2010年9月 4日 (土)

“人に傷つかずに守られる方法”

自分の梁(はり)を除くことは、イエス様の赦しにすっぽり守られることだと思います。

『偽善者たち。まず自分の目から梁(はり)を取りのけなさい。


そうすればはっきり見えて、兄弟の目からも、ちりを取り除くことができます。』新約聖書 マタイの福音書6:5

私はこのことばから多くを教えられている。


偽善者たち…と呼びかけられ、自分にとってきついみことばのような感じがするが、この意味を深く理解すると自分をすべての人から守る、素晴らしい知恵のことばになる。

昨日のブログで書いた、過去に光があてられた出来事で、私は相手の心の奥まで寄り添えずに相手を怒らせてしまった。

なぜ私は寄り添えずに、一般論のような正しいことを言ったのか。


たぶん、その彼女が弱々しく悩んでいたのでなく、私は姑とは絶対に住まない…それが何が悪い…みたいな自分こそ正しいとする姿を私が受け入れられなかったからなのだと思う。

この場合の私の梁(ハリ=大きな罪)は自己義認する彼女を受け入れられない弱さだった。

その自分の弱さに気がつかずに接していたので、いつも私の心は彼女に反発して彼女の最も嫌がる正論を言ってしまった。

自分の梁となる弱さや不完全さは、相手を正しく見ることができない。

いわば、自分の罪の色のフィルターで相手を見ているのである。

そこから出てくる行動はやはり自己中心になる。

私が、彼女の何が受け入れられないか知り、それを弱さとしてイエス様の十字架につけていれば、きっと彼女の内面が真実にはっきりと見えてきたのだろう。

そして、自分が痛むことなく相手を痛めることもなく相手のために祈れたのだろうと思う。

私たちが人間関係で傷ついたり、傷つけたりするのは、かくも私たちが、皆、不完全だからである。

だから、誰一人としてイエス様の前に、「私が正しいです」とは立てないのである。

そして、自分のその不完全さが、そのままでは傷のつけあいになる。

たとえ、相手が私を責めても、私が自分の弱さや不完全さをイエス様に告白し、赦しを受けとるなら、傷んでも、相手をさばく気持にはならない。祈る気持になるだろう。

それこそが、赦された者のイエス様にある勝利の姿である。

長年、人を裁くことで自分を守ってきた私にとって、どんなに責められても、人を裁かないことは祈りにつながり平安につながることを知った。それはイエス様とともにいれるときであり、イエス様の慰めと愛を体験できるときであった。

人間関係において、どんなに辛くとも、そこにイエス様に自分が赦してもらう分を見つけることは、そこがイエス様の赦しの平安の支配するところとなる。


自分の罪の分、自分の責任の分を見つけることこそが、裁きあいの応酬の中、イエス様の平安のシェルターで相手のために祈れるときとなるのである。

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2010年9月 3日 (金)

“心の中まで寄り添えなかった私”

人の外を見て善し悪しを判断し、その心を知ろうとしなかった私の体験の話です。

『主よ。あなたは私を探り、私を知っておられます。

あなたこそは私がすわるのも、立つのも知っておられ、私の思いを遠くから読み取られます。

あなたは私の歩みと私の伏すのを見守り、私の道をことごとく知っておられます。

ことばが私の舌にのぼる前に、なんと主よ、あなたはそれをことごとく知っておられます。』旧約聖書 詩篇139:1〜5

私たちは人の行動を見て、良いか悪いか判断しやすい。そして、その人がなぜそうしたのかはなかなか知ろうとしない。

たとえば、今「自殺したい。」と言った人がいたら、大方の人は「だめだよ。そんなことしたら、まわりの人が悲しむよ。」と言う。

自殺したい、その人の気持ちはなおざりにして、それは良くないことだと制止する。

なぜ、そうするのかというと、聞いた人が、自殺を受けとめきれないから、気持ちも聞かずに否定するのだと思う。

人はどうしてその人の行動に善悪の一般論的評価をし、本当のその人の気持ちを聞かないのだろうと常日頃思っていた私だった。

今日、聖霊様が突然、8年ほど前の友人だった人とのやりとりを思い起こさせて、光に照らされた感じだった。

とても親しくしていた友人がいて、そのご主人が、お姑さんと一緒に暮らしたいと家も建てた。

が、その友人は何がなんでもそれは絶対嫌だった。

私にいろいろ話しをしてくれたが、悩むというより、絶対一緒に住まないと戦っている感じだった。

どこにも行き場がないお姑さんを冷たく受け入れないその姿を私が受け入れられなかったのだと思う。

「かわいそうだし、一緒に住んであげれば?」と私は言っていたと思う。

結局、友人は自分の主張を貫き通して、お姑さんは親戚のところに、引き取られた。

その後、何度か会ったとき、友人にとてもそつなくされて、私ももう会うのは止めにした。

私がお姑さんのかたを持ったのが、彼女には許せなかったんだろうなぁと思った。

でも、時々、最後にひどくじゃけんにされたことが傷となってしばらく思い返していた。

その友人は弱々しく悩む感じでなかったから、私も冷たく感じた彼女に対抗していたのかもしれない。寄り添えなかったのかもしれない。

けれども、彼女にとっては死ぬか生きるか程に大切なことで、私に大切な悩みを打ち明けてくれていたのだろう。

私だったらそんなに冷たく割りきれないなあ…と思い、事の善悪で、正しいことを言い、彼女を追い込んで、怒らせたのかもしれない。

最近、全く思いだすことのないこの過去の出来事だったが、外を見て、彼女の中の苦しみをみれなかった、外を受け入れられなく中も見れなかった自分を見せられた気がした。

ほかにも気がつかずにたくさんしているかもしれない。

神様は行いではなく、人の見えないところを全部知ってくださる方である。

善人も悪人も変わらず、神様はその心を知り、イエス様によって包んでくださる方である。

神様、外ばかり見て裁いて、その中を知ろうとしなかった私をイエス様によって赦し、その傷を癒してください。

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2010年9月 2日 (木)

“そういう訳…の前に”

イエス様に赦される恵みに立てますように。

『そういうわけですから、兄弟たち。私は、あわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。

あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。

それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。』新約聖書 ローマ人への手紙12:1

イエス様を中心とした集まり(教会)は本来どんな場所なのか。

私たちのどんな弱さも罪もイエス様の十字架で赦されるので、本来裸のようになって、イエス様の赦しを喜び、解放されるところ、誰もがともに等しく赦されたことを喜ぶ場所である。

けれども、実際、目に見える教会の多くはそうではない。

世の中で本音を言えても、自分の正直な姿をさらけだしても、責められないが、教会はきよさを求められるあまり、罪ある人を閉め出すかのようになる。

実際、神様から見た罪は、目に見えないものを見ているら、すべての人が、クリスチャンであっても、日々、イエス様の十字架の前に赦される存在である。

教会でイエス様の赦しに憩えないとすれば、それはイエス様よりも人間の栄光を重んじているからだと私は思う。

イエス様にただ私たちが赦されただけのものであれば、罪の指摘をしあうことなど、一人もできないのである。

イエス様が言われた「あなたがたで罪のないものが石を投げよ(罪ある人を裁け)」となる。

ローマ人の手紙は全部で16章ある。

“義人は信仰によって生きる”と言うテーマで11章まで教義が語られている。

そして12章から『そういうわけですから』とその教義にもとずいた信仰生活の適用(するべきこと)が書かれてある。

これはもしかしたら、たとえば16年信仰を持つとして、最初の11年は“イエス様を信じる信仰によって私たちは義とされる”“行いや努力によらず、ただイエス様の十字架の赦しの恵みによって私たちは赦され、受け入れられ、救われる”ことを徹頭徹尾体験するときなのかもしれない。

それくらい、実はシンプルな信じるだけで良い信仰、行いによらない信仰、私の行いではなくイエス様だけの信仰を受け取らないと行いに傾きやすいのだと思う。

律法学者やパリサイ人のことが出てくるが、私たちがいかにそうなりやすいかなのだと思う。

だから、私は『そういうわけですから…』の先は、イエス様の赦しの恵みを受け取ってから、良く読んでもいいと思う。

赦された恵みの中にいたら、自然に応答したくなるし、恵みによってその力が与えられる。

人間の肉の力で、神様への適応をするのはとてもしんどいし、イエス様の信仰とは全く違う。

世の中で疲れて、教会で再び疲れるのは神様の願いではない。

時間がかかっているようでも、義人は信仰によって生きる…私はただイエス様の十字架に赦されているところに立ち続けます…と言うところにいて良いのだと思う。

イエス様だけが栄光をとられますように。

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2010年9月 1日 (水)

“ブログ訪問の皆さんへ”

お一人お一人の祝福を祈りつつ。

『人々があなたがたを引き渡したとき、どのように話そうか、何を話そうかと心配するには及びません。

話すべきことは、そのとき示されるからです。

というのは、話すのはあなたがたではなく、あなたがたのうちにあって話されるあなたがたの父の御霊だからです。』新約聖書マタイの福音書10:19.20

いつもブログ訪問ありがとうございます。

話したこともない人たちともイエス様を分かち合っていることで、同じイエス様のパンを食べていることで、ブログ訪問してくださっている方々と、イエス様にあってつながっていることを思っています。

ブログを初めてまる2年。私にとって、寝る前に静まってブログを書くのが日課となり、それは単なる日記以上に、イエス様の恵みを確認し、告白し、分かちあい、祈る大切なときとなっています。

こうして、イエス様にあることや教えられたことをブログにするという利点がたくさんあるのを思います。

私が深い大切なところを本音で分かちあえるのは何よりですが、ブログに来てくれる人たちも、自由に好きなときに来てくれたり、気楽な感じで来てくれたりできます。

初め、しばらくは来てくれていた人が来なくなったりしたときは、すごく寂しかったりしました。

けれども、私も霊的な真理をいろんな形で教えられるとき、それは私のためだけでなく、ブログの向こうにいる方たちのために神様が私にも教えてくれるのかもしれないと思うようになりました。

種まく者には種を与え(イザヤ55:10)なのだと思います。

そしたら、イエス様の祝福の芽が出やすいように私はただ祈りながら種まきをすればいいのかなぁと思いました。

初めのころは、ネタ帳が何冊もあって、前もってその日、何を書くか決めていました。

書くことがなくなったらどうしようと言う思いもあったりしました。

今は、ブログを書く時間まで、特別な何かがなければ、何を書くか決めていません。

『神様、今日は何を書いたら良いでしょうか。』と待ち望みます。

私がイエス様の素晴らしさを証することによって私の霊は喜びます。

そして、通り良き管(くだ)となり、神様、イエス様、聖霊様の恵みを分かちあえますように。今日、誰かに必要なことを分かちあえますように…と祈ります。

多分、いい証をしているときは私の失敗や弱さが出ているときかもしれません。

日中に聖書を読んで、書くことを決めたりすると、だんだん“教えてやりたい病”にかかってしまうかもしれません。

私が教えられるているのは神様の恵みのホンの一部だと思います。

けれども教会でもなかなか本音が言えなかったりする中、本音で分かちあえるこのブログの良さを思います。

いつも、ブログ訪問ありがとうございます。イエス様もとりなしていますし、神様は私を使っても、お一人お一人がどんな状況にあっても愛されていることを伝えています。

私にある聖霊様も語っています。私たちは裁かれるためではなく、赦されたことを受けとるために神様の子どもとされたことを。

心からその霊的な祝福を祈ります。

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2010年8月31日 (火)

“最高の相談相手”

神様が私たちに語り、導いてくださることを思います。

『まことに、あなたのさとしは私の喜び、私の相談相手です。…

みことばの戸が開くと、光が差し込み、わきまえのない者に悟りを与えます。』旧約聖書 詩篇119:24.130

私たちの人生の中には、昼間のように明るく楽しいときもあれば、夜のように真っ暗なときもある。

そんな心に夜が来たときにどうしたらいいか。

誰か信頼する人に相談するかもしれない。

クリスチャンであれば、神様に祈るだろう。

神様は、私たちの内側にあることも、先に対してもご存じで、最良の相談相手である。

聖霊様によって神様の思いを教えてくださる。

夢や預言や幻や人の口を通してや状況や様々な方法で教えてくださる。

その一番多い方法が聖書を通してなのだと思う。

私たちに住まわってくださる聖霊様は、聖書のみことばを思い起こさせて語ってくださる。

そのとき、良く知っていたみことばが、自分の今の状況の特別なものとなり、神様からの確信となり、不安や恐れを取り払い、神様の安心の中に入れてくださる。

啓示の神様が私たちのために示してくださる知恵は人間的なものではない。

それゆえ、天からの知恵として語られ、私の深い霊に届くものである。

私たちは自分を守る方法も、昔からの習慣的なようなものを使いやすい。

裁いて自分を守る、言い訳をして守る、自己れんびんで守る、自己義認で守る、自分を責めて守る…そのようなところはイエス様の十字架の解決は届かずに終わる。

困ったことがあったときの方法もしかりである。

自分で努力して何とかする、人に相談する、ただ時をやりすごす、自分で勝手に神様の方法を聞かずに神様の方法と信じてやる…いろいろなパターンを私たちは持ってしまう。

神様は最善の神様側からの答えを用意して待っていてくれても、神様に頼る前に違うものに頼ると神様の答えがわからなかったりする。

自分で気がつかずに、頼りにしてしまうものがある。

お金だったり、健康だったり、状況だったり、人だったりもする。

神様だけが、私たちの最善を知って成してくださるお方であることを思い、神様にだけ頼るとき、きっと私たちが自分の方法で成してしまうことを越えた神様の世界を見ていけるのだと思う。

闇に光としてみことばをもって働く神様が豊かに現れてますように。

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2010年8月30日 (月)

8/30☆お祈り☆

お祈りします。

『してみると、あなたがたも、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。

とすれば、なおのこと、天の父が、求める人たちに、どうして聖霊をくださらないことがありましょう。』新約聖書 ルカによる福音書1113

恵み深い天のお父さん、私たちを愛し、私たちにイエス様を送ってくださりありがとうございます。

また、イエス様によって聖霊なる神様を私たちに住まわせてくださり、ありがとうございます。

罪にまみれ、汚れたものを、イエス様の十字架の血潮できよめ、しみも傷もないものとしてくださり、イエス様の花嫁のように麗しい関係を持たせてくださり、ありがとうございます。

イエス様を知らないとき、私のまわりに希望はなく、私の中も失望だらけでした。

人からも見捨てられたような者を、イエス様は呼びよせてくださり、親しい交わりの中にいれてくださいました。

そのことにより、私の霊は喜び満ち溢れ、自分を離れてイエス様を賛美するようになりましたからありがとうございます。

若者たちは愛に飢え、誰か本当に愛してくれる人はいないかと、町をさ迷っているとテレビで報道されていました。

今こそ、人は心乾き、本物を求めています。

イエス様こそが愛なる方であり、愛に満たして変えてくださる方であることを知りますように。

終末に教会の愛は冷えていくと聖書にあります。

イエス様にある愛がなければ、伝道も慈善も虚しいです。

初めから大事なことは一つだけです。

イエス様が私の罪のために十字架にかかり、神様の愛と義を現してくださったことです。

とてもシンプルなのに、イエス様の信仰の道がとても複雑化しています。

それはサタンの策略で、サタンは、イエス様が出てこなければ、神様のための熱心も善行も何も怖くないのです。

イエス様無しのものは、すべて善悪の木の実で、いのちの実ではないからです。

どうぞ、私たちに日々十字架にかかられたイエス様を大きくしてください。

私たちの深い罪と汚れが、イエス様を殺させたことを思いださせてください。

そして、どんなに深い罪が赦されたのか、その赦しの大きさでおおってください。

そして、ただイエス様の赦しの愛に喜び、慰められますように。

聖霊様によって、見えない神様の恵みの世界を見せて、賛美させてください。

ブログにきてくださるお一人お一人を祝福してください。

イエス様のお名前によって祈ります。アーメン

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2010年8月29日 (日)

“イエス様の愛にあふれますように”

私たちに必要なイエス様の愛を受けとり、味わえますように。

『主は私に仰せられた。「これらの骨に預言して言え。干からびた骨よ。主のことばを聞け。

神である主はこれらの骨にこう仰せられる。見よ。わたしがおまえたちの中に息を吹き入れるので、おまえたちは生き返る。…』旧約聖書 エゼキエル書37:4.5

おはようございます。

この世の中で一番大切なものは何でしょうか。

愛されることだと思います。

この世にもいろいろな形の愛はあります。

しかし、神様は完全な愛をもって私たちを愛したいと願っています。

そのためにイエス様を送ってくれました。

私たちは、神様に造られたときに心の一番深いところに神様の霊を受けられるところが造られました。

イエス様を信じると、その深いところに神様の愛がわかる霊が与えられ、見えない神様と交流できるのです。

アダムは土のちりで形造られたとき、その鼻にいのちの息を吹き込まれました。(創世記2:7)そこで、人は生きものになったとあります。

それで、見えない神様と親しく交流でき、神様の愛を受けとり、喜びました。

罪が入り、私たちの霊は死にましたが、イエス様によってもう一度霊を吹き込まれ、生き返ったのです。

聖霊様によらなければ、どんなにたくさん聖書を読んでも、努力しても神様の愛を受けとり、体験することはできません。

イエス様のいのちまで与えられた神様の願いは、あふれるほどのイエス様の愛を受けとってほしいと言うことです。

私たちにとって何が一番大事でしょうか。

私たちの心は大事なもので埋まります。

イエス様を第一にしたいという願いに、イエス様は心きよめてくださり、聖霊様に満たしてくださいます。

私たちの自己中心を日々イエス様につけ、神様の国とその義が心を占めますように。

あふれるばかりのイエス様の優しさとあわれみを受けとれますように。

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2010年8月28日 (土)

“土のうつわに主の愛が満ちるとき”

私たちが皆、土のうつわだと思えたとき、イエス様の愛が満ちるようどんな人のためにも祈れるような思いを与えられました。

『イエスは、ちょうどそこに来られて、上を見上げて彼に言われた。

「ザアカイ。急いで降りて来なさい。きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから。」

ザアカイは、急いで降りて来て、そして大喜びでイエスを迎えた。

これを見て、みなは、「あの方は罪人のところに行って客となられた。」と言ってつぶやいた。』新約聖書 ルカによる福音書19:5〜7

私たちは外見の見えるところを見る。

そしてフレンドリーな人とは親しくなったり、攻撃的な人は避けたりする。

ザアカイは、まさに外見誰から見ても意地悪でケチでお金にいやらしく見える人だった。

だから、皆からの嫌われ者で、そんな扱いを受けていた。

私たちはどう見ても他の人の内面をなかなか理解できない。

そして、外見だけで判断する。

私は、祈りの中で、私たちは神様から見たら、皆、神様に造られた土の器(うつわ)なんだなぁと思わされた。

親切そうな人もいじわるそうな人も、何も話さない人も、いきいきと活動している人も、寝たきりの人も。

イエス様がザアカイのところに来て、ザアカイと親しくされ、ザアカイはイエス様の完全な一方的な愛を受け取った。そして、変えられた。

私もザアカイである。かつての私は誰といても心が孤独で、生きるのも虚しく、自分が生きていくのすらしんどかった。

イエス様が私のところに来てくれたとき、嬉しくて嬉しくて仕方なかった。

当時は、私は神様のために何をすればいいですかと日々問うていた。

自分一人が生きていくのもしんどかった私が、イエス様の愛に包まれ、今、こうしてイエス様の恵みを分かち合えている。

実は皆土の器で、そのうつわに“イエス様の愛”が入ったら、皆ザアカイみたいに変えられるのだと思った。

そうしてみると、私を痛めつけるような人も、それは仮の姿で、“イエス様の愛”がその人の土のうつわに入ったら、皆、変えられるのである。

イエス様の愛はすべてを変えるし、皆、イエス様を知っても知らずとも、愛されるために生まれたのだから、その愛が必要なのだ。

そうやって、いろんな人の土のうつわにイエス様が満ちることを想像するなら、なんだか楽しく、いろんな人のために制限なく祈れる気がした。

私が神様から尊くみられ、愛されているように、神様と同じ目で人を見たら、皆、愛される人という意味で変わらない。

なんだか、単純なことのようだか、大きなことを教えられた気がする。

もし目の前にいる人が私に殴ったり、ひどい対応をしてきたときに、「あ、この土の器にイエス様が満ちますように。」と祈ればいいんだと思った。

たぶん、自分の土のうつわにイエス様がいることが最低条件?だと思うのだが。

私たちが祝福の源を知っているので、どんな人をも祝福する力を現せますように。

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2010年8月27日 (金)

“私は愚かでも神様の最善がある”

若いときに体験した証です。

『聞きなさい。「きょうか、あす、これこれの町に行き、そこに一年いて、商売をして、もうけよう。」と言う人たち。

あなたがたには、あすのことはわからないのです。

あなたがたのいのちは、いったいどのようなものですか。

あなたがたは、しばらくの間現れて、それから消えてしまう霧に過ぎません。

むしろ、あなたがたはこう言うべきです。

「主のみこころなら、私たちは生きていて、このことを、または、あのことをしよう。」』新約聖書 ヤコブの手紙4:13〜15

私がクリスチャンになって間もなかったころのこと。23歳だった。青年会では結婚の祈りも互いに良くしていた。

そこに独身の真面目なクリスチャンの男性の人が仕事が転勤で、その教会に通うことになって来た。

私はそこの教会員ではなかったが、一緒に奉仕をする機会があり、仲良くなっていった。

キャンプがあって、湖畔で、二人で信仰についてなど話しをする機会があった。

いろんな話しをした。

そのことで、私はその方とお付きあいをしたいと思った。

彼は私に好意をもってくれていたが、その湖畔で私が言った一言で、「この人にはきっと自分ではなくふさわしい人がいる」と思いったらしい。「私は神学校に行って、献身者と結婚したい。」と言ったことばで。

その教会では、教会内でお付き合いをしたいとき、牧師に話すことになっていた。

私はお付き合いしたいかなと思いその教会に出かけた。牧師不在だったので、喫茶店で何時間か時間をつぶした。そして、牧師室に電気がついているので、門を入ろうとしたら、なぜか、そこから足が一歩も前に進めず、そのまま帰った。

その頃は思ったら、祈らず、ドンドン行動するタイプの私で(だから、痛い思いもたくさんする)気持ちが躊躇した訳ではなかった。

不思議と足が一歩も前に動かなかった。その日は家に帰った。

それでも、お付き合いしたいなぁと思っていた。

夏のしばし、その彼とは教会も違うので会う機会もなかった。

夏も終わり、久々にその教会に行った。

すると、私を見て、その彼は、「せばさんに、話したいことがある。」と言われ、二人きりになった。教会の小さな会議室だった。

「せばさんにはどうしても話しておきたいことがあって。実は急なんだけれど、教会のある姉妹と結婚することになったんです。せばさんに祈ってほしいんです。」

私は心の中で「え〜!」と驚いた。私が彼と付き合う想像をしていたころに、そちらでは結婚の話しが着々と決まっていたのだ。

なんだか、肉の私は悲しくて涙がぽろぽろでた。

けれども、心の中のイエス様のいのちは、これがみこころだとはっきりとわかった。

私は彼のリクエストに応えて泣きながら、彼の結婚の祝福を祈った。

ちょっと、恥ずかしいような証だが、ふと思った。

私はその系列の教会を最初として、そのあと6つほど教会を変わった。

もし、あそこで結婚していたら、私は、なじまない教会にずっと属するか、どうにかなっていた。

そもそも大事なことを祈れない若いクリスチャンというところが問題だったが、肉が悲しみながら、みこころを受け入れられた最初の出来事だったかもしれない。

私はいつも先もわからず、いい加減だが、最善をなす神様があわれんでくださる恵みを思った。

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2010年8月26日 (木)

“軽やかなイエス様の道”

イエス様の道を楽しみ歩む方法を方法を思いました。

『神よ。私をさぐり、私の心を知ってください。

私を調べ、私の思いわずらいを知ってください。

私のうちに傷のついた道があるか、いなかを見て、私をとこしえの道に導いてください。』旧約聖書 詩篇139:23〜24

私たちがイエス様を私の主とし、そのイエス様についていく道は意外とシンプルな一本道だったりするのかもしれない。

それなのに、私たちがふらふら迷うのは、イエス様だけが大事でなく、いろんなものが大事だったりするからかもしれない。

ジョン・バニヤンの物語だったろうか。旅をするのに、荷物が少しずつ増えて、やがて持ちきれない荷物を背負い、フーフー言いながら歩く絵を見たことがある。

イエス様も大事だけど、あれもこれも大事…とやっていると、本来イエス様と軽やかに楽しく歩くはずの道が苦しみの道になったりする。

イエス様に関係のない荷物は、その場所に置いて、永遠の道を歩みたいと思わされた今日だった。

お祈りします。

私たちはいろんなものが大事です。

一つだけにしなさい…と言われても、一つにはできない弱い存在です。

どうぞ、すでに私たちが神様からもらっている最大のプレゼント、イエス様、その愛を大切にできますように導いてください。

私たちの心をさぐってくださり、不必要なものをなくしてくださり、イエス様といつも一緒に歩めるように導いてください。

愛してくれる友、イエス様と語らい歩む道は、喜びの道、楽しみの道です。

とこしえにつながっているイエス様が備えてくださった道を、主の導きの中、歩ませてください。

もしかしたら、大事だと背負いこんでいる荷物のゆえに、私たちはイエス様の愛を見失うことがあるかもしれません。

神様が私たちを身軽にしてくださり、主の道を歩ませてください。

神様に愛されていますお一人お一人がイエス様の個人的な愛を受けとれますように。

イエス様のお名前によって祈ります。アーメン

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«“聖霊なる神様の内なる働き”