“愛に対する悔い改めの祈り”
愛に対して、神様から教えられたので、祈ります。
『また、たとい私が持っている物の全部を貧しい人たちに分け与え、また私のからだを焼かれるために渡しても、愛がなければ、何の役にも立ちません。』新約聖書 第1コリント13:3
天のお父さん、私たちを愛してくださることをありがとうございます。
私はすぐに、自分の本来の姿を忘れてしまう者です。
私が神様から愛されているのであって、私自身には人を愛する力はありません。
私は人を愛する者でありたいと願いつつ、私の中にそれより優先するものがあることを見ました。
主よ。赦してください。
私は悲しく思います。
愛がなければ、すべてはむなしい、何の役にすら立たないとあるのに、愛のない者です。
でも、考えてみれば、私たちがイエス様の愛に到達することは無理で、いつもその足りなさをイエス様の十字架で謝るものです。
あなたが大切なことを教えてくださり、ありがとうございます。
小さな者ですが、まだ知り得ないあなたの愛を少しずつ教えてもらい、あなたに応答する者、あなたにふさわしい関係にある者としてください。
イエス様のお名前によって祈ります。
アーメン。
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コメント
こんにちは。2度目のコメント投稿になります。
前回は、ご丁寧なお返事をありがとうございました。
「私が神様から愛されているのであって、私自身には人を愛する力はありません。」
これは、よく、クリスチャンが口にする言葉であると思います。
私も、よく、考えます。
ですが、もしも仮にでも、自分が本当に、愛そのものである神を知れていたら、100%実践することはそれは無理でも、愛する力が"ない"と言ってしまうのは、「自分は愛なる神を"知らない"」と自分で言ってしまっているような気がして、恐ろしくなります。
「私は愛のない者です。」という言葉は、「私は神のない者です。」と同じに聞こえ、私にはいつも恐ろしいほどに遠く悲しい言葉に聞こえてしまうのです。
もちろん、そうではないよと、おっしゃりたいことは、よくわかっているつもりです。
その上で、あえて、この機会に、疑問の声にしてみたいと思いました。
このような考えに、sebaさんはどのようにお感じになられますか。
私の考えすぎでしょうか。疑問視する必要はないことでしょうか。
「愛のない者」と悲しく言い切ってしまうのではなく、せめて、愛する力を育ててもらっている最中の者とか、愛する力の芽を、種を、植えてもらったばかりの者とか、そんな優しい言葉で聞くことができたらいいのにな、と、いつも何かのたびに思い感じます。
sebaさんお一人ではなく、ついついいつも口癖のように「自分は愛のない者です」と言ってしまわれるクリスチャンの皆様へ、いつも私が疑問に思っていることを、この機会をお借りして、書かせていただきました。
もしよろしければ、ご一考いただければ幸いです。
いつも、ありがとうございます。
投稿: つむぎ | 2009年7月12日 (日) 09時38分
こんにちは。昨日は体のメインテナンス(指圧・笑)で、ヘロヘロで、PCを開くこともせずの1日でしたが、たまたま指圧の先生との会話で〝人をとことん愛せる〟ことができる人ってすごい!と考えていましたので、今、ブログを見て〝愛〟だっ。
セバの書かれている内容とは質(?)が違うかもしれませんが・・・。
言い方が変かもしれないけれど、自分は〝愛される〟ことに感謝することばかりで、〝愛する〟ということに無頓着?とでもいうのか。
セバが書いているように、愛情の深さの裏返しに憎しみとなったりというようなものへの恐怖なのか、傷つくのが怖いからなのか。こんなところに自分のキャパの狭小さという弱さがあるのかなとも考えます。
投稿: ぼす | 2009年7月12日 (日) 11時49分
つむぎさんは、きっと、いつも、大切にしている友人に対して私はこれでいいのかと真剣に考えているんですよね。
「愛のない者」と言い切ることに対して悲しいと思う・・つむぎさんの”愛することの追求”しておられる生き様をみせられる感じです。
私の場合、日ごろ、自分は愛のない者と思わない、適度に人のために生きていると思っている者です。「私は愛がない」と感じさせられるのは、よほど、自分の姿を神様から見せられたときです。
人のために苦しみながら、真剣に愛を与えたいと取り組んでいる人に、「愛のない者」という言葉は、悲しすぎることを教えられました。
安易に「愛のない者」と言わず、育ててもらっている最中の者・・・と使えたらいいですね。
答えになっていないかもしれないですけど、「愛」の言葉の重みを教えられた感じです。ありがとうございます。
投稿: seba | 2009年7月12日 (日) 14時20分
”愛する”といってもいろいろあるのかもしれないですね。
聖書でも、”自分のしてもらいたいことを他の人にもする”から、イエス様のように”人のため命を捨てる愛”まで、様々あります。何をもって、人を愛しているか、みんな基準が違いますしね。
私は、日ごろ、人のために生きてる・・・くらいに思ってしまうんです。ボランテア精神豊富だし。そんな、私だから、神様から「本当に愛しているか」と突きつけられたのだと思います。
キリスト教は、内面追求が多いですが、ただ足りないと感じて責められるだけでなく、渇きに応え、満たされるところがすばらしいところです。
私は神様の特別な霊が注がれ、謙虚にさせられないと教えられないようなことを、ぼすは日ごろ、思うわけですから、神様の愛が注がれたら、それはたくさん注がれる・・・と思いますよ
『義に飢え渇いている者は幸いです。その人は満ち足りるからです。』マタイ5:6
ぼすのためにあるような、聖書の約束のことばを送ります
投稿: seba | 2009年7月12日 (日) 14時55分
sebaさん、ありがとうございます。
いえ。実は私は、"愛することの追求"どころか、受洗して9年も経った今年になってから、「自分はまだ、愛を知らない」=「自分はまだ、神を知れていない」という衝撃の事実に打ちのめされた者です。
なので、まずはもうただ黙って神に愛されてみるところから、精神的に生まれたての赤ん坊からやり直しの者なのです(苦笑)
それに気づかされてから、数ヵ月経ちますが、愛されるって、こんなにも幸せで嬉しくて尊くて感謝なことだったんだと、ほんと、こりゃあ全然わかってなかったわと感じることばかりで・・・人様のことなど言えるはずもなく、お恥ずかしいかぎりです。
皆さんのように、愛を神を知っている者に、そして人を愛せる者に、愛されてると感じさせてあげられる者に、神を伝えられる者に、なりたいですね。
これから神をきちんと知れたら、それができるようになっていけるはず、と、信じています。
この私こそ、やっと今からこれから、な者なのです(苦笑) でも、それがまたとても嬉しく感じている幸せな者なのです♪
投稿: つむぎ | 2009年7月13日 (月) 02時15分
神様に愛されていることを、経験され始めてよかったですね。
神様は、私たちの側には、愛されるにふさわしいものは何もないのに、イエス様のゆえに、一方的なあわれみで愛してくれているんですよね。
ただ、安心してたくさん、愛されてください。つむぎさんが言われるように、まず、神様から受けるところからですね。神様との楽しい日々、お祈りしています。
投稿: seba | 2009年7月13日 (月) 08時33分