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2008年11月17日 (月)

わかりすぎることの苦痛

人に与えられてる、よくわかる部分とかがとても苦痛なことがありますが、視点を変えると特別な役立つ能力になるのかもしれません。

『だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。』新約聖書 ルカの福音書9:23

私の主人は耳がとても良い。遠くの人の声でも、小さな音でも良く聞こえる。だから便利かと思いきや、とても苦痛なことが多いらしい。たしかに、隣の家の犬が吠えまくっても、私は気にならないが、主人にはうるさくて仕方がないらしい。

人にはそれぞれ、何か特別に察知する能力とか、人より敏感なこととかあることがあるのかもしれない。

私の友人は、教会のゲストメッセンジャーの傲慢が見えるともう、話しが聞けないらしい。

昔の教会の友人は、相手の気持ちが凄くわかるらしく(テレパシー?)、心の内を察してしまうと、次に何をどう話してよいかわからなくなり、人と付き合うのに、極度に疲れると言っていた。

統計学からの見地と思うが、私のようなA型はとても周りに気を使い疲れる。誰かが、「今度生まれるなら、マイペース型B型になりたい!」とぼやいていた。

が、弱点は長所でもあり、人より何か理解してしまって苦痛な点は与えられた能力でもあり得る。

主人は耳が良く聞こえて、今まで良いことはなかったと言う。が、最近子どもの将棋大会に付き添って、遠くで対戦相手のおじいちゃんたちが「君は強いねぇ。」とか我が子に話しているのが良く聞こえて、やっと、この歳になって役にたったと笑っている。

一人一人の何か苦痛に思えることが、違う視点から見ると、与えてられている役立つ能力と思えたら、ちょっと、楽になるのではないかと思う。

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