« 「信仰」という名の虐待・その2 | トップページ | わかりすぎることの苦痛 »

2008年11月16日 (日)

「信仰」という名の虐待・その3

マインド・コントロールを受けた友人の話しをします。

『主(神)は御霊です。主の御霊のあるところには自由があります。』第2コリント3:17

先に書いたカルト化した教会に通っていた友人がいる。とても真面目で、教会の熱心からこぼれないよう、必死についていったのだと思う。

あるとき、「引っ越ししたい。」と電話で話してきた。「引っ越しすればいいんじゃないの。」と言うと「神様からことばをもらわないと、みこころとわからないので引っ越しできない。」と言った。

その教会は、徹底して神様の声を聞き、そこに従うという指導をされていた。

それは一見、正しいようでもある。神様に聞いて、そこに従えたら、最短でことが進むのかもしれない。

みこころでなければ、行わない=正しいことのように思うが、何か違うんじゃないかと思った。

一つはみこころ=神様の願っている最善はいつも、すぐわかる訳ではないのではないか。すべてを益としてくれる神様にあっては、失敗の選択すら、益となり、訓練となるのではないかということ。

もうひとつは、みこころは、聖書の中にすでに書かれてあるということ。許しなさいとか、自分のしてもらいたいように、人にもしなさいとか書いてある。そして、弱い私たちはなかなか出来ないその中で、祈り、聖書に従えるよう変えられていくのではないか。

さらに、選択において、AかBの選択でみこころ?と言われるほうを選ばなかったらアウトなのか、罰が下るのか、神様はそんな了見のちっちゃい方なのか。神様にあってはAでもBでもない選択の道を用意してくれているかもしれないし、どっちを選んでも、神様に対する信頼や動機で選ぶなら、喜ばれるのでないか。

すでに、彼女はたくさんのマインド・コントロールの中で恐れを抱きながら、動けずに縛られていた。

神様とクリスチャンは人格的な交流の中で、親しくなり、神様を知るようになる。その交流も、「天の父ちゃん、聞いてくださいよ。」と、自分だけの秘密を話し、神様だけの秘密を明かしてくれる関係である。

聖書の中に真実があり、自由と安らぎの約束があるが、悪用して使われると、神様とは全く違うメッセージが伝わることもありうるということ。

人間が欲望から作った縛りや恐れに気がつき、そこから解かれますように。

Img_1210s

にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ

|

« 「信仰」という名の虐待・その2 | トップページ | わかりすぎることの苦痛 »

クリスチャン」カテゴリの記事

友人」カテゴリの記事

日記・コラム・つぶやき」カテゴリの記事

祈り」カテゴリの記事

聖書」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/519604/43132850

この記事へのトラックバック一覧です: 「信仰」という名の虐待・その3:

« 「信仰」という名の虐待・その2 | トップページ | わかりすぎることの苦痛 »