“幕屋の栄光”
幕屋なるイエス・キリストの栄光を思いました。
『幕屋を十枚の幕で造らなければならない。すなわち、寄り糸で織った亜麻布、青色、紫色、緋色の寄り糸で作り、巧みな細工でそれにケルビムを織り込まなければならない。
幕の長さは、おのおの28キュビト、幕の幅は、おのおの4キュビト、幕はみな同じ寸法とする。
その5枚の幕を互いにつなぎ合わせ、また他の5枚の幕も互いにつなぎ合わせなければならない。…
金の留め金50個を作り、その留め金で幕を互いにつなぎ合わせて一つの幕屋とする。』旧約聖書 出エジプト記26:1〜6
幕屋がイエス・キリストご自身を表すというので、今日は、聖書から幕屋のところを少し読んだ。
何を書いているかわからなくて、飛ばしてしまうようなところに、イエス様の深い真髄が書かれてあるのだなぁと思った。
幕屋の中はすべておおわれていて、外からは見えない。
たくさんの人たちが持ち寄って捧げて作った幕屋は、私たち一人一人のキリストのからだでもあると本にあった。
幕屋の幕が細かい規定の中で、つなぎ合わされて一つの幕屋になっているのは、キリストのからだのようだ。
私たちがキリストのからだの一部であるゆえんは何か。
それはただ主のあわれみによって、イエス様の十字架によってあがなわれた者、そして、至聖所に入り、神様と交わることができる者とされたことだけである。
幕屋の中が、罪のためのいけにえが捧げられ、きよめられ、パンをいただき、御霊に光照らされて、祈り、垂れ幕を入って、あがないのふたの前で神様と語らう者とされた。
幕屋にあるのは、ただ神様の一方的な備えの中に、あわれみをいただき、神様の栄光が現されるだけである。
そこには神様の規定に従い、神様に近づく。
そこには、人間の能力も見栄もプライドも努力も主張も何もない。
ただ神様の主権によって、神様のあわれみによって、神様の栄光が私たちの前にあるだけである。
私たちにとっての教会、キリストのからだ、キリストの幕屋は本来そんなところなんだなぁと思った。
私自身がキリストのからだの一部として、神様の栄光を現せなかったとするならば、それは、イエス様の幕屋に人間的なものを持ち込んではいけないのに、平気で勝手に持ち込んでいるからだろう。
イエス様の幕屋に私が持ち込めるものは、ただ一つだけ…いけにえなる罪の告白だけである。
すると御霊が私のたましいを洗いきよめてくださる。
そして、その御霊はみことばに光を当てて、悟りを与え、私の罪深さとイエス様の愛の深さを見せ、御霊の中で祈りを捧げ、神様に触れられるのだろう。
イエス様のためにといいながら、自分の欲を持ち込み、キリストの幕屋を汚すものを赦し、イエス様の血潮で洗いきよめてください。
罪を除く神の子羊なるイエス様だけが栄光をとられ、輝きますように。
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