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2009年7月11日 (土)

神は“敵を愛する者”に変えられた

自分の力ではできないが、私は“敵”を祈るものに変えられた話しです。

『「自分の隣人を愛し、自分の敵を憎め。」と言われたのを、あなたがたは聞いています。

しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。』新約聖書 マタイの福音書5:43.44

人間の愛情は、深ければ深いほど、それが変化したとき、その憎しみは深い恐ろしいものになる可能性を思う。

サスペンス物ではないが、殺意にすらなりうる。

私も過去扁で書いたが、若いとき、とても祈っていた好きな男性の人にふられたとき、自分の内側に湧いてくる恐ろしいものを見て、唖然とした経験がある。

そのときは、その人も神にある人だったので、「ひどいふりかたをしたことを本人に謝りなさい。」と神様から言われたらしく、私に謝ってきた。そのことを通して、私は自分の醜く、恐ろしいものを神様に赦して、癒してもらった経験がある。

聖書には“敵”を愛しなさいとある。“敵”と思える人を愛せる訳がない。

無理難題である。

人には不可能なことを神様はされるのだなぁと、今日、私はしみじみと思った。

私にとっての“敵”は、それが自分に苦痛を与えるものであるなら、目に見える教会の何者でもなかった。

25年間、私は教会の中にいながら、教会を裁き、批判してきた。

今、目に見える教会を愛しているか…その域には達していないと思う。

けれども、目に見えない“教会”(目にみえない大きな意味でのキリストのからだ)に対しては、神様の愛を感じる。

今日、ボランティアの帰り道、神様からの熱い愛情が私の胸に注がれ、自転車を降りて歩きながら、神様を賛美してきた。

ときに、その迫りは胸が痛くなるほどのイエス様の愛である。

そういえば、2か月前、この同じ道を胸が苦しくなるほどの聖霊様の悔い改めの霊に迫られ、悔い改めながら、自転車をおして歩いたなぁと思った。

目に見えない“教会”なんて、それまで考えたことも、祈ったこともないのに、突然、あの頃から私の関心事は、目に見えない“教会”であり、教会の外の人たちになった。

だから、私の内側に経験するイエス様の苦しいほどの迫ってくる愛情は、私個人に対するものというより、「わたしはキリストのからだを、一人一人をこのくらい愛している。」という神様からのメッセージになる。

私は25年間も教会を憎んで来たものである。恨んできたものである。

その私が、神様から教会に対する愛情を教えられ、祈るものとなるとはなぁ…私の中でも考えられないことを神様はされるのだなぁと思った。

人間の愛は憎悪になるが、神様の愛は、憎しみすら愛して止まなくさせるのだと思った。

20年前に、エレミヤ書のこのことばが、なぜか私に起こる約束のことばと信じていた。“敵”って誰?と思いつつ。

『必ずわたしはあなたを解き放って、しあわせにする。

必ずわたしは、わざわいの時、苦難の時に、敵があなたにとりなしを頼むようにする。』エレミヤ15:11

教会にとりなしを頼まれた訳ではないが、私にとって、自分のからだの一部であり、イエス様の一部だった“敵”であった“教会”を私は祈るものに、神様は変えられた。

神様のお名前だけをほめたたえます。

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コメント

こんにちは・・・。自分の敵・・・。それは私にとって自分の心かもしれません。昨年、自分では懸命に接し、愛情をもって慈しんできたと思っていた相手の存在に、傷つき苦しみ、いつしかそれが憎しみのような気持ちに変わり、心がずたずたになりました。そんな中、さらに高齢の母が怪我をして、救急車で運ばれて毎日洗濯や食事を作り、仕事の時間までに帰ってくるということが重なりました。どうしてこの苦しみの中で、時間的にも精神的にもつらいことが続くのだろうと、目に見えないものに対してさえ憎しみのような感情が湧いてきました。私を苦しみの底に落としたのは、私の娘・・・。葛藤の日々・・・。娘との話し合い・・・。関係する周囲の人たちとの話し合い・・。そこで気がついたこと・・・。娘への愛情は少しも変わっていなかったことと自分の心を冷静にみつめなっかた自分の愚かさでした。あえて大変な道を歩むことを選んだ娘に今は拍手を送りたい・・・。人生は遠回りをしてもそこから何かを見つけること、そして幸せをつかむこともできるのだと、娘から学びました。今は毎日のようにメールや電話で話をし、時には逆にしかられることもあります。娘は今、一人の母として、私の気持ちがわかるようになったそうです。この出来事から、私の母に対しての感謝もあらためて感じることができました。私の敵は私自身の弱さ、人を恨む愚かな心でしょうか。今はこの経験が起こるべきして起こった事、神様から何かを気づかされるためにおこったことと思えます。今はひたすら、遠く離れてがんばってる娘に幸多かれと祈る日々です。そしてこの子の母であることに感謝しています。
今日は久しぶりの休養・・・。台所の大掃除をして、布団を干して穏やかな週末です。このブログで浮いているであろう私にいつも返信をしてくれるセバに感謝しています。こうして言葉にすることで自分自身を見つめなおせる時間を頂きありがとうございます。

投稿: ミニマル | 2009年7月11日 (土) 09時40分

moon3こんばんは、ミニマル。

自分こそ自分の敵・・・深い言葉です。本当にそうかもしれません。

娘さんとは苦労がありながら、大事なことをキチンと確認できたのですね。良かったです。

ミニマルのように、自分も苦しみ、悲しみ、格闘しながら生きることこそ”人を愛する”生き方なのかもしれないと、心から思わされました。

投稿: seba | 2009年7月11日 (土) 21時11分

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