イエス様に赦されることを受け取るということが、なかなかできないと難しいのかもしれません。
イエス様の赦しの恵みが、教会に、クリスチャンの中に豊かに現されますように。
イエス様の赦しにみんな安心して、弱さを出し合えますように。
投稿: seba | 2009年11月14日 (土) 00時18分
発達障害の親の会の中で、私は当事者のお母さんたちから、生きること、子育てについてなど、いつもたくさんのことを教えられています。
ももこさんもお子さんのことで、とてもご苦労されたんだなあと思います。育てにくい苦労よりも、まわりから理解されない苦労のつらさ・・・大きいですよね。
それでも、今、ご自身のことを含めて、受け入れ前向きにとらえられて、良かったですね。当事者ではないので、その苦労はすべてわからなくても、理解したいという私のような者もいますからね。
この前のときは、本当にももこさんのつらさを思いました。内側からくる自分への否定的な思いは、本当にその人にしかわからないような苦しみですね。
ももこさんにイエス様がいつも「あなたのすべてを赦し、受け入れているよ。包んでいるよ。」と言ってくださっていることを、聖霊様によって受け入れられますように。少しずつでも、イエス様は癒してくださいます。この癒し主なるイエス様を信じていきましょうね。
親の会の祝福を祈ってくれて、ありがとうございます。理解されにくい人たちに理解が与えられますように。
投稿: seba | 2009年11月14日 (土) 00時48分