2012年2月14日 (火)

“幕屋の栄光”

幕屋なるイエス・キリストの栄光を思いました。

『幕屋を十枚の幕で造らなければならない。すなわち、寄り糸で織った亜麻布、青色、紫色、緋色の寄り糸で作り、巧みな細工でそれにケルビムを織り込まなければならない。


幕の長さは、おのおの28キュビト、幕の幅は、おのおの4キュビト、幕はみな同じ寸法とする。


その5枚の幕を互いにつなぎ合わせ、また他の5枚の幕も互いにつなぎ合わせなければならない。…


金の留め金50個を作り、その留め金で幕を互いにつなぎ合わせて一つの幕屋とする。』旧約聖書 出エジプト記26:1〜6


幕屋がイエス・キリストご自身を表すというので、今日は、聖書から幕屋のところを少し読んだ。

何を書いているかわからなくて、飛ばしてしまうようなところに、イエス様の深い真髄が書かれてあるのだなぁと思った。

幕屋の中はすべておおわれていて、外からは見えない。

たくさんの人たちが持ち寄って捧げて作った幕屋は、私たち一人一人のキリストのからだでもあると本にあった。

幕屋の幕が細かい規定の中で、つなぎ合わされて一つの幕屋になっているのは、キリストのからだのようだ。

私たちがキリストのからだの一部であるゆえんは何か。

それはただ主のあわれみによって、イエス様の十字架によってあがなわれた者、そして、至聖所に入り、神様と交わることができる者とされたことだけである。

幕屋の中が、罪のためのいけにえが捧げられ、きよめられ、パンをいただき、御霊に光照らされて、祈り、垂れ幕を入って、あがないのふたの前で神様と語らう者とされた。

幕屋にあるのは、ただ神様の一方的な備えの中に、あわれみをいただき、神様の栄光が現されるだけである。

そこには神様の規定に従い、神様に近づく。


そこには、人間の能力も見栄もプライドも努力も主張も何もない。


ただ神様の主権によって、神様のあわれみによって、神様の栄光が私たちの前にあるだけである。

私たちにとっての教会、キリストのからだ、キリストの幕屋は本来そんなところなんだなぁと思った。

私自身がキリストのからだの一部として、神様の栄光を現せなかったとするならば、それは、イエス様の幕屋に人間的なものを持ち込んではいけないのに、平気で勝手に持ち込んでいるからだろう。

イエス様の幕屋に私が持ち込めるものは、ただ一つだけ…いけにえなる罪の告白だけである。

すると御霊が私のたましいを洗いきよめてくださる。

そして、その御霊はみことばに光を当てて、悟りを与え、私の罪深さとイエス様の愛の深さを見せ、御霊の中で祈りを捧げ、神様に触れられるのだろう。

イエス様のためにといいながら、自分の欲を持ち込み、キリストの幕屋を汚すものを赦し、イエス様の血潮で洗いきよめてください。

罪を除く神の子羊なるイエス様だけが栄光をとられ、輝きますように。

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2012年2月13日 (月)

“今こそ礼拝の時”

昨日にひき続き、イエス様の幕屋を通して、礼拝する祝福を思いました。

『しかし、真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。


今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。


神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。』新約聖書 ヨハネの福音書4:23.24


旧約の時代、神様はモーセを通して幕屋を作らせた。

神様は正しく聖く、私たちの汚れの中には住むことができないお方であったが、幕屋を通して、神様がおられるところに私たち人間が近づくことができるようにされた。

昨日読んだ本「ヨハネの福音書の謎」(平野耕一師)を通して、この幕屋こそがイエス・キリストを表していることを教えられた。

青銅の祭壇を通していけにえが捧げられ、罪の赦しが行われる。

イエス様にあっては、私たちのイエス様を信じる信仰の告白によって、罪が赦される。

本書には『子羊を殺したのはまさしく自分であると自覚した人だけが赦される』とある。


罪がないと思う者は、いけにえを携えて、幕屋には来ない。

青銅の洗盤は、水が関係し、イエス様を信じて告白した人には、内側から聖霊が与えられる。

本書では『神様を礼拝する生活で急激な変化がもたらされる。』とあり、それは、水がぶどう酒に変わる質的変化である。

そこから聖所に入るのであるが、そこは信仰の維持のために必要な所だとある。まず、供えのパン。

イエス様は『わたしはいのちのパンです』と言われたが、日々食べ続けないと、霊的いのちは保たれない。

隣においてある黄金の燭台は、真っ暗な中で、みことばのパンを照らし、罪と十字架の救いを見せ、祈りの香が天に上るのを見せる。


聖霊の光は、私たちにイエス様の希望を見せてくださる。

香の壇では、祈りの香がたかれ、朝に夕に祈る人にはキリストのかおりがつく。

垂れ幕は、神聖なる神様を現し、私たちはその先に進めないが、イエス様の十字架によって、あがないが完了し、至聖所の垂れ幕を裂いてくれた。

至聖所…神様が臨在するところには入ることが許されなかったが、イエス様が道となり、真理となり、いのちとなって、神様の臨在するところに導いてくださる。

神様を見たならば、死ぬしかない私たちは、イエス様のあわれみでおおわれ、神様と交わり、親しみ、喜ぶことができる。

これが、礼拝の(神様と交わる)喜びであり、幸せだとある。

昨日と繰り返しになってしまったが、罪の赦しも、御霊も、みことばも、聖霊の悟りも、祈りも、神様の臨在も、あわれみも、礼拝も…すべてがただイエス様によって与えたものばかりである。

礼拝、神様のために生かされる幸せ、喜び、解放、自由はイエス様の犠牲の愛によって与えられた。

イエス様の幕屋によって与えられたものを大切に感謝し、礼拝する人生でありたいと思った。

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2012年2月12日 (日)

“私たちの間に幕屋を張られたイエス様”

幕屋が礼拝を現すという本に教えられました。

『ことばは神となって、私たちの間に住まわれた。


父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。


この方は恵みとまことに満ちておられた。』新約聖書 ヨハネの福音書1:14


今日、平野耕一師の「ヨハネ福音書の謎」(プリズム社)という本を読んだ。とても教えられた。

ヨハネは、イエス様に愛された弟子であったが、他の福音書より60年も後に書かれた。

ヨハネの福音書には、神を現すイエス様のことが書かれてあり、他の福音書と書き方が違っている。

イエス・キリストとモーセの時代の幕屋が関係していると著者は言う。

ヨハネ1:14は原語から直訳的に翻訳した英語の聖書で読むと、次のようになる。

「神はともにおられたロゴスは私たちの間に幕屋を張られた。」

モーセの時代、幕屋は“あかしの幕屋”と呼ばれ、生きて働かれる神がイスラエルの民とともにおられることを幕屋はあかししていた。

幕屋の構造は、庭の門をくぐって庭に入ると青銅の祭壇がある。次に青銅の洗盤。聖所では、供えのパン、黄金の燭台、香の壇、垂れ幕、至聖所の中のあかしの箱。

これが私たちがイエス様にあって神様を礼拝する型となっていると書かれてある。

祭壇は、罪を意識した人がいけにえを持ってきて、自分で動物の命を断つ。

加害者だけの赦しが行われる。バプテスマのヨハネは『見よ。世の罪を取り除く神の子羊』とイエス様を言われた。

洗盤はカナの婚礼で、イエス様が水をぶとう酒に変えたように、イエス様のきよめは、私たちを全く質の違うものに変える新生体験を与える。

パンはイエス様のいのちのパン。

燭台は光。ここで、祭壇で自分の罪のためにいけにえの命を断つほどの罪人の自分と、その赦しと両方を照らす。

聖霊だけが罪とイエス様の赦しと両方を見せてくれる。

香は祈り。祈りは、神様と私たちをつなぐ管である。

垂れ幕は、聖所と至聖所の仕切り。至聖所には年一回、選ばれた大祭司以外入ることができなかった。

だから、務めで入る大祭司の足には鈴がついていて、ロープを巻いた。もし、死んでしまったりしたら、ロープで引っ張るようになっていた。

しかし、イエス様の十字架によって、この幕屋は、上から下まで真っ二つに避けた。

神様に近づくことのできない仕切りをイエス様が取り除いてくださった。

至聖所には契約の箱が入っていた。その中には、モーセの十戒の石の板とマナとアロンの杖が入っていた。

この3つは神様を表すもの。律法とマナと神様の権威を表すアロンの杖。

その上には、あがないのふたがかぶせてある。

中を見てしまうと、正しい聖なる神様を見てしまうと、私たちは死ぬしかないような者であるが、そのふたによって、おおわれていることは神様のあわれみ。

私たちは神様の前に焼き尽くされるような者であるが、イエス様のあがないによって、おおわれている。

ヨハネの福音書をそれにそって書いたと著者は言っているのだろう。

私は旧約聖書が改めて、イエス様の奥義を深く具体的に解き明かしてくれているのだなぁと思い、主に感謝した。

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2012年2月11日 (土)

“神様を愛するとは”

神様を愛する…について思いました。

『「先生。律法の中で、たいせつな戒めはどれですか。」


そこで、イエスは彼に言われた。「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』


これがたいせつな第一の戒めです。


『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。


律法全体と預言者とが、この二つの戒めにかかっているのです。」』新約聖書 マタイの福音書22:36〜40


“神様を愛するとはどういうことか”について聞かれた。

それに対してある友人は、次のように答えた。

「神様を愛するとは神様を知ることです。

神様は霊だから霊によってのみ知ることができます。

霊を生かしてくれるのは、イエス・キリストです。

人の呪われ、汚れたまたしいは日々十字架につけられることによって、神様を知り、神様を愛します。

十字架のことばは、たましいに近づくのではなく、霊に近づき導きます。たましいによっては理解できません。」

神様を愛する…というようなことを私たちクリスチャンは、簡単にいうけれど、それがどういうことかと改めて聞かれると、難しい。


けれども、神様とイエス様を知ることが永遠のいのちに生きることだから(ヨハネ17:3)、神様を愛するということは、神様を霊によって知ることなのだろう。

私たちがアダムとエバが蛇に騙されて、善悪の木の実を食べて以来、私たちは自分たちを神とし、自分で決めて自分で考えてきた。

そこに創造主の神様をあがめ、頼り、信頼することはできなくなった。

私たちの神様と交わる霊はあの日に死んだ。


しかし、イエス様の十字架のあがないを信じる者に神様は新しいいのちをくださった。

神様を知る霊であり、イエス様のこと、奥義を教えてくれる御霊を受け取る霊を与えてくださった。

クリスチャンが神様を愛しているといいながら、その全人格をもって、神様から愛されていることがなかなか体験できないとしたならば、それはすでに新しいいのち、よみがえりのいのちに生かされているのに、古いいのちで生きようとしているからなのかもしれない。

イエス様の十字架は、神様を知らない、信じない人たちにとっても大変換をもたらしてくれるものだが、私たちクリスチャンにとっても日々イエス様の愛を教えてくれるすばらしいものである。

日々十字架につけられ、古い人に死に、イエス様のいのちに生かされていけますように。

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2012年2月10日 (金)

“いのちのパンを食べる”

いのちのパンについて思いました。

『わたしはいのちのパンです。あなたがたの先祖は荒野でマナを食べましたが、死にました。


しかし、これは天から下って来たパンで、それを食べると死ぬことがないのです。


わたしは、天から下って来た生けるパンです。だれでもこのパンを食べるなら、永遠に生きます。


またわたしが与えようとするパンは、世のいのちのための、わたしの肉です。』新約聖書 ヨハネの福音書6:48〜51


私は更年期のせいか、血圧が高くなり、このままではいけないと、本を読んでいる。

その中でどうやって日常的に血圧を下げるか、血圧を下げる食べる物がいろいろと書かれてある。

じゃがいもやキャベツ、コンブ、リンゴなど、たくさんの食べ物が血圧を下げるのに有効と書かれてあった。

食べ物一つ一つに体のための効用があるのを勉強し、神様は私たちの体を整えるために、いろんな形で食べ物を与えて、しかも、美味しく、楽しませてくれているんだなぁと思った。

今日の夕飯には、切り干し大根と、コンブと、とうふで、血圧に良い新サラダを作ってみた。

若いときには全く無頓着だったが、歳をとると、限られた健康をどう維持するか、「食べ物によって命が保たれている。」のをしみじみと思う。

イエス様も霊的ないのちを保つために、いのちのパンであるイエス様を食べなさい…と言われた。

“いのちのパン”というのは、聖書のことばだと思ってきた。

ある意味ではそうなのだと思う。

しかし、いのちのパンはイエス様ご自身であり、イエス様との関係に生かされていくことでもあるのだと思う。


イエス様なしの、単なる聖書の知識では、どんなに深く学んでも生きることはできない。


イエス様が私のために十字架にかかってくださったその関係にあって、御霊の啓示によって、天から与えられたイエス様の教えが、イエス様であり、いのちのパンなのだと思う。


アンパンマンを書いている、やなせたかしはクリスチャンと聞く。


アンパンマンはやさしく困った人を助けるけれど、お腹がすいたとき、アンパンマンが自分の顔を分けてあげるのは、イエス様に似ているのかなぁと思う。


今日、夕方アンパンマンを少し見て、エンディングテーマで「アンパンマンはきみさ、勇気を出して♪」と聞きなれた歌を一緒に口ずさみながら、じ〜んときた。

私たちはイエス様を食べて、イエス様のいのちに生きて、私の中にあるイエス様が生きる。

御霊のみわざによって、あなたがキリストの一部となり、私がキリストの一部となり、私たちがキリストのからだとなって見えるキリストを現すのである。

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2012年2月 8日 (水)

“サタンには御霊で勝つ”

サタンの策略に対して思ったことです。

『悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身につけなさい。


私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪魔に対するものです。』新約聖書 エペソ人への手紙6:11.12


私は初めに導かれた教会が福音派だったからか、自分が霊的なタイプではなかったからかわからないが、“サタン”という存在が良くわからなかった。

たぶん、等しく、イエス様や御霊に対しても、霊的に知ることにうとかったのだと思うが…。

今は、どんな状況にあっても、平安に守られていることが多くなってきたので、言い知れない嫌な思いとか、批判的な思いは、決して状況や人によるのではなく、サタンが忍びよって、偽っているのだなぁと思うようになってきた。

今日、会った友人から、「クリスチャンは豆まきとか厄払いはないのか」と聞かれ、「そういうのは一切ないが、サタンが私の中に入ってきて、相手が憎々しく感じたりしたら、そうさせるサタンだなと思い、『イエス様の名前によってサタンよ、退きなさい。』とかとは祈るけれどね。」と話した。

もう一人の友人が「私もサタンなのか、思いだしたら憎々しくなる身内がいる。」と話しをしていた。ご苦労されたらしいが、サタンがなんとなくわかるノンクリスチャンの友人なのかもしれない。

『私たちの戦いは血肉によらず霊的な戦いだ。』という聖書のことばは昔から良く知っていた。

が、最近は、「この嫌な思いにさせるのは、人ではなく、偽りのサタンなのだなぁ。」と良くわかるようになってきた。

昨日も人と会ったことで少し気持ちが乱されて、私の何が悪かったのだろうかと今朝になって思った。

もしかしたら、無防備に、相手に入っているサタンに影響されたのかもしれないし、私に 何かスキがあったのかもしれない。

サタンに対しては、攻撃が最大の防御なのかもしれない。(まだ、いろいろわからないが。)

攻撃というのは、御霊によって相手を愛して祈る…という意味で使ってみた。

あるクリスチャンの方が、サタンは堕落したみ使いだから、私たちより数倍も知能があって、私たちがサタンのうえをいって、勝つことはできないと言っていた。

なるほどと思う。

私たちはイエス様のお力に頼り、御霊に頼るしかない。

祈りは愛である。

御霊はイエス様の愛である。

御霊で人を愛して祈るとき、サタンは光の前から退散する。

『憎しみは争いをひき起こし、愛はすべてのそむきの罪をおおう。』箴言10:12とある。

サタンは争いを好み、イエス様の愛はすべてのそむきの罪をおおうとも言えよう。

私たちが誰かに敵対しているときは、御霊でなくて、サタンに組みしているのである。

平和の神が、すみやかに、イエス様によって私たちの足でサタンを踏み砕いてくださいますように。 (ローマ16:20)

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2012年2月 7日 (火)

“キリストのからだにある御霊”

キリストのからだに現される御霊を思いました。

『さて、御霊の賜物にはいろいろの種類がありますが、御霊は同じ御霊です。


奉仕にはいろいろの種類がありますが、主は同じ主です。


働きにはいろいろの種類がありますが、神はすべての人の中ですべての働きをなさる同じ神です。


しかし、みなの益となるために、おのおのに御霊の現れが与えられているのです。』新約聖書 第1コリント人への手紙12:4〜7


御霊は、私たちの中で働き、イエス様の一部を現してくれる。

私たちは一人でイエス様のすべてを現すことはできない。

互いの御霊の働きに仕え、また、支えられる。

クリスチャンの交わりがないところには、そのキリストのからだの支えが欠如する。

私にもし癒しや預言の賜物があっても、与える相手がいなければ、それをもって仕える相手がいなければ、それは土に埋めたタラント(賜物)になる。

私たちはイエス様を教会のかしらとした、各器官である。

もし、教会が、互いの賜物によって生かされ支えられていなければ、健全な御霊の働きがなされない。

そして、キリストのからだが一つになるには、ただイエス様の十字架によってのみである。

世の中のボランティアや活動は、皆、同じ事をやっても、動機は様々である。決して、一つには成り得ない。

なぜなら、皆、生き方も考え方も違うから。


しかし、イエス様の十字架に生きるということは、自分のたましいの自我に死ぬことであり、自分の考えを捨てることでもある。

そして、同じ御霊が、それぞれに一部を現して、パズルのようにピッタリと組み合わされて、イエス様を現すのである。

どうぞ、私たちが日々、イエス様の十字架によって自我に死に、御霊に生かされますように。

私たちのそれぞれに与えられた霊的賜物が、一つキリストのからだに生き、また支えられますように。

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2012年2月 6日 (月)

“神様が心を留める人とは、何者でしょう”

今日は友人の家に行き、霊が深く探られました。

『あなたの指のわざである天を見、あなたが整えられた月や星を見ますのに、人とは、何者なのでしょう。


あなたがこれを心に留められるとは。人の子とは、何者なのでしょう。あなたがこれを顧みられるとは。


あなたは、人をいくらか劣るものとし、これに栄光と誉れの冠をかぶらせました。


あなたの御手の多くのわざを人に治めさせ、万物を彼の足の下に置かれました。』旧約聖書 詩篇8:3〜6


神様が私たちを美しく、霊的な存在として造ってくださり、私たちを大切な存在として心に留めてくれました。


それゆえ、御子を与えて、私たちの代わりにしてくださいました。


詩篇の作者は、天や月、星を見ながら、壮大なものを造りおさめておられる神様が、小さな人間をも大切な存在として生かしてくれていること、あわれみを感謝し、主を賛美しました。

私は、今日、出会わされた人の中に、神様が造られた良いものを見、人を造られた主を賛美しました。

本当は、生きていることも奇跡のような神様の保ちと支えがあるのに、私たちはそこには目がいかず、もっとこうしたい、ああなりたい…みたいな欲望に捕らわれる弱い性質を持ったものであることを神様の前に、イエス様の十字架の前に認めました。

最愛の娘を亡くしたお母さんに、私のうちにある御霊が慰めを与えてくれるように…と思いましたが、それすらおごりなのかなぁと思いました。

そのお母さんは、娘の写真を見せながら、笑顔で、生きていた頃の娘の話をしてくれました。その姿に、神様が造られた人の尊厳みたいなものを思いました。

主よ、生かされながら、生かされている奇跡すら見えずに、長い間、つぶやいてきた私を赦してください。

慰めがあるように祈りながら、慰められた私でした。

何も言えない、何もできないのを知って、今日は友人に会いに行きましたが、実は、私は誰にも何もできないのに、できると思ってきた者でした。

何もできない、理解もできず、ことばもない者に、人が生かされていることが、それだけですばらしいことを教えてくださり感謝します。

神様が造られた、神様よりいくらか劣るだけの尊厳のある人を知り、愛し、近づき、寄り添い、祈れますように。

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2012年2月 5日 (日)

“イエス様とともに今を生きる”

今というときをイエス様とともに生きる恵みを思いました。

『キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。


ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。


そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。


それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。


あなたがたは、羊のようにさまよっていましたが、今は、自分のたましいの牧者であり、監督者である方のもとに帰ったのです。』新約聖書 第1ペテロの手紙2:22〜25


私たちには、たくさんのものが与えられているのに、それに気がつかずに、足りないものを欲しがったりする。


今は、普通にある健康を当たり前に思い、普通にご飯を食べられたりできることも当たり前に思ったりする。

目に見えること、また、霊的な祝福、様々な良いものが与えられている。

サタンは、私たちの心のすきに入り込んで、今の大切な与えられている時間やものも見えなくする力があるのだと思う。

私はイエス様に出会うまでは、生きるのに、しんどかった。

現実逃避で、良くあちこちに旅行した。

現実の生活に虚しさを感じて、旅からもどると、その旅を思い返して、楽しい世界に入っていった。

また、クリスチャンになってから、心の傷の中で、自分の存在価値をなかなか見いだせず、保つのが難しかったのだと思う。

霊的に与えられている豊かさよりも、「私は今のこんなはずではない。」と、伝道して歩いている自分の姿を思い浮かべて、そのときの支えにしていた。

そこにある感謝や恵み、大切な友だちなどを見ることができなかった。

伝道して神様に仕える…それが神様のみこころでないはずがない、そう信じて、たましいの中に、自分の神様にある自己実現みたいなものを作っていた。

神様がイエス様によって与えてくれたのは、“今”イエス様とともに生きる時である。

“今”を見失ったら、本当に積み重ねられる時を失ってしまうのだろう。

今、イエス様は、十字架によって私たちの罪も傷も赦しきよめ、神様に和解させてくださった。

もう迷える羊は、先がわからなくても、ここだ、ここに進めというイエス様の声に一歩ずつ、安心してついていくだけだ。

私たちの心にイエス様の安心がありますように。

“今”という時が、イエス様とともに豊かに生かされますように。

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2012年2月 4日 (土)

“自我に死んで御霊に生かされる”

自我に死なせてもらい、御霊に生きる体験をしました。

『心を尽くして主に拠(よ)り頼め。自分の悟りに頼るな。


あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。


そうすれば、主はあなたの道をまっすぐににされる。』旧約聖書
箴言3:5.6


このみことばは、25年ほど前、私の信仰の転機になったみことばだ。

それまでは、「神様が私のいうとうりに動いてください。」と安易に祈る者だった。が、深い悔い改めに導かれて、「私はすべてに主を認めます。」と変えられた。

今日、再びこのみことばを思った。

私は、今、一週間にたった2時間ちょっとだけ、保育園の子どもたちと遊んでいる。

補助に入っている人たちは、ほとんど毎日で、私の2時間ちょっとは…本当にわずかな時間の子どもたちとの関わりだ。

けれども、そのわずかな時間の子どもたちと過ごす時間が、私にとってもかけがえのない時間になっている。

もうすぐ、卒園式で、あと少しで5歳クラスの子どもたちは卒園してしまうのだなぁと思う。

園長に、「卒園式に出たいです。」というと「場所が狭いので遠慮してください。」と言われた。

子どもとわずかな時間しか関わっていない私は、出る資格はないのだなぁと思った3週間前だった。

楽しみにしていたので、とてもガックリきたが、「神様が出なくて良いと言っているのだなぁ。」と、気落ちしながらも、不思議と背後に神様のみ手を覚えて、受け入れた。

子どもたちとは土曜日には会えるのだからと、そのことを感謝した。

先週、副園長先生に明るく「卒園式の出欠の表を書いて帰ってね。」と言われた。

表には、たくさんの臨時職員の人たちが出席にマルをしていた。

本来の私なら、「なんで私だけ出るなと言うんだ。」ともんもんとしたと思う。

が、すでにガックリしながらも、背後におられる神様にあって、卒園式には出られなくても、子どもたちと毎週会える…という良いほうを選んで感謝していたので、静かな気持ちで欠席にマルをした。


今日、園長先生に、「どうぞ、卒園式に出てください。」と言われた。

卒園式は感動物らしく、出られることも嬉しかったが、それ以上に、誰を責めることもなく、イエス様を信じて感謝して、受け止めてこられたプロセスを主に感謝した。

私は、昔、教会の奉仕をしていたので、鍵を持っていたのに、その頃新しく来たあるご婦人が「ちょっと教会の鍵を貸してくれる。」というので渡したことがある。

牧師が変わったり、教会がゴタゴタしているときだった。

再び「教会の鍵を返してください。」というと、突然仕切りはじめたご婦人は、「あなたが鍵を持っている資格はないから返しません。」と言われた。

詐欺師に騙されたような思いで、家で帰って泣いたことを覚えている。

あの頃は、神様がどこにいるか全く見えていなかった。だまされた悔しさに胸が治まらなかった。

ヤコブのように自我の強い私は、ももつがいを打たれ、やっと神様の祝福を受け取れるように少しなったのかなぁと思った。

自我が死につけられると、御霊の喜びと感謝、イエス様のあわれみに深く生かされていく。

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