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2009年7月12日 (日)

“自分の姿”

愛のない者だということを神様から教えられました。

『すると、ひとりのひとりがイエスのもとに来て言った。

「先生。永遠のいのちを得るためには、どんな良いことをしたらよいのでしょうか。」

イエスは彼に言われた。「なぜ、良いことについて、わたしに尋ねるのですか。良い方は、ひとりです。もし、いのちにはいりたいと思うなら、戒めを守りなさい。」…

この青年はイエスに言った。「そのようなことはみな、守っております。何かまだ欠けているのでしょうか。」』新約聖書 マタイの福音書19:16~22

昨日のブログで、「神は敵を愛する者に変えた」と書いた。

まだ、「愛するには至っていないよ。」と神様からのメッセージか、今日、悔い改めに導かれた。

神様の愛する思いが注がれると、いつも私の胸を熱くする。

そして、聖霊様が住まわるところは、この胸のところなんだなぁと思わされる。

今日、一時、私のからだ全身が、内側も外側も“愛される霊”に包まれ、浸された。私は愛されている者である至福を味わった。

そして、その霊は去った。私に残ったのは、私が、いかに人を愛せないものかという現実だけだった。神様が、人が愛せるようになったということを言ってはいけないと教えてくれた。

富める青年は、イエス様に問う。「永遠のいのちを得るためには、どんな良いことをしたらよいか。」

イエス様が「戒めを守りなさい。」と言うと、この青年は「皆、守っている。」と答える。

「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」も守っているといいきれる青年。

イエス様は、十戒の第10戒「むさぼってはならない」の部分を出し(あなたの持ち物を売り払い、貧しい人に与えよ。)、出来ていないことを指摘した。

青年は多くの財産を持っていたので、悲しんで去っていった。

私もまた、自分の本来の姿が見えないあわれなものである。

人を愛せる者になった…などと言いながら、人を愛することよりも、大切にしたい物があるのを見せられた。

イエス様は私たちを愛するために、いのちを捨てられた。イエス様だけが、戒めを守れたお方で、イエス様だけが、愛なるお方なのだ。

自分がイエス様に似てるかのごとく、勘違いをする愚かさを思った。

私は人を愛せない者として、イエス様の十字架の前にたち、「イエス様、ごめんなさい。」と謝る者である。

そして、あわれみによって、ただイエス様の愛をいただくものである。

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