2014年4月 9日 (水)

管理人からのお知らせ

ブログ投稿者の許可を受けて、管理人からのお知らせです。

ブログ投稿者は、少しでも人を元気付けたいと、貴重な時間と労力を割いて記事を投稿してきました。

ところが、そんなブログ投稿者の意志とコメントを寄せてくださる方々の気持ちを踏みにじるようなコメントが見受けられるようになりました。

管理人としては見過ごせない状況になったため、関連するコメントを削除を検討するとともに、暫くの間コメントの表示を承認制とします。

様子を見て収まれば元に戻しますが、収まらなければコメント欄のクローズやブログの閉鎖も考えなければなりません。

このブログを必要とされている方もいますので、心無い行為はやめてください。

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2012年7月25日 (水)

近況です。

こんばんは。皆さん、主にあって、元気に過ごされているでしょうか。


私は、毎朝、保育園の子どもたちと2時間関わる日々が続いています。


他の臨時職員の方たちの夏休みとかで、昼に4時間位、代わりに入る日もあります。


子どもたちがかわいくて、子どもたちからたくさんのイエス様の愛をもらっています。


朝、夜に子どもたちのことを思い、夢も見ます。


ブログがなかなか書けなくなって、頭の中が空っぽになってしまった感じです。


良いものを分かち合いたいとブログを続けてきましたが、しばらく、間隔があきそうです。


子どもたちを見ていると、私たちは誰もが愛されたいという思いを与えられて、神様に造られているのだなぁと思います。


小さな子どもたちは、小さくなって、甘えてきたり、くっついてきたり、話しかけてきたりします。


私もイエス様の前に小さな者とされ、小さな子どもたちと関わります。


すると、不思議と一歳の子どもとも、心通じて、子どもたちは言葉を越えた霊的な存在なんだなぁと思います。

皆さんのうちにイエス様の平安がありますように。


自分の割り当て地で、エリコ城を崩され(自我やプライド)、そこで耕し、神様の実を見させてもらう、祝福の地が、今の私には、子どもたちとの関わりかなぁと思います。


キリストのからだが十字架によって一つになるように、教会の外の人たちのための祈りは続きます。


が、ブログの間隔があくことをお詫びします。


また、ブログで、分かち合いができることを願っています。聖霊様が導いてくださいますように。


皆さんのうちに主の豊かな祝福が、イエス様の愛が現されますように。


近況まででした。

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2012年7月 8日 (日)

“天の故郷”

天の故郷について思いました。

『これらの人々はみな、信仰の人々として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるかにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり寄留者であることを告白していたのです。…


しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。


それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。事実、神は彼らのために都を用意しておられました。』新約聖書 ヘブル人への手紙11:13.16


人はどこを見ているかで、行動や結果の受け止め方が違ってくるのかもしれない。

競技をやって1位を取ることだけにすべてをかけていると、1位でないと、すべての反対のゼロになってしまったりする。

クリスチャンの目標は、この世の祝福を得ることではない。

永遠のいのちは、神様とイエス様を知ること…とあるように、主を御霊によってその計りしれない大きさを教えられることでもある。


私たち自身についての希望は、御霊にあって栄光から栄光へとキリストに似るようにされていくことでもある。


そして、この世で終わらないのが、イエス様のいのちに生かされている私たちの生き方である。

私たちがやがてたどり着く、天の故郷、そこには悲しみも苦しみもなく、イエス様の栄光が満ちて、賛美があふれている場所である。


アブラハムも天の故郷を待ち望み、寄留者のごとく歩んだ。

与えられているものは感謝しても、にぎらないこと、あるものもないかのように思うことも大事と思うようになってきた。

私たちがこの世の財産や荷物やこだわりや宝物を少なくするほどに、天にある故郷への希望がさらに大きくなっていくのだろう。

主の用意してくださっているすばらしい故郷を感謝します。

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2012年7月 1日 (日)

“主を私の喜びとする”

何のために自分は生かされているのか…愛され、愛するためだというシンプルなことが見えてきた感じです。

『もし、あなたが安息日に出歩くことをやめ、わたしの聖日に自分の好むことをせず、安息日を「喜びの日」と呼び、主の聖日を「はえある日」と呼び、これを尊んで旅をせず、自分の好むことを求めず、むだ口を慎むなら、そのとき、あなたは主を喜びとしよう。


「わたしはあなたに地の高い所を踏み行かせ、あなたの父ヤコブのゆずりの地であなたを養う。」と主の御口が語られたからである。』旧約聖書 イザヤ書58:13.14


最近、20年来付き合ってきた友人と久々に会って、物の少ない部屋を見て、「彼女は何もなくても、真実の愛を無意識に求めて今に至っているんだなぁ。」と思った。

そんな彼女の深い苦悩に長年気がつかずにいた自分を思わされた。


人への理解や気づきは、自分の変化とも関係しているかもしれない。

私は今から3年前、断捨離という、家の物、自分の物を片付けるのにはまった。

物とともに、お金の管理や時間のあり方も見直した。

自分に無駄なものをはぶくというよりは、限られた時間をどう過ごし、使いたいか…考えた。

私の中に、いつか誰かにイエス様を伝えたいと思って、まんぜんと会っていた会や人、飲み会などは行かなくなった。

今、関わらせてもらっている出会いを大切にしようと思った。

今回、保育園の時間短縮の件で、今、子どもたちと関われることはどんなに貴重で大事なことかと思わされた。


「神様、霊的な事を増やしてほしい。」と祈ってきたが、こういうことが霊的なことかなぁと思った。

私は、人にイエス様を伝えたい動機で、漫然と多種多様なボランティアをし、自分から積極的に人とのつながりを求めてきた。

私の中では、何をやっていても思いは一つと思っていた。

最近、何のために生かされているか…若かった頃の苦悩の中で求めたテーマが頭をもたげる。

いろんなものを整理して、自分は、イエス様の愛を共有するために生かされているんだなぁと思った。

それは、イエス様を伝えて伝道したいという思い描いていてきたビジョンとは少し違った。

今、イエス様が私を愛してくれているように、私もこのままで関われる人とイエス様を分かち合えればいいのかなぁと思った。

きっと、私が死に、キリストが私の中で生きることに、キリストは人を生かしてくださるのだろう。

小さなものを取り除かれながら、主を私の喜びとするよう、私は少しずつ造り変えられいる感じがする。

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2012年6月28日 (木)

“復活のいのちの奇跡”

イエス様がくれた復活のいのちは、悩みをも喜びにあるところに変えてくれました。

『私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。

いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。』新約聖書 ガラテヤ人への手紙2:20


復活のいのちに生かされて、マイナスに見えたようなことの中に、キリストの奇跡が見える…そんなことを思った。

保育園で私の働く時間が、2時間から1時間になる。

収入も半分になるし、そのままだと3歳の子どもたちにも会えなくなるし、一番時間が短い私が、当然の如く、さらに短くされ、その私に対する扱いに葛藤した。

そこから、御霊にあって受け入れることができ、ボランティアで残りの一時間を入ることが決まった。

ここまで、1ヶ月位になり、最近はさらに違う心境に導かれている。

イエス様に出会っていなかった頃の私は、ひたすら孤独で、虚しさにつつまれ、誰かとともに生かされる喜びどころではなかった。

それが、子どもたちと関われることを何よりも喜んでいる。

これは、キリストとともに古い私に死に、キリストの復活のいのちが生きているからなのだなぁと思った。

復活のいのちのイエス様の奇跡がある。

もし、私が自分に死なされることがなかったならば、私は、自分だけが不当に扱われ、ぞんざいに扱われたことに目が奪われ、そこにある良いものを見れなかった。

昨日は、友人たちとランチしながら、我が家はかなりお金に切迫しているが、それでもフルに自分が働かなくて、なんとか出来ていることを思い感謝した。


保育園のバイト代も半分近くになるが、神様はそれで大丈夫とそのようにしてくれたのだろう。

今回のことでたくさんのことを学んだ。

私たちの悩みの大部分は、自分のプライドのゆえの悩みだったりすることが多いのかもなあと思った。

保育園のボランティア突入は7月になる。

私にはできなかったが、聖霊様によって、マイナスに見えるような情況の中に、喜んで子どもたちと関わるという最高のものを与えられたことを感謝した。

もっとも小さな者とされ、来年、もし仕事を切られるときは真っ先に私なのだろうなぁと思いながら、今年、この廻り合わせで出会わされた子どもたちと喜んで関われるようにしてくださったイエス様の復活のいのちの奇跡に感謝する日々である。

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2012年6月22日 (金)

“私の苦しみが誰かの慰めになることを信じて”

近況で思わされたことです。

『神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。こうして、私たちも、自分自身が神から受ける慰めによって、どのような苦しみの中にいる人をも慰めることができるのです。


それは、私たちにキリストの苦難があふれているように、慰めもまたキリストによってあふれているからです。』新約聖書 第2コリント人への手紙1:4.5


ブログを書く間隔が空いてしまい、読んでくださる方には申し訳なく思っている。

息子が朝早く出かけるわりに、遅く帰り、前のようになかなか決まった時間に一人静かになれない。

それだけでもないかもしれない。

試みの中、自尊心が取り扱われ、無くなった訳ではないが、何か空っぽになった感じで、何を書こうかという感じにもなる。

昨日は、ブログを読んでくれた友人から、「元気ですか」とメールをいただいた。

今日は、保育園を卒園した子どもと、通っている歯医者で再会した。

神様は私たちクリスチャン一人一人にキリストの各器官として、良いものを分け与えられた。

私は、理解され難い人たちや小さな人たちとともに生かされることによって、自分が活かされるのだなぁと痛感する。

かわいい子どもたちと関われる保育園では、自分が小さい者として扱われることを経験している。

そのときは苦しかったけれど、自分の自尊心を打ち砕かれて、小さな者にされなければ、本当の意味で、そのような人たちとともに生かされることは難しい。

私の自尊心の手術は、そのときは痛かったが、十字架の先の復活のいのちに生きるように導かれる。

日々、イエス様とともに死ぬことは、容易なことではないが、御霊が導いてくださる。キリストに似るまでに。


『もし私たちが苦しみに会うなら、それはあなたがたの慰めと救いのためです。』1:6

私自身は、人と関わるのが好き…以外に何も得意なことも、人の役に立ちそうなこともない気がするが、与えられたものの中に、復活のいのちで生かされるとき、大きな喜びになる。

私が自分に死に、キリストが生きるほどに、イエス様にある喜びの中にあれますようにと思った。

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2012年6月17日 (日)

“天のはしご”

ヤコブの暗闇にあらわれた主から思わされたことです。

『ある所に着いたとき、ちょうど日が沈んだので、そこで一夜を明かすことにした。彼はその所の石の一つを取り、それを枕にして、その場所で横になった。


そのうちに、彼は夢を見た。見よ。一つのはしごが地に向けて立てられている。


その頂きは天に届き、見よ、神の使いたちが、そのはしごを上り下りしている。』旧約聖書 創世記28:11.12


今日の礼拝はヤコブが家族と別れ、一人逃げて夜を迎えたこの箇所からだった。

ヤコブへのこの孤独と不安な中、祝福と見捨てないと約束されたこの箇所は、私もとても好きなところで、ブログでも何回も記事を書いている。

毎日、先を心配することなく、当たり前のように与えられた日常を過ごしていると、イエス様により頼むというより、この日常に頼りきってしまっている自分がいる。

家族も仕事もお金も住むところもなくなったヤコブは真っ暗な夜のように、心が不安と恐れに満ちていたに違いない。

この世の安定は、普通ならば誰もが望み、それこそが神様の祝福とも思ってしまうことがある。

神様はすべてを失ったヤコブに夢で現れた。


それは天からはしごが地に向けられてかけてあり、み使いたちが上り下りしている夢だった。

ここでいう“はしご”はイエス様のことらしい。

『まことに、まことに、あなたがたに告げます。天が開けて、神のみ使いたちが人の子の上を上り下りするのを、あなたがたはいまに見ます。』ヨハネ1:31とイエス様は言われた。

神様と私たちにはへただりがあり、つながることがなかったが、イエス様の十字架によるあがないによって、天から地に向かいはしごがかけられた。

罪ある私たちが、殺されることなく、滅ぼされることなく、偉大なる聖なる神様と話すことができるようになった。

そして、神様の私たちへの思いを知ることができた。

神様は、ヤコブに語られように、今日も私たちに語っておられる。


『あなたの子孫は地のちりのように多くなり…地上のすべての民族は、あなたとあなたの子孫によって祝福される。

見よ。わたしはあなたとともにあり、あなたがどこへ行っても、あなたを守り、あなたをこの地に連れ戻そう。


わたしは、あなたに約束したことを成し遂げるまで、決してあなたを捨てない。』創世記28:14.15

私たちに語られている主の約束は、変わることなく今もある。

この世のものを手放して、ただ主を見上げるときに、私たちの闇に、イエス様の光と希望は、現実となって現れるのだろう。

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2012年6月14日 (木)

“神様とこの世の二つには仕えられない”

この世にあることを土台とせずに、イエス様を土台として生かされますように。

『だれも、ふたりの主人に仕えることはできません。


一方を憎んで他方を愛したり、一方を重んじて他方を軽んじたりするからです。


あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません。』新約聖書 マタイの福音書6:24


世界中の中では、3食をしっかり食べられる裕福な国ばかりではない。

不況と言われながらも、日本は基本的には豊かな物質の国なのだと思う。

また、私たちは裸で生まれたのに、少しずつ、いろんな物も事も背負いこんで、シンプルだったのに、この世のしがらみにまみれていく。

イエス様だけを信じたいといいつつ、いろんなこの世にあるものも信じ、頼り、握り、生きているだろう自分を思った。

最近、いろんな小さな試みに会うが、私の中にあるものを探られている感じがする。

イエス様以外のものに頼り、握るから失望したり、揺らいだりするのだろう。

イエス様は、私たちがこの世にありながら、キリストにある城壁を造ってくださり、サタンの攻撃から私たちを守ってくださっている。

御霊にある揺らぐことのない平安が与えられている。

それなのに、揺らぐのは、キリストを土台としていないからなのだなぁと思った。

どうぞ、すでに与えられたイエス様にある神の国を喜び、その平和の中に生かされていけますように。

恵み深い天のお父さん、私たちは豊かな物質の国に住んでいます。


それもまた、あたり前かのように過ごしていますが、この世の豊かさに頼るのではなく、イエス様に頼る喜びと自由が与えられますように。

生活の中で、あまりにも当たり前のようにしながら、イエス様以外のものに頼る私を赦し、イエス様の十字架の血潮で洗いきよめてください。

聖霊様が私の祈りの宮を探り、イエス様の宮きよめのように、私の霊的土台にないものを取り除いてください。


私たちの宮をただ聖霊様が住まわれるところとしてくださり、この世にありながら、イエス様に仕え生かされる私たちとしてください。

御霊によるイエス様の深い愛とあわれみを感謝し、イエス様のみなによって祈ります。アーメン

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2012年6月 9日 (土)

“世に現れるイエス様の愛”

イエス様の愛が私たちを満たし、人々にも現されますように。

『神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。』新約聖書 ヨハネの福音書3:16


今日、道を歩いて祈りながら、ふと思った。


「イエス様を信じれば、あなたの罪がすべて赦されます。」と言っても、「イエス様を信じれば、天国に行けます。」と言っても、あまり興味を示さない人のほうが多いかもしれない。

けれども、誰もが本当に愛されることを求めていて、イエス様を信じることが真実の愛に満たされることを知っていたら、誰もが求めるのだろう。

イエス様は聖霊様の注ぎによってその愛を教えてくれるが、イエス様を知らない人たちは、クリスチャンがイエス様に一つとなって愛し合うところに、キリストの愛を見る。

私たちは自分の力で互いを受け入れ合うことはできないが、イエス様に一つ、御霊一つとなって、この世にはないキリストの愛を現す。

イエス様の私たちのために成してくださった愛は深すぎて、大きすぎて、私たちにはわからない。

イエス様が私のあがないをするためにどんな苦しい道を歩まれたか知ったら、それは苦しすぎて、私たちには耐えられないのかもしれない。

ただ御霊によって、イエス様を見上げ、イエス様の私の愛を感謝し、歩めますように。

同じ水を飲むように、御霊にあって、私たちが同じイエス様の愛に注がれて、互いに祈り、支えあい、まわりがイエス様にある救いと愛をはっきりと見て、イエス様にたどりつけますように。

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2012年6月 5日 (火)

“イエス様の愛の御跡を”

みじめな苦しい扱いを受けながら、御霊がさらに良いものを与えてくれました。

『このとき、ヨブは立ち上がり、その上着を引き裂き、頭をそり、地にひれ伏して礼拝し、そして言った。


「私は裸で母の胎から出て来た。また、裸で私はかしこに帰ろう。主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな。」


ヨブはこのようになっても罪を犯さず、神に愚痴をこぼさなかった。』旧約聖書 ヨブ記1:20〜22


私は最近、ここ10日くらいの間、ずっと一つのことで神様に取り扱われていた感じがした。

保育園の仕事が、2時間が1時間に短縮にされる予告を受け、喜んで入っていた3歳のお部屋の子どもたちと会えなくなることがどうしても、受け入れがたく、葛藤していた。

5日前に、「子どもたちと会えなくなるのは悲しいから、ボランティアでもいいから入りたいくらいだ。」と園長に言うと、意外にも「ボランティアは歓迎です。」と言われた。


私は背後に最善の神様がいて、事を起こしてくれているのだから、時間短縮を受け入れよう…と頭では思うけれども、がっくりした気持ちから脱することができずにいた。

そんな日々、不思議と聖霊様に満たされて、腹の底から何か違う力が働いている感じがあった。

私の中で、さらに自分の欲を捧げようとさせる神様なのかなぁと思った。

自分と何かの戦いの末、神様が決めたことだから子どもたちと会えなくても良い…くらいまでの気持ちになった。ボランティアもやりにくいかもしれないし、まわりも使いにくいだろうから、やめたほうがいい…くらいに思った。

すると、今日、「ボランティアに入ってもらうのは、申し訳ない感じだけれど、入ってもらってよいとお部屋の先生が言っていました。」と園長に言われた。

自分の中で、仕事をはずされる葛藤から抜けでて、受け入れたときにそんな風に言われた。

私は自分の楽しみに関しては、そんなに欲を持っていないと思っていた。が、その欲望は根が深く、聖霊様は産みの苦しみのように私にあるものを、一つ新しくしてくれたのかなぁと思う。

他のパートの人たちは、私より長い時間仕事をしているのに、私だけ、どうでもよいかのように扱われる日々にも葛藤した。

イエス様は私のために、小さくなり、さげずまれ、苦しめられ、命まで捨てられたのに、わずかなことで、私は捨てられなかったり、不当に扱われたようなことに葛藤した。

イエス様だけを喜びにしたら、変わらない喜びの中にあるのに…と思いつつ。

これからボランティアとして3歳クラスの子どもたちと見た目は変わることなく、平安の中で会い、関われることを感謝した。

ヨブのたくさんのものを失って、なお、主の御名をほめたたえたことのすごさを思う。

そんなヨブでさえ、サタンの試みの中、深い孤独や絶望が与えられて、本当に神様の現れを見た。

保育園は、子どもたちとの恵みを受けるときだが、パートとしては、いなくても良いような小さな扱いを受ける訓練の場所なのかなぁと思った。

イエス様を思い、御霊の取り扱いを受け、主の与えてくださった場所として、感謝していけるような気がした。


王なる神様であるイエス様に対するこの世のありえないみじめな取り扱いは、想像できないが、その御跡を歩くとき、そこには私のためのイエス様の愛だけがあることを感謝します。

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