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2009年11月12日 (木)

“イエス様の栄光と人の解放”

イエス様をあがめることは、私たちの解放につながることを思います。

『また私は見た。私は、御座と生き物と長老たちとの回りに、多くの御使いたちの声を聞いた。その数は万の幾万倍、千の幾千倍であった。彼らは大声で言った。

「ほふられた小羊は、力と、富と、知恵と、勢いと、誉れと、栄光と、賛美を受けるにふさわしい方です。」』新約聖書 黙示録5:11~12

私は、イエス様に出会う前は、自己像が低く、私は駄目な人間だと思っていた。

そういうことがどんな風に外側に出るかは、人それぞれだろうが、私は“自己実現”を目指すことによって、それをカバーしたいと考えていた。

自己顕示欲が強かったと思うし、自分を何かをもって表さないと、ちっぽけな自分の存在は明らかにならない位に思っていた。

が、その思いとはうらはらに何をやっても挫折に至った。

イエス様に出会ってからも、自己実現という言葉こそ私の中になくなったが、伝道したり、神様の働きをすることによって、自分を表したい欲求は根強く残っていたと思う。

私の信仰生活の訓練で、私は半強制的に与えられた状況を通して、“自分を捨てる作業”をさせられてきた気がする。

気がついてみたら、心の癒しと共に自分を表れしたいという欲求はほとんどなくなっていた。

全くないかと言われたら、弱さの中で試されたら、眠って残っているものが出てくるかもしれない。

が、昔のその欲望に支配されていた自分を思うと、今は皆無に近いような状態であると思う。

代わりに湧いてくる願いは、「ただ神様、イエス様の栄光が表されますように。」という思いである。これは本来の自分には無かったものだから、神様から与えられたものだと思う。

前者の自己顕示欲が強かったときの私は、いつも、自分は成功したか、失敗したか、人にどう評価されるか、そのことが気になった。

今の私は、たとえ人前でかなりの失敗のような状況になったとしても、そのことが恥ずかしくもなんともない。

大切なことは、イエス様と共にいたかであって、自分が何かを上手くできたかではないから。

天国では、ただイエス様が誉めたたえられるお方として、賛美される。

そこには解放がある。自分の捕らわれからの解放がある。

地上では、私たちがイエス様を礼拝することは、自分を忘れてイエス様を誉めたたえることで自分の縛りからの解放となる。

してみると、自分の捕らわれから解放される生活とは、ただイエス様の栄光を願い求める生活なのだと思う。

イエス様をあがめるということは、強いられてしなければならないことではなく、本来あるべき姿であり、私たちが自分から解放される唯一の道なのではないかと思う。

私たちが心からイエス様をあがめていく礼拝生活がなされますように。

ただイエス様が栄光を受けられますように。

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