2012年5月16日 (水)

“たましいを静めて復活のいのちに生きる”

私たちが御霊によって復活のいのちに生かされますように。

『神である主は、私に弟子の舌を与え、疲れた者をことばで励ますことを教え、朝ごとに、私を呼びさまし、私の耳を開かせて、私が弟子のように聞くようにされる。』旧約聖書 イザヤ書50:4


夕方買い物に行きながら思った。

つい、日曜日、月曜日は、サタンの試みのあとのイエス様の勝利が訪れて“復活のいのち”に生かされていることを御霊の圧倒的な現れのうちに体験した。


イエス様とともに生かされているだけで、どんなに素晴らしいかと思った。

それなのに、急に用事がたて込んで忙しくなると、ざわざわといろんなことが、思いを支配してしまう自分を見る。

私たちは自分の力でイエス様のいのちを体験することはできないが、また、御霊により頼む中に導かれるのだなぁと思った。

マザーテレサが5つの沈黙ということを言っている。

“沈黙は、祈りの美しい実です。


言葉の沈黙だけではなく、心の沈黙、目の沈黙、耳の沈黙、精神の沈黙、わたしが5つの沈黙と呼んでいる、これらの沈黙を身につけなくてはなりません。

さあ、あなたの5本の指を使って言ってみて、そして覚えてください。”(マザーテレサ日々のことばより)

人を知るとき、私たちは自分だけが話しをしては、決して人を知ることはできない。

黙って相手の話や思いに耳を傾ける。

神様の思い、イエス様の愛を御霊によって知ることもまた、沈黙から始まるのかもしれない。

私たちの様々な思いを静めて、主に祈り、主を知るいのちへと、導かれますように。

恵み深い天のお父さん、あなたのみなをあがめます。

私たちは弱い者です。


肉体は弱く、イエス様のゲッセマネの緊迫した祈りの隣でも寝てしまうような者です。

イエス様は私たちに「目をさまして祈っていなさい。」と言われました。

私たちにイエス様のあがないによって、すでに与えられた復活のいのちを、御霊によって豊かに生かすことができますように。

私たちの知識や感情や意思もイエス様の十字架に差し出して、ただ御霊によって、キリストが私たちのうちに生きてくださいますように。

今、サタンの試みにある人にはイエス様の勝利がありますから感謝します。

復活のいのちに満たしてください。

今、この世のわずらいにある人には、たましいを静めて、復活のいのちの、イエス様とともにいる喜びに満たしてください。

今、この世を楽しむ人には、神様とこの世と二つは選べないこと、二人の主人には仕えられないことを御霊によって教えてください。


神の国にあるイエス様の愛が何にも変えがたいものであることを私たちが御霊によって知りますように。

イエス様のみなによって祈ります。アーメン

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2012年5月13日 (日)

“復活のいのちが思わせるもの”

キリストにあるよみがえりのいのちを思いました。

『あなたがたは、バプテスマによってキリストとともに葬られ、また、キリストを死者の中からよみがえらせた神の力を信じる信仰によって、キリストとともによみがえられたのです。…


こういうわけで、もしあなたがたが、キリストとともによみがえらされたのなら、上にあるものを求めなさい。そこにはキリストが、神の右の座を占めておられます。


あなたがたは、地上のものを思わず、天にあるものを思いなさい。

あなたがたはすでに死んでおり、あなたがたのいのちは、キリストとともに、神のうちに隠されてあるからです。


私たちのいのちであるキリストが現れると、そのときあなたがたも、キリストとともに、栄光のうちに現れます。』新約聖書 コロサイ人への手紙2:12.3:1〜4


私たちはキリストとともに葬られ、死に、キリストとともによみがえり、復活のいのちを内側に宿している。

復活のいのちは、目には見えない。

それは、私たちが内側で体験していくことによって知り、また、外へと現される。

私は土曜日、保育園で失敗をしてしまい、子どもが転ぶ結果になった。

珍しく、深いところに責められる思いがあり、ずっとそこから気持ちが離れられなかった。

自分では離れることができない。聖霊様が復活のいのちに満たしてくださったとき、自分のしてしまったことも全部主の中に移されていった気がする。

アダムとエバが善悪の木の実を食べて依頼、私たちは、何が良いことで何が悪いことか、常々に判断するようになる。

その結果、自分で良かったと思うことには、誇りを感じ、だめな事をしたと思うことにはうちひしがれて、また責めを感じる。

どちらも善悪の木の実の結果による、自分が神様になっている姿なのだと思う。

復活のいのちに満たされていると、過去の縛りから解放され、将来の不安から解かれる。


復活のいのちは、今を生き、今をキリストとともに生きることができる。

目に見えるところ、目に見えないところに、神様の計らいがあり、キリストの愛がある。


御霊とともにあるところに真実な祈りがあり、御霊の祈りにキリストの愛がある。

私たちはキリストとともに死に、キリストとともによみがえった。


キリストを死者の中からよみがえらせた神様の力は、今、私たちに復活の力を与えて、地上のこと、人間的なことを思わずに、天にあるものを思わせてくださる。

神様がイエス様によっと与えてくださったこの復活の力を心から感謝します。

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2012年5月10日 (木)

“天の父に頼る安心”

「天のお父ちゃん」と神様の子どもとして頼り、安心をもらえますように。

『神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。


あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。


私たちは御霊によって、「アバ、父。」と呼びます。』新約聖書 ローマ人への手紙8:14.15


私は自分の子ども時代を思い返すと、そのとき、そのとき無心になって遊んでいたなぁと思う。

父が転勤族で、小学校を4回も変わったが、どの学校でも遊ぶ友だちを作り、学校が終わると良く遊んでいたのを思う。

小学4年のときに、父が病気になり、家庭はいっきに暗くなったが、それでも外で友だちと遊んでいた。

小さな自分には、父の病気やいろんなことを考える力はなく、目の前のときを安心して過ごしていたのだと思う。

自分が小さいと言うことは、自分が責任を持てずに、大きい人に頼ることで、守られていたのだと思う。

それがいつからか、私たちは大人になって自分の中で、あれこれ先のことを悩んだり、過去のことを後悔したりするようになる。

今、私は52歳で、日々歳を重ねているが、気持ちは自分がどんどん、あの子ども時代のように戻っているなあと感じる。

私には先のことはわからず、過去のことも赦しの中にあり、すべてを受けとめてくれる父なる神様の子どもとして安心して、今を過ごすことができる。

クリスチャンになったとたんに、私たちは立派なクリスチャンであろうと思うかもしれないが、それは無理な話しである。

イエス様のあがないによって、霊がオギャアと生まれたら、泣いたり、わめいたりしながら、天のお父さんの腕の中で、何をしても、受け入れられている安心感を育てる。

子どもたちを見ていると、一歳児と二歳児と三歳児とか、まったく違う。

たった一年でこんなに違うのかと、子どもの成長を与えてくださる主をほめたたえる。

私たちも父なる神様にあって、成長段階もある。

が、互いに御霊によって支えられ、受け入れられながら、神様の愛情を、イエス様の愛を受けて、少しずつ成長させてもらう。

私たちは神様の子どもである。私たちが大きくなると、神様に頼らずに自分に頼る。

私たちは神様の小さな子どもで、天のお父さんが守ってくださる安心感にあるならば、やがて、少しずつキリストの苦難を分かち合うようになっても、変わらない安心感の中にあるほどに成長していくのだろうと思う。

霊的な子ども時代も神様との信頼関係を体験しながら、育てられますように。

いつも、「天のお父ちゃん」と呼んで、天のお父ちゃんに頼ることがどんなに守りであるか体験していけますように。

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2012年5月 9日 (水)

“イエス様の呼びかけ”

イエス様は私たち一人一人の名前を呼びかけてくださる方です。

『彼は、イエスがどんな方か見ようとしたが、背が低かったので、群衆のために見ることができなかった。


それで、イエスを見るために、前方に走り出て、いちじく桑の木の登った。ちょうどイエスがそこを通り過ぎようとしておられたからである。


イエスは、ちょうどそこに来られて、上を見上げて彼に言われた。

「ザアカイ。急いで降りて来なさい。きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから。」


ザアカイは、急いで降りて来て、そして大喜びでイエスを迎えた。』新約聖書 ルカの福音書19:3〜6


この前、私は銀行で、息子が小学生のときに良く遊んだお友だちのお母さんとバッタリ会った。

少しお互いの近況を話し、彼女から別れぎわに、「Yくんによろしく伝えてね。」と言われた。

私はというと、彼女の名字すら思い出せない状態で、その息子さんの名前も出てこない。


それで、「ありがとう。」としか言えず、「そちらの○○くんにもよろしく。」とは言えなかった。

私のようなどんどん度忘れするのは仕方ないと自分に言い聞かせながらも、名前は大切である。

私は、今、保育園の短い時間に、1歳と、2歳と、3歳の子どもたちに関わる。

3歳の子どもたちは、自分のことを名前で言うので、一週間で皆の名前を覚えられた。

1歳の子どもは、あまりしゃべらないので、なかなか名前が覚えられない。

4、5歳の子どもたちは声をかけてきてくれるし、「何先生?」と聞いて来てくれる。

が、名前を知っている子どもはわずかで、「おはよう、○○ちゃん、○○くん」と言えない。

ザアカイはうわさのイエス様を人目見たいと願った。が、イエス様はザアカイの名前を知っていて、ザアカイに呼びかけた。

イエス様が知っていたのはザアカイの名前だけではなく、その心の内までご存知で、彼の家に泊まると言われた。

イエス様は、私たち一人一人の名前を知って、心も知って、名前で呼んでくださる。

イエス様はザアカイの家に泊まられ、ときをともに過ごしたように、日々私たちと親しく交わりたいと願っておられる。

イザヤ書62章2節には、神様がシオンのために行動するとき、“あなたは主の口が名づける新しい名で呼ばれよう。”とある。

神様がつけてくださる私にふさわしい、愛に満ちた名前で呼ばれる。

保育園で、毎日、毎日、一人ずつ覚えた名前をノートに書いて、覚える名前を増やしている私だが、イエス様が呼びかけてくれているように、全員の名前が覚えられ、やさしく名前を呼んであいさつができたらいいなぁと思う近頃である。

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2012年5月 8日 (火)

“御霊によって神様を知る”

神様を知る知恵と啓示の御霊が与えられますように。

『どうか、私たちの主イエス・キリストの神、すなわち栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を、あなたがたに与えてくださいますように。』新約聖書 エペソ人への手紙1:17


天地を造られ、今も歴史の中で働き、私たちを愛し導いてくださる神様は大きくて計り知れない。

ある者は、ゾウの鼻を触ってゾウだと言い、また、ある者は、足を触ってゾウだと言い、またある者は、シッポを触ってゾウだと言う。

どれも正しくもあり、また一部でしかない。


私たちも神様を知り、これぞ神様と言ったとしても、それはほんの小さな一部でしかない。

私たちの人間の小さな頭で、神様のすべてがわかる訳がなく、私たちの想像を越えて、神様は偉大な方である。


神様はあわれみ深く、私たちにイエス様のあがないによって御霊を与えて、神様を知ることができるようにしてくださった。

みことばを備えてくださったのも、神様のあわれみで、それでも、それで私たちがすべてを知り尽くすことはできない。

多くのことは隠されている。

しかし、私たちがへりくだり、主の霊に満たされたとき、主は私たちに神様の知恵と啓示の御霊によって、教え、現してくださる。

ヨブは、長い間、サタンの試みに会い、試され、苦しみ、その中で神様を見出す。

ヨブ記42:5では、ヨブはこのように告白する。

『私はあなたのうわさを耳で聞いていました。しかし、今、この目であなたを見ました。


それで私は自分をさげすみ、ちりと灰の中で悔い改めます。』

私たちが圧倒的な神様の現われを体験するとき、私たちに起こることは、へりくだりと悔い改めなのだと思う。


私たちが「神様はこんな方だ。」と話しをしているうちは、私たちは神様のうわさを聞いている程度のことなのかもしれない。

パウロは、エペソの教会のために祈り、『神様が神様を知るための知恵と啓示の御霊を、あなたがたに与えてくださるように。』と祈った。

それは、今、そのまま、私たちの祈りになる。

永遠のいのちとは、神様とイエス様を知ることであり、私たち御霊与えられているクリスチャンが生かされているのは、素晴らしい神様とイエス様を知るようになるためでもある。

どうぞ、神様を知るための知恵と啓示の御霊が、私たちに豊かに与えられますように。

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2012年5月 6日 (日)

“ノアたちの体験した救い”

水によるプテスマの奥義を、ノアのところから思い、感謝しました。

『キリストも一度罪のために死なれました。正しい方が悪い人々の身代わりとなったのです。…その霊において、キリストは捕らわれの霊たちのところに行ってみことばを宣べられたのです。


昔、ノアの時代に、箱舟(はこぶね)が造られている間、神が忍耐して待っておられたとき、従わなかった霊たちのことです。


わずか8人の人々が、この箱舟の中で、水を通って救われたのです。


そのことは、今あなたがたを救うバプテスマをあらかじめ示した型なのです。


バプテスマは肉体の汚れを取り除くものではなく、正しい良心の神への誓いであり、イエス・キリストの復活によるものです。』新約聖書 第1ペテロの手紙3:18〜21


旧約聖書で水が出てくると、バプテスマと関係しているときがある。

モーセたちが海が二つに別れて、乾いた地を歩いて、出エジプトしたところもバプテスマとある。(第1コリント10:2)

モーセたちは、主によって海の真ん中の乾いた地を渡ったが、追いかけてきたエジプト人たちは、同じようにして渡ろうとして、飲み込まれた。

ノアは神様が言われる通りに箱舟を造り、それに乗って、大洪水から救われた。

しかし、さばきと救いを信じなかった人々は大洪水で死んだ。

ノアもモーセたちも、水を通って救われた。


それは、今、私たちを救うイエス様によるバプテスマをあらかじめ示した型であるとある。

バプテスマは肉体の汚れを取り除くものではない。

汚れを取り除いたのであれば、古い私たちがそのままできれいになることを意味する。

そうではなく、古い人にはイエス様の十字架とともに死んで、イエス様のよみがえりとともに復活の新しいいのちに生かされたのである。

そこには古き人は死んだのだから、その古き時代のものに影響をうける性質をおびない。


かつては、サタンの奴隷のもとにいたが、今はイエス様が造られた神の国の中にいる。

かつては、罪の報酬なる死に縛られていたが、そこに死んで、神様のいのちに生かされている。

私たちのうちには御霊が住み、主を喜び、主と歩む人生へと創造された。

あの箱舟によって大洪水から救われたノアたちは、生かして救いだしてくださった主に感謝した。

私たちはイエス・キリストという箱舟によって、裁きから救い出され、この世の霊から救いだされた。

目には見えないが、ノアの箱舟での救いが、モーセでの紅海を渡る救いが、私たちにも霊的に行われたのである。

ダイナミックな神様の働きと、その恵みを覚え、主を感謝します。

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2012年5月 5日 (土)

“私たちの心に刻まれたイエス様の愛”

石の板にではなく、私たちの心の板にイエス様の愛をきざんでくださった主に感謝します。

『見よ。その日が来る。…その日、わたしは、イスラエルの家とユダの家とに、新しい契約を結ぶ。


その契約は、わたしが彼らの先祖の手を握って、エジプトの国から連れ出した日に、彼らと結んだ契約のようではない。…


わたしはわたしの律法を彼らの中に置き、彼らの心にこれを書きしるす。


わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。』旧約聖書 エレミヤ書31:31〜34


神様がモーセを山に上らせて、石の板に10の戒めを書いた。

しかし、イスラエルの人々はそれを守ることはできなかった。

完全な律法の前には、ただ罪人であることを知るだけであった。

私は十戒を良く知らないときに、イエス様に出会う前に、自分はこの世の常識や規則も守る力のないものだなぁと思った。

正しいことを選んで、自分の意思ですることができる人はすごいなぁと思った。

教会は、クリスチャンは立派な人たちの集まりではない。

神様の前に自分が罪人だと知った、教えられた人たちの集まりだ。


私たちはかつては旧約時代のように、この世の規範に従うように言われてはできず、また強く働く良心が責められて、失望していた。


そんな私たちにイエス様は新しい血による契約をくださった。

石の板に戒めが書かかれて、そのとおりに従うようにされていたところから、イエス様の十字架の血潮によって、私たちの心の板に書かれた律法だった。

それは、イエス様が私たちを愛されたように、私たちも互いに愛し合いなさい…というものだった。

それは、外からの誰かの声ではなく、心の内から湧いて出てくるような願いと求めである。

イエス様の十字架のあがないを信じたときに、私たちに与えられた御霊は、イエス様の愛を私たちにふり注いでくださる。

そして、私たちは自らのわき出てくる思いの中で、主をあがめ、賛美し、誰にも強いられることなく、イエス様の願いが私の願いとなる。

私たちは外からの声や束縛から解放された。


どうぞ、私たちに与えられている御霊が、私たちを導いてくださり、イエス様の愛と自由の中でイエス様に喜んでついていく者と導かれますように。

今、石の十戒の板ではなく、御霊が私たちを教え、導いてくださることを感謝します。

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2012年5月 2日 (水)

“主にあるゆるがない計画”

私たちの計画ではなく、主の計画がなるようにと思います。

『人は心に計画を持つ。主はその舌に答えを下さる。


人は自分の行いがことごとく純粋だと思う。しかし主は人のたましいの値うちをはかられる。


あなたのしようとすることを主にゆだねよ。そうすれば、あなたの計画はゆるがない。』旧約聖書 箴言16:1〜3

私はクリスチャンになって長い間、自分が伝道して歩く姿を思い描いていた。

そして、そうなっていない現実に失望し、悲しみ、うちひしがれていた。

自分の願いは、イエス様を人々に伝えたい…ということで、それが私に与えられた賜物や使命だと信じてきた。


そういう思いが長い間、変わることなく私のうちにあるとしたならば、それは神様から与えられたものかもしれない。

けれども、どんな方法でイエス様のことを伝えるようになるかは、私の考えではなく、神様の方法による。

十戒に第二の戒めとして、『あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。』とある。(出エジプト20:4)

偶像というと、目に見える像というような気がするが、実は目に見えない偶像が多いのだと思う。

コロサイ3:5には、『このむさぼりが、そのまま偶像礼拝なのです。』とある。

神様のため…といいつつも、そこに隠された動機を神様だけは知っておられる。

私たちは神様の計り知れない力や不思議や働きを自分の力で知ることはできない。

私が良いと思ったことが神様の願いや計画と違っていることも多々ある。

御霊だけが、神様のご計画を知って導いてくださる。

神様のなさることはまた大きすぎて、私たちはそのほんの一部にすぎない。

私たちが何かをすべて知ったかのように思ったならば、私たちは本当の主を見失う。

私たちがただ主を知っていることのみを誇りとし、謙虚に歩むとき、神様は私たちを神様の一部として用いてくださる。

私がある時期に信仰の転換を迎え、変えられたことがある。

それは長い間、伝道や宣教のために神様に用いられたいビジョンに支えられていたが、そのビジョンを思い描くことを止めることだった。

そして、イエス様との関係を大事にし、日々御霊に生かされることを願うようになった。


私の中で、神様のために“〜をする”をする信仰から“イエス様と、御霊とともにある”関係に移された。

私の中に、イエス様を人々に知ってほしい願いは変わらずにあるが、それは主によってされることであり、私のうちにおられる御霊が私を導いてなさることである。

私たちにおられる聖霊様が、私たちの中でご自由に働き、イエス様のいのちが現されますよう祈ります。

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2012年4月28日 (土)

“牧者なるイエス様”

牧者なるイエス様が今日も私たちを養い導いてくださることを感謝します。

『まことに、神である主はこう仰せられる。見よ。わたしは自分でわたしの羊を捜し出し、これの世話をする。


牧者が昼間、散らされていた自分の羊の中にいて、その群れの世話をするように、わたしはわたしの羊を、雲と暗やみの日に散らされたすべての所から救い出して、世話をする。』旧約聖書 エゼキエル書34:11.12


私がイエス様に出会ったときは、喜びが溢れて、毎日賛美していた。

が、何年か教会生活をしていく中で、だんだんと教会生活が苦しくなってきた。

教会は7回変わった。


私の中で一番苦痛だったのは、律法的な牧師たちの礼拝メッセージだった。

礼拝が終わると、そのダメージを受け、ぐったりとなり、家に帰って寝込む日もあった。


最近クリスチャンの友人が、識別能力があったから、そのように苦しんだのではないか…と言っていた。

かつては誰に話しをしても、「なぜ、そんなに牧師のメッセージで苦しむのかわからない。」と人から言われた。

私はそんな教会の中の苦しみがあっても、御霊が忍耐して、私を捉え、導き続けてくださったのを思う。

教会の何かが苦痛で、静かに教会を去っていった人たちは、何か信仰が弱いように思われがちだが、識別能力が与えられているから、人間的な異質なものになじめなかったのかもしれない。

私の過去を振り返ると、教会に対する不満とつぶやきの日々だった。

それが良いことではないとわかっても、どうすることもできなかった。

そんな私をイエス様は御霊によって、この揺らぐことのない平安にまで導いてくださったのだなぁと思う。

今まで目に見えることに捕らわれていたが、いったん、御霊にある働きが見えてくると、御霊は私をどんどんと御霊の恵みにと変えてくださっているのを思う。

あのつぶやいていた日々にも、変わることなく愛なるイエス様が御霊によって愛を注ぎ、イエス様の奇跡を与えてくださっていたのだなぁと思える。

あの頃は、私の信仰生活はこのままどうなってしまうのかと思った。

イエス様は牧者となり、私たちを捜し出し、世話をしてくださる。


イエス様は散らされていた私たちをイエス様のもとに集めてくださり、暗やみから救い出して、世話をし、養ってくださる。

イエス様こそが私たちを牧する牧者、私たちを養い導いてくださる。

お一人お一人に与えられているイエス様の愛が御霊によって豊かに注がれているのを受け取り、牧者なるイエス様に安心して養われますように。

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2012年4月26日 (木)

“ただ神の霊によって”

燭台なる教会の再建を思いました。

『私はまた、彼に訪ねて言った。「燭台(しょくだい)の右左にある、この二本のオリーブの木は何ですか。」

私は再び尋ねて言った。「二本の金の管によって油をそそぎ出すこのオリーブの二本の枝は何ですか。」


すると彼は、私にこう言った。「あなたは、これらが何か知らないのか。」


私は言った。「主よ。知りません。」


彼は言った。「これらは、全地の主のそばに立つ、ふたりの油そそがれた者だ。」』旧約聖書 ゼカリヤ書4:11〜14


息子の通う高校はキリスト教の学校で、保護者会の集まりはだいたい礼拝堂で行われる。


中央の講壇の布には、燭台から木の枝が出ている絵がついている。何なのかなぁと思ったが、このゼカリヤの箇所だなぁと思った。

燭台の右左にある二本のオリーブの木は、総督ゼルバベルと大祭司ヨシュアのことと書かれている。

クロス王の勅令によりバビロンから帰還する4万2千人のリーダーとして二人は登場する。


ゼルバベルは行政の指導者、ヨシュアは宗教の指導者であった。

神殿再建にとりかかるも、周囲から妨害があり、16年進まない日々があった。そんな中で、預言者の励ましが成された…と注解にある。

旧約聖書の神殿の再建は、今、私たちのキリストのからだの再建と重なる。

七つの燭台なる完全な教会は、聖霊によって人々によって建てあげられる。

また、私たちのすべての導き手であり、大祭司なるイエス様によって成される。

み使いは、オリーブの木がついている燭台をゼカリヤに見せて言った。

「これは、ゼルバベルへの主のことばだ。『権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって。』と万軍の主は仰せられる。

大いなる山よ。おまえは何者だ。ゼルバベルの前で平地となれ。彼は、『恵みあれ。これに恵みあれ。』と叫びながら、かしら石を運び出そう。」(4:6.7)

神殿建築の困難の山は、建築者たちによってかしら石なるメシヤを神様の祝福の祈りのうちに神殿の中心に運んでこよう…というような意味なのだと思う。


私たちにすでに建てあげられた神の国、聖霊の神殿は整えられ、キリストのからだとして、さらに整えられる。


それは人間的な集団の力や権威によらず、個人の力によらず、ただ神の霊によって。

オリーブの木がついている燭台を思い、主がキリストのからだを建てあげてくださる約束を信じ、感謝します。

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