“人に傷つかずに守られる方法”
自分の梁(はり)を除くことは、イエス様の赦しにすっぽり守られることだと思います。
『偽善者たち。まず自分の目から梁(はり)を取りのけなさい。
そうすればはっきり見えて、兄弟の目からも、ちりを取り除くことができます。』新約聖書 マタイの福音書6:5
私はこのことばから多くを教えられている。
偽善者たち…と呼びかけられ、自分にとってきついみことばのような感じがするが、この意味を深く理解すると自分をすべての人から守る、素晴らしい知恵のことばになる。
昨日のブログで書いた、過去に光があてられた出来事で、私は相手の心の奥まで寄り添えずに相手を怒らせてしまった。
なぜ私は寄り添えずに、一般論のような正しいことを言ったのか。
たぶん、その彼女が弱々しく悩んでいたのでなく、私は姑とは絶対に住まない…それが何が悪い…みたいな自分こそ正しいとする姿を私が受け入れられなかったからなのだと思う。
この場合の私の梁(ハリ=大きな罪)は自己義認する彼女を受け入れられない弱さだった。
その自分の弱さに気がつかずに接していたので、いつも私の心は彼女に反発して彼女の最も嫌がる正論を言ってしまった。
自分の梁となる弱さや不完全さは、相手を正しく見ることができない。
いわば、自分の罪の色のフィルターで相手を見ているのである。
そこから出てくる行動はやはり自己中心になる。
私が、彼女の何が受け入れられないか知り、それを弱さとしてイエス様の十字架につけていれば、きっと彼女の内面が真実にはっきりと見えてきたのだろう。
そして、自分が痛むことなく相手を痛めることもなく相手のために祈れたのだろうと思う。
私たちが人間関係で傷ついたり、傷つけたりするのは、かくも私たちが、皆、不完全だからである。
だから、誰一人としてイエス様の前に、「私が正しいです」とは立てないのである。
そして、自分のその不完全さが、そのままでは傷のつけあいになる。
たとえ、相手が私を責めても、私が自分の弱さや不完全さをイエス様に告白し、赦しを受けとるなら、傷んでも、相手をさばく気持にはならない。祈る気持になるだろう。
それこそが、赦された者のイエス様にある勝利の姿である。
長年、人を裁くことで自分を守ってきた私にとって、どんなに責められても、人を裁かないことは祈りにつながり平安につながることを知った。それはイエス様とともにいれるときであり、イエス様の慰めと愛を体験できるときであった。
人間関係において、どんなに辛くとも、そこにイエス様に自分が赦してもらう分を見つけることは、そこがイエス様の赦しの平安の支配するところとなる。
自分の罪の分、自分の責任の分を見つけることこそが、裁きあいの応酬の中、イエス様の平安のシェルターで相手のために祈れるときとなるのである。
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